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1945年より1952年にかけて、連合国軍最高司令官総司令部GHQの占領政策の1つとして、財閥解体が行われました。 侵略戦争遂行の経済的基盤になった財閥の解体による、第二次世界大戦以前の日本の経済体制の壊滅が目的とされました。 ”財閥解体 GHQエコノミストの回想”(2004年7月 東洋経済新報社刊 エレノア・M・ハドレー/パトレシア・へーガン・クワヤマ著)を読みました。 財閥解体政策に携わったGHQの女性官僚の、長年の日本経済研究と自らの波乱に満ちた生涯の回想録です。 1945年9月22日にアメリカ政府が発表した”降伏後における米国の初期の対日方針”は、その第4章経済のB項で、”日本の商業及び生産上の大部分を支配し来りたる産業上及び金融上の大コンビネーションの解体を促進”すると規定していました。 アメリカなど連合国側には、財閥が日本軍国主義を制度的に支援したという認識があり、これを解体する事で軍国主義を根本的に壊滅できると考えていました。 エレノア・M・ハドレーさんは、1930年代末期、大学生の頃から日本と深い関係を持った経済学者です。 1916年にアメリカのシアトルに生まれ、1934年にオークランドのミルズ大学に入学し、学生の時、日米学生会議に出席しました。 その後、東京帝国大学に留学する奨学金を得て再来日し、ミルズ大学を卒業した1938年から1940年に、日本やアジア各国を旅行しました。 当時、日本の大学では、まだ女子学生を受け入れていなかったようです。 帰国後、1941年に、ラトクリフ大学に入学し、経済学を専攻し、1943年に国務省に採用され、日本経済の分析を担当しました。 ラドクリフ大学は、マサチューセッツ州ケンブリッジにあった女子大学で、1999年に、設立当初から提携関係にあったハーバード大学に統合されました。 第2次世界大戦中、1944年にハーバード大学で経済学の博士課程の単位を取得した後、日本の産業組織の専門家として、アメリカ政府による戦後日本の占領政策の一環である民主化改革に引き込まれました。 主に関わった政策は、財閥解体でした。 この経験が、彼女の博士学位論文のテーマの動機となりました。 日本での仕事を終えて帰国し、1947年にハーバード大学の大学院に入学し、1949年に博士号を取得しました。 大学院卒業後、マサチューセッツ州のスミス・カレッジやジョージ・ワシントン大学の教授に就任しました。 1940年代末に左翼として排斥され、以後17年もの間、公職から追放された時代がありました。 その後、国際貿易委員会の前身であるアメリカ関税委員会や会計検査院で働いた後、1984年に引退し、生まれ故郷のシアトルに戻りました。 苦悩の期間も、また名誉回復後も、大学で教壇に立ち、経済学研究に傾ける情熱は衰えることがなかったそうです。 2002年に自叙伝 memoirs of a Trustbuster: A Lifelong Adventure with Japan を出版しました。 本書は、モルガン・スタンレー証券会社日本主席エコノミストのロバート・フェルドマンさんの勧めで執筆され、コロンビア大学経営大学院日本経済経営研究所上席研究員のパトレシア・へーガン・クワヤマさんが全体を見直し手を加えて出来たものです。 日本語の翻訳は、田代やす子氏が担当しました。 1945年8月30日、マッカーサーが厚木に到着、1945年10月11日、マッカーサーが幣原首相に憲法改正と5大改革を要求、1945年11月6日、GHQが財閥解体を指令しました。 当初、日本政府は財閥解体には消極的でしたが、三井財閥内で三井本社の解体論が台頭したほか、安田財閥の持株会社である安田保善社で自社の解散を決定し、安田一族の保善社と傘下企業役員からの辞任、一族保有の株式を公開する方針を決定しました。 GHQは、財閥解体に当たっては日本側の自発的な行動に期待し、GHQはそれを支援するに留めるが、日本側に積極的な動きが見られない場合は自ら実施に乗り出すとの姿勢を示しました。 政府は三菱、住友を加えた4財閥やGHQと財閥解体に向けての協議を進め、安田案を土台にした財閥解体計画案をGHQに提出しました。 1946年8月22日、持株会社整理委員会が発足し、1947年4月14日、独占禁止法が公布されました。 1947年12月18日、過度経済力集中排除法が公布され、1948年9月11日、GHQ集中排除審査委員会が集排法実施4原則を提示し、1948年12月18日、GHQが経済安定9原則を発表し、1949年3月7日、ドッジラインが発表され、1949年8月3日、 GHQが集中排除審査委員会の任務完了と声明しました。第1章 戦前の経験:来日と中国への旅第2章 ラドクリフ大学とワシントンDC第3章 占領第4章 集中排除の継続第5章 1950年代とその先のアメリカ第6章 回顧
2012.03.27
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城山三郎さんは、若い頃から箴言の魅力に惹かれ、生きる指針としてきたといいます。 ”静かに 健やかに 遠くまで”(2004年8月 新潮社刊 城山 三郎著)を読みました。 経済小説家として知られている著者の、人間に対する深い愛情と洞察力が分かる箴言集です。 城山三郎さんは1927年名古屋市生まれ、1945年に県立工業専門学校に入学、理工系学生であったため徴兵猶予になったが海軍に志願入隊し、海軍特別幹部練習生として特攻隊に配属になり、訓練中に終戦を迎えました。 1946年に東京産業大学予科に入学し、1952年に改名された一橋大学を卒業しました。 父が病気になったため帰郷し、岡崎市にあった愛知学芸大学商業科文部教官助手に就任し、後に同大学文部教官専任講師となり、金城学院大学にも出講しました。 1957年から茅ヶ崎に転居し、1963年から愛知学芸大を退職し、作家業に専念しました。 1958年に第4回文學界新人賞、1959年に第40回直木賞、吉川英治文学賞、毎日出版文化賞、1996年に第44回菊池寛賞、2002年に朝日賞を受賞しました。 そして、2007年に亡くなりました。 本書のタイトルは、「静かに行く者は健やかに行く 健やかに行く者は遠くまで行く」から出ていて、いまとなっては、その書名も著者名も思い出せないが、高名の経済学者の業績と人物を紹介した本の中に出てきた言葉で、イタリヤの経済学者パレートがモットーとしていた言葉だということです。 当時、ケインズの「伝記論集」があまりにも面白く、一夏、信州にとじこもって邦訳したそうですが、出版社に持ちこんでも日の目を見なかったそうです。 しかし、その10数年後にその出版社から別の学者の訳書として出版されました。 学者世界の歪みをはじめて思い知らされたこともあり、経済学から離れて文学へと傾斜して行くことになったとのことです。 一つの箴言が人生コースを変えさせる契機になり、おかげて悔いのない人生を送ることができたといいます。 本書はそ著者の作品群から、箴言といえるようなものを抜粋した箴言集ともいえるものです。「黙っていては、とり残される。性急に声を上げた方がいい」「せまい日本、そんなに急いでどこへ行く」(打たれ強く生きるより)「人生は謂わば一つの長距離競走だ。焦る必要はない。平らな心で一歩一歩を堅実。最初から力の限り走る必要はない。急げば疲労をおぼえ、焦れば倦怠を招き易かろう。永い人生だ。急いで転んでもつまらないよ」(鼠より)「死とは何か」「人生とは何か」などという問いは、実人生においては、何ほどの意味も持たない。死のかげを払いのけ、とにかく生活してみること。人生を歩いてみて、はじめてその真実がわかるのではないだろうか。(男たちの経営より) この日、この空、この私、このところ、払はそんな風につぶやくことが多い。そうした思いで暮らしていけたらと願っている。自分だけの、自分なりの納得した人生-それ以上に望むところはないはずだ、と。(男の生き方より)第1章 生きていく日々第2章 会社のメカニズム第3章 男のライフ・スタイル第4章 サラリーマンの敗者復活戦第5章 世わたりの秘訣第6章 家庭の姿かたち第7章 老後の風景
2012.03.20
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2011年3月11日午後2時46分に、くしくもあの2001年9月11日のアメリカで起こった同時多発テロから10年目に、日本で東日本大地震が発生しました。 あの大震災から1年が経つ。大震災では大津波が人と街をのみこみ、人々の暮くらしを一変させました。 地震から約30分後、東北地方の沿岸部を大津波が襲いました。 宮城県大船渡市で高さ16.7mに達っしたと推定されています。 岩手県宮古市では、津波は海面から約40.5mの高さの陸地まで駆け上がりました。 震源から離れた千葉県旭市でも、地震から2時間半後に押寄よせた7m超の津波による犠牲者が出ました。 防潮堤があっても、それだけでは命が守まもれないことが分かりました。 そして、宮城県気仙沼市などでは、沿岸部にあった燃料タンクが倒れて火災も発生しました。 福島県の福島第1原子力発電所を最大約13.1mの高さの津波が襲い、放射性物質が漏もれ出だす事故が起きました。 いまだに復旧の見通しが立っていないところが多いようです。 管理人はあの日、仕事をしていて、震度6の地震を経験しました。 建物の外に避難し、いったん建物内に戻って、また、大きな揺れで建物の外に避難しました。 特に変わりがない感じのビルが多かったですが、隣のビルの窓ガラスはかなり割れていました。 また建物内に戻ってから、余震を何度も経験しました。 少ししてから、帰宅の許可が出ました。 電車はほとんどストップしましたので、家に帰れる人は、バスが使えれば長時間掛けてバスで、車の迎えがあれば長時間掛けて車で家に帰りました。 いずれも利用できなければ、歩いて帰れれば長時間掛けて歩いて帰り、歩くのが無理ならば長時間待機して、どこかで夜を明かして、翌日電車が開通してから家に帰りました。 あれから、まだ1年でもあり、もう1年でもありますが、1つの区切りの時を迎えて、はっきりした今後の展望が開けることを願っています。
2012.03.13
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京都は四季の移り変わりが心から楽しめる街です。 ”花紀行 京都花の名所12カ月”(2004年2月 山と渓谷社刊 入江織美/土村清治著)を読みました。 京都の花名所を月ごとに紹介しています。 京都に行きたくなったとき今どこがいいかすぐに分かって便利です。 入江織美さんは、1949年生まれ、明治大学卒業後、出版社勤務などを経て現在、企画・編集プロダクション・オフィス入江を主宰しています。 土村清治さんは、1937年京都市生まれ、浅野喜市氏に師事し、1972年に『京の老舗』を皮切りに京都の風物、伝統産業、年中行事等の著書が多数あります。 管理人は、2008年の3月下旬から4月上旬に2週間の休暇を得て、京の桜の名所をずっと見て回ったことがあります。 折々に咲き誇る京都の花は、数多くの社寺の見事な庭園や市井のあちらこちらで楽しめます。 ここで紹介されている桜の名所は、ほんのより選りの場所だけです。 ほかにもお勧めの良い所は、まだまだたくさんあると思います。 主な花の名所一覧と、京都年中行事一覧があって便利です。4月 サクラ、ナノハナ、モモ、ユキヤナギ、コバノミツバツツジ、ミツガシワ、ヤマブキ、ハナズオウ、キリシマツツジ5月 ツツジ、フジ、ボタン、シャクナゲ、シャガ、テッセン、カキツバタ6月 サツキ、ハナショウブ、沙羅双樹、ボダイジュ、アジサイ、ユキノシタ、スイレン7月 ムクゲ、ハス8月 サルスベリ、キキョウ、フヨウ9月 ハギ、シュウカイドウ、コスモス、ヒガンバナ10月 キンモクセイ、ススキ、キク11月 キク、ツワブキ、紅葉12月 サザンカ、ウメモドキ1月 ロウバイ、センリョウ2月 ウメ3月 ウメ、サンシュユ、カンヒザクラ、モクレン、ツバキ
2012.03.06
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