全4件 (4件中 1-4件目)
1
私小説は日本の近代小説に見られた、作者が直接に経験したことがらを素材にして書かれた小説です。 これまでにも、多くの有名作家が私小説からスタートしました。 ”私小説のすすめ”(2009年7月 平凡社刊 小谷野 敦著)を読みました。 プロを目指す人というより、ともかく小説を書かたいと思っている人に、私小説を勧めています。 文学的才能がなくても誰もが一生のうち一冊は書きうる私小説の魅力を説き、形式は決して日本独自のいびつな文学ではないとして私小説の擁護を宣言しています。 小谷野敦さんは、1962年茨城県生まれ、1987年東京大学文学部英文学科卒業、1997年同大学院比較文学比較文化専攻博士課程修了、学術博士、大阪大学言語文化部助教授、国際日本文化研究センター客員助教授などを経て文筆業に従事し、2002年にサントリー学藝賞を受賞しました。 私小説については、1907年の田山花袋の「蒲団」を私小説の始まりとする説が有力ですが、別の考え方もあるようです。 私小説は、身の回りや自分自身のことを芸術として描き、内面描写を中心に語られる事が多いようです。 1935年の小林秀雄の「私小説論」に始まり、1950年の中村光夫の「風俗小説論」を経て、1960年代以後、私小説批判が長く続き、1980年前後に村上春樹などのファンタジー風の純文学が隆盛を迎えて、私小説は低調となりました。 その後、車谷長吉、佐伯一麦などのような新しい私小説作家が現れて、私小説を再評価すべきだとしています。 西洋にも、ゲーテ「若きウェルテルの悩み」、トルストイ「幼年時代」「少年時代」「青年時代」、ラディゲ「肉体の悪魔」、プルースト、アンドレ・ジッド「一粒の麦もし死なずば」、ヘッセ「車輪の下」、ヘンリー・ミラー、ハンス・カロッサのほぼ全作品など、自身の経験に基づいた小説が多いそうです。 私小説は、決して日本独自のダメな文学ではありません。 小説の書き方について書かれたのは、1909年の田山花袋の「小説作法」が最初です。 主として身辺スケッチを勧め、実を書くことを主眼として教えています。 その後、1934年の広津和郎の「小説作法講義」、1941年の武田麟太郎の「小説作法」、1955年の丹羽文雄の「小説作法」などが書かれました。 現在では、昔のように小説家に弟子入りするというようなことはなくなりましたが、カルチャースクールなどで小説教室が聞かれたりしていて、そこで学んだ人が作家デビューするというようなことが起こっています。 また、20年ほど前から自分史を書く人か増えており、その際、自分の名前を変えて書いて私小説になるはずです。 最近では、私小説の救世主と言われる西村賢太のような作家が登場しています。 小説を書きたいとが何を書いていいか分からない、あるいはフィクションを作れないという人に、私小説を書くことを勧めています。第一章 私小説とは何か第二章 私小説作家の精神第三章 私小説批判について第四章 現代の私小説批判第五章 私小説を書く覚悟
2012.04.24
コメント(0)
上海はいま活気が全市に漲っていて、住んで働くのに非常に魅力的な都市です。 上海での成功のカギは、言葉より行動だといいます。 ”上海で働く”(2004年10月 めこん社刊 須藤 みか著)を読みました。 上海で暮らし働いてきた18人の日本人にインタビューして、成長著しい上海での働くことになったきっかけと働き方を紹介しています。 18人のほとんどが20~30代の若者たちですが、40~50代の人も若干います。 上海はどのような職でも受け入れるそうですが、働き暮らすのに日本のように平穏無事ではないそうです。 須藤みかさんは、1965年熊本県生まれ、出版社勤務を経て、1994年に中国へ語学留学し、北京の国営出版社勤務ののち、フリーランスになり、上海の社会や暮らし、出版事情、在中日本人の労働事情などに関する記事を発表し、仕事のかたわら、復旦大学大学院修士課程を修了しました。 上海は中華人民共和国の直轄市で、2007年末の人口は1858万人です。 このうち、上海市戸籍を持つ人が1378万人、上海市居住証、暫住証を持つ中国人と香港、マカオ、台湾以外の外国人が479万人、それ以外の出稼ぎ労働者が660万人以上で、合わせて総人口は2500万人です。 世界有数の世界都市で、中国の商業・金融・工業・交通などの中心の一つです。 1842年の南京条約により、上海は条約港として開港しました。 これを契機として、イギリス、フランスなどの租界が形成され、後に日本やアメリカも租界を開きました。 1920~1930年代にかけて、上海は中国最大の都市として発展し、イギリス系金融機関の香港上海銀行を中心に、中国金融の中心となりました。 1978年の改革開放政策により、外国資本が流入して目覚ましい発展を遂げました。 現在も、1992年以降本格的に開発された浦東新区が牽引役となって、高度経済成長を続けています。 そのような中にあって、現地採用の労働条件、上海の就職状況、仕事の探し方のノウハウ、いま上海で求められている人材がどのようなものかなどがよく分かるように紹介しています。 登場する18人は、多かれ少なかれ向こう見ずな人たちです。 疾走するかのように変化を続ける様に魅せられて、世界中から上海に人と資本が集まってきています。 中国人・外国人を問わず、夢を語り、つかもうと奮闘しています。 中国語全くできないままに上海に飛び込んで仕事を見つけた人、OLから一転して異業種で起業した人、駐在帰任の辞令が出たと同時に退社して新たな夢に挑戦する人などなどです。 職種も世代も上海へ来ることになるいきさつもさまざまですが、みな新しい世界にためらわずに挑戦する冒険心を持っています。 社会体制の違うこの街で働く以上リスクも大きいですが、異文化のなかで戸惑い怒りへこんだりするうちに、日本では常識と思っていたさまざまな伽がはずれて、自由になっていくのかも知れないようです。 その先には、リスクや苦労があるだけに大きなリターンがあるのではないかと感じ取れます。前半:インタビュー 不動産営業、フローリスト、ホテルウーマン、印刷会社営業、日本語教師、カメラマン、アパレル副資材メーカー営業、CMプロデューサー、商品企画デザイナー、雑誌マーケティングディレクター、シュークリーム店経営、イベント会社経営、服飾デザイナー、日本料理店主、人材紹介会社共同経営、電子部品メーカーエ場統括部長、植物組織培養業、オリジナル化粧品販売・卸業、衣料雑貨店経営後半:インフォメーション 旅立つ前に、就職活動、働く、住居を探す、暮らす、学ぶ、関係機関ほか
2012.04.17
コメント(1)
かつて、売文社という会社がありました。 冬の時代に生活の糧を得るためのパンとペンの会社でした。 この組織をつくった人物は、日本にいち早くマルクスの思想を紹介した日本社会主義運動の父と呼ばれる堺利彦です。 ”パンとペン 社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い”(2010年10月 講談社刊 黒岩 比佐子著)を読みました。 今から100年以上前の1910年に創業された売文社を中心に、そのリーダーである堺利彦の人生を紹介しています。 黒岩比佐子さんは、1958年に東京で生まれ、慶應義塾大学部文学部卒業のノンフィクション作家です。 国会図書館にも所蔵されていない書籍を古書の山から見つけ出し、新しい事実を貴重な資料から発掘してきました。 これまでに、第26回サントリー学芸賞、第6回角川財団学芸賞を受賞しています。 堺利彦は、1871年に没落士族の3男として豊前国仲津郡長井手永大坂村松坂に生まれ、豊津中学校を首席で卒業、上京後、進学予備校であった共立学校で受験英語を学び、第一高等中学校入学しましたが、学費滞納により一高から除籍処分を受け、大阪や福岡で新聞記者や教員として勤めながら、文学の世界で身を立てようとして小説の執筆を始めました。 その後、萬朝報記者として活躍し、社会改良を主張する論説や言文一致体の普及を図り、社主の黒岩涙香、同僚の内村鑑三、幸徳秋水らと理想団を結成しました。 萬朝報は当初非戦論でしたが、日露戦争に際し主戦論に路線転換したため、内村鑑三、幸徳秋水とともに退社し、1903年に幸徳秋水と共に平民社を創設し、週刊”平民新聞”を発行して、戦時下で反戦運動を続けました。 1906年に日本社会党を結成して評議員となり、日本の社会主義運動の指導者として活躍をはじめ、1908年の赤旗事件により2年の重禁固刑を受けて入獄しました。 そのとき大逆事件が起きましたが、獄中にいたため連座を免れて出獄しました。 1910年に代筆・文章代理を業とする売文社を設立して、雑誌”へちまの花”、”新社会”の編集、発行をはじめ、いろいろな事業を行って生活の糧とし、1919年に解散されるまで全国の社会主義者との連絡を維持しました。 売文社はその名の示す通り”文を売る会社”で、依頼があれば財界人の自伝から学生の卒論、子供の命名まで何にでも腕をふるいました。 日本初の編集プロダクションで翻訳会社でもあり、今日的な新しさを感じます。 1920年に日本社会主義同盟が結成されましたが、翌年に禁止されました。 1922年に日本共産党の結成に山川均、荒畑寒村らとともに参加しましたが、山川らに同調して共産党を離脱し、後に労農派に与しました。 その後、東京無産党を結成して活動を続け、1929年に東京市会議員に当選しました。 1932年に発狂し、翌年に脳溢血で亡くなりました。 社会主義者で投獄された第一号で、女性解放運動に取り組んだフェミニスト、海外文学の紹介者、翻訳の名手、言文一致体の推進者、平易明快巧妙な文章の達人、そして、軍人に暗殺されかけ、関東大震災では憲兵隊に命を狙われたなど、実に複雑で多面的な顔をもつ人物でした。 また、18歳で作家としてデビューし、尾崎紅葉の硯友社一派、夏目漱石門下の人々、白樺派の有島武郎など、多くの作家と交友していました。 堺利彦については、これまで平民社のことは多くの歴史書が取り上げられてきましたが、売文社のことはほとんど無視されてきました。 この本では、弾圧の時代に社会主義者たちがユーモアと筆の力で生き抜いた素顔が紹介されていて、とても興味深かったです。序 章 1910年、絶望のなかに活路を求めて第1章 文士・堺枯川第2章 日露戦争と非戦論第3章 理想郷としての平民社第4章 冬の時代前夜第5章 大逆事件第6章 売文社創業第7章 へちまの花第8章 多彩な出版活動第9章 高畠素之との対立から解散へ終 章 1923年、そして1933年の死
2012.04.10
コメント(0)
アメリカでは2008年に多くの新聞が倒れ、多くの街から伝統ある地方紙が消え、新聞消滅元年となったそうです。 いままでもそうだったように、アメリカのメディア業界で起きたことはつねに3年後に日本でも起きるのでしょうか。 ”2011年 新聞・テレビ消滅”(2009年7月 文藝春秋社刊 佐々木 俊尚著)を読みました。 部数減と広告収入の激減が新聞とテレビを襲っているマスメディア界の現状と近未来を、展望しています。 佐々木俊尚さんは、1961年兵庫県生まれ、早稲田大学政経学部中退、1988年毎日新聞社入社、1999年アスキー移社のち退社し、現在フリージャーナリストとしてIT・ネット分野を中心に取材しています。 マスメディアがものすごい勢いで衰退しはじめています。 新聞を読む人は年々激しい勢いで減り、雑誌は休刊のオンパレードです。 確かに、新聞を見てもテレビ番組をみても、面白いと感じるものが本当に少ないです。 その原因は、若手が現場にいないためということです。 かつてはみんなが見ていたテレビもいまや下流の娯楽とか、富裕層は見ないなどと指摘され、都会では人々の日常の話題にさえならなくなってきました。 マスメディアが傲慢なのは紛うことのない事実で、そうした上から目線的なマスメディアの体質に批判が集まるのも当然ですが、いま起きているマスメディアの衰退はマスメディアの旧態依然とした体質が原因というわけではないそうです。 アメリカでは新聞の言論はまったく衰退していませんが、新聞というビジネスは日本を上回る速度で衰退しているそうです。 なぜこれほどまでに苦境に陥っているかといえば、要するに新聞が売れなくなり広告も入らなくなってきているからです。 落ち込みを何とかカバーしようとインターネットのビジネスに必死でシフトしてきてオンライン広告は年々伸び続けましたが、それで現在の経営規模や社員スタッフを維持できるほどの金額にはなっていません。 おまけに2008年後半になると金融危機が追い打ちをかけて、せっかくのネットビジネスまでマイナス成長になってしまいました。 2008年からアメリカで始まった新聞業界の地滑り的な崩壊は、3年遅れの2011年に日本でも起きるはずです。 この2011年は、テレビ業界にとって2つの大きなターニングポイントの年です。 それは、アナログ波の停波による完全地デジ化と、情報通信法の施行です。 テレビはこれまでの垂直統合モデルをはぎ取られ、電波利権はなんの意味も持だなくなり、劇的な業界構造転換の波へとさらされることになります。 だから2011年は、新聞とテレビという2つのマスメディアにとっては、墓碑銘を打ち立てられる年となり、何社かは破綻し業界再編が起きるかもしれません。 それ以降も、企業としての新聞やテレビの一部は生き残ってはいくでしょう。 しかしそうやって生き延びた新聞社やテレビ局は、もうマスメディアとはいえない別の存在に変かっているでしょう。 マスメディアというものはもう存在しないのです。 既存のマスメディアはミドルメディアとして、生きてくしかありません。 旧来の垂直統合モデルで運営されていた新聞社の生き残る道は、コンテンツプロバイダになることです。 事情が違っていても、テレビもほぼ同じ状況です。 youtubu、google、iTunes等のプラットフォーマが重要になっていきます。プロローグ第1章 マスの時代は終わった第2章 新聞の敗戦第3章 さあ、次はテレビの番だ第4章 プラットフォーム戦争が幕を開ける
2012.04.03
コメント(0)
全4件 (4件中 1-4件目)
1