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山内容堂は1827年11月27日生まれ、土佐藩の分家だった南屋敷に山内豊著と潮江村石立の下士平石子の女、名は瀬代の長子として生まれました。 名は豊信、容堂は号、幕末の外様大名で、土佐藩の15代藩主でした。 ”酔鯨 山内容堂の軌跡”(2021年10月 講談社刊 家近 良樹著)を読みました。 20歳で土佐藩主となり吉田東洋らを起用して藩政改革を行なった、徳川びいきの封建領主で土佐勤王党の弾圧者とされる、山内容堂の生涯を紹介しています。 生家の南邸山内家は石高1500石の分家で、連枝五家の中での序列は一番下でした。 通常、藩主の子は江戸屋敷で生まれ育ちますが、豊信は分家の出だったため高知城下で生まれ育ちました。 1846年3月7日に父豊著の隠居に伴い、南屋敷の家督を嗣ぎ、1500石の蔵米を受ける身となりました。 1848年8月8日に江戸で13代藩主の山内豊熈が死去し、嗣子がなかったため、実弟の山内豊惇が跡を継ぎましたが、9月18日に藩主在職わずか10日余りで急死しました。 山内家は御家断絶の危機に瀕しましたが、豊惇の長男寛三郎が病気のため擁立が見送られました。 また、豊惇の実弟豊範、後の16代藩主・山内豊範も、まだ3歳と幼少だったため擁立は見送られました。 そして、南屋敷で部屋住の生活を送っていたころから英名が噂されていた豊信が、後継者として指名されました。 土佐藩は豊惇の死を隠蔽し、まず豊惇が豊信を養嗣に迎える形をとり、そののちに豊惇の隠居と、豊信の相続を幕府に申し出ました。 1848年12月27日に豊信は高知を出発し、翌月21日に江戸に到着、同26日に家督の相続を幕府から許可されました。 翌年1月8日に豊範を豊信の養子とし、1850年9月11日に、右大臣三条実万の養女正姫と結婚しました。 同年12月16日に従四位下土佐守に任じられ、翌年12月16日に侍従に昇任しました。 家近良樹さんは1950年分県生まれ、1973年に同志社大学文学部を卒業しました。 1982年に同大学院文学研究科博士課程文化史学専攻を単位取得退学し、1997年に文学博士(史学、中央大学)となり、専攻は幕末史を中心とした日本近代史です。 大阪経済大学講師、助教授を経て、大阪経済大学経済学部教授となり、現在、大阪経済大学名誉教授です。 幕末期の政治状況は従来の薩長と幕府との対立というだけでは説明できないとして、一会桑政権と呼ばれる歴史概念を主張しています。 一会桑とはそれぞれ「一」=一橋慶喜、「会」=会津藩主・松平容保、「桑」=桑名藩主・松平定敬のことを指します。 従来の薩長史観では見過ごされがちですが、この三者が幕末において果たした役割の再評価を主張しています。 山内容堂は、藩主就任当時、隠居していた豊資は健在で、藩の保守的な重臣たちは豊信の日常に対して監視を怠りませんでした。 藩政においても豊信は自らが中心となって施策を行うことができない状況で、就任から数年の間、豊信は思い通りに行動できませんでした。 1853年6月3日にペリーが浦賀に来港すると、幕府はペリーから受け取った国書の写しを全国の諸大名に配布し、対応の意見を求めました。 当時高知にいた豊信は、この知らせを受けて城に重臣を招集し、意見書の作成を行いました。 この意見書を起草したのは、当時学識において評判の高かった吉田東洋でした。 作成された意見書は同年8月21日に江戸に向けて発送され、10月付けで幕府に提出されました。 幕府への意見書の作成・提出を終えると、豊信は初めて藩政改革に乗り出しました。 隠居していた豊資の了解を得て、同年9月8日藩政改革における意見を発表しました。 豊信は藩政改革を進めるにあたって、吉田東洋と小南五郎左衛門を起用しました。 東洋は海防強化・人材の登用・鉄砲事業の奨励・様式造船技術員、航海員の養成など、藩政改革を進めました。 1854年6月に、東洋は山内家姻戚に当たる旗本の松下嘉兵衛との間にいさかいをおこし失脚し、謹慎の身となりました。 しかし3年後には東洋は再登用され、東洋は後に藩の参政となる後藤象二郎、福岡孝弟らを起用しました。 小南五郎左衛門は、小浜酒井家の儒臣山口菅山に学び望楠軒の流れを引く尊王家でした。 1953年10月20日に豊信の側用役に抜擢され、その後豊信に度々諫言するなど、補佐として仕えました。 山内容堂は、幕末維新政治史上に登場した特異な封建支配者であるといいます。 人によって評価は異なりますが、孝明天皇・岩倉具視・徳川慶喜・西郷隆盛・大久保利通・高杉晋作といった最重要クラスに準ずる人物の一人と位置づけてよいでしょう。 1857年から1858年の将軍継嗣問題の際,松平慶永,島津斉彬らとともに一橋慶喜擁立に尽力しました。 安政の大獄の強圧のなかで隠退しましたが,1862年に活動を再開し公武合体による雄藩連合実現を目指しました。 1867年に後藤象二郎の建議をいれて、大政奉還を徳川慶喜に建白し、維新政府では議定などに就きました。 官位は、従四位下・土佐守・侍従、のちに従二位・権中納言まで昇進し、明治時代には麝香間祗候に列し、生前位階は正二位まで昇り、死後は従一位を贈位されました。 酒と女と詩を愛し、自らを好んで鯨海酔侯や酔翁と称しました。 藩政改革を断行し、幕末の四賢侯の一人として評価される一方で、尊王家でありながら佐幕派でもあり、一見中途半端な態度をとりました。 そのため、「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と揶揄されることがありました。 当該期にあって、容堂は、政局を自分の思う方向に導ける立場に何度もたちました。 ですが、容堂を生涯にわたって苦しめつづけた体調不良に加え、その独特のありようによって、みすみす自分に与えられたチャンスを逃すことが再三におよびました。 もし容堂が健康に恵まれ、かつ粘り強く物事に取り組む真摯な姿勢を一貫して保持しえていたら、幕末維新史は大きく異なるものとなった可能性があります。 容堂は日本史上有数の激動期であったぶん、さまざまな、その後のコースを選択しえた可能性があった幕末期にあって、真に興味深い存在でした。 しかし、そうした容堂の存在は、これまで幕末維新政治史上で正当に評価され位置づけられてきたかといえば、そうではないといいます。 人気者の範躊にとうてい入らないことが重なって、これまで本格的に研究されたことは、一部の例外を除いてはありませんでした。 幕末維新政治史上で重要な役割をはたした徳川斉昭や鍋島直正といった一群の封建領主と比べても、取り上げられることは格段に少ないです。 近年、幕末維新史研究のいっそうの進展にともない、従来、あまり世間の注目を浴びることのなかった人物にも、再評価の動きが出てきました。 新たな動きが生まれつつあるなか、本書の主人公である山内容堂はひとり取り残された感があるそうです。 本書は、存外、面白味の感じられるキャラクターの持ち主で、行動も杓子定規な解釈ではとうてい理解しえないところの多々あった山内容堂の生涯をたどろうとするものです。 そして、これは、容堂の在を正当に視野に入れることで、幕末史をほんの少々塗り替えたいとの願いにもつながります。 すでに膨大な研究の蓄積がある幕末維新政治史研究に、ほんの少し新たな知見を加えることをめざしたいといいます。はじめに 知られざる「いと面白き」人物/第1章 青年藩主の誕生/第2章 将軍継嗣問題/第3章 桜田門外の変と容堂/第4章 将軍上洛と参預会議/第5章 土佐勤王党の弾圧/第6章 土佐藩の路線転換/第7章 四侯会議と帰国/第8章 王政復古クーデター/第9章 小御所会議/第10章 明治初年の山内容堂 [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]酔鯨 山内容堂の軌跡 土佐から見た幕末史 (講談社現代新書) [ 家近 良樹 ]【受注後直筆】山内容堂(豊信)の名言「天なお寒し、自愛せよ」額付き書道色紙 ( 贈り物 プレゼント ギフト 壁掛け 置物 座右の銘 格言 諺 人~
2022.07.23
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陸軍大将今村均は人間愛をもって統率した大将として知られ、戦後自から希望して1950年にマヌス島刑務所で服役しました。 ”「三畳小屋」の伝言 陸軍大将今村均の戦後”(2012年4月 新風書房刊 朝野 富三著)を読みました。 マヌス島刑務所の閉鎖に伴い巣鴨拘置所に移り、1954年に刑期を終え出所した大将の生涯を紹介しています。 元陸軍大将の今村均は、1886年宮城県仙台区生まれ、祖父は戊辰戦争の際に仙台藩参謀を務めました。 祖父は進駐してきた新政府軍に対して融和的な態度をとったため、藩内の強行派から非難を浴びました。 そこで、財産を家来にほとんど分け与え、新政府からの官職への呼びかけにも応じることなく隠遁しました。 父親は裁判所の事務員として働きながら、家事の出来ない継母に代わり弟妹達を育てました。 そして、裁判官試験に2番の成績で合格して裁判官として任官したといいます。 均は新発田中学を首席で卒業し、東京で受験勉強していた19歳の春、判事をしていた父親を亡くしました。 そのため、当初志望していた第一高等学校、もしくは高等商業学校に進学することが厳しくなりました。 母親は陸軍士官学校を推薦していたため、陸軍練兵場で催された天覧閲兵式を拝観し、大勢の群衆の姿に感激したといいます。 その足で陸軍士官学校を受験する旨の電報を母に打ち、郷里の連隊区で試験を受け合格しました。 1905年に士官候補生となり、1907年に陸軍士官学校を卒業し、見習士官となり、後、陸軍歩兵少尉に任官しました。 1910年に陸軍歩兵中尉に進級し、1915年に陸軍大学校第27期を首席で卒業しました。 1916年に陸軍省軍務局附となり、1917年に陸軍歩兵大尉に進級し、陸軍省軍務局課員となりました。 1918年にイギリス大使館附武官補佐官となり、1921年に参謀本部部員となりました。 1922年に陸軍歩兵少佐に進級し、1923年に上原勇作元帥附副官兼任となりました。 1926年に陸軍歩兵中佐に進級し、1927年にインド駐箚(ちゅうさつ=駐在)武官となりました。 1930年に陸軍歩兵大佐に進級し、陸軍省軍務局徴募課長となり、1931年に参謀本部作戦課長となりました。 1932年に歩兵第57連隊長となり、1933年に陸軍習志野学校幹事となりました。 1935年に陸軍少将に進級し、歩兵第40旅団長となりました。 1936年に関東軍参謀副長、駐満州国大使館附武官兼務となり、1937年に陸軍歩兵学校幹事とりなりました。 1938年に陸軍省兵務局長となり、陸軍中将に進級し、第5師団長に親補されました。 1940年に教育総監部本部長となり、1941年に第23軍司令官に親補され、のち第16軍司令官に親補されました。 1942年に第8方面軍司令官に親補され、1943年に陸軍大将に親任されました。 1946年にラバウル戦犯者収容所に入所し、1947年にオーストラリア軍による軍事裁判判決で禁錮10年となり、ジャワ島に移送されました。 1949年にオランダ、インド軍による軍事裁判判決で無罪となり、1950年にインドネシアから帰国しましたが、のちマヌス島で服役する事を申出て、マヌス島で服役しました。 1953年にマヌス島刑務所閉鎖に伴い、巣鴨拘置所に移りました。 1954年に刑期を終え巣鴨拘置所を出所し、1955年に防衛庁顧問に就任しました。 1968年に82歳で死去し、墓は仙台市の輪王寺にあります。 朝野富三さんは1947年神奈川県横須賀市生まれ、海上自衛隊生徒課程を修了し、早稲田大学第一文学部を卒業しました。 毎日新聞社に入社し、日本商事・ソリブジン薬害問題を報道し、1995年に日本ジャーナリスト会議坂田記念ジャーナリズム賞を受賞しました。 大阪本社社会部長、同編集局長などを経て、2005年から宝塚大学、旧宝塚造形芸術大学特任教授を務めました。 今村均は1945年8月15日、日本が敗戦を迎えた時、南太平洋にあるニューブリテン島のラバウルに司令部を置く陸軍第八方面軍の軍司令官でした。 日本から直線距離で6000キロ離れ、陸軍だけで将兵7万人の大部隊で海軍の基地もありました。 連合艦隊司令長官の山本五十六大将、後に元帥の載った攻撃機が、1943年4月18日にアメリカ軍の戦闘機に撃墜され、戦死したのもラバウル方面に視察に来た時でした。 二人は若い時代から親交があり、トランプ遊びの仲間でした。 久しぶりの再会に前日の17日に夕食をともにしており、翌日の非業の死となりました。 日本に欠いてはならない山本大将が遭難し、我が祖国のため取り返しのつかない不幸だった、となげいています。 南方のBC級裁判では、原住民の指摘が動かぬ証言となり、多くの兵が処刑されました。 兵の行為の責任は上官にあり、私を戦犯にしろと叫んだのが陸軍大将今村均でした。 自らラバウル戦犯収容所へ赴き、無罪判決を得るも服役を要求し、1953年までマヌス島の刑務所で過ごし、1954年に巣鴨を出所しました。 東京の自宅の庭に木造の三畳一間の小屋をつくっておくように、長男に頼んでありました。 庭といってもそんなに広くはなく、小さな掘っ立て小屋でした。 10数年ぶりにわが家に戻ると、母屋では暮らさずに、この小屋で生活を始めました。 誰かから言われたわけではなく、戦犯として罪を負うことが正しかったかどうかは別にして、刑に服したのだから、大手を振って暮らせたはずです。 しかし、小屋での暮らしを自分に課し、食事と入浴、来客応対だけは家族が住む母屋でして、寝たり読書したり、本を書いたりとほとんどの時間はこの小屋で過ごしました。 そして、はなやかな表舞台に二度と出ることはなく、亡くなるまでの14年間、こうした生活を続けました。 この三畳一間の小屋が山梨県韮崎市に保存されており、その小屋で偶然に目にした50冊のスクラップノートに関心を待ったのが本書を書くきっかけとなったといいます。 このスクラップノートを預かり、勤務する大学の研究室で分類・整理し、丹念に貼られた記事とメモ類を読み進んでいったそうです。 そしてわかったことがありました。 没後の今村に関する出版物には聖将という言葉を付けられることが多いですが、それを最も嫌ったのが今村自身だろうということです。 今村は敗戦後に自分を戦犯に問えと、オーストラリア軍とオランダ軍に求めました。 それは戦犯に問われるべき罪や理由があると考えたからではなく、むしろ反対で、軍事裁判の不当性を裁判の中で主張しています。 それなのに、戦犯になることを求めたのは、罪のない部下たちが戦犯として次々と逮捕、処刑されていったからでした。 そうした事態を招いた責任が自分にはある、と考えたためです。 裁判そのものは不当ですが、それでも戦勝国が戦犯追及をするなら、最高指揮官ひとりを裁けばよいと考えたのでした。 今村は、最高指揮官としての道義的責任、人間としての罪を強く感じている軍人でした。 戦後の身の処し方の根底にあるのは、敗戦に導いた陸軍首脳のひとりとしての国家・国民に対する責任であり、戦死・刑死した部下たちへの順罪意識でした。 それは戦犯としての刑期をつとめあげても許されない罪であり、それゆえ、再び表舞台には出ないこと、三畳一間の小屋で生きていくことを選ばさせたのです。 三畳小屋は、法律で裁けない罪人としての、いわば終身刑用の独房でした。 そうであればこそ、罪を償う生き方や行為が褒められること自体、本意でないことは当然です。 まして、聖将といった賛美や評価は、耐え難いものであるに違いありません。 著者は、今村が三畳の小屋で思いめぐらしたことが何であったかを、スクラップノートを手がかりに少しでも知ることができないかと考えたといいます。 時間があればスクラップノートの記事を丹念に読んでゆき、自分で作った分類表に、記事の見出し、日付、新聞名、分類、ジャンルなどを書き込んでいったそうです。 ジャンルは日本と世界に分け、それぞれに「文化」「政治」「経済」「軍事」「教育」「労働」「宗教」「科学」「社会」「その他」の十の項目を設けました。 これ以外に「今村関連」というジャンルを作りましたので、合計で21ジャンルになります。 スクラップは1956年12月から始まり最後が1966年2月で、ちょうど10年間の50冊あり、記事は本数にして全部で904本ありました。 スクラップには、おびただしい数の教育や青少年に関する記事が貼られてあったそうです。 教育行政や日教組への批判記事、あるいは青少年の非行や犯罪の記事もありました。 それと同時に、若者や子どものちょっとした善行や活躍ぶりを伝える小さな記事が随所にありました。 本書のタイトルを「伝言」としたのは、今村が若い世代の人たちに伝えたかったであろうことの、著者なりに考えた伝言です。 それとともに、戦後生まれで戦争そのものは知らないにしても、戦争体験を語り伝えて行くべき役割のある団塊世代としての伝言も少し加えたといいます。一 五十冊のスクラップノート/二 罪と罰/三 憎しみを超えて/四 戦争と平和/五 悪魔のささやき/六 青空学級/七 永遠のまなざし/八 生きぬく力/今村均の主な歩み/あとがき[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]陸軍大将今村均新装版 人間愛をもって統率した将軍の生涯 (光人社NF文庫) [ 秋永芳郎 ]不敗の名将 今村均の生き方 -組織に負けない人生を学ぶー [ 日下公人 ]
2022.07.16
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エピックレコードジャパンは、ソニー・ミュージックレーベルズの社内レコードレーベルです。 通称はエピック、旧名のエピック・ソニー、規格品番のES等があります。 ”EPICソニーとその時代”(2021年10月 集英社刊 スージー鈴木著)を読みました。 ソニー・ミュージックレコーズに次いで、二番目に歴史が古く先進的な音楽性により1980年代の音楽シーンを席捲した、EPICソニーの来し方行く末を語っています。 1968年にCBS・ソニーレコード株式会社が設立され、1971年に ロック・ポップス系レーベルのEPICが新設されました。 当初は洋楽のみでしたが、3か月後、CBS・ソニーレーベルから鞍替えしたハイソサエティーを皮切りに邦楽にも進出しました。 1973年に株式会社CBS・ソニーに商号変更され、1976年にEPICレーベル、邦楽の制作を打ち切り、洋楽専用レーベルに戻りました。 1978年にレーベル・EPICをEPIC・ソニーとして会社設立され、1983年に商号変更した株式会社CBS・ソニーグループの企画制作部門を、株式会社CBS・ソニーとして分離されました。 1988年に株式会社CBS・ソニーは、株式会社CBS・ソニーグループに吸収合併されました。 スージー鈴木、本名、鈴木 朗さんは1966年大阪府東大阪市生まれ、大阪府立清水谷高等学校、早稲田大学政治経済学部を卒業しました。 大学生時代の1988年に、FM東京”東京ラジカルミステリーナイト”のAUプロジェクトに参加し、ラジオデビューしました。 大学卒業後、広告代理店・博報堂に勤務し、働きながら、1995年から1999年にかけて、FMヨコハマ土曜日”トワイライトナビゲーション”にレギュラー出演しました。 2001年から、雑誌・週刊ベースボールのコーナーに、隔週で野球音楽に関するコラムを連載しました。 ラジオDJ、音楽評論家、野球文化評論家、小説家として活動し、現在、大阪芸術大学、早稲田大学で講師も務めています。 EPICの名は1953年にアメリカのコロムビアレコードが傘下に設立した、サブレーベル名エピック・レコードにその起源をもちます。 エピック・レコードは、ジャズ・クラシック音楽部門を販売するためのサブレーベル名です。 2001年にソニー・ミュージックエンタテインメントの製作部門から、ソニー・ミュージックレコーズ、キューンレコード、ソニー・ミュージックアソシエイテッドレコーズと共に分離・独立しました。 2014年にレーベルビジネスグループ再編により発足した、株式会社ソニー・ミュージックレーベルズの社内レーベルとなりました。 エピックのレーベルは、ソニー・ミュージックレコーズに次いで二番目に歴史が古いです。 商品の規格品番に記載されてあるESは、旧名称であるエピック・ソニーの名残です。 EPICと言えばニューミュージックやロックのイメージが強いですが、設立当初はフォーク系や、俳優系、演歌系も手掛けていました。 EPIC・ソニーよりもCBS・ソニーの方が先に生まれ、1968年設立、ソニーと米国CBSの合弁契約で発進しました。 南沙織、天地真理、郷ひろみ、山口百恵、キャンディーズなど、1970年代のアイドルブームに乗って、邦楽部門が急成長し、業界1位のレコード会社となりました。 1980年代、今度はロック系で成功を収め、爆風スランプ、PRINCESS PRINCESS、REBECCA、聖飢魔Ⅱ、米米CLUBなどが所属しました。 EPIC・ソニーは、CBS・ソニー誕生から10年後の1978年に、CBS・ソニーの全額出資にて設立されました。 CBS・ソニーよりも図体は小さいものの、ロックレーベルというコンセプトで一気に若者の支持を得ました。 佐野元春を中心としたラインナップで、1980年代を席捲し、BARBEE BOYSとTM NETWORKなどが所属となりました。 先進的な音楽性により1980年代の音楽シーンを席捲し、レーベルの個性が見えにくい日本の音楽業界の中で、ひと際異彩を放つレーベルとして君臨しました。 佐野元春、渡辺美里、ドリカムなど、名曲の数々を分析する中でレーベルの特異性はもちろん、当時の音楽シーンや80年代の時代性が浮かび上がります。 今、この本を手に取ったあなたは、あの頃、どんなふうに、EPICソニーの音楽と接していましたかと問います。 思い返すと、1980年代、著者の青春時代には、EPICソニーの音が、いつも響いていたといいます。 EPICソニーの音は、ロックで、ホップで、おしゃれで、激しくて、東京っぽくて、そして何といってもキラキラしていました。 なぜ、あの頃のEPICソニーの音は、一様に輝かしかったのでしょうか。 誰がどのようにして、あの頃のEPTICソニーの音を作り上げたのでしょうか。 洋楽に比べ、レーベルのカラーなど判然としなかった当時の邦楽の中で、なぜEPICソニーだけが、キラキラーイキイキとしたレーベルカラーを醸し出すことができたのでしょうか。 そして、なぜ、あれほど輝かしかったEPICソニーが、いつのまにか、遠い記憶の彼方に消えてしまったのでしょうか。 著者は、これらの謎を解き明かすことが、自分の使命と勝手に感じ取ったといいます。 50歳前後から、少しずつ本を出し始め、テレビやラジオに出始めた遅咲きの音楽評論家として出演しました。 1980年代のEPICソニーとともに、青春を過ごした世代の1人です。 第一章 EPICソニーの音楽では、80年代(一部70年代、90年代)のEPICソニーが量産した名曲30曲を取り上げて評論していきます。 歌詞、メロデイ、アレンジの音楽的分析に加えて、その曲が生み出された背景や人間模様について、丁寧に、かつ大胆に描き出したつもりだそうです。 第二章 EPICソニーの時代は、EPICソニーの歴史と意味について、総論的に追った、言わば通史となっています。 株式会社EPIC・ソニーが、独特なプロセスで組成され、ロックーレーベルとして1980年代に栄華を極め、そして、ほとんどのリスナーが気付かない形で消滅した過程などに触れました。 第三章 EPICソニーの人では、佐野元春、大江千里、渡辺美里、TM NETWORK、岡村靖幸を生み出した、EPICソニーの伝説のプロデューサー=小坂洋二と、佐野元春へのインタビューを掲載しました。 現時点で、発言や資料がほとんど見当たらない小坂さんの言葉は、もうそれだけで貴重なものです。 またEPICソニー史視点の、かなり突っ込んだ質問を投げかけた佐野さんへのインタビューも、特異な価値を持つものだと自負するといいます。 今、この本を手に取ったあなたは、あの頃、どんなふうに、EPICソニーの音楽と接していましたかと問います。はじめにーEPICソニーから遠く離れて/第1章 EPICソニーの「音楽」(SOMEDAY~いつか、EPICソニーが(1979-1984)/My Revolution~EPICソニーが起こした革命(1985-1987)/笑顔の行方~EPICソニーの向かう先(1988-1990))/第2章 EPICソニーの「時代」(EPICソニーの「歴史」/EPICソニーの「意味」)/第3章 EPICソニーの「人」(小坂洋二インタビュー/佐野元春インタビュー)/おわりにーEPICソニーをきちんと葬り去るために[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]EPICソニーとその時代 (集英社新書) [ スージー鈴木 ]【中古】 桑田佳祐 作品集/CBSソニーグランドオーケストラ 【中古】afb
2022.07.08
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