心の赴くままに
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”半藤一利 わが昭和史”(2022年4月 平凡社刊 半藤 一利著)は、昭和史の研究に打ち込んで物書きとなり退職してから本格的スタートし2021年1月に90歳で逝去した昭和史の第一人者が最晩年に語った自伝である。 半藤一利氏の妻は作家の松岡譲・随筆家の筆子夫妻の四女で、筆子は夏目漱石の長女であるため、一利氏は漱石を義祖父としています。 半藤一利氏は1930年東京府東京市向島区、現在の東京都墨田区生まれ、先祖は長岡藩士で、実父は運送業を経営していました。 1937年に第三吾嬬小学校に入学、一年後に新設の大畑小学校に通うようになりました。 小学校時代は、少年講談や浪曲に親しんだそうです。 1939年に実父が区会議員となり、悪ガキがにわかにお坊ちゃまになりました。 1943年に東京府立第七中学校に入学し、隅田川の数々の美しい橋を眺めて育ったためか、この頃から橋をつくる技師に憧れを抱いたそうです。 1945年3月10日の東京大空襲で逃げまどい、中川を漂流して死にかけ、父親とともに母親や弟妹か疎開していた、茨城県の下妻へ移りました。 その後、茨城県の県立下妻中学校を経て、父親の生家のある新潟県長岡市へ疎開し、県立長岡中学校3年次で終戦を迎えました。 1946年に家族は東京に戻りましたが、ひとり長岡に残って勉強に打ち込みました。 1947年に一高の受験に失敗して失意なるも、翌年、旧制浦和高校に合格して入学し、すぐ理科から文科に転じ、橋の技師になる夢はいつしか萎んでいったそうです。 旧制浦和高等学校を学制改革のため1年間で修了し、1949年に東京大学文学部に入学してすぐボート部に入りました。 1953年に東京大学文学部国文科を卒業し、ボート部の映画ロケで知己をえた高見順の推薦で、3月に文藝春秋新社に入社しました。 見習いのうちに坂口安吾と出会い、歴史の面白さを知ったといいます。 坂口の原稿取りをして、坂口から歴史に絶対はないことと歴史を推理する発想を学び、坂口に弟子入りしたと称しています。 9月に出版部に配属となり、翌年3月にまた文藻春秋編集部に異動となりました。 1956年にまた出版部に異動となり、当時人気を博していた軍事記者の伊藤正徳の担当になり、連載の手伝いを頼まれて昭和史の取材を始めました。 日本中の戦争体験者の取材に奔走し、このとき、歴史の当事者は嘘をつくことを学び、これらの経験が後に昭和の軍部を描いた作品を書く素地となったといいます。 1959年に創刊準備から週刊文春編集部員となり、人一倍働いたそうです。 1961年に昭和史に本格的にのめりこみ、週刊文春連載ののち、処女作”人物太平洋戦争”を刊行しました。 1962年に文藝春秋編集部に戻り、デスクとして7年間ちょっとを過ごしました。 社内で太平洋戦争を勉強する会を主宰して、戦争体験者から話を聞く会を開催しました。 ここから生まれた企画が、文藝春秋1963年8月号に掲載された、28人による座談会”日本のいちばん長い日”です。 1965年にデスクをやりながら、さらに取材して、1965年に単行本”日本のいちばん長い日-運命の八月十五日”を執筆しました。 売るための営業上の都合から、大宅壮一の名前を借りて、大宅壮一編集として出版されたそうです。 単行本は20万部売れ、さらに角川で文庫化されて25万部が売れました。 この他にも、30代前半は編集者生活と並行して、太平洋戦争関係の著作を何冊か出しました。 1970年前後から、漫画読本、週刊文春、文藝春秋編集長を歴任しました。 漫画読本の編集長に就任して1970年に休刊を迎えた後、増刊文藝春秋編集長になりました。 このとき、ムック”目で見る太平洋シリーズ””日本の作家百人””日本縦断・万葉の城”を手掛けました。 次いで週刊文春編集長となり、ロッキード事件の取材で陣頭指揮を執りました。 1977年に文藝春秋編集長に就任し、1980年に季刊誌くりまの創刊編集長となりましたが、2年後に第9号で休刊しました。 この間の編集長時代の13年ほどは本職の編集業に専念するため、著述活動は控えていたそうです。 のち出版局長となりましたが、2年もたたないうちにクビになり、窓ぎわにやられたそうです。 1978年の閑職のあいだに、明治史を書く構想を練り、漱石にも熱を入れました。 1984年、54歳のとき、想定外であった取締役となったそうです。 出版責任者として書き下ろしノンフィクションシリーズを手掛け、1988年に全3巻の”「文芸春秋」にみる昭和史”を監修しました。 1991年に監修と注・解説を担当した”昭和天皇独白録”が刊行されました。 1992年に”漱石先生ぞな、もし”が刊行され、1993年に第12回新田次郎文学賞を受賞しました。 専務取締役を務めた後、1995年に文藝春秋を退社し、本格的に作家へ転身しました。 近代以降の日本の歴史を昭和を中心に執筆し、「歴史探偵」を自称しました。 活動の場をテレビにも広げ、NHK”その時歴史が動いた”など、歴史番組にもよく出演しました。 1998年に”ノモンハンの夏”を刊行して、第7回山本七平賞を受賞しました。 2001年”「真珠湾」の日”、2004年”昭和史1926-1945”、2006年”昭和史戦後篇1945-1989”をそれぞれ刊行し、前後篇で第60回毎日出版文化賞特別賞を受賞しました。 昭和史1926-1945は、昭和史シリーズの戦前・戦中篇で、授業形式の語り下ろしでわかりやすい通史として絶賛を博しました。 昭和史戦後篇は昭和史シリーズの完結篇で、焼け跡からの復興、講和条約、高度経済成長、そしてバブル崩壊の予兆を詳細にたどっています。 2015年に、当事者に直接取材して戦争の真実を追究した、との理由で第63回菊池寛賞を受賞しました。 2016年に政治や軍部の動きをA面とし、それに対する庶民の歴史として昭和戦前を描いた”B面昭和史”を刊行しました。 2018年に”世界史のなかの昭和史”を刊行して、”昭和史””B面昭和史”と合わせて、昭和史三部作を完成させました。 2021年に90歳で、老衰のため永眠しました。 夏目漱石、兼好法師、松尾芭蕉のような、これは、と思う三人の先人がそれぞれ、一筋の道につながってきて今日があるのだといっています。 すなわち、一つのことに心を定め、それだけに集中して、他は思い捨てても構わない、それが人生の要諦ですということです。 あれもやろう、これもやろう、あっちに目を配り、こっちにも目を配り、とやっていては何もかも中途半端になってものになりません。 ただし、これ、という一つの道を思い定めるまでか難しいです。 自分がいちばん好きで、気性に合っていて、これならやってみたいと思うことを十年間、ほんとうにこれ一筋と打ち込んでやれば、その道の第一人者になれます。 何でもいい、それが自分の場合は昭和史だったのだそうです。 なぜそんなふうになったのかを、これからお話ししようということです。一、遊びつくした子ども時代向島に生まれて/人は死ぬ/豊かだった戦前/川のそばで/おかしな空気/悪童、「お坊ちゃま」になる/二宮金次郎が読んでいたもの/最初の空襲体験/少年講談と浪花節/運命の分岐点─中学進学二、東京大空襲と雪国での鍛練十四歳、死にかける/父との再会/疎開で転々/雪がくれた体力と忍耐力三、ボートにかけた青春日本人と橋/志はいずこへ/人生の”決意”/水の声を聞きながら/ボートの青春に悔いなし/”浅草大学”と苦肉の卒論四、昭和史と出会った編集者時代御茶ノ水駅の決断/生涯の宝/ボンクラの必要性/指名された理由/歴史はなぜ面白いか/人に会い、話を聞く/昭和史にのめりこんだとき/処女作は『人物太平洋戦争』/寝ながら書いたケネディ暗殺記事/『日本のいちばん長い日』/印税はゼロ/名デスクはヘボ編集長/”アソビの勉強”と潜伏期間の決意/まぼろしの「明治史」!?/ある成功の代償五、遅咲きの物書き、”歴史の語り部”となる”じんましん十年”の役員時代/辞めなかった理由/『昭和天皇独白録』のこと/山県有朋をなぜ書いたか/命がけの独立/瀬戸際の体験/道に迷ってよかった/失ったもの、得たもの/脱線はムダか/昭和史はなぜ面白いか/「歴史に学べ」でなく「歴史を学べ」/通史をやって気づいたこと/平成とは何であったか/「平成後」を想う/人生の一字[附録] 四文字七音の昭和史「皇国」という言葉/本家中国と日本/漱石先生と『蒙求』/「赤い夕陽の満洲」から/昭和史を転換させた「国体明徴」/二・二六から日中戦争へ/最高のスローガン「八紘一宇」/「油は俺たちの生命だ」/戦時下の四文字/日本人独特の死生観/崑崙山の人々/終わりに略年譜[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]半藤一利 わが昭和史(1001;1001) (平凡社新書) [ 半藤 一利 ]世界史のなかの昭和史(905;905) (平凡社ライブラリー) [ 半藤 一利 ]
2022.11.26
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