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2025.07.27
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カテゴリ: 鈴木藤三郎
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なんでもやりかけたら自分で得心するまでは、一図にそれを究めなければ承知しない。そして、どんなことでも在来のやり方を真似ないで、新しい方法をくふうするというのが、生涯を貫いての藤三郎の性格の大きな特長であった。『雀百まで踊り忘れず』という諺もある位で、少年時代から彼には、そうした性癖が多分にあった。それであるから菓子製造でも行商でも、やりかけた以上は、とても熱心にいろいろとくふうをした。行商先でも、見なれない菓子を見かけると、すぐ手にとって割って、その製法を調べずにはおかなかった。

「どうも才さ(藤三郎の幼名才助)が、店の菓子を割られるので困る。」

と、よくいわれたという話が、げんに今でも残っている。その位、少年時代から研究心は強かったのである。

 負け嫌いの藤三郎は、もとの寺子屋仲間などから、自分が貧乏人の子であると馬鹿にされるのがひどく嫌いだった。まだ『労働は神聖である』というような思想は全くなかった時代なので、半纏(はんてん)・股引(ももひき)で菓子箱かついで行商に行く姿を、友達に見られるのをイヤがった。それで、朝は星があるうちに出かけ、夕方は月が出てから帰ってくるのが常になった。養父母は、少年の彼が、商売に身を入れるのを喜んだ。しかし、ときどき明るくなるまで寝過ぎることがあると、その日は、なんといっても一日行商に出なかった。そうした日には、養父母達は、ふだんあんなに稼ぎ手の藤三郎の気まぐれを不思議がったものである。

 こうしたことがときどきあっても、ともかく、家業に精を出す上に、飴や菓子の製造も自分よりずっと上手にやる若い息子を見て、老いの坂を登りかけた養父は、すっかり安心した。それで、53歳の明治7年(1874年)に、まだ18歳になったばかりの藤三郎に家業を譲って、隠居をしてしまった。彼は戸主となると同時に幼名の才助を、養父の伊三郎にならって藤三郎と改めた。

 青年は、とかく血気にはやり易いものである。ことにひと一倍負け嫌いで、精神力も生活力も湧きあふれるばかりの18歳の藤三郎に、そうした動揺が起ったとしても、それは無理もないことである。彼が、この数年来、随分家業に精励もし、また相当な成績もあげたことは、養父が安心して家督を譲った一事を見ても分るのであるが、彼が、こうして安心してくれたときには、反対に子である藤三郎の心のうちに大きな動揺が起ったときだったのである。

 なにが彼を、そう動揺させたのであろうか?

 それは、藤三郎は、この数年来、家業を手に入れることと、営業成績をあげることに、わき目もふらずに一生懸命であったが、その家業もひと通り手に入り家督も譲られて、静かにふり返って考えてみる余裕が心にできると、今のような生活を何十年くり返してみたところで、結局、いなか者の一菓子屋で終るよりほかに、飛躍の見込みは絶対にないということが分ってきた。それは、若く血の気の多い彼を、限りなく憂鬱にさせた。さんざん自分独りで考え詰めたあげく、要するに、これは家業そのものが悪いのだという結論に達してしまった。






※報徳実践談 抜粋 (「かいびゃく」2000年4月号所収)

「私は、若い時に報徳の道を信じたる動機について一言致したいと思います。

 私は誠に恥ずかしき身分でありまして、8歳より12歳まで、寺子屋で習字や四書の素読をしたくらいに過ぎぬ、無学な者であります。それから18歳までは誠に無意識に過ぎ去りました。今日より見ますれば、あたかも10歳か12歳の子供の如くであったのです。

 19歳のとき初めて、将来いかにすべきかということを考え出しました。また、当時養父(鈴木伊三郎)が雑菓子の商売をしておりましたから、それを手伝うておりましたときに、私は心喜ばしく思わなかったことがあったのです。寺子屋時代に親密にしておった朋友、いわゆる竹馬の友は、私の17,8歳のころには立派な人となりました。これは、財産あり名誉ある人の息子であったからです。しかるに私は、毎日わらじをはいて菓子の行商をしておりました。それで私は、少しく人ごころができましてから恥ずかしく思いまして、いかにも自分の境遇を嘆き、なるべく避けて人に逢わぬように致しました。すなわち、朝は暗いうちに起き、また日を暮らして帰りました。これは、朝遅く起きれば人に逢う、人に逢うのが恥ずかしいということから、早く起きて出たばかりであります。また、日を暮らして帰りましたのも、早く帰れば人に逢うのが恥ずかしかったからです。

 それで、かような恥ずかしき境遇を脱するにはどうしたらよかろう、これは金さえあればよろしいのである。ほかの友人は金のある人の息子であるから、かくのごとく立派にやるのである。それで、私も金儲けをせねばならぬ。何か、一攫千金というようなことをせねばならぬ。ただ恥ずかしい、恥ずかしいと思うだけではつまらぬ、というところから、一つ考えました。

 当時私の郷里は、横浜の開港以来、製茶の貿易が盛んになりましたから、茶が一番よろしかろうと思いまして、わずかの資本を借り、製茶仲買いとなり、三州(三河)から伊勢、四日市の辺まで買い求め、帰って横浜へ売りに行く、というようなことをやりました。四日市辺へは一年に三度や五度に参りました。かようにして製茶の仲買いをしておりましたことが4~5年でありました。その当時、私の心得は、手段の如何を問わず、自分の利益になり自分の富を増し、金を作り得るならばそれでよろしい、というものでありました。

それから、明治8年のころ、親戚へ参りましたら、「報徳」と記した本がありまして、そのそばに「二宮」と書いてありました。私は前から報徳という名を聞いておりましたが、報徳は借財を救うことである、従って吝嗇家(りんしょくか)のすることと思うておりました位で、報徳の本などがあろうとは思いませんでしたが、そのとき初めて本を見ました。これは写本でありましたが、どんなことが書いてあるかと尋ねますと、「天命十カ条」という貴き教えである、見ようと思うなら持って帰って見てもいい、ということでしたから、私はこれを借りて帰って読んでみました。これが報徳についての縁の初めでありました。」





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最終更新日  2025.07.27 14:50:19


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