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「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著168~170ページ
ラム酒に浮いた花
藤三郎は、この間にあって、政商という立場でなく、あくまで工業家の立場で自分の発明を基盤として、産業革命を本格的に完成した唯一の人であったから、こうした政府の援助を仰ぐことのもっとも少ないほうであったが、それでも政治的影響を受けない訳にはいかなかった。彼が氷砂糖製造に志したのが、明治10年の西南の役の年であって、工場を郷里から東京へ移転したのが、明治22年の明治憲法発布の時であり、日本精製糖会社を創設したのが、日清戦役の終った明治28年の暮れである。このように藤三郎の事業的発展は、わが国の政治的大事件と不思議なくらいに期を一にして、台湾製糖会社の創立も北清事変と同一であったということは、いかに彼が、産業革命初期のわが国の産業界の最先端を歩んでいたかということを証するものである。
藤三郎は一昨年ごろから養母のやすに、腺病質で、とかく虚弱であったみつと五郎を託して、鎌倉町材木座の海岸にあった石井という船大工の家の二階を借りて住まわせていたが、昨年、ずっと山の手の東御門という所を手に入れて、別荘を造っていた。それが、この年の春にできあがった。この東御門は、頼朝の墓と大塔宮との中間にあって、海には遠かったが、鎌倉師範の付属小学校には近くて、子供達を通学させるにはつごうがよかった。あとでは茂も、この別荘へよこされた。
※「鎌倉別荘物語 明治・大正期のリゾート都市」島本千也著の資料1別荘所有者一覧(明治45年)には、「相州鎌倉西御門770 府下、南葛飾、砂 会社員 鈴木藤三郎」(同340ページ)とある。
この明治33年という年は、藤三郎にとっては、日の出のような勢いの年であった。しかし、こうしたときには、自分も、このくらいのことは宜かろうと心がゆるむし、外から誘惑の手も多く、人はつまづきの因をつくるものである。彼も、ここで大きな失策をした。それは彼が、妻ならぬ婦人を世話するようになったということである。
この年3月、明治座の春狂言の中に一幕、ラム酒の宣伝劇を上演した。ラム酒というのは、糖液中で砂糖として結晶しないぶどう酒(蜜)から造られる酒である。それは、藤三郎が洋行みやげの一つとしてくふうしたもので、昨年、小名木川に新工場を建て、日本精製糖会社の一事業として、大規模に造って売り出したのである。
この時の座組は、左団次、権十郎、寿美蔵、小団次、源之助の一座で、狂言は一番目が「忠孝義筑紫仇討(つくしのあだうち)」(筑紫市兵衛)、中幕が「和睦論難波戦記(わぼくろんなんばせんき)」で、大切り浄瑠璃が『砂糖会社の製品にラム・ホールの開業』と添書きして、「花盛隅田賑(はなざかりすみだのにぎわい)」という竹柴其水(きすい)作の常磐津ものの所作事であった。これは花の盛りの向島でラム・ホールの開店祝いという場面で、若手俳優一同が給仕女になって総踊りをするというような、ただたわいもなく花やかに賑やかなだけのものであった。
明治33年2月25日の東京朝日新聞には、この配役は、この大切り浄瑠璃の配役を社長長尾三十郎(左団次)、専任取締役鈴木藤三郎(権十郎)、取締役松永福昌(寿美蔵)と本名で出ているが、実際の番付には、さすがに幾分の変名を用いたと見えて、田村成美篇『続々歌舞伎年代記 乾』の856ページには社長浜尾勘十郎(左団次)、専任取締役津々本正三郎(権十郎)、取締役増本富久蔵(寿美蔵)となっている。
ラム酒の宣伝を、常磐津浄瑠璃の所作物でやったということは、いかにも明治中期の時代色を出していて、今から考えると噴飯ものであるが、ともかく、歌舞伎座とともに東京の二大劇場と称されていた明治座で、こうした劇を上演させるということは、当時としては破天荒な宣伝法であった。ことに一代の名優として、九世市川団十郎、五世尾上菊五郎とともに明治の演劇史上に、大きく光っている四世市川左団次までが出演するという、なかなか大がかりのもので、日清戦争の大勝で気が大きくなっていたさすが東京人も、「アッ!」といった。この時の芝居は、左団次の筑紫市兵衛が、天の橋立で7人を相手に乱闘をする大立回りが大受けで、3月7日から月末まで25日間、大入りを続けたのであった。
※「砂糖と醤油」村松梢風では、明治座上演にいたる過程を次のように活写している。
ラム酒は、トウモロコシ、又は砂糖キビから造る酒である。別にラム酒の製造工場を新設して、製造過程も理想通りに進んで優秀なラム酒ができたので、これを市場に売り出した。
しかし、ラム酒といっても、日本人には馴染みがなかったから、相当宣伝費も使ったが、思うほど売れなかった。第一酒屋が知らない。食料品店と酒屋が力を入れてくれなくては困るのだが、従来相手にして来たのは砂糖問屋ばかりだ。これには会社も弱って、しばしば会議を開いて宣伝方法を研究したが名案もなかった。すると外交員の福川某が面白いことを考えついた。
「一つ、ラム酒の芝居を作ってみたらどうでしょう」
「芝居を作るって、どうするのだ」
「劇場へ交渉して、作者に頼んでラム酒の広告になる芝居を書いて貰うのです。そして上演したら、会社では毎日相当の総見を送るのです」
「なるほど」
「東京、横浜の酒屋を全部会社で招待して、その芝居を見させるのです。むろんラム酒の芝居だけじゃなく、他に面白い芝居のある中へ一幕くらいはさんで見せるのですから、お客は喜んで来ますよ」
「劇場でそれを承知するだろうかな」
「それは要するに金次第で承知するでしょう」
専務の藤三郎にその話をすると、
「それは名案だ」といった。早速福川が呼ばれた。
「ラム酒の芝居をやらせるとしたら、劇場はどこがいいか」
「それは明治座がよかろうと思います。歌舞伎座や新富座はちょっと面倒ですが、明治座は左団次が自分で持っている小屋で、経営もかなり困難だそうですから、相談の持ちかけようによってらくに話がつくと思います。
「じゃ、君、至急その話を進めてくれたまえ」
「承知しました」
この福川も森町の出身だが、福川泉吾とは何の関係もない。藤三郎は明けても暮れても事業事業で、芝居など見に行ったことはない。この件は一切福川に任せていると、どこでどういう風に交渉したか分からないが、福川は明治座との相談をすっかりまとめてしまった。
その結果、明治座では、明治33年3月、春狂言の中に一幕、ラム酒宣伝劇を上演することになった。
そのころの芝居には、座付き茶屋というものがあって、劇場の両側に、こうした茶屋の数十軒が、ずらりと美しい軒幕や造花を飾りつらねて、まことに花やかなものであった。芝居は、午前中から始められるのに、今のように、劇場内に食堂というものがなかったし、幕間もなかなか長かったから、見物は茶屋へ帰って食事をしたり、派手な女は、そこで衣装をなんべんも着替えたり、化粧を直したり、また、ひいきの役者に会ったりしたものである。明治座にも、そうした芝居茶屋が何十軒もあったが、吉よろづ、日野屋、花屋、さぬきや、さるや、はし本、中村屋、和泉屋、むさし家、山本、尾張屋などが、おもなものであった。
補註 「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著 その… 2025.10.14
補註 「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著 その… 2025.10.13
補註 「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著 その… 2025.10.11