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2025.10.11
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カテゴリ: 鈴木藤三郎
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「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著 178~182ページ

今度、藤三郎が、おしげを世話するようになったと聞いて、「奴も、ようやく一人前の実業家になった」「これからは、少しは話せるようになるだろう」と、一つ穴のムジナになったことを、歓迎こそすれ非難するような者は、実業家の間には、ほとんどなかった。明治30年代は、まだ、そういう時代であった。

しかし、このことは、藤三郎にとっては大失策であった。この失策がなかったならば、彼の一生はどんな聖者・高僧の生涯に比べても、劣らないほどのものになったであろう。このことを考えると、藤三郎のために実に惜しまない訳にはいかない。

彼は、この倫理的な失策のために、大人格者としての絶対至高な立場から、一事業者という相対比較的な立場へ転落してしまった。いかなる事業も及ぶことのできない、聖なる人格者(神の子)としての天的立場を捨てて、単に現世に貢献した事業の大小によって、その価値を量られるだけの地的立場に落ちてしまったのである。そして、藤三郎の場合には、この失策さえなければ、大人格者としての天的立場と、大実業家・大発明家としての地的立場とをかね備えて、古今東西の人間生活史上での稀有な例として、栄光に輝くことができたであろうことを思うときに、彼のためにふたたびも三たびも、これを惜しまない訳にはゆかないのである。

 これが、藤三郎の生涯での最大の失策であったが、彼には、もう一つの欠点があった。それは、部下をあまりに激しく叱責したということであった。一つのものを見ると、すぐそこに、新しいやり方が反射運動的に心に浮かんだ藤三郎としては、部下の者のやることが、何にもよらず間が抜けていて、見るに堪えない感がしたものに違いない。部下としては一生懸命にやっていることであっても、藤三郎からは、そのやり方があまりに心がこもっていないように見えて、むしろ何か故意に事業を妨害しようとしてするかのようにさえ、錯覚するのであった。そこで、激しい叱責となる。

藤三郎としては、こんな間抜けな、むしろ故意とさえ思われるほどの失策をすれば、叱責されるくらいのことは当然である。いや、こういう機会に、十分骨身にこたえるまでに叱責して、そうした根性骨をため直してやってこそ本当の親切であり、人の子を預かる者の義務であると考えた。だが、叱られるほうの身になると、そうは思えない。これだけ一生懸命にやっているのだから、大将の思う通りにやれなかったからといって、そうコッピドク叱らなくてもいいではないかと、ことに人中で叱られた場合などには、恨めしくさえなるのであった。けっきょくは、異常に事業に熱心な藤三郎と、これに追随ができない部下との間の食い違いであった。それが、事業は、ほとんど藤三郎の新工夫や新発明を基礎とした新事業であったから、いっそう、その間隙はひどかった。

 しかし、藤三郎としては、自分にできないことを部下に強いたのでは決してなかった。石炭一つのたきようでも、火夫が心なくたき口へほうり込んでいるのを見ると、そのスコップをヒッタクッて「こうやるのだ」と、石炭をほうり込んで見せる。そうすると、今まで濛々と黒煙を吐いていた煙突から、薄い煙があがるだけになる。それは、石炭がたき口全体に平均にまかれたので、完全に燃焼したからである。こうした技術的なことまでを、藤三郎が、いつの間に修得したのかと、これを見た者は、あきれるほどに感嘆するのが常であった。

 これだけで済めば、まことにいいのであるが、また、その火夫にやらせてみると、なかなか藤三郎が満足するようにはできない。「お前達、毎日やっていながら、このくらいのことができないで、どうするかッ!」と、どなられているうちはまだいいが、ついにはかんしゃくを起して、「馬鹿ッ、貴様のような奴、やめてしまえッ!」と罵声といっしょに、愛用の太い籐(とう)のステッキが飛ぶようになる。もうこうなると、殴られた当人はもとより、周囲の者にも、さっきの感心はどこかへ飛んでしまって、しらじらとした藤三郎への反感ばかりが残ることになる。

 この無理も、事業が順調のときには押し切れていたが、一度つまずいたとなると、ふたたび立ち上がることのできない結果になった。後年、日本醤油醸造株式会社を失敗したときに、あれだけ大きな事業をして多くの部下を持っていたのに、藤三郎と運命をともにしようとした者が、きわめて少なかったのは、その大部分の原因が、ここにあったろうと思われるのである。

 ぶどう糖の処分も、ラム酒としてではなく工業用酒精としたのであったら、劇場で宣伝をするというような派手な心も起らず、したがって前述のような間違いも起きなかったかもしれなかったが、同じアルコールを工業用としないで『酒』とすることを思いついたという、いささかの心の浮き上がりが、ついにこの結果を招いたものであるといったら、無理であろうか?ものごとは着手のときに、よほど反省もし吟味もして見なければならない。出発点で一歩の狂いは、先では千歩万歩の狂いになるものである。

 ともかく、この『おしげ』の問題は、後年の日本醤油醸造会社の失敗とともに、藤三郎の生涯を通じての二大失敗であった。後者は発明は立派に成功していながら、外部の圧迫による経営上の失敗であって、見様によっては時の運とも、時代の犠牲であったともいえる。しかし、前者は精神生活上、人格上の失敗であって、ことに多年、報徳の教えを説いていた者としては、弁護の余地がないだけに、人間としての藤三郎の生活内容は複雑濃厚になったともいえるのではあるが、その失敗の影響は深刻であった。

 この明治33年3月3日に四男の八郎が生まれたが、8月21日に肺炎で半歳の命を消してしまった。

「財界名士失敗談」 朝比奈知泉(碌堂)編 明治42年

鈴木藤三郎氏

◎日本醤油醸造会社に関する問題は、いまだ成功不成功を公表すべき適当の機会でないゆえ、それはただ諸君の推断に一任するとして、過去における失敗の二三をお話し申そう。

◎日本製糖会社の事業に付いて、明治29年頃に欧米へ糖業調査に出かけたその時製糖の副産物即ち糖蜜から酒に代わるべき飲料を醸造し得る事を発見した。

◎この糖蜜の処分法については、どこでも困っておったので、これが酒の代用飲料に醸造し得るとすれば、国家の幸福であると信じたので、翌30年帰朝の際、これに対する諸器械を購入してきた。

◎現今我が国で清酒を造るために、米の費やされる額は1年400万石以上である。もし糖蜜から日本人全部の飲料酒ができないにしても、そのうち100万石に代わるものを得られるれば、実に国家に大利益がある。米であれば輸出ができるが、日本酒では全然輸出ができぬ。この点から見てこの事業は、国家の生産に大関係があると信じた。

◎酒に毒素のあることは、何人も知る所であろう。これは酒の中にフーゼルオイルというものが含蓄されているからである。ところがブランデー及びこの糖蜜から醸造さるべきラム酒の2種には、右のフーゼルオイルがない、即ち国家経済の上からばかりでなく、衛生上からいっても結構なことだと思った。

◎それで明治32年に、自分で少し醸造して見て衛生試験所はもちろんその他について試験をした。ところが、非常な好成績を収め得たので、大蔵省に課税の事を聞くと、ラムの醸造は酒造税中に入らぬから無税であるとの決定を受けた。

◎いよいよ明治33年の1月、50万円の株式組織を以て、南葛飾郡小名木川にラム製造株式会社を創立し、20万円の広告費用を投じて製造に着手した。

◎然るにこのラム酒のため、他の酒造家は価格の点より大打撃を受けざるべからざる地位に立ち、大蔵当局に運動したかせぬかは知らぬが、3月になってから、ラム酒も酒造税として課税すべきものなりとの通告を突然に受けた。

◎有税酒とせば、勢い価格も倍以上に引き上げざるべからざるのみならず、既に無税の積もりで、すべての準備をなしおわりし後なので、この課税問題について9月まで大蔵省と交渉を重ね、遂に屈服せざるべからざる事となって、同事業も一時中止の運命に会し、忽ち50万円以上の損失を招いた。

◎今度は話題は違う。然し継続した失敗である。それは明治34年における日本製糖の失敗だ。

◎時の内閣は伊藤内閣であった。その当時開会された議会に、砂糖消費税問題の提出を見、法律の実行期は明治35年10月1日よりと示された。然るに10月1日からの課税となれば、その間6ヶ月ある。この間に外国糖の見越輸入をされては、我が国製糖業者の大恐慌のみならず、外国無税糖と内地の有税糖との競争を生ずる。しかしてその結果内地糖業者の失敗に帰するというの故を以て、自分ら糖業関係者は、法律の実行期を明治35年4月1日に変更されんことを政府に要求した。

◎政府もまことに然りと気付いたが、提出後の成案をちょっと撤回もできず、ソレゆえ自分らは議会に直接の運動をした。勿論外国品の輸入されるのは、国家経済の問題であるから、いかに議員が腐敗していても、いかに輸入商の運動が激烈であっても、正義に敵すべくもあらずと安心していたのが大失敗、議会はとうとう政府案可決という好名辞の下に吾人の主張は否決の運命に終わった。

◎頼むは貴族院のみである。こっちでも熱心に運動をした。貴族院の方は我らの主張を是として修正する約束であった。ところが貴族院では予算全部に対し、大削減を加えんとしたので、ついに詔勅の渙発を見、ために貴族院も一字一句だに修正せず、政府案を可決することとなった。

◎ここにおいて砂糖輸入商は万歳である。なんでも貿易表に示された砂糖の見越輸入額は莫大なものであった。これと同時に自分の関係せる日本製糖会社の如き、50円払込の株が20円に下落し、会社の欠損額27万円に達して、明治35年の春には将に破産に瀕せんとした。幸い三井の保護を受け、漸く破産だけは免るることを得、その後やや順境に向って自分ら重役は退職した。右の如く当時たとえ弱ったことがあったにしても、自分ら在職中における日糖の境遇は、決して今日の如き混乱の状態ではなかったと信ずる。

◎人の一生は必ず千波万波の起伏がある。成功は成功にあらず、失敗必ず失敗でない。要するにいかなる事業に失敗しても、いやしくも前途有望である以上は、誠意誠心それを継続しさえすれば、必ずその失敗を償うことができる。

部下を採択する事は非常にむずかしい。 腐敗人物をまじえた事業は、何事業によらずきっと失敗する。






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最終更新日  2025.10.11 10:00:06


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