山田維史の遊卵画廊

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☆Tadami Yamada's Paintings 新アダムとイヴの誕生


☆Tadami Yamada's Paintings 新アダムとイヴの誕生2


☆Tadami Yamada's Paintings 無量寿経シリーズ


☆Tadami Yamada's Paintings「私は美しい」シリーズ


☆Tadami Yamada's Paintings りんご充満空間シリーズ


☆Tadami Yamada's Paintings 花のマスクシリーズ


Tadami Yamada's Painting


Tadami Yamada's Painting


☆Tadami Yamada's Paintings 回 顧 展 part 1


☆Tadami Yamada's Paintings 回 顧 展 part 2


☆Tadami Yamada's DRAWINGS 1


☆Tadami Yamada's DRAWINGS 2


☆Tadami Yamada's DRAWINGS 3


☆Tadami Yamada's 小さな絵日記より


☆Tadami Yamada's Still Life:静物画(1)


☆Tadami Yamada's Japanese style:「和」


☆Tadami Yamada's 素描(1)野菜シリーズ


☆Tadami Yamada's 素描(2)貝殻シリーズ


☆Tadami Yamada's 素描(3)はんなりシリーズ


☆Tadami Yamada's 素描(4)人形シリーズ


☆Tadami Yamada's Paintings 回顧展Part3


☆Tadami Yamada's Paintings 回顧展Part4


☆ディクスン・カーの為のブックカヴァー


part 2  早川書房版


☆Tadami Yamada's Poetry 詩画集「遊卵飛行」


☆Tadami Yamada's Works: ブック・カヴァー選集


☆Tadami Yamada's イギリス・ミステリ傑作選カバー


☆Tadami Yamada's サンリオSF文庫他


☆Tadami Yamada's 光瀬龍、宇能鴻一郎、泡坂妻夫、志水辰夫他カバー


☆Tadami Yamada's ハヤカワ・ノヴェルズ、他


☆Tadami Yamada's 絵のない装丁


☆Tadami Yamada's ドラキュラ叢書


☆Tadami Yamada's Illusto., Part1『闇の国の子供』


☆Tadami Yamada's『妖怪博士ジョン・サイレンス』


☆Tadami Yamada's Part3『プラネタリウム』


☆Tadami Yamada's Part4『世の終わりのイヴ』


☆Tadami Yamada's Part5『洪水伝説』他


☆Tadami Yamada's Part6 児童書その他の挿画


☆Tadami Yamada's Part7 『心霊術入門』その他


☆Tadami Yamada's Part8『別冊宝島仕事の本』


☆Tadami Yamada's Part9 初期雑誌挿画


☆Tadami Yamada's ドラキュラ叢書『ジャンビー』挿画


☆Tadami Yamada's ドラキュラ叢書『幽霊狩人カーナッキ』


Tadami Yamada's monochrome cuts -#1


Tadami Yamada's monochrome cuts -#2


■Yamada's Article(1)卵形の象徴と図像


■Yamada's Article(2)ユングの風景画


■Yamada's Article(3)画家ムンクの去勢不安


■Yamada's Article(4)夢幻能と白山信仰


■Yamada's Article (5) 城と牢獄の論理構造


■Yamada's Article(6)ムンク『叫び』の設計と無意識


■Yamada's Article (7) 病める貝の真珠


■Yamada's English Article (8) 能の時空間の現代性


■Yamada's Article (9)『さゝめごと』に現われた十識について


■Yamada's Article(10)狐信仰とそのイコノグラフィー


■Yamada's Article (11) 江戸の「松風」私論


■Yamada's Article (12) 伊勢物語「梓弓」について


■(13)英語訳論文「ムンクの『叫び』の設計と無意識」


■(14)英語訳論文『狐信仰とそのイコノグラフィー』


■(14-2)英語訳論文『狐信仰とそのイコノグラフィー』


■(15)英語訳論文『卵形の象徴と図像について』


■(16)英語訳論文『夢幻能の劇構造と白山信仰との関係考』(1)


■(16-2)英語訳論文『夢幻能の劇構造と白山信仰との関係考』(2)


■(17)英語訳論文『モンドリアンの自画像について』


■(18)英語訳論文『霧に対する感性の考察』(1)


■(18-2)英語訳論文『霧に対する感性の考察』(2)


■英語訳エッセー『柔らかい建築 Soft Architecture』


■(19-1)英語訳論文『エドヴァルド・ムンクの去勢不安』(1)


■(19-2)英語訳論文『エドヴァルド・ムンクの去勢不安』(2)


■(20)英語訳論文 『伊勢物語の「梓弓」について』


☆自画像日記


☆インタヴュー Vol.1


☆インタヴュー Vol.2


☆インタヴューVol.3


☆インタヴューVol.4


☆Tadami Yamada's Collage:日替りコラージュ


☆Tadami Yamada's Collage:日替りコラージュPart2


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☆Tadami Yamada's Collage:日替りコラージュPart4


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☆Tadami Yamada's Collage:日替りコラージュPart6


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☆Tadami Yamada's Collage:日替りコラージュPart11


★山田芝恵書道展


☆ Tadami Yamada's short story


Death Mask


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★Poetry of Tadami Yamada(1)


Poetry of Tadami Yamada(2)


Poetry of Tadami Yamada(3)


Poetry of Tadami Yamada(4)


Poetry of Tadami Yamada(5)


Poetry of Tadami Yamada(6)


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✴️Tadami Yamada’s Brief Personal Record


✴️山田維史略歴


Jul 5, 2022
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カテゴリ: 社会、政治
 昼頃から雨が降り始めた。それまでは青空も覗いていた好天気だったのだが。間が悪いというか、外出準備中だった。午後2時から午後4時まで、民生委員・児童委員の夏期研修がスケジュールされていた。ヤングケアラーに関する勉強である。

 私の亡母は、リスクが非常に大きい三度の手術を医者も驚く生命力でのりきり、寝たきり状態の在宅医療患者となった。私は、1日24時間付ききりで、4年間看護した。そのことが、母亡き後、民生委員に推薦される基になったのだが、私は60代だったので、もとよりヤングケアラーではない。しかし、きょうの研修で、ヤングケアラーの現状は、その子どもたちの精神状態をふくめて、私の経験した実情をほとんどそっくり子どもに置き換えたものだと思った。

 大人の私に大変だったのだから、小・中学生、そして高校生にしろ大学生にしろ、それはそれは大変であろう。しかも、彼らは若くて元気がいいと見られているので、法的に介護保険が申請できない。被介護者の家に誰か元気な家人がいる場合、介護保健が認可せれるのが非常に難しいのである。この子どもたちを何とか公的手段で救助できないか、あるいはせめて補助できないかと、官民のサポート組織は頭を使ってはいる。おかしな法律だが、それが日本の現状だ。

 ヤングケアラーの子どもに辿り着いた(接触できた)官民のサポーターに対して、ほとんどの子どもたちは弱音を吐くことがない。「だいじょうぶ」と言うそうだ。・・・しかし、ほんとうにだいじょうぶなのだろうか? 
 だいじょうぶのはずはない、と断言してよいだろう。私は先に、「子どもたちの精神状態をふくめて、私の経験した実情」と述べた。必ずしも子どもの精神状態と同じではなかろうが、私に「だいじょうぶ」と言わせたのは私のプライドだった。

 私は12歳のときに自ら望んで勉学のために家族と離れた。13年後の25歳のときに、突然、両親が私と一緒に住みたいと引っ越してくるまで、私は身寄りがいない土地で独りで暮らしていた。そして父、それから母と、つぎつぎに病魔に襲われた。ちょうどその頃、私はイラストレーターとして仕事の依頼がひきもきれずに来るようになり、文字通り眠る時間もなく仕事をしていた。父が深刻な病状と判っても、ほとんど弟にまかせてしまっていた。そして、私は見舞いに行く時間もつくれないまま、父は入院先の大学病院で死んだ。
 ・・・私は後悔した。描き、売れなければ、食っていかれない、何の保証も無い職業で私自身の人生をつくっていかなければならなかった。しかし、子どものときから13年間、何ひとつ指図もしなければ文句も言わなかった父を、見殺しにしたような、ふたつの気持の板挟みになった。
 そして父の死後間もなく、母が大病になった。実は、父が存命中にすでに母の病気は判明していた。大きな動脈瘤が腹部にできていた。あまりにも大き過ぎて、また、年齢も年齢だったので、大学病院でも手術が不可能と判断していたのだ。この手術を決行することになったのは、母の別の大手術が成功し、それを知った動脈瘤を担当していた主治医が、あるいはこちらのほうも母は耐えるかもしれないと思ったようだ。私は大きな賭けをした。母の生命力に賭けたのだ。そして、母は直径5cmの巨大動脈瘤にステントを挿入するという、主治医のいうには最高齢の事例となる手術に耐えた。しかしその後間もなく、母は動脈解離をおこした。さすがに手術はできず、薬物療法により50日間の入院で、骨と皮ばかりに痩せこけて、しかし母は生き延びた。50日間の絶対安静状態の入院で、母の精神状態は恐怖と孤独に冒された。幻覚が現れ、叫び声をあげた。私は、拘禁症状とおなじような症状だと思った。母はそれ以上入院をつづけられなくなっていた。私は危険を承知で在宅医療を申し出た。

 母は寝たきり状態でもあり介護保険はすんなり認可された。すぐさまケアマネージャーが来宅し、介護プランを作成した。医療用ベッドや、室内酸素発生装置、および携帯酸素発生装置と酸素ボンベ(これはMR検査のために病院の寝台車で通院するとき及び入浴時に使用)や、吸痰器が家に運び込まれた。そして訪問医療や訪問看護士や訪問入浴、液体完全栄養食、薬剤配達等々が介護保険で手配された。
 (付記: 父のために介護保険申請をしようとしたとき、調査員が来宅した。調査員は病床の父に対して赤ん坊のように接した。赤ん坊言葉でばかげた質問を繰り返した。私は、「無礼者!」と一喝したい気持を抑えた。しかし、このような屈辱に耐えている父を見て、介護保険申請を止めた。)

 私は、「私のプライド」と言った。父を死なせたようなことをしたくなかったのだ。子どものときから家を離れ、母にさびしい思いをさせた。その13年間を、いま私は埋め合わせをしなければなるまい。そして・・・息子として、見る影もなくなった哀れな母の姿を、他人に見せたくなかった。また、私なりの長い長い周囲との葛藤のすえにようやく作り上げた絵を描くことに専念できる環境、・・・それは私自身の「孤独」が紡ぎ出す作品のための環境であり、イメージを育むための環境を、他人が家のなかに出入りすることで乱されたくなかったのだ。それは、微妙な「気配」の環境だからであった。
 私は、看護士が来宅する前に、すべてのことをすませてしまった。下 (しも) の始末をし、おむつを取り替え、シーツを替え、身体を拭い、新しい寝衣に着替えさせ、顔をととのえ、口腔を清浄にし、流動食を2時間かけて鼻腔より入れ、・・・一日の始まりをすべてやりおえて、看護士を迎え、医師を迎え、訪問入浴のスタッフを迎えた。
 看護士はほとんど何もすることがなく、ただ血圧を計測して帰っていった。その血圧計測さへも、すでに私がやり、看護日誌に記録していた。尤も、在宅医療が始まった当初は、母はまだ少し元気があったので、無意識のうちに鼻から入っている流動食用の管を引き抜いた。そのたびに看護士に急いで来宅してもらい、管を入れ直してもらった。それは夜中のこともあり、正月中だったこともあった。看護士には申し訳なかったが、その管が母の「食事」のための唯一の手段だった。後には主治医の指導で私がその技術を修得したが。
 訪問入浴は、部屋の中にシートを敷き、バスタブをいれ、外部の車載湯沸装置とモーターポンプで連結する。患者はハンモックに寝たままの状態で入浴する。排水は家の浴室の排水口を使用するので、私は前もって浴室の清掃もすませておいた。・・・じつは、訪問入浴に頼る前は、父の場合も母の場合も、私が抱えて入浴させていた。我家の浴槽は床に埋め込みになっている。浴槽の底に滑りどめのマットを敷きつめ、浴槽のなかにフランスのニースから取り寄せた桜の香りの液体石鹸を投入し、洗い終わると湯を抜き、そのままシャワーで石鹸を流し落とした。しかし、病状がすすむにつれて抱えて入浴させることが不可能になったのである。

 プライド。そう、プライドだったと思う。プライベートを見せることへの抵抗。しかし見せなければならなかったので、「だいじょうぶ」と笑いながら黙々とやりきる。やりきってみせるという意地。
 私は自分の状況を誰にも口外しなかった。相談をしたとして、通り一遍の慰めをされても、言葉のバイブレーションや表情筋のかすかな変化に敏感な私の感覚は、かえって苦痛を増すばかりだったからだ。
 母の状態がもう末期だというころ、いつものように来宅した主治医が私を見て、「ちょっとお兄さんの状態を診てみましょう」と言って、血圧や血糖値などを検診した。そして、「病気すれすれのところに来てます。すぐに病院に行ってください」。
 私は、4年間、自分のベッドに寝たことが一度も無かった。母の医療ベッドの脇の床にゴロ寝していた。母が寝ながら咳き込んで、数時間前の流動食が胃から逆流し、つまり嘔吐することがあった。私は急いで母のベッドに跳びのり、「おかあちゃん、ごめん!」と言いざま、母の胴体をかかえて逆さまにつり下げた。嘔吐物が肺に流入しないようにだ。なにしろ一食分の流動食は800ml。嘔吐すると胃液とともに洗面器一杯ぐらいになる。もちろん洗面器など用意できるはずはない。ベッドも床も吐瀉物まみれになった。私は全部吐きおわるのを見計らい、つりさげていた母を私の膝の上に頭を下に、顔を横向きにし、あいた手で吸引器に管を装着して口から入れ、喉の奥に残っている内容物を吸い出した。それから、夜中だったが、主治医に電話をして来宅を乞うた。汚物が肺に入って、肺炎を起こしていないかを診てもらわなければならなかった。また、鼻腔から胃までとどく長さの管を常に装着しているので、新しい管を入れ直さなければならかった。・・・そんなこんなで、私は母のベッドのそばを離れられなかったのだ。それやこれやで休息をとれない生活が4年間つづいていたので、私自身の身体も病気寸前まできていたのだろう。

 ヤングケアラーの子どもたちが、どのような介護をしているにせよ、ほとんどは子どもの手に負えることではない、と私は想像する。しかし、自分の置かれている状況を他と比較して客観的に観ることは、おそらくできないのではあるまいか。そして、サポーターに問われれば健気にも「だいじょうぶ」と言っているように、私には思える。そのような状態が、はたして何年つづくのかもわからずに。小学生が成人を過ぎても、まだ依然として父や母を、場合によっては祖父母をたったひとりで介護している例が、決して少なくはないらしい。ヤングケアラーの子どもたちは、いったい何時、自分自身の人生設計ができるのであろう。
 ・・・私自身は、・・・60代だった私自身は、介護の4年間、まったく職業的営為から離れなければならなかった。私は、訪問看護士が来宅した最初の日に、私の思いをすべて話し、人前で初めて泣いた。看護士は自分の将来的な設計を話した。わたしより20載も年下だ。私はその人がまっすぐに自分の人生を進むだろうと思った。そして、私は泣いたあとで、きっぱり心がきまった。できるだけ母を長生きさせるために、何年間でも介護をやりぬいてやる、と。すべてがおわった後で、私が絵描きに戻れるか否かは、私の能力次第だ、と。

 ヤングケアラーの子どもたちが、自分自身の人生を確かなものにできるように、われわれ大人は何をしたらよいだろう。彼らの介護の状況をそのままに、心の補助をすれば、それでいいのだろうか。それとも、彼らが今やっている仕事を、そっくり誰かが替われば、よいのだろうか。
 昔のような家族形態の復活を提言する人もあろうが、そんな復古が可能だろうか。地域のサポートを提言する人がいるが、地域のサポートがそんなに容易だろうか。「おせっかい」を乗り越えた、他人の人生をガッチリ受け止めるサポートができるだろうか。

 私の母は、「兄ちゃんと一緒に暮らせて、楽しかった!」と言い、死んで逝った。ヤングケアラーの子どもたちのなかには、燃え尽き症候群がおこることがあるそうだ。長く辛い仕事をやりっきった後におそってくる心身の空虚感である。私自身、母の死後に、イラストレーターとして画家として筆を執れるまでには数ヶ月の時間が必要だった。かと言って、その数ヶ月間、休息が取れたというのでもなかったのである。






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Last updated  Jul 7, 2022 07:51:56 AM
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AZURE702 @ Re[1]:山田維史の「蝶」が出てくる作品(07/03) shiwashiwa1978さんへ  拙作をご覧くださ…
shiwashiwa1978@ Re:山田維史の「蝶」が出てくる作品(07/03) 素敵です。 作品集は無いのでしょうか。
AZURE702 @ Re:「比叡おろし」(汚れちっまた悲しみに)(08/21) 三角野郎(絵本「マンマルさん」)さんへ …
三角野郎(絵本「マンマルさん」)@ 「比叡おろし」(汚れちっまた悲しみに) ≪…【ヴィークル】…≫の用語が、[ 実務と…
山田維史@ Re:[言葉の量化]と[数の言葉の量化](08/21) ヒフミヨは天岩戸の祝詞かなさんへ 書き込…

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