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なんか、風邪ひいたっぽい。急に寒くなったからかしら? それでイマイチ、気力充実せず、今日は一日、モゾモゾと本を読んでおりました。読んでいたのは『西村賢太殺人事件』なる本。 以下、ネタバレ注意なんですけど、この本、1章から9章までは割と普通の本で、私小説家・西村賢太の内縁の妻だった人が書いた思い出の記なんですわ。で、生前の西村さんというのは、そういう人の立場から見るとこういう感じの人だったんだ、というのがよく分かる。西村賢太ファンからすれば、必読の本なのではないかと。 ところが。 第10章に入って、何だか様子がおかしくなる。 ご存じの通り、西村賢太は心臓発作か何かでまだ若いうちに急逝するんだけど、著者によると、あれは大がかりな組織による陰謀殺人であったと。で、著者自身も、その組織に追い詰められていると。 で、著者が西村さんと別れた後、彼女のバイト先の人たちや、住んでいたアパートの住人達、近所の子供まで、そういうのが全部グルで、寄ってたかって彼女に嫌がらせをし、自宅侵入を繰り返し、彼女を追い詰め、西村賢太を殺害したと。本書第10章は、その過程を事細かに明らかにしていく。そういう内容なのよ。 もう、ビックリ。お口あんぐり。これはもはやアレじゃない――令和日本版『ねじの回転』だわ。そもそも、本当にこの人は西村賢太氏の内縁の妻だったのか? それもひょっとしてすべて妄想だったのか・・・? これ、ワタクシが読むべき本ではなかったかもね。少なくとも体調が悪い時に読む本ではなかった。今夜あたり悪夢を見そう・・・。やばかったわ~。西村賢太殺人事件 [ 小林麻衣子 ]
November 21, 2025
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頼まれている新書本執筆が滞っておりまして。こういうことは、ワタクシには珍しいのですが。 滞ると、当然、執筆がおっくうになる。執筆がおっくうになると、さらに滞る。これを悪循環という。ワタクシは今、まさにその悪循環にはまっているわけですな。 だけど、ここ数日、試行錯誤しつつ筆を進めているうちに、結局、これをやらないといかんのだろうな、というのが見えてきた。 見えてきたのは、今朝。眠りから覚めて、まだウトウトしている時。ワタクシの場合、この状態の時にアイディアがひらめくことが多いんですが、今日もそのパターン。 ずばり、言いましょう。なぜ、日本では自己啓発本に対して批判的な人が多いのか。 答え。それは日本人が自己啓発本の根本にあるキリスト教的発想を踏まえていないから。 結局、これだなと。だから、このことを書かないと、永久に日本人は自己啓発本の世界を完全に理解できないままになってしまう。 日本人は、アメリカから自己啓発思想が入って来た時に、それを儒教の立身出世主義に接ぎ木する形で理解しちゃったのよ。つまり神のない自己啓発思想として理解してしまった。 だけど、本来の自己啓発思想のポイントはキリスト教的世界観だから、それを儒教の発想で理解すると、最終的には誤解が生じる。この誤解こそが、日本人の自己啓発思想嫌悪の元なのだと。 だから、本当の意味で自己啓発思想を理解するためには、「神のいる世界」というものをベースにしないとダメよと。そしてそこを理解すれば、自己啓発思想に対する日本人の誤解は氷解するよと。 たとえば、アメリカの自己啓発思想では、直観を信じろ、という話がよく出てくる。 これ、日本人には理解できないわけよ。論理を突き詰めた結論よりも、パッと思い浮かんだ直観を上に置くって、どういうこと? そんなの非論理的じゃない?! というわけ。 だけど、違うのよね。そうじゃない。 本来の自己啓発思想では、そもそも宇宙の中心に神がいて、人間の中にも神の一部が埋め込まれているという想定があるのよ。つまり、人間は神から直通トランシーバーを手渡されているようなものなわけ。直観というのは、だから、そのトランシーバーを使って神が人間に「こうしなさい」と教えてくれているのと同意なの。 だから、人間が論理的に突き詰めた結論よりも、直観を重視するというのは、論理的なわけ。だって、神の論理の方が人間の論理よりも上だから。神と人間とどちらが優れているかを考えれば、直観の方が上だ、というのはまさに論理的な帰結なのよ。 そういうのが呑み込めていないと、自己啓発思想の本当のところはわかりません。 だから、新書ではそこを書けばいいのだ・・・・と、ひらめいたわけ。これもまあ、いわば、直観だよね! 神様がワタクシに「こうしなさい」と教えてくれたのだから。 ということで、当面はその方向で書き進めてみよう。何しろ、ワタクシには神様がついているのだからね。成功するかどうかわからないし、この先も詰まるかもしれないけど、その時はまたその時で、神がワタクシに方向を示してくれることでしょう。
November 24, 2025
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かつては熱狂的な好角家、でもモンゴル力士全盛時代に興味を失い、この二十年ほどほとんど相撲を見なくなったワタクシ。今もほとんど見ないのですが、今日はたまたま午後のコーヒー・ブレイクに相撲の時間が重なった上、千秋楽だったこともあって、結局、優勝決定戦まで見ちゃった。 で、安青錦の初優勝を目撃したというね。 最初にテレビをつけた時、たまたま安青錦と琴桜の一番をやっていたのよ。で、安青錦が勝ったのですが、ワタクシが驚いたのはその勝ち方。両者低く当たってこれ以上ないというくらい低く構え、膠着状態に入ったまさにその時、安青錦が内無双を切ったのよ。それで琴桜が前に落ち、勝負あり。 えーー。あの状況で無双を切るの?! 素晴らしい。さすが安治川親方のところの弟子だけのことはあるわ。安治川親方は現役時代、技能賞をやたらに取った技巧派だからね。 あの内無双ですっかり気に入った安青錦。それが次に優勝決定戦に出るということで、これは興味津々。 で、対横綱戦。やる気満々の豊昇龍に対し、ガチコンと当たって一歩も引かず、逆に横綱を押し込んで相手が引くのに乗じて横に回り込み、そのまま押しつぶして勝負あり。 外国人力士の通例とは異なり、安青錦はむしろ小兵と言っていいくらいの体格。それで横綱の突進に一歩も下がらなかったんだから、体幹が強いんでしょうな。小さい割に馬力もあるし。そして業師なんだから面白い。 ウクライナ出身というところも、ちょっと応援したくなるしね。 ということで、今日は思いもかけず、好角家だった昔に戻って、ついつい相撲に熱中してしまったワタクシ。まあ、そういうこともありますわ。 でも、安青錦は良かったね。弱冠21歳、来場所は大関だそうですが、果たしてこのまま横綱まで突っ走れるか。ちょっと楽しみですな。
November 23, 2025
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11月も後半に入って、そろそろあちこちから喪中はがきが届くようになりました。なんだか矛盾するようだけど、喪中はがきが届くようになると、そろそろ年賀状、用意しないとな、という気分にさせられます。 年賀状ねえ・・・。 最近、喪中ではないけれど、年賀状じまいをする、という人が周りにも増えてきました。家内なんか、何年か前からそうしているし。 一方、ワタクシは相変わらず年賀状を出し続けて入るのですが、最近、さすがのワタクシも、それってどうなのかなと思うようになりまして。 特に、昔の親しい教え子との年賀状のやり取りね。 教え子だって、ワタクシから年賀状をもらえば返さないわけにはいかない。ひょっとして既に年賀状じまいをしているのに、ワタクシに対しては出さなければと思って、面倒な思いをしているのかもしれないなと。 どうしようかな。今年あたりから、もう、出す相手を厳選して、出す量を半分くらいに減らそうかな。 とはいえ、さすがに全廃というわけにもいくまい。 まあ、とりあえず年長者に対しては今まで通りにし、年下の人に対しては、向こうから来れば返す、というスタンスにしておいて、年賀状をやりとりを続けるか止めるかの決定権を相手に渡す、というのがいいのかもね。 それにしても、とにかくそろそろ年賀状を買わなくては。週明けにでも、通勤途中に買っていきますかね。
November 22, 2025
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急に寒くなりましたなあ。 で、そんな話を家内としていた時、そう言えば子供の頃、寒くなると半纏を着させられたという話になり。 ああ! そう言えばそうだった。我が家でも中学生とか高校生の頃、家では冬に半纏を着ていましたわ。 ああいう半纏は、一体どこで買ったのか。なんか当時としては、スーパーの衣料部とかではなく、商店街にある呉服屋だか布団屋だか、そういうところの店先で、1500円くらいの安い値段で売っていたのではなかったかと。あいまいな記憶だけどね。 ほんと、そういうのを、カッコいいとか悪いとか、そういう判断なしに、寒いから着る、みたいな感じで着ていたなあ。自分だけでなく、たとえばテレビ・コマーシャルとかでも、受験生といえば半纏に鉢巻、みたいなのがこの季節の定番だったような。 懐かしいな。父母の膝下にいてなんの不安もなく過ごしていた頃、冬に着ていた半纏。 そんなことを考えていたら、なんだか、そういうのをまた着たくなってきた。 今、そういうのって、どこに行けば売っているのだろう? イオンに行けばいいのか? いや、楽天で買えばいいのか。これこれ! ↓久留米 半纏 メンズ はんてん 綿入り 半天 袢纏 男性用 どてら 日本製 丹前 冬 暖かい 部屋着 誕生日 ギフト 冬 ちゃんちゃんこ 男性フリーサイズ どんぶく 誕生日 プレゼント ギフト でもなんか、通販で買うのは面白くない。どこか旅先で、シブい商店街の店先でゲットするとか、そういうドラマ性が欲しいな。ちょっとヒマになったら、半纏探しの旅にでも出るか?
November 21, 2025
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昨年、斯界で大きな話題となったパーシヴァル・エヴェレットの『ジェイムズ』という小説を読んでみました。以下、ネタバレ注意ということで。これこれ! ↓ジェイムズ [ パーシヴァル・エヴェレット ] 本作はマーク・トウェインの傑作『ハックルベリー・フィンの冒険』のスピンオフというか、トウェインの作品がハックの視点で書かれているのを、ハックと行動を共にする黒人奴隷のジム(=ジェイムズ)の視点から語り直すという趣向。もっとも後半に至ると、元ネタを逸脱していくんですけどね。 で、全米図書賞だとかピューリッツァー賞とか、主要な賞を総ナメにしたというね。だから、まあ、一応はまだアメリカ文学者の端くれという立場からして、読んでおかないといかんのかなと思ったわけよ。 で、どうだったかって? それ、ワタクシに聞く? 大抵の人が「素晴らしかった!」と感心しまくる作品をワタクシがどう評価するか、敢えて聞く? 聞くなら答えるけど、まあ、大したことはないね(爆!)。 面白くなくはないです。噂に聞いた「ページ・ターナー」というのは確かにその通り。読み始めたら、すぐ読み終わっちゃうからね。だけど、じゃあ、これが『ハックルベリー・フィンの冒険』と同様の傑作かって言われたら、とてもとても。 なんかね、あちこち中途半端なのよ。たとえばジェイムズが「書くこと」に執着することとかね。ノートや鉛筆に執着していることはわかるのだけど、その結果、どうなったの? それが書いてない。まさかこの小説自体がジェイムズの作品とか? それならそれでいいけど、そう窺わせるようには書いてない。 あと、逃亡奴隷としてジェイムズが受ける様々な悲惨な事件にしても、なんかリアリティがないんだよね! たとえばジェイムズに鉛筆を渡すために、奴隷主から鉛筆を盗んだ奴隷が奴隷主に殺されるという場面とか。だって奴隷って、タダじゃないのよ。奴隷主にとってはひと財産だ。それを、たかがちびた鉛筆一本盗んだために殺すとか、そんなことありえない。悲惨さを演出するためにあり得ない作り話をしているところが興ざめもいいところ。むしろ「この奴隷、値段が高かったんだから長く使おう」という白人奴隷主の心根こそリアルであり、そっちのリアルさを批判すべきなのにね。 で、そんな風にあり得ない悲惨さをずっと描いていたのに、最後の最後になってジェイムズはいとも簡単に悪い白人を皆殺しにし、あっさり妻子を助け出して北部への脱出成功なんて、どんだけ都合がいいんだと。 あと、ジェイムズがハックの父親だったなんて、もう、あり得ないを通り越して噴飯ものよ。 なんつーの? さっきの「書くこと」にしても、ジェイムズが使い分ける言葉遣いの件にしても、あちこちで描かれる「パッシング」の事例にしても、ミンストレル・ショーのくだりにしても、ジェイムズの空想の中でのジョン・ロックやらヴォルテールやらとの会話にしても、作者のエヴェレットが研究者受けしそうな主題の餌をあちこちにバラまいているような感じがするじゃないの。そんな、これ見よがしに「拾え」と言われているものなんか、ワタクシは拾わないよ。 でも、そういうのを拾いまくって、研究発表する研究者とか、今後、やたらに出るんだろうな。「ジェイムズは、自ら語る/自ら書く主体となることで、白人支配の構図を鮮やかに逆転してみせたのだ」とかなんとか。やだねえ、そういう頭でっかちな結論。作者の思うつぼじゃないの。 っつーわけで、この小説、ワタクシにはあまり響かなかったのでした。同じ「ジェイムズ」なら、ワタクシはビリー・ジョエルの名曲の方を推すな。こっちはちゃんと「小説」してるからね。これこれ! ↓ビリー・ジョエル「ジェイムズ」
November 25, 2025
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日本の自己啓発本の研究していると、へえ~っと思うことがしばしばで、それはまあ、私があまりに日本史の知識がないからなんだけど、それにしても今更ながらなるほどと思わされることが多いですわ。 たとえば満州のこととか。 ワタクシは前々から、ある年代の人の中に「満州生まれです」という人が結構いる(たとえば池田満寿夫なんかもそうだけど)のはなぜなのか、どうして日本はあの時期、満州にそんなに執着したのか、不思議で仕方なかったんですけど、自己啓発本の研究をしていて、明治の後半、日本の就職事情が極端に悪化して、高等教育機関を出ても全然就職できないという時代があったことを知り、その絶望的な就職難を解決するための方策が満州進出だったんだ、ということが分かった。なるほど、そういうことだったのね! 今更納得! あと、二宮尊徳のことなんだけど、私は薪を背負って本を読んだ人、としてしか知らなかった。だけど、あの人は結局、荒廃農村の立て直し屋、凄腕のコストカッターだったのね。かつて日産を一時的に立て直したカルロス・ゴーンみたいな。 じゃあ、江戸時代、なんで地方の農村が荒廃したかっつーと、それは重税を課した幕府と、税金を支払えなくて困っている農村の弱みに付け込んだ高利貸による収奪だったと。で、もう食い詰めた村民は、村を捨てて行方をくらましたり、働くのをやめ、博打などに手を出すようになっちゃった。だから、農村の荒廃は、本当は社会システム上の欠陥が原因なんだけど、そこに二宮尊徳登場! 俺が来たからにはこの村を立て直す! だから俺の言うことは絶対聞け! とか言って、残っていた村民の生活態度の改善から取り組み、倹約・勤勉を強いて借金を数年のうちに返済させ、なんとか村の運営を正常に戻したと。 だから、社会システム上の欠陥を、個人個人の意識改革(=自己啓発!)によって乗り越えたのね。それがいいことだったのか、悪いことだったのかは措くとして。 二宮尊徳の剛腕コストカッターぶりを見ると、なるほど自己啓発思想というのは、大昔から社会悪には目をつぶり、個人の自己啓発を促すことだったのね、ということがよく分かる。 勉強になるわ~。 ということで、勉強すると、日々発見があるなと。そんなことを実感しているワタクシなのであります。
November 19, 2025
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このところ、明治維新以降の日本の自己啓発思想の流れについて、様々な本や論文を読破しております。私の専門はアメリカ文学だから、この辺の日本の歴史については無知以外の何物でもない。でも、アメリカの自己啓発思想の日本への伝播とそのプロセスを考えるためには、日本のことも知っておかなくてはならないのよ。 で、遅まきながら色々な資料を読んでいるんだけど、やっぱり知ることは面白いことであって、段々頭の中に、大きな絵ができてきた。 そう、ここで重要なのは、頭の中に大きな絵を描くことなのよね。大雑把に、大柄に、様々な事柄の流れを把握すること。 たとえば明治維新以前にも儒教的な自己啓発思想ってのはあって、勤勉といった美徳を重視する通俗道徳があった。 じゃあ、そういう通俗道徳と、明治維新以降の立身出世主義とはどう違うのか? 結局ね、職業がポイントなのね。 維新以前の通俗道徳だと、職業ということがあまり問題視されてない。なぜなら、それぞれが従事している職業は当たり前のことだったからね。士農工商制があるから、農民には農業という職業しかないし、商人には商業という職業しかない。だから、通俗道徳における勤勉とは、各々の仕事を一生懸命やれ、ということになる。 ところが維新後は、そうじゃないんだなあ。特に士族階級にとって、状況がガラリと変わる。 だって、維新によって、士族は職業を失うんだもん。無職化よ。そうなると、通俗道徳でいう、各々の仕事に精を出せと言われたところで、職が無くなっちゃったんだから、士族階級の連中にとってはまるで意味をなさない。 しかし、そうこうしているうちに学校なるものができ、学校を卒業すると官僚になれるという道ができた。この制度は、士族以外の人々にとって、特に豪農にとっては意味があったけれど、それ以上に士族にとって意味があったのよね。だって、無職の彼らには、この道を使うしかないんだから。 で、明治以降、この教育システムが出世の鍵となるんだけど・・・なにせ人はいっぱいいるのに、教育システムに乗れる人の数は限られている。このシステムに乗れなかった人が大量に出てくると。 そこで絶望して煩悶青年になっちゃう人が大勢出てきたんだけど、そこで出てくるのが、官僚にならなくてもいいじゃん?という発想。実業主義ですな。 そこでそれまで姦商とか言われて、すごく軽蔑されていた実業界の連中がクローズアップされてくると。で、そういう連中が、煩悶青年たちを実業界に引っ張る策略を始めるのだけど・・・ ま、そんな感じで、今、私の頭の中で明治時代の大きな絵が作られている真っ最中。この大きな絵が、段々、細密になって行った時、本が書けるという自信が出てくるわけだけど、まあ、そう先を急がず、今のところはできるだけ大きな絵を描くよう、頑張りましょうかね。
November 18, 2025
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昨日行われた井上拓真 vs 那須川天心戦、観ちゃった。 第1ラウンド、第2ラウンドあたり、那須川選手の方が断然有利で、一発、かなりいい奴をくらって拓真選手がグラッとするシーンもあったりして、あれ、これは案外、早い決着になるのかなと。 とにかくね、リーチの差が数字以上にあるというか。リーチの長い那須川選手に対し、リーチの短い拓真選手が圧倒的に不利で、拓真選手のパンチが全然届かないのよ。 ところが第3・第4ラウンドで若干、拓真選手が盛り返してきた。私の見立てでは、それでもまだ那須川選手が有利と思っていましたが、第4ラウンド終わった時点での採点では両者まったくの互角。おそらくこの採点を見て、拓真選手は「行ける」と思ったのではないでしょうか。 で、その後は拓真選手が至近距離からのアッパーの連打もあったりして、結構、有利に試合を運び、両者の点差は拓真選手有利に振れていく。で、そのまま、那須川選手が挽回することなく、最後まで行っちゃったと。 ワタクシの戦前の予想では、両者ともKOするだけのパンチがないので、判定勝負になるだろうなとは思っていて、判定になった場合、無敗神話という追い風もあるし、何事につけ派手な那須川選手の方に分があるだろうと思っていたのですが、その予想はいい意味で外れちゃった。 まあ、いいんじゃないの? 井上拓真選手はたたき上げのボクサーだしね。キックから転向してきてまだ2、3年とかの人に負けるわけにはいかないでしょう。ボクシング好きの玄人ファンは皆、井上拓真選手推しだっただろうし。 で、思うのは、那須川選手のこと。 なんだろう、本人は大真面目に精進しているのだろうけれど、いざ表に出るとなると、天性のビッグマウスというか、ちょっと外連味があり過ぎる。 彼は何かと言うと「シン・ボクシングを見せる」とか大口を叩くわけで、キックボクシング・ファンと那須川ファンにはそういうのも受けるだろうけど、生粋のボクシング・ファンからしたら「しゃらくさい」と思っちゃうのよ、どうしても。 だから、今後、那須川選手が、生粋のボクシング・ファンからも愛されたいのであれば、ああいうビッグ・マウスは慎んだ方がいいと思うし、控室でのボクシングを舐めたような動きや、派手な入場とかも慎んだ方がいいと思う。 今の那須川選手の立ち居振る舞いを見ていると、柔道の講道館杯に、覆面プロレスラーがテーマソングかけて入場してきたような感じに映る。このままだと、そういう「色物」のまま終わるよ。その才能を花開かせたいなら、周囲の人間も、参謀として、彼の振る舞いを変えてあげないと。余計なお世話だけど、ついそう思ってしまいますわ。
November 25, 2025
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数年前から私が愛用し始めた夏場のループタイ。つい最近傑作テレビドラマ『鈴木先生』で、主人公の鈴木先生こと長谷川博己が美しいループタイ姿を披露したこともあり、いよいよ時代がワタクシに追いついてきた感あり。 でもって、このところのクールビズ需要。もうね、これからはループタイしかないよ! ・・・と思っているのですが、今一つ流行しませんな・・・。やっぱり、アレは年寄りのするもの、という先入観があるのかしら、日本では。 実際、「兄貴」こと同僚のK教授にもさかんに勧めるのですが、「あんなの、爺臭くてヤダよ!」と剣もほろろ。 しかし! 最近、大学内で「節電委員」なるものにさせられてしまったK教授、この委員会のメンバー全員が不文律のように開襟シャツでを着ていることに気づき、ついにネクタイをやめて開襟シャツを着るようになってきたんですな。 しかし、開襟シャツというのは、色・柄があればよし、真っ白な半袖の開襟シャツにズボンという出で立ちですと、高校生の制服のように見えてしまわなくもない。やはりそこに何かないと、大人として様にならないというところがある。 となると・・・やっぱりループタイでしょう! ってなわけで、さしもループタイ嫌いのK教授も、最近、少しずつループタイに興味を持ち始めたらしい。 しかし、それまでずっと私の勧めを断り続けてきた手前、ちょっと恥ずかしいのか、遠回しに聞いてくるんですよね。私のループタイを見ながら、「そういうのはさあ・・・、どこで買うの?」とか。 むふふ。そうかそうか。ついに兄貴もその気になったか。 ということで、そう遠くない将来、K教授のループタイ姿が見られるのではないかと、楽しみにしているワタクシなのであります。ま、一度すれば、その快適さに二度と手放せなくなると思いますけどね。人気商品 ループタイ ループ ネクタイ でお洒落に♪ メンズ ネックレス ペンダント にも最適!! メンズ レディース ループ ネクタイ 細ネクタイ スリムタイ ナロータイ サロン系新作 ループタイ ループ ネクタイ で差をつけろ!! メンズ ネックレス ペンダント ループ ネクタイ スリムタイ ナロータイ キレカジ系ベネチアンガラスル-プタイスクエアG 【父の日】【敬老の日】 【あす楽対応_関東】 ※あす楽は時間指定不可【楽ギフ_包装】【yokoP2-10】
July 8, 2011
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相変わらず五十肩で不調でございます。 もうね、最近は、お尻のポケットに入れた財布を取り出すのも骨。レジで財布を出そうとして、変な風に体をよじってうめき声を出す始末。店員さんに怪しまれるよね・・。 先日、病院では貼り薬を処方されたけれど、そんなもん、なんの役にも立たん。 で、こんなの効きはしないんだろうなと思いつつ、今日はドラッグストアで「四十肩・五十肩に飲んで効く」的な薬まで買っちゃった。これこれ ↓【第2類医薬品】小林製薬 シジラック 84錠【五十肩】【四十肩】【肩の痛み】 漢方薬だからねえ、即効性はないんだろうけれども。もう、藁をも縋る思いでっていう。 いやあ、五十肩がこれほどツラいとは思わなんだ・・・。なってみないと、わからんもんですのう。
February 21, 2023
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先日、木田元氏の『闇屋になりそこねた哲学者』という本が面白い、ということを書きましたが、その印象は最後まで読み終わった後も変わりませんでした。ただ、後半、ちょっと箇条書き的な、テーマ毎の話になってしまって、物語性が若干薄れたのが惜しいところではありましたが・・・。 ところで、この本はある傑出した哲学者の一代記なので、その面白さには色々な側面があるのですが、その一つとして、木田さんが如何に外国語習得に努力されたか、ということがあります。私も大学で語学の授業なども受け持ちますし、自分自身の問題としても興味がありますので、今日はちょっとその辺のことについてご紹介しておきましょう。 木田さんという人は、もちろん、素質的にすごく頭のいい人なのだと思いますが、しかし、戦中・戦後の日本の状況に翻弄されて、学歴的には結構回り道をされている。いわゆる当時のエリート・コースである「一高から東大」という路線ではないんですな。 まず木田さんは、終戦を海軍兵学校の生徒として迎えている。つまり、エリート軍人への道筋に乗った途端に終戦になって、いきなり前途がなくなってしまったわけですな。 で、戦後の混乱の中で旧制高校への進学の道が断たれた木田さんは、郷里の東北地方に戻って新設の農業学校に入学する。当時GHQは、日本に工業国としての道を歩ませると物騒だから、農業国へ変えてしまおうとしており、それで各地に農業学校が創られていて、木田さんもとりあえずそこに籍をおいたんですな。 もっとも、元より農業をやる気などさらさらない木田さんは、その学校でヤンチャぶりを存分に発揮し、破天荒な武勇伝を築き上げるのですが、やがてドストエフスキーの小説などに触れるにつれ、哲学を勉強したいという強い思いを抱くようになり、とりあえずその方面の進路を考えるようになる。 ところが、当時東大とか京大などの旧帝国大学は、旧制高校からの進学生しか想定していないので、入学試験に外国語を二種類、例えば「英語」と「ドイツ語」みたいな感じで二つ課していたんですな。ところが木田さんは、第二外国語どころか、英語すらもうあやふやになりかけていて、とてもそんな大学への進学は無理。そこで、外国語を一つしか課していなかった東北大への進学を目指すことになります。 とはいえ、東北大を受験するにしても、英語の実力が足らない。弟さんの教科書を借りてみると、高校1年生程度の英語すらよく分からない。 そこで木田さんはどうしたか。ここが重要です。 ここで木田さんはすごくナチュラルな選択をするんですな。曰く、「基礎からやり直すしかない」と。そこで弟さんが使い古した中学校1年生の英語の教科書から、つまり英語をイロハから勉強し直すわけ。ここが偉い。 しかし、そのレベルの教科書なら1年分を1週間でマスターするのは楽。で、ほんのふた月ばかりで中学から高校までの英語の教科書をきっちりさらい、その後、荒牧鉄雄著『高等英文解釈読本』という、当時の受験参考書(木田さんによると名著である由)を、二回繰り返してやり、この本に出てくる6千語の英単語もすべて覚えたと。これで、受験用の英語力はばっちりついたそうです。そしてその後もカーライルなんかの英語のエッセイなどを読み進め、少なくとも英語に関しては、学校の先生あたりよりはよほど読めるようになってしまったのだとか。 とまあ、そんな猛勉強で大学受験を突破した木田さんですが、木田さんの語学修行はまだまだ続きます。 まず大学に入った4月、今度はドイツ語の勉強を始めます。何しろ東北大に入学した同級生の中には、旧制高校でさんざんドイツ語を勉強した上で入学してきた奴もいますので、このスタート時の差を早く埋めなくてはならない。 そこで、木田さんが何をしたかというと、まず薄っぺらいドイツ語の文法書を買ってきて、1週間くらいで読破して、ドイツ語文法のおおよそのところを頭に叩き込んだ。 そして続いて関口存男の『新独逸語文法教程』という、分厚い文法書を買ってきて、1日1課ずつこなしたと。練習問題もきっちりやり、出てくる単語もすべて覚えた上で、です。で、単語を覚えるのも、とにかく毎日、前日に覚えたものの復習をしながら、日々新しい単語を覚える。もう、毎日欠かさずやる。そうやって、毎日8時間(他の教科の勉強も含めると15時間)、語学習得に努めて3カ月。4月1日から6月30日までで、目標の言語をほぼマスターしてしまった、というのです。 そして、以後、毎年4月から6月の3カ月は語学月間と位置付け、大学1年でドイツ語、2年でギリシャ語、3年でラテン語をマスターし、大学院1年の時(当時大学は3年制だった)にはフランス語をマスターしたというのですから、すごい。もちろん、これは必要に駆られてのことで、英語、ドイツ語、フランス語、ギリシャ語、ラテン語が読めないと、ヨーロッパの哲学の勉強ができないから、それらをマスターしたわけですな。 うーむ! すごい・・・。 さて、ここまで語って来た木田さんの語学習得法(独習法)には、いくつかのカギがあると思います。 一つは、「基礎からやる」ということ。そしてその基礎とは「文法のイロハ」であること。 二つ目は、「単語の学習」に力を入れること。また丸暗記を重視すること。 三つ目は、短期間に集中してやること。木田さん曰く、短期間にやると、自分の実力が日に日に上がっていくのが体感できるので、学習自体が楽しくなってくるとのこと。 そして四つ目は、何のために語学習得するのか、目標をはっきりさせること。 この四つが揃ってこそ、語学というのは習得できるのであって、逆に、この四つのうちのどれかが欠けてもいかんということですな。 まあ、これは木田さんの個人的な語学習得の道であるわけですが、実に示唆に富んでおります。むろん、これは一義的には「読む」ための語学で、必ずしも「聞き」「話す」ための語学ではないかもしれませんが、しかし、そのことも含めて(つまり、ちゃんと文法が分かり、語彙数も十分にある、という状態が、語学の基礎であるという意味で)、外国語を学ぶ手順と方法はこうだという、一つの成功例ではあるでしょう。 ということで、この本、木田さんの豪快な語学修行の虎の巻としても、相当面白く読めると、私は思うのであります。3カ月で、一つの外国語をマスターしてしまうというのですから、これが本当の「スピード・ラーニング」。ただし、毎日8時間の勉強が必要なのであって、「聞き流すだけ」で、努力要らずで習得できると言っている、別な「スピード・ラーニング」とは内容は大分異なりますが。 ま、とにかくこの本、語学を志す人にとっても、ある意味、必読です。これこれ! ↓【楽天ブックスならいつでも送料無料】闇屋になりそこねた哲学者 [ 木田元 ]価格:777円(税込、送料込)
October 2, 2014
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昨日に引き続き、貝原益軒の『和俗童子訓』を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 いやなに、『養生訓』と『和俗童子訓』は、岩波文庫では合本になっているので、片っぽだけ読むというのも変なのでね。 さて、『和俗童子訓』は、益軒先生が御年81歳の時に書いたもので、我が国初の教育論ということになっております。要するに、子供をどう躾けるか、っていう自己啓発本なわけ。 で、本書によると、そもそも教育の基本は・・・なんだと思います? そう、早くから始めること。これに尽きるのだそうで。益軒先生曰く、人間というのは「霊長」であって、普通の動物とは異なる。だから、たとえ生まれつき多少アホでも、教育によってはそこそこモノになると。だからもの食い、ものいい始める頃から教育をはじめなきゃダメよと。 じゃ、どこから始めるかっつーと、乳母のセレクトからやれと。 赤ん坊の時に一番よく接するのは乳母であって、赤ん坊はまず乳母から人間たることを学び始める。だから、乳母には口数の少ない、穏やかで温和な人を選ばなくちゃダメなんですと。 つまり、教育全般、最初が肝心だっつーわけ。最初の手本がダメだと、後から修正するのがすごく難しくなる。だから、最初に良い手本を与えなさいと。 あとね、もう一つ重要なのは、子供には「愛」を与えるのではなく、「義」を与えるべきこと。つまり可愛がるばかりでは必ず子供を損なうと。そうではなくて、まず「義」を教えて、親・先生・兄姉など、年上を敬うことを教えろと。年長者を畏れ敬うことがなければ、そもそも教育なんて成り立たんよというのですな。なるほど。 それから、友達のセレクトも重要。朱に交わればなんとやらで、悪い仲間と遊べば必ず悪影響を受ける。だから、子供が遊ぶ友達もちゃんと選ばなくちゃいけない。もちろん、同じ理由で最初につく先生も、厳選しないとダメ。 ちなみに、先生をつけるというのもちゃんと意味があって、親では「義」を教えられないからなんですって。早い話、「親を敬いなさい」というのを親が言ったら、子供は反発するでしょ。だから、他人である先生から、親を敬うことを教えないといかんわけ。なるほど~! ちなみに、子供の教育にはちゃんと順番があって、まずは聖教を読ませろと。やはり人間の基本となるのは、仁義だと。 で、次にならうべきは字の書き方、そして算術ね。この二つは必須。逆に芸事だとか、お遊びなんか教えている暇はないよと。 ここまでが巻の一。つまり理念編ですな。次の巻の二に入ると、もう少し具体的な学び方に入って来ます。 で、力点を置かれているのは、優しいところから難しいところへ、という順番。最初から理解を超えるようなものを教えちゃダメよと。それから、次に力点が置かれるのは、反復練習の重要性ね。朝読んだことを、昼に復習し、夕方に確認する。これを毎日毎日毎日毎日繰り返す。この二つを守って置けば、よほどのアホでない限り、大抵のことはマスターできると。 あと、こういう教育が成立するためには、志が大切なのであって、「重要なことを勉強しているんだから、遊んでいる暇も、よそを見ている暇もないよ」という気概を子供の心に育てることが肝要なんですな。なかなかキビシイ! で、十歳になったら、学問所(学校)にぶち込むと。 三巻は、子供の年齢によって教える内容が変わるよ、ってな話が書いてある。 まず子供の教育は6歳から始め、7歳になったらもう男女席を同じうせず。8歳では礼儀作法を教え、客人の扱いなども教え込む。10歳で本格的に学校に通わせ、聖賢の書を読み始めさえると。つまり、そろそろ四書五経を教えろと。 で15歳になったら、もう義理を学び、身をおさめ、人をおさめる術を習わせろと。で、20才になったら、元服して、成人の徳を学ばせる。 とまあ、年齢ごとの教育方針を述べた後、こんどは読書法が述べられるんですが、明窓浄机で、身を清めてから正座して書に向かうべきであると。教育は、つまるところ、一つのセレモニーなわけね。いい加減にやっちゃダメなわけ。それから、なにを読むにしても急いでやっちゃダメ。ゆっくりと、きちんと理解できるまで繰り返し読む。心到り、眼到り、口到るまで読む。 それから読むものですが、小児のうちはまず経書の中でも孟子を最初に読ませるべきであると。 で、それが読み終わったら、次はこれ、次はこれ、ってな具合に読むものを指定した後、とにかく毎日百字ずつ、百回ずつ読ませろと。そうすれば、論語1万2千7百字、孟子3万4千6百85字、大学・経伝が千8百51字、中庸が3千5百68字だから、全部で17か月で読み終わると。何と1年半で四書五経が完璧に頭にはいる。これは若いからできることであって、年寄りになってから同じことをしようと思ったってそうはいかない。だからこそ、若いうちに徹底的に勉強させろと。 第4巻は、習字のならい方が述べられます。色々細かい指示がありますが、すべて理屈が通っていて、とにかく最初に筋のいいもの、素直なものを手本にして学ぶこと、書体も簡単なところから難しいところへ、すべて学ぶこと。最初に変なクセをつけないこと、和風の書を学んだら唐様も学ぶこと、普段はいい加減な紙で練習してもいいけど、たまにいい紙で練習すること(そうしないと、いざという時にビビるから)等々、いちいちよく考えられております。 で、最終となる第5巻は、女子の教育法が述べられます。いわゆる「婦徳」という奴。 とにかく、女性の役割は従うことであると。幼い時は親に従い、結婚したら夫に、老いたら子供に従う。だから、とにかく和順たることを学べと。自分から口を出したりしたら絶対だめ。とにかく、人の指示に快く従うことを学びなさいと。 それから結婚したら、自分の親より舅・姑を大切にしなさいと。夫や舅・姑の心にかなわず、離縁されたりしたら一代の恥だよと。 それから、美人・不美人は生まれつきだから改善しようがない、でもたとえ不美人に生まれたとしても、心がけによって、いくらでも人間性を改善できるし、清潔に、身ぎれいにしておけば不興を買うこともないのだから、その路線で頑張りなさい、なんてことも書いてある。いくら美人でも、派手な服を着て、ちゃらちゃらしているようじゃ最低だよと。 で、この巻の5は、後に独立・改変され、『女大学』として江戸時代の女性向け自己啓発本として普及すると。ま、そういうことらしい。 『和俗童子訓』ってのは、要するにこんな感じなんだけど、第5巻はおくとして、全般的には教育論として現代でも通用する・・・っていうか、現代の教育学者で、ここまで自信をもって断言的に「子どもの教育はこうすべし」なんて言える人、いないよね?! もう、教育学者も文科省も必要ないよ。『和俗童子訓』だけでいいじゃん。もしこの本に書いてある通りにしたら、万々歳ですよ。 ただ、第5巻は・・・確かにいいこと言ってるなとは思うけど、現代のフェミニストが読んだら怒髪天だろうね・・・。 ということで、若干時代の制約は受けているけど、それにしてもここまで明確に、自信をもって、理想の教育システムを構築しているとは思わなかった。貝原益軒、おそるべし。日本人たるもの、全員がこれを読むべきなんじゃないでしょうか。これこれ! ↓【中古】 養生訓・和俗童子訓 岩波文庫/貝原益軒(著者),石川謙(その他) 【中古】afb
March 18, 2021
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勤務先の大学では現在、卒論作成のための所属ゼミを決定するため、3年生が科の教員のところに面接に行き、卒論テーマの相談などをやっています。というわけで、私のところにもひっきりなしに学生が面接に訪れるのですが、彼らの言い分を聞いていると、まあ画一的な、つまらんことしか言わないわけ。 曰く、「ディズニーのことを調べたいです」「アカデミー賞の歴史について調べたら、卒論になるでしょうか」「映画に興味があるので、アメリカ映画を卒論テーマにしたいのですが・・・」「アメリカの祝日とかって、面白くないですか?」などなど・・・。えーい、なんでみんな同じようなことしか思いつかないんだ! しかし、今日、一人の男子学生が、ついに私をも唸らすテーマで相談に来たんです。いつかはこういうテーマで卒論書く奴が現れるのでは、と思ってはいましたが、それがついに来た。 彼曰く、「あのー、僕、アダルト・ビデオに興味があるんですが、アメリカのAVをテーマに、卒論って書けないでしょうか・・・」。 ひゃっほう! で、思わずワタクシ、聞いてしまいました。「なんでこのテーマを思いついたの?」と。すると彼が言うには、「某レンタル・ビデオ・チェーンでバイトしていて、アダルト・ビデオ・コーナーの担当なんです。で、いわゆる『洋モノ』も扱うのですが、日本のそれとは随分作りが違うので、その辺、どうなっているのかな、と思いまして・・・」。 なるほど。基礎知識もあるわけか・・・。 で、彼が発したトドメの一言。「こういうテーマで卒論を書くことを許してくれそうなのは、科の先生方の中でも釈迦楽先生だけだろうと思いまして・・・」。 ドッキューン! う、撃たれた・・・。 まあね。世の中には色々と異論もございましょう。しかし、ワタクシ個人としましては、このテーマ、あり得るかな、と思います。例えば、つい先日、神戸学院大大学院の院生(女子)が、「日本におけるラブホテルの研究」というのを完成させて話題になりました。また、ラブホ研究について言えば、我が国のシンクタンクの一つ、国立国際日本文化センター教授・井上章一先生の力作、『愛の空間』(角川書店)というのもある。つまり、下ネタは、立派に学問研究の対象になる、ということですな。 ですから、「アメリカにおけるアダルトビデオの研究」というのも、やりようによっては非常にすぐれた文化研究になるんじゃないかと思うんです。 例えば、日本とは比較にならないほど厳しい宗教的倫理の罷り通る国で、こうしたメディアがどのように受け入れられているのか。規制はどうなっているのか。売り上げ規模は? 誰が見ているのか? 流通経路は? 制作過程はどうなっているのか? フェミニスト勢力は、こうしたメディアをどのように考えているのか。年代毎に流行はあるのか? 共和党・民主党、それぞれの見解は? などなど・・・。とりあえずこれらの疑問にちゃんと答えるだけの準備をするだけでも、相当な勉強になるでしょう。 それに、何と言っても、「今まで誰もやろうとしなかった(or 思いつかなかった)テーマを持ってきた」という時点で、称賛に値しましょう。なんでもそうですが、学問に関してはなおさら、「人と違うことをする」というのは重要なポイントですから。 しかし・・・問題は幾つかあります。 まず、資料がどのくらいあるか。あったとしても、それらがすべて英文のものだとしたら、それをどこまで読みこなせるか。これは非常に大きな問題(障害)です。 あと、テーマがテーマだけに、ヘタな手のつけ方をすると、女性教員から総スカンを食う可能性がある。その方たちを十分に説得するに足るほど、アカデミックに徹底的な調査をする自信があるかどうか。これも、はじめに確認しておかなければなりません。 さらに、周囲の反応のこともある。例えばご両親。「お前、卒論で何について書いているんだ?」と親御さんから問われて、「アダルト・ビデオについてだよ!」と答えた場合、OKかどうか。また、就職を考えている場合、就職試験の面接などでその種の質問があった時に、マイナス査定されないかどうか。これらのことは、学問とはまるで関係のないことではありますが、しかし、この先生きていく上で必ずしも無関係とは言い切れませんから、そういうことだって考えておかなければなりますまい。 ということで、さすがのワタクシも、その学生に対し、必ずしも全面バックアップを約束することはできませんでしたが、それでも、久々にこちらを唸らせるテーマが出た、ということだけでも、彼の登場は今日のハイライトでしたね。 ま、もちろん彼が本当にワタクシのゼミに入れるのかどうかもまだ全然分かりませんが、ひょっとして成り行きによっては、来年の卒論指導は、相当○しい(←○の中に「苦」「厳」「楽」などの中から当てはまりそうなものを適当に入れて下さい)ものになりそうな勢いなのでした。思わず、納得!
June 25, 2007
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前回のところで私は、「ロマンス小説とは、パターンの文学である」というようなことを言いました。ロマンス小説と呼ばれる文学ジャンルには、守るべきルールというか、構成原理が確固としてある。そういう非常に特殊な文学ジャンルだ、と述べたわけです。 しかし、そんなふうにルールがガチガチに決まっていたら、どのロマンス小説も基本的に同じようなストーリー展開のものばかりになってしまうのではないかと、そう思われる方がいるかも知れません。そうです。ロマンス小説というのは、マンネリの文学なのです。過去の作品の焼き直しがいくらでもできる、そういう特殊な文学ジャンル、それがロマンス小説の世界なのです。今日はその辺のことについて、面白い例を挙げて論じてみましょう。 もうかれこれ10年ほど前のことになりますが、ヘレン・フィールディングというイギリスの女性作家の書いた『ブリジット・ジョーンズの日記』(1996)という本が、日本でも評判になりました。出版社勤務の30代のOLがつけた日記の体裁を取りながら、この年代の女性の悩みやトキメキを赤裸々に綴るというような小説です。結婚適齢期を微妙に通り越してしまい、そのことも少しは気になるけれど、まだまだ一人の男に自分の人生を託す気もないし、もう少しキャリアを積みたいという野心もある。おいしいものを食べながら友達と騒ぐのも好きだが、体重の増加も気になる。煙草は止めた方がいいとは分かっているが、ついついまた吸ってしまう。そんな微妙な女心の綾が同年代の女性たちの共感を得たためか、イギリスでも日本でも大変なベストセラーになったことはまだ記憶に新しいところですね。ルネー・ゼルウィガーが主役に抜擢された映画版の方も評判になりました。 ところで、小説の方でも映画の方でもいいのですが、この『日記』を読んだり見たりした方は、この作品が純然たるロマンスであることはご存じでしょう。何しろこの作品、主人公たるブリジット・ジョーンズが、いかにしてマーク・ダーシーなる恋人を得るに到ったか、ということを描いたものなのですから。しかし、彼女は最初からダーシーに惹かれたわけではありません。それどころか無骨なところあるダーシーのことを、ブリジットは最初のうち、あまりよくは思っていなかった。むしろ彼女が最初に惹かれるのは、勤務先の上司ダニエル・クリーヴァーなんです。 しかし、クリーヴァーとの付き合いが深まっていくうちに、次第に彼の誠実さのメッキははがれ落ちていきます。彼には、ブリジットとは別に付き合っていた女性がいたんですね。でも、そうやって不誠実な男に振り回されたおかげで、もっと一途に彼女のことを見守ってくれていたダーシーという誠実な男性を、彼女は発見するわけ。ブリジットは、見かけでは分からない男の価値というものに気付き、今までどちらかと言うと胡散臭い目で見てきたダーシーを、自分の真の恋人として意識するようになるんですね。で、色々あった1年間を振り返るように、ブリジットは彼女の日記の最後のページに次のように記します。「やっと、男性と幸せになる秘訣がわかった」と。メデタシ、メデタシ・・・。 さて、で、この小説から私は何が言いたいのかと言いますと・・・この小説もまたまぎれもないマンネリの産物だ、ということなんです。実は『ブリジット・ジョーンズの日記』という作品、19世紀前半に書かれたイギリス文学の傑作であるジェイン・オースティンの『高慢と偏見』(1813)のパロディ、と言いますか、焼き直しなんですね。 では『ブリジット・ジョーンズの日記』が依って立つ『高慢と偏見』とはそもそもどういう小説か、と言うことですが、さすがに文学史に名を残す名作だけあって、その筋書きは複雑なものであり、簡単にはまとめられません。それでも敢えて主筋だけを身も蓋もなく要約するならば、自分には教育も才能も資産もあるし、別に結婚なんて目じゃないわ、と思っていた主人公エリザベス・ベネットが、すったもんだの末に、自分にふさわしい相手を見つけて結婚する、という話です。しかも彼女が選んだのは、第一印象からして「嫌な奴」だと思っていたフィッツウィリアム・ダーシー氏。つまり種々の偏見によって正しい判断力を失っていたエリザベスが、恋愛を通じて人間的に成長し、ダーシー氏の真価を見抜けるようになるまでを描いたロマンス、というわけ。 ところで、このように『ブリジット・ジョーンズの日記』と『高慢と偏見』を並べてみますと、当然、ヒロインが最終的に選ぶ男性の名前が共に「ダーシー」であることに気付きます。これは明らかに意図的なもので、そのことは著者のヘレン・フィールディングも認めている。が、二つの小説がパラレルであることについてはもっと明確な証拠があります。『ブリジット・ジョーンズの日記』が書かれる1年前の1995年、イギリス放送協会(BBC)が『高慢と偏見』をテレビドラマ化して放映してすごい視聴率をとったことがあるのですが、この時にダーシーを演じて一躍人気俳優となったコリン・ファースが、映画版の『ブリジット・ジョーンズの日記』でも、やはりダーシー役を務めているんですね。ですからBBCテレビの『高慢と偏見』を見、かつ映画版の『ブリジット・ジョーンズの日記』を見た人であれば誰でも、ああ、『日記』は『高慢と偏見』の現代版なんだな、ということが即座に分かるようになっていたんです。 もちろん、『ブリジット・ジョーンズの日記』と『高慢と偏見』の共通点は、ヒーローの名前や、演じた役者の一致ばかりではありません。たとえば、『ブリジット・ジョーンズの日記』でヒロインが最初からダーシーに好意を抱いていたわけではなく、むしろ「嫌な奴」というふうに思っていたというところも、『高慢と偏見』の筋書きと共通します。また『ブリジット・ジョーンズの日記』にはダニエル・クリーヴァーという、表面的にはダーシーよりもカッコいい優男がいて、ブリジットは最初こちらの方に惹かれるわけですけれど、この辺のプロットもその原型は『高慢と偏見』にあって、こちらの場合にはジョージ・ウィカムというハンサムな男が、ベネット家の娘たち目当ての優男として登場します。で、どちらの場合もそれらの優男たちはヒロインの気を惹くため、ダーシーに対するいわれのない中傷を彼女の耳に注ぎ込むんですね。ま、『ブリジット・ジョーンズの日記』の場合、原作にはそういう場面はないのですが、映画版ではクリーヴァーがダーシーの悪口をブリジットに聞かせる場面がちゃんとある。 で、こうしたいわれなき中傷のためもあって、当初ダーシーはヒロインの目には醜い「蛙」として、あるいは「野獣」として映るわけです。要するにクリーヴァーだのウィカムだのというのは、ヒロインを害する魔法使いの役どころなんですな。しかしどちらのヒロインも、魔法によって醜い姿に変えられていたダーシーの真価を見抜くことで、彼を本来の王子様の姿に戻すことになる。どちらの小説も、ほぼ同じ形でロマンス小説に必須の「蛙の王様・美女と野獣」の要素を押さえているんです。 またロマンス小説における必須の条件として、「シンデレラ」の要素、すなわち「結婚によるヒロインの身分の上昇」という要素が、二つの小説の中でどのように扱われているか、という点について見ていきますと、『高慢と偏見』の場合、ダーシー家というのは、ヒロインの属するベネット家よりも明らかに上の階級という設定です。ダーシーがエリザベスを娶るに当たって悩んだのはまさにここ。彼は「高慢」であったがゆえに、下賤な家から嫁をもらうのはちょっと嫌だな、と思っていたんです。ですから、ヒーローもまたエリザベスとの恋愛を通じて自らの高慢さから抜け出し、人間的に成長するというところがある。ま、それはともかく、結果から言えばこの小説のヒロインのエリザベスは、ダーシーとの結婚によって一つ上の階級にステップアップすることになります。そういう形で、この小説はロマンス小説の条件を満たしているわけですね。 で、それなら『ブリジット・ジョーンズの日記』の中で、「結婚によるヒロインの身分の上昇」という要素がどのように描かれているかというと、さすがに現代イギリスの話ですから、家柄がどうの、身分がどうのという話にはなりません。そこで著者のヘレン・フィールディングは、ダーシーを一種のマザコン男に描くことにしたんですな。彼には母親という理想の女性像がある。つまりこの小説では、「理想の女性像としての母親」という高いハードルが、ヒーローとヒロインの間の階級差を象徴しているのです。ダーシーの母親とは似ても似つかぬ、ということはつまり「身分の低い」ブリジットは、それでもダーシーに恋人として選ばれることで、ダーシー家の女に、つまり「身分の高い」女になれた、ということになり、そこに象徴的な意味での「身分の上昇」が見られるわけ。というと、何だかこじつけみたいですが、要するに『高慢と偏見』の中でダーシーが「家柄」に固執するように、『ブリジット・ジョーンズの日記』におけるダーシーもまた「母親(=つまり自分の出身)」に固執するわけですよ。で、どちらの小説でも、最終的には、ヒーローのダーシーも、この点に関してはヒロインに妥協する。そういうことです。 とまあ、そんな感じで、『ブリジット・ジョーンズの日記』がはっきりと『高慢と偏見』を踏まえて書かれており、少なくともメインプロットに関して言えばどちらの小説もほぼ同じストーリー展開を示すということがお分かりいただけたのではないかと思います。つまり、推理小説のような文学ジャンルとは異なって、ロマンス小説のジャンルでは、大昔に使われたトリックを意識的に繰り返しても何ら差し支えないどころか、むしろそれが受ける、ということです。そしてそのことこそ、私がこの文の冒頭で述べたこと、すなわち、「ロマンス小説という文学ジャンルはマンネリでいいんだ」ということの、一つの証になっているのではないかと思うのです。『ブリジット・ジョーンズの日記』は、ロマンス小説の系譜という点から見ると、『高慢と偏見』という文学史上の傑作を踏まえた「正統派」、なんですね。 ちなみに、その「ロマンス小説の正統派」という点から見ますと、『ブリジット・ジョーンズの日記』には、もう一つ、面白いところがあります。実はこの小説の著者であるヘレン・フィールディングは、ヘンリー・フィールディングの末裔なんです。ヘンリー・フィールディング(1707-1754)というのはイギリスの小説家で、かのロマンス小説の祖たる『パミラ』をパロディにした小説、『シャミラ』を著した作家として知られている。どうもフィールディング家というのは、歴史に名だたるロマンス小説をパロディにしたり、焼き直したりするのが好きな家系らしいんですな。ちなみに、ヘンリー・フィールディングの代表作のタイトルは『トム・ジョーンズ』です。ヘレン・フィールディングの小説のヒロインであるブリジットの苗字がなぜ「ジョーンズ」なのかは、これで何となく分かりますよね。 とまあ、以上のようなことから考えてましても、ロマンス小説というのが偉大なるマンネリの産物であり、それゆえに、現代の作品が過去の作品と密接な関係を持つことが頻繁に行なわれている、ということが分かるのではないかと思います。 で、だからこそロマンス小説というのは、個々の作品を論じるより、ロマンス小説全体として捉え、相互の作品の中にあるその密接な関係性を論じていった方が面白いのだ、と、私は思うのですよ。私がロマンス小説史を書こうと思っている理由はそこにあります。 なーんて、ちょっと大風呂敷を広げてしまいましたが、『高慢と偏見』で19世紀初頭を、前回の『ジェイン・エア』で19世紀半ばを見てきましたので、次回は19世紀末から20世紀前半あたりにかけてのロマンス小説の方向性について考えていきたいと思います。乞うご期待です。 「お気楽日記」はまた夜更新しますね!
October 3, 2005
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Jazz の世界に入門したものの、いわゆる「Jazz評論家」の推薦するCDの多くにピンと来ないワタクシ。ひょっとして私がおかしいのか、それともJazz評論家ってのが全員馬鹿なのか、と悩んでいたところ、ついに見つけましたよ、気の合うJazz評論家を! 寺島靖国さんがその人です! 寺島さんの『辛口! Jazzノート』を読んでいたら、「あ、この人の感性、分かる!」と初めて思いましたね。 例えばちょうど一年前、昨年の4月27日のこのブログに、私は次のように書いています。「しかし、そこがジャズの困ったところなんですよね。こちらは駆け出しのジャズ・ファンですから、どうしてもまず「本」から情報を得ようとするわけですよ。で、色々なジャズ関連書を読んで、どうもこのアルバムが傑作らしい、というアタリをつけるわけ。で、実際買って、聴いてみる。すると・・・つまらん・・・。・・・ということが往々にしてあるんだよなー。たとえば日本でも人気のソニー・ロリンズの代表作『サキソフォン・コロッサス』にしても、私には下卑たキャバレーの音にしか聴こえないですし、天才ピアニストとして並び称されるセロニアス・モンクの『ヒムセルフ』やバド・パウエルの『ジャズ・ジャイアント』も、その天才たる所以が私には分かりません。オスカー・ピーターソンなんてピロピロ早弾きしてるだけですし、チック・コリアの『リターン・トゥー・フォー・エヴァー』なんて、冗談でCMソングでも作ったの? という感じ。キース・ジャレットの『ケルン・コンサート』にしても、気取りが鼻について退屈してしまう。その他、ソニー・クラークだの、アート・ブレーキーだの、ホレス・シルヴァーだの、デクスター・ゴードンだのって、「買った、聴いた、退屈した」というジャズ・アルバムは数知れず。いわゆるジャズの批評家だのファンだのってのは、ほんとにこれらを聴いて「良い!」と思ったのか知らん。」 さて、次に『辛口! Jazzノート』の寺島さんの文章を見てください。「ジャズのなんたるかがわからなかったこと、名盤の名に惑わされて買ってはみたものの、あまりの名盤度にがっかりし、割りたくなったレコードが、何枚もある。バド・パウエルの『アメイジングVol.1』、マイルスの『バース・オブ・ザ・クール』、『ミントン・ハウスのチャーリー・クリスチャン』などがそういう恨めしいレコードである」(59頁) ほらね、私とまったく同じことを書かれているじゃないですか! で、寺島さんはさらに続けて、このようにおっしゃっています。「今考えてみると、ぼくは名盤の意味を完全にとり違えていた。『名盤』に二種類あることに気がついたのは、ジャズを聴きはじめて十年くらいたってからだから、ぼくは相当お人よしでオクテのジャズ・ファンだった。 僕の考えでは、どうやら名盤は、1.いわゆる「ジャズの発展」なるものに寄与した名盤、2.ファンが目を細めて聴きいる名盤、の二種類に分かれるようだ。 前記の三枚はすべて1.に属していたというわけである。 ところが、そんなことは誰も教えてくれないから困る。」 もちろん、私も内心ではそういうことなんだろうと思ってはいましたが、こうやって年季の入ったJazzファンのお墨付きをもらうと、自信が出てきます。要するに、専門家の言うことなんか放っておいて、自分の耳と感性だけ信じろってことなんですな。 また昨年8月31日のブログで私はチェット・ベイカーというトランペッターについて次のように書いています。「ところでチェット・ベイカーという人の特徴の一つは、彼が歌う、ということなんです。彼はトランペットを吹くだけでなく、ヴォーカルもやるんです。 で、それが人気のもとでもあり、また不人気の理由でもあるんですな。事実、ジャズ関連の本の中で、チェット・ベイカーについて触れている部分を読むと、たいてい彼のヴォーカルのことが批判的に書かれています。たとえば『ジャズCDの名盤』(文春新書)で悠雅彦氏は「打ち明ければ昔から熱心なファンではない。ことに彼の歌は苦手だった」(189頁)と書いているし、『新ジャズの名演・名盤』(講談社現代新書)の著者・後藤雅洋氏は「彼の異様とも思える中性的ヴォーカルが・・・うまいんだかへたなんだかよくわからないが、とにかく個性的であることはまちがいない」(121頁)と述べています。他にも色々ありますが、とにかくジャズ通の間ではチェット・ベイカーのヴォーカルはあまり高く評価されていないんです。 しかし、「異様とも思える中性的ヴォーカル」だなんて言われると、私のような素人は逆に興味が出てくるわけですよ。ヴォーカルが「異様」ってどういうこと!? で、買ってみたわけですよ。で、聴いてみた、と。 ・・・いいじゃん、結構。ワタクシ、好きかも・・・。 ま、確かに「中性的」と言えば、そうかも知れません。こういう感じのくぐもった、アンニュイな感じの歌い方をする女性ヴォーカルって、結構いますからね。でまた、上手いか下手かと言われたら、答えに窮するところがある。しかし、そんなこと言ったら、松任谷(荒井)由美の歌は上手いか下手か、小野リサのボサノバは上手いか下手かを問うのと同じで、あんまり意味がないような気がするんですよねー。 要するに、雰囲気が出てるかどうか、その雰囲気が好きか嫌いかってことですよ。で、それを言ったら、私はかなり好きな部類ですね。特に8曲目の「You Don't Know What Love Is」なんて、歌詞・曲調とも泣かせてくれます。トランペットの方は、洗練されたウェスト・コースト系のクールな音色。」 要するに、多くのJazzの専門家と違って、私はチェット・ベイカーを高く評価したんですな。 すると、嬉しいことに寺島靖国さんもまた、チェット・ベイカーがことのほかお気に入りのようなんです。以下の文章をお読み下さい。 「ある日突然、うそのようにジャズから足を洗ったジャズ・ファンを、ぼくは何人も知っているが、彼らはすべてハードで一途なファンであった。そして申し合わせたように『チェット・ベイカー・シングズ』のようなレコードから目をそむけていた。 このレコードの特徴をひとくちでいえば、ジャズ・ボーカルにはめったに見られない淡白なリラクゼイションと、“無意識にでたジャズ意識”の絶妙なバランス感覚にある。(中略) この十四曲はすべて、ベイカーに歌われるために作られたような曲である。なにより称賛すべきは、自分の持ち味が最大限に生かされる曲を選んだ彼のセンスだろう。 歌手の価値は、歌が上手かヘタかより選曲センスで決まる。名盤か駄盤かの分かれ目になる。(中略) もし終生ジャズを聴き続けたかったら、愛すべきジャズの空気穴として大きな価値をもつ『チェット・ベイカー・シングズ』を聴くべきだろう。」(68~72頁) ほれほれ、またしても私と寺島さん、ほとんど同じことを言っているじゃないですか! ということで、今回寺島さんのこの本を読んで、私は何度も頷き、同意し、溜飲を下げました。こんなこと、Jazz関連の本を読んでいて初めてです。 その他、『辛口! Jazzノート』には面白い話題が満載。例えばJazz評論家としての大橋巨泉氏がいかに優れていたかとか、素人Jazz専門家・鍵谷幸信氏の才能と限界とか、私も大ファンである植草甚一氏のJazzの聴き方は評価できるのかどうか、とか、へえ~と思うことばかり。また、Jazz喫茶経営の苦労話も面白いですし、中古レコード屋巡りのエッセイなどは、古本屋巡りに通じるものがあり、それを唯一無二の趣味とする私には非常に興味深かった。 というわけで、この本、Jazzを聴きはじめようかな、などと思っている人、ちょっと聴いてみたけど自分には理解できないな、などと思ってしまった人にはまさにピッタリ。教授のおすすめ! です。連休後半の読書に、ぜひ!これこれ! ↓辛口!jazzノート
April 30, 2007
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今日、我がマンションでは、給水設備の清掃とやらで、朝9時から午後1時まで断水がありました。 ま、これは事前に分かっていたことなので、それなりに準備はしていましたが、それにしてもたかだか4時間ほどの断水でも、結構しんどいものですなぁ。私なんぞ今日はまさにこの時間帯に起きたので、とりあえず顔も洗えなければトイレにも行けやしない。いや、行こうと思えば行けますけど、不便な思いをしながら行かなくてはならない。駄目ですなあ、現代人は。便利な生活に慣れすぎて、この程度の不便ですら我慢できないんですから。 それはさておき、今日は我が大学の(文化系学生の)卒論提出日。正午が締め切りだったのですが、私のゼミの学生たちは無事、全員提出したようです。いやー、ホッとしました。よかった、よかった! 実は、私がこれだけホッとするのには理由がありまして・・・。あれはもう数年前のことですが、私のゼミ学生の一人が30分ほど遅刻をしてしまって卒論提出が遅れ、そのために事務に受理してもらえず、半年卒業延期になったことがあるんです。そんなことがあるものですから、この日ばかりは私も結構神経を使うんですよ。 でまた、その卒論提出日当日に遅刻をした学生というのが、実に真面目な学生でね。普段だったら遅刻なんぞしそうもない、いいお嬢さんだったんです。それが、その日に限って遅刻してしまった。どうも駅までお母さんに車で送ってもらったらしいのですが、それが渋滞に巻き込まれてしまい、乗るはずだった電車に乗り遅れてしまったんですな。で、田舎のことゆえ電車の本数もなく、これが命取りになったというわけ。 しかし電車に乗り遅れた時点で、彼女がもし私に電話をしてくれていれば、私は「お金はいくらかかってもいいからタクシーに乗り、高速を使って大学に行け」と指示したと思うのです。2万、3万のお金は私が立て替えればいいのですから。しかし気の小さい、真面目な子だったがゆえに、そういうふうに頭が回らなかったんでしょうな。 で、その日の午後、事務から私のゼミ生が卒論提出できなかったということを聞かされた私は、心配になってすぐに彼女の携帯に電話をしたのですが、一向に出ない。ご自宅に電話すると、電話に出られたお母さんは、娘さんが卒業延期になったことなどご存じなかったようで、おろおろされるばかり。うーん、家にも連絡していないのか・・・。まさか、今頃、世をはかなんで・・・なんてことまで心配して、私も彼女の姿を求めてキャンパス内をうろうろ探してしまいましたよ。 ま、その後、3時間くらい経ってから彼女が私の研究室にやってきたので、私は胸をなで下ろしましたが、半年の卒業延期という事態に直面して、彼女としては心の整理をつけるのに、それだけの時間が掛かったんでしょうね。後で聞いたら、所属クラブの部室で泣いていたんだそうです。可哀想に。 その後彼女は同窓生から遅れること半年、9月に卒業を果たし、今では立派な社会人として、時々私に近況を報告してくれます。が、私は今でも、あの時、私に連絡してくれれば何とかしてやれたのになー、という後悔の念を持っているんです。ですから、毎年、私のゼミの学生が全員、提出期限内に卒論を提出したと聞くと、ホッとするわけですわ。 しかし事務に問い合わせてみると、今年、うちの科全体では4人ほど提出できなかった(しなかった)学生が出たようです。中にはこの先1年ほど留学をするので、卒論は来年、日本に帰ってきてから、なんていう確信犯的な学生もいますけど、その一方、バイトにばかり精を出して、まるで卒論に取り組まないままこの日を迎えてしまった、なんて学生もいたりして。実はついさっき、その学生の親御さんからお電話をいただき、どうしたものでしょうか、なんて相談を受けてしまったという・・・。お声の感じからするといかにも誠実で生真面目そうな方でしたけれど、こんな親御さんを泣かせる学生の気が知れませんなぁ・・・。出来の悪い子を持つと、親は大変だ。 ま、そんなこんなで、毎年、卒論提出日というのは、教員の側も何となく落ち着かない1日なのでした。
January 10, 2006
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ウェイン・ダイアーの書いた『「最高の人生」を手に入れる人がやっていること』(原題:You'll See It When You Beieve It, 1989)を読了しましたので、心覚えを付けておきましょう。 ウェイン・ダイアーと言えば、主著『Your Erroneous Zones』(1976) が大ベストセラーとして超有名なんですけど、本書にはダイアー自身の経歴が語られている部分があって、その意味で興味深いところがある。 で、本書に拠りますと、ウェイン・ダイアーの両親は、彼が2歳の時に離婚した・・・というか、父親がのんだくれの酷い奴で、勝手に家族を捨ててどこかに行ってしまったんですな。で、当然、一家は貧しさの中、苦労することになるわけで、ウェインも父親に対する恨みつらみを募らせながら成長したと。 だけど、その後大学の先生になったダイアーの元に、父親が既に死亡して、ミシシッピ州のビロクシ―という町の墓地に埋葬されたらしいという噂が届く。で、たまたまミシシッピ州に行く用事があった彼は、少し足を延ばして父親の墓を見てみる気になったと。 で、コロンバスで新車のレンタカーを借り、その父親が埋葬されたという町を目指すのですが、その際、おろしたてのレンタカーに、とあるモーテルの名刺が挟まっていたと。ま、それは気にせずビロクシ―の町に行って、あちこちの墓地に電話をかけ、父親メルヴィル・ダイアーの墓はそちらにありますか?と尋ねたんですな。 そしたら、ある墓地が、「ある」という返事をした。そしてその墓地の場所を尋ねると、なんとそれは、レンタカーの中に名刺が置いてあったモーテルの隣りにあったと。 で、まるで何かに導かれるようにその墓地に行って、最低の父親だった男の墓を詣でるわけ。で、そこでいきなり泣いてしまった。これまでずっと抱いていた怨みも蒸発し、すべてを水に流すことが出来た。つまり、父親を「許す」ことが出来たんですな。 で、この体験、いわば父親との和解を機に、ダイアーの人生が変わり始めると。ニューヨークに戻った彼は、『The Erroneous Zones』をさらさら~っと一気に書き上げ、それはベストセラーになって次々と取材されるようになり、講演の予定もびっちり。一躍時の人となったんですな。そして以後の活躍は人も知る通りと。 つまりダイアーは、若い頃の「恨みつらみの人生」が、父を許したことによって劇的に変わったわけ。その意味で、本書はその自分の体験を元にした、「変わること」と「許すこと」を主題にした本と言うことが出来るのでありまーす。 で、じゃあどうして人間は「変われる」のか、と言いますと、人間存在の本質が肉体ではなく精神にあるから。巷間よく「人間とは精神を宿した肉体」みたいなことが言われますが、ダイアーに言わせるとそうじゃないと。むしろ「人間とは肉体を宿した精神」だと(何じゃそれ?)。要するに、人間とは精神・魂だと。 だから、その精神を中心に考えれば、後のことはどうでもよくなるし、それにこだわらなくなる。歳を取るに従って肉体は衰え、容姿も衰えてくるけれども、そんなもん、どうでもいい。精神の方は着実に進化するわけだから。それに世の肩書とか名誉とか、あるいは他人からの評価とか、そういうものも肉体に貼りついているものだから、どうでもいい。 で、その肉体を離れて、精神中心主義を奉じる方向で自己改革すれば、すべてが変わってくる、とダイアーは言います。 ま、この辺の考え方ってのは、明らかにニューソートね。ダイアーは典型的なニューソーターです。 で、ダイアー自身も、この考え方に出会って、自分を変えた。 まず、彼は大学の先生をやっていたんですが、確かに大学の先生をやっていれば、ある程度の収入は保証されるし、安全ではある。だけど、これが本当に自分のやりたいことか? と自らの魂に尋ねてみれば、そうではないと魂は答える。じゃあ、どうすればいいか? 自分の魂に寄り添う道を選ぶしかないでしょ。 ってなわけで、ダイアーはある日突然学部長の所に行き、家族に相談もせず「辞めます」と宣言(無茶しよる)。で、家族に「大学辞めてきた」って事後報告したら妻も子供たちも「いいよ! 頑張って!」と応援してくれた(ほんまか?!)。で、そこから先に名前を挙げた『The Erroneous Zones』を書き上げ、最初はその本を自分で大量購入して、自ら手売りして回ったと。で、そのうち、じわじわとこの本の評判が上り、やがて大ベストセラーになり・・・今日の自分があると。 自己啓発本ってのは、要するに勝ったモン勝ちの世界だからね。勝ち組のダイアーには、以後、何でも言えるようになる。ダイアーはエマソンの例の「人は、自分が一日中考えているものになる」という言葉を引いて、自分も幼い頃からライターになろうと思い、いつか有名なライターになって、有名なテレビ番組『トゥナイト・ショー』に出て、人気司会者スティーヴ・アレンと話をするんだ、と思い続けてきたけど、実際に実現したもんね、と言うのですけど、そう言われちゃうと、読者としてはグーの音も出ない。 っていうか、私自身、小さい頃、母と『徹子の部屋』を見ていて、自分もいつかこれに出たいと思ったことがありましたけど、どうなんだろう。今からでもその思いを強くすれば、出られるかな? 徹子さん、待っててね!! で、以後、この本は、自分の周りの環境というのは、自分の内面を映した鏡でしかないのだから、自分を変えれば、世界は変るんだよ、ということを、色々な言い方で言います。 で、その中でも特に彼が強調するのは、「許す」という側面ね。 まあそれはダイアー自身が、父親を許すという体験をした後で、人生が激変した、という体験に基づくのでしょうけれども、とにかく許しなさいと。 つまり、人に対して怒りを持ち続けることは、要するに、その憎い相手によって支配されているようなもんじゃないかとダイアーは言うわけね。そういう支配から脱するには、もう相手を許してしまうしかない。 ダイアーは「許し」について、マーク・トウェインの言葉を引用するんですけど、これがなかなかいい。「スミレを踏むと、スミレはかかとによい香りを残してくれる。許しとは、その香りのことだ」というのですけどね。いいでしょ? ダイアーによれば、そもそも宇宙には偶然というものはない(ニューソートの考え方)のだから、自分が人生の中で出会う敵たちもまた、完璧な宇宙の仕組んだことである。あらかじめプログラミングされていたことなのね。それは、そのことによってその人が何かに気付き、成長する契機になるとあらかじめ分かっているから、宇宙はそのように仕組んだのであって。 だから、嫌な人に会い、嫌なことがあったら、それに囚われることなく、「ああ、そうか、これは自分を成長させるために仕組まれたことなのだな」と思って反省すべきは反省し、宇宙の道具に使われた相手のことはさっぱり許すと。 そういう、「完璧な宇宙のプログラム」という大所高所があることに気付けば、許しと自己成長を同時に達成するのは簡単。まあ、ダイアーが言っていることってのは、そういうことですな。 でもね、私にはこういう説教は役に立ちます。私も怒りっぽいし、敵を作り易いからね。ダイアーが提示するこういう考え方を受け入れて、もっと平和に暮らしたいなと、つくづく思うのよ。反省。 ってなわけで、この本を読むと、ダイアーが自己啓発ライターとしていかにニューソートに根差しているかが分かるし、ダイアー自身の個人的な経歴もある程度分かるし、自分にとっても反省を促されるところが多かったです。 あと、ダイアーがエマソンの「人は、自分が一日中考えているものになる」という文を引用していることも分かったしね。 あ、あと、ダイアーはラム・ダスと友達なんだ、ということも分かった。ラム・ダスって、スピリチュアル系の自己啓発ライターなんですけど。まあ、ニューソートとスピリチュアルは紙一重だからね。人間存在は精神であり、その精神は不滅だ、という考え方で共通するわけだから。 ダイアーも言ってます。自分の本質は精神であって、精神は不滅であり、滅びるのは肉体だけだということが理解できてから、病気や死ぬことが怖くなくなったと。ただ、そういう風に怖くなくなると、逆に健康的に暮すことの意味も分かって来て、むしろ以前より健康に気を使うようになったんですと。なるほどね。 ま、とにかくダイアーってのは、20世紀後半のニューソート系自己啓発ライターとして、落とせない人ではあるなと思いましたね。「最高の人生」を手に入れる人がやっていること すべてを“劇的”に変える起爆剤! (知的生きかた文庫) [ ウエイン・W・ダイアー ]
February 7, 2019
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トム・ウルフ著『クール・クーール LSD交感テスト』(原題:The Electric Kool-Aid Acid Test, 1967)を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 まあ、訳者である飯田隆昭氏の杜撰かつ奇天烈な訳業(日本語タイトルからして変!)、蟻二郎氏の手になる解読不能な解説、さらには誤字・脱字のオンパレードとも相俟って、天下の奇書と言っていいのではないかと思うのですが、ヒッピー・ムーヴメントの西の雄、作家ケン・キージーと、彼の下に集まったいかれた集団「メリー・プランクスターズ」が、蛍光塗料DayGloを塗りたくった中古スクールバス「Further号」(1500ドルでキージーが入手した1939年型インターナショナル・ハーヴェスター)に乗り込み、伝説の奇人ニール・キャサディを運転手として、各地でLSDパーティ「アシッド・テスト」を催しながらニューヨークを目指した大陸往復の旅の記録、およびその前後譚が本書の内容でございます。 というわけで、全編にわたってLSDでぶっ飛んだ連中のドタバタを記しているだけなので、ハッキリ言って何が何だかよく分かりません。著者のトム・ウルフはニュージャーナリズムの旗手として『ザ・ライト・スタッフ』とか『虚栄の篝火』とかを書いている人ではありますが、本書に関しては彼のノンフィクション手法も、あまり成功しているようには見えません。ま、ドタバタの雰囲気だけは伝わりますが。 ちなみにプランクスターズがニューヨークを目指して旅に出たことには、1931年に書かれたヘルマン・ヘッセの『東方への旅』(これはキージーの愛読書で、プランクスターズたちにとっての必読書でもあったとのこと)の影響もあったようで、ある意味、これは「巡礼の旅」でもあったんですな。しかし、それと同時に、この大陸横断の旅には映画撮影という具体的な目的もあった。というのも、そのちょっと前、アンディ・ウォーホルが1963年に、6時間にわたって眠っている男をひたすら撮影した映画『Sleep』を発表していて、これに触発されたキージーには、プランクスターズご一行の旅の模様や、アシッド・テストの様子などを延々と撮影して映画にしようという意図があったらしい。実際、それは後に『Magic Trip』という映画になったようですけれども(未見)。 で、とにかくド派手なバスとド派手なご一行のご乱交で、道々、人々を驚かせ続けた彼らはニューヨークに辿り着き、そこでキージーはニール・キャサディを介してジャック・ケルアックと面会する。 この場面は、アメリカ文学史的にはちょっと痺れる瞬間ではあるわけですよ。1950年代のビートニク・ムーヴメントを率い、1957年にニール・キャサディを主要登場人物に据えた小説『On the Road』を著したジャック・ケルアックが、そのニール・キャサディを運転手としてはるばる西海岸からやってきたヒッピー・ムーヴメントの新しいスポークスマン、『One Flew Over the Cuckoo's Nest』と『Sometimes A Great Notion』を出してまさに時代の寵児となっていたケン・キージーと会うというのですから。 しかし、古いスターと新しいスターの歴史的邂逅は、不首尾なものに終わったらしい。それについてトム・ウルフは「ケーシィもケルーアックもたがいにあまり話しを交わさなかった」の一行で済ませていますからね。この辺に、ビートニクとヒッピーの似て非なるというか、同族嫌悪的な側面が垣間見られると言ってもいいのかも知れません。両者の間の10年の時間差は、案外、大きなものなのかも知れない。 で、それはまた、キージーやプランクスターズのやっていることと、ヒッピー・ムーヴメントの東の雄、ティモシー・リアリーとの違いにも通じるものがあったようで、リアリーはハーバードを首になった後、ニューヨーク州ミルブルックに独自の研究所を作ってLSD研究を続けていたわけですけれども、ニューヨークでリアリーに面会を求めたキージーは、リアリーから拒絶の返事をもらって失望うことになる: リアリイはどこにいるんだ? リアリイとケーシィとの出会いをみんな待ちのぞんでいた。 リアリイは邸宅の二階にいて、三日にわたる重要な実験に従事してい、わずらわすことはできないという言葉が伝えられた。 ケーシィは怒らなかったが、ひじょうに失望し、傷つけられさえした。信じられないのだーーここがミルブルックだとは。つまり、俗世間的なものがいっぱい便秘したところなのだ。(101頁) ティモシー・リアリーの盟友、「ラム・ダス」ことリチャード・アルパートはキージーと面識があり、プランクスターズのアシッド・テストに参加すらしたことがあるようですが、リアリーとキージーはまったく性格が合わないんですな。もっともそのリチャード・アルパートにしても、「リチャード・アルパートもアシッド・テストをよろこばなかった」(238頁)とありますから、ケン・キージーたちとは一線を画していたらしい。 リアリーにしてもアルパートにしても、東海岸系のLSDユーザーたちは、超インテリであることに起因するのかどうか、もともと秘教的なところがあって、LSDを使うにしても、あたかも何等かの秘儀を行うかのようにそれを使う環境(東洋的な雰囲気を盛り上げるなど)に気を使ったりしていたわけで、キージーたちのアシッド・テストのような、大音量の音楽やストロボ・ライトなどの現代的な機器を使って集団陶酔を導くような方向性とはまるで違っていた。そのあたりの両者の違いについて、本書は次のように記しております: 彼ら(キージーとバッブス)はバスの上から見おろし、大衆の上に立つ。アメリカの十億もの眼が電気の心のようになって彼らをギラギラ見つめる。プランクスターズはこのワイドスクリーンのアメリカにこころを奪われ、アメリカの国旗をバスからたなびかせ、太陽熱からエネルギーをとるように、アメリカの馬力から、ネオンから、エネルギーをとって、アメリカの流れとともに行くのだ。アメリカの旅に行き止りはない。進め!--そのとおりだ!--リアリイとそのグループについて困ったことは、連中が後退したことだった。むろん、そういうことになったのだ! 連中はあの古臭いニューヨーク的な知性とやらに後退し、アメリカ的な経験から逸脱し、ロマンティックな過去に逆行していった。ニューヨークのインテリーたちは、つねにもう一つの国、精神の父なる国をもとめていた。その国はすべてがベターで、哲学的で、純粋で、道具だてがいらず、シンプルで、血統書つきだ。フランスやイギリスのように、ああフランス人の生き方を見よか。そんな国をもとめていたのだ。リアリイ・グループも同じなのだった。ただ彼らにはーーインドーー東洋がつきまとっているーー白かびがふいているゴータマ・ブッダやリグ・ベーダのむかしのたわごとにいかれ果てている。リアリイはニューヨークの街路にみどりの草が生えるのを願い、人はみな、ブッダ自身が西暦紀元前四百八十五年以来こころをくつろがせることのできた、古風で素朴な棲家、わらくずとペイズリー織の壁かけのなかでくつろげる棲家をもたねばならぬと説くのだ。どうかお願いですから、静かにしてください、こんな道具だてーー録音テープ、ヴィディオ・テープ、TV、映画、ハグストロム社製のエレクトリック・バス、バリアブル・ラグ、星条旗、ネオン、ビュイックエレクトラ、マッドなぶすっつらしたガソリン・スタンドーーなんか願いさげです、気ちがいバス、ダブル・クラッチ、ダブル・クラッチで西部の果てまで疾走するなんておことわりですーー(107頁) で、ニューヨークへの旅からサンフランシスコに戻ったキージーとプランクスターズの一行は、さらに南に下ってビッグ・サーにあるエサレン研究所にも立ち寄るのですが、東海岸の連中のお高くとまった気どりというのは、エサレン研究所にもあって、ここでもキージーたちとの差異が目立つ結果となります。そのあたりの記述は以下の通り: 救済のためなのか? ケーシィは宣言する、ふたたびバスへとーーまた出発だーー南に向かって四時間ドライブする、ビッグ・サーのイサレン協会に行く。イサレンは<生の実験所>といわれ、太平洋にのぞんだ、およそ千フィートの絶壁にある簡易な保養施設の一種だ。(中略)簡単にいえば、イサレンは教養る中産階級の大人が日常性から脱し、すこし尻でもたたいて生活にアクセントでもつけるために夏やってくる場所なのだ。 イサレンにおけるおもな理論的指導者はフリッツ・パールズというなの形態(ゲシュタルト)心理学者だった。りっぱな山羊ひげをはやした七十代の男で、テリ織りの青いジャンパーを着ている。彼はとても学のある、威厳にみちた、権威ある陰気な武骨者といった風姿をしていた。彼は<NOWトリップ>の父であり、たいていの人間は幻想の生を生きている、というのが彼の理論となっていた。たいていの人間は完全に過去か、未来に期待をよせて生きている、だからこそふつうの恐怖を感じているというのだ。彼はイサレンにいる自分の患者や弟子たちに、変化をもとめるなら「NOW」、「現在」に行き、肉体と感覚がもたらすあらゆるインフォメーションを自覚し、恐怖を捨て去り、瞬間を捉えよ、と教えようとした。(中略) ケーシィは「トリップ・ウィズ・ケーシィ」というタイトルのゼミナールをやるようイサレンに招かれていた。しかし音響電気装置のかもしだす全体的効果は全然誰も信じなかった。イサレンの常連客連中は数週かかって遠くからやってきていた連中で、日常性の極致とやらをのぞき見はじめていたが、<自由の国>ではそれが空恐ろしいのだ。プランクスターズは友好的な態度で接したが、プランクスターズは、暗闇で光るような存在だった。イサレンの常客は静かな温泉で狂人のようにふざけた。ゼミナール形式でさえ、貴重な少数者しかケン・ケーシィとの経験に加わらなかった。(113-4頁) 要するに、キージーたちのやり方は、東部の連中とも、西部のイサレン研究所とも、全然違っていたと。 じゃあ、彼らがやったアシッド・テストというのはどういうものかというと、まあ、いわば「LSDフェス」ですな。イベントとして人を集め、例えばグレイトフル・デッドの音楽が大音量で流れる中、ストロボとブラックライトと蛍光塗料による強力かつ断続的な照明効果の中、参加者にLSDを溶かし込んだクール・エイド(ファンタ的な清涼飲料水で、本書の原題はここから取られている。ゆえに邦訳タイトルの『クール・クーール』はまったく意味不明)を振る舞って、とにかくその効果を体験してもらう。まさにLSD体験の大衆化ともいうべきイベントであったわけ。 しかし、やがてLSDが非合法化されると、もちろんこの種のイベントも非合法となるわけで、ケン・キージーもFBIに目を付けられ、名目上はマリファナの不法所持で逮捕されることになる。 しかし、キージーもさるもの、逮捕劇をたくみにかいくぐって地下に潜り、相変わらずイベントを主催したり、その後、自らの事故死を装ってメキシコに逃亡したりもするのですが、結局アメリカに戻ってきて逮捕され、5か月ほど服役することになる。その服役後、刑務所を出ることになったキージーを、プランクスターズが迎えに行くシーンから本書は始まっていますので、本書は実は終わりから始まるような倒置描法で書かれているんですな。 だけど、キージーが娑婆に戻ってきた頃には、既にヒッピー・ムーヴメントも終わりかけていた。で、キージー自身も、アシッド・テストからの「卒業」を口にするようになり、その最後のイベント、卒業イベントを計画することになる。 で、このキージーの言う「卒業」という言葉が、プランクスターズないし、キージーのシンパたちに動揺を与えるわけ。つまり、キージーは、いわば自分たちを裏切って、LSDをめぐるあれこれから手を引こうというのか、それとも、それは当局の目をくらますための煙幕で、卒業セレモニーなどといいつつ、またぞろ大規模なアシッド・テストをぶちかまそうというのか。 で、そうした動揺のせいか、計画していた大規模イベントは中止になり、小規模な、彼らのねぐらとも言うべき「倉庫」でのイベントになるのですが、これもあまりぱっとしないまま、線香花火の最後の小さな爆発のように、これを機にキージーをリーダーとするムーヴメントは終わりを告げることになる。そして、その後、プランクスターズも散り散りになり、立役者の一人であったニール・キャサディも、何らかの事故にあったようで、メキシコの鉄道線路わきで死体となって発見されると。 ま、そんなことがあれこれ書かれた本が、本書『クール・クーール LSD交感テスト』でございます。 とはいえ、上に述べたのは、本書のほんの一部分でありまして、一番最初に述べたように、本書にはわけのわからない描写が延々と続きます。それを等しい興味をもって読み続けるのは、うーん、プランクスターズ的なメンタリティの持ち主なら分かりませんが、普通の人間にはちょっと苦痛かな・・・。 でもそんな中で、同じLSD体験を重視するいくつかのグループの間の、かなり大きな違いというか齟齬というか、そういうものが描かれているところが、私としては非常に勉強になったところ。また、例えば『ホール・アース・カタログ』の創始者スチュアート・ブランドとか、グレイトフル・デッドのジェリー・ガルシア、あるいは後にジェリー・ガルシアの妻になるマウンテン・ガール(本名キャロリン・エリザベス・アダムズ。彼女はケン・キージーと相当深い仲だったらしい)、さらには後に「オルタモントの悲劇」を巻き起こすことになる非合法バイカー集団「ヘルズ・エンジェルズ」など、おなじみの名前が随所に出てくるところなど、面白いといえば面白い。 ま、そんな感じかな・・・。 というわけで、私にとっては研究上、読む必要のある本ではありましたが、今が今、これを多くの人におすすめするかというと・・・ちょっと?かも。でも、奇書好きにはたまらない本かも知れませんので、ご紹介はしておきます。これこれ! ↓『クール・クーール LSD交感テスト』
May 19, 2020
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私が学生だった頃、ということは、もう今から三十数年前ということになりますが、その当時の大学の英文科の教授なんてのは、その大半が翻訳に携わっていた、という印象があります。っていうか、むしろ大学教授としてより翻訳家としての方が名が売れている先生すら、あちこちにいらした。 実際、私自身の師匠お二人も沢山の文学作品の翻訳を出されていた。それも、泣く子も黙る大手出版社から。 また、翻訳として出版するのではなく、たとえば大学生向けの教科書として、文学作品(たいていは英米の短編作品)に注を付けるお仕事をされている先生もたーくさんいらした。で、そういう先生方は、ご自身が所属している大学でも、また非常勤として出講している大学でも、ご自身が注を付けられたその種の教科書を指定されるので、それで印税を稼いでいらっしゃる先生もたーくさんいらした。 で、そういう状態がデフォルトだったので、私も将来、大学の先生になったら、大学で教える他に翻訳とかやったり、注を付けるだけの教科書とか作ったりして、そっちでも稼いだりするんだろうな、なんて夢見ていたわけよ。 で、実際に大学教授になってみたら・・・そんな話、一向に来ないっていう。何なの、一体? これが出版不況? 売れるのは鬼滅だけ? さて、今話題の『出版翻訳家なんてなるんじゃなかった日記』を読了しました。これを書いた宮崎伸治さんってのは、私とまったくの同い年。著書・訳書は60冊もありながら、今は警備員をされているとのこと。本書には、なぜ売れっ子の翻訳家が、翻訳という職業から離れざるを得なかったのか、その泣くに泣けない裏事情が綴られております。 宮崎さんってのは、翻訳家として非常に腕がいいわけですな。しかも文章も上手く、著書も相当ある。ならばなぜ天職ともいえる翻訳業から撤退せざるを得なかったかと言えば、ひとえに日本の出版社の在り方による。そして日本の出版社の翻訳家軽視の姿勢にある。 想像するだけで明らかなように、翻訳ってのはキツイ仕事なわけですよ。しかも高度な専門技術が必要で、それを会得するために何年もの苦しい修行がいる。しかし、それにもかかわらず、大変な仕事だと思われていないところがあるんですな。しかも、それに加えて日本の出版社には、契約の概念があまりない。口約束だけで物事が動いていく悪しき伝統がある。 だから、出版社から仕事を依頼されて、翻訳家がその仕事を一生懸命こなし、期日までにきっちり翻訳を届けても、それが最終的に出版されないこともある。あるいは、仮に出版されても、なんだかんだ理由をつけて、印税を値切られたりする。時には、翻訳者として自分の名前を出してもらえず、別な人の名前にされてしまうこともある。 翻訳家ってのは、出版業界から見たら、弱い立場なので、通常はそれで押し切られてしまうわけですよ。 だけど宮崎さんはそこで頑張った。自分がそこで泣き寝入りをしたら、他の翻訳家も同じ扱いを受け続けるに違いないと思い、翻訳家軽視の出版業界の在り方を少しでも変えようとしたわけ。 で、最初の約束通りに印税が支払われなかったり、せっかく訳した本が出なかったりした時、出版社に抗議をしたり、時には裁判沙汰にしたりせざるを得なかったんですな。 で、もちろん、宮崎さんの方に理があるわけですから、すべての裁判に勝ちます。勝ちますが、そのために裁判費用が回収費用を上回ったり、心労で参ってしまったりする。 で、その心労のあまり、宮崎さんはついに翻訳業そのもの、文筆業そのものを離れざるを得なかったと。 まあ、読んでいて、裁判には勝つんだから痛快ではあるのですが、そのために神経をすり減らしていく宮崎さんの様子をつぶさに見ていくわけだから、しんどくもある。確かに、こんなことやっていたのでは、仕事に熱中できないよね・・・。 結局、現時点での日本における出版社の在り方を変えるとすると、アメリカみたいに著述家の側にエージェントができて、本の出版にまつわるあれこれはすべてエージェントを通してやる、みたいにするしかないんじゃないかな。それはそれで、やっかいな感じになるかも知れないけれど。 というわけで、この本、多少なりとも出版経験のある身としては、非常に面白く・・・というのではないかも知れないけど、非常に興味深く読むことが出来たのでした。 これ、翻訳家を目指している人とか、必読だよね! 宮崎さんの二の轍を踏まないためにも。これこれ! ↓出版翻訳家なんてなるんじゃなかった日記 [ 宮崎 伸治 ] と、いうわけで、まあね、私も翻訳家なんかにならなくて正解だったのかもね。 でも・・・そうは言っても、私も訳させたら相当上手いよ。窓口は開けておくんで、出版社のみなさーん、いつでもご用命を!!
January 8, 2021
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何、石破も小泉も菅支持だとぉ?! 志のある政治家とは思えん。こいつら、終わったな・・・。 さて、本当はやらなくてはならない仕事が幾つもあるのですが、夏休みですからね。たまには仕事とは関係のない本を読んでもいいだろうということで、今日は一日、ノーマン・マクリーンという人の書いた『マクリーンの川』という小説を読んで過ごしました。これ、ブラピの出世作とも言うべき映画、『リバー・ランズ・スルー・イット』の原作ですね。 ちなみにですね、作者のノーマン・マクリーンはシカゴ大学の英文科の教授を長く勤めた人。人気のある先生だったようですが、研究書とかをバンバン出す人ではなく、学会での知名度と言うよりは講義の面白さで学生からの信頼の篤い名物教授だったらしい。 で、そのマクリーン教授がシカゴ大学を定年退職した後、74歳で出した自伝的小説がこれで、当初出版社で引き受けるところがなく、お義理でシカゴ大学出版局が3000部ほど刷ってくれたんですが、そしたら意外に受け、映画化もされたりして、ベストセラーになってしまったという。定年後の、それも74歳での処女出版ということで、出た当時はアメリカ中の文学系教授がこぞって色めき立ったらしいっすよ。「俺も、定年後に小説書くぞ~!」っていうことで。 で、自伝小説ですから、ここに書いてあることは実際にあったことそのままらしいのですが、以下、ネタバレで書きますので、これからこの小説を読もうっていう人はここから先は読まない方がいいですが、ノーマン・マクリーンは名前からしてスコットランド系アメリカ人で、モンタナ州の小さな町に暮らしていたんですな。で、マクリーンの親父さんは牧師で、ノーマンには弟ポールがいる。で、ノーマンとポールの男兄弟は、小さい時から親父さんに仕込まれて、フライ・フィッシングをすることをこよなく愛しているわけ。それはもう単なる趣味とかいうレベルを超え、人生で必要なことはすべて川とフライ・フィッシングから教わった的な、ほとんど宗教的なレベルで愛しているんですな。 だけど、親父さん、ノーマン、ポールの三人の中ではもうダントツでポールが、フィッシャーマンとして完成されているんですな。それは兄貴のノーマンもよく分かっているわけ。だけど、そこが兄弟の難しいところで、二人の兄弟仲はいいのだけれど、弟の方も兄貴への遠慮があるので、フライを飛ばすコツとかを直接アドバイスすることは出来ないし、ノーマンの方でもされたくない。二人とも頑固だし。 で、釣り人としての腕がいいから、というわけではないのだけれど、どうもこの二人兄弟のうちでは、弟のポールの方が、親父さんやお袋さんから愛されているところがある。それも兄のノーマンは気づいているし、そのことで弟をねたむことはないのだけれど、客観的にそうだな、というのは分かっている。 一方、社会人としてはノーマンの方が大人で、既に結婚しているし、(小説の中には出てこないけれど)後にシカゴ大学の教授になるわけですから、ちゃんとしているわけね。反面、弟の方はどうやら大学へは行かず、地元の小さな新聞社で記者をしているんですが、女性問題にルーズなところがあり、かつ、賭け事にも入れ込んで借金を作ったりし、しょっちゅう警察の御厄介になっている。 その意味で、愚兄賢弟の逆、賢兄愚弟なんですが、だけど、弟の方が愛されているところがある。ダメな奴ほど、手間のかかる奴ほど、愛嬌があって両親から愛される的なところがあるんですな。まあ、そういう状況ってのはよくあることであって、例えば聖書のカインとアベルの話でもそうでしょ。弟の方が神から愛されるっていう。だから、この小説におけるこの辺の親子関係/兄弟関係は、ある意味、聖書的な原型があるわけね。親父さんは牧師だしね。 だけど、やっぱり弟のポールの方は、しばしば問題を起こすと。 で、今回もポールがあることで人を殴ってしまい、店の什器なども壊してしまったようで、その返済の必要が生じたりなんかするんですな。 もちろん、そういうポールの所業は、単独のことではなく、何かこう、人生に不満があるというか、自分が社会にうまくはまってないというか、とにかくうまく生きれてないということの顕れなわけですよ。だから、問題を起こすポール自身、多分、苦しんでいるのでしょう。で、そのことはノーマンにはよく分かるんですな。だから助けてやりたい。 だけど、上から目線で「助けてやるよ」といって兄貴の助力を受ける弟ではないし、互いに頑固で、子供の頃からのライバル心もあるし、兄に対して素直に自分の苦境を打ち明けるなんてことがあるはずもない。それをノーマンは分かっているし、ポールも分かっているんですな。兄弟とも、助けたい・助けられたいは山々なんだけど、それが出来ないということも双方分かっている。 だから二人をつなぐのは、フライ・フィッシングしかないわけ。二人で川に行って釣りをする。この一点だけで、二人は解決しなければならない問題を先送りしつつ、心を通い合わせるわけですよ。 で、あれこれあって、最後、もう大分年老いた父親も含め、親子三人で釣りをする。そこでやっぱりポールは、三人の中で一番の大物を釣り上げて輝くんですな。で、普段は正面切って褒めない親父さんも、ポールに向って「お前は大したもんだ」と褒める。褒められたポールは、「いやいや、釣りを極めるにはまだあと三年くらいは掛かりますよ」ってな謙遜をする。 しかし、その三年はポールには与えられなかった。この親子そろっての釣りの後しばらくして、ポールは何らかの喧嘩に巻き込まれて、殺されてしまうんですな。 これ、実話ですからね。シカゴ大学教授のノーマン・マクリーン先生は、若い頃、仲のいい、しかし生活のすさんだ弟を助けられなかったと。そしてその思いをずっと抱いてきた。そして74歳になって、そのことを小説に書いたと。そういうわけね。 なかなかに切ない小説でございます。 訳者の渡辺利雄さんは、「ヘミングウェイを思わせる文体」ってなことを「解説」に書いていますが、うーん、どうですかねえ。ワタクシが思うに、全然そうじゃない。特に前半なんか、もっとはるかに外連味があるというか、いかにも(悪い意味で)文学的な表現があって、ちょっと鼻につくところがある。例えば冒頭の一文からして、 わたしたちの家族では、宗教とフライ・フィッシングのあいだには、はっきりとした境界線はなかった。 ・・・だからねえ。何、この嫌ったらしい書き方。トニ・モリスンみたいに嫌味じゃない? ヘミングウェイ的というよりは、片岡義男的と言うか。 というわけで、読み始めは「なんか嫌だなあ」と思っていたんですけど、さすがに最後の方になって、親子そろっての最後の釣りの場面とかになると、(なまじ「これが最後の釣りなんだ~」って予測できるだけに)、切なさが上回って、まともに読めるようになる。そういう意味で、前半、もっと素直に、変な文飾とかしないで書けばいいのにな~っていうところが少々残念だったかも。74歳の処女作とはいえ、やはり作者に気負いがあったのかな。 でも、まあ、全体的には「佳作」っていう感じ。これ、ひょっとして映画版の方が映えるのかもね。見たことないけど、今度見てみようかな。 っつーことで、今日は一日、モンタナの川辺に遊んでいたワタクシだったのでありました、とさ。 それにしても、邦訳のタイトル『マクリーンの川』って、意味不明だよね! 渡辺利雄さんの発案ではなく、集英社編集部の要請だったようですけど、そのセンスのなさたるや、どうしようもないな。これこれ! ↓USED【送料無料】マクリーンの川 (集英社文庫) ノーマン・マクリーン and 渡辺 利雄
August 21, 2021
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必要があって、「岩波少年文庫」の『クマのプーさん』を読んでいるのですが、訳がひどい。 誰がこんなひどい訳をしているのかと思ったら、石井桃子さんだった。あら、失礼いたしました。位階従四位、芸術院会員のことをディスっちまった。 でも、これはちょっとないんじゃないか、というような訳でした。まあ、1956年の訳だからねえ。ひどいというより古いというべきか。それにしても、ちょっとひどくないか? プーさんは「プー・クマ」、ピグレットのことなんか「コブタ」と訳しているからね。時代に即してない。 そういう、個々の問題だけでなく、全体として、すごく分かりにくい訳になっている。まあ、原作が訳しにくい作品だということは分かるけど、たとえば同じ岩波少年文庫でも、大塚勇三訳の『長くつ下のピッピ』とか、別に読みにくいというものではないからなあ。 で、あんまり読みにくかったので、ワタクシが訳し直してやろうかと、ちょっと色めき立ったんですけど、そうしたら既に阿川佐和子さんが『ウィニー・ザ・プー』として、新潮社から新訳を出されていた。 だけど、うーん、どうなんだろうか。阿川訳にも癖があるんだ。ピグレットが「コプタン」になっているのも解せないし。それから、阿川訳はあまりにも理屈っぽ過ぎる。原作のナンセンスさが、全部、理屈で整理されている感じ。大人は読みやすいけれども、子どもは・・・。 あと、クマプーの一番の魅力とも言うべきあのアーネスト・H・シェパードの可愛いイラストが新潮社版にはないらしい。版権のアレかねえ? やっぱり、岩波少年文庫の石井訳を、新訳にしないといかんのじゃない? 岩波さん、ここにいい訳者がいるよ~。阿川さんは講談社エッセイ賞の受賞者だけど、こっちは日本エッセイスト・クラブ賞獲っているからね! それにしても、今回、初めてプーさん読んで驚いたのだけど、クマのプーさんって、すごく頭悪いのね。ビックリ。そういう本だったのかと。プーさんのみならず、出てくる登場人物すべてがものすごく頭悪い。え、そんな感じ?と驚くほど。いくら動物とはいえ、彼らの能力をあまりに低く見積もりすぎじゃね? ひどすぎないか、A・A・ミルン? 今だとコンプライアンス的に? まあ、お馬鹿さんの魅力というのもあるからいいのか。頭のいい人ばかりがいい目を見る社会へのアンチテーゼか。 ということで、石井桃子訳『クマのプーさん』にはビックリさせられっぱなしだったのでした。人生、60年以上生きていても、ビックリすることが多いねえ。【3980円以上送料無料】クマのプーさん/A.A.ミルン/作 石井桃子/訳 ウィニー・ザ・プー A・A・ミルン/著 阿川佐和子/訳
September 19, 2025
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昨日、菅谷大介アナを追悼したら、今日は仲代達矢か。毎日、人が死ぬな・・・。 黒沢明の説だったか、他の誰かの説だったか忘れちゃったけど、俳優の顔には色々なのがあって、捨てられた犬みたいな顔をした俳優はいい俳優だという説があり、その根拠となったのがジェームズ・ディーンと仲代達矢だったのよ。なるほどなと。 で、その黒澤明が『影武者』を撮っていた時、当初、武田信玄役は勝新太郎だったのだけど、彼が監督と喧嘩して降板し、ピンチヒッターで仲代がその役をすることになった。いわば猫顔の勝新から犬顔の仲代に代わったわけだけど、さて、この交代劇はどうだったのか。信玄のイメージからすると、勝新の方が「ぽい」感じがするけれど、すっかり偉くなってしまった黒沢からすると、自分のコントロールの利かない役者はお呼びでなかったんでしょうな。 で、自分の言うことを聞く犬顔の仲代は、すっかり黒沢に気に入られてしまい、次の『乱』でも主演をする。でも晩年の黒沢ってのは、偉くなってしまった宮崎駿みたいなもんで、もう抑えが効かないというか。『乱』にしても、黒沢が怖くて当時誰も言えなかったようだけど、ワタクシが思うに、駄作も駄作なのではないかと。でもそんな黒沢天皇に気に入られてしまった仲代は、『影武者』『乱』と立て続けに黒沢映画の主演をしてしまったことで、彼もまた祭り上げられてしまった。役者としては、むしろ不幸なめぐりあわせだったんじゃないかなあ。以後、ずっと捨てられた犬みたいな顔をして、苦悩する王様(例えば乃木希典のような)を演じつづけなければならなくなったんだから。 そういう意味では、役者をやる傍ら、無名塾を作って自分の好きなようにやれたのは、仲代にとっては良かったのかもね。無名塾からは、役所広司も出たことだし。 さて、今日はアメリカ映画についての授業をしていて、話題が『マトリックス』のことに及んだのだけど、学生の中でこの映画のことを知っている者は一人もいませんでした。1999年の映画のことすら欠片も知らないんだから、彼らに「そういえば仲代達矢が死んだね」なんて言っても、ポカーンとされるだけでしょう。 私の世代からすれば、仲代達矢はビッグネームだけど、彼も『マトリックス』も、私らおじさん・おばさんの記憶の中にか、もう存在していないのかもね。
November 11, 2025
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書評紙『週刊読書人』の今週号に、私の書いた書評が掲載されているのですけれど、私が書評した本の版元の方から礼状が届きまして。 ま、版元として、こういう風に読んでもらえたらな、と思っていた、まさにそういう書評だったので、非常に嬉しかったと。 うーむ、そうでしたか。それはもう、こちらとしても最大限の褒め言葉でありまして、そう言っていただいて書評した甲斐がありました。こちらこそありがとうございました! 私のような仕事ですと、結構孤独な作業――というか、自己満足的な作業というべきか――そういうのが多いので、直接的に誰かの役に立つとか、それでお礼を言われるとか、そういうことがあまりないのですが、たまにこういうことがあると、嬉しいものですね。 やっぱり、人間ってのは、人とのつながりで生かされているというところがありますな。 だからこそ、書評のように人から頼まれた仕事も、精一杯良心的な仕事をしないとね。常に最善を尽くすと。 また、いただいたのは一枚の葉書ですけれど、これによってどれだけ自分が元気づけられたかと思うと、私もまた、人の仕事をよく見て評価し、いいものであれば、口に出してお礼を言うようにしよう! と思いました。
June 3, 2015
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昨日のブログで私は、「こんなに長い英語教育の歴史がある日本に、英語習得のためのメソッドが確立していないのはどういうことじゃ!」というお話をしました。もちろん、ここで私が言っているのは「ちゃんと効果のある、実行可能なメソッド」という意味で、効果があるかないか判らない、あるいは効果がないことが判っているメソッドは、沢山あるのだろうと思います。あるいは、効果があると判っていても、幅広く実行することが不可能なメソッドは沢山あるでしょう。 「効果がないことが判っている」メソッドの筆頭は、文部科学省の「学習指導要領」でしょうね。またNHKのテレビ・ラジオ講座なんかも、あまり効果はないのではないでしょうか。「いや、ためになった」と言う方もいらっしゃるかもしれませんが、それはその方の学習意欲と意志の力が強いから効果があったので、NHKのテレビ・ラジオ講座がとても優れたメソッドを持っているとは思えません。それどころか、むしろ恐ろしいまでに古典的で工夫のないメソッドですよ、あれは・・・。テキストにしたって、4月号だけがやけに売れて、それから先、大抵の人が続かなくなるということ自体、そのことを証していると言えましょう。 その他、最近のメソッドで一番怪しいのは「睡眠学習」かな。「スピードラーニング」なんてのも、どの位効果があるのか・・・。懐かしいところでは「リンガフォン」とかね。最近では「アルク」系の教材とか。これらは皆、メソッドがどうのこうのというよりも、「がむしゃらに英語を勉強する人」のための教材提供以外の価値があるとは思えませんなあ。その他、松香洋子先生が昔から唱道なさっている「フォニックス」なんてメソッドもありますが、幼稚園くらいの時に松香先生に直接英語を習った経験のある私が言うのもなんですが、ま、「普通」ですね。 これらの他に「(ネイティヴ・スピーカーから)英語を直接、英語で習う」という方法もあると思いますが、これも過信するのは危険で、例えば日本の各地にごまんとある語学スクールの外国人の先生方の大半は、日本人に英語を教えるノウハウをまるで知らない、単なる「外人さん」です。そういう人と少し英語でしゃべったからと言って、それはお遊びの域を出るものではありません。また、外国人に英語を教えるノウハウを心得たネイティヴ・スピーカーの先生に習うことが出来れば、それに越したことはないですが、日本全国に何万といる中学・高校・大学の英語の先生方全員に、「皆さん、資格を持ったネイティヴ・スピーカーと同じように、生徒・学生に英語を教えなさい」と言ったところで、それは無理に決まっていますから、こういうのは「効果があると判っていても、幅広く実行することが不可能」なメソッドと言えましょう。 これらよりももう少し実行可能なメソッドとして、昔、「ミシガン・メソッド」なんてのが流行ったことがあります。これは、語学教育に熱心だったアメリカのミシガン大学が開発したメソッドで、一種の反復練習法です。たとえば I go to the gym after work. (私は仕事帰りにジムに寄る)なんて英文があるとする。と、まずこの文を10回くらい発音するわけ。で、次に after work の部分を変えるんです。例えば I go to the gym on Fridays. (私は毎週金曜日にジムに行く)ってな具合。で、これをまた10回発音する。次に、今度は I の部分をMary に変え、Mary goes to the gym on Fridays. (メアリーは毎週金曜日にジムに行く)として、これをまた10回発音する。で、次に、今度は時制を変え、過去形にしてまた10回発音する・・・という感じで、一つの構文に若干変化を加えながら果てしなく反復練習する。これで文型を頭の中に刻み込む、というわけです。 このメソッドは、確かに優れているとは思います。反復というのは、外国語習得の要石ですから。しかし、厳しい言い方をするならば、これは単に具体的な「練習方法」に過ぎず、トータルなメソッドではないですよね。「とにかく、反復して口に出せ」と言っているだけで、なにから始めて、どういう順番で英語を学んでいけばいいのか、そういう全体的な方向性を持っているわけではないですから。 ホントに、そういう意味でのメソッドって、どこかにないものなんでしょうか・・・。 ところで、そのことに関し、私は一つ知りたいと思うことがあります。モルモン教徒たちは、一体どうやって外国語を習得しているのか? ということです。 実は私のかつての教え子に一人、熱心なモルモン教徒がいまして。彼女は優秀な学生でしたが、卒業後、モルモン教徒のアメリカ人男性と結婚し、今はアメリカのアリゾナ州で暮らしています。 で、彼女が結婚するとき、私はたまたまアリゾナの隣にあるカリフォルニア州に住んでいたんです。というわけで、せっかく近くにいるのだからと、私は車を飛ばして、彼女の結婚式に参加したわけですよ。 で、何せ私は一応、新婦の「恩師」なわけですし、ひょっとして結婚式でスピーチの一つもさせられるかも知れません。ということで、カリフォルニアからアリゾナへ向かう途中、私は心の中で英語のスピーチを考えていたんです。その場でとっさに一言頼まれて、すぐにペラペラとスピーチが出来るほど、私は英語に自信がなかったもので。 ところが。式場に着いてびっくり。アメリカ人であるはずの新郎の親・兄弟が皆、日本語ペラペラなんです。ひゃー! 私の英語なんぞ、「お呼びでない」って感じです。 要するにこの一家は、全員、人生のどこかの時点において、日本で「布教」活動をしていたんですね。モルモン教徒には、人生の2年間を布教に費やす義務がありますから。 ・・・で、ここで私の疑問が生じるわけです。モルモン教徒は、今言いましたように、世界各地に布教に出かけるので、その準備として、布教先の言語の習得に努めているはずなんですが、一体それはどうやっているのか? どういうメソッドで、あそこまで見事に外国語を習得して(させて)いるのか? もちろん、仮にそういう「モルモン・メソッド」が存在したとしても、それはアメリカ人が外国語を学ぶためのメソッドであって、それを直接、日本人の英語習得の方法論として応用できるとは限らないかも知れません。しかし、とにかく他の「成功例」をつぶさに観察することは、何にせよ、随分ためになると思うんですよね。もし、その辺のことについて、ご存じの方がいらっしゃったら、ぜひご教示下さい。 ところで、実は私は、この謎の「モルモン・メソッド」とは別に、英語習得のためのなかなか優れたメソッドではないかと思われるものを一つ知っています。それは以前、このブログでもご紹介した「ベーシック」というメソッドです。イギリスのオックスフォード大学が特許を取っている英語教授法なんですが。 しかし、もう大分長くなってしまいましたね。この話題については、また明日にでもお話しましょう。それでは、また!
June 20, 2006
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サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』には今でも白水社から2つの異なる日本語訳が出版されていて、一方は野崎孝訳で、これは1964年のもの(ただし1984年に廉価版の「Uブックス」が出た時に若干手を入れている)。で、もう一方は2003年に出た村上春樹訳。こちらにも廉価版が出たので、読者としては野崎訳を選ぶか、村上訳を選ぶかの二択が許されているわけ。 まあ、稀有な状況ですな。一つの小説について同じ出版社から2つの訳が出ていて、しかも同じ値段(950円)で買えるなんて、そんなこと普通ではありえない。 で、一つ言っておくと、私はもちろん、野崎孝訳世代なわけですよ。最初に『ライ麦畑』を読んだのは野崎訳だった。原書を読んだのはその後だから、とにかくこの作品への入り口が野崎訳だったわけ。で、2003年に鳴り物入りで村上春樹訳が出た時、一応、私もその訳書を買いましたが、読みはしなかった。野崎訳で読み、原書で読んでいるんだから、その必要が無かったんですな。 だけど、今回、サリンジャーについての連載をするにあたって、一応、両者の違いをチェックしておこうかなと。まあ、そんな風に思って村上訳を初めて読んでみたわけ。 で? どうだったかって? うーむ。言っちゃっていい? 言っちゃうよ。 野崎訳の圧勝だね。 ま、多分、これは世間の見方の逆を行っているんだと思います。私はいつもそうだからね。私の意見ってのは、大抵、世間の逆だから。世間は、多分、「野崎訳は古いしダサい。村上訳になってようやくこの小説もアップデートされた」と思っているのだろうと思います。 だけど、私から見ると、もうその差は歴然と言っていいくらい、野崎訳の方が『ライ麦畑』を日本語で再現していると思います。村上訳はね、あれはサリンジャーの小説じゃなくて、サリンジャーの小説の真似をした村上さんの小説みたいにしか見えない。村上節炸裂って感じだもの。それが気になって、気になって、もう読んでられない。 まずね、目に見えて嫌なのは、村上訳が妙にアメリカかぶれ(英語かぶれ?)なところ。 例えば小説冒頭のホールデンとスペンサー先生の会話のところで、村上訳はスペンサー先生のセリフに「あーむ」って入れるんだよね: 「そこに座りなさい、あーむ」とスペンサー先生は言った。ベッドに座れということだった。僕はそこに腰を下ろした。「流感の具合はいかがですか、先生?」 「あーむ、もっと良くなったら医者を呼ばんとな」とスペンサー先生は言った。 なに、この「あーむ」って。これ、普通訳すかね。むしろ野崎訳のように無視するか(最初の奴)、あるいは「いやどうも」(2番目の奴)などと訳した方がよほど自然だと思う。 この手のアメリカかぶれ・英語かぶれってのは村上訳には他にも沢山あって、「ジーザス・クライスト」とか、その手の間投詞をそのまま訳してあったりする。あと普通に「アントリーニ先生」と訳せばいいのに、「ミスタ・アントリーニ」と訳すとか。こういうのもすごく嫌。 あと、村上訳独自の言い回しってのがあって、例えば人の名前にスポットライトを当てる時に「くん」を付けるのよ。「フィービーくん」とか「ギャッツビーくん」とか。そういうのも気になるし、あるいは形容詞でいうと「うらぶれた」なんて言い方を何度も使われるとすごく違和感がある。 あと、最後の方でフィービーとホールデンが会話するシーンで、妹で10歳のフィービーが、高校生の兄ホールデンに「あなた」って呼びかけるんだよね。これもすごく不自然だと思う。私には妹は居ないけど、10歳の妹に「あなた」なんて呼びかけられたら、本当に嫌。ちなみに、野崎訳では普通に「兄さん」と訳されているんですけどね。 つまり、野崎訳がどこまでも「普通」に訳しているのに対し、村上訳はどこか色がついているというか、突出しちゃっているわけね。それが気になり出すと、すごく気になる。 あ、それから村上訳には日本語の言葉遣いにもおかしいところがある。167ページにキリストが12弟子を選んだことについて「でも彼(イエス)はきっとわりに見ずてんで選んだんだよ」と書いてあって、「見ずてん」のところにわざわざ傍点まで振ってあるんですわ。多分、「見ずてんで」ということばを「選り好みしないで」の意味で使ったのだろうと思うけれど、「みずてん」という言葉は漢字で書けば「不見転」と書いて、芸者が金次第でどんな相手とでも寝ることを言う言葉ですよ。元来、すごく下品な言葉。それをイエスに当てはめるなんて、日本語を知らないにもほどがあるんじゃないかい? だけど、上に述べたような細かいことだけじゃないのよ。実際には上に述べたようなことは瑣末なことで、問題はむしろそうじゃない部分の訳なのね。 訳として間違ってないんだけれども、野崎訳に比べ、村上訳は「切れ」が悪い。それは全体を通してそう。 例えばホールデンが母親から送られたスケート靴についてコメントするシーンを比べると・・・〈野崎訳〉 おふくろは見当違いのスケート靴を買ってよこしたんだけどさーー僕は競走用のスケートがほしかったのに、おふくろはホッケー用のを買ってよこしたんだーーしかし、それにしてもやっぱり悲しくなっちまった。僕はひとから贈物をもらうと、しまいには、そのためにたいてい悲しい思いをさせられることになる。〈村上訳〉 もっとも母が送ってくれたのは間違ったスケート靴だった。ほしかったのはレース用のシューズなのに、送ってきたのはホッケー用のやつだった。でもどっちにしても、けっこう哀しい気持ちになった。誰かに何かをプレゼントされると、ほぼ間違いなく最後には哀しい気持ちになっちゃうんだよね。 問題はね、最後の文の終わりね。野崎訳が「させられることになる」でピシッと切れるのに対し、村上訳は「なっちゃうんだよね」となっていて、なんだかずっこけちゃって、悲しみが伝わってこないわけ。野崎訳だと、この話をした時のホールデンの,一瞬、暗くうつむいた姿、目の奥の暗がりが見えるのに、村上訳だと「なっちゃうんだよね〜! ちゃんちゃん!」というイメージが出て来てしまって、どうにも締まらない。 要するにね、そういうことですよ。村上訳だと、あるセリフの言葉遣いと、それを言っている時のホールデンの姿とが、合っていないと(私には)思えるところが多過ぎる。本当に細かいところなんだけど、こういうのが積み重なって行って、私にとってのホールデンのイメージが、村上訳によって崩されてしまうんですな。だから、いちいち「ちげーよ」って言いたくなる。 野崎訳にはそういうところはないんだなあ。それから、もう一つ言わせてもらえれば、野崎訳より前の橋本福夫訳にもそういう不自然なところはない。この二人は学者だからね、訳すとなったら黒子に徹するところがある。 だけど村上さんは小説家だからねえ。やっぱり自分も書く人だから、筆が滑るんじゃないかなあ。 というわけで、異論・反論がたーくさんありそうですけれども、少なくとも私にとって『ライ麦畑』の訳は、やっぱり野崎訳にトドメを刺すと。そういうことですな。ライ麦畑でつかまえて/J.D.サリンジャー/野崎孝【1000円以上送料無料】キャッチャー・イン・ザ・ライ ペーパーバック・エディション/J.D.サリンジャー/村上春樹【1000円以上送料無料】
December 30, 2018
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最近、学生にレポートを課したりした場合、提出されたレポートを読んでいると、それが游明朝体で書かれたものであることが増えたような気がするのですが、どうなんすかね? まあ、私はこれまでフォントといえば、日本語は「MS明朝」、英語は「Century」を使うことが多かったのですが・・・っていうか、それしか使ってこなかったのですが、これだけ游明朝が増えてくると、何となく気になりまして。 ちょっと調べると、游明朝体というのは、縦書きにした時に美しく映えるように設計されているのだとか。ふうむ・・・。そうなのか。 で、確かに、パソコンのスクリーン上で見ても、游明朝はクセがない。游明朝で書かれた文章を、MS明朝に直すと、なんだか少しギラギラしてぎこちなく見えてしまう。好みから言っても、確かに游明朝体は私の好みかもしれない。 うーん。どうすっかなあ。この際、覚悟を決めて、これからは游明朝体を主に使うと決めるか・・・。 ま、こういう点については保守的なワタクシ。もう少し逡巡してから、MS明朝 vs 游明朝問題に決着をつけたいと思うのであります。
May 20, 2021
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某有名経済誌に掲載する5500字の記事を4日かけて書き上げ、家内の内助チェックも済ませました。あとは9月上旬の提出日までとりあえず置いておいて、たまに読み返して細部を洗練させるくらいかな。 しかし、とにかく仕事が一つ終わった。 文章を書く仕事って、終わるかどうかなんて最初は分からないからね。何日かけても書けないかも知れない。その恐怖と闘いながら書くんだから。書き終わった時は、どっと疲れる。いや、別に疲れはしないけど、呆ける。 で、呆けている時は何もできないから、本を読む。 今日読んでいたのは、中田耕治という人の書いた『私のアメリカン・ブルース』という本。1977年の本だから、かれこれ半世紀ほども前の本ですな。 なんで中田耕治の本を持っているかというと、昨年の秋から今年の春にかけ、事典の仕事で翻訳家・作家の常盤新平のことを調べていた時、常盤さんの師匠の一人が中田耕治だったから。 中田耕治は1927年生まれだから、私の父の一つ年上。だから、まあ、親世代ですな。1924年生まれの私自身の師匠とも年代は近い。そんなジェネレーションが上の人のアメリカ文学論が読みたくなったのよ。 で、読んでみると、懐かしいんだなあ。ああ、昔のアメリカ文学論って、こんな感じだった! という気分が波のように押し寄せてくる。ほんと、文学を勉強しているというのではなく、文学を生きている、文学を呼吸しているという感じなのよ。 だから、浪花節みたいな感じで、文学論と自分自身の人生論がないまぜになっている感じ。でも、そうやって引き付けて読んで、自分の全存在をかけてアメリカ文学と格闘しようとしているところが、面白いんだなあ。だって、それ以外に文学の読み方なんてないじゃん。 今時の若い大学院生なんかの、猪口才にかしこぶった、他人事みたいな論文とは全然違う。 それにやっぱり昔の学者さんは読む量が違うよね。私の師匠もそうだったけど、万巻の小説を読んだ挙句の、特定作家についての論だから、幅と深みが違う。 そうだよなあ、こういう文学論に憧れて、俺はこの道に入ったんだよな、という気分。 まあ、呆けている時期に読むものとしては、イイ感じでした。こういう先達の姿勢こそ、見習わなくてはと思いましたからね。
August 30, 2025
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昨日、文化の日は、我等夫婦の結婚式記念日でもあったので、夜、塩釜口というところにある「ブラッスリー・クー」というお店で、奮発してフレンチを食べてきました。 何度も来ているお店ですが、昨日も美味しかった。特にホタテとエビの身の入った青りんごのドレッシングのサラダが絶品。オニオンスープも美味しかったし、魚料理も抜群。最後の鶏の煮込みも美味しかったのですが、この歳になると魚料理と肉料理を両方備えたフルコースはきつくて、最後まで食べたら満腹+アルファになっちゃった。 でも、記念日にふさわしい豪華ディナーとなりました。このお店、教授のおすすめ!です。 で、幸福にお腹を満たして、そのまま帰ればいいようなものの、そうならないのが私の常。 前にこのお店に来た時、お店の近くに「無人古着屋」なるものがあることを発見したので、昨日は帰りがけにそのお店に入ってみたのよ。何せこのところ、ワタクシは空前の古着ブームだからね。 で、無人古着屋というのには初めて入りましたけど、確かに店は開いているけど、店主・店員はいない。服を買いたい人は、料金箱に釣銭のないよう、値札通りの料金を入れる仕組み。 なるほど、無人の餃子屋さんとかと同じ仕組みですな。 で、早速、服を見始めたのですけど、店もそんなに広くはないので、あっという間に見つくしちゃった。 でもその中で一点、ちょっと気になる服がありまして。 それはバーバリーのコートでね。カーキ色で、毛布のようなライナーがついている。襟の形に個性があり、なかなか面白い。 で、羽織ってみると、これまたいい。バーバリーのコートが3千円なら、ちょっと考えるじゃない? 難点が一つあって、コートの内側に刺繍で「中村」というネームが入っている。これ、元は中村さんのコートだったんですな。 で、さんざん迷った挙句、今回は見送ることに。さすがに前の持ち主の名前が入っているのが気になるし、何度も羽織った結果、やはり少しだけ私にはサイズが大きいような気がしてきましたしね。 だから、収穫は無しだったんだけど、それでもアレコレ探したりするのは面白かったです。宝探しみたいなものだからね。 で、思ったのだけど、ブランド品って、古着になるとより一層、その価値が分かるね。 やっぱりデザインといい、品質といい、これはバーバリーだ、という主張がある。凡百の古着の中で、ブランド品は生き残る。生き残るだけのものを、ブランド品ってのは持っているんですな。 そういうことも、古着を楽しむようになってから分かってきたのであって、これも人生勉強よ。 とまあ、そんなわけで、昨日は美味しいフレンチと、古着の宝探しで、面白い夜を楽しんだのでした。
November 4, 2025
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このところ母の具合が悪く、やれめまいがする、心臓の動悸が激しい、首筋が攣るようだ、血圧が高い、などと怖いことを言うのに加え、昨日は一日ほとんどものを食べていないので、これは何か問題があるのではないか、脳梗塞とかクモ膜下出血の前兆なのではないかと、私としては超不安。 で、今日は朝から市の「休日診療所」ってところに連れて行ってみたのですが、ここは風邪とか腹痛とか、その程度の診療しかしておらず、脳の検査など出来ませんと断られ、別な大病院にもちらっと行ってみたものの、救急医療班は手がいっぱいで、自分で歩ける人なんか見ている余裕ありませんと門前払い。 ま、そりゃそうなんだろうけど、もしこれで母がクモ膜下出血か何かで倒れて不帰の人にでもなったら、あーた、わたしゃ恨むよ、あんたらのことを。 さてさて、そんな調子ですから、あまり気合いを入れた勉強には身が入らず、昨日は一日、英語の勉強をしておりました。 使ったのは『DUO 3.0』という割と有名な、そして評判のいい英単語集なんですけど、これね、実際に使ってみたら、確かにすごくいいものだったんです。大学受験の時以来、英単語集で単語を覚えていて「面白い!」と思ったことなんか今まで一度もないですけど、この本は面白いの。そう、英単語集なのに、すっごく面白いんです。 この単語集には特長があって、覚えるべき英単語(1600語)と英熟語(1000語)を、重複なしで(この重複なしで、というところがまずスゴい)560個の例文として提示してあり、これらの例文を例文ごと覚えることで、トータル2600もの英単語・英熟語をマスターできると。 しかし、まあ、例文を使って単語や熟語を覚えさせるというだけであれば、類書が山とあるでしょう。 だけど、その先がすごいのよ。 今、560個の例文が挙げられていると言いましたが、この560個の例文に、なんとなくストーリーがあるんです。前の例文と、その次の例文の間に、なんとなくストーリーがあるの。だから、まったく関連性のない例文を560個覚えるのではなく、なんとなく関連性のある、つまりストーリーのある例文を覚えるので、例文にバックグラウンドが生じるわけね。だから、まったく関連性のない例文を覚えるのと違って、頭の中に入り易いんですわ。 例えば、「Whenever I go abroad, I suffer from jet lag and diarrhea.」(外国へ行くと、いつも時差ボケと下痢に悩まされる)という例文の後に、「I feel sort of dizzy and I feel like throwing up.」(めまいがするし、吐き気がする)という例文がくる。そしてその次の例文は「Take some aspirin. It will cure you of your headache in no time.」(アスピリンを飲みなさい、そうすれば頭痛なんてすぐ治まるよ)という例文が来て、さらに次の例文は「I'm afraid I'm coming down with something.」(なんか病気をうつされたようだ)ってな例文が来て、このあたりはずっと病気関係の例文が続くわけですな。 しかし,その次の例文は「Some of the ingredients in this beverage are harmful, especially if you are pregnant.」(この飲み物に含まれる成分には有害なものがある,特に妊娠中の人にとっては)という例文が来て、さらにその次には「Good nutrition is vital for an infant's growth.」(十分な栄養摂取は幼児の発育にとって極めて重要だ)とあるので、話題が「病気」のことから「妊娠・乳幼児」系の方面に少しズレたことが分かります。 こんな感じで、例文間に何らかの関連があるのだけど、それが少しずつズレて行きながら、どんどん違う話題に移って行くという。だから覚え易いと同時に、飽きないんですな。 で、そういう飽きない例文を辿りながら重要単語・重要熟語をさらっていくことが出来るわけですが、特にこの本の最後の方になると、人間関係の話題になっていて、色々な人名が登場してくるんです。 で、そういう人名の登場してくる例文を読んでいると、個々の人名(っていうか、その名前を持った人物)には、どうやら特定のキャラクターが備わっているんだというのが分かってくるわけ。 例えばボブ。 ボブの出てくる例文を見ると、「Bob felt embarrassed when he was teased in front of some girls.」(女の子の前でからかわれて,ボブが恥ずかしかった)とあり,その次の例文では「His ambiguous reply made her all the more irritated.」(彼の曖昧な返事は、なおさら彼女をいらだたせた)とあって、さらに「Bob is very timid and blushes when chatting with girls. 」(ボブは臆病で、女の子と話をすると赤面してしまう)なんてありますから、あれ、ひょっとしてボブ君は奥手で、優柔不断な「もてない君」なのかなと想像がつく。 で、ちょっと後の方でボブが再登場したと思ったら、「Bob derives pleasure from observing insects.」(ボブは昆虫の観察に楽しみを見いだす)とあって、あらあら、とうとうボブは女の子と付き合うのを諦めて、虫の方に行っちゃったよ・・・と。 そうかと思うと、「After making sure she was sound asleep, he crept out of the room and set off.」(彼女がぐっすり眠っているのを確かめた後、彼は部屋を抜け出し、外へ出た)なんていう例文があり、その後に「Between you and me, Lisa, I came across Nick passionately embracing a woman.」(リサ,ここだけの話だけど、ニックが女の人と熱い抱擁を交わしているのを見ちゃったんだけど)、なんて例文が来て、どうやらリサとニックの夫婦には、何か危機的な状況が生じている様子。さらにそのちょっと後には「Once in a while, I think of divorcing him.」(時々、離婚のことを考える)なんて例文が来ますから、二人の決別はかなり決定的な様子。 で、そうこうしているうちに、本書でも指折りの性悪女、ジェニファーが登場してくる。 「Jennifer deceived me! / You should have known better than to trust her.」(ジェニファーに裏切られた!/彼女を信じたあなたが馬鹿なのよ)という例文で登場するジェニファーですが、その後「Jennifer left me for another guy.」(ジェニファーが俺をふって他の男のところに行きやがった)とか、「"Living here all by myself is torture!" he sobbed.」(ここで自分一人で暮らして行くなんて、拷問だ、と彼はすすり泣いた)などの例文が来ますから、いかにこの女が男を泣かせて来たかが分かります。しかしジェニファーの腹黒さってのは底知らずで、「Speaking of Jennifer, she got engaged to a businessman. / I'm at a loss for words! I hope she won't break it off.」(ジェニファーと言えば、彼女、実業家と婚約したんだよ/あきれてものが言えないわ。破談にならなきゃいいけど)という例文の後、「These days, the motives for marriage are not necessarily pure. Take Jennifer for example.」(近頃では、結婚の動機は必ずしも純粋なものとは限らない。例えばジェニファーを見てご覧よ)という例文が来る。もうジェニファー、どこまで腹黒いんだっ!! とまあ、そんな感じで色々な人物間の恋愛事情が例文の中から浮かび上がってくるのですが、それを踏まえた上で、この本の最後の最後にくる3つの例文がまたいいのよ。 「Go easy on Bob. You know, he's been going through a rough period recently.」(ボブには優しくしてあげて。だってほら、彼最近、辛いことがあったでしょう)と来て,その次に「By the way, do you have the time? / Let's see. . .It's a quarter to eight.」(ところで、今何時?/えーと、8時15分前)と来て、そして本書一番最後の例文が「Let's call it a day, Bob. I'm starved. / Yep. I'll buy you dinner.」(もう今日はこの辺にしましょうよ,ボブ /そうだね。今日は僕が夕食をおごるよ)となっている。 つまり、ニックと離婚したリサと、ジェニファーみたいな性悪女に翻弄され続けた奥手のボブが、どうもちょっといい感じになって来たんじゃないの? というところで本書が終わるわけ。もちろん、明確には書いてないですよ。だけど、何となくそういうことなんじゃないの? というほのめかしで終わる。 この、よくわからないけど、なんとなくそうなんじゃないの? という、ゆるーいほのめかしが最高に良いのよ!! 最後の方なんて、もう、面白過ぎて、あたかも上手に書かれた小説を読むかのように英単語集を読んでしまったという。一言で言って、堪能しました。先にも言いましたが、英単語集・英熟語集を読んでいて、こういう面白さを味わう経験って、いまだかつてなかったわ・・・。 で、肝心の英語のお勉強ですが、本書で扱われる単語・熟語のレベルから言って、大人の勉強に十分耐えます。大学生はもちろん、英語のスキルアップを狙っている社会人に最適。 というわけで、世評が高いのも納得のこの一冊、教授の熱烈おすすめ!です。DUO 3.0 [ 鈴木陽一 ]
May 5, 2018
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昨夜、レイトショーで『ジャージー・ボーイズ』という映画を観てきました! 以下、ネタバレ注意!! これ、1960年代からアメリカで人気のあったニュー・ジャージー州出身のポップ・グループ、「フォー・シーズンズ(後に「フランキー・ヴァリとフォー・シーズンズ」に改名)」の結成から解散まで、そしてその後を描いたもので、もともとブロードウェイ・ミュージカルとして成功した後、売れ線のものへの嗅覚の鋭いクリント・イーストウッド監督が映画化したんですな。 で、ニック(ヴァリトン)とバンドを組んでいたトミーが、天与の美声の持ち主フランキーをリクルート、その後、作曲の天才ボブ・ゴーディオが加わって最強の4人組が出来上がるのですが、そうなってくるとバンドとしての強みはフランキーとボブの存在に掛ってくるわけで、バンド・リーダーであるトミーの存在意義が薄れてくる。 で、そのことに焦燥感を募らせたトミーは、バンドのお金を使い込んだり、金銭面で次々と問題を起こすようになり、またトミーの生来の横暴さを長年耐えて来たニックもそろそろ我慢の限界に近付いて、結局、トミーとニックがバンドから脱落し、人気の絶頂にあった頃、このグループは事実上崩壊してしまう。しかも、トミーが拵えた莫大な借金をフランキーとボブが返済することになったので、二人はそれこそ死に物狂い、コンサートであれクラブであれ、とにかく歌えるところならどこでも歌うというような感じで働きづめになった結果、借金は返済出来たものの、フランキーの結婚生活が崩壊。その影響で、フランキーの末娘フランシーヌはドラッグ中毒で死亡と、私生活はぼろぼろ。 それでも、フランキーとボブの結束で、ヒットを飛ばし続け、ついにフォー・シーズンズは長年の功績が評価され、1990年に「ロックの殿堂入り」を果たすんですな。で、そこで四半世紀ぶりにオリジナル・メンバーが顔を合わせるのですが、それぞれ別の道を行くことになったとはいえ、そこは「ジャージー・ボーイズ」の結束。すべてを水に流して、一日限りの再結成で、往年のヒット曲を歌いまくる・・・ ま、そんな感じの映画です。 で、この映画に対する私の評価は・・・ 「73点」でーす。とりあえず合格。 減点分の27点は、クリント・イーストウッド監督のしょぼい演出によるもの。多分これ、ミュージカルで見たら、もっとテンポよく、面白く観られると思うんですけど、イーストウッドがせっかくの素材を台無しにしたんじゃないかな。 御大イーストウッド監督ご自身は、「自分は音楽ものには強い」という錯覚をしているらしく、『バード』とか、しょうもない映画を沢山撮ってますけど、あなたは音楽ものに限らず、どんなジャンルの映画でも監督の才能ないですから! 俳優業に専念して、監督業からは手を引いて下さい!! でも、この映画を観ると、いかにフォー・シーズンズが偉大なバンドだったか、またボブの作曲能力とフランキーの独特の歌唱法が、いかにすばらしい奇跡のコラボだったかが良く分かります。もうね、私なんぞ、帰宅した途端に、速攻でフォー・シーズンズのCD買っちゃったよ。 で、YouTube とかも観ていたのですが、その中で、今年の7月4日、アメリカの独立記念日に、ワシントンDCでフランキー・ヴァリが歌っている動画がありまして、これがね、ものすごい。 だってフランキー・ヴァリって1934年生まれですよ。今年80歳じゃないですか。その80歳のおじいさんが、とてもそんな歳とは思えないほど若々しく、えも言われぬほど艶っぽく、キレキレの歌を聞かせてくれているんですから、見始めたら目が離せない。私なんぞ100回くらい、繰り返し観てしまいましたよ。これこれ! 必見!! ↓おん歳80歳のフランキー・ヴァリの超絶パフォーマンスを観よ! ということで、『ジャージー・ボーイズ』という映画自体に関してはそこそこの評価に留まりましたが、フォー・シーズンズ、とりわけフランキー・ヴァリ&ボブ・ゴーディオに対する評価はあらためてウナギ登りになってしまった私なのでした、とさ。
October 16, 2014
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以前、県内の中学3年生を対象とした英語の統一試験問題を作成したことがあります。で、その時、私が用意した英語の文章の中に「sky」という言葉が使われていたんですね。もちろん、「空」という意味です。 ところが、これにクレームがついたんですな。県内の中学校で使われているA社、B社、C社の英語教科書すべてに使われていない英単語は使ってくれるな、というわけ。しかし、ただでさえ中学で習う英単語の数が限られているのに、その上さらに、3種の英語教科書のすべてに使用されている英単語だけを使って試験問題を作るなんて、並大抵なことではありません。で、結局出来上がった試験問題の英語は、どうみてもヘンテコリンな英語になってしまったのでした。それを監修した私としては、もう恥ずかしくて、恥ずかしくて・・・。 つまり、日本の教育界のおかしな平等主義からすると、「スカイ」という、なかば日本語と化した言葉すら公式には使ってはいけない、そういう妙な英語が教えられているわけですよ。 馬鹿馬鹿しいじゃ、ありませんか。 文部科学省の学習指導要領がどうやって「中学必修英単語」を定めているのか、私は知りません。多分、コンピュータで使用頻度などをもとにはじき出しているのでしょう。しかし、その結果がこれですわ。本来、「最低限の教育内容」を示すべき学習指導要領ですが、結局、「これ以上のことは教えるな」という禁止方向の目安として使われているのが実際なんです。 ところで、この種のアホ臭い学習指導要領の対極にあるものとして、「ベーシック・イングリッシュ」というものがあります。イギリスの言語学者C・K・オグデンという人が開発し、オックスフォード大学が特許を持っている外国人向けの英語教授法で、もうかれこれ70年を越す歴史を持っているのですが。 で、ベーシック・イングリッシュの最大の特徴は、原則としてわずか850語の英単語のみであらゆる英語の発話を可能にする、ということなんですね。850語って、すごく少ないですよ。しかもその大半は、それこそ中学校で習うような、ごく簡単な英単語ばかり。日本の高校生なら、大概、これ以上の英単語を覚えているはずです。で、ベーシックのすごいところは、850語で発話するからこそ、ナチュラルで優れた英語が話せるようになる、という風に考えていることで、これは決して、学習者に負担をかけないよう、このように少ない語数に設定されているのではありません。そこが、日本の学習指導要領とは大違い。ちなみに、この850語の中に「sky」という語は含まれています。ベーシックでは、「sky」という言葉がなくては英語は言語として成り立たない、と考えているんですな。 逆に、「ええ!」と思うような英単語が、この850語には入っていません。たとえばベーシックの世界には「can」という言葉はありません。その代わり、「able」という言葉と「possible」という言葉が入っているので、「can」は必要がないと見なしているんです。同じように、ベーシックの世界には「home」という言葉もなければ「chair」という言葉もありません。その代わりに「house」という言葉と「seat」という言葉があるので、それ以外は必要がない、と判断しているわけ。もちろん、こうした一つ一つの単語の取捨選択は、恣意的なものではなく、逆にベーシックの世界を知れば知るほど、そこに恐ろしいほどの熟慮がなされていることを感じさせられます。英語を成り立たせるのに必要最低限のものだけがそこにあるので、他の言葉で代用が効くものは一つも入っていないんです。 しかも、もっと驚くのは、ベーシック・イングリッシュで使われる動詞が16個しかないこと。これは一体どういうことなのか。 つまりベーシック・イングリッシュの世界が我々に指し示しているのは、「英語というのは、名詞中心に成り立っている言語だ」ということなんです。 たとえば「座りなさい」という言い方を、英語に直すとしましょう。日本語は動詞中心の言語なので、この文章の中心を成すのは、「座る」という動詞です。ですから、日本人は通常、この「座る」という日本語の動詞を、英語の動詞に変えようとします。つまり、「sit」ですよね。で、「座りなさい= Sit down.」ということになる。 ところがベーシックの世界には「sit」という動詞がありません。「座る」ということに関連して、ベーシックの世界に残っているのは、「seat(椅子)」という名詞しかない。そこでこの名詞に、ベーシックの世界にある16個の動詞のうち「have(ないし、take) 」を組み合わせ、「Have a seat. Take a seat.」という言い方をするわけ。ベーシックでは、大概、基本的な動詞と名詞を組み合わせて発話することになっていますのでね。 ちなみに、「Sit down.」という、まるで警察が犯人に向かって命令するような口調の英語と、「Have a seat. Take a seat.」という英語と、どちらが一般的な英語表現として優れているかは、言うまでもないでしょう。 ま、ベーシック・イングリッシュというのはこういう調子で、名詞中心に厳選された850語という非常に限られた単語数の言葉を組み合わせることによって、きわめて英語らしい英語の発話を可能にする、非常によく考え抜かれたシステムなんです。英語の世界全体を「大宇宙」とするなら、ベーシック・イングリッシュは非常にコンパクトなひな型、英語の「小宇宙」と言っていい。 ところで、小宇宙としてのベーシック・イングリッシュの存在意義が奈辺にあるかと言えば、それはもちろん、外国人が手っとり早く英語を習得するための道具、ということに尽きます。850語の英単語さえ覚えれば、基本的にすべての英語の発話が可能だ、というのですから、外国人が英語を習得するという時、これほど楽なことはないでしょう。ということで、私は個人的に、ここ数年「ベーシック・イングリッシュ」というものに興味があって、大学での英語の授業でも、これを教えています。 ただ、ベーシック・イングリッシュは、ここ数日話題にしている英語教授法、すなわち「メソッド」というものとは、少し違うような気がするんですよね。英語の「システム」をミニマムな形で提示しているだけで、トータルな訓練法を用意しているものではないですから。ですから、私はベーシック・イングリッシュをもって、日本の英語教育のためのメソッドにせよ、と言いたいわけではありません。 しかし、すごく興味深いシステムだとは思うんですよね。少なくとも、日本人が一番苦手とされる、スピーキング技能面について、ベーシック・イングリッシュのシステムをもとに、メソッドを開発する、ということはあり得ると思うんです。 ただ・・・、ベーシック・イングリッシュって、どういうわけかマイナーなんです。一部に少数の熱烈なファンを持つものの、日本の英語教育界で大きく話題になったことなんか、ほとんどないのではないでしょうか。むしろ、「色物」視されていることの方が多いような気がする・・・。そこが残念なところなんですが。でも、繰り返しますが、ベーシック・イングリッシュの世界をかいま見ると、なるほど英語というのはこういうものか、というのが判ってくることは確か。英語教育に携わっている人はもちろんのこと、英語に興味のある方は、ぜひ一度、お試しあれ、と言っておきましょう。 さて、ここ数日、実現可能な英語教授法が確立していないことへの不満に端を発し、この問題を巡ってあれこれ書いてきました。明日は、その最終回として、先日、友人たちとの雑談の中で耳にした、大学における英語の授業のあれこれについて、お話することにいたしましょう。それでは、また明日!
June 21, 2006
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今日も朝から紀要関連の仕事。一つには、自分自身の紀要論文を書かなくてはならないということで、前に「そんなもん3日で書く」とか豪語しましたが、ウソばっかりで、もう2週間もかかっているという・・・。でも、もういい加減、仕上げないとね。 それと同時に、他の先生方の紀要論文の編集もある。この紀要は、私が版下まで全部編集するので。今は、初校の校正を反映させた最終版を作っている最中なのですが、細かい作業なのでなかなか疲れる。 ま、あと数日のうちにはすべての作業を終わらせて、印刷所に入稿しなければ。 さてさて、「昭和の男」シリーズですけれども、今日は私が小学校低学年くらいだった頃のお菓子について。 この頃どんなお菓子を食べていたのか、思い出すのですが、たとえばチョコレートだと、明治のデラックス・チョコレートを思い出します。黄色いシマシマの包み紙の。で、その対抗馬がロッテのガーナチョコね。独特の味がして、私はこちらの方が好きでした。 あとね、1969年のアポロ11号月面着陸がらみで登場した明治「アポロチョコ」。円錐形で、ミルクチョコと苺チョコの「ドッキング」というところが泣かせる。 それからチョコベビー。これも明治か。プラスチックの入れ物に入っているところが売りの奴。マーブルチョコも明治ですな。明治はチョコ系が多いなあ。 それから、グリコで言うと、ペロティね。表がホワイトチョコ、裏がミルクチョコ、そしてホワイトチョコの面には当時のアニメのキャラクターとかが描いてある。あれも遠足のおやつとかでよく食べた気がしますなあ。 あと、森永のチョコフレーク。これも遠足とか運動会の時の必須アイテム。ただし、遠足とか運動会でこれを持っていくと、熱でチョコが溶けちゃって。それで家に持ち帰って冷蔵庫に入れ、あとでまた食べようとすると、全部が一つの塊になって、岩石みたいになるという。これ、「チョコフレークあるある」じゃね? あ、それから、森永と言えば「ハイクラウン」。ちょっと高級な奴。一見煙草みたいなパッケージで、中身も一個一個、個別包装というところが、ちょっとハイソな感じで。 おっと、森永といえば「小枝」も忘れられない。小森のおばちゃまが宣伝してた奴。 あとさあ、一風変わったところでは「不二家系」があるじゃない? チョコでいえば「ペンシルチョコ」と「パラソルチョコ」ね。子ども心に不二家のお菓子って、ちょっと特別感があって、テンション上りましたよね。 不二家では、「ママの味」のミルキーや、ユーミンのCMソング(「ほっぺたにプレゼント」という奴)が素晴らしかったソフトエクレアのようなキャラメル系もよく食べたけど、思い出深いのはノースキャロライナね。私は何度、ノースキャロライナを食べていて、奥歯に被せた銀冠が取れたことか。これはノースキャロライナあるあるですな・・・私だけ? キャラメル系といえば、定番は森永のミルクキャラメル。そしてその高級版のハイソフト。で、その対抗馬がグリコ・アーモンドキャラメル。グリコと言えば「おまけつき」ですけど、ま、私はそれほどおまけには惹かれなかったかな。 あと、サイコロキャラメルってのもよく食べた記憶がある。あれは明治か。明治のキャラメルではほかにヨーグルト・キャラメルってのがあって、これはたまに食べたけど、たまに食べるくらいでちょうどいいシロモノでしたかね。 ガムだと、やっぱりロッテのグリーンガム。そしてコーヒーガム。それから色々なところが出していたフーセンガムもあれこれ食べたけれども、最近、子どもがフーセンガムを膨らましているのを見かけないなあ。 あと、マルカワのガムってのがありましたよね。丸いオレンジのガムが4つ入っている奴。 それから、ちょっと衝撃的だったのが、ガムの王者ロッテの「イヴ」。香水入り、というのが売り。今から考えると胸が悪くなりそうですけど、当時としては洒落た感じがしました。 アメ系だと、よく覚えているのはレモン味のタブレットの奴。名前忘れた。あ、「レモンドライ」か。あと、「ミオ」っていうのもあった。白地にツブツブの奴。「食ーべてー、ミオーー」っていうCM。でも、時々、大きいまま呑み込んでしまって、窒息しそうになった悪夢のような記憶が・・・。 あと、アメ系で思い出すのは、初めて「イチゴミルク」を食べた時の衝撃。最後、カリカリしててめちゃおいしい。あれは好きだったな。 衝撃のアメといえば、「小梅ちゃん」も思い出す。最初、ちょっと梅干しっぽい味の。塩味にドキッとさせて、その後徐々に甘くなるという。 アメの定番「佐久間ドロップ」では、私の嫌いな白い薄荷味の奴がどうしても残る、というのがあるあるですな。 あ、あと、キャンロップがある! それのヨーグルト味! あの大き目な赤血球みたいな形、懐かしいなあ。 味覚糖系だと「純露」とか。小鹿みきが宣伝してた奴。小鹿みき・・・今どうしていますかね? と思ってググったら、名古屋で「MEMBER'S みき」なるバーを経営ですと。マジかよ。行っちゃおうかな。 スナック菓子だと・・・明治のカール? もう、あれと、カルビーのサッポロポテトは子供の時にあまりにも食べ過ぎてしまって、今、食べる気がまったくしないという。 それから車輪みたいな形の「スピン」っていうスナックがあったなあ。あんまり好きじゃなかったけど。 プリッツも私の世代だけど、私はそれほど思い入れがない。私にとっては「硬い」ってイメージがあるのよ。棒みたい、っていう。棒なんだけど。だから、「ポッキー」にもそれほど思い入れがないの。私は、お菓子はもっと柔らかいものであってほしいのよ。 あとね、子どもにとって衝撃的だったのは、東鳩のキャラメルコーンが出た時かな。あれ、塩味のピーナツかなんかが一緒に入っているじゃない? 柿ピー的なところを狙ったのでしょうか。 東鳩っていうと、これまたちょっとお菓子界の異端児的なところがあって、「オールレーズン」とか。CMが良かったよね。「さよならの朝~」って。子どもには重いって。っていうか、そもそも「東鳩」っていう重箱読みのメーカー名が渋い。 甘い系だと、ビスコが懐かしいものの、これも子供時代に食べ過ぎて、もう食べられない。あとポロンとかね。粉っぽいクリーム、今もそうなのかな。 アイスクリーム系でいうと、1本10円のホームランバー。懐かしい。当たりがあると嬉しくてね。あとさ、「ドルピス」っての覚えてない? あれも1本10円だったような気が。こういうのって、今でいうと「ガリガリ君」的なものなのだろうけれども、私は「ガリガリ君世代」ではないんだよな。あれは私より一回り下の世代のものでしょう。 あと、メロン型の容器に入ったメロンシャーベットとか懐かしいな。 容器入りといえば、パピコがあるけど、あれもね、私はあまり買った記憶がない。あれも、どちらかというと、私よりももう少し下の世代のものなのではないかと。 それから、色物で言えば、宝石が入ったアイスクリーム、ってのなかった? 「宝石箱」か。雪印だっけ。値段が高くてあまり買ってもらえなかったけれど、よく考えると、その宝石って単なる氷なんだから、むしろ製造コストは安かったんじゃないのかしら。 しょーもない系のお菓子の筆頭といえば、タバコ型の奴。ほれ、何と言ったっけ・・・。そう「ココアシガレット」ね。遠足とかで絶対持ってくる奴が一人はいるという。別に旨くもないのに。 それから、チューブ入りのチョコとか。独特の味がして。ま、これも味というよりは面白味本位のものですけどね。 一方、しょーもない系を通り越して、子どもにとって盛り下がるお菓子の代表が「ぼんたんアメ」じゃありませんでした? なんか、オブラートみたいなのに包まれていて。あと「都こんぶ」。あれ、誰が買うもんなんですかねえ。 いやあ、やっぱり子どもにとってお菓子って友達ですから、思い出せば出すほど、いくらでも名前が出てくる。でも、これほどお菓子が多様化し始めたってのも、私の世代からじゃないかしら。その意味で、我々は恵まれていたのかもね。
February 28, 2016
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今日も教育実習生の授業参観だったのですが、私が見たのは中学校の道徳の時間。 で、今日のテーマは「ルール」で、使用した教材は交通違反の話でありまして。 朝日新聞に載った2つの投書が元になっているのですが、最初の投書は、警察による交通違反取締まりに憤慨したもの。親父さん危篤の報を受けてクルマで病院に向う途中、交通違反の取り締まりを受け、ようやく解放されて病院に到着したら、既に親父さんは亡くなっていて、死に目に会えなかった。で、「お前ら、どうしてくれるんじゃ! 法に情けはないのかっ!」という怒りの投書なわけ。 ところが、この後1週間ほどして、第二の投書が出た。こちらは先の投書を受けて、「お気持ち、お察しします」的な書き出しなんですな。 しかし、そこから転調して、実は私の叔母は、青信号の横断歩道を渡っている時にクルマに轢かれて亡くなりまして・・・と言葉を継ぐわけ。そして叔母を轢いた人は、病院に駆けつける途中で、心ここにあらずだったと。 要は、最初の投書の主を、後者が叱ったわけですな。「お前みたいなことを言う奴に、私の叔母は殺されたんじゃ!」と。 さて、この2通の投書を通じて何を結論付ければいいのか。 で、実習生は中学2年生にこのテーマで話し合いをさせたりしたのですが、結局、「後者の投書主が言う通り、理由はどうあれ、いかなる場合も交通ルールは守らないとね」的なところに落ち着いた。で、そこから実習生はさらに「皆さんも、交通ルールや校則やスポーツ・ルールなど、様々なルールの下に暮しているわけで、そういうルールは大切にしましょう」的なことを言って授業をまとめたんです。 まあね。無難なまとめ方なのかな。 だ・け・ど。 わしは納得できないな。 たとえ理不尽であっても、親の死に目に会うために急いでいる途中でスピード違反で捕まって、ぐずぐず手続きをしている間に親が死んじまったら、私ならそういう対応をした警察に対して荒れ狂うと思う。それが普通の人間の反応じゃないの? つまりね、法の正義と人間の諸事情ってのは、必ずしも100%一致するものではなくて、齟齬があるものなのよ。大体において一致するから妥協的に同意しているけれども。同意した方が、自分にとっても都合がいいから。 だけど、こういう極端なケースでは、その齟齬が剥き出しになるわけじゃん。もし、どんな場合でも例外なく交通ルールは守るべきだというのなら、救急車や消防車や容疑者追跡中のパトカーだって信号に従えということになるわけで。 だとすれば、その齟齬こそが議論の対象になるべきであってね。先の投書の例で、「後者の言うことがもっともなのであって、前者の言い分は間違い」と簡単にまとめてしまったら、そもそも議論なんかする必要がないのでありまして。 だから相手が中学生といえども、やっぱり、そこまで踏み込んで議論させないといかんのじゃないかと私は思うのですけど。例えば、スピード違反は違反として後で取り締まるとして、事情が分かった時点で、パトカーが当事者を先導して病院まで送るという選択肢はなかったのか、という意見があったって、悪くないんじゃないの? 警官は市民の税金で食ってる公「僕」であるわけだし。お前らにその「僕」の意識、あるのかよ、という糾弾があったっていいわけで。 ま、いずれにせよ、「やっぱり交通ルールは守ろう」ちゃんちゃん、という終わり方はないわなあ・・・。
June 7, 2019
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ついさっきまでNHKの番組で「大相撲AI場所」というのを見ていたのですが、これが意外にも面白くて、つい力の入った応援をしてしまいました。 大相撲の歴代横綱の中で、データがとれる時代以降の横綱に限り、そのデータをAIに取り込んだ上で、横綱同士、バーチャルに相撲を取らせる、という趣旨。で、3チームがそれぞれ3人ずつ好みの横綱を選び、総当たり戦で勝敗を競うというものだったのですが、何が面白いかと言いますと、時代の差ゆえに絶対に取り組みがあり得ない横綱同士がもし戦ったらという、時代を越えた取り組みを実現できるというところが面白いわけよ。 つまり、AI上で、例えば大鵬対貴乃花とか、玉の海対曙、あるいは千代の富士対朝青竜といった対戦が組めるわけですな。 でまた、最新のAIが良く出来ていて、バーチャルではあるのですが、各横綱の仕切りの特徴とか、立ち会いの特徴、得意技の特徴なんかが非常によく再現されているのよ。だもので、バーチャルだと分かっているのに、つい、本気で応援してしまうという。 AIのデータだけでなく、各チームの作戦なんかも反映するので、この勝敗がそのまま各横綱の強さの序列というわけではないのですけれども、例えば白鵬対貴乃花で、僅差で白鵬が勝った相撲なんか、ホントに二人がそれぞれの死力を尽くして戦っている感じがよく出ていて、なかなか面白かった。 ま、大相撲に限らず、どんな格闘技でも、「史上、最も強かったのは誰か?」ということがよく話題になりますけれども、AIが発達してくると、色々なデータを取り込むことで、そういう「最強」をはじき出すことも出来るようになるのかもね。 モンゴル相撲と化した現在の大相撲に興味はないのですけれども、往年の相撲ファンとして、この番組、いずれまた続編をやってもらいたいと思ったのでした。 ちなみに、この番組にやくみつるさんとデーモン小暮閣下が出演されていましたが、お二人とも私の高校の先輩で、私ももうちょい有名になって、先輩お二人に並んで相撲番組に出演できるようになりたいものでございます。
August 9, 2019
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メアリー・スチュアートというイギリスの女流作家が書いた『この荒々しい魔術』(原題:This Rough Magic, 1964)を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 メアリー・スチュアートなんて言ったって、今や誰も知らないだろうな。イギリス文学やっている人だって多分、知らないと思う。どの分野であれ、専門の研究者なんてなんにも知らないよ。 メアリー・スチュアートは、1960年代に流行した「サスペンス・ロマンス」の書き手。イギリスでもアメリカでも、大変な人気のあった人で、ハーレクイン・ロマンスの作家の中にも、この人の影響を受けた人は多い。ノーラ・ロバーツも確かそう。 まあ、サスペンス・ロマンスだから、事件がらみのロマンスなのね。ある事件が起こって、ヒロインがそれに巻き込まれる。で、その事件が解決に向かう中で、事件の関係者の誰か(最初、一番怪しいと思われた人物)と恋に落ちる的な。『この荒々しい魔術』も、大体そんな感じ。 主人公はルーシー・ウェアリングはまだ無名の女優。最近、割と大きな役をもらったのですが、その芝居が大失敗に終わり、逃げるようにロンドンを離れて姉であるフィリダ・フォルリの住むギリシャのコルフ島を訪れているんですな。フィリダが結婚した相手のフォルリ氏は名家の生まれで、ここコルフ島に大きな地所を所有しているわけ。 で、広大な敷地内には、姉が住む本宅の他に幾つかヴィラがあって、それを人に貸している。 その一つを借りているのがサー・ジュリアン・ゲイルという、イギリス演劇界の至宝。今は健康を損なって半ば引退し、この島で人々の好奇の目を避けながらひっそり暮らしている。で、息子で音楽家のマックス・ゲイルが同居しているんですが、このマックスがちょっと偏屈な感じ。 一方、もう一つのヴィラはイギリスの写真家、ゴッドフリー・マニングが借りている。 で、ルーシーにとっては女優としての失敗の記憶を払拭するための休暇だったのですが、こんな平和な島で、相次いで事故・事件が起こると。 最初の事故は、スピローという地元の若者の事故死。彼は写真家・マニングの助手として雇われていたのですが、ある夜、マニングが夜の海の写真を撮るために、夜、船を出した時、助手として同船したのですけれども、船から落ちて行方不明になってしまうんですな。 しかも、その直後、今度は地元の漁師で、ヤンニ・ゾウラスという男の死体が、岸に打ち上げられる。この男、隣国のアルバニアとの間で密輸をやっていたようで、しばしば夜に船を出していたのですが、どうもその際、帆船の帆桁に頭を打ちつけたらしく・・・。 で、好奇心旺盛なルーシーは、スピローの事故はまだしも、ヤンニ・ゾウラスの死には不審な点があると思い、マックス・ゲイルを疑います。実際、マックスは夜の夜中に船を出したり、何か大きな荷物を運び込んだり、妙なことをしているフシがある・・・。 そんな折も折、ある夜、ある事情からルーシーが夜中に岸で探しモノをしていた時に、こそこそと行動しているマックスにぶつかるんですな。で、マックスに口をふさがれ、家に連れ込まれてしまい、危機一髪! ところが! 事情は全然違った。 実は、行方不明のスピローは生きていたんですな。 スピローの話によれば、ある夜、ゴッドフリーに無断で彼の船の修理をした際、激しく叱責され、ちょっとふてくされていたところ、ゴッドフリーから夜の海の写真を撮るので手伝えと言われたと。で、ついて行ったら、ゴッドフリーに海中に置きざりにされてしまった。で、普通だったら溺れ死ぬところだったのですが、潮の流れが良かったのか、足の骨を折ったものの、アルバニアの海岸に流れ着いてそこで助けられたと。 で、ギリシャとアルバニアは関係が悪いので、正規のルートでは戻ってこれない。そこで、両国の間で密輸をやっていたヤンニ・ゾウラスが密輸品と一緒にスピローを連れ帰ることになっていた。ヤンニとマックスがこそこそやっていたのは、それだったんですな。なにせ、スピローは自分がゴッドフリーに殺されかけたと思っていますから、自分が生きていること、そしてギリシャに帰ろうとしていることをゴッドフリーに気付かれては困る。それで、マックスがひと肌脱いでいたと。 ところが、そのヤンニが死んだ。マックスとしては、多分、これもゴッドフリーが仕組んだことだろうと思い、仕方なく、自ら出かけてスピローを海上で受けとり、アルバニアの国境警備隊からの銃撃をくらいながらなんとかギリシャに戻ってきた。ルーシーが夜中に出くわしたのは、この時だったんですな。 で、マックスからその話を聞き、どうもゴッドフリーが怪しいということになり、なぜ彼がスピローやヤンニを殺した(殺そうとした)のかを突き止めようということになる。 で、ルーシーが時間稼ぎのために、ゴッドフリーをドライブに誘い、その間、マックスがアテネの警察にスピローを匿ってもらい・・・ってな、ハラハラ、ドキドキのアレがありまして。 ところが、マックスがアテネに行っている時に、ルーシーは、ゴッドフリーの悪事の証拠をたまたま掴んでしまうんですな。だけど、ゴッドフリーもその証拠を早く処分しようとしている様子。そこでルーシーは単身、その証拠を押さえようとする。 結局ね、ゴッドフリーは、大量の偽造通貨をアルバニアに売るということをやっていたんですな。当時アルバニアは周辺諸国と戦争状態、唯一の味方は中共だけ。そこへ大量の偽造通貨をばら撒けば、アルバニアの経済は破綻し、戦争の火種となる可能性大。ゴッドフリーはそういうことを企んでいたと。 で、それをスピローに嗅ぎつけられたかと思ってスピローを殺そうとし、またゴッドフリーの行動に不信を抱いたヤンニを殺してしまったと。そういうことだったらしい。となると、ゴッドフリーの悪事を暴くには、証拠の品となるその偽造通貨を押さえるしかない。 が! 隠し場所と思しき船の中を探っているうちに、ゴッドフリーに見つかり、ゴッドフリーはルーシーを乗せたまま海に出てしまった! ひゃー、このままではスピローやヤンニと同じように、海の上でルーシーも殺されてしまう!! で、実際、ルーシーは殺されかけ、海に落ちるのですが・・・ なんと、彼女はイルカに助けられるという・・・ イルカ? と思うなかれ、実はこの小説ではイルカが大きな役割を果しておりまして、それまでに二度、ルーシーはこのイルカの命を助ける場面があるのよ。それで恩に着たイルカさんがその恩返しにルーシーを岸まで送り届けます。 で、ルーシーがほうほうの体でコルフ島に戻ってみると、マックスらの計らいで、今まさにゴッドフリーは尋問を受けている最中だった。が、一番肝心な証人であるルーシーは既に死んでいると思っているゴッドフリーは堂々としらばっくれている。 そこで、ルーシーはここぞというタイミングで舞台にあがる女優のごとく、その尋問の真っ只中に入っていく。ルーシーがここで、ゴッドフリーの悪事をすべて暴けばゴッドフリーはもう一巻の終り。 で、ゴッドフリーは最後の悪あがきで隠し持っていた銃を取り出してルーシーに突き付け、彼女を人質にして逃亡を図ろうとする。 と、そこに名優、サー・ジュリアン・ゲイル登場! 彼は酔ったふりをしてふらりと修羅場に登場しつつ、酒瓶を投げて電球を叩き壊し、ルーシーを奪還! ゴッドフリーは一人で港に係留してあった船に向って逃走! ところが、その船のエンジンをかけた途端、どっかーん! と大爆発! 実はスピローの親友で、彼の妹のフィアンセでもある若者、アドーニが事前に船のキッチンのガス栓を開いておいたので、エンジンが点火した途端・・・。 とまあ、そんな感じで悪者は死に、一連の出来事の中で愛を育んだマックスとルーシーは婚約っていうね。ハッピー・エンドでございます。 ところで、本作は、シェイクスピアの『あらし』という芝居が、基調音になっておりまして、各章の冒頭に『あらし』の一節が引用されるんですな。で、療養中の名優・サー・ジュリアン・ゲイルは、このコルフ島こそ、『あらし』の舞台になった島だという説を唱えている。 ま、『あらし』と『この荒々しい魔術』に、筋書き上の類似はないのですけれども、孤島にかつてのイギリス演劇界の王が隠棲していたり、魚の怪物キャリバン的なイルカが居たり、生々しい殺人事件は起こるも、最終的には平和が来たりと、なんとなくね、それっぽいところもある。その辺が、教養のある人にはたまらないわけね。 とまあ、ハーレクイン・ロマンス的なものばかり読んでいると、たまにこういうの読むと、「おお、いいねいいね」と思いますな。 メアリー・スチュアートの『この荒々しい魔術』、なかなか面白いものでありました。これこれ! ↓この荒々しい魔術【中古】
September 18, 2019
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飛行機の中というのは案外、読書が捗るところでありまして、まあ、狭い場所に長時間閉じ込められるという状況が読書には持ってこいなんでしょうけれども、私は海外出張の時は大概、空港内の書店でペーパーバック本を買って機内で読む、ということを習慣づけております。 で、今回、ハワイからの帰国便の中で読んでいたのがスティーブン・キングの『If It Bleeds』という中編集。これこれ! ↓If It Bleeds: Mr. Harrigan's Phone, the Life of Chuck, If It Bleeds, Rat IF IT BLEEDS [ Stephen King ] スティーブン・キングのことにさほど詳しいわけではないのですが、読んでみると手練れの書いたものというのか、やっぱり読ませるのよね。ホントに上手に読者を作品世界の中に引き入れてしまう、っていう感じ。私も引き入れられてしまった・・・。 で、それはいいのですが、この小説集を読んでいると、使われている英語の構文が、私が『裏ワザ流英語術』という本の中で主張している構文ばっかりなのよ。まるでスティーブン・キング御大が、「そうそう、釈迦楽先生の言う通りだよ。英語っていうのは、こうやって書いたり話したりするんだよ」と、私の主張を裏書きしてくれているよう。 『裏ワザ流』の本、英語教則本の傑作だと自負しているんですけど、その割には売れていない。英語教育系の人たちから完全に無視されているからね。 だけど、実際にスティーブン・キングを読んでごらんなさいよ。キング自身が「裏ワザ流」で小説を書いているとしか思えないよ。ウソだと思ったら、キングの本と『裏ワザ流』の本、両方買って比べてご覧なさいな。私の本がいかに英語の本質を突いているか、分かるから。これこれ! ↓基本12動詞で何でも言える裏ワザ流英語術 [ 尾崎俊介 ] 英語を勉強したいと思っている人は、世にゴマンとある英語教則本なんか全部投げ捨てて、とりあえずこの本を読んでごらんなさいな。目からウロコ状態になること、間違いなしよ。
November 20, 2024
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ここ数日、楽天ブログがトラブル中で、全然更新できませんでした。ようやく、回復したのかな? というわけで、二、三日更新を休むとブログも調子が出なくなっちゃうんですけど、最近、ワタクシは何をしていたんだっけ? そうそう、断捨離だ。 前にも書きましたが、近々、自宅のリノベを考えておりまして、そのために少しずつ準備をしているところ。で、それを機に、断捨離をしているのよ。 結局、普通に生活していると、モノはたまる一方。しかもワタクシはモノへの執着が強いから、思い出のある品とか、捨てにくい。 だけど、せっかくリノベをするなら、自分自身もリノベしないとね。 というわけで、このところ、思い切って、色々なものを捨てております。 で、昨日は、近くにある家庭ごみ処分場に行って、クルマに積めるだけのものを捨ててきました。20キロ分くらい捨てたかな?と思ったけど、実際には60キロ分だったらしい。 だから、自宅も60キロ、軽くなったわけだ。大人一人分ですな。 まあ、でもこれは序の口で、この先、もっともっと沢山のものを捨てることになるでしょう。 思い出を捨てるってのは、ワタクシにとっては辛いことだけど、でも、それは今まで貯め込んだ人生の垢みたいなものを引きはがして、そこから自由になることでもある。その意味で今、還暦を過ぎ、人生の第3コーナーを回ったあたりで、余計な重荷を下ろすのも、いいことなのかもね。 そう思って、この際、バシバシと要らないものを思い切って捨ててやろうかな。
November 8, 2025
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昨日、美容院から帰って来た家内から面白い恋愛テストのことを聞きました。家内担当の美容師さんから聞いたらしいのですが、このテストで「あなたが恋愛対象に求めるもの」が分かるというのです。 さあ、皆さんもご一緒にどうぞ。 いいですか、あなたが恋人に求めるもの(条件)を3つ挙げて下さい。即答でお願いします。考え込んじゃダメですよ。ちなみに、家内からそう聞かれた時、ワタクシの答えはと言いますと・・・1 聡明であること2 優しく善良であること3 私の主観から見て好ましい容姿・物腰・声質であること でした。皆さんはいかがです? 3つ条件を挙げられましたか? さて、それでは次。この3つの条件をすべて同程度に満たした2人の恋人候補者がいるとします。その際、この2人のうち、どちらを選ぶかの基準として、4番目の条件を挙げて下さい。 挙げましたか? よろしい。ではこの恋愛テストの結論を申し上げましょう。 あなたが挙げた「4番目の条件」、それこそが、あなたが恋人に求める一番重要な条件でーす! ガーン! ちなみに、ワタクシはその4番目の条件として、「ユーモアがある人」と即答してしまいました。ということは、ワタクシが恋人に求める一番大きなものは「ユーモア」ということになるのでしょうか・・・。 私がこの「恋愛テスト」に一目置いたのは、この点です。よーく考えてみたら、たしかに私は「ユーモアのある人」が好きなのかも知れない・・・。いや、まさにそうだ! という気がしてきたんです。最初に挙げた3つの条件は、いわばベーシックなもので、それプラス「ユーモア」のセンスが効いていてはじめて、私はノック・アウトされるような気がします。 じゃ、どうして恋人選びの第一条件に「ユーモア」を挙げなかったんだろう? 「4つ目の条件」を問われてはじめて、最も「決め手」となる条件がポロッと出てきたとは、これ如何に?? 不思議だなあ! 私はこの種の「恋愛テスト」的なものなど、まるで興味がないのですけど、今回のコレに関しては、ちょっと一本とられてしまった、という感じですね。 さて、皆さんはどうでしたか? 「4つ目の条件」に思い当たるところはありましたか? 皆さんが恋人に求める一番重要な条件って、一体何ですか? 私と同じように、ご自身について何か発見があった方、レスポンスをお願いします。
October 8, 2006
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先日、『荒野のおおかみ』という本を読み始めて、あまりにもつまらなかったので、ヘルマン・ヘッセ大先生のことをクソミソに貶しておきましたが、ゴメン、ヘッセ、最後まで読んだら、それほどつまらなくもなかったわ。 最初の100頁くらいまで、すごくつまらないんだけど、そこから俄然、面白くなる。というのは、そこでヘルミーネという女性登場人物が出てくるから。そりゃそうだよね、50歳の男がごにょごにょ言っているだけの話なんて面白いはずないのであって、そこで女が出てきてようやく小説っぽくなる。 で、思ったんだけど、やっぱり文学って、女なしでは成立しないなと。そこは超・納得してしまった。 さて、それで忘備録としてこの本のおおよその内容を記しておきたいのだけど、主人公はハリー・ハラーと名乗る男。これが部屋を借りるために、ある家主を訪れるところから話が始まるんですな。で、家主のおばさんの甥っ子がやはりこの家に間借りしていた。で、その甥っ子がこの本のいわば最初の語り手になると。で、この甥っ子の観察によると、ハリーは50がらみの初老の男(20世紀最初の四半世紀だと、50歳で初老と言われちゃうのね・・・じゃあ、ワタクシなんぞは立派な老人だ)で、足が悪く、杖を突いているので余計老人っぽく見える。学者ではないようだけれども非常に知的、古今東西の文学に通じ、クラシック音楽にも造詣が深い。ただその生活は規則正しいものではなく、むしろ破天荒、酒も相当に飲むらしい。しかし、なぜか妙に人を惹きつけるところがある。 で、ハリーはこの家に10か月弱滞在した後、ふいっと姿を消すんですな。その際、手記を残していった。その手記の扱いを、甥っ子に任せて。そこで甥っ子は、この印象的な男の残した手記を、公開する価値あると見て、公開に踏み切ったと。 で、そこからハリー自身の手記が始まるんですけど、それによると、ハリーってのは、なかなか生きにくい人生を歩んできたらしい。知的な男で、ゲーテとモーツァルトの信奉者。研究職に就いてもいいほどの教養を身につけるものの、その道は選べなかった。 というのも、ハリー自身に言わせると、彼は人間と狼のハーフ・ブリードだから。自分の内面に人間としての自分と、狼としての自分がいて、人間としてのハリーが前に出ると狼がそれをあざ笑い、狼としてのハリーが荒れ狂うと人間としてのハリーがそれを引き留めるといった調子で、両者の葛藤ゆえに前に進めないような状態だったから。で、こりゃいかんってんで、孤独を求めていたら、ホントに周囲の人間界から浮いちゃったと。で、以後、孤高の人としてさ迷っているわけ。 なにせインテリですから、世間の愚かな人間には我慢できないし、第1次世界大戦の教訓も活かせずに次の戦争に向かって猛進しているような社会状況にも批判的。そして愚かな大衆のこぎれいな小市民的生活を嘲笑しつつ、しかし、小市民的のきちんとした生活に対して一種のなつかしさも抱いているところがある。自分の出自がそこにあったからなんですな。彼がいつも小市民的清潔さを重んじ、そういう清潔さのある小市民の家にいつも間借りするのは、そういう理由だったと。 だからまあ、困った人なわけですよ。超俗にもなりきれない、俗にも混じれないというわけですから。ハリー自身も、自分を持て余しているんでしょう。それで、48歳くらいの時に、ハリーは一つの計画を立てる。それは50歳になったら自殺する、ということ。そして今、ハリーは50歳になり、いわば死地を求めてこの町にやってきて、今回の家を借りたと言ってもいい。しかし、そうはいってもやっぱり死ぬのは怖いので、ぐずぐずしていると。 でまあ、そんなすさんだ気持ちで町をさまよっていたところ、彼は「魔術劇場」なる看板を目にするんですな。そこには、「狂人専用」と書いてある。狂人専用? じゃ、俺のためのものじゃないか、ってんでハリーはものすごく気を惹かれるわけ。で、そうこうしているうちに、その魔術劇場のプラカードを持った男に遭遇する。 で、そのプラカードを持った男から、ハリーは小冊子を渡されるんですな。その小冊子には「荒野の狼についての論文 狂人だけのために」という表題がある。で、ここでハリーの手記はいったん終わり、ここからこの論文の内容が示されるんですな。 で、その論文には自らを荒野の狼と名乗るハリーという男がどういう人間であるか、事細かに分析したものが書いてある。面倒臭いのでいちいち紹介しませんが、要するにハリーというのはファウスト的な二元論を生きる人間であると。 で、自分のことについて詳細に書かれた論文を読んだハリーの手記が、この後に続きます。 自分自身を腑分けした解体新書みたいなものを読まされて茫然としているハリーに、さらにいくつかの追い打ちがかかります。一つは見ず知らずの人の葬儀を見かけたこと。葬儀の様子から、参列者が早くこんなことは済ませて家に帰りたがっている様子が手に取るように分かる。なるほど、自分が今死んだって、こんな感じなんだろう、いや、もっとひどい葬儀になるだろうな、なんてことを考えさせられてしまう。 でさらに悪いことに、ハリーはこのタイミングで昔の知り合いにばったり出会うわけ。その人とは昔、学術的なことで討論したことがあって、その人はハリーのその時の言葉にインスピレーションを得てさらに学問を深め、今は教授となっていた。で、偶然再会したものだから、その人はすっかり喜んでハリーを夕食に招く。 ところがこの夕べはさんざんなものになります。学術的なことに関心のあった当時と違い、今のハリーは「荒野のおおかみ」ですから、教授との知的な会話なんて興味ない。逆に右翼的な考えに凝り固まってしまった教授に対して批判的・嘲笑的なことを言ったりしてしまう。 極めつけだったのは、教授の居間に飾ってあったゲーテの肖像にケチをつけてしまったこと。その肖像がゲーテの本質をゆがめたようなものだったので、ハリーはたまらず批判したのですが、この肖像、実は教授の奥さんのお得意の品だったので、気まずいことになってしまったんですな。で、ハリーと教授は結局、けんか別れみたいなことになってしまう。 そんなことがあったもんだからいつも以上に自暴自棄になって街をさまよい歩き、ほうほうの体でしけこんだのがとある一軒の料理店。で、ここでハリーのその後の運命を変える出来事が起こるーーそう、ここでヘルミーネという謎の女に出会うわけ。 「ハリー・ハラー」という主人公の名前自体、作者の「ヘルマン・ヘッセ」を思い起こさせますが、そのハラーが出会う女ヘルミーネもまた、ヘルマンの女性名。しかもハリーにはかつて少年時代にヘルマンという親友が居たことになっており、ヘルミーネもちょっと両性具有的なところがあるので、いわばこの小説に出てくる奴は全員がヘルマン・ヘッセの分身と見ることもできる。 とにかくこのヘルミーネという若い女と出会ったことで、ハリーの人生は激変します。 ヘルミーネはいわばハリーの分身。ハリーと違って学問に詳しいわけではないけれども、別な形で知的であり、まるで最初からハリーに足りないものを知っているような感じ。もちろん、ハリーに足りないものってのは、小市民の生活ですな。 で、自暴自棄&何をすればいいか分からくなっているハリーのために、ヘルミーネはまるで母親のごとく、命令口調でハリーに対してあれをやれ、これをやれと指示する。しかもヘルミーネがハリーにさせることというのは、およそハリーだったらしないようなこと、例えば酒場で若い女とダンスするとか、ジャズ音楽に興じるとか、麻薬をやるとか、そういうことばかり。しかし、魔性の女ヘルミーネの術中にはまったハリーは、自我を棚に上げて、もうヘルミーネに言われる通りのことを、嫌々ながらも全部やってのける。 で、ヘルミーネは、ハリーにさらに若い女マリアをあてがって、このマリアが、性的手練手管を尽くしてハリーに回春させちゃう。ハリーにはエリカという、年に数回会う程度の恋人がいるにはいたんですが、もうエリカなんかどこかに消えちゃうほど、ハリーはマリアとの逢瀬に惑溺していきます。 だけど、もちろんハリーが本当に憧れているのはヘルミーナその人なんですけど、ヘルミーナはそう簡単にハリーにすべてを与えたりはしない。準備が必要ということで、 で、そうやってハリーを訓練していって、一通りダンスもできるくらいにした挙句、ついにクライマックスとして大仮装舞踏会が開催される。どうやらヘルミーナはこの仮装舞踏会を、ハリーの卒業式的なものにしようとしていたらしいんですな。で、ハリーもついにここに参加する。 すると、これが地獄の一丁目。実はこの仮装舞踏会こそが、魔術劇場の入り口だったと。で、この魔術劇場は何段階もの階層制になっているらしく、ブルース・リーの『死亡遊戯』のごとく、ハリーは一段一段、地獄めぐりをしていくわけ。 例えば「どの女の子もお前のもの」と書かれた部屋では、ハリーがこれまでの生涯で少しでも恋心を抱いた女の子たちが全員揃っていて、その全員とハリーはおいたしちゃったりする。 かと思うと、「さかんな自動車狩り」という部屋では、ハリーは殺人鬼と化し、自動車に向かってバンバン発砲して人を殺しまくる。 そのうち、ハリーが愛してやまなかったモーツァルトその人も登場して、ハリーと激論! で、そうこうしているうちに、ハリーはヘルミーネが恋人の楽師パブロと裸で抱き合っているところに遭遇、思わず嫉妬に駆られてヘルミーネをナイフで刺殺してしまう。 そしてハリーが最後に出くわしたのが「ハリーの死刑執行」というお部屋。そこでハリーは今までの人生すべてを理解するんですな。要するに、人生は将棋みたいなもので、自分はずいぶんと下手な指し方をしていた。次はもっとうまく指すぞと。そうハリーが決意したところで、この地獄めぐりも、またこの小説も幕を閉じます。 ・・・何コレ? っていうお話。 後半のドタバタはもう、20世紀前半に書かれたとは思えぬほどの幻想的スラップスティックで、ちょっとこう、コーエン兄弟の『ブラッド・シンプル』のような感じ。あるいは、アレか、キューブリックの『時計じかけのオレンジ』みたいな感じ。 結局・・・ハリーは、自殺者たることをやめて、生きることを決意したってことでしょうな? ヘルミーネに引きずられての地獄めぐりの中で、自分の中の「人間対狼」みたいな青臭い二元論はどこかへ消えちゃって、それどころかの多元論に直面し、だったらその多元世界を将棋の駒に見立てて、面白くあそんでやろうじゃないのっていうところまで成長・・・というか、逆に自己解体したと。 なんかの解説で読んだけれど、『シッダールタ』を読んでヘッセ・ファンになった人から『荒野のおおかみ』を読んでガッカリした、と言われたのに対し、ヘッセは「自分も昔は成長譚を書いていたけど、人間、50を過ぎると成長じゃなくて自己解体するもんだ」と言ったとか。それを踏まえて、この小説を自己解体の物語と読めば、なるほどねと思わぬところもなくはない。 あと、どうしてこの小説が1960年代のアメリカのヒッピーたちに受けたかという話ですけど、まあ、多分、パブロが使用する麻薬が、ハリーが自己解体を始める契機となること、それから小説後半の幻想的な部分が、麻薬でラリっている時の光景に似ているというあたりから、これが麻薬小説だと思われたんじゃないかなと。ティモシー・リアリーがこの小説を評して「LSD小説」と述べたことも、おそらく、大いに影響したことでありましょう。ジャズも、クラシックに代わる音楽として登場するし。 麻薬やジャズの力で意識拡張し、成長するのではなく(成長は、既存のレールの上でなされるものだろうから)自己解体して古い自己に別れを告げ、新しい自分になるというあたりが、この小説がヒッピーに受けたところなんでしょうな。 ところで、この小説について、学者はどんなことを言っているのかと、ネット上で探せる限りの文献を探ってみたのですが、これがまた誰もかれも大したことを言ってなくて、この小説についてのドイツ文学者の定見もないみたいね。ヒッピーに受けたのは心外だ、みたいなことを書いている人もいましたが、だからと言ってその人がこの小説をそれ以上に上手に解釈しているとも思えなかったし。 つまり、変な小説なのよ。ヘッセの中でも結構異色作らしく、これが出た時には大分評価が分かれたようで。ま、そうだろうねえ。 でも、全体として見て、最初に思ったほどはつまらなくなかったです。割とモダンだね。かといって、私がこの作品が好きかと言われたら、好きではないな。 ま、そんな感じ。これこれ! ↓荒野のおおかみ改版 (新潮文庫) [ ヘルマン・ヘッセ ]
October 7, 2020
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山口忠夫さんの書かれた『直傳靈氣 レイキの真実と歩み』という本を読了しましたので、ちょっとだけ心覚えをつけておきましょう。 レイキについては、前々から調べてみようとは思っていたのよ。というのは、精神療法とか、代替医療というのは自己啓発思想の中で重要な位置を占めるのでね。日本発祥の代替医療として、世界中で知られているレイキについて、まるで知識がなかったら、それは自己啓発思想の研究者として恥ずかしいからね。 で、とりあえずこの本を読んだのだけど、これで大体、レイキというものの歴史が分かった。 それは実にシンプルなもので、レイキ・・・というか霊氣なる施術法を発案したのは、臼井甕男(みかお)という人。この人は1865年生まれね。で、この人は色々な仕事をして生計を立てていたみたいなんだけど、そのうちに「人生の目的とは何ぞや?」みたいなことを考えるようになり、禅の世界に飛び込んで修行をし、京都の鞍馬山で断食修行していたら、ある時、脳に落雷を受けるような衝撃を受けて昏倒、気がついた時には手をかざすだけで人の悪いところを治療する術を身につけていたと。 で彼は「臼井靈氣療法」を確立するんだけど、その高弟に林忠次郎がいた。この人は元海軍大佐。で、この林と、その弟子でハワイ在住の日系人・高田はわよが、靈氣をハワイへ、そして世界に広めたと。ここから靈氣はレイキになっていくわけね。 で、この林忠次郎から靈氣を伝授された弟子の一人が山口千代子で、その千代子の息子が本書の著者である山口忠夫さんであると。 で、母親の千代子さんは、靈氣を当たり前のこととして日常で使っていて、忠夫さんも幼い時から火傷や怪我をした時、風邪を引いた時など、母親の千代子から靈氣をかけてもらって治療していたと。 一方、世界に広まっていたレイキの施術者(レイキ・ティーチャー)たちは、レイキの原点を探そうと日本を訪れる人も多かったのだけど、その頃には臼井のことも林のこともよく分からなくなっていて、もう日本で本式の靈氣を学ぶことはできないんだ、という噂が流れていた。 ところが、たまたま山口千代子が、林忠次郎直伝の、ということはつまり臼井甕男直伝の靈氣を日常的に実践していることをつきとめたあるレイキ・ティーチャーがいて、その人が本の中にそれを書いたので、世界中のレイキ・ティーチャーたちが山口千代子さんのところに押しかけたと。 つまり、レイキが靈氣を再発見したわけよ。それが1999年のこと。だから、靈氣が再び脚光を浴びたのは、つい最近のことだったんですな。 で、その後、2003年に山口千代子氏は亡くなったので、今は山口忠夫さんが直傳靈氣を伝え続けていると。今は京都と東京の町田に本拠地があるみたい。 ま、レイキの歴史ってのはこんな感じらしい。 で、本書には臼井甕男が作り上げた靈氣の話も載っているのだけど、一つ面白かったのは「五戒」という話。 臼井は靈氣の治療をしていたのだけど、そうすると、一度治ったはずなのに、また病がぶり返して、再び臼井のもとに泣きついて来るヤツが大勢いると。 で、臼井は、靈氣で治療しても、治療された本人の人生に対する心構えが悪ければ、さすがの靈氣でも根本的な治療にはならないということを発見するわけ。で、その人生に対する心構えから治さなければならないってんで、「五戒」を考えたと。 その五戒というのは、コレ。 今日丈けは(だけは) 怒るな 心配すな 感謝して 業をはけめ(励め) 人に親切に なるほど! これは興味深いねえ! あのね、自己啓発思想史の中では、こういう呪文って、結構あるのよ。 たとえばエミール・クーエの「Day by day, in every way, I'm getting better and better.」とかね。あるいはハワイのホ・オポノポノの「I love you. I'm sorry. Forgibe me. Thank you. 」とか。 臼井甕男の五戒も、これに近いね。しかも、この5つの誓い、どれもみんな自己啓発思想の中で重視されるものばかり。なかなかの味わいだな。 あと、このほかに臼井は、明治天皇の御製(すごく説教臭い)を重視して、この中から百首を選び、朝に夕に唱えることを推奨していたのだとか。 ま、そんな感じ。 というわけで、とりあえず靈氣の何たるかはこれで分かった。この本、そちら方面に興味がある方にはおススメです。これこれ! ↓直傳靈氣 The Roots of REIKI レイキの真実と歩み [ 山口 忠夫 ] なお、今もなお山口さんはセミナーを開いているらしいので、8万5千円くらい支払うと、臼井甕男直伝の靈氣を習うことができるらしい。町田なんて、実家から近いから、私も行っちゃおうかな。
November 2, 2025
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今日は年内の授業が最後だったので、家に帰ってから近くの焼鳥屋さんに行き、家内とささやかに打ち上げをしました。家から歩いて行ける飲み屋さんって、とりあえずここしかないんですけど、でも焼き鳥おいしかったにゃー。 しかし、家を出る少し前、7時のニュースを見ていたら、相変わらず不況の話ばかり。3日後に寮を出ろと言われた派遣労働者が、「もうホームレスになるしかないのか・・・」などと苦悩を訴えているところを見てしまいましてね。焼鳥屋で飲みながら、国立大の薄給とはいえ、こうして飲んで食べていられるのだから、ありがたいもんだと思わなきゃいかんなと思いましたわ。 で、さらに、世の中の気の毒な首切り派遣労働者のすべての人を救うわけにはいかないけれど、とりあえず今日食べるものがない人を一人招いて、私のおごりで一夕、焼き鳥を肴に飲んで食べて、一緒に楽しめたらいいのに、なんて思ったりもして。 ・・・そしてその人は、後に億万長者になり、昔受けた恩を忘れずに、莫大な遺産をワタクシに残したのでありました。 ・・・そういうことじゃなくって・・・。 で、私だけじゃなく、日本中の人が派遣切りされた人たちを「とりあえず今日はうちに泊まって食ってけ」と言えば、みんな助かるんだろうな、と思いを進めていったわけですが・・・。 ん? それってつまり・・・。 昔の日本でそういうの、なかったでしたっけ? つまり、「ばあや」とか「ねえや」とか「書生」って奴ですよ。昔の日本の小説なんか読むと、たいていの家にそういうのがいるじゃないですか。別に給料を払うわけでもないけれど、そういう人たちが家に居て、主人の子どもの面倒を見たり、家事をしたり、簡単な手伝いをするって奴。 こういう制度を復活させたら、とりあえず今の日本の状況は救えるのではないかと。 今の日本、働く人より、働き口が少ないんですから、外で働かない人をいかに養うか、という問題があるわけでしょ? だったら、昔みたいに「外で働かない居候」を復活させればいいじゃないですか。 たとえば小さい子のいるご家庭で、ねえやが一人いたら助かりますよ。子どもの幼稚園への送り迎えとかね。あるいは、共働きのご家庭にばあやが一人いてご覧なさい。疲れて帰って来たら、もうちゃーんと夕飯の支度がしてある。雨の日の犬の散歩や、家中の窓ガラスの拭き掃除は、書生さんに任せましょう。彼らへの報酬は、屋根と布団と食事。強いて言えば、ねえやがお嫁にいく時の支度、書生が就職した時のスーツくらい買ってあげればいいんじゃないでしょうか。 北欧みたいに、徹底した福祉社会にするもよし、ただその代わり、重税は覚悟しなければなりません。アメリカみたいに、宗教団体とボランティアと寄付に頼るもよし、しかしまだ日本にはそこまでのパワーはなさそう。となると、「ばあや・ねえや・書生」システムでとりあえず余剰労働力を吸収するという、昔の日本のシステムも、捨てたもんじゃないかも、ですよ~。 それにしても頭に来るのは、京都とかのお寺ですよね。あんたら、ほんとに仏の道で衆生を救おうというのなら、キリスト教の教会や寺院を少しは見習って、寮を追い出されて路頭に迷いそうな「首切られ派遣社員」に向かって「家のない奴は俺んとこへ来い!」くらいの心意気を見せろって。まったく、京都の寺ってのは単なる観光客目当てのテーマパークか?!
December 22, 2008
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ルイーズ・L・ヘイ(Louise L. Hay, 1926-2017)という人の書いた『ライフヒーリング』(You Can Heal Your Life, 1984)という本を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 この本、1984年に出版されると、アメリカで大ベストセラーになるのですけれども、まあ、久々に読むゴリゴリの「引き寄せ系自己啓発本」でございました。第1章の冒頭からして「人生は、自分について考えていたことが現実になります。私自身を含めて誰もが、良くも悪くも自分の全人生に100%責任を負っています。人生について考えることは、未来を創造することです」、だからね。 つまり、今現在の時点で嫌なこと、思うに任せないことがあるならば、それは自分自身がそういう状況を引き寄せているからだと。 でも心配ご無用、今、この瞬間に自分に対する否定的な考え方をすっぱり捨てて、自分を認め、自分を愛し、これからは自分の思うような人生を生きて行こうとポジティヴに考えれば、その考え通りの人生が展開しますよと。 ま、そういう感じ。 で、本書にはいろいろな自己啓発思想の影響が窺えまして、例えば「ACIM」についての言及もあるし、エメット・フォックスへの言及もある。あと、ニューで、それらの先行する自己啓発思想を、特に優劣をつけることなく、好きなように引用していますから、要するに自分がいいと思ったポジティヴ思想はみんな取り入れちゃおう、という傾向の人なんでしょうな。 だけど・・・。 後半に入ってくると、病気・体の不調についての言及がどっと増えてきて、こういう病気も、心の持ちよう次第で全部治ってしまう、というスタンスを取り始めるんですな。 ちなみにこの人が最初に有名になったのは、『Heal Your Body』という小冊子で、これはそのタイトル通り、精神治療の本だったんですな。で、ここに書かれた内容が、本書『You Can Heal Your Life』にも大幅に採り入れられてると。 で、その結果、たーくさんの病気が並べられ、それぞれについて「(その病気の)考えられる原因・内的要素」と、それを治療するための「新しい思考パターン」を表にしたものがどーんと載っているわけ。 例えば「結膜炎」は、「あなたが目を向けているものに対する怒りや欲求不満」が原因で生じているので、その治療法としては「愛を通して見る。そこには調和があり、私はそれを受け入れる。正しくあらねばならないという気持ちを取り除く」ことをお勧めすると。 なるほどね。 ちなみに「花粉症」はですね、「感情的すぎる」こと、もしくは「被害妄想」が原因らしく、「私はあらゆるものと気持ちが通じている。私はいつでも守られている」と唱えれば快癒するらしいですよ。 あと「ガン」は、「深く傷つけられる。恨みが募る。嫌悪感」などが原因で、対処法としては「心から過去を許して手放」し、「私の人生は喜びに溢れている」ってなことを日々唱えると治るようです。 本書にはノーマン・カズンズが笑いによって難病を治したことへの言及などもありますけど、結局、アレだね。この人の思想の大本は精神治療ですな。ま、タイトルからして「ヒール」なんだから、そりゃそうか。 一つ、ちょっと意外に思ったのは、この人、この種の本の著者にしては性的なことについて割とオープンなところがあって、例えば女性に多い「片頭痛」の対処法として、「そういう時は一人Hしちゃいなさい。片頭痛は、性的抑圧が原因のことがよくあるので」と言っているのにはちょいビックリ。そうなの? とまあ、そんな感じで、ところどころでほんのちょっと驚かされつつも、全体的にはふんふん、そういうことね~と軽い気持ちで読み飛ばしていたんですけれども、最後の最後、ヘイさんが自分の過去を振り返った章を読んで仰天。なんと、語るも涙、聞くも涙ってな感じの悲惨な人生をヘイさんは歩んでいたのでした。 彼女はカリフォルニアで生まれたようですけれども、生後18か月で両親が離婚、その後母親が再婚した相手が最悪の冷血漢で、ヘイさんは幼児期から家庭内暴力に晒され、しかも5歳の時には近所の老人にレイプされるという。で、昔のことですから、周りからは「お前が悪い」的な悪口を言われ、また牢屋に入ることになったその相手の老人がいつまた復讐に来るか、びくびくして暮らしていたそうで。 で、そんなですから、小さい時から自分に自信がなく、自分には価値がないと信じていたので、それゆえに学校でもいじめられたと。 で、その反動からか、興味を持ってくれた男とは誰とでも寝るようになり、16歳の時に出産(生まれた子供は、子供のない夫婦にもらわれていったそうです)。そして、出産後すぐ、継父のあまりの暴力に耐えきれず、妹を残して母と二人でシカゴに逃亡。そこでモデルとして仕事を始めるんですな。で、やがてイギリス人の老紳士と結婚するも、14年後に「他の女と結婚したいから離婚して」と言われ、大ショックのうちに離婚。 で、このショックが一つの契機となり、彼女は精神療法団体の一つであるリリジャス・サイエンスにのめり込むんです。 なるほど、彼女がヒーラーになる素地ってのは、ここにあるわけね。 だけど、いよいよヒーラーとしての活動を始めようという時に、今度は婦人科系のガンが見つかると。彼女曰く、「そりゃ、5歳からレイプされているんだから、そうなりますよね」と。 ですが、ここからがヘイさんの真骨頂で、外科的手術なんかじゃガンは治らんと喝破、精神療法に専念し、自らの力でガンを完治!(マジか!!) レイプされたことへの憎しみや、自分自身を愛せないことからガンになったのだから、その逆を行って、「ルイーズ、あなたが好きよ」ってなことを自分自身に言い聞かせることで、ガンを治してしまったと。 で、その後ヒーラーとしての実績も積み重ね、故郷であるカリフォルニアに凱旋、かつて生き別れとなった妹や、必ずしもいい関係ではなかった母とも再会し、特に目を患っていた母親とは同居もして、少しずつ過去のしがらみを改善していると。それが、この本を書いていた頃のヘイさんの人生だったんです。 まあ、すごいね。いかにもオプラ・ウィンフリーに気に入られそうな経歴ですな。でも、こういう人生があって、それを自己啓発思想で乗り切って有名になったからこそ、自分と同じように人生で苦しんでいる人に福音を届けようと考えたのでしょうな。自分自身という実験材料で既に成功しているから、自分の教えていることに自信があったのでしょう。 でまたこの本がすごく売れちゃったので、その後彼女は「ヘイ・ハウス」という出版社を設立、ディーパック・チョプラを始め、ここから本を出している有名な自己啓発ライターも沢山いるという。ある意味、アメリカン・ドリームを成し遂げております。 ま、そういう人が書いた、こういう本。 で、最後に私としてこの本をどう評価するか、ということなんですけど・・・ うーん。割と好き(爆!)アホみたいな本だとは思うけどね。 っていうかね、私は基本的に、引き寄せ系の本が好きなのよ。自分を肯定し、ポジティヴに願えば、なんでも夢が叶うっていう系の奴が。夢があるじゃん? だから、ヘイさんのおすすめに従って、「限りのない人生/完成され満たされた世界/どの瞬間にも私のうちに流れる力/その力の知恵に身を委ねる/必要なことはすべて啓示され/必要なものはすべて与えられる/私の世界ではすべてがうまくいく」みたいな呪文を密かに唱えちゃったりするの。唱えると、とってもいい気分。ウフ! というわけで、私と同様、そういうのが好きな人にはおすすめ! ということで一つ。ライフヒーリング改訂新訳 [ ルイーズ・L.ヘー ] ところで、ウィキペディアでヘイさんの経歴を見ていて気付いたんですけど、この人、ロスにある「University High School」を中退しているんですよね。 で、その記述を読んでいてふと思ったんですけど・・・ 私、この高校に通ったことがあるかも。 いや、もちろん高校時代に通ったのではないのですが、1998年にUCLAで研究していた時、夜間にこの高校の校舎を使ったロス市のアダルトスクールに通っていたんですよね。うろ覚えだけど、確かそう。 ヘイさんと私は、だから、同窓・・・ってことになるのかな? ・・・そう思ったら、余計、この本が好きになってきたかも!
July 12, 2018
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英語の本質は名詞にあるのか、それとも動詞にあるのか、ってのは、なかなか面白い主題でありまして。 で、私は「名詞中心派」で、英語の場合、動詞なんてのは have とか make とか take とか get とか go とか be とか give とか、そういう基本動詞を12個くらいマスターすれば、後は「主語+基本動詞+形容詞+名詞+場所の特定」という公式にぶち込むだけで大抵のことは発話できる、という理論を信奉しております。もちろん、この理論は実証的に証明されていることで、その有効性は揺るぎがありません。 ところが、今売れ筋の英語教則本を見ると、「動詞中心派」が多いような気がする。例えば中山裕木子さんの『シンプルな英語』(講談社現代新書)なんかもそうで、典型的な「動詞中心派」でございます。動詞派の人に言わせると、英語の動詞は多様なので、自分の言いたいことに関わるピッタリの動詞があるのだから、それをズバッと使えばいいと。 ま、名詞派から言わせると、動詞派の英語学習法だと、使い方を覚えなければならない動詞の数がどんどん増えて、初心者には余計遠い道のりになるだろうと言いたくなる。 しかし、そうは言ってもこの中山さんの『シンプルな英語』という本はなかなか説得力のある本で、私もかなり勉強になりました。実際、この本を読んだことで、ひょっとして私が唱道する「名詞中心派」ってのはダメなんじゃね? と、少し弱気になり始めていたところもある。 ところが。 YouTube の英語サイトに「英語の耳」というのありましてね。これこれ! ↓英語の耳 これね、日常的な英語表現をじゃんじゃん聴かせてくれるサイトで、リスニングの練習にはもってこいなんですけど、これを聴いていると、私の信奉する名詞派理論の例文がひっきりなしに出て来るわけ。 実際、「英語の耳」に出てくる日常的な英語表現を拾っていくと、私の理論、すなわち「英語は基本動詞を12個くらいマスターすれば、あとは 主語+基本動詞+形容詞+名詞+場所の特定 (自動詞の場合は 主語+基本動詞+場所の特定)という公式通りに単語を並べればいい」という理論を実証するような例文ばっかり出てくるのよ。例えば・・・I got many freebies at the vegetable store. We don’t have any diplomatic relations with that country.I took a one-year leave from school.Did you give the monthly fee to the teacher?We all put our presents underneath the Christmas tree.I keep all my jewels in this box.I made a careless mistake on the test.They are doing research on the very frontiers of biology.Let me give you some adviceSmith went into politics in his early twenties.Our destination has come into view far in the distance.The car industry is now in crisis. ま、ざっと12個の基本動詞にまつわる例文を挙げましたが、こんな感じの例文がやたらに出てくる。 ・・・ということは、やっぱり私の理論は、かなり実用的なものなのではないかと。 ということで、「英語の耳」を聴いていたら、またまた自分の英語教授法に自信が復活して参りました。 もちろん中山さん的な動詞中心派の英語学習法を否定するわけじゃなくて、それはそれでいいと思うのですけど、初心者であればあるほど、私の名詞中心派の学習法の方が優れているのではないかと思います。興味のある方は、「英語の耳」を聴きながら、名詞中心理論に基づく次の教則本を読んでもらって、この本がいかに実用的な英語教則本か、実感していただければと思うのであります。これこれ! ↓[書籍のメール便同梱は2冊まで]/基本12動詞で何でも言える裏ワザ流英語術 〈動詞〉発想から〈名詞〉発想に頭を切り替える目からウロコの学習法[本/雑誌] / 尾崎俊介/著 小泉直/著
January 19, 2022
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今年のね、なんて言うの、目標、みたいなものとして、ワタクシ、「健康第一主義」を掲げておるんですわ。 で、その第一歩として、緑茶を大いに飲もう!というのを、実行完徹しようと思っておりまして。緑茶は健康にすごくいいって言うじゃない? 私が緑茶に興味を持ったのは、先輩同僚の「アニキ」ことK教授の影響なんですが、K先生は静岡県出身ということもあって緑茶がすごく好き、その上、その飲み方がとても上手でね。 私のように緑茶を飲み馴れない者は、食事の脇に緑茶を置かれても、その飲み方が分からないんですな。だから食事中は一切手をつけず、食事を全部食べ終わってから、冷めた緑茶をぐーっと一気飲みしちゃう。 ところがK先生は違う。食事をしながら、その時々でちょっと一口お茶を飲み、口中を爽やかにしてからまた次の一口を食べるというのを繰り返す。そして食事を食べ終わるのと同時に、緑茶も飲み終わると。この絶妙の取り合わせが、見ていても見事でね。これがお茶所静岡県民のお茶の飲み方かと。 つまりね、寿司の時のガリの扱いと一緒なの。ガリってのは、寿司を食べる合間の、句読点のようにしてつまむのが筋であって、寿司を全部食べてから最後にガリだけガーッと食べる人はいないわけでね。 というわけで、ワタクシも過去、何度か、食事の時に緑茶を用意して、K先生のように緑茶を楽しもうと思ったことがある。だけど、いつも中途半端に終わって、結局習慣化するところまでは行かなかった。 そこで、今年こそは、食事中に緑茶を上手に飲むことを習慣づけようと、まあ、そういう風に決意したわけですよ。 で、ワタクシも考えた。今まで失敗してきたのは、やはり食事毎に緑茶の用意をするのが面倒だから、習慣化できなかったのだろうと。 そこで、「お茶パック」なるものを買ってきて、そこに適量のお茶っぱをあらかじめ入れて置き、そのパックを直接湯飲み茶碗にぶち込んでお湯だけ注げばいいようにしておいたらいいのではないかと。そうすれば、いちいち急須の用意をしなくてもいいし、事後に急須を洗う必要もないわけだから。 そして、お茶自体も美味しくなければ習慣化できないし、といってバカ高いお茶だったら経済的に収監できないだろうと考え、お安くて、しかも美味しいお茶の選定にも気を使いまして。結果、新東名高速の静岡SAに売っているという、「マルサン中野園 深むし茶」をゲット!これこれ! ↓マルサン 深むし茶 というわけで、これを早速、お茶パックに詰め、コップに入れてお湯を注げばいい状態にした。で、今日の夕食から毎日緑茶生活を始めようというわけですが、さてさて、上手く行くでしょうか? ま、何事でも新たに始めるというのは楽しいもの。上手く続いて、緑茶を飲むことが習慣化できたら、お慰み。そしてその結果、次の人間ドックの時の結果につながればいいなと思っているワタクシなのであります。
January 5, 2024
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名著の誉れ高いE・H・キンモンスの『立身出世の社会史』を読んだのだけど、これがまたすごい本だったんですわ。 キンモンスはアメリカ人で、当然ネイティブではないのだから、日本語は大学生になってから獲得した外国語なわけ。にもかかわらず、19世紀後半以降の日本語の文献、それもお堅いところから雑誌の類にいたるまで、公的な統計から大衆小説の類までを博捜し、そういう現物の資料を駆使して、明治維新以降の日本人の立身出世へのアプローチの変遷を、まあ具体的に、圧倒的な説得力をもって、論じている。 で、その過程で、従来の日本人研究者の研究、それも丸山真男レベルの学者たちの研究成果の誤謬やら根本的な見当違いをばったばったと暴いているところがすごいのよ。まさに完膚無きまでに、エライ先生がたのお説を木っ端みじんに粉砕している。で、その批判があまりにも説得力があるので、日本のことを調べている日本人研究者がいかにダメか、ということが明白になるという。 しかもこの論文、キンモンスの博士論文を元にしている。ということは、これを書き上げた時、キンモンスは二十代後半だったっていうね。これこれ! ↓立身出世の社会史 サムライからサラリーマンへ [ アール・H.キンモンス ] もう、こんなの読んだら、何も言えねー・・・。 日本人の大学院生が、アメリカ史の一側面、それも19世紀のアメリカ史の一側面、を調べて博士論文にし、それでアメリカのその分野を専門とする名高い研究者を完膚無きまでに遣り込める、なんてこと、あるかなあ? ほんっと、すごい人だわ。キンモンス。変な名前だけど。 差し当たり自分のことは棚に上げておくけど、今、日本のアメリカ文学の研究者で、こういう重厚な研究をしている人っているんだろうか。たまたまチラッと読んだそこそこ話題の作家・作品を気まぐれに選んで、ちょこちょこっと論じる程度のものしか最近読んでないぞ。論じている当の作家だって、10年持つかどうかわからないようなチンピラばっかだし。 キンモンスの本の中にラフカディオ・ハーンの話が出てくるのだけど、キンモンスが見たハーンって、ものすごい洞察力を持っているのよね。凄いな、この人って思う。 ハーンの本当のところを論じようとしたら、研究者が一生をかけるべき研究になると思う。でも、アメリカ文学研究者で、本格的にハーンを研究している人なんていないじゃん? アメリカの研究者だって、ハーンの日本観までは把握できないだろうし。 だったら、チンピラなんて研究してないで、ハーンを研究すればいいのに。二十年かければ、それなりにモノになる研究ができるんじゃないの? その辺の嗅覚のある若手も、今、アメリカ文学研究の世界で、いないんだよなあ。センスないよね。 とにかく、キンモンスはスゴイ。ビックリしました。
November 16, 2025
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来たるべき自宅リノベーションに備え、少しずつ断捨離を進めているのですが、今日は長年、役に立ってくれたサムソナイトの大型スーツケース2つに別れを告げました。 これ、今から27年ほど前、新婚の家内を連れてアメリカに1年間滞在した際に、二人お揃いで買ったものだったのよ。で、そういうものとして、上等なサムソナイトを買ったわけ。多少は家内にカッコつけたかったところもあったのかな? で、それ以来、海外に行く時は必ずこれを持って行ったので、都合13~14回くらいは一緒に飛行機に乗ったことになる。 もちろん、そういう意味で役に立ってはくれたのですが、その反面、こいつに悩まされたことも何度かありましたっけ。 スーツケースについている車輪が壊れたこともあったけど、それよりも大変だったのは、空港に向かうその日に取っ手が壊れたこと。重いスーツケースの取っ手がないとなると、これは結構、厳しいよ! でも、帰国してからそれを修理に出したりして、その後も騙し騙しずっと使っていた。それだけに愛着もひとしお。 でも、あれから四半世紀も経つと、スーツケースもどんどん進化して、今時、あんなにデカくて重いスーツケースを使っている人は見たことがない。最近のスーツケースは、もっとずっと軽いもんね。それに値段も安い。 それに最近のスーツケースは車輪が進化して、音もなく動く。我々のサムソナイトは、車輪も小さくて、すごく大きな音でゴロゴロいうんだよね! 何事かと、他の旅行者が振り向くくらい。 だから、昨年の今頃、ハワイに行った時は、さすがに新しくて軽いスーツケースを買い、それで行ったの。大分楽だった。 ということで、このサムソナイトはお役御免になっていたんだけど、捨てるのも面倒臭くて、そのまま家に置いてあったのよ。でも、今度リノベするし、もう置く場所もないから、処分しようかなと。 かくして今日、二つのサムソナイトは、中古品買取業者へと売られていきました。1個250円で。ドナドナドーナー、ドーナー・・・。 でも、250円とはいえ、一応は売れたのだから、いずれまた店頭に並び、買う人がいるのかもしれない。 また誰かがあのサムソナイトを買って使ってくれるのだったらいいな。
November 17, 2025
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昨日、今日と、我が大学は入試です。だもので、我々英語科の人間も試験の採点に駆り出され、土・日出勤していました。 英語の試験というのは、どの学科を受験する学生もたいがい受験するので、採点作業も大変です。15人くらいの先生方で分担して、2日がかりの仕事になってしまいます。ま、我々教員にとっても、年度末最大のイベント、といったところでしょうか。 で、もちろん入試ともなると、採点には神経を使います。ですから、精神的にも肉体的にもかなりハードな仕事なんですが、そんな中、唯一の楽しみなのが「おやつ」。つまり、先生方が数百円ほど出し合い、あらかじめおやつを買っておいて、採点室にずらりと並べておくわけ。クッキーあり、和菓子あり、果物あり、もちろんコーヒーや紅茶、ココアにハーブティーなども用意してあります。ですから採点作業に飽きると、各自おやつコーナーで適当にお菓子と飲み物をとってきて、これらを摘んでしばしリラックスしてから、また答案の山に立ち向かうというわけ。 で、このおやつがしょぼいと、年輩の先生あたりから「今年はちょっとおやつが寂しいな」なんて不満の声が出ますし、逆におやつが充実していると「お、今年は豪華だね」なんてことになって、採点者全員の労働意欲も俄然湧いてくるという次第。可愛いもんです。 あと、英語科の先生全員が顔を揃える、なんてことは年間を通してそんなにないことなので、この時期、採点をしながら互いに冗談を言い合ったりするというのも、科の志気を高めるという意味では重要な行事なのかも知れません。 で、そんなおしゃべりの時によく出る話題が、「赤ボールペン・ネタ」なんです。 入試の採点ですから、採点室にはあらかじめ赤ボールペンが用意してあります。それで、バブルの頃は大学も景気がよかったもんで、沢山の赤ボールペンがまだ封も切っていない箱に入れられてどーんと部屋においてあったわけ。もちろん、各先生方とも、採点の時に使ったボールペンは自分の胸ポケットに挿したまま家に帰っていたんです。で、それから先一年間、期末試験の採点などにもこの赤ボールペンを使っていた。それが当然だったんですね。 ところがここ数年、入試の時に配られる赤ボールペンが新品のものではなくなってきたんです。しかも「使い終わったボールペンは事務に戻して下さい」なんてセコい通達まであるという・・・。 だけど、長年、入試の時の赤ボールペンに頼り切ってきた我々としてはこれが納得できない。それでこのところ毎年、必ずと言っていいほど、入試の採点中のジョークとして、この赤ボールペンが登場するんです。 今年もこの吉例が続きました。同僚のS先生が口火を切ります。「ところで・・・このボールペン、貰っていってもいいんですかね?」 「いや、いいんじゃないですか?」と入試担当のY先生。「私もこのボールペンで、この先一年採点するんですから。これがなくっちゃ、どうにもなりません」 「でも、事務が返せって言うんでしょ?」とN先生。「数えてたりするんじゃないですか、ひょっとして。英語科はボールペンの紛失が多い、なんて言われてたりして・・・」 と、ここで何やらボールペンをしげしげと見ていたD先生が、「あ、ここに『使い終わったら返却すること』って書いてある!」と爆弾発言。英語科の先生方が一斉にボールペンを凝視。 「ウソですよ、ウソ」とD先生。一同のけぞる。 「しかし世知辛くなりましたなあ。ボールペン一つもらえないなんて・・」とK先生。 「まったく・・・。私の父の勤めていた私立大学なんて、入試手当が給料の一と月分ですよ。それに入試問題作成料がやっぱり給料一と月分。だから、入試に係わると、それだけで二ヶ月分の給料アップなんだから」と私。 「うちの大学なんて、入試業務は完全にボランティアだからね」とY先生のぼやき。 「でも土・日出勤分は手当つくんでしょ?」とN先生。 「それは超過勤務手当としてつきますけど、それだけですよ。入試手当、というのはないんです」とS先生。 そこですかさずK先生、赤ボールペンを振りかざしつつ、「だから、これが、この赤ボールペンこそが、我々の入試手当なんですよ!」 一同、賛同の拍手喝采。そして採点業務再開・・・。 かくして今年も、めでたく「赤ボールペン・ネタ」が終了し、採点業務を終えた先生方の胸ポケットには、ボールペンの赤いキャップが、まるで武功章のように輝いていたのでありました、とさ。 ま、それはさておき、二日に渡った奮闘の末、ようやく先ほど本年度の入試採点もめでたく終了しました。ま、我々にとっては一つの仕事の終わりですけれど、この結果によって来年度の新入生が決まるわけですな。彼らにとっては、これが一つの始まりなわけです。 さて、どんな新入生が、どんな期待を胸に、この大学の門をくぐるのでしょうか。それはまた、春になってからのストーリーということになりますね。いい学生が入ってきますように。今日も、いい日だ。
February 26, 2006
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今日のお昼はパンケーキでした。ホットケーキみたいなものですけど、若干甘味が抑えられているので、ハム・ソーセージ系のサイド・ディッシュともよく合うんですよね~。 ところでパンケーキ/ホットケーキを食べる度に、その切り分け方に一瞬悩みます。 と言いますのも、私、子供の頃からずっと、ホットケーキってのは縦横・碁盤の目状にナイフを入れ、正方形に切り分けるもんだと思っておったわけですよ。釈迦楽家ではずっとそう。 しかし、家内はそうじゃないんですね。ホールのケーキやピザを切り分ける時みたいに、扇形に切り分けるわけ。家内は家内で、子供の頃からずっとそうやって切ってきたそうで。 で、切り方の合理性では扇形の方が上かなとは思うんですよね。何となれば、すべて同じ大きさに切り分けることが簡単だから。私のように賽の目に切ると、真ん中辺は正方形になりますけど、円の周辺部分は変な形になってしまいますからね。 ま、そんなこともあって、今では私も家内と同様、扇形に切り分けることが多いのですが、しかし、子供の頃の記憶もあって、ホットケーキはやっぱり正方形の方が旨くないか? という気がちょっとだけしなくもないんですよね。それに、賽の目に切ったホットケーキって、子供が描くヒマワリ(の中心部)みたいで、何となくユーモラスじゃありませんか? で、思うのですけど、ホットケーキって普通はどうやって切るものなんでしょうか?? 映画『レインマン』の中でダスティン・ホフマン演じるレイモンドは、私と同じようにホットケーキを碁盤の目状に切ります。だから、この切り方も決しておかしくはないと思うのですけど、この映画の中でレイモンドはちょっと変な人を演じていますので、やっぱりこの切り方は世間の失笑を買う切り方なのかしら? という恐れがなくもない。 ということで、もし「私も正方形に切るよ!」という方、いらっしゃいましたら、ぜひ名乗り出て下さい。それに力を得て、次のチャンスでは懐かしい「碁盤の目切り」しちゃいますので!
May 18, 2010
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岩波新書に入っている『翻訳と日本の近代』という本を読みました。これ、書き下ろしというのではなく、日本(政治)思想史の泰斗・丸山真男氏と、一体何が専門なのかよく分からない知識人・加藤周一氏の対談録です。実際には対談というよりは、加藤氏が尋ねて丸山氏が答える、という意味での問答集なんですが。 そういうと、何だかとっても難しそうに聞こえますし、事実、難しいところもあるんですけど、基本的には、二人がしゃべっているのを記録した対談録ですから、そんな鹿爪らしい本じゃないですよ。 で、じゃ、どんなことが書いてあるんだ、と言いますと、幕末から明治維新の頃、日本は急速な近代化を迫られたわけですが、その際、西欧の文明をとにかく採り入れようってんで、やたらに「翻訳」をした。で、翻訳をするという以上、「何を翻訳したか」「どう翻訳したか」「その翻訳がどんな影響を及ぼしたか」という問題が出てくる。だから、この3点を見ていくと、日本の近代化が何を目指し、どのような形で成し遂げられたか、ということが分かっちゃうわけですよ。日本近代化の苦労の足跡が、「翻訳」という形のあるものの中に残っちゃうわけ。それを見ていこう、という企画です。 ま、コンセプトはそういうものなんですけど、具体的な内容となると、これはどうしても多岐にわたります。ですからいちいちそれを全部紹介することは出来ませんが、「ひょえ~、なるほど!」と思うことも随分あるので、それを幾つか紹介しましょうか。 たとえば、西欧列強のパワーに触れた時の、日本と中国の差、とかね。中国は阿片戦争なんかで西欧のパワーに圧倒されるんですが、中国というのは基本的に中華思想に基づく「礼の国・文の国」なのであって、もともと「野蛮人の腕力は強い」と思っているんですって。だから、西欧諸国に武力で負けたって大して驚かない。「あいつらは野蛮人だから強いんだ、バーカ、バーカ」というわけです。だから、国土の端っこくらい、くれてやったって痛くも痒くもない。 ところが日本は「尚武の国・サムライの国」なので、今まで尊敬してきた中国があっけなく西欧諸国の「武力」に負けたことがものすごくショックだった。「こりゃ、イカン!」と思っちゃったんですな。だから、すぐヨーロッパに留学生送って敵の内情調査をしつつ、近代化を急いだ、と。直接西欧との戦争に破れた中国がのんびりしているのに、まだ本格的な戦争をしていない日本がむしろ大慌てで近代化したことのは、そういう思想的・伝統的背景がある、というわけ。面白いでしょ? また翻訳を通じて敵情視察、となった時、まず何を翻訳したかというと、「歴史書」なんですって。西欧列強の歴史だけでなく、ギリシャ・ローマの歴史まで翻訳しちゃう。つまり、「相手を知るには、歴史から」という骨太な考え方が当時の日本にはあった。ま、これには儒教的な影響もあるようですが、それにしても今日の「歴史離れ・世界史離れ」とはえらい違いでございます。 もっとも「異文化」を知ろうとする伝統というのは、幕末に限らず日本には大昔からあるので、たとえば中国文化なんてのは、まさにその対象だったわけですね。しかも、17世紀から18世紀にかけての日本では、単に漢文を日本文に読み下すなんてのじゃ、本当に中国文化を理解したことにならない、という考え方をする荻生徂徠なんて学者も出てくる。つまり、異文化を異文化として理解しないとダメだ、という考え方をする人まで、もともと日本には居た。これなんか、翻訳という認識過程の弊害と対応策をちゃんと意識していたということですから、ものすごく成熟した翻訳観だと言っていい。 ちなみに、「翻訳」の話題からはちょっと逸れますが、本居宣長なんかが、和歌の心を知るためには実際に自分で作ってみないとダメだ、なーんて言いながら、「敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花」みたいなヘタクソな歌を作って後々まで人々の失笑を買ったのも、荻生徂徠的な「現地のことは現地の通り、昔のことは昔の通り」に解さなくてはダメだ、という発想があったかららしいですよ。 それから、ますます「翻訳」から逸れちゃいますが、本居宣長についてはさらに面白いことが書いてある。本居宣長は日本の国のはじめについて、古事記的な神話を「事実」だと認めていたわけで、その点で後の研究者からは「馬鹿じゃん」と思われているわけですが、しかし、本居宣長大先生にはこの点について、ちゃんと理屈があるんですって。 『玉勝間』に書いてあるらしいですけど、たとえば「母親から子供が生まれる」というようなことを、普通の言葉ではなく、客観的に記述したらどうなるか。「母乳が出る」といわず、「やがて日が進むにつれ、その身体の一部が隆起し、その突端から何やら白い液体が流れ・・・」などと書いたとしたら、まったく知識なしにそれを読んだ人は「何を馬鹿なことを」と思うだろう、と言うんですな。でも、実際には、これは事実なわけですよ。母乳が出るというのは、そういうことなんですから。それと同じように、古事記などに書かれている国産みの神話にしても、「何を馬鹿なことを」と思うかもしれないけど、実際に起こったのだ、と言うわけ。 うーん、賢い! 本居宣長の言っていることにも、ちゃんと一理あるじゃないですか!! ま、その他、この本には色々面白いことが書いてあります。たとえば西欧の学術書を翻訳するにも、完全にアカデミックな本を訳するのと同時に、大衆的啓蒙書まで訳してしまい、それらが同じように明治の日本社会に大きな影響を与えてしまった、なんてこととかね。 あるいは、「火薬」だとか「肥料」なんかに応用できる「化学的知識」については、日本はそれほど驚かなかったけど、「ニュートン力学」に代表される「物理学的知識」についてはまったく圧倒されてしまったのであって、福澤諭吉が「西洋文明とは、要するにニュートンの数学的物理学である」と喝破したのはさすがにすごい洞察だ、なんて話とか。つまり人間と自然が混じり合うところに東洋文明が発するのに対し、西欧文明は人間が自然と対峙し、それを克服しようとするところから始まったという、この彼我の差に気づいちゃった、ということですよね。幕末から明治にかけて、日本の近代化というのは、こういう認識の大転換があった時代だったんですなあ・・・。 その他、日本語と外国語の言語的相違だとか、訳語が定まっていないことなどから、翻訳上の勘違いというのが沢山あって、これがそのまま当時の日本の思想的大混乱につながってしまった、なんてことについても色々例が出ています。その辺りもすごく面白い。 とまあ、色々ありますけど、「翻訳」という形で急速な近代化を成し遂げた日本の裏事情がよく分かる本です。ま、いわばドタバタの連続なんですが、そのドタバタの中に日本の文化の底力なんかも窺えるところがいい。私もこの辺の知識がまるでないものですから、随分勉強させてもらいました。この本、おすすめ! ですよ~。 しかし、それにしても丸山真男って人は、色々なことをよく知っている人ですなあ! 私は学生時代に丸山さんの名著と言われている『現代政治の思想と行動』を読んで感心したことを覚えているのですが、その後、その著書を直接読んだことはほとんどなく、むしろ丸山学を批判する立場の人の物言いばかり聞かされて、さらに敬遠するようになっちゃったんですけど、今回こうして対談集のような気軽な形式の本で丸山さんの言うことを読んでみて、やっぱり大した人だな、ということをあらためて思わされました。これを機に、丸山さんの本をもう少し読んでみましょうかね。またそれに加えて、新井白石だ、荻生徂徠だ、本居宣長だ、福澤諭吉だ、といった日本の学者・思想家の本も、もっと読まないとまずいな、と思いました。私なんか、そういうこと、まるで知らないんですもん。日本人として自分が恥ずかしいですわ。 も少し、日本のことも勉強しないといけませんね。反省!!これこれ! ↓『翻訳と日本の近代』(岩波新書)
November 18, 2006
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