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周太郎と戻ってきた直親は、家族全部を居間に集めた。「いま殿のお見送りをして参った。三春県庁からの達しによると、新たに政府から任命された県令様が来られるということじゃ。がしかしそれが一体どういうことなのか・・・。殿に、『今まで通り何も変わらぬから、代りに来られる三春県令様に忠誠を尽くすように』と言われたが、どこから来られるかも分からぬ県令様に忠誠をと言われても、さっぱり訳が分からぬ」 直親は軽く首を横に振りながら、そう言った。直親は困り果てていた。藩営に近かった戸田流・加藤木柔術道場は、藩の消滅と同時に開店休業の状態となっていた。それでも、鉄砲の次に刀も持てなくなるのではないかという恐れから、旧藩士の間に「刀が駄目なら柔術だ」という風潮を生み、逆に門人が多くなって引きも切らぬ状況に変化していた。しかしそれとても長く続くものとは思えなかった。「家でも、何か柔術に代わることを考えねばなりませんね?」「うむ、何かをの・・・?」 端然と座り両手を膝の上に置いた直親は、周太郎にそう答えた。 ──やはり周太郎は長男、言うことがしっかりしている。さてしかし、これからどうしたものか? そう思うと腕を組んだ。 富造は返事に窮する父を見て不安にかられていた。父が腕を組み、こんなに困った顔をするのを見るのは、はじめてであったからである。 しばらくは誰も何も言わなかった。 その時突然、「ドーン」と腹に応えるような大きな音がした。「うわっ。なんだ?」 慌てる家族を前に、直親は悠然としていた。「今日から正午に太鼓を打つのを止めてのう。これからは毎日、本丸から大砲を撃って町方に時刻を知らせることになったのじゃ」「なんだ、ご存じだったのですか? 父上も人が悪い」 周太郎が真面目な顔でそう言うと、直親は苦笑しながら言った。「いやわしもこんなに大きな音がするものだとは、ついぞ知らなかった・・・。しかし正直のところわしも驚いたが、これなら在方でも聞こえよう」 今まで深刻な話を聞いていた家族の間に、笑い声が広がった。 その雰囲気に安心して富造が言った。「父上。私の通っていた文武校が、なくなってしまいました」「うむ。そのことは知っておった。国の新しい制度で新たな学校が出来るとはいうが、いつになることやら・・・。富造はたった二年で行く所がなくなってしまったのう」 直親はいつになく優しい目で富造に言った。「はい、そこで父上。ちぃ兄ちゃんが習っている町田先生の所で、私にも電気のことを習わせて頂けませんか?」 富造は恐るおそる上目使いに言った。 重教は驚いて富造の顔を見た。「駄目だ。富造は周太郎と一緒に、わしの道場で稽古をせい!」 直親はそう言うと、またいつもの鋭い目と難しい顔をして腕を組んだ。「ところで、みんなに言っておくことがある。わしは重教を東京の慶應義塾にやることにした。ここにはわが藩からも、深間内基、湊直江、それに隣家の佐久間捨三(昌後)君も行っている」 重教は握り拳を膝に置き、うつむき加減に正座をしなおした。 ──あっ、ちぃ兄ちゃん! 一人でずるい! 思わず富造は重教を見た。 重教の顔は上気していた。「これから先どうなるか分からぬ世の中ではあるが、跡取りである長男の周太郎には家を守ってもらう。しかし町田政紀先生の薫陶を受けた重教には、本人の希望もあって、今後の発展を見込める電気の勉強をさせることにした」「あなた、おカネが・・・」「その心配が無用となったのじゃ。つまり重教の学費は、三春県から支弁されることになったということじゃ」 それを聞きながら富造は、ちぃ兄ちゃんはいいなと思いながらも、わが家の生活が楽でないことを知った。しかしそれも一瞬で、なんとはなしに自分も将来東京に行ける、という期待感に昂揚していた。その興奮を胸に、富造は家の屋根に登った。しばらく周囲の景色を見ていたが、やがて持っていた下駄を履いて立ち上がった。背が高くなると思ったのである。いつも見ている城山からの景色とは、少し違って見えていた。 ──向こうが大町で、その先が中町で・・・。そう思ったときに下から悲鳴に近い母の声が聞こえた。「富造! そんな所で何をしているのですか! 早く下りてきなさい!」屋根から下りて来て母にこっぴどく叱られた富造は、「東京が見えるかと思った」と言い訳をしてまた叱られた。「そんなことはないでしょう。それなのに屋根の上を下駄を履いたまま歩き回るなんて、なんてことをするの! まったく富造は、目が離せないのだから」 そしてある日、重教は子供用の大小を腰に差し、頭髪を紫の細紐で根元を結んで後ろに下げ、家族に見送られて出発した。荷馬の左右に葛駕籠を結び付け、その上に乗った重教を見て富造は胸がいっぱいになった。東京までは七十里、六~七日ほどかかると教えられた。富造は馬に乗った重教に近づくと、鐙の上の足を軽く叩いた。重教は苦しげな表情で、富造にこわばった笑いを見せた。 ──ちぃ兄ちゃん。さよなら・・・。 富造は心の中で言った。直親は、見送りに家から出て来なかった。 旅の途中の白河より、重教の手紙が届いた。 出京の節段々難有仕合に奉存候、然者三春を出発赤沼へ夜六ツ 少し過きに止宿二十日赤沼より朝六ツ時頃出立にて同所より須賀 川宿まで馬にて参り候、中畑新田より小田川まで馬、同所より白 河まで又々馬にて七ツ時頃止宿、宿は三春定宿みな川屋、先ず右 の都合に候間鳥渡(ちょっと)申上候 可視、 明治四年未六月二十日 白河にて山崎六三 此度山本新蔵殿、三本木金平殿両人御藩用にてみな川屋に御出 張に付鳥渡願候、道中馬も小田川より白河まで三百五十文位にて のられ申候 (注:重教七十年の旅より、なぜか加藤木重教は、山崎六三の 名を使って手紙を出している)
2008.03.31
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廃藩置県が実行され、三春藩は三春県として再発足した。これにともない、全国の知藩事たちは上京して東京に住むこととなった。男爵・秋田映季。それが旧三春藩主の、そして前三春知藩事の新しい肩書きとなったのである。 この男爵・秋田映季の見送りのため、直親と周太郎が家を出たのは晩秋の早朝であった。今日の旅には映季の後見人である秋田季春の希望もあって、三春からの江戸街道をやや東に通っていた、蛇沢・斉藤の道を使うことになった。季春が、「若い殿の見納めになるやも知れぬ故」と言う言を受けてのことである。[本日五ツ時 殿様御馬にて御出発なり。御先大太鼓二十、鉄砲五十丁、次に殿様、次に士砲隊三十計なり] 三春から蛇沢へのゆっくりした道を上り詰め、そして下り坂になる。それを下るとやがて大滝根川の流れに近づく。この川の周辺の山々が、紅葉で美しく色づいていた。この道を川に沿って下って行くと、西方(にしかた)の部落に出る。先触れがあったのであろう、庄屋や大勢の百姓が道の両側に平伏して出迎えた。馬に乗った映季は、それらに小さくうなずくかのようにして通過して行った。 この西方部落あたりから川幅は狭まって奇岩怪石が現れ、川水が奔流となり、また瀞となり滝となって流れていた。西方渓谷と言われた渓流である。対岸の急峻な山肌には黒い岩盤が重畳とそびえ、紅葉が錦織りとなっていた。 季春は馬を止めると行列を停止させた。「絶景じゃ。見事じゃのう」 そう言って供の者に声をかけた。映季に景色をよく見せようとしたのである。「ははっ。今が見頃かも・・・」 季春はそう答える供の返事には無言で、しばらく眺めていた。 映季も黙って見ていた。その若い年齢からいってもまだ景色を愛でる雰囲気にはなかった。ただ季春は、いま離れようとしている故郷のどこかの景色を、映季の記憶の中に留めさせてやりたかった。 ──御苦労があったのであろう、御家老の背が寂しげに見える。 後ろに控えていた直親はそう思った。 鳶が一羽、その岩山より遥かに高みの柔らかな光の中で、ゆったりと輪を画いているのが見えた。 行列が再び出発すると、陽の光が遮られた薄暗い杉の木立に入って行った。まもなく、斉藤の部落である。ここからは温泉が沸き、ひなびた宿が数軒あった。林が切れ、流れがゆるくなった温泉宿の前の川巾は広くなり、大きく蛇行していた。ここでも庄屋や百姓たちが平伏していた。気温が下がっているのか静かな川面からは薄い水蒸気がたなびき、樹木で遮られた日の光が木の影を落としてゆらいでいた。ここから幅の広い江戸街道に復すると、道は赤沼に向っている。赤沼は、三春藩と守山藩の境の部落である。そこを過ぎると、間もなく白河領に入る。 参勤交代の前例通り、藩境である赤沼の大滝根川の橋で見送りの人々と別れた映季は、供の者とともに江戸へ向かって行った。その姿がだんだん小さくなり、山の端に忽然と消えた時、直親は思わず大きな吐息をついた。 ──ついに殿は東京に行ってしまわれた。先の殿の参勤交代の時は、こんな寂しい行列ではなかったが・・・。今後われわれは、どなた様を頼ればいいのか?
2008.03.30
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次の年は梅雨が過ぎたはずなのに、ぐずぐずした天気が続き、夏らしい日差しが一向に戻ってこなかった。 直親は朝餉を食べながら、今年もまた不作にならなければ良いがという心配をしていた。勝手の間から、まだ炬燵が外せないような初夏の気温であった。 加藤木家での食事は、男たちが居間でそれぞれの箱膳を使って、そしてそれが済んでから女たちや女中は台所で、という習慣であった。 今朝もまた、男たちの食事を要子が世話をしていた。「男たるもの、食事は黙ってするもの」そう教えられていた子どもたちは、「いただきます」を言った後は黙々と食べていた。いつもの通りの、いつもの食事の風景であった。しかし要子は、何かいつもとは違うものを感じていた。どうも気が落ちつかないでいた。がそう思いながらも「ご飯のお代わりを」と言って盆を差しだした要子に、直親が「うむ」と言って茶碗を盆に乗せようと前かがみになった時、彼の丁髷が藁で結ばれているのに気がついた。「まあ・・・あなた。いったい何の真似を・・・」 そう言うと何故か要子は一瞬かーっと頭に血が上り、顔が赤くなるのを感じた。 直親も直親で藩の節約令に従って丁髷を藁で結んだものの、妙に寂しく惨めな気持ちであったのである。そのため反射的に丁髷を隠そうとして頭に手をやった。それに気づいて、子どもたちも一斉に父の頭に目をやった。「あなた、いったい・・・」言いかけた要子に皆まで言わせず、直親が言った。「うむ・・・。実は今度、藩の公廨所から[老若男女ともに髪を結ぶのに元結は使わず糸か藁を使用すること]という達しが出てのう。それに従ったまでじゃ。今後はお前は勿論、子どもたちにも元結を使わせぬよう気をつけぬとな」 それを聞いた要子は驚いて、危うく盆を取り落とすところだった。「まあ・・・、そうしたら紅や白粉、お歯黒も使ってはいけないのですか? 嫁入り前の縫はどうしたらいいのでしょうか?」 困ったような顔で要子が訊いた。「む・・・」 直親も困惑した表情をしていた。「それよりも今後は鉄砲の所有が禁止され、全部公廨所に提出させられることになってのう。その上噂では、刀も全部取り上げられるそうじゃ」「まあー。それでは侍が侍でなくなるのではないですか?」 母のその声を聞いた子どもたちの箸は、一斉に止まってしまった。「それにな、全ての師範家が廃止となってしまった。これからは我が家も、藩からの収入が途絶えることになる」 心なしか直親の声は沈んでいた。そして立て続けに様子を訊いてくる要子に、直親は返事をするのにためらいを感じていた。 直親にしても、いずれ周太郎は藩に出仕をして柔術道場を嗣ぐものと思っていたし、それはまた本人や家族はもとより、周囲の誰もが疑うことではなかった。重教や富造にしても、やがては何か藩の仕事につけると思い込んでいたのである。文武校を終えた周太郎や重教に柔術を極めさせようとしたのには、そういう意図があったのである。「縫ももう二十一歳になります、嫁に出すには遅いくらいですのに・・・。こうなっては侍にはやれないし、侍に嫁がせられないとしたら、どこの誰に嫁がせたらいいのでしょうか?」 要子の声は悲鳴に近かった。 その妻の声に、直親は絶句した。 縫は赤い顔をして、黙ってうつむいていた。 食事を終えた直親は下駄を履くと庭に出た。その庭からは、舞鶴城が良く見えていた。朝な夕な仰ぎ見ていた城であり、出仕していた城であった。その城が、今は無人になっている筈であった。前藩主であった知藩事は、御花畑の御殿に移っていた。それはまだ誰も知らなかったが、舞鶴城が廃城となる準備でもあったのである。 ──嘆かわしいことだ。 直親は城を見ながらそう思った。新しい事物が滔々として流れ込み、古い組織やしきたりが押し流されようとしていた。とにかく情勢は刻々と変化していた。それは何も三春だけではなかった。今までの価値観がガラリと変わり、直親のような古い考えの人間は、ともすれば置き去りにされそうな状況にあった。 文武校を卒業していた重教は、文武校の教師であり、また琴田岩松の叔父でもある町田政紀のもとに通いはじめていた。文武校で重教の才能に気づいた町田が、直親に電気の勉学を薦めていた。はじめは反対していた直親も、次男の重教の先行きについては悩んでいた。 ──長男は家を嗣ぐからいいとしても、次・三男の生きる道をどうするか? 富造はさておいても、十三歳の重教には早く新しい道を考えねばなるまい。しかし町田の元へ通わせることで、さてそれがどう変わるか? 父としての心配は尽きなかったが、と言って反対する明確な理由もなかった。 重教は町田政紀のもとで、電気および電気通信の勉強を習いはじめることとなった。三春藩士であった町田は旧藩時代に西洋の科学技術を学び、三春藩はもとより他の藩にも出向いて指導をしていた。文久二(一八六二)年には岸和田藩に出張し、そこで電気地雷の実験に成功していた電気技術の先駆者であった。「電気とは何だ? 電信とは何だ?」と矢継ぎ早に質問する周太郎に、重教は丁寧に答えていた。そばで聞いていた富造は、大いに興味をそそられていた。 ──ふーん。電気とはなにか大したことができるものなんだ。 富造は漠然とそう思った。重教は独り言のように呟いた。「しかし俺は東京に行きたいなあ。今度東京に工学寮という学校が出来たというんだ。町田先生が、『そこでの教授が日本で最高のものだ』とおっしゃられた。そこの学校に行ければなあ・・・」「東京・・・? ちぃ兄ちゃんが行くなら俺も行く!」 富造はその話を聞きながら一人で気負っていた。 重教は苦笑して言った。「お前なぁ・・・。行くって言ったって、口で言うほど簡単じゃないぞ」 ある日富造は、琴松や守太郎と川に水泳ぎに行った。妙な気怠さを感じながら帰ってきた富造は、姉の縫に付き添われて医者に行った。 三浦玄庵先生は、「これは、腹が冷えたのじゃな。腹の冷えにはこれが一番」と言うと、いきなり前をまくって富造に自分の腹を見せた。玄庵先生は、「足柄山の金太郎」のするような四角の赤い腹巻きをしていたのである。 富造が「サラシを巻いています」と言うと、「ああ、あれでは、たごまるから駄目だ。腹巻きはこの方がいい」と威厳のある顔で言った。「ぷふっ」という妙な音に思わず振り返ると、下を向いている姉の縫の肩が小刻みに震えていた。 縫い上がったばかりの腹巻きを持った母の要子が、「出来たよ」と言いながら富造が寝ている部屋に入ってきた。 後ろからは縫が、笑いを噛み殺しながらついてきた。 母が赤い四角の腹巻きを広げると富造に見せた。「赤い腹巻きなんか、俺いやだ」 富造は布団を被ると反対側を向いた。「富造、富造。まさか玄庵先生の赤い腹巻きには大きな字で、足柄山の金太郎のように『○金』とは書いてなかったでしょうね?」 母が冷やかしながら一気に言うと、二人は弾けたように笑った。「あの謹厳実直な玄庵先生があんなものをしているなんて、私、思いもよらなかった。私、笑うのを我慢をしていて、お腹が捩れそうだったわ」 やっと縫が笑いを押さえながらそう言うと、二人はまた笑った。 富造は憮然としていた。 (三春町亀井の加藤木=勝沼家跡の碑。左 富造の孫:ジョージ・スズキ。 中 その妹サチコ・セラーノ。右 筆者。)
2008.03.29
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周太郎は黙っていた。 ──俺は土佐藩の断金隊の背後を護衛する後衛隊として参加した。本宮への阿武隈川渡河作戦は、それは激しいものだった。本宮を守る同盟軍の鉄砲の弾が、耳元をかすめて飛んできた。この断金隊長の美正貫一郎が戦死したのも、ここだった。隊長として最初に水に飛び込んで抜き手を切った美正貫一郎や後を追った隊員たちに敵の銃弾が集中し、弾丸に斃れた味方の兵士の死体がいくつもいくつも流れて行く中、ようやく味方の何人かが対岸に泳ぎついて舟を奪い、渡河作戦に成功した。俺たち後衛隊が本宮の町に入った時は硝煙の臭いに交じって血生臭い匂いが立ちこめ、至る所に死体が打ち捨てられていた。そんな悲惨なことを幼い富造に話せるか。 そう思っていた。 しかし富造は周太郎がそんなことを考えているとは思いもしなかった。それであるから気になって、上目遣いに小さな声で訊いた。「それだけ?」 富造も幼な心に、当時の記憶の片鱗があった。それはわが家や道場に肥前大村藩の兵士たちが何日も宿泊していたことであった。彼らは、何を話しているか分からない言葉を使い、恐ろしげな風体であった。そして町には同じような服装の薩長土肥や多くの藩の兵士たちで溢れ、町の人々の怯えた目は彼らと目が合うのを避けていた。それは子どもの富造の目にも異様な風景であった。 周太郎は努めて明るく言った。「ああ、そうだ。それだけだ」「なんだ。お兄ちゃんは戦争で手柄を立てたのとは違うの?」 それを聞いた周太郎は思わず苦笑いをした。 ──そんな格好のいい武勇伝などありはしない。結局三春藩の兵は新政府軍の下働きに過ぎなかったし、単に利用されたというだけだった。戦場に入ってしまったら、それこそ大義も名分もあるもんか。あるのは殺し合いと暴行、そして略奪だ。 富造には周太郎の顔が面白くもなさそうになっていくのが分かった。 ──お兄ちゃん、怒っているのかな? これはまずかったかな? そう思った富造は、「お兄ちゃん。先に帰るよ」と言うと一目散に走り出した。 文武校は明徳堂以来の伝統に則り、全生活に亙って教育をした全寮制の藩校であった。そのため寮生活を通じて子どもたちには堅固な友情が育てられていった。富造の先輩にはのちの自由民権家になる琴田岩松、医学博士で東大教授になる平沢村出身の村田守治、後輩にはやはり自由民権家になる山口守太郎などが学んでいた。「まもなく桜も咲こうの?」 直親は要子に声をかけた。 柔術道場の午前中の稽古は師範代にまかせていたから、道場からの音を聞きながら、ゆっくりと茶を飲んでいた。「はい。お城の桜の様子からしますと、滝桜もそろそろかも知れませんね」「うむ。それは楽しみじゃな」 直親は茶碗を茶托に戻しながら言った。 滝桜は三春郊外の滝部落の畑にあり、紅枝垂れ桜の巨木である。根元の周囲三十四尺、目通り幹囲三十一尺、枝の広がりは東西に七十三尺、南北に五十六尺、樹齢は千年とも千二百年とも言われる。毎年四月二十日過ぎに淡い紅色の花を付け、長い枝が高い梢から下がってほとんど地上に達し、満開ともなれば花が滝のように見えることから古来滝桜と呼ばれていた。そしてそれの世話をする百姓の年貢が免除されるなど、三春藩の手厚い保護を受けていた。 直親は目を閉じると黙って腕を組んだ。 ──桜もいいがこれからが大変だ。 そう思った。 三春藩でも藩士の呼称や階級そして職制などが変更され、人心は不安で動揺し、流言飛語が乱れ飛んでいた。それに加えて町の中では偽金が出回って経済活動に悪影響を及ぼし、商人たちはそれを受け取るまいとして消極的な商いになっていた。また不作のため米の値段が極度に上昇し、酒造なども禁止されて酒屋が商売にならず、音をあげていた。その上、困窮者が増えていた。それを救うため町内の物持ちから寄付を募り、一人前一日二合五勺、十日分の施米を施すなど、公廨所はその対策に躍起となっていた。しかし物を運ぶのに不便なこともあって食料が円滑にゆきわたらず、餓死する者もままあった。 ──これでは好きな酒もたしなめなくなるな。 埒もない考えが巡り巡ってそこまでたどり着いた時、直親の顔が微かに歪んだ。「どうなさいました?」 顔色をうかがっていた要子の問いに、直親は心の隙を見すかされたかのように内心慌てた。「・・・いや、今度政府から歩兵差出令が出てのう」 最近になって定められた新しい軍制のことである。直親は茶碗に手を伸ばしながら、なに気なさそうにそう言った。「は? 歩兵差出令・・・でございますか?」「うむ。つまり政府は、西洋式の調練による新しい軍隊を作ることにしたのじゃが、そのために全国から五年交代で次・三男の者を差し出せと言って来てのう。ただしその報酬として、一カ月に玄米一斗八升を支給するのだそうじゃ」 直親はそう言って、ゆっくりと茶を含んだ。「まあ・・・。次・三男ということでございますか・・・? そうしましたら周太郎は長男ですから行ずともよいのでしょうが、次男の重教や三男の富造は軍隊にとられませんか?」 要子が心配そうに訊いた。「それは大丈夫じゃ」 苦笑いをしながら直親が言った。「年齢の規定では十五歳以上の者、とある。幸いわが家では今のところこの歩兵差出令には該当する子はいないことになる。大きな声では言えぬが、よかったのう」 直親はいたずらっぽく言った。「はい。大きな声では言いませぬが、ようございました」 要子もいたずらっぽく小さな声で鸚鵡返しに繰り返すと口を手でおさえて、ふ・・と笑った。周太郎の舐めた戦場での恐怖と苦しみを、重教や富造に与えたくないとの思いが嬉しさとなって表れたのである。「しかし三年後はどうなりましょう?」 要子には次の心配が生まれてきた。その顔は険しい顔になっていた。しかし直親は、それには返事をしなかった。
2008.03.28
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明治二(一八六九)年、富造は六歳になっていた。阿武隈山系の中にある奥州三春の町でも、戊辰戦争が終わってからの最初の春が始まろうとしていた。三春舞鶴城や城の周囲を巡る町と山野の雪も消え、木樹は小さなたくさんの芽を吹くことで春の準備を急いでいた。 その日の朝早く、富造の父の加藤木直親はいつものように縁側に立ち、小鳥たちがせわしなく飛び回る庭の潅木を眺めていた。その庭の木の枝には、ヒヨドリや雀が様子を見るかのように一~二羽止まり、餌でも見つけて飛び下りようものならそれこそ群れをなして集まり、ついばんでいた。しかしそれを見ている直親がうっかり身体でも動かそうものなら、彼らは羽音も高く逃げ去った。「そーっと来たのに、目ざといですわね」 妻の要子が微笑みながら声をかけた。「おう、お前を見て逃げたのか」 直親はそう言いながら振り返った。「風もぬるんできたのう」 直親は視線を庭に戻した。その庭の草は、まだ枯れた色のままであった。 当主の直親は三十六歳、三春藩の柔術師範である。その体躯は痩身ではあったが筋骨は隆々とし、鋭い眼光をしていた。 今日は末の息子の富造の、藩校・文武校への入学の日である。しかし直親は率直に喜べなかった。長く伝統のある藩校・明徳堂は、あの苦しかった戊辰戦争が終わるとすぐに講文堂と名を変え、今年からは文武校と目まぐるしくその名を変えていた。そのことに象徴されるように、御一新後の動きが慌ただしいのである。この年には全国一斉に藩主の名称が廃止され、知藩事と変更になった。三春藩は戦後もそのまま所領が安堵され、藩主の秋田信濃守映季もまた、新政府から新たに三春知藩事として任命された。この聞き慣れぬ役職名にも、直親は馴染めなかった。口の中で「知藩事様・・・」と呟いてみたが、それがどうも、しっくりこなかった。 長男の周太郎と三男の富造が挨拶のため父の前に座った時は、もう日が大分高くなっていた。十六歳となった周太郎は父親似の顔立ちをしていたが、戊辰戦争に参加した経験もあってかその風貌は大人びていた。父の直親とすればそれがまた息子自慢の一つであった。その父に代り、明徳堂を終えていた周太郎が富造の付き添いとして登校して行くことになっていた。「父上、行って参ります」 富造は何度も母に教えられていた筈なのに、父を前にしていささか照れたような、ぎこちない様子をしていた。 要子は小柄な身体をさらに縮めるようにして、障子の陰の廊下から子どもたちを見守っていた。文武校に入るんだからもう少しきちんと行動してくれないと、とそう心配したのである。 要子は玄関に先回りをすると、出てきた富造に、「富造。お兄ちゃんの言うことを聞いて、ちゃんとするんですよ。ちゃんと」 と念を押した。 二人の子どもたちが出た後には、門弟たちの騒がしい柔術の稽古の音だけが残された。二人は城山に通ずる武家屋敷の前の狭い道を、城とは反対の広い通りに出た。そこは昔からの、北町の商人の街である。富造の仲良しの琴田岩松や山口守太郎の家は、その北町にあった。富造は、守太郎の家の前を通る時、「守ちゃんはいるかな?」と思って開け放された玄関を兄の身体の陰からそっと覗いたが、誰も出てくる気配は見えなかった。 この北町のだらだらした坂をしばらく下りて行くと、やがて四っ辻に出る。その四っ辻を右に折れると、この町一番の繁華街・大町に続いている。ここは人通りも多く、物を運ぶ大八車の音などで喧噪を極めていた。そしてこの大町通りの先には、中町や荒町の商人町や職人町が連なっていた。 文武校へは、その四っ辻を左折した。左折するとすぐに食い違い(桝型)があり、そこまで来ると舞鶴城の下段の石垣が見えた。石垣の上には知藩事となった旧藩主の御屋敷や御花畑(薬草園)があり、つい最近「公廨所」とその名を変えられた藩の役所が建っていた。食い違いから先は郭内である。郭内の大手前通りには、張番所や仲間部屋そして大砲倉などが城の石垣を背景にして並んでいた。しかし戦後の今は人影も疎らで、町屋の喧噪が嘘のようであった。そしてその郭内の建物の並びの先に、文武校はあった。その文武校を囲む長い土塀の中ほどには古い格式のある校門・明徳門があり、入るとすぐに萱葺屋根の重厚な建物があった。周太郎は富造の耳元に身体を屈めると、その左手の奥まった所を指さした。「富造。あそこが若様の通われる学校だ」 周太郎は囁くように言った。文武校の静寂と旧藩主への畏怖の念が、周太郎に大きな声を出すのをためらわせたのであろう。それを聞く富造の心は、そこになにか恐ろしいものでも隠れているかのような錯覚に襲われた。思わず富造は兄の手を強く握りしめた。(三春藩校跡。正道館はその後に起きた自由民権運動の学校として使用されたことを示す。現在は三春町役場・三春歴史民俗資料館の駐車場)「ねえ、お兄ちゃん。お兄ちゃんは戦争に行ったんだって?」 文武校からの帰り道、富造は周太郎を見上げながら訊いた。十歳も年上の兄の姿は、富造の目にはまるで一人前の大人のように見えていた。「うん、誰に聞いた?」「ちぃ兄ちゃんだよ」「重教が言ったのか・・・?」 周太郎は軽く舌を打ちながら思わず富造のあどけない顔を見た。その顔は文武校での緊張から解放されたのであろう、いつもの子どもらしい顔つきに戻っていた。しかし富造からの質問を聞いた周太郎の記憶は、あの忌まわしい戊辰戦争の中に戻っていった。 確かに周太郎はあの戦争に従軍していた。幼い藩主を擁していた三春藩は新政府軍と直接の戦争を避けることで領内の戦乱からは逃れられたが、同盟軍との戦闘と新政府軍の占領地の警備のためにかり出されていた。新政府軍に無血入城を許した三春藩は[追て御沙汰まで城地・兵器・人民を預り置く。また出兵を申し付けるので功を立てよ]と命じられていた。そのため三春藩は、兵員の不足を周太郎ら少年兵たちに負わせざるを得なかったのである。周太郎は、少年兵として二本松藩領本宮の攻撃に出た頃を思い出していた。「俺は父上とは別の隊に入れられてな。本宮攻撃の時は後方支援にかり出された。本宮の町を占領してからは、まあ幸い戦いはなかったが、会津兵が反撃してくるという噂があって気が気ではなかった。そして恐ろしかった。それにそばに父上がいないということは、気が遠くなるほど寂しいことだった」 そう言ってそれ以上何も言わずに黙ってしまった周太郎を、富造はそっと横目で見上げた。 ──変だな。話したくないのかな? 富造は訝った。
2008.03.27
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マウナケアの雪 ~ある福島県人の足跡~ 第一章 銅 鑼 の 音 幼 き 日 々 遠くで鳴る汽笛が、かすかに聞こえた。 ──ようやく来たな。 勝沼富造は夜明けの淡い光の中でそう思うと、一緒にいた人夫たちに目配せをした。彼らは黙ったまま目の前に長々と横たわっているレールに沿って、ゆっくりと散開して行った。「ボオッ、ボウー」 二度鳴る汽笛は、「近くまで来たぞ」という合図であった。レールがカーッと鳴って列車の近づく音を伝えていた。レールから少し離れた林の前で白い旗を大きく振っている富造に気づいたか、ボオッと一声、汽笛を鳴らした貨物列車の荒々しい排気とクランクの音が通り過ぎる途端、そのスピードを落とすこともなく荷物を貨車から投げ出した。多くの荷物が転がり、土まみれになってそこに留まったりしていた。いい加減に造られた荷物は中の品物が飛び出し、それらを拾い集めるのも一仕事であった。それに必ず、全部を拾えるものでもなかったからである。 貨物列車の去った後、富造たちは食料品や日用品の入ったそれらの荷物をまとめると荷車に積んで帰路についた。その行く先は侮蔑の意味も含めて、ジャップキャンプと呼ばれていた飯場であった。話をする者は誰もいなかった。仕事の辛いのは仕方がなかった。しかし牛馬に餌でもやるような鉄道会社のこのような仕打ちには、涙が滲むほどの寂寥感に苛まれていた。 富造がサンフランシスコに上陸し、カルフォルニア州サンタローザで農場手伝いをしたのちアイダホ州ナンパ、コロラド州デンバーを転々とし、大陸横断鉄道建設が終って支線建設の局面にあったユタ準州ソルトレークの南ほぼ一二〇キロメートルのユーレカに移ってこの仕事をはじめたのは、一八九一年、二十八歳の時であった。日本を発ってから、すでに足掛け三年の長い期間が過ぎていた。そして辛いけれども収入のよかったこの仕事を敢えて辞めようと考えたのは、つい最近のことであった。しかし富造が雇用主である田中忠七にその意志を申し出たとき、田中は烈火の如く怒った。「人様の世話にだけなって、身勝手なやつだ! この裏切者奴が!」 あれからほぼ半月後、すべての私物を片手に持ち、事務所の裏口から見えるユタ湖の向こう側に南北に延びるロッキーの山々は、すでに深い雪に覆われていた。そのためもあって、夜になると急激に気温も下がっていた。 ──今頃は安達太良山(福島県二本松市)にも雪が降っているだろうか? 鋭い冷気の中で帽子を目深にかぶり、コートの襟を立てた富造は、敵前逃亡をするかのような後ろめたさを感じていた。しかしこのままの状況の中では自分が生きることの意義を見出せなかったし、日本人に対する人種差別の壁を取り除くこともまた不可能であることも感じていた。 ──自分だけのため、だけではない。 そう自分に言い聞かせながらも、辞めたあと何をすればこの問題の解決になるのか、ということに目星を付け得ないままの離職であった。 富造は監督として与えられていた宿舎に帰る途中、幹線道路から外れた開拓途中の林の道に入ってみた。小道や乗馬道や馬車用道路が木の切り株を避けて森を縫うように走っていた。林の傍らで薄黒い木樹を見た時に、二度と来ないかも知れぬという思いから足を踏み入れた。特別の目的があった訳ではない。いや、雪を見て故郷の林を思い出したのかも知れない。ただ林の中を通って帰ろう、と思っただけである。 しかし道路際の林の裾と違って入ってみるとブッシュが生い茂っていて歩くのもままならぬ所もあり、意外に難渋をした。どこまで行っても薄暗い林が続いていた。しかし林の中にはブッシュのまったくない所もあった。そういう所では、彼の靴に踏まれた枯れ葉がザクッ サクッ と音を立てていた。ザクッ サクッ ザクッ サクッ。調子のいいその音を聴きながら、富造は懐かしい音だと思った。そんなことを考えながら歩いていた富造は、故郷の景色を思い出していた。三春の山々を思い出していた。それと同時に、自分の頭の中の日本語が、なにかの塊になるのを感じていた。 ──異国の村、一二三四五六・・・。なつかしき音、一二三四五六七か・・・。 富造はポケットの中の指を、無意識のうちに折って数えていた。しかし彼には短歌を学んだ経験はない。ただそんなことを考えて歩いているうちに、日本語の塊が自然とまとまってきただけであった。 あれから大分歩いていたから宿舎も近くなっている筈であった。 フッと富造は足を止めた。いそいでポケットから手帳を取り出すと、いま思いついた短歌らしきものを暗がりの中で書き留めた。そして今度は、指を折りながら声に出してみた。 「異国の村 淋しや 落葉踏めば 微かに聞こゆ 故郷の音・・・か」 彼にとってその歌が上手かどうかは関係なかった。ただ字数の合わないのが気になった。そして故郷の人たちの姿が、脳裏に浮かんだ。 ──岩ちゃんや守ちゃんと、よく城山に行って、枯れ葉を投げたりして遊んだっけ。 そう子供の頃を思い出した。そしてその記憶は既に何年か前、日本で自由民権運動に拘わって死刑にされたり獄死していたそれら朋友につながっていった。その友だちに心の中で声を掛けると急に強烈な望郷の念に駆られ、不覚にも涙がこぼれそうになった。もう暗くなってしまった林の中での寂寥感が、彼を静かに押し包もうとしていた。 確かにここは、異国の地であった。
2008.03.26
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あ と が き 郡山で歴史の話を訊こうとすると、ほとんどの人が「郡山には歴史がない」と言われる。謙遜してそう言われるのかと思ったら、結構本心なのには驚く。 確かに江戸時代、郡山は二本松領であったし一介の宿場町に過ぎなかった。そのため郡山の歴史は二本松のそれに包含されてしまい、独自のものがないように思われるのも仕方がないことであったのかも知れない。しかし人が住む以上、そこには必ず歴史があるはずである。そのようなこともあって、私は郡山の歴史についていろいろ調べてみた。そしてその歴史が結構多いのに驚かされたのである。 『郡山の種痘~天保五年の事はじめ』は、『疱瘡の記』として二〇〇四年の第五十七回福島県文学賞に応募した『種痘事始』であった。ただ私としては、この中に出てくる『癘疫』という文字が、当時『疱瘡』を表していたということの証明が出来ぬままでの苦渋の出版であった。つまりここの部分は、「今になると証明できない」ということなのかも知れない。素人の私としては結局結論を見え出すことができなかったが、いずれ歴史家にこれの結末をつけて頂ければ有難いことと考えている。今後の読者のご賢察に待つところの多い話である。 この『種痘事始』は第五十七回福島県文学賞予選には通過したものの、正賞には至らなかった。当時福島民報に載った書評を転載する。 審 査 経 過 (前略) 第一次審査を通過した作品は次の通りである。◆一般の部〈小説〉吉田健三「嚢公」、木村令胡「火色の蛇」、綱藤幸恵「風と星の調和のとれたリズム」、小林綿「死綿花」〈ノンフィクション〉橋本捨五郎「種痘事始」、古内研二「津軽海峡」鎌田慶四郎「『降伏命令』なしー収容所までの道」、 (中略) 各委員から提出された結果をもとに審査は始まり、まずはすでに準賞を受けている吉田、橋本両作品の正賞への可能性を論議した。前者は十分な筆力があるものの物語のもつ迫力および感動に欠けるとの評価が、そして、後者は調査記録には感服するが、内容の整理に工夫が欲しいとの評価がなされた。両作品の正賞受賞は見送られた。(後略) 参 考 文 献 熊田家の墓碑銘 新家譜 明和霞城武鑑一八三四 天保五年諸願申立留帳一八五八 安政五年諸願申立留帳、その他の資料一九八二 郡山市文化財 研究紀要第二号 郡山市教育委員会 石橋印刷 郷土乃歴史 三穂田町史探会 ガリ版二〇〇一 北天の星 吉村昭 講談社二〇〇二 科学医学資料研究 松木明知 野間科学医学研究資料館 HP はこだて人物誌http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/soumu/hensan/jimbutsu_ver1.0/index.htm HP 福井市歴史人物 笠原白翁(良策)http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/soumu/hensan/jimbutsu_ver1.0/index.htm福島県史 函館市史 二本松市史 梁川町史 保原町史福島県医師会史 お世話になった方々 (敬称略・五十音順) 郡山図書館 郡山歴史資料館 郡山市埋蔵文化財調査センター 二本松資料館 三春歴史民俗資料館 梁川町図書室 仙台図書館 大内寛隆 大久保甚一 熊田修 鈴木八十吉 飛田立史 前田利光 山口篤二 吉川喜代衛 故・安芸幸子 故・田中正能 故・吉村昭
2008.03.25
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古 文 書(一葉目) 口 上 去年中引続不順之気候殊難食等仕候義与相見候疫症其外諸商人 町内并裏家端々等不残有之候處中ニハ困窮ニ而薬用手当も無之者 共間々相見江候ニ付此度より当宿当町極難重之者江施薬療治仕度 存候不苦義ニ御座候ハバ望之通被仰付被下度奉願上候以上 午正月 熊田文儀 御郡代中様(二葉目) 口 上 去冬中より引続不順之気候殊ニ難食等仕候義与相見江町内并裏 家端々等病人数多有之中ニハ困窮ニ付薬代ニも差支候族侭御座候 ニ付此度当町熊田文儀当所難渋之病人エ施薬仕度旨申出候尤是よ り追々療治仕候義ニ御座候間病家人数薬貼数等之義者追々取調申 上候□共奇特之義申出候間右之段以書付御届申上候以上 天保五午年正月 今泉半之丞 柏木安佐衛門 今泉久右衛門 山口●●● 笠間市之進様 (注)●は判読不明、この調査と直接関係がないので、確 認しなかった。(三葉目) 口 上 去冬中より疱瘡流行仕中々難治有之死失之小児数多御座候処 去年中より牛種痘生候分ハ自然痘相感不申無難而相済候ニ付此度 思召ヲ以御達ニ相成候御趣意於私共ニも難有奉感服候 伝之当宿 者勿論安積三組村々小前之者共 為施種痘仕度願候 尤願之通御 聞届ニ相成候ハバ右宿村々江夫々御達被成下置候様仕度奉存候 右趣何卒宣被御達可被下候奉願候 以上 正月廿四日 豊田三悦 村山玄澤 熊田文儀 御郡代御肝煎中様 (注)この文書は、前掲の県史のものと同一のものである。 重複するが比較のためここに再掲した。(別葉一) 口 上 去冬中より痘瘡追々流行仕中ニは難治之症有之夭死之小児も数 多御座候処先年中より牛痘接ケ置候分は自然痘之気相感不申候何 之憂も無之候至極之良法ニ御座候付此度厚思召を以被仰含候御趣 意於私共茂有難奉感服候依之當宿は勿論御組合村々迄茂為施之種 痘仕度奉預候右之趣不苦思召候は何分適宜敷被仰達可被下候奉願 候 以 上 午正月 熊田元鳳 同 宗倫 丹羽織右衛門様(別葉二) 以書付申上候 去冬中より疱瘡流行仕中ニ者難痘ニ而死亡之小児も数多有之候 所去年より牛痘苗種置候者共無難ニ相済候ニ付此度暑思召ヲ以被 仰出候後趣意一統難有奉感服當宿勿論安積三組村之小前之者共江 為施種痘仕度談當所熊田文儀村山玄澤豊田三悦併前医師 施種痘 一同奉願上候趣申出候ニ付是より追々療治仕候義と奉存候間療家 人数等追而取調可申上候得共奇特之義申出候ニ付右之趣以書付申 上候 以上 午正月 郡山宿検断 今泉伊左衛門 同 今泉半之充 同 町年寄 今泉久右衛門 丹羽織右衛門様 (注)大文字は筆者。なお、これらの古文書の全文を、富 久山町在住の郷土史家・鈴木八十吉氏のお手を煩わ せた。 (完)
2008.03.24
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結局ここまで調べても、天保四年に熊田文儀が種痘を実施したかどうかの結論が出せなかったが、中川五郎治という大先達のいたことを知ることにはなった。ただ彼が歴史上重要視されなかった理由のひとつに、『日本に牛痘苗を持ち込まなかったこと』が上げられている。ただし実際は、『持ち込んだのではあるが幕府に没収され、手元に戻ったときは使用不能になっていた』ということがあった。そしてそれよりもなによりも、ロシアにいるときに勉強をして知識を得ていたにしても、自力で牛痘苗を開発したことになるのであるから、「中川五郎治が牛痘苗を再発見した」と言ってもよいのではあるまいか。 それと第二は、亡くなった馬場佐十郎によって訳された『遁花秘訣』が嘉永三(一八五〇)年になって利光仙庵の手で更に翻訳しなおされ、『魯西亜牛痘全書』と改題してはじめて出版されたという事情がある。つまりここでの重要な行き違いは、種痘書『ヲスペンネクニガ』がシーボルトより先の文化九(一八一二)年に、中川五郎治によって日本に持ち込まれていたにもかかわらず、結局モーニケの牛種痘成功後の刊行となってしまったことである。 そしてもうひとつ重要なことに、天保十一年に秋田藩各地で接種を行っていた白鳥雄蔵らがいた。白鳥雄蔵が中川五郎治に種痘法の伝授を拒否されながらも、牛痘苗の開発に成功し実施したという事実から、中川五郎治や白鳥雄蔵らが牛痘苗を国内で手に入れたことを否定する理由がない。 こうなれば一番大事なことは、『彼らが外国から牛痘苗を持ち込まなかったこと』ではなく、『国内で、しかも自力で牛痘苗を手に入れることができた』ということではなかろうか。 そして福島県では、一九八二年に刊行された『郡山市文化財・研究紀要・第二号』に掲載された昼田源四郎氏の研究論文『近世農村の医療事情~奥州守山藩の場合』の中に、天保五年、守山藩で疱瘡が流行し、城山八幡宮にて祈祷、鎮守神楽を奉納したと記載されているのを見つけた。守山藩は下守屋村とは非常に近接していたし、現在では同じ郡山市域に含まれていることからも、守山で流行したということは下守屋村でも流行したと考えてもよいのではあるまいか。そうすれば、当時『癘疫』という言葉は淡水大事記にもあったように、疱瘡という病気を意味していたとも考えられる。またこのことは、熊田文儀の墓碑銘にある『天保五年 関佐荒饑奥羽殊甚如以癘疫』の年度と一致している。そしてもし熊田文儀がこの年に郡山で成功していれば会津にも種痘法を教えたとも推測できることから、この年表嘉永元年の項にある会津での実施が現実性を帯びるのではあるまいか。とは言っても、これらのことを前提として考えてみても、熊田文儀について次のような疑問が残った。 1 福島県史にある『天保五年』と、熊田文儀の墓碑銘にあっ た『天保五年』、そして『近世農村の医療事情』にある『天 保五年』とは同一の事実を表しているのであろうか。その 関連性はどうなのか? 2 『天保五年』の当時、『癘疫』とは具体的に疱瘡を表して いたのではないだろうか? 前述したように、大漢和辞典 に癘(れい)は『頼病。或曰悪瘡』と説明されているし淡 水大事記の記述もある。 しかし、もし、この(1)の問題、つまり天保四年に牛種痘を実施したというように解釈し、また(2)の『癘疫』は疱瘡を意味した病気であったと仮定すると、さらに次のような大問題を孕むことになってしまうのである。 1 福島県史のいう『天保五年』が正しいとすれば、日本にお ける医療史、福島県医師会史の書き換えが必要となる。 2 日本における医療史、福島県医師会史が正しいとすれば、 福島県史の書き換えが必要になる。 この予想外の展開たじろいでいる私に、つい最近、大内先生から手紙を頂いた。その後も調査や執筆にかまけて何のご報告もしなかったにも拘わらず、大変な心配りを頂いていたのである。 彼岸に入り一入秋らしくなってきました。 貴方様には益々ご清栄の御事と存じます。 さて、八月二十七日、愛知大学豊橋校舎における民衆思想研究会に参加し、田崎哲郎愛大名誉教授の『種痘の普及について』という講話を聴講して来ました。書き込みをした汚いレジュメと添付資料のコピーを同封しました。ご参考になれば幸いです。貴方様のご注目の郡山の種痘と中川五郎治について質してみましたが、要約左のようなことでした。 1 牛痘法以前に人痘法が行われていた。 2 古方医、漢方医、蘭方医(洋方医)にかぎらず、在村医の 掘り起こし(儒学、心学、神道も含めて)が必要で、これ によって医術を含めた実学が解明できる。 3 中川五郎治の『牛痘書』が内容および経路系統が確認でき ないので、田崎氏は疑問視している。 4 嘉永二年以前は、牛痘ではなく人痘ではないか。 これらのことから 1 当面、『牛痘』で中川五郎治と結びつけるのは無理かも知 れません。(ただ、否定しないで、留保しておけばよいと 思います。) 2 郡山の『種痘』が『人痘』ならば、説明が成り立ちます。 この場合でも経路系統が問題になります。豊田三悦、村山 玄沢、熊田文儀の学統・交友が解明されなければなりませ ん。 右お知らせまで、ご自愛ください。 九月二十一日 大内生
2008.03.23
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帰国を許されたゴローニンは、日本での体験を書いて出版した。やがて、その蘭訳本が輸入され、馬場佐十郎らが翻訳して遭厄日本紀事(そうやくにほんきじ、岩波文庫本では『日本幽囚記』)と名付けられた。 この年、【中川五郎治はシベリア抑留中に種痘術を学び、ロシ ア語の種痘書『ヲスペンネクニガ』を日本に持ち帰った】 この年、【幕命で箱館に来ていた馬場佐十郎が、箱館奉行所に 提出させられていた中川五郎治の『ヲスペンネクニガ』を筆 写して江戸に戻り、翻訳をはじめた】 文政五(一八二二)年、【馬場佐十郎死去。『遁花秘訣』と題さ れたわが国最初の種痘書は、刊行されるには至らなかった】 文政六(一八二三)年、シーボルト来日、長崎で牛種痘を実験 したが、失敗した。 文政七(一八二四)年、【中川五郎治は箱館などで牛種痘を試 みて成功した。後に医師になる箱館の白鳥雄蔵も彼から種痘 を受けた。なお確証はないが、五郎治は自分の出身地である 川内村で牛種痘を実施したという口伝がある】 この年、【下守屋村疫毒騁□人多斃】(文儀墓碑銘より) 文政八(一八二五)年、【下守屋村で再び疱瘡が流行】 この年、【麻疹果行竟施薬者数万民頼只安】(文儀墓碑銘より) 薬を要する者が大変な数に達した。疱瘡で死んだ遺体を乗せた大八車がひっきりなしに集落を駆け巡り、おびえた領民たちは祈祷を行い、疫病よけの赤いたすきを掛けて集落を捨てて山に逃げこんだ。そこでは牛糞を焼き煎じて飲んだが効くはずもなく、せいぜい祈祷所を設けたり神仏に祈ることくらいのことしかできなかった。(HP・三かく運動の小話)妙見山の飯豊和気神社は、このような病気から逃げ登るのには格好の山であったかも知れないし、逆に健常者を隔離する事になったとも考えられるこの折熊田文儀は二本松藩より月俸を受けることになったが、下守屋村の伝承による文儀の顕彰碑(実際は霊符つまりお守り)は、このとき建立されたものかも知れない。 天保元(一八三〇)年、中国から種痘書が渡来した。大村藩で は古田山を種痘山とし、そこに隔離して人痘種痘を行った。 天保四(一八三三)年、【『三葉目』の年代から押すと、熊田文 儀らはこの年に牛種痘を実施したことになる】 ただこの実施に際して、ちょっと気になることがある。それは明治の初年、牛肉食に驚いた庶民が、『牛肉を食べるとモーと鳴く、とか角が生える』と忌み嫌ったにもかかわらず、それから三十年も前の牛痘苗接種に、特に抵抗した様子が見られないことである。これにはよほど前もって、その有効性が話され受け入れられていたとしか、考えようがない。 天保十一(一八四〇)年、【中川五郎治に技術を示唆された白 鳥雄蔵が秋田藩医・斎藤養達に入門、牛痘苗の開発に成功し、 秋田藩各地で接種を行った】 白鳥雄蔵自身は、仙北地方(いまの秋田県横手市地方)で実施した。日野鼎哉と白鳥雄蔵により、京都で種痘に関しての中川五郎治の噂が拡がった。しかしそれにもかかわらず、何故かこの種痘法が全国に普及しなかった。この点に関して吉村昭氏は、中川五郎治が金儲けに走って人に教えず、自分だけの収入源にしようとしたためと推定している。 天保十二(一八四一)年、シーボルトの門人・伊東圭介が『英 吉利国種痘奇書』として漢訳書に訓点をほどこして発刊した。 弘化四(一八四七)年、【初代・熊田文儀死去】 嘉永元(一八四八)年、会津藩の佐藤元萇と中村二州寛敬が牛 種痘を実施。 嘉永元年あるいは三年とある種痘実施は、(中略)まだモーニケ来朝前であるため牛痘接種法を彼から学んでおらず(中略)これらの事実から見て、会津での嘉永元年または三年実施説は少し早いように思われる。 (福島県医師会史) (注)大文字は筆者 嘉永二(一八四九)年、オランダ軍医で蘭館医のオットー・モ ーニケが、牛種痘に成功した。 嘉永三(一八五〇)年、【馬場佐十郎が訳したが死去したため、 草稿のままであった『遁花秘訣』は利光仙庵の手で翻訳し直 され、『魯西亜牛痘全書』と改題してはじめて出版された】 嘉永五(一八五二)年、【七月二十九日、相馬中村藩で、藩医 半井宗玄が種痘を行った】 この種痘の結果、『効果見るべきものあり』という記録が残されたが、宗玄が行った種痘法が長崎で学んだ草野方昌によって得たモーニケ苗が長崎から入ったものなのか、またはさきにロシアから中川五郎治が持参して仙台まで広まったという牛痘苗が函館から入ったものなのかは、今後の研究課題である。 (福島県医師会史) (注)なおこれについて仙台図書館で調べたが、『種痘法 が函館から入った』という資料は、見つけることが できなかった。 大文字は筆者。 安政二(一八五五)年、奥州東白川(福島県)の菊池淳信は自 分の友人に接種した。 安政三(一八五六)年、吉村二州寛敬、馬島瑞園、宇南山宙斉 らが、会津若松城下および南会津郡で実施した。 安政四(一八五七)年、【二代目熊田文儀が牛種痘を実施した】 明治二(一八六九)年正月、磐城植田(福島県)の小宮山岱玄 が、種痘の免許を受けた。 二月、 須賀川(福島県)の薄井杏庵が、種痘の免許を受け た。 秋 三春(福島県)の伴野貞順が、種痘の免許を受けた。 明治三(一八七〇)年四月、政府は大学東校に種痘館を設置し、 太政官達をもって全国府県藩に布達して種痘を受けることを 奨励した。 明治四(一八七一)年、福島県の命令により、県内全域で種痘 を実施した。種痘を受けた者は、千余人を超えた。 六月、 常葉(福島県)の白岩玄泰が、種痘の免許を受けた。 十二月、北会津郡大戸村字雨屋(福島県)の秋元秀斎が、種 痘の免許を受けた。 明治九(一八七六)年五月、政府は天然痘予防規則を定め、強 制接種制度を発足させた。 昭和五五(一九八〇)年、WHOは総会で『世界天然痘根絶』 を宣言した。
2008.03.22
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埋 も れ た 種 痘 史 ところでここまで調べてきて、この埋もれていた疱瘡について、そしてその予防法である種痘について整理をしてみる必要が感じられた。そこで今までに知られていた歴史に、調査の結果を付け加えてみた。 紀元前 一一〇〇年頃 エジプトのラムセス五世のミイラの顔面に、 疱瘡の病変と思われる痕跡が見られるとい う。 天平七( 七三五)年 新羅に漂着した筑紫(いまの九州北部) の 人が感染して帰国し、多くの死者が出た。 これ以降、度々流行した。 延享元(一七四四)年 中国から鼻乾苗法が伝えられ、李仁山が長 崎で人痘種痘の実施をしたが不成功に終わ った。 寛政二(一七九〇)年 筑前秋月藩医の緒方春朔が天野甚左衛門の 二児に鼻乾苗法で人痘種痘を実施し、わが 国ではじめて成功した。 こ の 年 十九歳の文儀は三本木家より二本松領郡山 の熊田白翁の養子になり、以後熊田姓を名 乗った。 この人痘種痘とは疱瘡患者から取り出した痘痂をヘラに盛り、未感染者の鼻腔より吸入させる方法である。しかし痘痂を付着させる分量が、未感染者の年齢、体格さらには身体の状態などで微妙に違い、少なければ効果がなく、多過ぎれば死に至るという厄介な方法でもあった。そのためにこの方法は危険なものとして、一般的に普及するには至らなかった。 寛政三(一七九一)年一月七日、【熊田白翁が死去した】 寛政五(一七九三)年、緒方春朔が我が国最初の人痘書『種痘 必順弁』を著した。 寛政七(一七九五)年、【文儀、諸国にて医を学ぶ。】 この『文儀、諸国にて医を学ぶ』という文言は、疱瘡に限られたことではあるまいが、これら新しい医学の勉強をしていたことが窺われる。 寛政八(一七九六)年、緒方春朔は、和文による『種痘緊轄』、 漢文による『種痘証治録』を著した。 この年、 イギリス人、エドワード・ジェンナーが 種痘接種法を確立した。 この『種痘証治録』から鼻乾苗法という種痘法の全貌が明らかになるのであるが、牛痘種痘法がわが国で成功し普及し始める以前の疱瘡予防に大いに貢献することとなった。 享和三(一八〇一)年、幕府の通詞の馬場佐十郎貞由は、長崎出島のオランダ商館長ヘンドリック・ドゥーフからジェンナーの確立した牛種痘接種法を聞き、強い興味を覚えた。 この年、二本松領下守屋村では疱瘡が流行、そこで藩は通行を遮断し、一村の生活をそのまま続けさせて隔離した。平藩でも疱瘡が流行し上蓬田村(いまの石川郡平田村上蓬田=いわき市と郡山との中間にある村)では病死人も多く、臥床しないまでにも罹病しないものは稀というありさまで農業に精を出すことができずに収穫の時期を逸してしまい、稲は雪の下になり付近郷村より引き人足によって刈り取りをするという状態であった。 なおこの点を調べていて、伝染性の病気が発生した所では病気退散の祈祷をし、鉦や太鼓を打ち鳴らして火を焚き、病気を追い払いながら必ず他の村へも知らせようとしたのだということが分かった。そこで私は『郷土乃歴史』に書いた吉川氏が困っていた記述、『下守屋の飯豊和気神社の祭礼で花火を打ち上げてまもなく奇怪な伝染病が流行し……』のくだりは、近くの村の騒ぎを聞いてから病気が流行ったということではあるまいか、またその音と光が祭礼のようであり、それが下守屋の飯豊和気神社の祭礼での花火と誤って伝えられたのではあるまいか、と考えてみた。 それにしてもこうしてみると、疱瘡に対して随分昔から努力がなされており、また当時の二本松領のみに限らずこの病気が全国的に蔓延していたことが理解できた。そのような状況の中で文儀は、疱瘡という病気対応への熱気の中にあったことが想像できる。 文化四(一八〇七)年、鎖国政策を盾に、仙台藩の漂流民・加 藤津太夫ら四人の受取と通商交渉の拒否を続ける幕府に対し、 ロシア通商使節のニコライ・レザノフは実力で打開をしよう として、ロシア皇帝の許しを得ないままに海軍による樺太・ 千島への襲撃を開始した。 このような中で択捉島の番人であった中川五郎治も、日露間の争いに巻き込まれ、シベリアに連行された。 文化八(一八一一)年、ゴローニン事件発生。 この年、【馬場佐十郎は拘留中のゴローニンのもとに派遣され て、ロシア語を学んだ】 ゴローニン事件とは、松前藩が測量のため千島列島へ訪れていたロシア船ディアナ号を報復的に国後島で拿捕し、艦長ワシーリ・ゴローニン海軍中将ら八名を捕らえ抑留したために重大化したものである。 文化九(一八一二)年、ディアナ号の副艦長のリコルドは来日 して日本人漂流民とゴローニンとの交換を求めたが、日本側 に「ゴローニンらは処刑した」と偽って拒絶され、報復措置 として幕府御用船頭の高田屋嘉兵衛を国後島沖の海上で捕ら えて連れ去った。 文化十(一八一三)年、日露交渉が成立し、高田屋嘉兵衛とゴ ローニンの交換が実現した。
2008.03.21
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二 通 の 書 簡 私は大内先生から頂いた手紙を読んでいた。それには、あの福島県史の古文書が、『天保五年のものであるという決定的証拠』にはならないという後に次の文面が続いていた。 (前略)以上のことから福島県史にある天保五午年は誤りかも しれないが、もしかするとそうでないかもしれない。郡山でと いうことは、二本松藩内の本宮などに記録がないか。近世で、 学術としての医学は取り上げるが、医療・疾病を日常の生活上 で捉えることは大概、等閑にしている。(後略) そこで私は本宮歴史民俗資料館に行ってみた。医療についての若干の資料はあったが、これに類するものは皆無であった。私もこれまでに、調べられる範囲はすべて調べたと自負していた。しかし最初からの問題、天保四年については、いまに至るも解決の目途さえ見え出せないでいた。 ──郡山資料館の渡辺館長も大内先生も、天保五年については、共に肯定も否定も出来ないでいる。さて、どうしたらいいか! 私は迷いに迷っていた。その上で、遂に思い切って『福島県史 第三巻 九〇九頁』のコピーを添え、講談社を通じて吉村昭先生に手紙を出してみた。先生の著書『北天の星』から、種痘の歴史の研究家でもあることを知ったからであり、この『福島県史』のことをお知らせすることで、先生の研究のお役に立つこともあるかも知れないと思ったことからでもあった。それであるから、ご返事が頂けると期待しての行動ではなかったが、それにしても身勝手で僭越なことをしたものと思っていた。ところがありがたいことに、その吉村先生からご返事を頂いたのである。 書状拝見しました。地理的年代的に五郎治が牛痘法を教えたこ とはあり得ません。 天保五年は安政五年のミスです。県史にはしばしば誤りがあり ます。残念ながら・・・。「うーん」 正直言って大発見と思い意気込んで調べていた私の気持は、急速に萎えていった。『福島県史第三巻九〇九頁にある天保五年』や『熊田文儀の墓碑銘』にある年代を絶対的なものと思って調べていたために、その洗い直しを迫られてしまったのである。そうは言っても私は、後には引けないものを感じていた。『天保五年』や『種痘伝播』のルートに燭光が見えはじめているのである。その燭光は、熊田文儀の墓碑銘『天保五年関佐荒饑奥羽殊甚如以癘疫』にある、と思われた。それこそが、あの『三葉目』の傍証である、と思えたからである。 なおこの文中にある関佐については、関の字があることから私はなんとはなしに関東地方と推定していた。しかしあるとき、常陸から秋田へ国替えをさせられた佐竹氏に気がついた。関佐の『佐』の字が、佐竹氏と関係があるのではないかと思ったからである。そこで調べてみると、現在の茨城県常陸太田市や久慈郡一帯が佐竹郷と称されていたことが分かった。このことから私は、関東の佐竹郷を略して関佐と記したと考えたのである。関佐は現在の福島県との境になる。ここでの悪い病気の流行は、二本松藩としても見過ごすことのできない問題であったのであろう。 ところで『癘疫』については以前に辞書を調べていた。大漢和辞典には『癘=頼病。或曰悪瘡』とあるのみで、現在日本語で言うところの病名としては出ていない。そこで私は、『癘疫』という病名が天保時代にはどのような意味で使われたかを誰か医者の友人にでも訊いてみようかと思ったが、それでも心元がなかった。もう一度別の辞書を調べてみた。 癘疫 悪性の流行病。やくびょう。ときのけ。おこり。わらわ やみ。マラリヤ性熱病の昔の名前。 それらはいずれも伝染性熱病の昔の名前を意味していたがはたして天保の昔、マラリヤ性などという言葉を使ったものであろうか? これは現代の用語ではなかろうか? そう考えれば、たしかに天然痘は高熱を伴っていたようであるから、それを示唆しているとも思われた。悩んでいてインターネットに気がついた。しかし『癘疫』というキーワードでヒットするとも思えなかった。あとは、やってみるだけのことである。「出た!」 それが画面一杯に広がったとき、私は自分の目を疑った。ただしその全文が中国語であった。しかしそのことは、検索に掛けた文字から考えても不思議ではないと思った。それについて、次の三件を列記してみる。 中華民國憲法全文總統 第四三條 國家遇有天然災害、癘疫,或國家財政經濟上有重大 變故,須為急速處分時,總統於立法院休會期間,得經行政院 會議之決議。 移民墾殖與土認同 頭港仔原有百餘一九〇三年前後,當地發生一場不知名的 癘 疫 ,人畜均遭波及日據時代・淡水大事記(日本統治時期 淡水郡時期) 大正十四年一月十五日、癘疫 蔓延、淡水発現天花。 注 大文字は筆者 私はこれらの文章を眺めたとき、嫌な予感がした。 最初の中華民国憲法では、『國家遇有天然災害、癘疫』と続く。この『災害』が『癘疫』と併記されている文面から、癘疫が天然痘という単独の病名を表していないという可能性も、捨て切れないと思った。 しかも次の移民墾殖では『不知名的 癘疫』となっている。この文面から、名も知らぬ癘疫、つまり『名も知らぬ天然痘』ということはあり得ない。 ところが自信を深めたのは、最後の淡水大事記にであった。そこには『癘疫 蔓延、淡水発現天花』とある。中国では天然痘を天花とも称していたことは前にも述べた。それはあの馬場佐十郎が、『遁花秘訣』と題したこともこの天花から来ていた筈である。そうするとこの文章は、 ──大正十四年一月十五日、『癘疫』が『蔓延』した、『淡水(地名)』から『発』生した『現』在の『天花(天然痘)』である。という意味に考えてもよいのではなかろうか。私はメールで、大久保甚一氏に問い合わせをしてみた。返事は次の通りであった。 文章の前後が分かりませんが、解釈はこれでよいと思います。 ただ、『淡水発現天花』の素直な解釈は、『天花ハ淡水ヨリ発現 ス・・・雲は真水より発現す』、天花を天然痘とする場合でも 、 『現』を『現今の』としなくても『発現』でよいのではないかと 思います。 このことから、『癘疫』が天然痘を表すことに非常に近い表現であると思われ、熊田文儀の牛種痘実施の可能性が高まったと思われた。
2008.03.20
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六.顕 彰 碑 私はあと一歩で、これらの事情が判明するような気がしていた。その焦燥感が、再度の妙見山登山を誘っていた。何とかしてあの熊田文儀の顕彰碑を見つけることができ、その文面が解読できれば、新たな証明につなげることができるかも知れぬ、と思ったからである。 前にも登ったことのある妙見山の山道ではあったが、以前よりも悪くなったように感じていた。私は慎重に、そして注意深く運転をしていた。鳥居の前の広場に車を置くと、「先は長いぞ」と自分に自重の声を掛けて登りはじめた。 前のときもそうであったが、誰にも会うことのない、そして木々を騒がす風の音だけの山道は淋しいものである。そしてようやく着いた飯豊和気神社への最後の石段の登り口で、熊田氏や吉川氏から聞いていた話を頼りに顕彰碑を探しはじめた。風倒木や藪などのために以前に探して分からなかったところで、私の胸の高さもあろうかという大きな石の碑を発見した。 ──うーん。これのことか。 私は何故こんなに大きなものが、前に来たときには気が付かなかったのか、とは思ったが、このような薄暗い薮の中であったのだから仕方がないな、とも思っていた。私は藪をかき分けるようにして、その碑に近づいた。しかし残念ながら苔むしたその碑は大きく傾き、毀損していた。それでも表面の枯葉などを払いながら辛うじて見た碑の前面に『●月霊符』とあり、その下部左に少し小さな字で、『大河原正房(当時の八雲神社宮司)、熊田文儀』と二人の名が読みとることが出来た。 (霊符 ●は毀損のため判読不能) もう一度碑をよく見てみた。月の上に八の字のような形が見えている。それは丁度、八とも六の下の部分とも思えた。 ──うーん、これは『六月霊符』とも『八月霊符』とも読めるが、この折れた部分には何が書いてあったのであろうか? 私はそれらの文字から、この碑は熊田文儀を顕彰した碑ではなく、病気平癒祈願の『霊符』、つまり『お守り』のための碑ではないかと思った。あの如宝寺の墓碑銘のような文字列が書かれた様子がなく、とても顕彰碑とは思えなかった。 ──長い時が過ぎる間に、『霊符』と『顕彰碑』とを取り違えてしまったのかも知れない。 そう思った。 恐らくこの碑は、霊符という文字から『お守り』として建立されたものとの推定はついたが、ここからは、残念ながらそれ以上のことの発見には、つながらなかった。苦労をして見つけたにもかかわらず、顕彰碑でなかったことが残念でたまらなかった。 それからも毎日のように、図書館通いが続いていた。私が『福島県医師会史』という本があるのに気がついたのは、このような時であった。その『福島県医師会史 四四頁』には、次ぎの記述が載っていた。 会津における最初の牛痘接種は、各資料の間で年号の合わない 点があり、また嘉永元(一八四八)年あるいは三年とある種痘実 施は、当時(接種したと言われる)佐藤元萇がまだ江戸に勉学中 であることと、(もう一人の接種したと言われる)吉村二州は弘 化二年(一八四五)「西洋学修行のため長崎表へ遊学せるも宿志 通り難く江戸に移り」、この当時まだモーニケ来朝前であるた め牛痘接種法を彼から学んでおらず、ことにモーニケが 初めて牛痘接種法に成功したのはそれから四年後の嘉永二年であ って、嘉永三年頃は京都や江戸でも痘苗入手に苦心していた時代 であったから、これらの事実から見て、会津での嘉永元年 または三年実施説は少し早いように思われる。 注 大文字は筆者。 ──この記述はおかしい。会津で行われたのはモーニケ成功後とほぼ断定している。 私は考えた。 ──熊田文儀が天保四年に下守屋村で種痘に成功していれば、嘉永元年に種痘の方法が、文儀を通じて会津へ伝わって行ったと考えてもおかしくはない。そう考えれば、天保四年に熊田文儀が種痘に成功したということの傍証になるのではあるまいか? そして『北天の星』にも記載されているように、天保十一年に白鳥雄蔵がモーニケの実施以前に秋田藩各地で種痘を行っていたという事実は、天保四年に文儀が下守屋村でも行っていたという傍証になるのではあるまいか? 私には嘉永元(一八四八)年に会津藩で最初の種痘がこの年に行われたことを示唆している記述が、この傍証を補完しているように思えた。
2008.03.19
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(科学医学資料研究) 五、科学医学資料研究 私が『科学医学資料研究(中川五郎治がシベリアから将来したロシア語牛種痘書についての一考察)』という本のあることを知ったのは、やはりインターネットの検索でであった。なんとかしてこの本を手に入れようとして、発行元の野間科学医学研究資料館にメールで購入依頼をしたが、なんと残念ながら二ケ月前に解散してしまっていた。それでも野間科学医学研究資料館のホームページから、それらの本が国際日本文化研究センターに寄贈されたと知った私は、今度は国際日本文化研究センターに問い合わせをしてみた。そしてすでにその本が国際日本文化研究センターには無く、すべて東海大学や日本大学などに寄付されて保存されていることを知ったのである。 この事情を知って、私は学生時代に親しくしていた前田利光氏に頼った。彼は東海大学で教授を勤め、定年で退官後の今は、日本大学や中央大学で教鞭をとっていた。私はさっそく、その本が彼の関係していた東海大学か日本大学に保管されていないかどうかという調査依頼の手紙を書いた。 友人とはありがたいものである。前田氏は早速動いてくれた。しかしその本は、それらの大学に保管されていなかった。保管されていたのは、鶴見大学であった。彼はそれを、探し出してくれたのである。 間もなく前田氏から、『科学医学資料研究 三三〇号 (中川五郎治がシベリアから将来したロシア語牛痘種痘書についての一考察) 松木明知著(弘前大学医学部麻酔科学教室)』の全文コピーが郵送されてきた。これは、中川五郎治がシベリアから持ち帰った『ヲスペンネクニガ(種痘の本)』の研究書であった。 中川五郎治は種痘の本を二冊持ち帰ったようである。そのうちの一冊は、当時箱館に来ていた幕府の通詞・馬場佐十郎が書き写して江戸に持ち帰り、『遁花秘訣』として翻訳をはじめたが、それを世に出せぬうちに亡くなってしまったのである。私は残念ながら『遁花秘訣』の原本は読んでいない。その他の一冊は松木明知氏の調査にもかかわらず、どの本であったかは不明であるという。それでも松木明知氏は『ロシアの郡および郷の医者への薦め』を想定し、『科学医学資料研究』にその和訳と解説を載せている。 そのなかに、次の文言が記載されている。 ある人に牛の新しい膿をとって、うまく種痘を行えば、それ以 後は接種の時に、再び牛から接種材料の膿を取る必要がない。そ の時は人痘接種でよい。最初に接種された人から、同じようにほ かの人々に接種できる。(中略)時折、接種用に再び牛から接種 用の膿を取らなくてはならないこともある。接種材料が不足した 場合は、かって接種経験があっても、健康で単純な作りの牛の体 に接種を施し、そこから接種材料を取って、その牛自身に種痘す ることも可能である。 家畜の牛たちは特に最初の出産が終わった頃、乳房や乳頭に牛 痘が見られる。その様子は円状で、(中略)この病気にかかると、 牛たちはいつものように元気がなくなり、食欲も減退する。乳に 害はないので飲用は可能だが、出る量が減り、水っぽくなる。こ ういった牛の発疹は、一年中見られるわけではなく、普通は春や 秋、特に乏し い飼料の時期から、豊富な飼料への移行期、あるいは別の時期、 飼料が湿っている時期などに見られる。この牛痘から接種用の膿 を取りたい場合は、この時期にするべきである。 これらの記述は、当然ロシアの牛についてであるが、日本の牛ではどうであったのであろうか? しかし五郎治が松前で、また天保十一(一八四〇)年には白鳥雄蔵や齋藤養達らが秋田で成功しているということから、日本の牛も罹患していたことは事実であると思える。そうすると北海道や秋田の牛は罹患して、郡山の牛は罹患しないとは考えにくいし、考えるべきではないと思われる。ようやく、突破口が見付かるかも知れないと思っていた。 天保四(一八三三)年、前述の『三葉目』にある年代から押すと、熊田文儀らはこの年に種痘を実施している。 ──どうしても熊田文儀は、箱館で種痘が試みられた文政七年とこの天保四年の九年の間に種痘の法を学んでいる筈ということになる。以前に考えたように、文儀は箱館に渡って中川五郎治に習ったのであろうか? 多くの人が長崎に行って勉強をする時代であったのであるから、距離的に言っても、それも可能であったかも知れない。 しかし私は、まだ釈然としないものを感じていた。やはり北の海の向こうの箱館は、郡山からは遠過ぎる、そう思っていた。 ところで実証されてはいないが、『川内の五郎治』のホームページによると、五郎治は自分の生まれ故郷の川内村でも種痘を行ったと伝えられている。川内村は、青森県の下北半島にある。郡山からは直線距離でも、四百五十~四百六十キロメートルはあると思われる。考えてみればそれでも遠いが、箱館と違って海を渡る必要がない。もし五郎治が川内村で種痘を施した際その『かさぶた』を得ることができれば、ぎりぎりで、また中継ぎを途中に一人置けば確実に、生きたままの痘苗を郡山まで運べるのではあるまいかと考えた。これはまた嘉永二(一八四九)年に、笠原白翁が実際に行った方法である。そう考えてくればこの方法は、下守屋村に種痘を伝えることの選択肢の一つと思えた。 そしてもう一つ、もちろん文儀は中村善右衛門の協力を前提とした上の話であるが、牛から直接牛痘苗を取り出したと考える選択肢もあるのではないだろうか。 ──なにか証拠が、あるはずだ。 その思いは、強かった。
2008.03.18
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五郎治は、大野村の農民彦助が飼っている子牛に自然にできた 黄色いかさぷたを剥がした。そして五郎治はその黄色いかさぷた を丼の底で作った貯臓器に入れ、蓋をして白布でしっかりと縛っ て粉炭の入った小箱の中に納めた。そのようにしてイクの所に運 んだ五郎治は、かさぷたを小皿にとり唾液をたらし溶かし、小刀 でイクの右腕内側に傷をつけ出血させ、その液をたらし塗りつけ 白布を巻いた。それはやがて順調に発赤、水疱、膿が発症した。 この種痘に成功した五郎治は、自宅に待合室と種痘室をつくり、 「植え疱瘡屋」の看板をかけた。五郎治は亡くなるまでの二十四 年間種痘業を専業とし、松前と箱館に住む子供に牛痘を植えつけ て命を救った。しかし一回成功すると二分以上の報酬を貰い、金 儲けの手段にした。もし五郎治が寛容な心を持ち、無料で種痘を 行ない、全国に痘苗を分け与えていたら、その後死なないで済ん だ日本全国の子供の数は、多数に及んだであろう。また五郎治は これを箱館の医師・白鳥雄蔵 や高木啓策にも伝授した。雄蔵は 町年寄の白鳥新十郎の次男で頼山陽に学び、のち医を業とした。 その上でまた吉村昭先生は、『北天の星』の『覚書』に次のようにも書かれている。 五郎治がどのようにして痘苗を得たか、当時の記録によると、 人痘を牛に植えて牛痘苗を得たとされているが、藤野恒三郎氏等 によってそれは学問的に不可能だいわれていることを私も知って いる。それならば、どのようにして五郎治が牛痘苗を得たかとい う疑問に突き当たる。 かれが人痘を人間に植えたと考えられなくもないが、死の危険 が多い人痘法を長年の間つづけられるはずもない。あれこれと考 えた末、五郎治が牛から幸運にも牛痘苗を得たとした。むろん私 の解釈ではあるが、これ以外に考えられないのである。 吉村昭先生の頭をも悩ませたこの問題、これは実際にどういうことであったのであろうか。 当時シーボルトをはじめ、内外人の医師たちが苦労をして輸入しようとした牛痘苗。しかし仮に吉村昭先生が言われるように、『幸運にも』であったにせよ、五郎治が松前で牛種痘に成功したという事実がある以上、その牛痘苗を国内で入手したこともまた事実である。シーボルトらは、日本の牛を調べなかったのであろうか? 日本では牛肉を食べたり牛乳を飲んだりする習慣がなかったため、牛のみの病気として見過ごしてしまったのであろうか? ところでこれらの事情の中で、文儀が牛痘苗を得るために海外に出掛けたり輸入した形跡は勿論ない。すると文儀もまた、例え偶然であれ国内で入手したと考えざるを得ない。しかも中川五郎治が松前で牛痘苗を得たと考えるのであれば、北海道以外の地でもそれを得る方法が皆無ではなかったということになるのではないだろうか? 私はこれらのことを考えながら、モーニケの成功する以前の天保四年、熊田文儀が下守屋村で種痘に成功するためには、何らかの形でこの中川五郎治との接点があったのではないかと思いはじめた。教える人があってはじめて、熊田文儀が下守屋村で成功したということになるからであり、いまのところこれ以外の人物は考えられなかった。 ──では、熊田文儀はいつ、そしてどこで、中川五郎治と接点を持ったのか? 一番都合のいい推測は、文儀が函館に習いに行けばいい。 そうは思ったが、文儀が中川五郎治についての情報をどこから得たのかという問題と、得たとしても郡山から蝦夷の松前まで行くのは、いかにも遠過ぎるように思えた。しかし遠すぎるとは言っても勉学のためなら長崎までも行く時代であったから、松前の中川五郎治を無視する訳にはいかなかった。そこで接点として考えるのに次に都合が良い事態は、種痘を実施した中川五郎治が松前藩の一員として、大内先生が教示しておられた梁川に来ていたと考えることである。もしそうだとすれば、熊田文儀が中川五郎治に師事した可能性が高くなると思えたからである。 梁川藩と二本松藩は、隣の藩の関係にあった。このような近くにあった両藩の間に、種々密接な交流が発生していたことは十分に想像していいことである。そう考えて、今度は梁川町の図書室に行ってみた。しかし残念ながら、中川五郎治が梁川に来たようなことに関しての資料は、まったくなかったのである。 ──それなら中川五郎治と熊田文儀の接点として、大内先生の手紙にあった梁川商人の中村佐平次や科学者である善右衛門が関係していたと考えればどうなるか。 私はその仮説を基に、もう一度梁川町に行ってみた。そして中村家は、蝦夷の松前藩とは相当手広く営業をしていたことが確認できた。 ──そうすれば善右衛門も、松前に行ったことがあると想像できる。蝦夷の松前藩に何かがある。 当時幕府は、ロシアによる蝦夷地侵略があったこと、また藩主・松前志摩守道広の反幕的行動の噂があったことを考慮し、その上で松前藩だけでの蝦夷地防衛は無理であるという結論を持った。そこで幕府は道広に対して江戸出府を命じ、江戸浅草三味線堀の松前藩邸に滞留を申し渡した。道広は幕府に抗議し、江戸藩邸内の土蔵に黙居して夜になっても灯を点けず、反抗的態度を崩さなかったため、その子・志摩守章広に家督が移された。そして藩主は、江戸に住んでいたのである。 それらを踏まえて調べた結果の推測は、おおよそ次のようなものであった。 1 中村家が箱館の大津屋・田中正右衛門と取引上の関係があっ たという可能性は、充分に考えられる。当時の商業形態とし ては、藩許を得た商人の数が限定されていたと考えても良い。 それは松前藩三万石の規模から言って、なおさら少なかっ たと考えられる。そこへ梁川の松前藩から箱館に出店を持っ ている中村佐平次が商用で行くのであるから、取引関係にあ ったということは、むしろ当然ではあるまいか。 2 田中正右衛門の娘イクは、中川五郎治の種痘を受けている。 中村佐平次が科学者であり蚕業研究家である善右衛門を同道 した箱館でこの施術の実況を見聞していた。 3 この梁川の松前藩が不慣れな新しい任地で、しかも藩主の留 守を守っていた家臣たちにとって、中村佐平次たちが松前や 箱館で見聞した話を聞くことは、楽しいことであったのでは なかろうか。そしてその中には、中川五郎治の話題も出てい た。五郎治が箱館で種痘を実施する前からではあったが、種 痘についての話を随分周囲に話していたらしいことは、『北 天の星』に詳しく記述されている。それらの状況から梁川で 広まった種痘の話を、二本松のお匙医師であった二代目の信 庵惟泰が聞きつけ、中村善右衛門と接触を持ったと考えたら どうであろうか。 4 そこで様子を知った二代目の信庵惟泰は、分家である郡山村 の初代熊田文儀および果道(二代目文儀)親子にその話を伝 えた。そのため無意識のうちに熊田家への連携プレーがなさ れ、郡山への種痘伝播のための一つの力となったのではない か。 5 そう考えてくると、二代文儀が二代信庵惟泰に感謝して如宝 寺の墓地に祈念の碑を建立したという意味が、理解できる。 しかもこの碑を建てた翌年、二代文儀が死亡している。まる で二代文儀は、自分の死を予見したような建立であった。 私は結論として、二本松に住んでいた二代目の信庵惟泰が梁川に住んでいた科学者の中村善右衛門と接触があった、と推定してみた。 さて問題は、これの証明である。
2008.03.17
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四、中川五郎治 私は、関係する古文書の解釈に困ったときに、県の歴史学の重鎮である大内寛隆先生に問い合わせをしたときのことを思い出した。あのとき先生は、ご自宅のある福島市よりわざわざ郡山歴史資料館まで出掛けて来られ、館長らと一緒に、古文書をチェックされたが、その後先生から丁寧なご教示を頂いていた。 前略 撞けば響くようなご調査に驚いております。気付いたことを左 記に列記します。 安政三~慶応三年の綴りに中に、どうして天保のものが含まれているのでしょうか、気にかかります。一、 三葉と別葉の古文書をもう一度、前後ご判断の上並べて内容をご検討下さい。二、 文政八年の熊田文儀の施薬は、従来の方法なのでしょうか。 (中略) 北海道の松前藩は所替えになり、梁川(伊達郡梁川町)に陣屋 を構えた時期があります。短期間で松前に戻りますが、幕末に再 び梁川周辺に分領をもちます。梁川の中村佐平次家は蝦夷地に出 店を持ち、手広く商いをしています。分家の中村善右衛門は、蚕 当計などを考案した科学者です。これ以後は蚕室の温度の調節が できるようになり、繭の品質がよくなり生産が安定するようにな りました。 (後略) ──うーん、松前と梁川か…。 折角このような大内先生から重要なご教示を受けながらも、そのときはそれ以上のことには、思いが至らなかった。それであるから私が『松前』とインターネットの検索に打ち込んだのは、単なる勘でしかなかった。 『函館市史』がヒットした。 幕末、開国を迫られていた幕府は、蝦夷地にしばしば来航する イギリスやロシア船に脅威を感じていた。もともと幕府は外国の 漂着船に対して、穏便な扱いをしていた。しかし日本に通商を求 めてきて断られたロシアがたびたび蝦夷地で略奪行為を繰り返し ていたため、住民の憤激を買っていた。文化三年には、ロシアは 唐太の久春古丹(クシュンコタン)に侵入し,翌年さらに択捉を 襲って沙都会所などを焼き,ついで利尻島で幕府官船を焼き払う などしていた。幕府はただちに津軽・南部・秋田・庄内各藩に出 兵を命じ、松前藩に対しては、ロシアによる襲撃からの防備を命 じた。しかし、たかだか三万石に過ぎぬ松前藩が、蝦夷地の全部 から、北蝦夷(樺太)、択捉島、国後島の全域を防備することは 至難の業であった。せいぜい現地に住む漁民までも役人というこ とにして、格好を付けることくらいしかできなかった。 そしてこの年、幕府は松前藩の防衛力不足を理由としてその領 地全域を取り上げ、直轄地と変更した。そのため松前藩は、梁川 への国替えを命じられた。 ──なるほど、そういうことか。 私はそこを読んでいて、『中川五郎治』と言う名に出会ったのである。日本で牛種痘を最初に行ったとされるこの人の名が出てきたのは、函館市史の中の文化四(一八〇七)年の文書である。 中川五郎治は川内村(いまの青森県下北郡川内町)の小針屋佐助の子として生まれた。若い頃から蝦夷地に渡り、松前で商家に奉公をしていたが、寛政十一(一七九九)年、松前の豪商・栖原庄兵衛の世話により漁場の『稼ぎ方』として択捉島に渡った。(HP・はこだて人物誌 中川五郎治) いま次にインターネットからその事情を抜粋してみる。 松前藩が梁川に国替えになる直前、五郎治は択捉島の番人とし て登用されていた。そこへ、ロシアの軍艦が侵入してきた。特に 軍備の整っていたわけではない択捉島から、五郎治は幕府の役人、 そして島の代表として、簡単に連行されてしまった。ここで彼の 消息は切れてしまった。 連行されていた五郎治はシベリア抑留中に種痘術を学び、ロシ ア語の種痘書を手に入れていた。 国後島で日本に捕らえられていたロシア海軍ディアナ号艦長ゴ ローニンらと、高田屋嘉兵衛を仲立にして交換が図られ帰国した 五郎治は、鎖国政策によって幕府に捕らえられてしまった。持ち 帰った全ての物品を箱館奉行所に没収され、その身柄は江戸に送 られて厳しい詮議を受けることになった。翌年の三月になって、 ようやく釈放された。 そして文政三(一八二〇)年、幕命で箱館に来ていた幕府の通 詞馬場佐十郎は箱館奉行所で没収していた五郎治の種痘書を見、 噂を聞いて驚き、この書を筆写して江戸に戻った。この本は『遁 花秘訣』と題したわが国最初の種痘書となる筈であったが、佐十 郎の急死により草稿のままで、ついに日の目を見ることがなかっ た。 なお中国では、疱瘡を天花と記していたので、天花から逃れる という意味で『遁花秘訣』と題した。 文政四(一八二一)年、ロシアの動きが沈静化したとの理由で、 梁川松前藩は再び松前藩として元の蝦夷に戻った。その間、わず かに十四年であった。 文政七(一八二四)年、中川五郎治は箱館大町の大津屋・田中 正右衛門の娘イク(当時十一歳)や後に種痘を行う医師となる十 三歳の白鳥雄蔵など、多くの北海道の住民に対して牛痘苗による 種痘を試みて成功した。五郎治の実施した方法は、天然痘に罹っ た人から採った痘苗を大野村(いまの北海道亀田郡大野町)の牛 に植えて罹患させ、その牛から採取した痘苗を男子は左腕に女子 は右腕に、それぞれ一箇所ずつ植えたと言われるが異説もあって、 詳細は不明である。 ──なんと、こういう人が日本にいたのか。それに中川五郎治が文政七(一八二四)年に箱館で成功していたということは、天保四(一八三三)年の九年前になる。九年という期間があれば、文儀が種痘の技術を身に付けるのには短い過ぎない年数だ。 この仮定に気をよくした私は、その後もインターネットで疱瘡を追っていた。種痘。函館市史。川内の五郎治。幕末における日本医学の転換。小此木天然。やがてそれは、『北天の星(吉村昭著)』に行き着いた。私は早速その本を入手した。吉村昭先生は実に丹念に調査され、中川五郎治について小説化をされていた。当時貴重であった痘苗について、吉村昭先生は『北天の星』で次のような話を書かれている。
2008.03.16
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しかしこの『福井市歴史人物』によると、笠原白翁はモーニケが日本で成功をしてから種痘に関連した活動をはじめている。つまりモーニケから習得した日野鼎哉から習ったのが、その発端であったと考えられる。それであるから笠原白翁の種痘成功は、熊田文儀が種痘に成功したと思われる天保四(一八三三)年から十六年後の嘉永二(一八四九)年であったことになる。その上で熊田白翁の死はそれ以前の寛政三(一七九二)年のことであったから、同名ではありながらお互いにまったく関係のない人物ということになる。 さて熊田白翁は、ジェンナーが種痘を確立する六年前に亡くなっている。そうすると牛痘苗が発見される前に熊田白翁が牛痘苗を意味する白翁の号を付すということは、絶対にあり得ない。そこで考えられることは、白神痘とは牛種痘苗のことではなく病気そのもの、つまり疱瘡もしくは天然痘を表しているのではあるまいか? ということであった。そう考えるとこの熊田と笠原の『白翁』という二人が付した同じ号は、年代的には五十~六十年、場所もまた福井と郡山と違ってはいたが、疱瘡で関連していた号であったということになる。これは単なる偶然の一致であったとしても、不思議な符合であった。 この不思議な符合から考えられることは、熊田文儀の養父が『白翁』と号していた理由に、疱瘡という病気に対して一方ならぬ思い入れがあったということなのであろうか。 ちなみに、延享元(一七四四)年には中国から鼻乾苗法が伝えられており、寛政二(一七九〇)年には筑前秋月藩医の緒方春朔が天野甚左衛門の二児に鼻乾苗法で人痘種痘を実施し、はじめて成功したその翌年、熊田白翁が亡くなっている。なお蛇足、推測になるが、二本松藩医の小此木玄智の号は天然であった。うがった見方をすれば、笠原良策が白神痘から白翁と号したように、小此木玄智もまた、疱瘡つまり天然痘から天然と号したのかも知れない、と思った。 ──これら疱瘡に対する深い思いが『白翁』という号になり、その意志が熊田文儀に引き継がれ、そして文儀による牛種痘の実行につながっていったと考えてはどうであろうか。それに鼻乾苗法が伝えられた延享元(一七四四)年は熊田白翁が死亡した年の四十七年前であり、この長い期間中に熊田白翁が疱瘡予防に努力していたと想定することも、可能であるからである。 そう思って図書館に行った私は、百科事典をはじめ、医療百科事典、大漢和辞典と随分探してみた。しかし直接『白神痘』という項目はなく、疱瘡で調べてようやく漢独日対称事典でそれらしきものを見つけた。 それによると疱瘡は、ラテン語で『斑点のある』という意味の Varius からVariola と命名された、と出ていたのである。残念ながらその文字列では、白神痘と読む訳にはいかなかった。そこで頭文字がVであるから、バクシントウとは読めないかと思ってまた大漢和辞典をひっくり返してみたが、結局は空振りで終わってしまった。それでも大漢和辞典に痘とは疱瘡の意ともあったことから、白神痘イコール牛種痘ではなく、白神痘は疱瘡の意であるという感触を得ていた。なお日本では、ジェンナーが確立したVaccineを種痘と訳しているが、これをローマ字読みにすればバクシーネに近くなる。そしてこれに関連する事項として、ラテン語の Vacca(雌牛)が Vaccine (ワクチン)となったということも記載されていた。 ──Vacca! これこそが雌牛の乳房から採取された、牛痘苗そのものを示唆しているのではあるまいか! 私はそう思った。 また白神の中国語読みについては、問い合わせをしていた中国語に詳しい友人の飛田立史氏より「(中国の)共通語でbai shen (バイシェン)南方訛りでバックシン、仰せの通りハクシーネ近い音と考えて頂いて結構かと思います」という知らせも受けていた。
2008.03.15
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三、白 翁 (ハクシーネ) さて、これからどうしたものか。 手がかりが全く失われていく中で、私は『白翁』、つまり文字づら面からだけ言えば白髪の老人という意味ででもあろうが、戒名の『自稱院白翁惟元居士』にも使われているこの号『白翁』が妙に気になっていた。そこで私はこの『白翁』という文字を、インターネットの検索にかけてみた。勿論当てがあった訳でもないし、こんな特殊な名がヒットするとも思えなかった。 ところが「あった」のである。 キーを叩いたその瞬間、なんとモニターには、笠原白翁という名の人物が実在していたという『福井市歴史人物』がヒットしたのである。「うわっ、あった」 私は思わず声を上げた。 笠原白翁(良策) 文化六(一八〇九)年、足羽郡深見村(いまの福井市深見町) に生まれた。 文政七(一八二四)年、福井藩医学所済生館に入り、その後、 江戸の磯野公道に師事して漢方医学を修め、福井城下で開 業した。 天保八(一八三七)年、蘭学医の大武了玄と出会い蘭方医学習 得を志し、天保十一年、京都の蘭方医、日野鼎哉に入門し た。藩主から疱瘡について諮問された白翁は師鼎哉に疱瘡 の予防法を相談した。シーボルトのもとで牛痘接種法を見 学したことのある鼎哉は、その早期導入に努める旨を約す るとともに、長崎の唐通詞頴川四郎八に牛痘苗の入手を依 頼した。 弘化三(一八四六)年、白翁は福井藩主松平越前守春嶽(慶永) に対し、牛痘種により疱瘡予防が可能なこと、牛痘苗輸入 が急務であることを説き、幕府の輸入許可を求める嘆願書 を提出した。白翁の嘆願は当初は藩庁の理解を得られなか ったが、藩医の半井元沖、側用人の中根雪江の意見を取り 入れた春嶽の建言により、嘉永二(一八四九)年幕府の牛 痘苗輸入許可がおりたのである。 この時期、長崎では肥前佐賀藩医の楢林宗建による種痘 が成功し、長崎周辺に普及しつつあった。嘉永二(一八四 九)年、白翁は長崎に赴き痘苗の入手を目指したが、途中 で訪れた京都の日野鼎哉のもとに長崎から、種痘した子供 から得たかさぶたが届いていた。白翁は鼎哉と協力し、苦 心の末に種痘に成功し京都での普及を果たした後、同年十 一月十八日(陰暦)に種痘を施した幼児を伴い福井に向か った。当時の種痘は、人から人へ種継ぎをしていく以外に 確実な方法はなかったが、太陽暦では一月上旬に当たるこ の時期、国境の栃ノ木峠は深雪で覆われ、病の幼児を連れ ての峠越えはまさに決死行であった。 十一月二十五日、福井城下で初の種痘が実施され、漢方医側の 妨害があったものの次第に普及した。嘉永四(一八五九) 年には公立の種痘所『除痘館』が城下に開設され、その後 は急速な普及をみた。白翁の業績について、松平越前守春 嶽の随筆『真雪草子』には「西洋医学の越前に弘(ひろま) りしは笠原良策を以て魁とす」とみえている。なお鼎哉の 著書に、『白神除痘弁』『徴毒一掃論』などが残されている。 ところで種痘の実施にこれほどまで力を入れていた笠原良策の号である白翁は、牛痘を意味する『白神痘(はくしんとう)』から採ったものであるという。 ──なんと白翁という号は種痘に関係のある名であったのか! この発見には、本当に驚いた。
2008.03.14
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──熊田氏は信庵惟泰の墓が気になっておられるようだ。しかし熊田氏が気にしている以上、何かの意味を含んでいるのかも知れない。 この手紙を見て、私はそう思った。 ところで二本松藩の近世初期の医学は、漢方医が中心であった。明和三(一七六六)年十一月の『明和霞城武鑑』によると、二百石以上が六人、百石以上が八人、それに五十石以上五人の医師がいた。しかしここの名簿には、熊田氏関連の名はない。ところが『寛政八(一七九六)年二月役人帳』のお匙医師十人の中に、熊田信庵つまり信庵惟泰の名が見える。二本松藩で言うお匙医師とは、藩主および奥向きの人々を診察するのが役目であった。 熊田文儀の時代の二本松藩は、仙台藩に次いで蘭学の先達藩と言われ、多くの門人たちを育てていた。小此木屋之、小此木員安、小此木天然、小此木間雅などの名が知られている。そして二本松市史によると、小此木間雅(通称・玄智。なお天然も玄智を通称としていたようなので注意が必要)が長崎にて種痘の法を学び、嘉永六(一八五三)年、二本松領内ではじめて種痘に成功したことになっている。ということは、二本松市史もまた熊田文儀を知らなかったということになる。 如宝寺にある熊田文儀の墓碑銘によると、何度も書くようだが彼の養父は医師の白翁である。二本松藩医員として郡山村に派遣されていた子供のいない白翁は、当然ながら養子の文儀を家の跡継ぎとして遇した。そして白翁の没したこの時期、文儀はまだ郡山村の東町(いまの郡山市中町・方八丁の通り)で医師としての活動をはじめてはいなかった。これから数年の間、医を学ぶために郡山を離れていたからである。 なお蛇足ではあるが、現在地名として残されていないこの東町、私は『ひがしまち』と読んでいたが、この東町があったと思われる地域に隣接して、JRの線路を越える陸橋・東橋(あずまばし)がある。このことから東町は、『あずまちょう』もしくは『あずままち』と呼ばれていたと推定していたが、その後の調査で『東町』の文字が確認できた。 そこで私は、関係者の天保五年と安政五年に関する一覧表を作ってみた。襲名した人がいたりして、二本松と郡山在住者との関係がややこしく、整理する必要にも迫られていたが、熊田氏から入手していた戒名表などが大いに参考になった。郡山・如宝寺 生年 天保五年 安政五年 没年熊 田 白 翁 生年不詳 死亡 死亡 寛政三年初代・熊田文儀 明和六年 五十六歳 死亡 弘化四年二代・熊田文儀 享和三年 三十一歳 五十歳 万延元年三代・熊田文儀 弘化三年 十二歳 三十九歳 明治二七年郡山・如宝寺、および川俣・安養寺熊 田 元 鳳 天保九年 二十歳 明治三三年郡山・如宝寺、および二本松・長泉寺二代・信庵惟泰 寛政六年 四十歳 六十四歳 安政六年 こうしてみると、天保四年に種痘を実施したとき年齢的に関与が可能であったのは、初代文儀と二代文儀、それに二代目の信庵惟泰がいることになる。それと安政五年で気になるのは、『下書き』とは言え『別葉一』にある熊田元鳳という名である。当時の文書の流れとして、申立者が直接、代官の丹羽織右衛門に提出することはできなかった。そのために町役人を経由し、町役人が署名をして提出したと考えられる。それを踏まえてみてみると、『別葉一』の熊田元鳳が『別葉二』では熊田文儀に変更になっている。これは元鳳がわずか二十歳であったため若輩者であるとして侮られるのを恐れ、五十歳の二代目文儀に修正をして箔を付け、改めて提出したものとも思われる。なお熊田元鳳は下手渡藩のあった伊達郡月舘村の菅野家より、二代目文儀の養子となった人である。しかし二代目文儀が、三代目文儀という実子がありながら元鳳を養子としたのは、元鳳が余程卓越した人物であったからであろうか。元鳳は没後、熊田家の墓地に葬られているが、何故か小島村(伊達郡川俣町小島)の菅野家の菩提寺・安養寺にも墓碑が建立されている。 それにしても私は、調べれば調べるほど、そして考えれば考えるほど混乱していた。なぜか問題の真相に近づいているようで、一向に近づけないでいた。 ところで天保の頃の日本は大飢饉に襲われ、栄養不足もあってか病魔にも苦しめられていた。それは二本松藩といえども例外ではなかった。熊田文儀の墓碑銘にも、『天保五年関佐荒饑奥羽殊甚如以癘疫』という形で記録されている。下守屋村は、その一例であったのであろう。 では熊田文儀は、どこで種痘の術を習得したのであろうか? 私は、熊田氏から送られて来ていた初代・熊田文儀を描いた肖像画の掛け軸のカラー写真を見ながら考えていた。掛け軸の中の熊田文儀は当時の医者と思われる服装の上に羽織をまとい、大刀を置いた刀掛けを背にして火鉢と煙管盆を前に、小刀を腰に手挟んで端然と座していた。
2008.03.13
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二、熊 田 家 私は熊田氏に関する資料と、前に会ったときの話を基に確認の作業に入った。また幾つかの疑問が発生していた。 その第一は、惟元充隆もしくは熊田白翁と熊田文儀の関係である。 熊田文儀の墓碑銘には、熊田白翁は子がなく文儀を養子にしたと記載されている。ところが熊田白翁の墓の戒名は『自稱院白翁惟元居士』であって白翁と惟元の文字が入っており、しかもその墓碑の側面には惟元充隆の名と没年が記されている。この事実をそのまま解釈すると、『白翁』と『惟元充隆』とは同一人であるという推定が成り立つということになる。 しかし新家譜には、信庵惟泰は惟元充隆の子と記載されている。すると『清光院芳譽真阿居士』の墓碑に『先生』と記された信庵惟泰は、惟元充隆つまり白翁の子であるということになってしまう。 これでは子のないはずの白翁に子があることになってしまい、明らかに矛盾することになる。 それらを念頭に置いた上で、熊田氏が話していた「ここの墓地には熊田白翁直系の者のみが祀られている。それであるから信庵惟泰は、郡山の熊田家の者と思いたい」という言葉を解釈してみる必要があると考えたが、しかしこれは二代目文儀が建立した信庵の『清光院芳譽真阿居士』の墓碑銘(ここに先生の石碑を建て、先生の墓と思ってお参りをする)から推定して、墓碑ではなく遙拝碑と解釈すれば解決できると考えた。それはまた以前に、熊田氏と話し合ったことでもあった。 そしてこれらのことから導き出されることは、惟元充隆の墓は二本松になければならず、またもし二本松にある以上、熊田白翁と惟元充隆は別人でなければならないという結論になる。そこで熊田氏にメールで問い合わせをしたところ、惟元充隆と信庵惟泰の二人の墓は、二本松の長泉寺にあることが確認された。 ──こうなると熊田白翁そして惟元充隆と信庵惟泰の親子、さらには白翁の養子となった熊田文儀とは、どう整合するのであろうか? 私はまた熊田家の墓地に行ってみた。それには熊田氏から、次の手紙が届いていたこともあった。 文儀に関する古文書コピー確かに受領しました。有難う御座い ました。 小生の様な素人にとってはこの種のトレースは非常に難しいも のですが、一度手元の資料をもう一回チェックして何かお知らせ 出来る事があればご連絡させて頂きます。 話は変わりますが文儀碑は周りの銀杏、欅の大木の根っこの為、 数十年前より傾き始め小生はずっと気にかかっていたのですが、 橋本さんに彼の偉業を取り上げて頂いた事もあり、一大決心をし 半年前より石材店と綿密な打ち合わせをしつつ其の修復工事を行 い今月初めに無事完了しました。 何しろあの大きな石碑は重さが二・五トンあったそうで(丁度 ピラミッドの外装石材一個分と同じ位)墓地用のクレーン車一台 では危険で二台を使ってやっと作業を終えました。他の墓石も修 理しましたので一応きれいになりました。お時間のある時一度ご 覧下さい。ついでながら本作業を実際にやった業者は三春の鈴木 石材店で、橋本さんの話をしましたら良く知っておりました。 今年は安芸幸子さんの米寿の年なので、正月二日に小生主催で お祝い会をする予定です。彼女も年の割には元気でまだまだ長生 き出来そうです。 どうか良い年をお迎え下さい。 私はこの文面から、熊田氏が自分の親戚からも、熊田文儀の調査について期待をされていることを感じていた。とにかく私も調査を継続することを熊田氏に約束してしまった以上、何とかしなければならなかった。再び墓地に行った私は、熊田文儀の養父である『自稱院白翁惟元居士』の墓石を一字一句慎重に観察した。側面には、『寛政三辛亥正月初七日 熊田惟元充隆』と彫られている。もちろん、いつ見ても変わりのない文字の並びである。 ──ん・・・? 正月初七日とは? 私は今まで気が付かなかった『初』の文字が気になった。 ──熊田氏から頂いていた戒名の一覧表には、白翁は寛政三年正月七日没と記してある。つまり『七日』没のものを『初』七日と彫り込んだことに、何らかの意味があるのではないだろうか。これは実子をもつことなく正月七日に亡くなった白翁の墓碑を、養子の熊田文儀ではなく、本家筋に当たる熊田惟元充隆が正月の『初七日』に建立した、という意味ではあるまいか? もっとも文儀は十九歳で養子になったのではあるが、養子になって一年に満たない年の養父の死であった。年齢、経緯から言っても、養父・白翁の葬儀を主宰するには不適切と判断されたとも思われる。そのために本家の惟元充隆が養子の文儀に代わって建立したということは、充分に考えられる。 そう思った私は、生前の白翁が実兄、つまり二本松の本家の名の惟元充隆を、敬意を込めて使っていたと仮定してみた。そうすると、白翁の戒名に含まれている『惟元』という文字の使用の必然性、白翁に子がなかったということ、さらに二本松の長泉寺に葬られている惟元充隆に子があるということ、の矛盾が解消できると考えた。 私はこれらの推定を、熊田氏に手紙で送ってみた。ほどなく、返事が届いた。 さて御申し越しの仮説に就いては現在の資料からは確定的な事 は難しいとしても橋本さんが考えられた仮説には賛成です。只、 守屋村の疫病が果たして天然痘であったのか、又信庵の墓石に刻 まれた『先生』と言う言葉から、単なる師弟関係のみで墓を如宝 寺に移したとは考え難いと思われます。なぜならあの熊田の墓は 熊田の直系のみの墓地として受け継がれて居り他人が入ると言う ことはなかったと私は考えたい所です。
2008.03.12
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傍 証 一、疑 問「ともかくこれの解明は、大きな意味を持つことになると思うよ」 そう言ってくれた館長の言葉が、私の背を押していた。 家に戻った私は、今日の動きを思い返していた。そして館長と話し合った『別葉二』までたどりついたとき、熊田氏が言っていたことを思い出した。「文儀の名を襲名したのが二人、つまり一~三代の文儀がいました」 ──そうか、すると『別葉二』の文儀は二代目の文儀か。それならこの『別葉二』に文儀の名があっても、不思議ではないな。 私はもう一度文書を並べてみた。 年 月 日 申 請 人 一葉目 午正月 熊田文儀 (単独) 二葉目 天保五午年正月 豊田三悦 村山玄澤 熊田文儀 三葉目 正月廿四日 熊田文儀 (単独) 別葉一 (安政五年)午正月 熊田元鳳 熊田宗倫 別葉二 (安政五年)午正月 熊田文儀 村山玄澤 豊田三悦 熊田宗倫 注 カッコ内は、筆者が記入。 ここで気がついたことは、もし館長が主張するように『一葉目と三葉目』が安政五年であるとすれば、そのころ二本松の小此木天然も種痘に成功しているのに、何故文儀がこれら医者仲間と共同で申請をしなかったのか、不思議に思った。現に安政五年と確定できる『別葉一・二』では、小此木天然とではないが連名で申請をしている。 ──ということは、正式文である『三葉目』の下書きと考えられるという『別葉一』が二人『別葉二』が四人の連名なのに、その正式文書とされる『三葉目』自体が単独の申請人ということは、やはり不思議である。このことから、少なくとも『三葉目』は、安政五年であると確定したのではいけないのではないか。 そう思った。 ──では何故、年号の明確な天保五年の『二葉目』と安政五年の『別葉一・二』の申請人が複数で、しかも年号の不明確な『一葉目と三葉目』の申請人が熊田文儀単独なのであろうか? このなかなか解けない問題への対応に、調査の方法を変えて、脇から固めてみる必要を感じた。つまり、いままでの正攻法に変えて、傍証を探してみようと思ったのである ただこの傍証の稿には、複数の問題の発生とそれへの対応、考慮を平行して行わざるを得ない状況にあった。そのために問題を発生順のドキュメントとして書き進めると複雑さを増幅することになり、かえって理解を妨げることにもなりかねないため、問題ごとに書き進めることにしたい。つまり問題の発生と考慮が、一つずつ整理される、ということである。
2008.03.11
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「これは・・・」 驚く私に館長が言った。「これは見ての通り綴じられていない一枚ずつの単独の文書だ。この『丹羽織右衛門』が二本松藩から郡山に派遣されていた就任期間から見て、年度の記載こそないが、『別葉二』の『午正月』は『安政五年』に間違いない。そしてこのどちらにも種痘の話が出て来る。すると先程の『三葉目』は、この『別葉一・二』に関連した『安政五年』の文書と考えても良い」「しかしそれでは、なんで『天保五年』、つまり『二葉目』の文書を『安政五年』の簿冊に滑り込ませておきながら、この『別葉一・二』をこの簿冊に綴じ込まなかったのですか? さっき館長は『当時の文書作成担当者が、何らかの理由で天保五年の『二葉目』の文書が未整理のまま残されていたのを思い出し、その『二葉目』の文書を『一葉目』に続けて書き入れた』と言ったよね。それなのに何故『天保五年』は思い出して、『安政五年』つまり今年の今月のこの文書を思い出して書き加えなかったのか? 『それは忘れました』では、余りにも都合が良すぎる解釈ではないですか。そうでしょう?」「まぁそう怒るな。今の段階では、俺としてもそれ以上のことは分からない。ただな│、この別葉の二枚については、書き記したものの藩に提出されなかったとも考えられる。だから簿冊に載らなかった。つまり下書きだな」「下書き?」「そう、つまり簿冊に載っている『三葉目』とこの『別葉一・二』の内容はまったく同じだ。ただ『別葉二』は申請者が町役人だから文章そのものに若干の違いはあるが、内容的にはこれまた変わらない。その上この二枚は、『今泉家文書』として個人の家で保管されていた。と言うことは、この二枚は簿冊に写す前の下書きと・・・」「するとこの『別葉一・二』を下書きとして清書されたものが、二本松藩へ提出されたと・・・?」「うん、そうも考えられる」「するとその提出されたとされる原本は、どこへ行ったのですかね。それと天保五年とされる『三葉目』の原本はどうしたんでしょうか?」「うーん、それは今日のところ見付からない。それにこの簿冊に写した後に、用済みとなった原本は棄却したとも考えられる」「棄却? 棄却したと言ったらおしまいだ。何もなくても当たり前だ」 二人の間に、気まずい空気が漂った。 憮然とした態度で私が言った。「それだったら、この執筆者に確認してみる手があるな」 そう言いながら私は、我ながら良い方法に気付いたと思っていた。「いやそれはそうなんだが、実はこの執筆者は何年か前に亡くなっているんだよ」 その館長の言葉に私は愕然とした。「亡くなっている? それは誰?」「田中正能先生だよ」「えーっ、亡くなった?」 私は一瞬、馬車鉄道を復元していたとき田中先生が、熊田文儀のことを示唆してくれていたこと思い出していた。そして本来言うべきである哀悼の言葉とは関係なく、極めて即物的な言葉が私の口をついて出ていた。「それじゃぁ確認することが出来ないね」「そうなんだ、だから俺も聞き当たる訳にはいかない。ただ君と話をしながら考えていたんだが、こうも考えられる」 私は返事もならず、黙って聞いていた。「この『三葉目』と県史の文書を比較してみると一つ違いがある。それは県史の方には、(天保五年諸願申立留帳)と括弧で書き加えられているということだよ。つまりこれは、亡くなった田中正能先生が、『二葉目の天保五午年正月』の次に『三葉目』があったから、『正月廿四日』を天保五年の午年の正月廿四日と単純に勘違いをして括弧の注意書を書き加えてしまったのではないかと……。どうも俺には、そう思えるのだが」「……」 私はこれら館長の言う話を、納得したくない状況にあった。 館長が続けた。「とは言っても、いま俺が言ったことは『全部正しい』とも言い切れない。つまり『天保五年』の方が正しいのかも知れないんだ。それにしてもお前、大変なことに目を付けたな。しかしやるなら徹底してやれ。陰ながら応援するよ。ともかくこれの解明は、大きな意味を持つことになると思うよ」 しばらく何も言えず黙っていたが、熊田文儀の墓碑銘から写してきた没年月日を書いたメモを思い出して、鞄から取り出した。そのメモには、弘化四年十二月十四日と書いてあった。それをおずおずと差し出しながら、館長に訊いた。「先輩、弘化四年は西暦では何年ですかね」「弘化四年?」 館長は手元の年号一覧を調べながら言った。「弘化四年は・・・、一八四七年だな」「すると先輩、安政五年は一八五八年だから、弘化四年に死んだ文儀が安政四年の種痘に成功する筈がない。すると文儀による種痘の実施は、安政ではなく天保四年ということになるね」「ん? うーん」 唸る館長を見ながら私は、してやったりと思っていた。「まさかそのメモは、間違っていないだろうな?」「いくらなんでもお墓から直接写して来たんだよ、そんな都合の良い間違いなどする訳ないよ」 私の返事には余裕があった。しかし、しばらくその文書を見ていた館長が言った。「しかし橋本、変だぞ。この安政五年と確認できる『以書付申上候』の『別葉二』の文書には、その死んだ筈の熊田文儀の名が載っている。これはいったいどうしたことだろう」 館長が指し示すその名の部分を見て唸るのは、今度は私の番であった。「ん? うーん」 思わず二人は、顔を見合わせてしまった。
2008.03.10
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去年の冬より引き続く悪天候のため食料もなく病気が広がって おり、特に困窮者は薬代も支払えません。この度当町の熊田文儀 が、難渋の病人へ手当をしたいと申し出てきました。これから病 人の状況を調べますが、立派な申し出ですので、お届け致します。 天保五午年正月 今泉半之丞 柏木安佐衛門 今泉久右衛門 山口●●● 笠間市之進様 注 ●は判読不明。大文字は筆者。 私が反論した。「しかし問題の文書の前にある『二葉目』の文書には、『天保五午年正月』とある。『三葉目』は『正月廿四日』だ、つまり二葉目の文書は綴じ込まれている位置から言っても、天保五年の正月一日から正月二十三日までの間に書かれたと考えて良いのではないか? そうして三葉目の『正月二十四日』に続いていく」 私は問題の文書の頁を開いたままで言った。そこには間違いなく、『天保五午年正月』と記載されていた。「ところが、それがそう簡単にはいかないんだわ。大体その『一葉目』の文書は『安政三辰年より慶応三卯年』の、しかも安政四年十月の文書の次に綴じられているのだから、そこに記載されている『午正月』は、『安政五年の午正月』とも考えられる」(一葉目・意訳) 去年に引き続く悪天候のため食料もなく病気が広がっており、 特に困窮者は薬も手当もされないでおります。これらの困窮者を 治療したく思います。どうか許可をして頂きたくお願い申しあげ ます。 午正月 熊田文儀 御郡代中様「しかし先輩、仮に一葉目はそうだとしても、二葉目は間違いなく『天保五午年正月』だよ。そしてその次の『三葉目』が県史にある(天保五年諸願申立留帳)の文書だから、天保五年で問題がないのではないか」 私は頑張っていた。「いや、君の気持ちに沿った言い方にならなくて、済まぬ。ただなぁ・・・、この書式や書き方、それから前の二葉と同一人の筆跡らしいことから察すると、三葉目は、『安政五年』なのかも知れないんだわ」「そんな・・・」 どう考えたらよいか分からなくなってしまった私は、黙り込んでしまった。 私たちの話を聞きながら、学芸員も困った顔をしていた。 館長は話を続けていた。「私が、この三葉目の文書が天保五年ではないと考える理由は、この一葉目と二葉目は共に病気関連の文書であるが、疱瘡とか種痘の類の文言は一切出てこない。ただ一葉目は、仮に天保五年であったとしても種痘を特定していないから、とりあえず当面の問題から外してもいいと思う。しかしその次の次に君が天保五年と主張している『正月廿四日』の文書が出て来る。『三葉目』だよな。つまり。『福島県史 第三巻 九〇九頁 天保五年諸願申立留帳』に出ているのと同じものだよ。それは認める。そしてこの三葉目の三行目には、『為施種痘仕度願候』と出て来る」「うんうん」「順序を追って考えてみよう。まずこの『諸願申立留帳』は安政三年より書きはじめられた」「うん、それは分かる」「安政五年の正月になって、この文『一葉目』の文書を書き込んだ。くどいようだが、ここの午正月は、安政四年十月に次ぐ最初の文書だから、安政四年の次の午正月、つまり安政五年の正月と考えるのが妥当だろう?」「うん、なるほど」「その記入をしていた際、当時の文書作成担当者が何らかの理由で天保五年の『二葉目』の文書が未整理のまま残されていたのを思い出した。そこでその『二葉目』文書を『一葉目』に続けて書き入れた。ただし年度は、原文通り『天保五午年正月』とな。そして問題の『三葉目』だ。ともかく、この前後に病気に関する記述はないし『三葉目』の次の文書は『午二月』、つまり正月の次になってしまう。するとこの簿冊が安政五年の『正月廿四日』の文書の次に、同じ年の『午二月』と続いていくのは、極めて順当と考えても良いと思える」「しかしいくら思い出したからと言って、この新しい安政の簿冊に『天保五年』の古い文書が、しかも頁を続けて書き込まれるということがあるのか? 午年二回り、二十四年も間が空く文書だよ」「いや、このことに関してばかりではなく、こういうことは古文書の世界では往々にしてあることなんだよ。それにこういう文書もある」 館長は机の上の書類から二枚の文書を取り出した。驚いたことに、これまた種痘に関する文書であった。(別葉一・意訳) 去年の冬より疱瘡が流行してなかなか治らず、特に子供の死が 多かったのですが、牛種痘を植えた者は感染しませんでした。こ の度厚き思し召しにより趣旨の公表を頂き感謝しております。当 宿(郡山宿)は勿論、御組合村々(安積三組)まで接種致したく、 何卒よろしくお願い申しあげます。 午正月 熊田元鳳 同 宗倫 丹羽織右衛門様(別葉二・意訳) 去年の冬より疱瘡が流行してなかなか治らず、特に子供の死が 多かったのですが、牛種痘を植えた者は感染しませんでした。こ の趣意を申し出たところ、厚き思し召しを頂き感謝しております。 当宿は勿論、御組合村々まで接種致したく、熊田文儀、村山玄澤、 豊田三悦らが申し出てきました。これより要施術者を調べ申しあ げますが、大変立派なことですので、書類をもってお届け申しあ げます。 午正月 郡山宿検断 今泉伊左衛門 同 今泉半之充 同 町年寄 今泉久右衛門 丹羽織右衛門様 注 大文字は筆者。
2008.03.09
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古 文 書 解 析 ──そうか! 私は急いで机の上を片づけると、郡山歴史資料館に走った。とにかく原本に当たってみるべきだと考えたからである。資料館は図書館の直ぐそばにあった。 事務室の女性学芸員に事情を説明していると、私の声を聞きつけたか館長が現れた。その館長の顔を見た途端、私はびっくりした。その顔に見覚えがあるどころか高校の先輩であったからである。「おう、しばらく。なにやら面白そうな話し声が聞こえたので来てみたら、あんたか」 そう言って私が今まで調べた過程と結果を聞いた渡辺信之館長は、大いに興味を示してくれた。さっそく担当者に言って、天保五年の医療に関連すると思われる古文書を探し出してきてくれたのである。 私は、古文書解読に慣れている訳ではなかったが、病気や疱瘡や種痘をキーワードとして、一枚一枚丁寧に繰っていった。傍で館長も覗き込んでいた。しかしいくら探しても福島県史にある『天保五年諸願申立留帳』という文書の中に、それは見つからなかった。「うーん、ないなぁ」 いささか情けない声が私の口をついて出た。 それを聞きながら館長も、小首をかしげながら言った。「天保五年ともなると、随分昔のことだからな」「うーん、やっぱり無いのかなぁ。しかし先輩、福島県史に記載されているということは、当然、どこかに原本がある筈だということだよね」 私は責めるかのように言った。「それはそうだ。まさか何もないところから勝手に創作して県史に載せるなど、出来る筈もない」 私はもう一度、『天保五年諸願申立留帳』を最初から繰りはじめた。その私を見ながら館長が言った。「天保五(一八三四)年以降の午年には、弘化三(一八四六)年、安政五(一八五八)年、明治三(一八七〇)年がある。しかしこれに該当する年代として天保五年以前の午年、文政五 古 文 書 解 析 ──そうか! 私は急いで机の上を片づけると、郡山歴史資料館に走った。とにかく原本に当たってみるべきだと考えたからである。資料館は図書館の直ぐそばにあった。 事務室の女性学芸員に事情を説明していると、私の声を聞きつけたか館長が現れた。その館長の顔を見た途端、私はびっくりした。その顔に見覚えがあるどころか高校の先輩であったからである。「おう、しばらく。なにやら面白そうな話し声が聞こえたので来てみたら、あんたか」 そう言って私が今まで調べた過程と結果を聞いた渡辺信之館長は、大いに興味を示してくれた。さっそく担当者に言って、天保五年の医療に関連すると思われる古文書を探し出してきてくれたのである。 私は、古文書解読に慣れている訳ではなかったが、病気や疱瘡や種痘をキーワードとして、一枚一枚丁寧に繰っていった。傍で館長も覗き込んでいた。しかしいくら探しても福島県史にある『天保五年諸願申立留帳』という文書の中に、それは見つからなかった。「うーん、ないなぁ」 いささか情けない声が私の口をついて出た。 それを聞きながら館長も、小首をかしげながら言った。「天保五年ともなると、随分昔のことだからな」「うーん、やっぱり無いのかなぁ。しかし先輩、福島県史に記載されているということは、当然、どこかに原本がある筈だということだよね」 私は責めるかのように言った。「それはそうだ。まさか何もないところから勝手に創作して県史に載せるなど、出来る筈もない」 私はもう一度、『天保五年諸願申立留帳』を最初から繰りはじめた。その私を見ながら館長が言った。「天保五(一八三四)年以降の午年には、弘化三(一八四六)年、安政五(一八五八)年、明治三(一八七〇)年がある。しかしこれに該当する年代として天保五年以前の午年、文政五(一八二二)年では早過ぎるし明治では遅すぎる。天保にないとすれば、弘化か安政だろうな」「えっ、弘化か安政?」 本当はそれでは困るんだがとは思ったが、捜し出せさえすれば天保五年が証明できると楽観していた。 またまた館長の指示で、弘化三年と安政五年からまりの古文書が、机の上に運び込まれてきた。私はこの弘化とモーニケが成功した後にあたる安政という年代に不本意ではあったが、よく考えてみれば弘化三年は一八四五年にあたる。「それでも弘化三年に実施されたとすると、モーニケが成功した嘉永二(一八四九)年より、ギリギリの四年前になるね」 何としてもモーニケ以前であって欲しいと願っていた私は、より妥当性の高いと思われる弘化三年の文書から見はじめた。しかしそれらしい種痘に関する文書は、一切見あたらなかった。「するとモーニケ後になってしまうが、安政五年の文書にあるのかな? しかし安政五年では遅すぎるな」 そんなことを言いながら調べている私を見ながら、館長も困ったような顔をしていた。私も内心面白くなかったが、やむを得ず安政年間の文書に手を出した。そこに広げられていたのは、『安政三辰年より慶応三卯年 諸願申立留帳』という古文書の綴りであった。 私はその綴り書を繰りはじめた。一枚、二枚・・・。そして初めから五~六枚目に、医療に関連する三葉ほどの文書が綴じ込まれているのを発見した。なかなか見つからなかった文書がここに出てきたのである。私はその三葉目の文書を一字一句、慎重に指で押さえながら県史の文章と比較していった。それらはそんなに長い文章ではない。そしてその三葉目こそが、間違いなく『天保五年諸願申立留帳』そのものの文言であったのである。心臓が高鳴っていた。そして興奮のあまり声が詰まった。「あったぞ! 先輩あった!」 ようやく出た私の声は、うわずっていた。急いでそばに寄ってきた館長に、私はその部分を指し示した。(三葉目・意訳) 去年の冬より疱瘡が流行してなかなか治らず、特に子供の死が 多かったのですが、牛種痘を植えた者は感染しませんでした。そ のことを公表して頂ければ有難いと思います。また領内で牛種痘 を実施したいと思いますので、各村々にもお達しを頂ければと思 います。なにとぞよろしくお願い申しあげます。 正月廿四日 豊田三悦 村山玄沢 熊田文儀 御郡代御肝煎中様 注 大文字筆者。「おう、おう、福島県史と同じ文書だな! いやぁよかった、出て来なければどうしようかと思っていたよ。ん・・・? しかしこれには、年号なしの『正月廿四日』としか載っていないな。天保五年とはどこにも書いていない。これはどういうことだ?」 そう言いながら自分の机に戻った館長が黙って年表を繰って確認していたが、少々気落ちしたような声で言った。「困ったな橋本。年度の記入もなく、この『正月廿四日』だけでは、いつの年の一月か分からないし、確認してみたら、やはり先ほど言ったように天保五年も安政五年も同じ午年なんだわ。その上綴じ込まれているこの文書の位置から年号を考えてみれば、安政五年とも考えられる。天保も安政も五年は午年だ。ややこしい話になったな」 しばらく沈黙が支配した。(安政三辰年諸願申立留帳・郡山市歴史資料館蔵)
2008.03.08
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疱 瘡(天 然 痘) ともかく、私の手元にある熊田文儀の資料は限られていた。『福島県史』『郷土乃歴史』それに『熊田家の墓碑銘が二点』の四点と熊田氏から頂いたもののみである。そこで私は、まず『熊田文儀の墓碑銘』から当たり直すことを決めた。本来はその『墓碑銘』の全文をここに掲げるべきであろうが、余りにも膨大なので、病気と年号に関する部分のみをここに抽出する。 享和三(一八〇三)年 麻疹流行少壮皆病不済医療死者無算 文政七(一八二四)年 守屋村疫毒騁□人多斃 文政八(一八二五)年 麻疹果行竟施薬者数万民頼只安 天保五(一八三四)年 関佐荒饑奥羽殊甚如以癘疫 この文章の享和三年と文政八年については、麻疹つまり『はしか』と明確に記してあるのでこの調査から外したが、文政七年の疫毒については病名がはっきりしていない。ただし年代が天保五年より十年も前なので、特に検討しなくてもよい、と考えた。 最大の問題は、あの墓碑銘の丁度中程に書いてあった『天保五年関佐荒饑奥羽殊甚如以癘疫』という文章である。意味としては『天保五年、関佐地方は凶作であり、奥羽は凶作に加えて、癘疫が殊の外甚だしい』と書いてある、と判断していた。私は、この『天保五年』という年度と『癘疫』という病名が気になっていた。『天保五年』はあの福島県史に記載されている年度と同じ年度であり、『癘疫』が疱瘡(天然痘)と確認できれば、福島県史と合致するからであった。 また図書館に行った。何冊にも分割されている膨大な大漢和辞典で調べてみると、『癘』と『疫』について次のように書かれていた。『癘疫』という単語そのものでは、載っていなかったのである。 癘 (れい)・・頼病。或曰悪瘡 (大漢和辞典) 疫 (えき)・・伝染病 ( 〃 ) 悪瘡(おそ)・・質の悪いはれもの (日本国語大辞典) 私は癘と言う単語の、『或曰悪瘡』という意味の発見に気を高ぶらせていた。と言うのは、『悪瘡』とはどう考えても『質の悪いはれもの』、つまり『悪性の吹出物』を意味していると思われたからである。するとやはり『悪性の吹出物』とは、『疱瘡』を指していると思えた。 私は『疱瘡』の病状を医学書で調べてみた。 初 期 悪寒、頭痛、嘔吐をともなう高熱(摂氏三九~四〇度) ではじまり、うわごと、日中の意識混濁を示す状態が 続く。この間に発疹があらわれるが消える。 発疹期 熱が下がるとともに発疹する。その発疹は次第に『扁 豆大かつ暗赤色』になり、先端が円錐形になる。 水泡期 発疹の中央に小水泡が生まれ、次第に全体に拡がって 中央部がへこむ。 化膿期 水泡に白血球が入って混濁しはじめ、膿様になったあ と、その周囲に浮腫が生ずる。おかげで組織の緊張が 高まるので患者は激しい疼痛に襲われ、体温は再び上 昇して脳の興奮状態を招き、不眠、意識混濁、うわご と、躁凶状態を誘うことがある。またとくに気管支の 膿疹化膿菌が血液に流入して敗血症を招き、死亡する 場合がある。 乾燥期 膿疱が乾燥しはじめ、次いで退色し痂皮となる。浮腫、 疼痛も消え、体温も下がる。 脱落期 痂皮が脱落しはじめる。いわば回復期である。 『化膿期から乾燥期』にかけての死亡率が高く(二〇~四〇%) また融合性痘瘡、痘瘡性紫斑病、膿疱性出血性痘瘡など致命 的悪性のものも存在する。 『融合性痘瘡』は、皮疹が密生して融合するものである。 『痘瘡性紫斑病』は、初期から出血性で数日以内に死亡する。 『膿疱性出血性痘瘡』は、水泡または膿疱中に出血し、膿疱は 暗青色ないし黒色になる。普通は、第二病週に死亡すること が多い。 ──なるほど、たしかにこれでは悪瘡と言われてもおかしくない病状だ。するとこの墓碑銘から天保四年に、熊田文儀が種痘を実施したことが証明できるのではないか。 私は確信に近いものを感じていた。 しかしこれだけで熊田文儀が種痘を実施した、と決定づける訳には行かなかった。それもさることながら気がつくと、『それでは熊田文儀が、どこでこの種痘の方法を学んだのか?』という新たな問題が立ちはだかっていた。それにその重要なことが、あの墓碑銘に具体的には書かれていなかったのである。 そこで年度を再確認してみると、熊田文儀が下守屋村で種痘を実施したとされる天保四(一八三三)年は、シーボルトが日本人に接種したが不成功に終わった文政六(一八二三)年と、モーニケが成功した嘉永二(一八四九)年の間の年になっている。つまり文儀が種痘を実施した時点で、シーボルトは長崎で成功していないのである。 ──熊田文儀は、このような時期に、しかも誰に種痘法を習ったのであろうか? それとも、自分で発見したのであろうか? そうは思ったがもし自分で発見したとしたら、あのジェンナーと並び称されなければならないことになる。それにもし、仮にそうだとしたら、何らかの痕跡が日本の歴史、もしくは医学史の上に残されていなければならない筈、ところがそれがまったくないのである。 ──これは大変なことになった! もしこの私がこのことを解明できたら、日本の医学史に一石を投じることになるのではあるまいか。 私は、大きな夢に浸っていた。
2008.03.07
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『熊田』 信庵惟泰(姓つまひらかならず)惟元充隆が男なり安永二年十 二月十四日医業を以て雄峯公に仕ひ奉り 百石 其後上直の事を許 され天明三年八月侍医になさる。 (新家譜) 『清光院芳譽真阿居士』 先生之墓今在二本松長泉寺去之数里于日不□奉杏花故假□霊於 此以祭祀云々 熊田文儀建 熊田氏の持ってこられた手作りの多くの資料と、福島県史や二本松市史の関連資料のコピーの突き合わせにより、何点かの疑問点が浮き彫りになってきた。 熊田 熊田白翁は熊田文儀の養父でした。 私 それについては、熊田文儀の墓碑銘の記述と一致しますね。 熊田 熊田惟元充隆は二本松藩医であり、信庵惟泰の実父です。し かも惟元充隆と信庵惟泰親子は郡山の熊田白翁家の本家にあ たり、二本松藩城下の長泉寺に葬られています。 私 二人の親子関係については、『熊田』(新家譜)によっても確 認できます。しかし白翁の墓碑の側面に惟元充隆の名が記さ れています。これは白翁と惟元充隆が同一人であるというこ とではないでしょうか? もしそうだとすると、白翁つまり 惟元充隆は二ヶ寺に葬られたことになり、信庵惟泰という実 子がいることで、子がなく文儀を養子にしたということと矛 盾することにならないでしょうか? 熊田 しかしそれは、信庵惟泰という名が襲名されて二代続いたと いうことと関係があるのではないですか? 私 えっ、信庵惟泰は襲名していたのですか? それについては 初めて知りました。しかし仮にそうだとすると、二代目信庵 惟泰は惟元充隆つまり白翁の孫ということになりますから、 やはり白翁に実子が無かったということと矛盾しませんか? 熊田 それと文儀の名は、三代にわたって襲名されました。 私 えっ、そうですか。文儀という名も一人ではなかったのです か。すると信庵惟泰が二人、熊田文儀が三人も続いた訳です から、年代確認には相当注意を払う必要がありますね。 熊田 確かにその点は余程注意しないと、どの話の時点での文儀が 何代目であったのか、私自身頭が混乱することがあります。 私 この頂いた戒名表によると、『先生之墓』とされた清光院つ まり二代目信庵惟泰は、安政六(一八五九)年に亡くなって いますね。初代文儀の没年が弘化四(一八四八)年ですから、 清光院の死の以前であることになる。その上で二代文儀の 没年は万延元(一八六一)年、つまり清光院の死後の死です から、このの碑の建立者の名となっている文儀は、二代目の 文儀であると考えられますね。 熊田 熊田白翁、そして熊田文儀の一族はいまの自分に続くもので すから、私自身この墓守もしています。自分としては自分の 一族以外の者が如宝寺に祀られているということは、考えら れません。 私 それではこの墓碑銘からして、『清光院芳譽真阿居士』の碑 は信庵惟泰の墓そのものではなく、礼拝の手段の遙拝碑のよ うなものと考えてはどうでしょうか? 熊田 そう考えてくればあの巨大な熊田文儀の墓は、文儀の子の果 道(二代文儀)が建立したと思われます。なお白翁は藩医で はなく、郡山の町医者であったとも伝えられています。 これらの話し合いから結論として考えられることは、白翁は自分の兄つまり本家の名の惟元充隆を、通称として郡山で使っていたのではないだろうか、ということであった。しかし今の段階では、お互いの推測の積み上げに他ならない状況であった。 そして一息ついたとき、私は訊いてみた。「ところで熊田さん、この郡山の郊外に妙見山という山があります。その頂上にある飯豊和気神社の境内に、お宅のご先祖の顕彰碑があるということをご存じでしょうか?」「ああ知っています。父から聞いていた話を頼りに、何年か前に登って確認しました。しかしあの山は結構高くてなかなか急な山でした」「そうですか、ご存知でしたか。実は私もあの山に登ってみましたが、残念ながら見つけ出すことができませんでした」「おお、あなたも登られましたか。私もあの顕彰碑を探し出すのには、大分苦労をしました。何分にもご存知のように、登ることだけでも大変だったのに深い林でしたから・・・」 そういうと熊田氏は、顕彰碑のある場所を図に書いて説明してくれた。その話を聞きながら、あの山へ熊田氏が山麓から徒歩で登ったらしいことに、その苦労を慮(おもんばか)っていた。「ところで熊田さん、お宅の家紋は『右三つ頭巴』でしたね」 私はお墓で見た家紋を思い出しながら聞いた。「はぁそうですが?」 それが何か? というような怪訝そうな顔をした。「河内を含めて安積にあった館は、盗賊などとの少々の戦いにも使われたかも知れませんが、むしろ灌漑用水の見張りと確保で水争いを防ぎ、百姓たちの人心掌握と農業の安定的発展に利用されたものと私は考えています」「あっ! 巴紋・・・。なるほど、そういう見方もあるんですなぁ」「はい、そうなのです。ご存知だとは思いますが、巴とは水が渦を巻いている形を表していると言われています。それから考えると、巴紋が水に通じるということから、熊田家のご先祖は河内の館主であったということの証拠かも知れませんね。いずれにしても、巴紋は信仰の対象としても、また武神のシンボルとして武家に尊敬されていたと言われますから、館主であったということから熊田家は武家を兼ねていたのかも知れません」 まもなく私は、「今日の墓参りが済んだので、どこにも寄らずに帰りたい」と言う熊田氏を車に乗せ、郡山駅まで送って行った。この熊田氏との出合いがこの調査への何らかの新たな展開を予感させ、私の気分を高揚させていた。
2008.03.06
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如 宝 寺 翌日、明るいときに出直した墓地には、あれから大分経っていたにも拘わらず、時が止まったかのように熊田家の墓碑の群が佇んでいた。まず私は真っ先に熊田文儀の墓碑『心明院諦廣文儀居士』の横に回った。あの大量の文字が並んでいた。すでに現代文が頭に入っていたから、そう苦労をせずに読んでいった。 その墓碑銘によると、文儀と熊田白翁の関係は次のように記されている。 文儀の先祖は三河の領主であったが、上毛厩橋(群馬県前橋市) に移住して三本木と改姓し、後に三春田村氏に仕え田村郡高倉村 (郡山市中田町高倉)住んだ。熊田氏は田村領河内(こうず・郡 山市逢瀬町河内)の館主であったが、豊臣秀吉の奥州仕置によっ て田村氏がその領地を失うと郡山村東町に居を移し、代々医を専 門としていたが白翁の時代になって子がなく、十九歳の文儀を養 子とした。そしてその翌年、白翁が死去した。 医の師でもある養父を失った文儀は、諸国に出て医を学んだ。 そして数年、帰郷した文儀は名医として大変な評判を受けた。 注 カッコ内は筆者記入。 さらに私は墓地内を観察していた。墓地の中央には『誓照院』、その右には『智宏院』、左手にはこの墓地最大の熊田文儀の墓碑『心明院諦廣文儀居士』、さらに文儀の墓碑左手奥に義父であった『自稱院白翁牲元居士』があり、この四基を中心にして多くの古い墓碑が整然と並んでいた。 次いで私は、それら墓碑の一基一基を注意深く観察した。そして熊田文儀の墓の左手前にあった通常の大きさの熊田信庵の墓石『清光院芳譽真阿居士』の裏に、『私が大変お世話になった先生が長泉寺に埋葬されている。毎日でもお参りしたいが二本松は遠い。ここに先生の石碑を建て、先生の墓と思ってお参りをする』という意味の文字が彫られていた墓碑を見つけだした。 ──こういうものもあったのか。 そう思いながら、私はそれらの文字も手帳に書き込んだ。 先生之墓今在二本松長泉寺去之数里于日不●奉杏花故假□霊於 此以祭祀云々 熊田文儀建 注 ●判読不能の文字。 ──さてここに『先生』という文字があるが、熊田文儀の言う先生とは戒名の主ではあろうが、実際は誰のことなのであろうか? この新たな発見は、新たな謎の発生となっていた。しかし『今在二本松長泉寺』という文字が、次の調査のきっかけを示唆していた。 ──二本松市にあるという長泉寺に行ってみれば、何かが見つかりそうだ。 そう思った私は、再び二本松に車を走らせた。 長泉寺を訪ねて事情を話して見学を願い出たが、「熊田家の墓地は確かに当寺にあり、言われる墓碑もあります。しかしプライバシーの問題もありますので、熊田家ご当主の了承を頂いて来られないと、お教えする訳には参りません」と住職に丁重に断られてしまった。「折角の突破口が見付かったと思ったのに、駄目になってしまった。さてこれからどうすればいいかな」 私は帰りの車の中でぶつぶつ独り言を言いながら、考えていた。そしてハンドルを三春町がある左の方角に切った。三春図書館と三春歴史民俗資料館に回ってみようと思ったのである。あの墓碑銘に熊田文儀の出身地が田村郡高倉村とあり、先祖は河内の領主と書いてあったこともあった。それにこの時代、これらの地域は三春・田村氏の領地であった。それに熊田氏がそこの館主であったとすれば、該当する地区内に、粟生館、河内屋敷館、轟館、高館の四つの館があったので、これのいずれか一つを領していたかと思われたからである。 それらを期待しながら行ったのではあるが、三春図書館や三春歴史民俗資料館にも文儀についての資料もまた、まったく残されていなかった。 そこで私は、熊田文儀の末裔である熊田修氏に『何か参考になる資料が残されていないかどうか』という確認依頼の手紙を書いた。しばらく振りの手紙であったが、日を置かずして返事が届いた。『私が上京して資料を拝見したい』という提案に、『郡山に所用があるので墓地でお会いしましょう』と言ってこられたのである。 私は約束の日、如宝寺に出掛けた。寺の駐車場に車を置き、熊田家の墓のある本堂の裏手に回った。あの欅の大樹がその目印であった。いつものように行ったその墓に、熊田氏が線香を手向けていた。何年か前に一度だけ会った間柄ではあったが、直ぐお互いが分かった。 熊田氏が言った。「亡くなった父から、先祖の文儀についての話を聞かされて育ってきました。それですから私も少しばかりは知っておりますし、時折、墓参にも来ますが、それにしても、こんなに詳しく調べられていたのが橋本さんであったとは、不思議な縁ですね。ただ、あなたのお役に立つかどうかは分かりませんが、私なりに調べていた資料をお持ちしました。ここであなたにお会い出来たのも、先祖のお導きかも知れません」 私たちは、近くの喫茶店に入った。一緒に資料を見ることで、お互いの意見の交換になると思ったからである。義理で注文したコーヒーを急いで流し込んでカップを下げさせると、私は早々に二本松図書館で得ていた資料と『清光院』の墓碑銘の写しをテーブルの上に広げた。重複するが次の二点である。
2008.03.05
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安積郡下守屋村(郡山市三穂田町下守屋)で疫病流行 妙見山頂の飯豊和気神社拝殿へ登る石段下左に、村の人たちに 忘れかけられている碑がある。村の古老たちが七日間水ごりを取 り、妙見山・飯豊和気神社(この神社と宇名己呂和気、穏津島が 安積三社と呼ばれた)に運ばれた碑は、下守屋の人達が忘れては ならない碑であることを明記する。この碑の起こりは、文政年間 に下守屋の飯豊和気神社の祭礼で花火を打ち上げてまもなく奇怪 な伝染病が流行し、集落中が全滅しかねる様な病気に見舞われた 時、二本松城主の丹羽公が心配され、城内御典医である熊田玄丹 (いまの郡山市出身)を遣わしその流行病を撲滅したので村の人 達が心を込めて建立した碑である。それ以来下守屋では、祭礼の 節は絶対に花火を打ち上げないことと定めたと言われている。な お十六人が病死したと伝えられる。 注 大文字筆者。 ──妙見山々頂の飯豊和気神社にあるという忘れかけられている碑? 顕彰碑はやはり山頂にあったのか! 奇怪な伝染病の流行? そして文政年間? ん? 文政年間? ということは、文政は天保の前の年号だ。つまりこの文章は、文政年間に疱瘡が流行ったということか? それに城内御典医である熊田玄丹。熊 田玄丹か・・・、姓は同じでも熊田文儀とは別人なのかな? この文章が示唆している事柄に私はどう調べを進めるべきか、考えあぐねていた。 ──そうか、二本松に行けば何かが分かるか。 そう思って急いで図書館を出た私は、郡山から北へ車で三十分ほどの、二本松市へ向かった。藩政時代、安積郡(いまの郡山市)は二本松藩に属していたか ら、二本松図書館や二本松資料館に何かの資料が残されているのではないかと思ったからである。しかしここでも学芸員の方に大分面倒を掛けたが、文儀につい ては何も得ることができなかった。しかしここで、熊田氏関連として、次の文書を手に入れた。だがそれが役に立つものかどうか、この時点ではまだ不明であっ た。 『熊田』 信庵惟泰(しんあんただやす・姓つまひらかならず)惟元充隆 が男なり安永二(一七七三)年十二月十四日医業を以て雄峯公に 仕ひ奉り 百石 其後上直の事を許され天明三(一七八三)年八月 侍医になさる。 注 出典=新家譜。 雄峯公=二本松藩主・丹羽左京大夫長貴。カッコ内の西 暦は筆者記入。 ──さあてこうなると、頼みの綱は、『郷土乃歴史』の著作者に当たるしかないな。 私は、郡山の図書館で控えてきていた住所を頼りにして、三穂田町に行った。幸い吉川家は、すぐに分かった。 「まあ、お上がり下さい」 そう言って私を招じ入れてくれた吉川氏は、もう相当の年配に見えた。 「図書館でパンフレットを見て、訪ねて来ました」という私に、吉川氏は饒舌になっていた。それはまた、三穂田町史探会副会長という立場からも、当然のことであったのかも知れなかった。 吉川氏によると、飯豊和気神社は、神亀元(七二四)年に勧請された延喜式内安積三社の二の宮と称された古い神社であり、二本松藩領となった寛永二十年以降は毎年、安積郡奉行、代官、さらには神官の全員を参向させて五穀豊穣、悪疫退散の祈祷を行なわせていたという。 私は、早速質問をしてみた。 「如宝寺に墓碑のある熊田文儀と、先生の書かれた調査にある熊田玄丹は、別人なのでしょうか?」 「私も、熊田玄丹と熊田文儀が同一人物かどうかはよく分かりません。『郷土乃歴史』に熊田玄丹と原本通りに書いてはおきましたが、妙見山の頂上の飯豊和気神社にある顕彰碑には熊田文儀と書いてあるのです」 「するとそれは、どういうことでしょうか」 「うーんそれがね、言われる通り、はっきりしないのですよ。しかしそれはともかくとして、飯豊和気神社にある顕彰碑には熊田文儀の名が彫られていますから、同一人の可能性は高いと思われます」 そう言うと、今までの柔和な顔を突然厳しくしてこんなことを言い出した。気のせいか顔を寄せ、声も低くなったように思えた。 「実はあの山は光るのです」 「えっ? 光る? 山が光るのですか?」 「いや、実は私はまだ見たことはないのですが、昔からの話によると、狐火のような冷たい光が、妙見山のあちこちで燃えるのだそうです。 私の背中は、思わずぞくっとした。 「それは・・・、いわゆる狐の嫁入りですか?」 「いや、そうではないようですね。それにその光はあの山ばかりではなく、そう遠くない北東にある高籏山でも、霧の濃い夜に山全体に光を見ることができるそうです。地元の人たちは御霊光と言って気味悪がっていますがね」 「高籏山と言えば、昔、金が掘られていた山だと聞いていましたが?」 「そうです、その通りです。それで妙見山からも金が出るのではないかという噂が大分ありましたが、むしろ私が不思議だと思っているのは、花火のことです」 「花火?」 「ええ、『郷土乃歴史』にも書いておきましたが、花火を上げてから病気が流行ったということです。花火と病気の関係が分かりません。ひょっとして、御霊光とも関係があるのかも知れません」 吉川氏は、いかにも不思議だというような顔をして言った。 「とにかく、郡山の歴史資料館に当時の病没者の記録が保存されていますから、行けば見せて貰えると思います」 「その記録には、何の病気で亡くなったかが書いてありますか?」 「いや、そこには人の名前と集落名だけですが、それにしても多くの人が亡くなっています。それを治したのだから、熊田文儀は余程感謝されたのでしょう」 しばらく言葉が途切れた。 「本当は顕彰碑を確認する意味でも、一緒に妙見山に登ってご案内できればいいのですが、ちょっと険しくてね。私の足では無理なのですよ。なあに、行けば直 ぐ分かりますよ。それに山に登り口の分岐点に八雲神社があるのですが、そこには熊田文儀が寄付をした石灯籠も残されています」 そう教えてくれた吉川氏に礼を言って辞去すると、私はすぐその足で八雲神社に行ってみた。境内には熊田文儀の名が彫られた石の灯籠が、簡単に見つけだすことができた。 ──ようし、これは幸先がいい。もう一度山登りだ。 しかし苦労して三度も登った妙見山ではあったが、やはり顕彰碑を見つけることが出来なかった。 ──もし事績などが書かれている顕彰碑が見付けることが出来れば、墓碑銘のように何かが分かるのだが・・・。しかし吉川氏はああ言っていたが、本当に顕彰碑はあるのだろうか? そんな不安を感じていると、花火の話を思いだした。 ──文政の昔、お祭りとは言え、このような小さな集落で、麓から見えるような大きな花火を手に入れることができたのであろうか。 そう考えはじめると、妄想が次々とわいてきた。 ──それに御霊光とは何だろう。何故山が光るのか? それも狐火のようなものといっていたが、ぽっぽと青い炎が立つのかな。 そんなことを考えながら一人で夕闇が迫る山頂の古びた神社の前に立っていると、何か怖い物の怪が後から追いかけて来るような気がして、這々の体で車に乗ると急いで山を下った。 そして私はその足で、再び如宝寺に行った。 ──とにかく分からなければ、何度でも現地に行ってみる必要がある。 そう思ったからではあったが、墓地もまた寂しく暮れはじめていた。
2008.03.04
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再 発 見 私が六十三歳のとき会社の経営に不具合を生じ、全債権者および全社員の再就職に迷惑をかけることなく清算処理を終えると、心おきなく地方史にのめり込んでいった。捨五郎という名を襲名して丁度十代目という切りのよい私が、幾世代にも渡って続いてきた営業を止めたことについて自責の念がなかったと言えば嘘になる。この地方の歴史について調べはじめたのは、会社精算に対する謝罪の意もあったのかも知れない。そして小さな事だが、三春馬車鉄道の客車の復元に関してのそれなりの成功? もまた、その気にさせていたのかも知れなかった。郡山図書館が、私の新たな勤務先のようになっていた。 女房がよく親戚や友だちに言って笑っていた。「手間もお金もかからなくて、しかも家にいなければ図書館に行っていると分かっていますから、安心でいい亭主です」 これには反論もならず、私も苦笑いをするのみであった。 その私が図書館で別のことを調べていて偶然に見つけ出したのが、三鷹市のバベちゃんの先祖である『熊田文儀』の名であった。その名は、『福島県史 第三巻 九〇九頁』に出ていたのである。二~三冊の本を片隅に積んだままの閲覧室の小さな私の机の上には、その『九〇九頁』が開いたままになっていた。それには、次のようなことが書かれていた。 口 上 去冬中より疱瘡流行仕中々難治有之死失之小児数多御座候処 去年中より牛種痘生候分ハ自然痘相感不申無難而相済候ニ付此度 思召ヲ以御達ニ相成候御趣意於私共ニも難有奉感服候 伝之当宿 者勿論安積三組村々小前之者共 為施種痘仕度願候 尤願之通御 聞届ニ相成候ハバ右宿村々江夫々御達被成下置候様仕度奉存候 右趣何卒宣被御達可被下候奉願候 以上 正月廿四日 豊田三悦 村山玄沢 熊田文儀 御郡代御肝煎中様 (天保五年諸願申立留帳) 注 福島県史 第三巻 九〇九頁より、傍点筆者。「うーん、これは・・・」 一挙に、あの飯豊和気神社や如宝寺、そして磐梯熱海温泉の夕食の時のことなどが思い出された。この熊田文儀との突然の出合いに驚きながら、私は図書館特有の静かさの中で腕を組んで考えていた。 今ここで、種痘をしたという熊田文儀の名に出会うとは思ってもいなかったが、私は以前に探していた飯豊和気神社の境内にある筈だと言う顕彰碑と、如宝寺の墓碑銘と、そしてこの『口上』との三つが頭の中で瞬時に繋がった。この県史の記載内容によると、熊田文儀は天保四年に種痘を行った医者であったようである。 図書館にいるのを幸いに、種痘の歴史を調べてみた。 文政六(一八二三)年 シーボルトが牛痘苗を持参して来日、日本 人に接種したが不成功に終わった。 嘉永二(一八四九)年 オランダ軍医で長崎の蘭館医であるオット ー・モーニケが日本で最初の牛種痘に成功 した。 ところが福島県史によると、熊田文儀がモーニケより前の天保四年に、安積郡(郡山)で種痘を実施したことになっているのである。 ──田中正能先生が言われていたのはこのことだったのか。県史に書かれている天保五年は、西暦で言うと一八三四年になる。それにこの文書によると、熊田文儀らはその前年の天保四年、つまり一八三三年に種痘を行っている。これが事実とすると、熊田文儀の方が日本で最初に成功したというモーニケよりも十六年も早いということになる。そうすると日本における種痘の歴史と熊田文儀の実施した種痘の年代が咬み合わないことになる。 私は熊田文儀について、他にも何か分かることがないかと思って書架を漁ったが、これというものは見つからなかった。係員にも調べてもらったが、彼についてこれ以外の文献はないと言う。福島県史に記載されていた(天保五年諸願申立留帳)という括弧書きが、私の心を騒がせていた。 机に戻った私は、目を閉じていた。ともかく、非常な興味が私を招いていた。血の繋がりがなく昔の人であるとは言っても、私とは遠縁にあたる人物なのである。 ──大変なことに遭遇したのかも知れない。 そうは思ったが熊田文儀の調査をするための、きっかけが掴めないでいた。それで私は、馬車鉄道を調べていた時の田中先生の話を思い出そうと努めていた。「熊田文儀が、郡山村の医者であった」 そう言われたことは覚えていた。それと田中先生が、「熊田文儀は二本松藩主に命じられて、○○村で種痘を実施した」と言っていたことも記憶にあった。 ──あれは・・・、どこの村のことであったか? 私は、まだ目を閉じたままであった。そこを心地よい睡魔が襲ってきた。 ──○○村、○○村。 瞬間、私の首が、がくっと落ちて目が覚め、現実に戻った。「ん? ○○○村? 下守屋村・・・であったか?」 誰かが見ていて笑った訳ではなかったが、眠気と照れ臭さを払いのける意味もあって、そう呟いた。 ──下守屋村と言えば、今の郡山市三穂田町下守屋のこと。ということは、『熊田文儀の顕彰碑』が奉納されているという飯豊和気神社のあるあの妙見山のある集落のことではないか! そうか、三穂田町の郷土関連資料を調べればなにか分かるかも知れない。 郡山図書館の二階は、学術資料や郷土資料の保存に特化されていた。そこで私は、安積郡や郡山市関連の棚を懸命に探しはじめた。しかし、なかなか三穂田町に関しての資料が見つからなかった。「うーんっと・・・」 随分探した棚の一番下左側に、薄いパンフレットのようなものが、まとめて置かれていたのに気がついた。 ──この中に何かあるかも知れない。 私はそれらの一冊一冊に、丹念に目を通しはじめた。そして三穂田町史探会より発行されたガリ版刷りの、『郷土乃歴史』という古いパンフレット見つけだしたのである。 ──これかな・・・。 書棚の前に立ったままページを繰っていたそのパンフレットに、次のような記述があった。「あった、あった、これだ!」 思わず私は、小さな声で呟いた。
2008.03.03
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ようやく神社の建物が見えてきた。しかしその神社にたどりつくには、さらに十段くらいの石段を登らなければならなかった。 ──下の方の木の段ならともかく、これだけ高い山に石段を作るとなれば、材料を運び上げるのだけでも大変だったろうな。 自分一人の身体を持ち上げるのにさえ容易ではなかった私は、昔の人々の信仰心の強さに驚きを感じていた。 ここが目標の飯豊和気神社であった。 私はようやくの思いで最後の石段を登ると、境内に足を踏み入れた。そして周囲を見回した。手水鉢らしきものが左側にあった。しかし聞いて来た『熊田文儀の顕彰碑』と思われるものは、なかった。 山の頂上にある境内の裏から下を覗くと、木々の梢が波打って見えていた。その大して広い訳でもない境内なのに、そこに私は『熊田文儀の顕彰碑』を見つけだすことができないでうろうろしていた。 ──あるはずだが・・・。 そう思って探してみたが、神社の左手奥に小さな祠が二つあるだけであった。手水鉢まで戻ってよくよく見てみると、気のせいか手水鉢にしては掘りが浅く、荒く思えた。 ──これは手水鉢ではなく顕彰碑を取り外した痕ではないのかな。『熊田文儀の顕彰碑』は、ここにあったということかな? 釈然としないままでそれだけを確認すると私は車に戻って山を下り、田中先生に聞いていた麓の飯豊和気神社の遙拝所になっている八雲神社に行ってみた。宮司が丁寧に対応してくれた。その話によると、『熊田文儀の顕彰碑』は、あの石段の登り口の左側にあること、それから郡山市堂前の如宝寺にある『熊田文儀の墓』が参考になる、と教えてくれた。 私は早速、如宝寺に行ってみた。もう一度あの妙見山に登る気力が失われていたからでもあった。 ──如宝寺なら車で行くことが出来るし、妙見山には必要があったらまた登ればいい。 私は、そう思っていた。 寺に着いて住職に訊いた通りに行ってみると、熊田家の墓地はすぐに分かった。 ──それにしてもこれは・・・。 それを見た私は、度肝を抜かれた。その墓石というのが、高さが一間以上、縦横四尺四方ほどある巨大なものであり、しかもそれには熊田文儀の事績が事細かな文字列となって印刻されていたのである。私は言葉もなく、しばらくその墓碑銘を眺めていた。 ──この巨大な墓碑の建立には、遺族のプライドと後世に伝えようする強い意志が凝縮したものであったのかも知れない。しかし累々と続く他家の墓所の上をどうやって運んだのであろうか? その技術力もさることながら、運び込んでもいいという周辺墓地所有者の了解が得られたことは、熊田文儀がよほど立派な人であったからであったのであろうか? そう想像しながらも気を取り直した私はポケットから手帳を取り出して写しはじめたが、古い字体の上余りにも多い文字数、そして漢文調の文体に音を上げた。 ──これは、大変なことだ。 私は尻尾を巻いて、早々に引き上げた。そして日を改めると妻や娘を連れ出し、その協力を得て再び写しに出掛けた。「それにしても凄いお墓だわね」 それが他家の墓地で墓碑銘の写しに付き合っていた家族たちの驚きの感想であり、逆に私がのめり込んでいく原因となった。その上、妻にしてみれば実家の菩提寺であったのに「こんな大きな、立派なお墓のあるのを知らなかった」と言うのである。 その墓地には目印でもあるかのような欅の大樹が一本、傲然と立っていた。 (熊田文儀の墓碑) 家に帰ると、私は皆なで写してきた文章を整理し、そして読んでみた。しかしそれは、漢文の素養のない私にはなかなか困難なことであった。そのときは特に深く調べる気もなかった私は、書き写してきたままの文字群のコピーを取って三鷹市の親戚・安芸家にそれを送ってみた。特に、深い意味はなかった。間もなく礼状が来たが、それはそれだけのことであった。そしてまた、いつの間にか忘れてしまっていた。 忙しさに紛れていたある日、三鷹市のバペちゃんの娘の安芸幸子さんと熊田家の当主である熊田修氏夫妻が青森県恐山への旅行の帰りに、磐梯熱海温泉に泊まった。知らせを受けてホテルへ行き夕食を共にしたとき、熊田氏があの墓碑銘の現代文に訳したものを持参してくれたのである。しかし私は、それについてまだ興味の湧くところまで行っていなかった。墓碑銘の文字を写しただけで、内容をよく知らなかったこともあった。 ところが幸子さんの興味は、大分刺激したようであった。「先祖の業績の証を見たい」 後日、そう言ってわが家を一人で訪ねて来られたのである。 翌日私は、老齢に近い彼女の足を庇いながら妙見山に登った。しかしそのときも、伝えられる顕彰碑を見つけることができなかった。「残念だった、申し訳ない」 そう言って謝る私に、「先祖に関係のある神社にお参りが出来ただけで、十分よ」と言って逆に慰めてくれた。 それからまた何年後であったであろうか、小沢征爾氏の指揮するコンサートが須賀川市で開かれた。そのときバイオリニストでコンサートマスターとして須賀川に同道していた晶子安芸アールさん(アメリカ人と結婚)が、母の幸子さんと須賀川まで来たついでに妙見山の顕彰碑を見たいと言って郡山に来られた。私は早速車を出して案内をしたが、生憎の悪天候で麓から雨に煙る山頂を望み見るだけで帰ってきたことがあった。「あなたの祖母方の先祖は、素晴らしい人だったのですよ」 そう言う私には、アメリカ人の妻となりアメリカに住んでいる彼女にも、何か大きな感激が走っているように見えた。 それなのに私は、いつのまにかこのことを忘れてしまったのである。
2008.03.02
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このノンフィクションは、2004年の第57回福島県文学賞に入選し、2007年、福島民報社出版部より出版されたものです。 郡山の種痘事はじめ ~ 熊田文儀の業績を追って 飯 豊 和 気 神 社 私の名は橋本捨五郎(すてごろう)である。子供の頃からこの名にまつわる嫌な思い出が少なくない。母でさえ小さな私に面と向かって「捨五郎と呼ぶと、まるでお爺さんに話しかけているようだ」などと言っていたのであるから推して知るべしである。では何故こんな名前になったのか? つまり襲名である。 いまから約六十年前の昭和二十年八月、父が亡くなった。母と祖父の捨五郎は、戦後の混乱の中で配給所となってしまっていた店の再建と生活に、必死であった。そして二年後、祖父が亡くなった。そこで私は祖父より先に亡くなった父に代わり、捨五郎を襲名させられたのである。ただし私に相談はなかった。 そんなこともあってか、私は一人遊びが好きであった。特にメカニックな蒸気機関車には異常なほどの執心を見せていた。小学校では映画教室が盛んであった。『鐘の鳴る丘』『山びこ学校』エトセトラ……。そして戦後の経済が大きく変わる中で、一人で頑張ってきた母が私の大学進学に異を唱えなかったのは、女手ひとつで育てた一人息子への過剰なほどの期待があったからかも知れない。 昭和三十年、東京に出た私は、間借りで自炊をしていた。今と違って、すべてが不便な時代であった。そこで時折、栄養補給を言い訳にしながら三鷹市の親戚の家に遊びに行っていた。その家には、母方の祖父の弟である当主のお爺ちゃんと福島県郡山の医院から嫁いだお婆ちゃん(愛称・バベチャン)、その娘夫婦に孫娘が三人いて七人家族であったのであるが、遊びに行っていたのには、もう一つの隠れた理由があった。何故かそこには、後に名を成す錚々(そうそう)たるたるメンバーが下宿したり、遊びに来たりしていたのである。 あの『山びこ学校』の無着成恭先生をはじめ、後の津田塾大教授の藤村瞬一氏、東海大教授の前田利光氏、指揮者の小沢征爾氏が下宿し、さらにはエール大教授になるこの家の末娘の安芸晶子(しょうこ)さん、そのほかにも歯科医、画家、ピアニストなどの卵がたむろしていたのであるから、若い私には魅力であった。そして私が無事四年を経て卒業する頃、小沢征爾氏がフランスへ、安芸晶子さんはアメリカへと旅立って行った。私は一人、祖母と母の待っている故郷の我が家に戻ったのである。この東京での生活は、私にとってカルチャーショック以外の何ものでもなかった。 家に戻った私は家業に精を出していた。商売上の厳しさは、私から完全にいわゆる文化や芸術から足を遠のかせていた。それでもやがて歴史に興味を持つようになったのは、この襲名した古臭い名前にも原因があったのかも知れない。 それから約二十年後の昭和五十四年頃、私が最初に手がけたのは、郡山と三春の間を走っていた三春馬車鉄道の客車の復元であった。これはまた子供の頃の蒸気機関車に対してのノスタルジーもあったのかも知れない。 この三春馬車鉄道が走っていた当時のことを調べてみると、東京をはじめとした国内はもちろんのこと、ニューヨーク、ロンドン、ミラノ、チューリッヒ、ザルツブルクなど、世界の華のような大都市で馬車鉄道が走っていたのを知ったのであるから、もう止まらなかった。その頃津田塾大からドイツに留学していた藤村瞬一氏に連絡をとり、ヨーロッパでの資料などの収集に大変ご協力して頂いたこともあった。そして地元では地方史の権威の田中正能先生を訪ね、資料やご教示を頂いて復元を終え、その客車を郡山歴史資料館に寄付することができたのは昭和五十七年のことであった。その時、田中先生に次のことを聞いたのである。「幕末に郡山の中町に住んでいた医者の熊田文儀が、下守屋村で種痘を行った。その彼の顕彰碑が妙見山にある飯豊和気神社に建立されている」 熊田文儀の名を聞き、その居住地跡の場所を聞いたときに、私はそれが、あの三鷹市のバベちゃんの実家であったことに驚いた。しかし勿論、田中先生はそのことを知らない。私は早速、三穂田町下守屋の妙見山に登ってみた。 ローギアのままの軽四輪のエンジン音は、悲鳴にも近い唸り声を立てていた。すでに山道に入り道幅は狭く急になっていた。車が交差できる程度に小さく膨らんだ部分から、もう、しばらくの距離を走っていた。私はこの妙見山の頂上の飯豊和気神社にあるという熊田文儀の顕彰碑を、見ようとしていた。 ──どうもこの道の具合では先が心配だ。次に広い所が見つかったら、そこに車を置いて歩いて登ってみよう。 そう胸の中で言いながら登っては来たのであるが、なかなか、その広い所が見つからず、またバックするには遠くなりすぎ、心ならずも前進していた。大雨が降った時にでも土砂が流れたのであろう、道が斜めに深くえぐられていた。そんな所を、すでに何回も通っていた。 ──それにしても、小さい車で来てよかったな。 そう思った。 すると急に明るい所へ出た。道は相変わらず狭かったが、そこは両側が急峻な崖になっている尾根の道であった。そのために光が差し込んでいたのである。 ようやく道幅の広い所に辿りついたのは、それからしばらくしてからであった。しかしそこは今までにあった道幅の倍くらいではなく、広場のような行き止まりの場所であった。ハンドルの切り替えをしなくても充分に方向転換が可能なことを確認すると、私は車を降りた。今までの心配がなくなったことで妙に安心していた。その広場の先へ歩いて行くと、丸太で作られた、それでいて大分古くなった鳥居が見えてきた。 ──これが飯豊和気神社の鳥居だな。 そう思って先を見ると、今までより急で、しかも所どころに木で作られた土留めのような何段かの階段が見えていた。 ──どっちにしても、これ以上車で登るのは無理だ。 そう思うと私は鳥居をくぐった。その先もまた急な山道であった。息を切らしながら登る道は、意外に遠かった。しかもつづら折れのその道は、今度かと思えばまた戻るかのように曲がり、今度は? と思えば、また曲がって登っていた。途中で息を荒げては休み、元気をつけては登った。 (飯豊和気神社の鳥居・郡山市三穂田町 妙見山々頂)
2008.03.01
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