『福島の歴史物語」

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2008.03.23
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 それと第二は、亡くなった馬場佐十郎によって訳された『遁花秘訣』が嘉永三(一八五〇)年になって利光仙庵の手で更に翻訳しなおされ、『魯西亜牛痘全書』と改題してはじめて出版されたという事情がある。つまりここでの重要な行き違いは、種痘書『ヲスペンネクニガ』がシーボルトより先の文化九(一八一二)年に、中川五郎治によって日本に持ち込まれていたにもかかわらず、結局モーニケの牛種痘成功後の刊行となってしまったことである。
 そしてもうひとつ重要なことに、天保十一年に秋田藩各地で接種を行っていた白鳥雄蔵らがいた。白鳥雄蔵が中川五郎治に種痘法の伝授を拒否されながらも、牛痘苗の開発に成功し実施したという事実から、中川五郎治や白鳥雄蔵らが牛痘苗を国内で手に入れたことを否定する理由がない。
 こうなれば一番大事なことは、『彼らが外国から牛痘苗を持ち込まなかったこと』ではなく、『国内で、しかも自力で牛痘苗を手に入れることができた』ということではなかろうか。
 そして福島県では、一九八二年に刊行された『郡山市文化財・研究紀要・第二号』に掲載された昼田源四郎氏の研究論文『近世農村の医療事情~奥州守山藩の場合』の中に、天保五年、守山藩で疱瘡が流行し、城山八幡宮にて祈祷、鎮守神楽を奉納したと記載されているのを見つけた。守山藩は下守屋村とは非常に近接していたし、現在では同じ郡山市域に含まれていることからも、守山で流行したということは下守屋村でも流行したと考えてもよいのではあるまいか。そうすれば、当時『癘疫』という言葉は淡水大事記にもあったように、疱瘡という病気を意味していたとも考えられる。またこのことは、熊田文儀の墓碑銘にある『天保五年 関佐荒饑奥羽殊甚如以癘疫』の年度と一致している。そしてもし熊田文儀がこの年に郡山で成功していれば会津にも種痘法を教えたとも推測できることから、この年表嘉永元年の項にある会津での実施が現実性を帯びるのではあるまいか。とは言っても、これらのことを前提として考えてみても、熊田文儀について次のような疑問が残った。

   1 福島県史にある『天保五年』と、熊田文儀の墓碑銘にあっ
     た『天保五年』、そして『近世農村の医療事情』にある『天
     保五年』とは同一の事実を表しているのであろうか。その
     関連性はどうなのか?
   2 『天保五年』の当時、『癘疫』とは具体的に疱瘡を表して
     いたのではないだろうか? 前述したように、大漢和辞典
     に癘(れい)は『頼病。或曰悪瘡』と説明されているし淡
     水大事記の記述もある。

 しかし、もし、この(1)の問題、つまり天保四年に牛種痘を実施したというように解釈し、また(2)の『癘疫』は疱瘡を意味した病気であったと仮定すると、さらに次のような大問題を孕むことになってしまうのである。

   1 福島県史のいう『天保五年』が正しいとすれば、日本にお
     ける医療史、福島県医師会史の書き換えが必要となる。
   2 日本における医療史、福島県医師会史が正しいとすれば、
     福島県史の書き換えが必要になる。

 この予想外の展開たじろいでいる私に、つい最近、大内先生から手紙を頂いた。その後も調査や執筆にかまけて何のご報告もしなかったにも拘わらず、大変な心配りを頂いていたのである。

  彼岸に入り一入秋らしくなってきました。
  貴方様には益々ご清栄の御事と存じます。
 さて、八月二十七日、愛知大学豊橋校舎における民衆思想研究会に参加し、田崎哲郎愛大名誉教授の『種痘の普及について』という講話を聴講して来ました。書き込みをした汚いレジュメと添付資料のコピーを同封しました。ご参考になれば幸いです。貴方様のご注目の郡山の種痘と中川五郎治について質してみましたが、要約左のようなことでした。
   1 牛痘法以前に人痘法が行われていた。
   2 古方医、漢方医、蘭方医(洋方医)にかぎらず、在村医の
     掘り起こし(儒学、心学、神道も含めて)が必要で、これ
     によって医術を含めた実学が解明できる。
   3 中川五郎治の『牛痘書』が内容および経路系統が確認でき
     ないので、田崎氏は疑問視している。
   4 嘉永二年以前は、牛痘ではなく人痘ではないか。
 これらのことから
   1 当面、『牛痘』で中川五郎治と結びつけるのは無理かも知
     れません。(ただ、否定しないで、留保しておけばよいと
     思います。)
   2 郡山の『種痘』が『人痘』ならば、説明が成り立ちます。
     この場合でも経路系統が問題になります。豊田三悦、村山
     玄沢、熊田文儀の学統・交友が解明されなければなりませ
     ん。
        右お知らせまで、ご自愛ください。
           九月二十一日
                         大内生







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最終更新日  2008.03.23 08:06:22
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