『福島の歴史物語」

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2009.09.15
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           親 の 仇

「大変でございます舎人様。御家老の市大夫様が襲われました。たった今、江戸から急使がございました」
 それは新政府軍が平藩(いわき市)を落として三春方面へ進軍中のときであり、それが応戦のため二本松勢と三春勢が領内の大越(田村市)まで出陣する騒ぎのときであった。その上白河では板垣退助の率いる新政府軍に占領された白河の小峰城奪還のため、同盟軍が再々度白河総攻撃を決行していた。ここ三春藩も、騒然とした空気に包まれていた。
 このようなときの江戸家老の小野寺市大夫が襲撃されたという知らせであったから、舎人は愕然としていた。
「で、父上のお命は?」
 舎人はそうは訊いたが頭の整理がつかなかった。
「それがまことに残念でございますが、一緒におられた御側室のキン様ともども亡くなられたそうでございます」
「亡くなった?」
「それでも下手人は判明しております」
「む・・?」
「渡田虎雄たちが真夜中に忍んで来たそうでございます」
「渡田虎雄たち・・が?」
「はっ。渡田虎雄の奴が、二十人ほどの徒党を組んで襲って来たそうにございます」
「なんと? 二十人も・・」
「はい。奴等は御家老様のみが目的であったらしく、寝所をめがけて一斉に襲いかかって来たそうでございます。多勢に無勢、老齢の上寝込みを襲われた御家老様はそれでも曲者たちと幾太刀かを合わせたそうでございますが、残念ながら間もなくご落命とのことでございます」
「落命・・」
 舎人の頭の中は走馬燈のように回転していた。
 ──なぜ父上が渡田虎雄の手にかからねばならぬ。罪人はむしろ虎雄ではないか。おのれ虎雄奴! それにしても、やはり江戸に隠れておったか!
 舎人は、七十余歳で大勢の若い曲者と太刀を合わせている父の姿を想像していた。
「キン様は御家老様が切り結んでいる間に逃げられましたが追いつかれ、庭の隅で斬られたそうでございます」
「・・」
「お屋敷には若党が二人ほどおりましたが一人は斬られ、もう一人は春山村出身の春川和平と申す者にございましたが縁の下に隠れていて助かり、下男一人と下女一人も外へ逃げ出して助かったそうでございます」
「おのれ! どさくさに紛れて老人一人を! 卑怯者奴が!」
 そうは憤ったものの、舎人の気持ちは更に重くなっていた。父とキンの死を母にどう伝えたらよいか、思い苦しんでいたのである。
 ──父上の死もさることながら、キン殿の死のこと、女の身なれば易く受け止めることは難しかろう。
 しかしそうは思ったが隠し切れることでないことも覚悟せざるを得なかった。舎人は顔のこわばっていくのを感じていた。

 何日か後、江戸で荼毘に付された市大夫の遺骨が春川和平の手により持ち帰られた。舎人は痛恨の思いでそれを受け取って葬儀を済ませると、四十九日を待たずして敵討ちの許可願いを藩に提出した。
「しかし舎人。いまは戦の最中である、しばらく待て。逃走した虎雄についてはその方の私怨もさることながら、家老を失った藩としても決着を付けねばならぬ。いずれ戦いが終われば藩も総力を挙げて捕縛にあたる。そのときには江戸の町奉行にも応援を依願しよう。それまでは藩危急のこの時期、その方はその若さと力量を生かし、全力を挙げて対処してくれ」
 そう藩首脳に説得されれば、舎人は諦めざるを得なかった。地団駄を踏む思いであった。
 たしかに三春藩は苦悩していた。朝廷に勤王の意志を伝えて『叡感勅書』まで賜っていながら奥羽越列藩同盟の諸藩の中に位置し、勅書の存在を明確にすれば同盟軍に圧殺される危険を孕んでいたからである。新政府軍の攻勢を前に時期を計っていた三春藩は、ついに七月二十七日、無血で開城した。しかしそのとき新政府軍から示されたのは、『三春藩降伏』であった。
「戦前より勤王の所信を明確にしていたわが藩は、新政府軍と戦って敗れた訳ではない。降伏ではなく恭順である。」
 この意見は根強かったが名目に拘っている訳にもいかなかった。結局、三春藩は降伏を受け入れた。
 七月二十九日、二本松落城。藩主丹羽左京大夫長国は米沢に逃れた。敗れた二本松藩は新政府軍総督府参謀局の占領下に入った。
 八月、三春藩には新政府軍白河口総督より、『本領の安堵。二本松藩領安達郡内逢隈川(阿武隈川)右岸一帯の地の支配』が命じられた。また京都の秋田廣記の禁足も解かれた。
 この時期から、なぜか三春藩は、尊皇の意志とは裏腹に『三春狐』の汚名を着せられることになる。舎人はその中傷の言葉に納得できないものを感じていた。
 ──会津猪、仙台は狢・雀・兎、米沢は猿・狸、棚倉兎、二本松兎、新発田狐と各藩がからかわれているのに、三春のみが声高に揶揄されるのは、自己の失政を隠そうとする誰かの悪意に満ちた策謀なのではあるまいか?
 舎人の胸中は、悔しさであふれんばかりであった。しかし三春に戦火が及ばなかったとはいえ、戦争が終わった訳ではなかった。それは会津での戦いが終わる九月二十三日まで待たねばならなかったし、その間、新政府軍の指揮下で戦争協力をさせられていた。
 ──敵討ちの許可を申請するのは、いつがよいのか?
 父の市大夫が襲われてからすでに三ケ月を経ていた。藩外からなされている『裏切者』の罵声と同時に、思うようにならぬこの時の流れに、舎人は断腸の思いであった。

ブログランキングです。
50位以内に入れればいいなと思っています。ちなみに今までの最高位は、2008年7月22日の52位でした。

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最終更新日  2009.09.15 08:00:02
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Re:親の仇 1(09/15) 関連記事がありました  
湊耕一郎 さん
御無沙汰しております。お元気のことと存じます。ところで、小生、船引で、有志と横田半治の道中記を読んでおります。ご存じの通り、横田半治は年寄の秋田広記に従って幕末の京都へ上洛しました。その時の詳細な日記が残っています。その中の慶応4年7月8日の記事に小野寺市太夫暗殺の事件が記されています。
  一 六月廿九日江戸出候岩崎源十郎方ゟ書状着、
    江戸御屋敷不慮有之候趣申越、小野寺上下
    三人変死候由申来る
以上の通りです。これを読んだとき、橋本さんが以前書かれていたことがあると思い出し、改めて拝見しました。
幕末の不安定な社会経済状況の中で起こった不幸な事件だったのですね。ブログで詳細を再読しました。
ところで、この事件を記録した史料は何というものでしょう。もしご教示いただければ幸いです。 (2024.11.27 20:20:50)

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