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半年ほど前に、このブログでスカルラッティが登場する小説「修道院回想録-バルタザルとブリムンダ」(J. サラマーゴ著)のことに触れました(こちら)。当時はまだ冒頭のいくつかの挿話を読んだだけの段階で、内容についてはほとんどご紹介出来ませんでしたが、最近ようやく読み終えた(途中飛ばしながらでしたが)ので、印象が新鮮なうちに読後感を少々。スカルラッティが登場する、ということからも想像できるように、この小説はいわば歴史小説で、取り上げられているのは18世紀前半、典型的な啓蒙専制君主の一人と言われたジョアン5世統治下のポルトガルがその舞台です。冒頭の場面が1710年の王室でのエピソードから始まることは既にご紹介しましたが、物語は1739年にリスボンで行われた宗教裁判(異端審問)による火刑の場面で終わっており、架空の主人公(?)であるバルタザルとブリムンダを軸に、バルトロメウ・ローレンソ神父、ジョアン5世一家とその取り巻き(スカルラッティもその一人)といった歴史的人物を造形しつつ、足掛け三十年間にわたる有為転変の物語を紡ぎだしています。この小説の主題が何なのか(そもそも「主題」というものがあるとして)、亭主には未だはっきりしたものは見えていません。もちろん、題目にある「修道院」がマフラに建立されたそれを指し、物語がその発端から完成まで(1739年は修道院の献堂式が盛大に行われた年)を背景に進むことは確かです。※)これを建てさせたジョアン5世の狂信的と言ってよいまでの信仰心(と表裏一体の虚栄心)、空想と現実がないまぜになったようなローレンソ神父の飛ぶ機械「バッサローラ」の制作とそれによる飛翔の挿話(この小説のクライマックスの一つ)などは、人の内面を読む能力を持つブリムンダの生き様とともに、当時の精神世界を再現しようとしているかの趣があります。しかしながら、そこに向けられるのは現代からの冷徹で批判的な眼差し、おそらくは無神論者である作者のシニカルな眼差しです。さて、スカルラッティは物語の中盤、前述のローレンソ神父の飛ぶ機械が出てくる場面の前後に登場します。バルタザルとブリムンダは郊外にあるローレンソ神父の居所で飛ぶ機械の制作を手伝っており、宮廷に出入りする神父の知人であるスカルラッティは、その機械を見るために時々そこを訪ねるようになります。後にはその場所にハープシコードを運び込んで演奏するまでになりますが、機械の飛翔の場面で登場するのを最後に、人物としてはほとんど登場しなくなります。亭主から見ると人物の造形としてはまずまずですが、やや食い足りない感じは否めません。よく考えてみれば、スカルラッティがポルトガルに縁があったのは1720年代の高々十年足らずで、1729年のマリア・バルバラの婚姻とともに彼はスペインに移り住んでしまうわけですから、この物語でドメニコが大した役割を果たさないだろうことは容易に想像出来るのでした。つまるところ、亭主のような読者を満足させるためには、やはりスペインでのドメニコ、カークパトリックが言うところの「第二の青春から成熟へ」を生きたスペインでの彼を主人公にした物語が書かれなければならないのでしょう。※)小説の邦題からは修道院にまつわる人物の回想記のようなものが想像されますが、内容を考えると、原題の"Memorial do Convento"は「修道院の記憶」とでも訳すべきものと思われます。
2011.03.27
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3月11日の東北関東大震災から一週間が経とうとしています。当日、亭主は東京(内幸町)の高層ビル12階で会議中にこの大地震に遭遇。今までに経験したことのないような異様に長く強い縦揺れ(普通なら「初期微動」と呼ばれるもの)と、続いて襲って来た長時間の大きな横揺れから「これはただの地震ではない」とすぐに分かりました。幸いその場は大した混乱なく収まったものの会議は即中止に。全機停止したエレベーターを横目に徒歩で地上階まで降りてみると、日比谷公園に避難する大勢の人々が目に入りました。その後、亭主は帰宅方面が同じ同僚二名と右往左往したあげく結局帰宅難民と化し、最後は三人仲良く東京駅の地下街に野宿するハメに。今まで見たこともない大活字で「列島激震」と見出しのある号外を尻に敷いて、なす術もなく通路に座り込んでいると、地下街の防災組合の方々が亭主どもも含め大勢いた帰宅難民に段ボール箱を配ってくれました(感謝)。ほんのわずかですが、被災地の皆さんの気持ちを共有できた貴重な体験となった次第。ところで現在もその深刻な影響が続いているこの大震災、亭主にとってはドメニコ・スカルラッティ晩年の1755年に起きた「リスボン大地震」がどういうものだったかをリアルに想像させるのに十分なものでした。以下、亭主がシットウェルの邦訳に付けたこの地震についての注釈を再録しておきましょう。<リスボン大地震>1755年、カトリックの祭日(万聖節)であった11月1日、午前 9 時 20 分頃に発生。西ヨーロッパの広い範囲を強い揺れが襲った。地震の規模はマグニチュード 8.5と推定されており、津波による死者一万人を含め五万五千人~六万二千人が犠牲になったとされる。リスボンはこの地震と津波により壊滅的な被害を受け、宮殿や図書館、16世紀の独特のマヌエル様式の建築が崩壊。わずか半年前にこけら落としを祝ったばかりのオペラ座をはじめ、地震の揺れに持ちこたえた建物も火災により焼失した。テージョ川沿いに建っていたリベイラ宮殿(現在のコメルシオ広場の位置にあった)も地震と津波で崩れ、七万巻の書物やティツィアーノ、ルーベンス、コレッジョらの絵画も失われた。(国王ジョゼ1世とその家族は、祭日を市郊外で過ごすためにたまたま街を離れており、幸運にも難を逃れている。)リスボン大地震はヨーロッパの精神世界にも衝撃を与え、ヴォルテールの小説「カンディード」のような作品を生み出すなど、20世紀のホロコーストにも比される影響をもたらしたとされる。今にして思うと、ネットで調べながらこれを書いていたのが遠い昔のことのようです。今回の大震災は21世紀の黙示録となるのでしょうか。
2011.03.17
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長年アマゾンやHMVでCDの買い物をしていると、これらのサイトから毎週のように送られてくる新譜情報の内容も客の好みを明快に反映したものになってきます。亭主の場合にも、この数年来「バロック音楽」のCDばかり購入しているので、おのずと新譜情報もバロック期かそれ以前の音楽に関するものばかり。その内容も次第にマニアックになってきたのでしょう、先日いつものようにこれらのジャンクメールをゴミ箱に入れようとして、ふと目に留まったのが表題の音楽を収めたCDです(deutsche harmonia mundi, 2010)。亭主がプラ兄弟のことを目にしたのは、例によってカークパトリックに引用されていたバーニー博士の著作中の文章で、ドメニコ・スカルラッティが若き日の出会い以来ヘンデルとの友情をどれほど深く心に刻んでいたかを示すエピソードの証言者として登場します。曰く、「ヘンデルはかの人(訳注:スカルラッティのこと)についていつも大変満足気な様子で話をしていた。というのも彼はその芸術家としての偉大な才能の他に、この上なく善き性格の持ち主であり、実に礼儀正しい人だったからである。一方で、後になってからであるが、マドリード出身の二人のプラ氏(共に著名なオーボエ奏者) によると、スカルラッティもヘンデルの人柄について、その偉大な演奏と同様に褒めたたえ、彼に敬意を表して胸で十字を切っていた様を伝えている。」(C. バーニーの著作より、亭主訳)表題のCD付属のライナーノートによると、プラ兄弟はカタルーニャの音楽一家の出で、Joan (イタリア名Giovanni Battista)、Josep、Manuelの三人兄弟からなり、全員がオーボエ奏者・作曲家として活躍していたようです。特に最初の二人は有名だったらしいので、上記引用中の二人のプラ氏とはJoanとJosepのことでしょう。実際、彼らはマドリードやリスボンの宮廷で活動を行うだけでなく、フランス、英国、イタリア、さらにはドイツへと演奏旅行を行ったとあります。(英国は彼らの作品が出版された地でもあり、上記の引用からも、英国滞在中にバーニー博士にあう機会があったとも考えられます。)収録された曲の作曲年代(1750年代)からも想像されるように、彼らが活躍していたのはちょうど後期バロックと古典派時代の境目ですが、これらを聞いていると分かりやすいギャラント様式が全開、といった感じで、モーツァルトの先駆けのような軽やかさです。ちなみに、使われている楽器も当時のものを復元したものを使用しているようで、現代楽器とは異なる響きが楽しめます。
2011.03.06
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