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未音亭では(惰性で)長年A新聞を購読しています。以前は新聞記事といえば、よほど名の通った論説委員等の記事を除いて基本的に無署名(誰が書いたか分からない)記事ばかりでしたが、この数年でしょうか、いつの間にかほとんどの記事の末尾に括弧付きで執筆者の名前がでるようになりました。A新聞を読んでいると、折に触れて掲載されるクラッシック音楽関係の記事で気になるものが、いつも「吉田純子」という署名を伴っています。そこで、一体どういう方なのだろう、とネットでググってみると、すぐに情報が出てきました。以下のリンク、「音大へ行こう!」というホームページの記事で、吉田純子さんがゲストとしてインタヴューを受けています。http://www.go-ondai.net/interview/vol2.html経歴を拝見すると、東京芸大楽理科のご出身(1971年生まれ)ということで、要するに西洋クラッシック音楽の専門家なのですね(やっぱり...)。このインタヴュー記事は、もともと音大受験生のためのもののようで、そのため受験にまつわる体験談が中心なのですが、彼女がなぜ新聞記者になったかから始まって、仕事柄音楽にどう向き合っているか、さらには音楽と人生全般のかかわりについてなど、なかなか興味深い内容が含まれています。A新聞のような全国向け大衆紙では、西洋クラッシック音楽などというカテゴリーは他の文化活動に比べて遥かにマイナーな存在です。(一説によると、日本の総人口に占める西洋クラッシック音楽ファンの人口は~4%、つまり百人中わずか四人しかいません。)そのような一般大衆向けメディアの中で、西洋クラッシック音楽を活動の中心に据えた音楽ジャーナリストが存在感を出している、というのは特筆に値すると思います。「その世界に閉じ籠っていては見えないものがある」という警句を口にするあたり、ジャーナリストの面目躍如、亭主も大いに膝を打ちました。思うに、日本の音楽ジャーナリズム、特に西洋クラッシック音楽のそれは、全体としてあまりに狭く閉じ籠っている気がするのですが、これは亭主の偏見でしょうか?いつも専門家の目を気にし、大向こう(=音楽通)を唸らせることだけに執心していると、「のだめカンタービレ」のような現象が理解出来ないのではないか、と吉田さんならずとも心配になるところです。
2011.10.30
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昨日の新聞で、「フクシマの英雄」にアストゥリアス皇太子賞が贈られた、というニュースが、同皇太子の映像とともに流れていました。スペインで最も権威ある賞ということで、過去の受賞者の中にはカーボンナノチューブの発見者である飯島澄男氏(ノーベル賞も取りざたされている方)なども日本人として名を連ねているようです。このアストゥリアス皇太子(=スペイン王位継承権者)という称号、亭主にはお馴染みのもので、マリア・バルバラと当時のアストゥリアス皇太子(後のフェルナンド6世)の結婚(1729年、下図はその頃[16歳]の皇太子の肖像)のすぐ後、マリアバルバラのハープシコード指南だったドメニコ・スカルラッティは、あたかも彼女の嫁入り道具の一つのように二人のもとへと赴任しています。サチヴェレル・シットウェルがスカルラッティの評伝を書くにあたり、シットウェル自身と同時代を生きたスペイン王家の人々(アルフォンソ・カルロスとその妻マリア・ダス・ネヴェス)のことを語りながら感慨にふけったように、亭主も現在のアストゥリアス皇太子の報を聞くと、古くはドメニコが仕えた国王夫妻と同じ血を継ぐ人たちが、今もこの同じ空の下で生きていることに、少なからず感慨を覚えます。フェルナンド6世とマリア・バルバラの間には子供がなく、彼らの死後王位を継いだのは異母弟のカルロス3世でした。その後、フェルナンド7世(1784年-1833年)が「男子のみが王位を継承する」というサリカ法を廃し、一人娘イザベルに王位を無理矢理継がせたことから、彼女とフェルナンド7世の弟カルロス(サリカ法の下での正統的な継承権利者)ととの間で(それぞれの子孫の間も含め)20世紀に至るまで王位継承の争い(カルリスタ戦争)が続いていたことはあまり知られていないようです。ちなみに、現在の国王フアン・カルロス(正確にはフアン・カルロス・アルフォンソ・ビクトル・マリーア・デ・ボルボン・イ・ボルボン=ドス・シシリアス([Juan Carlos Alfonso V?ctor Mar?a de Borb?n y Borb?n-Dos Sicilias])は、スペイン・ブルボン(ボルボン)王朝の始祖で、先に触れたフェルナンド6世の父親でもあるフェリペ5世(1683年-1746年)から数えて十代目、アストゥリアス皇太子フェリペは十一代目ということになります。かつて1940年代にマドリードでカークパトリックが遭遇したスカルラッティ家直系の子孫は、ドメニコから数えて九代目、ということでしたので、こちらも今頃は十代目、十一代目の時代になっていることでしょう。(彼らの消息が分かると興味深いのですが...誰かご存知ではないでしょうか?)
2011.10.23
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先週半ばから、仕事で英国はオックスフォード近郊の研究所に来ています。英国といえば、一日のうちに目まぐるしく変わる天気を想像しますが、このところは好天が続いていて、陽気も関東とあまり変わりない感じ。(ただし、朝夕は10℃を切るようになり、セーター一枚ではやや肌寒いという程度。)仕事の都合上、研究所から長時間離れられないので、唯一の楽しみは、夕食時にパブに繰り出して、ビター・エールやスタウト・ビール(もちろんギネス)を啜ることぐらいです。ところで、週末も仕事で遠出できない憂さ晴らしにネットサーフィンをしていると、先週ロンドンのロイヤル・フェスティバル・ホールで行われたアバド指揮、ルツェルン祝祭オーケストラによる演奏会のレビューが新聞のオンライン版記事として出ていました。記事の中心は、演目の一つであるブルックナーの交響曲第5番。亭主にはなじみのない曲なので、レビューを読んでも具体的な音のイメージは湧いてきませんでしたが、「有名な1942年のフルトヴェングラーによる演奏のようなcataclysmic ferment(『この世の終わりのような不安』?)からは遠い、イタリア的な明晰さ」に到達している、という評には思わず微笑…(音楽評論家、というのは、どうしてこう分かりやすいんでしょうか…)それよりも興味深かったのはアバドの指揮ぶりの「謎」についてで、指揮台上での彼は大した身振りもなく、手の振りも単調に見えるのに、ほとんど静寂というレベルから圧倒的なフォルテッシモまで、オケを自在に操っているように見えるとのこと。十年あまり前の癌から復活して、今や御歳78歳と「後期高齢者」のアバドですが、まだまだカクシャクとしているようで、亭主も彼が元気なうちに生演奏に接する機会があれば、と思わされる記事でした。(なお、別の日には内田光子を独奏者に迎えて、シューマンのピアノ協奏曲を演奏したようですが、残念ながらそれについての詳しい紹介記事はありませんでした。)
2011.10.16
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MacintoshやiPodの生みの親であるスティーブ・ジョブス氏が亡くなりました。1980年代に青春をおくった亭主のような世代は、ちょうどMacintoshの斬新なデザインとグラフィック・ユーザーインターフェースに魅せられた世代ですから、彼の訃報に接して色々な思いが去来します。昨日は、五ヶ月ほども放置していた本亭のホームページを久しぶりに更新し、亭主なりの追悼記事を載せてみました。今日はその番外編です。パソコンという商品が従来の製品と異なる決定的な性格の一つが、その「未完成性」です。半導体の世界では、チップ(CPUやメモリ)の集積度が1.5年で倍になる、という「ムーアの法則」がよく知られていますが、パソコンを構成する他の部品、たとえばハードディスクの容量も似たような速さで倍々と性能が伸び続けています。これに合わせるように、パソコンの「台所セット」であるオペレーティング・システムも毎年のようにバージョンアップが行われます。iPodは「携帯音楽プレーヤー」として売られていますが、実は当初からCPU、ハードディスク、入出力装置を備えた立派なパソコンでした。(家のパソコン中に構築したiTunesという音楽環境を、外に持出すための二台目のパソコン、というわけです。)インターネット普及以前、ソフトウェアやその更新情報はFloppyやCD-ROMでの配布が一般的でした。音楽「ソフト」も同じです。(同じことは紙媒体としての本や雑誌にも言えます。)これは手間ひまがかかりますから、そう頻繁には行えません。インターネットの普及は、この状況を劇的に変えました。未完成性をインターネットで「常時」補完することが可能になったのです。iTunes+iPodはこの状況を一歩先んじて認識したジョブスが生んだ、「情報としての音楽」を売る新しいビジネス・モデルで、今のところ大成功しているように見えます。が、一クラッシック音楽ファンとして、iTunes+iPodをこの五年ほど使った限りでは、とても満足と言うにはほど遠い、というのが正直な感想。例えば、CDから読み込んだ曲の整理がうまくいかず、「プレイリスト」の制作に膨大な時間を費やすこともしばしば。これは、iTunesが基本的に一曲一曲が独立して聴かれるポピュラー系の音楽を念頭にしたインターフェースになっていて、多楽章形式や、標題のない音楽の扱いにうまく対応していないからではないかと思われます。(今年3月にはiPodのホストマシンがハードディスクの故障で全データを失い、必死でiPodからリッピングしたものの、結局プレイリストは戻らずしまい。「原始時代」に逆戻りです。)インターネットの普及は、アマゾンやHMVで容易にCDを手に入れられる状況も創り出しました。iTunes Storeで購入できるクラッシック音楽のタイトルもずいぶん増えましたが、こちらも亭主から見ると中途半端。CDに比べて特にお得感があるわけでもなく、ライナーノートのような重要情報もなしでは、わざわざiTune Storeで購入する気も起きません。アップルストアに行くと、「iPod classic」 という名前のiPod(大容量がウリ)を売っています。もちろんclassicがiPodにかかる形容詞であることは重々承知ですが、クラッシック音楽ファンにも使えるiPod for classic musicが欲しい、というのは亭主だけでしょうか?
2011.10.10
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昨日ブログをアップしたところで、少し気になってアンマー・チェンバロ(Ammer Cembalo)のことを調べていたところ、びっくりするような動画を見つけました。ユーチューブでammer harpsichordと入れて検索をかけると、Andrey Prachtという演奏家のビデオがいくつか出てきますが、何と彼はこの楽器でスカルラッティのソナタを録画したものを流しています。検索がメンドーだという方のために、以下にいくつかリンクを置きます。K.120:こちらK.54:こちらK.386:こちらK.208:こちらフツーのビデオで撮っているせいか、音響的にはイマイチですが、ブツとしてのアンマー・チェンバロがどういうものか(特にK.208では楽器全体が映っています)、さらにはモダン・チェンバロでスカルラッティを弾くとどう響くか、という点で大変興味深い映像になっています。また、以下のサイトではおそらく「モダン・チェンバロ」ほぼ全ての楽器の紹介を行っています(こちらは過去の音源が数多く聴けます)。http://www.jsebestyen.org/harpsichord/audio.htmlそれにしても、何でも落ちているネットの世界!
2011.10.02
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先週のテレビ番組で、二年前にヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで優勝した辻井伸行さんが出演していました。コンクール優勝以来、いわゆる音楽番組以外でも引っ張りだこのようですが、二十歳そこそこの若者が障害に臆することなく元気にステージをこなしている姿は実に眩しく、またこちらも元気づけられます。それにしても、一応目が見えていても(最近は近視と老眼でグチャグチャですが...)ミスタッチばかりしている亭主にとって、盲目のピアニストがあのように自在に楽器を繰ることが出来る、というのはやはり驚異の的です。辻井さんは生まれながらの全盲ということで、おそらく成長の過程で耳が目の代わりをするように発達・成長することが出来たのでしょう。この点、音楽も含め聴覚が重要な要素となる能力を身につける上で、後天的視覚障害者よりは遥かに有利な立場にあったことは想像出来ます。もう一つ。指先というのは人間の体組織の中でも最も鋭敏な触覚を持つ部分と言われています。辻井さんが幼時からピアノに親しむことで、聴覚と同時にこの触覚を高度に発達させたのでしょう。指で楽器に触れた瞬間、彼にはすべての鍵盤が「見えている」に違いありません。(でなければ、あのように自在に楽器を繰ることは不可能だと思われます。)ところで、盲目の鍵盤楽器奏者というと亭主が思い出す演奏家に、ヘルムート・ヴァルヒャがいます。亭主が彼の演奏(LPレコード、下写真。イギリス組曲、フランス組曲、パルティータ)に初めて接したのはもう三十年以上前になりますが、その時の鮮烈な印象はいまだに忘れられない思い出の一つです。(ウィキペディアの記事によると1991年に他界されたようなので、今年はちょうど没後20年にあたります。)LPのライナーノートによれば、ヴァルヒャは生後間もなく(~一歳)予防注射の後遺症で視力障害を起こし、十六歳で全盲になったとあります。徐々に光を失う、というのは、生まれながらにして全盲の場合に比べ、ある意味で過酷な境涯にあったとも想像できますが、当時の亭主にとって、彼の演奏はそのような陰とは無縁の明朗な響きを持っているように感じられたものでした。ちなみに、彼が録音に使った楽器について、LPでは一言「アンマー・チェンバロ」と書いているだけですが、これこそはいわゆる「モダン・チェンバロ」の代表的なモデルの一つ。三十年前の亭主にはこれがどういう楽器かは知る由もなかったのですが、その響きが当時亭主の周りでもとても人気があったことを思い出します。(一方で、プロの音楽家からは既に見放されつつあったようで、その後偶然飛行機で同席した音楽家にヴァルヒャのファンであることを告げると、「ほう、貴方のような世代もあれを聴くの?...」と言われたことを思い出します。)もちろん、こんにちピリオド楽器の響きに慣れた耳には、やはりモダン・チェンバロの音はややメタリックでシンセサイザーからの音のように感じられます。が、このヴァルヒャの録音、同時期に活躍していたカークパトリックが愛用した「ノイペルト」による録音に比べると、遥かに「いい音」に聞こえます。「弘法は筆を選ばず」とはこのことでしょうか?
2011.10.01
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