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私:俺がこのブログで松岡大臣の事務所の光熱費問題を書いたのが、03.08だから、5月28日に自殺するまで、「ルールに則っているので問題ない」と押し切ってきたんだがね。 約3ヶ月、しぶとく頑張ってきたんだが、落しどころをどうするのかと思っていた。 まさか、自殺するとはね。A氏:しかし、その間、新しい問題が出てきたね。 「緑資源機構」の官製談合だ。 拡大して、熊本の機構の事務所まで家宅捜査が入る。 松岡大臣の地元だね。 これが引き金を引いたのかね。私:問題になった業者から多額の献金を受けていたからね。 税金がまわりまわって、政治家の懐にはいる。 しかし、これもすでに自ら大臣としての給与カットをして一応、けじめをつけていたんだがね。A氏:松岡氏は「最後の農林族の一人」だと言われているね。 昨日の朝日新聞のウオッチ欄では「自殺の陰に技官の悲哀」として、法律や経済を専攻した事務官に比較して冷遇される技官出身だったことが、松岡氏がカネにまつわる「疑惑」にまみれ続ける理由の一つにあげられるとしているね。私:安倍首相の総裁選挙に貢献したので大臣登用は論功行賞と言われた。 しかし、期待されていたのは、日本の農産物は高価だが品質が良いので、中国など国外の富裕層に売れるのではないかというプロジェクトを推進することだったらしいね。 そのためには、外国農産品要求をある程度のんで、安い農産物の輸入を認めないといけない。 そのとき、それに不満な農協などの圧力団体を抑える力がある政治家が必要だったのかもしれないね。A氏:しかし、それ以前の古い体質の尾をひいていたのがたたったのかね。 翌日、緑機構の前身の旧森林開発公団の元理事が自殺したのは更なる驚きだね。 「最後の社会主義国」日本の苦闘かね。私:責任を感じて自殺を選択したのでサムライだったというコメントもあるが、何の責任をとったのか、はっきりしないのがサムライとしては惜しまれるね。 こういう死は欧米でもあるからね。 光熱費問題くらいで死を選択しないと思うね。 もっと何か責任となることがあるかもね。 元理事の死も同様にサムライの死なのかね。 疑惑の真実はこれで墓場にまで持っていかれたようだね。 小泉さんは壁にぶつかると偶然によいことがあって救われたが、年金問題を含め、安倍首相はこのところ何かツキがないような気がするね。
2007.05.31
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私:1968年、ベトナム戦争のときアメリカの原子力エンタープライズが佐世保に寄港したので大反対運動が起きた。 朝日新聞はときの5名の識者に賛否を聞いた。 その中で唯一、竹山道雄氏が寄港賛成を表明した。 A氏:どういう理由で?私:「日本人の核アレルギーは人工的に作られたもので、国民の戦後心理に投じた政治的なアジテーションによって広がった。 その作為的なもののために、日本として、しなければならない本質的な問題をごまかしてしまうようなことは許されるべきではない」という竹山氏の意見だね。 この竹山氏の新聞記事を見たある主婦から投書が来た。 投書の趣旨は、原子力空母寄港賛成論を朝日新聞に書いた竹山道雄さんは、あの美しい「ビルマの竪琴」を書いた竹山さんでしょうかというもので、いまだに原爆症で苦しんでいる人たちの言葉を一つ聞いたこともないのですかと多少感情的な投書だね。 このような投書が「ビルマの竪琴」を見たファンから多く来たというね。A氏:竹山氏はどういう対応をしたの?私:竹山氏は言う。 平和への心情と平和を守るための方法とは別問題である。 それなのに戦争か平和かの二分法で非武装を主張して譲らないヒステリックな姿勢を感ずる。 その姿勢は、戦争中は軍に追従し、敗戦後は軍人を悪し様にいい、マッカーサーを礼賛したかと思うと、今は反米というように代わっただけだ。A氏:表面的には変わっているが「昭和の魔法」と同じことを繰返しているんだね。私:そうとらえた竹山氏は、民主主義の脆さを実感して、煽動に乗せられやすい民衆への不振と、反共への意思をいっそう固めたという。 冷戦下の世界にあって、竹山氏にとっての平和とは「自由陣営」に留まり続けること、すなわち現状維持を意味したのだね。A氏:原子力アレルギーの日本人がこの頃、原子力発電を開始しているね。 平和のための原子力利用ということで、「平和の魔法」で反対もそうなかったね。 今ではいつでも日本は核武装ができるという脅かしになっているのにね。 IAEAの原子力の査察対象の3割が日本が原子力発電を核開発に転用していないかであるという。A氏:確かに「ビルマの竪琴」にかもしだされる戦争を嫌い、平和を祈念するという雰囲気は、場合によってはそういう抽象的な盲目的な平和ヒステリーを起こす一因かもしれないね。 その竹山氏が危険視したソ連のイデオロギーは、ベルリンの壁とともに崩壊していくね。私:しかし、それを見る機会はなく亡くなった。 竹山氏の死亡の翌年、「ビルマの竪琴」のカラー版ができるね。 全編ヒューマニスティックな人間愛に彩られた映画に仕上げられていたというね。 戦争の残虐性、アジア人の被害はきれいにヒューマニズムでカバーされているという。 このときのプロデューサーの一人が、後に2001年に「ムルカデ」という映画を作ったという。A氏:ムルカデ?私:ムルカデとはインドネシア語で「独立」を意味するという。 この映画は、敗戦後、武装解除と復員を拒否して、残留日本兵としてインドネシア独立戦争に参加し、彼らの功績によってインドネシアが独立を果たすまでを描いたものだという。 その2千人の日本兵の功績と半数の千人が戦死したことの慰霊が強調されているという。A氏:また、インドネシア民衆のことをよく知っていないで作ったんではないの?私:1942年3月1日に日本軍がジャワに上陸するところから、この映画は始まるらしいのだが、上陸の際、インドネシアの老婆をはじめとする現地の村人たちが日本の青年将校の足にひざまずくシーンがあった。 これなどは、「歴史の真実を歪め、国民の誇りとするインドネシア人の心を傷つける」としてインドネシア大使から削除の申し入れがなされたという。 大東亜戦争で亡くなった日本兵を慰霊し、この悲劇を二度と繰返さないというメッセージを伝えるには、常にその裏に犠牲になった現地人の心情を見失いやすいのだね。 この映画は2001年の制作だというからインドネシア人もあの戦争は未だに忘れてはいないんだね。
2007.05.30
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私:竹山道雄氏より13才下の会田雄次氏はビルマの収容所体験がある。 その体験記の「アーロン収容所」では痛烈なイギリス批判をしているね。 そして、最初、ビルマ人を温和な民族としているが、ショックなのは、日本兵の屍と動けなくなった戦病兵たちに数十人のビルマ人の女子供を交えた集団が日本兵を殺害して死体から金品を抜き取っていたのを見た体験を書いているね。 ビルマ人には諦めと忍従しかないとの会田氏の先入観は、ビルマ人集団の残虐性を目撃したことによって、覆される。A氏:日本兵の死体から金歯を抜き取るというのはアメリカ兵の実話としてもジョン・ダワー著「容赦なき戦争」にも載っているね。私:馬場氏はビルマ戦線の退役兵士たちの日英和解を書いている。 インパール作戦に参加経験のある平久保氏が1991年に激戦地のインド・コヒマに慰霊聖堂を作り、日英の戦争体験者が集まり、ミサを捧げたという。 そして集まった少数民族のナガ族の人々の前に、日本軍とイギリス軍の戦いの犠牲にしたことを詫びたという。 それに対して現地のインド人の司教は「あなた方の罪は赦されました」と宣言したという。A氏:ビルまでは建国の父と言われるアウン・サンは、最初、日本軍とともにビルマからイギリス軍を追い出すが、1945年には逆に反日戦線の指導者として日本軍と戦うね。 こういう背景について無視しているのは確かに「ビルマの竪琴」の問題点かもね。 泰緬鉄道建設では、ビルマの民間人が労務者として徴用され多くの死者を出しながら、補償、謝罪、埋葬もきちんとされなかったね。 「ビルマの竪琴」では、日英は「埴生の宿」の歌で分かりあえるが、ビルマおよびビルマ人は和解の舞台背景として放置されたままであるとして馬場氏は厳しく批判しているね。私:アウン・サン将軍の娘さんがノーベル平和賞をもらったアウン・サン・スー・チーさんだね。 今は軍事政権のために自宅軟禁状態になっているね。A氏:この本はビルマを問題にしているが、中国の問題はどう扱っているの?私:著者は、中国と日本の関係に侮辱と屈辱を克服して和解にいたる道はあるのかと疑問を呈しているね。 その一つに日中平和友好条約締結20周年を記念して製作された日中合作映画の話が出てくるね。 映画名は「チンパオ」といい、1999年公開したという。 日中戦争での日本兵と中国人の子供との交流が描かれているのだという。 日本兵にもいい人がいたことを描きかったためだという。 しかし、そのストーリーは中国政府担当者から何度も書き直しを命ぜられ、「いい日本兵が二人もいるはずがない。1名にせよ」「日本兵をもっと鬼のように描け」「虐殺の場面をもっと加えよ」と要求され撮影は困難を極めたという。A氏:しかし、20周年記念だから上映はされたんだろう。私:中国国内での上映許可はいまだに得られていないという。 日中共同制作では「人間の条件」「戦争と人間」「大地の子」などがあるが、いずれも中国では上映・放映はされていないという。 竹山道雄は「ビルマの竪琴」を構想するにあたって、最初は作品の舞台を「シナ」の戦場に設定し、そこで合唱による和解という筋立てを考えたがうまくいかず、断念したという。 日中には共通の歌がないというのが理由だそうだが、それだけではないかもしれない。 現に、中国のシナリオ作家は映画「ビルマの竪琴」をみたとき、色をなして「これは侵略軍の兵士の鎮魂の映画に過ぎないのではないか。侵略された側のことを考えないのだろうか!」と異を唱えたという。A氏:竹山氏が「シナの竪琴」を書かなかったことは幸いだったのかもね。私:馬場氏もそう言っているね。 ところでさっきの合作映画「チンパオ」の日本での公開の翌年、中国側主導の合作映画「鬼が来た!」が製作されたという。A氏:和解の映画かね?私:やはり、日本人は悪というパターンが中心だという。 戦後、60年、日本人は平和を守り、戦前の日本と違うと言っても、中国人から見ると、いつか軍国主義に豹変するか分からないという日本人のイメージを捨てきれないようだね。 それに対して、日本人から見た中国には迎合的な微笑の陰でどんな貪欲な野望を潜ませているかわからず、明哲保身のために相手を併呑することも厭わない大国のイメージが投影されていると馬場氏は言う。 明日は、ベトナム戦争のとき、アメリカの原子力空母の佐世保寄港をめぐってこれに賛成した竹山氏に対して、「ビルマの竪琴」で竹山ファンになった人々から「裏切られた」という騒動にふれよう。
2007.05.29
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私:この本は「戦争の記憶を歩く:東南アジアのいま」にリンクした知的街道だね。 しかし、読んでみたら、戦争責任がからんでいてその知的街道に踏み込むことになったね。 戦争責任と戦後史を小説「ビルマの竪琴」を使ってうまくまとめているね。 広くバランスの取れた本で、感銘を受けたね。 ところで君は「ビルマの竪琴」を知っているかい?A氏:映画で見たね。 確か、白黒だね。私:俺も本では読んでいないね。 映画だね。 2回映画化されていて、2本目は中井喜一主演のカラーだね。 カラーはテレビで放映されたのを見た記憶がある。 原作はいろいろな賞をもらっているんだね。 作者の竹山道雄氏について、俺はよく知らなかったんだが、この本でよく分かったよ。 その意味でこの本は「竹山道雄外伝」だね。A氏:ウィキペディアによると1903年-1984年とあり、ドイツ文学者で戦争中は第一高等学校の教授だね。 だから敗戦のときは41才だね。私:自分の教え子が学徒動員で出征し、戦死する。 だから、この世代の知識人は、何故、あのような軍国主義の全体主義に対して抵抗しなかったという負い目があるね。 われわれ世代は、大人にだまされたで済むのだがね。 竹山氏は、戦時中にすでにナチスに対しては危機感を持っていたからなおさらだね。A氏:ダイの大人が「昭和の魔法」になんとなくかかった悔しさだね。私:だから、竹山氏は戦後、ソ連のスターリニズムにその全体主義の「魔法」の匂いを感じて、反共となるね。 大学紛争での学生の行動がかっての軍国主義時代の若い軍人の行動を思い起こさせたんだね。 これはわれわれ世代のように戦争中の雰囲気を知っているものは、学生運動に違和感を持ったね。 われわれとほぼ同世代の養老孟司氏は、大学紛争で学生たちが竹槍で士気高揚の訓練をしているのを見て、軍国主義時代の「魔法」を思い出したというようなことをどこかで書いていたね。A氏:「ビルマの竪琴」では、停戦を知らずに別の部隊を救出しようと隊長は水島上等兵を伝令で送る。 しかし、彼は帰らない。 この部隊は包囲したイギリス軍を油断させるために「埴生の宿」を合唱する。 すると包囲したイギリス軍は「スイート・ホーム」を歌う。 それで停戦を知り、隊長の機転で武装解除して助かる。 捕虜となった隊員たちはあるとき、水島らしい青いインコを肩に載せ竪琴を持ったビルマ僧に出会うが、本人かどうか分からない。 部隊は帰国の日を迎えたとき、収容所の前でその僧は「仰げばとうとし」をひいて無言で去る。 帰りの船で隊長に託された水島の手紙を読む。 そこに水島が僧となってビルマに残る理由が書いてある。私:水島は伝令の帰りにビルマ僧に身をやつして部隊に帰ろうとするが、途中で出くわした放置された日本兵の累々たる戦死体に唖然とする。 イギリス軍が建てた「日本兵無名戦士の墓」を見て、ビルマに残り真のビルマ僧になり、戦死者の遺骨収集・埋葬とビルマ国民のために身を捧げるというものだね。 俺が見た白黒映画の最後のシーンはいまだに目に焼きついているね。 それはビルマ僧の水島が一人ビルマの荒れ野を歩く姿だね。A氏:この物語は竹山氏が戦地体験もないし、ビルマに取材したわけでないし、戦記文学でなく、戦争に題材を求めた児童文学だね。 空想の世界で作ったので、事実はいろいろ批判されたようだね。私:戦争責任というトラウマと戦死者に対する慰霊を、ビルマという近代に毒されていない温和な穏やかな未開の地域を癒しの場として道具にされたと馬場氏はいう。A氏:ウィキペディアによると竹山氏は戦前、ベルリンとパリなどに3年留学しているね。 しかし、日本の知識人によくあるように、足元のアジア人のことはよく知らないみたいだね。私:そこをつかれているね。 ビルマでは僧侶が竪琴で楽曲を演奏するのは破戒行為だというし、ビルマの民族楽器である竪琴にイギリスの歌曲の和音が演奏できるはずはないとか、ビルマ仏教では遺骨収集や墓葬、墓参は執着しないという。 勝手にビルマ人を素朴な民として描いていて、彼らの反日感情を無視しているという。 日本兵を慰霊するには東南アジア人の犠牲とセットにしないと問題なんだね。 明日は、その点から馬場氏がとりあげた中国を含めた戦争責任にふれていこう。
2007.05.28
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A氏:今朝の朝日新聞のトップは「タクシー参加一部制限」だね。 ただし、激戦の地方に限り、かつ、時限的だというね。 沖縄は02年から06年で参入規制が行われていたんだね。私:規制緩和は競争によりタクシー利用者が便利になるという宣伝文句だったが、すでに地方は値上げになっているところもあるという。 規制緩和の失敗作だね。 俺のところも値上げの噂があるが、参議院選挙まで引き延ばしらしいね。 問題はタクシーで病院通いをしている老人などの弱者だね。 しわ寄せがこういう弱者に行く典型的な失敗だね。A氏:確かに、今回、参入規制を始めたのは、運転手の年収減少の防止だけでなく、事故がこの10年で65%増加が原因だという。 要するに、規制緩和で利用者が便利になるという逆の現象が出ている。 地理さえ分からない運転手が増加しているという。 新聞では「規制緩和自体は消費者に利益をもたらした」と書いてあるが、おかいしね。 タクシーは明らかに「消費者に利益をもたらしていない」ね。 どうしてこうなるんだろうね。私:規制緩和で消費者に利益をもたらすというのは、規制緩和で競争が激しくなる。 そのために消費者のために各企業は価格やサービスの向上に努力するから、ムダがなくなり、コストが下がるということだね。 改善や技術革新がないと不可能だね。 この競争に対応できない企業は破産して整理されるという筋書きだね。A氏:それが何故、うまくいかないだね。私:改善や技術革新のネタが少ないのがタクシー業の特徴だね。 製造業と違い知恵を出すネタが少ないね。 今週の日経ビジネス(5月28日)では加藤寛氏が産業再生機構を利用して期限付きの国営タクシー会社として再生すると言っているね。 しかし、国営にしたから急に知恵が出るという業界ではないだろね。 とりあえず、タクシーのコスト低減で問題になるのは、実車率の向上だね。 実際にお客が乗っている率だよ。A氏:駅前などにずらりと並んでいる空きタクシーがあるからね。 以前、ある地方の駅でよく見かけたんだがヒマをもてあまし、のんびり将棋を指していた運転手グループがいたね。私:新聞によると実車率の減少が15パーセント以下なら緊急事態だというね。 しかし、もともと実車率が低い業界だね。 運転手の給与もよいタクシー会社の事例がテレビであったが、それは流しをしていないで客の依頼で車が動くというやり方できた会社だね。 実車率がもともと良かった会社だね。 もともと競争力が強い特殊な事情があるね。 この方式で流しを各社がやめたら、今度は消費者が不便になり、実車率がさらに低下するかもね。A氏:タクシー会社であまりつぶれた会社はないようだね。私:数字は知らないが、タクシー業の場合、歩合だからだろうね。 経営者には直接、実車率の低下は響かないのではないの。 運転手の給与ダウンと労働条件の低下という犠牲で経営はしのげるだろうからだろうね。 運転手は他に転職できる先がないから我慢するしかない。 しかし、今度のガソリンの値上げは経営を直撃するだろうね。A氏:観光バスも事故の増加など同じ現象が出ているようだね。私:これも料金競争で料金を下げると運転手の給与や労働条件の低下になるね。 タクシーの二の舞にならないことを期待したいね。
2007.05.27
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A氏:先週の日曜日(20日)のサンディー・プロジェクトは面白かったね。 改憲問題で田原総一郎が土井たか子と対談し、その後、自民党の国民投票法をまとめた船田元衆議議員と民主党の枝野議員の2人との対談をしたね。私:俺は録画して後で見たよ。 土井氏は、改憲反対というのは誤解を招きやすく、憲法改悪が反対なのだという。 現在の憲法で改善すべきはする必要があるという。 いつまでも政府の解釈で運用するのは問題だという認識はあるようだね。 自衛隊も存在は認めるということだね。A氏:田原氏もあまりつっこんでいなかったね。私:コメンティーターのほうから質問があり、今度、国民投票法が決った。 社民党も今の憲法を守るなら、国民投票で多数をとるような運動をすれば、今度こそ、押付け憲法だという保守派の論理を跳ね返えすことができるチャンスではないかと質問していたね。A氏:続く、船田氏と枝野氏の2人と田原氏との対談は面白かったね。 二人は国民投票法で政党を超えて共同で歩み寄りをした仲だね。 それが、最後の土壇場で安倍首相と小沢氏の反目で、共同の提案といかず、国民投票法は与党単独採決になってしまったね。私:民主党の枝野氏は、今回、小沢氏が対立姿勢に転換したのは、安倍首相が今年の年初の挨拶で今度の参議院選挙で改憲を争点にすると言ったことが原因だという。 その挑発に小沢氏が乗ってしまった。A氏:船田氏は、以前、小沢氏が自民党にいた頃の部下だった。 だから、何故、政界の荒波を長年泳いできて、手練手管に詳しい小沢氏が、何故、安倍首相の挑発に乗ったのかと田原氏が質問したね。 それに対して、船田氏は、小沢氏は手練手管でなく案外、真っ直ぐに反応するタイプだというようなことを言っていたね。私:逆に安倍首相が、何故、参議院選挙で改憲を争点にするといったのか、という田原氏の問に対して、船田氏は、安倍首相は正直だからつい言ってしまったのだという。 枝野氏は憲法改正には三分の二以上の国会の勢力が必要なのに、その見込みが十分あるわけでないのに、争点にするという論理がおかしいというね。A氏:枝野氏は、憲法は政権が変わっても守るべき内容を決めるのだから、できるだけ超党派的な検討が望ましいのに、安倍首相の姿勢では打ち壊しだという。 今の情勢では、憲法は改正するにしても、国会の三分の二の賛同を得るまでには、今の安倍、小沢党首世代では無理だろうと見ているね。私:サンディー・プロジェクトは日曜日(20日)だったが、翌21日の朝日新聞朝刊では、この朝日テレビの番組での船田氏の発言を記事にしているね。A氏:見出しが「改憲が争点『首相言い過ぎ』」だね。船田氏の発言は「首相の考えだと与党が参議院選で三分の二以上とらないと論理がおかしくなる。 参議選の争点にするというのは言い過ぎだ」とあるね。 船田氏はテレビ朝日の後、衆院憲法調査特別委員会理事らによる討論会に出席。 阿部首相が集団的自衛権の解釈改憲も視野に入れた有識者会議を立ち上げたことについても、本来なら憲法を改正して、集団自衛権をどこまで認めるべきかを議論すべきだと言っているという。私:従来の集団自衛権の解釈をさらに再解釈して集団自衛権を認めるのは本末転倒で、それが通るなら憲法改正はいらない、と皮肉ったと言うね。A氏:枝野氏は自民党の中では、船田氏の考え方に賛成する人は20%,安部首相に賛成する人は10%、後は様子見だという。私:ところで、今度の国民投票法では、最低投票数の制限がないというので、マスコミが問題になっている。 しかし、別な見方をすると、重要な憲法の賛否に国民が棄権することを恐れるというのは、ある意味で国民をバカにするということになる見方もあるね。 憲法改正に反対するほうも、棄権を呼びかける戦術に出る恐れもあるしね。A氏:フェアでなくなる恐れがあるということか。私:「敗戦で得た唯一の宝物は憲法だ」は厳密に言うと違うと思うね。 日本の兵隊は「平和民主憲法」を獲得するために命を賭して戦ったのではないからね。 マッカーサーを中心とするアメリカの占領政策の産物(その1、その2)であることは明らかだね。 占領時代が産み落としたこの子供はもう還暦をすぎたのに、いまだに頭痛の種だね。
2007.05.26
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A氏:一昨日の朝日新聞の夕刊は例のジェットコースター死傷事故に関連して、「年1回の探傷4割怠る」というトップ記事があったね。 そして3面にまたデカデカと年1回の探傷試験をしていなかった全国の各遊園施設の名前をリストアップしていたね。私:これは俺も興味があって、このブログでその1、その2、その3と続けて書いてきたが、どうも話が変な方向にそれているね。 この探傷検査をしていないから安全管理が怠慢だという直線的な思考はおかしいと俺は思うね。 新聞では安全工学専門の清水教授のコメントがちょっと掲載されていたね。A氏:清水教授は「法基準があいまい」としているね。 「コースターごとに構造が違い車軸にかかる力も違うのにJIS基準が一律に年1回の点検を求めているのは施設側への説得性を持ちにくい要因だろう」とね。私:立ち席のコースターは横揺れがひどく、車軸にかかる力は普通のコースターより強いだろうね。 だから、特別の管理が必要で、7、8年くらいで交換している遊園地があったね。 JISには交換要求がないね。 それに金属疲労は、強い力がかかる場合、1年以内に金属疲労が発生するかもしれない。A氏:探傷検査万能はおかしいと思うのが普通の常識ではないのかね。私:それに今年、設置して1,2年たったばかりの立ち席コースターと10年たつ古い立ち席コースターでも、一律1年最低1回の探傷検査で車軸の安全は保障できるのかね。 逆に設置して1,2年たったばかりの立ち席コースターに早くも金属疲労が出る恐れがあるのかね。 そんな車軸の設計をしていないはずだよ。A氏:そうだね。 げんに「エキスポランド」の立ち席コースターの車軸は交換なしで16年間もったんだよ。 それに探傷試験は高価で高度の検査機でやるので扱うのもかなり面倒なのではないの? 正確な検査には熟練も必要だろうしね。 清水教授は検査機関の共有など実効性のある対策を検討してほしいとコメントしているね。私:その方向での突っ込みが取材記者にないね。 最低16年もつならば、新設の立ち席コースターの車軸については数年くらいは目視点検くらいで安全管理上は十分だという事実を示しているね。 逆に、探傷検査をしている6割の遊園地では、どのような探傷検査をしているのか、知りたいものだね。 その報道はない。A氏:岡山にある「鷲羽山ハイランド」は探傷試験をしていなかったが、「金属疲労には交換が最も効果的。毎年、法定検査を届けていたので問題ないと思っていたが、認識が甘かった」とあるね。私:交換しているほうが安全意識が高いと俺は思うがね。 この場合、問題なのは交換したほうが安全だと安全管理者が自信を持って発言していないことだね。A氏:清水教授のように「JISは安全管理上、十分でない」くらいのコメントをすべきだよ。私:施設側がそんなことを言ったら、マスコミにもっと叩かれるね。 あやまっていたほうが無難だね。 探傷試験ヒステリーだからね。 安全管理についての冷静な、建設的な議論はできない。A氏:例の不二家の騒動に似ているね。私:不二家と言えば、一昨日の朝刊の経済欄に「瀬戸際、不二家はどう動いた」という記事を大きく扱っていた。 「その視点」という囲み記事で担当記者が署名入りで次のように書いている。 「不二家問題が発覚したとき、『隠蔽』と聞いて『悪質だな』と感じた。 その先入観が記事の客観性をゆがめなかったか、複雑な思いはある(後略)」 とあるね。何をゆがめたのか、複雑な思いとは具体的に何なのか、新聞側の反省は松岡農林大臣同様に不明確だね。 この先入観がヒステリーだね。 冷静に事実が見えなくなる。 ジャーナリストが最も避けるべき姿勢だね。 今度の探傷検査ヒステリーにそれを感ずるね。 シュレッダー事故(その1、その2、その3、その4)ヒステリーも似ているね。
2007.05.25
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私:この本をべた褒めした書評を見て図書館に予約したが、待ちが長く、ようやく順番が来たよ。 その前に同じ著者の「クライム・マシーン」を読んでいたがね。 これはその続編だね。 14の短編が集められているね。 一昨日、熊谷まで用事で往復した4時間の電車内で読了したよ。 A氏:例により、軽いタッチの短編かね。私:前回、俺はブログで「クライム・マシーン」で落語の「落ち」と比較した感想を書いたんだが、驚いたことにこの本の訳者もあとがきで落語との比較を次のように述べていた。 「軽い噺のほうが実はむずかしいのだ、と言う落語家がいます。 前座噺をさらりと演じて爆笑をとるのは生半可な腕でできるものではない、と。 しかしその一方で、軽い噺の専門家に対する一般の評価は必ずしも高くはありません。 名人上手ともてはやされるのは、やはり人情噺や大演目を十八番とする落語家のほうです。 ジャック・リッチーもまた軽い話を生涯語り続けた男でした」A氏:なるほどね。 落語をたとえに使うとは、偶然の一致にしてはよくできているね それで軽いタッチで電車の中で読めたかね。私:ところがダメだったね。 この本の第一話は、「妻を殺さば」という題名で、その最初の第1行が「結婚して三ヶ月、そろそろ、妻を殺す頃合だ」で始まる。 ギョットしたね。A氏:軽いタッチではないの。 何故?私:毎日、マスコミで例の福島の嗜虐的な母親殺しをやっているので、強烈なインパクトがあったせいだと思うね。 「クライム・マシーン」のときはまだ、スラスラ読めたがね。 隣の部屋にいた殺人者の弟はいまだにショックだそうだね。A氏:彼の短編は殺人が多いのだろうが、親殺しはあるのかね。私:ないね。 ましてや、姉を殺して死体をバラバラにしたり、残虐な母親殺しをしたりというのは、リッチーの好みではないらしいね。 この「妻を殺さば」というのは1971年に映画化されているそうだが、小説の内容からして残虐なシーンはないと思うね。A氏:アメリカ映画でも、「コレクター」「セブン」「羊たちの沈黙」「ハンニバル」のような残虐なミステリーやホラー映画が盛んになるのは、ベトナム戦争のあたりからかね。私:リッチーの軽いタッチの殺人噺は、もう、現実の殺人のイメージのほうが重くなりすぎて、なんかなじまなくなってきたような気がするね。A氏:落語の前座噺としては読めないかもね。私:「事実は小説より奇なり」でなく「事実は小説より過激に奇なり」だね。 時代の流れかね。 気味の悪い世の中になってきたね。
2007.05.24
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その5.ジョン.フォスター.ダレス私:ダレスは1951年9月8日の対日講和条約と日米安全保障条約を調印するまで、各国の合意に至る交渉過程の中心人物だね。 1888年生まれでプリンストン大学を出て法律事務所に就職。 その後、政府関係の法律顧問などをする。 1948年に民主党のトルーマンが大統領になり、国務長官はアチソンになったが、彼は共和党との対立があった。 そこで、トルーマンはダレスのような著名な共和党員を国務省に迎えることは超党派外交の継続を国民に示すことだと考えた。 アチソンはダレスを嫌っていたが、大統領の承認を得て、1950年3月にダレスを最高顧問に任命し、5月18日、アチソンは対日講和条約締結の責任をダレスに委ねた。A氏:サンフランシスコの講和会議が1951年だから約1年ちょっとの大仕事だね。私:まず、当時、中国で共産党軍が優勢であるという状況から日本の中立化に反対する国防総省との問題があった。 国防総省は日本の基地をそのまま維持し、日本の講和条約締結は急がないでもよいという考えであったようだね。 国務省のほうは、吉田内閣も日本国民もアメリカ軍駐留に代表される主権侵害を望んでいないことを承知していた。 日本の政治家はマッカーサーの専制政治にはウンザリしてきていた。A氏:吉田首相は日本国内に何らかの形でアメリカ軍が残ることは、早期の主権回復のために避けられないし、そのためにソ連や共産中国が講和条約へ不参加となり、「全面講和」ができなくても止むを得ないとしていたね。私:ダレスは6月に訪日し、マッカーサーと会う。 マッカーサーは講和がこれ以上遅れることは反対だとし、アメリカ軍の大量の基地を置くことは反米に利用されるので反対だと言った。 また、日本の再軍備計画にも反対した。 しかし、同時に来たジョンソン使節団との妥協で、マッカーサーは自らの再軍備論の立場をやわらげる方法として憲法の戦争放棄条項は日本の自衛権を否定するものでないと提案をした。 一方、ダレスは、吉田首相と会ったが、再軍備には吉田はあいまいであったという。 吉田首相は言う。 「日本人は独立を望んでおり、ほっておいてほしいし、占領も好きではない。 特に労働者に対するドッジ・ラインの影響は好ましくない」 ダレスは失望し、次のようにまとめているという。 「日本人は再軍備すべきでないが、長期にわたってアメリカに守り続けてもらいたいと考えている」。A氏:今と基本的にあまり変わらないね。 しかし、このダレスの訪日直後に朝鮮戦争が始まるね。私:朝鮮戦争が流れを大きく変えた。 再軍備反対のマッカーサーがすぐに警察予備隊を編成する。 ダレスと国防総省との意見が一致し、また、日本側の「単独講和」に対する抵抗は抑えられた。 こうして、ダレスは次に極東委員会構成国と非公式の交渉に入った。 当然、多くの国の反対が多かったが、ソ連と共産中国を除けばなんとか基本的なことは了解が得られると確信するようなる。A氏:しかし、朝鮮戦争は一時、連合軍が負けそうになるね。私:そうなると、国防総省は日本占領を延長して講和を急ぐべきでないと主張が変わる。 しかし、マッカーサー交代後、停戦となり国防総省の意見も落ち着く。 トルーマンがダレスを大使級の扱いに昇格したことにより、各国との調整は進む。 日本との交渉は2月に吉田首相と行う。 そして日米安全保障条約と行政協定の2つの日米の単独協定を結ぶことを提案する。 各国の調整で問題になったのは意外にイギリスであった。A氏:一番、友好国のイギリスが何故?私:イギリスは労働党内閣で、中国共産党の北京政府を正統な中国と認め、講和条約への参加を提案していた。 そこでダレスは共産党政府と国民党政府の両者をサンフランシスコ会議には出席しないという妥協案で調整した。 国民党政府が出席しないことは、アメリカのチャイナロビーの影響を受けている共和党議員の反対があった。 そこで、講和条約が終わったら、日本と国民党政府の2国間講和条約を締結することで了解を得た。 最初、国民党政府を選ぶか、共産党政府を選ぶか、アメリカとイギリスの間に挟まれた吉田首相の態度はあいまいだったが、国民党政府と2国間の講和条約を締結しないとサンフランシスコ条約のアメリカ議会の承認が遅れ、日本の独立は遅れるおそれがあると吉田首相は考えた。A氏:アメリカ議会での対日講和条約は1952年3月20日に批准されるね。私:日本は1952年4月28日の対日講和条約発効のわずか7時間前に国民党政府との2国間講和条約に調印した。 これが日華平和条約だ。 両国とも簡単に批准され1952年8月5日に発効した。 対日講和・安保両条約の発効に続いて日華平和条約が批准された。 これは、ダレスにとってアメリカが支配する戦後世界秩序の中に日本を再統合するという自らの計画が完成したこと意味するね。 こうして戦後日本の針路は大きく決まったね。 ダレスは1953年のアイゼンハワー政権で国務長官になるが、1959年、ガンで国務長官を辞し、同年死去した。 71才。
2007.05.23
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その5.ジェセフ.M.ドッジ 私:1891年生まれで大学は出ていないが金融関係の仕事につき、1933年にはデトロイト銀行頭取となる。 第二次大戦でドイツが敗れ、その金融体制が崩壊したとき、アイゼンハワーの要請でドッジはドイツ経済復興の経済財政顧問となる。A氏:彼はどういう経済思想を持っていたの?私:完全雇用には反対で、仕事の機会を得るための競争があることで労働者の生産性は向上するという考えだから、社会福祉や公共事業への政府の支出は高価で危険な贅沢だと批判していた。 だから、労働組合を弱体化させ、安価な労働力の供給源を創出を歓迎していた。 ところで、日本は戦後、占領後3年たつがものすごいインフレを経験して、経済が崩壊状態となる。A氏:日本を「アジアの工場」とするアメリカの計画の失敗だね。私:この問題を解決するために、1948年12月11日、トルーマン大統領はホワイトハウスの会議にドッジを招き、日本の経済状態は危機的であり、この問題を扱えるのはドッジだけだと言ったという。 こうしてドッジ使節団が編成され、1949年2月1日に東京に着いた。 早速、日本の国家予算を均衡させることに集中的な検討に入った。A氏:当時の蔵相は後に総理になる池田勇人だね。私:一般会計は黒字だが、特別会計による大きな政府支出が赤字で、これが問題であった。 使節団が作成した予算案は、公共事業費、企業への補助金、公務員の人件費などの削減による均衡予算だった。A氏:いわゆるドッジ・ラインだね。私:国鉄の大量の人員削減に対して暴力的なストライキが懸念された。A氏:ここで例の下山国鉄総裁が轢死する下山事件がおきるのだね。私:1ドル360円に為替も固定化された。 経済復興優先で吉田首相はドッジ・ラインとは基本的に合意していたが、税制、公共事業への融資、失業と賃金政策、小企業への政府援助を減少するというドッジ・ラインとは基本問題で対立した。 このため、吉田首相はGHQの命令でないとやらないという方法をとったという。 責任をGHQに転嫁した。 ドッジと直接交渉したのは池田蔵相であったが、押し切られた。 共産党のドッジ・ラインに対する挑戦も、レッド・パージで弱体化していた。 4月にドッジはアメリカに帰るが、ドッジ・プランの実行をアメリカで監視していた。A氏:効果はどうだったんだね?私:インフレ抑制には多少効果があったが、世界的な経済停滞があり、輸出は減り、まだ、問題は解決しなかった。 このため、1949年10月末にドッジは2回目の訪日をする。 彼は、究極的には、低価格で質の高い生産をこなすことこそ国際競争力を強める唯一の答えだという。 そして、1949年度の補正予算と50年度予算案の了解を得て帰国する。 しかし、日本ではドッジ・ラインの実行で中小企業の30%が倒産に追い込まれ、倒産を免れた企業も従業員を解雇したり、賃金を未払いにしたりしていたという。 ごうごうたる反対を押さえて、5月に与党はドッジ予算案と税制を国会で成立させる。A氏:ドッジ・ラインの評価はどうだったの?私:行き過ぎだという評価があるし、実際にドッジの指示に反して日銀の融資が裏で行われ、これでドッジ・ラインの最悪の結果から免れたという点もあるね。 それに新聞からは強い批判、組織労働者と野党からは反抗的な態度、内閣と与党からは隠れた批判を呼び起こしたとして、国務省はアメリカの立場を弱めたと考えた。A氏:降伏以来、はじめてアメリカの支配に対する日本の広範囲な政治的抵抗が起こったんだね。私:その行き詰まりを解決したのは予期しなかった1950年6月に勃発した朝鮮戦争だね。 これで救われた。 それ以後は、ドッジは日本の輸出拡大に努力するね。 1949年から51年の2年間、ドッジは4回訪日する。 1954年ドッジはデトロイト銀行に復帰し、1964年、74才で死ぬまで勤め続けた。 1962年、天皇はドッジに勲章を授けた。 皮肉なことに、ドッジ・ラインの後の10年間、日本はドッジが反対した国内政策に徹した。 所得倍増政策を行い、急速な経済成長を果たすね。
2007.05.22
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その4.ウィリアム.H.ドレーパーJr.私:この人も占領政策に影響を与えた人としてあまり有名ではないようだね。 日本の経済面での「逆コース」で中心的な活動をしたということで、保守派からは絶賛され、リベラル派からは批判されたという。 1894年生まれで1940年、大佐として陸軍参謀になる前は、ウォール街の金融界を代表する人物としての地位を確立していたというから、経済に詳しいんだね。 最初、日本通ではなかった。 1947年、トルーマン大統領はドレーパーを陸軍次官に任命した。 すぐに日本に飛ぶ。A氏:敗戦後2年、日本経済がどん底のときだね。私:彼は日本の経済状態が崩壊的であることを知る。 このときすでに「日本経済の復興」計画がきまっており、ドレーパーの役割は日本はアジアの近隣諸国から原材料を輸入し、それと引き換えに工業製品を輸出する工業化された日本を作り上げることが前提であった。 だから、ドレーパーはそのためには財閥解体や賠償政策に代表される日本に厳しい経済改革政策を、早急に、しかも根本的に変えなくてはならないと確信する。A氏:逆コースだね。私:ドレーパーは経済復興を他の占領政策と結びつけた「日本の経済復興」という文書を作成する。 日本の経済復興を達成するためにアメリカは「力点の移行」をすべきという。 しかし、国務省の反対にあうね。A氏:国務省は日本の改革に強硬な国が多い連合国の極東委員会との関係を配慮する必要があるからね。私:しかし、その国務省内でドレーパー支持者として政策企画室長のケナンが同じ考えを主張し出す。 ドレーパーの最初にすべき問題は厳しい財閥解体を防ぐことで、これは国防長官と陸軍長官が同意したので、マッカーサーに集中排除法の国会審議を遅らせるように打電したが、マッカーサーはにべもなく拒否した。A氏:マッカーサーは自分の大統領候補選とのからみの判断だね。私:ドレーパーは、ハリー・カーンと慎重な協力関係を築いた。 また、共和党の上院議員のノーランドはドレーパーの有力な同調者であった。 「綿花議員」であるノーランドは、アメリカの余剰原綿を買ってくれる日本の繊維産業を発達させるように活動していた。 1948年になると陸軍長官のロイヤルは過度の財閥解体と公職追放は日本経済の自立を遅らせると強調し出す。A氏:強硬な極東委員会はどうなったんだね。私:1月21日、極東委員会でアメリカ代表のマッコイ将軍はドレーパー案を読み上げる。 これにより、初期対日方針は葬り去られ、「逆コース」と経済復興が連動した。A氏:マッカーサーは認めたの?私:逆だね。 まだ、大統領候補選挙が控えていた。 そしてケナンが3月に訪日し、マッカーサーと会う。 ケナンは帰国後、マーシャル国務長官にマッカーサー非難を報告する。 そして、ドレーパーはマッカーサーの取り組み方を変えさせるため、財界人を含めた使節団を編成し、日本に乗り込む。 これが有名なドレーパー使節団だね。 この間、日本に援助資金を提供する法案、綿花を供給するノーランド法が第80連邦議会で審議されていた。A氏:なるほど、当時の日本の輸出産業の中心は繊維産業だ。 これを回復させるため、綿花をまず供給する。 それには日本にドル資金が必要だというわけか。私:ドレーパーとマッカーサーとの会見で、ドレーパーが早期に日本は小規模の防衛軍を創設するという陸軍省の一般的な考えを示した。 これに対して、マッカーサーは再軍備はアメリカの国際的公約に反しており日本国憲法の戦争放棄にも抵触すると反対する。A氏:今も社民党は自衛隊は違憲だと言うね。私:結果的にドレーパー使節団は使命を果たして終わるね。 議会では日本への資金提供はかなり減額されるが承認される。 ノーランド法も承認されるが、実際に原綿が海を渡るのは翌年であった。 トルーマンは1948年5月に六千万ドルの原綿融資を承認する。 その後、ドレーパーは1949年まで陸軍次官として活動する。 そして今度は追放解除を執拗にマッカーサーに迫り続ける。 日本の経済発展には優秀な経営者が必要だからだ。A氏:しかし、高いインフレなど日本経済の悪化は続くね。私:そこでドレーパーはデトロイト銀行頭取ジョセフ・ドッジに日本の経済安定計画を監督することをアメリカの政界に訴えた。 ドッジはドイツ占領地域の経済問題をドレーパーとともに担当した人物だ。 1949年以降は、ドレーパーは日本の復興を促進しいろいろな機関にロビー活動を行うね。A氏:ドッジはドッジ・プランで有名だね。私:いよいよ、ドレーパーの後を受けてドッジの登場だね。 明日はドッジに移ろう。
2007.05.21
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その2.T.A.ビッソン 私:吉田首相はアメリカ占領軍のあるグループを「彼らは頭にある革新論を実験する試験場として占領中の日本を利用しようとした」が、うまくかわしてこれから逃れることが出来たとその「回想十年」で言っているという。 彼らの活動は警察の地方分権化、労働基準法制定、公職追放、反独占政策などのワシントンからの指令を熱狂的に解釈した結果であるという。 その熱心な推進者の代表的な一人としてあげられているのが、トーマス・アーサー・ビッソンだね。A氏:あまり、占領史では知られていない人のようだね。私:彼は1900年生まれで神学の修士号をとり、中国に宣教に行き、ここで中国国民革命に巻き込まれ、1928年にアメリカに帰国し、外交政策協会の仕事をするようになる。 中国人民アメリカ友の会の機関紙の編集委員となり、ペンネームで中国共産党の指導力を賛美した。 1937年の日中戦争開始となると、日本の帝国主義を当然、批判するね。 1942年に経済戦委員会に勤め、次に太平洋問題調査会で働くことになり、機関紙に多くの論文を掲載する。 彼は日本の民主化には天皇制の廃止、財閥解体が必要だと論じていた。A氏:彼は占領軍に入るのかね。私:1946年に総司令部のGSに入り、「マッカーサー憲法」の成立に関わる。 この日本訳でビッソンは日本政府の巧みな抵抗に不満を持つね。 財閥の動きについて専門知識を持っていたので財閥解体の指令をつくりあげる。A氏:これも結局、甘い処理になったね。私:その間、日本のインフレはものすごく、労働争議は増加し、ついに有名な1947年2月1日のゼネストになる。 ビッソンはゼネストを認めるべきだと主張するが、マッカーサーは、経済崩壊を恐れ中止を命令する。 例の熱烈な反共主義者のGHQ・G2のウィロビーは左翼的なビッソンを共産主義者だと攻撃し出す。 失望したビッソンは、GHQをやめ、1947年4月、アメリカの大学の研究所に入る。A氏:共産主義的な人は、その後、アメリカでは攻撃されるね。私:彼も共産主義者の疑いで1952年3月、議会に喚問される。 こうして彼は一時追放状態となるね。 1979年、心臓発作のために死亡。 彼の挫折論文と日記は「敗戦と民主化」と「ビッソン日本占領回想記」(古書)で和訳があるね。 その3.ジェームズ.S.キレン私:1947年2月1日に有名なマッカーサーによるゼネスト中止命令があるね。 マッカーサーは、ゼネストに寛大だった総司令部労働課長のコーエンを左遷した。 そしてキレンが就任する。 アメリカの対日政策立案者は、戦争中から日本の資本家階級の力を抑え、労働者の賃金をあげることができるような強力な労働運動を望んでいた。 だから、占領政策も当初から労働組合の組織化、労働条件向上の法的支援などをしてきた。 ところが、強力な労働運動が占領の最初から続発し、その急進主義に危険を感じた総司令部は1946年以降、企業経営者が戦前の搾取的な労使関係を一部再構築させるように支援した。 穏健な労働組合の育成だね。 これに関係した人がジェームズ・S・キレンだね。A氏:どういう人?私:キレンは1908年生まれで、アメリカ労働総同盟系の国際連帯パルプ硫安製紙労働組合副委員長だったが、1947年4月に総司令部労働課長に就任した。 日本の労働運動を強化しつつ、運動内部の共産主義と戦うことに全精力を傾けたという。 キレンの最優先の仕事は日本の労働運動の左旋回を防ぐことになった。 しかし、キレンは激しい労働運動の底辺に日本経済の貧困があることを痛感するね。 最低限の衣食住を得ることさえ極端に厳しいという日本の労働者の状況をキレンは48年2月に本国に書き送っているという。A氏:アメリカ本国では占領政策の大きな転換、「逆コース」が始まる頃だね。私:一方、日本ではその組織労働者の三分の一を占める官公庁労働者の間での積極行動主義が高まる。 共産主義の防波堤として日本を復興させようとする決定とぶつかった。 そこで民生局の公務員課長フーバーは、この労働者の不穏な情勢を簡単に解決する方法として、公務員は組合を組織できるがストライキは禁止するという法令の施行を考える。 国鉄のような公共事業体も同様だね。 しかし、キレンは反対した。A氏:マッカーサーはどうだったの?私:1948年7月2日、マッカーサーと参謀たちの前で6時間にわたってキレンはフーバーと対立した。 しかし、マッカーサーは、結局、フーバー案を採択した。 当時の芦田内閣はこの指示を効果的に使って組合を抑えた。 1948年12月、国家公務員法改正が国会を通過した。A氏:キレンは嫌気がさしただろうね。私:彼は、総司令部の反共的な労働政策は実際は反労働組合政策であるという厳しい非難声明を出した。 最高司令官にたてつく者の運命は明確だった。 マッカーサーはキレンを数日中に離日させるように命じたという。 帰国後、キレンはまたアメリカの組合活動にもどることになる。 その後、本国ではいろいろ活躍する。 1972年に64才で死去する。
2007.05.20
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私:この本は、副題にあるように日本の戦後の憲法、戦争放棄、民主化に関係した以下の8人のアメリカ人をそれぞれ独立した章で述べている。 戦後の日本研究の権威のショーンバーガーの著だね。 1.ジェセフ・C.・グルー 2.ダグラス・マッカーサー 3.T.A.ビッソン 4.ジェームス・S.・キレン 5.ハリー・F.・カーン 6.ウィリアム・H.・ドレーパーJr. 7.ジョセフ・M.・ドッジ 8.ジョン・フォスター・ダレスA氏:1.のグルーはこのブログで「日本テレビとCIA」1/4、「ジャパニーズ・コネクション・海運王・スガハラ外伝」その1、その2で登場しているね。 マッカーサーの過激な占領政策にブレーキをかける側だね。 6.のカーンは「ジャパン・ロビー」で有名で、これもこのブログで「軍隊なき占領・戦後日本を操った謎の男」1/2、2/2で登場するね。 これもマッカーサーの占領政策実施にブレーキをかけるほうだね。私:いずれにせよ、この8人はそれぞれ交錯し、牽制し、対立しあいながら戦後の日本を形作っていく。 この過程を詳細に描く大作だね。 グルーとカーンはもうこの知的街道で辿ったので、後の6名について述べていこうと思う。その1・マッカーサー マッカーサーは日本占領政策実行の上で、仲の悪いワシントンのトルーマンとの対立、1948年の大統領選挙との関係で、実は日本占領政策は一貫しておらず、日和見的な側面が多かったことをこの本は指摘しているね。A氏:1951年、マッカーサーがトルーマンに解任され、日本を去るとき、日本人は民主化のヒーローの退去を悲しんだというが、マッカーサー神話があったわけだね。 しかし、彼の日本の占領政策と大統領選挙とどういう関係があるの?私:日本の民主化、経済の安定に成功すれば、マッカーサーは政治的にも能力があると宣伝できて、彼が大統領選挙に出たとき優位となるからだね。 1945年の9月のアメリカの世論調査では61%が占領軍は日本人に対して「十分厳しく対処していない」と回答していた。 それが1946年1月に大量の公職追放を行うと、アメリカ世論はマッカーサーの手腕を賞賛するようになった。A氏:その次にくるのが憲法改正だね。私:日本の占領政策に介入する組織は、連合国の極東委員会があった。 この構成国の多くが天皇制廃止と天皇の戦争犯罪人としての訴追を公然と支持したため、マッカーサーは急いで憲法を作る必要があった。 そして、その中味は天皇を守りながら、かつ、極東委員会構成国が反対できないほど、革新的であることも必要だった。 第9条はワシントンではなく、東京で生まれた。A氏:ワシントンの「降伏後におけるアメリカの初期対日方針」の文書では「完全かつ永久の非武装化」を目的とすると明確に示されているそうだね。私:その後、ワシントンの通達文書では非軍事化は日本が文民政府となったときに決定されるという一歩下がった内容になったというね。 しかし、マッカーサーは戦争放棄の理念は理想的なものであり、これは全世界に及ぼすべきものだと宣伝し出す。 その点で、トルーマンと対立したアメリカ本土向けでもあったんだね。 その後、ワシントンが日本の再軍備を言い出しても、朝鮮戦争が勃発するまで憲法上、絶対非武装だと反対する。 だから、朝鮮戦争は彼にとっては意外だったんだね。 そして、第二、第三の公職追放を行う。A氏:これがカーンの「ニューズウイーク」で非難され、アメリカ本国で改革への支持が崩れる最初となるんだね。私:ところが冷静に見ると、ドイツにおけるアメリカ占領地区は全人口の2.5%が追放されているのに、日本は0.29%であり、その80%は軍人であったという。 実際に官僚が追放されることはなかった。 しかし、日本経済は悪化してインフレとなり、マッカーサーが民主化の一環として労働組合の設立促進を行ったが、その組合が過激な活動をするようになる。 共産主義化の危険性が出てきて、マッカーサーは労働運動の抑圧を決意する。 最初、あまり日本の労働運動を抑圧すると、大統領選で本国の労働組合の支援が得られないという配慮があった。 しかし、1948年に大統領候補指名戦況に敗れてからは、アメリカの労働界に配慮する必要がなくなったので、マッカーサーは一貫して日本の労働運動抑圧に干渉した。A氏:それと一方で並行して財閥解体があるね。私:実は、ワシントンのほうは対日占領政策が大きく転換し、日本をあまり弱体化せず、防共の砦にするように変わってきたので、財閥解体は厳しくしないでいいとした。 しかし、マッカーサーは頑強に反抗し日本企業の75%を占める325社を指定していた。 当時は、大統領候補選挙に負ける前だから、マッカーサーは財閥解体を積極的に進めるという頑固な姿勢が、本国での人気を得ると考えた。A氏:しかし、大統領候補選で敗れると彼の権威も低下するね。私:解体対象の325社は30社に減り、48年12月には最終的に9社となった。 マッカーサーの革新力は弱体化するね。A氏:そして1950年に朝鮮戦争が始まり、トルーマンと戦略で対立し解任されるね。 帰国して議会の演説で「老兵はただ消え行くのみ」と演説するね。私:その後、もう一度、共和党大統領候補を目指すつもりだったらしいが、資金も影響力もなく諦めることになる。 代わってアイゼンハワーが候補となり大統領となったね。
2007.05.19
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私:この本は雑誌の書評を見て興味が湧いたので、図書館で借りたよ。 書評では、この古墳にある壁画の保存が問題になった背景に行政の縦割りがあるという解説なので、それで興味が出たんだね。 ところが読んでみたらそんな簡単な問題でないことが分かったよ。 A氏:最近、この石室が遺跡から運び出され、解体修理するというテレビや新聞のニュースがあったね。私:そのニュースは俺も見ていたが、その背景には無知だったことをこの本を読んで感じたね。 運び出される前にこの本を読んでおくべきだった。 まぁ、予約待ちだから止むを得なかったがね。A氏:そういえば、朝日新聞の夕刊の連載「ニッポン人脈記」が今、「風薫る飛鳥」をやっているね。私:今まで興味がなくて読んでいなかったよ。 今、8回目くらいなので、この本の影響であわてて読み出したよ。 この本の著者はジャーナリストだから、読みやすい本だが、欲を言えば、話が重複している部分が多いのでもっとまとめてもらったほうがよかったね。A氏:問題になったのは例の壁画にカビ発生の問題かね。 1972年3月21日に壁画が発見され、「戦後最大の発見」「世紀の発見」とされたね。 そして、確か、保存工事が行われたはずだがね。私:ところが、2004年に白虎が描線が薄れてきたというスクープ記事が朝日新聞に載って、壁画保存に対する不信感が生まれたわけだね。 さらに、2006年にNHKが、2001年のカビの処理中に壁画を傷つけたという事故を公表しなかったという情報公開の問題まで出てきたんだね。A氏:行政の縦割り問題というのはあったの?私:壁画は国宝に指定されていて、文化庁の美術学芸課が管理しているが、古墳自体は特別史跡に指定されていて記念物課が管理するという縦割りだね。 だから、古墳の工事は記念物課がやるが、それは壁画の保存条件が影響する。 しかし、縦割りのため、壁画の考慮が不十分でカビの大量発生の一因になったとも言われている。A氏:でも、石室は完全に保存工事をしているのでカビが出るのはおかしいのではないの?私:実は、これは誤解されやすいね。 石室の保存工事は石室全体を囲んで保存していたのではなく、石室は埋め戻し、石室の入口に前室と石室との取り付け口を設けて、外気との調整をしていたんだね。 これがうまくいかないということが30年くらいの結果、分かってきたんだね。 著者は、イタリアの壁画保存、日本の他の古墳の壁画保存、法隆寺の壁画などを取材しているが、高松塚古墳の石室は湿度も高いので保存がかなり技術的に難しい問題を抱えているんだね。A氏:永久保存するといっても、地球は土地も含めて本質的に生きているからね。私:実際、その後、石室をよく調査すると地震の影響もあったようだね。 それに地球温暖化とは言わないまでも、周辺の気温上昇も関係するかもしれない。 なにせ、テレビで土中から引き上げるシーンを見たが、石室は人二人入ると一杯になる。 そこで修理作業をやれば、石室内の湿度・温度は変化するね。A氏:途中で盗掘があったらしいね。 それでも保存条件が変わるね。私:著者は、高松塚古墳壁画保存の歴史を次の3つのステージにわけている。 第1ステージ.古墳築造時から鎌倉時代の盗掘まで 第2ステージ.35年前の壁画発見時まで 第3ステージ.それから現在まで そして、第3ステージで劣化が急速に進んだ。A氏:それで保存方法が大きく変更になり、土中保存でなく、引き出して解体修理となったんだね。 修理に10年くらいかかるそうだね。 試行錯誤だね。私:だから、結論的には著者は、今回のカビ問題は人為的なミスもあるかもしれないが、根本的に保存科学は試行錯誤は避けられないという意見だね。 たしかに、地球は生きているので、本質的にある遺跡をそのまま凍結して「時間よ止まれ」というわけに簡単に行かないだろうね。 著者はこの本の最後で明日香村の「歴史的な風土」保存の歴史についてふれているが、これも大きな問題だね。A氏:16日の夕刊では「玄武の謎にせまる」という1ページの大きな特集があったが、同じ明日香村にあるキトラ古墳にある「玄武」の絵について3人の専門家の鼎談が載っていたね。 中国、朝鮮の影響が強いことが分かるね。私:昨日の夕刊の「ニッポン人脈記」では、明日香村の朝鮮から来た人は「帰化人」というのは、国家があることを前提にした言い方だから、「渡来人」というべきだという説を紹介していたね。A氏:2001年の天皇誕生日に天皇陛下は「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫なので韓国とのゆかりを感じます」と言われたね。私:世間ではこの天皇発言に驚いた人がかなりいるかもしれないね。 明治以降、日本は「脱亜入欧」でこういう伝統文化と中国、朝鮮を捨てたからね。 明日香村はそれに警告を発しているのかもしれない。
2007.05.18
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A氏:昨日のテレビの「みのもんた朝ズバッ!」を見ていたら、例の会津若松の母親殺し事件を扱っていたね。 そこに、ゲストコメンテーターで有名な人が出席していたね。 ちょっと、名前を忘れた。私:俺も見たよ。 驚いたことには、このゲストは、この問題を格差に結び付けて説明していたことだね。A氏:ゲストは最近、親殺し、家族殺しが増えているので、それに関する本の原稿を書いているところにこの事件のニュースがあったので驚いたというね。 そして、共通しているのはこのような事件を起こす子どもは普通の子であることだね。 今回の高校生も中学までは勉強もスポーツも優秀であったという。 高校も有名な進学校で成績は中の上くらいだという。 親も家庭も普通以上で、そこに問題点があるとゲストは言っていたね。私:しかし、問題は親が子どもに下流層やワーキングプアにならないように、期待することらしいね。 それがプレッシャーになるらしいね。 そこに格差による二極化という社会背景があるという説明だね。A氏:俺は先月頃、NHKの衛星放送で、アメリカの子どものスペリングコンテストのドキュメント映画を見たんだが、ほとんど、移民の子どもなんだね。 アメリカでは移民してきた親は貧しいから、子どもには無理してもいい教育をさせ、ワーキングプアにならないようにしている。 だから、子どもによってはプレッシャーになるようだね。 ある子どもがインタビューに答えて、「もう、これでやめたい」というようなことを言っていた気がするよ。 でも、中には親の期待に応えたいという子どももいたね。私:日本人も戦前は外国に移民しているが、アメリカに移民した人々は、苦労しても子どもは大学に学ばしたようだね。 海運王・スガワラがいい例だよ。 孤児になっても苦学して大学は出ているね。 しかし、それはプレッシャーになっていなかったようだね。 どうも、格差と結びつくのかと疑問になったね。A氏:何かテロと戦争を結びつけ、殺すのは誰でもよかったといっているそうではないの?私:高校生くらいになれば、頭がよければ誰でも大義名分は作るよ。 まだ、謎が多いね。
2007.05.17
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私:14日(月)は朝から用事で都内に出かけ、夕方、新幹線で福島市に行きそこで泊まった。 車中で、文藝春秋6月号の「大研究『昭和の陸軍:なぜ国家を破滅させたのか』」を読了。 5人の専門家の議論をまとめているが、「なぜ」の結論は不明確だね。A氏:「昭和の魔法」に何故生まれ、だまされたのかの謎はまだ明快に解けないわけか。私:ホテルに着くとテレビでは、国民投票法成立を大々的に報じていたね。 翌15日(火)の朝日新聞の朝刊は「『さあ改憲』とはいかぬ」という論説を掲載していた。 朝日は護憲だからね。 敗戦後60年たっても、改憲だとか護憲だとか同じような不毛の議論を堂々巡りでやってきたが、護憲派は外堀を埋められた感じだね。A氏:軍隊を持たないという「マッカーサー憲法」が1947年に施行されたのに、1950年6月に朝鮮戦争が勃発すると、2ヵ月後にはすぐに警察予備隊がマッカーサーの要求でできる。 これは立派な軍隊だね。私:例の日本研究のショーンバーガーが「占領1945から1952」を書いている。 「逆コース」の知的街道の1つとして図書館で借り、旅行鞄に入れて宿で読み出した。 再軍備で次のような興味あることが書いてあった。「日本国憲法の戦争放棄条項と極東委員会の占領指令が明確に再軍備を禁じていたため、ダレスを初めとするアメリカ側の高官や日本の担当者は警察予備隊の活動を極秘に行った。(中略)警察予備隊員の駐屯地勤務を命ぜられたアメリカ軍人に与えられた指示は、滑稽なほどの秘密主義と二枚舌を表しており、警察予備隊が実際上は日本軍であったことを示している。(中略)日本憲法は軍隊を持つことを禁止している。 だから、アメリカ軍人は、警察予備隊の兵を兵隊と呼んだり、士官を軍隊の階級で呼んだりしてはいけない。 兵は警査、士官は警察士又は警察正と呼ぶ。 戦車を見ても戦車と言ってはいけない。 特車なんだから。 トラックはトラックでいいが。」A氏:アメリカ政府のほうがマッカーサー以上に占領政策で大転換をしているんだね。 占領開始2年にもならないうちに「逆コース」がすでにはじまっている。私:そして、アメリカは最初はカービン銃や30口径の機関銃くらいを配備していた。 それが、日本や諸外国から厳しい抵抗が起こらないと見ると、大胆になり、迫撃砲、バズーカ砲、火炎放射器、大砲、戦車と密かに配備がエスカレートしていく。A氏:フォスター・ダレスが30万の陸軍を編成するようにという要求を吉田首相に出す。 しかし、吉田首相は抵抗して、彼の在任中は10万を超えなかったというね。私:ダレスが対日講和条約締結を急ぐため、各国の交渉に世界中をまわる。 「日本の再軍備に何の制限をおかないし、賠償規定もない講和条約案をオーストラリアのスペンダー外相が読んだとき、顔はみるみる赤くなり、あるところまできた時、彼の血管が破裂するのではないかと思った」とアメリカのアリソンは回想記に書いているという。A氏:日本憲法問題はアメリカの世界戦略の嵐の中でも、困った問題だったんだね。私:俺は、「逆コース」の知的街道を辿っているうちに、アメリカの占領政策の混乱が、日本の敗戦のけじめをあいまいにする土壌を生んだような気がするんだね。 明治維新は江戸を捨てたが、底には江戸の継続性もあった。 その両面の理解が明治維新を理解するには必要だね。 同様に、敗戦は戦前の日本を捨てたが、底に戦前の継続性も残った。 だから、いまだに、南京虐殺だの慰安婦だの靖国だのと内外でもめているのだと俺は思うね。 アメリカの占領政策がその複雑な両面性を作ったように思うね。A氏:その理解には1945年から1952年までのアメリカの日本占領政策の変化を知らないといけないというわけか。私:15日(火)は用事が終わり、午後4時頃、福島駅で新幹線に乗った。 朝は曇りだったが、午後くらいから雨が降ってきた。 駅前で号外を配っていた。 会津若松市で高校生の親殺しがあったという号外だ。 これも戦後現象の1つかね。 家に帰ってテレビを見たら雨が降っている会津若松市の画面が出てきた。 福島は雨は午後からだから、午後の映像だね。A氏:事件は早朝に起きているね。私:そのテレビを見ていたんだが、夜の10時くらいまでアメリカのジェット機の音がうるさいのが気になった。 硫黄島が天候不良のため、米海軍のジェット戦闘攻撃機の夜間発着訓練ができず、厚木基地に変えたためであるという。 10日、14日、15日とやったようだね。 周辺住民から多くの苦情が寄せられたと今日の朝刊にあるね。 この件で米司令官は「45人のパイロットの訓練である。 日米同盟に基づき日本国民を守る任務だ」 「厚木は制約があるので硫黄島でやる訓練より減らしてやっている」と理解を求めたという。 知事や地元市長の訓練中止要請については、「硫黄島に代わる恒常的な訓練施設の早期提供を期待する」と述べたという。 これが日本の自衛隊の訓練ならどうするのだろうね。
2007.05.16
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私:この本は20年くらい前に発行されたもので、「戦争の記憶を歩く」の知的街道として図書館で借りたよ。 著者は1918年生まれ。A氏:そうすると太平洋戦争時は20才台だね。 まさに、軍国主義の「魔法」で育った世代だね。私:青山学院出のためか、陸軍通訳を志願して、1943年泰緬鉄道建設作戦要員となり、敗戦までここにいた。 その経験談が中心だね。 はじめて泰緬鉄道の起点に近いバンポン駅に着いたとき、内地より明るいはずの南方の空が暗いという。 空を見るとハゲワシの群れが空を舞っていたという。A氏:ハゲワシの多いところなのかね。私:理由は、翌日、捕虜収容所を訪ねて分かる。 ハゲワシは捕虜の死臭をかぎつけて群がっていたのだね。 雨の多い熱帯地に屋根のない収容所にマラリア熱の患者が何人も体をふるわせていたという。 著者は憲兵の捕虜の拷問にも立ち会うが、のたうちまわる捕虜の姿を見て身も心も動転して通訳するどころでなかったという。 貧血を起こして真っ青になったら「日本軍の通訳がなにごとか」と気合いを入れられる始末だったという。 しかし、そういう状態をいくつか見ていると慣れが出てくるのだという。A氏:それが恐ろしいね。 気合いを入れられるというのはピンタかね。私:戦後、外国人記者に「なぜ、断固として拒否しなかったのか」と言われたそうだ。 そこで次のように説明したが、彼らは理解できなかったという。 日本の軍隊は天皇の軍隊で上官の命令は絶対服従である。 反抗すれば軍法会議にかけられる。 それだけですまない。 それは日本の村役場に通知が行き、家族は村八分になる。 非国民となる。A氏:当時の天皇制国家はそういう「魔法」の社会的構造を持っていたんだね。私:鉄道は開通する。 その頃、著者はマラリアにかかる。 著者は病院に送られたが、捕虜は後送されないし、医薬品もほとんどないので病死となる。 退院後、また、もどり敗戦を迎える。 そのとき、極秘文書の「捕虜全員抹殺」命令を見たという。 連合軍側もそれを予測して、敗戦間際には捕虜を早く救出するための特別部隊を編成したという。A氏:著者はいわば、諜報活動をしていたのだから、戦後は犯罪人になるのではないの?私:原隊のバンコックに戻ったら憲兵隊の幹部が「君の名前は憲兵隊の名簿から消しておく」と言われた。 このため、戦犯を免れたらしいという。A氏:それで無事、日本に帰れたのかね。私:ところが、連合軍が捕虜墓地捜索隊を組んだので、泰緬鉄道の地理に明るい通訳を出せという命令で、バンコックから泰緬鉄道にもどる。 そして連合軍将校13名とともに泰緬鉄道にそって走りながら、墓地の捜索をする。 連合軍将校は2名を除き、他は元捕虜の生き残りだね。 志願して残り、死んだ戦友の墓地捜索を買って出た人たちだね。A氏:通訳としては捕虜と立場が逆転したわけだ。 それにしても彼らは帰国しないで何故、墓地探しに残ったんだろうね。私:墓が荒れていたからだね。 21日間、連合軍と一緒に調査し、泰緬鉄道沿線の墓地は二百余ヶ所、遺体は1万3千にものぼった。 この捜索に参加して著者の気持ちは次第に目覚める。 生き残った捕虜たちも著者に理解を示すようになったという。A氏:それで、著者は泰緬鉄道と深い関係が出来たんだね。私:いや、また、その後、泰緬鉄道にもどるね。 戦後18年たった1963年、著者は妻とともにためた貯金をはたいて訪れる。 立派な連合軍墓地が出来ていた。 兵士一人ひとりの銅版が列をつくってならべてあり、その下に元捕虜が眠っているという。 日本人が建てた墓はこういう戦死者の個人名がないね。 欧米の個人主義を感ずるね。 この連合軍墓地の中央の十字架に進み手を合わせた瞬間、罪は許されたと感じたという。 1976年には、元捕虜との再会を企画し、実行する。 その際、名もなきアジア労務者の遺骨のことが問題になった。 生き残ったロームシャにも会う。 不思議に彼らは日本軍をうらんでいなかったようだという。 そして、著者はこの地に1985年寺院を建てる。A氏:タイトルのウソと真実とは何?私:よくわからなかったね。 どうも映画「戦争にかける橋」のことらしい。 日本の鉄道建設技術のレベルが低く、連合軍捕虜のアドバイスを受けていたというようなシーンがあったらしいね。 それはウソであろうという。 クリント・イーストウッドの「硫黄島」のように日本と連合軍の両面からの視点が必要かもね。
2007.05.15
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A氏:昨日の朝日新聞の3面記事の隅のほうだが、例の大阪吹田市の「エキスポランド」のジェットコースター脱線事故でまたニュースが載っていたね。 車軸の探傷試験の記録がないということらしいね。私:エキスポランドは毎年1月か2月に定期検査をしていたというね。A氏:06年までの3年間は通常通り定期検査時に探傷試験を実施していたというが、府警が家宅捜索したら昨年までの実施記録がないというんだね。 専門家は試験を実施すれば記録をとり、それを保管するのは法律以前の事業者としての「常識」だと言っていると報じている。私:だから、俺はシロート管理屋だと言うんだよ。 プロでは常識だがね。 俺は、探傷試験は実はやっていないのではないかと思うよ。 だから、記録がないのだよ。A氏:厳しいね。私:そういえば、NHKのテレビで「トーゴー・メンテナンス」というつぶれたトーゴーのメンテナンス会社が出した車軸交換に関する文書を大々的に画面に出していたね。 これによると8年をめどに交換という文章があるね。 ところがエキスポランドはメンテナンスを社内でやっているのでそういう文書はないということだ。A氏:確か、エキスポランドはメンテナンスを外注から内部に引き上げているのだね。私:だから、正確にはメンテナンスを社内に変えるとき、外注の重大な文書をなくしたのではないのかね。 その突っ込みがない。 記録同様に。 それにしても俺が気になったのはこのときのNHKの文書の画面だね。 8年で交換という文章の行にのみ光が当たっていたが、探傷試験にふれた部分は陰になっていたね。 よく読めない。 探傷試験も問題になっているのに、何故、クローズアップするのを避けたのかね。 意図的なものを感ずるね。 まぁ、そのうちに何故、施設のメンテナンスがシロートになったのかの原因が明らかになることをマスコミに期待したいね。
2007.05.14
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私:「ローマ人の物語」の塩野七生氏は、文藝春秋の随筆欄に長年登場しているが、今月号は靖国神社に行ってきた感想を述べている。 「戦争の記憶を歩く」の知的街道つながりで興味をもって読んだよ。A氏:どういう共通点?私:他人の論議に耳をかたむける前に、まずは自分で現場をよく見ようという点と戦争の記念展示の問題だね。 これは「戦争の記憶を歩く」の著者の早瀬氏も実際に東南アジアの現地の慰霊碑や展示館を見てから議論をすべきであるという意見と同じだね。A氏:靖国神社は遊就館の問題だね。 大東亜戦争を美化しているとかいう論議をかもしているね。私:塩野氏は遊就館の大東亜戦争の展示を特に注意して見たようだ。 結論は、これは日本側の歴史認識を示したものだということだ。 「自衛のための戦争」だと主張する「目的」に対して、「手段」である展示内容だが、良く出来ていたという感想だね。A氏:それなのになんで論争になるのだろうね。私:塩野氏はこの種の死者と生者の出会いの場である「死者の都」である施設に、敵だった側までが納得できる中立的・客観的・学問的で、それ故に正しいとされる歴史認識を求めるべきでないとしている。A氏:塩野氏は西洋史上の戦争を多く書いているね。私:そのために、ヨーロッパ・中近東・北アフリカに点在する戦争展示の施設を多く訪れたが、非中立的で非客観的で非学問的だという。 塩野氏がイスラム側とキリスト教側が激突した戦争を書いていた頃、トルコ、ヴェネツア、法王庁のあるローマの三ヶ所を行ったり来たりしなければ書けなかったという。 トルコが歴史上勝った部分は、トルコ側では大々的に宣伝し、負けた部分は一切無視。 逆にヴェネツア側も勝った部分は誇張し、負けた部分は軽く扱う。 それぞれの言い分を公平に展示してくれる施設はなかったという。A氏:ということは遊就館の自衛戦争論はあまり、目くじら立てて言うこともないというわけかね。 目くじら立てて言うほうも自分のほうを誇張したり、自分の問題点を隠したりすることが多いね。 中国や韓国の反日記念館はそれはそれで歴史的には、いろいろな国でよくやってきたことをしているのかもね。 人間のサガは歴史の上では変わらないね。私:実は、塩野氏のこのエッセイは文藝春秋の先月号の「戦争の本質」とつながっているね。 そこでは、マスコミのいわゆる有識者が、正義の戦争か、不正義の戦争かで論議しているのは時間とカネの無駄遣いだと述べているのだね。 戦争とは良い悪いの区別がなく、防衛のための戦争か侵略のための戦争かの区別さえ難しいという。 歴史に残る戦争のほとんどすべては侵略戦争であったのが事実だという。A氏:イラク戦争も問題だね。私;塩野氏は戦争は外科手術に似ているという。 手術の技能が優れていることが先決するが、手術後のケアも重要だ。 湾岸戦争で猫のひたいぐらいのクウェート解放にアメリカは50万人を投入し、歴史が古いイラクを制覇するのに15万とはアメリカのエリート大学では何を教えているのかと厳しいね。A氏:イラク戦争については厳しいね。私:実は、塩野氏のこのエッセイの流れは先々月の文藝春秋の「『硫黄島からの手紙』を見て」の映画鑑賞感想とつながっている。 塩見氏は、戦争映画の限界を感じたという。A氏:黒澤明が観客に弾丸が飛んでこないと戦争映画はだめだというのと似た感想だね。私:塩野氏は、クリント・イーストウッドが日米両面の映画を作ったことに評価して、もっと日米間で日米の近現代史の共同研究をしたらどうかと提言しているね。A氏:日米なら、カッカとこないだろうと言うわけだね。私:すでにアメリカではダワーやショーンバーガーなど優秀な日本研究が行われてきているね。 塩野氏は、日米共同の近現代史研究の冷静なモデルをつくり、日中と日韓のカッカとなりやすい共同研究と比較させたらというね。 興味ある視点だね。
2007.05.13
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私:どこかの書評で見て知的興味が湧いたので、図書館で少し待って借りることができた。 題名からして最初、硬い本かと思ったが、著者はかって国税庁担当新聞記者をしていたせいか、すらすら、興味をもって読めたね。 週刊文春に連載したもののまとめだね。 実際にあった事件をもとに書かれている。A氏:映画「マルサの女」では、国税庁の査察官が活躍するが、これは強制捜査できる権力があるんだね。 私:国税庁にもいろいろ組織があって、会社などに来て帳簿を調べるのが資料調査課というんだね。 こっちは、強制権はない。 これとは別に査察課というのがあって、強制調査権を持っていて、刑事罰を科するのが目的だ。 この査察課が通称、マルサと呼ばれる。A氏:マルサを行うかの判断はどこからくるの?私:調査のほうから悪質と判断されるとマルサにまわる。 そして国税庁が検察庁に刑事告訴して、その後は検察の活動となる。 だから、国税と検察の連携が重要だが、うまくいかない例もあげているね。 野村監督夫人のサッチー脱税による逮捕は、国税の査察からでなく、いきなり検察が乗り出した例だという。 以前、検察庁が国税庁の調査官が企業から接待されているのを摘発したこともある。 逆に、国税庁が検察官個人の税の摘発をしたこともある。 適当な緊張関係は必要だね。A氏:「マルサの女」では、最後のへんで小林桂樹演ずる査察部管理長に政治家からの圧力電話がかかってくるね。私:これは国税庁としてはいやことだね。 国税庁はその生い立ちから財務省が国税庁幹部の人事権を握っている。 国税庁の主要ポストは財務省キャリアの指定席だという。 財務省は税法の問題で政治家とからむ。 政治家の圧力がここからくることになる。A氏:資料調査課はどういう人をターゲットにして調べるの?私:資料調査課はマルサに対して、これをリュウチョウ(料調)というらしい。 大資産家、政治家、芸能人、スポーツ選手、広域暴力団の組長、右翼の大幹部など「大物」をターゲットにしているという。A氏:ということは、リュウチョウは毎日、スポーツ新聞を含めた新聞、週刊誌、それにテレビなどをチェックしているわけか。私:それらの情報から、ある基準で重要事案管理対象者名簿にリストアップされるという。A氏:そうするとテレビでセレブの大豪邸だと宝石だとか放送されているのはターゲットになりやすいね。私:しかし、マルサに近いリュウチョウもあってクレームが出ていて、裁判沙汰になったのもあるね。A氏:企業のほうはどうなっているの?私:資本金1億円以上の法人を「調査部所管法人」として、各国税局の調査部が担当しているという。 このうち、資本金40億円以上の大企業は東京国税局調査第1部の特別国税調査官が担当しているという。 しかし、大企業はマルサの聖域だという。A氏:何故?私:脱税というと企業イメージが悪いこともあるので、会計もしっかりしているからだろうね。 それと調査するほうも税額が大きいので、敵対関係よりも協調してもらいたいだろうからね。 この本は最後の「おわりに」に会計検査院についてふれているね。 国税庁は税金の徴収(入り)の監視を担当するが、会計検査院は税金の使途(出)の監視を担当する。 著者は職務遂行能力は、国税庁が高く、会計検査院は見劣りするという。A氏:そういえば、官庁の裏金は問題になっているが、会計検査院の姿が見えないね。 最近、公正取引委員会も頑張っているのにね。私:著者は、国税庁のほうは強制調査権を持っており、意気込みには迫力と凄みがある。会計検査院は「官と官の信頼がある」ので強制調査権など必要がないと言っているという。 この落差を修正すべきだといっている。 確かに、官公庁の裏金問題に会計検査院の強化が政治でもマスコミにも強く出てこないのは何故だろうかね。
2007.05.12
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私:最後は、フィリピンだね。A氏:東南アジア最大の激戦地だね。 1941年のバタアン半島の戦いでは日本兵1万人強、アメリカ・フィリピン兵2万5千が戦死したというね。 1942年4月の日本軍の勝利の後に、悪名高い「死の行進」となるね。 これも辻参謀が関係していると言うね。私:バタアン半島に「死の行進」の記念碑があり、4月9日はかってバタアン・デーと呼ばれていた。 これが、現在は「勇者の日」としてフィリピンと日本両政府でこの半島のサマット山で記念式典を行っているという。 バタアン島に続き、コレヒドール島があり、有名な「アイ・シャル・リターン」のマッカーサー像があり、日本平和庭園があってそこにいくつかの慰霊碑があるという。A氏:日本軍によるフィリピン人の虐殺は、戦後、山下奉文大将が裁かれて、死刑となっている。 日本軍のほうも、レイテ島などで多くの戦死者(多くは餓死者)を出す。 1995年に虐殺記念碑が設立されているように、フィリピン人は戦争のことを忘れていないということだね。私:日本の敗戦直後のフィリピンの反日感情は強く、日本の賠償支払いが中止されることに不満で、サンフランシスコ平和条約調印の直前に請求権の復活に成功しているほどだね。 しかし、1973年、日本政府によって「比島戦没者の碑」が建てられる。 これは反日に考慮したのか、日本語で書かれ、碑文もなく慰霊の対象もあいまいであるという。 このフィリピンの慰霊碑を皮切りに日本政府はアジアの各地に慰霊碑を建立して現在14ヶ所あるという。A氏:フィリピンは中国、韓国のように反日教育は盛んなのかね。私:最初、フィリピンの高校の歴史教科書では「死の行進」「食料不足」「憲兵隊による拷問」など日本の占領時代を扱っていたという。 それが、2002年からは日本占領の記載は1頁となり、きわめて少なくなっているという。 これはフィリピンがマニラ中心の歴史でなく、国民統合を念頭において歴史の叙述をするようになったと考えられるという。A氏:ポスト戦後の歴史認識に入ったのかもしれないね。私:著者は日本兵の残虐行為の一因として、現地の歴史・文化からくる習慣を無視したために、現地人に嫌われ、それが逆切れに通じたとまとめているね。 でも、今村均大将のような例外があるね。 太平洋戦争が進むにつれて、日本では衣料が不足して配給制となった。 日本政府はジャワで生産される白木綿の大量輸入を申し入れてきたが、当時のインドネシア司令官の今村大将はその要求を拒んだ。 これは白木綿を取り上げたら現地人の日常生活を圧迫し、死者を白木綿で包んで埋葬するという彼らの宗教心まで傷つけると考えたからであるという。 こういう人もいたが、稀だね。 今月の文藝春秋は「昭和の陸軍」という大特集を組んでいるが、その中に、栗林忠道、今村均、本間雅晴らの良識派は出世できないシステムだと指摘しているね。A氏:日本兵は戦時中よく現地人に平手打ちをしたということが東南アジア圏で聞くが、これも相手への軽蔑感からかね。 その常識外れは日本軍の場合、どこからきたのかね。私:日本軍の中の訓練は山本七平氏のいうように、常識的な思考力を停止させる威力を持っていたようだ。 何かの失敗があって撲られる。 「違います。それは私でありません」という事実を口にした瞬間「言い訳するな」という言葉とともにその三倍、四倍のリンチが加えられる。 これは「動物的攻撃性に基づく」秩序だと山本さんはいう。 山本さんは「陸軍は人から言葉を奪った」という。 一方的になぐる、どなる、リンチだけだね。 それで、自分より弱いアジア人に対して平手打ちすることに抵抗感がなくなるのかね。A氏:そうなると心神喪失と同じで普通の人でも虐殺をおかしかねない。 しかし、この場合、戦争が終わっても無罪とならないね。 被害者は死刑を要求するね。 日本人もいまだに原爆を忘れられない。 アメリカ人は忘れているだろうが。私:チャップリンではないが、戦争で人を殺して英雄、平時では殺人犯だからね。 戦時の状態を平時の常識では裁けないかもね。 それにしても、われわれは終戦の日を8月15日と思っているが、それぞれの国よって違うのだね。 フィリピンでは9月3日、シンガポール、マレーシャは9月12日、タイやビルマは9月13日、インドネシアは8月17日、中国、ソ連は9月3日だそうだ。 思い込みでなく、そういうアジアでも国によって多様性があるという相対的なバランス感覚が必要だね。
2007.05.11
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私:今日はタイに移動だ。 タイは第二次大戦中、日本と同盟していた。 だから、なんといっても問題になるのは、泰緬鉄道の捕虜虐待の記念碑と例のインパール作戦の日本の敗走兵の墓だね。A氏:泰緬鉄道のことは映画「戦場にかける橋」になったね。 イギリス、オーストラリア、アメリカなどの捕虜の合計6万人とタイやビルマの労働者が投入され、食料不足と伝染病に対する医薬品不足などで多くの死者を出すね。私:この橋は今は観光スポットになっているが、そこに慰霊塔がある。 戦争博物館もあるという。 連合軍兵士の墓地もある。 理由がよく分からないが、アメリカ兵はアジアで埋葬されることを嫌い、ヨーロッパにはいくつもの墓地があるが、ここで死亡した遺体は本国に持ち帰って埋葬されているという。 だから、アメリカ兵の墓だけない。A氏:タイでの日本兵の墓は?私:インパール作戦失敗で日本兵は同盟国のタイの北部のビルマ国境を目指して敗走してくるが、次々に倒れる。 この日本兵の屍が列をなした敗走路は「白骨街道」と呼ばれていた。 1995年にこの地に赴任したタイの警察署長がどこの民家を訪ねても日本兵の遺留品があるので買い集めたりして、1996年に「第二次世界大戦博物館」をオープンしたという。 また、日本人が建てた多くの日本兵の慰霊碑があるという。 1989年に日本の宗教家がタイ北部を訪れたとき、タイの老僧から「タイ北部には、まだ多くの日本兵の遺骨が眠ったままになっているのに、日本人はこれを顧みない。それでも日本人は人間か!」と一喝され、早速遺骨収集を決意したという。 そして、1993年にその碑ができたという。A氏:随分、遅いね。私:イギリスなどは戦病死した者の慰霊は国家としての方針がしっかりしているという。 ところが、日本は国家としての方針が明確でなく、慰霊の主体は個人、戦友会、宗教団体などまちまちであるという。 また、慰霊は戦病没者個人に対してではなく、集合的に行われ、慰霊碑に刻まれる名前は、慰霊されるほうでなく、慰霊するほうの名前だという。 戦友会有志とかね。A氏:靖国神社問題と関係あるのかね。私:1971年に厚生省援護局が慰霊碑の統一と建設を国の管理下に置くことを原則とする旨の指示を出す。 これが現地を見ると守られていないようだね。 何故だろうね。 次はミャンマー(ビルマ)だが、ご承知のように軍政下なので、日本の占領下のことはあまり語られていない。 しかし、いくつかの日本戦没者の慰霊碑があるという。 明日は、最後のフィリピンだね。 東南アジア最大の激戦地だったね。
2007.05.10
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私:著者は2003年から2005年にかけて、シンガポール、マレーシャ、インドネシア、タイ、ミャンマー(ビルマ)、フィリピンの現地の太平洋戦争の遺跡を中心に実際に現地を訪れて報告をしている。 この本はどこかの書評で読んで、図書館で借りた。 岩波書店の出版なので左翼的かなと思ったが、割合バランスがとれたリポートだね。 アジア人の被害者側の記念碑、記念館、戦死者の墓地だけでなく、日本兵の墓も訪問しているね。A氏:中国、韓国は訪問していないの?私:著者は、太平洋戦争という言葉を嫌い、この戦争は東南アジアが中心だということで、調査を東南アジアにしぼっているね。 日本軍の虐殺を記念して、記念塔などを作っている最大のものは、やはりシンガポールだね。 ここは華僑が狙われたらしいね。 華僑は本国の中国の反日戦争に資金を送っていたとみなされて軍に狙われたようだね。A氏:この虐殺には辻大佐が関係していたみたいだね。私:マレーシャも中国系住民の虐殺があり、50ヶ所くらいに記念碑があるという。 日本の軍政の日本語の押付けとか日本文化の強要も反日精神を植えつけた原因のようだね。 生き残った日本兵有志が昭和53年に建てた戦友を祀る日本兵の慰霊塔があるという。 マレーシャにはボルネオ島のサラワクも含まれているんだが、こっちのほうは同じ国かと思うほど戦争の記憶がすくないという。A氏:現在の政府や民衆の考え方や必要性によって、歴史を記憶する方向に向うこともあれば、忘却する方向に向うこともあるのだろうね。 中国は江沢民になってから急に反日教育が強化されたのは政治的背景があるね。私:インドネシアではビルマやフィリピンのような激戦がなく、大規模な虐殺もなかったようだね。 むしろ、陸軍がほしかったのは石油とそれを採掘する労務者だね。 ロームシャはインドネシア語になっているそうだね。 この労務者徴用と米の強制供出が民衆を苦しめたようだね。 この強圧的な軍政に反対したのが有名な今村均大将だね。 反対したため、結局、パプアニューギニアのラバウル島にとばされる。A氏:俺たち、小学生の頃、軍歌でよく歌った「ラバウル航空隊」というのがあったね。 著者はそこまで訪れていないね。 ウィキペディアによると今村大将もこの島をアメリカ軍攻撃に対応して地下道作戦をとるね。 硫黄島の栗本中将と発想は同じだね。 米軍はそれを察したのか、戦闘を避け、兵糧攻めにするが、硫黄島と違い農業ができる。 それを予測して、島内に大量の田畑を作り自給自足を可能にしたので終戦まで食糧に悩むことはなく、餓死者はいなかったという。私:軍による虐殺事件はボルネオ島西部で、海軍憲兵隊による抗日陰謀計画弾圧として起こった。 著者はこの虐殺事件の背景に西ボルネオ開発200年史の理解が必要だというね。 この虐殺の記念碑は1977年、地元政府が建てたという。 しかし、日本占領期に起源を持つ隣組制度や婦人会がインドネシアでいまだに活動しているという。 これは、日本占領期にかかわるものを戦後すべて否定しようとしたフィリピンからすると考えられないという。A氏:今村均大将の軍政が関係していたのかね。 ウィキペディアによると、彼は戦犯で死刑にされそうになるが、現地住民の証言で禁錮十年ですむ。 インドネシア軍政時代の責任を問うためのオランダ軍による裁判では、無罪とされたね。 巣鴨刑務所に収監されるが、部下の戦犯者は環境の悪いマヌス島の刑務所にいるので、自らマヌス島に行くことを希望する。 マッカーサーは「真の武士道は生きていた」と感激し、マヌス島に移したというね。私:明日はタイだね。
2007.05.09
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A氏:昨日の朝、「みのもんたの朝ズバッ!」を見ていたら、この事故でゲストに失敗学で有名な畑村洋太郎教授が出席していたね。 氏は、金属疲労は外観では分からないことが多いと説明していた。 だから、マスコミの点検、点検という方向でのヒステリックな報道には批判的だね。 氏は、車軸の設計問題として取り上げるべきだという意見だね。 そんなことを君が昨日のブログで言っていたね。私:俺もこのテレビは見たよ。 しかし、氏の使用条件が設計の想定外で、設計上、止むを得なかったというような説明はおかしいと思うね。A氏:どういう点?私:今回は想定内の事故だよ。 毎日、ジェットコースターを繰り返し運転すれば、力は車軸にかかる。 そうすると次第に金属疲労を起こし、あるとき、破断するというのは中学や高校生レベルの常識だよ。 それにしても、畑村氏が警告したにかかわらず、予想通り、NHKも朝日新聞などマスコミは検査、検査とヒステリックだね。 NHKは、夕方のニュースで普通のジェットコースターの点検まで取り上げだしたね。A氏:昨日、君はブログである期間で車軸を全部交換するという予防保全のことを書いていたね。 ところが、昨日の朝日新聞の夕刊では、その視点で取材していたね。 他の遊園地はそれをちゃんと数年前からやっているんだね。私:この朝日新聞の取材は検査でなく、的をついているね。 その点、もっと、その面で明確な取材記事は今日の日経新聞だね。 この「トーゴ」の立体コースターはほぼ同じ時期に日本では4つの遊園地に設置された。 日経はその4つの遊園地の軸の交換間隔を比較取材している。 事故を起こしたエキスポランド以外の3つは、定期的な間隔で交換してきているという。 大体、6年から8年くらいだね。 15年たって車軸を交換していないのは、今回事故を起こした大阪のエキスポランドだけだ。 ワシオハイランドは5年から6年ごとに交換している。 その設備担当者は「金属疲労の可能性を考え点検で異常が出なくても交換している」と言っているそうだが、これが常識だね。A氏:何かJISでは、超音波などの探傷検査を年1回以上やるようにという規格があるようだね。私:実は、これはやりにくい方法だね。 同じジェットコースターでも今回のように立って乗るようなものは力のかかり方が強いから点検頻度を多くしなくてはならない。 それとコースターの走行距離、カーブ数、稼働時間(客の混みぐあい)などで疲労度が遊園地で条件が違うからね。 それに5年たったときの点検頻度は年1回でも、10年たったときは年2回か3回くらいしないと危ないかもしれない。 検査は見逃しもあるしね。 そっくり交換したほうが確実で安全だね。 だから、どうも、俺は今回の事故の原因は設計ではないと思ったね。 エキスポンランド以外は保全計画を立てて交換している。 エキスポンランドの施設運営業課長かなんかのテレビ会見を見ていて、運営管理者の低レベルが原因だと直感したね。 不二家の品質管理のようにね。A氏:あの課長が最初、法的には外観のチェックだけしか要求がなく、分解検査は自主的だと堂々と自信ありげに言っていたね。 ところがちゃんと国の規格であるJIS規格では外観だけではダメだと後で分かる。 そのJISがあるのは知らなかったと、次の会見で謝っていたね。私:要するにシロートだよ。 そして、形式的な点検報告を見破れなかった市役所が報告のウソを見破れなかったとまた追及されているね。 国会では国家公務員法の改正だといっているが、検査、検査の官庁の仕事がまた、増えるね。 逆の発想だよ。A氏:この課長がメーカーが点検方法を教えてくれなかったからというにも呆れたね。 受身では自分の仕事は果たせない。 だから、専門家を使いこなすべきだ。 その意識がない。 なるほど、その職業意識のない施設管理のシロートだね。私:事実、北海道のルスリツリゾートの幹部は「メーカーが車軸の交換時期の基準を示していない以上は、運営側が消耗の程度を調べるしかない」と言っているそうだ。 そして、7,8年ごとの交換基準を自分で設定している。 ところで、日経新聞では、別の記事で事故を起こしたエキスポランドの業績悪化を報じているが、その記事で一時、外注でやっていたメンテナンスを内製化して外注費削減に成功したとあった。 何かこれがシロートの設備管理屋になってしまった背景に、これがあるような気がするね。 最近、いろいろなところでプロが減っているような気がする。 団塊の世代の定年でもっと減るのではないの?
2007.05.08
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私:昨日、地球交響曲の第1章で象の話が出ると言ったね。 龍村氏は、この話をとりあげ、地球交響曲の考えを具体的に説明しているので、今日はこれにふれようね。A:象の話?私:象牙密猟者のために母親を殺され、2才で孤児になったメスの象エレナの話だね。 18才までダフニーさんという女性に育てられ、その後、野生にもどる。 ダフニーさんは今も、可哀そうな小象を飼っているが、問題はある年までに野生にもどさないと一人で生きていけないのだという。A氏:人間であるダフニーさんには、象を一人前に教えるというDNAがないからね。私:ところが、このエレナがタフニーさんと連携して、ある年齢になるとタフにーさんから小象を受けて、野生の訓練をしてくれるのだという。 龍村氏がエレナに会ったときは、38才だったという。 象は人間と同じ年のとり方だそうだね。A氏:動物はそういう子供のしつけや訓練をちゃんとやるDNAがあるんだね。 君のシートン動物記のウサギの例でもふれているね。 人間にはないのかね。私:シートン動物記でも小熊の親の話のように文明と接するとこの親のDNAがおかしくなる例があるね。 日本の親の子ども教育のDNA伝達は戦後失敗したね。 教育再生会議では今、子どものしつけまで言い出しているね。 母乳を与えよとかね。 「国家の品格」の藤原氏は、日本はそのDNAを明治維新、敗戦、バブル崩壊の3つで大きく失っていると言っている。 日本人は全部、過去を良いも悪いも放り出すという。A氏:でも、龍村氏はよく、そういう象を見つけたね。私:これも理屈ではないんだね。 あるときテレビのムツゴロウの番組を見ていたら、このエレナとダフニーさんが並んでいるのを偶然、目にした。 野生象とダフニーさんが仲良く並んでいるのを異様に感じた。 そして、その象の目がクローズアップしたとき、実にきれいな澄んだ目だというんだね。 これで気に入ったわけだね。 直観だね。 直感でなくてね。A氏:シナリオなんかどうするの?私:普通の映画つくりと違うんだね。 シナリオなしだ。 自主作品だから、金も余裕がない。 撮影時間はあまりとれない。A氏:そのエレナという象は野生で過ごしているんだろう。 よくタイミングよく、撮影できたね。私:それが不思議なんだという。 まず、ダフニーさんのところに行ったら、すぐにエレナ来たという。 ダフニーさんとエレなの間にどういうコミュニケーションがあるのか分からないのだという。 それなのにツーカーであるらしい。 耳に聞こえない音があるのかね。 人はもっと謙虚に自然との共生に学ぶべきだね。
2007.05.07
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A氏:ゴールデンウィークの最中の5月5日に、大阪の遊園地のジェットコースターの2両目が脱輪し、一名死亡したね。 昨日のテレビニュースでやっていたし、今朝の朝日新聞のトップに出ているね。 原因は2両目の車輪の車軸が破断したらしいね。私:また、例によって検査とか点検の問題にマスコミの興味が注がれているね。A氏:朝日新聞の朝刊の社説は「連休前に検査をしていれば」とあるね。 分解検査は年1回で、かなり精密な検査をやるらしいね。 今年は工事の都合かなんかで連休後になったらしいね。 日常の簡単な目視検査は毎日始業前にやっていたようだね。私:今回、車軸の破断が明確なので、俗にいう第一次原因は明確だね。 そうすると、焦点は車軸に絞られるね。 このジェットコースターは直立して乗るタイプだから、車軸には普通のコースターよりかなり力がかかるタイプだね。 その力を考えて車軸の強度設計をしているはずだね。A氏:三菱ふそうのハブ設計と同じだね。私:だから、今回も6両編成で破断したのは2両目だけだね。A氏:しかし、こういう致命的な事故は起きてはいけないのではないの?私:もちろんそうだよ。 こういう施設は毎日のように使うのだから、最初に設計した通りの強度を持っていた部品でも、磨耗してきて、強度も減ってくる。 だから、定期的な間隔での点検があるんだね。 これを保全とか保守というね。 その点検間隔が1年でいいか、半年でいいかも設計段階で技術的に決めるね。 これが保全計画だね。 簡単な点検項目は毎日、目視でやることを決める。 しかし、今回の問題のあった車軸の破断などは目視で簡単に分からない。 だから、重要部品は超音波などの精密点検を年1回など計画する。 さらに重要部品などは問題がなくてもある期間をすぎると強制的に交換してしまうね。 故障してから交換したり、修理するのを事後保全、故障していなくても定期交換するのを予防保全というね。A氏:そうすると予防保全では使えるものも交換することになるね。 コストがかかる。私:そのへんのポリシーが底辺にあるね。 だから、今回の事故を取材するなら、この部品に焦点を絞り、その部品の強度設計、部品メーカーの製造方法、予防保全がどうなっていたかを追及すべきだね。A氏:このジェットコースターは「トーゴ」という遊戯機械メーカーが製造し、92年に設置されたものらしいね。 15年たっているね。 「トーゴ」は04年に会社更生法の適用を受けたらしいが、部品は子会社が提供を続けているそうだね。 96年に全車軸交換を予定していたらしいが、していなかったという別なニュースも聞いたね。 これが予防保全かね。 また、交換したとしてウソの報告を自治体にしていたのではないのだろうね。 コストがかかるからね。私:どういう強度設計で、それに基づいてどういう保全設計をしたか、次にそれももとづき、その強度を持った車軸が部品メーカーで作られ、保全設計に基づいて保全がやっていたかが取材の原点だね。 再発防止のために、そういう方向の追求がほしいね。
2007.05.06
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私:龍村氏は映画監督だね。 彼の地球交響曲の説明CD(約71分)を聞いたよ。A氏:「地球交響曲」って新しいオーケストラ?私:誤解されやすい題名だが、映画なんだよ。 カタカナで「ガイア・オーケストラ」という。 1992年に第一作を発表以来、今年で6作目だという。 ガイアとはギリシャ神話に出てくる女神で、地球全体を扱うという。A氏:神話の映画化?私:そうではないね。 別に1970年に科学者のラボラック博士の「ガイア仮説」に基づいた考えだという。 要するに、地球は全体として1つの生命体だという考えだね。 例えば、人体は10の28乗個の原子よりなるが、1年で98パーセントは入れ替わる。 人は炭酸ガスを吐く。 それは植物に吸収されて、酸素を出す。 人体のミネラルも土から植物に吸収され、食べて人の体を作る。 人間と関係ないような岩も関係する。 地球全体が生きているわけだね。A氏:なるほど。 今まで、俺たちの地球概念は、地球という物体に生物が乗っかっているというものだが、岩も水も含め、地球全体が関連しあって生きているというわけか。 日本では、神社の御本体が石だということがあるが、石にも生命を感ずるわけだね。 具体的にはどういう映画なの?私:俺も見ていないね。 自主制作だから普通の映画館で見られないらしいね。 この説明CDでの監督の話によると、いろいろな人の体験をもとにした映画らしいね。 第1番では、アイルランドの歌手、アポロではじめての宇宙遊泳した飛行士、象を育てた人の体験談などがあるという。 第2番ではダライラマ、長い距離をすもぐりする人、ハワイとタヒチの間の5千キロの海上を昔ながらのカヌーで往復した人、無酸素で8千メートル級の高山をいくつも踏破した人などが登場するという。A氏:異能の人を集めた映画かね。私:そうではないというね。 これらの人はいろいろな面で能力を発揮しているが、共通している点は2つあるという。 1つは、自分の努力だけでなく、いろいろな助けを借りて達成できたこと。 2つ目は、目標とするイマジネーションというか、ビジョンを持っていたこと。 それも目標達成でなく、そのプロセスで思いがけない発見をすることがあったこと。 今年発表の第6番は音楽がテーマだという。 それも人に聞こえない音の音楽だという。A氏:そんな音楽があるのかね。私:龍村氏は、地球のいろいろなものはお互いに関連しているのだから、それを結んでいるものがあるはずだという。 それが音だという。 インドでは音は神なりという言い伝えがあるという。 地球のいろいろなものは独自の音楽をもっている。 それがオーケストラのように関係しているという。A氏:それで思い出した。 5月3日のTBSの夜9時54分からの5分ぐらいの「hito」という短い番組なんだよ。 最初は、何かのコマーシャルかと思っていた。 チラッと見ただけなんだが、いろいろな音のシーンが出ていた。 自然などの実に美しいすがすがしい画像が流れていた記憶があるね。 しゃべっていた人が龍村氏だったんだね。私:ヨガでも、アー、ウーと口で音を出し人体の60兆の細胞を振動させるという行があるね。 今日、たまたま、スポーツクラブでやってきたがね。 彼は、現代科学の内容は、すでに過去の宗教などで直観的に把握されたものと同じになりつつあるという考えだね。A氏:それを映画に表現しようというわけか。 興味があるね。 それに環境問題と関係するね。 今年は黄砂が多いようだが、俺の灰にも中国の土が入っているのかもね。私:龍村氏は、地球を1つの生命体としてとらえる考えは環境重視の原点だとしているね。 こういう視点から環境の重要性を理解できるという点で参考になったね。 機会があったら、映画も見たいね。
2007.05.06
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私:日本の自民党と民主党の選挙戦では格差問題が争点になりにくいことが以前指摘されていたね。 ところが、フランスでは格差問題が大統領選挙の中心課題となっているね。 3日のテレビでフランスの大統領選挙で右派のサルコジ氏と左派のロワイヤル氏のテレビ討論の場面が出たね。 サルコジ氏が市場原理導入的な考えで、ロワイヤル氏が格差拡大に反対という典型的な対立だね。 A氏:昨日の朝刊でこのテレビ討論を取り上げ「静」サルコジ氏、「攻」ロワイヤル氏という記事が出たね。 世論調査では五分五分らしかったが、2時間38分に及ぶテレビ討論後は、ロイヤル氏の攻撃的な発言が嫌われたのか、6対4くらいでサルコジ氏有利となっているらいしね。 確かに、テレビを見ると従来、サルコジ氏のほうが攻撃的な発言姿勢だったから、逆になった感じだね。 テレビはこわいね。私: フランスは昨年だか一昨年だか忘れたが、若年者雇用で2年以内であれば即解雇できるというような法令を発行しようとしたね。 このときは、ものすごい反対デモにあい、引っ込めているね。 ヨーロッパ先進国は労働者の保護と環境対応も先進国で、アメリカと違い市場原理主義の「マラソン史観」からは外れていたのに、このへんからおかしくなってきたのかね。A氏:労働時間も日本と比べると極端に少ないね。 フランスは世界最短と言われる法定労働時間36時間。 どこかのテレビでフランスの家庭生活での時間を大事にするシーンを描いていたね。 それが少子化に歯止めをかけたのかもね。私:しかし、若者の高い失業率が問題になっているんだね。 この辺はかっての日本と似ているかもしれないね。 サルコジ氏は「フランス人は働かない。もっと働かないといけない」としてこの労働時間規制をはずし、労働時間の延長を求めているね。 公務員の大幅削減も主張している。A氏:明日6日、いよいよ、フランス国民がこの大きな選択をするね。私:日本同様にフランスも市場原理主義のマラソンに参加するのか。 それが決るね。
2007.05.05
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私:1946年、ドォマンは将来のアジアの見通しをまとめた。 日本の敗北、ヨーロッパ植民地主義の崩壊、ヤルタやポッダムの会談でソ連の利権を認めるというアメリカの戦略上の失策、その結果、アジア大陸に「権力の真空地帯」が生まれ、ロシアの伝統的な「南下」を再び許す結果になった。 このため、ソ連は日本国内の共産主義者を支援し、心理作戦の手法を用いて、経済的政治的混乱を撒き散らそうとする。A氏:だから、米政府は戦前の行動あるいは業績が親欧米的であった相手には政治・経済両面で支援すること。 管理的な頭脳を持った日本人を公職追放から解除して、アメリカが彼らを支援し、一般大衆を共産主義の仲間に入らないようにということをすべきであるという。私:1948年6月になると、ドゥマンはスガハラ、クライマンなどの助けを借り、正式なロビー活動を行う組織を作った。 これが米対日評議会(ACJ)だね。 ジョセフ・グルー、ウイリアム・リチャーズ・キャッスル、ハリー・カーン、ジェームズ・カウフマン、コンプトン・パケナムをはじめ、ドゥマンと親しい有名人を集めた。 この組織の活動は「ジャパン・ロビー」の活動と言われ後に、財閥解体の緩和、岸、鳩山、正力などの公職追放の解除として、いわゆる「逆コース」として実を結ぶね。私:しかし、真珠商会のほうの日本相手のビジネスはいろいろなプロジェクトがあったのだがうまくいかない。 そうしているうちに、1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発。 戦争は、CIAの活動を活発化する。 このCIA活動に協力すれば自分たちの利益拡大が図れるかもしれないとドォマン・グループは考えた。 彼らは太平洋戦争のときにCIAの前身であるOSSにいてマリゴールド作戦の経験もある。A氏:そこで1950年にW作戦が登場するのか。私:Wはタングステンの化学記号だね。 これはCIAが関係するので、ロシア生まれのクライマンがこの作戦から除外された。 しかし、W作戦は思ったようにいかず、尾を引く。 一方で、スガワラはOSS時代の人脈を生かし、スパイ活動も行っていたようだね。 その例として、北朝鮮の武器工場に日本製のローラー・ベアリングが流れていることを日本にいるスパイからキャッチ。 その秘密情報を入手して、密かにCIAに連絡し、密輸を阻止する。 また、1954年に13人の米人が北京で禁固刑を受けて投獄されたという事件が起きた。 この釈放で裏の活躍したようだ。 いずれにせよ、1955年に釈放される。 こうした裏の話は、墓場まで持っていくと彼は言っていて、事実そうなったという。A氏:日本テレビのマイクロウエーブ放送認可問題にも絡んでいるね。私:そのうちに、ドォマンは胃潰瘍で1955年に引退。 彼は1968年に死亡している。 彼の上司だったグルーはその3年前に死亡している。 いずれにせよ、1957年ごろまではケイはビジネスでは成功したといいがたい。 しかし、海運業に転換してから運命は好転する。 このきっかけを作ったのは、日本の造船業と戦前からつながりが深いクライマンの助言だね。 1956年、スエズ運河が国有化され、閉鎖された。 この国際危機により大型タンカーブームとなり、これにうまくケイとクライマンは乗っかることができた。 こうして、ケイは日本企業とタイアップしながら海運業でようやくビジネスとして成功の波に乗ることができた。 この辺から、俺の知的興味を離れた海運業の話になっていくね。 1958年4月、クライマンが突然の心臓発作で死亡。 53才だった。A氏:ケイを収容所からOSSにスカウトし、ジャパニーズ・コネクションを持つビジネス・パートナーとなり、ケイにとっては言わば父親のような存在だったんだね。私:クライマンの葬儀は東京で行われたという。 弔辞で「『彼は非公式な駐日アメリカ大使だった』というより『彼は非公式な駐米日本大使だった』というほうが適切である」と言われたという。 ケイのほうのビジネスはその後、成功を続ける。 1979年、70才になって社長の地位を長男に譲る。 1988年、ケイは肝臓ガンでなくなった。 79才であった。 ドゥマン、クライマン、ケイのドゥマン・グループはかくして、戦前戦後の日本をめぐって、それぞれの波乱万丈の人生を送ったことになるね。 敗戦後の占領時代の「逆コース」というその後の日本の歴史に影響を与えた陰の「実行部隊」として、本来、敗戦前後の日本史に残る人たちだったかもしれないね。
2007.05.04
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私:ところで、君は、この日系二世の海運王といわれるスガハラ氏を知っているかね。 1987年の「河北新報」では「日系米人最高の成功者」とたたえられているという。A氏:君のブログでドゥマン・グループの一人として、正力と交渉するね。 「軍隊なき占領」(原書は1995年刊)でも登場するね。 しかし、あまり知られてない名前だと思うね。 海運王というけれどウィキペディアにもないみたいだね。私:父親は仙台の武家の出身で、1980年代に二十歳になる前にアメリカに移民。 この主人公となるケイは、1909年にアメリカで生まれる。 この本はそのスガワラ氏の波乱万丈の一生を、著者は学者らしく客観的に描いたもので、彼が関係する人物を通して戦後史だけでなく、戦前のアメリカの外交も詳細に描いているね。 しかし、「日本テレビとCIA」では菅原啓一とあるが、「軍隊なき占領」ではケイ・スガワラ、この本でもケイ・スガワラだね。A氏:2世だから、漢字はなくなるね。私:ケイの家族は最初、シャトルで食品雑貨店を開く。 後にロスアンゼルスのリトル・トーキョーに移り、ここでも食品雑貨店を開く。 しかし、ケイが6才のとき、5人の子どもを残し母がなくなる。 父親は娘三人を孤児院に、ケイと弟のロクは残る。A氏:1924年にアジア人排斥法(俗にいう「排日移民法」)が連邦議会を通過するね。私:1920年代に年頃になる日本移民にとっては公然とした差別に向き合うことになるが、ケイはさして気にならなかったようだ。 しかし、12才のとき、酒癖の悪い父を失い、孤児となる。 苦学して大学を出る。 幸い、日本製品の輸入業務の会社に勤め、25才で結婚する。 そして独立してビジネスを開始する。A氏:なかなかビジネスセンスがあるんだね。私:日米の関係が悪化して、日本人移民のドルが円に交換できなくなる。 中国にコネのある小松という人物と提携して、ドル手形を上海などに商取引のように見せて送り、中国で円に換金する。 これを小松の関連する日本の会社に送り、そこで円を受け取るという方法考え、その手数料を取ることも始める。A氏:しかし、二世は顔は日本人だが、アメリカ市民でもあるね。私:そのうちに、ついに日米開戦となる。A氏:悪名高い日系人の収容所送りがあるね。 ナチスのユダヤ人に対する扱い並みだね。私:1942年、ケイやその家族などはもコロラド州の南東のはずれ、すし詰めの列車で砂漠の町グラナダのアマチ収容所に送られる。 しかし、戦争に役立つ仕事をしたいというケイの熱意で海軍語学校関連の仕事をする。A氏:1943年にはルーズベルト大統領は二世だけで編成される戦闘歩兵部隊の創設を許可するね。 ケイは応募したの?私:志願したが何故か受け入れられなかった。 その秋、彼の人生の大きな転機がきた。 1943年秋、陸軍大佐マクスウエル・クライマンが収容所に来て「日本語ができて忠誠心あふれる」日系人を探しに来た。A氏:クライマンと言えば、「日本テレビとCIA」で登場するね。 戦前、日本の財界のトップ層と関係が深く、日米開戦回避に最後まで努力した人だね。私:クライマンは戦略事務局(OSS)士気工作部の心理工作チームにいてその活躍に必要な人材をスカウトに来たんだね。 日本兵の士気をそぐための日本向けの宣伝活動を行うマリゴールド作戦のためだね。 こうしてケイはニューヨークに行く。 こうしてケイのOSSでの活動が始まるが、マリゴールド作戦の顧問のドゥマンと知り合い、その日本に精通している知識経験に敬意を表して、自分たちのことをドォマン・グループと呼んだ。 マリゴールド作戦自体、効果は疑問視されている。 しかし、ケイは民主主義の名のもとに、秘密裏の交渉は正当化され、手段を選ばないということを学ぶことになる。 戦後、クライマンがニューヨークに残ることを進めたので、クライマンと共同出資で「真珠商会」を設立するが、裏の活動は戦後のドゥマン・グループの活動拠点と考えていた。 ドゥマンは、その誘いに喜んで「真珠商会」に参加する。 かくして、戦後、マリゴールド作戦のドォマン・グループは再結集するね。 こうして、ドォマンとクライマンの日本の戦前からのジャパニーズ・コネクションを生かし、ケイは戦後日本の財界、政界と結びついて活躍することになる。
2007.05.03
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私:国務省のグルーとドゥマンの二人は、日本の早期降伏のカギはアメリカが天皇制存続と経済面での独立を保証することにあると考えていた。 1945年5月末、東京が空襲で壊滅状況になりつつあった頃、グルーは日本に降伏を勧告する適切な時期と考えた。 そこで、ドゥマンに日本に対する降伏勧告の簡潔な大統領声明書の草案を作るように命じ、これをトルーマンに提出した。 後のポッダム宣言のもとになる案だね。 しかし、トルーマンは側近とトップレベルの話し合いの結果、この進言は退けられた。A氏:でもそれは5月の話だろう。 ポッダム宣言は7月だよ。 随分、間が空いたね。私:遅らせた原因に並行して進んでいた原爆開発がからんでいるね。 7月に第1回のテストがあるので、テストが成功すれば強力な外交の脅迫カードに使える。 陸軍長官スティムソンは、それによって日本に降伏勧告をすれば、米軍の本土上陸やソ連の参戦を待たずに、日本を降伏させることができると進言した。 トルーマンはそれで降伏要請の大統領声明の発表を7月まで遅らせた。A氏:やれやれだね。私:しかし、グルーは諦めなかった。 再度、大統領と話した。 その間、スティムソンの考えも変化して、「現皇室のもとでの立憲君主制」を許すというグルーとドゥマンが満足する内容の案が作成された。 ところが、7月3日に国務長官がバーンズになった。 バーンズは国務省官僚よりも側近を信頼しており、ルーズベルトの後を継いで戦後もソ連と密接な関係を保ちたいと考えていた。A氏:天皇制維持の問題はどうなったの?私:バーンズの側近は天皇制存続には反対意見だった。 背後に世論もあった。 決め手になったのは元国務長官のハルの天皇制存続反対の意見だった。A氏:また、ハルの登場か。私:7月21日、原爆実験成功のニュースを受け、原爆投下が降伏要求の検討条件に加わった。 だから、トルーマンは7月26日のポッダム宣言では天皇制に関する言及は無理して入れるに必要がないと判断した。A氏:天皇制はまな板の鯉だね。 風前の灯だね。私:日本側が国体護持の保証がポッダム宣言に明記されていない、ということで1週間くらいもめているうちに、原子爆弾が落とされ、ソ連が参戦する。 これに対して、日本側は国体護持を認めるのであれば、ポッダム宣言を受諾すると8月10日に回答してきた。A氏:天皇制反対のバーンズ長官はこれを拒否するだろう。私:ところが、ソ連参戦はバーンズ国務長官の態度を変えさせた。 ソ連の中国への進出を食い止めるには、戦争を早期に終結させ、天皇制護持の日本の主張を認めることが必要だと判断する。A氏:グルーやドゥマンが心配した通りにソ連が動いたではないかね。 原爆よりもソ連参戦が終戦の決定打だね。私:バーンズ国務長官は回答の検討に入ったが、最初、グルー、ドォマンなどの日本専門家を議論に加えなかった。 プライドをもっているグルーは、自分の部屋とバーンズの部屋の間の扉を開け「国務長官、日本に対する通告を作成しているのなら、私か誰かほかの者が役に立つと思うのだが」と言った。 バーンズは、しぶしぶグルーやドゥマンが議論に参加することを認めた。 それに基づいたアメリカの回答で日本側は8月14日の2回目の御前会議での聖断で降伏する。A氏:はからずも、ソ連の進攻が天皇制を救ったのかね。 事実、もっともたもたしていたら、8月23日にはソ連軍が北海道に上陸しただろうから、戦後の日本占領はアメリカとソ連の分割占領になっていただろうね。 そうしたら、天皇制はなかったかもね。 タッチの差だね。私:65歳のグルーは持病の胆石もあったので8月15日を機に国務省をやめる。 後任にはアチソンが国務次官となる。 アチソン嫌いのドォマンも国務省をやめる。 皮肉なことに、日本占領開始とともに二人が去ったので、国務省の知日派は弱体化し、かえって、中国派が復活することになる。 56歳のドゥマンはロビー活動に移ることになる。 グルーも3年後、「ジャパン・ロビー」の共同名誉議長になり、ドォマンと一緒になる。 これがマッカーサーの厳しい占領政策を覆す「逆コース」の原点になるね。 明日から、本題のスガハラ本人の外伝に移ろう。 日系二世のスガハラも逆コース活動に参加するね。
2007.05.02
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私:日本の敗戦前後の研究はアメリカの学者のほうが優れた研究をしているように思うね。A氏:ジョン・ダワー著「敗北を抱きしめて」(1999年原書刊)など、名著だね。 われわれ世代が持っている戦後史の先入観を変えるような知識を提供してくれるね。私:「ジャパニーズ・コネクション・海運王・スガハラ外伝」(1995年刊)の著者のションバーガー氏もアメリカ外交史、日本占領史などの研究の専門家だという。 1975年、広島大学講師として一年滞在している。 1940年生まれ、1991年、惜しまれて若くして急死。 この本は最後の原稿段階のものまで含めたものの翻訳だね。私:ケイ・スガワラの一生に関連して、いろいろな外交史がからむのだが、俺がこの本で最も知的興味を引かれたのは、敗戦のとき、日本の天皇制は危なかったことだね。 首の皮一枚と偶然の連鎖でつながった感じだね。 これについて、ケイ・スガワラ本人の話に行く前にふれておこう。 敗戦前後の日本の指導層の動きは比較的明らかだけど、当時のアメリカ政府内の対立などの政治的なゴタゴタは俺たちはあまり勉強していなかったからね。A氏:アメリカ政府の日本に対する姿勢は、一貫して天皇制は廃止しないというものでなかったの?私:この本によると違うね。 日本生まれのドゥマンは1937年に日本に戻り、アメリカ大使館ではジョセフ・グルーにつぐナンバーツーとなる。A氏:日米開戦を回避するように、親日派の二人は本国に訴えて努力するね。私:1941年末、日本の首相の近衛文麿からホノルルでルーズベルト大統領と会談したいという申し入れがあったので、二人は飛びつく。 しかし、日本に対して強硬なハル国務長官は拒否する。A氏:日米衝突のきっかけとなるハル・ノートで有名だね。私:こうして二人の意図に反して、戦争は開始され、日本に軟禁されたが6ヶ月後に帰国を許される。 しかし、1944年、日本の敗色が濃くなるとともに、日本の降伏条件、占領政策にかかわるため、二人は国務省に復帰する。 この頃、中国共産党の躍進で米国の戦略が変化する。 そのためか、1944年、グルーは国務省極東局の局長になり、ドゥマンも部局間地域委員会のメンバーとなる。A氏:いよいよ、二人の活躍の場ができたね。私:1944年11月21日、ハル長官が病気で辞職し、後任のステティニアス長官は国連設立のため多忙なので、グルーは国防次官としてその立場は強くなり、従来の中国派に対して日本派が主役となる。 新設の極東小委員会議長にグルーの推薦でドゥマンがなる。 ドゥマンは占領後も天皇制を残す考えであったが、いかにルーズベルト大統領を説得するかが問題であった。 そして1945年2月にヤルタ会談が開かれ、ルーズベルトはスターリンとチャーチルと極東問題について合意したが、これはドゥマンが関係する委員会に何の相談も通告もなかった。A氏:ドゥマンは怒るだろうね。私:ドゥマンはヤルタ協定が実行されれば、ソ連によるアジアの共産化がすすむと考え、ふるえ上がったという。 さらに悪いことに、ルーズベルト大統領は、モーゲンソー財務長官に自由裁量を認めたので、委員会の支配権は弱まるのではないかと予測された。 モーゲンソー率いる財務省はドイツ占領計画を練る委員会を牛耳っており、その委員会はドイツに対して分割占領、政治権力の分権化、重い賠償、重工業のカルテル解体という「厳しい平和」の占領政策を打ち出していた。 日本に対しても、同様な占領政策を財務省が口出しをしてくることが予想された。A氏:ドイツと同様の占領政策が日本にも適用されたら大変なことになるね。私:ところが、4月12日、ルーズベルト大統領が急死した。 トルーマン大統領はモーゲンソー財務長官を嫌っていたので、その恐れはなくなった。 しかし、そのうちに、トルーマン大統領も日本に対する厳しい無条件降伏をとなえ出した。A氏:二人にとってもは一難去って、また、一難だね。私:明日は、原爆投下がからむトルーマンの思惑からはじめよう。
2007.05.01
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