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今年はモーツァルト生誕250年、ショスタコーヴィチ生誕100年、武満徹没後10年にあたる。そのため、彼らの作品を取り上げるコンサートが多い。札響第486回定期演奏会は、このオーケストラとの関わりが深かった武満徹作品によるプログラム。出世作「弦楽のためのレクイエム」、首席ヴィオラ奏者の廣狩亮をソリストに迎えて「ア・ストリング・アラウンド・オータム」、トゥイル・バイ・トワイライト、ウェールズの女性フルート奏者エミリー・バイソンをソリストに迎えて「ウォーター・ドリーミング」、テレビドラマ「波の盆」の作曲者自身による編曲版。指揮は音楽監督の尾高忠明。いわゆる現代音楽のコンサートにもかかわらず、客席は8割の入りで、途中で席を立つ人もいなかった。世界で初めて武満徹作品だけで定期演奏会を行ったのは札響で、それは1976年のことだった。今回演奏された作品では「弦楽のためのレクイエム」を除いてまだ作曲されていなかったころの話だ。46歳の作曲家がステージに現れたときのことはいまも鮮明に覚えている。ストラヴィンスキーは「あんなに痩せた男から、こんなに厳しい音楽が生まれるとは」と言ったが「あんなに小さな男から、こんなに大きな音楽が生まれるとは」と大学浪人中の男は思った。痩せて小さくアタマが大きい独特の風貌が音楽以上に印象的で、いまだかつて響いたことのない新しい音、新しい音楽を生み出す作曲家というものに強烈な憧れをかきたてられたものだった。1982年には、とある雑誌社の主催で、やはり武満作品のみによるコンサートが開かれた。札響の演奏で、すべて世界初演曲という意欲的というよりは破天荒なものだった。1994年には、武満徹はパシフィック・ミュージック・フェスティバルのレジデント・コンポーザーになり、室内楽や声楽も含めてたくさんの作品が演奏された。これらの「音楽史的に見ても画期的に重要な」コンサートのすべてに立ち会ったのは誇りであり、というかこれくらいしか誇ることはないが、それはオリンピックで金メダルをとるよりも誇らしいことではある。そんなぼくになぜ道行くすべての人がひれ伏さないか、不思議に思うくらいだ。武満さんは札響を愛していた。札響の、よく晴れた日の支笏湖の湖水を思わせるような澄んだ響きもさることながら、音を出すこと、音楽を演奏することに対するひたむきなまじめさや謙虚さを高く評価していたのだと思う。タケミツを演奏する指揮者はかなり増えたが、それでも、小澤征爾、ケント・ナガノと並ぶ「タケミツ指揮者」の最高峰のひとりが尾高忠明だと思う。武満さんがもしこの会場にいたら、満足しよろこんだ演奏だったと思う。じゅうぶんに繊細な「タケミツ・トーン」を響かせていた一方、大きな音のところでも響きが濁らず透明さを保っていたのは、指揮者とオーケストラの両方の功績だと思う。ひとつだけ注文をつけるとすれば、響きがあまりに明るすぎたと思う。この世のスキマを通ってあの世から聞こえてくるような武満徹の音楽には、たとえば「ウィンター」や「アステリズム」、「テクスチュアズ」などの作品にもあるように、ひやっするほど怜悧で、ぞくっとするほど暗く重く厳しい響きの部分もある。そういう部分は、もっと暗く固い凝縮した音色が欲しかった。最後に演奏された「波の盆」では、映画音楽やテレビドラマのための音楽もたくさん作った武満徹の一面を知ることができた。こういう機会は、コンサートではほとんどないと言っていい。思えば、70年代から80年代の前半にかけては、こうした大家の名前を映画やテレビのクレジットでよく見かけた。あのころは、何というぜいたくな、音楽の黄金時代だったことか。
February 25, 2006
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「バベットの晩餐会」におけるフランス料理、「ショコラ」におけるチョコレートのような役割を、音楽が果たしている。そんな映画。こういう映画がいまだに作られるということは、北ヨーロッパは依然としてプロテスタント的な因習が支配的なのだろうか。欧米人は、自分の住んでいるところが世界の中心だと思っているところがあるからあんがいそうなのかもしれない。健康を害して引退した指揮者が、幼いころ離れた故郷に戻ってくる。彼は聖歌隊の指揮者になるが、聖歌隊のメンバーひとりひとりの中に元々ある「音楽」を引き出していくような破天荒なレッスンを行っていく。彼のレッスンで自分の価値にめざめた女性たち、それに対応できない男たちという構図には、プロテスタント倫理の女性抑圧的な側面が描かれている。観ている途中で作者の意図がわかってしまうと、映画はもうつまらない。しかし、この映画は、なかばほどで作者の意図がわかってしまっても、いろいろなことを考えさせてくれた。人の心を開くものはなにか。フランス料理か、チョコレートか、それとも音楽か。フランス料理とチョコレートをふんだんに食べ音楽に浸っているのに偏狭な人間がいるのはなぜか。五感を刺激するものが、たしかに閉じた心を開くことはある。しかし、それはいつでもではない。ある条件が必要だと思うが、それは何か。この映画を観て思ったのは、戦争の反対語は平和ではないということだ。20世紀フランスの作曲家オリヴィエ・メシアンは、「すべての人が音楽家か野鳥愛好家になれば、戦争はなくなる」と言った。戦争の反対語は音楽だったのだ。それも静的な音楽ではない。ひとりひとりの心の中にあり、まだ発現されていない音楽。これから生まれるべき音楽。その音楽油田の埋蔵量が足りないから戦争のようなことが起きるのではないだろうか。では人の心の中に音楽を芽生えさせる契機となるのは何か。音楽の起源については諸説がある。労働のときのかけ声、セックスのエクスタシーのときの高低差・・・いずれにせよ生活の中から偶然に生まれた美しい響きや音の連なり、それを美しいと感じた人間の感性が結晶させたのが音楽だ。とまあこんなことを考えながら観ていたのだが、指揮者と恋に落ちるレナは、どこにでもいそうだが健気で勝ち気な少女で、こういう娘となら結婚してもいいと考える男は多いだろうなというか、そういう女性像を構築することにはこの映画は成功していたと思う。レナ以外の登場人物のすべてがかつて描かれたことのあるキャラクターであり、たとえば「歌え、フィッシャーマン」と比べるとどうしても作りもの感はいなめない。観客のほとんどは中高年の女性。さすがに女性はいい映画に対する感度が鋭い。しかし。この映画観て不幸な女性たちに感情移入しているヒマがあったら、濡れ落ち葉のワシ族は粗大ゴミの日に出して「自分の歌を歌う」べきではないだろうか。
February 17, 2006
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母は放射線治療のため市立病院に移った。16回だから3週間弱。空いていたので特別室をとった。差額ベッド代は一日一万円。個室にはバス・トイレだけでなくキッチンまである。広い窓からは藻岩山まで見渡せる。ここに住めたらいい、と思うほど便利な場所だ。JR桑園駅からすぐで、駅と隣接してジャスコがある。買い物はほとんどここで済む。ガード下には飲食店が並んでいる。JRに乗ると2分で札幌駅。一大ショッピングゾーンでシネコンもある。東側に北大キャンパス内の農場を見下ろす位置にあるので都心の割に自然が豊富な印象を受ける。10年ほど前にできた建物らしく、全体に広くて清潔で雰囲気も明るい。珍しく男性の看護師がいる。女性の看護師とまた違ったよさがあるように感じる。個室だと家族水いらずで過ごせるからいい。聖路加病院などはすべて個室だというが、それがあたりまえになるべきではないだろうか。もう、がんを根絶するなどという大それた考えは持たなくなった。がんは消えなくてもいいから、これ以上ほかに転移したり大きくならなければそれでいい。
February 1, 2006
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