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国立機関が発表した人口推計が話題になっている。50年後に日本の人口が8千万人台になるという予測に、危機感を募らせた論評が目につく。出生率が1.26のまま推移するとは思えない(もっと下がると思う)のだが、1近くの低位推計でも8千万人台はキープするらしい。なーんだそれしか減らないのかと思うとがっかりである。ローマ・クラブの「成長の限界」を持ち出すまでもなく、現在の地球の最大の問題は人口問題である。人口が多く、しかも爆発的に増えているからこそ、環境破壊や資源枯渇といった問題が起きるのだ。これらを解決するのには、何と言っても人口が減るのがベストであり、それ以外に根本的な解決策などありはしない。このままでは100年しかもたない資源も人口が半分になれば200年もつし、人口が10分の1になれば1000年もつことになる。人口が減ると、すばらしい世の中になる。広い土地、広い家にゆったりと暮らせるようになる。交通渋滞や通勤ラッシュは消滅する。マグロ、カニ、ウニなど山海の珍味も手頃な値段で食べられるようになるだろう(笑)牧畜や農業(有機農業を含む)は自然破壊の最たるものだが、その面積が縮小することで自然はよみがえる。そもそも自然から逸脱した狂った存在である人間など、地球から消えてしまった方がいいのだ。人間がいなくなれば、いじめから戦争にいたるあらゆるバカげたことが地球から消える。ヤクザも珍走団もマフィアもカルト宗教も蛇頭もなくなってすがすがしい。しかし、太陽の寿命でも尽きない限り、そう簡単に人類は滅びないだろう。時間はかかるが、誰も何も傷つけずに、人類をゆっくりと消滅に向かわせる方法がただひとつだけある。女性が子どもを産まないことだ。故・千葉敦子は『ニュー・ウーマン』(1982年)の中で、「現在直面している問題の大半は過剰人口からきている」と指摘した上で、女性の生きがいを「子を産み育てる」という行為をのり越えたところに見いだして欲しいと言い、女性が子どもを産まないことによって社会に多大な貢献をすることができる、どうしても産みたい人は少なく産んで欲しいと述べている。この意見には全面的にさんせいだ。ギタリストで作家だった故・深沢七郎は「子どもを産むのは犯罪」(日経81年11月10日)と言ってる。人口過剰が「諸悪の根源」だとすると、たしかに子どもを産むのは犯罪的なことだ。大竹愼一は『日経平均4000円時代が来る』の中で、家を持たず、子どもを大学に行かせないことが、日経平均4000円時代のサバイバルになるという主旨のことを述べている。しかし、これは結論としてはいかにも中途半端だと思う。きっぱりと「家も子どもも持たないこと」と言い切ってしまった方がよい。子どもがいなければそもそも大学に行かせる必要がないからだ(笑)日本は先進国で最も婚姻率が高く女性の有業率は低い。これは、戦後生まれの世代、特にウーマン・リブ世代と同じ「男女平等」の理念で成長した世代に、職業ではなく家庭に入ることを選択した人たちが多かったからだ。世代として最もバカが多いのが、このいわゆる団塊の世代だということだ。しかし、時代が進むと共にどんどん女性の有業率は上がり婚姻率は下がっている。出生率が低下するのはあたりまえであり、大正生まれの女性でさえ、高学歴・高収入な女性ほど晩婚もしくは非婚で子どももいないか少なかった。札幌の女性の出生率は全国でも最低で、1を切っている。子どもを産まないことを選択する女性が最も多い都市に住んでいることを誇りに思う。こういうわたしも、長い間、人間の成長にとって親になることは必要だと思っていた。というのも、独身を通した叔父と、子どもを持たなかった叔母夫婦に、共通して欠落している部分があるのを感じていたからだ。しかし、それは身近なサンプルがたまたまそうだったというだけだということに気づいたのである。人間的に立派な人の割合は、子どものいる人たちよりいない人たちの方が多い。たいていの人は子育てに追われ、読書をする時間もないから無教養な人間になっていく。貧すれば鈍すで、人間的な感性まで干からびてしまうケースも多い。教師だった母の「家庭訪問」の話から浮かび上がってくるのはそういう親たちばかりだった。いまはさすがに非婚男女を奇異の目で見る人はいなくなったが、それでもまだ子どもを持たない女性を異端視する風潮は強い。こうした風潮に対する最も有効な戦略は、極論を対置することだ。すなわち、子どもを持つことを選択した人たちを犯罪者・キチガイ呼ばわりすることだ。できてしまった子どもには、子どもを持つのは罪悪であることを教えるのが、親として最も重要な仕事だということをわからせる必要もある。人口が減るまでには時間がかかるが、女性が子どもを産むのをやめれば、いじめや子どもの自殺、親の子殺しはすぐになくなる。いわゆる途上国では非婚化と子どもを持たないことが女性の自立を促し経済発展のきっかけをつかむことになる。破滅か繁栄かは女が子どもを産むかどうかにかかっている。待っているのは食糧危機で人類が餓鬼のようになる地獄か、それともバラ色の未来か。
December 26, 2006
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もう一人だけモーツァルトに影響を与えた音楽家を(父レオポルド以外で)あげるなら、ヨーゼフ・ハイドンであろう。よきライバルでもあった二人の、お互いへの敬愛に満ちた交流は、ヨーロッパ音楽史の最も美しいページとなっている。当時の音楽会は社交と娯楽の場であり、観客は音楽よりも歌手の美声や容姿がお目当てだった。交響曲は歌手が登場するまでの前座やつなぎにすぎなかったし、室内楽も貴族の食事やパーティのBGMでしかなかった。それらの芸術性を高め、聴くためのものとして確立したのがハイドンである。「パパ・ハイドン」、つまり音楽の父と呼ばれるのはそのためだし、モーツァルトがハイドンに尊敬の念を持ち続けた理由でもあった。ハイドンの音楽は芸術性が高いだけでなく庶民的な感覚とユーモアに富む。その点もモーツァルトのお気に入りだったにちがいない。ハイドンの宗教曲は当時の教会権力から「陽気すぎる」と批判されたが、ハイドンは「陽気に神さまを讃えてどこが悪い」と反発した。これも、ハイドンが自立した芸術家の魂を持っていたことを示す証拠だ。モーツァルトの音楽がイタリア的な明るい歌に満ちた快楽的な傾向があるのに対し、ハイドンの音楽はメリハリのあるリズムで縁取られた緊密な構成美を魅力としている。一方、協奏曲や声楽曲にはモーツァルトも顔負けの流麗の歌があり、ハイドンの別の一面を伝えている。中でも二曲あるチェロ協奏曲は、ハイドンらしい堂々とした風格の中に、明るくのびやかな歌と限りない優しさが息づく佳作。若々しく弾む第1番、よりあたたかく円熟味に富む第2番と、いずれも雄弁なソロとオーケストラの陽気な応答が、旧友との楽しい再会を思わせる作品。積もる話が晴れやかな笑いとともにいつまでも続いていく。※アネル・ビルスマのソロとターフェルムジーク・オーケストラによる素晴らしいCDがある。オリジナル楽器は音色のふくらみを欠き、乾いた印象になることが多いが、このCDはオリジナル楽器の軽快さが曲想に合ってプラスに作用している。
December 21, 2006
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「家庭の幸福は諸悪の元」とは太宰治の言葉だっただろうか。同じことを11歳の夏に思った。親が家を建てたときである。11歳の少年にとって20年のローン期間はほとんど永遠に思えた。結婚して家庭を持てば家がいる。家を買うにはカネがいる。カネがなければ借りるしかない。ローンを払い終えるころには家はボロになっているだろう。また家のためにカネがいることになる。これでは家のために一生働くようなものだ。そんな人生はまっぴらだと思ったのが11歳のときだった。だから親のローン返済には最大限の協力をした。通学は徒歩または自転車。新聞配達や電話帳配達、電話消毒器の訪問販売、パン工場のアルバイトなどで小遣いを稼いだ。地元の国公立の大学でなければ行ってはいけないと思っていたし、実際、それで進学を断念した同世代はたくさんいた。結婚を諦めれば、人生の選択に大きな自由が得られる。必要最小限だけ働いて好きなことに打ち込むこともできるだろうし、起業などの冒険もできる。歴史を見渡してみよ。人類の進歩に貢献してきた人間の多くは独身者だ。根本のところでこう考えている男から女が去っていくのは当然だ。7年交際したクラスメートも、松坂慶子によく似た三越のエレベーターガールも、判で押したように25歳で去っていった。当時は医学が遅れていて20代後半が出産可能年齢の上限だったのである(ウソ)そんなとき現れたのが愛知県安城市出身で北大に入ったばかりのA子だった。北大演劇部の女優のひとりが、とあるカルト宗教に入信した。脱会させたいので協力してほしい。そう頼まれて出かけた喫茶店で、洗脳された人間特有の虚ろな眼をした女子学生の横にいたのが彼女。ほかに演劇青年特有の屈折した暗さを持つ男が数人いた気がする。そのうちのひとりはたしか宇都宮裕三とかいう名前だった。深刻になりそうな場なのに、好奇心の塊がこの世に生まれてきたばかりといった感じの彼女からは、非常に陽性のキラキラとした「気」が発せられていた。よく笑う娘で、その豪快な笑いは彼女の姓をとって学内で「コジマ笑い」と呼ばれていた。美人ではなかったが、長澤まさみとデビュー5年前の井川遥を足して2で割った感じの愛くるしい女の子だった。奇妙な魅力のある娘で、その奇妙さは、精神病の一種である境界型人格障害に由来していたと、あれから25年たった今では思う。この病気については当時は精神科の医者も知らない人が多かった。今でも医学オンチの裁判官や検察官は精神病とは認めていないが、いわゆる分裂病のようなかなり激しい症状を伴う病気で治療法はない。ただし発作がなければ普通で、その状態はかなり長く続くので、親しい人間でも気づかないことは非常に多い。しかし冷静に考えてみれば大学中退で定職にもついていない27歳の男との同棲を承諾する21歳の女など、アタマがおかしいに決まっている。それでも人格障害の彼女との生活は2年半続いた。目を離すといつ自殺するかわからないので一緒にできる仕事を選んだが、症状が悪化し、しばしば自殺未遂を繰り返すようになって、とうとう匙を投げた。共倒れするよりは、自分ひとりで生きようと考えたのである。この判断は正しかったと思う。株のロスカットと同じで、ダメなものはダメと一日でも早く見切りをつけるべきなのだ。2年半も引きずらず、もっと早く決断するべきだったが、それにはまだ人生経験が乏しすぎた。キチガイと暮らしてよかったのは、キチガイという差別語を堂々と使える資格を得られたこと、社会規範や道徳の刷り込みという一種の「洗脳」から自由なのはキチガイだけだということ=つまりこうしたものを疑いなく信じている「正気」の人間はみなキチガイよりキチガイだということがわかったことだ。ついでに言うと、精神科の医者にはかなりの割合でキチガイがいると思う。キチガイがキチガイを診ている光景は、これはもうユートピアかパラダイスと言えよう。彼女は料理が得意だったので、最後の一年はキャリアバンクという上場企業の前身が大家のビルの一階で喫茶店をやった。病状の悪化と共に店は続けられなくなり別れを決意した。運よく、バブルが始まっていたので買値より高く店が売れ、そのお金を含めて、別れるときに彼女に全財産を渡した。こうしてまたひとりになった。無一文で迎えた30歳の誕生日の悲痛な気持ちは今も忘れられない。こういう経験をしたので、結婚というか男と女が一緒に暮らすことの長所も短所も、離婚した人の気持ちもわかるようになったと思う。この時期、同世代の友人たちは次々と結婚し、ほとんど例外なくバブルのピークでパンパンに借金をして家を買っていた。妬ましくなかったと言えばウソになる。これで完全にアウトサイダーの道が決定したと覚悟をし、11歳の決意をもう一度固めることになった。すなわち、家を持たず、家庭も持たないで一生を送ろう。無一文だったが、彼らのように借金はなかった。バランスシートで見ればオレの方が金持ちだという強がりだけがアイデンティティだった。ほどなくしてバブルは崩壊し、最も親しかった友人のひとりは破産した。あの屈辱と嫉妬の日々のあとで訪れたバブル崩壊は、ベートーヴェンの第九の合唱のように歓喜に満ちたできごとだった。この歓喜の歌は、いまは小休止しているが、いずれクライマックスを迎えることになるだろう。楽しみなことだ。さて結婚の話だ。アメリカでは70代の恋愛や結婚がブームだという。社会のしがらみから解き放たれた高齢者は、考えてみれば最も純粋な恋愛ができる人たちだ(ちなみにその次に純粋な恋愛ができるのは既婚者だろう)。ローンで家を買う必要がなく、子どももいないか自立してしまっていれば、何も思いわずらうことなく純粋な恋愛に邁進できる。というわけで、11歳の信条はあっさり捨てることにした。結婚希望者は財産目録に写真をつけてメールするように。追って面接日時を連絡する(笑)
December 19, 2006
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すばらしい音楽だった。41歳の若さで夭逝したこの作曲家がもっと長生きしていたら、「大作曲家」と呼ばれたのではないだろうか。早坂文雄の弦楽四重奏曲が演奏されるというので行ってきた。早坂文雄は1914年に生まれ1955年に没した作曲家。ウィキペディアに詳しい。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A9%E5%9D%82%E6%96%87%E9%9B%84彼の唯一の弦楽四重奏曲(1950年)は3楽章からなり、それぞれに閃きと練達の作曲技法が感じられる。第2楽章はラヴェルの弦楽四重奏曲の影響か、ピチカートのみで演奏されるが、そこに模倣は全くなく、完全に独創的。この作曲家が「自分自身の音楽語法」に到達していることがわかる作品で、数多くの映画音楽を作曲した彼らしく、視覚的な想像力を誘う部分もあり、初めて聴いたのに全く飽きることがなかった。この珍しくも貴重な作品を演奏したのは札響メンバーからなるノンノン・マリア弦楽四重奏団。初めて聴いたが、これまでの地元の団体としてはピカイチで、思い切りよく雄弁な表現と緻密なアンサンブルの両立した、なかなか優れた演奏を聴かせていた。珍しい作品、たぶん死ぬまでに二度と生演奏で聴く機会などないだろうから、とりあえず聴いておこうと出かけたが曲・演奏共に思わぬ拾いものだった。早坂作品の前後にヤナーチェクとスメタナの弦楽四重奏曲という構成だったが、早坂作品がこれら名曲に全く位負けしていないのに驚いた。札幌にもいい音楽家は増えた。しかし室内楽と声楽は世界レベルとの差が大きく、正直言って楽しめる機会は乏しかった。こういう楽団が出てくるのだから、長生きはするものだ(笑)この団体は今後必ず聴きに行こうと思う。
December 18, 2006
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モーツァルトはなぜ音楽家になったのだろうか。答えは簡単。音楽家の家に生まれたからである。当時のヨーロッパに職業選択の自由は少なかった。バッハも数百年続いた音楽家の家に生まれ、彼の息子のうち四人は親の職業を継いだ。少年モーツァルトに大きな影響を与えたのがこの四人である。彼らの作品を聴き、書き写すことでモーツァルトは音楽を学んだ。モーツァルトにとっての音楽の泉、それが彼らの音楽だった。彼らの作品ばかりでなく、この時代の作曲家の作品には、モーツァルトのそれと全く同一のメロディが出てきて驚かされることが多い。モーツァルトが借用した同時代の作曲家のメロディをリストアップしたら、一冊の本になるのではないか。だがモーツァルトの才能に舌を巻くのは、借用したメロディ(というかモチーフ)の使い方である。元の作曲家が自分で書いたメロディの美しさを十分に引き出していないのに、モーツァルトの手にかかると同じメロディに基づくとは思えないほど魅力的な音楽に変身するのである。この、石を金に変える奇跡のような技をなんと呼んだらいいのか。バッハの息子たちの音楽は、素朴なフリードマン、快活なヨハン・クリスチャン、内省的なエマニュエルと、それぞれに作風は個性的。「歌うアレグロ」と呼ばれるモーツァルトの音楽の魅力はクリスチャンに、後期作品の陰影はエマニュエルに多くを負っていることがわかるが、とりわけ「ロンドンのバッハ」と呼ばれた末子クリスチャンには強い影響を受けたように思われる。※バッハの息子たちの室内楽を集めたCDはあまりない。中ではドイツ・ハルモニアムンディから出ている古楽器アンサンブル、レザデューの一枚が出色。
December 16, 2006
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世間は忘年会シーズンのピークを迎えている。そこで、短くても年末まで、長ければ新年会シーズンが去る1月下旬まで、お酒を控えることにした。最近は糖質ゼロの焼酎乙類を飲むように心がけている。しかし、糖質はゼロでも肝臓に負担であることにちがいはない。ときどき飲まない週を作ったりはしていたが、「平均して日本酒換算で1日1合」の目標にはほど遠く、どうしても飲み過ぎてしまう。そこでこの際、しばらく断酒してみようと思ったのである。断酒すると、すぐに体調に変化が表れる。3日目くらいから、やたらに眠くなるのである。一週間もすると、甘いものが欲しくなる。タバコと同じで、それをやり過ごすと、しばらくは飲まないことが平気になる。甘いモノが欲しくなったときの対策に、カロリーゼロの「ダイエットカルピス」を用意した。「春までに20歳のころの体を取り戻す」目標は道半ば。この断酒で一気に王手をかけたいところだ。
December 14, 2006
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こんにち名のある人のだれが、250年後も親愛の情を込めてその名を呼ばれるだろうか。いまある音楽のどれが、250年後の人々の心に届くだろうか。今年は「モーツァルト・イヤー」でさまざまな盛り上がりを見せた。モーツァルトの音楽の森へより深く分け入るためには、しかし、いささかのまわり道をしなければならない。モーツァルトの音楽は忘れられていた。モーツァルトの音楽を復興したのはマーラーである。作曲志望の学生だったマーラーの妻アルマによれば、モーツァルトのオペラはマーラー以前には廃れていたという。モーツァルト復活のために最初ののろしをあげたのは、ほかならぬマーラーだったという。指揮者としてモーツァルト復活のために尽力したマーラー。その音楽は、モーツァルトの音楽とは表と裏、ポジとネガの関係にある。モーツァルトの音楽が生きる喜びの一方でそのはかなさを感じさせるのに対し、マーラーの音楽は死の暗い予感の中で確かな生をさぐる。喜ばしい生の中を死の影が横切るモーツァルト、絶望と死の恐怖の中で、生が身をよじって燃焼するマーラー。マーラーは啓蒙のためではなく、生と死という人間にとっての普遍的なテーマを自己の音楽で追求するため、モーツァルトを100年の眠りから起こしたのではなかったか。マーラーの完成した最後の交響曲である第9番は、終始、生と死の瀬戸際を歩む。死との格闘と生へのあこがれがやがてひとつに溶解し、澄んだ世界へといたる。※この傑作には名盤が多い。指揮者の解釈に感動した楽員の要望で作られたバルビローリ/ベルリン・フィル盤はその温かみが素晴らしい。バーンスタインとベルリン・フィルによるライブ盤の白熱と高揚は空前絶後。それぞれ2種類あるカラヤン盤、小澤征爾盤は細部まで磨き抜かれビューティフル。クーベリック、テンシュテット、ジョージ・セル盤も独自の存在感を主張しているし、ハイティンクとコンセルトヘボウの87年盤、ベルティーニ盤、初演者ワルターの晩年のステレオ録音なども捨てがたい。・・・・・・・・・・物置を整理していたら、むかし書いた文章のスクラップブックが出てきた。そのまま捨ててしまおうかと思ったが、読み返すと惜しくなった。そこで、ランダムにここにアップしていこうと思う。今年はモーツァルト生誕250年だったから、モーツァルトについてのシリーズから。細部は加筆訂正。※部分は今回あらたに書いた。
December 13, 2006
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差し歯が一本ぬけたのをきっかけに、このところ歯科医院に通っている。念のため調べてもらったら、前回歯をすべて治してもらってから数年の間に虫歯3本と数カ所の歯肉炎も見つかった。3本のうち2本は不可抗力というか、自分ではどうしようもない原因。一本だけが自分のミスというか磨き方がまずくてできてしまったようだ。幸い、まだ小さいので数回の通院で済みそうだ。歯肉炎の方は歯ぐきのマッサージをしたら治った。歯科技工士の若い女性が正しいマッサージの方法をていねいに教えてくれた。マスクをしているので顔は見えないが、澄んだ目がきれいなひとだ。沖縄でシュノーケルを教えてくれたインストラクターの女の子に恋心を抱いたことがあるが、「何かを教えてくれる人」は素敵に見えるものだ。ここの医者は天才的な腕前だと思っているので、遠いが1時間かけてわざわざ通っている。説明もわかりやすく、そのせいか子どもや高齢者の客が多い。 彼は以前付き合っていた歯医者の彼女の義弟で、一緒に登山などをしたこともある。彼女と別れてからはバツが悪くて定期検診なども行っていなかったが、背に腹は代えられない。「完全な歯」の状態で新年を迎えたいと思う。なぜなら、「新年価格」が落ち着く1月15日以降に、毛ガニなどをしこたま食べたいと思っているからだ。この歯科医院は地下鉄南北線南平岸駅を出てすぐのローソンの2階にある。ここには数十回通ったが、一度も痛い思いをしたことがない。近所の歯科を何軒もはしごしたことがあるが、ここと比べると月とスッポンというか、はっきり言ってヘボばかりだった。遠くの親戚より近くの友人というが、近くのヘボより遠くの名医を選ぶべきだ。
December 12, 2006
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12月から行き始めた新しいジムで体組成を計った。肥満、脂肪多い、理想・・・とランクがあって、今回は「理想」の上限に入った。BMIもとうとう理想値に到達。苦節3ヶ月、努力の甲斐があったというものだ。しかし数字を細かく見ると、筋肉と骨量は減ったのに脂肪は変わってない。しかもこの機械、「上半身・下半身共に虚弱」と評価しやがった。冷静に考えてみると、この機械は「あなたは人より骨と筋肉が少ないのに脂肪は多いです。全体に痩せているのに体重は理想値。体組成のバランス上、脂肪分が突出して多いということです」と告げているのだ。不愉快な事実だが、事実は事実として認めなくてはならない。筋肉といえばプロテインだ。カルシウムといえば硬水だ。右手にプロテイン、左手にコントレックスを持ち、「パル札幌」で腹筋運動に励む30代の雰囲気がほぼ消滅している40男がいたら、マチガイなくそれはわたしなので、美女のみなさまはご自由にお声をおかけください。
December 11, 2006
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何かが素晴らしいとか、ダメだとか、いったい人は何によって判断するのだろうか。札幌に来ると必ず北海道限定発売の麦芽100%ビール<サッポロクラシック>を飲む東京の知人がいる。「やはり麦芽100%のビールはうまい」といつもご満悦だ。はたしてそうだろうか。麦芽100%でないビールすべてがまずいわけでも、すべての麦芽100%のビールがそうでないビールよりおいしいわけではないと思うのだが。わたしの経験によれば、ビールのおいしさを決めるのは、まず第一に原料よりも鮮度である。ビールは振動に弱い。リュックに入れて運んだビールがまずくなるのはそのためだ。芝のプリンスホテルで3000円の親子丼を食べたことがある。「おいしさの秘訣は?」と訊いたら、「こだわっていますから」という答えが返ってきた。こだわってとは、ここでは材料すべてにこだわったという意味だろうが、こだわって作った親子丼はすべておいしいのだろうか。こだわらないで作ったわたしの親子丼も時々ものすごくおいしいのだが(笑)、こだわったものは常にそうでないものよりおいしいのだろうか。ある人がバカかどうかを確かめるために、わたしは時々音楽を使う。クルマに乗せたときに、プロテスト・ソングのようなものをかけるのである。曲は、たとえばチリのフォロクローレ・グループ、キラパジュンの「不屈の民」。ちなみにこの曲はチリ民主化運動のテーマ曲のような曲で、特にイタリアやアメリカでは広く歌われている。ポーランド系アメリカの作曲家、フレデリック・ジェフスキーはこの曲のテーマから60分にも及ぶ長大なピアノ変奏曲を作曲している。原曲はもちろんスペイン語だ。次に同じ曲を日本語で歌ったのをかける。和声進行に独特の魅力があり、たいていの人は原曲を興味深く聴く。少しでも歌心のある人は、「これは何という曲?」と訊いてくる。しかし、日本語版をかけると、たいていの人があからさまに拒否反応を示す。中には「こんなの音楽じゃない」という人もいる。歌詞の一部を採録すると、「団結した人民は決して打ち破られることはない。立って、歌え、勝利の日を、団結の旗、風になびく、あしなみ揃えていこう、友よ君のうた君の旗が、暁の光受けて命の炎燃やす・・・そして人民は闘いに立ち上がり、叫びあげる、前進せよと」正義、理性、真実、勇気、祖国、解放、労働者、大地、輝く未来(笑)といった言葉が散りばめられた歌詞に、さすがにアレルギーを起こす気持ちはわかる。しかしまったく同じ音楽、同じ曲なのだ。日本語版を聴いてアレルギーを起こす人は、こういう偏った思想を宣伝するために作られた音楽は音楽として価値がないと決めつけている。右脳で聴くべき音楽を左脳で聴いて判断しているのだ。 舌で味わうべきビールを、「麦芽100%だからおいしい」と左脳で味わっているのと同じだ。20世紀ソビエトの作曲家ショスタコーヴィチに「森の歌」という作品がある。かつて、この曲は「労働者の祖国ソ連とスターリン」を讃えている、だから素晴らしい曲だと賛美する人がたくさんいた。一方、スターリンを讃えているから駄作だと批判する人もいた。スターリンを讃えていようがいまいが(讃えた曲だと思うが)、この曲は名曲、それも超のつく名曲だと思う。ロシア語などわからない多くの日本の労働者大衆(笑)は、歌詞ではなく音楽そのものに感動し喝采したのだ。スターリンやソ連共産党を讃えた類似の曲は数千曲はあると思うが、それらのほとんどが駄作であるにもかかわらず、この曲(だけ)は素晴らしい。ある音楽が素晴らしいかどうかは、その音楽がどういう音の連なりや構成で作られているによる。どういう目的で作られたか、どういう歌詞が使われているかは音楽の価値とは何の関係のないのである。もし歌詞のダメな曲がすべて駄作なら、ベートーヴェンの第九は駄作だ。もしある目的に従属するかたちで作られた曲がすべて駄作なら、バッハやヘンデル、モーツァルトの宗教作品はすべて駄作ということになる。岡林信康「わたしたちの望むものは」、武満徹「死んだ男の残したものは」、加藤登紀子「薫の詩」、中島みゆき「世情」、ジョン・レノン「イマジン」・・・こうしたプロテストソングは、プロテストソングだから素晴らしいのでも、ダメなのでもない。素晴らしいから素晴らしいのだ。素晴らしいプロテストソングの素晴らしさ、麦芽100%でないビールのうまさ、こだわって作っていないのにおいしいわたしの親子丼のおいしさを、つまり右脳で理解すべきものを左脳で理解しようとするバカは決して理解することがない。賞味期限の切れたまずい麦芽100%ビールをうまいと思って飲み、こだわって作られたまずい親子丼をうまいと言って食べる、いわば「左脳優位バカ」はえてして権威に弱い。医者や弁護士だから信用できる、政治家だからエライ、ウィーン・フィルのメンバーだから素晴らしい音楽家だ・・・この手のバカは、信用できない医者にかかって誤診され、信用できない弁護士に金を持ち逃げされ、ソリストの力量のないウィーン・フィルメンバーの演奏に大金を払うことになる。わたしはこういうバカを尻目に見て、素晴らしいプロテストソングを聴きながら、麦芽100%ではないのにおいしいビールを飲み、こだわらないで作ったのにおいしい親子丼を食べることにしよう。わたしは「不屈の民」のスペイン語版と日本語版を収めた「バカ識別用CD」を作ってクルマに常備している。希望者には有料で頒布するのでこっそりメールするように。
December 10, 2006
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大卒の資格がなければ、昔も今もいわゆるまともな就職はない。当時もベンチャー企業はあったがそういう企業へアクセスする手段はなかった。まともな就職がなければ、就職しないで生きていくしかない。というわけで、しなかったことの中で2番目によかったと思うのは「就職」だ。大学を中退したときにはもう25歳になっていたが、25歳といえば大卒新卒者といえども採用の上限年齢。当時の大企業では毎日新聞社以外、採用しているところはなかった。何せ、企業が中途採用に積極的になるのは1985年の円高不況以降である。大学を中退すると、当時ありついていた割のいいアルバイトも減っていった。子どもが作った曲を試演したり録音したりというバイトで、半日5千円、1日1万円というギャラだったが、これは当時としては破格に条件のいい仕事だった。その仕事が減っていき、ついには全くなくなってしまったことについては、いまではどうでもいいことだが、公安警察のせいだと思っている。というのは、大学に入ってすぐ、民青系自治会の執行委員になったころから、どうも周囲に不穏な空気を感じるようになったのだ。それが特に顕著になったのは、一期限りで執行委員をやめ、北大で教えていた哲学者が主宰する小さな勉強会に出るようになってからだ。その勉強会自体は雑誌「思想の科学」を読んだりする一種の読書会で、不定期で参加者も少数のサロンのようなものだったが、旧べ平連の人たちが多かった。中には道庁爆破事件の大森勝久被告の救援活動をしている人もいた。ちなみに、大森勝久被告は死刑が確定しているが、冤罪の可能性が高いということで、ハワイなど世界各地で抗議活動が起きている。「良心の囚人」アムネスティも支援活動をしている。その救援活動をしている人は、別に大森氏の思想に賛同したり爆弾闘争を支持しているわけでなく、単に冤罪事件の可能性が高いとして「冤罪被害者の支援」をしていただけだが、公安にはバカが多いらしく、その区別がついていないようだった。そのため、その人はしょっちゅう家宅捜索を受けていた。ある時、半分野次馬根性で、大森裁判の傍聴に行った。そのあとである。大学の担任や中学時代の友人などから、公安警察が訪ねてきて「○○は爆弾を作っている」と言っていったという連絡をもらったのだ。いやしくもプロである彼らがそんなことを言ったとは思えないが、まあ、無農薬野菜を作ったり売ったりしていたら「テロリスト」とみなされた時代である。何かに関心を持つことはそれを支持することであると混同し概念を識別できないバカが、警察の中のエリートである公安にもたくさんいたのであろう。そんないきさつがあってから、それまでは切れ目なく続いていた仕事に切れ目ができ、ついには全く来なくなった。言ってみれば日本人特有の「コミュニケーションギャップ」がわたしから仕事を奪っていったのである。そういうことはほかにもある。大学中退者とか就職脱落者の最大の受け皿は予備校や学習塾である。ごたぶんにもれず、わたしも一時期学習塾で教えた。この仕事も楽な割に収入のいい、おいしい仕事で、世の中はこんなに甘いのかとなめきって暮らしていた。同僚には例の「読書会」での仲間もいた。相棒の英語講師も美人で不満はなかった。しかし、何かの用事で家に電話がかかってきた。その時、弟が「旅行に出ていて不在」だと答えてしまったのだ。それは母のことだったのだが、塾の経営者はわたしが授業の合間に旅行に行っていると思いこみ、呼び出しをかけてきた。いったんできた思いこみを取り除くのは難しい。しかも相手はワンマン経営で有名だった男で、自分のやること思うことはすべて正しいと思いこんでいる。こちらの弁明を聞こうともしないアタマの堅いバカが別の惑星の生物のように見えて「もういい」と思ってしまった。こうして、またも「続けてもいい」と思う楽で割のいい仕事からはあぶれてしまったのだった。そういえば、理不尽な理由で仕事を失ってしまったことはほかにもある。タウン誌と求人誌の中間のような雑誌が創刊されるというので応募してみたところ採用になった。ちなみに、まだタウン誌が珍しかった時代である。編集長はグラマー美人。水商売あがりではないかと思うほど派手な人で、経営者に媚びを売って丸め込むのが上手。すぐに黒字になるのだからと赤字雑誌の発行を了承させてその地位にいた。しかし半年たっても黒字化せず、業を煮やした経営者は、辣腕営業マンの採用を決めた。この営業マンがくせ者で、顧客には広告料を20万といい、会社には10万で契約してきたという。差額をピンハネするばかりでなく、最初はタダで載せるが来月からお金をもらう契約になっているなどとウソをいい、丸々広告料を横領していたりしていた。ひょんなことからそれが発覚し、自分が連れてきた営業マンの不祥事なのに、編集部全体の責任であるとして、その雑誌を廃刊にしてしまったのだ。人の作った土俵で勝負すると必ず負ける。そう悟ったわたしは、これらの件以降、絶対に就職しないと心に誓った。たとえホームレスになろうと、のたれ死にしようと、人につかわれるようなことはしないと決めた。それから四半世紀近くたったが、運よくのたれ死にもせず、ホームレスになることもなかったのは、きっと就職しなかったからだろう。就職しなかったことによるメリットは数え切れない。同年代のイトコや弟のように過労やストレスで病気になることはなかった。金はなくても時間はあったから、たとえば母を連れて長期の旅行に行ったり、天気がいいと見ればすぐに行動することができた。映画を年に100本観たこともあるし、コンサートはゲネプロからもぐり込んでタダで聴きまくっていた。ラブホテルのサービスタイムもフルに活用できた。不思議なもので、ヒマにしているといつの間にか人にあてにされ、頼られるようになる。中にはタダ働きも多かったが、報酬の伴う仕事?もあった。とあるカルト宗教に入信した家族からの依頼で脱会を工作し、芋づる式に脱会に成功して高額のお礼をもらったこともある。「これはビジネスになる」と思えるほどで、007のボンドのように頑健な身体を持っていれば続けていたところだ(笑)会社はたいていお化け屋敷のようなもので、バカの巣窟だ。朱に交われば朱くなるようにバカに交わるとバカになる。就職しなかったおかげでバカにならずに済んだわけだ。就職しなかったから、世の中がいかに強い者にとって都合よくできているかということも見えてきた。日本がコネと利権だらけの腐りきった社会だということも身にしみて知った。だが就職をしないということは、結婚を諦めたということにほとんど等しい。人生とは不条理なもので、そう決意したときに限って結婚したいと思う女性が現れるものである。卒業もせず、就職もしなかった人間が、結婚できるはずがない。次はしなくてよかったと思う3番目のこと、結婚について書こう。
December 9, 2006
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先日、北大交響楽団を聴いてなかなか楽しめたので、別の大学のを聴いてみた。北海道教育大学の音楽コースの前身は北大教育学部の音楽学科で、戦後の学制改革で移行した。この大学には5つの分校があり、それぞれに音楽学科があるが、最近、それらをひとつに統合する動きが始まったようだ。分散していたものがまとまると質が向上する。というわけで、音楽を専攻している人ばかりということもあって、北大交響楽団とは格段と質の異なる上質な音楽を楽しむことができた。とはいえ、オーケストラ自体の、特に弦楽器のレベルは北大の方が上。ただ、たぶん前列のプルトには専攻生がいるようなのと、サークル活動ではなく授業の成果の発表なので練習時間は非常に短いと思われるので単純な比較はできない。最初に(たぶん)専攻生だけでショスタコーヴィチ「弦楽四重奏曲第8番」からの3曲。合唱でバッハのモテット。最後にスメタナの交響詩「モルダウ」。その間に、フルート、バイオリン、独唱、ピアノのソロ(ふたり)がオーケストラ伴奏付きの協奏曲やアリアなどを演奏するというプログラム。たぶん学内での選抜を経ているのだろう。これらソロを披露した人たちは、十分にプロとしてもやっていけると感じた。堂々としたステージマナーといい、後生おそるべしとはこのことかと思った。オーケストラを聴きながら、技術レベルは北大より劣るのに、なぜ格段と音楽の印象が豊かなのか考えてみた。ひとつは指揮者の差。すべてのプログラムを指揮した中村隆夫は、まあ不世出の音楽家というところで、ヨーロッパならどこか小さな歌劇場の音楽監督くらいにはなっていただろうと思われる実力と音楽性の持ち主。もうひとつは、やはり個々の学生が音楽を専門に学んでいるところから来る、ニュアンスの多彩さだろうと思う。たとえば、フレーズの終わりなどが、指揮者が指示しなくても、ていねいだったり、思い切りよく切れたり、曲想に合っている。一般に指揮者はフレーズの入りを指示することが多く、終わりにまではなかなか指示が行きわたらない。大指揮者の録音でも、妙に先へと転んでいる演奏は稀ではない。フォルテといいピアノというが、これらの用語は音の大きさを表したというより、音楽の雰囲気を表している。力強く輝かしいフォルテもあれば、張りつめたフォルテ、重々しいフォルテ、沈むようなフォルテもあれば飛翔するフォルテもある。個々の奏者がそういうニュアンスを感じとって演奏しているので、全体として表現が多彩で、音楽的に豊かだという印象が残るのだろう。30年以上前の札響がそうだった。技術レベルは東京のオーケストラに比べてかなり劣るのに、どんな強奏部分でも美しい音色を決して失うことはなかった。音楽評論家などが決して足を運ばないコンサートにこそ発見があるものだが、これからもこうした「逆張り」で「発掘」していこうと思う。
December 7, 2006
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モーツァルトのレクイエムを弦楽四重奏で演奏したCDがある。そのCDを聴いて、自分でも演奏してみたいと考え、自分でいろいろなスコアを集めて研究し編曲。札響チェロ奏者の文屋治実は、毎年夏と冬のボーナス時期にリサイタルを開いている。その冬のリサイタルに加えて、そんな動機から今年は若い美女3人を従えてモーツァルトの「レクイエム」の自身による弦楽四重奏版をメーンに室内楽の夕べを持った。結論から言うと、原曲にはないこの曲の隠された美点のようなものを聴きとることはできなかった。しかし、骨格だけのようになっているとはいえ、この名曲を生の音で、しかもアットホームな室内楽のシーンで聴くというのは、この曲との距離をぐんと縮めてくれるような体験だった。原曲とはまったく異なる曲に聞こえる部分もあったが、フーガ形式で書かれた部分などは意外に迫力もある。モーツァルトは優雅に疾走するだけの音楽ではなく、激情と闘争の音楽でもあるのだ。気になったのは、どうしてもテンポが速くなりがちなことと、和やかな部分でもどこか緊張の糸が張っていること。これは指揮者をおかない室内管弦楽団などでも感じることだが、元が声楽曲だけに、もう少し「歌」に浸りたいと思う部分まで前へ前へと進んでしまうのには、次の皿のテンポが速いコース料理を食べているようなせわしなさを感じてしまった。「モツレク」の弦楽四重奏版のCDを見つけたら買って、この日の印象と比較してみたいと思う。
December 5, 2006
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自叙伝には「何をしたか」を書くものだ。だからわたしは「何をしなかったか」を書こう。しなかったことはたくさんある。中で、最もよかったと思うのは「大学を卒業しなかった」ことだ。今でも時々考えることがある。単位はとっていた。あと1年ちょっと、幼稚な下級生と一緒に退屈な授業を受ける苦痛をガマンしさえすれば卒業できたのに、なぜしなかったのか。訊かれると、音楽のアルバイトで稼ぐようになり、お金を払って授業を受けるのがバカバカしくなったから、と答えていた。しかし、それはほんとうではない、いつもウソをついているという感じがあった。市民運動が楽しかったというのもある。そこで受けた知的刺激、ミニコミの発行、映画会やコンサートや展覧会の開催、無農薬みかんの共同購入などを通じて知り合った人たちは、日本社会の規範に収まらない個性と活力に満ちていた。卒業してサラリーマンになることしか考えていない大学の同級生たちとはまるで違う人種だった。しかし、それも大学を卒業しなかった理由ではない。大学には恋人がいたし、尊敬する教師もいた。ノンセクトの仲間もいた。全共闘後の知的荒廃が進んだキャンパスで、民青や革マル、毛沢東主義者といった右翼が跋扈しているのはうざかったが、図書館のカウンターのちょっと年上の女性も素敵だったし、大学は決して嫌いな場所ではなかった。大学を卒業しなかったのは、苦学して大学を出たような人たちには申し訳ないが、美意識のためだ。という言い方がわかりにくければ、打算からだ。大学中退という経歴がカッコイイと思っていたのだ。成功してある程度有名になったとしよう。その時、経歴に○○大学卒業、とあるのはかっこ悪い。実力ではなく、学歴の力を借りて成功したかのような印象を与える。一方、大学中退という経歴には「逃亡者」のキンブル(デビット・ジャンセン)のような魅惑的な影がある。自分の力だけで生き延びる野生動物のようなたくましさ、智恵と勇気と機転の存在を感じさせる。カッコイイ。名声や名誉や冨のようなものは、弊履のように投げ捨てるのがカッコイイのであって、それに執着するほど醜いことはない。学歴も同じだと思うが、いったん得た学歴を消すのは不可能だ。そのころは純粋だったから、卒業して「中退」と経歴詐称することは思いつかなかった。きちんと中退しなければならない、さもないと経歴に傷が付いてしまうと思い詰めていたのだ。それでも3年迷った。人より2年分多く払った授業料が今でも惜しい(笑)わたしの入った学科は男子生徒が少なく、したがって就職には有利だった。狭い世界の話だが、エリートコースと言ってよかった。医学部生ほどではないが、堅実な結婚相手を求める女性をひきつけるにじゅうぶんなポジションだった。そういうものを弊履のように投げ捨て、手に入れたのが「大学中退」という麗しくも輝かしい経歴なのだ。大学を卒業しなかったことで得られたものは驚くほど多い。たとえば、収入に結びつくブランドで男を判断するすべての女と縁を切ることができた。というか、そういう女には相手にしてもらえないという幸運を手に入れることができた。大学を中退することによって、真実の愛のみを手に入れる無限の可能性が拓けたのだ。社会に出てわかったのは、学歴のヒエラルキーが社会のすみずみまで浸透していること。高卒者と大卒者が親しくなることはめったにない。階級は分化している。が、中退者はそのどちらとも壁を作ることなく大笑いして親しくなれる。わたしの最も気の置けない友人のひとりは大学はおろか中学さえ行っていない孤児だが、いったいどこの大卒者にそういう友人がいるだろうか。学問に対するこだわりも、中退しなければ手に入れられなかっただろう。自分がいつも途上で、何かを学び続けていなければ自分自身でなくなってしまうような感覚は、修士取得者にはわかるまい。そんなわたしは、しかしどんな苦労をしてでも大学に行くべきだと考えている。若者にはモラトリアムが必要なのだ。10代で読み書きソロバンだけの世界に入ってしまっては精神が干からびてしまう。大学に入った上で、そこが知の墓場でしかないことを知り、自分の人生は自分の外側にではなく内側に構築すべきことを悟った人間だけが、主体的な人生を送ることができるのだ。主体的な人生を送ることを選択した人間は、決して大学を卒業したりはしないだろう。学歴社会である日本では、大学を卒業しないことはほぼ出世のレールから外れることを意味する。つまり、まともな就職先が見つけられられないということだ。まともな就職先がなければ、就職することはできない。次は、もうひとつのしなかったこと、就職について書こう。
December 4, 2006
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知人の知人に、成功した不動産投資家、端的に言えば土地成金がいる。 この人はよく「親として子どもにサンマやイワシを食べさせるようなことがあってはならない」といった類のことを言う。サンマがホッケのこともあるし、イワシがサバのこともある。要するに、こうした大衆魚を食べさせると子どもがかわいそうだというのである。こういう感覚は、かつてはたしかになくはなかった。居酒屋ブームが起きるまではホッケを下賤な食べ物と見下す人は多かったし、お客にサバを出したらそれは「とっとと帰れ」ということを意味した時代もあった。魚食より肉食が文化的で、大衆魚は客に出すようなものではない・・・こうした偏見から全く自由な人はある世代から上では少ないにちがいない。しかし、あらためて言うまでもなく職業に貴賎はあっても食べ物に貴賤はないのである。たまたまたくさん獲れるものが安くなり、少なくて珍重されるのが高級魚になる、それだけのことだ。養殖技術が確立される以前のホタテは超高級だった一方、いまでは高級品の毛ガニはごく大衆的な食べ物だった。バナナだって、運動会のときしか食べられない高級フルーツだった時代は長かった。南国コスタリカではリンゴが高級品である一方、メロンはタダ同然で売られていた。この土地成金がバカだと思うのは、物の値段と価値は常に一致すると思いこんでいるその一点にある。本やCDや映画のDVDを考えてみよう。そこに収められている精神的な内容、芸術としての価値は、値段とはまったく関係がない。精神的な価値が商品としてしか存在できない資本主義社会では、コストとマージンによってそれらの価格が決定されるだけであって、内容がいいから高くなるわけでも、つまらないから安くなるわけでもない。そもそも地球上のあらゆる食べ物に貴賤はない。値段は関係がなく、ただおいしいかどうか、人気があるかどうかだけだ。こういう簡単なこともわからない、裕福かもしれないがバカな親を持った子どもこそいい迷惑だろう。生のサンマやイワシをほんの少しの酢でしめたあの一品、サバフィレの炭焼き、そしてこの世にこんなにおいしいものがあったのかと思うほど絶品な礼文ホッケのちゃんちゃん焼き・・・こうしたものを味わう機会を永遠に失うからだ。サンマはともかく、不漁続きのサバなどは高級魚に近くなってきた。この土地成金は、サバ価格高騰の暁には、子どもや孫にサバばかり食べさせることになるにちがいない。あるいは、マグロの血合い部分をありがたがって食べるようになるのか。値段とおいしさが最もよく連動=比例しているのがワインだが、それでも、3000円のワインよりおいしい300円のワインがないわけではない。青果や魚介類は、実際には価格動向と味は反対に動く。豊作=豊漁の年はおいしく、しかも安くなり、不作=不漁の年はまずく、しかも高くなるからだ。価値と価格の関係を判断し損なうと、この成金のように、高くてマズイものばかり食べ続けることになる。それもまた「愚者の税金」といったところか。
December 3, 2006
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2~3歳年上の従姉妹がいる。パートナーの仕事の関係でアフリカ滞在が長い。合計すると10年以上は西アフリカにいたはずだ。その従姉妹の姉のパートナーは、フセイン時代のイラクに数年いたことがある。某大企業の海外勤務でダムだか道路だかのプロジェクトに関わった。この二人とは時々会う。自然と、海外滞在時の話が出る。行ったことのない外国の話を聞くのは楽しいから、根ほり葉ほり聞き出すことになる。しかしそんな彼らと話して気づくのは、日本よりはるかに貧しいそれらの国で生きていかざるを得ない人たちへの、完璧なまでの想像力の欠如である。自分とは全く違う世界に住んでいる無関係な人々と思っているのだろうか、その国の人々への同情心や共感といったものを彼らの話から感じることは一度もなかった。彼らにかかると、アフリカ人は伝染病媒介者で犯罪者の割合の多い危険な存在、イラク人は仕事の途中でも礼拝を始めてしまう、仕事に対する忠誠心のない労働力としては低劣な存在、という一言で片付けられてしまう。自分の意思でその国に行ったのではないという事情は、ある程度考慮してあげる必要がある。しかし、自分の意思で行ったわけではない戦争体験者さえ、もう少しマシな感想を語ることは多いものだ。人間は、何によって成長するのだろうかと考えることがある。ひとつは、人との出会いや別れだろう。人生とはそれの繰り返しであり、哲学的とはいかなくても宗教的な洞察を得るのはその体験をおいてほかにない。もうひとつは旅である。人間とは煎じ詰めれば一種のセンサーで、そのセンサーとしての能力を最大限に発揮しなければならないのが旅。その中での異文化体験こそが、たとえば自分が何を知らないかを知り、何を知らないかを知ることが知の始まりであることを知ることになる。養老孟司の「バカの壁」の主題は、「知っている」という言葉の危うさを吟味することにあるが、自分がこの世界について知っているつもりのほとんどのことが、ごく表面的な「情報」のレベルのものにすぎないことに気づかされるのは、旅とか異文化体験をおいてほかにない。自分が信じていた常識が、自分の属する社会でだけ通用する狭い常識でしかないことを知ったときの、あのスリリングな知的興奮。あるいは、たとえば貧しい国の人々の持つ独特の優しさに触れたときにわき起こる強い人間的感情。そういうものこそが人間を成長させるというのに、いったい彼らは自分の成長の契機をどこに求めようというのか。よき家庭人であり、誠実な父であり母である彼らは、しかし明らかにバカだとわたしは思う。わたしの観察では、たいていの日本人は20代のどこかで人間的成長を放棄する。成長を放棄して20年から30年たつと、治らないバカ、つまり完成したバカになる。早ければ40歳、遅くても60歳にはめでたくバカになる。豊かで平和でバカだらけの日本で暮らせるわたしは幸せだ。
December 2, 2006
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