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まだまだ、お待たせメールがたっくさんありますです、誠に申し訳なかとですm(_ _)m(・・ってアンタ、関西弁あり、九州弁ありで、一体どこの人やねん!て?)手術が終了して、順調に回復中ですつい先日、こんなメールが届きました。最初に私にメールが届いたのは、今年の春でしたね。30代の奥様がスキルス胃癌で、メールをくれたのはご主人です。2004年の冬に手術をしたものの、再発してしまい、今年の春には腸閉塞を起こしてしまったとか・・・患者さんである、奥様は自暴自棄になってしまい、ご主人でも手が付けられない時もあった様子です。人工肛門で対応し、その後、イリノテカンの治療を受けていたようですが、厳しい話もあった様子でした。そんな時にメールを頂いたのです。何度かメールのやりとりをした後だったと思いますが、ある晩、ご主人から電話がかかってきました。切羽詰まった様子で、八方塞がりの様子が感じられました。当の奥様は今、どうしておられるんですか?恥かしい話なんですが・・・と前置きがありまして・・・退院し、実家で静養する為に実家に行く途中で、電話をしてきたようでしてね。その車中で、今後の事を話しているうちに険悪ムードになってしまったそうな。いさかいになりつつある状況で、取り合えず車を停め、奥様を車の中で待たせた状態で電話をかけてきたようでした。つまり、奥様は超ご機嫌ナナメで、ムッとしている時だったらしいですわ。あららら・・・・確か、こんな事を言ったような気がします。それから、ご主人はクスッと笑ったような記憶があります。まぁ、奥様のお気持は当然ですし、そういった状況はこれまでも沢山見聞きしておりますんで、それフツーですよ・・みたいな事を話したと思います。腹腔内化学療法が、全ての患者さんに適用する訳じゃありませんし、適用しても、必ずしも手術へ持ち込めるとも限らないけれど、米村先生のセカンドオピニオンだけでも受けてみますか?となり、実際、セカンドオピニオンを受け、その後、腹腔内化学療法を受ける事になりました。この患者さんには、この治療法が効いてくれたようでして・・・手術まで持ち込めたという訳です。手術により、人工肛門も外れる事も出来たそうですおまけに開腹してみると、確認されていた癌細胞が見事に消えていたり、縮小していたりで、目に見える癌は全て切除できたとの事です。術後の回復も順調の様子で、ぼちぼち退院となるんじゃないでしょうかねぇ~ここまでの道のり?そりゃ、楽じゃありませんでしたよ。奥様は前向きになってくれて、治療を受けてくれましたけども、まぁ、そりゃ色々ありましたわ^^;そんな奥様の愚痴や不満も、ご主人経由で届きましたけど、当のご主人は全般的に明るくなっていましたねぇ・・・あの電話の時なんて想像出来ない程にね。題名に使った「不貞腐れる」という言葉は、奥様に対して誠に失礼千番な言葉ですけども、こんな言葉が実にマッチしている状況下だったんですよ。もうじき、退院ですね。新しい体と心で今後の生活を乗り切ってくださいませ!!ねっ、ヤヨイさんちなみに・・お付き合いしている患者さんの中に「ヤヨイ」さんって5~6人いますです。どのヤヨイさんも健在です
2008年10月31日
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いやはや、また更新サボりモードに入ってしまって、誠にすみません。PCにケータイにメールやら電話やら~・・の状況です。実に、ひろりん大忙しでして、「メールの返事はまだかいな?」と思っている方は、もう電話しちゃった方が早いっすこの間、スキルス胃癌患者さん(30代・女性)のご主人から電話を頂きました何だか、すんごぉく申し訳なさそうにあのぉ・・先日送ったメール、読んで頂けましたでしょうか?(ちゃんと読んではいるのですけども、その前に届いているメールが、まだまだ返事出来ていない状態で・・・)お返事が、なかなか出来なくてすみませんいえいえ、それは良いんです、こちらこそお忙しい所すみませんこれまた、逆に謝られてしまう始末・・・しゃーないやっちゃなぁ、私ってばこの患者さんのご主人からメールを頂いたのは、今年の夏でした。スキルス胃癌、腹膜播種、卵巣転移、腸閉塞・・・の状態。既に、ガイドラインによる治療法を終えています。腎ろう+人口肛門の処置も施されています。どうにかならないものか・・・と相談を受けました。お住まいは、私からみるとかなりの遠方。米村先生なら、腹腔内化学療法を試すかもしれないと思い、取り合えずセカンドオピニオンとなりました。「腎ろう」という点から、この治療法は無理かな?・・・とも思いましたが。何せ、基本的に打つ手は全て打った後なので、まずは、やって様子をみようか・・・という事になり、遠路はるばるの治療が開始!かと思いきや、患者さんが病気になられてから、実家で生活をしていたようで、本来の自宅は先生が治療する病院の近くでしたわ。何度かこの治療法を受けましたが、良い感触の時もあったのですが、総体的にみるとどうにもパッとせず・・・腎ろう交換の時期でもあり、再び実家近くの元の病院へ一端帰る事となりました。そこで、酷い腹痛と下血があったようで、緊急入院となりました。こうなると、腹腔内化学療法が奏効とは言えない状態のようです。ここで、新たに提示された治療法が、アイソボリン+マイトマイシン です。このマイトマイシンという抗癌剤は、私の父が使用したので、良く覚えています。父の場合は、開腹した時に直接腹腔に撒かれました。言わば、米村先生とは別の手法での腹腔内化学療法です。1度しか行わなかった事もあり、奏効の如何は何ともわからないまま・・ただ、毛髪がごっそり抜け落ちましたねぇ・・・すぐに、TS-1単剤の服用が始まったので、マイトマイシンの効果は???のままでした。マイトマシンは古くからある胃癌の抗癌剤で、今は主流からは外れていて、あまり使用する事もなくなりました。それでも、効く場合も否定出来ませんので、やってみる価値はあるのでは?と私は思いました。で、電話の内容は、この治療法に関しての米村先生の見解をお聞きしたいとの事だったんです。いつも渡す名刺を、この患者さんに渡し損ねたようで・・・んじゃ、聞いておきましょう米村先生の連絡先も、メールで送りますねで、電話の内容はざっとこれで終了~です。頂いていたメールは、暗く落ち込みモードだったんですよね。でも、実際話してみると、文字にするより言葉にしたら、少しは気持が軽くなったって感じがしましたね。これって、大切な事ですよね。文字ばっかり見てると、何だか暗くなる・・・会話を交わす事で気持が軽くなる・・・こーゆー事ってあると思うんですよね。ですので、メールのお返事がなかなか出来ないのが本当の理由ですけども、最近は電話番号もオープンにするようにしております。私は「どんな時でも笑える相談員」を目指しておりますから~・・・って、これ調子に乗り過ぎですわねでも大抵、皆さん、笑いますねぇ・・何故??アタシャ、芸人さんじゃないですが・・???沢山の癌患者さんと出会ってきました。どなたも、ステージ4の患者さんばかりです。皆さん、辛い抗癌剤治療に耐えながら、時に愚痴もこぼしながらの闘病です。末期と呼ばれる癌患者さんにとって、何が一番辛いと思いますか?と尋ねられたら、それは、何も手を施されない事だと思いますと答えます。患者さんの様子をみて、健康な人は勝手な事を言います。どうせ助からないなら、そんな痛い思いや、辛い治療なんてしない方が良い・・なんて事をね。でも、それは違います。何が辛いって、治療はもう無い、手の施し様がない、処置も何も出来ない・・・そう言われる事の方が、どんな辛い治療より遥かに辛いんです。だから、少しでも可能性があるのなら、例え可能性がゼロに近くても、治療法を提示される事が希望そのもの。選択の余地がある事が救いなのです。古い手ではありますが、アイソボリン+マイトマイシンが効いてくれると良いな。。。頑張れ!!じゅんこさん!!
2008年10月29日
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どうやら、私のブログは現在闘病中の方ばかりではなく、既に大切な方を亡くされた方々からも多くご覧頂いているようです。今日、久しぶりにそんなご家族の方と電話で話す機会がありました。昨年の11月下旬に、団塊の世代のご主人をスキルス胃癌で亡くされた、奥様です。私自身は、何もお世話したという感覚がありませんが、どーゆー訳かとても恩義に感じておられる様子で、もう、穴があったら入りたいほどでしたわ出会いは、ご主人の再発がわかる前でした。再発の不安を抱えながらも、術後2年という時間を無事に過ごしていました。再発がわかってからは、地元の病院で治療を受けながら、米村先生のセカンドオピニオンも受けていました。米村先生の推奨する治療法にとても興味を持たれていましたが、通院までの道のりや、何かあった場合の緊急時の対応を考えると、躊躇されましてね。結局、何度も米村先生の元へ、相談という形で足を運んではいましたが、治療自体は地元病院で受けていました。最初に米村先生の元へ来られたのは、まだ、先生が静岡におられる時でした。がん専門病院に初めて来られ、誰の目も耳も意識する事なく、大ぴらに癌の話が出来る事に開放感を感じたと、ご本人は言っていました。何とも心地よい開放感だったようです。米村先生が病院を移られてからも、米村先生の元へ相談に何度となく来られていました。腫瘍マーカーの推移が、私の自宅にFAXで届いた事もあり、これは一体何を意味するのかと相談を受けましたね。たまたま、そのFAXを頂いてから、米村先生とお会いする機会があり、この時に片対数グラフでマーカーのグラフを書いた事がありました。米村先生と、うちの博士が顔を突き合わせて、これとこれで・・なんてやり取りをしながら、グラフを書いたりしましてねぇ・・・ちょっとばかり面倒な作業なのではありますが、本当にたまたま、こんな作業をしまして、グラフを送った事がありました。その後、米村先生はこの患者さん宅に電話を入れたそうでしてね。その電話を、この奥様は大層喜んでおられました。わざわざお電話を下さり、本当にありがたい事でした米村先生、電話しとかんと、ひろりんが煩いからねって、おっしゃっていましたよこれも、ひろりんさんのお陰やわ~なんて言われましたわ^^;んなこたぁ無いんですけども。(後で、先生にこの会話を確認したところ、笑って誤魔化されました。まぁ、私が煩いのは事実なので、しゃーないですが^^;)そんなこんなのお付き合いが続いていたのですが、残念ながら、ご主人は昨年11月下旬に他界されました。もうじき1年という時間が経過するのですが、奥様は、仕事があるから気が紛れて、1年という時間が早く過ぎましたと言われました。やらなきゃならない事をこなしていたら、時間が過ぎただけで、まだまだ趣味とかする気持になれませんわ何か慣例行事がある度に、今でも思うんです、主人は何を感じていたのかなぁって私だったら、どうしただろうかってあんな風に、冷静に生活できただろうかって主人が死んでから、遺書が出てきたんです再発がわかる前に、信頼している従兄に預けていたんです自分が死んでからの道筋を、ちゃんと立てていてくれたんですそんな話をしながら、しんみりしてしまいました。それでも、私への気遣いをくれましてね、どれだけ頼りになったかしれません皆さんのためにも、お体を大切になさってください大切な人を失って1年近い時間が過ぎて、それでも私をこう思ってくれる方がいてくれるという事が、素直に嬉しかったです。
2008年10月25日
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長々と、本来のブログ内容から外れておりまして、誠にすみませんm(_ _)mコメントもありがとうございますお返事は出来ませんが、懐かしいお名前や、お付き合いのある方のお名前も拝見出来て、実に嬉しい思いです横道に反れている間も、毎日、本来のメールが届いておりまして、ちゃんと(?)対応は致しております。ケータイにメールを頂く事も増えております。キーボードから打つ方が早いので、ケータイへのメールもPCからお返事させて頂く事もありますので、出来ましたらPCからの着信拒否設定の解除をお願いできれば、助かりますです。毎日届くメールの中には訃報もチラホラ・・・です。以前も書きましたが、訃報が届かない月はありません。これが、残念ながらの現実。。。今年の2月1日のブログに書いた、卵管癌の患者さんの訃報も届きました。腸閉塞で、イレウス管を通している状態の時に相談メールを頂きました。何度かやり取りする中で、単に腸閉塞と言っても相当厳しい状態なのだという事がわかりました。地元病院では、もう打つ手なし・・・ただ、今の状態を耐えるだけだと。かなりの遠方ながら、セカンドオピニオンを受けに、ご主人が来院されました。患者さん本人は入院を余儀なくされていましたから。この患者さんにとって、最後の砦とも思える治療・・・腹腔内化学療法の提示がありました。ですが、この治療を受ける為には、ご自宅からかなり離れた病院で、患者さんは孤軍奮闘せねばなりません。ただでさえ、体調が思わしくない時に、こんな治療法が残されていると言われても、当の患者さんは直ぐには頷けませんでした。20日間くらい悩まれていたと思います。もう少し長かったかな。ようやく治療を受ける決意を固め、転院の運びとなりました。約2ヶ月、腹腔内化学療法を受けました。その間に、年末年始が含まれていた事もあり、一時、ご自宅へ戻られた時に、再び腸閉塞で緊急入院。何とか改善を図り、治療に戻り手術へこぎつけたのですが・・・手術では癌が切除しきれなかったのです。回復も思わしくなく、入院は3ヶ月にも及びました。治療は何度か行われましたが、どうにも頓挫してしまいました。もう、地元に帰ろう・・・という事になり、5月末に地元の病院へ転院。病院から病院への移動とあいなりました。そして・・・地元へ帰られて3ヶ月後に旅立ったと・・・ご主人からメールが届きました。ご家族が、頻繁にお見舞いに訪れていたとはいえ、奥様の孤軍奮闘には、思いは複雑のようです。最後の時間を、家族が離れ離れで過ごして良かったのだろうか・・・いや、少しでも希望があったからこそ、ここまで生きる事ができたのではないだろうか・・・そんな思いが、複雑に絡み合っているようです。もう打つ手なしと言われながら、当初の予想を遥かに越えて、ここまで頑張れた本当のところは、それはわかりません。きっと、ご主人はこんな思いをずっと抱えていかれるのでしょう。それでも、治療を施されずにいる患者さんの心の叫びを沢山聞いてきた私は、やはり治療という希望があったからなのでは・・・と思っています。貴女には本当にお世話になりました米村先生には、少しでも多くの患者さんを救って下さいとお伝え下さいそんな言葉が添えられていました。
2008年10月23日
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ヒゲさんが他界して、1ヶ月が過ぎました。。。亡くなる前日の9月21日にも、テルちゃんと博士、私はヒゲさんの病室を訪れています。テルちゃんが、山中湖で皆揃って撮った写真を大きく引き伸ばした物を持って来てくれました。その写真を長々と見つめ、写真、ありがとうそう言った言葉が、私達が聞いた最後のヒゲさんの声でした。その時見た姿から、もう明日の命も危ういと・・・悲しい事にわかってしまったのです。ヒゲさんとは、7年前に知り合いました。ヒゲさんの奥さんと、私の父がスキルス胃癌で闘病中の時です。それぞれ、医師から見放されたような状態で、何とか手はないか・・と、セカンドオピニオンに出向いた先の金沢で、バッタリ出会ったのです。東京から来た人間と、神奈川から来た人間が、金沢で出会う・・・何とも奇妙な偶然でした。結びつけたのが、米村先生とも言えます。何にも訳わからない、一番辛い時に励ましあってきた「戦友」だと、お互いが思ってきました。だから、友達というより「仲間」という言葉がピッタリします。数年前の事ですが、私がとても落ち込んだ時、ヒゲさんは何があっても、俺は一生、ひろりんとは付き合っていきたいと思ってるからさそう言いました。。。この約束は守ってくれましたが、あまりにも早過ぎです。普通、一生なんて言葉を使ったら「何十年」って意味じゃないの??と、文句言いたいです。そうそうひろりんはさ、頑張り過ぎちゃうからいけないんだよ俺みたいに、いい加減にやっておかないと、病気になっちゃうよそんな事も言ったくせに、自分は全然、いい加減なんかじゃなかったです。大きくて太い支えをなくしてしまったけど、こんな言葉がこれからは私の支えです。あと2年は生きたいそれが、ダメならせめて1年再発がわかってから、テルちゃんに言った言葉です。最後の最後まで、生きる事を諦めなかった人。最後の病室で会った時、意識が遠のきそうになるのを、踏ん張って引き戻していたのがわかりました。だから、「またね」・・そう言って別れました。あれから1ヶ月経ち・・・残された二人の娘は、法事だなんだかんだと奮闘中です。「○○まで行って来ます、○曜日に帰ります」「これって、どうしたら良いですか?」「無事に着きました」「無事に帰って来ました」そんな報告メールがテルちゃんや、私にちょくちょく届いています。私達が実は心配症だと言う事・・・バレてるみたいです。今やあの二人は私達にとっても、可愛くて自慢の娘達。「心配かけて、お世話になった分、いつか必ず親孝行したいと思ってます」そんな言葉をくれました。ヒゲさん・・・すごく可愛がって育てた娘達から、美味しいとこ取りしちゃいそうだよ。
2008年10月22日
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9月22日この日、ヒゲさんは帰らぬ人となりました。山中湖へ出かけてから、6日後のことでした。。。心配していた胸水が再度溜まってしまい、9月20日には1L抜くという処置が施されたのですが・・・胸水が溜まっても、また抜けば時間は稼げるとばかり思っていました。ですので、山中湖から帰って来てからも、ヒゲさんを励まそうというサプライズが用意されていました。サプライズの一つは、ヒゲさんが所属していた地元のバレーボールのチームの方々が、皆揃ってユニホームを着用して病室の窓から見える場所に集まり、ヒゲさんを激励しようというもの。この話は、告別式の時に聞きました。時間も日程も決まっていたのだと。。。「頑張れ!!また、一緒にバレボールをやろう!!」という思いが込められての事ではないかと思います。もう一つは、私が用意していました。ヒゲさんは、6年前にスキルス胃癌で奥様を亡くされています。最初の病院で事実上、匙を投げられ、何とか奥様を救おうと躍起になり、探し出した医師が米村豊先生でした。遠路の病院でも構わず、米村先生が病院を替わる毎に先生に付いて行き、治療を施して貰っていました。奥様は、残念ながら他界されましたが、ヒゲさん自身はとても米村先生に感謝しており、また、米村先生のお人柄に惚れこんでもいました。奥様他界後も、ヒゲさんは米村先生と交流もあり、先生と会える機会をとっても喜んでいました。そんな米村先生がお見舞いに来たら、喜ぶだろうなぁ・・・と思いまして、ワガママを申しました。米村先生は現在、とてもご多忙なスケジュールをこなしておられます。滅茶苦茶なスケジュールと言えます。それは、充分承知しておりましたが、それはそれ、私は「ひろりん」ですから^^;私のブログをずっとご覧頂いている方は、感じておられると思いますが、私は滅茶苦茶なヤツです。先生、ヒゲさんのお見舞いに行って頂けませんでしょうか?僕もねぇ行きたいんだけど、僕が行ったら、いよいよダメだって思わないかなぁ?んな事は思いませんってばほら、あのスポーツ選手の○○みたいに、先生なら抗癌剤より効きますよ宜しくお願いします(過去に、余命宣告された癌患者さんが、大ファンの○○選手に会えた事で、元気回復した話を書きました)僕も会いたいし、良いですよ~という、実にシンプルなやり取りがありまして、実行の運びとなっておりました。それが間に合わず・・・米村先生ご自身も、ヒゲさんの他界には随分、気を落とされており、告別式には「米村豊」の名前のお花が届きました。以前、「仲間内」と称した中には、米村先生もいましたからね。間に合わなかったけど、ヒゲさんの大きな遺影の横に飾られました。喜んでくれたはずです。。。告別式には、スキルス胃癌が縁で知り合った方々も来てくれました。・masubooご夫妻(奥様が、スキルス胃癌で腹膜播種で再発するも、再手術で5年以上元気に経過中)・Y.Kさん(奥様がスキルス胃癌で、術後3年以上元気に経過中)・コイズミさん(スキルス胃癌患者さんご本人、術後7年元気に経過中)・winkiさんのご主人(スキルス胃癌患者さんご本人、術後5年元気に経過中)・こぐまパパさん(奥様がスキルス胃癌で4年前に他界)・しん君(父親がスキルス胃癌で3年前他界)他にも、スキルス胃癌仲間からお花や、弔電が届きました。ヒゲさんは、奥様他界後は、沢山のこういったスキルス胃癌患者さんや、そのご家族を積極的に励ましてこられました。私のまさしく同志であり、難敵である、スキルス胃癌とずっと戦ってきた人と言えます。口癖は never give up長々と、本来の目的から外れる内容を書き綴って参りました。スキルス胃癌および、腹膜播種の内容が目的の方々には、大変ご迷惑をおかけしております。番外編として、もう1日だけヒゲさんの話をお付き合いください。
2008年10月19日
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9月16日天気予報ではマークが出ていたので、病院に向かう途中で、現地に電話を入れて天候確認。雨は降っていない模様。よしよし、空も明るくなってきたし、天気は味方してくれそうだ。ヒゲさんは9月10日に胸水を1.5L抜いています。あれから、6日が経過している事になります。この「思いで作り」が可能な期間は、次にまた胸水が溜まるまで・・・水が溜まっても、又抜いて貰えば何とかなるハズですが、体力は確実に消耗してしまう・・・約束の13時に病院に到着すると、もう、Sちゃん、Hちゃん、アマミー、テルちゃんが集まっていました。しばらくヒゲさんは、トイレに篭っていた様子・・・どうも、お腹が張って仕方ないと言う。(腸閉塞・・??)トイレには、スタスタと歩いて行くのに、念の為に病院で借りた車椅子に躊躇なく座る姿に、ショックを受けました。前日、テルちゃんと「病院から、一応、車椅子を借りておこう」と相談していました。ヒゲさんの事だから、「んなの要らないよ」と言うかと内心思っていたのに・・・アマミーの車に、ヒゲさん、Sちゃん、Hちゃん、を乗せ、うちの車に車椅子を積んで、いざ山中湖へ出発渋滞も無く、無事に到着。(病院を出て直ぐに、先頭を走っていたアマミーの車が、道を間違えた事は(ちゃんとナビ付きよん)ここでは内緒にしておきます)本当は停めてはいけない場所に、こっそり車を停めてしまいました(ごめんなさい平日だし、人もそんなに混んではいないし、迷惑になりそうなら直ぐに移動しますから一面の見事な花景色に、皆揃って自然と笑顔がこぼれます。この日は、一体、何台のカメラを持参したことか・・・^^;「カメラ小僧」のヒゲさんのお株は、すっかり取られましたね~皆して、ヒゲさんをメインに写真を撮りまくりですわ普段、撮ってばかりの人が、撮られる一方というのは、どんな気分だったのかなぁ~そのうち、ヒゲさんが俺が、今度は撮ってやるよと、言うのでカメラを渡したら・・・俄然、目が輝き始めましたわ二人の娘に君ら、そのままねと言うと、次は車椅子を押していたテルちゃんにほら、もうちょい右、えっと、少し後ろ・・・と自分じゃ動かないクセに、やたらと注文をつけて、車椅子を動かせます^^;SとHは、もうちょい右ね~、そうそう、良い感じよ~と、こんな風です。たくぅ~「注文の多いオヤジやなぁ~」と、ヒゲさんに言いながら、ここに来た誰もが、久しぶりにいつものヒゲさんを見れて、はしゃいでいるのがわかります。カメラを構えるヒゲさんの姿が、何とも生き生きしていて・・・その姿を見るのが、皆、嬉しくてたまらないのだというのが、空気で感じます。どれだけ、皆で笑ったかな・・・とにかく沢山、笑いました。ホントは、最初はアマミーがヒゲさんの車椅子を押していたのですが、動かした拍子にヒゲさんに振動を与えてしまう、ハプニングが。これを見たテルちゃんが、怒りましてねぇ・・・大きな体のアマミーは、小さく、小さくなっておりましたわ看護師のテルちゃんは、慣れたもので、上手に車椅子を押してました。車椅子って、大人が乗ると結構重いんです。コツが必要だと、私も思いましたわ。アマミーとテルちゃんの小学二年生の娘も同行しまして、この女の子が撮ってくれた、皆揃っての写真が、最高の一枚となりました。しばらく、花の小道を散策しながら、立ち止まっては写真をパチリ。その都度、皆の笑顔が写真に収められました。そろそろ、車に戻ろうか・・・という時、車椅子のヒゲさんが、まるで瞑想するかのように目をつぶり、頬杖をつきながら、側にいる私に話し掛けました。桜が、綺麗なんだよね(「桜」??なんで、急に桜の話なんか・・・・)ほら、言ったじゃない、桜のドームってああ・・高遠の桜の話だ。何年も前の話だけど、桜好きのヒゲさんに話した事があります。高遠の桜は、まるで桜のドームだよ、一生に一度は見ておいた方が良い桜だよ・・って。くしくも、ヒゲさんが手術して退院した時に、博士と「ヒゲさんと一緒に行こうか?」って話していた、あの桜です。でも何故、今、あの桜の話をするのだろう・・・高遠の桜の話ねとだけ、答えました。「来年、一緒に行こうよ」・・・とは、言えませんでした。来年の桜が自分に無い事は、ヒゲさんが一番よくわかってます。ヒゲさんとは、守れない約束は出来ない・・・この後、山の上のホテルのカフェでお茶。ヒゲさんは、「季節のシャーベット」を注文して、美味しそうに食べていました。美味いよ、これ、食べてみなよそう言って、二人の娘とテルちゃんにお裾分けします。ひろりんも、早くしないと無くなっちゃうよそんな事を言いながら・・・食べてました。そんな中、お茶しながら、突然、私にお金を差し出します。「足らないだろうけど、ガス代に取ってくれ、今、ガソリン高いんだから」・・って言って。この後に及んでまで、こんな気を使う人です。要らないと断ってもお金を仕舞わないので、「じゃ、ここのお茶をゴチになるから」で、手を打って貰いました。今になって、そんな気を使ってくれるな・・・帰りも難なく帰り着きました。帰りの車中では、SちゃんとHちゃんが、次はどこへ行こうか?の話題で盛り上がっていたとか。その話を聞きながら、ただ、ヒゲさんは頷いていたと聞きました。18時過ぎに病院に帰り着くとさすがに疲れたから、もう、今日は寝るわ今日は、ありがとうそう言って、ヒゲさんは早々にベッドに横になりました。痛みもなく、ひどい睡魔もなく、問題なく行って帰ってこれた事に、安堵しての帰路となりました。帰宅すると、遅くにSからお礼のメールが届きます。Sちゃんは、別れ際にお礼を言っても、またちゃんとメールでもお礼を寄越す女の子です。ヒゲさんの娘にしては、出来過ぎの本当に良く出来た子供です。私達では出来なかった思い出を作って下さり、本当に嬉しいですお父さんが、生き生きと写真を撮っている姿が見れて、私達も嬉しかったし、お父さんも嬉しかったと思いますあれでこそ、いつものお父さんです今日は、素敵な思い出が作れて本当に良かったですありがとうございましたいつか、お父さんがいなくなると思うと、とても悲しくて辛いですが、現実を受け止めて、出来る限りの事を後悔なくしたいと思っています宜しくお願いしますこんなメールが届きました。ヒゲさんは、きっと体はしんどかったと思います。でも、すごく良い1日だったよね。。。二人の娘が、こんなに喜んだのだから、体がきつくても頑張った甲斐があったよね、ヒゲさん。。。
2008年10月17日
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9月10日には、胸水を抜く処置も行われました。1.5Lも抜けたと聞いた時には、驚きました。片肺でこれだけの量とは・・・ヒゲさんの残り時間が、いよいよ迫っていると知った日から、とにかく「思い出を作ろう!!」という事になりました。嘆いている間に、モタモタしている間に、貴重な時間が零れ落ちていく・・・こうなったら、皆で、開き直ろう!!という訳です。アマミーも、テルちゃんも医療関係者です。博士も私自身も、癌のことは少しばかりは知っています。右目で奇跡を見て、左眼で現実を見る・・・そんな感じでしょうか。。。現実的に出来る事の模索を始めました。外出で行ける場所。無理の無い行程で行ける場所。高速を使っても、片道2時間以内の場所。それは、どこだろう・・・???そんな話し合いの中で、アマミーが条件を一つ加えました。それは、奥さんとの思い出の場所・・・はぁ~・・私なんぞ、現実的なことしか頭に浮かばず、こう言う時って女性より、男性の方がロマンティストだなぁ~なんて思いましたわ。とにかく、これらの条件をクリアできる場所を探す事!これが、9月10日に出された宿題となりました。9月8日に行われたブロック注射には、効果がみられたのですが、この注射の効果は数日と限られています。ヒゲさんの場合、2日しか持ちませんでした。幾らかは、効果が見られたので、持続で出来るように新たなブロック注射の処置が9月12日に行われました。痛みが出たら、自分でボタンを押して薬剤が出るように出来る処置です。「これで、思い出を作って来て下さい」という、主治医のメッセージでもあります。それから場所探し・・宿題が始まります。博士があちこちと、ネット検索始めました。どこを探しているのかと思えば、博士が見当を付けた場所は、山中湖でした。そう言えば・・・ヒゲさんの会社の保養施設がここにあり、よく親子で行ったと聞いたっけ。奥さんが他界後は、私達も一緒に行った事もあります。山中湖は、私達もよく行く場所で、大体の見当もつきます。そんな中で、博士が思いついたのが「花の都公園」。ここは、季節ごとの花を愛でる事が出来る場所です。ですが、花には見頃がつきもの。時を間違えば、がっかりの風景・・・って事もあります。今頃、どんな風なのかは、実際に行ってみなければわからない。行ってみようか?突然、博士が言い出しました。だって、これがヒゲさんが外で見る、最後の景色になるかもしれないんだぞしょうもない景色なんか、見せたくないじゃないかそうだね、じゃ行こう!!9月14日博士と二人で、山中湖の下見に行きました。花の都公園は、それは見事に花が咲いていました。キバナコスモスの花郡と、ひまわり畑にも沢山のひまわりが綺麗に、まだ咲いていました。色とりどりの花畑も広大に広がっていて・・・もう、バッチリの風景です。お花を見た後に、山の上にある、静かなホテルのカフェでお茶なんてどう?よし、そこにも行ってみようここまで実際に来ると、色々と案が浮かびます。時計を見ながら所要時間も計り、ホテルでは車椅子での移動も考えての下見をしました。よし!!これでいこう!!この日の晩、Sちゃんにメールを入れると、すごく感激してくれました。・・・って言うか、驚いていたというか^^;呆れてた・・が正解かも?でも、すごく喜んでくれました。あっ、アマミーとテルちゃんにも連絡入れました。こちらは、間違いなく驚いて(呆れて?)ましたわあとは、16日に実行あるのみです。
2008年10月15日
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僅か1ヶ月で恐ろしい程、ヒゲさんの癌は進行してしまい、もう体の中は癌だらけ・・・となっていました。もちろん、腹膜播種もあります。恐れていた肝転移が大人しかったのは、後で知りましたが、ここに直接アルコールを注射したからのようでした。実は、肝転移が判明してから、せめて、ここを何とか出来ないだろうかと思案していました。肝臓に転移した癌の状態にもよるけれど、放射線治療とか・・・そんな中で、アルコールを直接癌に注射して進行を抑えるというか、癌を焼くという治療法を博士が見つけ出しました。うちの博士は、アンタは医療論文オタクか?と思うほど、大概の論文に目を通している人。殆どが海外の論文ですが・・・肝臓の癌には、アルコールで焼くという手法があり、効果を出しているようだ・・・という情報を仕入れ、行っている病院も探し出しましたが、見つけた病院は、ヒゲさんの今の状態を考えるとあまりにも遠い・・・半ば諦めていたけれど、なんの事はなく、ヒゲさんの主治医は臨床として行ってくれたようでした。だから、肝臓の癌だけは大人しかったのか・・・と納得。(肝転移と言っても、型が色々とあり、どうにも手が付けられないものもあります。放射線や、こういったアルコール注射というのは、癌が塊になってくれるのが、最低条件であり、スキルス胃癌のように、カドヘリンという物質を含まない為に、固まらずに散らばる癌には対象ではありません)9月10日SちゃんとHちゃんは、この日、ヒゲさんと一緒に主治医の説明を受けました。初めて話を聞くふりをして・・・話された内容は前日と全く同じだったそうです。週単位の余命の話も・・・当のヒゲさんの様子は「普通」だったと。淡々としていたと、Sちゃんが言ってました。主治医が、やりたい事や行きたい所はありませんか?と聞くと、「別にない」と答えたそうです。しばらく、SちゃんとHちゃんは病室でヒゲさんと付き添い、Sちゃんは夕方、私達と待ち合わせて自宅へ。すぐに睡魔が襲うという思考回路の中、ヒゲさんはこの日、どう思ったのか。何を感じたのか。メールも打てなくなり、自分から電話もかけることも無くなったヒゲさんの真の思いを知る事はできませんでした。お爺ちゃんと、お婆ちゃんに事実を告げるのは、なんとも気の重い事でしたが、考えている間に貴重な時間が、どんどん減っていきます。高齢のお二人にも、現実を受け止めて貰わねば後悔が残るでしょう。この話し合いの席には、アマミーとテルちゃんも来てくれました。医師からの説明をかい摘んで話し、残り時間がもう迫っている事を話すと、お婆ちゃんは一気に泣き崩れてしまいました。その様を見たSちゃんは、ずっと黙っていたのに突然、声を荒げました。みんな、泣きたいのを我慢してるの!!お父さんの前では、絶対に泣いちゃいけないんだからね!!見られていたんだって、思いましたね・・・前の日、主治医の話を聞いた後、ヒゲさんの病室へ見舞いに行き(前日のブロック注射が気になって、来ちゃったと言いました)、ヒゲさんと他愛の無い会話。そこへ、他の見舞い客が来たので、入れ替わりに私達夫婦は談話室へ移動。その談話室で私は、ずっと俯いて座っていました。ひじかけに、左ひじをつき、おでこを軽く抑えながら・・・少しして、私達を探しに来たSちゃんは、黙って私の隣に座ります。この時、不覚にも大粒の涙が肩にこぼれ落ちてしまい、慌ててハンカチで拭き、「お父さんに挨拶して、今日は、もうこれで帰るね」と言って立ち上がったのでした。それから、「また、来るね~」とヒゲさんに笑顔で手を振って帰ってきたのですが・・・あの時の様子をみて、Sちゃんは私の思いも感じとってくれたのだと、思いましたね。。。「みんな、泣きたいのを我慢しているヒゲさんの前では、絶対に泣かない」この時から、これが無言の約束となりました。
2008年10月12日
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9月9日この日は朝方、私にアクシデントがあり、朝からドッタンバッタンしましたが(先月の日記を参照ください)、何とか約束の時間に病院に到着できました。既に仕事先から、博士は到着していました。受け付けの近くには、長イスが幾つか並べてあり、その横には飲み物の自販機が置いてあります。その長イスに二人で並んで、SちゃんとHちゃんの到着を待っていました。並んで座った先には、エレベーターがあります。何気なく見ていた、そのエレベーターが開くと、ナントそこには点滴台を押しながらヒゲさんの姿が・・・ヤバイ!!マズイ!!今日の話は、ヒゲさんには内緒だとSちゃんが言っていた・・・ここで見つかるわけには、いきません。どうしよう、どうしよう・・・・こんな時、一体、どうすれば良いのでしょう・・???二人して、咄嗟にした事はですねぇ・・・一瞬にして、下を俯く事でした救急で家族を運んで来て、今、すんごぉく心配な状態で待つ家族のフリ!!だって、これっきゃないです。あぁ~でも、もうこんなに近くまで来たら、バレバレだぁ~たまたまこの時、自販機には補充に業者さんが来てまして・・・ヒゲさんは、それに気をとられていたようで、何故かすんごく近くにいる私達に気付きません。程なくして、コーヒーを買ってエレベターに乗り込んで行きました。なんかよ~わからんが、とにかく非常事態は回避できたようでした焦りましたわ、マジで^^;約束の時間にSちゃんと、妹のHちゃんが来て、主治医の待つ診察室へ。手術の日に来たので、私達の事は、この主治医も知っています。Sちゃんから聞いた話だと、手術の内容説明の日に、ヒゲさんが手術当日には、この二人の娘と、ひろりんと言う人が来ますこの、ひろりんと言う人は、言わば俺の2番目の奥さんみないな人ですから、何でも言って良いですからと、Sちゃんいわく「調子ぶっこいていた」らしい^^;本人から直接許可が出ている事もあり、主治医はヒゲさんの病状説明をしてくれました。主治医は、これまで患者さんとの約束を守り、全てをご本人に告知して参りましたが、今回だけは事前にご家族にお話しした上で、本人に言うかどうか検討して頂きたいと思いますと、前置きがありました。初めて患者と約束を破る事に、罪悪感を感じているように見えました。丁度、TS-1が1クール終了した事もあり、ブロック注射をする事もあり、CT検査を行なったようで、その画像を見せてくれました。再発が判明した、1ヶ月前のCT画像と比較しながら・・・目を見張りました。画像を見る限り、僅か1ヶ月で恐ろしい程の進行です。1ヶ月前に確認できていた肝転移こそは、そのままでしたが、腹水あり、胸水あり、腹壁に大きな癌の塊あり・・・昨日の酸素飽和度の低下も、この胸水が原因だとわかりました。主治医自身も、この異常な速さの進行に驚いていました。これまでジェムザール、その次に使用した新しいTS-1という薬を使いましたが、この進行ですもう、残念ながら手が無い状況ですTS-1は胃癌では、もう新しい薬とは言いませんが、膵臓癌では未だ「新しい薬」です。胃癌であれば、単剤でも40%以上の奏効率ですが、どうも膵臓癌では、未だデータを出すには早いかもしれませんが、そんな数字の奏効率では無いようです。少なくても、ヒゲさんには全く効いてくれませんでした。もう手が無いと言われ、そんな事はないでしょう、健康保険の枠を無視すれば、未だ、グリベックとか、イレッサとか、FOLFILIやFOLFOXのような3剤併用とか、何かあるんじゃないでしょうか??と、滅茶苦茶な事を言いたい自分と、もう、ここまで来たら何をしても効かない、それどころか、逆効果になるとわかっている自分がいて、後者が私の中で勝ちました。もう、永い時間は残されていませんここまで話が進んで、ようやくSちゃんが口を開きました。永くないって、年内って事でしょうか?そんなに時間はありません、週単位で考えて下さいSちゃんのひざに、ボロボロと涙が零れ落ちます。少しでも聞き逃す事がないようにと、必死に医師の目を見ながら話を聞くHちゃんと私。専門的な事を幾つか質問する博士・・・・話を終えて診察室から出て、今後の話をしました。やはり、本人にはちゃんと真実を伝えようというのが、一致した意見でした。だって、ずっとそれを本人が望んできたのだから。。。明日、先生から話してもらおう。お爺ちゃんとお婆ちゃんには、とっても私達からは言えないと、二人が言うので、その役目は私達が引き受けました。明日、行くからねと約束して。この後、揃ってヒゲさんの病室へ。頑張って、頑張って、皆で笑顔を作ってヒゲさんを見舞いました。
2008年10月11日
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急速に記憶が薄れていくという、危機感を感じながら、なかなか更新出来ず誠にすみませんm(_ _)m私の元には毎日、「駆け込んでくる」急を要する患者さんや、ご家族が後を絶たず、そちらを優先せねばならない状況下の中におります。本来の私の目的である活動も、休み無く対応しておりまして、ヒゲさんの続話を待っておられる方々には大変申し訳なく思っております。では、ヒゲさんの話の続きです。9月8日Sちゃんからのメールで、この日、主治医から「神経ブロック」を提案され、この日のうちに処置を行うとの連絡が入ります。ヒゲさんは、何か刺激(例えば、見舞い客が来るとか、外出するとか等)が無いと、とにかく寝てしまうので、これを何とかしようとなった訳です。この睡魔は、鎮痛剤からくるもので、鎮痛剤を減らす事を目的に、「神経ブロック」を提案されたという次第です。この頃、オキシコンチン+オプソから、オキノーム+オプソに変わっていました。オキシコンチンも、オキノームも元は同じ物ですが、オキノームは水溶性で、言わば即効性が期待できる鎮痛剤です。まだ、昨年発売されたばかりの新薬というか、車で言えば、マイナーチェンジと言ったところでしょうか。こんな事は言っていられませんが、医療用麻薬というのは、実に高額です。ヒゲさんがオキノームに変更になってから、薬価を調べましたが、ヒゲさんはこのオキノームを毎日7000円以上服用している計算でした。あくまでも、薬価です。これに処方料も加わります。保険が適用されるとは言え、毎日ですからね。癌治療にはお金がかかる・・・という所以です。とにかく寝てしまう時間を少なくしようと、神経ブロックを提案され、この日、処置が行われました。この神経ブロックというのは、脊髄にする注射で、痛みを伝える神経を麻痺させようとするもの。場所が場所だけに、万が一の危険も無い訳ではありませんが、これに期待しようと言う事になったのです。実際、この日に処置が行われたのですが・・・夕方、Sちゃんから届いたメールでは、処置が終わってから酸素飽和度が上がってこないので心配だと・・・数字を聞くと85だと言います。しばらく、様子をみましょうと、現在酸素マスクをしていますと、書かれていました。85????これは、私の中ではかなり心配な数値です。80を切るような事があれば、もう、立派な「危篤」。。。もう、どうにも落ち着かなくなり、Sちゃんと何度も何度もメールのやり取りが始まりました。そもそも、なんで、酸素飽和度が低下したのか???麻酔による、呼吸抑制でも入ったのか?原因がサッパリわかりません。メールのやり取りの中で、少しずつ酸素飽和度が上がってきました、という内容も出てきましたが、それでも、落ち着かず・・・急いで東京にいる、しん君に電話を入れました。ざっと、ヒゲさんの状態を話して悪い、しん君、ヒゲさんの様子を見てきて!!いきなりの電話にも関わらず、わかりました、仕事を切り上げて、なるべく早く病院に行って来ますと、言ってくれました。そうこうしている間に、Sちゃんから、「酸素上がって安定してきました、もう大丈夫みたいです。ご心配かけました。念の為、今夜は酸素マスクをするそうです。」そんなメールが届きました。少し、ホッとしました・・・しん君に、再度電話を入れると、もう向かっています、とにかくヒゲさん見てきますその後に、電話いれますからそう言ってくれるなら、その言葉に甘えさせてもらおうと、しん君からの報告を待つ事に。程なくして、しん君から電話僕が行ったら、ヒゲさん、普通に夕飯食べてましたよこれを聞いて、体の力がようやく抜けました。良かった、とにかく良かった・・・ごめんね~、しん君も忙しいのに・・・アンタ、こーゆーの慣れてるだろ、いちいち、ジタバタすな!!って、怒って良いよいえいえ、ひろりんさんの気持わかりますから僕だって、きっと同じ事したと思うしこの、しん君の言葉に一気に涙が溢れてきました。ありがとう、私のわがままでドタバタさせちゃってごめん良かった、本当に良かった・・・この日、Sちゃんからは、この神経ブロックの件以外に、こんな内容もメールで届きました。明日、先生からお話があるようなんですどうも、お父さんには、内緒みたいで・・・いきなり明日なんて、来て頂けないですよね必ず行くからと、翌日の夕方5時に、病院の受け付けで待ち合わせをしました。
2008年10月09日
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私のブログをずっとご覧の方は、ご記憶にあるかと思いますが、私自身が8月の半ばから風邪を引き、私自身はヒゲさんを見舞えずにおりました。ですので、実際はアマミー、テルちゃん、しん君、博士の4人が、代わりべんたんにヒゲさんを見舞っていました。その様子は、前回の日記に書いた通りで、大きな波の日々でした。「おっ、今日は調子良いじゃん!元気、元気、意識完全クリア」「ん?今日はダメだこりゃ、話が訳わからん・・・」の両極端・・・と言っても、1日中一緒にいる訳ではないので、1日の中のごく一部の状態ですけど。とにかく、数日単位で届く情報は、花丸かバツかのいずれか・・という感じ。そんな中で、皆が揃って言う言葉は「また痩せた」でした・・・9月に入り、これらの届く情報で心配になった仙台のお兄さんが、上京する事になります。その日に合わせて、博士と風邪が治った私も会いに行く事に。9月4日仙台のお兄さんと時差する事30分で、私達も病院に到着。すると、当のヒゲさんがいない。ナースに確認すると、外出届けを出して夕方6時まで戻らないという想定外。ヒゲ君のケータイに電話しても、呼び出すんだけど出ないんだよと、仙台のお兄さん。本人がいないのに病院にいても仕方ないので、取り合えず、病院を出てお茶でもという事になり、病院近くのファミレスに移動。そこで、これまでの報告に補足を入れての経過説明をしました。話が一段落して、もう1度、ヒゲさんのケータイに電話をるすも、出ない・・・じゃぁ、Sちゃんにかけてみますか?番号わかりますからと私が言うと、仙台のお兄さんが「じゃぁ、僕がかけてみる」と言って電話。Sちゃんには直ぐに繋がりました。Sちゃんの話によると、今日、突然タクシーに乗ってヒゲさんが自宅に帰って来たという。で、今はお爺ちゃんと近くの銭湯に行っているのだとか・・・^^;おいおい・・・現在、いる場所を伝え「とにかく、お父さんを捕まえて、Sちゃんも一緒にここに来なさい」とだけ言って、電話を切りました。銭湯に行くくらいだから、「元気」なんだと、ホッとした空気が流れます。電話を切った後、お見舞いに来て偶然会った事にしましょう。ヒゲさんが変に気を回すといけないから・・・と、口裏を合わせました。程なくして、ヒゲさんとSちゃんがやって来ました。私達が一緒にいるとは知らなかったSちゃんは、「あ~っ!!」と言って笑顔になりました。当のヒゲさんはあれ~??どうしたの??博士も、ひろりんも一緒じゃん今日、来るなんて思わないからさぁ、外出してたよこっちだって病院に来て、まさか、いないとは思わないわよおぉ~そうかぁ、そりゃそうだなこんな会話を交わしながら、やはり、私も「痩せた」と思いました。ヒゲさんはクリームソーダを注文し、ゴクゴクと美味しそうに飲みました。(水分摂取には、何ら問題は無さそうだ。閉塞や狭窄個所があるとしても、まだ、隙間があると言う事だな・・・)調子はどう?まぁまぁだねでも、わかるでしょ(トロンとした自分の目を指差しながら)、直ぐにこうなっちゃうのよ睡魔と常に闘っているかのような、そんな風に取れました。ここで、ヒゲさんの得意の写真撮影が始まりました。買ったばかりのデジカメで。ヒゲさんを交えて、皆で写真を撮る・・・これは、いつもの光景です。「いつも」の事が、こんなに安堵をくれるものなんだな・・と思いながら。外出届の際に、病院での夕飯を無しにして来たというので、じゃぁ、ここで食べようか?と言う事になりましたが、どうも、ヒゲさんは洋食は受け付けない様子でした。後でSちゃんに聞いた話ですが、外出でヒゲさんと出かけ、出先で食事をし、その時にハンバーグを注文したら、口にしてすぐにその場でもどしてしまったという・・・洋食系は、どうもダメだという事でした。病院近くに美味い蕎麦屋があるからさ、そこで俺がゴチするよそういうヒゲさんに連れられて、移動。この時、この距離、歩けるんだろうか?窓の外には、病院が見えます。タクシーを頼むには、申し訳ない距離です。急いで、病院まで走り、車椅子を借りて来ようかしら?そんな不安をよそに、ヒゲさんはスタスタと普通に歩きました。肩を並べて歩きながら、痩せたけど、いつもと何も変わらないヒゲさんに安堵しながら。蕎麦をご馳走になりながら、小さなお椀の蕎麦を食べるのが精一杯のヒゲさんに、胸が痛みました。自分が注文したざる蕎麦は、こんなに食えないと、博士に渡してしまう。Sちゃんが頼んだ蕎麦を、少し分けて貰えば充分だと言う。病院に戻り、じゃぁ、今日はこれで帰るからと言う私達を、いつものようにエレベーターまで見送ってくれました。一端、1階まで降りてから、私だけヒゲさんの病室のある4階に戻りました。急いで、こっそりSちゃんを捕まえ先生から話があると言われたら、私達にも声かけて必ず、来るからね心細いでしょ?そう言うと、「はい、ありがとうございます」と笑顔でSちゃんが言う。この日から、博士は毎晩飲んでいたお酒を飲まなくなりました、夜中でも車が運転出来るように。「ヒゲさんに、敗血症の人独特の臭いを感じた」と言って・・・
2008年10月07日
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ヒゲさんの内容に対する反響が多いので、長くなりますが、このまま続けさせて頂こうと思います。新たに、「ヒゲさんの話」というカテゴリを追加しました。スキルス胃癌及び、腹膜播種に関する、私本来の内容とはかけ離れますが、何卒、ご了承ください。尚、ご相談は現在も、随時受けておりますが、何分、頂くメールが多くお返事が遅れがちです。この点もご勘弁ください。さて・・・ヒゲさんサポートチームを結成したのは良いのですが、何をしようとしても、どうにも当のヒゲさんの状態が落ち着きません。数日おきに届く状態報告メールを、客観的に見ると、あまりにも波があります。どうも、これは鎮痛剤の服用量が影響している様子でした。余命宣告を受けてからの静観の期間を含め、結果的に8月一杯は様子見になりました。ヒゲさんは、8月5日に入院してから、朝晩のオキシコンチンに加え、痛みが出る都度、上限回数なくオプソを服用し始めました。これまで、数百人に上る癌患者さんとお付き合いをして参りました。その中に、膵臓癌の患者さんはゼロではありませんが、殆どが胃癌、大腸癌の患者さんで、胃癌、大腸癌の患者さんの数に比べると、ゼロに等しい人数です。ヒゲさんの鎮痛剤は、私が知る限りですが、胃癌、大腸癌の患者さんの常識からは、考えられない程の量ので、正直唖然としました。痛みは自己申告に頼るしかなく、その申告により、服用量が決まります。現在の疼痛緩和に関しては、積極的に行うべきというのが、常識です。痛みというストレスを感じていると、抗癌剤の効果も薄れるという話も聞きます。ストレスを取り除く事こそが、最良の治療に繋がる・・という事です。ヒゲさんのTS-1の効果をあげる為にも、これは必須です。また、疼痛緩和が目的の、医療用麻薬には使用上限がありません。痛みを感じている限りは、いくら量を増やしても、中毒にはならないと言われています。ヒゲさんを訪れるメンバーの話を結集すると・・・・話している間に強力な睡魔が襲うようだ・数分前の記憶があやふやな事がある・意味不明な会話をする時がたまにあるこういった、心配な状態があるかと思うと、全然普通で元気な時もあり・・・何を計画しようにも、翌日の状態が「わからない」という、実に不安定な日々でした。体力は充分で、常に院内を普通に歩き回っていました。また、積極的に外出もしているようでした。私は、あんな状態で一人で外出なんかして電車に乗ったら、それこそ山手線を何周も回ってしまうんじゃないか?って、マジに心配しました。でも、外出はいつもSちゃんと一緒のようで、これは正直、ホッとしました。ただ、本人、意識はしっかりしているのですが、どうにも集中力が続かず、メールも打てなくなり、そんな自分に苛立っていたようでした。ですから、この時期にヒゲさんにメールを送った方々、お返事していないかもしれません。また、返事が来た方、それはヒゲさんが言う通りに、娘が代わりに打ったものです。この積極的な外出で、ヒゲさんは何をしていたかと言いますと・・・まず、壊れたケータイの機種変。それが、機種変したものの、使い勝手が悪い!と言って、僅か1週間で新しい機種に変えました。それも、Sちゃんも同時に同機種の物に変えました。また、1000万画素のデジカメを買ったり、iPODを買ったり・・・Sちゃんが言うには、「このところ、すごくお金を使ってるんです」という事でした。余命宣告を受ける前のヒゲさんだったら、こんな行動はしなかったと思います。ですが、新しいケータイは、いずれ妹のHが使えば良いと思っていたようです。実際、そうなりました。また、新しく買ったデジカメでは、病院を訪れる人と必ず写真を撮り、その枚数や800枚にもなったとか・・・ヒゲさんは必ず、同じショットを念の為と言って2枚撮る人。なんだか、今思えば何かを残したくて仕方ないようにも思え、また、浪費のように見えて、実は全て娘が使えるものであったり・・・堅実な性格は、ちゃんとそのままだったんだな・・・
2008年10月05日
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8月11日に、再発判明後、初めて博士とヒゲさんのお見舞いに行った時は、出来るだけ細かくヒゲさんをチェックして来ました。まずは、処方されている薬を全部チェック!薬の名前を見れば、何の薬か大体わかるようになってきました。私が??の薬があれば、博士がまず知っている。便秘薬に、利尿剤に、ガスを溶かす薬に、胃薬に・・・これらの薬は「どうも便が出にくい」と言えば、「はい、便秘薬」「尿の出がイマイチ」と言えば、「はい、利尿剤」「胃がどうも痛い」と言えば、「はい、胃薬」というように、患者さんから訴えがある都度、処方されます。これら一つ一つの不快症状に対して、いちいち検査なんてしません。まずは、この薬を試してみて効果がなければ、ようやく検査・・というところです。と、言っても癌が原因である場合が少なくありません。癌が原因であれば、抗癌剤に頼るしか無いわけで・・・TS-1の効果が出るには、やはり1クール(4週間服用)を待たねばならないだろうというのが、常識でもあります。この日、気になったのが、若干のお腹の膨らみ・・・もしかして、腹水??腹水にしては、曲線が少し違うような気もするけれど・・・あのお腹は一体???この日は不安を残しながらの帰宅となりました。ヒゲさんの再発が判明してから、本人に内緒の水面下で、私達夫婦はサポートチームを結成しました。私が住んでいる所からヒゲさんの所まで、車でも電車でも、2時間はゆうにかかります。緊急時には駆けつけられません。ですので、東京在住の仲間に声をかけ、助けてもらう事にしました。その仲間とは、スキルス胃癌が縁で知り合った、しん君、そして6年前、ヒゲさんの奥さんが静岡の病院から東京の病院に転院する際に、付き添ってくれた、ナースのテルちゃんと、ご主人のアマミー。ですが、こんなチームを作っても、実際にヒゲさんに対して権限を持つのは、娘のSちゃんとHちゃんです。この二人に対しての、実質の権限を持つ、二人にとって叔父に当る人にも声をかけました。この叔父さんは、亡くなった奥さんの実兄で、仙台に住んでいるので「仙台のお兄さん」と呼んでいます。亡くなった奥さんの法事全てに参加している事もあり、私達はヒゲさんの親類や友人とは、殆ど面識があります。友達の友達は友達・・・みたいな感じ。これから、この6人は密に連絡を取り合い、連携を取ることになっていきます。週に2~3日は、この中の誰かがヒゲさんの様子を見に行き、逐一の報告を入れ合いました。8月13日、ヒゲさんに最初の余命宣告がありました。余命、3~6ヶ月。たまたま、この日アマミーがヒゲさんのお見舞いに行き、主治医にこう言われたと、ヒゲさん自身が言ったようです。恐らく、ヒゲさんの事だから、自分から余命を聞き出したのだと思います。主治医も、ヒゲさんの勤勉ぶりを高く評価していて、病気発覚時から、本人の強い希望により「何でも本当の事を話す」という約束をしていて、その約束はずっと守られてきました。だから、余命も本人に言ったのでしょう・・・約束を守って。この知らせは、すぐに私にも入りましたが、これには違和感が・・・再発判明時に、ツテとコネを使い、知り合いの複数の医者に見解を求めたところ、それら複数の医師が言った余命は、こんなに長くはありませんでした。中にはあまりにも短すぎて、「TS-1が効けば、それより延びるって事ですよね??」と念を押した事もありました。ですがその中でも、一番短い時間を言った医師は、「まぁ、そうだけれど・・・奇跡が起きたら紅葉が見れるかもしれないね」と・・・・紅葉??って、9月の終わりか、10月ってこと??今、もう8月の半ばだよ・・・いや、ありえない、あのヒゲさんに限って、そんな医者の普通の見解が当てはまるなんて、ありえない!!だってあの人、普通じゃないもん絶対に、ありえない!!そう、博士に言ったけれど、ヒゲさんの場合は肝臓だけじゃなく、下大動脈に癌が巻き付いているここが閉塞したら、もうアウトなんだそう博士が搾り出すように言う・・・どうも、主治医はTS-1が最大限に効いてくれる事を期待して、余命を告げたように思います。主治医とは違う見解を持つ医師もいる事、これも、このサポートメンバーには伝えました。何が最悪かは、わからないけれど、とにかく本人の体力、気力、意志を尊重して、出来るだけの事はしていこうと、話していました。短すぎる余命については、ヒゲさんや、娘には言いませんでした。言っても仕方ないし、何より、私が信じていない。当のヒゲさんは・・・余命3~6ヶ月と聞いて何を思ったのか・・・それはわからないけれど、少しの間はシュンとしていたようだけれど、すぐさま、持ち前の明るさを取り戻しました。外出許可を貰って、Sちゃんとよく出歩くようになりました。そんな中ではありましたが、テルちゃんが様子を見に行った時には、事細かな遺言を残していました。自分が死んだら、喪主はSに頼むS一人じゃ無理なら、Hも一緒に暗いのは嫌だから、明るく送ってくれ・・・と。
2008年10月02日
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