全66件 (66件中 1-50件目)
庶民いじめで貧富の差が拡大 無職 建部 立夫(67) (さいたま市見沼区) 区役所から送られてきた「市民税・県民税納税通知書」をみて驚いた。年金額は前年より減少しているのに、住民税は倍増になっているのだ。年金収入だけで細々と生活しているのにどうゆうことなのか。 定率減税・老年者控除の廃止、年金・介護・老人医療費のアップなど庶民いじめがつぎつぎに実施されている。預金ゼロや生活保護家庭の増加などで自殺者は三万人を越えている。「老人や低所得者は死ね」と言っているとしか思えない。 一方、米軍の再編には国会の審議もなしで三兆円もの支援をするとか。規制緩和と米国流の市場原理主義の促進により、優勝劣敗の拝金主義をまん延させた結果、貧富の格差が拡大した。これまでもお粗末な首相は何人もいたが、小泉首相よりひどい首相を私は知らない。 このままでは日本国はとんでもない国になってしまう。九月とは言わずに即刻退陣してほしいものだ。
2006年06月17日
コメント(2)
「五月の鯉の吹き流し」 五月の空に泳ぐこいのぼりのように、何事も腹に溜めずさっぱりとした気質を言う。 人生楽しいこともあれば、辛いこともある。気がめいった時私が思い出すのはこの言葉だ。 心地よいそよ風も激しい雨風もすべて飲み込み、吐き出して、風に乗る。悩みは無理をしてでも忘れてしまえ。中国の「荘子」にもこんな言葉がある。「送らず迎えず応じて蔵せず」 過去の失敗や将来の不安にくよくよせず、事が起こったら臨機応変に対応して心の中はいつも空にしておく。
2006年05月04日
コメント(1)
たった一度の最高の思い出 無職 島田よし 80歳 (さいたま市浦和区) 昭和十七年、私は地元の軍需下請け工場に入社した。厳しい戦争の中、緊張した日々。 そのころ私の職場によく出入りしていたKさんが、ふとした会話で文学青年と知った。私も、詩文を書くのが好きだったため、そっと文通を始めた。 俳句、短歌、詩のほかに、その時々の便りを書いては、誰にも知られぬように手渡した。心の交流を深め、お互いを確かめ合い、励ましあったりした。厳しい戦争中のこと、素直な愛の表現など許されるものではなく、そっと手紙の文中に秘められていた。 そして翌年、彼は横須賀・久里浜の海軍通信学校入隊が決まった。「思い出に映画を見に行こう」と彼は言った。 浅草の映画館で李香蘭の「蘇州夜曲」を見て食事をした。たった一度の最高の思い出。間もなく彼から、りりしい水兵服姿の写真が送られてきた。 私が職場で担当していた「出入兵給与名簿」の中の彼の名前が、昭和二十年5月戦死の告示により消えた。私は一人帰宅して号泣した。彼からの手紙は生涯の宝物として今もしまってある。新聞切り抜き 2006-4-20
2006年04月23日
コメント(0)
お隣のおばあちゃま(83歳)が突然死された。朝、起きてこられないので見に行かれたら、冷たくなられていたとか。 二、三日前に洗濯物を干しておられる姿をお見かけしたばかり。人の命のはかなさをしみじみ感じました。我が家でも昨年、主人が突然、心筋梗塞で倒れ、救急車のお世話になって一カ月余り入院。最新の医学で命拾いをしたと喜んでおります。これからは無理は禁物と話し合い、テレビドラマのせりふをまねて「生きてるだけで丸もうけ」などと言いながら退院から六カ月、やっと平常の生活に戻ってきたところです。私は大正十四年二月三日の節分生まれ。私の産声を聞いたお隣のご主人が大きな声で「福は内、鬼は外」と豆をまいて喜んでくださったとか。隣人にまで祝福されてこの世に生まれ、八十歳を数えられるまで生きてこられたのも、大勢の方の愛情のたまものと感謝しております。隣人の死と重ねて誕生日を迎えた今の心境は何か感無量のものがございます。 (青木節子80 主婦 埼玉県所沢市)
2005年02月18日
コメント(0)

郵便定期が満期になったので女房に頼まれて、積みなおしに郵便局に行った。 50半ばの職員が30歳前の若い職員に「これどうするんだっけ!」と聞いている。 若い職員は自分の仕事をしながら背中越しに「エンター!!???」と遠慮がちに教えていた。 パソコンを前に電卓を叩き、エラ-が出たらしく「如何するんだったかな-!」と聞いている。 女子職員が通路を通る度に「ココ!?ココ!!!??」と手を出している。 見掛けない職員は、他の部署から人事異動で来て、慣れない仕事に四苦八苦しているのかな-と想像した。 若い奴にどうしても頭を下げるのが出来ない、辛い団塊の世代なのがまた辛い。
2005年01月28日
コメント(0)

普段から肩こり腰痛で苦しんでいる女房なので、二人で巣鴨のとげぬき地蔵尊に行ってきました。 山の手線の巣鴨駅から徒歩5分ほどだった。境内にあるとげ抜き地蔵尊の身体を手拭で、病気や痛いところを洗うと効き目があると言われています。狭い境内を長蛇の列で30分ほど並んで、お地蔵さんの身体を洗って来ました。お年寄りの原宿と呼ばれるだけあって、山門は混んでいました。ちょうど昼時なので、仲見世通りのときわ食堂定食屋さんに入った。カツ丼味噌汁つき500円を注文したら大盛りで食べきれなかった。また安価で美味かった。 帰りに寄り道して、泉岳寺に行ってきました。忠臣蔵赤穂浪士四十七士のお墓で有名な所です。1年中供養でお線香が切れないそうです。(大石蔵之助=47歳)(赤穂義士四十七士は18歳から63歳の義士です)
2005年01月10日
コメント(0)

昨日から正月休みです。兄弟親戚が来て賑やかな1日だった。 嫌な顔もせず女房は台所で忙しい1日だった。そんな女房が今日からパートに初出勤しました。 正月早々、車の運転で間一髪の思いをしたので、早速川崎大師、若宮神社、地元の神社に初詣に行ってきました。 来る人、帰る人で仲見世通りは初詣客でごった返していました。それでも1時間程規制されながら交通安全、家内安全、健康祈願と沢山お願いして来ました。 「禍を転じて福来る!」にします。 今年の抱負==焦らない。慌てない。落ちついて行動する。 今日は穏やかな暖かい1日でした。
2005年01月04日
コメント(0)

真っ白い富士山が東京からも綺麗に今日は観えました。行き交う観光バスの屋根には雪が積もっていた。 仕事納め=失業。 正月休みのない因果な稼業。「災い」のない最良の歳が来ます様にと、見え隠れする富士山に思わず手を合わせた。 次女のお腹には初孫がいる。俺もお爺ちゃんになるのかと独り言。 テレビが新潟の雪降ろしを報じていた。明日の大晦日は東京でも雪が積もると言う。 紀宮さまと東京都職員、黒田慶樹さんの婚約内定が宮内庁で正式に発表された。今年最後の明るいニュース。
2004年12月30日
コメント(1)

子供にもっと家の手伝いを! 箕輪一郎71 隣の家で、小学5年生くらいの女の子が一生懸命に窓拭きをしていた。その姿が愛らしく、なぜかとても新鮮に映った。どうしてだろうと考え、あっと気がついたことがある。 近頃こうゆう場面にあまり出合わないのは、「勉強さえしていればいい子」と、子供に手伝いなどを全くさせない親が増えたからではないだろうか。 これはとんでもない間違いだと思う。親の態度から敏感に察し、勉強さえできればすべて許されると勘違いした子供たちは、1、他人への思いやりの気持ちなどはもたず、自分だけよければ周囲にどんな迷惑をかけようが気にならない。2、他人のために何かをやろうと考えたこともなく、その分、自分には周囲の援助があって当然と期待する。3、我慢という言葉に縁が遠くなく、思うとおりにならないと簡単にぶちきれる人間に成長する。このように親と周囲に甘やかせれて育った若者が町にあふれていると言ったら、言い過ぎだろうか。 昔は、家族の一員として家事の手伝いは当たり前との雰囲気が社会全体に存在していた。「遊びたいのに嫌だな」と多少文句を言いながらも、母親にいわれ、近所に買い物に行ったり、雑巾やほうきを持ち手伝っていた自分を思い出す。 このような教育は子供のためにもよいことだったと思えてならない。 親だけが家事でくたくたになるのはやめ「子供にも家族の一員との意識を持たせ、もっと親の手伝いをさせましょう」と提案したい。
2004年12月28日
コメント(1)
”ナガシマ頼み” 新聞記事 スポーツ三昧の日々が続いている。アテネでの日本選手の活躍は、予想をはるかに超えていて胸がすく。柔道に競泳体操。特に男子体操の団体総合は、スポーツでこんなに感激したのは何年ぶりだろうと考えてしまうほどだった。 最後の競技者が鉄棒から舞い下り着地を決めた時には鳥肌がたつような感動があった。 そんな中で、どうしても違和感を覚えてしまう競技が野球である。報道の仕方に問題もあるのだろうが、あの過剰とも思える“ナガシマジャパン”にいささかうんざりしてしまうのだ。 まるで今日までの野球界を象徴しているような“ナガシマ”頼みである。 なぜ“ナカハタジャパン”ではいけないのだろうか。ベンチには背番号3のユニホームが飾られていて、選手たちがそのユニホームに手を触れている姿が映しだされたりすると、なんだかギョッとしてしまう。 子供じみて見えるし、宗教的ですらある。 野球チームは日本を代表するプロ選手たちで、何億円も稼ぐプロの中のプロである。 その彼らが、ひたすら背番号3にすがっている姿は情けなく見えてしまう。 プロならば卓越した技術と鍛え抜かれた精神力を見せてほしい。 自分の力だけを信じるイチロー選手のような、クールな明晰さである。 一人で懸命に戦う福原愛選手の方が、よほど大人に見えてしまう。 過度な精神主義はスポーツをつまらなくする。 作家 大崎善生
2004年08月22日
コメント(3)
”戦争体験者に聞く!” 新聞記事 まもなく、59回目の「終戦記念日」がやってくる。戦争の風化が指摘される中。国会でも終戦後生まれの衆参両議院が722人中447人と61.91%を占める。戦争放棄をうたった憲法の改正に向けた動きも進んでおり、戦争の悲惨さと戦争で得た教訓は語り継がれているのだろうか。“終戦記念日に思うこと“―――今年も「8月15日」がめぐってくる。 「毎年、(沖縄慰霊の日を迎える)6月になると気分が悪くなって11月まではものすごく憂鬱になるんです。というのも、自分の戦争体験がある。 私は8月15日にはまだ戦場にいて、敗残兵狩りがあって生きていけるかどうか分からない状態だった。 9月7日に沖縄戦(最終的に)終結したが、私が戦場から出て捕虜になったのは10月23日でしたから」「軍隊は国民を守らない!」 戦争体験者としての役割は。――――「軍隊は国民の生命・財産を守るものと考えられているが、そうではない。軍隊は軍隊を守るものでしかない。女性や子供、お年寄りは軍隊に守られる対象ではなく、現実は軍がこの人たちを壕から追い出したり、赤ちゃんが泣いたら敵に見つかると母親に絞め殺させた。水や食べ物を奪い合い、敗残兵同士で殺し合いもした。そういう戦争の実態を見たものとして、絶対に戦争はいけないと訴えることだ。」――――国会も戦後生まれの議員が6割を超えた。「小泉純一郎首相は有事法制をつくる時、「備えあれば憂いなし」と言った。戦争になれば超法規的になってしまうのに、法律をつくれば、いかにもそれが機能するような議論ばかりしている。 この人たちは、戦争のことを何もしらないんだと思う。この間、石破茂防衛庁長官に「戦前はいくつの有事法制あったか!」聞いたが、知らなかった。300以上もあったんです。 でも国民の生命・財産が守れたかというと、そうではない。日本は無条件降伏したんです」――――やはり、戦争の風化は進んでいると。 「はい、(次世代に)伝わっていないし、伝えづらい。明らかに世代間ギャップがある。イラク戦争にしても、テレビでバーチャル(仮想現実)な形で表現され、ドロドロした血が出る生身の戦争ということが受け止められない。ゲーム感覚だ。人間は体験によって初めて理解できるが、戦争は体験できないのだから追体験(小説中の出来事や他者の経験などを、自分の体験として生き生きと味わうこと。)するしかない。ところが、テレビも書籍も状況をまともに映し出すわけでもない。若者に、まじめに戦争のことを知れと言っても無理だ」―――「憲法九条」をどう評価する。「私は、憲法九条は絶対に守るべき、非常に大事なものだと思っている。この憲法は誰が何と言っても絶対に変えるべきじゃない。この憲法があれば、まがりなりにも戦争は妨げる気がする。」―――野党・民主党も含めて、憲法改正の動きが急速に進んでいる。「非常に危険な情勢だと見ています。幸いにも民主党の若手の一部が、この問題を真剣に捉えようとグループをつくった。非常に期待している。 安保条約があったから日本の繁栄があったと言うが、憲法があったからこそ、韓国にように朝鮮戦争やベトナム戦争に出ていかずに抑えが利いた。 この枠が外されてしまうと、歯止めが利かなくなる可能性が強い」 大田昌秀 社民党参院議員(79)
2004年08月13日
コメント(1)

あけくれ 夏になると私の分身である石のことがいつも思い出されます。 敗戦の翌年、夏、旧制中学一年の私は故郷新潟の日本海の波打ち際で、何の変哲もない手のひら大の黒い石を拾って下宿に帰りました。 机の上に置き文鎮の代わりとして使ったりしました。 その後上京し進学、卒業、結婚と下宿などは何度もかわりましたが、この黒い石とはいつも一緒で、今も私の手元にあります。 この石を眺めていると、自然と過去の日々が思い出されます。 平凡な人生を送り今は静かな隠居生活です。 古希を過ぎてから、自分が生きているうちにこの石をもう一度故郷の海の波打ち際の元の場所(不思議と今も覚えている)に帰してやらなければと切実に思うようになりました。 生命ある分身のこの黒い石に「同行半世紀」を感謝し、また故郷の海で無限に生き続けてもらいたいのです。 そして、日本海の荒波で、私がこの石の上に落とした悔し涙を洗い流してもらいたいのです。 (大瀧洸 71 無職 東京都板橋区)
2004年08月10日
コメント(3)

きょう広島原爆の日 広島は六日、五十九回目の「原爆の日」を迎える。 広島市中区の平和記念公園では午前八時から「原爆死没者慰霊式・平和記念式」が開かれ、被爆者や遺族、小泉純一郎首相らも参列。 犠牲者の冥福を祈り、核兵器廃絶と恒久平和の実現を誓う。 国内外で武力による紛争解決や核兵器を容認する風潮が見られる中、秋葉忠利市長は平和宣言で「日本政府は世界に誇る平和憲法を擁護すべきだ」と訴え、憲法改正の動きをけん制する。 また、小型核兵器の研究を再開した米国を「唯我独尊主義の極み」厳しく批判。 さらに、二〇二〇年までの核廃絶を目指す平和市長会議(会長・秋葉市長、六百十一都市加盟)の緊急行動への賛同を世界に呼びかける。
2004年08月06日
コメント(0)

去年一年間に自殺した人は3万4000人を超え、これまでで最も多かったことがわかりました。中でも、50歳代の男性が借金などの生活苦を理由に自殺するケースが目立ちました。-------------------------------------------------------------------------------- 警察庁のまとめによりますと、去年一年間に自殺した人は3万4427人と、前の年よりおよそ2300人増え、これまでで最も多くなりました。 中でも長引く不況の影響か、借金や事業不振・失業などを苦に自殺した人は6年前に急増してから増加の一途をたどっていて、去年は合わせておよそ8900人と、過去最悪の数字になりました。 年齢別でみると最も多いのは50歳代でおよそ3300人、40歳代や60歳代以上でも、それぞれ2000人近くに上っています。(23日5:46)
2004年07月23日
コメント(1)

2004年07月16日20:11 「自分を見つめ直したい」。そう語って、民主党の菅直人前代表が、お遍路姿で四国88ヶ所巡りを行っています。短く刈り上げたヘアスタイルに、地元の人からも驚きの声が上がっています。________________________________________ お遍路さんスタイルに身を包み、四国88ヶ所巡りを始めた民主党の菅直人前代表。16日の徳島県の最高気温は32.8度。菅さんは立ち寄った讃岐うどんの店で、ついに菅笠(すげがさ)を取りました。 2カ月前、年金未加入問題で袋叩きにあい、党代表を辞任した菅さん。今後、何をするにしても、一度立ち止まって見つめ直す時間が必要と考えたと言います。 お参りをするたびに、人間に88あるという煩悩が1つずつ消滅すると言われる88ケ所巡り。今回は、徳島県から10日間で270キロを歩き、高知県の室戸岬を目指すと言います。 「自分自身を見つめ直して見たい。参院選が終わって臨時国会の始まる間が、この時期になった」(民主党菅直人前代表) 行く先々で声をかけられたり、記念撮影。のんびりペースでお遍路は続きます。菅笠からわずかに見える坊主頭、その全容が明らかにされる時が来ました。 昼食に地元名物、讃岐うどんの店に立ち寄りました。うだるような暑さです。そして、この後、ついに菅笠が取られました。 「涼しいね」(菅直人前代表)Q.初めてですか? 「高校2年までは坊主だったからね。17歳の時」Q.何年ぶりですか? 「計算してみてよ」(菅直人前代表) 菅さんは57歳。40年ぶりの坊主頭です。 「これ、スダチはこっち?」(菅直人前代表) スダチをうどんにかけて讃岐うどんを食べます。 「こしがあっておいしい」(菅直人前代表) カメラマンからこんな声が飛びます。 「目線ください」 「何かあれみたいになるじゃないか。カイワレの時みたいに」(菅直人前代表) 菅さんが思い出したのは、厚生大臣時代にカイワレを食べたパフォーマンス。 「お元気で、またどうぞ」(うどん店店員) 再び、お遍路さんスタイルで店を出た菅さん。すぐに地元の人が記念撮影を求めます。 小泉総理からも、こんな発言が飛び出しました。 「総理大臣を辞めたら(四国88ヶ所巡りを)回ってみたい」(小泉純一郎首相) 今回の88ヶ所巡り、秘書も同行しておらず、まったくのプライベートだということです
2004年07月16日
コメント(4)
孫煩悩の祖父 リポータ 片山美和子 宮前区 5月1日の朝、信州に住む私の祖父が亡くなった。 同じ日の夜、私は女の子を出産した。正直言うと、私はこの祖父が苦手だった。気が短くすぐ怒り、喧嘩っ早くて、いつも威張っていて、我がまま! 祖母や伯父の妻が苦労しただろうと、容易に想像できる。でも今になって思うと、私たち孫には優しかった。 とりわけ私に対しては、数少ない孫娘だからか、怒った事がなかった。 夏休みなどに遊びに行くと、おもちゃを用意して待っていてくれた。自宅に帰る日になると「もう少し泊まっていけ」と引きとめられた。「ここの家の子になるか」とも言われた。 子煩悩ならぬ孫煩悩の祖父だったと、亡くなってから気づいた。 出産のため葬儀にも出られなかったので、まだ祖父がいなくなったことが実感できない。 落ち着いたら、墓前に参ってこう言おうと思う。 「おじいちゃん、あなたが居たから、父がいて、私がいて、娘が生まれた。新しい命を、ありがとう」 2004/6
2004年06月03日
コメント(3)
年金の受給に公平さ求める 自営業 藤川宣子(67)世田谷区 私は30余年間、祝日も休まず働き通し、何とか子供たちを会社に送り出しだばかりの自営業者です。現在、月に5万円弱の年金を受給しています。 私自身、病弱でもありできれば仕事も辞めたいと思うのですが、生活保護を受けておられる方の二分の一以下の年金では仕事をやめるわけにもいきません。 なんと国会議員の議員年金の十分の一でしかないのです。国会議員が国民年金をバカにして払わなかったり、ウッカリして忘れるのも分かるような気がします。 同じ人間として生まれ、同じ年月の人生コースを懸命に生きた者の老後の年金額は、同額がそれに近い額にすべきではないでしょうか。 マラソンでも、ゴールに入れば一等になった人もビリの人も、皆同じようにタオルや水の支給を受けます。現役を退いた老人は等しく、つつましやかな生活を保障されるというわけにはいかないものでしょうか。 ゴールに入ってからも不幸だった現役時代を引き摺って、ひどい扱いを受けるというのは、あまりにも人間の尊厳を冒されているように思えてなりません。 2004/6/2
2004年06月02日
コメント(0)
「一生の不覚」葬儀で感じた フリーライター 菊池昇(56)神奈川県 若い頃親友を粗末に扱ったことで、慚愧に堪えない思いを負い続けることになった。 学生時代の友人の彼とは社会に出てからも親交を深め、お互いに終生の親友と信じていた。 そんな彼が病床に伏した。初めは良く見舞いに出向いて彼を励ましていた。 しかし療養が長期にわたると、私は自らの仕事の多忙さにかまけて除除に彼と疎遠になった。 そんな矢先、彼の妹さんから「兄に会ってやって欲しい」と何度も懇願されたが、私は企業戦士の気負ったおごりから仕事を優先した。 葬儀の席で「兄の病は寿命として諦めもするが、あれほどまでに会いたがっていたお友達についに会えずに!! それだけが無念で口惜しい限りです」と声を震わせる彼女に、私は一生の不覚を感じた。
2004年06月01日
コメント(0)

「信長の末商(まつえい)」相模原にいた 天下統一を目指し、志半ばで命を絶たれた織田信長(一五三四~~八二年)。 いつの時代も人を引き付けてやまない戦国武将の血を引く男性が、相模原市内に住んでいると聞いた。 でも尾張国(今の愛知県)で勢力を拡大、近江国(今の滋賀県)に城を築いた信長は、関東、とりわけ神奈川県とは縁が薄いはず。 なぜ相模原に? 話を聞くと、血縁が判明するまで六十三年かかった彼乱の人生があった。 この人は同市南台一、織田信成(のぶしげ)さん(82)。 マンションを訪ねると、緑色のシャツに短パン、サンダル履きで登場し「駐車場、空けておいたから、止めてくださいよ」。小柄で普通の、優しいおじいちゃんだ。 信成さんは系図を見せなが説明する。信長の家督を継いだ二男の信雄(のぶかつ)の子孫にあたるんです。 また私の祖父は、安土城内にある織田家の菩提寺「そう見寺(そうけんじ)」の、織田家から出た最後の住職・宗敦(そうとん)です」。 血縁については系図と滋賀県安土城郭調査研究所の見解=別稿=を見てほしい。 さらに、不動産登記簿を示した。「安土城跡内に、百坪(約三百三十平方メートル)の土地がある。元は信長の家臣、前田利家の土地だったんだ」 誇らしげに語る姿から、「信長の末裔」として、肩で風を切って生きてきたんだろう… と思いきや、違った。 聞いてみると、由緒ある家系とは無縁の人生を歩んだという。 信成さんは一九二一(大正十)年、樺太(サハリン)で生まれた。名家が樺太に渡った理由を、こう推察する。「祖父の宗敦は、明治維新の廃藩置県で安土山を丸ごと没収された。悔しかったんだろう。父は当時、実入りがよかった漁業で一旗揚げ、織田家の再興を狙ったんだと思う」 63歳で知った「安土の100坪」 だがその後、父は妻と不仲になり幼い信成さんを樺太に置いて安土へ戻った。 間もなく母も他界。 信成さんは物心付かぬころから、血のつながらない“両親”に育てられた。 「自分がどんな家系か、知る由もなかった」 終戦後は二年間、ソ連に抑留されたのち里親の郷里・青森県に渡った。樺太時代に知り合いから習った納豆・こうじ作りで生計を立てた。 人生が大きく動いたのは二十年目ほど前。滋賀県職員が、自宅を訪ねてきた。 「安土城跡の自転車道を拡張するので、お宅の敷地の木を切りたい」 「何のことですか」。自分が安土城跡内にある百坪の土地の所有者だ、と聞かされる。 安土へ赴いて調べると、実の父は一九四五年に病死。 没収された安土山は後に一部、個人に返却され織田家の土地として継承されていた。 そう見寺にある信長の墓は実父の死後、信成さんの親族が名目上、引き継いでいた。 だが土地の所有権は登記簿上、長男の信成さんに移っていた。 「そりゃあ、驚いたよ」。 それから二十年。交友関係は広がり、先月十日には甲府市の武田神社を訪問。 戦国時代に敵対した武田家の宗家の男性と初めて会い、互いの家系の発展を祈念し合った。 そして六月、信長の首塚があるとされる静岡県芝川町に引っ越す。血縁を守りながら、静かに余生を過ごすという。 そうそう、激動の人生に圧倒され、肝心なことを聞くのを忘れていた。相模原に来たのは一体? 「あっ、それはね。長男の嫁が勤めていた会社の寮があったから。三〇年ぐらい前に引っ越してきて。ここでは、その寮の管理人をしていた」驚いた。理由が単純だからじゃない。 かつての戦国領主が、時を超えて“寮主”をしていたから! だれを「宗家」とする 安土城郭調査研究所の話 織田家は信長の2何信雄の家系が代々、家督を継いでいた。でも、明治維新期の混乱が原因で、現在、どの家系を宗家とするのか、家系の消息がどうなっているか、はっきりしない。 家督がどんな形で引き継がれたか不明だけに今日、だれを宗家と見るかは断言できない。 ただ、信成さんが安土山に所有する土地の権利は確か。血のつながりは間違いないだろう。
2004年05月21日
コメント(2)
小泉純一郎首相が国会議員当選後の80年4月から86年3月までの6年間を含む6年11カ月間、国民年金に未加入だったことが14日、明らかになった。 近く発売の「週刊ポスト」が首相の保険料問題を報道することを受け、飯島勲首相秘書官が同日夕、急きょ記者会見し公表した。 首相は同日夜、「加入すべき期間は全部(保険料を)払っている。未加入と未納は違う。(政治責任は)まったくない」と強調した。 しかし、保険料問題が政権トップを巻き込んだことに野党側は「首相は政治家を辞めるべきだ」(岡田克也・民主党幹事長)と強く反発しており、政局の不安定要因となることは必至だ。
2004年05月14日
コメント(0)
バブル経済に踊った広告マンが、不況のあおりでリストラに遭いホームレスになった境遇を、はし袋やレシートに綴った短歌集「たそがれはまだ早い」を刊行した。東京都内で暮らす関節夫さん(54)で、時代の寵児(ちょうじ)」と一時代はもてはやされ、いまや「のけ者」とされる団塊の世代への応援歌になれば」と放浪歌人の生活を続ける。心のファイル 団塊世代へのエールに 関さんは愛知県新川町生まれ。国文学者で大学教授だった父や高校の恩師から短歌を学んだ。学園紛争に明け暮れた大学時代を経て広告マンになった。 大手自動車会社などのCM を手がけ、バブル期には東京・杉並区に注文住宅を建て、外車を乗り回すなど、豪華な生活を楽しんだ。「キャバクラで若き娘と話題合わずされど家路遠し高円寺の夜」 これは広告主や社内の接待を頻繁に受けていた当時を歌った作品だ。 しかし、バブルが崩壊し、不景気が度を増すのに合わせ生活に暗雲がたれ込める。 一九九八年に離婚。家を売り、妻と娘二人に養育費を払いながら賃貸マンションへ。 九九年八月に「仕事を回すから辞めてくれ」と勤務先からリストラされ、有限会社の広告会社を設立し独立。ふたを開けてみると、仕事は一度も来ずに、あげくの果てに5百万を騙しとられる被害にまで遭い、半年で会社をたたんだ。 その後パソコンの組み立て工場で働くが、作業についていけなかった。 就職した別の会社は2003年3月に倒産。同年秋には、家賃滞納でマンションを追い出され、ボストンバッグ3ツでホームレス生活。新宿の地下街やカプセルホテルを転々とすることになる。「啄木は十円なりぬ宮部みゆき百円なりて我の飢え満ち」 生活のため、カメラや時計を売り払い、残ったのは、好きな本やレコード。それも売りに出したが、ダンボール箱いっぱいに詰めても、5百円にしかならなかった。「あの頃はイ夕メシ食べて西麻布いま吉野家で小銭かぞえ」 世田谷区の教会や友人宅にも身を寄せ、はし袋やレシートに短歌をしたためた。 「なんという落差かと思うが、生きていればなんとかなる」と関さんは言う。 現代社会に疲れ果てた同世代の人々 に向けて「それでも自殺なんかしないで」とエールを送る。
2004年05月13日
コメント(1)

小学生のころ、母の日が近づくと、学校で「おかあさんありがとう」と文字のついた、赤い造花のカーネーションが配られた。 無邪気な私たちは、この赤い飾りがうれしくて、できればずっとつけていたいと思っていた。 実際、五月いっばい、胸に下げている女の子もいた。 質素な時代、大事なおしゃれの品だった。 クラスで一番の仲良しだったT ちゃんは、いつも元気なのに、この時期になると極端に無口になった。 下校時間が来ると真っ先に学校を飛び出し、一人で帰っていく。 早くに母を亡くした彼女をはじめ、母のいない子に渡されたのは、赤ではなく、白いカーネーションだった。 いつからか私は、この花を見るたび、胸の痛みを覚えるようになった。 「何と残酷な季節だったのだろうか」と。 花言葉で赤いカーネーションは「愛を信じる」。 白いカーネ ションは「私の愛は、生きている」。 これを知って、少しだけ慰められた気もしたが、やはり白いカーネーションは、さびしく思えてならい。 きようは母の日。 (女性リポー夕ー・樋口光代ー多摩区) 数年前にお袋を亡くし、そして3年後には呆気なく親父も逝ってしまいました。 親父とお袋だけは自分の中で死なないものと、勝手に思い込んでいました。 重く気が抜けた日々は長く辛かった。 まして、幼い小学生には想像に絶する残酷な事と私は理解しました。きっと、今は良い母親に成っていることでしょう!http://kids.yahoo.co.jp/docs/event/thanks2004/parents/index.html
2004年05月09日
コメント(0)

◎川崎大師 大開帳 赤札 女房と二人して川崎大師へ自転車で,10年に一度の御札(赤札)を貰いに行ってきました。 1時間ほど並びました。先日小泉首相も参拝に訪れたということで人気があるようです。 赤札とは10年目毎の吉例大開帳奉修期間中(平成16年5月1日~30日)に限って授与される、弘法大師ご直筆と伝わる「南無阿弥陀佛」の六字名号を版して御貫首様が精進潔斎のうえ祈願をこめて一躰ずつを手刷りにされる尊い「お守」であります。
2004年05月08日
コメント(1)

菖蒲湯 昭和三十年代、子どもたちは五月五日になると、風呂屋が開くのを待ってダッシュするのが常だった。 番台の下には、バケツに入ったたくさんの菖蒲の葉。とにかく早く湯船に入りたいのだ。 午後三時の一番風呂はふだんは閑散としているが、この日だけは子どもの声が男湯、女湯とも反響する。 ころを見計らって風呂屋のおじさんが湯船に菖蒲を投げ入れると、一面に菖蒲の香りが漂う。みんなではしゃぎながら、菖蒲を取り合った。 菖蒲の根元に近いところは笛になる。よく鳴りそうなのを見つけるため、みんな必死だ。 「おじさん、もっと投げて」と頼むと、後から来る子の分だと、しかられた。 湯船で上手に笛を鳴らす子、葉っばを刀がわりにして遊んでいる子。菖蒲湯の中、ひと暴れして子どもたちは帰路につく。 私は家に菖蒲を持ち帰り、母にねだって笛を作ってもらった。 どうやって鳴らしたか覚えていないが、こどもの日になるといつもなつかしく思い出すエピソードだ。 (女性リポー夕ー・原慶子ー中原区) 何もなかったが古き良き時代でしたねー!
2004年05月05日
コメント(1)
「ファミリーレストランの調理を担当していたが、店舗縮小で昨年8月にリストラされた。今年1月から本格的に再就職活動しているが、正社員より1年間の契約社員の求人が圧倒的に多い。腰を据えてやれる職場は本当にないね!」年間約9万人が求職で訪れる文京区のハローワーク飯田橋でジャンバー姿の男性(43)はつぶやく。今回のサラリーマン川柳で3位に選ばれた。「やめるのか!息子よその職 俺にくれ」この男性は「まったくだ。大学1年生の娘のバイトは時給9百円前後でいっぱいある。バイトでさえ中高年の就職は厳しいんだ」と強調する。リストラは、「リストラを進める担当者」さえ巻き込む場合がある。20位の「無駄省け 言ってた上司省かれる」 はそんな非常さを象徴する。求人状況では、「求職10人につき9件の求人があるが、これが55歳以上になると10人につき3件の求人しかない。始業前一番に並ぶのはみな中高年ばかりだ」と明かす。27位「リストラで辞める奴は できる奴」パソコンのソフト開発の技術を持つ友人は1ケ月間で4-5回会社を変わった。すべてステップアップ。腕に自信のある奴はどこ行ってもひっぱりだこ」とうらやむ。 ただ定年後の再就職先を探している男性(63)は解説する。「上司はね、自分よりできる部下はいらないのが本音。言うことを素直に聞く社員は残すのが日本のピラミッド式会社組織」
2004年05月01日
コメント(0)
会社から帰ったら、私の家の斜め前に住む、1年先輩の家がブルト-ザ-で壊した後があった。どうしたのだろう! 家屋が古くなったので、建て直しでもするのかな-と思った。 建て替えるのには2000万かかるし、土地家屋を手離して息子にマンションの頭金にしたのか!と思うのが自然かな! 女房が隣りのAさんに後日尋ねたところ、前日の夜、トラックで引っ越して行ったと言う。 世間話しをよくするBさん宅にも、何も言わずに引っ越して行ったらしい。 Aさんの話では、C公園近くにある賃貸マンションに引っ越すと、奥さんが昨日言いに来たそうだ。 まさかとは思うが、借金が元で家と土地を売ったのか! つい先日、「孫は可愛いな-!」「お前のところはまだか!」「酒も止めなくてはいけなんだ!」と言い、カンビ-ルをご馳走になった矢先だった。 1週間後、新聞のチラシに、22坪2100万円で売りの広告が入っていた。 聞いたことのない不動産屋の名前が、なお気にかかる。 どうすることも出来ないってあるんですね-! じわじわと、身近に他人事ではなくなってくるのかと、老い先が気にかかる団塊の世代!
2004年04月18日
コメント(4)
自衛隊を引き揚げよう!。 作家・池深夏樹さん イラクのために活動している三人の日本人が誘拐された。事態は深刻だ。 今どうすべきか。その答えを見つけるのは容易ではないが、何とか整理してみたい。 郡山総一郎さん、高遠菜穂子さん、そして今井紀明さんの三人は会社や官庁の命令ではなく、自発的にイラクに行った。危険なのに行った。 「警告はしてあった」と外務省は言っている。たしかに彼らは危険を承知で行った。イラクの現状を報道し、子どもたちに手を貸し、平和の実現を早めるために。 残念ながらこの目的は、彼らを守ることにはならなかった。相手は、イラクに軍を送り込んだ日本という国の国民であることの方を重視した。だが、彼らは行くべきではなかった、と言う資格はぼくにはない。わずかな給水しかしていない自衛隊より、三人の活動の方が、最後は日本の評価を高めるからだ。ぼくは彼らの判断に敬意を表し、無事を祈る。では今、日本はどうすべきか! ぼくなりに考えた結論は、自衛隊を撤退させるしかない、というものだ。ただし三人の生命を救うたに撤退するのではない。それでは取引になってしまう。今後、日本政府に何か強い要求を持つ者に「日本人を誘拐すれば目的はかなう」という前例を与えることになる。それこそ、テロに屈することになる。そうではなく、復興支援という名目で自衛隊を派遣したことの間違いを公式に認め、今、必要なのは武力ではないことを認め、撤退を速やかに実行する。誘拐とは無関係な自発的な政策の転換であることを、内外にはっきり表明する。これは論弁(きべん)かもしれない。しかし論弁が必要なぐらい事態は切迫している。問題なのは、戦闘終結をブッシュ大統領が宣言した後で、米国が取ってきた政策が、ことごとく間違っていことだ。その結果、事態はますます悪化した。ブッシュ権が正しいという前提に立った日本政府の自衛隊派遣にも根拠はなかった。自衛隊を引き揚げよう。日々 の現実はいつも「今日」ら始まる。過去の誤りの結み重ねの上に今日の苦境があるわけだけれど、新しい今日はリセットが可能だ。
2004年04月11日
コメント(3)
2004年4月9日 日本共産党志位和夫委員長は、9日、政府にたいして、以下の緊急申し入れをおこないました。細田博之内閣官房副長官が応対しました。--------------------------------------------------------------------------------イラクでの日本人拘束事件についての緊急申し入れ一、八日、イラク国内で、日本人の民間人三人が、「ムジャヒディン」をなのるグループによって拘束され、自衛隊をイラクから撤退させなければ三人を殺害するとの脅迫がなされるという重大な事態がおこった。 NGOやジャーナリストなど民間人を人質にし、要求が入れられなければ殺害すると脅迫することは許されない蛮行である。 日本政府が、拘束された三人の安全と解放のために、あらゆる努力をつくすことを、強く求める。一、同時に、政府がそうした努力をつくしたとしても、解放が実現されず、政府が自衛隊の派兵継続に固執するなかで期限が切れた場合、犯罪グループの予告どおりに、日本人の生命が犠牲にされる可能性があることは、否定できない。三人の日本人の人命は政府の行動にかかっている。 私たちは、政府の行動によって、日本人の生命が失われてもやむをえないとする立場は、絶対にとるべきでないと考える。一、政府は、「撤退する理由はない」としているが、日本人の生命を犠牲にしてまで、派兵継続に固執する「大義」があるだろうか。 政府は、「人道支援のため」というが、イラク国民への人道支援は、日本もふくむ多くの国々のNGOやボランティアによって、おこなわれていた。そして自衛隊派兵が、イラクで人道支援にとりくんでいるNGOやボランティアを、危険にさらす結果となることは、かねてから強く危惧されていたことである。 現に、今回の事態は、人道支援にたずさわってきた民間人の生命にかかわる深刻な問題となっている。「人道支援のため」という口実で、人道支援にたずさわってきた民間人の生命を犠牲にするようなことがあってはならない。一、さらにイラク情勢の劇的悪化によって、政府がくりかえしてきた「戦闘地域には派遣しない」という口実も、通用しない状況となっている。 現在のイラク情勢は、イラク国民全体が米英軍主導の軍事占領支配に抵抗の動きを強め、占領軍がこの動きにたいして武力弾圧をくわえるなかで、イラク全土にわたって戦闘が広がる、きわめて憂慮すべき状況となっている。自衛隊が派兵されたサマワでも、迫撃砲のような砲弾が打ち込まれるなど、自衛隊を標的とした武力攻撃がおこっている。 政府は、イラク派兵法の審議のなかで、「近くで戦闘行為がおこるなど、非戦闘地域の条件をみたさなくなったら撤退する」と、くりかえし言明してきた。この言明にてらしても、自衛隊派兵に固執する根拠は、おおもとから崩れている。一、大義も根拠も崩れた自衛隊派兵に固執するという政府の行動によって、日本人の人命をそこなうようなことがあっては、絶対にならない。 政府が、すみやかな自衛隊の撤退の決断をおこなうことを、強くもとめるものである。内閣総理大臣 小泉純一郎殿日本共産党幹部会委員長 志位和夫
2004年04月09日
コメント(1)
“地獄”の10代体験 いじめを、自殺を止めたい いじめ被害者の苦しみを代弁したくて、パソコンに向かう中園さん。ホームページはhttp://nakazono.nanzo.net= 東京都杉並区の自宅で http://www.tokyo-np.co.jp/daibensha/ 自宅近くの店でカミソリを買って、ポケットに忍ばせた。ストーカーのようにつきまとい、自分をいじめ続ける同級生の目の前で、自殺しようと決意していた。 宮崎から上京し、大学生活を始めたばかりのころ。あの日、本当に死んでいたら、無精ひげをはやして、東京都杉並区にあるアパートの六畳間でパソコンに向かって小説を書く、今の中園直樹(30)はなかった。 小三のときから同級生のいじめの標的にされるようになった。青春時代と呼ばれる十代、直樹には甘酸っぱい思い出の一つもない。それは“地獄”にすぎなかった。 忘れたい記憶でありながら、直樹がつづる小説は十年間にわたって自らがいじめられた体験だ。 ■ ■
2004年04月06日
コメント(0)
失業者でもフリーターでもなく。働く意欲なくした若者。学ぶ気もなく家族からも孤立。「ニート」急増。推計76万人。働くことを放棄した若者が急増している。失業者でも、フリーターでもない。教育を受けることもしない。英国ではNEET(ニート)と呼ばれ社会問題化している。日本でも70万人を越えたとする専門家の推計もある。「ないないづくし」で社会的に孤立する若者は、ただの怠け者なのか、それともー。> ニートとは、「Not inEducation,Employme_ntorTraining」の頭文字だ。 自分で働いて食べる、ということをしない。生活費は家族によって賄われているものの、「引きこもり」とは違って親とは別居している場合も少なくない。 こうした若者の増加は、英国をはじめ欧州各国で重要な政策課題になっている。 若者が生活保護を受け続けたり、社会生活ができず、結果的に犯罪や薬物に手を染めかねないためだ。 「ニートと呼ばれる若者はハローワークにも行かないから失業者にもカウントされない。 日本では25歳未満に限っても2002年で30万人いる。1998年から3倍に増えた」
2004年04月05日
コメント(0)

将来の仕事は! この春、小学校に入学する児童の就きたい職業は、男子がスポーツ選手、女子がパン屋・菓子屋でそれぞれ6年連続で一位。中でも男子はサッカー選手が断トツだったー。 ランドセル素材の「クラリーノ」を製造するクラレは二日、こんな内容のアンケート結果を発表した。 ランドセルを購入した親子計八千人の回答を基に集計した。 それによると、男子の人気職業はスポーツ選手32.2%と過去最高を記録。種目別ではサッカーが初めて6割を超え、2割余りの野球を大きく引き離した。 二位以下は運転手、警察官、職人の順。女子ではパン屋・菓子屋・花屋・看護婦がトップ3を維持した。 一方、親が子供に望む職業は、公務員、女子は看護婦で、男子の場合調査開始以来13年連続一位。女子も7年連続トップで、安定した将来を願う親心は不変のようだ。<MARQUEE DIRECTION="right" width="256" height="192" scrollAmount="20"></MARQUEE>
2004年04月03日
コメント(0)

増える息子の老親虐待高齢社会の影で虐待が増えている。お年寄りを虐待するのは介護に疲れた嫁や娘とされていたが、最近は仕事に就けないなどの社会的イライラや複雑な人間関係を抱えながら介護する息子による虐待が圧倒的に多いという。67歳の女性は、30歳の息子の暴力で鼓膜を痛め、肋骨を折るなどの大怪我をしていた。離婚して独身だった息子は酒癖が悪く、定職はない。金をせびられたため、彼女は持ち家を処分し、資産や預貯金まで使い果たした。ある75歳の女性は、やはり離婚後定職がない46歳の独身の息子に年金を取り上げられていた。 それでも足りないと「借金してこい!」強要されるなど、経済的虐待を受けていた。打撲とわかる傷を、顔や手足に負った80歳の女性もいた。同居する52歳の独身の息子は仕事が上手くいかず、ギャンブルと酒におぼれ、高齢の母親に絶えず暴力を振っていたという。 離婚・失業に介護。。。いら立ちぶつける 虐待されている高齢者は75%が女性。しかも33%は脳梗塞、35%が痴呆で、半数近くが介助を必要とする状態だった。虐待の状況は「顔面に出血」「頭を蹴られる。介護を拒否される」「年金を使い込まれ、食べるものがない。電気・ガス・水道代も支払えず止められてしまった」など。虐待を受けていた高齢者は息子や息子の家族と同居している人が多く、調査でも虐待をしていると思われる人で最も多いのは息子31%だった。虐待の要因として考えられるのは「親がぼけている」などのほか「息子と妻との関係が悪い」などが目立ち、虐待している息子の場合、無職の人が多かった。中村さんは、高齢者虐待は生命の危険を伴う場合もあるとして 専門家のいる虐待防止センターの設立 地域の人や本人が通報できるシステムの整備などの対策を早急に進める必要があると力説する。また被害者に対しても身体的、心理的、社会的側面から総合的にサポートしていく必要があると指摘し、次のように言っている。「通報システムのあるアメリカなど先進国と比べ、日本の高齢者虐待への対応は20年遅れている。対策を進めるためには高齢者が人間らしく生きる権利を保障される“高齢者虐待防止法”の1日も早い法制化が必要ではないでしょうか!」 西城国際大大学院 中村雪江教授
2004年01月15日
コメント(1)

掛かり付けの病院に内科と泌尿器の薬を貰いに行った。 泌尿器科の前で順番を待っていたら、83~4歳のお年寄りの乗った車椅子と付き添いの看護婦さんがレントゲン室の前で止まった。 夕べ転んで救急車で運ばれたらしい。 看護婦さんが「夕べから食べてないの!」 「今日の朝食もとってないの!」 「何して転んだの!」と尋ねても返事がない。 何を聞いてもかすれた声で「うん!うん!」と頷くだけ。 何気なくその車椅子のお年寄りに目をやると、色白で顔の皺や年寄り独特の黒い斑点、歳格好そして瘠せて小柄なところなど、5年前に亡くした私の親父にそっくりだった。 頑固で自分の気持ちを一切表現しなかった。 今も健在であれば90歳になる、酒も良く飲んだけど、家族を養う為に形振り構わず一生懸命に働いた昔堅気の親父だった。
2004年01月10日
コメント(2)

【初夢】正月の△元日(二日)に見る夢。〔「一富士二鷹(タカ)三なすび」は、この時の夢とも、また、宝船の絵を枕(マクラ)の下に敷いて寝るとよい夢が見られるともいわれる〕 初夢は! 一富士 二鷹 三茄子 色々と雑事が多くて、要領よく絵のような夢は見ませんでした。 昨年同様であれば十分と思っています!
2004年01月02日
コメント(0)

新年明けましておめでとうございます。今年も昨年同様、変わらぬお付き合いを、よろしくお願いします。「住み易い社会環境が訪れますように!」と祈りました。
2004年01月01日
コメント(0)

元横綱の曙、ボブサップにKO負け
2003年12月31日
コメント(0)

フセイン元大統領拘束についてアメリカの反応です。 イラク暫定行政当局のブレマー文民行政官の第一声が「We’ve got him(やつを捕まえた)」というものでした。その瞬間に記者会見場からは歓声が沸き起こりました。これ自体は非常に特異な事です。 ブレマー行政官は「きょうはイラクの歴史にとって偉大な日だ」と述べました。さらに拘束中のフセイン元大統領のビデオが公開されますと、この時も記者会見場から大きな歓声が上がっていました。 8カ月間に及ぶ逃亡生活の状況を象徴するように髭だらけのやつれたフセイン氏の顔が全てを物語っているようでした。捕まった時もフセイン氏はほとんど無抵抗だったということです。 今後、最も注目される点ですけども、このフセイン氏の身柄がどうなるのかです。チャラビ統治評議会委員は、「彼は裁判にかけられる」と語っていますけれども、どの場所でどのような形で裁かれるのかということについては、まだはっきりしていません。この点につきまして記者会見でも、記者から質問が相次ぎましたが、「まだ何も決まっていない」というのがその答えでした。 考えられますのは、アメリカ軍による軍事法廷、あるいは対アフガン戦争の際のゲリラ兵をキューバのグアンタナモ基地に収容したような超法規的な措置、これ自体は非常に国際的な批判が出ている措置ですけれども、アメリカ移送というような事態も考えられます。ブッシュ政権にとってはこれまでの逆風が順風に転じた瞬間だったと思います。 フセイン元大統領が拘束された事で、今後、直ちにイラクの治安情勢が回復するかどうかは全くの未知数です。日本の自衛隊派遣を巡る空気にも微妙な影響が出てくる可能性があります。(14日 22:04)
2003年12月14日
コメント(0)
平和の尊さを知り、人生の最後の力を「憲法9条を無傷のまま子や孫に手渡そう」という意志に支えられた同年輩の仲間たち。もう一つは、憲法9条を世界憲法として広げて行こう!!。
2003年12月10日
コメント(0)

イラク復興に奔走中(関係方面を頼み△回る(回って、世話をやく)に殺害された二人の外交官の葬儀・告別式が6日、東京都内で営まれた。政府は9日にも自衛隊派遣の基本計画を閣議決定する方針ですが、「黙ってられない!」では今後も読者のご意見を紙面で紹介します。「イラク民衆を巻き込む戦争という名の殺人に賛成しながら、日本人に犠牲が出たからといって大騒ぎするのは国家的エゴイズムむき出し」。埼玉県の主婦は、日本人でもイラク人でも人命の尊さは同じと訴えます。「二人の同胞の死を心から痛ましく思うのなら、日本が本来の姿である平和主義を取り戻し、イラク戦争そのものの誤りを認めるべきです。国民は「国益」という名で利用される政治の保身のための道具ではありません」。同県越谷市の運転手小林昌樹(30)は、戦後復興のため自衛隊派遣に賛成しますが、現在イラク情勢は米国が勝手に終戦宣言しただけの情勢だと思っています。「小泉首相は米国に自分のプライドを見せるためむきになっている気がします。本当に戦後復興のためなら、派遣が遅れて米国に腰抜け呼ばわりされても、イラクの人々のために働き、感謝されればいいと思う」一方、派遣を支持する意見も届いています。台東区の無職中野儀一さん(69)は「世界中から独裁国家を排除し、国民のための民主国家を援助しようとほとんどの国が協力している中で、日本だけ知らん顔はできない。テロが怖いからと後退するのは相手の思う壺だ」と指摘しています。 テロ集団を相手に対話は通用しないと強調する中野さんは「我々が思っている人命の尊さなどは、彼等には通用しない。 自分達の考えに反対する者を平然と殺せる集団には、平和的に話し合いを何百回しても無駄だと思う」と訴えています。 ひろば 日本には戦争放棄の憲法があるということを強力に主張し、各国を納得させられないのだろうか! 戦争を知らない政治家は過去の歴史を勉強してもらいたい!! 無職 菊地竹史(77) 一日付け「核心」に「イラクで自衛隊員に万が一のことがあれば、政権にとって致命傷になる」という自民党閣僚経験者の言葉が出ていたが、この人たちは政権維持だけを考え、自衛隊員の命は二の次。 外交官二人の命が失われても政権にしがみつき、自衛隊員を派遣することを止めようとしない。湾岸戦争のときに90億ドルという大金を日本は拠出したが、金だけで人を派遣しなかったとして評価されなかった。今度のイラク復興で15億ドルを献上した上、政治家は自衛隊を派遣しないと日本は世界で孤立するといっているが、今回の外交官二人死亡の事件からみても、間違いなく戦争の場に自衛隊を送り込むことになる。 どうして日本には戦争放棄の憲法があるということを強力に主張し、各国を納得させられないのだろうか。納得させることが外交であり、それができないのは政治家の怠慢でしかない。自衛隊を派遣することが「国際貢献」「中東平和のため」といっているが、この言葉を何度も繰り返しているうちに“そんなものか”と思い込んでしまうのが人間の常。「八紘一宇」ハッコウイチウ「東洋平和のため」と呪文のように繰り返しながら、あの悲惨戦争の泥沼にはまり込んでいった過去を思い出すのは私達の年代だけ。戦争を知らない政治家は過去の歴史を勉強してもらいたい。
2003年12月08日
コメント(0)

通勤途中の神明神社の銀杏(古木)の葉がすっかり落ち、黄色く色ずいた落ち葉が歩道一杯に、絨毯を敷き詰めたようである。 その上を歩くのが勿体無いくらいに季節感を充分に噛み締めて歩いた。 秋が深まり北では雪の便りも耳にする。 めっきり朝晩冷え込みを感じる今日この頃。 また1つ年を取るのかと独り言を言う。
2003年12月02日
コメント(0)
お茶はなくても――! 東京都羽村市 佐久文雄 74歳 十七、八歳の頃は戦時下で飢餓の日々、悠長な恋の余裕はなかった。 だが高齢となった今、七歳若い人妻と友の仲。年齢相応の思慮も働き、真面目な間柄で元気を貰っている。 公民館、図書館で週一度話す。―――テレビの蝉しぐれは心に残った―――小豆は体にいい。カルシウムはしっかり取ろう―――二万歩突破した日は熟睡できる――関節やくるぶしが痛むことがあるか? 無いよ―――医者は尿酸値高いと言っていたよ。 へえ? おしっこの―――などなど。 二人の出逢いの時間は、人間を長くやった人間ならでは。 隠さず飾らず人生の来し方を踏まえて話す。老いの擬似恋でなく、思いやりにあふれ、心を素っ裸になれ気持ちが安らかになる。 こんな老境の経験から、これは茶はなくも茶のみ友達かとふと思う。 しかし新鮮な異性を感じ魅了されることもある。 心に張りができ、わくわくする生きがい。強いて言えば老恋のような活気剤を飲んでいるようなひとときは大切にしてゆきたい。
2003年11月26日
コメント(0)
朝食をとる前に、日の出(朝6時27分)を観るために風呂に行った。 湯船から、広がる視界に雄大な海を眺めながら、そして日の出を眺望できるなんて初めての事だ。 と期待しながら風呂に入った。ガラス越しに外を見ると、残念な事に雲が厚いせいか、雲間からの光のすじ棒がこぼれ差す程度だった。 「今年も残り40日程になりましたが、これといって災難もなく無事に過すことが出来ました。有難う!」と誰にとはなく感謝の気持ちを報告した。 富士観光バスが迎えに来る14時50分までは自由時間です。 海からの風が強くそして寒かった。それでも近所の神社と白浜海水浴場まで女房と二人でのんびりと歩いて行ってきました。ビ―チバレ―の発祥の地とたて看板に書いてあった。 名前の通り砂浜の砂は白い砂でした。 海岸にはサ―フィン族若者たちで賑わっていた。 賞味期限の切れた二人は遠くでそれを見ていた。 店には綺麗な貝殻細工があった。 いそ菊園に寄ってお茶をご馳走になりました。女房の趣味で500円のいそ菊を買ってきました。 迎えのバスが渋滞で2時間30分遅れで到着した。 17時30分にホテルを出発し、帰りも渋滞で上野に到着したのは大船行きの23時30分の最終電車に間に合った。 バスの運転手さんは大変でした。朝8時から夜24時まで休まずの運転でした。 「お疲れ様でした!有難う御座いました!」を言い損ねました。
2003年11月23日
コメント(0)
今日は「イイフ―フ」の日だそうです。 新聞で申し込んでいた一泊の伊豆下田バスツア―に女房と行ってきました。 上野に集合しバス2台60人で8時に出発した。 勤労感謝の日を入れて三連休の割には空いていた。 所々に紅葉が見えたが葉が落ちて終わりを告げていた。 下田プリンスホテルに14時に到着し、鍵を貰って部屋に入った。 窓からは海が広がっていた。 早速風呂に行った。透明色の温泉だった。 湯船からの雄大な海が一望でき、伊豆七島の大島、利島、うどね島、新島、式根島が手に取るように観えた。 若い頃大島に泳ぎに行ったことがある、あの島が1m程に観えた。 夕食は蟹とお刺身と寿司のバイキングだったが、期待したほどでは無かった。 この時とばかりに蟹の足をタラフク食べた。 適度な波の音が眠りを誘う。
2003年11月22日
コメント(0)
!!感謝の言葉は「万能特効薬」!! {東京新聞 発言より} 今は無き父母は「感謝の言葉は災難よけ」と言うのが口癖だった。 風呂に入る時は「いただきます」。包丁や自転車を使う時も「お願いします」と何事にも挨拶しなさい、と言った。 父母が生存中は、気にもしなかったが、家内がその言葉を信じていて私が車に乗ろうとすると「忘れ物は―」と聞くようになった。 思い起こせば父母が他界してこの十年、車の事故どころか、これという病気や盗難など生活上の災難に遭遇した覚えがない。「挨拶は人と人との潤滑油」という標語はあるが、身の回りに存在する多数の品々にまで挨拶するのは、如何なものかと私は半信半疑でいた。 しかし、父母の持論は終始一貫、常に「全てのものは命を宿す」であり、「わが身を包む衣類や寝具にも感謝の言葉をかけなさい」と言っていた。 先日も出勤前の孫に「忘れ物は―」と言い、「あれもこれもみんな言ったよ」と聞いた家内は「じゃオ―ケ―、気を付けてね」と見送った。 昨今車は事故も多いが、生活上かかせぬものになった。せめて車くらいは、と乗降時に挨拶する私である。もう十数年も事故に遭っていない。 お金や手間隙は、一切かからぬ上に一言で住む。この簡単な挨拶は、万能特効薬だと思うようになり、近隣の人々にも会うたびお勧めしている。 その気になれば誰でも何処でも今すぐできる。どなたも一度は試してみては如何と思います。 埼玉県 無職 佐伯旨一 74歳
2003年11月20日
コメント(0)

高橋尚子、陸連に難題…「アテネに行きたい」 Copyright 2003, TheSankeiShimbun. 「引退はしません!」。東京国際の惨敗から一夜明け、女子マラソンの高橋尚子が17日午前、改めてアテネ五輪への出場意欲を強調した。「アテネに行きたい気持ちは100%ある。ここまで、何万キロも走ってきたのにもったいないという気持ちがある。これからも陸上は続けます」。ただし、今後の先行レースに出場する気はないまま。2時間27分21秒で2位(日本人1位)という東京国際の平凡な結果で“私を代表に選んで”と、無理難題を日本陸連に突きつけた格好だ。 惨敗の原因は「減量」による失敗だった。好調な調整が続いていたために「ベスト体重から2キロ減り、レースの朝は貧血気味だった」と小出義雄監督は証言し、高橋も「レースの朝はおもちの皮の部分しか食べれなかった」と話した。 五輪へ、勝たなければならないレースへ重圧から、軽い拒食症にもかかっていた。その証拠に、レースを終えると「幕の内弁当を2つ食べて、バナナも食べた。水も2リットル飲みました。明らかに体重も増えちゃいました」と高橋は苦笑い。「食べたいストレスが間違いなくあった。昨日はあれからずっと食べっ放しだもの」と、小出監督も後悔先に立たずといったところだった。 アテネへの残る2枚の切符を争う選考レースは、1月の大阪国際と、3月の名古屋国際。だが、一夜明けたこの日も高橋は「現時点で、今後の選考レースには出ない」と明言した。だが、「アテネには行きたい」。過去の実績も加え、この成績で代表選手に選べ、と日本陸連に決断を強要しているのだ。 マラソン8レース6勝。シドニー五輪金メダル。01年ベルリンマラソンで世界最高記録(当時)。実績には文句のつけようもなく、国民栄誉賞も受賞した。人気は絶大。前日のレースのスポンサーも、ほとんど高橋がらみのものだった。それでも陸連は高橋を落とすことができるのか。 小出監督は「Qちゃんは絶対引退しない。だからアテネには連れて行きたい。アテネのコースはおまえのコース。運があるんだから」と話し、高橋を五輪代表に選ぶよう後押ししている。 ゲタを預けられた陸連側は頭が痛い。「高橋を推薦という声もある」と日本陸連の桜井孝次専務理事はコメントしたが、レース直後には小出監督自身が「27分台で2番じゃ周りがいうことを聞かないだろう」と話した余りにも平凡な結果。仮に1月の大阪で20分を切る選手が複数出れば、高橋も名古屋で走らずに代表に選ばれることは極めて難しくなる。 小出監督は「1週間もあればすぐにレースはできる。Qちゃんは、それだけの練習をしているんですから」と再挑戦にも問題はないと強調するが、当の高橋に走る気が戻らない限り、陸連の悩みは続く。過去の五輪のたびにもめ続けたマラソン代表の椅子(いす)取りゲームは、陸上界最大のスターをめぐって熾烈なものになりそうだ。
2003年11月18日
コメント(1)
昨日は暑いくらいでした。 そんな中で、尚子が東京国際マラソンで2位と言うことでアテネオリンピックに出られないかも! 武蔵丸は引退か! 東京で昨年より15日遅く「木枯らし1号」 午前9時43分に最大瞬間風速16.4メ―トル記録 東京で木枯らし1号を観測した。17日午前9時43分に最大瞬間風速16.4メートルを記録するなど、東京地方で17日朝から強い北風が吹いた。 東京の日比谷公園では、コートを身にまとい寒そうに先を急ぐ人たちの姿が見られた。ことしは、2002年よりも15日遅い木枯らし1号となった。
2003年11月17日
コメント(0)
土井党首辞任 東京新聞社説 社民党の土井たか子党首の辞任は、大きな時代の流れを感じさせる。 始終一貫した「護憲」で戦争史に足跡をのこしたが、自己改革を怠った政党は後退するしかないという教訓も残した。「ご苦労さん」といっても、何の慰めにもならないだろう。 先の総選挙で、社民党は解散時の18議席からわずか6議席に落ち込む惨敗を喫し、責任者として辞任は必至だった。 小選挙区制はもともと小政党に不利だ。それに秘書給与搾取事件で党幹部らが逮捕されたスキャンダルも重なった。さらには北朝鮮による拉致事件解決に消極的だったことで、世論の批判を受けていた。土井党首にとっては、「やるっきゃない」と叫んだ当事のはつらつさは消え、満身創痍の退陣である。 社民党は、前進の社会党時代から現行憲法擁護を党是とし、土井氏はそのシンボル的存在だった。戦後半世紀以上、日本が戦争に巻き込まれなかったことに、この党は一定の役割を果たしたといえよう。しかし、社会党・民社党はかねて党改革の必要性を言いながら、実行できなかった。土井氏は、長期低落の党勢を立て直す救世主として、1986年に委員長に就任した。89年の参院選で大躍進し、「山は動いた」と自民党を過半数割れに追い込んでいる。 振り返ってみれば、この時が社会党改革の最後の機会だった。「市民との絆」「女性の視点」を打ち出した。しかし「労働組合におんぶにだっこ」からの脱却はできないまま、96年の党分裂では最大の支援組織である旧総評が軸足を民主党に移してしまった。その後の党組織強化、支援団体の拡充がなおざりとなれば、党勢の衰退は必然だ。 一時、政権へも参画した。93年には当事の村山富市委員長が首相に就任したが、「自衛隊合憲」への転換は多くの固定支持者を失い、せっかくの決断は裏目に出る。 それに社会党・民社党は時代についていけなかった。欧米の多くの国では社会民主主義政党が政権を握ったのは、資本主義の欠陥を補う路線を人々が求めたからだ。しかしこの党は万年野党に安住し、イデオロギ―政党から国民政党への路線転換ができなかった。「護憲・平和」には、いまでも一定の支持がある。憲法9条の精神を守れという声も少なくない。しかし、スロ―ガンだけでは、国民の支持をつなぎとめることができない。 土井氏の辞任はそれを象徴している。イデオロギ― ――〔 Ideologie〕 人間の行動を決定する、根本的な物の考え方の体系。〔狭義では、それぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指す〕きょうぎ(ケフギ)【狭義】ある言葉の意味のうち、指す範囲の狭い方。 ⇔広義【社会主義】生産手段を社会全体の共有とし、生産物や富を公平に分配することによって、階級差や貧富の差が無い、平等な社会を実現しようとする△主義(社会体制)。⇒資本主義
2003年11月14日
コメント(1)
第43回衆院の投票率は過去最低の59.73%となった。 2000年衆院選62.49%を3ポイント近く下回った。<衆院選>石原都知事の三男、宏高さん落選 「軍団」及ばず 石原慎太郎東京都知事の三男で自民新人の宏高さん(39)は、知事の衆院議員時代の地盤だった東京3区で激戦の末、民主前職の松原仁さん(47)に敗れた。「親バカ」を自認する石原知事に加え、俳優の舘ひろしさんら「石原軍団」も連日、応援に駆けつけた。短期間で浸透を図ったが、人気は票につながらなかった。<衆院選>加藤紘一さん、無所属で返り咲く 議員辞職から約1年半。元自民党幹事長の加藤紘一さん(64)が無所属で山形3区に返り咲いた。浪人生活中にこなしたおわび集会は700回。抱えきれない花束を支援者から贈られ「1年半、地元の皆さんと溶け合って新しいエネルギーをもらった」と笑顔で復活宣言した。<衆院選>社民党・土井党首、比例で辛くも当選 兵庫7区で12選を目指した社民党党首の土井たか子さん(74)が、党の凋落(ちょうらく)を自らの選挙で証明する結果となった。自衛隊のイラク派遣の日程が現実味を増す中、自他共に認める「護憲のシンボル」の敗北。比例代表で復活当選したものの、兵庫県西宮市の事務所は重苦しい空気に包まれた。<衆院選>保守新党代表の熊谷弘さん落選 静岡7区 事実上、与党分裂選挙となった静岡7区では、保守新党代表の前職、熊谷弘さん(63)が7選を果たせず落選。自民県連の推薦を受けた無所属新人の城内実さん(38)が当選確実とした。政権の一角を担う与党党首の落選は極めて異例。民主幹部だった熊谷さんが突然、与党入りしたことも有権者の理解を得られなかった。 <衆院選>山崎拓氏:2003年11月10日 自民党副総裁職の辞表を提出 政界引退せず 衆院選福岡2区で落選した自民党の山崎拓副総裁は10日午前、自民党本部で小泉純一郎首相と会い、副総裁職の辞表を提出し、受理された。後任の副総裁は空席になる見通し。 小泉首相が「落選は残念だ。けん土重来を期すべきだ」と述べたのに対し、山崎氏は「分かりました」と述べた。山崎氏は会談後、記者団に対し、「政界引退はしない」と述べたうえで、「けん土重来のあり方についてはいろいろ選択肢があり、派閥の同志や首相と相談したい」と述べた。[毎日新聞11月10日] ( 2003-11-10-12:59 ) 将来不安、戦争のない、失業のない、国民の口が潤うことができる社会になる事を国民は期待しています.
2003年11月10日
コメント(0)

2度のリストラ、家計崩壊!! 東京新聞記事 昨年、二度のリストラに遭った。30年近い設計技師の経験にこだわり、再就職の仕事を探したが、失業給付も切れた。背に腹は代えられない。神奈川県に住む南芳信さん(49)=仮名=は今年4月から、市の緊急雇用対策事業の警備の仕事に飛びついた。 職場は潮風の流れてくる観光地。違法駐車する人に最寄の駐車場を案内する。 冷たい雨に打たれて、寒さで体が震えた。知り合いの顔を見つけたときは、隠れるようにうつむいた。「楽しそうにしている家族連れの姿を見て、自分の情けなさが身に染みた」 県立工業高校を卒業して、エンジニヤリング会社に就職。大手電気メ―カ―に10年間出向し人工衛星開発のプレジェクトチ―ムで搭載機器の設計などに携わった。5歳年したの妻と31歳で結婚。 40歳で県内に中古マンションを購入し、月ずき5万、ボ―ナス22万の25年ロ―ンを組んだ。 最初にリストラされたのは金属加工会社。設計技師として数社で経験を積み、5年前に転職したばかりだった。 昨年3月。応接室のソファ―に座った役員が切り出した。「あくまでもお願いだが、ぜひ協力してほしい。」会社に残るなら手取り30万の月給は2割カット、辞めるなら退職金に給与一ケ月分の上乗せ。勝手な条件だったが、それをのんだのは、元請企業で数千人規模の大リストラがあり、「いつかは自分も」とうすうす覚悟していたからだ。 従業員100人会社で40人が、言いなりになって会社を去った。 通告から3日目の深夜になって、「実は・・・」と妻に打ち明ける。「そんな会社に残っていても仕方ないでしょう」気丈な言葉に勇気ずけられた。 人材バンクに登録し、失業給付を受けながら中高年の再就職セミナ―に通った。 希望年収は450万円。だが、完全失業率は5%台半ばで高止まりする完全な“買い手市場”。 40代後半という年齢がいつもネックになった。希望給与を下げ、43社と面接し、やっと一社から採用通知が届いた。「よかったね」と妻に声をかけられ、正直、ほっとした。 昨年7月から、従業員20人ほどの小さな金属加工会社に勤め始めた。だが喜びもつかの間、採用からわずか3ヶ月で解雇通告を受ける。「予定していた仕事が無くなった。もう雇えない」専務の言葉は冷たかった。 二度目のリストラに自分でも言葉がなかった。「首になった」。そう告げた夜、食卓で差し向かいに座る妻はうつむいたきり黙る込んだ。それ以上、会話は続かなかった。 一人息子は高校受験を控えていた。 蓄えも既に底をついていた。マンションの管理費2万円も滞納。税金や国民年金の掛け金も払えなくなり、妻は実家か借金をした。 就職活動を再開しても、妻はもう「今日はどうだった」とは聞かない。些細なことで口論になり、家の中がとげとげしくなった。 息子が公立校に合格したのが唯一の慰めだった。警備の仕事は半年で契約が切れ、10月からまた職探しの毎日が続いている。 ハロ―ワ―クに行く時もランチタイムを過ぎるのを待って、半額になった弁当を買う。 住宅ロ―ンのボ―ナス払いが出来なくなり、月ずきの支払いを増やす形でロ―ン組替えを進めている。 だが、仕事が見つからなければそれも払えない。マイホ―ムも手放さすことになるかもしれない。 これも構造改革の「痛み」なのかと、やり場のない怒りが込み上げる。 「もう一度、慣れた仕事に就きたいけれど・・・」。10月に面接した6社からは、まだ返事がない。
2003年11月01日
コメント(0)
給食のおばさん 100億円当選 東京新聞記事 {ミネアポリス(米ミネソタ州)AFP・時事}給食のおばさん達が一晩で大金持ちに―。 米ミネソタ州の小さな町ホールデングフォードにある学校の給食室で働く16人の女性がこのほど、9千5百50万ドル(約百億円)の宝くじに大当たりして話題になっている。 この女性らは13年間にわたり、毎月25セント(約27円)ずつを持ち寄り、4ドル(約430円)の宝くじを共同購入していた。 このうちの一人、ドナ・ランゲさん(65)は手元に書き写しておいた番号を見た瞬間、「間違って書きとめた」と思い、給食室の掲示板にある本物のくじの番号を確認するため、仲間の一人と急いで学校まで走ったという。 ランゲさんは既に仕事をやめたが、学校の理事長はほかの職員には今後も仕事を続けてもらいたいと話している。 一人当たり、6億2500万円になる。 いっかくせんきん【一攫千金】 ちょっとした△仕事(投資)で、一時に大きな利益を得ること。 ――を夢見る
2003年10月29日
コメント(1)
全66件 (66件中 1-50件目)