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天界・人間界・阿修羅界・畜生界・餓鬼界・地獄界。すべての生き物は、生きている時の行いによって、これら六つの世界のいずれかに生まれ変わる。 日本古来の教え、六道輪廻の教えである。 平安時代の源信によって書き表された「往生要集」に詳しく書かれている。 私が、子供のころは、うそをついたり,泥棒をしたり、人を殺したりしたら、地獄へ堕ちると教えられた。最近の子供は、ほとんどそういう話さえ知らない。地獄の話をすると、目の色を変えて私の話を聞くことからも分かる。 鎌倉時代について、六年生には、歴史の授業をしたいと思っている。鎌倉時代について、どれだけのことを理解しているのか。鎌倉時代のイメージはどの程度のものなのか。 教科書をくわしく見ていないのでわからないが、この時代のことを心の中にイメージできるように授業をしたい。おそらく、元寇とご恩・奉公については、知っているだろうが、それ以外についてはほとんど教えられていないはずだ。 鎌倉時代は、天変地異の極めて異常な時代であった。1230年には、六月に雪が降っている。大地震も頻発した。台風も猛威をふるった。天然痘も流行り、飢餓の年月が何年も続いた。貧乏な人々は、飢えて多数死んでいった。いい国作ろう鎌倉幕府という覚え方をした鎌倉時代の始まり。1192年。(この鎌倉時代の始まりについては、最近では、疑問視する歴史学者が多い。1185年説が有力。) そういう貧しい民衆は、どういう気持ちになったのか。何をしたのか。この二つについて、考えさせてみたい。 来週の1月18日から、いよいよ小学校復帰訓練が始まる。道徳は、アンパンマンの話。国語は、音読練習と漢字の覚え方の基本。今回の復帰訓練は、低学年から高学年まで、まんべんなくおじゃまさせてもらうつもり。学校の先生方、よろしくお願いします。 だんだん、どきどきしてきた。←クリックしていただけると、うれしいです。ありがとうございます。にほんブログ村
2010年01月10日
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2000年に、32インチのテレビを購入した。148000円。ブラウン管のテレビだ。2009年。32インチのテレビは、安いものなら、50000円で買える。液晶テレビだ。9年間で、値段は三分の一になった。 パソコンは、それ以上の値段低下。処理能力は、格段にあがっている。 オーディオ関係。スピーカーは、格段に安くなった。が、音は、とんでもなく安っぽい音質になった。 十年以内で、教育の世界もとんでもない変化が起こった。学力。それしか学校が目指すべき目標がなくなっている。 私自身。ここ10年間で、体力および心の中は、完全に入れ替わってしまった。まるで、別人になってしまった。 十年前の生き生きした教師生活を送っていたころに戻ることを来年の目標にしよう。←クリックしていただけると、うれしいです。ありがとうございます。にほんブログ村
2009年12月29日
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今年、私はできるだけ節約した。私の一年間のおこずかいはいくらくらいか。ただし、ガソリン代・医療費はのぞくが。 推定、一年間で、五万円もらっていない。要求しなかったのだ。一ヶ月4000円くらいだと思う。飲み会にも一回も行っていない。服も購入していない。買ったのは、ジュース・おかしくらいしかない。本も、ほとんど買っていない。 エコポイントで、図書券に交換した。やっと最近手元に届いたので、九千円ほど、本代として使える。 いらないものを買わなければ、一年間で五万円くらいのおこずかいで十分であることを体感した。 しかし、医療費が月に二万円以上かかっているから、大きなことは言えないが。 早く、薬付けの世界からおさらばしたい。 ←クリックしていただけると、うれしいです。ありがとうございます。にほんブログ村
2009年12月26日
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今日、K先輩の葬式に行ってきた。なぜ、急に亡くなったのか知りたかったから。 なんと、盲腸だったのに、クスリで痛みを押さえ込んでいたため、盲腸が腐り、腹膜炎になったためと知った。 忙しいのは、分かる。小学校の校長だから。しかし、自分の体の痛みをクスリで抑えていたとは。 しかも、今日は、K先輩が生きていれば60歳の誕生日だったのだ。来年の三月で退官のはずだったとは。 こんなむごいことがあっていいのか。 クスリで、体の不調を押さえ込んでいる教職員は、とても多いと思う。私も、約半年クスリで体の不調を押さえ込んでいた。自分が「うつ」とは知らずに。 教職員のみなさん。体の異常は、ほっといては手遅れになることを忘れずに。と、言っても、「子供が待っているから」と無理をするのが、教職員の習性。 命を大切に。←クリックしていただけると、うれしいです。ありがとうございます。にほんブログ村
2009年12月22日
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私の初任の小学校で一緒に働いていた先輩が、亡くなった。まだ59歳。現役の小学校校長である。 私は、このK先輩には、本当に助けてもらった。私の父親が、第五因子欠乏症という非常に珍しい血液の病気になり、血尿となってどんどん血液が体から出て行った。ひどい貧血になり、緊急に大量の血液が必要になったのだ。 私は、病院から電話した。そして、懇願した。「A型の血液型の先生、お願いです。血をわけてください。」 何人かの先生が、病院へ来てくれた。その先頭になって来てくれたのが、このK先輩だったのだ。 明日は、葬式。「あのときは、本当にありがとう。」と言ってくる。私の父親は命を分けてもらったのだ。本当に、悲しい。←クリックしていただけると、うれしいです。ありがとうございます。にほんブログ村
2009年12月21日
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変な題名を付けました。 「うつ」になるには、どれくらいの期間がかかるか。 私の場合は、赤ちゃんが母親のおなかにいる期間くらいでした。約十ヶ月。ある日、「うつ」が生まれ出たのです。 「うつ」になるのは、ある大きなきっかけで心の中に「うつの赤ちゃん」が芽生えます。そして、約十ヶ月精神はごちゃごちゃした状態が続き、また違う出来事がきっかけで、突然「うつ状態」を生み出したのでした。 私の場合、最初は突然の心臓の動悸と息苦しさとひどい頭痛がおそいました。ほとんど寝られない日が何日も続きました。陣痛のようなものです。神経内科に何回か通いました。しかし、原因が分からない。授業中にもそういう状態になりました。 「もう、だめだ。」私は、大学病院の精神科で、これまでのこと、現在の状態について、力なく話をしました。・・・・・・・・。 「うつ病です。」そう宣告されました。 翌日から、私は入院したのです。あれから、約三年たちました。私は、今年の六月から八月末まで、2回目の入院をしました。 15年くらい前までは、「うつ」になる教師は、毎年同じくらいの人数だったらしいです。ところが、十年くらい前から突然、毎年毎年、精神的な病気で休職する教員が増え続けています。今年は、5000人を突破していると思います。まだ、今年の教員の精神的な病気による休職者について発表されていませんが、間違いないと思います。 私は、来月の7日から、教職に復帰するための特別プログラムを受ける予定です。 「うつ」が治るには、どれくらいの期間がかかるのか。私には、分かりません。無理をすると、必ず体に異変が起こるので、無理だけはしないようにします。←クリックしていただけると、うれしいです。ありがとうございます。にほんブログ村
2009年12月15日
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精神が安定していると、自然に穏やかな顔になれます。私は、精神が不安定なため、顔に生気がなく、ほほえむことも少なくなってしまいました。 顔にほほえみをうかべるという練習をすることによって、精神も安定するかどうかという実験が昔からいろいろな人たちによって行われています。 割り箸で笑顔を作る練習をするというのも、あり得ます。みんなが同じように,笑った顔を見ているうちに楽しい気持ちになってくるからです。 小学生には、使えるかもしれませんが、新聞ざたになりそうなのでしません。ただ、小学生というのは、先生がきげんがいいか悪いかを本能的に見破る力があります。10年くらい前までは、私も、毎日、授業中に何回かは笑いが入るようにしていました。 最近の教育の世界は、私にとっては「居心地のよい場所」ではなくなっています。とにかく、アンケートを1年間に何回もするようになったこと(児童用と保護者用を各二回ずつ)・参観日が十年前の三倍くらいになっていること・休憩時間、休息時間が設定されているにも関わらず全くゆっくりできないこと・人事考課制度という制度で、私はやる気をなくしてしまったこと・・・・などなど、まだまだ、最近十年間で、とてつもなく息のつまる学校になりました。 それに、追い打ちをかけたのが教室でのごたごたした問題。私は、頭がぱかんと半分に割れた感覚によって、うつ状態に陥ってしまったのです。本当に、あの頭が分解してしまったという感覚は、今思い出しても恐ろしい。 復帰訓練の始まる一月。体の調節と知能の整理と精神の安定。その三つができることを心の底から願っています。←クリックしていただけると、うれしいです。ありがとうございます。にほんブログ村
2009年12月13日
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来月から、つまり一月の最初から学校での復帰訓練の予定。声が、出ないので、最初の一週間で体育館で発声練習をしたい。一番できないことがもう一つ。笑顔で過ごすこと。笑顔で子供の前に立てないようでは、復帰もおぼつかない。笑う練習も、懸命にすることが必要だ。 発声練習と笑顔の練習。二つとも、かなりの困難さを感じている。しかし、この二つを克服しないと職場復帰は不可能と言ってよいだろう。 困ったことに、今日から精神安定剤が一つ増えてしまった。ふーむ、先は長い。←クリックしていただけると、うれしいです。ありがとうございます。にほんブログ村
2009年12月11日
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今日は、自転車に乗って約三十分ほどサイクリングをした。最近、夜寝る前と朝起きてすぐ、体のいろんな箇所が痛みに襲われている。左腕、首、背中などがズキズキと痛む。 運動不足と体重増加のためであろう。主治医にウォーキングをできる日には、行うように指示された。 明日からも続けたい。 「うつ病をうつ」・・・・・・。それしかないと、断言された。 今日は、七インチの画面でブログを作成しているため、これ以上書き込むことが困難。 パソコンの横に夕ご飯が置かれた。これにて、失礼。みなさんのご多幸を祈る。 2009.12.7 午後七時十二分
2009年12月07日
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「上」という漢字の筆順。知ってますか。正解は、「たて、よこ、よこ」です。間違えて「よこ、たて、よこ」と書く人がたくさんいると思います。参観日の後の懇談会で同じ問題を出したら、大人でも半数の人が間違えて覚えていました。 筆順は、ほとんどの漢字に2種類以上の筆順があります。では、なぜ、そのことを学校では教えないのでしょう。2種類以上教えると、教えにくいからです。教師の方から、「一つにしてもらわないと教えにくくて困ります。」と文部省に訴えたのです。 脳には記憶を司る部分があります。「海馬」という部分です。海馬は、「このことを大脳皮質に記憶させるべきか」と判断するのです。海馬が記憶する基準となるのは、「自分の生命存続に関係する情報か」どうかです。「朝は、この店の前の道路には大きな穴が開いているからあぶない。注意しよう。」などという記憶などは、すぐに大脳皮質に情報がおくられます。 ところが、学校で習う勉強というのは、自分の命とはあんまり関係がないことです。だから、なかなか勉強の内容を覚えることができない子がたくさんいるのです。 そんな性質を持つ海馬を突破する方法があります。それは、「繰り返し」です。真剣に何度も何度も繰り返し,情報を送り続けるしかないのです。そうすることで海馬は、「こんなに何回も送られてくる情報は、大切な情報なんだ」として、ついに大脳皮質の方にその情報を送り込むのです。 さて、ここで問題です。 5個の漢字を5日間で覚える場合、一つの漢字を一日に5回書いて5日間続けるという方法と、一日に五個の漢字を一回ずつ書いて五日続けるという方法の二通りの方法があります。どちらが、よく覚えると思いますか。 これは、はるかに後の方法が優れているのです。 同じ漢字をノートいっぱいに書くよりも、違う漢字を毎日一回ずつ書き続けるという方法がはるかに優れています。この練習方法は、小学校でも、中学校でも、高校でも同じです。間違った漢字の覚え方、つまり、同じ一つの漢字を何回も何回もノートに書くという方法は、役に立ちませんし、いやになります。私は、この方法を小学校の時にやっていたため漢字を覚えられなかったのです。大切な漢字勉強の方法です。絶対に覚えておいて下さいね。←クリックしていただけると、何人くらいの人が私の文章読んでくださったか日本ブログ村と いうところで、わかるのです。現在、教育論・教育問題というジャンルに参加しています。
2009年11月22日
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昨日、二年ぶりぐらいに熱を出して小学校を早退してきた小1の息子。今日も、熱があるので、昨日に続き病院で診てもらったら、新型インフルエンザの診断が下りた。 家中の全員がマスクをすることになった。私は、マスクの信憑性に疑問を持っている。マスクをしても、インフルエンザウイルスは、マスクを通過して鼻や口に入る。マスクの性能にもかなりの差があるようで、高価なものでないと効果がない。 毎年、妻はインフルエンザに罹って数日寝込む。インフルエンザの予防注射を毎年打っているのにもかかわらずだ。私は、注射を打ったことは一度もない。しかし、インフルエンザにかからない。インフルエンザの予防注射というのは、気休めにしかならないのではないか。 息子は、来週一週間は自宅で療養することになった。 みなさん、インフルエンザには十分注意してくださいね。 ←クリックしていただけると、何人くらいの人が私の文章読んでくださったか日本ブログ村と いうところで、わかるのです。現在、教育論・教育問題というジャンルに参加しています。
2009年11月21日
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私の唯一の趣味は、男声合唱だった。しかし、「うつ症状」が出てからは、やめている。というより、練習に行くことが怖い。声がまるで出なくなってしまったのだ。三年前くらいまでは、3オクターブと少しあった声域が、今では1オクターブでるか出ないかである。声を出すことが絶対必要な教職にとっても、致命的な問題である。 その寂しさからか、私は昨年と一昨年で、合計六台のパソコンを購入した。六台というと驚かれると思うが、ネットブックという小型のノートパソコンを三台、デスクトップパソコン二台、ノートパソコン一台という内訳である。購入価格を計算してみると、六台で238800円しかしない。十年くらい前に買ったノートパソコン一台分の値段とほぼ同じである。 パソコンは、今年は購入していない。ウインドウズ7のパソコンを買いたいが、しばらくは禁欲生活で過ごさなくては。 「うつ症状」が引き起こした、馬鹿買いと言っていい。 声が戻らないことには、教職に戻ることは無理だ。健康な精神と健康な声と健康な体になることを、願わずにはおれない。 話は変わるが、今日、息子が朝から腹が痛いと言っていた。めずらしい。やはり、午前中に学校から電話があり迎えにきてほしいとの電話。とうとう、息子の教室一年二組も風邪とインフルエンザで、今日は11人も欠席したという。やはり学級閉鎖になった。みなさんも、十分注意してほしい。←クリックしていただけると、何人くらいの人が私の文章読んでくださったか日本ブログ村と いうところで、わかるのです。現在、教育論・教育問題というジャンルに参加しています。
2009年11月20日
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何の数字でしょう 次の数字は、何の割合を表したものだと思われますか。 なお、この調査は全国300カ所の学校で調査されたものです。Tossという教師の研究団体が調査集計したものです。かなり信憑性があります。 一年生・・79パーセント 二年生・・58パーセント 三年生・・47パーセント 四年生・・44パーセント 五年生・・29パーセント 六年生・・13パーセント 学年が上がるにつれて、どんどん下がっています。 この数字は、国語の授業が楽しくてわかると思っている子供の割合なのです。 一年生は、国語が大好き。それが二年生から急激に意欲が低下し始めます。そして、高学年になると、見るも無惨です。 国語の勉強が面白くない。私も、小学校の特に五年生・六年生の時は大嫌いでした。 私は、教科書よりも時計をよく見ていました。「早く終われ、早く終わってくれ」それが、私が常に感じていた感情でした。毎日漢字の宿題が出ました。100文字書かなくてはなりませんでした。全く漢字を覚えることができませんでした。漢字は、授業中に教えるものです。国語の授業を例に出しましたが、他の授業も同じようなものでしょう。おもしろくないのに、座らされている。時間の無駄としかいいようがありません。 私は、小学校高学年も専科にしてしまった方がいいと思います。低学年は(できれば、二人の教師がいつもいた方がいいと思います。) 高学年は、つまらない授業になれてしまって「授業というのは、おもしろくないものなのだ。」というあきらめの気持ちでしかたなく座っているのです。専科にすれば、毎時間変化があり、その科目に精通した先生が授業をしますから、担任よりはるかに効果があがります。 私の結論。高学年は、各科目ごとに先生をかえるべきである。 ←クリックしてくださると、何人くらいの人たちに読んでもらえたか、 わかるのです。ありがとうございます。にほんブログ村
2009年11月18日
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教育に定理はあるか (今月の終わりまで、教育論・教育問題に在籍させてください。)物理学、数学、生物学などには、非常に重要な定理、ないしは物質が存在する。物理学ならE=mc²、 数学ならピタゴラスの定理、生物学ならDNAというふうである。 それならば、教育には、定理はないのか。教育は○○であるという本は,たくさん出ている。教育に関しても、「これこそ」というべき定理があってしかるべきであろう。あれもいい、これもいいとなんでも許容するから、いつまでたっても、教育の進むべき道が見えないのだ。選択することがぜひ必要ではないか。 まずは、自分で考えないといけないと考えた。おもいつくだけ、書いてみる。 教育とは、愛である。 教育とは、管理である。 教育とは、義務である。 教育とは、無駄である。 教育とは、評価することである。 教育とは、強制である。 教育とは、信ずることである。 教育とは、自分との格闘である。 教育とは、創造である。 教育とは、模倣である。 教育とは、自分を知ることである。 教育とは、税金の無駄遣いである。 教育とは、面白いものである。 教育とは、つまらないものである。 教育とは、勉強させることである。 教育とは、勉強することである。 教育とは、訓練である。 教育とは、うそのかたまりである。 教育とは、真理を知ることである。 教育とは、精神をよくするものである。 教育とは、精神をおかしくするものである。 教育とは、忘却することである。 教育とは、人間愛である。 教育とは、感銘である。 教育とは、自由である。 教育とは、責任である。 教育とは、寛容である。 教育とは、すてきな人間の育成である。 教育とは、勝つことである。 教育とは、協調である。 教育とは、受験勉強のことである。 教育とは、何を教えるかを考えることである。 教育とは、楽しい教師と生徒の関係をつくることである。 教育とは、教えることである。 教育とは、教えてもらうことである。 教育とは、育つことである。 教育とは、予測不可能である。 教育とは、難しく、なみはずれた努力を要するものである。 教育とは、ただいっしょにいてあげることである。 教育とは、取り扱い説明書のない人間を育てることである。 教育とは、無である。 教育とは、ありのままの自分になることである。 教育とは、楽しいものである。 教育とは、つまらないものである。 教育とは、役に立つものである。 教育とは、役に立たないものである。 教育とは、選択していくものである。 教育とは、決まり切ったものである。 教育とは、ひまな人間が受けるものである。 教育とは、時間がかかるものである。 教育とは、考えることである。 教育とは、つらの良い人間にするものである。 教育とは、がまんすることである。 教育とは、自主性の育成を意味する。 教育とは、暖かい心をつくることである。 教育とは、高貴な魂をつくることである。 教育とは、知識・知恵を獲得するものである。 教育とは、食べられるようにしてやることである。 教育とは、お勉強である。 教育とは、自分の立脚地を確立することである。 教育とは、自分以外の人々を認めることである。 教育とは、なかなかうまくいかないものである。 教育とは、人間らしく生きていけるようにすることである。 教育とは、おどろくことである。 教育とは、こだわることである。 教育とは、こだわらないことである。 教育とは、定義できないものである。 みなさんは、教育とはなんだと思いますか。これによって、その人間の一生は、かなり方向性が決定されると思うのです。みなさんなら、どれを選びますか。あるいは、独自の教育の定理をおもちですか。 ←クリックしてくださると、何人くらいの人たちに読んでもらえたか、 わかるのです。ありがとうございます。にほんブログ村
2009年11月17日
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更新制度廃止 だれが、いいだしっぺなのか。自民党のだれかが、「10年に一回、更新制度を導入したらどうか。」そう、口に出したのだ。その人物は、だれなんだ。私は、その人物の名前をぜひ、知りたい。 日本でも、有数の愚作の政策だ。狂っているに近い。 ぜひ、知りたい。研修費は、教師自身が出さなくてはならない。頭にくる。とてつもなく頭にくる。ろくでもない研修だろう。研修を聞いて役に立ったと思ったことなどほとんどない人間。それが私だ。 と、私は、2008年の12月にブログに書き込んでいる。 やった!!! このあほみたいな研修制度は、来年度で終わりになることになった。これも、政権交代したからである。三万円も自分で出して、大学で講義を受ける。こんなことを三十五歳、四十五歳、五十五歳の三回、受講することを決めたのは、安倍内閣である。安倍内閣が立案し、国会で決まったのである。安倍さんは、私と同じ「うつ症状」が出て、すぐにやめられた。安倍総理も、心身に異常が出たのであろう。 皆さんの中で、教師になってから病気になったことがないという人は、危ない。少しの疲れ、少しの発熱、少しの下痢、少しの心臓の痛み、少しのしこり、少しの頭痛などをがまんしているのではないか。私も、そうだった。教師になって、約20年間は、病気で休んだことは10日もなかった。休むことに、恐怖の念を抱いていた。そういう教師が「うつ」になりやすい。がまんにがまんを重ねてしまうからだ。 体がおかしいと思ったら、安倍さんのように、「少し休みます」と休んだ方がいい。その休む勇気がほとんどの教員にはないのだ。 私は、がまんにがまんを重ねて、体がかなりおかしくなってから「休みます」ということになった。そのため、治るのが遅くなってしまった。体がいうことをきかない教員には、早めの休職をお勧めする。←クリックしていただけると、何人の人が読んでくださったのかわかるにほんブログ村 のです。よろしくクリック、お願いします。
2009年11月16日
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先生の指示に従えないわが息子。 私には、三人子供がいる。一番上は、私立高校の三年女子。二番目は、公立高校の一年女子。そして、小学校一年の男子。 一番上の女子と一番したの男子の違いは十歳半。男の子と女の子では、まるで違う。同じ人間とは、思えない。 一番上は、生まれてからすぐに臍ヘルニアになり、野球ボールくらいの大きさのヘルニアが臍に出てきて、とても心配した。幸い、いろいろ治療している間に一年くらいかかって小さくなった。かわいくて、毎日のようにビデオを撮り、ソニーのビデオプリンター(今は、もう売っていない。一台14万くらいした。)で写真にして、親が楽しんでいた。デジタルカメラは、まだメジャーではなかった。もう一台、フロッピーの小さいのに映像を入れる、デジタルカメラみたいなのも買った。これは、フロッピーに画像を入れるのだが、デジタル記憶ではなく、アナログ記憶の代物だった。これも、10万くらいした。それから、カシオの有名なQV-10Aを買って写して遊んでいた。パソコンは、まだまだ高価でノートパソコンなど12.1インチの画面で50万円くらいしていた。15年くらい前は、まだワープロ中心の日本だった。ワープロも、最初のうちは、なんと2行くらいしか表示できなく、打たれる文字もがたがたしていた。フォントの24ドットなどという言葉が懐かしい。 このころは、パソコンは、NECのパソコン、PC-9801シリーズなどが学校に一台ないしは、2台くらいしかなかった。ワープロ専用機のほうが、文章を打ちやすかった。 二人目の女子は、長女が一歳半の時に生まれた。この次女で記憶にあるのは、足が痛い口が痛いと言っていたのに、すぐ近くの競馬場の公園まで連れて行って、次の日にぐったりして、急いで医者に連れて行ったことである。なんと手足口病であったのに、無理をさせてしまったのである。一週間ほど入院させてしまった。小さいうちは、言葉も多くないので、いつもとちょっと様子が違うと親が思ったなら、無理をさせたらいけない。そういう、実に当たり前のことに気づかせてくれた。もう半日、医者につれていくのがおそかったら、あぶなかったらしい。一番目と二番目は、顔がそんなに似ていない。書く文字もまるでちがう。まあ、今日は、これくらいにしておく。また、いつの日か、この二人については書くことにする。 さあて、問題は一番したの男の子である。上の娘たちからかなり離れて生まれたものだから、私がかなりあまやかした。自分のしたいことはする。したくないことは、全くしない。 小学校から連絡が毎日のように入ってくる。「今日は、朝から調子が悪く、プリントも何もしませんでした。」「授業中、たち歩きがひどかったです。」・・・・・・。 今日は、特別、強くいいきかせたが、はたして、学校でまじめに座っていることができるかどうか。そのときに必要なことは、二つ。先生のほめ言葉と、親のほめ言葉。ちゃんとできたという連絡があったら、力いっぱいほめてやりたい。 ←日本ブログ村に参加しています。押してもらえると 何人くらいに読んでもらえたかが分かるのです。 一回押していただけると幸いです。
2009年11月15日
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インターネットには、とっても役に立つホームページとほとんど役に立たないホームページがある。 教育に関心のあるみなさんに、とっても役に立つホームページを紹介したい。 「Tossランド」と打ち込んでほしい。そうすると、「Tossランド」というホームページへの入り口が現れる。 このホームページは、主に教師用に作られているが、子育て・しつけに困っている一般の人にも、大変役に立つホームページだ。 子供ランドというところは、子供用の勉強ができるようになるゲームが満載されている。 家庭・子ども研究というところを開けば、第一反抗期の子供にどう対処すればよいのかを分かりやすく説明してある。 大人も子供も楽しめるホームページだ。 それまでは、ぜひ、「Tossランド」で、いろいろ楽しんで下さい。本当に役に立ちます。←クリックしてくださるとうれしいです。何人くらいの方に読んでいただけたかわかる のです。なお、日本ブログ村というところに参加しています。にほんブログ村
2009年11月13日
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私は、これまで、7つの小学校を転々としてきた。どの学校でも感じたことが、二つある。 一つは、スピーカーの設置場所が適切でない。 二つ目は、音楽室が、音を吸収しすぎるつくりにしてある。 一つ目、スピーカーは、すべての小学校で黒板の左右一番端っこに設置してある。これでは、音が定位しないのである。つまりは、ステレオ音として聞こえてこない。しっかりした台の上に乗せる。2メートル以上スピーカーとスピーカーを離して置かない。そうしないと、ステレオ感を感じることはできないのだ。 きちんとスピーカーを設置していないので、ステレオのすばらしさを消し去っている。専門的な知識がない工事会社が設置したのだろう。音楽室は、専門の音楽技師が設計し、オーディオ器機を設置すべきなのだ。 二つ目、音楽室がみんなおんなじ壁材をつかってあること。円い直径8ミリくらいの穴が5センチ間隔くらいであけてある。防音対策だ。そんなことをするから、音が全然響かない。音楽は、響きがないとつまらない。歌っていても、生音ばかり聴こえて、歌う気持ちがなえる。合唱なんかの練習でも、見事にハモる感覚が心地よいのに、その感覚を感じることができない。 音が響かないな音楽室ではなく、ライブ感を感じることができるくらいの響く音楽室にしてほしい。響かない音楽室では、音楽好きは育たないと考える。もっと、金を使って、響きのある音楽室を作ってほしい。 もう一つ、蛇足だが、スピーカーのつなぎ方を間違えている学校がたまにある。アンプの赤とスピーカーの赤線、アンプの黒とスピーカーの黒線をつなぐ。二つのスピーカーとも、そうする必要がある。そうしないと、逆位相という音になり、気持ち悪いのである。一度、音楽担当の先生は、調べたほうがよい。みなさんの家にステレオがある場合、「なんか、へんな感じだな」と思ったら、1度チェックしてみてほしい。 今日は、私の趣味の範疇の話だった。 2009.11.12←クリックしてくださるとうれしいです。何人くらいの方に読んでいただけたかわかる のです。なお、日本ブログ村というところに参加しています。にほんブログ村
2009年11月12日
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「蛙の子は蛙」という言葉がある。蛙は、卵から生まれたらおたまじゃくしという蛙の姿とは似ても似つかぬ容姿をしている。しかし、いつのまにか、親蛙と同じように蛙の姿になる。何事も子供というのは、親に似るものである。子供は、親の進んだ道を歩むものである。凡人の子は凡人であるという意味で使われる。 それでは問題。「人間の子は人間」といえるか。 あなたは、どう思いますか。 「人間の子は人間」。どんな意味としてとらえればよいのか。もちろん、こんな言葉は、広辞苑にもない。だから、解釈の仕方で、いろいろな意見が出てもおかしくない。 1920年、インドのジャングルでオオカミに育てられていた人間の女の子供が発見された。アマラとカマラという名をつけられた。どうも、この二人は、姉妹ではなく、乳幼児期に別々に親に捨てられたようであった。この子たちは、まさしく「オオカミ」といってよかった。四つ足で走り、地面に置かれた皿から手を使わないで飲み食いし、死んだ鳥をむさぼり食い、夜には遠吠えをした。人間の子供とは、まるで違い、笑いもせず泣きもしなかったそうである。言葉が話せない。夜は、行動的で、真っ暗な所でも目が見えたそうである。生肉が好きで、腐った肉を食べてもおなかをこわさない。「蛙の子はほっておいても蛙になる」 しかし、「人間の子は、ほっておくと生きていけない。すぐ死んでしまう。ちゃんとした教育を受けないと、たとえばオオカミに育てられるとオオカミのようになってしまう。」つまり、「人間は放っておいても人間になる」とはいえないわけである。 だから、「人間の子は人間」とは、言えない。それが、答えだと思う。もちろん、異論がある方もおられるでしょう。しかし、私は、特に自分の子供には、愛情を傾けてやりたい。愛情を受けない子供は、愛情を理解できない。そんなことがあっては、いけない。慈しみと愛がないとやさしい心を持った人間にはならないのである。それが。私の結論である。 もう一つ。かけ算の問題。正しい唱え方は、どっち。2×7( にひち にしち) 4×7( ししち しひち)8×4( はっし はちし) 4×8( しわ しは)7×7( ひちひち しちしち) 7×4( しちし ひちし) 簡単と思っている人が多いと思うけど、関東地方の人は間違えている人がたくさんいると思う。特に、東京の人。正しい唱え方は、 にしち ししち はちし しは しちしち しちし全部合いましたか。まちがっていた人は、今日からそっと直してくださいね。 2009.11.11←クリックしてもらえると何人の人に読んでもらえたか分かるのです。 よろしくお願いします。
2009年11月11日
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6 + 7= 私の息子は、小学校一年。上の問題ができない。十一月にもなって、上のような問題ができないのは、大問題だ。 基礎の基礎が、できていない。これを最近は、さくらんぼ計算という計算方法で教える。 7を4と3にわける。なぜ、4と3に分けるかというと、6にあといくつ足せば10になるかを考えるため。6と4で10になる。あとは、3が残っている。10+3を計算すればよい。答えは13になる。 私の息子は、このさくらんぼ計算が根本から分かっていない。なにしろ、教師が黒板に書いた数字や文字をノートに写さなかったのだ。昨日、算数のノートを初めて見た。そして、愕然とした。何も書いてないのである。九月、十月の日付がまったく書いてない。「あっ、我が息子はこんな調子では、算数の計算は無理だな。」 最近は、6+7くらいの問題なら、3、4歳くらいの幼児でもできる子がいる。塾へやっているか、家の人が教えたかで、できるのである。 私は、学校で落ちこぼれているのなら、家で息子の勉強はみてやらないとだめなことに、昨日やっと気づいた。 宿題は、いやいやながらやっていたから、たぶんできているんだろうと思っていた。パソコンのインターネットゲームを自分でインストールする息子である。私は、全くそんなゲームをインストールする仕方が分からないのに、息子はいとも簡単にインストールする。 教科書の最初のページから勉強のやり直しをしないと理解できないだろう。これから、私が休職中に息子の勉強を毎日みることにする。 国語の音読は、すらすらできるのに、算数はまったくできない。LD、日本語で言えば学習障害児である。 三月までに、なんとか教科書の問題だけはできるようにさせる。これが、私の、今日からの目標となった。 自分が小学生の頃、私は家で父や母に教えてもらったという記憶がない。どうやって、6+7ができるようになったのか。記憶にない。さくらんぼ計算などというものは、その当時なかったと思う。私は、自分のことを考えてみた。たぶん、九九と同じように、6足す7は13と覚えたのではないか。理屈で、つまりさくらんぼ計算によってできるようになったのではない。覚えたはずである。 みなさんは、どうやって6+7ができるようになったか、覚えておられますか。ぜひ、「私は、こうやってできるようになった。」という書き込みをお願いします。参考にさせてください。 今日は、担任の先生がわざわざプリントを持ってきてくれた。ありがたい。どうも、今、6+7のような問題をやっているみたいだ。それなら、ちょっと、安心した。急ぐ必要は、なかったかな? 2009.11.10 ←クリックしてくださるとうれしいです。何人くらいの方に読んでいただけたかわかる のです。なお、日本ブログ村というところに参加しています。にほんブログ村
2009年11月10日
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アメリカのオバマ大統領が。ノーベル平和賞を授与されることになった。核の全面廃絶でないのは、中途半端というか、そこまで推し進めるのなら授与は認める。しかし、私は不満である・・・・・。 1945年8月6日、午前8時15分。原子爆弾が広島に落とされた。問題にするのは、どうかと思うが、この原子爆弾について質問をしてみる。 第二次世界大戦の通常兵器の最も破壊的なものの高さを2センチとして表してみる。広島に落ちた原子爆弾は、何センチとして表されると思うか。また、原子爆弾の後に、開発された標準的な20メガトンの水素爆弾の高さは何センチくらいだと思うか。 答えを書く前に、いつも私が文章を書くときに使っている辞典を紹介する。広辞苑などよりもよく使用する。文章を書く場合に、どの言葉が一番適切であるかを吟味するときに使う辞典である。この辞典さえあれば、ほとんどの場合事足りる。どんな書籍よりもよく調べている本といっていい。それが、角川から出ている「類語新辞典」である。ぜひ、本屋へ行って、実物を見てほしい。他のどんな書籍よりよく手にする辞典になること請け合いである。ただし、五千円ほどする。私は、この辞書を小学校でなくしてしまったので新しく購入したほどである。 さて、今日の問題の答えである。 第二次大戦の通常兵器の最も破壊的なものの高さを2センチとすると、広島の原子爆弾は、20メートルである。つまり、2000センチである。1000倍の力を持っていたのである。 それでは、標準的な20メガトンの水素爆弾の高さは、どれくらいなのか。なんと、20キロメートルである。2000000センチである。広島型の原子爆弾の1000倍である。 人間という生物は、いろいろなものを発明発見してきた。しかし、いろいろな病気の治療についての発見などをぬかせば、このように多くの人間をより危険により不幸にしてしまうような発明発見がとても多いのである。実に、低脳である。私たちの持つ知力は、多くの力をもたらしたが、その力を善いものに使うという知恵を持たなかった人間が多かったのである。 一機のプロトタイプの爆撃機(全装備をととのえたもの)の値段が、100ベッドの完全装備の病院75に相当することは、知っておいた方がいいだろう。 戦争に使われるかもしれない原子爆弾・水素爆弾。ある国・ある階層の人間は、戦争がすきなのである。いつ使われるか分からないそれら。全世界の人間を何十回も殺すのに十分な分量が現に存在している。そのように狂った世界なのである。 2009.11.9←クリックしてくださるとうれしいです。何人くらいの方に読んでいただけたかわかる のです。なお、日本ブログ村というところに参加しています。にほんブログ村
2009年11月09日
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文章が上達する地道な方法 自分の心の中のことを正直に書けば、読みやすく人の心に届く文章になるか。そんな人は、ほとんどいないと思う。 私は、良い文章をノートに書き写すという方法を若い時にしていた。しかし、問題があった。手本となる良い文章がなかなか見つからなかったのだ。十冊くらい本を読んで、書き写したいという文章が見つかればいい方。特に、教育に関する本というのは、ろくなものがなかった。 私は、児童には国語の教科書の半分くらいは一年間で書き写させる。手本となる文章を書き写すという方法。これ以上、文章力を伸ばす方法を私は知らない。 私がよく書き写したのは、外山滋比古先生、物理学者の湯川秀樹博士の文章と、哲学者の梅原猛先生の文章。教育の世界では、平井信義先生の文章。 文章の内容はもちろん、間が自分の感性と一致したのである。いろいろな体験してきたことを、咀嚼して、自分のものになさっている。 よいものを、そのまま書き写すという、最もいやがられそうな方法が、もっとも文章力を向上させるのである。http://www.wagner-society.org/library/library_adsl.htm上のアドレスは、慶応大学男声合唱団のページ。コピーして、ここを開いてみてほしい。いろんな男声合唱が聴ける。ぜひ、男声合唱の魅力に触れて欲しい。←クリックしてくださるとうれしいです。何人くらいの方に読んでいただけたかわかる のです。なお、日本ブログ村というところに参加しています。にほんブログ村
2009年11月08日
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春愁(しゅんしゅう) 私の大好きな歌を紹介したい。春愁という名の男声合唱曲です。__ゆくりなく八木重吉の詩碑の立つ田舎を通って__ 静かに賢く老いるということは 満ちてくつろいだ願わしい境地だ。 今日しも春がはじまったという 木々の芽立ちと若草の丘のなぞえに 赤々と光りたゆとう夕日のように。 だが自分にもあった青春の 燃える愛や衝動や仕事への奮闘、 その得意の蹉跌の年々に この賢さ この澄み晴れた成熟の ついにまにあわなかったことが悔やまれる ふたたび春のはじまる時、 もう梅の田舎の夕日の色や しばしを照らす谷間の宵の明星に 遠く来た人生とおのが青春を惜しむということ、 これをしもまた一つの春愁というべきであろう なんとか、これからの人生。充実したものにしていきたい。 昨日は、立冬でした。この曲は立春の日に作られた曲です。← クリックしていただけるととてもうれしいです。 何人くらいの人たちが私のブログを読んでいてくれているのかわかるのです。お願いします。
2009年11月08日
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なかなか子どもにかける言葉は難しいですよ 「早くしなさい!」「何やってるの、ここさっさと片付けなさい!」「宿題やったの!」 この3つの言葉は、小学生のお母さんが家で必ず毎日口にする言葉ではないでしょうか。この3つの言葉は、小学生の時期にしか使わない言葉かもしれません。学生時代や職場では、こんなこと言ったら「へんな人」と思われてしまいます。 この3つの言葉は、こどもが大嫌いな言葉です。そして、この言葉は子どもの気持ちをいやな気持ちにするだけで、子どもが変容することのない無意味な言葉です。 それでは、どう言ったらいいのか。 「早く片付けると、たくさん遊べるよ」「お母さんと一緒にかたづけようか?」「宿題は終わったかな?」 子どもの心には、そんなにいやな気持ちは残りません。命令の言葉ではないからです。命令される言葉に対して、どんな人もなぜか反発してしまうものです。 誘いかける言葉で、子どもにいやな気持ちが起こらないようにしましょう。 ←クリックしてくださるとうれしいです。何人くらいの方に読んでいただけたかわかる のです。なお、日本ブログ村というところに参加しています。にほんブログ村
2009年11月07日
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昨日、鮮烈なるデビュー(?)をした我が息子。 昨日、鮮烈なる活躍でワールドシリーズMVPを獲得した松井。 実は、共通点が二つある。 一つは、同じ県で生まれた。二人とも、石川県。 もう一つは、誕生日が同じ。6月12日生まれ。 神様。もう一つ共通点をください。それは、世界中の人々を感動させることができること。 今、息子は、小学校では有名人になっている。ただし、よいことではなく困ったことでだ。 息子のことを知らない先生はいないだろう。 一つだけ今日は書くことにする。 授業の始まりと終わりの「今から、○限目の国語を始めます」「これで、○限目の国語を終わります」という立ってお礼をする挨拶をしてくれないと連絡帳に書かれてくるのだ。 しかしだ・・・・。 授業の最初の挨拶と最後の挨拶は、私はやらない。時間の無駄だから。いきなり問題を出すのが私のやり方。だから、私が、息子の担任なら、この授業の最初の挨拶最後の挨拶についての問題は生じない。 向山洋一先生が「授業の最初の挨拶、最後の挨拶をしつこくしつける教師は、問題外だ。」とおっしゃっている。教育界で最高の先生がおっしゃっているから、間違いはない。私は、初任の時から授業の最初の挨拶、最後の挨拶はしてこなかった。最近、指導主事に「やらないとだめ」という低レベルの指導主事が増えていると向山洋一先生は、指摘する。私も、一度指導主事に指摘された。 もちろん、朝の初めてみんな集まっての「おはようございます」、帰るときの「さようなら」は、しっかり指導する。 みなさんのお子さんの担任は、授業の最初の挨拶と終わりの挨拶をしつこくやりますか。それとも、すぐに授業に突入しますか。保護者のみなさんが受けた授業はどうでしたか。しつこく授業の挨拶という儀式みたいなものをしましたか。 ←クリックしてくださるとうれしいです。何人くらいの方に読んでいただけたかわかる のです。なお、日本ブログ村というところに参加しています。にほんブログ村
2009年11月06日
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トロッコ問題 フリッパ・フットという哲学者が40年以上前に考えた問題だそうだ。 ブレーキが壊れたトロッコが猛スピードで走っています。その先には、5人の作業員が。大変。このままでは、5人がはねられてしまいます。 あなたが立っているのは、引き込み線のすぐそば。もしあなたが、自らの手でポイントを切り替えれば5人は助かります。しかし、切り替えたその先の線路にも一人の作業員。 この時、選択肢は、2つ。何もしないで、5人を犠牲にするかポイントを切り替えて一人を犠牲にするか? こんな問題を子どもに尋ねられたら、あなたはどう教えますか? A なにもしない B 進路変更をする この問題をどのように子どもに説明するか。 あなたはお子さんにどう説明しますか。 私は、こう答える。 「この問題は、人の命に関係する問題である。こんな問題を考え出すこと自体、異常である。人の命について、こんな問題を作るべきではない。こんな問題で、人の命の尊厳さを無視する問題を出すこと自体おかしい。人の命は、それくらい大切なのだ。」と答える。 2009.11.5 クリックしていただけると,何人の人たちに読まれたかがカウントされて、日本ブロ グ村で発表があるのです。すいませんが、クリックを一回してもらえたらこんなに うれしいことはありません。にほんブログ村 教育論・教育問題からはるばる「低学年の子」の方へ突然、予告もなく、来ました。 ここが一番書き込みやすい感じをもったのです。よろしくお願いします。
2009年11月05日
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教育に定理はあるか 物理学、数学、生物学などには、非常に重要な定理、ないしは物質が存在する。物理学ならE=mc²、 数学ならピタゴラスの定理、生物学ならDNAというふうである。 それならば、教育には、定理はないのか。教育は○○であるという本は,たくさん出ている。教育に関しても、「これこそ」というべき定理があってしかるべきであろう。あれもいい、これもいいとなんでも許容するから、いつまでたっても、教育の進むべき道が見えないのだ。選択することがぜひ必要ではないか。 まずは、自分で考えないといけないと考えた。おもいつくだけ、書いてみる。 教育とは、愛である。 教育とは、管理である。 教育とは、義務である。 教育とは、無駄である。 教育とは、評価することである。 教育とは、強制である。 教育とは、信ずることである。 教育とは、自分との格闘である。 教育とは、創造である。 教育とは、模倣である。 教育とは、自分を知ることである。 教育とは、税金の無駄遣いである。 教育とは、面白いものである。 教育とは、つまらないものである。 教育とは、勉強させることである。 教育とは、勉強することである。 教育とは、訓練である。 教育とは、うそのかたまりである。 教育とは、真理を知ることである。 教育とは、精神をよくするものである。 教育とは、精神をおかしくするものである。 教育とは、忘却することである。 教育とは、人間愛である。 教育とは、感銘である。 教育とは、自由である。 教育とは、責任である。 教育とは、寛容である。 教育とは、すてきな人間の育成である。 教育とは、勝つことである。 教育とは、協調である。 教育とは、受験勉強のことである。 教育とは、何を教えるかを考えることである。 教育とは、楽しい教師と生徒の関係をつくることである。 教育とは、教えることである。 教育とは、教えてもらうことである。 教育とは、育つことである。 教育とは、予測不可能である。 教育とは、難しく、なみはずれた努力を要するものである。 教育とは、ただいっしょにいてあげることである。 教育とは、取り扱い説明書のない人間を育てることである。 教育とは、無である。 教育とは、ありのままの自分になることである。 教育とは、楽しいものである。 教育とは、つまらないものである。 教育とは、役に立つものである。 教育とは、役に立たないものである。 教育とは、選択していくものである。 教育とは、決まり切ったものである。 教育とは、ひまな人間が受けるものである。 教育とは、時間がかかるものである。 教育とは、考えることである。 教育とは、つらの良い人間にするものである。 教育とは、がまんすることである。 教育とは、自主性の育成を意味する。 教育とは、暖かい心をつくることである。 教育とは、高貴な魂をつくることである。 教育とは、知識・知恵を獲得するものである。 教育とは、食べられるようにしてやることである。 教育とは、お勉強である。 教育とは、自分の立脚地を確立することである。 教育とは、自分以外の人々を認めることである。 教育とは、なかなかうまくいかないものである。 教育とは、人間らしく生きていけるようにすることである。 教育とは、おどろくことである。 教育とは、こだわることである。 教育とは、こだわらないことである。 教育とは、定義できないものである。 みなさんは、教育とはなんだと思いますか。これによって、その人間の一生は、かなり方向性が決定されると思うのです。みなさんなら、どれを選びますか。あるいは、独自の教育の定理をおもちですか。 2009.11.4 ←クリックしていただけると、何人の方がブログを読まれたか分かる のです。ぜひ、ワンクリックをお願いします。今日から、教育論・ 教育問題に移動しました。どうぞ、よろしくお願いいたします。にほんブログ村
2009年11月04日
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今、日本中で新型のインフルエンザが猛威をふるっている。どうも、今後、三週間後には、さらに患者数は増えているとの予想。 幼稚園・小学校・中学校・高校学校にお子さんを送り出すとき、いつもと違うなと感じたら、保護者は、必ず一声かけてあげてください。「ひどいんじゃないの?」「熱、計ろうね。」 中学生・高校生なら、自分で自分のひどさは、分かっています。しかし、頭が痛くても体がだるくても親にそのことを言わない子がいます。それまで、休んだことのないような子です。どうしても、休むのがいやなのです。 そういう場合、熱だけは必ず計ってください。そして、目つきも必ずチェックです。今後一ヶ月は、三十七度五分以上の場合は、休ませてください。インフルエンザの可能性がかなり高いですから。たとえ、そうでなくても、三十七度五分以上の場合は、休んでほしい。 幼稚園児なら、休ませる人は多いです。一番の問題は、小学生です。両親とも仕事に行かなくてはならない時に、三十七度五分以上あっても登校させる親がかなりいます。仕事を優先するためです。 登校させるのはやめてください。今後一ヶ月は、絶対に登校させるのはやめてください。たった一人のインフルエンザの児童は、一限目からうつろな目をしています。ときどき、せきをする。そして、無理矢理学校に送り込まれたそのような児童はがまんをする習性になってしまっている。そして、とうとうがまんできなくなって担任に「先生、ひどいです」と訴える。その訴えるまでの何時間かの間に、インフルエンザのウイルスは教室の中を何百万個も浮遊することになり、次の日、あるいは、その次の日、教室には半数程度の欠席者が出る。 11月は冷たい雨が降ります。家から学校へ来るまでに、体調はどんどん悪くなる。幸い、私自身は、インフルエンザというものにかかったことがありません。熱が出ないのです。私は、それほどインフルエンザに嫌われているのかもしれませんが。 とにかく、三十七度五分以上、朝、家で検温してあったなら、休ませてください。他の児童をインフルエンザにかからないようにしてください。教員からのお願いです。←クリックしていただけるとうれしいです。インフルエンザは,怖いですよ。
2009年11月03日
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教師が忘れてはならないこと 1.まず、一つのわかりやすい指示を出す。それが全員できたのかを教師が確認してから。次の明確な指示を出すことを忘れやすい。というより、教師の方が、あれもやりたい・これもやりたいと思うために、確認を怠ってしまうことが多いのだ。 一度だけ、一年生を担任したことがあった。いくつかのことを指示して何分かたってから、教室の中をやってあるかないか調べてみるため歩き回った。なんと、教科書さえ出していない児童が2人も3人もいる!! 遠くからながめているだけでは、見えないのだ。特に低学年は、なんの悪気もなく、先生の言った指示がわからない。一年、二年生の先生は、クラスのみんなが一人残らずできたかどうか確認する必要が絶対に必要。 私は、それ以来、家の人に今日中にみてもらわなくてはならないものは、休み時間の間に連絡帳に入っているか確認した。たとえば、ギョウ虫のセロファンや検尿の容器など。 2.教室は、失敗する場所だ。「間違う」ことを馬鹿にしたり、笑ったりすることを「先生は絶対許さない」ということを子供に知らせる。 たった一回の失敗で、そのことがいつも心の中をかけめぐることが人間という生き物にはあるのだ。それを笑ったり、馬鹿にしたりする児童は許すわけにはいかない。本当は、校長室へ送り込んで校長からこんこんと話しをしてもらうべきだとさえ思う。「きんちょうしちゃったんだね。」とか先生からの補助的な言葉をかけてあげることが必要である。 3.「ええと」は、発問には不要な言葉である。 私は、授業参観で、気になることのひとつがこれだ。「ええと、・・・・・・・。」「ええと、・・・・・。」と先生が、いちいち何かを言うときに「ええと」をつけるのだ。私は、雑音だと思う。とても耳障りである。 4.話言葉に弾力があるかないか。ぼやっとしたしゃべり方をする教師の授業は最初から楽しくない。ワクワクしない。 言葉が弾む。ぼやっとした発音の先生がしゃべる先生の授業というのは、やる気をなくす。声にリズムがないとお話にならない。特に、しゃべり言葉がだんだん沈んでいくしゃべり方は、病気かもしれない。 私は、自分のしゃべり方がだんだん力を失っていくのを感じ始めた。どこか体がおかしい。そう感じた。それから数日のうちに、私は精神科に入院していた。 2009.11.3←クリックお願いします。ありがとうございます。
2009年11月03日
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今日は、かなり難しい小学生用の問題を三題出します。答えもついてます。 漢字の勉強です。漢数字の四、五、六、七、八、九、十、千が混じっている漢字を一つずつ書きなさい。 答えです。 四・・・・西 五・・・・語 六・・・・交 七・・・・切 八・・・・公 九・・・・丸 十・・・・土 千・・・・舌 「チューリップの花びらは、何枚か。つぎの中からえらびなさい。一.三枚 二.四枚 三. 五枚 五.六枚 六.八枚かんたんそうに見えて、簡単ではないですよ。 答えは、三枚です。六枚あるように見えますが、外側の三枚はがくです。チューリップは、がくと花びらの形が同じというかわった植物です。 最後の問題。チューリップは、球根で植えますね。どちらかを選びなさい。 一.チューリップには、種がない 二.チューリップには、種がある。 答えは、2番です。植物には、ほとんどすべて花が咲きます。花が咲く植物には、すべて種ができるんですね。 私が知らないことですが、すべての植物に花がさくのでしょうか。私は、このことが分かっていません。 ご存じの方、教えてください。指導書を見ても、書かれていないのです。 ごめんなさい。何日間か答えを間違えていました。花びらが落ちてからしばらくすると、黒い種ができています。チューリップにも,種はできるのです。急いで問題を作ったため、答えを間違え書き込んでしまいました。正しいのは、チューリップにも、二番の「種はできる」です。 ←クリックしていただけると、何人くらいの人たちによまれたかわかるのです。ぜひ、クリッ クしていただけますか。ありがとうございます。日本ブログ村にも参加しているのです。にほんブログ村
2009年11月02日
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学習塾に行く・家庭教師に習わないと勉強できないの? 私は、非常に不思議だ。寒い中、わざわざ歩いたり車に乗せてもらって、学習塾へ行く。家庭教師に家に来てもらう。私は、塾・家庭教師などにならうなんて、なんてむだなことをする人間がいるものだという考えしかなかった。 学習塾まで行く時間がもったいない。お金がとてもかかる。家庭教師は、さらにお金がかかる。最近の児童・生徒というのは、自分で勉強できないのであろうか。周りにだれかいないと勉強する気持ちが起きないのであろうか。 塾に行く・家庭教師に習うなどという気持ちは私にはまったくなかった。学問の正常な姿は、自分で自分の頭で勉強することであると堅く信じていた。 たいしたことも教えてくれないであろうに。学生が、「この問題は、・・・・・して、・・・・・・・したらできるよ。」などと、教える。そんなのは、まったく役に立たない。そんなことを何度やっても、問題を本人が解けるだけの力はつかない。 勉強の仕方を小学校・中学校・高校で教えないから、こんなことになるのである。勉強方を教えないから、心配で心配で自分の気持ちを落ち着かせることができないのである。自分で、勉強する方法を教えてあげること。それを、学校で教えないから、学習塾・家庭教師に頼り切ってしまうのである。 大切なことは、よい参考書・問題集を選ぶこと。これをまちがえると,成績は上がらない。この二つを推薦して、学校と家でやらせればよいのに。そして、間違えた問題をチェックして、その問題だけをもう一度するのだ。二回やっても、できない問題は、三回やればいいのである。自分の部屋でやっているのであるから、声を出すのも自由。 新しい問題集を買って、少しだけ最初の方のページをやって、飽きる。そして、また、新しい問題集を購入する。そして、また、最初の方をちょっとやって飽きる。これが何回も続く。こんなことしていては、絶対合格しない。 あと、一つとても大切なことがある。大学受験での数学。これさえも、「暗記がものをいう」のである。考えることはもちろん必要であるが、暗記をおろそかにしてはだめだ。 「数学は、暗記科目である」ということを常識にしておく方がいい。もちろん、中学受験・高校受験も同様である。 2009.11.1←暗記。すべて、暗記。数学さえも暗記。ただし、なぜそういうことになるかという理由が言えないことには、話になりませんよ。何か思われた方は、クリックしてください。ありがとうございます。
2009年11月01日
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神経・精神科の病院を退院してから二ヶ月 私は、「うつ状態」で今年の六月から来年の三月まで休職せざるを得なくなった小学校教師。 私は、何かリハビリになるものがないか考えた。 毎朝、娘を高校まで車で送ることにした。片道約九キロ。 車が、二重に見え、道も二本に見えた。毎日、ひやひやしていた。 ところが・・・・・・。 やった。今日、初めて車と道路がぼやけることなく見ることができた。 娘を高校へ送ること以外では、家の外へ出るのは、クリニックにいくだけ。 クリニックに行くのに、5000円もらっていく。だいたい、診察料と薬代で約4000円。残りの1000円が一週間の自由になるお金。路上生活者みたいな感覚である。自分で使える金がないというのは、とても不自由だ。 一週間のお小遣いが1000円というわけ。 早く治したい。頭と体のいらだちと正反対のぼっーとした状態。これが、収まってくれ。 約3年間、この状態が改善されないのである。来年の四月に、教壇に立っていられるか。なるべく考えないようにしているが、自分のふがいなさのため、家族に話をしようという気持ちが全く起こらない。 全国の義務教育関係の先生方の中で、精神的な病気で現在休職している先生。現在の頭と体の状態は、どうですか。全国に、五千人くらい今年度はそういう教諭がいるらしいです。どなたか、現在の様子を教えてください。あるいは、過去に精神的なことで休業なさった先生の書き込みがほしいです。ぜひ、お願いします。 もちろん、ご自分のお子さんの先生が精神的なことで休職したという方の書き込みも、とても参考になります。参考にしたいです。書き込みお願いします。←クリックしていただけると、何人くらいの方が立ち寄って読んでもらえ たか分かるのです。ぜひ、クリックお願いします。にほんブログ村
2009年10月31日
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小学校のもんだいやけど、そんなかんたんじゃないよ。 1から81までの数の中で、九九のかけ算の答えでない数をいいなさい。 最初の数は11です。「いんいちがいち」からはじまって、「くくはちじゅういち」までだから、九九の答えは、1から81までの間の数になりますね。さあて、11のあと、どんな数が九九のかけ算の答えにはならないでしょう。 わりと、たくさんありますよ。 答えは、とてもたくさんあります。 大人の皆さん。頭の中だけで、それらの数をおもいうかべることができますか。おもいうかべられれば、老化は進んでいません。思い浮かばない人は、老化が少し進んでいます。・・・・。頭を使う訓練が必要かもしれません。 答えを書きます。 11,13,17,19,22,23,26,29,31,33,34,37,38,39,41,43,44,46, 50,51,52,53,55,57,58,59,60,61,62,65,66,67,68,69,70,71,73, 74,75,76,77,78,79,80 さて、上の答えの中に足りない数があります。それは、ご自分で考えてください。 2009.10.30←何か思われた方は、クリックしてください。お願いします。
2009年10月30日
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10月29日。快晴。 今日は、小学校運動場マラソン大会。息子は、一年。家内が見に行った。 「着替えはしたけど、やっぱり走らなかった。」 そんなにいやだったのか。しばらく、そっとしておこう。何日かたってから、「この間の、マラソン大会、走ってどうだった。」 「・・・・・・・・」 大きくなってから、自分でそのときのことを覚えていてほしい。何かに、不満があったか、体調がよくなかったのか、練習に出なかったからか。・・・・・・・。 私の気持ちとしては、残念の一言である。 ←残念のクリックをお願いします。・・・。
2009年10月29日
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音読みと訓読み 小学校の教科書や国語辞典などで、「音読み」と「訓読み」という言葉をどのように説明してあるか。 音読み・・・漢字を音で読むこと。 訓読み・・・漢字に、それと同じ意味を持つ日本語を当てはめて読むこと。 これだけの説明しかない。これで、音読みと訓読みということがどういうことか分かるのか。おそらく無理である。 私は、音読みと訓読みという言葉の意味を児童にどうやって教えたら分かってもらえるかいろいろ考えた。私の教え方をみなさんに伝授したい。これが最高というわけではない。もっと、分かりやすい説明によって児童に教えることのできる先生もおられるだろう。 昔、昔、中国の人と日本の人は、仲がよくなった。遣隋使や遣唐使というふうに、船で行き来できるようになったからだ。何度も何度も行き来していた人は、中国の言葉も日本の言葉もわかるようになった。 両方の言葉が分かる人が中国の人と日本の人の間に入って、翻訳してくれるようになった。 日本人は、翻訳してくれる人に尋ねた。「今日は、つきがとてもきれいだ。中国では、つきのことをなんと言うんですか。」翻訳者は答えた。「ゲツといいます。そして、ゲツという文字というものさえあります。月と書きます。月という字で、あの光り輝くつきを表すことができるのです。」 日本人は驚いた。なんと、漢字というものがあり、夜明るく光るつきのことをゲツと言い、月という文字というものさえある。 なにしろ、日本には、文字というものがなかったのである。このようにして、日本人は、翻訳者にいろいろな言葉の発音とその漢字を教えてもらったのだ。 中国の発音を音読み、その中国で発音しているものの日本での読み方を訓読みとしたわけである。 このような説明を私は児童にしている。 何かのお役に立てばと思い、書き込みをした。もっと、分かりやすい説明もあると思う。そういう説明をぜひ教えてもらいたいものである。 2009.10.29←クリックしていたただけるとうれしいです。
2009年10月28日
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国語の教科書の読ませ方 音楽の楽譜には、歌詞・音符の種類・音程・拍子・臨時記号(クレッシェンドとかテヌートなど)・音の強さなどの指示が記入されている。かわった楽譜もある。お琴の楽譜などは、漢数字で示されているし、ギターの楽譜は、指で「弦」をおさえる場所をしめしている。現代音楽などには、こんなのもある。月に向かってとべ ふたつの音を弾くのだ 長くのばせふたつの音の振動を静かに見る たくさんの音を弾け そして、ゆっくりうごきはじめるのだ・・・・・ ところが、国語の教科書には、なんの指示もない。これは、どういうことか。つまり、読み方は担任が教えないといけないのである。保護者のみなさんの中で、担任が国語の教科書の読み方を指導している場面を見た方はいらっしゃいますか。私は、国語の授業で、担任が国語の教科書の読み方を教えている場面を見た事がないのである。もしかすると、教えていないのではないか。そういう疑念が私にはある。担任以上の読み方は、児童には無理だ。児童の本の音読の声の出し方、声の大きさ、読む早さ、感情の込め方。私は、今までに「これは、すごい。」という担任の読みに出会ったことがない。 2008.10.28←クリックしてもらえると、何人の人に読まれたか分かるのです。 がぜん、やる気が出てきます。お願いします。ありがとうございます。
2009年10月28日
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今日は、「ものの考え方」の話をしたいと思う。 ニュートンは、りんごが落ちるのを見て、「あっ、そうか。りんごがおちるのと、地球が太陽の周りを回るのとは同じことなんだ」ということを発見した。万有引力の法則という。じつは、このあるものを見て、「これは、あのこととおんなじことじゃないか」とひらめく能力。この能力が発達している人は、勉強の点数もいい。 このように、普通ならまったくなんの関係もないと思われていること同士を比べて、「おんなじことやないかい。」というインスピレーションのことを同定という。自分が今、一生懸命していることがあるとしよう。なかなか打開する方法が見つからない。ところが、ちょっとした場面に遭遇した瞬間、「あっ、そうか。そうすればいいんだ。」ということに気づく。実際に、気づいたことを使って工夫して、大金持ちになる人もいる。このような頭の働かせ方をいつも心に止めておくことは大変に重要である。 使いものにならないと,普通の人が捨ててしまうものを「ちょっとまてよ。」「こいつを使って、あれを作ってみよう。」という頭の働き。そういう頭の使い方の訓練を、何度もなんどもくりかえしていくうちに頭の働きはぐんとよくなるのである。テストなどにも使えることがある。この問題は、1学期に習ったあの方法を使うとできるかもしれない。」という頭の働きである。そういう、頭の考え方のこつみたいなものを訓練することが大切である。 私は、ものをすてる前に、このすてようとしているものに何か工夫をしたら、別のものにならないかをしばらく考える。たいていは、すぐには思いつかない。そういうときは、一度、考えるのをやめる。何度か、そういうことを考えている時に、ある時パッとひらめくのである。「これは、ここをちょっとつくりかえれば、あれになる。」考えつくのは、トイレとか、車の運転中とか、へんな場所で思いつくことが多い。 上に書いた「同定」(英語で言えば、identify idendification)という能力を存分に発揮できれば、ものを考える時の大きな武器になる。←クリックしてもらえるととてもうれしいです。
2009年10月27日
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担任が英語をマスターするには・・・・ 2009年10月26日 中国の小学校の担任は、英語を自分でしゃべってクラスの児童に教えている。しかも、すべて、英語なのだ。英語を教えるには、そうでなくてはならない。英語の担当教諭がほとんど授業を進めて担任がその補助をするというのが現状の体制だが、それでは本気で児童が学ぼうという意欲を持てない。中国の教諭は、おそらく相当の英語の演習を行っている。 小学校学担に英語の演習を行う必要がある。どんな演習がいいか。 楽しくなくてはならない。そして、きちんと口から英語が出てこなくてはならない。この二つを両立させる方法。・・・・・・・・・・歌を覚えること。これが一番。「えっ、歌を覚える。とんでもない。」という教師が9割を超えると思う。私は、そのとんでもない方法で、英語が勝手に口から出るようになった。 私は、男声合唱団に入っていた。5年くらい前から、神戸からわざわざ指揮者の先生を招聘して、英語の歌を指揮してもらっていた。私たちの合唱団は、日本語の歌でさえ楽譜を見ながら本番で歌っている。練習時間が足りないからだ。ところが、この神戸から来られるH先生は、暗譜で英語の歌を歌せるのだ。「日本語の歌も暗譜できんがに、英語の歌を歌えるはずないやろ。」という我々の意志は完全に無視され、暗譜でないと指揮をしないとおっしゃる。 かくして、英語の歌を覚えなくてはならなくなった。これがよかった。英語をどうしても覚えなくてはならない。こっちは必死である。最初のころは、発音やらイントネーションやらとてつもなくひどかった。ところが一曲目を完全に歌えるという実力がつくと、2曲目からはわりと簡単に頭に入り、口から英語の歌詞が勝手に出てくるようになった。他の人の前で、披露しなくてはならないという怖いようなうれしいような感覚を持ちながら練習を重ねた。 現在までに、私たち金沢メンネルコールが暗譜した曲を紹介しよう。 I've Been Workin' On the Railroad You'll Never Walk Alone Tonight, Tonight SOUND CELEBRATION SHINE ON ME LET THERE BE PEACE ON EARTH JOSHUA FIT THE BATTLE OF JERICO When It's Darkness On the Delta THE STORY OF THE ROSE Old Man River Swing Down Chariot なんと、この私でさえ、11曲の英語の歌を暗譜で歌えたのである。(今は、それほど自信がない。) ただ歌うだけではない。振り付けをして歌う曲がほとんど。手を挙げたり、立ち上がったり、体をゆすったり、行進したり・・・・。 学校で、教員みんなで、一曲でいいから、英語の歌を覚えてしかも振り付けをして六年生を送る会で披露する。これが、私の提案。毎年一曲ずつ覚えていく。歌を歌うことは、健康にとてもいい。うつにもなりにくいはず。児童から尊敬される。いいことづくめである。どうですか。やってみましょうよ。やればできます。英語で、手こずっている先生方のご意見がぜひ聞きたいです!!!←クリックしてもらえるとうれしいです。
2009年10月25日
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あなたのお子さんは、自発性がありますか? 自発性とは、自分から「これをやりたい!!」という気持ちと実際にそれをやることを意味する。 自発性がない子どもは、「なにしてもいいよ」と言われたとき、ぼんやりとしていたり、そのへんをうろうろあるきまわったり、ごろごろ寝そべったりしている。何をしたらいいかわからないからだ。 自発性のある子は、すぐに自分のしたいことを見つけて、それに集中する。遊び回る。 学校で、先生が「これこれをしましょう」と言った時だけ、それにとびつき、生き生きと活動を始める。そういう子どもは、自発性がないのである。大人の方から課題を与えないと動かない。今、幼稚園や小学校では、ご丁寧にいちいち先生が「これこれしましょう」と課題を与えてくれる。教師の命令に素直に従う。自発性の遅れがあることが発見しにくいのである。 そして、そういうふうに教師の命令に服従するような子は、「よい子」として、賞賛される。 思春期になって、だれも何の命令もしなくなるとそういう子どもたちは、どうしていいのかわけがわからなくなる。思春期以降に突然登校拒否を起こすのは、そういうふうな小学校の時に「優秀児」と評価されていた児童なのである。 現在、自分のお子さんの様子を見て先生からほめられっぱなしのお子さんは、注意した方がいい。反対に、自分の好きなことばかりして、「毎日注意しています。」といわれているお子さんは自発性が十分ある。 自発性の遅れている子は、けんかもほとんどしない。自発性がある子は、自己主張しながら遊びに没頭するのである。 大人もそうだ。私みたいに、いつもぼけっとしている人間は、自発性がないのである。 ←何か思われた方は、クリックしてください。お願いします。
2009年10月24日
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遠山啓・銀林浩という二人の先生をご存知だろうか。お二人が開発したのが、水道方式という名前の計算方法。 算数の勉強は、簡単な問題から少しずつ難しい問題に移行して行かなくてはならない。まるで、自然に流れる都市の水道のように。この考え方は、現在の算数・数学の基本的な勉強のやり方の基になっている。それは、そうだろう。いきなり難しい問題をだされては、手も足も出ない。少しずつ少しずつ児童生徒に与える問題は、難しくしていくのは、あたりまえと言えば当たり前だ。だが、戦後まもなくのころは、こうなっていなかったのである。 そして、岸本裕史という先生が初めて開発したのが、百ます計算という方法。くわしいことをお知りになりたい方は、百ます計算とパソコンに入力して、インターネットで検索してほしい。この百ます計算を特に重要視し、徹底的に児童に実施したのが、若くして校長になった陰山英男先生。足し算・引き算・かけ算の百ます計算は、正方形の四角の中に答えを書き入れていく。割り算は、1題ずつ54÷9などという問題が百並んでいる。 水道方式の根本の考え方には、私は賛成である。簡単なものから難しいものへと進んでいくという考え方にはまったく問題となることはない。 一つ反対していること。タイルを使うということ。水道方式は、単なる数の計算だけでなく、その数の持っている量感覚をこそ重要なものとして体得させるべきだと主張する。その時に使用するタイルが、私は問題だと思っている。本物のタイルを使う先生が昔はいた。重い。割れる。紙で作る場合もあることにはある。ちょっとしたことで、机から落ちてしまって、子供がいらいらする。先生もいらいらする。最近、タイルを使っている先生はほとんどいないのではないか。量感を重視するという考え方それ自体はとても重要なことではある。が、使用している教具、つまりタイルに問題がある。私は、最初から、タイルというものは、使いにくいと思い、一度も使用したことはない。 最近は、数え棒を使って計算させる教科書が多いように思う。しかし、私は、この数え棒にも、魅力を感じたことがない。手先の不器用な児童にとっては、かなりやっかいな代物である。私の尊敬している向山洋一先生は、百玉そろばんという教具を使うべきだと言う。よさそうである。が、私は、この百玉そろばんの使い方がわからないし、自分でも持っていない。 私は、初任の時からお金を使って足し算と引き算の筆算の計算は教えている。お金だと、何がいいかというと、ノートに図を書きやすいのである。100円を10円玉10枚に書き直したりできるからである。お金を使って、計算を教えている教科書会社は、一社だけだがあるので、お金で今も教えている。 最終的に、児童の中に計算のアルゴリズム、つまりは、計算の順序が理解され、正しく計算できるようになればいいのである。 一つ付け加えておくと、一度だけ、三年生を受け持ったときに、しつこいくらいに百ます計算をさせたことがあった。とても喜ぶ児童が、約3割、とてもいやがる児童が約2割という感じであった。とてもいやがる児童が出るのは、問題だと思い、それ以来百ます計算は、やっていない。百ます計算でやってもいいと思うのは、かけ算である。かけ算の習熟の時に、百ます計算を一ヶ月くらいすると、かなりの力がつくことを付記しておく。←読み終わったら、ここをクリックしてください。お願いします。にほんブログ村
2009年10月23日
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鉛筆について・・・・・4Bの鉛筆 鉛筆にはいろいろな種類がある。 2Bは、1ダース240円。ところが、4Bは、1ダース1000円。1年生の児童には、4Bくらいの濃い鉛筆を買い与えたいが、あまりの値段の違いに、手が出しにくい。鉛筆会社のみなさん、もっと安くしてください、お願いします。4Bは、ほんとに、手になじんで気持ちいいのです。特に、手首の力の不足している小学一年生には、ぜひ使わせることをお勧めする。もちろん、私の息子には4Bの鉛筆を使わせている。それで、やっと、大人が書く濃さの文字が書ける。HBなどの鉛筆だと、文字が薄いし、消しにくいし。 私の提案・・・・小学校一年生には、4Bの鉛筆を使わせるべし。←クリックしていただけると,何人くらいの人が読んでくれたかが分かるのです。よろしくお願いします。
2009年10月23日
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昨日の答えです。(小学校の教科書に出てくる漢字だけにしておきます。そうしないと、とてつもない数の漢字の答えを打ち込まなくてはなりませんので。)口にあと二画加えてできる漢字・・・・右、田、石、兄、台、古、号、申、由、加、司、可、句小学校で習う漢字だけでも13もあるんです。口に何画でもいいから書き加えてできる漢字・・・・足、名、岩、谷、話、語、歌、点、合、 計、何、答、知、回、京、店、船、活、 遠、高、同、(二年生までの漢字で ご勘弁を)口を含んだ漢字がとても多い。本当に多いです。←読み終わったら、ここをクリックしてください。お願いします。にほんブログ村
2009年10月23日
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一応、小学校の教師なので、小学生がやる勉強も経験してもらう。 今日は、みなさんに問題を二つ出す。この問題は、小学校3年生くらいの児童でも喜ぶ問題である。いや、大人の方が夢中になるかもしれない。 一番・・口(くち)という字にあと二画加えて違う字をできるだけたくさん書きなさい。 たとえば、田という字である。 二番・・口(くち)という字が混じっている漢字をできるだけたくさん書きなさい。 たとえば、四画加えてできる谷という字である。ただし。二画加える漢字はだめです。 今日は、答えは書かない。あしたまでの宿題。だいたい、一つの問題につき、7つ書ければ3年生程度、8つ書ければ4年生、9つ書ければ5年生、10こで六年生レベル。それ以上の場合は、漢字の達人である。ただし、辞典などは見ないように。 それでは、時計を横に置いて、紙と筆記用具の用意をして。時間は、きちんと守ってください。そうしないと、集中力がつきませんよ。明日、答えを書きますね。何人の人がやってくれるかな? 小学校では、こんなことをたまにやります。時間をきっちり計る。ここが大切です。 興奮する児童・および大人がたくさん出る問題である。 それでは、また明日お会いしましょう。 下のにほんブログ村をクリックしてもらえるとうれしいです。 読んでくださる人がたくさんいることがわかるからです。←にほんブログ村
2009年10月21日
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今回は、自殺してはいけないことについて。 私が、鬱病になった一番の原因は、私の気質であることはまちがいない。大学受験の時に頭が割れるような痛みにおそわれたのも、だぶんそうだったのだろう。他人に自分の苦しさを話せないという気質である。 そういう人が、皆さんの中におられませんか。あるいは、みなさんの周りにいませんか。苦しいということが、言えないほど苦しいことはない。苦しいときは、ぽつりともらしましょう。 それを聞いた人は、しっかりその人の話を聞いてあげましょう。鬱病のほとんどは、これで治るきっかけになるとかなりの自信をもっていえます。私は、何回かもう楽天ブログで、自分の中の苦しさを書き出しました。皆さんの中で、苦しいことがある人はあなたの友達に口に出して言いましょう。そうすれば、必ず、友達から応対の言葉があります。 なんかへんだなとおもったら、精神科へ行きなさい。なにもこわくない。死ぬことさえ考えた私には、精神科へ行くことくらいなんでもなかったです。痔になって、若い看護婦さんにズボンとパンツをおろされました。しかし、死ぬことよりははるかに抵抗は少ない。死んではいけない。必ず、貴方のことを見守ってくれる人がいる。鬱病ではないかと思う人は、精神科へ必ず行きなさい。そして、自分の心の中にあるものを医者に小さい声でいいから言いなさい。「苦しいんです。」と。あなただけではないんです。 死んではいけない。毎年三万人もの人が自殺しているそうです。わたしからのお願いです。精神科へ行きなさい。そして、しばらく入院しなさい。苦しい人はいっぱいいます。そして、その苦しさを聞いてくれる人も必ずいます。死んではいけない。死んではいけない。昨年、金沢出身のアナウンサーが自殺した。本当に悲しかった。私が、彼女のそばにいてあげたら、きっと顔を見て分かったと思う。この人、自殺しようとしているなと。私が近くにいれば顔を見て「どうしたの?」ただそう言ってあげただろう。本当に悲しかった。今考えても涙が出る。10月17日に、加藤和彦さんも自殺した。年間3万人以上自殺する国。ほってはおけない。← クリックしてもらえるとうれしいです。読んでくださる人がたくさんいることに、涙が出ますから。
2009年10月20日
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「ディズニーランド」とか、「ユニバーサルスタジオジャパン」とかに、行ったことある人。 ・・・・たくさんいるね。ちなみに、私はディズニーランドを通り過ぎたことだけあって、中に入ったことがありません。じゃ、高野山行ったことある人・・・・・ほんの少しの人だけでしょう。私は、行きました。 高野山は、空海が作った金剛峰寺がある山。空海は、真言密教という、真の言葉を大切にした教えを広めた。悪い言葉を使うと悪いことが起こる。よい言葉を使うとよいことが起こる。真言密教には、人をのろい殺す呪文まである。しかし、それは、使ってはいけない。 同じように、原子爆弾は作れる。しかし、それは作ってはいけない。 だが、天才といえば天才、気違いといえば気違いが作ってしまったのである。作り方を封印しなければならないとアインシュタインたちが言ったのに、オッペンハイマーが原子爆弾を作ってしまった。こんな人間は牢屋に入れなくてはならなかったのだ。 原爆の父というりっぱな名前をもらってはいるが、私から言わせれば、すぐに死刑にしなければなせらなかった。よく言えば奇才、世界の人々にとっては殺人鬼だったのである。 こういう気違いをほっておくこと事態狂っていたのだ。いや、アメリカ大統領トルーマンが製造を命令したのだから、トルーマンこそ、逮捕すべきだったのである。 鎌倉時代に、親鸞が「自分がよいことをしていると思っている人間でさえも、一回でも念仏をとなえれば極楽にいける。自分が悪いことをしていると思って、念仏を唱える人を阿弥陀様が救わないわけがない。」という悪人正機説を唱えた。人間というのは、自分は、正しいことをしていると間違って思っている人間でさえ、念仏をとなえればすくってくれる。自分が悪いことをしているということを自分で分かって念仏を唱える人を救わないわけがない。深い意味を持つ言葉である。自分が、人間である以上、なにかしら他の人にいやなことをしているはずである。そのことを忘れずに、生きていきましょう。一回でいい。念仏もとなえましょう。もちろん、お題目でもいい。アーメンでもいい。とにかく、自分がそういう存在であることは、忘れてはいけません。正しい言葉を使いましょう。人をいやな気持ちにする言葉は使わないようにしましょう。小学校の授業の中で、狂ったような言葉は見逃してはなりません。子供同士の言い合いにしても、「死ね」とか、「殺すぞ」とかいう言葉を使わせてはいけません。私は、この二つの言葉を大人と子供から言われて以来「うつ状態」になったのです。 人から恐ろしいことを言われた人というのは、なかなかそこから立ち上がれない。言った方は、そういう恐ろしい言葉を口にすることを何とも思っていない。口から出る言葉は、一瞬で消えるが、言われた人間は一生その言葉で苦しまなくてはならない。 道徳の中でも、人にいやなことを言わないようにする指導は、何回もしなくてはならないと私は考えている。←クリックしてもらえると、うれしいです。ランクがあがると、それだけ多くの人の目にふれることになるのです。お願いします。
2009年10月20日
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私の息子。先日書き込んだように特別支援が必要な児童である。 昨日と今日の朝、「授業中に立ち歩いたりして、みんなの迷惑をかけるんなら、山の学校へ行ってもらうぞ。」と脅した。 今日は、立ち歩くこともなくいい子だったと担任から電話があった。脅すのは、一過性の効果はあるが、長期の効果があるかどうか。 私は「今日はいい子やったのか。よし、いい子やったね。」とほめた。 明日も、今日のように立ち歩かなければほめる。ほめ続けることで、自然に教室の自分の席から勝手にどこでも行かないようにする。これしかない。 パソコンの知識は、まったく教えてないのに、インターネットゲームのインストールができる。私は、全くできないのに。特殊能力を持つわが息子である。
2009年10月19日
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今日は、私の子供について。 三人いる。一番上は、私立高校の三年女子。二番目は、公立高校の一年女子。そして、小学校一年の男子。 一番上の女子と一番したの男子の違いは十歳半。男の子と女の子では、まるで違う。同じ人間とは、思えない。 一番上は、生まれてからすぐに臍ヘルニアになり、野球ボールくらいの大きさのヘルニアが臍に出てきて、とても心配した。幸い、いろいろ治療している間に一年くらいかかって小さくなった。かわいくて、毎日のようにビデオを撮り、ソニーのビデオプリンター(今は、もう売っていない。一台14万くらいした。)で写真にして、親が楽しんでいた。デジタルカメラは、まだメジャーではなかった。もう一台、フロッピーの小さいのに映像を入れる、デジタルカメラみたいなのも買った。これは、フロッピーに画像を入れるのだが、デジタル記憶ではなく、アナログ記憶の代物だった。これも、10万くらいした。それから、カシオの有名なQV-10Aを買って写して遊んでいた。パソコンは、まだまだ高価でノートパソコンなど12.1インチの画面で50万円くらいしていた。15年くらい前は、まだワープロ中心の日本だった。ワープロも、最初のうちは、なんと2行くらいしか表示できなく、打たれる文字もがたがたしていた。フォントの24ドットなどという言葉が懐かしい。 このころは、パソコンは、NECのパソコン、PC-9801シリーズなどが学校に一台ないしは、2台くらいしかなかった。ワープロ専用機のほうが、文章を打ちやすかった。 二人目の女子は、長女が一歳半の時に生まれた。この次女で記憶にあるのは、足が痛い口が痛いと言っていたのに、すぐ近くの競馬場の公園まで連れて行って、次の日にぐったりして、急いで医者に連れて行ったことである。なんと手足口病であったのに、無理をさせてしまったのである。一週間ほど入院させてしまった。小さいうちは、言葉も多くないので、いつもとちょっと様子が違うと親が思ったなら、無理をさせたらいけない。そういう、実に当たり前のことに気づかせてくれた。もう半日、医者につれていくのがおそかったら、あぶなかったらしい。一番目と二番目は、顔がそんなに似ていない。書く文字もまるでちがう。まあ、今日は、これくらいにしておく。また、いつの日か、この二人については書くことにする。 さあて、問題は一番したの男の子である。上の娘たちからかなり離れて生まれたものだから、私がかなりあまやかした。自分のしたいことはする。したくないことは、全くしない。 小学校から連絡が毎日のように入ってくる。「今日は、朝から調子が悪く、プリントも何もしませんでした。」「授業中、たち歩きがひどかったです。」・・・・・・。 今日は、特別、強くいいきかせたが、はたして、学校でまじめに座っていることができるかどうか。そのときに必要なことは、二つ。先生のほめ言葉と、親のほめ言葉。ちゃんとできたという連絡があったら、力いっぱいほめてやりたい。
2009年10月19日
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しばらく、子育て部門に遠征に出ていました。久しぶりに教育部門小学校に戻りました。 今日は、教育について。 教育という仕事は、できない問題をできるように教えることでは・・・ない。勉強することが好きな人間にすることを最終目的にするべきなのである。いつもいつも、できない問題を懇切丁寧に教える教師がいるが、それではだめだ。たまに、どうしても、そうしたほうがよいという場合もあるが、いつまでたっても、おしえてしまったら、いつまでたっても、その児童はできるようにならない。教え方というものは、いくつもあるが効果的な教え方というのは限られている。 たとえば漢字。漢字は、みなさんはどういうふうに覚えたか。おそらく、ノートに漢字を何回も何回も書かされたという人がほとんどではないか。この方法は、最悪。この方法で、漢字を覚えられる児童はクラスに五人とはいない。では、どうするのがよいのか。最初に鉛筆をいきなり持たせてノートに書かせてはだめ。まず、漢字の書き順を漢字の筆順が書いてある参考書などを見させて、指書きをさせるのである。指書きするときに、いち、に、さん、し、というふうに声を出して。これを五回ほどさせる。最初のうちは十回くらいさせてもよい。はねるところやとめるところにも注意させる。指書きする場所は、一年生の一番最初は空書き。先生の方に向かって指書きさせる。次に、机の上に一辺が20センチくらいの正方形の中に入るくらいで書かせる。二年の初めくらいまでは、必要である。その後、お隣さんに指書きを見てもらう。間違っているときは、覚えなおし。きちんとかけるようになったら、やっと鉛筆を持たせて、2回から3回くらいノートに書かせる。教師にそれを見せる。きちんとした字でないとみとめない。しかし、ぐちゃぐちゃな字しかかけない児童が必ず5人くらいはいる。そういう時は、教師がノートに見本となる字を赤鉛筆で薄く書いてあげる。その上を鉛筆でなぞってこさせるのである。一年生のときにこの指導をしっかりできている学校の学力は、高い。漢字の覚え方は、六年生まで一緒。最初に指書き。それから、三年生くらいまでは、お隣さんに調べてもらったほうがよい。そして、鉛筆書き。 音楽のリコーダー。最初に左手で持つことを徹底させる。ここがぬけると後が大変。何年生になっても、右手でシラソを吹く児童が存在してしまう。左手で、シの指使いをさせて、約7秒間シの音を音の大きさが変わらないようにふかせる。もちろんタンギングもいれさせる。この部分が、しっかりできないから、いつまでたっても、うまくならないのである。これには、教師の鋭敏な耳が必要。わずかな音のふらつきもゆるしてはいけない。このシの7秒間持続音がマスターできるとあとは、本当にすらすらと吹けるようになっていく。 算数。大学で、学んだのは問題解決学習という方法。自分で考えることが大切であるから、問題を与えたら、後は十分に時間を与えて考えさせるという方法。この方法は、最低である。この問題解決学習で、勉強を教えられた児童は、半数以上の児童が、時間の浪費を強いられる。何をどうやって考えるかがわからないのである。今まで、たくさんの問題解決学習の授業を見せてもらったが、ひとつとして子供がわかったという顔をしていなかった。大学生の数学専攻の学生がやると効果がある勉強の仕方なのである。私の娘たちも、この問題解決学習ばかりうけたせいであろう。まったく、算数ができない。算数は、教科書の問題をその順番に読んでいくようなやり方のほうがよっぽど頭に残る。もちろん、絵を描いたり、図を描いたり、計算したりはするけれども。算数の問題解決学習は、最低最悪の学習法だと向山洋一先生がおっしゃるとおり、とんでもない勉強方法なのである。 勉強は、とにかく一番最初の出会い方でほとんど決まってしまう。小学校では、今もって、算数の問題解決学習を強要する学校がある。それらの学校は、すべて全国統一テストの平均点が低いという結果が出ているようである。現に、私が、赴任してきた学校で算数の問題解決学習をほとんどの教師がしていた学校は、平均点が低かった。
2009年10月18日
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昨日の話。 私の長男が特別支援を必要な児童であることの確認が行われた。「こんなこともします」「あんなこともします」「こんなことができません」「こんなこともできません」 たしかに、他の一年生と比べると能力の劣ることが多い。私自身が小学校一年生の時と比べるとまるで正反対な子供である。 私は、先生のいうことに素直に従い、字はきれいに書き、他の子にちょっかいを出すこともなかった。 息子は、先生のいうことにことごとく従わず、字はきれいでなく、他の子にちょっかいを出す。 性格は遺伝しないのか。性格は、遺伝しない、とはいえないだろう。私は、大人になってから、つまり教師になってから、他の教師のいうことに従わないことも多くなり、字はとてつもなくきたなくなり、物静かなクラスの児童にこちょこちょとちょっかいをだしている。 環境、生活習慣がかなり影響するように思う。私の家には、高校生の娘たちがいる。その二人の娘が、かなりテレビゲーム好きで、携帯電話を触りっぱなし。それをみている息子は、それをいつの間にか真似をする。テレビゲームというのは、学校の勉強より遥かに面白い。ゲームに集中するため、勉強に集中できないのだと考えられる。 かわいそうだが、ひとこと息子にはこう注意した。「月曜日から、一回でも授業中に何歩か立ち歩いたら、すぐ家に電話してもらうからな。そして、山の学校に転校してもらう。」おそろしい忠告である。他の児童にはこんなことは口が裂けても言えないと思う。 これくらいの言葉で、月曜日からちゃんと授業中にじっと座っていられることだろうか。期待しているが、心配もしている。 私のいとこの息子は、大学を卒業していて、すでに働いている。つまり私にとっては、おいにあたる。その子は、小学校の時、私立に行っていた。いまだに覚えていることがある。その子も授業中に立ち歩いたということである。 そのいとこの長男は、それにもかかわらず東京大学に入学し卒業した。 そんな例もある。望みは捨てないようにしよう。 この緑色のマークを押してもらえると、日本ブログ村の順位が上がるの です。一時期、教育のブログの中全体で3位までいったことがあったのです。お願いします。にほんブログ村
2009年10月17日
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特別支援教育。特別に支援する教育。 学級には、いろんな児童がいる。みんな変わっている。変わっているからいい。 しかしだ。他の子に迷惑をかける子は、教師にとっては困る。7年くらい前までなら、クラスに何人もいたが、クラスを混乱させるような児童はなんとか押さえ込んでこれた。しかし、それ以後、私は、クラスを平穏な感じにしておくことができなくなってきた。自分の指導不足が一番の問題だと思う。そして、児童の混乱パワーが倍増していることも原因だとは思う。その結果、「うつ症状」が自分を襲ってきて、学校にいると窒息しそうな感じになり、入院を2回することになってしまった。 私には、高校生の娘二人と小学校一年の息子がいる。その息子なのだが、クラスで問題を毎日のように起こす。おしりを出したり、朝勉強のときに「こんなのしたくない。」と言って、ぜんぜんしなかったり、隣の子にちょっかいを出したり、授業中寝てしまったり・・・・・。 それ以上のこともするんだが、ここには書けないようなことも平気なのだ。 今日、妻は長男のことで学校で今後どんな対応をしていくか話し合いをすることになって、今現在、話し合いを校長、教頭、担任、生徒指導主事、特別支援専任の教諭などと話をしている。これが、特別支援教育の話し合いの一部なのである。 結果については、明日のブログに。どうなることやら・・・・・・・。にほんブログ村
2009年10月16日
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