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どんなに友人のことで悩んでいても、よほど周りの人に迷惑をかけていなければ、この先いい人に出会えます。学校に通って、普通に生活をしているだけで素敵な人と出会えます。 いやな人や、気が合わない人と接点を持ちたくないからと、部屋の中に閉じこもってしまうと、友人と出会うチャンスがなくなってしまいます。 こうしたことは悩みから解放されて、楽になるかもしれませんが、一時的な解決でしかなく、素敵な出会いからはどんどん遠のいてしまいます。 だからこそ、学校に通いながら、今の苦しみを我慢して未来の幸せを手にしてほしいのだ。 と、昔ならば、不登校の生徒や保護者に対して語り掛けていたことでしょう。しかし、現代におけるこの不登校問題は更に複雑化しています。 SNSの登場です。 これまでは、実際に面を突き合わす出会いしか考えることができなかったからこそ、明るい未来を手にするために、部屋から出て新しい出会いを求めに行こうと説得していたのだと思います。ところが、最近では、現実の友人よりもSNS上の顔も知らない友人を大切にする傾向があります。そして、そこには新しい出会いがたくさん転がっており、自分に都合の良い環境を探すことが非常に簡単で、都合が悪くなれば抜け出すことも簡単です。 これは不登校生だけでなく、普通に学校に通っている生徒にも同様のことが言えます。集団での生活を強いられる学校においては多くのことを我慢して、偽りの自分を演じているけれども、ネットの世界ではその日にあったいやなことを多くの人と笑いあい、けなしあう人がいるらしいです。 今後の学校教育が変化していく中で、学校に登校することの自由や、オンライン形式、アバターでの参加といったことも起こりえるのかなぁと考えています。 こういった変化はもちろん推奨していくべきことだと思います。しかし、人は集団の中での遊びを通して、成長すると思います。その遊びが身体的な楽しみを離れて、バーチャルなものになった際の影響がどうなるのか見当もつきません。 思い返せば、私自身もそうですが、殺人に対する恐怖はあるけれども、TVゲームでのサバイバルゲームは本当に楽しいものです。「どんどん殺していこう」なんて発言を友人に語りかけ、その数を競いあいました。今は、こうした経験を、コントローラーを通して感じていますが、肉体的な感覚として味わうことができるようになると、また違った感覚を覚えるのかもしれません。VR体験という言葉になるのでしょうか? 技術の進歩によって、戦争を体験したり、いじめの状態を経験したりすることによって、その状態を十分理解することができるのかもしれません。相手の立場になって考えるという作業は非常に難しいものですが、生の経験を体験した時、人間はさらなる成長を遂げるかもしれません。 なんだか、まとまりのない話になってしまいました。 とにかく、今言えることはこれからの時代の教育はだれにもわからないということだけです。 3点選んで2,970円☆福袋チケット(ticket4) 《7月30日から順次発送》福袋 レディース 選べる トップス Tシャツ ボトムス ワイドパンツ ワンピース 春夏 宅配便発送 reca レカ価格:2970円(税込、送料無料) (2021/7/29時点)楽天で購入
2021.07.31
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本日は部活動について考えたことを書きたいと思います。 私の学生時代と今は大きく変化しました。 それこそ、部活動中は水分を取るなと根性論で様々なことを強いられておりました。 あまり詳しく覚えていませんが、野球のバッティングフォームについても今と昔では大きな違いがあるらしいです。 時代の変化に合わせて、様々な指導法が生まれたり、科学の進歩に伴って新しい練習や、ユニフォーム(水着や靴)の最適化も可能になっています。 昔はとにかく根性論で押し通す指導も多かったと思いますが、少しずつ、よりスマートなスポーツへの取り組みがされています。 で、最近新たな動きとしてeスポーツというものがあります。 私たちの時代ではゲームは悪という決めつけがありましたが、今や一つの大きな需要だと思います。プロゲーマーという仕事も社会に認知されるようになり、youtubeの動画投稿者でもゲーム実況という一つのジャンルが大活躍しています。それをダメなことだという人はいないのではないでしょうか? そういった時代の流れのもと、各学校でeスポーツ部というものが生まれています。 しかし、eスポーツを部活化した場合に、公費である部費を使って練習環境を整備したり、ゲーム機器を購入してよいのかという議論が教員や保護者の間でもあるらしいです。加えて、学校側が部活化に積極的でも、教育委員会などの方針と異なっていると足並みが揃わずに実現が難しいという見方もあります。 eスポーツを部活化することの難しさは、eスポーツをスポーツ競技の一つとして完全には認めきれていない日本の現状を反映しているのかもしれません。 年功序列というつまらない制度を大切にしてきた日本ではいまだに、年上の意見を尊重しようする流れがあります。ところが、今の老人たちは時代の流れに追いついていません。それこそ、情報教育が最も必要なのは老人たちです。 時代の流れについてこれていない人に、今の教育に文句を言う資格はありません。そのことをもっと、多くの人に理解してもらうこと。そして、新しい時代を創るのは若者だということをもっと多くの人に理解してもらわなければなりません。 今すぐに年功序列の考え方は変わりません。それこそ、教育が必要です。長期的教育計画として、年功序列の撤廃、そして若者や賢者による新しい時代やルール作りの基盤を整えていくことが大切です。今こそ、日本の教育を変える動きを作り出しましょう。【7/26まで限定価格】【総合1位受賞☆血色不織布マスク】(17枚1パック×3)\春新色追加/血色マスク 不織布 カラー 血色カラー マスク 50枚+1 夏用マスク 不織布 在庫あり 耳が痛くならない 両面同色 不織布マスク ライラックアッシュ ローズ ハニー 送料無料 cicibella価格:398円(税込、送料無料) (2021/7/25時点)楽天で購入
2021.07.31
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昨日の続きである。 さらに、外国語についても考えてみる。私は大学においてドイツ語を学んだのだが、造語というものが多々出てきた。ハイデッガーという人は『存在と時間』においてdasein、という現存在と訳される言葉が出てくる。これは単なる一例にすぎず、ドイツ語では様々な造語が登場してきた。また、英語においては略語をよく見る。例えば、数学という意味のmathematicsは、現在ではmath、大学という意味のuniversityは現在ではuniと略して使うことが多くなってきた。この理由としてmathematics、universityは単語が長いため頭の語のみを発音するようになったと言われている。さて、ここで乱れた日本語というものの一例と比較してみる。少し無理があるかもしれないが、ギャル語(カラオケに行くという意味のオケル)と言葉の使い方が違う(やばい)というものはいわゆる造語であり(「やばい」は新しい意味の付与としての造語)、略語(空気読めないという意味のKY)やら抜き言葉は会話をやりやすくするための言葉と同じように思う。つまり、言語においては現在言われているような日本語の乱れというような、もともとの言語にはなかった使用法が誕生している。そしてそれらは正しいものとして受け入れられているのである。だから、日本においてももともとの日本語に拘る必要はないと思うのである。変化を嫌い、若者に時代を奪われることを恐れる者たちが若者を責めたてることで優位に立とうとしているのではないだろうか。 また、日本語の乱れを指摘する人々は高齢者に多いと思う。私個人の勝手な感想かもしれないが、それがまた問題の一つとなると思う。彼らはインターネットや携帯電話を上手に扱えず、説明書を片手に練習をしながら扱っていく。一方で私(若者)は商品の購入後、説明書なしで手当たり次第でそれらを使用していくのである。説明書など見なくてもなんとなく分かるのである。ここにも高齢者と若者の差があると思うのである。つまり、形式通りに物事をこなそうとする高齢者に対し、若者はなんとなく自分の思うやり方で物事をこなしていこうとする。その違いが言語においても現れ、なんとなくの言語の使用が高齢者の方の形式との違いを生むようになっていったとも思うのである。だからこそ、こんな感じの雰囲気を感じるからこの言葉はこんな意味でとるというようなステレオタイプが私たち若者の中にはめ込まれてきたのかもしれない。 結果として、私は日本語の乱れというものはないと思うのである。それは、単なる変化であり、高齢者と若者との生活の違いや時代の急速な変化が原因となって生じたと考えられる。そもそも言語というのは相手に自分の意思を伝えるための手段であるため正しい言語は相手に自分の意思を伝えることができる言語だと思うのである。日本語の乱れとして問題になったのは若者と高齢者等とのコミュニケーションが十分なものとならなかったために生じた問題であると私は推測する。だが現在、高齢者等の人々も若者の言葉使いをそれなりに理解していると思う。だから、少々の意味の違いがあったとしても大体の意味をつかむことができれば今はそれで十分だと思うのである。事実、広島出身の友達の言葉使いには当初違和感があったものの、それなりに相手の言わんとしている内容が分かった今違和感はほとんどなくなっている。やはり、言語は相手に意思を伝えられるかどうかが重要なことであり、それによって人々はおかしいまたは正しいと判断してきたのではないかと思うのである。【送料無料】ジェラートクールトップス スキッパー ブラウス 半袖 ひんやり 涼しい レディース トップス 夏 30代 40代 50代 メール便対応可価格:1000円(税込、送料無料) (2021/7/28時点)楽天で購入
2021.07.31
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昨今、少子高齢化や地域のつながりの減少による地域の教育力の低下や、発達障害や貧困といった福祉的な課題の増加などを背景に、学校が抱える課題が複雑化・多様化する中、学校だけではなく、社会全体で子供の育ちを支えていくことが求められています。 一方で、グローバル化、人工知能の進化などにより、変化が激しく予測困難な未来が来ることが予想されています。また、ここが非常に大切ですが、学校で教えていることが将来の社会で通用しないのではないかといった指摘がされています。 2020年からの新学習指導要領では、「よりよい学校教育を通じてよりよい社会を創る」という理念を学校と社会が共有し社会と連携・協働しながら未来の創り手となるために必要な資質・能力を育む「社会に開かれた教育課程」の実現を重視し、その理念を明示しています。 この理念の実現に向けては、組織的・継続的に地域と学校が連携・協働していくことを重要なポイントして紹介しています。さて、上記のことは、文科省において示されていることをまとめたものです。ポイントは2つ〇学校の授業が将来の社会で役に立たない〇地域との連携(コミュニティスクール)だと思います。まず、一つ目「学校の授業が将来の社会で役に立たない」についてです。 これは、学校現場にいる教職員だけでなく、生徒も同様の思いを抱いています。真の学力とは何かということも文科省は理解していると思いますが、依然として「学歴社会」が改革の邪魔をしてしまいます。しかし、沈黙するだけでは前進することなどありません。欠点に気づき、理想を掲げている以上、失敗を恐れず、大きな改革を打って出るべきです。もうすでに「ゆとり教育」という大きな失敗を経験している以上、恐れるものなどなにもありません。未来の日本を考えて今すぐ英断を!2つ目「地域との連携」についてです。 これに関しては、各学校の管理職の手腕が問われることになります。学校現場は責任を押し付け合いです。学校だけでなく、どの現場でも同じかもしれませんが、問題が発生した時の責任を所在はどうするのかということを明確にしないと物事を進めてくれません。 地域への委譲、連携といえば、聞こえは良いですが、学校内での活動でケガやいじめがあった際の対応は地域にお任せでいいのでしょうか? 「知らなかった」、「地域に委譲していたので、どんな指導や取り組みがあったのか見ていません」という学校側の対応があった場合、保護者は納得しないでしょうし、地域の方も責任を負いたくない以上、意欲的に取り組もうとする人はだれもいないでしょう。 これまでの教員生活の中で、「俺が責任もったるから好きにやってみい」と宣言してくれた校長がいます。今でも尊敬しています。しかし、多くの場合は「それは保護者が・・・」「リスクを考えると・・・」と、責任を追及されることに恐怖し、物事に対する議論を行い改善しようとしても、足踏みしてしまうことが多々あります。 今でも、部活動のあり方をはじめ、学校教育には疑問があります。その問題を直視せず、長年ほったらかしにしてきた責任が今問われています。 責任の追及は非常に精神的な負担が大きいため、管理職になりたいという意欲高い人は年々低下しています。問題の本質を解決しようとしないからです。多くの人が変わらないと思っているからです。新しい時代がすぐそこまで来ています。時代の流れに遅れるのではなく、先手必勝の取り組みを今行い、これまで問題をほったらかしにしてきたことへの責任を果たすべきだと思います。3点選んで2,970円☆福袋チケット(ticket4) 《7月30日から順次発送》福袋 レディース 選べる トップス Tシャツ ボトムス ワイドパンツ ワンピース 春夏 宅配便発送 reca レカ価格:2970円(税込、送料無料) (2021/7/29時点)楽天で購入
2021.07.30
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学校のテストはいらない、不必要だと大きな声で言う人がいます。 私も、教員の負担と成績を付けるための作業としてのテストならば不必要だと思います。 でも生徒からの視点で考えると非常に大切なことだと思います。 テストは点数が高ければよいとされていますが、どこまで高い点数をとっても次はさらなる高みを目指すことになり、いつまでたっても終わりは見えてきません。 だから、点数を取るためのテストとしては生徒にとって価値は低いのです。 大事なことは「範囲」と「答え」が決まっていることです。 日常の生活の中には答えがない難問がいくつもあり、自力で解いていかなければなりません。それも、いつ、どこで、どんな答えが必要となるかは人によっても違うし、時代によっても変わります。 現実のこうした難問を解くための礎としてテストはあるのだと思っています。こうした答えが決まっているテストから逃げ出してしまうことが、一番の問題です。問題に対して真摯に向き合うことが大切で、点数はその次です。 答えの決まっている問題から逃げているようでは、答えを見つけ出さなければいけない問題などできるはずがありません。そうした訓練の一つとしてテストに取り組んでみたらどうでしょうか。 3点選んで2,970円☆福袋チケット(ticket4) 《7月30日から順次発送》福袋 レディース 選べる トップス Tシャツ ボトムス ワイドパンツ ワンピース 春夏 宅配便発送 reca レカ価格:2970円(税込、送料無料) (2021/7/29時点)楽天で購入
2021.07.30
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現在、若者における日本語の乱れというものが起こっているらしい。ら抜き言葉、言葉の使い方がちがう、理解できない略語やギャル語など様々なことを取り上げては若者を責めたてている。しかし、私自身が若者であるためかもしれないがそのような日本語の乱れというものを感じたことはない。むしろ私にとって正しい日本語は私が使っている言葉であると私は思っている。というのも私は、言語には絶対にこれというような正解はなく、方言や年代によってさまざまな使い方がされ、人それぞれにそれぞれの正しい日本語があると思うからである。また、言語は時代が流れるにつれて、言葉もそれに適応して変化していくのではないかと思うのである。さて、そのことを様々な点から考察していきたい。 まず理解しておかなければならないと思ったことは、そもそも「正しい日本語」とされる言語はどのようなものであるかということである。「内閣が告示により推奨する日本語としての表記、新聞各社が用いている表記」と書いていた。なるほど、簡潔で確かに分かりやすい説明であり納得させられてしまいそうである。しかし、源氏物語や江戸時代の書物など古典における日本語は正しい日本語と言えないのだろうか。当時の人々からするとその時代に使われていた言葉が正しい日本語であり、当時の人々からすれば先ほどの正しい日本語というものは乱れた日本語と言われてしまうに違いないだろう。要は時代によって日本語は変化してきたのであり、今後も変化していくと思われるにも関わらず、勝手に正しい日本語というものを作り上げてしまったと思うのだ。ならば、今、再び正しい日本語というものを考え直すことになると今の正しい日本語は現代の若者が多用している乱れた日本語になるのではないだろうか。だから、「乱れ」という言葉の使い方には間違いがあると思うのである。すなわち、現代の日本語の「乱れ」というものは日本語の『変化』ということになると思うのである。だから、正しい日本語というものは定義すること自体が不可能なことであると思うのである。また、この50年前後で人間の生活というものは大きく変わったことも起因していると思うのである。昔の人からすれば携帯電話やインターネット、冷暖房、新幹線などは想像もつかなかったであるだろうし、意味の分からない言葉であるだろう。また、急激な時代の変化に伴って様々な専門が発達し、様々な言葉もこれにより誕生したと思うのである。そして私には、それは今もなお続いており新しい専門領域が作られつづけ新しい言葉が誕生し続けていると思うのだ。また、距離の離れた人とはめったに会うことも話すこともできなかった昔においてはそのわずかな時間を大切にするために丁寧に文字や会話をしたと思うのだ。しかし、現代では顔も知らない人とメールや電話をすることができ気軽な関係となり、重苦しい言葉使いよりも気軽な話しやすい言葉を使うようになったと思うのである。【送料無料】ジェラートクールトップス スキッパー ブラウス 半袖 ひんやり 涼しい レディース トップス 夏 30代 40代 50代 メール便対応可価格:1000円(税込、送料無料) (2021/7/28時点)楽天で購入
2021.07.30
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平和が大切だとして、学校教育では「軍事」に関して話すことはアレルギーが強い印象があります。もちろん「平和が大切だ」という認識は非常に大切なことです。しかし、大きな声で叫ぶだけ、授業で伝えるだけで世界平和が訪れるなら、苦労なんてありはしません。戦争を防いで、平和を求めるには、やはり「軍事」について正しく知らなければ始まりません。特に強く感じることが軍隊に対するアレルギーです。諸外国では、軍人に対して特別な栄誉を与えて、その働きに報いています。「自分の命を犠牲にする仕事」であるからです。だからこそ、国民から尊敬され、尊い職業として受け止められています。ところが、日本では自衛隊に対して十分な理解があるかと問われると難しい問題です。生徒にアンケートをとっても、自衛隊になりたいという人は今まで一度もあったことがありません。また、聞いた話だが、日本の戦車には冷房設備が整えられていないらしい。陸自の夏場対策は旧日本軍同様に「根性」に依存している。これを見直さないのであれば、隊員の確保にも支障をきたして当然です。学校の部活動ですら根性論は間違っているといわれているにもかかわらず、いまだに古い教育スタイルを貫いており、それが美徳とされる不思議な現場がそこには存在しているのでしょう。 で、ここから大きく話は脱線するのですが、ガンダムという物語はこの戦争について熱いメッセージを送り続けていますね。アムロレイから始まる宇宙世紀の物語を考えても、戦争を何度も繰り返しています。人間の変革に期待をしても、何度も失敗を繰り返しています。で、思い返せば、私たちの現実の歴史も戦争の繰り返しです。また、軍事によって大きな利益を得ている会社や、地域もあります。もちろん、日本も例外ではありません。三菱重工業や富士通、沖縄はそれに当てはまりますよね。そういった理解をしないまま、戦争はダメだ、軍事はダメだとアレルギー反応を示すことが正しい教育ではないと思います。テストで点数を取る教育から、物事を真剣に議論できる教育への変化を求めたいです。 3点選んで2,970円☆福袋チケット(ticket4) 《7月30日から順次発送》福袋 レディース 選べる トップス Tシャツ ボトムス ワイドパンツ ワンピース 春夏 宅配便発送 reca レカ価格:2970円(税込、送料無料) (2021/7/29時点)楽天で購入
2021.07.29
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「なぜ人を殺してはいけないのか」 と聞かれたらなんと答えますか? 日本の法律には殺人罪があり、もちろん人を殺すと罰せられます。でも実は、殺人罪について規定した条文では「なぜ人を殺してはいけないのか」については明記されていません。 つまり、人を殺すと罰を受けますが、その罰の理由については書かれていないのです。 そうなると、「罰さえ甘受すれば人を殺すのは悪いことではない」などの考え方も出てきますが、やはり「人を殺してはいけない」という認識は多くの人が納得するところでしょう。学校の教員をしていて、もし、担当生徒が上記の質問をした場合、なんと答えたら相手を納得させられるか非常に難しいと思います。もちろん、私は殺人を否定したいですが・・・。 この理由を考えることこそが真の勉強だと思います。 よく「当たり前のことはしっかりやりなさい」という指導があります。が、私は異議を唱えたいです。当たり前や例年通り、同様にという言葉は非常に恐ろしいものです。そこに疑いの目を向けることがなくなるからです。 人助けは美徳とされています。それも一つの常識として受け入れられています。 しかし「自殺の人助け」はステキな行動としてほめたたえてくれる人はいないでしょう。 この違いを考えることが大切です。ルールだから、そういう制約だからと言って、相手を納得させることはスポーツや試合における場面であって、人間社会において絶対に正しいルールとは何かを考えることは大変難しいものです。 皆さんの周りでも受け入れているけれども、よく考えると不思議なことってたくさんありませんか。 集会での体育すわり(健康に悪いといわれている) 学校でのスマホ禁止(時代に合っていない、授業でも活用できる) 学校にはジュースを持ってきてはいけない こういったことに違和感を覚えて、当該校の生徒たちとそれについて話し合うことこそが大切です。なんでもかんでも大人の都合で決めつけるのではなく、主体である生徒の声を聴きながら、助言を与えていくことでルールを作成していくことが必要です。 今の学校教育では「なぜ」について考える作業が欠落しています。「AはBだ」と教える授業ばかりです。自分で考えて、自分で学ぶことが本当の学びだと思います。【7/26まで限定価格】【総合1位受賞☆血色不織布マスク】(17枚1パック×3)\春新色追加/血色マスク 不織布 カラー 血色カラー マスク 50枚+1 夏用マスク 不織布 在庫あり 耳が痛くならない 両面同色 不織布マスク ライラックアッシュ ローズ ハニー 送料無料 cicibella価格:398円(税込、送料無料) (2021/7/25時点)楽天で購入
2021.07.29
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たとえば目の前に赤いリンゴがあるとする。そこにリンゴがあることは確かなように思える。しかし本当にリンゴがあるかどうかは証明できない。私の視覚が狂っていて、本当のリンゴとは似ても似つかないリンゴを見ている可能性もあるからだ。だとしたら、私たちは本当のリンゴをどこまで正確に認識できるのだろうか?こうした問題を、哲学では「主観と客観は一致するのか」といった難しい言い方で問い続けてきた。いわゆる主観客観問題という哲学的アポリアである。よく考えてみれば、そこにリンゴがあるのかどうかさえ、本当はわかったものではない。私の見ているリンゴが夢や幻だという可能性だって十分にありうる。確かなことは、自分にとっては「赤いリンゴがある」ように見える、ということだけである。だが、自分にとってそう見えていること、そうとしか見えないことは、それ自体としては疑いようがない。だからこそ、そのリンゴが現実にあることを確信できるのだ。たとえそのリンゴが客観的に実在しているかどうかはわからないとしても。問題は、「リンゴがある」という確信が成立するための条件を問うことだ。『現象学』では、この問題が驚くほど明晰に語られており、現象学が主観客観問題を解決していくプロセスが見事に描かれている。説明が展開されてゆくにつれ、読者は最高に刺激的な考え方に出会ったことに気づかされるのである。これをたかがリンゴの問題と思うのは早計に過ぎる。ことはあらゆる問題に繋がっているが、そのことは現象学を理解してみるまでわからないからだ。現象学の入門書といえば、フッサールの生涯とか、ハイデガーとの関係とか、デリダによる批判など、そんな蘊蓄をあれこれと読まされた挙げ句、表面的な知識だけは身につくものの、その核心が見えてこない本がほとんどである。現象学の驚くべき思考を追っているうちに、その答をどうしても確かめずにはいられなくなる。また、現象学は主観客観問題の解決だけでなく、日常的な問題の意味を考える上でも、大変優れた思考方法である。「真・善・美」という問題だ。「真とは何か?」という問題は、これまでの西洋哲学においては、「客観的な真理とは何か?」という転倒した問い方になっていた。ありもしない真理を認識しようと、躍起になって追い求めていたのである。この形而上学的な考え方は、十九世紀後半以降、ニーチェやフッサールによって明確に否定されることになった。現在では、客観的な真理がないことは多くの哲学者の一致した見解となっている。とはいえ、真理がないことが、そのまま私たちの日常生活において、「ほんとうのことなんてないのさ」、というようなシニカルな生き方に結びつくわけではない。人は誰でも、「よい」もの、「美しい」ものを求め、その最上のものとして、「ほんとう」と言えるものを求めている。それは人間の根本的な欲望であり、それをただたんに「そんなものはない」で済ませてしまうなら、それはあまりにお粗末な思想だといえる。「真・善・美」という言い方には客観的理念という印象がつきまとうので、日常的な言葉である「ほんとう・よい・美しい」と読み替え、その意味を本質直観によって分析していく。本質直観とは現象学独自の思考方法であり、「ほんとう」を本質直観するのであれば、「ほんとう」という言葉から直接思い浮かぶ事柄を熟考し、そこから誰もが納得できるような共通本質を取り出していく。すると、私たちにとっての「ほんとう」とは、実は客観的な真理云々の問題ではないことがわかってくる。客観的真理がないとしても、誰もが勝手気ままに行動すれば社会は成り立たないため、お互いが共通に認め合うルールが不可欠となる。しかし、いかに民主的に決定されたルールであろうと、それは自分の欲望を制限するものでしかないので、「なんか違うんじゃないか」と感じてしまう。それは「ほんとう」と思えるルールとは言えない。では、相手が恋人や友人であればどうだろう? お互いの関係そのものが喜びであるとき、私たちは共通に認め合えるルールを甘んじて引き受けるのではないだろうか?幼児が母親に「だめ」と言われることで、次第に母親の言うことを守るようになるのは、母親に喜ばれることを欲望するようになるからだ。他者との関係によってもたらされる喜びは、長ずるにしたがってより強く求められるようになる。この欲望を満たすために、むしろ積極的に他者とのルールを含んだ関係を作ってゆくのである。このとき、そのルールは押し付けられたものではなく、自ら望んだものとして、「ほんとう」だと感じられるようになってくる。「ほんとう」といった価値の本質には、他者との関係性が含まれているのである。【送料無料】ジェラートクールトップス スキッパー ブラウス 半袖 ひんやり 涼しい レディース トップス 夏 30代 40代 50代 メール便対応可価格:1000円(税込、送料無料) (2021/7/28時点)楽天で購入
2021.07.29
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夏目漱石の夢十夜 第七夜の考察をしてみたい。 私は、『夢十夜 第七夜』を考えるにあたってこの二人の意見から手を借りたいと思う。第七夜は人生に対する不安を含んだ夢であるだろう。行き先の分からない船に乗ってしまった不安が伝わってくる作品である。その船から飛び降りて落ちていく恐怖は、拠り所の無い人生を暗示しているようである。確かに「自分はますますつまらなくなった。とうとう死ぬ事に決心した」や「無限の後悔と恐怖とを抱いて黒い波の方へ落ちて行った」という表現からも自分の死への不安が描かれていることがよくわかる。ただ私がここで注目したいのは死の自覚ということである。二人の論からもわかるように第七夜においては「自分」がいま生きていることの不安やとまどい、さらには孤独な自分が描き出されているようである。これは漱石の死の自覚というものが根底にあるのではないかと私は考える。 哲学者ハイデガーは人間存在の根本規定を<死への存在>となし、自己の存在の自覚を自らが死へと歩むものであることの自覚から捉えている。この思想における問題点としては自己の死は経験することのできないものであり、語ることのできないということである。しかし、第七夜における漱石の死への存在としての自覚は夢の中での体験として描かれている。すなわち確かに自己が死んでしまっては語ることができないが、こと夢の中においての自己の死を大いに語りうることができる。夢の中での現実とつながりを持っている自己の死通じて、現実において自己の死を自覚するという点に漱石の死の自覚があると思う。また「落ちて行く日を追いかけるよう」という「自分」の発言には漱石の死へと歩む自分が投影されているような気がしてならない。太陽はまさしく人間の一生としてとらえられており、東から上る時を人の誕生、西へ沈むことを人の死と考えることができるのではないだろうか。死の象徴となる太陽の沈む西へ「人生という船」が向かっている。これはすなわち死への存在が描かれているといえると思う。 つまり、漱石は自己の死を現実のものとしてではなく、夢の中での死という比喩的表現によって自覚しているといえるのではないだろうか。 まず内田百閒の物語に頻出する語がある。それは「土手」である。この土手はいわゆる境界であるだろう。現実とあの世を隔てるものという方がこれからの論の展開からするとよいと思う。土手があるということはそこには川がある。この『冥途』において、私は死んだ父を土手で見ている。ここからも土手があの世とこの世をつなぐ場として描かれていることがよくわかる。しかし、私たち生者にはあちらの世界をはっきりとみることができない、ただ夢の中の土手においてのみあの世とつながりを持っているのだろう。この『冥途』からは百閒が父の死を自覚していると受け取ることができるだろう。そして注目すべきはまさにここで生者と死者との間に交流が行われているということである。 漱石には自己の死というものが描かれており、百閒では他者の死がとらえられていた。また、内田道雄が『漱石の持つ暗い混沌たる陰湿な内部世界が、恐らく百閒によっては嗅ぎとられ、彼の心中に同調波を起こしてゆき、やがてそれが「冥途」に結実する』というように百閒は漱石の死と文学を享受している。つまり百閒の作品には自己の死の自覚と他者の死の自覚が表れている。そのために死者が生者のうちに復活するような世界が作られているのではないだろうか。この世を超えた次元を、自己を死者の世界に介入させることで展開しているのだろう。だから、百閒の作品は単なる漱石の模倣とは言えず、自己の死を自覚した漱石の弟子であり、父という二人称的な死を経験した百閒だからこそなしうる世界観であるといえるだろう。【7/31まで限定価格】【総合1位受賞☆血色不織布マスク】(17枚1パック×3)\夏新色追加/血色マスク 不織布 カラー 血色カラー マスク 50枚+1 夏用マスク 不織布 在庫あり 耳が痛くならない 両面同色 不織布マスク ライラックアッシュ ローズ ハニー 送料無料 cicibella価格:399円(税込、送料無料) (2021/7/28時点)楽天で購入
2021.07.28
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はじめに愛の形は様々であるとよく聞く。クリスマスが近づくにつれて町ではカップルの姿をよく見かけるようになった。カップルの愛の形は他者愛になるだろう。そしてこの愛の形は良いものであると考えられる。しかしナルシスト・自己愛の激しいものは嫌われる傾向がある。自分を愛することは良くないという考え方が浸透しているようである。そこで一見すると対立していると思われる自己愛と他者愛が対義語となるかを考えたい。そのため「愛するということ」と他者愛、自己愛がそれぞれどういうことかを考えることによって答えを導きたいと思う。1,愛するということ 愛の問題を考えると多くの人はおそらく、愛される問題としてとらえるだろう。つまりどうすれば愛されるということである。そしてこの目的を達成するために男は社会的に成功しようと思い、女は外見を磨こうとする。しかし、私がここで扱う愛は、愛することとしてである。すなわち受動的活動ではなく能動的活動として考えていく。「愛する」という語を国語辞典(p2)で調べてみると、「①それに対して愛を注ぐ②かわいがりいつくしむ③異性を恋い慕う④物事を強く好む」とある。どうやら「愛する」には他者愛の意味が強くあるようだ。またフロム(p76)によれば「愛する対象は特定の一人に対する関係ではない。人が世界全体に対してどのように関わるかを決めることである。もし一人だけを愛し他には無関心だとすればそれは自己中心主義が拡大されたものにすぎない」とある。そこで、ここで扱う「愛する」ということについては、愛は何よりも与えるもの、能動的なものと考える。そして、それは特定の一つのものにのみ与えられるものとは考えない。 またフロム(p90)によると「愛は意思とは関わりなく自然に生まれるものであり、自分ではコントロールできない感情に突然とらわれる」ものであると考えられている。2,他者愛 1で愛は与えるものであると考えた。ここからは愛を与える対象の違いを考えていく。まずは自分ではなく他者に愛を与える他者愛として考えたい。愛の対象は異性、兄弟、親のように相手と自分との関係によってさまざまな種類がある。ここでは異性に注目して考える。他者に愛を与えるというのだから、この愛の形には自分と他者が存在する。そして愛を他者に与えたとき、他者が喜びかつ自分自身もまた喜びを得ることになる。ただ、自分が得るものは喜びだけとは限らない。悲しみを得るものも中にはいるだろう。つまり愛を与えたならば、与えた主体は何かを受け取るのである。また、フロム(p48)によると愛することの基本的な「要素とは配慮、責任、尊敬、知である」。つまり、「愛する者を積極的に気にかける」。「他人の要求に応じる」。「その人が唯一無二の存在であることを知る」。「その人を知る」ことが大事である。異性に愛を与える場合、兄弟や親が対象となる場合と異なり異性はまったくの他人である。そのため相手のことをすべて知りえることは不可能である。その中で相手のことをより知ろうとして愛を深めていくのであろう。フロムの著書(p90)では異性愛の前提に「自分という存在の本質から愛し、相手の本質と関わりあう」ということがある。3,自己愛 自己愛はもちろん自分だけの関係である。自分自身の個性を尊重し、自分を理解しようとし自分を愛するのである。近年ではナルシシズムと称され悪いイメージを持っている人が多い。まずフロムの著書(p92)を見てみる。フロイトにとって自己愛は「人間の発達における一番最初の段階であり、後になってからナルシシズム段階に戻ってしまった人は愛することができず、極端な場合には精神異常になる」とある。つまり、フロイトによれば自己愛を経験したことのない人は他者を愛することができないのである。また、自己愛は自分を愛することになるのであり、愛することの基本的要素である「配慮、責任、尊敬、知」は含まれていると考えられる。だから、自分自身の個性を尊重し、自分を知ろうとして自分を愛するのである。つまり自己愛と他者愛は愛の対象が異なるだけであり、愛するという要素の点から考えると同じである。他者は人間であり、人間には自分自身も含まれる。だから他者愛がよいものであるなら、自己愛も少なくとも悪いものではないだろう。ただ、フロイトの言うように精神異常としての自己愛を悪いものとしてとらえることは起こりえるかもしれない。愛の問題に関して言うならばフロイトの述べているように、自分を愛することが他者を愛することの前提条件である。自己愛は他者愛とつながりを持っているということであるだろう。だから、自己愛と他者愛の関係は対義語とはなりえず、むしろ類義語として考える方が妥当であると考える。まとめこれまで見てきたように自己愛と他者愛は愛する対象の違いだけであり、つながりがある。また他者を愛するためには自分を愛する経験がなければできない。他者愛には自己愛の経験が必要である。だから、私は自己愛と他者愛は対義語にはなりえないと考える。参考文献・『愛するということ』エーリック・フロム著 鈴木晶訳 紀伊國屋書店 2004年発行 第14刷 ・『学校教育心理学 教育実践の科学』篠置昭男 乾原正編者 福村出版株式会社 1994年発行 第6刷 ・『岩波国語辞典 第二版』西尾実 岩淵悦太郎 水谷静夫 編者 株式会社岩波書店 1975年発行【送料無料】ジェラートクールトップス スキッパー ブラウス 半袖 ひんやり 涼しい レディース トップス 夏 30代 40代 50代 メール便対応可価格:1000円(税込、送料無料) (2021/7/28時点)楽天で購入
2021.07.28
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教育業界への不思議に関してです。 中でも「成績」に関して私は、学生のころから、疑問を抱いてきました。都道府県によって、様々な成績の状況があると思います。そのため、私が現在住んでいる地域での学校教育現場での成績に関して、疑問に抱いたことを紹介したいと思います。 中学校での成績は高校進学に大きな意味を持っています。それは「内申点」として入学試験を受ける前のアドバンテージになるからです。そのため、すこしでも良い成績を得ようと生徒だけでなく、保護者も興味を持っています。基本的にこの成績は、各学期末に渡される通知表を下に計算し、内申点を知ることができます。 そして、この通知表の数字は公平性に欠けます。なぜなら、それぞれの学校で評定(通知表での各評価=5段階が多い)の割合が決められいるからです。 どういうことかというと、A学校で80点で5の評定をもらうことがある一方で、B学校では85点で4の評定になることがあるのです。同じテストを実施することがないので簡単に比較することはできませんが、それぞれの学校の学習のレベルによって評定の差がうまれるということです。 上記の場合、A学校は学力が低く、B学校では学力が高いので、5の評定の人数の上限となるテストの点数が異なってきます。そのため、B学校の生徒がA学校へ転校した場合、評定が5になることがあるということです。また、同様に、A学校の生徒がB学校に転校した場合は評定が4に下がることがあるということです。 要は、地域によって学習能力の差があるため、各学校での評定の差が生まれてくるということです。そのため、他校では優秀な成績になるけれども、自校では、成績優秀者が多いため望ましくない成績になってしまう生徒が出てくるということです。 最近では、この人数の割合に関する規定の文章は削除されたようですが、未だに暗黙のルールとして残っているようです。個人的には、不公平感のある成績でアドバンテージを作るのではなく、入学試験一発勝負のほうがいろいろ納得できるでしょうし、教員の業務改善にもつながると思うのですが、どういった狙いがあるのでしょうね。【7/26まで限定価格】【総合1位受賞☆血色不織布マスク】(17枚1パック×3)\春新色追加/血色マスク 不織布 カラー 血色カラー マスク 50枚+1 夏用マスク 不織布 在庫あり 耳が痛くならない 両面同色 不織布マスク ライラックアッシュ ローズ ハニー 送料無料 cicibella価格:398円(税込、送料無料) (2021/7/25時点)楽天で購入
2021.07.28
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国語教師をしていて、毎年しんどくなる時期があります。 それは、2学期のスタートです。理由は簡単です。 「読書感想文」の評価が始まるからです。 読書感想文で評価しているのは「自分の考え意見をちゃんと書けているか」「どうしてそう思ったのか書けているか」「順序立てて書けているか」これらを評価しています。 感想文を書くときの指導も同様です。「おもしろかった」というのはそう思ったのならそうなんです。では、どうしてそう思ったのか。それを相手に伝わるように書くことが大切なんです。 読書感想文そのものの価値や意義は十分に理解できます。「他人に自分の考えを伝えるための文章を書けるようにするため」です。 中学生までのころは、出会うことは少ないですが、小論文や卒業論文、企画書、プレゼン・・・。「自分以外の人に自分の考えを文章で伝える」という行為は一生を通してやっていく活動だと思います。 なにをどうやって書けば、相手に自分の思いを伝えることができるのか、何もかもわからないだろう。 だからこそ、読書感想文は必要です。 しかし、毎年疑問があります。 課題図書です。その選考基準として以下のようなものがあります。 内容に関する事項(1) 児童生徒の発達段階に適合しており、楽しい読書体験が得られるものであるか。(2) 現代の児童生徒の思考や心情に適合し、多くの児童生徒に興味や関心を持たせることができるものであるか。(3) 児童生徒に深い感動や新たな認識をあたえ、豊かな心の成長が図れるものであるか。(4) 内容や主題に独創性があるか。またその取り扱いは、時流に迎合的であったり、興味本位のものになっていないか。(5) 正義と真実を愛する精神に支えられ、人権尊重の精神が貫かれているか。(6) 特に、ノンフィクションについては、事実の叙述が科学的に正確で、かつ主題の取り扱い方が新鮮で、創意や工夫がみられるか。 別に大きな問題はありません。しかし、この基準から選考があるのですが、その選考方法は不透明です。私がここで問題にしたいことは「お金」です。 私自身が無知だからかもしれませんが、大変失礼ですが、よくわからない著書が選ばれていることがあります。そして、候補に挙がった著書にどんなもの委があったのかすら知る手段がありません。 課題図書に選出されると、各学校の学校図書館や各家庭で購入されることが増えます。ここが大切です。要は利益が発生しています。 私はこの選考が不透明であることが納得できません。金銭のやり取りがなされているのでは?と疑心暗鬼になります。 課題図書があるから、どんな本を読めばいいかわからない子供や保護者の助けになることは事実です。しかし、金銭が発生している以上、その選考には社会全体を納得させる必要があります。 どんな本がノミネートされて、どういったところで選ばれたのか。そして、どういった都合で選考から漏れてしまったのか。そういったことをすべて発表したうえで課題図書を決定すべきだと思います。 与えられたからやる、のではなく、なぜそれが必要なのか考えるべきです。そして、その裏側もしっかり理解する必要があります。私自身が無知だから、理解できていないのかもしれません。しかし、説明責任があるべき問題だと私は思います。 【7/26まで限定価格】【総合1位受賞☆血色不織布マスク】(17枚1パック×3)\春新色追加/血色マスク 不織布 カラー 血色カラー マスク 50枚+1 夏用マスク 不織布 在庫あり 耳が痛くならない 両面同色 不織布マスク ライラックアッシュ ローズ ハニー 送料無料 cicibella価格:398円(税込、送料無料) (2021/7/25時点)楽天で購入
2021.07.27
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学校の教員をしていて悩むことがあります。それは成績を上げたいという相談に対する答えです。 学校関係者からすれば、親身になって答えてあげるべき内容ですが、個人の感覚からすれば、学校の成績はそれほど大切ではないと思います。 学校の授業科目の中であなたの人生に必要なことは何ですかと問いたいです。 私は国語の教員をしていますが、理科や社会の知識については生徒の方が賢いものです。はっきり言って中学校の教育内容でわからないものがあります。 おそらく、大人(親)の中にも子どもたちのテストを受ければ、満点をとれる大人はそんなにいないと思います。むしろ子供より点数が低いこともあるでしょう。 私たち大人は学校での授業内容が将来あまり役に立たないことを知っています。跳び箱を8段を飛べたからと言ってどんなプラスがあるのでしょう。古文の内容がわかってどんなプラスがあるのでしょう。生物の分類がわかってどんなプラスがあるのでしょう。 ここでのプラスを明確に答えることができる人は、それぞれの学問においてしっかり勉強しそれぞれの知識を活用している人たちだと思います。私の場合、古文の内容が分かることのプラスを答えることができます。 でも、私たち大人はすべての勉強ができなくても働いています。お金をもらっています。その事実を伝えてあげることが大切です。 そして、学校の勉強より大切な勉強があるということを伝えるべきです。 福沢諭吉の「学問のすゝめ」においても同様のことが書いてあります。実学を学ぶべきなのです。 本当に必要な勉強はどんなことであるのか。それを児童生徒に気づかせてあげることが一番の教育活動だと思います。 今の学校教育は、大人が評価する基準作りのための内容になっています。テストで点数が取れる人が優秀であるという構図を作り出しました。 でも、大切なことは1つの専門分野を極めることだと思います。学力が足りないから、その道が閉ざされることはあってはならないはずなのに、その分野とはあまり関係のない内容によってふるいにかけられます。 知識の詰め込み教育、受け身の授業スタイルを変更し、学校の授業内容を変更することで、テストの点数によって人生が左右されるのではなく、どの学問を学びたいかによって人生が左右される学校教育でありたいと思います。下記に福沢諭吉の「学問のすゝめ」の一部を掲載しています。ぜひ、ご一読ください。「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。されば天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤きせん上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの物を資とり、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずしておのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥どろとの相違あるに似たるはなんぞや。その次第はなはだ明らかなり。『実語教じつごきょう』に、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。また世の中にむずかしき仕事もあり、やすき仕事もあり。そのむずかしき仕事をする者を身分重き人と名づけ、やすき仕事をする者を身分軽き人という。すべて心を用い、心配する仕事はむずかしくして、手足を用うる力役りきえきはやすし。ゆえに医者、学者、政府の役人、または大なる商売をする町人、あまたの奉公人を召し使う大百姓などは、身分重くして貴き者と言うべし。 身分重くして貴ければおのずからその家も富んで、下々しもじもの者より見れば及ぶべからざるようなれども、その本もとを尋ぬればただその人に学問の力あるとなきとによりてその相違もできたるのみにて、天より定めたる約束にあらず。諺ことわざにいわく、「天は富貴を人に与えずして、これをその人の働きに与うるものなり」と。されば前にも言えるとおり、人は生まれながらにして貴賤・貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人げにんとなるなり。 学問とは、ただむずかしき字を知り、解げし難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世上に実のなき文学を言うにあらず。これらの文学もおのずから人の心を悦よろこばしめずいぶん調法なるものなれども、古来、世間の儒者・和学者などの申すよう、さまであがめ貴とうとむべきものにあらず。古来、漢学者に世帯持ちの上手なる者も少なく、和歌をよくして商売に巧者なる町人もまれなり。これがため心ある町人・百姓は、その子の学問に出精するを見て、やがて身代を持ち崩すならんとて親心に心配する者あり。無理ならぬことなり。畢竟ひっきょうその学問の実に遠くして日用の間に合わぬ証拠なり。【7/26まで限定価格】【総合1位受賞☆血色不織布マスク】(17枚1パック×3)\春新色追加/血色マスク 不織布 カラー 血色カラー マスク 50枚+1 夏用マスク 不織布 在庫あり 耳が痛くならない 両面同色 不織布マスク ライラックアッシュ ローズ ハニー 送料無料 cicibella価格:398円(税込、送料無料) (2021/7/25時点)楽天で購入
2021.07.26
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オリンピックが始まりました。それと同時に様々な問題が起こっていたことを感動でごまかそうとしています。 日本社会の問題点として、事件や問題の根幹に対する対応が一切ないことが多いです。 神戸での教員による教員へのいじめ事件を覚えているでしょうか?2019年秋に発覚した神戸市教員間いじめ問題です。それぞれ懲戒処分、停職3か月、減給3か月の処分が下されました。 これは各個人への処罰であり、問題が起こったことへの対処はほとんどされていません。唯一見直されたことは、当時の神戸市における人事異動の方法の見直しでした。 あれほど、ひどい事案はめったにあるものではないですが、おそらくどこかの学校でも同様のいじめや偏見による差別があって当然だと思います。 先ほどの異動のことを取り上げます。異動が決まった際には管理職や各学年主任によって、前任校の知り合いに連絡を取り、どんな人間なのか情報を仕入れて勝手な印象を持つことになります。直接会ったことがないにもかかわらず、他人からの情報によって、他人を決めつける現場があるわけです。 これは、非常に大きな問題で、人間だから相性というものが存在します。私は今の管理職とけんかをしたり不満を抱いています。現在の私の評価は非常に低いと思います。しかし、前任校では管理職とともに食事をするなど親しくしていました。評価はおそらく高いのではないでしょうか。要は他人からの評価は公平性に欠け、主観的なものでしかないということです。 こういった偏見がはびこっている学校現場において教員による「いじめ」がないとどのようにして断言することができるのでしょうか? このオリンピックでも「人種差別発言」「女性差別発言」「いじめによる問題」・・・。様々な問題が浮上しました。しかし、ことあるごとにその問題を起こした人への処理をするだけで、問題となった発言に対する見直しはまともにされておりません。 悪いことをしたから罰するというのではなく、それに対してなぜそういうことにつながったのか考える必要があります。私の考えとしては、日本の社会がこういった差別発言を生み出す原因となっていると思います。 真の歴史や触れにくい問題については口を閉ざし、都合の良いことばかりを教育しているからこのような問題が起こっているのです。知識としてユダヤ人の大量殺害があったと覚えるのではなく、なぜそれが起こったのか、どういう問題だったのか、そういったことを勉強することが最も大切なことだと思います。 日本の教育の早急な改革が必要であることは間違いありません。【半額クーポン利用で1箱375円】【夏新色追加!】☆ZIP!等で紹介☆【両面同色】【10枚包装】血色マスク 不織布 カラー マスク 50枚 夏用マスク 不織布マスク カラー やわらかマスク カラーマスク おしゃれマスク ふつう 小さめ 子供マスク 使い捨て 平ゴム WEIMALL 送料無料価格:750円(税込、送料別) (2021/7/25時点)楽天で購入
2021.07.25
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日本の教育は「均等性」「平等」を重視するあまり、人と違うことをすることに対して指導することが多くあります。いわゆる「出る杭を打つ」教育をしています。 しかし、周りと違うことをしていることにこそ大きな価値が潜んでいることがあると思います。 例えば、学校の数学の授業を思い描いて下さい。中学校の学級生徒、約30人から40人がいた場合、全員の能力が同じであることはありません。しかし、問題がすぐにできた生徒は残りの時間に読書をしていると叱られます。また、担当教師が一人のため理解できない生徒が複数人いると指導することが非常に困難で、理解できないまま授業を進めたり、そもそも小学生や過去の授業の内容が理解できていないのにさらに難しい問題に取り組んでいる場合があります。 具体的に言えば、一次関数が理解できない生徒に二次関数の学習を理解しろということや、 英語の疑問文の文法が分かっていないのに、疑問視を使った英文法を学ぼうとしても無理があります。 今の学校教育を続けていくと、問題がすぐに理解できる人、理解が難しい人、だれにとっても良い授業スタイルではなく、大人の都合や教科書を進めるためだけに授業が存在しています。 学校教育には本当に限界が来ています。早急な改革が必要であることは間違いありません。
2021.07.24
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昨今のコロナウイルスにより、学校教育は大きく変化しました。 特に、大きな変化がGIGAスクールと称されるものではないでしょうか。ちなみにGIGAスクールとは、児童生徒1人1台の学習者用端末と、高速大容量の通信ネットワークを一体的に整備する構想のことです。子どもたちの未来を見据え、創造性を育む教育ICT環境の実現に向けた政策が推進されています。同時に、校務支援システムなどにより、教職員の働き方改革につなげていくことも目的としています国の基準では2018年度から教室への大型ディスプレイの設置をはじめ、超高速インターネット接続、教員1人1台の指導者用コンピュータなどの導入を目指してきました。これらに加えて「GIGAスクール構想」では、2020年度に全教室の無線LAN環境整備と学習者用コンピュータの1人1端末の導入を目指すことが決定していました。 現在、学校の授業においては生徒一人に一つの端末を渡しており、端末を利用した授業を展開しています。それは、コロナだからというわけではなく、もともと計画していたことではあるわけです。 しかし、ここには大きな問題があります。児童生徒は自由に使うことが許されておりません。いまだに黒板とノートを用いた授業が展開されています。 その理由は簡単です。教員が楽をしているからです。 はっきり言って新しいことにチャレンジすることは非常に大変です。それこそ、若手ならまだしも、50代以上の教員にとっては、端末利用に関する職員研修ですらまともに理解できません。 そのため、これまで通りの授業が展開されている現実があります。 ただ、個人的には端末の導入に伴って教科書やノートをなくすことはもちろん、知識の詰め込み教育に関しては、必要ないと思います。 今までもそうですが、教科書に書いてあることを丁寧に板書し、それをノート写す作業にどんな価値があるのでしょうか?私は全く必要ないことだと思っています。しかし、保護者や一部の管理職にとってはそれこそが日本の教育だと信じてしまっている現実があります。 これからの教育は知識の詰め込みではなく、答えのある授業ではなく、調べて事、理解したことをどのようにアウトプットできるかどうかが問われていいくのではないでしょうか。それこそ、登校中の風景を端末に記録したり、休み時間や昼食時に活用することも許されるべき活動だと思います。 リスクを考えて、生徒の行動を制限したがる傾向がある日本の学校システムですが、一度制限を加えず、生徒たち自身にルールや規制を考えさせることをさせるべきだと思います。【福袋チケット】 《自由に4点選べる!☆HAPPY BAG☆》 楽天1位! 福袋 レディース 選べる福袋 ハッピーバッグ クーポン不可 トップス カットソー シアーシャツ バックシャン ボトムス スカート ワイドパンツ ワンピース プチプラ 夏 大人カジュアル 送料無料 トレンド////価格:3980円(税込、送料無料) (2021/7/23時点)楽天で購入
2021.07.23
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道徳の授業において、人を殴ることについてどのように感じるかということを実施しました。 人を殴る行為は勧められたものではないと思います。 しかし、時と場合によってその線引きが変化することを生徒に気づかせました。 ぜひとも、皆様も考えてほしいです。1:彼氏、彼女に嘘をつかれたとき(ビンタ)2:殴られている人を助けるために相手を殴る3:プロレスごっこをしているときに相手を殴る4:ボクシングの試合において相手を殴る5:罰ゲームの一環として相手を殴る6:人を殴ることによって100万円もらえる7:人を殴ることで自分の命が保証されるこの1~7において、良い、悪いを考えると、人によってその線引きが変化していることに気づきます。その違いを理解することが道徳の授業において大切なことだと思います。 で、実は道徳の授業が大切だというのではなく、どの教科においても自ら考えて、意見を言い合うような教育スタイルが大切だと思うのです。 正解ばかりが求められる教育では、児童生徒の成長に期待できません。大切なことは、自分の考えを相手に伝えて、相手がその意見を批評し、対話をしていくことにあると思います。 そのサポートを促すことが教員の仕事であると思います。今の日本の教育では子どもたちの未来がありません。ぜひとも、日本の教育に革命を起こしてほしいです。【yuki×HAPTIC】OMNES ポリレーヨンフレアスカート ROOMコラボ レディース マーメイドスカート ロングスカート ロング丈 ハイウエスト Sサイズ Mサイズ Lサイズ ユキ×ハプティック価格:4950円(税込、送料別) (2021/7/23時点)楽天で購入
2021.07.23
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作曲家として名を連ねた小山田圭吾氏の過去発言が炎上し、いろいろ問題がありました。 学生時代に、いじめに加担していたことを認めた上で「全裸にしてグルグルにひもを巻いて〇〇さしてさ。〇〇を喰わしたりさ。喰わした上にバックドロップしたりさ」「だけど僕が直接やるわけじゃないんだよ、僕はアイデアを提供するだけ(笑)」というような内容が書いてあったそうです。 さて、いじめは絶対に許すべきものではありません。しかし、今回考えてほしいことはこれが30年以上前の話であるということです。私は30年以上前の日本の現状を知りませんが、いじめに関する法律ができていないことくらいは知っています。 いじめ防止対策推進法 は2013年(平成25年)6月28日に 公布 されました。 別に、彼を知っているわけでもないし、擁護するつもりもありません。しかし、テレビで芸人の話や親の話を聞くと当時の若者にとって「いじめ」というものは日常的な行動の一つだったのではないでしょうか? 私自身も小学生の頃にいじめられたことがあります。そして、いじめに加担してしまったこともあります。もちろん、いじめに加担したことについては反省しています。そして、おそらく自分では気づいていないいじめもあったと思います。私が言いたいことは、生きている限り、だれもが、いじめに加担しているのではないかということです。 様々な過去を踏まえて今の自分があると思います。反省すべきこともありますが、だからと言って、過去の失敗で今の自分を否定されたくありません。過去のいじめを引っ張り出して、今の自分の行動や責任を他人に文句を言われたくありません。 もっと言えば、2013年までいじめの問題に着手してこなかったこの国自体が国民に対する無視(いじめ)になっているのではないでしょうか。それこそ、日本国民にその責任をしっかり果たすためにどんなことができるか教えてほしいものです。 今回のこの問題は、「オリンピックがどうのこうの」というよりも「いじめに関する意識」のほうが問題だと思います。 先ほど申したように、生きている限り、だれもが、どこかで「いじめ」に加担していると私は考えています。だとすれば、だれも何もできない世の中になるのではないでしょうか? もちろん、中には「私はいじめに加担していない」と豪語する人もいると思いますが、胸を張って言える人ほど周りのことに気づいていないのではないでしょうか? 私もこれまで、学校教育の中で「いじめ」に対して強い指導をしてきました。絶対許せないことです。被害者からすれば許せないものだと思いますが、一生そのことに負い目を感じて生きていくことを強いたくありません。また、いじめをしたことによって今後の人生を左右されるようなことがあってはならないと思います。 「いじめ」について議論をするとゴールがないように感じます。もちろん、認められるべきものでありません。しかし、なくならないものの1つだと思います。意識を高めるためにもこういったパフォーマンスが必要なのかもしれませんが、それが今回の問題の処理として正しいものだったのでしょうか?私にはわからなくなりました。だれかステキな考えを教えて下さい。 【yuki×HAPTIC】OMNES ポリレーヨンフレアスカート ROOMコラボ レディース マーメイドスカート ロングスカート ロング丈 ハイウエスト Sサイズ Mサイズ Lサイズ ユキ×ハプティック価格:4950円(税込、送料別) (2021/7/22時点)楽天で購入
2021.07.22
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「当たり前のことをしっかりしなさい。」 このような指導をされた人はたくさんいるのではないで消化? 私自身もそういった声掛けをしたことが何度かあります。 しかし、当たり前という言葉は非常に怖いものだと思います。 これまでの学校生活の中で疑問に抱くことがたくさんありました。 勤務時間外における部活動。巡視。補導。成績の評価。校務分掌・・・。 一部を紹介すると、 〇本校では移動教室の際に整列して移動しますが、そもそも移動整列をする意味は? 〇集会等で生徒に体育すわりを強要します。健康に害がある体育すわりを指導する意味は? 〇担当部活動によって勤務時間の差が生じており、文化部を希望しても女性が優先される。これは男女差別の一環では? こういったことを学校生活の中での疑問や改善してほしいことをまとめて校長に訴えました。 1年以上たちますが、これに対する返事は1つもありません。 今となっては校長に対して怒りと不信感が募りに募っているので何も期待していません。 ただ、このブログを通して知っていただきたいことは学校教育での当たり前を見直す必要があるということです。 先ほどの例にもあるように、 健康に害をもたらすことが科学的に証明されている座り方をなぜ指導するのか? 読書の本は歴史の漫画等は可能であるが、週刊誌等の漫画はなぜ禁止なのか? 下着の色や、授業中は静かに教師の話を聞く、所属できる部活動は1つだけなど、勝手な都合で規制されているものが多数あります。 管理職に訴えかけても変わらない現場があります。こうなると生徒から、世間から大きな声を出すしかありません。私は、授業やHR、ST等で生徒に学校のこういった良くない側面を気づいた度に紹介しております。ぜひとも多くの方に学校教育の当たり前でない「当たり前」を変化させていく流れを作ってもらいたいです。
2021.07.22
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私は国語科の教員をしているのですが、他教科の先生を見てうらやましく思います。 理由は簡単です。授業でやったことがそのままテストや力となって評価することが簡単だからです。 国語の授業においては、書道や韻文の作成、ディベートやプレゼンといった創作活動があります。こういった授業をしているときは教員である私も生徒も活き活きとしています。こういった活動こそが、国語の神髄だと考えております。 しかし、学校のテストにおいて作文やディベートを課すことはありません。理由は簡単です。評価の基準があいまいで点数化する際に、納得のいく回答を用意することが難しいからです。 これまで、生徒の作文において「いじめ」を扱った内容のものを何度も読んできました。多くの作文が「いじめはだめだ」という趣旨になっていますが、時に「いじめは1つの試練であり、乗り換えるべき壁である」という作文を書く生徒がいます。こういった作文の内容は読んでいて非常に面白く、その生徒の意見がぎっしり詰まっているため、評価を高くつける傾向が私にはありますが、世間にはステキな作文だと公表することはできないと思います。 上記のような都合から、韻文を作成した際の評価も教師によって変わるでしょうし、時代によっても変化するものだと思います。だからこそ、テストにおいては文法や読解を中心にした答えが納得できるものになってしまいます。 しかし、授業において本文を読んで内容を理解していくだけの授業は大変面白くありません。テストのためにやっているだけという気持ちをぬぐうことができません。そのため、本文を理解していく際に、脱線して「情景描写で伝わる心情をアニメやドラマで考えよう」ということや「ナスカの地上絵を描いてみよう」といった授業をすることがあります。私は楽しく、生徒の多くが楽しく学んでくれますが、「テストに出ないことを授業でするな」というクレームを保護者だけでなく、生徒がしてくることもあります。 そうなった場合、テストの点数が取れるようになることだけが授業ではない、創造活動や他作品を読むうえで理解を深めるために必要な作業だと説明しても、その後校長室に呼び出されて𠮟られます。 結局、日本の教育をダメにしているのは、老人と教育とはテストの点数だという間違った考えがはびこっていることにあると思います。 10年後の教育がどのように変化していくのか全く分かりませんが、社会全体での意識改革が必要であることは間違いありません。
2021.07.22
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「#教師のバトン」をはじめ、Twitterなどで学校教育の不満がたくさん出ているのは、裏を返せば、リアルな職場では改善はおろか、意見すら出せていないからかもしれません。 日本では集団の意識が大きくて、周りと違うことをすることに「恥」を覚えてしまいます。学校教育に不満があっても、その場で言わずに、ネットやSNSで発言するということは児童生徒を指導する立場の人間としては非常に残念なことだと思います。 目の前の相手に対して、直接文句を言うことができない今の日本では学校教育だけでなく、社会をより良いものにすることなど誰にもできないことなのかもしれません。 文科省等が「PDCA」とさまざまな文書で何度も強調するのは、どうかとは思っていますが(そもそも事前にきちんと計画できない事案も多いし、PDCAと書くことで思考停止している節もあるのは問題)、学校でCheckもActionも、さらにはPlanも形骸化していると思うことは多々あります。その背景には、意見を戦わせることがないという問題があるように思います。 先生たちの多忙はほんとうに深刻で、改善に向けてできることを進めていきたいですが、忙しいからといって、大切な対話や議論をすっ飛ばしてしまうのは、考えものです。結局「例年通り」や、「力の大きい人の言うがまま」、「周りの人がそうだから」というような事なかれ主義がはびこってしまっています。 しかし、こういった意識の状態では、根本的な見直しが起きないので、一向に忙しさが改善しないという事態にもなりかねません。「忙しいから、議論ができない」という因果関係もあるでしょうが、「ちゃんと議論しないから、忙しい」という関係もあると思います。 自動生徒に「主体的で対話的で深い学び」を求めようとしています。しかし、その「主体的で対話的で深い学び」は、まず職員室から必要なものだと思います。
2021.07.18
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先日、国語の授業において新しい試みをしました。 内容はキャッチコピーです。 プロレスラーのキャッチコピーと写真を並べて、どのキャッチコピーがどの選手に当てはまるのか考えてみました。 「燃える闘魂」=アントニオ猪木 「革命戦士」=長州力 「黒のカリスマ」=蝶野正洋 といった感じです。 で、これをやってみると意外と正答率が高いことに気づきます。その人の容姿とキャッチコピーには密接な関係があるということを紹介しました。 そして、その後、有名な企業のキャッチコピーを考えました。 「あったらいいなを形にする」というキャッチコピーなど有名なものは紹介したのち、任天堂やパナソニックなどの企業のキャッチコピーを生徒たちに考えさせてみました。 ところが、まったくいいアイデアが浮かんでいません。むしろ班やグループで相談させると、同じ答えばかりを書いており、まったく面白くない。 これは日本の教育の問題だと思います。 アメリカの社会科の授業では、戦争や、事件など様々な出来事について、先生が教団で説明するのを聞いてるだけの受け身の授業ではなく、意見の話し合いが多いそうです。〇なんで起きてしまったと思うか〇当時の人たちはどのような気持ちだったと思うかをレポートで提出するのが宿題だったり、歴史のテストは自分の考えを言葉で表現するエッセイスタイル。 選択問題はほとんどありません。 ロールプレイング式の授業も多く取り入れられているようです。 生徒がいくつかのグループに分かれ資料を集め、それをロールプレイングで発表したり、先生が国のリーダ役、生徒が国民を演じ、過去に起こった歴史上の出来事を再現してみるのだそうです。 そうすることで生徒も深く興味を示して、様々な視点から出来事をとらえる力、疑問を見つける力、表現する力が身につくのだそうです。 現在の学校での授業を振り替えると、授業中はひたすらノートを書く、テストに向けてとりあえず暗記、自分の中に詰め込むだけ詰めこむようなインプットだけのほぼ受け身型授業で、それが当たりまえだと思っていました。しかし、これからの新しい時代には必要ない授業スタイルがあることに気づきます。ただ、現場でいくら面白いことを考えようとしても学校の一人の教員の力では限界があります。学校全体の革命が今必要です。【17日(土)23時59分まで!】3点選んで2,970円☆福袋チケット(ticket4) 《7月19日から順次発送》福袋 レディース 選べる トップス Tシャツ ボトムス ワイドパンツ ワンピース 春夏 宅配便発送 reca レカ価格:2970円(税込、送料無料) (2021/7/18時点)楽天で購入
2021.07.18
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2021.07.17
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覚えているでしょうか?2020年4月ころ、全国の学校が臨時休校となりました。それは多くの人が覚えています。今日の話題はその際に、マスコミで大きく取り上げられた「9月入学」に関してです。 政府は、首相官邸で学校の始業や入学の時期を9月に変える「9月入学」に関する次官級協議を開きました。文部科学省は2021年からの導入を想定した2案を示しました。いずれも学年構成や入学年齢にひずみが出るなど課題も多く、政府・与党で議論を続けることとなりました。杉田和博官房副長官が文科や厚生労働、経済産業など関係府省の次官を集めて話し合った。6月上旬までに課題の整理をめざしておりましたが、その議論はいつしか消え去りました。 学校教員の立場からすると、この議論は愚かさの極まりです。 これまではぐくんできた日本の文化に誇りを持てない大人(老人)に本当に腹が立ちました。 さて以下の2つの文を見てください。 桜が舞う 桜が散る この二つの文は同じような描写をしていますが、その表現によって発言者の心理を見事に表現しております。 桜が舞う=新しい出会いの喜び 桜が散る=別れの悲しみ このような印象を受ける人はたくさんいるのではないでしょうか。それこそ、日本の有名な歌にも「春」「桜」といえば新学期や新学年、新入社員といった「新しい」というような意味を日本人が共通して持つような文化的価値をはぐくんできました。これは誇るべき日本の教育です。 にも拘わらず、「諸外国では9月入学だ。」「学力の遅れを取り戻すのだ。」といった日本の文化に誇りを持てない日本人。本当に愚かでした。 道徳の教科化は、いじめの深刻化、若者の自殺者の増加に伴い、いじめ対策の一環として実施されました。それは問題ありません。 大切なことは、道徳の指導内容として「国や郷土を愛する心を持つこと」、いわゆる愛国心教育が含まれていることです。 日本人が日本の文化に誇りを持つことなく、なんでもかんでも「欧米では・・・」といった姿勢であることに腹がたつ。昨今の新型コロナウイルス対策に関しても同様で、日本国内で何とかしようとする姿勢は皆無で、結局は諸外国頼みのつまらない国となってしまっている。 「9月入学」という話題は、しばらくお預けになると思いますが、いずれまた起こる問題です。その時には、日本の文化に誇りを持ち、断固として反対する姿勢を貫き通してほしいです。
2021.07.10
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学校教育にかかわっている中で、学習塾というものが敵のように思えてくることがあります。学校の授業より塾の勉強を大切だと考えたり、学校の宿題より塾の宿題に追われたり、受験の相談も塾を信頼する家庭があります。 子どもたちの様子を見ていると、休み時間も塾の宿題に一生懸命になっていたり、学校生活の一日を過ごした後に、塾で夜10時くらいまで過ごすというありえない日常があります。 また、実際にあったことですが、学校で作ったテストを塾で保管し、各学校で過去に実施されたテストファイルのようなものを作成し、考査前になると担当の教師の過去問にひたすら取り組むという授業が実施されるところもあるそうです。 学校教員の立場からすると、学習塾に大金を払うこと、夜遅くまで外出させる危険を冒すことよりも勉強することが大切なのかと頭を悩ませます。そして、同時に日本の教育への考え方の変化が起こらないことに憤りを覚えます。 また、一部の大手の塾では、クレーム対策として大量の受験用教材を販売しています。 入試の後に保護者の方から「ここの問題集に載っていなかった問題が入試で出題された」というクレームが入ることを避けるために、何でもかんでも詰め込んで漏れがないようにしなくてはならないからです。当然、ほとんどの生徒にとってこなせる量でもレベルでもないのはわかった上での話です。「こなせなかったのは本人の責任で、こちらは悪くありません」。この一言のためだけの、大量の教材ということです。 教材を渡せば「受験勉強」をやらせていることになります。できないことをできるようにしてあげる必要はありません。というより、そんな余裕はありません。量が多すぎるので、細かいことに構っていられないんです。心が痛むことを考慮しなければ、楽なのかもしれません。 生徒のためではなく、クレーム対策のため。これが「受験勉強」だそうです。 学校教育では知識の詰め込み教育から脱却しようとする動きがあります。しかし、肝心な入試等においては知識を問う内容やマークシートが目立ちます。採点が楽だからということ、採点基準がぶれないという意味では優秀ですが、学校で育てたい力と、入試の内容がチグハグな状態では誰にとっても得がありません。政治家の中に現状に対する是正を訴える方が一人でもいらっしゃればありがたいのですが、期待することすらできそうにありません。<クーポン利用で1,390円>NEWカラー追加! ブラウス シアーブラウス レース 刺繍 シャツ レディース 深Vネック 半袖 五分袖 トップス 透け感 ゆったり 大人可愛い きれいめ コットン 大きいサイズ 夏 【 スカラップパンチングレースVネックブラウス 】 ダークエンジェル価格:2680円(税込、送料無料) (2021/7/10時点)楽天で購入
2021.07.10
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今日ありえないことが起こりました。 校長室に呼び出されて、話をしました。そこで問題がありました。 (学校や個人の特定につながるので、具体的なことを記載できません。すみません。) 私は以前、学校内のとある問題に対して自分なりの考えを持ち、行動しました。もちろん、周りの生徒指導の先生にも確認して行動しました。それは、学校教育に関する内容の中で関係者以外の方が教育に携わっているというありえない現場があったからです。わかりやすく表現すると「不法侵入」のような状況がありました。そのため、私はその方に学校現場から距離を置いてもらうことを話しました。 しかし、その翌日、その方からクレームの電話が入りました。「これまでその現場に携わることができたのになぜだ」「前任の先生には許可をもらっている」「学校教育に携わさせろ」というものでした。 さて、私としては、前任の先生が何を言おうと、学校長の許可なく活動していたことや不法侵入のような状態を考慮してもそのクレームの内容を受け入れることはないと思っていました。 ところが、校長の判断は「保護者だから受け入れるしかない」という判断を下しました。 そうです。先ほどの不法侵入者は保護者でした。 結果、私は保護者に謝罪後、「学校教育に関わってください」というお願いをしました。 そして、二か月後。校長は急に話を変えました。「責任を持てない人に学校教育を指導させることはできない。そのため、保護者には教育活動に参加してもらうことはできない。」と言ってきたのです。保護者は万が一生徒がケガをした場合や、その発言に責任を持つことができない、という理由でした。 その瞬間、私は校長に対して怒りをぶつけました。「あの日の謝罪や命令はどういうことですか。私がやりたかったこと、言ったことと同じじゃないですか。学校教育を保護者に任せること自体がおかしいことに気づかなったのですか。」 そして、それに対する返事が「そうか、あの日の話はそういうことだったのか。」と言われました。 あきれてしまいました。 話を真剣に聞いてくれていなかったこと。謝罪の言葉が全くないこと。学校の責任者として前任の先生問題行動を把握できていないこと。話のつじつまが合わないこと。そして、私がこの校長との出会いをきっかけに精神的にダメになったこと。 すべてのことがパワハラや校長の管理不足として責任を追及できると思っています。私は、教育委員会や文科省にこの記事の内容を具体的に記載し、送る予定です。教育現場は本当にありえないことばかりです。皆さんも騙されないように気を付けてください。教師だからと言って、校長だからと言って誰もがステキな人格者ではありません。
2021.07.08
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進路についてどのように考えていますか、と聞くと多くの人が「よい学校に行きたいです。」と答えます。 ところで「よい学校」とは何でしょう。世間的には偏差値が高いところがよい学校という風潮があります。しかし、どの学校も「よい学校」であると断言します。 そもそも、日本の社会が学歴社会として成り立っているから、通知表の数字に左右されてしまいます。しかし、大人になったらわかることですが、義務教育や大学で学んだことを仕事として活用している人はごく一部の人だけです。法学部や文学部、経済学部・・・と専攻分野は多くありますが、一人の社会人として法律の知識や作者の感情、古文の文法は使う場面がありません。それこそ、会社の中で「この法律について詳しく教えてくれ」と頼む上司がいたら逆に不安になると思います。 実は、通知表の数字は人生においてあまり大切ではありません。むしろ、所見と言われているような各個人についての記述のほうが大切です。思いやりや協調性、主体性といったことを学校の中で身に着けることが最も大切なことだと思います。にもかかわらず、学校教育に学力ばかりを求める社会を築いてしまったために保護者も教員も子供も負の連鎖の中に閉じ込められてしまいました。その結果として、通知表には所見欄がなくなっている学校が大半となっております。 こういった現状を打破するために、現場の声をもっと多くの人に届けていく必要があると思います。少しでも共感した方はぜひとも、周りの方へこれからの教育について考え直してほしいです。
2021.07.04
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教育という言葉は英語では「education」です。この言葉には“外へ導く”という意味があります。 この言葉どおり、海外の教育は“教える”というよりも、“生徒一人ひとりの可能性を導き出す・個々の力を伸ばす”という意味合いが強いのです。 海外では、日本のように“みんな一緒の平等を目指す”教育ではなく、生徒それぞれの能力に合わせた教育を行なうのが特徴です。 そのため、できないことを叱ったり注意したりすることよりも、それぞれの能力や才能を伸ばすことに重点を置いています。 そのため、何か秀でた能力を持っているだけで多くの人から認められます。 先生や親が生徒の良いところをたくさん褒めることで、生徒は自分のできないことよりもできることに目を向けられるようになり、自信を持てることでしょう。 一方の日本では、テストの点数で評価をすることが多く、個性を認めることなく、調和を求めます。ネット等での技術や知識はあまり評価されず、学校のテストでどれだけ点数を取ることができたかどうかが重要になります。そのため、知識の暗記を中心とした教育となっています。 海外は考えて導き出すことを重視した教育です。そのため、日本のような暗記力が問われるテストをすることはほとんどありません。 学校から課される宿題も、自分で調べたり考えたりしなければならないものが多く、決まった解答があるものよりも、いくつもの答えがあるような問題が出されます。暗記する力よりも、生徒自身の自主性・主体性を尊重し、学習への探究心を育むことを重要視しているといえるでしょう。 そして、海外では義務教育中であっても留年があることも、日本と大きく違う点です。日本では、どれほど成績が悪くても義務教育中に留年することはありません。良くも悪くも、生まれた年が同じ生徒は、同じ教育を受けることとなります。 海外では、できないことを強く批判されることは少ないのですが、進級できるレベルに達していないと学校や保護者が判断すれば、進級はできません。反対に、成績が優秀であれば、飛び級をすることもあります。年齢ではなく、個人の能力に応じた学年に配置するというのが一般的な考え方のようです。 で、何が言いたいかというと、子供の学力低下が深刻だという話題があります。それについて様々な対策をしてきましたが、根本的に教育スタイルが間違っているということを理解しなければなりません。 日本の教育は、全員が同じレベルを目指して教育することが前提です。例えば、合格するまで何度もテストをしたり、全教科の成績をまんべんなく伸ばすことを目指したりするなどの特徴が挙げられます。 この教育方法によって、諦めず繰り返し取り組む姿勢を身につけ、努力によって能力を伸ばせると考えられています。また、日本の教育はできることが当たり前とされているのです。 「子供に真の学力を!」と願うのであれば、塾という存在もなくなっていくことでしょう。日本の教育は海外と戦う土俵が違うのに、同じ尺度で考えようとすること自体が間違っているのです。他国よりも優秀な教育ができていないのに、学力を高めることなどできるはずがありません。
2021.07.04
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学校での授業づくりについて考えたことがあるでしょうか。 私は、国語科の教員ですが、若いときは一生懸命、授業のわかりやすさや、ワークシート、ゲーム等を考えました。授業においても、計画をきっちり立てて、生徒の主体性を育てることを真剣に考えました。 一つの例でいえば、動詞の活用の種類を教えた際に、『「切る」と「着る」の動詞の違いについてまとめなさい』というレポートを作成させたり、国語文法の闇「象は鼻が長い」についての問題点を書かせたりしました。 「少しでも、生徒のために!」という強い思いがあったことを覚えています。 しかし、残念ながら教員生活が長くなるにつれて楽をしていく自分に気づきました。 学校現場では、どんなに一生懸命授業づくりや学級通信を作って生徒との関係や保護者との関係を良好にしても給料につながりません。また、学校長は多くの場合そういった運営に興味を示してくれません。少なくとも私の場合はそうでした。部活動も同様で、やっても、やらなくても給料や評価に一切つながりません。それこそ、部活動で優秀な成績を残しても、教師には一切報酬はなく、むしろ仕事が増えることにつながるだけです。 要は、学校生活を過ごしていく中で、頑張ることが馬鹿らしく思えてくるんです。そして、こういった学校現場に自分の子供を預けることに不安を抱くようになっていきます。そして、それがおかしいと思う生徒も教員もいなくなっていくことに我慢ができなくなってしまいます。 最近では、格差がどんどん広がる世の中が出来上がってしまいました。それは日本の政治にNOといえる世間の声が少ないからだと思います。 私も今の学校教育や政治に文句があり、文科省等に意見を書きましたが、まともな返事が来たことがありません。私のこのブログを通して、多くの人の心に思いが届き、日本の未来に貢献できることを期待しています。
2021.07.04
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2021年5月、子どもに不合理なルールを押しつける「ブラック校則」の見直しが全国各地で進む中、神戸市内の女子中学生から神戸新聞への投書を取り上げた記事がありました。「下着は白でないといけない」と注意る学校の“ルール”に納得がいかない、というものです。さらに同校は体育の授業で着替える際、先生が同席しているという。時代にそぐわない指導方針に加え、校則の「役割」について、教師と生徒の考えがかみ合っていない実態が見えてきたという内容のものでした。 最近では、昔と違って男子がスカートを履くことや、女子がズボンとスカートの制服の選択ができるようになるなど少しずつ変化が起こっている一方で、まだまだ時代の流れに追いついていないところがたくさんあります。 しかし、今回私がぜひとも多くのひとに知ってもらいたいことは、取り組むべき順番です。 学校教育の中で、決まりやルールを守ること、制服という価値や規則を教えることに意味は十分あると思います。その中で望ましい髪型や望ましい服装という概念が生まれてきて、それを指導・徹底することは大きく間違っていません。しかし、最近では子どもたちを守ろうとする思いが大きくなり、ブラック校則だと揶揄されるようになってしまいました。 私は子供たちの過ごす学校の校則を見直す前に、社会の変な意識をなくすことが大切だと思います。就職活動をする際に、サークル活動等で派手に過ごしてきた人が黒髪に戻したり、スーツ姿になります。それはなぜですか?理由は簡単です。そういったユニフォームを求められるからです。ブラック校則は、こういった日本の社会の中での変な固定概念が生み出したものだと思います。学校教育に変化を求める前に、まずは日本社会における固定概念を切り崩していかないと、大きな変化に結びつかないのではないかと思います。 要は、日本の社会の構造として差別や偏見がありふれていて、就職等に関しても第一印象が大切な役割を果たしているのです。それこそ、就職活動中に髪の毛がピンクや緑色の人がいたら、おそらく多くの人がマイナスの印象を受けると思います。それが日本の社会です。ブラック校則をなくすのだと豪語する人がいますが、こういったルールが生まれた背景を理解できていなければ意味がありません。 ぜひとも、学校の校則がおかしいと、大声で叫ぶ前に、日本の社会のルールはおかしいと大声で叫んでほしいものです。
2021.07.04
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私の愚痴のはけ口になっており、気分を害される方がいたら申し訳ありません。ただ、この思いをどこかに吐き出したいのです。許してください。 さて、前回今年度から学習指導要領が変わり、成績(評定)が大きく変化することを少し書きました。この変化していこうとする姿勢はステキなものです。改めて、今年度からの変化のポイントをまとめると以下のようになります。新学習指導要領において、育成すべき資質・能力の3つの柱は、「個別の知識・技能」「思考力・判断力・表現力等」「学びに向かう力・人間性等」です。これまでの成績における4観点「関心・意欲・態度」「思考・判断・表現」「技能」「知識・理解」と比べると、「技能」と「知識・理解」が合わさった形になります。 確かに、これまでの制度においては、課題等の答えを丸写ししたり、ノートを出せば、「関心・意欲・態度」の評価は高くなることができました。そのため、なかなか授業の理解ができない生徒に対して、「答えを写してくるのも勉強だ。」という教員がいたことも事実です。しかし、そういった答えの丸写しが生徒の学習のプラスに働かないことは明白です。表現を悪くすれば、「真面目にコツコツ頑張っている生徒」と「答えを丸写ししている生徒」の評価が「提出物を出した」という意味においては同じ評価になってしまうのはあまり納得はできません。 ただ、今回の「粘り強く取り組む姿勢」や「主体的に学習に取り組む態度」は多くの問題を抱えています。(ここに書く内容は私が研修等で学んだことを踏まえて疑問に思ったことを書いているため、間違っているかも知れませんが、少なくとも本校での研修では以下のような判断となりました。) 授業をする中で1時間の授業で内容を十分に理解できる生徒がいる一方で、家庭や塾でコツコツ学習に取り組むものの、なかなか点数に結びつかない生徒がいます。 多くの生徒がいれば、 「熱心に勉学に励まなくても80点をとれる生徒」と 「熱心にコツコツ努力して60点を取る生徒」 がいるものです。 わかりやすい例が、体育です。努力しても急激に足が速くなったり、身長や筋力の違いがあって、粘り強く取り組む前から、結果がおのずと見えているものもあります。ただ、今回の変更ではそこに関しては触れることがありません。 そのため、50m走の授業があった際に速く走ることを目標にした授業があった場合、A「指導も聞かず、50m走で7.0秒で走った生徒」 B「理想のフォームを追求し、教師の話を聞いて50mを全力で走って8.5秒の生徒」 の二人がいた場合、Bさんは粘り強く取り組むことができなかったので、タイムの結果に表れることがなかったと判断されます。一方のAさんはタイムが良いので、粘り強く取り組んだのだろうという評価をすることになるのです。 まぁ、今回の例は早く走るという目標だったのですが、「50m泳ぐこと」や「期末考査や小テスト等での点数」「習字における美しい字」等でも同様のことが容易に考えられると思います。 そうした違いを考慮せず、ただ、粘り強く取り組むことや、主体的に学習に取り組む姿勢を評価に入れようとすること自体が今の日本の教育の問題です。学校現場においても、言われたから従うという状態ができあがっていますが、教育現場を十分に知らない人間が定めたルールに従っていてはより良い発展は見込めないものでしょう。 いろいろ考えましたが、私個人からすれば、学校現場における「成績」はあまり必要ないものだと思います。なくなっても、大きく困らないものだと思います。進学等で影響を持っているから必要なものだと感じてしまいますが、入試の点数等で判断することができれば、不必要なものになると思います。教育現場での断捨離を願いたいものです。 私はまだまだ未熟ですが、このブログを通して、より良い学校生活を提案できるように頑張ります。応援よろしくお願いします。
2021.07.03
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さて、続いても校長へのいら立ちです。 一通り書いた後思いましたが、私の愚痴のはけ口になっており、気分を害される方がいたら申し訳ありません。ただ、この思いをどこかに吐き出したいのです。許してください。 今年度から、成績(評定)が大きく変化したことを皆さんはご存じでしょうか。新学習指導要領において、育成すべき資質・能力の3つの柱は、「個別の知識・技能」「思考力・判断力・表現力等」「学びに向かう力・人間性等」となっています。これまでの成績における4観点「関心・意欲・態度」「思考・判断・表現」「技能」「知識・理解」と比べると、「技能」と「知識・理解」が合わさった形になります。これはシンプルでわかりやすくなった気がしています。 ただ、学習評価の3観点は「知識・技能」「思考・判断・表現」「主体的に学習に取り組む態度」となっていて、「主体的に学習に取り組む態度」は、非常に曖昧です。 というのも、この主体的に学習に取り組む態度をどのように評価するかが疑問です。そして、その悩みは多くの教師も抱えているのではないかと思います。特にこの観点における評価のポイントとしては、「粘り強い取組の中で、自らの学習を調整しようとしているか」と明示されています。 さて、この粘り強く取り組もうとする姿とはいったいどのようなものなのか、具体的な説明はされていません。各学校や自治体で試行錯誤をしていこうとしている状況です。 そこで、先日、私の勤務校において研修がありました。教育委員会から担当者が来て、今年度の成績(評定)に関して学びました。 その研修に対するいら立ちもありましたが、むしろ委員会というよりも文科省に対するいら立ちです。委員会の方も詳細に関してははっきりと断言することができない現状です。 さて、問題はこの研修の後でした。 多くの現場でもそうだと思いますが、会議や研修後はその現場の責任者、監督の言葉で締めくくるものだと思います。ということで、あの校長の一言でこの研修が終わるのですが、その一言が大問題でした。 「成績に関して私のところに質問に来ることのないように。」 ありえない!!学校の責任者であるはずの校長が成績に関して理解ができないということを公言しているのと同等です。それこそ、保護者から成績に関するクレームがあった際は最終的には校長のところまで行くこともあります。(基本的には担任と教科担当で終わらせますが・・・)。 私的な場所での発言ならまだしも、研修という場所で、委員会の方にご足労いただいている状況の中での発言です。失礼極まりないものです。常識というものが欠如しています。 こういった人が校長として生徒児童・教員をより良い方向へ導けるとは到底思えません。また、そういった現場でともに働く教員からしたら、不安といら立ちがたまっていくのみです。こんな人間を管理職として採用していることも問題ですが、具体案がないにも関わらず教育改革を促す文科省も問題です。 私はまだまだ未熟ですが、このブログを通して、より良い学校生活を提案できるように頑張ります。応援よろしくお願いします。
2021.07.03
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まず、皆さんに知ってもらいたいのが私が精神的にダメになってしまったときの話です。 具体的な事柄は、個人の特定につながるので控えますが、当時の学校長が最も大きな問題でした。 私は、体調を崩したこともあり、部活動(運動部)の顧問の辞退を3月の校長との面談で訴えました。文化部なら、体調に問題はないのでなんとか変えてもらいたいとお願いしました。しかし、返ってきた返事は「どうしても難しい、なんとかならんか。」というものでした。 ここで、ぜひとも多くの人に理解してもらいたいのが、部活動の顧問は断ることができるということです。職務命令ができるものではないので、単なる「お願い」のレベルになります。にもかかわらず、私が、何度も厳しいという話をしても全く受け入れてもらえませんでした。 そして、新年度となり、私は運動部の主顧問となってしまいました。ただ、悲劇はここから続きます。 しばらくして、体調が急激に悪化しました。そのため、校長に部活動の顧問の辞退を再度お願いしに行きましたが、叶いませんでした。決まったことを変えることはできないといわれました。そして、休むことができないというプレッシャーから精神的にも疲れていきました。そこで、教育委員会等にも連絡し、校長に話が通ったのか、私は副顧問という立場になりました。この段階で、私は校長に不信感しか持っていませんでした。 しばらくして、精神科に通院し、適応障害の診断を頂きました。そして、この診断書をもとに校長に話をしに行くと、たかが1分くらいで「わかった」と言われて、話は終わってしまいました。 校長とは、その学校の責任者です。私が適応障害の診断をもらうに至った経緯や、内容をしっかり聞いて、今後の学校生活について一緒に考えていけるものだとばかり考えていました。仮に生徒が同じような症状になった場合は担任として詳細を聞いたり、今後の生活の打ち合わせをしたり、進路について考えたり・・・と多くの時間をかけるものです。しかし、残念ながら診断書の病名だけを見て、詳細を聞かずに話を終える校長に怒りを覚えるようになりました。 学校現場には管理職として不適格な人がたくさんいます。これまでの生活の中でステキだなと思えた校長は2人だけです。どの社会でも同様かもしれませんが、私のような被害者を2度と出さないためにも管理職の採用の見直しと部活動のあり方については再考してもらいたいです。
2021.07.03
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初めまして。とある、学校教員、無知な男です。 すでに30代に突入しましたが、社会に出ることなく大人になってからも学校という特殊な現場で勤務してきました。その中で、社会のことをよく分かっていないため、この現場が正しいという錯覚を起こした生活をしてきました。 ところが、体調を崩したことや、精神的に疲れたことをきっかけに学校関係者以外の方と関わることが増えました。そして、気づきました。学校という現場がいかに特殊で、世間の皆様に胸を張れない仕事であることに。 このブログでは、日々の教員生活の中で気づいた不思議や、いら立ちを書きたいと思います。そして少しでも多くの人に学校現場の変革を唱えていただけるよう尽力します。
2021.07.03
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