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今日は中学時代の恩師の墓にお参りして来ました。 このお墓参りは今月13日に予定していたのですが、台風19号の襲来で今日に延期となったもの。参加者は恩師の奥様、同級生の木〇君、谷〇君、ひろみちゃん8021さん、堤〇さん、戸〇さんと小生の全7名。このような形で恩師のお墓にお参りするのは2009年9月12日以来のことなので、5年振りのこととなる。この時は奥様ほか、木〇君、堤〇さん、戸〇さん、八〇さん、永〇さんの7名でありました。小生も2010年3月5日に銀輪散歩のついでにお参りしたのが最後なので、4年半振りとなり、久々のお墓参りでありました。 午前11時近鉄生駒駅タクシー乗り場前待ち合わせということで、10時31分枚岡発の電車で生駒に向かいました。(枚岡駅・向かいにレトロな電車が。) 枚岡駅で奈良方面行きの電車を待っていると、レトロな電車が向かいのホームに入って来ました。この電車は近鉄電車の古いタイプの電車で、近鉄開業100年を記念して復原製造された車両である。目にするのも初めてではなく、乗車したこともあるが、写真に撮ったことはなかったので、電車待ちのすさびに撮影してみました。(同上) 生駒駅の待ち合わせ場所に行くと既に木〇君が来ていました。彼は高校も小生と同じである。彼と談笑しているうちに谷〇君、戸〇さん、堤〇さんが来られ、奥様を車で迎えに行き直行されるひろみちゃんを除き、全員が揃ったので、タクシー2台に分乗し霊山寺霊園に向かう。霊園に到着すると奥様とひろみちゃんは既に到着されていました。 全員でお墓参り。(霊山寺霊園・墓参)(恩師の墓) 墓参を済ませた後は菖蒲池駅近くのあやめ館で昼食会。あやめ館はひろみちゃんが予約して下さっていたもの。 午後3時まで、そこであれやこれやのお話で旧交を温めました。 食事の内容などはブロ友のひろみちゃん8021さんのブログで追ってご紹介されることでしょうから、小生のブログではパスします(笑)。 <参考>ひろみちゃん8021氏のブログはコチラ(あやめ館)(同上・玄関)(近鉄・菖蒲池駅)<参考記事>大和西大寺駅から矢田寺経由富雄駅まで(その3) 2010.3.7.中学時代の同級生と一緒に恩師のお墓参り 2009.9.12.墓参と銀輪行 2009.5.24.お墓参りが思わぬ大遠征に・・ 2008.6.14.昨日の走行を歌に 2008.6.15.奈良金春会能公演 2007.10.21.恩師の命日 2007.5.17.恩師の墓参 2007.5.13.
2014.10.30
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第150回智麻呂絵画展 智麻呂絵画展も今回で150回目となります。2008年7月から始めた智麻呂絵画展ですが、6年4カ月弱で150回、出展作品総数も1321点となりました。 では、どちら様もどうぞごゆっくりご覧下さいませ。<ご挨拶>いつも智麻呂絵画展をご覧戴き有難うございます。また、皆さまからの温かいコメントは何よりの励みであり、感謝に堪えません。拙きながらもコツコツと倦むことなく描き続けて参りますので、今後とも宜しくお願い申し上げます。平成26年10月27日 智麻呂 <参考>他の智麻呂絵画展は下記から。 第1回展~第100回展 第101回展~第200回展 第201回展~ 秋らしく、先ずザクロの絵から始めましょう。(ザクロ1)秋二人 笑ひころげて 割れ柘榴 (筆蕪秋) 上の柘榴も下の柘榴も同じものかと思いますが、下の状態が先で何日か経過したのが上の柘榴だろうと思います。(ザクロ2)紅一点 秋深まりて 苦笑ひ 要らぬ団扇に 内輪のワイン (女性大臣) 「紅一点」の「紅」は柘榴の花のことであるらしい。異説もあるようだが北宋の詩人王安石のの詩「万緑叢中紅一点 動人春色不須多」に由来するとか。 近頃は「紅一点」ではなく「紅二点三点」というのが普通であるが、時に「二転三転」ともなるようで、安倍さんも「やべ!」であります。(ハロウィン) これは、ハロウィンにと小万知さんが智麻呂・恒郎女ご夫妻に贈られた下記の楽しい小物の一つを絵にされたものであります。前に並んでいる三つの団栗も錦織公園で小万知さんが採集されたものではないかと思います。(絵のモデル) では此処でおやつをどうぞ。(お菓子・おかげ芋) 上の「おかげ芋」は既に何度かこの絵画展に登場していますので、それをご覧になられたお方には説明不要かと存じますが、今回初めてご覧になるお方のために簡単に説明しますと、これはサツマイモそのものではなく、サツマイモを原料に作られた和菓子であります。東大阪市にある寿々屋という菓子舗が製造販売しているもの。先日の智麻呂邸訪問の際にヤカモチが手土産に持参したものです。 下のクッキーは取材不足にて情報がありません。クッキーなのかお饅頭なのか、ケーキなのか、オカキなのかも、ヤカモチは決め兼ねていますが、見る人それぞれにこれだと思う物に感じて戴ければ宜しいでしょう。(クッキー)<追記>偐山頭火氏からのコメントによると、これはクッキーではなく玉子、チー ズ、蒲鉾の燻製だそうです。同氏は趣味で燻製をやって居られます。 まあ、これは絵からは分かりませんな。(シュウメイギク) シュウメイギクも、軽やかな明るい雰囲気に描かれていて、やさしげな絵になっています。(ウリカワ) これは、当ブログ記事掲載の写真を絵にされました。 時々、智麻呂氏は当ブログ掲載の写真で「絵」にしたいものがあるとヤカモチにそれを拡大して印刷に打ち出して欲しいと要望されます。打ち出したものを持参するとそれを見て絵を描かれるという訳であります。時にヤカモチの持参が遅れると小さいままの写真をモデルに絵が描き上ってしまっていることがあります。 これはどちらであったかは記憶しませんが、まあ、絵というものは「描きたい」と思った時が「描き時」でありますから、長くは待っていられないということであるのでしょう。(葡萄) この葡萄は、多分、偐山頭火さんの手土産。 ヤカモチも段々ズボラになって来て経験と勘に頼って、推察する、といういい加減な記事を書くことが多くなっていますので、若し、間違っていたら「ごめんなさい」であります。(飛騨高山) これは、偐山頭火氏が飛騨旅行で撮った写真を持って来られたものを絵にされたもの。 <追記>下の偐山頭火氏からのコメントで上の景色は飛騨高山のそれではなく 飛騨古川のものであることが分りました。謹んで訂正申し上げます。 (10月28日)(平城京・大極殿) この大極殿は当ブログ掲載写真からのものです。上述の通りの手順でヤカモチが持参した写真を見ながら絵を描いて居られた処、お嬢様ご夫妻がやって来られ、描くことに悪戦苦闘されている智麻呂氏に「では今から実物を見に現地へ行ってみよう。」と平城宮址公園まで、車で連れて行って貰えたそうです。 楽しい時間を過ごされたようにて、嬉しそうにその折のあれこれを語って下さいました。いいお嬢様ご夫妻ですね。「では、今度エッフェル塔か何かを描いてみたら」とヤカモチは提案して置きましたが、いかないいお嬢様ご夫妻でも「では、今からパリへ」という訳には参りませんですから、悪い冗談でした(笑)。 本日もご来場有難うございました。
2014.10.27
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本日は若草読書会の日。講師は祥麻呂氏。図書は幻冬舎新書・村山斉著「宇宙は何でできているのか」。 出席者は、智麻呂・恒郎女ご夫妻、祥麻呂、謙麻呂、和麻呂、偐山頭火とヤカモチの7名。常連の凡鬼さんや小万知さんが欠席されるなど、出席者よりも欠席者の数の方が多くなったのは、それぞれに別用があったためで、テーマの所為で敬遠された訳ではありません。 しかし、偐家持の朦朧体の頭脳では、宇宙の組成や138億年前のビッグバンによる宇宙の誕生から宇宙の行き先の話などは壮大に過ぎ、またそれらを説明するためのヒッグス粒子や何とも分からぬダークマター(暗黒物質)やダークエネルギー(暗黒エネルギー)など素粒子の話は難し過ぎて、分かった心算でも結局は何も理解できていないという体のものでありましたから、出席率の悪さは或はテーマの所為かと思えて来たりもしたものでありました(笑)。 ダークマターは 1.ほかの原子などと相互作用しない。即ち電気を帯びていない素粒子であ る。 2.如何なる種類の電磁波も発しないので、通常の検出器では観測できない。 3.ダークマターがその重力によって宇宙初期に星や銀河をつくるには動き の遅い素粒子、即ち「冷たい素粒子」でなくてはならない。それはダー クマターが大きな質量を有することを示唆している。その質量は光る星 の総質量の約5倍である。などと説明されても、分かったような分からないような話なのである。 まあ、しかし門外漢の気楽さ、禅問答にも似た宇宙の話はそれなりに楽しいものではありました。何しろ億年単位の話であるから1296歳のヤカモチにしても想像の外である、というのがいい。 ということで、読書会が始まる前に智麻呂邸周辺で撮影した写真でも掲載して本日の読書会レポートは有耶無耶にして置くネン(億年)ということに致します。(シェフレラと秋の空)(トキワサンザシ<別名・ピラカンサ>の実がたわわに)(同上)「宇宙の密度は上のようであるのか、下のようであるのか、それが問題だ。」(ダクレット)「どっちでもいいんでねえの。」(オラワカランサ)(同上)(ニラの種)(イヌホオズキ) これは多分イヌホオズキかと。
2014.10.26
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<承前> 今回の銀輪散歩は来月29日に予定している青雲塾万葉ウォーク(兼第8回ナナ万葉の会)の下見を兼ねてのものなので、当日歩く予定のコースは自転車には乗らず、押して歩くというスタイルになりました。歩くことによって当日の歩程・所要時間を把握すること、トイレの所在場所の確認、以上が今回の任務である。 当日の計画と同様に国分寺跡の広場でお弁当。昼食を済ませて撮影をしている処にヘリコプターが飛来し、去って行きました。ドクターヘリでしょうか。(国分寺跡上空を飛ぶヘリコプター) さて、恭仁神社へと向かいますが、その前に前ページで記載できなかった恭仁京や鹿背山・狛山の歌を記して置きます。田辺福麻呂の作れる恭仁京を讃むる長歌2首に付された反歌7首のうちの6首である。三香の原 布当(ふたぎ)の野辺を 清みこそ 大宮処 定めけらしも(万葉集巻6-1051)山高く 川の瀬清し 百世まで 神しみ行かむ 大宮処(同6-1052)泉川 行く瀬の水の 絶えばこそ 大宮処 うつろひゆかめ(同6-1054)布当山(ふたぎやま) 山なみ見れば 百代にも 易るましじき 大宮処(同6-1055)鹿背の山 木立を茂み 朝さらず 来鳴き響もす うぐひすの声(同6-1057)狛山に 鳴くほととぎす 泉川 渡りを遠み ここに通はず(同6-1058)(注)布当=法花寺野辺りの地名とする説とみかの原一帯の地名とする説がある。 前説によれば布当山は鹿背山の別名となるが、後説により恭仁宮背後 の山とする説もある。 田辺福麻呂は橘諸兄家の家人とも考えられるから、恭仁京への思い入れは家持以上に深かったことだろう。 百代までもという福麻呂の願いも虚しく恭仁宮は3年余で廃都となってしまった。福麻呂は荒れたる恭仁の都を悲傷する歌も作っている。今日の恭仁京の景色にはこちらの歌の方が似合いかも知れない。三香の原 久迩の都は 荒れにけり 大宮人の 移ろひぬれば(同6-1060)咲く花の 色はかはらず ももしきの 大宮人ぞ 立ちかはりける(同6-1061) 恭仁神社へは裏道ルートで向かうこととする。帰途は表通りを取ることとし、変化を持たせようという次第。 恭仁神社へは5年前の訪問の時に立ち寄っている。 <参考>「加茂から京都まで」 2009.10.17.(恭仁神社・参道)(恭仁神社)(同上・拝殿)(同上・本殿) 下の由緒書によると、此処は元は菅原道真を祀る天神社であったよう。昭和40年に、恭仁京跡にあった御霊神社を合祀して社名を恭仁神社と改めたとのこと。元の祭神の道真さんよりも、後からやって来た崇道天皇と藤原太夫人とが上座に居座ったようです。 崇道天皇は桓武天皇の弟の早良親王。藤原太夫人とは誰であるのか。藤原太夫なら男性であるから藤原広嗣ということになるのだろうが、太夫人とあるから女性のような気もする。桓武天皇の夫人藤原吉子のことであろうか。(同上・由緒) (同上・境内摂社) 恭仁神社から表通りで恭仁宮跡・国分寺跡へ戻る。徒歩17分程度。 以上でmission completeである。後は自由に自転車で走るだけ。今回のウォークでは、立ち寄る予定の無い(もっとも、参加者の皆さんに体力の余裕があり、時間も許すなら立ち寄ってもいいかと考えてはいます。)岡田鴨神社に向かう。 岡田鴨神社は恭仁大橋南詰を東に800mほど行った処にある。此処は初めての訪問。地図を持参しなかったので記憶で行くと道を一つ間違ったようで、山を一つ越えてしまった。途中で間違いに気付いたが、折角なので、どんどんこの道を行ったが、これ以上行くと道に迷ってしまいそうに思えたので来た道を引き返すことにしました。(岡田鴨神社) 岡田鴨神社の本殿は丁度修復が終わりかかっていたようで、工事の方がビニールシートを外して居られる処にて、ピカピカの姿でありました。(同上・本殿 右岡田鴨神社、左天満宮) この神社は鴨氏の祖・賀茂建角身命を祀る神社。この神様、葛城山の麓の高鴨神社から京都の下鴨神社へと遷る際にこの地に暫しとどまったとか。鴨氏がこの地に居つき此処に神社を建てて祖神を祀ったのでもあるのでしょう。加茂という地名がこの神社に由来するのでもあれば、やはりご挨拶は欠かせませぬ。(同上・説明板)(岡田鴨神社之景) さて、その間違った道を辿ったことによって撮れた写真が以下です。(柿もたわわに・・) 秋らしき景色は柿にあるらし。 まあ、みんな渋柿でありますが。 ここでも見上げてみると美しい紅葉が。(見上げれば・・秋) 迷いついでに立ち寄ったのが御霊神社。(御霊神社) 元々は此処には燈明寺という寺があり、この御霊神社は燈明寺の鎮守であったらしい。(同上・由緒)(同上・燈明寺本堂跡) どうやら字数制限のようです。これにて完結とします。本日の日記をベースに万葉ウォークの資料を調整することと致しましょう(笑)。お付き合い有難うございました。=完=
2014.10.24
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本日はトレンクル君をお伴に恭仁京へ。 恭仁京というのは、聖武天皇の時代、740年12月から744年2月の難波遷都までの3年余の間、都が置かれた場所である。JR加茂駅の西方一帯、木津川を挟んだ地域に造営され、途中で放棄された都である。平城京からの遷都の理由は定かではないが、740年9月に起こった藤原広嗣の乱が契機となったことは間違いないだろう。大宰府で起こったこの乱に呼応する動きも都にあったことなどから聖武天皇は天武天皇の故事に倣って東国への脱出を図ったとする見解もあるようだ。 この時期、政権の中枢にあったのは橘諸兄。この地域は諸兄の本拠地、勢力圏であったから、この遷都を主導したのは諸兄と考えられる。諸兄を支持する反藤原・皇親派はこの遷都を歓迎したのでもあろう。若き大伴家持も新都・恭仁京を讃える歌を作っている。(加茂浜跡・背後の丘は流岡山、橋は恭仁大橋) 加茂駅から船屋通りを北進すると木津川の堤防に突き当たる。堤防上の道に上がると、木津川の岸辺にちょっとした空地・草地がある。其処が加茂浜の跡だという。この地は奈良と京都・近江、奈良と伊賀を結ぶ交通の要衝でもあり、木津川の水運と相俟って江戸時代には船屋の町は大いに栄えたという。その水運の拠点の一つがこの加茂浜であったそうな。今は何もない草地であり当時を推測させるものは何も残っていない。(藤原兼輔歌碑) 恭仁大橋の南詰に中納言藤原兼輔の歌碑がある。みかの原 わきてながるる いづみ川 いつみきとてか こひしかるらむ (中納言兼輔 小倉百人一首27 新古今集996) この歌は古今六帖・三の「川」にある29首の歌の1首であるが、最初の1首のみが兼輔の歌にて、他は作者不詳の歌であり、契沖も「改観抄」に於いて「されば此歌もよみ人しらずなるを、新古今に誤りて兼輔の歌とて入れられたるを」と述べて居り、兼輔集にも此の歌は見えないことから、兼輔の作ではないというのが定説である。 歌碑には誰の作とも記していないから、正解ですな。(恭仁大橋から流岡山<ながれおかやま>を望む。) 加茂の方から恭仁大橋を北へと渡ろうとすると目の前に見えて来る小山が流岡山である。万葉に出て来る「活道岡(いくぢのをか)」はこの小山であるとする説がある。 活道岡には安積皇子の宮があり、天平16年(744年)1月11日に市原王と大伴家持はこの岡で宴をし、歌を作っている。一つ松 幾代か経ぬる 吹く風の 声の清きは 年深みかも (市原王 万葉集巻6-1042)たまきはる 命は知らず 松が枝を 結ぶこころは 長くとぞ思ふ (大伴家持 同巻6-1043) しかし、翌閏1月安積皇子は急死してしまう。藤原仲麻呂に毒殺されたという説などもある不自然な死であった。 大伴家持は安積皇子の内舎人であったという説もあるが、彼は聖武天皇の後継としてこの皇子に期待していたのであったと思われる。皇子の死を傷んだ家持の歌がこれ。愛しきかも 皇子の命の あり通ひ 見しし活道の 道は荒れにけり (大伴家持 万葉集巻3-479)(恭仁大橋から湾漂山<わんぴょうざん>を望む。) 流岡山の東方にある湾漂山が活道岡だとする説もある。(流岡山<手前左>と湾漂山<中央奥>)(恭仁大橋から鹿背山を望む。川は木津川) 恭仁大橋から西方を望むと正面に鹿背山が見える。 橋を渡った北詰にあるのが大伴家持の歌碑。恭仁京を讃える歌である。(大伴家持歌碑)今つくる 久邇の都は 山川の さやけき見れば うべ知らすらし (大伴家持 万葉集巻6-1037)(恭仁宮跡への道) 家持歌碑から西へと行く。正面に狛山が見える。狛山と鹿背山とは木津川を挟んで向かい合っている。写真の細道を行くと突き当りが河原区公民館である。そこで右折、北へと進む。国道163号に架かる横断歩道橋を渡る。(横断歩道橋から西を見る。鹿背山<左>と狛山<右>)(横断歩道橋の上から北方向を望む。) 国道163号を渡り北へ直進。突き当りが恭仁小学校である。小学校の裏側が恭仁京大極殿跡である。(恭仁京大極殿跡) 大極殿の北側(上の写真では奥)が内裏である。 コスモスが一面に咲き誇っている。(恭仁宮内裏地区説明碑) 大極殿は恭仁京が廃された後、748年には山城国分寺に施入され、その本堂となる。従って、恭仁宮跡は山城国分寺跡でもある。大極殿跡の東側に開けた芝生の広場に塔の礎石が残っている。東大寺のそれと同じに七重塔であったという。(山城国分寺塔跡) ヤカモチのトレンクル君とザックが置き忘れになっています(笑)。(山城国分寺跡)(同上)(同上) 恭仁京の歌や鹿背山、狛山の万葉歌は明日の続編に記すこととします。どうやら字数制限にかかりそうです。(つづく)
2014.10.23
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銀輪花散歩は時に目にする虫散歩でもあります。 先ずはイラガの幼虫。毛虫の中でもこいつに刺されると特に痛い。猛烈に痛い。絶対に触れてはいけない。毒液を掛けられては大変です。眺めているだけにしましょう。毛嫌いされる毛虫であるが、よく見るとなかなかに可愛い。お尻か頭かは知らぬが黒い模様が目と口のように見えて、何やらゆるキャラやアニメっぽい姿にも見えて来る。(イラガのイラちゃん) オイラがイラちゃんです。(同上) こちらは咲き残る浜茄子の花に埋もれてじっと動かないツユムシ。 よく見ると左の後ろ足が無い。色んなことがありまして・・人生、いや虫生とはそういったものであります。余りにも動かないので生きているのかと軽く触れるとサッと勢いよく数メートル先の草むらに飛び去りました。露虫の 生きてあるとは 露知らず 触れしヤカモチ 烏滸と言ふべし (露家持) 露虫なんぞという儚げな名のこの虫であるが、「花に露」よろしく花にとまって動かない。(浜茄子とツユムシ) ダリアの花にもツユムシ。 こちらは、人生の、また間違った、虫生の荒波を未経験と見えて足も6本揃って無傷のようです。跳躍のための後ろ足を伸ばしてすっかり寛いでいます。こんなに無防備であっていいものか。ダリアに身も心も捧げてしまっています。これを恋と言わずに何と言おうか。オーマイダーリンや。このツユムシは関西人、いや関西虫のようです。(ダリアとツユムシ) 隣のダリアに奇妙な虫がとまりました。ハエかと思ったが、何やらゾウムシのような長い鼻を持っている。接写しようとするがレンズを近づけると花弁の裏側に回ってしまう。裏にレンズを回すと反対側へ隠れてしまう。何度か繰り返したがこちらが根負け。で、お前は何者なるや。(ゾウムシの仲間かと思うが・・ハエのようでもある。) ミツバチは相変わらず働き者。せっせと蜜集めに余念がない。 If winter comes, can spring be far behind. 冬来たりなば春遠からじ、と言うけれど、秋来たりなば冬遠からじ、でもあれば、せっせと蜂たちは冬支度のようであります。(ミツバチ) (同上) 対して、イナゴの伊太郎は何をするでもなく、徒に跳ねているだけ。そんなに呑気にしていていいのかい。蜂とイナゴの物語。蟻とキリギリスの物語は、実はこの蜂とイナゴの物語を改作したものであるのです(笑)。ウソップ童話にはそう書いてある。(イナゴの伊太郎) コチラは巣の中の卵を守っている蜘蛛。冬までそうしているんかい。 虫も亦一所懸命に生きているのでありました。(クモ) アカツメグサを挟んでシジミチョウと目が合ってしまいました。「やあ、元気?」「??。何や、このオッサン。」この蝶も関西出身でした。それもその筈、ヤマトシジミですから、奈良県出身ですな。(アカツメグサを挟んでシジミチョウとニラメッコ) 何を馬鹿なことを、と耳を塞いでいるのが赤トンボ。 こちらは、自分の世界に入り込んでひたすら哲学をして居ります。(赤トンボ) アキアカネが登場し、秋銀輪らしくもなった処でお開きと致しましょう。愚にもつかぬお喋り散歩にお付き合い下さり有難うございました。虫ゆゑに無視されるも亦よしであります。 <参考>虫関連の過去記事はコチラからどうぞ。
2014.10.22
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風もさやかに吹いている。 葉は静かに色付き、実は弾ける。 花も咲くあり、秋の野は・・ということで、秋銀輪花散歩であります。 先ずは道の辺によく見かけるアベリア。 朝の日の光に映えてキラキラと葉が光る。 楚々とした花が朝風に揺れている。(アベリア) 近寄って、日の光に透かしてみるという「ヤカモチ流」の撮影で眺めると一層その美しさが映える。 アベリアと言うよりもアベマリアである(笑)。(同上)銀輪の 秋の朝風 アベリアの 花もさやにし 光りてあれり (朝家持)(同上) 次は名の知らぬ花。朝顔を巨大にしたような花。 大きな顔をして・・というのは褒め言葉ではないが、この花の美しさはそれも亦「褒め言葉」にしてしまう趣である。(朝顔を大きくしたような白い花) こういうひと際目立つ花は「顔花・容花・貌花」と言うのであるが、その横顔はこんな感じです。もっとも、小生は総じて大きい花は余り好きではない。百合、アマリリス、ヒマワリ、牡丹などなど。この花もややそれに近いか(笑)。(同上・横顔です。)<追記>これはチョウセンアサガオであるそうな。 下記コメントでひろみちゃん8021氏が教えて下さいました。 これも何とも名の知れぬ植物。花に時期は過ぎていると見えて知る術もないが、ハリセンボンのような実に注目してしまいました。(名は不明・ハリセンボンみたいな実)<追記>これは上の花・チョウセンアサガオの実でした。 ひろみちゃん8021氏からご教授戴きました。 花の咲いているものと実の生っているものとが離れた場所にあったので同 じ植物のものとは気付きませんでした。 弾けた姿も何やら獰猛な感じなのは、その棘のせいでしょうな。(同上・弾けている奴もいる。) これは多分ユズリハでしょう。ユズリハは結構高木というイメージがあるので、背の低いこの木を見た時は、ユズリハとは思えなかったのですが、頭の中で反芻しているうちに、「ユズリハ」という名に行き着きました。(これは多分ユズリハ) 先日の「見上げてみれば」ではないが、これもカメラアングルを低くして見上げてみるとなかなか面白い景色を現出する。(見上げてみると・・) ユズリハと言えば、額田王と弓削皇子との贈答歌を思い出す。 その歌ではユズリハの木の上空をホトトギスが鳴き渡って行ったようだから季節は春から初夏にかけての時期でしょうか。秋の実のたわわに生っているこの時期、ホトトギスの姿はなく銀輪が通り過ぎただけなのでありました(笑)。銀輪は いづく行くらむ ゆづる葉の 実のなるなへを 風と過ぎぬる (風家持)(注)ユズリハ=万葉では弓絃葉、由豆流波などと書き、「ゆづるは」である。 (同上) ついでにトチノキも見上げてみることに致しましょう。(トチノキ)(同上) 今年は柿の写真を撮っていなかったことに気付き1枚。 左側の実は、熟柿になっていて、果汁がトロリ滴りかかっています。 小鳥たち、猿たち、熊たち、何をしているのか、賞味期限が過ぎてしまいますぞ。いや、熊さんはノーサンキュー。奥山で食べ物をあさっていて下さい。(柿) 花散歩にしては花が少ない・・という声もしているようなので、まことに平凡ですが、秋の花の代表、コスモスです。(コスモス) そして、千日紅の群れです。ここまで群れると「万日紅」ですな。(千日紅) そして、少し捻ってコキア。 文句なしに美しい。美味しそうな美しさです。そして何とも可愛らしい感じがしても来るのは、この丸っぽい形の所為でしょうな。(コキア) 本日は銀輪花散歩という括りで記事にしてみました。<参考>花関連の過去記事は下記からご覧下さい。 花(1)2007~2011 花(2)2012~
2014.10.21
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偐万葉・ひろみ篇(その2) 本日も偐万葉です。シリーズ第222弾、ひろみ篇(その2)であります。 <参考>過去の偐万葉・ひろみ篇はコチラ ひろみちゃん8021氏のブログはコチラ 偐家持がひろみの郎女に贈りて詠める歌15首 並びにひろみの郎女が詠める歌5首 ひろみの郎女が贈り来れる歌1首再会を嬉し嬉しや知らぬ間に 歳は離れて千幾年か 偐家持返歌2首七年(ななとせ)を経たるブログに今日逢ひし 兒ろはおさなの馴染みなりける磯の上の都万麻になけどいつしかも 神さびにけりヤカモチわれは(本歌)磯の上の都万麻(つまま)を見れば根を延(は)へて 年深からし神さびにけり(大伴家持 万葉集巻19-4159) (注)都万麻=タブの木 ひろみの郎女が作れる歌1首うちのドラ傘も持たずに今どこへ 朝餉用意が出来たというに 偐家持返歌1首そぞろ神ねこにもつけば草枕 旅にあるにゃん雨にも負けず(奥の細猫) 天麩羅にユキノシタする春の月(揚智光秀) (元句)時は今天が下知る五月かな(明智光秀)ぜうおんじいくののみちゆかへりきて またもあひにしみほとけのゑみ(智麻呂禅寺) (注)ぜうおんじ=成恩寺(じょうおんじ)。大阪市生野区林寺にある寺。思ほえば過ぎにし人も日もかなし 蝉鳴く朝の古きアルバム ひろみの郎女が追和せる歌1首アルバムもいつの頃にかカラ-色 平和とともに美しき色かむながらのみちもしらざりみほとけの みちもうとかりひぐらし鳴きぬ(偐蝉丸) ひろみ郎女が贈り来れる句1句 早秋につわものどもも寺巡り 偐家持返歌1首念仏は申すまじくも敷島の 大和伴天連寺をもめぐる(イエス・アミターバ)秋海棠咲き散る庭に西瓜食ふて 月の出まつを芭蕉葉の上(秋まつを筆蕪蕉) (元句)秋海棠西瓜の色に咲きにけり(松尾芭蕉) ひろみの郎女の上3句に偐家持の付けたる下2句 新しきチェーン嬉しい恩智道 鷺も真白き秋の風吹く名月を見にいこま山近すぎて 居待ち寝待ちのわが月ならむ(偐月待) 白は見つ赤見落としつ彼岸花 われ山菅に惑ひしなりや(野暮ランの家持) (注)ヤブランは万葉では「山菅・やますげ」と呼ばれる。 ひろみの郎女の返せる歌1首やぶにらみ赤ダイボーサンを見落としぬ それにつけこみ我したり顔 秋山の木の実つみにと来しわれも みだりに知らぬ実は食ふましじ(山部実人) (本歌)春の野にすみれ摘みにと来しわれぞ 野を懐かしみひと夜寝にける(山部赤人 万葉集巻8-1424) 寄す波の磯もとどろに伊勢路へと 妹乗るらむか秋のしまかぜ(風家持) ひろみの郎女が贈り来れる歌1首並びに偐家持が追和せる歌1首うちの猫尻尾ふくらみ帰りきぬ どこかほっつき尾に尾花の穂妹が家の黒きドラえもん今日もまた 尾花刈るかや野良仕事らし(野良家持)いつもより真面目とあるはわが日頃 不真面目なるか面目もなし(真面目家持)かにかくにつぎてゆかまし西堤 東北入るかに道楽へ(道楽家持) (注)掲載の写真はひろみちゃん8021氏のブログからの転載です。
2014.10.20
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銀輪散歩の折々の秋であります。 本日の秋は、見上げてみれば、というテーマで写真を並べてみました。 どうぞ皆さまもご一緒に見上げて下さいませ。(もみつ桜のはしき秋かも) 秋の桜と書けば「秋桜」となって、それはコスモスのこととなってしまうが、これは正真正銘の秋の桜であり、桜の紅葉である。 まだ、紅葉には少し早い時期なのではあるが、中には早くも紅葉し始めている木も無い訳ではなく、運が良ければこのような秋にも出会えるというのが銀輪散歩なのである。(同上)(同上) このような秋に出会えると、日の光に透かして写真に撮る・・というのがヤカモチ流。と言ってもこれは東京のブロ友のカマトポチ氏の撮影アングルを真似て始めたものに過ぎませぬが・・。カマトポチ氏というのは、最初のブロ友・信州上田のビターc氏に次いで2番目に古いブロ友さんである。同氏は、ビターc氏も同様であるが、長らくブログ更新を中断されていて、当ブログへのご訪問コメントも長らくありません。従って、どうされているのかは不明。秋はそういうことも何やら時に気になったりもするもののようであります。(同上)(同上)(同上) 桜の次はケヤキ。桜の紅葉が女性的であるのに対して、ケヤキのそれは男性的である。(欅の秋)(同上) ケヤキにも個体差やその立地により随分差異があるようで、紅葉(黄葉)しているものもあれば、未だ青々とした葉のもある。(同上)(同上) (欅) こちらは見上げてみればではなく、枝を掻き分けて見れば・・でありますが、小さな赤いイチイの実。可愛らしい実であるが、これで有毒だというのだから、人は、いや、木の実は、見かけによらないものなのである。(イチイの実)(同上) そして、アメリカフウ(別名:モミジバフウ)はほつ枝から美しい赤に・・。これは見上げてみれば、であります。(アメリカフウ<モミジバフウ>の秋)(同上) もっと赤くなっているのが、ニシキギ。これは敢えて姿勢を低くして見上げてみました。(ニシキギの秋)(同上) 葉の陰では、実が弾けていました。(ニシキギの実の弾けたる) そして、タンポポに似た花、ニガナか何かでしょうか。白い綿毛、絮を付けて大空を見つめて居りました。と言っても殆ど寝そべるようにして、無理にも見上げてみたもので、本日の「見上げれば」というテーマに無理矢理押し込んだようなものであります。 まあ、こういうヤカモチのやり方も「見上げた」ものだと言って下さるお方がお一人でも居られれば、「見上げた」甲斐があるというものではあります(笑)。(白き真綿の旅立ちの・・)(同上) 彼らが旅立つと冬がやって来る。などと気取った台詞は野暮家持には似合わぬこと。さもあるか、見上げ過ぎて首が痛くなって参りましたので、この辺で失礼申し上げることと致しましょう。
2014.10.19
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偐万葉・閑人篇(その4) 本日はシリーズ第221弾。偐万葉・閑人篇(その4)であります。閑人篇は今年の8月9日以来となります。今回は四国遍路、みちのく山遍路・もみぢ遍路と精力的に歩かれた同氏の旅に便乗しての偐万葉遍路であります。 <参考>過去の偐万葉・閑人篇はコチラから。 ふろう閑人氏のブログはコチラから。 偐家持が京閑麻呂(みやこのひままろ)に贈りて詠める歌15首 杉玉に 似て非なるかな 雀蜂の 巣にしぞあれば さけよと言はむ (蜂麻呂) (注)さけよ=「避けよ」と「酒よ」とを掛けている。 (スズメバチの巣)月下老 結べる糸の 意図置くも 桜のカフェの 開(あ)きたるぞよし (偐糸持)行けと言ふに 行かぬ人あり 行くと言ふ 行くとや待たむ 行くと言ふからに (閑祖父麻呂) (本歌)来むといふも 来ぬ時あるを 来じといふを 来むとは待たじ 来じといふもの (坂上郎女 万葉集巻4-527) 見る人の あるやは問はず 咲く萩の 花のさまこそ なほ尊かり (偐閑人) (花尊しの碑)宮大工 ため息つきぬ 香園寺 どんと鉄筋 コンクリート造(大工家持) (香園寺)吉祥寺 銀輪停めて 門前の 仔象と駄洒落 言ってみたくも (象家持) (吉祥寺)石槌の 山に向かひて 前神寺 弥陀のねがひに みちびかれ来し (弥陀家持) (前神寺)辛(から)き坂 銀輪駆けて わが来れば 伊予の三島の 海輝ける (伊予家持) (伊予の海)三角寺 登り甲斐ある 石段は 一茶も一息 いれてやあらむ(茶家持) (三角寺とふろう閑人氏の自転車)先づ撞きて 心さやにし 参れとや 門に梵鐘 三角寺ぞこれ(鐘家持)いよいよの 遍路の締めは うどん屋の 昼餉にありぬ 讃岐への道 (饂飩家持) ひとすぢの 雲たなびきて お岩木の 青める山は 見らくしよしも (岩木山遠望)笹の葉の 光りてさやに 八甲田 山高々に わが来(く)を待てり (八甲田の山々)大岳の 大岩塊の 上行くは 白き蟻なり 人とも見えず (大岳への道)草も木も かくこそあれと もみぢたる みちのく秋を 背子は山行く (みちのくの紅葉)(注)掲載の写真はふろう閑人氏のブログからの転載です。
2014.10.17
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祭りも今日で終わります。神社から各地区へと帰る太鼓台の内の何台かは我が家の前の道を通ります。小太鼓は大太鼓よりも一足早く帰途につくようで、9時半頃には我が家の前を通って帰って行きました。 今年も、結局神社へは行かずで、祭り見物はなし、でありました。面白うてやがて悲しき祭り哉、であります。面白てやがてかなしき鵜ぶね哉(芭蕉) 今日も太鼓台の写真でお茶を濁して置きます。 祭りで帰省している東京の妹や母たちと外で昼食をと出掛けたら、瓢箪山駅前に太鼓台が集まっていました。(商店街を行く太鼓台) この商店街は国道旧170号がアーケード商店街になっている珍しい商店街であるとして、以前当ブログでもご紹介した商店街ですが、この部分は旧東高野街道と国道旧170号が重なっています。上の写真の奥のアーケードを出た辺りで国道と東高野街道は分岐し、石切神社の鳥居を過ぎて北へ数百メートル程行った辺りで再び重なります。 <参考>「国道アーケード商店街」2013.8.29.(駅前で小休止の太鼓台) 瓢箪山駅前(北口)に集結している太鼓台ですが、枚岡神社一の鳥居を潜る時間が各地区ごとに決められて居り、鳥居より南側の地区の太鼓台はこの駅前で待機し、順番に一の鳥居へと向かう、という段取りになっています。 因みに、上の写真の左端の太鼓台が小生の住まう地区の太鼓台です。 昼食後、買い物をするという母たちと別れて、智麻呂邸を訪問。新作絵画2点を仕入れて参りましたが、次回絵画展までお預けであります。 <参考>近隣散歩関係の過去の記事はコチラからどうぞ。
2014.10.15
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台風一過。枚岡神社の秋祭りが始まりました。 河内国一之宮の枚岡神社秋郷祭が今日14日・15日と行われます。 この祭りについては、以前の日記でも取り上げていますので、詳しくはそれをご参照願います。 <参考>「枚岡神社秋郷祭2009」2009.10.16. 「枚岡神社秋郷祭」2008.10.14. ふとん太鼓・Wikipedia(太鼓台) この道は東高野街道。この奥に枚岡神社の一の鳥居があります。各地区から集まって来た太鼓台が予め定められた順番に従い、一台ずつその鳥居をくぐって神社へと向かいます。 <参考>枚岡神社一の鳥居の写真掲載記事は下記です。 「贈呈図書」2009.8.16.
2014.10.14
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本日は第7回ナナ万葉の会でした。 今回は、前回の帰りがけの立ち話で参加者のお一人の女性が但馬皇女のことを仰っていたので、それを取り上げることとしました。但馬皇女はその歌から万葉きっての情熱的な女性と評されもするのであるが、その恋のお相手は穂積皇子。穂積皇子は大伴家持の叔母でもあり義母でもある坂上郎女の最初の夫であるから、ヤカモチとも無関係ではない・・のであります(笑)。 このテーマは一昨年の若草読書会でも取り上げているので、資料はその時のものをアレンジすればよく、新たに一から作成しなくてもいい、という好都合もあって、ズボラ家持としては、渡りに船であったという事情も些か作用していますかな。但馬皇女と穂積皇子との恋のことなどについては、当ブログでも既に触れていますので、此処では述べません。下記<参考>の記事をご参照下さい。 <参考>「ふる雪はあはにな降りそ」2011.12.25. 「崇福寺跡へ」2012.1.26. 例によって、とり上げた歌だけを記して置きます。<但馬皇女の歌>秋の田の 穂向きの寄れる 片寄りに 君に寄りなな 言痛かりとも(巻2-114)おくれゐて 恋ひつつあらずは 追ひ及かむ 道の隈廻に 標結へ吾背(巻2-115)人言を しげみ言痛み おのが世に いまだ渡らぬ 朝川渡る(巻2-116)ことしげき 里に住まずは 今朝鳴きし 雁に副ひて 行かましものを(巻8-1515)<穂積皇子の歌>ふる雪は あはにな降りそ 吉隠の 猪養の岡の 寒からまくに(巻2-203)今朝の朝明 雁が音聞きつ 春日山 もみちにけらし 我が情痛し(巻8-1513)秋萩は 咲くべくあるらし わが家戸の 浅茅が花の 散りぬる見れば(巻8-1514)家にありし 櫃に鏁さし 蔵めてし 恋の奴の つかみかかりて(巻16-3816)(ナナの秋) ナナ(cafe de nana)へは例によってMTBで。到着は午後1時頃。今日のナナの店の入口のディスプレーはご覧のような「秋」でありました。入口のマットの黒猫君に迎えられて店内に。小生が到着して直ぐに4名の一般のお客様が来られましたが、万葉の会は午後2時からなので、未だ参加者の皆さんはお見えにはなっていない。暫し周辺を散策。(ナナの入口マット) (恩智川辺のセイタカアワダチソウ) 店の前は恩智川が流れている。セイタカアワダチソウが咲き群れていました。まあ、余り歓迎されない花であるが、こうして眺めてみると、それなりに美しい花と言えなくもない。われもまた 秋の花なり 泡立ち草 をみなへしにも 負けじと言へる (泡家持)(同上) 近くの駐車場の入口近くの道の辺に咲いていた小さなピンクの花。名は何とも知らぬが、万葉人が好みそうな小振りの可憐な花である。(一輪の秋)<追記>この花はアカバナユウゲショウ(赤花夕化粧)だそうです。ビッグジョン 氏よりご教授戴きました。(同上) ヤカモチの「講義」終了後の雑談の中で、次回の万葉の会のことに話が及び、小生の提案で次のようなことと相成りました。 11月29日に我が同窓会の青雲塾主催の万葉ウォークが行われることとなり、小生が案内役を仰せつかっている。そんなことで、ナナ万葉の会もこれと合体して開催することとし、ご希望者はこの万葉ウォークにご参加戴くこととしました。今日の処は小〇さん、松〇さん、高〇さん、谷〇さん、若〇さんの5名の方がこれに参加したいと仰っている。まあ、小生としては同窓会の依頼とナナ万葉の会が1回で片付くので、我ながらの名案である。青雲塾の世話役の松〇氏の了解は取っていないが、同窓生の家族や友人も参加可能というのがこれまでの慣行であるから、問題はないだろうと考えています。近日中に松〇氏にはお知らせする心算ではありますが。 その万葉ウォークですが、JR加茂駅前午前11時集合(弁当・飲み物各自持参)で、恭仁京跡辺りを散策する予定です。当ブログを見て興味を持たれた方はどうぞ何方でもご参加下さい。但し、当日配布の資料の準備もありますので、前以て当方までご連絡戴くと有難いです(笑)。(2014年10月10日大阪の夕焼け) ナナをおいとましたのは午後5時を回っていました。自宅近くまで帰って来た時にはご覧のような美しい夕焼けに大阪の空は染められていました。中央にひと際高く見えているビルがアベノハルカスです。<参考>ナナ関連の記事はコチラからどうぞ。
2014.10.10
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友人の岬麻呂氏から北海道旅行の旅便りが届き、追っかけて写真が送られて参りました。富良野ご在住のブロ友・furano-craft氏や青森県の山を登られたふろう閑人氏などのブログからも北海道や東北が既に紅葉真っ盛りなことは承知であるが、あらためてその見事な紅葉に見惚れている次第。 春は南からやって来て、秋は北からやって来る。 春の女神は佐保姫、秋の女神は竜田姫。 万葉にも佐保や竜田の歌があるが、佐保姫や竜田姫を直接に詠んだ歌はない。また、佐保が春で竜田が秋というのも、万葉集では定まってはいない。平安時代になってから佐保が春、竜田が秋という歌枕になったのであろう。 佐保山は平城宮の東にあり、佐保川は平城京の東側を流れる川である。東は青竜であり、青は春、ということで、佐保姫は春の女神となったのでしょう。同様に竜田川は平城京の西側を流れる川、西は白虎、白は秋、ということで竜田姫は秋の女神となったのでもあるか。尤も、竜田川が平城京の西を流れていると言っても矢田丘陵を置いてその更に西側であり、竜田の山は更にその西であるから、竜田姫については、この説は少し無理があるかも知れない。むしろ、竜田姫の場合は、風の神・農耕の神が竜田神であるから、農耕=収穫の秋、ということで秋の神になったのかも知れない。もし、そうなら、佐保姫は竜田姫との対比で春の女神になったに過ぎないのかも。平城宮の東なら若草山、御蓋山、高円山、それらの奥の花山など春日の山があるから、平城宮との関係で東と言うなら春日の姫大神の方が相応しいのではなかったろうか。 まあ、何れにせよ、佐保の地と竜田の地の位置関係で言うと、佐保が北で竜田が南となって、南から来る春の神がより北に、北から来る秋の神がより南にあるという妙なことになっている。 佐保姫・竜田姫の話に脱線したついでに、両姫を詠んだ歌を少しご紹介して置きます。<佐保姫の歌>さほひめの いとそめかくる あをやぎの ふきなみだりそ 春の山風 (平兼盛)さほひめの うちたれがみの 玉柳 ただ春風の けづるなりけり (大江匡房)佐保姫の 衣ほすらし 春の日の ひかり霞むらし 天のかぐ山 (宗尊親王)佐保姫の 霞の衣 をりかけて ほす空たかき 天のかぐ山 (二条為重)<竜田姫の歌>たつた姫 たすくる神の あればこそ 秋の木の葉の 幣とちるらめ (兼覧王)竜田姫 かざしの玉の 緒をよわみ 乱れにけりと 見ゆる白露 (藤原清輔) では、岬麻呂氏がお届け下さった渡島(北海道)の秋をご覧下さいませ。(鳥沼公園)秋きぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬるという、藤原敏行の有名な歌がありますが、これはもう目にもさやかな秋であります。秋きぬと 目にもさやかに もみぢたる 渡島は秋の 今盛りなり (偐家持)(福原山荘)(注)以下の縮小写真も画面をクリックして戴くと大きい画面 で見ることができます。 (紅葉谷) (十勝岳温泉) (大雪高原) (風のガーデン)(青い池)(富良野・麓郷)(望岳台) 9月27日に噴火した御嶽山の写真もありました。翌日にその上空を通過した飛行機の窓から撮影されたようです。まことに痛ましい大きな災害になってしまいました。お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。(御嶽山)<参考>過去の「岬麻呂旅便り」の記事はコチラからご覧下さい。
2014.10.07
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偐万葉・ビッグジョン篇(その25) 本日は久々に偐万葉とします。シリーズ第220弾。ビッグジョン篇(その25)であります。 <参考>過去のビッグジョン篇はコチラ ビッグジョン氏ブログはコチラ 偐家持が歩麻呂に贈りて詠める歌13首ほかのちの世の人のこころのほそ道に 梅は咲けかし祟りはすまじ (菅公縁戯)たなかみの やまにたなびく 白雲を 君とや思(も)ひつ 恋ひつつあらむ若草の つはものどもも 老いの坂 (松老芭蕉「老の細道」)芋ときくも 花にしあれり 菊芋の 待ちにし今日ぞ 高々に咲く (偐芋持)花は見つ 往き来の畑の 菊芋を ためし召されよ いかな芋かや (偐芋持) 月立ちの 朝にはあれど 段菊は 望月満(た)れる 面輪(おもわ)にぞ咲く (朔家持) 朝顔の 祖(おや)の顔して 真白にぞ 豆朝顔の 花咲きにける (花家持)ひとしぐれ ありて山田の 池の辺に 豆朝顔の しるくぞ咲ける (花家持)旧(ふる)き友 待つらむ店への 道に咲き 豆朝顔は 笑みてあるらし (花家持)思ふどちい群れてあるをうれしみと ビール三杯飲み干しにけり (偐歩麻呂) 赤白の 豆朝顔に われこそと 丸葉縷紅の 咲くをぞ見たり (花家持) 岩根踏む 岩根の山ゆ 取り付けば とりわけ苦し 鳥脇の山 (急登家持) ぬすびとの 裾につきたる 足跡を 払ひ盗人 萩の手伝ひ (老い萩) 歩麻呂が返せる歌1首ヌスビトと 名のつく萩が はびこりて 人を使ひて 子孫を増やす(自然界) 銀過ぎし こともいつとは 覚えざり 金なほ遠き 道とのみ知る (不覚家持)(注)掲載の写真はビッグジョン氏のブログからの転載です。
2014.10.06
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本日は、台風18号が接近する中、朝の内なら未だ雨も降るまいと月例の墓参でありました。時折、強い風が突風のように吹いて、木々をざわめかせもするが、近畿への接近は日付が替わってからとのことだから、台風のそれではない。墓への道にも枚岡神社秋郷祭の旗が立てられていて、ハタハタと風にハタめいていました。この14、15日が秋郷祭なのである。各地区から太鼓台が枚岡神社に集合するのであるが、その練習で朝から晩まで太鼓を打ち鳴らす音が絶えない今日この頃である。 旗は各地区の自治会で作成されているものでそのデザインは地区によって微妙に異なる。写真の旗は、この墓参の道を含む地区の自治会のもので、ヤカモチの住まいする地区のそれとは少し異なっているような気もする。 <参考>枚岡神社秋郷祭2009 2009.10.16.(墓への坂道) 上の写真は、もう坂道をかなり上った処である。自転車での場合、この付近で漕ぐのをギブアップするのが常である。墓地は、この道の突き当り奥を左に行くとある。更に坂を上るのではあるが。 さて、最初に目にした、というか撮影したのはザクロでありました。ふろう閑人氏が昨日の智麻呂絵画展のザクロの絵をご覧になって「最近余り見かけなくなったザクロを見たばかりなので・・」というコメントを寄せて来られましたが、小生の方は、どちらかと言うと「よく目にする」のではある(笑)。(道の辺のザクロ) むしろ余り見かけなくなったのは棗(ナツメ)である。その棗の実を今日の墓参の道で見かけました。(同・ナツメ) ナツメは中国原産。秋に実が熟し、食用、強壮剤として利用された。長らくこれを服用すると神仙にもなれるとされた。ナツメという名は、夏に芽を出すから、とか夏梅が省略されたものなどの説があるそうだ。 続日本紀の聖武天皇・神亀3年9月15日の条に「内裡に玉棗生ひたり。勅して、朝野の道俗らをして玉棗の詩賦を作らしめたまふ。」という記述があり、同9月27日の条には「丈人一百十二人玉棗の詩賦を上る。」とある。 「玉棗」は「しぼ」と訓むが、ナツメの美称である。ナツメは神仙の薬であるから、その実が生ること自体がめでたいこと、瑞祥とされたことが窺える。(同上) 万葉集にも棗を詠った歌がある。題詞に「玉掃、鎌、天木香(むろ)、棗を詠める歌」とあるから、宴会で4つのお題を頂戴して意吉麻呂(おきまろ)さんが即興で作った歌ということになる。意吉麻呂さんはこの種の即興の戯れ歌がお得意であった。玉掃(たまばはき) 刈り来( こ)鎌麻呂 室の樹と 棗が本と かき掃かむため (長意吉麻呂 万葉集巻16-3830)<玉掃を刈り取って来い、鎌麻呂よ。室の木と棗の下を掃こうと思う。>(ナナホシテントウ) 墓地のアカメガシワの葉にはテントウムシがじっとしていました。気温が低くて動けないのでもあるか。彼には台風接近の情報が届いていないようでありましたので、一応避難勧告はして置きましたが。 そして、ヘクソカズラの実。よく見る実であるが、ヘクソカズラの実とは知らなかった。花が未だ咲いていたので、それと気付きました。(ヘクソカズラの実)(今日の言葉) 最後は墓参恒例の「今日の言葉」であります。進むべき道、なすべきこと、解決策などは身近な処にある、目の前のことを先ず以って片付けよ、というようなことでしょうか。志は高く、行いは低く、でもありますかな。まあ、世捨人家持には近きも遠きも道のまにまにでありますれば、吾が事に非ずと相心得候。
2014.10.05
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第149回智麻呂絵画展 本日は智麻呂絵画展であります。<参考>他の智麻呂絵画展は下記からご覧いただけます。 第1回展~第100回展 第101回展~第200回展 第201回展~ 先ずは冬瓜の絵から。画用紙をはみ出さんばかりに描かれた冬瓜。ど~んと存在感のある姿。如何にも冬瓜であります。トオ~ガア~ン、という感じでしょうか。 この冬瓜は凡鬼さんの畑の作品。この冬瓜と次のススキは凡鬼さんがお持ち下さったものです。冬瓜は食品として、ススキは画材にとお持ち下さったのですが、智麻呂さんにとってはどちらも画材であります。(冬瓜)冬瓜やたがいにかはる顔の形(なり(松尾芭蕉 西華集) 西華集の編者、各務支考の注記には「是には老女に逢ふなどいへる題もあらばやと申されしか」とあるが、元禄7年、伊賀滞在中の芭蕉晩年の作。久しぶりに故郷で人に会えば、互いに顔のさまも変わり、今が出盛りの冬瓜のように見える、というユーモラスな句である。 智麻呂さんのこの冬瓜の絵も何やらユーモラスなものがあるので、この句が似合うかと(笑)。(ススキ) 芋名月は過ぎ、豆(栗)名月(十三夜)は明後日でありますが、お月見に欠かせないのがこのススキ。萩や女郎花のような艶は無けれど、秋の風、秋の月に趣を添えてくれるのは、何と言ってもこのススキである。とりわけ秋の風はこのススキの穂がないとしたら、自分をどう表現していいか悩んでしまうことでしょう(笑)。秋の野に 尾花し無くは 吹く風も いかにか秋の それとや見せむ (風家持)(サンダーソニア) この花は、ご夫妻が花屋さんの前を通り掛かられた際に、智麻呂さんのご要望により買い求められた花だそうです。サンダーソニアという花はヤカモチ館長存じ上げませんでしたが、調べると以下のようです。 南アフリカ共和国が原産地。現在はニュージーランドで盛んに栽培され、生け花やフラワーアレンジメントに利用され日本は主要な消費国の一つらしい。1851年にジョン・サンダーソンが発見したことがその花名の由来とのこと。イヌサフラン科の多年生植物。(ユリ科に分類されることもあるらしい。)この花の花言葉は、愛嬌、祈り、共感、望郷、祝福、福音、純粋な愛。(柘榴) このザクロは「アンデスのトマト」でのご友人の坂〇さんが、画材にと下さったものです。下のアケビも同様かも知れませんが、取材不足にて存じ上げませぬ。柘榴まだ 赤き顔して もだせるを 木通は大口 あけてあくびぞ (実家持)(木通) さて、以下の4点の絵は当ブログ「偐万葉田舎家持歌集」に掲載の写真を絵にされたものです。写真とは違う味が出て、ヤカモチ館長としては楽しく拝見させて戴いた次第。<参考>として、写真が掲載されている記事のページをリンクして置きましたので、比較してお楽しみ下さいませ。(アキアカネ)<参考>「虫たちも秋」2014.9.19.(葡萄)<参考>「銀輪の風も秋なり花遍路」2014.9.16.(ヤブラン)<参考>同上(コスモス)<参考>同上コスモスの 丘ふく風に アキアカネ 飛びて行く見ゆ 秋深みかも (偐家持)ヤブランの 花むらさきに 秋の日の 静かに葡萄 熟れて行くらし (偐家持) 無理矢理に4題を折り込んでの歌。冬瓜の「なり」で始めた絵画展でありますから、中締めは「なりふり」構わぬヤカモチの歌、ということで平仄が合いまする。されば、本日の智麻呂絵画展、これにてお開きとさせて戴きます。本日もご覧戴き有難うございました。 )
2014.10.04
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(承前) 本日の記事は、先の囲碁例会の帰りに撮った写真で構成されていますので、日付は10月3日なるも、実際の日付は10月1日ということになります。(大阪城公園の一角) 大阪城公園の一角にある水辺です。北側は桜の広場になっている。桜の木に混じって欅の木もある。(大阪城公園のケヤキ) 欅は槻である。槻の木は、世界を覆う宇宙樹として崇められ、神聖なる王を象徴する木と考えられた。古事記の雄略天皇記にこんなエピソードが載せられている。長谷の百枝槻の樹下で宴をしていた際に、雄略の盃に槻の葉が落ちて浮かんだ。それとは気付かぬ采女はそのままその盃を雄略に献じた。無礼に怒った雄略がその采女を殺そうとすると、彼女は次のような宮廷を寿ぐ歌を詠う。それによって彼女は赦されたという話である。(前略)真木栄(さ)く 檜(ひ)の御門(みかど) 新嘗屋(にひなへや)に 生ひ立てる 槻が枝(ゑ) 上枝(ほつゑ)は 天(あめ)を覆(お)へり 中枝(なかつゑ)は 東(あづま)を覆へり 下枝(しもつゑ)は 鄙を覆へり (後略) このように王権のシンボルとされた木であるから、中大兄皇子が中臣鎌足と初めて出会ったのも法興寺(現、飛鳥寺)の庭の槻の木の下で行われた蹴鞠の時であったし、蘇我氏を滅ぼした後、皇極、孝徳、中大兄皇子が群臣を集めて忠誠を誓わせたのも「大槻の樹の下」でなければならなかったのでありました。 槻を詠った万葉歌も数首あるが、そのうちの1首を記し置く。とく来ても 見てましものを 山城の 高の槻群 散りにけるかも (高市黒人 万葉集巻3-277)<早く来て見ればよかったのに、山城の多賀の槻の木はもう葉が散ってしまたことだ。> 大阪城公園の槻は未だ色付き始めたばかり、散ってはいませぬ。 さて、水辺で見つけた懐かしい植物というのは、これ。ジュズダマでありました。 (ジュズダマ) 昔は、自宅近くの川や池やらの水辺でよく見掛けましたが、最近はこの植物とんと見掛けませぬ。ハトムギというのは、このジュズダマのことで、ジュズダマの栽培種をハトムギと呼ぶのだということを今回初めて知りました。 (同上) ジュズダマの隣には芭蕉のような広い葉の植物が生えていて、このような白い三弁の花を咲かせていました。その形状からは、花弁ではなく、紫陽花などと同じで、花萼かも知れないが、名前は例によって存じ上げぬ。<追記>小万知さんからウリカワ(或はオモダカかも)だとご教授戴きました。ウリカワだとして記事にしていましたが、再度、葉の形状からウリカワではなくオモダカだろうとご指摘ありました。それで調べてみると、オモダカは矢尻型の葉、ヘラオモダカは葉柄のあるヘラ状の葉、ウリカワは葉柄の無い棒針状の葉、ということなので、これはヘラオモダカだろうと思われます。<2015年10月19日追記>(水辺の白い花)(同上) その隣に群生していたのは蓼でしょうな。白いイヌタデでしょうか。タデはアカマンマとも言うが、それは穂がピンクであるからでしょう。さすれば、これはシロマンマと呼んでもいいような気もします。でないと、白い赤マンマとなって何とも妙な具合になりますからね。<追記>これは白いイヌタデではなく、サクラタデだと小万知さんからのコメント。謹んで訂正させて戴きます。白い赤マンマのまんま放置するなかれという訳です。因みに、サクラタデという名には記憶にあるので、本薬師寺のホテイアオイの記事の時に小万知さんに教えて戴いたのでは、と調べましたが、記憶違いで、「囲碁例会・墓参・花散歩(下)」(2012.10.8.)の記事へのコメントでした。(イヌタデでしょうか。いえ、サクラタデです。)(同上) 中央大通りと中央環状道路が交差する地点の北東角にJAの施設があり、その庭に稲田がある。近くの小学生が田植えしたもののようですから、梅田スカイビルの里山の稲田と同じ性格の稲田ですな。立ち寄って休憩させて戴く。(中央大通り沿いにある稲田) (同上) 上右の写真に写っているのがヤカモチのMTB。ベンチに立てかけていますが、このベンチに腰を下ろして、ペットボトルの飲み物を飲んだり、ついでにと煙草を一服していたら、JAの職員と思しき一人の若い男性が近付いて来られて、此処は禁煙、飲食も駄目、と注意を受ける。そういう表示は無かったように思ったが小生の見落としであるか。或はそもそも喫煙場所と表示されている以外の場所は禁煙と心得るのが今や常識となっているのでもあるか。何れにせよ小生の不注意。素直に指示に従い、退出致しまして候(笑)。 煙草を一服する前に撮った写真がこれ。 稲田の背後には棉が植えられていました。(棉の実と花) 「丘の上では棉の実がはじける。此処では薪が燻ってゐる。」中原中也の詩の一節が思い浮かんだりもしましたが・・。ヤカモチは「稲田の隣では棉の実がはじける。此処では煙草をくゆらせてはいけないのでありました。」といった処です。(棉の実)(同上) そして、新発見は棉の花。小生は何となく棉の花は白と思い込んでいましたが、実際はこのように黄色で、葵とかオクラの花に似てもいるのですな。(棉の花) とまあ、囲碁例会の帰途は銀輪花散歩でもありました。
2014.10.03
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(承前) 昨日(1日)の囲碁例会への銀輪道中の記事です。 天満橋を渡り大川の右岸の緑地を走る。以下、橋を見て走る、という駄洒落家持らしき銀輪散歩であります。(天満橋) 写真は北側・上流側の橋のたもとから見たもの。 天満橋と天神橋の中間に中之島の東端がある。そこに放水の設備があって定時的にこのような放水がなされている。何のためであるかは知らぬこと。多分遊び心のなせるワザかと。されば、中之島の東の端(はし)。これも「はし」には違いないということで、「見て走る」橋の仲間に入れることと致しました。見て走り 見ては知るなり なにはなる 水の都の 橋のはしくれ (橋家持) そう言えば、謡曲に「橋弁慶」というのがありました。「橋家持」はそれとは無関係であります(笑)。 此処で大川(旧淀川)は中之島によって二つの川に分断される。こちら側が堂島川、向う側が土佐堀川となる。本日はこちら側を走って居りますので、見て走る橋も堂島川のものとなります。もっとも、天神橋や難波橋は中之島を跨ぎ両河共通に架かっては居りますが。(天神橋) 難波橋の東側(上流側)に橋はなけれど「太平橋」と刻まれたものがあり、此処で河岸の緑地は途切れて、一般道に出なくてはならない。(難波橋) 難波橋の南詰は北浜。橋の西側歩道部分を行くと対岸の北浜には直接には行けず、中央部で歩道は直角に西に曲がり中央公会堂の前に行ってしまうので、随分の遠回りとなる。対岸へは東側歩道を利用しましょう。 難波橋の一つ下流側の橋が鉾流橋。この名前は今日まで存じ上げませんでした。「見て走る」はまさに「見ては知る」でもありました。(鉾流<ほこながし>橋) 橋の向こうには中央公会堂が見えている。橋のこちら側は天満警察署と裁判所。裁判所を右に見つつ行くと次の橋、水晶橋がある。人道橋である。(水晶橋) この橋は対岸の中之島側からが撮影ポイント。こちら側からはいいアングルがない。検察庁分室の前庭に侵入。その柵に上っての撮影。まあ、何とか撮れました。 青雲会囲碁の例会で来る青雲会交流センターを横目に、その折によく昼食のお世話になる喫茶なかおかの前を過ぎると御堂筋。大江橋である。 (大江橋。この先、土佐堀川に架かるのが淀屋橋。) 奥に見えるアンチークな建物は日本銀行大阪支店。(中之島ガーデンブリッジ) 御堂筋から四ツ橋筋へと下る途中にある人道橋が中之島ガーデンブリッジ。この橋のたもとに堂島米市場跡記念碑がありました。(堂島米市場跡記念碑)(同上) 四ツ橋筋に架かるのが渡辺橋。源頼光の家来・渡辺綱の「渡辺」に由来する名前である。(渡辺橋。この先、土佐堀川に架かるのが肥後橋。) 更に西へ。次にあるのが田蓑橋。この橋の北詰に蛸の松なるものがありました。向かいは検察庁であるが、これとは勿論無関係。(田蓑橋。この先、土佐堀川に架かるのが筑前橋。) 中央奥に見える褐色の建物は大阪大学中之島センター。(蛸の松)(同上・説明板)(同上) 更に西へ。なにわ筋に出ると、玉江橋である。(玉江橋。この先、土佐堀川に架かるのが常安橋。)(同上)(同上) 玉江橋から更に下流へ向かうと、堂島大橋を経て、上船津橋、船津橋。船津橋で中之島は西端となり、堂島川と土佐堀川は此処で合流する。合流・分流地点が少しずれているので正確な表現ではないのだが、大雑把に言えば、合流してすぐに安治川と木津川に分流する。 橋廻りなら、そのまま直進してとなるが、今回は囲碁例会のついでの銀輪散歩、玉江橋で右に方向転換しないと、随分行き過ぎてしまうことになる。という訳で「橋」はここまでという「話」でありました。こういうのを「はしょる(端折る・橋折る)」と言いますな。
2014.10.02
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昨日(9月30日)は友人の野〇氏、室〇氏、西〇氏と4人で難波で会食。旧交を温めました。店は矗々家・難波店。午後6時から、でした。このメンバーでの会食は1年振り位でしょうか。前回は黒〇氏も同席でしたが、彼は病気療養中にて欠席。早くに軽快されることをお祈りします。 そして、今日10月1日は囲碁例会。これは、昨日のように電車ではなく、いつもの通りMTBで出掛けました。途中立ち寄りは川俣神社。この神社は以前にも立ち寄ったことがある筈と調べると2012年6月に立ち寄っていました。重複しますが、本日の写真を再掲載して置きます。神社の詳しいことは下の説明板や下記参考記事をご参照下さい。 <参考>青雲会囲碁例会・川俣神社 2012.6.9.(川俣神社)(同上・説明板) 大阪城公園から天満橋を渡り大川沿いを西走。玉江橋北詰で右折しJR福島駅方向へ走る。この間のことは別の記事にしますので、此処では省略します。次の立ち寄り先は福島天満宮。(福島天満宮とMTB)(同上・拝殿)(同上・社記) 梅田スカイビルの近くまでやって来て、こんな小さな店があるのに気が付いて、本日は此処で昼食としました。洋食114、妙な名前である。(洋食114) 昼食を済ませてスカイビルの中庭に入って行くと、こんな牛がいました。人工芝を食べていますな。(梅田スカイビルの牛) 会場に行くと、青〇氏が既に来て居られて先ずお手合わせ。今日の参加者は他には福〇氏、竹〇氏、村〇氏、荒〇氏で総勢6名。小生は青〇氏には勝ったものの、続く村〇氏、福〇氏にはつまらぬミスを犯して惨敗。1勝2敗と冴えませんでした。これで、今年の通算成績は16勝16敗。一進一退であります。本日はここまで。些か手抜きの記事です(笑)。<追記>前回、9月13日の青雲会囲碁例会の記事を書いていなかったようなので、備忘録として記して置きます。この日は何処にも立ち寄りをしなかったようです。参加者は10名余。小生は宮〇氏と田〇氏に勝ち、玉〇氏と中〇氏に負けて2勝2敗。こちらも一進一退です。過去の囲碁関連記事はコチラから。
2014.10.01
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