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図書館で『日本語の心』という本を手にしたのです。呉善花さんと言えば親日的な評論、母国での酷評で知られるが・・・この本で述べられている日本語、漢字に対する博識には驚くばかりです。【日本語の心】呉善花著、日本教文社、2006年刊<「MARC」データベース>より日本のことばのもつ高い精神性や繊細さに深い驚きと興味を感じた著者が、古代にまで遡りながら、日本語に込められた人々の心を辿る。月刊誌『理想世界』平成14年5月号から平成18年3月号まで連載されたものに加筆訂正。<大使寸評>呉善花さんと言えば親日的な評論、母国での酷評で知られるが・・・この本で述べられている日本語、漢字に対する博識には驚くばかりです。呉さんは日韓両国の歴史、風俗にも触れて述べているので、その民俗学的な比較も面白いのです。Amazon日本語の心次の章で日本語の心が述べられているが・・・異邦人だからこそ、日本語がよく見えるのかもしれないですね。p89~92<彼方の世界への思い> 私は知人からは、目上でも目下でも、通常は「呉さん」と呼ばれている。しかし、普段はそう呼んでいる目上や対等の者から、なぜか「あなたは・・・」と言われることがたまにある。それはどんなときと言ったらいいのだろうか。 そういうときには、相手が私を対等と意識したいとか、下位と意識したいとか思っているような場合もあるかもしれない。でも、そういうこととは別の距離感を、「あなた」という言葉から感じさせられることがたしかにあると思える。 そんなふうに、通常は「~さん」「~くん」と呼ばれている相手から、何かの拍子に「あなた」と呼ばれることは、誰にでもあることだろう。そう呼ぶとき、その人は無意識のうちに、相手との間に通常とは異なる距離感を生み出そうとしているのだと思う。 ことさらによそよそしい他者の意識を向けたいから「あなた」というのではないだろう。また、ことさらに性的や親しさや親友としての親密さの意識を向けたいから「あなた」というのではないだろう。その両極を中和させたいようなニュアンスが「あなた」にはある。 「あなた」を国語辞典で引いてみると、「他称」としては「あちら、向こうのほう」「以前、過去」「未来」「あのかた、あちらの人」とある。また「対象」としては「対等または上位者に用いた・・・現在では対等あるいは下位の者に用い・・・」とある。近世初期には最高の敬意を表したが、しだいに敬意が低下していき、昭和初期ころまでは比較的高い敬意を表していたものの、今日では目上の者には使われないようになったという。 「あなた」は「彼方」と書くように、もともとは空間的にも時間的にも一定の隔たりを意味する言葉としてあったことがわかる。ただ、私が思うところ、日本人にとっての「彼方」とは一種の憧れを含んでいる言葉である。と同時に、未知なるものへの恐れや畏敬の念も含まれている。海の彼方、山の彼方、村の彼方への、期待と不安のあいまざった独特な思いといったらいいだろうか。 「彼方」とはいっても、日本人にとっての海の彼方、山の彼方、村の彼方は、それほど遠くにイメージされてはいない。それは、岸辺から望める近くの島だったり、村落の背景をなす裏山だったり、村境に広がる野原だったり、実際には生活圏の身近に思われる「彼方」なのである。 かつては最高の敬意を表した「あなた」は、時代と共にしだいに敬意を低下させていったという。その推移は、そのまま海の彼方、山の彼方、村の彼方への敬意が薄れていった近代以降の精神の流れに重なっているといえるだろう。これを日本人の精神層としてみれば、「あなた=彼方」という言葉の深層(古層)には、かなり緊張度の強い敬意の気持ちが潜んでいるといえるかもしれない。 「あなた」には、そういう独特な距離にある「彼方」の世界への思いが込められているのではないだろうか。「彼方」の海や山や野は先祖の魂が眠る所。また「彼方」の海や山や野は、新たな生命をもたらせてくれる所。季節の折り目ごとに村を訪れる神々も、「彼方」の海や山や野からやってくる。 「わたし」は見知らぬ「あなた」と、世俗の価値や値打ちでは量れない、自然な生命の巡り合わせのようにして結ばれたいと願っている。それはどんな人にも、神や隣人や見知らぬ客人との無償な出会いを求める、いのちの衝動があるからだろう。自分を「あなた」と感じてくれる人との出会い、相互に「あなた」と感じあえる人との出会いが欲しいのである。その意味で、「あなた」を求める気持ちは、理想的な美や善を永遠に求め続けていく気持ちとよく似ている。
2016.02.29
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図書館で『アール・デコの挿絵本』という本を手にしたのです。すばらしい装丁技術やジョルジュ・バルビエの挿絵が載っていて、大使のツボを直撃しているのだが・・・どこかに既視感があるけど、まあいいかということで借りたのです。帰って日記をのぞいてみると、1年ほど前に借りたことが判明したので(イカンイカン)・・・(その2)としています。【アール・デコの挿絵本】鹿島茂著、東京美術、2015年刊<商品の説明>より■1920年代前後に登場したアール・デコの豪華挿絵本は、モード・ジャーナリスム隆盛を背景に、優れたイラストレーターや版画職人、裕福な購買層に支えられ、手間暇かけて少部数出版されたため、今日では稀覯本としてコレクター垂涎の的となっている。 ■本書は、イラスト、活字組版、複製技術、アート・ディレクションが一体となって生まれる総合芸術の魅力を、さながら実際にページを繰るがごとく、表紙から奥付まで、造本上の部位毎に項目をたて、役割や特色を、名作から厳選した実例を添えて解説。また、バルビエ、マルティ、マルタン、ルパップの挿絵本の中から、その世界観をじっくり味わえる傑作をテーマ別に多数紹介。 <読む前の大使寸評>版画と造本に触れていて、大使のツボをクリーンヒットしているのです。それになにより、彩色挿絵の頁が多くて、きれいな本になっています。Amazonアール・デコの挿絵本『アール・デコの挿絵本』1『アール・デコの挿絵本』1では、触れていなかったが、フランス式装丁に着目して読んでみました。当時は、本は原則として仮綴じの状態で出版され、購入者によって本格装丁を施すようになっていたとか・・・・今にしてみれば、びっくりポンの出版事情だったようです。p8~9<アール・デコの挿絵本は、どのようにしてつくられているのか?> フランスの挿絵本に限らず、フランスの古書に関して、まず、われわれ日本人が頭に入れておかなければならないことは、かつて本は原則として仮綴じの状態で出版され、購入者がそれぞれ自分の好みにあった本格装丁を施すようになっていたということだ。仮綴じとは、本が未完成の状態であるということを意味する。したがって、仮綴じの状態で読み始めてもかまわないが、読んでいるうちに綴じがほどけてくる可能性は十分あるから、やはり、装丁業者に出して装丁(ほとんどは革装丁)してもらわなければならなかった。 また、第二次大戦前には、読み終わった本、あるいは不要になった本を古本屋に売却しようとしても、仮綴じでは低い値段しかつかなかったから、やはり古本屋に売却するにしても装丁済みにしておく必要があった。また、古本屋に引きとってもらう場合も、装丁の良さ悪さが重大な査定ポイントになったから、装丁屋に装丁させておくのは不可欠なことだったのである。 アール・デコの挿絵本全盛の時代でも、このことは基本的に変わりなかった。つまり、本は装丁されてようやく完成するという意識はあいかわらず強かったのである。 とはいえ、新しい現象も観察されるようになってきていた。それは、出版されたままの、つまり仮綴じ状態のアール・デコの挿絵本が見事な完成度に達していたので、装丁はできる限り、現状を保存するようなかたちで行われるようになったことである。日本の本には見られないが、欧米の本に見られるレトリーヌが興味深いのです。p21~22<レトリーヌ(装飾頭文字):lettrine> これらのヴィニェット(テクスト組込図版)とは別にレトリーヌと呼ばれるイラストがあるから注意を要する。これは読者の注意を引くために、テクストの最初の文字だけを装飾的に大きくした装飾頭文字(花文字)で、文字だけのものとイラストと組み合わせたもの、またイラストで文字を形づくったものなどがある。レトリーヌ またこれはレトリーヌとは呼ばないが、テクストの一番最後に「終わり」と言う意味でFinという文字を置くことがあるが、このFinもしばしばイラスト的な装飾文字にデザインされて使われることがあるし、さらにそれにヴィニェットを伴うこともある。 装飾文字といえば、アール・デコの挿絵本ほどデザインとしての活字にこだわったものはないだろう。アール・デコの挿絵本の妙味が上記のようにイン・テクストのヴィニェットにあるとすると、ヴィニェットを生かすも殺すも活字のレイアウトの如何にかかわるわけだが、この活字自体が野暮臭いものではどうしようもないからだ。 その結果、ブックデザイナーは活字のフォントにも凝ることになる。そのあげく、『ビリチスの歌』においてバルビエの原画の彫りと刷り、それにレイアウトなどすべてを担当したシュミットはついに活字まで自分で制作するに至ったのだ。まさにイラストと活字の総合芸術としての挿絵本である。追って追記予定。
2016.02.29
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『朝日デジタルの書評から』フォームや『読みたい本』フォームを作っているのだが、これを市図書館の予約に利用しようと、思い立ったのです。これまでの予約内容と予約候補は以下のとおりです。<予約中>・紙の動物園(9/27予約済み)・データの見えざる手(11/20予約済み、副本4)・長いお別れ(11/23予約済み、副本24)・文体の科学(3/14予約、11/28再予約)・第2図書係補佐(11/29予約済み、副本7)・電気は誰のものか(12/09予約済み、副本0、予約6)・「中国共産党」論(12/11予約済み)・中国と日本(1/06予約済み、副本0、予約9)・江戸日本の転換点(1/06予約済み、副本0、予約7)・限界費用ゼロ社会(1/28予約済み、副本4、予約24)・越境者の政治史(1/29予約済み、副本0、予約3)・美麗島紀行(2/19予約済み、副本9、予約37)・フォトアーカイブ 昭和の公団住宅(2/26予約済み)・日本語大博物館(2/28予約済み、副本0、予約0)<カートで待機中>・英国一家 日本を食べる・勝者なき戦争 世界戦争の二〇〇年・みんな彗星を見ていた・オオクボ 都市の力・櫻画報大全・生きて帰ってきた男 ・アジア学の宝庫、東洋文庫<未収蔵の本>・スクリプトドクターの脚本教室・初級篇(市は未収蔵)・死者の花嫁―葬送と追想の列島史(市は未収蔵)・反知性主義とファシズム(市は未収蔵)・武器ビジネス マネーと戦争の「最前線」(市は未収蔵)・五色の虹(市は未収蔵)・ファイナル・アンカル(大学図書館にあり)・新説・明治維新(市は未収蔵)・桐野夏生『バラカ』(市は未収蔵)<予約候補>・世界史を変えた50の機械・和紙とケータイ・禁じられた歌(田)・大英帝国の親日派・福沢諭吉の朝鮮・原色 木材加工面がわかる樹種事典・美の侵犯(北川)・ペルシア王は「天ぷら」がお好き?・日本人の戦争(ドナルド・キーン)・反知性主義とファシズム・鳩の撃退法(副本12冊とも貸出中)<予約分受取:1/06以降>・対話録・現代マンガ悲歌(12/22予約、1/06受取)・マグリット事典(1/07予約、1/17受取)・日本戦後史論(7/27予約、1/19受取)・ハトはなぜ首を振って歩くのか(8/13予約、1/19受取)・百代の過客(1/19予約、1/26受取)・最終定理(1/23予約、1/28受取)・忘れられた巨人(7/18予約、2/09受取)・セルデンの中国地図(2/04予約、2/09受取)・谷崎潤一郎『陰翳礼讃』(2/15予約、2/18受取)【紙の動物園】江弘毅著、早川書房 、2015年刊<「BOOK」データベース>よりぼくの母さんは中国人だった。母さんがクリスマス・ギフトの包装紙をつかって作ってくれる折り紙の虎や水牛は、みな命を吹きこまれて生き生きと動いていた…。ヒューゴー賞/ネビュラ賞/世界幻想文学大賞という史上初の3冠に輝いた表題作ほか、地球へと小惑星が迫り来る日々を宇宙船の日本人乗組員が穏やかに回顧するヒューゴー賞受賞作「もののあはれ」、中国の片隅の村で出会った妖狐の娘と妖怪退治師のぼくとの触れあいを描く「良い狩りを」など、怜悧な知性と優しい眼差しが交差する全15篇を収録した、テッド・チャンに続く現代アメリカSFの新鋭がおくる日本オリジナル短篇集。<読む前の大使寸評>3冠に輝いた現代アメリカSFの新鋭ってか・・・・期待できそうやでぇ♪<図書館予約:(9/27予約済み)>rakuten紙の動物園【データの見えざる手】矢野和男著、草思社、2014年刊<「BOOK」データベース>より人間の行動を支配する隠れた法則を、「方程式」に表す。ヒューマンビッグデータがそれを初めて可能にした!時間の使い方・組織運営・経済現象など、人間と社会に関する認識を根底からくつがえす科学的新事実。科学としての確立と現場での応用が同時進行し、世界を変えつつある新たなサイエンスの登場を、世界の第一人者が自ら綴る!【目次】第1章 時間は自由に使えるか/第2章 ハピネスを測る/第3章 「人間行動の方程式」を求めて/第4章 運とまじめに向き合う/第5章 経済を動かす新しい「見えざる手」/第6章 社会と人生の科学がもたらすもの<読む前の大使寸評>判断基準の元になるデータについて、根底からくつがえす科学的新事実があるとすれば大事である。<図書館予約:(11/20予約済み、副本4)>rakutenデータの見えざる手【長いお別れ】中島京子著、文藝春秋、2015年刊<「BOOK」データベース>より帰り道は忘れても、難読漢字はすらすらわかる。妻の名前を言えなくても、顔を見れば、安心しきった顔をするー。認知症の父と家族のあたたかくて、切ない十年の日々。<読む前の大使寸評>大使の父も、晩年の数年はボケていたが…老人とはそういうものだと思っていたわけです。ときどき父の思い出が出てくる、今日この頃である。<図書館予約:(11/23予約済み、副本24)>rakuten長いお別れ【文体の科学】山本貴光著、新潮社、2014年刊<「BOOK」データベース>より長短、配置、読む速度…目的と媒体が、最適な文体を自ら選びとった。古代ギリシアの哲学対話から、聖書、法律、数式、広告、批評、小説、ツイッターまで。理と知と情が綾なす言葉と人との関係を徹底解読する。<読む前の大使寸評>『文体の科学』という書名が、かなりふざけた感じがするので・・・・書評だけでも読んでみようと思ったわけです。・・・わりと、広く浅い感じで読みやすそうである。なんといっても書名に座布団3枚♪冗談はさておいて、主語を明確にしない文体に評者も注目しています。内容の普遍性を担保するために、主語を明確にしないのか・・・・これなんか反米の大使としては、言語学的ナショナリズムがうずくわけです♪<図書館予約:(3/14予約、11/28再予約)>rakuten文体の科学【第2図書係補佐】又吉直樹著、幻冬舎、2011年刊<「BOOK」データベース>よりお笑い界きっての本読み、ピース又吉が尾崎放哉、太宰治、江戸川乱歩などの作品紹介を通して自身を綴る、胸を揺さぶられるパーソナル・エッセイ集。巻末には芥川賞作家・中村文則氏との対談も収載。【目次】尾崎放哉全句集/昔日の客/夫婦善哉/沓子(『沓子・妻隠』より)/炎上する君/万延元年のフットボール/赤目四十八瀧心中未遂/サッカーという名の神様/何もかも憂鬱な夜に/世界音痴〔ほか〕<読む前の大使寸評>又吉直樹のエッセイはどんなかな?♪ということです。<図書館予約:(11/29予約済み、副本7)>rakuten第2図書係補佐【電気は誰のものか】田中聡著、晶文社、2015年刊<「BOOK」データベース>より長野県の赤穂村は村をあげて村営の発電所を作ろうと夢みたが、電力会社に拒まれる。怒った村人が反対派の家を焼き討ちにしたとして捕らえられた赤穂騒擾事件。全国各地に吹き荒れた電気料金値下げをめぐる電灯争議。漏電火災への恐怖をあおる広報合戦…電気事業黎明期にさまざまに発生した電気の事件簿。電気を制するものは、社会も制する?名士に壮士にならず者、電気事業黎明期に暗躍した男たちの興亡史。【目次】序 電気は盗めるか/第1章 電灯つけるがなぜ悪い?-赤穂村の騒乱/第2章 初点灯という事件/第3章 何が帝国議事堂を燃やしたのか/第4章 東西対決と電気椅子/第5章 電灯争議/第6章 仁義なき電力戦争/終章 再点灯の物語<読む前の大使寸評>来年4月から電力契約自由化が始まるし、原発稼動ゼロでも乗り切ってきたニッポンの電力、望まれるエネルギーミックスなど・・・電力の現状を知りたいのです。<図書館予約:(12/09予約済み、副本0、予約6)>rakuten電気は誰のものか【「中国共産党」論】天児慧著、NHK出版、2015年刊<「BOOK」データベース>より中国の伝統的思想を踏まえ、独特の政治体制から現指導者の人脈まで、第一人者が持てる知見を総動員して中国共産党「支配の構造」を分析。経済の急減速、高まる民衆の批判、止まない腐敗・汚職など、共産党に吹くかつてない逆風を、習近平はいかに克服しようとしているのか。安易な中国崩壊論、民主化楽観論を排し、巨大国家の行く末を冷静かつ堅実に見通す著者渾身の一冊。【目次】序章 習近平の危惧/第1章 なぜ中国人は共産党を支持するのか/第2章 中国政治を動かす「人脈」の実態/第3章 揺れる中国ー変わる社会と変わりにくい体制/第4章 「中国の夢」と「新常態」のジレンマ/第5章 「中国型民主主義」の可能性<読む前の大使寸評>とにかく、世界の大迷惑となった巨大国家の行く末を、予測したいわけです。<図書館予約:(12/11予約済み)>rakuten「中国共産党」論【中国と日本】張承志著、亜紀書房、2015年刊<「BOOK」データベース>より“戦争50年”を経て“平和70年”の今、人はねじれたナショナリズムの波に呑まれ、曲がりくねった道を歩く。かつての過ちは記憶の外に消されていき、あとに残るのは「人間」のみ。その人間に必要なはずの道徳は、そして人道はどこへいったのか。中国人作家が歴史・文化・人物・平和憲法をとおして、日中の絆、そして日本を見つめなおす。他者への「敬重」と「惜別」の覚悟をもって語られる日本論。【目次】第1章 はるかなる東ウジュムチン/第2章 三笠公園/第3章 ナガサキ・ノート/第4章 赤軍の娘/第5章 四十七士/第6章 解説・信康/第7章 文学の「惜別」/第8章 「アジア」の主義/第9章 解剖の刃を己に<読む前の大使寸評>過激なナショナリズムを抑える論調は、日中両国の民にとって大切なんでしょうね。<図書館予約:(1/06予約済み、副本0、予約9)>rakuten中国と日本【江戸日本の転換点】武井弘一著、NHK出版、2015年刊<「BOOK」データベース>よりなぜ水田を中心にした社会は行き詰まったのか。老農の証言から浮かび上がる歴史の深層。米づくりは持続可能だったのか?新田開発は社会を豊かにする一方で農業に深刻な矛盾を生み出した。エコでも循環型でもなかった“江戸時代”をリアルに描き出す力作。【目次】序章 江戸日本の持続可能性/第1章 コメを中心とした社会のしくみ/第2章 ヒトは水田から何を得ていたか/第3章 ヒトと生態系との調和を問う/第4章 資源としての藁・糠・籾/第5章 持続困難だった農業生産/第6章 水田リスク社会の幕開け/終章 水田リスクのその後と本書の総括<読む前の大使寸評>水田リスク社会という切り口には、言ったもん勝ちというか、驚くわけです。<図書館予約:(1/06予約済み、副本0、予約7)>rakuten江戸日本の転換点【限界費用ゼロ社会】ジェレミー・リフキン著、NHK出版、2015年刊<「BOOK」データベース>より いま、経済パラダイムの大転換が進行しつつある。その原動力になっているのがIoT(モノのインターネット)だ。IoTはコミュニケーション、エネルギー、輸送の“インテリジェント・インフラ”を形成し、効率性や生産性を極限まで高める。それによりモノやサービスを1つ追加で生み出すコスト(限界費用)は限りなくゼロに近づき、将来モノやサービスは無料になり、企業の利益は消失して、資本主義は衰退を免れないという。 代わりに台頭してくるのが、共有型経済だ。人々が協働でモノやサービスを生産し、共有し、管理する新しい社会が21世紀に実現する。世界的な文明評論家が、3Dプリンターや大規模オンライン講座MOOCなどの事例をもとにこの大変革のメカニズムを説き、確かな未来展望を描く。21世紀の経済と社会の潮流がわかる、大注目の書!<読む前の大使寸評>シェアとか再生が、今のところ大使のミニブームである。・・・ということで、この本は興味深いのです。<図書館予約:(1/28予約済み、副本4、予約24)>rakuten限界費用ゼロ社会【越境者の政治史】塩出浩之著、名古屋大学出版会 、2015年刊<「BOOK」データベース>より北海道・樺太へ、ハワイ・満洲・南北アメリカへ。大量に送り出された日本人移民たちの政治統合は、日本およびアジア太平洋地域の秩序にどのようなインパクトをもたらしたのか。移民史・政治史の盲点を克服し、一貫した視点で新たな全体像を描き出す。<読む前の大使寸評>吉岡桂子委員が選んだ、骨太の近現代史という感じでんな♪<図書館予約:(1/29予約済み、副本0、予約3)>rakuten越境者の政治史【美麗島紀行】乃南アサ著、集英社、2015年刊<「BOOK」データベース>より人気作家・乃南アサが台湾各地をくまなく巡り、台湾と日本の深い関係性についてその歴史から思いを馳せる異色の台湾紀行。著者自らが撮影した、台湾各地の情緒あふれる写真とともに構成する。【目次】時空を超えて息づく島/夏場も時代も乗り越えた小碗の麺/牛に引かれて、ならぬ「牛舌餅」にひかれて/台中で聞く「にっぽんのうた」/道草して知る客家の味/過去と未来を背負う街・新竹/「お手植えの黒松」が見てきた歳月/宋文薫先生夫妻/淡水の夕暮れ/矛盾と摩擦の先にあるもの/日本統治時代の幕開けと終焉ー宜蘭/嘉南の大地を潤した日本人ー八田與一/「文創」が生み出すもの/三地門郷で聞く日本の歌/「帰れん港」と呼ばれた町・花蓮/出逢いと別れを繰り返す「雨港」-基隆/夕暮れの似合う街・台南ふたたび/手のひらに太陽を/「日本人だった」-台湾の老翁たちにとっての日本統治時代 <読む前の大使寸評>世界で親日的な国といえば、筆頭に台湾がきて、その次にトルコかな♪対岸の大陸に厳しい態度をとっているのも好感が持てるわけで・・・とにかく、日本人旅行者にとって居心地のいい国である。<図書館予約:(2/19予約済み、副本9、予約37)>rakuten美麗島紀行【フォトアーカイブ 昭和の公団住宅】長谷田一平著、智書房、2015年刊<「BOOK」データベース>より戦後70年、日本住宅公団(現UR)発足60年。ネガフイルム3669本 約13万点をチェック。高島平、ひばりが丘、高根台、常盤平、善行、浜見平、尾山台、武里、取手井野など首都圏143団地から328点を厳選掲載。<読む前の大使寸評>追って記入<図書館予約:(2/26予約済み)>rakutenフォトアーカイブ 昭和の公団住宅【日本語大博物館】紀田順一郎著、ジャストシステム、1994年刊<「BOOK」データベース>より活字からワープロまで。漢字廃止運動からデータベース開発まで。この100年、日本語〈近代化〉に注がれた全情熱の軌跡を追う。埋もれた資料を発掘、豊富なカラー図版で迫る、初の〈日本語大博物館〉。<読む前の大使寸評>追って記入<図書館予約:(2/28予約済み、副本0、予約0)>Amazon日本語大博物館【英国一家 日本を食べる】マイケル・ブース著、亜紀書房、2013年刊<「BOOK」データベース>より市場の食堂から隠れた超名店まで、ニッポンの味を無心に求めて―東京、横浜、札幌、京都、大阪、広島、福岡、沖縄を縦横に食べ歩いた100日間。<読む前の大使寸評>今ちょうど、この本をもとにしたNHK番組が放映されているので、興味が倍加するのです。<図書館予約:カートで待機>amazon英国一家 日本を食べる【みんな彗星を見ていた】星野博美著、文芸春秋、2015年刊<商品説明>より東と西が出会ったとき、一体何が起きたのか多くの謎が潜む、キリシタンの世紀。長崎からスペインまで、時代を生き抜いた宣教師や信徒の足跡を辿り、新たな視点で伝える。 <読む前の大使寸評>三浦しをんが泣きながら読んだとのこと・・・どんな本なのか?♪<図書館予約:カートで待機>rakutenみんな彗星を見ていた【オオクボ 都市の力】稲葉佳子著、学芸出版社(京都)、2008年刊<Amazonデータ>より外国人居住者が35%以上を占め、エスニックタウンとして知られる新宿区大久保。多様な文化が混在・共生し、めまぐるしく変容し続けるまちには、常に移民を受け入れてきた歴史的風土があった。20年にわたるフィールド調査から見えてきた、チマチマ雑居空間にみなぎる外国人パワーと、新陳代謝するまちの魅力を徹底追跡。<読む前の大使寸評>追って記入<図書館予約:カートで待機>rakutenオオクボ 都市の力【櫻画報大全】赤瀬川原平著、新潮社、1985年刊<「BOOK」データベース>より古書につきデータなし<読む前の大使寸評>マンガ作家としての赤瀬川さんを、じっくり回顧してみようと思うのです。<図書館予約:(カートで待機)>rakuten櫻画報大全【生きて帰ってきた男】小熊英二著、岩波書店、2015年刊<「BOOK」データベース>より とある一人のシベリア抑留者がたどった軌跡から、戦前・戦中・戦後の日本の生活面様がよみがえる。戦争とは、平和とは、高度成長とは、いったい何だったのか。戦争体験は人々をどのように変えたのか。著者が自らの父・謙二(1925ー)の人生を通して、「生きられた20世紀の歴史」を描き出す。<読む前の大使寸評>追って記入<図書館予約:(とりあえず、予約カートに入れとこう)>rakuten生きて帰ってきた男【アジア学の宝庫、東洋文庫】東洋文庫 (編集)、勉誠出版、2015年刊<商品の説明>よりアジア地域の歴史文献95万冊を所蔵する、東洋学研究の一大拠点、東洋文庫。その多彩かつ貴重な史料群は、いかにして収集・保存され、活用されているのか。学匠たちが一堂に集い、文庫の歴史と魅力をひもとき、深淵な東洋学の世界へ誘う。東洋文庫90周年記念企画。<読む前の大使寸評>追って記入<図書館予約:(とりあえず、予約カートに入れとこう)>Amazonアジア学の宝庫、東洋文庫図書館予約の軌跡40図書館情報ネットワーク 蔵書検索システム図書館に対する辛口批評が『図書館利用の達人』に見られます。
2016.02.28
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今ではドングリ国のスーパーでも置いてあるほど、柿の葉寿司は関西いちえんで流通しているわけで・・・・大使も、とぎれずに愛顧しているわけでおま♪(勝手に関西遺産)が柿の葉寿司をとりあげているが、この際、過去にさかのぼり、このてのディープな関西味を集めてみます。《2005年》・たこ焼・鯖街道(福井~京都)・フナズシ(滋賀)《2006年》・ホルモン焼き・捕鯨文化(和歌山)・重詰め料理《2007年》・蒸しずし・伊勢のヒジキ・どぶ漬け・トウガン・揚子江ラーメン(大阪)・魚すき《2008年》・モロゾフのプリンカップ・麦縄(日本の?〈めん〉のルーツ)・桑名のハマグリ(三重)・琵琶湖の鮎・福知山の広東式めん・ニシン昆布巻き・鯨のハリハリ鍋《2009年》・海老芋(えびいも)と棒ダラの煮物・大阪うどん・玉子焼(明石焼)・夫婦善哉(大阪)・京都の豆腐・豚まん・イカ焼き(大阪)・赤こんにゃく(滋賀)・ぶぶ漬けでもどうどす?(京都)2010年以降は大使がたまたまスクラップしているもののみリストアップしています。《2010年》・串カツ(大阪)《2013年》・動くカニの看板(大阪)《2014年》《2015年》・柿の葉寿司・鶴橋駅のにおい・早寿司と中華そば《2016年》・だしの自動販売機2015.3.18((勝手に関西遺産)包むなら 風味と誇りより■柿の葉寿司 奈良県民の柿の葉寿司への愛情は、恐るべし、である。 例えば、将棋担当の筆者に「お正月は柿の葉寿司を食べますね」と奈良市在住の将棋棋士、脇謙二八段(54)と囲碁棋士、荒木真子三段夫妻。「吉野大峯・高野観光圏協議会」地域コーディネーターの西久保智美さん(39)は寿司を省略して「柿の葉」と連呼した。それで分かるでしょ、というわけ。 西久保さんに「奈良県吉野町の吉野山で桜が咲き誇る頃、行列が出来る柿の葉寿司専門店がある」と教わり、訪ねた。金峯山寺に近い「ひょうたろう」。店主の水本和幸さん(62)に「違いを分かって欲しい」といきなり食べ比べに誘われた。一皿目は塩味が強く、二皿目は具のサバの脂が酢飯に染みこんで、まろやか。最初の皿は当日、次の皿は前日作ったもの。「2日目がおいしいでしょ」。はい…。すごい迫力だ。 吉野地方に古くから伝わる柿の葉寿司。冷蔵庫などない昔、熊野灘でとれたサバは塩漬けにされ熊野街道で運ばれた。塩加減がほど良くなった頃、うすく切って、すし飯に乗せる。柿の葉にくるんで吉野杉で作った箱に入れ、一日押しておくと柿の葉の芳香も移り、風味豊かに。「吉野が林業で豊かだったから、わざわざサバが届いたんだと思うよ」。郷土への誇りも隠し味だ。 もともとは夏祭りの時のおもてなし料理。「各家庭で作ってました。僕のはお袋の味」と水本さん。そんな素朴な存在だったはずが、今や全国区に。各地の名物駅弁を集めた、JR東京駅の「駅弁屋 祭」では「柿の葉すし本舗たなか」(本店・奈良県五條市)など柿の葉寿司が一大勢力だ。 人気の理由は? お箸やお皿が無くても食べられる簡便さや、もともと保存食だから日持ちも良い。 その特性が発揮されたのが阪神淡路大震災だった。「みんな、パンやカップ麺でしのいでいる。ごはんものでホッとさせてあげたい」。被災地の首長からの要請に応え、「たなか」は柿の葉すし1万5千食を急送した。箸や皿が無い避難所でも食べやすく、ネタも同じだったので気兼ねなく分け合え、好評を博した。 「柿の葉ずし総本家平宗」(本店・奈良県吉野町)は自社のホームページ上に、奈良県出身の河瀬直美監督のミニ映画「つつむという優しい文化」を掲げる。平井宗助代表取締役(44)は「海外のホテルだとチップはそのまま置いておくけど、日本旅館なら紙で包んで渡したりするでしょ。包んで真心をこめるって日本人の精神性を体現している」。 もうすぐ春。桜吹雪に包まれながら、柿の葉寿司を食べ、包む文化までも味わうことにしよう。(佐藤圭司)2015.6.17((勝手に関西遺産)焼き肉ないと つらいっすより■鶴橋駅のにおい 夕刻、帰宅客を乗せた近鉄電車が鶴橋駅に到着した。ドアが開き、乗客とともに車内に潜り込んできたのは、焼き肉のにおいだ。 ホームから、「牛豚 ホルモン」「焼き肉横丁」の看板や横断幕が間近に見える。中谷巧駅長(54)によると、においが強くなるのは、やはり食事時にさしかかる午前11時からと午後6時から。「空腹のとき、このにおいはつらいんじゃないか」とお客に同情される駅員もいたという。ただ、「慣れからか、あまりにおいは気にならない」のだそうだ。 このにおいを読者にお届けしたい。でも、文字だと伝えづらい。数値化できたら! そう考えて、日本分析化学専門学校(大阪市北区)に、測定をお願いした。数年前、ここの学生が「大阪の代表臭」を記した地図を作ろうとした際、鶴橋駅の改札のそばで焼き肉のにおいのサンプルを集めたと聞いていた。 ところが佐藤智子副校長からは、「におい識別装置ではにおいの強さは測定できても、それが焼き肉のにおいかは確認できない」とたしなめられた。それならと、焼き肉のにおいをおかずにご飯を食べてもらう壮大な「実験」を提案。生命バイオ分析学科2年の3人が引き受けてくれた。なんて探求心の強い学生さんなんだ。「エア焼き肉」のお味は果たして――。 実験当日の夕刻。鶴橋駅の西口に着くと、すでに辺り一帯ににおいが立ちこめていた。家路を急ぐ人たちが、ホームで列をつくっているのが見える。白衣姿の学生3人は濃厚なにおいを鼻腔から思いっきり吸い込んだ。そして、用意した炊きたてのご飯をパクリ。じっくりとかみしめながら、真剣に言葉を探す。 「においと味がむちゃくちゃ分離してて、思った感じにはならなかった。タレがあれば……」となんだか悔しそうな石原拓海さん(19)。森本莉子さん(22)は「目をつぶったら焼き肉屋の中にいる気分。ご飯にタレをかけたらいけたかな」とはにかむ。もう一人の女子学生(21)は「焼き肉定食の最後に残ったごはんを食べてる感じ」と冷静だ。 で、佐藤副校長はいかがですか? 「白ご飯だけ食べるよりはいける気がする。1口で終わらずに、2口、3口といける」と食が進んだ様子。そして、最後にこうまとめてくれた。「嗅覚と味覚は密接に関係していますが、今回の場合は嗅覚だけでは味覚を補えなかったということですね。あとは本人がどれだけ想像力を発揮できるか、です」 鶴橋駅周辺は2001年、環境省の「かおり風景100選」に選ばれている。その説明には「焼き肉の香ばしいかおりやキムチなどの独特なかおりが広範囲にわたって漂っている」とあり、「庶民的なムード」「失われつつある古き良き風景」などと評価されていた。 においが街の表情になっている。そう実感できる場所だ。(稲垣大志郎)■追手門学院大教授 佐藤友美子さん(63) 「かおり風景100選」の選定委員を務めました。鶴橋駅周辺の焼き肉のにおいは自己主張がすごい。駅にいながらにして、その地域や店のたたずまいが思い浮かぶようで、ぜひ100選に入れたいと強く推しました。最近は何でも、においをなくそうとする「無臭」の方向に動いているような気がします。でも、それでは個性がなくなってしまう。生活のにおい、地域の営みの香りを大事にしてほしいです。ああ 鶴橋で焼肉を食べたい♪朝日夕刊に(関西食百景)シリーズなるものがあり、バッテラが載っていたので、例外的に紹介します。2016.2.20型にいっぱい 遊び心より■大阪のバッテラ まな板の上でヒノキの四角い「型」がくるっくるっと回る。 ばんっ、という大きな音とともに一気に型が外れ、青く光るサバを頂いたバッテラが姿を現した。うすい白板昆布を載せて完成。口に運ぶと、酢とサバのさわやかな香りが抜ける。 創業1653年、大阪すしの老舗「小鯛雀鮨(こだいすずめずし)すし萬」で、自らも包丁を振るう小倉宏之会長(63)は「サバが新鮮であればこそ、寝かせられる」と言う。 三枚におろして、粗塩につけて約3時間。次いで特製の酢に約10分漬け、冷蔵庫でさらに2日寝かす。注文が入れば、サバの腹側を数枚にそぎ分け、縦4・5センチ、横18センチの特注の型に背側とバランス良く張っていく。 「型」を回すのは、ふたを押す重みを均等に行き渡らせるため。ばんっ、と一気に外すのは、「僕もおやじに言われて。気合みたいなもんかな」と小倉さん。長く継がれた技だ。 実は、すし萬がバッテラという名の商品を置くのは、季節のフェアなどの時だけだ。常時ある箱押しのサバのすしは「柳すし」。サバが柳の葉に見えるためで、サバがより肉厚で、バッテラとは少し工程が違う。 ただ、お客向けの柳すしの説明文に「独自のバッテラ」とある。小倉さんは「大阪で子どもの時から聞く名は、やっぱりバッテラでしょうから」と笑う。■ホンマにサバ好き 決め手は脂 バッテラはポルトガル語で小型のボートを意味する。明治の頃に大阪の「すし常」がその名を生んだといい、大阪湾でよく取れたコノシロを活用しようと考案したすしの形がボートに似ていた。ただ、コノシロの値が上がり、間もなくサバに変えたという。 同じ関西でも、京都でサバのすしと言えば棒状に巻き固める棒ずし。祭日などの「ごちそう」だった京都の鯖ずしに比べ、バッテラは日常的な食べ物として広まった。大阪の食文化を研究するNPO法人「浪速魚菜の会」の笹井良隆代表(60)は「安いものを有効にとの大阪らしい考えで生まれ、形や名前のおもしろさが大阪人の遊び心に合ったんでしょう」と話す。
2016.02.27
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図書館で『ニッポンの映画監督』というムック本を手にしたのです。2008年刊でやや古い本なのだが、取り上げた監督、扱った題材、が渋くて・・・・ええでぇ♪21世紀の日本映画といえば、大使の場合『パッチギ!』、『フラガール』、シネカノンに代表されるわけだが・・・そのあたりに触れているところを見てみましょう。 (p135)商業性と作家性の両立より 現在の日本映画界では、フジテレビをはじめとするテレビ局が出資した作品が、興行成績の上位を占めている。その強みは時局の番組やCM枠を使って、作品に関する情報を大量に流せることだ。テレビ局が加わらない作品は、テレビスポットを一つ流すにしても放送枠を買わなければいけない。もともと製作予算に加えて宣伝予算でも、テレビ局が出資した作品とそれ以外では大きな開きがある。■タブーにも果敢に挑戦、シネカノンの心意気 一方で一般の観客は、携帯電話、パソコンなどの情報ツールが普及したこともあり、自ら情報を求めるよりも受け取ることに慣れている。宣伝なき映画はますます不利な立場に追い込まれていく構造だ。弱小資本の映画は、人々の耳目に触れることもなく、まるで存在さえしないように消え去っていく。 こうしたハンデを背負いながら独自のカラーを保って作品を作り続けている独立系(インディペンデント系)製作会社がある。東宝、松竹、東映などの大手映画会社以外で、近年、とりわけ注目されているのは、シネカノンとアスミック・エースエンタテインメントの2社になるだろう。 シネカノンは、崔洋一の『月はどっちに出ている』(93)から日本映画の製作に乗り出し、『パッチギ!』(04)、『フラガール』(06)など、その年の映画賞を総なめにした作品を世に送り出してきた。代表は在日朝鮮人の李鳳宇。自らのバックグラウンドを作品群に色濃く反映させている点で、特徴がある。 『のど自慢』(99)、『ゲロッパ!』(03)、『パッチギ!』(04)二部作の井筒和幸や、『ビリケン』(96)、『KT』(02)の坂本順治など、特定の監督との関係を緊密に保ち、作家性を引き出した作品を生んできた。07年公開の『パッチギ!LOVE & PEACE』では、日本の芸能界にある在日挑戦人バッシングを描くなど、大手映画会社なら敬遠しかねないテーマにも切り込んだ。■若者のニーズに合わせた意欲作連発のアスミック アスミック・エースエンタテインメントは、ヘラルド・エースを率いていた原正人が、98年にアスミックと合併して立ち上げた。初期には原自身がプロデューサーとなって、『不夜城』(98)、『雨あがる』(99)などの作品を製作。近年、若手プロデューサーが育ち、『ピンポン』(02)、『ジョゼと虎と魚たち』(03)、『真夜中の弥次さん喜多さん』(05)、『さくらん』(07)など、若者のニーズに合った意欲作を連発している。(中略) この2社は、1社製作にはこだわらず、テレビ局を含めた数社との共同製作もあるが、映画を作り上げてから出資を募る形もとり、作品を自社でハンドリングできるようにしている。同じ製作委員会方式をとっていても、大手会社とは違う独自のカラーを生かした作品作りができるのはそのためである。その後、独立系の星ともいえたシネカノンは倒産し、李鳳宇さんは新しい経営策を進めているようです。シネカノンについて、ウィキペディアを見てみましょう。wikipediaシネカノンよりシネカノンは、 日本の独立系映画会社である。映画制作、映画配給、劇場運営、飲食店運営を主な事業とする。代表作は「月はどっちに出ている」「パッチギ!」「フラガール」など。2010年1月、経営が破綻し東京地裁に民事再生の手続を申請した<沿革>1989年 - 李鳳宇によりシネカノン設立。ポーランド映画『アマチュア』初の配給。2007年 - 2006年作品『フラガール』が第80回キネマ旬報ベストテン・邦画第一位及び第30回日本アカデミー賞最優秀作品賞を受賞。2009年 - 舞台・ミュージカル制作事業の第1弾としてフジテレビと共同で舞台『パッチギ!』を制作。2010年 - 総額47億300万の負債を抱えて東京地裁に民事再生法の適用の申請。2011年2月21日 - スポンサーのジャック・グループが設立した「ジェイ・シネカノン」へシネカノン著作物70作品を譲渡する。<主な配給・制作映画>抜粋・月はどっちに出ている(1993年)・ヴァイブレータ(2003年)・誰も知らない(2004年)・パッチギ!(2004年)・ゆれる(2006年)・フラガール(2006年)・麦の穂をゆらす風(2006年)・魂萌え!(2007年)【ニッポンの映画監督】ムック、朝日新聞出版、2008年刊<商品説明>より大ヒット続出で活況を呈する日本映画界。新しい才能から世界が注目する奇才まで、21世紀に活躍する映画監督70人以上を一冊にまとめた名鑑スタイルのムック。目玉企画は識者・映画関係者に大アンケートを実施した「21世紀の日本映画ベスト10」。見巧者たちがいま観るべき映画を指南。そのほか、インタビューや初顔合わせの対談をはじめ、映画界の現状がわかる読み物も満載。DVD鑑賞のガイドブックとしても楽しめる保存版の一冊。<読む前の大使寸評>2008年刊でやや古い本なのだが、取り上げた監督、扱った題材、が渋くて・・・・ええでぇ♪Amazonニッポンの映画監督『ニッポンの映画監督』1『ニッポンの映画監督』2
2016.02.26
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田舎の家で、父の蔵書『一下級将校の見た帝国陸軍』という本を手にしたが・・・パラパラと飛ばし読んでみると、戦中の雰囲気が、よく伝わってきます。今次大戦の体験者がどんどんいなくなる昨今だからこそ、読み継いでいくべき本ではないかと思うわけです。【一下級将校の見た帝国陸軍】山本七平著、朝日新聞社、1984年刊<「BOOK」データベース>より古書につきデータなし<大使寸評>山本さんは、敗戦を経ても日本人は変わらなかったと述べています。その変わらなかった日本人のコアとは何だったのか?卑近な表現になるが・・・空気を読む均一性とか、出る杭を打つ百姓根性あたりではないか?Amazon一下級将校の見た帝国陸軍陸軍参謀の辻政信が戦後に復活したが、これは大使にとって最大の疑問であった。そのあたりについて、山本さんが「あとがき」のなかで述べています。<あとがき> 一部の例外者は別だが、終戦後の生活はだれにとっても苦しく、当時どうやって生活を維持していたのか、どんな精密なコンピューターでも解明できまいと言う人もいる。欠くことのできぬ「食」をはじめとして、日々に即座に解決しなければならぬ目前の問題は余りに多くかつ大きく、苦しかった過去の思い起こしてそれを追求する苦痛と重荷をその上に上乗せすることは、おそらく、人間の能力の限界を越えることだったのであろう。確かに追求らしきことも行われた。しかし追求するその人が、自分が戦争中何を信じ、何を言い、何を行ったかを忘れかつ棄却するための他者への追及は、追及という名の打ち切りにすぎない。 いまそれを批判することは、戦時中を批判すると同様にたやすい。だが私はいつも、その批判の横から、奇妙な“戦時中の顔”がこちらをのぞいているこに、気づかないわけにいかなかった。 最初にこれを強く感じたのは、辻政信の華々しい復活であった。確か60年安保の少し前と思うが、参院選における彼の街頭演説の現場を偶然目にし、その痛烈な岸首相批判演説と実にみごとな演技と、それに対してやんやの喝采を送り、次々と握手を求めている聴衆の姿を見たときであった。なぜこれが可能なのか、なぜこれが常に通用するのか。なぜ彼が常に一つの「権威」として存続しうるのか。彼よりもむしろ、興奮し喝采し声援を送っている人びとの姿に、私は、あの敗戦も克服し得なかった“何か”を感じた。 そして同じことは、大学騒動にも、横井さん・小野田さんの出現にも、連合赤軍のさまざま事件にも、官庁の機構にも国鉄の組織にも、感じざるを得なかった。と同時に多くの人びとが何かを錯覚しているように感じた。 というのは、新聞雑誌は、横井さんの出現を戦前の異質の世界の出現として捉える一方、連合赤軍のリンチを戦前に考えられぬ戦後社会を異常が生み出した現象と断じたからである。戦前戦後はもちろん同じ社会ではない。それどころか、私がこの世に生まれ出てから約半世紀、日本も世界も、それぞれの社会は常に大きく変わり続けており、一口に戦前と言っても昭和初年と20年は同じではなく、戦後と言っても昭和21年と現代は同じではない。 ただ問題は、これらの変化は常に、わらわれがもつ問題の解消ではなかったことである。簡単にいえば、日本軍の如く目前の何かを「片づけた」のであろうが、それは何かが本質的に「片づいた」ことではなく、変化をつづければすべてが永久に「片づく」わけでもない。言葉を変えれば日章旗を「片づけて」赤旗を振ったとて、さらにその赤旗を「片づけて」他の旗を振ったとて、その外面的変化は、振っている人間の髪の毛一本をも変え得ないということである。まして、内面的変化は到底期待できない。それゆえわれわれが内にもつ問題点は、その外面的変化の華々しさに関係なく、何らの解明も解決もされずに、そのまま残っていて当然なのである。 外面的変化で自らを欺くことなく、冷たく自己を再把握しこれを統御することによって自らを変革さす、これが本当の変革であろうが、このことの困難さは、古来多くの文学にとりあげられ、ヘブル文学の旧約ではいわゆる「知恵文学」の主題の一つである。そしてこの困難さに耐え得た者だけが、未来に対処できるのであろう。
2016.02.25
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図書館に予約していた『陰翳礼讃』をゲットしたのです。待つこと3日の超速ゲットになったわけで・・・・このような古い名作は狙い目なのかも♪【陰翳礼讃】谷崎潤一郎著、中央公論新社、1995年刊<「BOOK」データベース>より【目次】陰翳礼讃/懶惰の説/恋愛及び色情/客ぎらい/旅のいろいろ/厠のいろいろ<読む前の大使寸評>横尾忠則が『陰翳礼讃』を絶賛していたので、気になるのです。図書館に予約していたが、待つこと3日の超速ゲットになったわけで・・・・このような古い名作は狙い目なのかも♪<図書館予約:(2/15予約、2/18受取)>rakuten陰翳礼讃文豪が、老境の交際関係を語っています。p155~157 <客ぎらい> それに私は、近頃老齢に達するにつれて、一層年来の孤立主義を強化してもよい理由を持つようになった。なぜかというと、いくら私が交際嫌いであるからと云って、六十何年の間には相当に知人が殖えており、若い時代に比べれば、既に現在でも交際の範囲が非常に広くなっているのである。 若い時代には一人でも多くの人を知り、少しでも多くの世間を覗く必用があるかも知れないが、私の場合は、この先何年生きられるものかも分からないし、大体生きている間にして置こうと思う仕事は、ほぼ予定が出来ているのである。その仕事の量を考えると、なかなか生きている間には片付きそうもないくらいあるので、私としては自分の余生を傾けて、それをぽつぽつ予定表に従って片端から成し遂げて行くことが精一杯で、もうこれ以上人を知ったり世間を覗いたりする必用は殆どない。 他人に対して願うところはただ少しでも予定の実行を狂わせたり、邪魔したりしてくれないように、と云うことに尽きる。尤もこう云うと、さも勉強家のように聞え、寸陰を惜しんで始終仕事に熱中しているように聞えるかも知れないが、実際はそれの反対で、若い時から人並外れた遅筆家であった私は、老来種々なる生理的障害・・・たとえば肩が凝るとか、眼が疲れるとか、神経痛で腕が痛むとか云ったような、・・・が加わるに及んで、いよいよその習性がひどくなり、原稿用紙1枚書くのにも、間で庭を散歩するとか座敷を歩き回るとか云う合の手を入れなければ、根気が続かない有様なので、仕事中と云っても正味執筆している時間は割合に少なく、ぼんやり休養している時間の方が遥かに多い。 つまり、1日のうちで緒条件の備わった、順調にすらすら筆が動いている時間はほんの僅かしかないのであるから、それだけになお邪魔が這入ると被害が大きいことになる。ほんの5分か3分でよいからお目に懸りたい、などと云って来る人があるが、その3分か5分のために折角の感興が中断されると、再び書斎に戻って行っても直ぐには油が乗って来ないので、30分や40分は忽ち空に消えてしまい、どうかすればそれきり書けないでしまうことがあるから、邪魔される分には時間の長い短いは大して関係がないのである。 そこで、昨今の私は出来るだけ交際の範囲をちぢめ、せめてその範囲を現在以上に広げないようにし、新しい知人をなるべく作らないようにしている。昔は交際嫌いと云っても美人だけは例外で、美しい人に紹介されたり訪ねて来られたりすることは、この限りではなかったのであるが、今はそれさえもあまり有難いとは思わない。 と云うのは、今日でも美人が好きであることに変わりはないのだけれども、年を取ってからは美人に対する注文が大変面倒になって来ているので、普通の美人と云うものは、殊に今日の尖端的タイプに属する美人と云うものは、私には少しも美人とは映らず、却って悪感を催すに過ぎない。 私は私で、ひそかに佳人の標準を極めているのであるが、それに当て嵌る人と云うものはまことに暁天の星の如くであるから、そんなものが無闇に出現しようとは思ってもいない。むしろ私は今日までに知ることを得た何人かの佳人との間に、今後も交際を続けて行かれれば満足であり、老後の私の人生はそれで十分花やかであって、それ以上の刺激は欲しくないのである。それ以上の刺激は欲しくないたって、谷崎さん。佳人とよろしく交際するだけだなんて・・・それはかなり欲張りではないかと思うのです。文豪が、日本の女の陰鬱な美しさを述べています。p46~48 <陰翳礼讃> 鉄漿(おはぐろ)などと云う化粧法が行われたのも、その目的を考えると、顔以外の空隙へ悉く闇を詰めてしまおうとして、口腔へまで暗黒をかませたのではないであろうか。今日かくの如き婦人の美は、島原の角屋のような特殊な所へ行かない限り、実際には見ることが出来ない。しかし私は幼い時分、日本橋の家の奥でかすかな庭の明りをたよりに針仕事をしていた母の佇まいを考えると、昔の女がどう云う風なものであったか、少しは想像出来るのである。 あの時分、と云うのは明治20年代のことだが、あの頃までは東京の町家も皆薄暗い建て方で、私の母や伯母や親戚の誰彼など、あの年配の女達は大概鉄漿を付けていた。着物は普段着は覚えていないが、余所行きの時は鼠地の細かい小紋をしばしば着た。 母は至ってせいが低く、五尺に足らぬほどであったが、母ばかりでなくあの頃の女はそのくらいが普通だったのであろう。いや、極端に云えば、彼女たちには殆ど肉体がなかったのだと云っていい。私は母の顔と手の外、足だけはぼんやり覚えているが、胴体については記憶がない。それで想い起こすのは、あの中宮寺の観世音の胴体であるが、あれこそ昔の日本の女の典型的な裸体像ではないのか。 あの、紙のように薄い乳房の付いた、板のような平べったい胸、その胸よりも一層小さくくびれている腹、何の凹凸もない、真っ直ぐな背筋と腰と臀の線、そう云う胴の全体が顔や手足に比べると不釣合いに痩せ細っていて、厚みがなく、肉体と云うよりもずんどうの棒のような感じがするが、昔の女の胴体は押しなべてあああ云う風ではなかったのであろうか。 今日でもああ云う恰好の胴体を持った女が、菖弊な家庭の老婦人とか、芸者などの中に時々いる。そして私はあれを見ると、人形の心棒を思い出すのである。事実、あの胴体は衣装を着けるための棒であって、それ以外の何者でもない。胴体のスタッフを成しているのは、幾襲ねとなく巻き付いている衣と綿とであって、衣装を剥げば人形と同じように不恰好な心棒が残る。が、昔はあれでよかったのだ。 闇の中に住む彼女たちに取っては、ほのじろい顔一つあれば、胴体は必要がなかったのだ。思うに明朗な近代女性の肉体美を謳歌する者には、そう云う女の幽鬼じみた美しさを考えることは困難であろう。また或る者は、暗い光線で胡麻化した美しさは、真の美しさでないと云うであろう。 けれども前にも述べたように、われわれ東洋人は何でもない所に陰翳を生ぜしめて、美を創造するのである。「掻き寄せて結べば柴の庵なり解くればもとの野原なりけり」と云う古歌があるが、われわれの思索のしかたはとかくそう云う風であって、美は物体にあるのではなく、物体と物体との作り出す陰翳のあや、明暗にあると考える。夜光の珠も暗中に置けば光彩を放つが、白日の下に曝せば宝石の魅力を失う如く、陰翳の作用を離れて美はないと思う。次に、文豪お奨めの大和路めぐりを見てみましょう。p173~175 <旅のいろいろ> なおまた、これだけは大阪地方の読者諸君にそっとお知らせしたいのであるが、私は実は、桃の花の咲く時分、関西線の汽車に乗って春の大和路を眺めることを楽しみの一つに数えているのである。御承知の通り、あの方面を走っている電車は花見頃にはいずれの線も超満員で無理な人数を収容し、無理なスピードを出すせいか、毎度間違いを起こすのであるが、そう云う時、試みに湊町を出て、先年地すべりのあった何とか云う村のトンネルを通り、柏原、王子、法隆寺、大和小泉、郡山等の小駅を経て奈良へ行く汽車に乗ってみ給え。大軌で四五十分で行くところを、この線の普通列車だと1時間と12,3分はかかるのであるが、急行に乗っては意味がないので、御丁寧に一つ一つ停まって行く列車がよいのである。 乗ってみてまず驚くのは、電車の方はあんなに雑沓しているのに、汽車は殆どがら空きで、1台に数えるほどしか乗っていない。三等でも大概そうだが、二等に乗れば間違いなしである。ところで、そのゆっくりとした座席に足を投げ出して、ガタンと停まってはまたガタンと動き出す悠長な車に揺られながら、霞にけぶる大和平野の森や、丘や、田園や、村落や、堂塔などの、武陵桃源風なけしきを窓外に送り迎えていると、いつの間にか全く時間と云うものを忘れてしまう。 窓の外にはいつまでも霞む平野が続きながら、日の暮れる時がないような気がする。私は殊に、春雨の降る日の午後にこの汽車に乗ることを好むのであるが、そう云う時は体がだるくものうくて、ついうとうとと眠たくなるままに居眠っていると、おりおりガタンと動き出す拍子に眼を覚まされる、すると窓ガラスが水蒸気で曇っていて、外の平野には猫の毛のような細かい雨の脚が霞よりも暖かそうに濛々と立ちこめ、遠くの方の塔や森を包んでいる、そうして奈良へ着くまでの1時間あまりと云うものが、無限にのどかに感ぜられる。 もしも時間に余裕があれば桜井線を迂回して、高田、畝傍、香具山のあたりを通り、桜井、丹波市、櫟本、帯解等の緒駅を経て奈良へ出て見給え。大和めぐりなどと云って、忙しい思いをして方々を見て歩くよりも、結局この汽車の中の数時間、しかも無限の悠久を感ずる数時間の気分が第一等であり、真に千金にも換え難い味があることを悟るであろう。然るに、ほんの僅かな時間と賃金の差を惜しんで、あれだけの人が電車へばかり殺到するのが、私には不思議でならないのである。早春の大和路めぐりは、大使にとっても定番行事である。大和路めぐりの醍醐味は、文豪が説くように時間から開放される悠長さではないでしょうか♪
2016.02.25
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図書館で『芸術新潮(2015-6月号)』を手にしたのです。おお 第2特集が「原画で読む杉浦日向子」となってるがな♪・・・というわけで、この雑誌を借りたのです。【芸術新潮(2015-6月号)】雑誌、新潮社、2015年刊<「BOOK」データベース>より古書につきデータなし<読む前の大使寸評>おお 第2特集が「原画で読む杉浦日向子」となってるがな・・・というわけで、この雑誌を借りたのです。Amazon芸術新潮(2015-6月号)アニメ映画『百日紅~Miss HOKUSAI~』を手掛けた原監督へのインタビューを見てみましょう。p97~98 <優れた「演出家」の作品を演出する怖さ> 「僕には絶対超えられない天才」と杉浦日向子の才能を称えるのは、長編アニメーション『百日紅~Miss HOKUSAI~』を手掛けた原恵一監督だ。20代後半、杉浦の漫画『風流江戸雀』に出会い、彼女の作品にハマっていったという。それ以降、漫画、エッセイ、小説とすべてを読んできた監督が、『百日紅』映像化への強い思いを語る。 【いつか作品をアニメ化したいと思っていたのですが、杉浦さんが好きなあまり、ものすごくハードルが高くなっていた。彼女は天才的な演出家です。その作品を演出するのは、どれだけ難しいことか。『百日紅』は、北斎とその娘のお栄、ふたりの長屋に居候している善次郎(渓斎英泉)など、登場人物のキャラが非常に立っていて、日常と非日常がうまく交錯している素晴らしい漫画です。下手なコピーを作っても仕方がない。原作を劣化させずに伝えることが一番大切だと思いましたが、怖かったですね。しっかりした原作なので、なんのためらいもなく、原作から抜き出した部分はコマ割りもそのままに、セリフも一字一句変えませんでした。しかし、絵コンテを作っていて、何も描けなくなることがあった。 それに読み切りの短編連作なので明確な終わりがなく、いかに1本の映画として起伏があるものにできるのかが課題でした。すべて完成度が高く、ひとつとしてつまらないエピソードがありませんから、どれを選択するか悩み、お栄の妹、お猶が描かれている『野分』をクライマックスにしようと考えました。そのためにはお栄とお猶の関係を印象付ける必用があり、姉妹のエピソードを縦軸に全体を構成したんです。芯の強さが魅力のお栄ですが、杉浦さんはそれをこれ見よがしに描いてはいない。映画でも押しつけがましくなく、観ている方にお栄の心の喜怒哀楽を感じていただけるようにしました】 原監督は杉浦を「宝物のような存在」だと言う。ひとつ上の彼女に、同じような歳なのにどうしてこんな表現ができるのか、と嫉妬すら感じていた。 【僕にとって彼女の漫画は映像そのもの。コマが動いているように見える。そこから多くのことを学び、仕事に活かしてきました。(中略) 杉浦さんの漫画には印象に強く残る場面が多いのです。『百日紅』には、寝付いたお猶が手を伸ばして北斎の顔に触れるシーンがありますが、バックを黒ベタにすることで、お猶のいる世界が北斎に伝わったことが表現されています】ここで、過去の日記から『百日紅~Miss HOKUSAI~』を再掲します。**************************************************************<『百日紅~Miss HOKUSAI~』>杉浦日向子のまんが『百日紅』に出てくるお栄を題材にしたアニメ映画が公開中であるが、視る前に個人的予告編を作ってみました。それにしても・・・新聞で4面ブチ抜きで広告されていたのには、驚きました。ネット情報を見てみましょう。原監督も杏も杉浦日向子作品の大ファンだったようですね。杏が、原作・杉浦日向子×主題歌・椎名林檎に大喜び!より杉浦日向子の同名コミックを映画化した『百日紅~Miss HOKUSAI~』の初日舞台挨拶が、5月9日にテアトル新宿で開催。声優を務めた杏、松重豊、濱田岳、立川談春、清水詩音、原恵一監督が登壇した。原監督も杏も杉浦日向子作品の大ファンだったので、初日を迎えた喜びもひとしおだ。原監督は「自信をもって観てもらえる作品になりました。何より、原作者の杉浦日向子さんや自分に対して、誠実に作った作品です」と力を込めて挨拶をした。主人公・お栄の声を担当した杏も「1年前にお話をいただき即諾しました」と喜びを口にした。また、主題歌「最果てが見たい」を椎名林檎が手がけたことについても「小躍りするくらいうれしかったです」と言った後「最果てを本当に見たいのか?それとも、追い続けるのが作り手の業なのか?というところがとてもリンクしていると思いました」と曲への思いを述べた。つらつらと個人的予告編を書いたが、書いた後、映画を観に行ったのです。・・・で、くだんの鑑賞フォームを作ってみました。【百日紅~Miss HOKUSAI~】原恵一監督、2015年制作、2015.5.21鑑賞<movie.walker解説>より江戸時代に当時の風俗をとらえ、庶民から愛された“浮世絵”。浮世絵に生涯を捧げ、3万点を超える作品を発表した浮世絵師・葛飾北斎とその娘・お栄と、江戸に生きる人々との交流を描いた、杉浦日向子の同名漫画を『カラフル』の原恵一監督がアニメーション映画化した人間ドラマ。主人公・お栄役で杏が長編アニメ作品の声優に初挑戦。<大使寸評>お栄の顔は原作のほうが好みだけど、杉浦日向子の軽妙で怖いテイストは概ね再現されているように思います。それにしても、お栄がおかま置屋に乗り込み、一晩ともにする場面もあったりで、思った以上に大人向けアニメであり・・・アナ雪は見ない大使だけど、これなら、ええでぇ♪この種のアニメでペイできるなら、日本のアニメも爛熟してきた感があるのです。(ということで、この映画の収支決算を知りたいわけです)movie.walker百日紅~Miss HOKUSAI~この記事も杉浦日向子アンソロジーR4に収めるものとしますただいま、四国の田舎から神戸に帰ってきました。・・・で、書きためていた記事をUPした次第です
2016.02.24
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<『オデッセイ』を観た>ハリウッド映画を極力観ないようにしているのだが・・・リドリー・スコット監督のハードSF映画となると観ないわけにはいかないだろう。ということで、封切館にでかけたのです。大使の場合、2D字幕が第一希望なんですが、観たのは2D吹替えでした。【オデッセイ】リドリー・スコット監督、2015年米制作、2016.2.19鑑賞<movie.walker作品情報>よりマット・デイモンが火星に取り残された宇宙飛行士を演じる、リドリー・スコット監督によるサバイバル・ドラマ。残り少ない酸素や食料をよそに、科学の力を武器に生き残ろうとする主人公ワトニーと、彼を火星に置き去りにしてしまった事を悔やみ、救出しようとする人々の葛藤や友情を描く。原作はアンディ・ウィアーのベストセラー小説。<大使寸評>宇宙のロビンソン・クルーソーのような原作が、まず良かったのではないか♪それから・・・もちろん、リドリー・スコット&脚本家の映画作りも良かった。火星探査といえば、今や夢物語ではなくて、アメリカが国威発揚を目指して臨むわりと現実的なミッションになったが・・・ハードSF映画としては、恰好の題材なんだろう♪女性艦長みずから宇宙遊泳という危険な任務に出るところが、クライマックスシーンであったが・・・『ゼロ・グラビティ』にも、このような遊泳シーンがありましたね。ハードなSF映画には、相対速度差約10m/sというような場面作りは欠かせないのでしょうね。気に入らないところと言えば、中国からの補給ミッションが描かれているところであるが・・・映画の興行的成功を目指すなら、(日本を無視し)中国人を外すわけにはいかないのでしょうね。movie.walkerオデッセイオデッセイ公式HP『オデッセイ』を観る前にところで、今日から5日ほど四国の田舎に帰省します。例によって、その間は音信不通となりますので・・・そこのところ宜しく。
2016.02.20
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今回借りた6冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば「雑誌」でしょうか♪<市立図書館>・喰らう読書術・陰翳礼讃・芸術新潮(2015-6月号)・週刊東洋経済(2015-1/17号)<大学図書館>・日本語えとせとら・ニッポンの映画監督図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)************************************************************<『喰らう読書術』>図書館で『喰らう読書術』という本を手にしたのです。表紙には“一番おもしろい本の読み方”というコピーが見られます。博識の荒俣さんの切り口が独特で・・・・ええでぇ♪【喰らう読書術】荒俣宏著、ワニブックス、2014年刊<「BOOK」データベース>より「人間が発明した物の中でもっともよい頭(精神)の栄養、(他人の経験が詰まった)いわば頭の缶詰みたいなものが『本』です」。-「第一章」より。本書では、「知の巨人」「博覧強記の怪人」など、数々の異名を持つ著者が、何千、何万冊と本を読む中で得た、もっとも美味しく(おもしろく)、頭の缶詰(本)を食べ(読み)、無駄なく頭の栄養にするための「アラマタ流読書術」を初めて紹介します。<読む前の大使寸評>表紙には“一番おもしろい本の読み方”というコピーが見られます。博識の荒俣さんの切り口が独特で・・・・ええでぇ♪rakuten喰らう読書術喰らう読書術byドングリ【陰翳礼讃】谷崎潤一郎著、中央公論新社、1995年刊<「BOOK」データベース>より【目次】陰翳礼讃/懶惰の説/恋愛及び色情/客ぎらい/旅のいろいろ/厠のいろいろ<読む前の大使寸評>横尾忠則が『陰翳礼讃』を絶賛していたので、気になるのです。図書館に予約していたが、待つこと3日の超速ゲットになったわけで・・・・このような古い名作は狙い目なのかも♪<図書館予約:(2/15予約、2/18受取)>rakuten陰翳礼讃谷崎潤一郎著『陰翳礼讃』byドングリ【芸術新潮(2015-6月号)】雑誌、新潮社、2015年刊<「BOOK」データベース>より古書につきデータなし<読む前の大使寸評>おお 第2特集が「原画で読む杉浦日向子」となってるがな・・・というわけで、この雑誌を借りたのです。Amazon芸術新潮(2015-6月号)原画で読む杉浦日向子byドングリ【週刊東洋経済(2015-1/17号)】週刊誌、東洋経済新報社、2015年刊<内容説明>よりビジネスマンのための日本論東京五輪招致の「お・も・て・な・し」プレゼンあたりからだろうか。日本礼賛の書籍・テレビ番組が妙に多い。観光立国や和食・サブカルの海外展開をあおる議論も盛んだ。だが、ここはクールに日本の実力と立ち位置を再点検したい。<読む前の大使寸評>表紙に書かれた日本論、嫌中・嫌韓ブームというコピーに釣られて借りたのです。1ヵ月前のものかと思って借りたが、よく見ると1年前だった(イカン イカン)toyokeizai週刊東洋経済(2015-1/17号)【日本語えとせとら】阿刀田高著、時事通信出版局 、2010年刊<「BOOK」データベース>より阿刀田高が綴る、日本語にまつわるエッセー。日本語への深い愛着が感じられる一冊。<読む前の大使寸評>日本語に関する言語学的エッセイか・・・・大使のツボでんがな♪第2部が和洋書籍の書評集になっているが、これも、良さそう。rakuten日本語えとせとら日本語えとせとらbyドングリ【ニッポンの映画監督】ムック、朝日新聞出版、2008年刊<商品説明>より大ヒット続出で活況を呈する日本映画界。新しい才能から世界が注目する奇才まで、21世紀に活躍する映画監督70人以上を一冊にまとめた名鑑スタイルのムック。目玉企画は識者・映画関係者に大アンケートを実施した「21世紀の日本映画ベスト10」。見巧者たちがいま観るべき映画を指南。そのほか、インタビューや初顔合わせの対談をはじめ、映画界の現状がわかる読み物も満載。DVD鑑賞のガイドブックとしても楽しめる保存版の一冊。<読む前の大使寸評>2008年刊でやや古い本なのだが、取り上げた監督、扱った題材、が渋くて・・・・ええでぇ♪Amazonニッポンの映画監督ニッポンの映画監督byドングリ*************************************************************とまあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き134
2016.02.20
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図書館に予約していた『忘れられた巨人』という本をゲットしたのです。待つこと約7ヶ月か・・・・この本はまだ本屋に平積みで置いてあり、著者原作『わたしを離さないで』のテレビドラマが放映中でもある。待っている間にも、更にトレンディな作家になったようです。【忘れられた巨人】カズオ・イシグロ著、早川書房、2015年刊<「BOOK」データベース>よりアクセルとベアトリスの老夫婦は、遠い地で暮らす息子に会うため長年暮らした村を後にする。若い戦士、鬼に襲われた少年、老騎士…さまざまな人々に出会いながら雨が降る荒れ野を渡り、森を抜け、謎の霧に満ちた大地を旅するふたりを待つものとはー。失われた記憶や愛、戦いと復讐のこだまを静謐に描くブッカー賞作家の傑作。<読む前の大使寸評>この本はまだ本屋に平積みで置いてあり、著者原作『わたしを離さないで』のテレビドラマが放映中でもある。予約本を待っている間にも、更にトレンディな作家になったようです。<図書館予約:(7/18予約、2/09受取)>rakuten忘れられた巨人この本をやっと読破いたしました。早川書房編集部さんの解説の一部を紹介します。p412~413<解説>より 本書『忘れられた巨人』は、ブッカー賞作家カズオ・イシグロの第7長篇編である。長篇としては『わたしを離さないで』以来10年ぶりの、まさに待望の一作だ。 イシグロは新作を発表するたびに読者を驚かせてきた。ブッカー賞を受賞した『日の名残り』(1989)は、それまで日本を舞台に小説を書いてきた日系の作家がイギリスの執事の物語を極めて技巧的に紡いだ意外性が称賛を集めた。第4長篇『充たされざる者』(1995)は、そのカフカ的展開の是非が議論を呼び、第5長篇『わたしたちが孤児だったころ』(2000)の探偵小説的趣向、第6長篇『わたしを離さないで』(2005)のSF的設定もそれぞれ著者の新境地として話題となったが、最新作となる本書でもまたイシグロは大きな驚きをもたらした。 まずは本書の舞台設定を説明したい。ときは6世紀と思われる。舞台となるのは伝説のアーサー王が姿を消した後のブリテン島(現在のグレート・ブリテン島)だ。アーサー王は、その実在には疑問符がつくものの、史書や創作物によって断片的に描かれるところでは円卓の騎士たちとともにローマ人やサクソン人を撃退した人物とされる。 主人公のアクセルとベアトリスの夫婦はアーサー王と同じブリトン人であり、同族の集まる小さな集落に暮らしている。この置いた夫婦は周囲の住民とかならずしもうまくいっていない。妻ベアトリスの漏らす不満の声を聞くと、のけものにされているようでもある。そんな状況のせいか、アクセルとベアトリスは、さほど遠くない村に住むという息子を訪ねる決意を固める。運が良ければ、息子の村に移り住んで、その庇護のもとよりよい暮らしを送ることができるかもしれない・・・・。 しかし、本書におけるブリテン島はけっして安穏と旅できる場所ではない。なにしろ騎士や魔法の世界を描くアーサー王伝説と地続きの場所なのだ。その地にはかつてブリトン人と戦ったサクソン人たちも住んでいる。ブリトン人がケルト系なのに対して、サクソン人はゲルマアン系で、言葉も文化も信仰も違う。いまは表向きの平和を保ってはいるものの、そこここに新たないさかいの芽が見える。しかしそれだけではない、この大地は人心に影響を及ぼす「奇妙な霧」に覆われているのだ。さらには悪鬼、妖精、竜といった超自然的存在までもが徘徊している・・・。 アクセルとベアトリスが旅するのはそんな世界である。偶然出会った戦士やいわくのある少年を旅の道連れにした老夫婦には次から次へと試練が襲いかかる。はたして二人は息子と再会できるのか。『忘れられた巨人』は、2015年3月に英米で発売されるや、イシグロの「ファンタジー」ジャンルへの挑戦として大きな話題となり、ベストセラーとなった。ひさしぶりの長篇ということもあるが、この新作が、アーサー王伝説を下敷きにした物語だという不意打ちによりいっそうの注目が集まった。その反響は、イシグロの作品でも異色とされる『充たされざる者』のときを上回る。イギリスでは、ケルト系とゲルマン系の戦いの歴史があったようで・・・その記憶は現代人の生活にどれだけ影響しているのか聞いてみたい気もするわけです。日本で言えば弥生人と縄文人の対立、あるいは源氏と平氏の対立にも相当するのか?と思ったりするのです。近代ともなると、官軍と賊軍の対立感情は明らかに残っていますね。ネットを巡っていて、カズオ・イシグロの弁を見つけたのです♪「問い」から生まれるファンタジー:問題作『忘れられた巨人』をカズオ・イシグロが語るより カズオ・イシグロは1989年に書いた『日の名残り』でブッカー賞を受賞した、文字通り世界で最も尊敬を集めている作家のひとりである。2005年には 『私を離さないで』を発表して世間を驚かせた。それは自分が臓器提供をするためにつくり出されたクローンであることを知ってしまった子どもたちを描いた、陰鬱な空想科学小説だったが、いまでは彼の代表作のひとつに数えられている。 今年出版された最新作『忘れられた巨人』は、ドラゴン退治の冒険を綴ったアーサー王物語風のファンタジーだが、文学界は驚くだけでは済まなかった。頭が吹っ飛ぶような衝撃を与えたのだ。この反応に、イシグロは困惑しているという。「みなさんはわたしの本を読んで、この本は嫌いだ、と言う権利をおもちです」とイシグロは、『WIRED』US版のポッドキャストで語っている。「でももしみなさんが『以前の本はどれもよかったけれど、わたしはこの本は読まない。人食い鬼が出てくると人から聞いたからだ』と言うのなら、そんなのはただの偏見じゃないか、と思ってしまいます」 日本生まれのイシグロは、幼いころには妖怪がたくさん出てくるサムライの話が大好きだったという。成長してからはイーリアスやオデュッセイの新訳が出るたびにむさぼるように読みふけり、また戦士や神々、化け物などが登場する昔話や神話もよく読んだのだという。彼の生涯の友人で師と仰ぐアンジェラ・カーターもまた、謎とファンタジーに満ちたフィクションを書いた。イシグロは、こうしたものからインスピレーションを得て、分類不能な作品として本作を書き上げた。「民話や神話というのは、いわゆる原始人がたき火を囲んで座り、語り合っていたころから用いられてきたツールです」と彼は言う。「古代ギリシャ人たちもローマ人たちも、スカンジナビアでも、日本でもヨーロッパのあらゆる地域でも、人間はずっとこうしたツールを使い続けてきたのです。どうしてここ数年になって突然のようにこれらを冷笑するのでしょうか」 一種のSFミステリーでもある『私を離さないで』や、ファンタジーをベースにした冒険譚である『忘れられた巨人』のような本は、近年出版が容易になってきているとイシグロは認める。2004年にデイヴィッド・ミッチェルが書いた『クラウド・アトラス』 がウォシャウスキー兄弟によって映画化されたのがいい例だが、若い世代の作家たちが、文学の世界で扱えるテーマの範囲を広げてくれているからだ。イシグロは『ビーチ』『28日後』といった作品で知られ、『Ex Machina』で自身でメガホンも撮ったアレックス・ガーランドと仲がよく、ガーランドのような若い世代がゲームやグラフィックノヴェルなどからの影響を隠し立てしないところに共感を覚える、と語る。「わたしたちの世代の作家は、文学作家としてやっていいことといけないことについて、いまよりももっと先入観だらけの環境で育ってきました。ところがわたしよりも一世代、いや二世代ほども若い作家たちの作品のおかげで、わたしたちの世代の作家も古い決まり事から解放されたのです」 なぜ彼の最新作が一部の読者に驚きをもって受け取られたのか、彼にはまだ見当がつかない。しかし、何か不安を感じる部分があったのだろう、と彼は想像する。文学がステータスシンボルだという考えにしっかりと染まっている読者、あるいは真面目な人と思われたくてしょうがない人々なら、娯楽小説と思われる本を避けようとするのだろう。「10代のころは誰だってこう言い合ったでしょう。『あんなバンドが好きな奴はクールじゃない。このスニーカーを履くやつはクールだ』とね。でも読書を楽しみたいのなら、そうした考え方からは卒業すべきです」と彼は言う。「おそらく何らかの理由で、ドラゴンが出てくるような本というのは、ある意味臆病な読者に恐れの気持ちをもたらすのだと思います」 分類不能で、ジャンルを逸脱することを恐れないという意味で、イシグロは独特のポジションを文学の世界に築いた作家である。このようにジャンルを「ハック」し、作品ごとにまったく新しい世界を提示してきた気質が、師であるアンジェラ・カーターの影響によるところが大きいと本人も認める。『忘れられた巨人』1
2016.02.19
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リタイアして以降、自由時間が増えたというか暇になったせいかもしれないが・・・・晴れた夜にはベランダの椅子にすわって、星座を眺めることが多くなった。図書館でも宇宙・天体関連の本をいろいろと借りて読んでいるが・・・・つきつめると、パルサーとかブラックホールを見てみたいわけですね。wikipediaブラックホールよりブラックホール (black hole) とは、極めて高密度かつ大質量で、強い重力のために物質だけでなく光さえ脱出出来ない天体である。名称は、アメリカの物理学者ジョン・ホイーラーが1967年にこうした天体を呼ぶために命名した。図書館で借りた本やメディアの報道を並べてみます。・X線天文衛星は「ひとみ」と命名(2016年):朝日・ヒッグス探究で世界観反転へ(2013年):朝日・宇宙観測図鑑(2012年)・星と暮らす。(2012年)・ブラックホールとタイムトラベル(2011年)・宇宙はどうやって誕生したのか(2010年)・みるみる理解できる宇宙論(2008年)X線天文衛星は、ブラックホールの成長過程など観測する役目を持つとのこと♪2016.2.17X線天文衛星は「ひとみ」と命名 H2A打ち上げ成功より 宇宙の成り立ちの解明を目指すX線天文衛星「アストロH」を搭載したH2Aロケット30号機が17日午後5時45分、鹿児島県の種子島宇宙センターから打ち上げられた。「相乗り」した三つの小型衛星とともにロケットから分離されたアストロHは「ひとみ」と命名された。 H2A打ち上げの成功は24回連続。アストロHは、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が中心に開発した国産6代目となるX線天文衛星で、昨年まで使われた5代目「すざく」より10~100倍暗い天体を観測できる。ブラックホールの成長過程など宇宙の全体像を解明する役割を担い、3年以上の観測を目指す。 X線放出を伴う宇宙での爆発や衝突などは地球から見られず、大気圏外で観測するX線天文衛星の性能を向上させた。 ブラックホールの運動の様子などを直接捉える「重力波」の初観測が発表された直後とあって、「X線と重力波の観測を組み合わせれば、より多面的に宇宙の構造を調べられる」(牧島一夫・理化学研究所研究顧問)と期待されている。朝日記事よりヒッグス探究の最前線を見てみましょう。1/19ヒッグス探究で世界観反転へ 浅井祥仁さんより 去年7月、新聞の1面をにぎわせた「ヒッグス粒子らしい新粒子」の発見。万物の質量の陰に「ヒッグス」の働きがあるという理論は1960年代からあった。その存在を確かめる実験で日本チームの中心にいる一人。新粒子がヒッグスか否かの決着に向けて今、緊張のときにある。 実験の舞台は、スイス・ジュネーブ郊外にある欧州合同原子核研究機関(CERN)の粒子加速器LHC。総工費約5千億円、1周約27キロのトンネルで粒子を飛ばす巨大装置である。そこに、ATLAS、CMSという二つの国際グループが別々の検出器を構え競い合ってきた。ともに研究陣は3千人規模を誇る。 日本勢約110人が加わるのはATLAS。これを会社に見立てれば「支社長代理」のような立場にいる。 ヒッグス粒子は、真空にぎっしり詰まった「ヒッグス場(ば)」というものから出てくる。この場が素粒子の動きを鈍らせ、質量という個性を与える。私たちの身の回りの物や力が多種多彩なのは、根っこのところでこのしくみに負うところが大きいとみられている。「真空という入れものが素粒子に働きかけてその性質を決め、世界を演出している。主役は、中身ではなくて入れものの方らしい」 今、科学者は宇宙の謎解きでも、物質と物質のすき間の「暗黒」に目を向けている。ものの見方の反転が求められているのか。文系知にも問いを投げかける時空観の難題に、組織人としての物理学者が挑もうとしている。【宇宙観測図鑑】沼澤 茂美×脇屋 奈々代著、誠文堂新光社、2012年刊<内容紹介より>本書は、最先端で研究されている宇宙について、最新の宇宙探査機が撮影した、おどろくほど詳細な画像を使って紐解こう、というものです。画像は、ハッブル宇宙望遠鏡はもちろんですが、チャンドラー、スピッツァーなど、最前線で活躍しているものを主に掲載します。太陽系の直接探査はもちろんビッグバンやブラックホールなどの、だんだんわかってきた宇宙の謎に迫ります。<大使寸評>図鑑と銘打っているだけあって、鮮明な画像がすばらしい。内容も分かりやすくて・・・・宇宙の謎へのかっこうなガイドブックになっています。Amazon宇宙観測図鑑【星と暮らす。】藤井旭著、誠文堂新光社、2012年刊<内容説明>より星空とともに風景をとらえた美しい星景写真をメインとして、星や星座と文明の歴史、暮らしとのかかわりを紹介します。占星術や星座神話に代表される星にまつわる文化、流星やほうき星、隕石など世界各地で古い記録が残る天文現象が当時の人達にあたえた影響、枕草子など文学作品に見る星空を思う人間の心、地動説から天動説、最新の天文学へと続く人類の星や宇宙への挑戦の歴史など、様々な観点から星と人の関わりを紹介し、現代の暮らしの中に星の存在を取り入れてより豊かに生きることを提案します。<大使寸評>天文学入門書としていいかも。時節柄、「冬の星座の見つけ方」から読み始めたのです。冬の大三角、オリオン座、おうし座などが見られて・・・・一年中で一番豪華な夜空ではないでしょうか。Amazon星と暮らす。冬の星座byドングリ【ブラックホールとタイムトラベル】福江純監修、ニュートンプレス、2011年刊amazonの<内容紹介>は無し。<大使寸評>パルサー(中性子星)が500個以上確認されているそうだが、まだ可視光による観測写真が撮られていないようです。この本は、ブラックホール、ホワイトホール、ワームホール、タイムトラベルなどに触れているが・・・・どこまでが現実で、どれが大法螺か判然としないのです(笑)でも、ブラックホールの想像図を見るだけでも・・・面白いでぇ♪Amazonブラックホールとタイムトラベル【宇宙はどうやって誕生したのか】ムック本、ニュートンプレス、2010年刊amazonの<内容紹介>は無し。<大使寸評>この本に、パルサーを称して「巨大な原子核」という表現が載っているが・・・宇宙物理学の本質を表しているような言葉ですね。極小から極大をつなぐ「巨大な原子核」というヒントがすご~い♪Amazon宇宙はどうやって誕生したのかこの本の一部を紹介します。<佐藤博士はまず、中性子星の研究からはじめた>p38~40 のちにインフレーション宇宙論の誕生につながる、佐藤勝彦博士の研究人生の“遠回り”を追っていきましょう。佐藤博士が研究テーマとして選んだのはパルサーという天体です。 パルサーの正体は「中性子星」という天体です。中性子は、陽子とともに原子核を構成する粒子であり、電荷をもちません。中性子星は、ほとんど中性子だけでできた天体であり、いわば「巨大な原子核」といえます。 大学院時代の佐藤博士は、「中性子星がどうやって形成されるのか?」というテーマを研究の中心にすえました。中性子星は当時、次のような過程で形成されることがわかっていました。重い恒星は、生涯の最後に「超新星爆発」をおこします。そのときに残される恒星のコア(中心核)が自らの強い重力で収縮し、中性子星となるのです。しかし当時は、なぜ恒星がこのようなはげしい大爆発をおこせるのかが、よくわかっていません。 佐藤博士はこの難問を解くために、「ワインバーグ=サラム理論(電弱統一理論)」という素粒子物理学の理論を使うことを考えつきます。この理論を使えば、恒星のコア(できたての熱い中性子星)で発生するニュートリノという素粒子が、どのように恒星のガスなどと相互作用するかがわかります。 この理論で計算すると、瞬時に恒星のコアから外部にもれ出すと考えられていたニュートリノが、短時間ですが閉じ込められて恒星のガスに圧力を及ぼし、爆発の“後押し”をすることがわかりました。超新星爆発は、ニュートリノの後押しのおかげで爆発できるのです。 そして、この理論は大マゼラン星雲で偶然に発生した「超新星1987A」の観測で裏づけられました。1987年、小柴昌俊博士(2002年度ノーベル物理学賞受賞)のグループが、この超新星からやってきたニュートリノを岐阜県神岡鉱山にある実験装置「カミオカンデ」でとらえ、その分析から佐藤博士の理論が実証されたのです。【みるみる理解できる宇宙論】ムック、ニュートンプレス、2008年刊<商品の説明>よりみるみる理解できる宇宙論―宇宙に果てはある?どのように誕生した?宇宙は永遠なのか?消滅するのか? (ニュートンムック Newton別冊) <大使寸評>ブラックホールとかダークマターがSFではなくて、現実味を帯びてきたが・・・ヨーロッパ原子核研究機構(CERN)でヒックス粒子の影が見えたとなると、少なくともブラックホールは現実なのでしょうね。Amazonみるみる理解できる宇宙論この本の一部を紹介します。<星を光らせるしくみ>p72~34 現在では、太陽の年齢は約46億年と考えられていますから、重力のエネルギーの解放だけでは、とても太陽の一生を理解することのできないことは明らかです。そして、それに代わる太陽や星のエネルギー源として、原子核のエネルギーの解放が1910年代の終わり頃から考えられていましたが、この解放の過程が最初に正しく理解されたのは1938年のことで、すでに20年ほどたってからのことでした。この過程は現在ではCNOサイクルと呼ばれています。これは炭素(C)、窒素(N)、酸素(O)を仲立ちとして、水素の原子核(陽子)4個が融合してヘリウム核1個になる過程ですが、このときに減少した質量が、光のエネルギーとして解放され、これが星を輝かすエネルギーになるのです。 (中略) 以上のように、星の中心部で、水素からヘリウムが合成され、その結合エネルギーが原子核エネルギーとして開放され、それで星のエネルギーがまかなわれることは十分可能です。このようなことが実際に可能なためには、星の中心部に水素が豊富になければなりません。これについては、太陽の場合は図に示したように、ヘリウムに比べて水素の方が数にして10倍も多くあるのですから、中心部で水素からヘリウムが合成され、輝くことは十分にありうることなのです。 ですから、他の星々についても、そのエネルギー源は水素核4個からヘリウム核1個を合成するいわゆる熱核融合反応が重要な役割を果たしているものと推定されます。<今後の個人的探求テーマ>中性子星wikipedia白鳥座X1より連星系をなす恒星の一方の質量が巨大だと、もう一方の恒星のガス成分を吸い込み、自身の周りを高速で回転し円盤を形成するようになる。これを降着円盤という。この高速で回転するガスから強いX線が放射されることになる。このX線を観測することが、ブラックホールを探る上での重要な指標となる。X線は、X線天文衛星によって観測する。wikipedia暗黒物質より暗黒物質の存在は、1934年にフリッツ・ツビッキーによって銀河団中の銀河の軌道速度における"欠損質量" (missing mass) を説明するために仮定された。彼は、ビリアル定理をかみのけ座銀河団に適用し未観測の質量の証拠を得た。
2016.02.18
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大使が日々お世話になっている日本語入力システムは、多分マイクロソフトのIMEだと思うのだが・・・漢字かな混じりの日本語を、分節単位でローマ字入力から日本語に変換してくれています。昨今では、初期のシステムに比べると格段に使い勝手が良くなっていて、漢字に詳しい優れものとの感がありますね♪パソコンの検索窓とIMEの二つがあれば、紙の辞書が不要にさえなるし・・・昨今では、入力システム自体が学習機能を持っているとのことで、ほんと“びっくりポン”でおます。ということで、日本語変換についてあれこれ集めてみます。・日本語入力システム・機械が読む日本語・新文字の開発<日本語入力システム>ウィキペディアの「日本語入力システム」をのぞいてみました。wikipedia日本語入力システムより【概要】 パソコンにおいて、英文の入力は一般のキーボードでタイプライター同様にタイプすれば入力可能であるが、日本語のように使用文字数が数千を超える言語の文章を入力する際には全ての文字に一つのキーを当てはめるキーボードは非現実的であるため、複数のキーの操作で一文字を入力するなどの仕組みが必要となる。 日本語の入力方法で現在主流なのは、読みとしてかなを何らかの形で入力しておいて、漢字・かな・英字などの変換候補から選択して入力するかな漢字変換である。 これは、1978年9月26日に、東芝の「JW-10」の発売によって実現された。日本語入力システムは、MS-DOS時代はもっぱらフロントエンドプロセッサとして実装されたため、日本語入力フロントエンドプロセッサ(日本語入力FEP、さらに略してFEP)などと呼ばれることが多かった。Windowsの普及後はインプット メソッド エディタ(IME)と呼ばれることが多くなった。 ワープロ・パソコンだけでなく、携帯電話やビデオレコーダー・ゲーム機といったデジタル家電、カーナビ、情報キオスク端末など日本語の入力を必要とする様々な機器に日本語入力システムが組み込まれている。【学習】 ユーザーの変換・確定結果を記憶し変換精度を上げる仕組み。学習が蓄積されることにより、IMEは自動的に各ユーザー個人に最適化されていく。誤った変換結果も保存されるため誤りが次回以降に再現されるのが難点で、ATOKなどでは変換履歴を直接編集して不要な学習のみを削除することができる。 学習が多く蓄積されると逆に変換精度が落ちたと感じたり、学習機能に異常をきたす場合がある(Microsoft IMEの項などを参照)。その場合は学習結果をリセットして初期状態に戻すなどの作業が求められる。<機械が読む日本語>日本語入力については、日本語は英語などに比べてハンディがあるようです。そのあたりが、ネットに出ています。機械が「読む」時代の知に対応するためにより■日本語の抱えるハンディキャップこの、「機械が読める」に関して、日本語は英語と比べハンデを背負い込んでいる。列挙すると以下の四つとなる。イ.文字数が多いロ.単語の判別が難しいハ.文節の理解が難しいニ.本のデジタルデータが少ないアルファベット26文字の英語と、かなと漢字を足すと数千文字を普段から使っている日本語。さらに日本語の場合同じ漢字でも、字体が異なる文字があり「万」の単位の文字コードが必要となる。つまり英語と日本語とでは、用意しておかなければならない文字コードの数が断然異なるということになる。ただこのイ.は、情報端末の記憶容量が各段に増強されたことでだいぶ状況は改善してきた。(たとえば以前は、「トウショウヘイ」は「とう小平」としか表現できなかったが、最近は「トウ小平」と表示できるようになった*)難問はロ.ハ.だ。イ.文字数が多いロ.単語の判別が難しいハ.文節の理解が難しいニ.本のデジタルデータが少ない文字にひとつひとつコードを振ったように、単語にもコードを振って、そこへ属性(名詞か動詞か、単数か複数かなど)を記述しておけば文法と照らし合わせ、機械が、検索窓からの問い合わせ(クエリ)に対し、適切な解となりうる候補テキストをネット上の膨大なデータから探し出すのに、便利だろう。検索が効率的に、効果的に結果を表示するにはこの単語の判別、文節の理解といった、いわゆる形態素解析という工程が欠かせないのだ。*【大使注】楽天ブログでは、トウ小平のトウは機種依存文字なので、受け付けてくれません。<新文字の開発>パソコンのない時代には機械式入力はタイプライターのみであり、この時期に考案された日本語の新文字が面白いのです。「ひので字」などは、ロシア文字かと見まがうばかりで、びっくりポンでおます。荒俣宏さんが『喰らう読書術』という本の中で、新文字を紹介しています『喰らう読書術』2より日本語は漢字があるから効率が悪く、覚えるのが非常に難しいことに愛想をつかした人たちがあ、「それならアルファベットのように簡単できっちりした新文字を創造してみようではないか」と奮闘した記録です。一番わかりやすいのは、漢字もひらがなもやめて、直線で表記できるカタカナを「日本国の公式文字」にしようとする動きです。 石原忍という、視力検査表を開発した眼科医の先生が、欧米のタイプライターを見て、日本語も機械で書くには、カタカナを利用するのが早い、と考えてカタカナタイプライターを試作しました。でも、どうもカタカナは横書きに向いていない。そこで、ローマ字、ギリシャ文字、ロシア文字を参考にして、横書きに向く新カタカナを創造しました。1939年頃の話です。ひので字 ところが、石原さんよりも早く、新しい日本文字を創造して石原さんを刺激した中村壮太郎という人が、1935年頃に「ひので字」という非常におもしろい日本文字を作りだしました。この文字もどこかロシア文字に似ているのに、カタカナかひらがなの特徴も残しているので、日本人にはなんとなく読める、というところが売りだったようです。こういう「横書きができて漢字も不要」という新文字を開発しようとした人が、江戸時代から何人も存在していたことが分かりました。パソコン、OS、IMEは日々進化しているのだが・・・変わらないのは、ローマ字入力に使うキーボードの文字配列である。かつて若き日の大使は、タイプライターのブラインドタッチを練習していたわけだが・・・残念ながら現状は一本指タッチではあるが、文字配列だけは無意識で分かるのでおます♪
2016.02.18
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大使の朝は、5時半から7時までの間に、雄鶏をたたき起こすようにツイッターで挨拶するのです。何パターンもあるのだが、比較的多いのが次の2パターンかな。・起きりー! 朝やでぇ!(ちょっと早すぎたか・・・ま いいか)・起きりー! 朝やでぇ!(お天気良~し 練習日和やで♪)ご存知のとおり、糸子とは、朝ドラ『カーネーション』のヒロインでおま♪糸子と先を争いながら挨拶に勤しんでいるのだが、時には完璧に出し抜かれることもおます。・起きりー! 朝やでぇ!(あかん、糸子が迫ってるがな)しかし、このところの寒さで1ヵ月ほど、練習のほうはご無沙汰となっています。(あかんがな)ところで、朝ドラと言えば・・・今は、びっくりポンの『あさが来た』にはまっています。あさが来た:公式サイト
2016.02.17
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図書館で『ニッポンの映画監督』というムック本を手にしたのです。2008年刊でやや古い本なのだが、取り上げた監督、扱った題材、が渋くて・・・・ええでぇ♪ということで、気にいった記事を紹介します。*******************************************************************■「製作委員会」の功罪(p93) 製作委員会システムは、情報化社会の隆盛にマッチした。一つの作品を、映画館の単一興行ではなく、ビデオ、DVD、CS放送、さらにインターネットや携帯電話への配信と、幾十にも広げることができる。 このように製作委員会に名を連ねる各企業は、二次使用などの権利を取得しそれぞれの専門分野でビジネスを行うことで、映画がヒットしたとき以外にもさまざまな利益を得ることができる。70年代以降は、映画会社だけで作品を作り続ける体力が落ちたこともあって、製作委員会方式は映画作りのスタンダードとなった。 製作委員会によるメディアミックスで、「大量宣伝をすれば映画は当たる」という図式も生まれた。この図式が出来上がってからは、出演するスターや作り手である監督の作品性よりも、スポンサーが宣伝しやすい映画を企画して、完成させることが優先される傾向が強まった。 製作委員会方式の定着によって、映画は演じたり演出したりする人間が作る「作品」から、多様なメディアの連結によって、いかに売るかという「商品」へと変化してきたと言えるかもしれない。 製作委員会方式では、より良い「商品」を作るために、出資会社から注文がつくケースもある。テレビ局から、のちのテレビ放送を考えてR指定がつく過激な描写やうポンサーからクレームがつくような内容は避けるよう指示が出るのが一例だ。 このように製作委員会の規模が大きくなればなるほど、船頭が多くなり、映画を作る上での要求が増えていく。出資会社の思惑が作品自体に大きな影響を与えることになる上に、意見調整に時間もかかる。それが現場で実際に作業をする作者の足かせになり、作品性の低下につながる懸念もある。■資金調達の味方!? 映画ファンド 新しい製作資金調達の方法として注目されているのが、映画ファンド方式である。2005年に松竹が「SHINOBI」を製作した際に、日本で初めて、映画ファンドなどを対象にした個人向けファンド方式で、広く出資を呼びかけた。フラガール 06年のヒット作「フラガール」もファンドを使用した。こちらは製作母体であるシネカノンが製作、または買い付けた海外作品約20作品が対象だった。今後、環境整備が進んで映画ファンドが定着すれば、資金繰りに腐心する中小映画会社が、大手に対抗できる大作を生みだす手段として広がる可能性もある。*******************************************************************■監督×脚本家の幸せな関係(p94~95) もともと監督自身に著作権が認められていない日本映画界では、監督は演出のために雇われた存在に過ぎない。しかし、監督の意向を盛り込む余地が少ないほど、映画は誰が作りたくて作ったものかわからない作品になってしまうことがままあるのだ。 自然と、自らの世界観を作り上げようとしている監督と脚本家は、インディペンデント系のフィールドで活躍することになる。■人と対峙すること、その大切さを描く 『ジョゼと虎と魚たち』(03)と『メゾン・ド・ヒミコ』(05)の犬童一心監督と渡辺あやは、歩み寄ることが難しい人間同士の精神的な距離感をすくい取ってみせる。ジョゼと虎と魚たち 『ジョゼ~』では、普通の人には心を開かない風変わりな少女と大学生の不器用な恋模様を、『メゾン~』では死の床にあるゲイの父親と、長らく親子関係を絶っていた娘の歩み寄りを描いた。人と人が愛し合い、許し合うために必用なものは何かを見つめさせてくれる名コンビだ。 『ジョゼ~』は犬童一心監督をメジャーシーンへと押し上げた出世作だが、その後のメジャー作品では、渡辺あやと組んでいない。不特定多数の観客を対象にしたメジャー会社の娯楽作と、渡辺あやと作る作家性の強い作品を、すみ分けしているとも言えるだろう。*******************************************************************■「主張する映画美術」の原点(p96~97) 「映画美術の神様!」 『フラガール』の李相日監督は美術監督・種田陽平の作品集『ホット・セット』に寄せて、そう賛辞を送ったが、決して大げさではないだろう。『フラガール』は小品にもかかわらず2007年の第30回日本アカデミー賞をはじめ多くの賞を獲得。スクリーンによみがえったリアルな炭鉱住宅街は、まさに昭和の時代そのものだった。 「何もない家がある時代を描きたかった。美術予算が限られたセットを組めなかったので、実際に炭鉱住宅や炭鉱周りをつくるのは大変でした。オファーをいただいたとき、いい映画になるという予感がしたので、お引き受けしたんです」 96年の『スワロウテイル』(監督・岩井俊二)で映画美術の重要性を国内外に知らしめた。21世紀に入ってから07年までに手がけた作品は、米映画『キル・ビルvol1』、『いま、会いにゆきます』、『THE 有頂天ホテル』、時代劇『怪談』など11本に及ぶ。■こんな贅沢な町、見たことない 『THE 有頂天ホテル』に続き三谷幸喜と組んだ『ザ・マジックアワー』(08)は、「町ありきで始まった企画」(三谷)だ。知らぬ間にギャングの抗争に巻き込まれる売れない役者と、映画監督のふりをして彼を操ろうとするしがないギャングの友情を描いたコメディ。だが、種田はこの作品を「引き受けるかどうか悩んだ」と明かす。(中略) 舞台となる港町・守加護はメーンストリートとそこに立ち並ぶクラブ「赤い靴」や「港ホテル」、波止場など、合計面積が4426平方メートル、日本映画史上類を見ない巨大セットが話題だが、最大の特長は実際に「2階」を造ってしまったことだ。(中略)■子ども時代の記憶がアイデアの原型に 転機となったのが『スワロウテイル』だった。ミュージックビデオの現場で岩井と出会い、すぐに意気投合した。 「当時、日本映画は低迷する一方で、香港からウォン・カーウァイが出てくるなどアジア映画に勢いがあった。日本映画にお客さんが見向きもしなかった時期に、僕たちの手で新しい映画を作るぞという、今とはまったく違うモチベーションを持っていた。そんな時代を経験したことは大きい」スワロウテイル 日本であって日本でない、架空都市「円都」に生きる若者たちの姿を描いた本作は、バブル後の虚無感漂う日本に生きる若者たちの心をつかんだと同時に、日本映画に「主張する美術」の重要性を認識させた。例えば、アヘン街にある医者のところへたどり着くまでの行程を、種田は何ヶ所も造り込んだ。「一見必要のない行程に見えても、その世界に入り込むためには、大切な時間、大切な空間」だからだ。(中略) 理想の映画美術は、「全然違う国の人が観ても、どこか懐かしいと感じてくれる」ことだ。『スワロウテイル』では、「昔、確かに同じような場所があった」と話してくれる中国人や、「映画に出てきたあの店でラーメンを食べたことがある」と主張する観客がいた。映画の記憶は役者の魅力だけで決まるのではない。空間や町並みもまた、記憶につながっていく。この記事も種田陽平の世界に収めておきます。*******************************************************************【ニッポンの映画監督】ムック、朝日新聞出版、2008年刊<商品説明>より大ヒット続出で活況を呈する日本映画界。新しい才能から世界が注目する奇才まで、21世紀に活躍する映画監督70人以上を一冊にまとめた名鑑スタイルのムック。目玉企画は識者・映画関係者に大アンケートを実施した「21世紀の日本映画ベスト10」。見巧者たちがいま観るべき映画を指南。そのほか、インタビューや初顔合わせの対談をはじめ、映画界の現状がわかる読み物も満載。DVD鑑賞のガイドブックとしても楽しめる保存版の一冊。<読む前の大使寸評>2008年刊でやや古い本なのだが、取り上げた監督、扱った題材、が渋くて・・・・ええでぇ♪Amazonニッポンの映画監督
2016.02.16
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図書館で『喰らう読書術』という本を手にしたのです。表紙には“一番おもしろい本の読み方”というコピーが見られます。博識の荒俣さんの切り口が独特で・・・・ええでぇ♪【喰らう読書術】荒俣宏著、ワニブックス、2014年刊<「BOOK」データベース>より「人間が発明した物の中でもっともよい頭(精神)の栄養、(他人の経験が詰まった)いわば頭の缶詰みたいなものが『本』です」。-「第一章」より。本書では、「知の巨人」「博覧強記の怪人」など、数々の異名を持つ著者が、何千、何万冊と本を読む中で得た、もっとも美味しく(おもしろく)、頭の缶詰(本)を食べ(読み)、無駄なく頭の栄養にするための「アラマタ流読書術」を初めて紹介します。<読む前の大使寸評>表紙には“一番おもしろい本の読み方”というコピーが見られます。博識の荒俣さんの切り口が独特で・・・・ええでぇ♪rakuten喰らう読書術この本は読みどころが多いので、(その2)として読み進めました。日本語とは何か?新文字とは何か?と、荒俣さんは大上段に問題提起しています。p224~230<論じるなら、まず起源にさかのぼれ> 私はむかし、ようやくパソコンでの漢字変換が安定した1990年頃、この本もしばしば登場される紀田順一郎さんが、「一太郎」という漢字変換ソフトの仕事で、日本語をどのようにパソコンで処理すればいいかという大問題に取り組まれている時期を、そばで拝見していたことがあります。 そのとき紀田さんは問題の本質を探るために、日本語とは何か、という基本中の基本から調査を始められたのです。単に『広辞苑』などを参考にして、この漢字を入れるとか入れないとかを仕分けたんではないのです。 正直、私には遠大なプロジェクトに見えました。だって問題は、日本語とは何か、ですよ。こんなことは一生かけても結論が出ないと思います。でも、紀田さんはそのとき、好きだとか嫌いだとかでなく、日本語を知るための必須文献をたくさん集められたのです。しかし、それに加えて、必要ではなさそうな文献にも目を通され、それを「必用」な本に格上げされたのです。 その、「これまで必用でなかった」本というのは、たとえば、新しい日本文字を個人的に発明した人たちの歴史です。そしてパソコンソフトの漢字変換問題を処理しながら、なんと、これまであまり類例のなかった「新しい日本語創造に命をかけた人たち」の研究書を出版されたのでした。 『日本語大博物館 悪魔の文字と闘った人々』(ジャストシステム)がその本で、このなかに、「日本語改造法案 人口文字に賭けた人々」という一章があります。これは、パソコンと漢字変換ソフトが発明される前からあった大問題へのアプローチでした。 日本語は漢字があるから効率が悪く、覚えるのが非常に難しいことに愛想をつかした人たちがあ、「それならアルファベットのように簡単できっちりした新文字を創造してみようではないか」と奮闘した記録です。一番わかりやすいのは、漢字もひらがなもやめて、直線で表記できるカタカナを「日本国の公式文字」にしようとする動きです。 石原忍という、視力検査表を開発した眼科医の先生が、欧米のタイプライターを見て、日本語も機械で書くには、カタカナを利用するのが早い、と考えてカタカナタイプライターを試作しました。でも、どうもカタカナは横書きに向いていない。そこで、ローマ字、ギリシャ文字、ロシア文字を参考にして、横書きに向く新カタカナを創造しました。1939年頃の話です。ひので字 ところが、石原さんよりも早く、新しい日本文字を創造して石原さんを刺激した中村壮太郎という人が、1935年頃に「ひので字」という非常におもしろい日本文字を作りだしました。この文字もどこかロシア文字に似ているのに、カタカナかひらがなの特徴も残しているので、日本人にはなんとなく読める、というところが売りだったようです。こういう「横書きができて漢字も不要」という新文字を開発しようとした人が、江戸時代から何人も存在していたことが分かりました。 紀田さんの本には、多くの人口文字で記述された文章例が引用されていますが、それらを見ますと、文字を極端に簡略化し、機械で処理できるようにしているのですが、じつはこれで綴られた『吾輩は猫である』なぞは、はっきりいって読むに堪えません。なぜかというと、「言語に内在する歴史的連続性や美意識を無視し、機械的、工学的法則や機能性だけで処理した」からだと、紀田さんは指摘なさいます。 つまり、日本人が発明したカタカナとひらがなを上回る美学的デザインと連続性を持つ新文字が発明されない限り、いくら新文字を創造しても、だれにも使われないのです。この失敗の歴史を、パソコンの普及によってふたたび重要になった新しい横書き日本語の開発に活用しなければならない、というわけです。 紀田さんの本には、章の終わりにこんなことも書いてありました。だれも使いそうにない新文字システムを一人で考案設計する人は、これからも出るだろうけれども、自分が作った文字を自国の人々が実際に使用するときを夢見ることは、言語問題にかかわる人にしか味わえない至福なのであろう、と。荒俣さんが見つけた『日本語大博物館』という本がおもしろそうである・・・ということでこの本をを図書館予約カートに入れたのです。『喰らう読書術』1
2016.02.15
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図書館に予約していた『忘れられた巨人』という本をゲットしたのです。待つこと約7ヶ月か・・・・この本はまだ本屋に平積みで置いてあり、著者原作『わたしを離さないで』のテレビドラマが放映中でもある。待っている間にも、更にトレンディな作家になったようです。【忘れられた巨人】カズオ・イシグロ著、早川書房、2015年刊<「BOOK」データベース>よりアクセルとベアトリスの老夫婦は、遠い地で暮らす息子に会うため長年暮らした村を後にする。若い戦士、鬼に襲われた少年、老騎士…さまざまな人々に出会いながら雨が降る荒れ野を渡り、森を抜け、謎の霧に満ちた大地を旅するふたりを待つものとはー。失われた記憶や愛、戦いと復讐のこだまを静謐に描くブッカー賞作家の傑作。<読む前の大使寸評>この本はまだ本屋に平積みで置いてあり、著者原作『わたしを離さないで』のテレビドラマが放映中でもある。予約本を待っている間にも、更にトレンディな作家になったようです。<図書館予約:(7/18予約、2/09受取)>rakuten忘れられた巨人この本の語り口を覚えておく意味でも第1章の一部を書き写しておきます。p25~27<第1章>より 「気分がよくないんじゃないか。旅の女に何を言われた」 ベアトリスはしばらくそのまま頭をアクセルの胸に押し当てていたが、やがて背を伸ばし、夫から離れた。「考えてみたらね、アクセル、あなたがいつも言っていることが正しいような気がしてきましたよ。ほんに昨日のことや一昨日のことなのに、みんなが忘れてしまうなんて、まるで何かの病気がはやっているみたいで変・・・」 「そうだろう、お姫様?あの赤毛の女のことだって・・・」 「赤毛の女はもういいの、アクセル。問題なのは、わたしたちがほかの何を忘れているかですよ」ベアトリスは霧でかすむ遠方に目をやりながら言うと、アクセルの顔をひたと見た。その目には悲しみと願いが満ちているように見えた。あのときだった、といまアクセルは思っている。あのときベアトリスは言ったのだった・・・・「あなたが昔から反対だったのは知っています、アクセル。でも、もう考えなおすべきときじゃないかしら。旅に出ましょうよ。これ以上遅らせてはだめ」と。 「旅かい、お姫様?どんな旅」 「息子の村への旅ですよ。そんなに遠くじゃない。そうよね、アクセル?老人のゆっくりした足でも、大平野を東へ少し越えたところ、せいぜい数日の旅ですよ。もうすぐ春になるし」 「なるほど。わたしに異存はないよ、お姫様。だが、それはあの旅の女に何か言われたから思いついたことなのかい」 「長い間、思いの中にあったことですよ、アクセル。でも、これ以上引き伸ばしたくないと思ったのは、確かにあのかわいそうな人が言ったことのせい。息子が向こうの村で待っているのに、あとどれだけ待たせればいいの」 「村に春が来たら、旅のことを考えよう。絶対にな、お姫様。だが、わたしが昔から反対していたというのは、いったいどういうことなのかな」 「二人でどんなやり取りをしてきたか、全部思い出せるわけじゃありませんけど、でもね、アクセル、でもわたしはいつも望み、あなたはいつも反対でしたよ」 「そうかな、お姫様。まあ、仕事が全部すんで、ご近所さんにのろま扱いされる心配がなくなったら、ゆっくりと話そう。いまは行かせておくれ、すぐに話し合えるから」 だが、それから数日、二人は互いに旅のことをそれとなくにおわせはしたが、きちんと話し合うことはなかった・・・というか、できずにいた。老夫婦の旅がこれから始まるが・・・期待できそうやで♪ 記憶の喪失が、この小説のテーマになっているようだが・・・ちょっと怖い気もするのです。
2016.02.15
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図書館で『日本語えとせとら』という本を手にしたのです。なんか、読んだことのありそうな本であるが・・・ま いいかということで借りたのです。帰って、日記を調べてみると、3ヶ月前に借りた本であることが判明しました(イカン イカン)この日のタイトルを『日本語えとせとら』2としたのは、2度目という意味でもあるのです(汗)【日本語えとせとら】阿刀田高著、時事通信出版局 、2010年刊<「BOOK」データベース>より阿刀田高が綴る、日本語にまつわるエッセー。日本語への深い愛着が感じられる一冊。<読む前の大使寸評>日本語に関する言語学的エッセイか・・・・大使のツボでんがな♪第2部が和洋書籍の書評集になっているが、これも、良さそう。rakuten日本語えとせとら『日本語えとせとら』1byドングリ阿刀田高さんは、内外の短篇小説に造詣が深いとのことです。どうりで・・・この本の各エッセイが短いわりに印象的な切り口を見せています。その切り口を一つ、二つ紹介します。p17~19<言葉で喜ぶ> 「“ことほぐ”って知ってる?」 若い人三人に尋ねてみた。 一人が「知らない」と首を振る。二人が「お祝いすることでしょ」と答えてくれた。 「じゃあ、友人の結婚を聞いてひとり静かにことほぐ、これ、正しい?」 重ねて尋ねると、ジロリとにらむ。わざわざ聞かれるのは「正しくない」からだろうけれど、どこがどう違うかわからない、そんな心境に違いない。 その通り、正しくない。“ことほぐ”は“言葉を告げて祝う”こと。ひとり静かに黙って祝うのは、ことほぐではない。ただ、ほとんどの場合、祝うと言えば「おめでとうございます」とか「よかったねえ」とか言葉を発して祝うから、“ことほぐ”と“祝う”とが同義語に思われてしまうのだろう。屁理屈をこねれば、お祝いのプレゼントだって、なにかしら言葉をそえて贈る。言葉なしでただ贈るのは、失礼、と、これが良識だろう。やっぱりことほいでいるのだ。 だが、これとはべつに、ある日、ふと気がついた。文学というと、少し大げさかもしれないが、私たちが詩文を楽しむ理には、・・・この“ことほぐ”が含まれているのではあるまいか・・・ つまり言葉に出してすばらしさを称えるわけだ。たまたま歳時記の夏の部をのぞいていると、高浜虚子の句が、“新潟の初夏はよろしや佐渡も見え” 私はあのあたりの海岸風景をよく知っているから、・・・ふーん、いいね・・・ と感動を覚えてしまう。うれしくなってしまう。 しかし、つらつら考えてみると、新潟の海岸から佐渡が見えて、なにがよろしいのか、よくわからない。それが春ではなくて初夏だと、どうして特によろしいのか、さらにわからない。 もちろん、そういう理屈を言っちゃあ、いけないよ。初夏の日本海の風景に接して卓越した俳人が詠み、・・・自然の風景は、すばらしいじゃない・・・ と、ことほいでいるのだ。言葉で告げて祝福しているのだ。共感を呼びかけ「そうだ、そうだ」とみんなで喜びあおうとしているのだ。 実際には月並みで、取るにもたりないことのようでも巧みな言葉で表現して、その真価を訴えたりする。「すばらしいじゃない」と応援を送る。文学の原点は、このあたりにあったのかもしれない。“山は青きふるあと、水は清きふるさと” なんのことはないけれど、日本の自然を歌って「そうだよなあ」と、しみじみ共感させてくれる。言葉で喜ばせてくれる。 喜びばかりではない。慰めもある。いたわりもある。 昨今、はやりの“千の風になって”も、内容は非科学的、中学生の詩のような文言だが、巧みに綴られているからこそ、人々の胸を打つ。あたりまえのことや人間の素朴な心情を言葉で的確に、美しくとらえて共感を創ること、これは文学の存在理由の一つだろう。歌謡曲の歌詞も巧みなものはこの例外ではない。“わかっちゃいるけど、やめられない”と、これは植木等さんの尊父なる和尚によれば仏教の本源的観点なのだ、とか。文学の原点と来たか・・・阿刀田さんのおっしゃる通りなんだろうね、さすがに元ペンクラブ会長やで♪p136~138<初めが肝心> "国境の長いトンネルを抜けると雪国であった" "親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりして居る″ "私が自分に祖父のある事を知ったのは、私の母が産後の病気で死に、その後2月程経って、不意に祖父が私の前に現れて来た、その時であった" "死者たちは、濃褐色の液に浸かって、腕を絡めあい、頭を押しつけあって、ぎっしり浮かび、また半ば沈みかかっている" "安田辰郎は、1月13日の夜、赤坂の割烹料亭「小雪」に一人の客を招待した" "堀川の大殿様のような方は、これまでは固より、後の世にも恐らく二人といらっしゃいますまい" "指先から煙草が落ちたのは、月曜の夕方だった" "越後の春日を経て今津へ出る道を、珍しい旅人の一群が歩いている" "まことに小さな国が、開花期をむかえようとしている" "「おい、地獄さ行ぐんだで!」" 思いつくままに日本の名作小説十篇の冒頭を抜き出してみた。まるでクイズみたい。どれが、だれの、どの作品か、おわかりだろうか。 読者はなにげなく読むケースが多いけれど、作者のほうは冒頭の一節に神経を使う。熟慮する。こう書こうか、ああ書こうか、少なからず思い悩むのが通例だ。私自身の場合を述べれば、原稿用紙を前にして、・・・よし、これでいい。これで行こう・・・ 冒頭がきっちりと決まれば、・・・今日の仕事はこれでおしまい・・・ へへ、呑気だね。酒を飲もうと、遊びに出ようと、いっこうにかまわない。 「たった一行でもいいんですか」 と聞かれそうだが、冒頭をきめるということは、どんなタイプの作品か、ミステリーなのか、歴史小説なのか、私小説なのか、方向をはっきりと定めている。それがなければ一行とて書けない。おそらく主人公のイメージもできているだろうし、ストーリーのあらましも心中にある。逆に言えば、そういう構想があって初めて第一行目が書ける。終日酒を飲んでいても "よし、明日から"でさしつかえない。 小説家の場合はやや特殊かもしれないけれど、一般論としても、文章を書く時には、同様の方法を保持したほうがよいのではあるまいか。報告書であれ、マニュアルであれ、手紙であれ、なにから書き起こすか、用件全体を展望し、どう訴えるのがよいか、吟味することが絶対に必要だろう。 簡潔がいい。単刀直入のほうが、わかりやすいだろう。 十のことを訴えるのに「一、ニ、三、四・・・」と順を追って説明する方法もあるが、まず端的に結論を提示し、こまかいことは後から、という方便も有効だ。たとえば、色合いを言うのに、 「ひとことで言えば玉虫色です。が、緑が濃く金を殺して深め、曖昧な印象ではありません。そのためには、薄い染料を使い・・・・・」という表現だ。 もちろんケース・バイ・ケース。ただし第一行目の持つ重要性はつねに忘れてはなるまい。 "初めが肝心"は文章を、言葉を、操るための金言でもある。大使の文章の冒頭は、阿刀田さんに言われるまでもなく、つっけんどんというか単刀直入でおます♪
2016.02.14
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図書館に予約していた『セルデンの中国地図』という本をゲットしたのです。この本には、海南島沖の米中軍用機衝突事件の顛末が載っているわけで、歴史的にも、社会学的にも読める多角的な視点が・・・・ええでぇ♪つい先日、『疾走中国』という本を読んだところだが、昨今の大使は「東アジア」がミニブームでんがな♪【セルデンの中国地図】ティモシー・ブルック著、太田出版、2015年刊<「BOOK」データベース>より400年のときを経て1枚の地図が歴史を変えた。英国で発見された中国の古地図には、鎖国下の日本を含む東アジアによる大航海時代の記録が残されていた!世界に衝撃を与えた地図の謎に迫る歴史ノンフィクション。【目次】第1章 この地図の何が問題なのか?/第2章 閉鎖海論/第3章 オックスフォードで中国語を読む/第4章 ジョン・セーリスとチャイナ・キャプテン/第5章 羅針図/第6章 中国からの航海/第7章 天円地方/第8章 セルデン地図の秘密<読む前の大使寸評>この本には、海南島沖の米中軍用機衝突事件の顛末が載っているわけで、歴史的にも、社会学的にも読める多角的な視点が・・・・ええでぇ♪<図書館予約:(2/04予約、2/09受取)>rakutenセルデンの中国地図セルデン地図の謎解きに踏み出したが、謎解きはなかなかはかどりません。p47~67<第2章 閉鎖海論> セルデンの大量の蔵書がテムズ川から荷馬車で運ばれてくると、ウッドは図書館長のトマス・バーロウに手伝いを申し出て、荷をほどき、仕分けをした。地図の入った細長い箱はボドリアン図書館に届けられた何百という箱のなかのひとつにすぎなかったのかもしれない。ウッドはそれを特別扱いするようなことはしなかった。 セルデンは、ロンドンのホワイトフライアーズにあった自宅に当時はまだめずらしかった造りつけの書棚を持っており、かなり整然と書籍や写本を並べていた。梱包を担当した者たちは書棚に並べていた順番を守って整理するよう努め、それがセルデンの死後作られた蔵書目録のもとになった。とはいえ、オックスフォードで荷解きされたときに少し混乱したことは大いに考えられる。セルデンの蔵書は一冊一冊どの本か確かめられてから、図書館の西端にある書架に運ばれた。この一角はのちに「セルデン・エンド」と呼ばれるようになる。 これは、ボドリアン図書館が一度に寄贈を受けた書籍と写本としては最大のコレクションだった。当時の基準で言えば、この寄贈の受け入れには多額の費用がかかった。館長のバーロウは、セルデンの寄贈書の整理があまりにも負担が大きかったため、職を辞したという。(中略) セルデンは1654年6月11日に遺言書を作成している。遺言には、学者として築いた資産の処分方法が補足書として添えられていた。補足書には「中国の地図」という記述があるが、セルデンによるこの地図への言及はそのほかの文献には見られない。また、蔵書のなかで彼が題名を挙げて言及しているのはこの地図だけであることも注目に値する。これ以外の書籍と写本は単純に分類でしか触れられていないからだ。セルデンは「ヘブライ語、シリア語、アラビア語、ペルシャ語、トルコ語、あるいは通常東洋語として理解されるあらゆる言語」で書かれた蔵書に注意を向けさせてはいるが、どれひとつとして題名を挙げてはいない。(中略) 遺言の補足書ではこれらの資料をオックスフォード大学に寄贈すると指定されているはずなのに、具体的な寄贈先は書かれていない。 「中国の地図」についてはその何行かあとに登場し、この地図を「前記の総長、教授、学部在学生」に贈るものとするとセルデンは述べている。「前記の」と書かれているからには、これらの大学関係者が所属する大学がすでに指定されているはずだが、それに該当する文言は見あたらない。何かが欠落しているのだ。(中略) 寄贈品の受取人が文章から抜け落ちていたのはセルデン本人の意向でもまちがいでもない。1655年2月にセルデンの遺言書が裁判所に提出されたときに、書記官は単純に一行飛ばして原本を書き写してしまったようだ。そしてその遺言書が証人立会いのもとで法的に有効とされたのである。お話は日本にまで及びます。p129~131<第4章 ジョン・セーリスとチャイナ・キャプテン> 1613年6月9日、セーリスは日本の南部の海岸に到着する。彼はウィリアム・アダムズ(日本名、三浦按針)を探していた。アダムズは1600年に日本の海岸に漂着したのだった。太平洋を横断していたオランダ船に乗っていた一握りの生存者のひとりで、日本を訪れた初めてのイングランド人だった。それからの13年のあいだ、徳川家康に仕え、日本周辺の海域に精通するようになっていた。 イングランドの東インド会社は、英日貿易を始めるにあたり、貴重な人材としてアダムズに狙いを定めていた。その狙いは正しく、アダムズには会社の目的に力を貸すのにやぶさかではなかった。日本人の妻を娶り、子供も生まれて、日本の社会にすっかり溶け込んでいたアダムズは、日本周辺の海域ばかりではなく、複雑な政治的、社会的な領域をも熟知しており、東インド会社のために、近所の住民から将軍にいたるまであらゆる人間との交渉にあたることができた。また船長としても航海長としても熟練しており、のちには同社のために中国の海岸沿いを運搬船のジャンクで航行している。 セーリスが到着したとき、アダムズは平戸にはいなかったが、そこにはヨーロッパ人が幾人かいた。彼らをとおして、セーリスは平戸藩主に会い、藩主から日本で商売している年上の中国人商人を紹介された。この中国人は名を李旦といった。李旦がセーリスの日誌に初めて登場するのは、セーリスが平戸に到着してから6日後にあたる1613年6月16日。セーリスが開設を目指していた商館の大家の候補として記されている。セーリスは李旦の名前を「キャプテン・アンデイス」と記し、「中国人の頭領」だと見なしている。李旦とセーリスは馬が合ったようだ。(中略) 李旦の人生と彼が生きた時代を今日の私たちが知ることができるのは、平戸商館長リチャード・コックスの日記のおかげである。日記のなかで現存する部分は1615年6月1日から始まる。その日の日記には李旦だけではなく、その弟の「キャプテン・フォウ(李華宇」の名前も記されている。(中略) 李兄弟は中国福建省沿岸の2大港町のひとつ、泉州の出身だった。その港からは当時、商人や肉体労働者のクーリーが東アジアの貿易ネットワークへと出帆したものだった。若き日の李旦は、アジアにおけるスペインの貿易拠点だったマニラに渡り、一財産築いた、というかコックスはそう推測したわけだが、1603年にスペインによる華僑の大量虐殺が起きると、マニラを去らざるをえなくなった。 李華宇が1619年に、李旦が1625年にいずれも自然死で亡くなっていることを考えると、1613年の時点で兄弟は50歳前後だったと考えられる。ふたりはクローブ号が平戸に入港する頃には、日本の南端に住む何百人という華僑の貿易コミュニティの頭目となっており、ふたりとも長崎に居を構えていた。長崎は、ポルトガルが貿易を始めた場所であり、徳川幕府が鎖国令を布くとオランダが拠点を移すことになる場所だが、李兄弟が主に商売をしていたのは平戸である。平戸は当時、オランダとイングランドの貿易拠点となっていた。当時の南シナ海界隈の貿易は、中国人が牛耳っていたそうです。なお、鄭和の大航海については、チラッと述べるにとどまっています。p147~148<第5章 羅針盤> ヨーロッパの商人がアジアの水先案内人や航海長に頼りきりという事態は懸念のもとになった。アジアの海域に進出して間もない頃には、イングランドの東インド会社は主に中国人の水先案内人や航海長を使っていた。これは、南シナ海界隈の貿易を牛耳っているのが中国人だと認めていたからでもある。また、計算された政治的な取り組みでもあった。コックスはそれをパタニに駐在する東インド会社の同僚に宛てた手紙で明かしており、「すべての中国人に親切に、そして敬意をもって接する」よう助言している。 その助言は、東インド会社が中国への参入手段を求めている、というただひとつの大前提に基いていた。同社のアジア戦略全体がそれにかかっていたからだ。コックスはイングランド人に、直接貿易の要請を退ける口実を明に与える行為をしてほしくなかった。パタニの同僚にはこっそりとこんなふうに言っている。「中国の皇帝がイングランド、オランダ、スペイン、ポルトガルが貿易をおこなっているアジアのあらゆる地域にスパイを送り込んでおり、中国の人民に対する彼らの態度や振る舞いを監視させているという情報を、私は確かにつかんでいる」 朝廷が張りめぐらせる諜報計画があるなどという考えは少々いきすぎているかもしれないが、ヨーロッパ人が中国との取引で直面する果てしない困難や、目標達成の厳しさからそんな疑念が煽られたのだった。コックスはなんとしても中国との貿易実現への突破口を見つけたかったため、それを損なうようなことはいっさい望まなかった。中国に、イングランドが彼らの企みを知っていると感づかれないように、パタニの同僚にはこの話を外部に洩らさないよう釘を刺している。「私が手紙に書いたことは作り話ではなく真実だが、貴殿の胸だけにしまっておいてくれ」。コックスはそう手紙を結んでいる。謎解きの最後です。p262~263<エピローグ 安息の地> 17世紀前半、セルデン地図は、南シナ海を最も正確に描いた「海図」だった。それ以前にはこれより優れた地図はなかったし、それから40年のあいだもそうであり続けた。それでも、地図製作の歴史というさらに広い視点で見てみると、セルデン地図が歴史に影響を及ぼす機会はなかった。地図を製作した人物は、陸地からではなく海から描き始めるという独創的な方法を考案している。この方法は優れた直感の賜物であり、地球表面の湾曲という問題を半ば処理でき、その結果、息を呑むほど見事な地図が出来上がった。 しかし、このほかに同様の地図を発見できないかぎり、研究する材料がない。セルデン地図の製作は一度かぎりのもので、同様の地図はほかにないのだろうか?想像しにくいことだが、確かに同様の地図は存在していない。製作者はどうやって描いたのかの説明を残さなかった。また、弟子を育てなかったため、彼が考案した方法を受け継ぎ、改良を重ねて地図製作の原則の域にまで高められることはなかった。現存する証拠が示すかぎり、何も教えられたり、受け継がれたりした形跡はない。研究はここで行き止まりだった。 この地図がイングランドではなくヨーロッパ大陸に運ばれていれば、物語は変わっていたかもしれない。しかるべき人物に見せていれば、ヨーロッパの地図製作者に影響を与えていたかもしれないのだ。しかし、そういうことはなかった。 リチャード・ハクルートとサミュエル・バーチャスは地図を見ていただろうが、地図を何かに活かしたという証拠はない。地図がオックスフォード大学に展示される頃には、地図製作の世界に影響を及ぼすには遅すぎた。ほかの進展があったからだ。セルデン地図の価値が下落したのは1640年だとかなりの確度で推定できる。その頃にはアムステルダムの偉大な地図製作者ヨアン・ブラウが、オランダ東インド会社のために、これ以上正確なものはないという中国周辺海のポルトラノ型海図を製作していたからだ。 この海図を堺に、ヨーロッパ人はヨーロッパ製の中国周辺海の海図を信頼できるようになったのである。地図製作の資料として、もはやセルデン地図に頼る必用はなくなってしまった。1640年の時点で、セルデン地図は先駆的な地図とは言えなくなっていた。著名な科学者エドマンド・ハレーは、1705年にセルデン地図を見て、不正確だと一蹴している。 そう理解してみると、セルデンの役割について評価が分かれることになるだろう。地図が保存されていたのはセルデンのおかげである。アジアの写本を収集しようという彼の情熱なしには、このような地図が存在したことすら、現代には伝わっていなかっただろう。しかしその反面、自宅にしまい込んだせいで、広く知られる機会を事実上奪ってしまったとも言えるのである。スッキリした謎解きにはならなかったが、謎解きの過程が充分に知的興味をつないでくれました・・・著者の文才なんでしょうね。ところで、ネットで「古地図」を巡っていたら「ゼンリンバーチャルミュージアム」というのが、ありました。このサイトでは、『セルデンの中国地図』を載せているのかな?江戸開府以前から昭和後期までの貴重な古地図をブラウザで見まくることが可能な「ゼンリンバーチャルミュージアム」より日本最大手の地図制作会社のゼンリンがこれまでに収集した国内外の古地図をデジタル化して公開しているサービスが「ZENRIN Virtual Museum」です。江戸開府以前から昭和後期までに作成されたさまざま種類の地図が約220個も公開されているとのことなので、実際に古地図を見まくってみました。ゼンリンバーチャルミュージアムhttp://www.zenrin.co.jp/zvm/上記URLを開いたら「Collections 公開地図一覧」をクリック。公開地図一覧のページでは「時代」と「分類」から公開されている地図を検索可能。公開されている地図の時代は「江戸開府前」から「昭和後期」まで多岐に及んでいます。『セルデンの中国地図』1『セルデンの中国地図』2
2016.02.13
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図書館で『喰らう読書術』という本を手にしたのです。表紙には“一番おもしろい本の読み方”というコピーが見られます。博識の荒俣さんの切り口が独特で・・・・ええでぇ♪【喰らう読書術】荒俣宏著、ワニブックス、2014年刊<「BOOK」データベース>より「人間が発明した物の中でもっともよい頭(精神)の栄養、(他人の経験が詰まった)いわば頭の缶詰みたいなものが『本』です」。-「第一章」より。本書では、「知の巨人」「博覧強記の怪人」など、数々の異名を持つ著者が、何千、何万冊と本を読む中で得た、もっとも美味しく(おもしろく)、頭の缶詰(本)を食べ(読み)、無駄なく頭の栄養にするための「アラマタ流読書術」を初めて紹介します。<読む前の大使寸評>表紙には“一番おもしろい本の読み方”というコピーが見られます。博識の荒俣さんの切り口が独特で・・・・ええでぇ♪rakuten喰らう読書術荒俣さんが蔵書の効用を語っています・・・本を捨てられれずに溜まる一方の大使にとって、心強い味方でんがな♪p133~135<本は物体でもある。持てば資産になる> 本にはまず物体としての尊厳があるということを、前に説明しました。本を集めて自宅に置くということは、財産を蓄えることと同じです。ただし、この財産は非常に重くて数も多い財産ですから、取扱いには苦労が付いて回ることを覚悟すべきでしょう。 どんなにおもしろい内容があっても、本はその中身を守れなければ意味がありません。本自体は、容器なのです。その点から考えると、いちばんすばらしいのは石か金属です。これなら少なくとも数千年は大丈夫、中身を守ってくれます。 ただ、石や金属には大きな問題点があります。重くて大きいことです。つまり、運ぶときにも、保管するときにも、手に負えないということです。それでも、エジプトのアレキサンドリア近郊で発見された「ロゼッタストーン」は、まさしく本のお手本であるといえます。エジプトの4千年前の記録を現在に伝えたのですから、石という記録媒体、つまり物体に情報を印字した最初期の頑丈な容器なのです。この丈夫さは紙のおよぶところではありません。 じつは現在、世界のあちこちで本を石に戻そうという動きが出ています。その補完力、丈夫さがあらためて認識されたからです。現在は紙の本にしてもDVDやUSBにしても、火事でやけてしまうのが怖いのですが、将来は石英に記号をレーザーなどで彫りつけて保管することが研究されています。これですと数千年はまちがいなく保管でき、しかも燃えません。 しかし、エジプトでは石に彫り付けた石碑スタイルとは別に、パピルスを用いて記録を付ける簡便な方法も使われていました。軽くて運びやすいうえに、丸めて保管することができたからです。ただし、丈夫ではなく、火にも弱い欠点がありました。軽くて運びやすいうえに、丸めて保管することができたからです。ただし、丈夫ではなく、火にも弱い欠点がありました。 それでも、世界では皮や紙、あるいは樹や葉をもちいた「ペーパー」と呼ばれる材質の本が今日まで進化してきました。おかげで、私たちのような市民でも、本を何冊も自宅に置いて、いつでも読めるようになったのです。 おもしろいことに、本が物体であることから、これを所有するだけで本を読んだのと同じ効果があるという考え方がでてきました。これが、いわゆる「蔵書家」です。もちろん読書家でもある場合が多いのですが、純粋に本を持つだけの蔵書家もいます。こういう人たちも、命がけで本を守ってくれたわけですから、本にとっては頼もしい味方だったといえるでしょう。ロゼッタストーンを引き合いに出して、蔵書の効用を語っているが・・・ええなぁ♪一方でパソコンを前にして、コピー&ペーストに明け暮れる大使である。荒俣さんがコピーあるいは紙の本に関する考察を述べているが・・・ええでぇ♪p171~173<本はキャラクターとタイプで個性を持つ> むかし、作家は、自作のテキストが句読点一つ変えられても、激怒したもんでした。それだけ、文章を自分自身の結晶体、あるいはユニットと考えていたのです。 例えば太宰治『斜陽』は、一文章だけを取り出してあれこれ言ったところで、その小説を読んだことにはならなかったんですね。問題は本全体にあるのです。教師や、帯の宣伝文句まで、作家の一部なのです。いわんや、現在のような「コピー&ペースト」全盛時代にテキストの中の一文、一語が他人に「盗まれて使用される」ことは、ありえないことでした。書物には人格があったんですね。その一部を無断転用することは、手足をもぐのと同じ乱暴な振る舞いでした。 そこでですが、「キャラクター」と「タイプ」という英語を思い出してください。注意すべきは、どちらも印刷用語でもあることです。キャラクターは文字、タイプは活字の意味でもあります。キャラクターは、いまでは「キャラ」と短くして、その人の性格特性をあらわします。印刷・活字の技術と共にうまれた非常に重要な概念で、「その人らしさ」を意味しています。 個性と訳してしまいがちですが、この「らしさ」はユニークというのではなく、だれが見ても分かりやすい典型という意味にとらないといけません。なぜなら、いまお話したとおり、この言葉は同時に「文字」をあらわすからです。たとえば警察官らしい顔、態度、服装をしている。これが「キャラクター」です。 もう一つは「タイプ」です。「あの娘はジャスト・マイ・タイプ」などと使われますね。このタイプも「活字」を意味しました。キャラクターよりももっと妥協のない「らしさ」です。どこか一つでも「かわったところ」があってはいけません。四角四面です。ということはつまり、想う通り、どんぴしゃの彼女が現れた、という意味ですね。こうした言葉の流行も、本の普及と関係があったと考えられます。 ところがいま、キャラクターもタイプも危機にさしかかっています。印刷本にかわって、コンピューターがデザインする文字が登場しつつあるからです。まず、本に備わっていた「ユニット」性、つまり人格が危機に襲われています。 紙の場合、本の一部を盗もうとしたら、そのページを破り取らねばなりませんでしたが、いまはテキストの一部を切り取り、他の文章に貼り付けることがいくらでもできます。本の人格性にたいするリスペクトが消滅し、何の罪悪感もなしに作家の文章も何もかも、みんな自由に切り張りされる時代になったのです。 私は、本のパワーが失われた一つの原因に、本の物体性が消えたことを挙げておきたいと思います。このことは、印税とも関係があります。作家の所有権の証として、本一冊一冊には「印税」という金銭が支払われます。なぜなら、本という印刷物はそれを書いた作家の所有物でもあるからです。その権利を著者から買い取るわけですね。 しかし、デジタルにはもはや「本」の実体が存在せず、オリジナル(原本)も存在しない。こうなると、本が持っていた人格も失われるでしょう。もう、ずたずたにしてもいいや、ということになります。キャラクターもタイプもありません。・・・なるほど、荒俣さんは言外にではあるが電子書籍への忌避感を述べているんでしょう♪コピー&ペーストに明け暮れ、一方で蔵書が溜まる大使であるが・・・これも紙の本に対するリスペクトだと思うのです(汗)
2016.02.12
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図書館で『疾走中国』という本を手にしたのです。2011年時点では、中国取材はここまでできたのか…でも、スパイ疑惑で外国人記者を追い出すというハリネズミのように過敏な今では、こんな旅行は無理ではないかと思うのです。【疾走中国】ピーター・ヘスラー著、白水社、2011年刊<「BOOK」データベース>より【目次】第1部 長城/第2部 村/第3部 工場【著者情報】1969年、米国ミズーリ州生まれ。プリンストン大学卒業後、オックスフォード大学で英文学を学ぶ。1996年、平和部隊に参加し、中国四川省の長江流域の町にある地方大学で2年間、英語教師として教鞭をとる。2000~07年、『ニューヨーカー』北京特派員。2008年、“全米雑誌賞”を受賞。現在はフリージャーナリストとして活躍<読む前の大使寸評>2011年時点では、中国取材はここまでできたのか…でも、スパイ疑惑で外国人記者を追い出すというハリネズミのように過敏な今では、こんな旅行は無理ではないかと思うのです。rakuten疾走中国この本は、わりと厚めの大作であるが、飛ばし飛ばししながら読みおわりました♪この本の今日的意義の片鱗を、訳者あとがきで見てみましょう。p389~391<訳者あとがき>より 「近代化が問題だと言っているのではない。私は、発展には反対はしない。貧困から脱したいという人びとの気持ちはわかるし、努力して順応しようという中国人の意欲を深く尊敬している。だが、あまりに急激な変化は犠牲を伴うものだ。問題はとらえにくい場合が多い。外国人にはなかなか見えないのだ。西欧メディアは中国の政治や劇的な事件に関心を寄せ、農村暴動なっど不安定化のリスクをとくに大きく報道する。だが私の見るところ、個人の内面的な動揺こそ、もっとも深刻な問題ではないか」と著者は言う。 本書は、それぞれ趣きの異なる3部で構成されていいて、どの部から読んでも楽しめる。第1部は北西部の辺境紀行だ。中国の運転免許証を取得した著者は、万里の長城をたどって北京からチベット高原までの長距離ドライブに出かける。(中略) 第3部は急発展する南部の小都市、麗水市が舞台だ。著者は市政府が開発を進める地区をたびたび取材に訪れ、その変貌ぶりに目を見張る。「9ヶ月の間にこの地区はすっかり変わってしまった。目をつぶっていてもわかるほどの激しい変わりようだ」。著者がそうした変化のスピードを19世紀のアメリカで広がった都市化の波と比較し、「根本的な違い」を指摘しているのも興味深い。 「自由市場がすべてを方向づける」中国の新興都市に集まってくるのは、実にたくましい人たちばかりだ。「労働者は才覚に富み、やる気満々で、起業家は恐れをしらない」。しゃにむに突き進む人びとの姿を描きながら、著者は中国が抱える「より大きな問題は、低採算商品の生産から一歩進んで、創造性や技術革新が必要な産業を育てることができるかどうか」だと指摘している。 著者は中国での生活のなかで感じるさまざまな矛盾点を、ときに皮肉を込めて、ときにユーモアを交えて語っているが、「外国人」の限界を実感することも多いようだ。レンタカー会社にアメリカ流のやり方を伝えようとしても、「中国人のことをおわかりでないから、そうおっしゃるんです」と笑いながら受け流されてしまう。「これは外国人がよく耳にする言葉で、この話はこれで終わりという意味だった」。 著者が、親友の一人息子の入院先で治療法法の説明を求めたり、輸血の安全性に疑問を呈したりして中国人の担当医を怒らせてしまうエピソードも示唆に富むものである。「これまで知り合いになった中国人は、みな寛容だった。とかく中国語を話す外国人は、過度に尊敬される。そして、尊敬は便宜につながることが多い。長期滞在者のご多分にもれず、私は人びとの尊敬を都合よく利用することを覚えた。ただし、尊敬が実は何を意味するかについて幻想を抱いたことはない」 中国という途方もなく大きな国を多角的、多層的に描く本書の魅力は、読者を一気に引き込む語りのうまさ、読みやすさにある。著者がこの書を「物語風ノンフィクション」と呼ぶのもうなずける。著者の楽天的というか、ポジティブシンキングなところが、爽やかな読後感を与えてくれました。かつて、イデオロギー全盛の時代に、エドガー・スノーが毛沢東と接した4ヶ月間を『中国の赤い星』として著わしたけど・・・この本はスノーの頭でっかちな著作とは別の道を、多角的に辿り成功したのではないかと、大使は高く評価する次第です♪『疾走中国』1『疾走中国』2『疾走中国』3
2016.02.11
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図書館に予約していた『セルデンの中国地図』という本をゲットしたのです。この本には、海南島沖の米中軍用機衝突事件の顛末が載っているわけで、歴史的にも、社会学的にも読める多角的な視点が・・・・ええでぇ♪つい先日、『疾走中国』という本を読んだところだが、昨今の大使は「東アジア」がミニブームでんがな♪【セルデンの中国地図】ティモシー・ブルック著、太田出版、2015年刊<「BOOK」データベース>より400年のときを経て1枚の地図が歴史を変えた。英国で発見された中国の古地図には、鎖国下の日本を含む東アジアによる大航海時代の記録が残されていた!世界に衝撃を与えた地図の謎に迫る歴史ノンフィクション。【目次】第1章 この地図の何が問題なのか?/第2章 閉鎖海論/第3章 オックスフォードで中国語を読む/第4章 ジョン・セーリスとチャイナ・キャプテン/第5章 羅針図/第6章 中国からの航海/第7章 天円地方/第8章 セルデン地図の秘密<読む前の大使寸評>この本には、海南島沖の米中軍用機衝突事件の顛末が載っているわけで、歴史的にも、社会学的にも読める多角的な視点が・・・・ええでぇ♪<図書館予約:(2/04予約、2/09受取)>rakutenセルデンの中国地図海南島空中衝突事件から7年後、著者とセルデン地図との出会いが述べられています。EP-3p30~37<第1章 この地図の何が問題なのか?> 偵察機は衝突の衝撃で横揺れし、機体を反転させて1万4000フィート(4300m)急降下してから、機長のオズボーンはやっとコントロールを取り戻した。彼の見積では目的地である沖縄まであと26分の位置にいたが、機体がそれほど持ちこたえるとは思えなかった。そこで着陸できる場所を探した。候補は中国本土の南にある海南島の陵水軍用飛行場しかなかった。人民解放軍の2機のジェット戦闘機が飛び立った、まさにその基地の飛行場である。アメリカ軍偵察機の乗員は緊急時の標準的な手順に従って、他国に知られたくないデータと機器を破壊した。乗員のひとりはこの処理を早めようと、ディスクドライブとマザーボードにコーヒーをぶちまけた。 第2の中国側戦闘機パイロットは、アメリカ軍機を撃墜する許可を求めて陵水飛行場に無線連絡を入れたが、その要請は却下され、基地への帰還を命じられた。アメリカ軍機も救難信号を同じ飛行場に送っており、中国側の飛行場は国際条約に従って対応する義務があった。アメリカ軍機は救難信号を15回も送ったが、応答はなかった。これはのちに、許可泣く着陸したとして、アメリカ軍機の緊急着陸が違法だったと主張する根拠を中国側に与えることになる。 着陸許可の有無にかかわらず、オズボーンには着陸を試みる以外に選択肢はなかった。所属基地までたどりつくのは不可能だった。計器類にも頼れず、左翼のフラップのコントロールを失い、燃料の重さが機体に過剰な負担になっていたため、海南島への着陸すら困難だった。偵察機は飛行場に170ノット(時速約310キロ)で着陸したが、滑走路が果てる前になんとか停止することができた。 偵察機が停止するとすぐに、武装した人民解放軍の兵士たちが滑走路に詰めかけ、機体を取り囲み、銃口を突きつけて乗員を降機させた。アメリカ軍機の乗員はそれから11日間身柄を拘束され、違法な尋問を受けることになる。その間、米中両国は手の込んだ外交交渉を繰り広げた。アメリカ軍機の乗員がやっと解放されたのは、アメリカがこの事件と王少佐の死に対して遺憾の意を表する慎重な書簡を発表してからのことだった。 中国は機体を徹底的に調べてから、偵察機をアメリカに返還した。ロッキード・マーチン社のエンジニアは返還された偵察機を解体する許可を得たが、解体された部品はロシア製の輸送機に積んで沖縄に送るしかなかった。その後アメリカのジョージアで組み立て直された偵察機は現役に復帰している。アメリカはオズボーン大尉に空軍特殊十字章を授与した。一方の中国は、国家の守護者として軍事的英雄を神格化するという長きにわたる伝統に則り、王偉少佐に「海空衛士」の名誉称号を贈っている。 この事件が発生したのは2万2500フィート(約6900m)の上空だが、事件を引き起こした原因は海にあった。航空機が海上のどこを飛行できるのかを司るルールはまだ完全には成文化されていない。そのルールの大部分は、「海洋法」をもとにしている。海洋法はどこかの水域が誰のものなのか、そこを航行できる船舶はどのようなものなのかに関する規則で、現在も進化を続けている。これらの規則が空域を司る規則にもなっており、船が明確な許可を得ずに他国の領海に入ることができないのとちょうど同じように、航空機の場合も他国の領海の上空に入ることは禁じられている。アメリカ軍偵察機がなぜ抑撃されたのかは、海洋法について多少とも知識があって初めて理解できる。(中略) アメリカ側の理解はこうだった。偵察機は南シナ海の中国の大陸棚の上空を無害通航していた。中国はこの通航を監視する権利はあるが、それを妨害したり、偵察機の安全や乗員の命を危うくする作戦行動を行ったりする権利はなかったはずだ・・・。一方、中国側の見方では、偵察機は中国の領海上空を飛行していたと解釈された。中国の領空を侵犯するということは、つまるところ、中国の主権の侵害にほかならない。したがって、偵察機を追い払うのは完全に正統な行為だ・・・。 不思議なことに、というか賢いことに、中国は南シナ海全域に対する権利を法的に主張したことはない。発見者の権利によって歴史的に主権を有しているというのが彼らの主張だ。中国人の船乗りが南シナ海の島々を最初に発見したのだから、そうしたすべての島々とそれらを取り囲む海も中国のものだというのである。(中略) 海南島空中衝突事件から7年後、私はボドリアン図書館新館の地階で、その存在すら想像しなかったものをじっくりと調べていた。それは2台のテーブルを使って広げられ、私の眼の前にあった。アジアの東端が描かれた古い紙製の地図である。その大きさは注目に値し、幅は1メートル、長さは2メートル近くもあった。いちばん下に巻き軸がついている。かつては壁に掛けられていたのだろう。墨で描き出されているのは、中国の沿岸部と東南アジアの島々だった。(中略) 地図を調べれば調べるほど、私は心を乱された。それは私が見たことのある明王朝(1368~1644年)の時代のどんな地図とも似ていなかったからだ。ひどくまちがっているように思われた。まず、一般的な明代の地図よりもはるかに広い範囲が描かれていた。当時の明の国民が母国と考えていた範囲だけではなく、右上隅の日本から左下のスマトラ島まで含めて、国境をはるかに越えた広大な周辺地域も描かれていたのである。フィリピンとボルネオ島は現代の私たちが知っているとおりの位置、大海原のなかにある。ベトナム沿岸部のお馴染みの輪郭も今知られているとおりの位置にあり、マレー半島と今日インドネシアを形成する比較的大きな島々もまたしかりだった。この謎のような導入部から読みはじめています。謎解きは追って紹介します。
2016.02.11
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図書館で『巨匠のメティエ・黒澤明』という本を手にしたのです。黒澤天皇を支えたスタッフ、俳優たちへのインタビュー集であるが・・・まさに黒澤レジェンドという感があるのです。【巨匠のメティエ・黒澤明】西村雄一郎著、フィルムア-ト社、1987年刊<「BOOK」データベース>より古書につき、データなし<読む前の大使寸評>黒澤天皇を支えたスタッフ、俳優たちへのインタビュー集であるが・・・まさに黒澤レジェンドという感があるのです。rakuten巨匠のメティエ・黒澤明大使としては美術が気になるので、美術の村木与四郎さんのところを見てみました。p150~162<村木与四郎>Q:『蜘蛛巣城』の城門にしても、とてつもなく大きいですものね。村木:実際、あんな巨大な門なんかありませんよ。黒澤さん何しろ大きいのや、太いのが好きみたい(笑)。Q:それは、黒澤さんの視点を考えるうえで面白い事実ですね。村木:『乱』でも、酒を注ぐ白磁の銚子を型にとらせて、実際焼かせて作らせたんです。それも、実際のよりかなり大きくて、図太い(笑)。Q:そうすると、黒澤作品の場合でも、ずいぶん、史実と異なることがあるんですか?村木:あります。大いにあります。『用心棒』の宿場の道の幅も、スクリーンがワイドだから、あれほど、広くしなければならなかったのです。『赤ひげ』の小石川養生所のセットにしても、実際の患者の部屋は少ないんですが、本に合わせて、部屋数を多くして、自由に出入りできるようにしたのです。養生所の制服も、まるっきり創作したもので、ああいう御仕着せ的なものがあったわけじゃない。その後、テレビの『赤ひげ』で、あのままの形で着せてましたけどね。手術台のセットにしても、当時は油紙を敷いて、手術していたんですが、それだと絵的に面白くないから、あんな形になったんです。Q:つまり、視覚的にいかに写るかが優先するわけですね。村木:そうです。Q:クソリアリズムじゃない。村木:それだと動きがとれないですよ。『蜘蛛巣城』の城郭にしても、清水寺のような長い束柱に支えられた舞台が面白い、と採用になったんです。Q:『影武者』でも、天守閣がいろいろ出てきましたが、黒澤さんは、「天正年間の城は、山城で、平城の天守閣は本当はなかったが、それでは映画として面白くない」と、さかんにおっしゃってましたね。それが、封切られると、平城はおかしいと批判される。だから、時代考証家が実際とは違うと批判するのは、ナンセンスだという気がしますね。だけど、黒澤映画の場合、スクリーンに写ってしまうと、それが現実に存在したんじゃないかと思うくらいに説得力がある。これは、なぜですか?村木:それは、理論的な裏づけができているからですよ。さっきもいったように、全くかけ離れたところから想像したものでなくて、Q:その意味では、黒澤さんは一流の批評家でもありますね。村木:そういうことです。Q:じゃあ、黒澤さんは、相当な資料を持っておられるんですか?村木:ものすごいですよ。美術書なんか、専門の僕でもかなわない。Q:ユニークな発想も、それだけ資料を読みこなした上での発想なんですね。黒澤映画は、どこ切っても、黒澤さんの教養が出てますものね。村木:なにしろ、黒澤さん、何かやり出すと、趣味でなくなっちゃいますからね。多摩川の鯉釣りやり始めたら、潜って鯉の道筋まで描いたりする(笑)。その時、スイス製のリールを使ったことから、『七人の侍』の矢のアイデアが出てきたんですよ。矢が刺さる所に板を隠しておいて、その板と射る矢を透明なテグスで結ぶんです。矢の中は空洞になっていて、その間にテグスを通す。矢はテグスを伝わっていくわけだから、確実に狙った所に届くんです。つまり、黒澤さんは、自分の趣味を、実にうまく映画に利用するんです。Q:黒澤さんは何か、無意識のうちに、やっていることすべてを、映画に結びつけているって感じがしますね。(中略)Q:『用心棒』は舞台は上州?村木:そうです。空っ風が吹くところという設定なので、むこうの家屋を参考にしてます。倉のつくり方、汚し方も、ずいぶん調べました。映画では一方の親分が、最初はお米屋だったんです。でも、僕の親父が酒問屋の番頭やってましてね。小さい時から造り酒屋へ行ってたものですから、そっちのイメージのほうがいいんじゃないかって黒澤さんに話したら、「じゃあ、酒屋にしよう」とOKが出たんです。でも、そこまでは良かったんですが、両方の親分の組が、お互いのものを壊しあう時に、酒樽から酒が飛び出すシーンがあるでしょう。あの時、「酒樽が小さい。倍ぐらい大きいものを作れ!」って(笑)。でも、あんな巨大な樽なんて日本にないでしょう。だから、樽をたがねるタガがなくて作るのに大変でした。この印象的なカットも、実際より、ビジュアルに写るほうを優先させた例ですね。Q:桑畑三十郎が酒を飲んでる時のとっくりは、黒澤さんが所有されてる骨董品だそうですね。村木:あれ、京都で買ったんですよね。小物の場合は、黒澤さん骨董が好きだから、持ってるもの使うんです。『七人の侍』の木賃宿の時使ったお米の壷は、鎌倉時代の物なんですよ。Q:『用心棒』で、空っ風が吹いているのを現わすのに、埃を利用されてますね。それを散らすのに大扇風機を回してるんですが、実際の撮影の時は、ものすごい轟音だったそうですね。村木:そうそう、あれ飛行機のプロペラで回してるんですよ。昔のものだから、もううるさくってね。あれは、西部劇で草の固まりがころがるシーンがあるでしょう。あれからヒントを得たんじゃないのかな。ところで・・・黒澤監督に影のようにつき従った記録係(スクリプター)の野上照代さんがいるんですが・・・彼女が出した黒澤エピソード満載の本が面白いので、お奨めします。この記事も黒澤明の世界に収めておきます。
2016.02.10
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<図書館大好き134>今回借りた6冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば「東アジア」でしょうか♪<市立図書館>・疾走中国・東アジアの食文化探検・セルデンの中国地図・忘れられた巨人<大学図書館>・巨匠のメティエ・黒澤明・マテリアル革命図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)************************************************************【疾走中国】ピーター・ヘスラー著、白水社、2011年刊<「BOOK」データベース>より【目次】第1部 長城/第2部 村/第3部 工場【著者情報】1969年、米国ミズーリ州生まれ。プリンストン大学卒業後、オックスフォード大学で英文学を学ぶ。1996年、平和部隊に参加し、中国四川省の長江流域の町にある地方大学で2年間、英語教師として教鞭をとる。2000~07年、『ニューヨーカー』北京特派員。2008年、“全米雑誌賞”を受賞。現在はフリージャーナリストとして活躍<読む前の大使寸評>2011年時点では、中国取材はここまでできたのか…でも、スパイ疑惑で外国人記者を追い出すというハリネズミのように過敏な今では、こんな旅行は無理ではないかと思うのです。rakuten疾走中国疾走中国byドングリ【東アジアの食文化探検】周達生著、三省堂、1991年刊<「BOOK」データベース>より近隣諸国の食文化から、〈日本の食〉の過去と未来が見えてくる?【目次】多様な肉のイメージ/多民族国家・中国と食文化/コラム「イスラエルの民-民族とは何か」/くまなく食べる豚料理と昆虫食/「おいしいもの」の相対性/コラム「鯨食文化を考える」/粒食と粉食/箸と匙の食事作法/カマドの移り変わり/米の料理法のバラエティ/照葉樹林の食文化/コラム「中国の照葉樹林とその文化」/工夫茶と日本の茶道/茶外の茶/食の伝播と変容/道具の連続・不連続-アジアの製麺道具の考察から/「菜単」の読解/コラム「満漢全席ダイジェスト版」/中国料理の料理法と包丁さばき/マントウ・まんじゅう・マンドゥ/メコン河流域の淡水藻食<読む前の大使寸評>著者は在日華人であり、国立民族学博物館教授を歴任したという人である。この本のテーマを語るには適任だと思うし、この本の科学的な香りにも納得した次第です。rakuten東アジアの食文化探検東アジアの食文化探検byドングリ【セルデンの中国地図】ティモシー・ブルック著、太田出版、2015年刊<「BOOK」データベース>より400年のときを経て1枚の地図が歴史を変えた。英国で発見された中国の古地図には、鎖国下の日本を含む東アジアによる大航海時代の記録が残されていた!世界に衝撃を与えた地図の謎に迫る歴史ノンフィクション。【目次】第1章 この地図の何が問題なのか?/第2章 閉鎖海論/第3章 オックスフォードで中国語を読む/第4章 ジョン・セーリスとチャイナ・キャプテン/第5章 羅針図/第6章 中国からの航海/第7章 天円地方/第8章 セルデン地図の秘密<読む前の大使寸評>この本には、海南島沖の米中軍用機衝突事件の顛末が載っているわけで、歴史的にも、社会学的にも読める多角的な視点が・・・・ええでぇ♪<図書館予約:(2/04予約、2/09受取)>rakutenセルデンの中国地図セルデンの中国地図byドングリ【忘れられた巨人】カズオ・イシグロ著、早川書房、2015年刊<「BOOK」データベース>よりアクセルとベアトリスの老夫婦は、遠い地で暮らす息子に会うため長年暮らした村を後にする。若い戦士、鬼に襲われた少年、老騎士…さまざまな人々に出会いながら雨が降る荒れ野を渡り、森を抜け、謎の霧に満ちた大地を旅するふたりを待つものとはー。失われた記憶や愛、戦いと復讐のこだまを静謐に描くブッカー賞作家の傑作。<読む前の大使寸評>この本はまだ本屋に平積みで置いてあり、著者原作『わたしを離さないで』のテレビドラマが放映中でもある。いつの間にか、トレンディな作家ということになったようです。<図書館予約:(7/18予約、2/09受取)>rakuten忘れられた巨人【巨匠のメティエ・黒澤明】西村雄一郎著、フィルムア-ト社、1987年刊<「BOOK」データベース>より古書につき、データなし<読む前の大使寸評>黒澤天皇を支えたスタッフ、俳優たちへのインタビュー集であるが・・・まさに黒澤レジェンドという感があるのです。rakuten巨匠のメティエ・黒澤明巨匠のメティエ・黒澤明byドングリ【マテリアル革命】ムック、ニュートンプレス、2015年刊<「BOOK」データベース>よりムックにつき、データなし<読む前の大使寸評>素材、元素分野の研究は日本のオハコであるが・・・中韓台に差別化を図る意味でも今後ますます研鑽に励むべき分野ではなかろうかと思うわけです。rakutenマテリアル革命マテリアル革命byドングリ*************************************************************とまあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き133
2016.02.10
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図書館で『疾走中国』という本を手にしたのです。2011年時点では、中国取材はここまでできたのか…でも、スパイ疑惑で外国人記者を追い出すというハリネズミのように過敏な今では、こんな旅行は無理ではないかと思うのです。【疾走中国】ピーター・ヘスラー著、白水社、2011年刊<「BOOK」データベース>より【目次】第1部 長城/第2部 村/第3部 工場【著者情報】1969年、米国ミズーリ州生まれ。プリンストン大学卒業後、オックスフォード大学で英文学を学ぶ。1996年、平和部隊に参加し、中国四川省の長江流域の町にある地方大学で2年間、英語教師として教鞭をとる。2000~07年、『ニューヨーカー』北京特派員。2008年、“全米雑誌賞”を受賞。現在はフリージャーナリストとして活躍<読む前の大使寸評>2011年時点では、中国取材はここまでできたのか…でも、スパイ疑惑で外国人記者を追い出すというハリネズミのように過敏な今では、こんな旅行は無理ではないかと思うのです。rakuten疾走中国この本は読みどころが多いので、(その2)として読み進めたのです。シルクロードの雰囲気が出ているあたりを見てみましょう。シルクロードp97~99<第1部 長城> 甘粛省で故障した李のトラックには綿花が積んであった。李は新疆から江蘇省まで、3000キロ以上走る。シルクロードとして知られる北西部の道をたどり、甘粛省の河西回廊やオアシスのある新疆中部の町々を通るルートだ。綿花を東部へ運び、工場のある都市で降ろし、帰りには衣料品を運ぶ。これが李の錬金術だった。 「安物衣料だよ。中央アジアの貧しい国に輸出すんだ」。李は年に5万元近くも稼いだ。中国では申し分のない年収だ。最近は見習いを一人雇い、三人一組で運転している。李が戻ってくるまでの4日間、ほかの二人は「巨能王」トラックに乗って待ち続けることになる。トラック運転手の最大の悩みは、警察に支払う罰金を別にすれば、盗難であろう。「あいつらは荷台に乗り込んできて、なんでも手当たり次第に盗んでいく。走っている最中だっておかまいなしだ。最悪なのは河南省で、泥棒を見つけて警察を呼んでも、来やしない。河南省は走りたくないね」 安遠駅で私は李と彼の燃料ポンプを降ろした。ポンプの油がシティ・スペシャルの床一面に漏れていた。李がしきりに謝るので、キャピタル・モーターズの王さんに電話すると「大丈夫ですよ」と言ってくれた。 私は河西回廊へと旅を続けた。甘粛省のこの細長い一帯は、東は砂漠、西は山地に隣接している。回廊の中央部は西の高峰から流れてくる雪解け水のおかげで土地は肥沃だ。昔から人が住み、交易ルートが自然に開けていた。この地域一帯を隊商が通り、彼らの運んだ物品はやがて中東やヨーロッパまで行き着いた。19世紀、西欧の地理学者や歴史家はこの地域の交易ルートをシルクロードと呼びはじめた。 シルクロードとは、実際には網状につながる数十ものルートのことで、多くの地点を結び、さまざまな産物を運ぶネットワークなのだが、「シルクロード」という呼称は使われ続けた。これは、外国人が想像力を働かせて単純化した呼び方だ。多くの防壁がいまは単に「万里の長城」として知られるように、シルクロードという外国人の概念も中国で浸透し、いまでは「スーチョウチールー(絹の道)」という呼び方が一般的だ。 この二つの概念は甘粛省の312号線沿いで交わる。河西回廊の中心部を走る現代の自動車道を西北へ進むと、右側に明の時代の長城跡が見えはじめた。人の背丈ほどの高さの土盛の防壁が何キロも切れ目なく続いており、防壁に抱かれるようにして村が点在する。一度、幹線道路から降りて泥道をたどってみた。 少し行くと下口という村に行き当たった。ここでは長城はまだ村人の暮らしの役に立っている。長城に沿って羊小屋が並び、羊たちが明の遺物を前足でひっかいていた。町はずれの、水道の通っていない地区の住民は長城を掘り抜いて屋外トイレに使っていた。万里の長城の名声ももはやこれまでだ。下口村の長城は臭かった。 昔ここは軍の駐屯地だった。いまでもこの行政区の名は「老軍郷」だ。駐屯部隊はこのルートを通る商人を守っていたのだろう。「おれたちが子供のころ、まだラクダの隊商が通っていた。いまでも覚えてるよ。新疆に向かう人たちだった」と一人の老人が言えば、別の老人がうなづいて付け加えた。「商人一人につき、ラクダが10頭かそれ以上いたよ。みんなめいっぱい荷を積んでた。商人は大方が中国人だったが、なかにはウイグル人もいたよ。解放後はラクダもあまり来なくなった。そのころからトラックを使いはじめたんだ」(中略) 老人たちは消えてしまったほかの建物について、名前やあった場所を思い出した。その多くはまだ宗教が一般的だった時代に建てられた寺院だが、文革時代の反迷信運動ですべて破壊されてしまった。「子供が欲しい人は子宝の女神の寺に行くし、老人は道教の寺で祈る。昔はそんなふうだった。学者なら科挙の前には学問の寺にお参りしたもんだ。農家の人なら龍王様の寺で雨乞いだ」 こうした寺はいまや記憶の中にしか存在しない。壊れかけた塔のあるこの交差点でさえも、すでに役目は終えている。現代のシルクロードは下口村を通らないからだ。新しい312号線がこの村から西方に3キロ離れて建設されたことが、とどめの一撃となった。誰もこの村を通らなくなったのだ。村の人口はいまやわずか400人。 改革開放政策の始まったときから半減したわけだ。若い人は中学校を終えると、さっさと村を出てしまう。ここでは、手入れの行き届いた唯一の建物といえば中学校だった。その夜どこか泊まれるところはないかと訊くと、村人たちは中学校に案内してくれた。このレポートによれば、河西回廊あたりの光景は昔の面影を残していないようです。西域に憧れる大使であるが・・・憧れのままにしておくのがいいのかも?♪現代(2011年当時)の過酷な就職状況がレポートされています。p276~278<第3部 工場> 王社長は大型の金属プレス機を操作する男手が必用だった。プレス機で大まかなリングの型を作り、それをリング製造機のラインに乗せて最終製品を仕上げるのだ。だが、もっと採用したいのは女性工員だ。工程の大部分は技術も力もいらない。アンダーワイヤーを選別し、製造ラインを点検し、できあがったブラジャーリングを箱詰めにする、それだけの仕事だ。工場経営者のご多分にもれず、王社長も雇うなら若い女性に限ると言っていた。 「女の子は我慢強いし、扱いやすい。男は扱いにくい。けんかっ早くて、すぐに問題を起こすんだ」と言う。どんな人を雇いたいかと訊くと、若くて未経験の子がいいと言う。「よそで働いた経験があれば、高い給料を払わなくちゃならない」のだ。同じ理由から、正規の教育をあまり受けていない人が好まれた。身なりがいい子や目立つヘヤスタイルの子は要注意だし、顔立ちの整った子も避けたほうがいいと言う。「ごく普通の目立たない子がいいんだ。生意気に『やりたいと思ったら、やり抜く』なんて考えを持っている子は、おれは採らないよ」。 就職面接で王社長が訊く質問の一つに、趣味に関するものがある。「カードゲーム」とか「友達と過ごすこと」などという答えは、王社長は気に入らなかった(ふまじめだ)。「趣味は読書」と答える子は怠け者だ。暇な時間にインターネットを使う子ときたら、いちばん始末が悪い。「家族と一緒に過ごすとか、母親の世話をするとか、そんな子がいい」と王社長は言っていた。「田舎の普通の子はそんなふうに過ごすものだよ。我慢強い子がいいんだ」 中国の工場町では、冬の終わりに職探しシーズンが始まる。帰省して春節を祝った出稼ぎ労働者たちが、バスや列車で都市の開発地区へと戻ってくるこの時期、人びとはそわそわと落ち着かない。村を出る、転職する、ほかの都市へ行くなど、それまで長い間温めてきた計画を、このひと月でついに実行するのだ。 この時期になると、慎重な人でさえも行動に駆り立てられる。この時期に決めたことは、往々にしてその後の生活を決定づけるのだ。何十年もたってから昔の生活を振り返り、一生の仕事の方向を決めたのは、あの2月の採用面接だったと気づく人もいる。 麗水市にとってはすべてが初体験だった。2006年はこの開発地区で初めて相当数の工場が操業を始める年で、このニュースはすでに出稼ぎ労働者の間で広まっていたらしい。出稼ぎの人たちが列車の駅からどっとあふれ出てバスターミナルに詰めかけた。 新しい高速道路を走るのは、ほとんどが職探しの人たちを乗せた長距離バスだ。毎年、出稼ぎ労働人口が推定1000万人ずつ増えている中国には、内陸部の農村から各地へ向かうバス路線が無数にある。出稼ぎの人はたいてい沿海部へ向かうが、なかには麗水市のような、まだあまり知られていない町をめざす人もいた。 開発地区が始動したあの年、まだ工事中の道路にも、バックを引きずりながら歩いている出稼ぎ労働者の姿があった。まともな道路もない町に到着したばかりで、まだ職はないが、すでに操業を始めた工場もいくつかあるこっと、間もなくほかの人たちが大勢この町に来ることを知っていた人たちだ。早く到着すれば有利な立場に立てるのだった。 出稼ぎ労働者のなかには麗水市の「職業紹介所」へ向かう人もいる。ここは地域の職探しの中心で、繁華街にあるその建物で目立つのは、求人広告を絶え間なく流し続ける巨大なデジタル表示板だ。若い人たちが仲間と集まり、首を伸ばして表示板を見上げている。そっけない求人用語で語られる仕事口は、一瞬のうちに目の前を通り過ぎていく。 砕石工募集 男性、健康で我慢強い方 月給40元食事付き 一般従業員募集 女性 中卒 容姿端麗、身長155センチ以上 中国では、身長がしばしば採用条件の一つになる。身長は重大問題なのだ。とくに女性の場合は、容姿がはっきりと就職の条件に挙げられることが多い。麗水市のその後です。p284 麗水市のこのあたりに女性たちが現れたことは、開発地区が新しい段階に入ったことを示していた。この未来の工場町を車で通るたびに、何か新しいもの、開発が一歩大きく前進したことを示すものが私の目に飛び込んでくる。私が初めて訪れたとき、ブラジャーリング工場がある遂松路は、ただの泥道だった。 なぜかバスの停留所だけはすでに設置されていて、その金属製の案内板にはまだ存在もしない目的地がずらりと並んでいた。この地域に公共交通機関が通ったのは、それから1年後のことだ。この最初の訪問時に遂松路で見かけたのは男性ばかり。そのほとんどは工事現場の作業員だったが、起業家の先駆けたちの姿もちらほら目に入った。開拓者たちは、遂松路の西側に、建てかけの工場に面して店を構えていた。たいていは安い軽量コンクリートでできた店舗で、建築資材をはじめ、低賃金労働者を相手に麺や小麦粉、野菜、肉など、ありふれた食料品を売っていた。 立派な看板と誰でもすぐにわかるブランド品を取り扱う本格的な店といえば、中国移動通信と中国連合通信の支店に決まっていた。新しい工場町には、すぐに携帯電話ショップが現れる。出稼ぎの人は、家に電話しなければならないからだ。 10月に私が再訪したとき、バス停の案内板はすべて盗まれていた。遂松路では排水工事が進み、店舗や食べ物屋のある西側は大きく発展して、印刷ショップが開業していた。食料品と電話カードと建築資材以外のものを取り扱う小売店の第1号だ。会社の広告板や従業員のIDタグを専門に作る印刷ショップの登場は、この町の機械類が間もなく動き出す予兆だった。すでに看板を出した工場もある・・・美国各電電工、新年ハリ有限公司、富裕安全鋼鉄有限公司。 1月になってようやく遂松路が舗装された。作業員十数人が路面をならしながら遂松路を進んでいったが、マンホールはふさがないでおいた。新しい工場町では、マンホールは開けたままにしておく。金属板を盗んでスクラップとして売りさばく連中がいるからだ。バス停の金属製の案内板もそんなやからの手にかかったのだ。『疾走中国』1
2016.02.09
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図書館で『疾走中国』という本を手にしたのです。2011年時点では、中国取材はここまでできたのか…でも、スパイ疑惑で外国人記者を追い出すというハリネズミのように過敏な今では、こんな旅行は無理ではないかと思うのです。【疾走中国】ピーター・ヘスラー著、白水社、2011年刊<「BOOK」データベース>より【目次】第1部 長城/第2部 村/第3部 工場【著者情報】1969年、米国ミズーリ州生まれ。プリンストン大学卒業後、オックスフォード大学で英文学を学ぶ。1996年、平和部隊に参加し、中国四川省の長江流域の町にある地方大学で2年間、英語教師として教鞭をとる。2000~07年、『ニューヨーカー』北京特派員。2008年、“全米雑誌賞”を受賞。現在はフリージャーナリストとして活躍<読む前の大使寸評>2011年時点では、中国取材はここまでできたのか…でも、スパイ疑惑で外国人記者を追い出すというハリネズミのように過敏な今では、こんな旅行は無理ではないかと思うのです。rakuten疾走中国まず、長距離ドライブの雰囲気が出ているあたりを見てみましょう。p23~26<長城> 中国で万里の長城を研究しているのは学問の世界に属さない人たちだ。北京には歴史愛好家たちの小グループがいくつかあり、文献調査とフィールドワークを結びつけようとしている。また陳老のような、在野の研究家も地方にはいる。陳老は、自分の研究を出版してくれる出版社をいつか見つけたいと思っていた。原稿と集めた工芸品を私に見せてから、陳老は近くの長城遺跡を見に行こうと誘ってくれた。 私たちはシティ・スペシャルに乗り込み、未舗装の道を北へ向かった。村から数キロ行ったところで車を止め、陳老に続いて低い草地を進む。老人は村の男たちがよくするように頭を垂れ、両手を後ろで組んで考え事をしながらゆっくり歩き、やがて、草で覆われた盛り土が見えると、足を止めて指さした。 「これは北魏が造った長城です」。北魏とは、西暦386年から534年までこのあたりを支配した王朝だ。この長城は何百年も風雨にさらされ、いまでは丘の上を北東に向かって延びる。高さ60センチほどのただの隆起物にしか見えない。これを横切るように1本の盛り土が延びていたが、こちらのほうは消えかけていて、陳老に言われるまで私は気がつかなかった。「あれは漢の長城だ」。さらに古い時代のものだ。漢は紀元前206年から西暦220年まで続いた王朝だ。さらにもう一つ、山のはるか上には明の長城がそびえていた。高さ2メートル近いこの明の長城は西から東へ、見渡す限り続いている。古代要塞のなかでは明の防壁は比較的新しく、建設からほんの4世紀しかたっていない。 「私は何年もずっとこの光景を見てきました」と陳老は語った。「あるとき、ふと思ったんです。長城はどうしてここにあるんだろう、どうやって建てたのかと。それで調べ始めたのです」 私たちは村へ戻って陳老の家でもう一杯お茶を飲んだ。村の名前は「寧息胡魯」を略したもので「胡を平定せよ」という意味だという。「胡」とは、昔の中国人が北方に住む非定住の人びとを指して使った言葉だ。特定の民族や部族を指すのではなく、よそ者すべてに当てはまる蔑称だ。最後の「魯」はさらに単刀直入で、「野蛮人」という意味だった。 「突き詰めていえば、村の名前は『よそ者を殺せ』という意味になります」と陳老は笑いながら言い、私の地図帳を開いて、15キロほど東の村を指した。「ごらんなさい、ここは威魯、つまり『野蛮人を威圧せよ』という村ですよ」。「胡をたたきのめせ」という意味の破虎という町もあった。「胡をたたけ」「胡を威圧せよ」「野蛮人を制圧せよ」「胡を殺せ」などという名の村々が散らばっている。ただし、現代の地図には「胡」の代わりに「虎」の文字が使われている。こうした書き換えが始まったのは清の時代だ。清王朝の満州族の支配者たちは、長城の外からやってきた諸民族を表す言葉に敏感に反応したのだ。だが、書き換えはうわべを取り繕っただけだ。元来の意味は、村を見下ろす長城のように、はっきりと見えている。 私は午後遅く、寧魯堡の村を出発した。太陽が畑の向こうに沈みかけていた。陳老が車まで見送りに来てくれた。興味津々の村人たちも何人か一緒に来た。男性たちはたいてい古い軍服を着ている。着古し、薄汚れて、だぶだぶの軍服に囲まれていると、決死の任務に出発するような気分になってきた。私の次の目的地は北方の丘が連なる地、色あせた峰々が続く辺境だ。陳老は私の手を握ってお元気でと言った。「また来てください。今度は考古学者と一緒に」 葉の色が金色に変わりはじめたポプラ並木をしばらく走ると、やがて道路は裸山を登っていく。ほかに車は1台も走っていない。標高1800メートルの地点で、道路は明の時代の長城を突っ切っていた。この長城は山西省の境界線の役目もしている。自動車道を通すためここでいにしえの長城が分断されたのだった。コンクリートの柱が、ここが内モンゴル自治区への入り口だと示している。ここが中北部のもっとも奥まった地域、私がこれまで訪れたなかでもっとも人口の少ない地だ。 走り続けると、分かれ道に行き当たった。泥の小道が本道から分かれ、峰に沿って走っている。私はわき道を数百メートル進んだところで車を止めた。テントも寝袋も持っていたし、野宿するには絶好の夜だ。空気は澄みきっていて、谷から見上げると満天の星がまたたいていた。テントの中で翌日に訪れる辺境の村々(胡をたたきのめせ、胡を殺せ)のことを考えながら、私はいつの間にか眠っていた。(中略) 日が暮れると心配になるのは、誰かに、とくに警官に尋問されるのではないかということだった。中国には長距離ドライブを楽しむ習慣はまだなかったし、外国人は厳しい統制下におかれていたのだ。レンタカーのシティ・スペシャルを北京市外に持ち出すのは禁止されていた。西部には、貧困や民族対立や軍事施設などを見せまいと、外国人を完全に締め出している地域がある。それに、国内のどこであれ、外国人記者は訪れる前に地元当局に申請することになっていた。それで、私はテントを車に積んでいたのだ。地方のホテルは宿泊客リストを警察に提出するから、なるべく泊まりたくなかった。更に、黄土高原のあたりを読み進めました。p35~36 私は南へ西へとドライブし、蒼頭河に並行する一連の狼煙台に沿って進んだ。河北をあとにして以来、訪れる地は次第に貧しくなってきたが、いまや私は中北部の高地にいる。ここで人びとは黄土の上で生活している。黄土とは乾いた細かな土で、もともとはゴビ砂漠をはじめ北西部の砂漠地帯から南へ風で運ばれたものだ。 数千年もの間に何層にも積み重なり、いまでは黄色い土が180メートルもの厚さに達するところがある。黄土はもろいが肥沃で、かつてこの地域は森林に覆われていた。しかし、何世紀にもわたって人口過剰が続いたため、植生は破壊され、いまは土がむき出しになっている。森が消えたあと、人びとは丘に段々畑を造った。今日、この地の風景はただ何段もの泥の固まり、人の手による絶望的な建設事業にしか見えない。 雨はめったに降らない。年間降水量はわずか250ミリほどだ。そんなにわずかな雨も、もろい土を浸食する。干上がった細い水路が溝を造り、小川となって周囲の丘から何百メートルも下へと流れた跡もある。農家の人たちは、「窯洞」と呼ばれる質素な穴居に住んでいる。黄土を掘って作った窯洞は、夏は涼しく冬は暖かい住まいだが、地震が起きたらひっとたまりもない。明の時代の記録には、1556年の大地震で何十万人もの犠牲者が出たと記されている。 長城の建設は、地域の環境劣化の主な原因ではなかったにしろ、一つの原因であったことは間違いない。長城は建設が進むにつれて、いたるところで資源を使い尽くした。p51~53 これまで旅をしてきた東部では、長城は岩だらけの山の尾根に沿ってどっしりと構えていて、その姿から、河北地方の光景は変わることがないと実感できた。ところが西に進むと、風景は次第に変わりやすくなる。運転席から見ていると、国土そのものが崩れていくようにも感じられる。岩だらけの山から乾いた平原へ、そして黄土高原へと進んできた私は、いまや絶えず姿を変える砂漠の砂と向き合っていた。 ここにも長城は残っているが、もはやそれは変わらぬ景色の象徴ではない。オルドスの砂漠が南へ南へと忍び寄っていた。明王朝が建てた巨大な壁も、ここでは砂漠の筋模様のように見える。 不毛の地を改良しようとする人びとの試みは、長城を越えて広がっていた。砂漠化との戦いは中国北部一帯の共通課題だ。砂漠化の波は国土の四分の一以上を襲い、そのうえ毎年推計30万ヘクタールの土地を新たにのみ込んでいるという。国連によれば砂漠化の恐れのある地域の人口は四億人。北部の人びとの暮らしを持続可能にするために政府が打ち出したプロジェクトは、植林から大規模な灌漑工事までさまざまだ。もっとも大がかりな計画は長江水路迂回工事であろう。 水資源が豊富な南部から北部へと水を引く100億ドル規模のプロジェクトだ。こうした解決策がどの程度の効果を上げるかはわからない。若年層の大部分が南部へ移住するというのに、水を北部に引いても無意味かもしれないのだ。 オルドス地方は農業に適していない。北部でもここはそもそも定住すべき地ではなかった。昔から住んでいたのは遊牧民に限られていたが、19世紀になると、貧困と戦争に追われた人びとが移り住みはじめた。1949年の革命後は、共産主義政権が長城を越えた大量移住を奨励した。 楡林の北方に広がる砂漠地帯で、中国式の農業がさかんになるのを期待したのだ。木や草だけでなく、ときにはコメを植えようと、大々的なキャンペーンが断続的に続けられた。わずかばかりの小川や湖の水は灌漑に利用された。当然のことながら、昔からこの地に住むモンゴル系の遊牧民は、ことはそんなにうまくいくはずはないと言ってこうしたキャンペーンに反対した。が、ときとして政治は人の経験を超えることがある。 1960年代から70年代の文化大革命のさなかに、この地方の烏審旗という地域が模範的人民公社として有名になった。砂漠のほかの地域も烏審旗を見習い、灌漑水路を掘り、穀物を植えるように奨励された。ところが80年代になると、烏審旗の実験が悲惨な結果を招いたことが明らかになる。人口増加と外来種作物の植えつけによって、貴重な水資源が枯渇してしまったのだ。 近年になって、地元政府は新しい施策を試みた。コメや穀物を植える代わりに柳の種を植え、その葉を羊の飼料に利用したのである。この事業は「」と名づけられた。なあにしろ、枝から葉をむしり取れば羊の飼料が得られたし、柳自体も砂漠化防止に役立つと考えられたのである。ある意味でこの事業は成功した。地域の農地面積は全体の1割をしっかり維持していたし、住民は羊の数を増やすことができたのだ。 私は、羊200頭を飼育するモンゴル族の家を訪ねた。家長の言葉によれば「暮らし向きはずっとよくなった。食べ物も着るものも、手に入りやすくなった」そうである。家長の北京語はたどたどしかった。「ゲル」と呼ばれるモンゴルの伝統的な天幕で育ったこの人は、いまやれんが造りの家に住んでいる。 家の壁にはフェラーリ・モンディアルやハーレー・ダヴィットソンのポスターが貼ってあった。また中国の地図が1枚とチンギス・ハンの肖像画が2枚飾られ、毛沢東を祀る棚もある。祀り棚について尋ねると、家長は「毛沢東は解放者であり、偉大な指導者であり、よい人でした」と言い、モンゴル人なら誰でもチンギス・ハンの肖像を掲げるのだとも付け加えた。 とはいえ、烏審旗における柳の植樹の効果は長続きしないように思われる。中国生まれの地理学者、〇鴻の調査によれば、地下水が減少しているのだ。砂漠での農業は限界に達していた。柳の植樹でさえ、もうこれ以上は無理なのだ。だが、〇鴻は、地元住民が地下水位の低下を知りながらも、植樹計画を支持しているとも指摘している。 昔なら、住民は政府の強引な開発計画に反発したものだ。ところがいまは違う。以前は政府の開発計画といえば全体的、抽象的なものが多かった。たとえば、毛沢東は中国の生産力を高め、イギリスやアメリカを追い抜かなければならないと論じたが、こうした遠大な目標のせいで自分たちの環境が壊れるのを烏審旗などに住む遊牧民は快く思わなかった。ところが、トウ小平の改革開放以来、経済は基本的には個人の意欲で動くようになり、成果が突如として具体的になった。また、移動がさかんになり、よりよい生活とはどんなものか、人びとは感じ取ることができるようになった。 「いまでは住民は外の世界を知っています。都市部へ行くこともあるし、テレビも見る。目にする物質的な豊かさを求めるようになったのです」と〇鴻は言う。人びとはより世俗的になったということもできるだろう。しかし、外の世界との接触は混乱を招いた。 烏審旗で手にすることができる有限の資源から都市で手に入る無限の生産物へと、人びとは視座を移したのだ。外の世界を知ることによって、自分たちを取り巻く環境の現実を見失ったともいえるだろう。ウーム、トウ小平の改革開放は中国人に幸福をもたらしたか?・・・と思う今日このごろである。しかし、最近は、国家の機微に触れる発言があれば、国外にいても拘束拉致されるので、怖~い国やで。著者は中国滞在歴が長い英語教師というよりも、いかにも行動力のあるジャーナリストのようですね♪
2016.02.09
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大使は、日々、コンピュータ棋士アヒル(レベル4)との死闘を繰り広げているのだが・・・今のところ6:4くらいの割合で優勢であり、大使のサド感覚はご機嫌麗しいのでおます♪アヒル危うし本日の闘いに関して審判のだめ子が診断してくれているので、見てみましょう。だめ子 の診断より<変な癖はないかな? かんたん棋譜診断>・かたまり癖:石が「だんご」「アキ三角」の形になるように打つのは効率が悪いかも。 ・はしっこ癖:もんだいなし。・ノビすぎ癖:もんだいなし。・キリすぎ癖:もんだいなし。 ・トリすぎ癖:もんだいなし。・きゆくつ癖:もんだいなし。・ひかえめ癖:もんだいなし。・よくばり癖:もんだいなし。↑だめ子 の診断です。誤診があったらごめんなさい。 大使の無茶な打ちかたに慣れてきたのか、アヒル(レベル4)は、しぶとくなったで。●gamekey:g20160208110508-b6b734172016-2-08 ahiru-lv40に対して310目で39.5目勝ち(汗)アヒル(レベル4)との闘いで思うのだが・・・とにかく、大使の無茶な打ちかたに付き合ってくれる我慢強い棋士である。アヒル(レベル4)をいたぶるような打ち方は、確実に大使の手筋を悪くしているとは思うのだが・・・ま、いいか♪アヒルの人物紹介です。あひるがあがあじごくより■人物紹介 (ひとじゃないけど。。)図体がでかい。態度もちょっとでかい。自称人間だが、上から見ても下から見てもアヒルとしか言いようがない。魔法が解けたら王子様だったとかいう希望を抱いて生きる。だめ子とクッキーには彼が囲碁を教えた。 ■棋風 (囲碁の打ちまわしの性格)囲碁に関しては意外とオーソドックスな打ち方。きのあ囲碁界では古くから囲碁を覚え重鎮あつかいだが、最近は慢心気味で以前のような学習意欲は失ってしまった。それでも経験の長さから形勢判断において、すこし長けている。アヒル(レベル4)との闘い1アヒル(レベル4)との闘い2きのあ囲碁スタート画面
2016.02.08
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7日のNHKスペシャル『狙われる日本の機密情報』を観たのだが、まさに脅威的な内容であった。番組を見ながら以下のとおりメモしたのだが・・・・人民解放軍と思われる組織的なダミー企業が行ったサイバー攻撃の実態が放映されていました。・エムディビ:遠隔操作ソフトによるサイバー攻撃・エムディビによる被害:年金機構、防衛産業、病院、JR、地方自治体のHP・エムディビの手口:業務用メールを偽装したメールにエムディビを添付しておく。・流出情報は後追い調査が可能であるのだが、防衛産業の機密情報、日豪間の海外移転装備品情報(潜水艦情報)、JRのセキュリティ対策など、盗まれた情報は特定できるとのこと。・国防、政治、有力政治家の行動予定など、日本の外交情報、知的財産の全て、競争力そのものを奪うようなものとも言えるのだ。(まさに戦争状態のようなもの)・攻撃グループが、日本側の追跡調査に気付き、感染サーバーから撤退した。・福岡の飲食店HPが入っているサーバーが中継されていたが、サーバーそのものを狙っている場合は追跡作業が膨大となるので、事実上、追跡困難になる。・九州歯科大学へのウィルスから上海企業(中堅のIT企業)が特定できた。上海企業から更に広東の企業が特定できたが、電話確認によるそれ以上の調査はできなかった。・ロッキード社のステルス戦闘機F-35の技術が流出し、その技術が中国の戦闘機(殲-30?)に反映された。・米国のソーラーパネル技術が流出し、米企業が倒産した例がある。・米情報機関が、人民解放軍が日本を狙った明らかな証拠(ipアドレス)を入手した。・米国はサイバー攻撃を行った中国軍人5名を公表した。・中国が日本の医療機関の情報やJRの安全情報を狙う意図は何か?・・・悪意としか思えないのだが。・九州歯科大学は被害の後、抜き打ちの調査メールを送りセキュリティチェックを実施している。・日本の先端技術産業の企業には1日に300件ほど、毎日攻撃を受けている。先端技術産業の機密情報などが流出済みとなっていて、後の祭りとなったのは仕方ないのだが・・・今でも、一社に毎日300件ほど攻撃があり、日々巧妙になっているのは、まさに戦争のような状況である。そして、新種のウィルスが現れるようになったが・・・これなどは中国お得意の人海戦術といえるのではないか。官公庁のセキュリティ管理といえば、先端技術企業と比べたら極楽トンボ状態であり・・・これこそ国家の危機なんでしょうね。もう機密情報はサーバーに入れずに、紙に書いて手渡しするしかないで!2016.2.7NHKスペシャル『サイバー攻撃の脅威』より いま日本を標的にしたサイバー攻撃が急増している。今回、NHKの独自取材で知られざるサイバー攻撃の脅威が浮かび上がってきた。私たちを陥れる巧妙な手口とは、犯行グループの狙いはどこにあるのか、国内だけでなく海外でも取材を行い真相に迫った。 利便性を求めインターネットで様々な情報がやりとりされ蓄積されるようになった現代社会。その盲点を突いたサイバー攻撃の衝撃に調査報告で迫る。NHKスペシャルNHKスペシャル・アーカイブ(改2)
2016.02.08
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図書館で『マテリアル革命』というニュートンムックを手にしたのです。素材、元素分野の研究は日本のオハコであるが・・・中韓台に差別化を図る意味でも今後ますます研鑽に励むべき分野ではなかろうかと思うわけです。シャープのホンハイへの身売りが取りざたされている昨今であるが、いたくナショナリズムを刺激する本ですな~♪【マテリアル革命】ムック、ニュートンプレス、2015年刊<「BOOK」データベース>よりムックにつき、データなし<読む前の大使寸評>素材、元素分野の研究は日本のオハコであるが・・・中韓台に差別化を図る意味でも今後ますます研鑽に励むべき分野ではなかろうかと思うわけです。rakutenマテリアル革命この本で、レアメタル戦略が述べられているが・・・中華のやらずぶったくり戦略に対抗するうえで、避けて通れない道なんでしょうね。p130~131<世界をリードする元素戦略で脱マテリアルへ> レアメタル(稀少金属)は私たちの生活を支えるさまざまな機械に使用され、私たちの生活に不可欠な元素である。しかしレアメタルはそれぞれ、中国、ロシア、南アフリカなど非常にかたよった一部の国でしか産出しない。レアメタル資源のとぼしい日本では、その資源をいかに有効に使うかが重要になる。 2004年、元素の特性にあらためて注目し、戦略的に資源問題に取り組もうと、日本の物質科学者たちが世界にさきがけて「元素戦略」の構想をつくりあげた。そして2007年には文部科学省と経済産業省の研究プロジェクトがはじまった。2010年に中国のレアメタル・レアアース輸出制限によって資源危機が訪れると、一気に世界中が日本の「元素戦略」に注目するようになったのだ。■元素戦略は大きく分けて五つの柱がある 元素戦略には五つの柱がある。五つとは、稀少元素の利用を減らす「減量戦略」、稀少元素の代わりを探す「代替戦略」、リサイクルを考える「循環戦略」、環境に悪影響をおよぼす元素を少なくする「規制戦略」、そして新しい活用法で元素の機能をひきだす「新機能戦略」だ。 なかでも規制戦略は、使用量の規制や基準を技術開発で乗りこえ、日本の競争力を高めようという戦略だ。近年、EUは健康や環境保護のため、輸入規制を行っている。たとえば「ローズ指令」によってEUは、鉛や水銀などの使用をきびしく制限し、基準を満たした電子・電気機器しか輸入しない。元素戦略では、このような各国の規制を乗りこえる高い技術を日本が戦略的に開発することで、規制を逆風ではなく追い風にしていこうというのだ。「元素戦略」を牽引している村井真二博士へのインタビューを見てみましょう。村井真二博士p133~134<元素問題で日本が主導権を握る> 有機合成の分野で世界をリードし、ノーベル化学賞候補としても注目される村井真二博士。国への政策提言も行う村井博士は、ものづくりの国、日本だからこそ、元素戦略が成り立つと話す。村井博士が話す「元素戦略」、そして日本が進むべき道とは?Newton:「元素戦略」のコンセプトは、2004年に行われた会議で生まれたと聞きました。その会議は、政策提言をまとめるため、日本を代表する物質科学研究者が30人以上、箱根に集まった会議で、通称「箱根会議」と呼ばれています。村井先生はその箱根会議の主催者であり、現在も、国へ政策提言をされています。村井先生には元素戦略のイメージが、箱根会議を開く前からあったのでしょうか。村井:箱根に行く前から、会議のメンバーはいくつかの小委員会をつくってディスカッションをしていました。しかし、元素戦略のイメージが会議の前にあったわけではありません。箱根会議で、みんなでいくつかのテーマを話す中で、元素戦略に近いコンセプトの話題が出たのです。Newton:現在では、国をあげての一大プロジェクトになっていますが、そのようなイメージはありましたか。村井:当初はここまでくるとは予想していませんでした。大事なテーマを見つけて研究をするという、それまで行ってきたことと同じだと思っていました。 でも結果として、元素戦略というテーマは、課題先進国の日本だから成り立ったのでしょう。私は日本は課題先進国だと思っているんです。私たちが元素戦略をはじめた当初は、アメリカはそんなものは必要ないという態度でしたし、ヨーロッパも冷たかったですからね。中国と尖閣諸島の騒ぎがあって、世界中がようやく日本の元素戦略は大事だと気づいたわけです。 Newton:2010年ごろ中国のレアアースの輸出制限によって、ほかの国々も元素の資源問題の重要性に気づいたということですね。そのころよりは落ち着いてきたとはいえ、現在も稀少元素の供給不安は解決されていないように見えます。今後の国際的な元素の資源問題について、村井先生はどうお考えですか。村井:元素資源に関しては、今、第3期にあると思っています。第1期は、資源が豊富にあった時代です。1980年代ですね。第2期は、資源を節約して使おうという時代です。2000年くらいまででしょうか。 そして今の第3期です。元素の供給不安があらわになりだした時代ですね。資源の取り合いで国どうしが競争しています。大競争時代ですよね。2020年代になると、第4期、各国がテーブルについて協調しなければ、残り少ない資源を使えなくなる時代になるでしょう。■将来のために、今、技術力をつけるべきNewton:それぞれの時代に合わせた戦略が必要だということですか。村井:そうです。いずれ人口が爆発的に増えて、元素資源の不足でやっていけなくなる時代がくるでしょう。そのときまでに、新しい道をみつけておく必用があります。今、地球温暖化の問題から、国どうしで二酸化炭素排出権の売買と同じようなことが資源についても行われるようになるでしょう。そのとき、各国に課される供給制限をかわせるくらいの、科学技術力を日本は、たくわえておかなければいけないのです。Newton:アメリカも網羅的に材料を研究する「マテリアル・ゲノム・イニシアティブ」を2011年にはじめています。今後、元素戦略で日本はリードしていけるでしょうか。村井:アメリカの「マテリアル・ゲノム・イニシアティブ」のような網羅的な研究は日本はやりにくい分野ですよね。ただ情報があまりにも膨大なので、私たちがイメージしているよりも、網羅的にはできないんじゃないでしょうか。日本も遅ればせながら、マテリアルズ・インフォマティクスの研究に予算がつこうとしています。それに、それら情報収集の結果が実る、つまり新しい材料を作るためには、最終的には実験やものづくりをしていかないとだめでしょう。 そこはやはり、日本のものづくりの技術が重要になってくるのではないでしょうか。現在、日本は、国内のスーパーコンピューターやSpring-8などの最新の機器を連携して使う環境がうまく整っています。そのような環境を生かせば、日本はサイエンスでもテクノロジーでもリードをキープできると思っています。Newton:将来、各国と交渉するときに、日本が何ができるのか考えることも重要ですよね。村井:すでに国どうしで二酸化炭素排出権の売買がはじまっていますね。それはいわば「」です。マグロもそうですね。マグロの捕獲制限も、国際的な協調があります。それらの国際的な協調の方法は、将来、元素戦略が通る道だろうと思います。Newton:マグロは日本が完全養殖に成功しています。村井:元素は養殖できませんが(笑)。でも、将来テーブルにつくときに、日本が技術的なアドバンテージをもって、主導権をとる、もしくは世界に貢献するのが大事だと思います。Newton:日本に足りない技術はありますか?村井:今の日本は、大学の鉱山学科がなくなり、鉱物の精錬や採掘に関する新しい技術が少なくなりました。もしそれらの高い技術を開発できれば、今後、資源をもつ国と取引できるかもしれません。そのようにいかに、先を見すえた技術を開発していくかが重要になるのではないでしょうか。Newton:ありがとうございました。
2016.02.07
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<『東アジアの食文化探検』2>図書館で『東アジアの食文化探検』という本を手にしたのです。著者は在日華人であり、国立民族学博物館教授を歴任したという人である。この本のテーマを語るには適任だと思うし、この本の科学的な香りにも納得した次第です。【東アジアの食文化探検】周達生著、三省堂、1991年刊<「BOOK」データベース>より近隣諸国の食文化から、〈日本の食〉の過去と未来が見えてくる?【目次】多様な肉のイメージ/多民族国家・中国と食文化/コラム「イスラエルの民-民族とは何か」/くまなく食べる豚料理と昆虫食/「おいしいもの」の相対性/コラム「鯨食文化を考える」/粒食と粉食/箸と匙の食事作法/カマドの移り変わり/米の料理法のバラエティ/照葉樹林の食文化/コラム「中国の照葉樹林とその文化」/工夫茶と日本の茶道/茶外の茶/食の伝播と変容/道具の連続・不連続-アジアの製麺道具の考察から/「菜単」の読解/コラム「満漢全席ダイジェスト版」/中国料理の料理法と包丁さばき/マントウ・まんじゅう・マンドゥ/メコン河流域の淡水藻食<読む前の大使寸評>著者は在日華人であり、国立民族学博物館教授を歴任したという人である。この本のテーマを語るには適任だと思うし、この本の科学的な香りにも納得した次第です。rakuten東アジアの食文化探検この本は読みどころが多いので、(その2)として読み進めたのです。大使が執着するモチ性食材のつづきです。モチトウモロコシ<モチ性トウモロコシの出現>p148~150 北海道といえば、焼きトウモロコシを思い浮かべる人も多いことと思われる。北海道で食べたトウモロコシがうまいのは、近くの農家から、もぎたてのを仕入れてきて、すぐに焼いているからうまいのである。 収穫後に長く放置されたものは、貯蔵されていた糖分が、澱粉に転化するから甘味がなくなり、うまさが減退する。したがって、冷凍品の場合は、加工までの間にも、低温を維持しておかねばならない。甘味種の「スイートコーン」は、「砂糖トウモロコシ」ともいわれているほど糖分を多く含んではいるが、これも収穫後の処置が適切でなければ、うまさが減退するのである。 ところで、トウモロコシの原産地は、南米、中米と異説もあるようだが、いずれにしろアメリカ大陸である。1492年のコロンブスのいわゆる「新大陸発見」以来、スペイン、ポルトガルに伝えられ、さらにヨーロッパの各地から、アジア、アフリカに伝播した。 日本には、16世紀末に導入されたといわれているが、栽培が普及したのは、明治元年に、アメリカから、澱粉種の「フリント・コーン」を導入してからだといわれている。 中国への伝播も16世紀であり、明代であった。1573年刊行の田芸衡の『留青日札』には、「御麦」として出てくるが、それは皇帝がそれを食べたからであろう。しかし、外来のものであったんで、当初は「藩麦」と称していたようである。「藩」は、日本で「南蛮」なんとかと称するのと同じように、外来のものを意味することばである。今日では、正式名の「」以外に、多くの地方名があるが、俗名で常用されるのは、「玉米」、「包谷」、「棒子」であろう。 トウモロコシは、明代に中国に伝播したけれども、広く各地を歩き、『本草綱目』を著わした有名な李時珍といえども、「種者亦〇」と、ほんの数字を書いているだけなので、当時その栽培は、まだたいしたことはなかったのであろう。普及は、18世紀になってからはじまる。 当時は、封建社会の経済が弱体化し、人びとは圧制に苦しんだので、全国的な、また複雑な、移住現象が起きていた。 湖北・福建・広東などの貧民は江西へ、江蘇・安徽・福建などの貧民はセツ江へと移住し、福建・江西・セツ江からは安徽へというように、複雑な省間移住があったばかりか、同じ省内、同じ県内の移動は、いっそうはなはだしかった。 これらの貧民は、貧しい農民なのであるが、原住の平地生活を放棄して、荒涼たる山がちのところへ移住せざるをえなかったのである。移住先では、炭焼きとか、染色用の藍の栽培などに従事しながら、痩せ地でもよく成長するサツマイモを植え、トウモロコシを植えたのである。 そのため、平野部においては、当初はそれほど植えてはおらず、ただ子どもたちのおやつぐらいにしか利用していなかったトウモロコシが、山地では、その重要度が増したのである。 たとえば、峡西・四川・湖北の境界あたりの山地では、アワがもともと主要な食料であったのだが、19世紀のはじめになると、トウモロコシがその地位に取って代わる。西南中国でも、同じような傾向があった。ちなみに、旧満州の東北地方の原野は、その後トウモロコシの重要産地の一つになるけれども、その開墾は、19世紀後半で、河北・山東などの農民の移住によっているのである。 このような、中国におけるトウモロコシの普及につれて、中国でもさまざまな類型を異にする品種が作られてくる。最も興味深い、特筆すべきことは、モチ性のトウモロコシが育成されたことである。 それは、広西チワン族自治区から雲南省あたりの、照葉樹林帯で育成されたものである。正式には、「中国蝋質種」とまとめて称されているが、「半仙需」、「多穂白」、「歴城粘」、など、数種類のものがある。 トウモロコシの原産地や、伝播先のヨーロッパやアフリカでも、自然に突然変異によるモチ性の形質が生じることはあっただろうが、そのような形質に注意の目が向けられなかったからか、モチ性トウモロコシが出現することはなかった。照葉樹林帯といえば、発酵食品の一大産地として知られていますね。納豆系、乳酸系など発酵食品も大使の大好物でんがな♪<納豆・発酵酒・ナレズシ>p117~122 人間とは、勝手な動物で、同じ微生物によるエネルギー獲得手段を、その産出物が有用な場合には「発酵」と呼び、有害な場合には「腐敗」と呼んでいる。また、同じ人間であっても、かつての日本人は、欧米のチーズを食べられないとし、欧米の人たちは、味噌や塩辛を食べられないとした。発酵食品の価値や好みは、文化によって異なるといえよう。 納豆は、断るまでもなく日本にはあるが、インドネシアのジャワにも「テンペ」というものがあり、朝鮮半島にも、「チョンクッジャン」という日本の糸引き納豆と同じようなものがある。 中国では、かつては今以上に広域に分布していたと思われるが、現在では、西南中国の照葉樹林文化色が、まだ濃厚にある地域ぐらいにしかみられない。納豆菌によるのでなく、カビで発酵させる、日本の浜納豆に近い「豆鼓」なら、漢族の多くも親しんでおり、広域に分布している。 ちなみに、先に述べたジャワの「テンペ」も、カビによるものであった。しかし、雲南のタイ族の納豆は、納豆菌によって作られているけれども、糸を引かない納豆だという意見がある。だが、それは、西双版納の納豆だけしか知らない者の意見である。同じ雲南でも、徳宏のタイ族の納豆は、隣接するビルマの糸引き納豆と同じように、糸を引いているのである。 ところで、微生物の発酵による酒は、世界のあちらこちらにあるけれども、カビによる発酵酒は、東アジアのものである。かつての朝鮮半島には、さまざまな酒があったけれども、日本の植民地時代になると、いわゆるドブロクの「濁酒」と「薬酒」のような庶民の酒を除き、もっぱら日本人の好むビールや日本の清酒だけが有利な税率となったので、他の伝統的な酒類は、今となっては口伝によって知られるのみになったそうである(鄭大〇氏による)。(中略) 次は、アルコール発酵から離れ、乳酸発酵のナレズシに言及しよう。 日本では、現在あまり知られていないナレズシであるが、滋賀県の「フナズシ」は、まだ健在である。ニゴロブナと呼ぶフナの内臓を除去しただけの、まるのままのフナを、4,5月ごろ、塩漬けにし、土用に入ってから、米のご飯と交互に桶に入れ重石をして数ヶ月置き、乳酸発酵させたものである。 このスシの源流であるナレズシは、日本では、フナズシと、ナマズやドジョウのそれがあるぐらいになってしまった。しかし、西南中国や華南の少数民族間では、淡水魚類のナレズシだけでなく、ニワトリや豚、あるいは野生鳥類のそれもあり、植物性食品にまでも応用されているのである。 雲南省のタイ族の魚のナレズシ、貴州省のミャオ族の魚と豚のナレズシ、広西チワン族自治区のヤオ族の野生鳥類のナレズシなどがあるが、広西の三江トン族自治県は、魚、ニワトリ、アヒル、豚から、さまざまな野菜にいたるまでのナレズシを作っている。ふなずし消滅の危機を乗り越えたとの報道(2016.1.26)がありました♪ふなずし400年の味再びより 創業約400年のふなずしの味が復活した。滋賀県高島市の「喜多品老舗(きたしなろうほ)」は3年半前、原料となる琵琶湖のニゴロブナの減少や資金難で一度は店を畳んだが、歴史ある味わいを惜しんだ大津市の和菓子メーカーが支援。千日かけた伝統製法で独特の風味に漬け上げ、昨年11月、再びのれんを上げた。『東アジアの食文化探検』1
2016.02.06
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図書館で『東アジアの食文化探検』という本を手にしたのです。著者は在日華人であり、国立民族学博物館教授を歴任したという人である。この本のテーマを語るには適任だと思うし、この本の科学的な香りにも納得した次第です。【東アジアの食文化探検】周達生著、三省堂、1991年刊<「BOOK」データベース>より近隣諸国の食文化から、〈日本の食〉の過去と未来が見えてくる?【目次】多様な肉のイメージ/多民族国家・中国と食文化/コラム「イスラエルの民-民族とは何か」/くまなく食べる豚料理と昆虫食/「おいしいもの」の相対性/コラム「鯨食文化を考える」/粒食と粉食/箸と匙の食事作法/カマドの移り変わり/米の料理法のバラエティ/照葉樹林の食文化/コラム「中国の照葉樹林とその文化」/工夫茶と日本の茶道/茶外の茶/食の伝播と変容/道具の連続・不連続-アジアの製麺道具の考察から/「菜単」の読解/コラム「満漢全席ダイジェスト版」/中国料理の料理法と包丁さばき/マントウ・まんじゅう・マンドゥ/メコン河流域の淡水藻食<読む前の大使寸評>著者は在日華人であり、国立民族学博物館教授を歴任したという人である。この本のテーマを語るには適任だと思うし、この本の科学的な香りにも納得した次第です。rakuten東アジアの食文化探検旅行で彼の地に行ったとき気になるのは、箸と匙の食事作法である。そのあたりが述べられているので、見てみましょう。<箸と匙の食事作法>p82~87■箸の起源 中国における箸の出現は、紀元前15世紀の殷代からであるとされている。しかし、その一般化は、紀元前1世紀の漢代からであるようだ。殷代では、存在はしちたかもしれないが、他の青銅器の多くが儀礼用であったので、箸も同様に儀礼用のものであったと思われる。『礼器』によれば、周代でも、ご飯を手づかみで食べていた。箸は、もっぱら汁の実を取るために使われていたのである。 粉食になる前の、古代の華北では、アワやキビなどの粒食だったから、そのご飯は、箸で食べにくい。それで、手づかみから、匙を用いるようになる。宋代から元代までは、少なくとも華北ではまだ匙でご飯を食べていた。 その影響を受けて、奈良時代の日本では、上流階級の人びとが、箸と匙のセットを食卓で用いているのである。しかし、この貴族趣味は根づかず、匙は脱落してしまう。鍋料理が普及する近代になって、チリレンゲが用いられるまでは、日本の一般の食卓には、匙は登場しなかったことになる。 中国では、明代ごろから華北でも箸でご飯を食べるようになる。それは、江南のねばりのある米飯が、華北でも食べられるようになったからである。ねばりがあるといっても、西南中国の少数民族が好むモチ米のおこわの場合になると、もっとねばっこいので、にぎって手食にするけれども、現在の日本の米と同じ程度のねばりをもつ江南のウルチ米は、雑穀飯にくらべてねばりがあり、匙より箸のほうが食べやすい。 日本の箸は、『古事記』のスサノオノミコトの神話に登場するので、日本で発明されたという。その古代日本の箸は、一本箸で、竹を薄く削り、ピンセットのような形にしたものであったとされている。一方、箸は、中国から伝来したという説もある。独立発生なのか、伝来なのか、はっきりしないが、『魏志倭人伝』の記載によれば、その時代の日本では、箸はまだ使われておらず、「倭人は、手食す」であった。■スヂョ 最近では乱れてきた面もあるようだが、韓国・朝鮮の伝統的食事作法では、「スヂョ」を用いるきまりがある。「ス」は、「スッカラ」つまり匙で、「ヂョ」は「チョッカラ」つまり箸である。匙と箸をセットにして食事をすることになる。 金属または陶磁製の、ご飯や汁物を盛る器は、食膳の上に置いたままにして、手に取ってはならないのが作法である。日本の器より、概して大きく、重いものである。男はあぐら、女は立て膝で、器を置いたまま、また、器に口を直接つけてはならない食べ方なので、日本のかつての食膳より、膳は高くなっている。 匙は、ご飯と汁、煮くずれしやすい料理を食べるのに用いて、箸でご飯を食べないのが作法である。箸は水分の少ない料理をつまむときだけに用いる。 匙を多用するので、飯椀が左、汁椀が右にあり、匙は膳の右手前に、箸はそのやや遠い側に、それぞれ手に取る部分がちょっと膳からはみ出るようにして、並べてある。いくつか並んでいるキムチ類のなかの、汁のあるキムチの汁から匙ですくって一口飲み、ご飯をちょっと口に含めて食べ、のみこむ前に、汁を匙にすくうのである。このあとは、ご飯、汁、おかずのどれでも、適当に食べていく。 箸を使っていない時は、膳のもとの位置に置く。匙は、使わないとき、飯椀または汁椀の内側に、立てかけたままにする。汁をご飯にかけるのは不作法であるが、ご飯を汁のなかに入れ、汁と食べるのはかまわない。匙を器から離し、食卓に置くのは、食事が終わったことを示すことになる。(中略) ところで、中国でも、手食以後は、匙でご飯を食べていたが、その後は箸でご飯を食べるようになったのに、韓国・朝鮮の場合は、古代的作法を今日までつづけてきた。これも、敬老の精神も、すでに述べたことのある李氏朝鮮以来の、儒教尊重の思想によるものである。(中略) 最後にもう一度箸の話にもどるが、日本だけが中国や韓国・朝鮮と異なって、匙を用いずに、口にもっていった椀の汁を飲み、汁の実を箸で食べている。そのため、日本は、ほかより豊かな箸文化が形成されているといえよう。箸のもち方だけでなく、やれ、迷い箸はいけないとか、移り箸がいけないとか、直箸や箸渡しをきらい、ねぶり箸やかみ箸は、幼児的であるとするなど、多くの箸に関連するタブーが存在するのは、匙文化を脱落させ、箸文化を洗練させてきた、日本の特徴なのである。 赤飯やモチが好きな大使であるが・・・次の章を読むと、そのネチネチ嗜好の源流には人類学の核心が見えるわけです。<照葉樹林の食文化>p112~116■モチ性澱粉の利用 イネにウルチ性とモチ性の両方があるように、アワ、キビ、モロコシなどにもその両性の分化がある。 イネ、アワ、キビなどの穀類の、モチ性澱粉を利用するのは、東アジアの特徴だといえる。すでに述べた中国や日本だけでなく、モチ米のモチ以外にも、たとえば、モチアワで作ったアワモチやモチ性のモロコシのモチは、韓国・朝鮮でもよく作られている。大阪の鶴橋の在日韓国・朝鮮人による市場でも、アワモチ用のモチアワが売られているのである。 このように、モチ性穀類の澱粉利用は、東アジアの特徴の一つになっているが、東アジアに限定されているだけでなく、東南アジアの一部も利用している。しかし、それは、広くいってもアジアだけのものであって、欧米その他にはない特徴なのである。 けれども、いっそう限定していえば、伝統的には、アジアのなかでも、ヒマラヤ南麓からアッサム、雲南の山地を経て、長江の南の、いわゆる江南地方にいたり、さらに、西日本にまで達する東アジアの暖温帯の地帯である。その地帯には、一部が現在禿山同然になっていたとしても、もともとは、常緑のカシ、シイ、クス、ツバキなどの広葉樹が生育しており、その葉の表面は、ツバキのように光沢のあるものが多い。それで、その種の樹林は、照葉樹林と称されているのである。 この照葉樹林帯に共通してみることのできる文化を、中尾佐助氏は、照葉樹林文化と名づけられた。モチ性澱粉の利用は、この照葉樹林文化の食文化に関する文化要素の一つなのである。モチ米のおこわ、チマキ、モチ、ナレズシ、モチ米の発酵酒、納豆、茶などは、すべてこの照葉樹林文化を構成する食文化方面の文化的要素なのである。(中略)■ネチネチ嗜好の系譜 ところで、米といえば、一般には大水田地帯の稲作を想像するようだが、佐々木高明氏(国立民族学博物館教授)の研究によれば、稲作というものは、多くの雑穀のなかから、イネという作物だけがだんだん選択され、やがて卓越するようになったそうである。つまり、イネは、当初は単なる雑穀の一種であるにすぎなかったのである。 今日でこそ、大河川の流域や、その河口のデルタ地帯に大水田地帯が広がっているのだが、初期の稲作は、むしろ山間地方に発祥した。大水田地帯が出現するためには、灌漑施設の整備だけでなく、湿地では、逆に排水に関する大規模な土木技術の発達が不可欠であるから、稲作の初期から大水田地帯があるわけはないのである。 稲作はまず畑地にはじまり、次いで、山間の、雨が降れば水田になり、降らなければ畑のままという、いわゆる「天水田」に進出し、最終的に、大河川の流域や、そのデルタ地帯に展開するのである。 したがって、モチ性のイネは、モチアワやモチキビなどとともに、まず焼畑とか常畑のなかで出現したのにちがいない。現在でも、モチイネの陸稲が、いくらでも雲南などに栽培されている。そして、西双版納のハニ族がまだもっている「」のようなモチイネや、ウルチイネが、天水田に栽培され、やがて完全に湛水環境に適した水稲が、小規模水田で栽培されることになり、土木技術が発達するにともなって、低地の大河川流域にも水田が広がっていく。 そして、大水田地帯が形成されてくるにしたがって、モチイネよりむしろウルチイネの栽培面積のほうが広くなってくるのである。 前で、広州あたりでは、サラサラパラパラのインディカ種のご飯を食べることを述べたが、現在の華南の多くのところでは、インディカ種のウルチ米を主体に栽培し、そのご飯を食べているのだが、雲南には、水陸未分化稲が現存しているだけでなく、モチとウルチの中間種や、インディカとジャポニカの中間種というべきイネも、アッサム同様に現存している。 このような、陸稲的・水稲的、あるいは、インディカ的・ジャポニカ的な、それぞれの形質について未分化のものは、まさに古い栽培イネの特徴を示すものにちがいない。照葉樹林文化の中心が、アッサム・雲南であるとする根拠の一つは、この原初的イネの存在によるのである。 以上のことから、モチ、チマキ、おこわなどによるネチネチ嗜好は、まずアッサム・雲南あたりを中心にして形成されてきたといえるだろう。 ところで、モチアワ、モチイネなどの穀物のネチネチ嗜好は、どこからあらわれたのであろうか。佐々木高明氏の説では、それら穀類の栽培以前にも、その嗜好を生みだす基礎があったとし、栽培もしくは半栽培のイモ類の、つぶして食べる食べ方のなかで、ネチネチ嗜好が培われたのが先にあったとされている。『続・照葉樹林文化』という新書で、佐々木高明さん、中尾佐助さん等の対談が見られます。
2016.02.06
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(勝手に関西遺産)では、ディープな関西味がときどき取り上げられるが・・・・「だしの自動販売機」が出ていたので、見てみましょう。なお、この販売機は広島から進出(殴り込み)したようで、関西限定というわけではないようです。2016.2.3(勝手に関西遺産)インパクト 濃すぎだし~より■だしの自動販売機 大阪市営地下鉄の千林大宮駅(大阪市旭区)そばの駐輪場に、「だし道楽」という商品ばかり並ぶ自動販売機がある。500ミリリットルのペットボトルの中身は、和風だし。炭火焼きアゴが丸ごと1匹と昆布まで入っている。 値段は650円。昆布だけのだし(450円)もあるが、人気はアゴと昆布入りらしく、京阪電鉄の香里園駅から徒歩4分の自販機では売り切れていた。 一見、清涼飲料水と間違えそうな自販機に、「『おかんトラップ』を上回る擬態だ」とのけぞるのは、会社員の大川朋宏さん(44)。大阪出身でいまは東京で暮らす。出張で大阪に帰った際に見たこの自販機が、遠い記憶を呼び覚ました。 「小学4年の夏。からっからにのどが渇いて、冷蔵庫開けて、お茶の容器からそのまま飲んだ。口に入れた瞬間の異物感、求めていた清涼なのどごしへの裏切られ感。おかんの未必の故意を感じました」 お茶の容器にそうめんのだしつゆが入っていた、という思い出を語りながら、「何食わぬ顔で待ち構えて、実はだし。自販機までツッコミ待ちの大阪は、相変わらず楽しい街ですね」とうれしそう。 しかし、だし自販機を置いたのは、おかんでもなければ、関西の会社でもない。「間違って飲んだという話は聞いたことがないですよ」と、広島県江田島市のしょうゆメーカー「二反田醤油」専務、二反田圭児さん(30)は言う。 だしを開発した父の博文さんが、2006年に直営のうどん店(広島県呉市)で売り始めた。営業時間外も買ってもらおうと、店の前に自販機を置いたのが始まりだ。大阪には2年前に進出。大東市と茨木市にも1台ずつ、計4台ある。 “だしの関西”に殴り込み!? 「だし文化の関西に挑戦、という気持ちはないのですが、薄口しょうゆベースで薄めて使うものなので、あっさり味で気に入ってもらえると思います」。冷静な口調の中に、家族を含めて10人弱で丁寧につくる味への自負をのぞかせる。 設置場所はいずれもコイン駐車場「三井のリパーク」の敷地で、住宅街や商店街が中心だ。駐車場を運営する三井不動産リアルティの担当者は「普通の飲料の自販機と差別化ができる。広島で実績があったので関西に来てもらった」と話す。岡山、福岡、名古屋にもある。 千林大宮の自販機に買いに来た山岡喜代子さん(66)は、「私も広島出身で気になって。鍋の後、ぞうすいに入れたらおいしかった」。でも、650円って高くないですか?「薄めて使うねんから、650円でもいい」 ペットボトル入りの水が売り出されたとき、「わざわざ水を買うなんて……」と疑問視する声があったが、いまでは日常だ。だしも、そこまで来たのか!?(中塚久美子)■NHK「あさが来た」で料理指導 広里貴子さん(39) 甘めですね。だしを水で薄め、カレーの残りに入れてカレーうどんにしたらおいしそう。アゴだしは大阪では珍しく、見た目も面白い。名前の「道楽」は大阪の人になじみがある。すごいところに目をつけたと思います。ただ私としては、まずは昆布とかつお節のだしの作り方を知ってほしい。世界のどのだしと比べても時間がかからない。買っただしは、しんどい時など、使い分けるのがいいですね。だしの自動販売機ってか・・・・自転車の自動販売機があったと聞くので、もう何があっても驚きはしないのです。だけど、販売機ごと盗む手があるので、ご注意を。(勝手に関西遺産)が、これまでにとりあげた関西味についてはディープな関西味に収めています。勝手に関西遺産7勝手に関西遺産6勝手に関西遺産5
2016.02.05
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大使はこれまでわりと漫画を読んできたわけです。・・・で、それらのインデックスを作ってみました。天国でみる夢PLUTO・松本大洋の世界・佐々木マキの世界・佐々木マキ アナーキーなナンセンス詩人・つげ義春ワールド・杉浦日向子アンソロジー・グレゴリ青山ワールド・いしいひさいちの世界 ・藤原ひとみ先生 ・最強の4コマ漫画家・「ジパング」読破 ・岡崎京子の仕事集・阿部夜郎さん特製コースター ・漫画あれこれ・いしかわじゅんの審美眼・ビジネスマンの教養とは ・バンド・デシネあれこれ・メビウスの世界 ・SF風イラスト・対話録・現代マンガ悲歌・ガロ曼陀羅・外国漫画に描かれた日本・漫画の蔵書録 なお、サイバラについては別枠として鳥頭ワールドを設けています。それから、諸星大二郎、タニオカヤスジ、手塚治虫らが抜けているので、追記の予定です。・松本大洋の世界・佐々木マキの世界(その2)・佐々木マキ アナーキーなナンセンス詩人・つげ義春ワールド・杉浦日向子アンソロジー・グレゴリ青山ワールド ・いしいひさいちの世界・藤原ひとみ先生 ・最強の4コマ漫画家・「ジパング」読破 ・岡崎京子の仕事集・阿部夜郎さん特製コースター・漫画あれこれ・いしかわじゅんの審美眼 ・ビジネスマンの教養とは・バンド・デシネあれこれ・メビウスの世界 ・SF風イラスト・対話録・現代マンガ悲歌・ガロ曼陀羅・外国漫画に描かれた日本 ・漫画の蔵書録
2016.02.04
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図書館に予約していた『ハトはなぜ首を振って歩くのか』という本をゲットしたのです。まつこと5ヶ月か・・・わりと評判がいい本のようです。【ハトはなぜ首を振って歩くのか】藤田祐樹著、岩波書店、2015年刊<「BOOK」データベース>より気がつけばハトはいつでもどこでも、首を振って歩いている。あの動きは何なのか。なぜ、1歩に1回なのか。なぜ、ハトは振るのにカモは振らないのか…?冗談のようで奥が深い首振りの謎に徹底的に迫る、世界初の首振り本。おなじみの鳥たちのほか、同じ二足歩行の恐竜やヒトまで登場。生きものたちの動きの妙を、心ゆくまで味わう。【目次】1 動くことは生きること(動くとは、どういうことか/死なないために動く ほか)/2 ヒトが歩く、鳥が歩く(鳥とヒトの二足歩行/歩くことと走ること ほか)/3 ハトはなぜ首を振るのか?(首振りに心奪われた人々/頭を静止させる鳥たち ほか)/4 カモはなぜ首を振らないのか?(体のつくりがちがう?/まわりが見えてないカモ? ほか)/5 首を振らずにどこを振る(ホッピング時に首は振るの?/首を振らないチドリの採食 ほか)<読む前の大使寸評>三浦しをんの選ぶ本は、だいたい外れがないので・・・・この本が気になるのです。<図書館予約:(8/13予約、1/19受取)>rakutenハトはなぜ首を振って歩くのかこの本は読みどころが多いので、(その2)として読み進めます。駅前ではハトと先を競うスズメが見られるが・・・スズメのホッピングが気になるのです。p22~43<鳥たちは「歩く・走る・ホッピング」> 私たちと同じく二足歩行の鳥たちは、両足を交互に前に出す歩行と、両足をほぼ同時に前に出すホッピングを行う。トコトコ歩くハトの姿と、両足をそろえてピョンピョン跳ねるスズメを思い出してもらえばよい。ハトが歩行で、スズメがホッピングだ。 そして私たちと同じように、普段は歩いていても、急ぐときには走る鳥も多い。大草原を駆けるダチョウやレアの姿はテレビでもお馴染みだし、公園でハトを追いかけてみれば、まず早足でせっせと逃げて、やがて彼らは走り出す。最後には飛び立ってしまうが、彼らはその直前まで、脚を交互に動かして走っている。 ハトも他の「歩く」鳥たちも、私たちと同様に、普段は歩き、急ぐときには走る。この点において、私たちヒトと鳥たちとでは何のちがいもない。その証拠に、速度と歩幅、つまりストライド長の関係を見ると、ヒトも鳥も同じような傾向をしめす(図)。図の網掛けしたあたりで、グラフの傾きが不連続に変化していて、ヒトでも鳥でも、ここで「歩く」から「走る」へスイッチしているのだ。著者は首を振らない鳥を、観察して止みません。p89~91<首を振らずにどこを振る>■ホッピング時に首を振るの? スズメがホッピングを行うことを第二章で紹介したが、ホッピングしているとき、スズメは首を振っているのだろうか。 ご存じのとおり、スズメも地上で足もと近くの餌を探索してついばんでいる。すると、スズメだって首を振ってよさそうな気がする。ところが、彼らは首を振らない。なぜだろう。それはおそらく、ホッピングによる移動の速度が速いためだ。ハトもニワトリも、走るときには首を振らない。早く動けば動くほど、首振りの頻度を増加させなければならないが、頭を頻繁に前後させてその位置を静止させるのは、早く動くほど難しくなる。首を振る鳥たちも、移動速度が上がって首を振るのが困難になると、首振りをしなくなるのである。 それではホッピングしながら、スズメはどのように餌をさがしているのだろうか? 立ち止まって探すのだ。観察していればすぐにわかる。チョンチョンチョンとホッピングしたあと、首をキョロキョロと振ってから餌をついばむ。周辺にたくさんの餌があるときには、しばらく首を下に向けたまま、周辺をついばみ続ける。このとき、一歩、二歩、歩くこともある。そして、一回だけピョンとジャンプするときには、彼らはちゃんと首を振る。首を伸ばしてジャンプし、着地するときに首を縮めて頭を静止させるのである。■首を振らないチドリの採食 スズメと同じように、まとまった距離を移動しては採食を繰り返す鳥に、チドリがいる。干潟などでゴカイのような小動物を捕食している彼らは、長時間、1ヶ所にじっと立ち止まっている。そこで周囲を見わたしていて、ふとした拍子に走り出す。何をするのかと眺めていると、走った先でさっと小動物をついばんでいるのだ。走るときには、もちろん首を振っていない。片目でキッと行く先を見据え、駆け寄っていくのである。ウーム 著者の好奇心には感心するが・・・これが学者の要件なんでしょうね♪著者と首振りとの出会いが語られています。p68~70<コラム:首振りとの運命の出会い> そもそも私がハトの首振りを研究し始めたのは、あまりにも多くの友人たちから、それを問われたためだ。私事で恐縮だが、私はもともと大学でヒトの二足歩行の進化を研究している先生のもとで学んでいた。 もちろん、ヒトの進化に興味があったからだ。だが、それ以前に動物がとても好きだった。子供のころから魚を捕まえたり、カエルやカメ、小鳥などの動物を飼育したりするおが好きだった。大学生になってからは、バードウォッチングによく出かけたし、趣味で骨格標本を製作したりもしていた。何となく動物が好きで、動物の研究ができたら楽しいだろうなと思いながら、大学で専攻したのが、人類学という学問分野だった。 だが、ひとつ大きな誤算があった。人類学という名がついていると、ヒトの研究をしなくては許されないような雰囲気が、何となくあるのだ。それはそうだ。鳥の研究をしていて人類学ですという勇気は私にもない。ヒトの近縁なサルならば研究してもよさそうだったが、サルを観察するのは簡単ではなかった。何度かサルを見に山へ足を運んだりしてみたが、なかなかうまい研究テーマを思いつかない。そこで、どうしようと悩みながら、半ば現実逃避でバードウォッチングに出かけることもしばしばあった。 そんなある日、ふと気づくと、私の大好きな鳥たちは、みんな二本足で歩いていた。なんだ、何も苦労して遠くに出かけるより、目の前のこの動物を調べると、ずっとラクちんで、ずっと面白いのではないかっと思った次第である。 調べてみると、予想外に鳥の歩行研究は少なかった。誰もやっていない研究というのも、気に入った。みんながやっている研究を、何も自分がやる必要はない。面白いけれど誰もやっていないことにこそ、取り組む価値があると思った。そんなわけで、よし、ひとつ鳥の歩行を研究してみようと思い、手始めに、鳥の歩き方にはどんな特徴があるかを調べ始めたのである。 そのころ、友人たちも同じく研究テーマに頭を悩ませていた。友人どおしでよく、お互いの研究の進展を話し合ったり、時にはうまくいかないことを慰めあったりしたものだ。そんなときに、「鳥の歩行を研究してみようと思う」というと、決まってみんな、ハトの首振りの理由を問うのだった。 誰もかれもが口をそろえて首振りの理由を知りたがる。そんなにみんな、首振りに興味があるのかと驚いた。『ハトはなぜ首を振って歩くのか』1
2016.02.03
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今回借りた6冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば「予約本」でしょうか♪<市立図書館>・百代の過客・最終定理・政と源・バブルの死角<大学図書館>・人口減少時代の住宅政策・染色の挑戦 芹沢ケイ介図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)************************************************************【百代の過客】ドナルド・キーン著、講談社、2011年刊<「BOOK」データベース>より日本人にとって日記とはなにか。平安時代の『入唐求法巡礼行記』『土佐日記』から江戸時代の『野ざらし紀行』『笈の小文』『奥の細道』まで、八十編におよぶ日記文学作品の精緻な読解を通し、千年におよぶ日本人像を活写。日本文学の系譜が日記文学にあることを看破し、その独自性と豊かさを探究した、日本文化論・日本文学史研究に屹立する不朽の名著。読売文学賞・日本文学大賞受賞作。 <読む前の大使寸評>晴れて日本人となったキーンさんの労作を見てみましょう♪<図書館予約:(1/19予約、1/26受取)>Amazon百代の過客百代の過客byドングリ【最終定理】アーサー・C・クラーク×フレデリク・ポール著、早川書房 、2013年刊<「BOOK」データベース>よりコロンボの大学に通う青年、ランジット・スーブラマニアンの熱烈な興味の対象は数学だった。なかでも夢中だったのはフェルマーの最終定理で、彼はその新たなる証明方法を日々追究していた。いっぽう宇宙の彼方では、超知性をもつ異星人たちが強力な破壊兵器を生み出す人類を憂い、地球へと艦隊を発進させていた…。巨匠アーサー・C.クラークが、フレデリック・ポールとともに自身の愛するものすべてを詰め込んだ遺作。<読む前の大使寸評>巨匠クラークの最後の長篇ということで、気になるわけです。<図書館予約:(1/23予約、1/28受取)>rakuten最終定理最終定理byドングリ【政と源】三浦しをん著、集英社、2013年刊<「BOOK」データベース>より東京都墨田区Y町。つまみ簪職人・源二郎の弟子である徹平(元ヤン)の様子がおかしい。どうやら、昔の不良仲間に強請られたためらしい。それを知った源二郎は、幼なじみの国政とともにひと肌脱ぐことにするがー。弟子の徹平と賑やかに暮らす源。妻子と別居しひとり寂しく暮らす国政。ソリが合わないはずなのに、なぜか良いコンビ。そんなふたりが巻き起こす、ハチャメチャで痛快だけど、どこか心温まる人情譚!<読む前の大使寸評>三浦しをんの小説を、『神去なあなあ日常』に次いで読むわけだが・・・どんなかな♪rakuten政と源【バブルの死角】岩本沙弓著、集英社、2013年刊<「BOOK」データベース>より消費税・新会計基準・為替介入・量的緩和の陰で国富は奪われ国益が損なわれる。消費税も新会計基準も表の顔と違う側面がある。為替介入でも国富はアメリカに流出していく。日本国民が必死に働いて生み出してきた富を掠めとっていく裏の仕掛けとはなにか。1%のグローバル強者に対抗して、99%の我々が知的武装をするための必読書。【目次】第1章 消費税というカラクリ/第2章 税制の裏に見え隠れするアメリカ/第3章 時価会計導入で消えた賃金/第4章 失われた雇用と分配を求めて/第5章 為替介入で流出した国富/第6章 バブルの死角<読む前の大使寸評>追って記入rakutenバブルの死角【人口減少時代の住宅政策】山口幹幸, 川崎直宏著、鹿島出版会、2015年刊<商品説明>より人口減少、少子高齢化、環境問題、災害対策ーー、未曽有の課題に直面する日本社会で住宅政策はいかに機能するか。社会の写し鏡としての住宅政策を戦後70年の軌跡から読み解き、成熟社会に向けた展望を開く。■第1部 住宅政策が変えたもの(戦後70年のエポック)萌芽期(戦前~1964)/高度経済成長期(1965~1974)/政策模索期(1975~1984)/バブル期(1985~1994)/政策転換期(1995~2004)/低成長期(2005~)■第2部 人口減少時代の論点住宅政策と10の論点日本の住宅政策について/人口減少・少子高齢化社会/住宅の公共投資(社会資本整備)/都市居住と郊外居住/環境・エネルギー・防災問題と住宅/建築技術・生産・住宅計画 <読む前の大使寸評>少子高齢化時代の昨今、現状の建売住宅、マンション、公営団地の行末、再生などが気になるわけで・・・・目下のところ「空家の処分、延命、再生」が、大使のミニブームとなっているのです。rakuten人口減少時代の住宅政策人口減少時代の住宅政策byドングリ【染色の挑戦 芹沢ケイ介】芹沢ケイ介美術館(静岡市立), 東北福祉大学芹沢ケイ介美術工芸館編、平凡社、2011年刊<「BOOK」データベース>よりムックにつきデータなし<読む前の大使寸評>とにかく、そのデザイン、色彩にしびれる大使である。藍染めの伝統工芸にも繋がる芹沢さんを多角的に紹介したムックのようです。rakuten染色の挑戦 芹沢ケイ介『染織の挑戦、芹沢ケイ介』byドングリ*************************************************************とまあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き132
2016.02.02
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<『染色の挑戦 芹沢ケイ介』>図書館で『染色の挑戦 芹沢ケイ介』という本を手にしたが・・・とにかく、そのデザイン、色彩にしびれる大使である。藍染めの伝統工芸にも繋がる芹沢さんを多角的に紹介したムックのようです。【染色の挑戦 芹沢ケイ介】芹沢ケイ介美術館(静岡市立), 東北福祉大学芹沢ケイ介美術工芸館編、平凡社、2011年刊<「BOOK」データベース>よりムックにつきデータなし<読む前の大使寸評>とにかく、そのデザイン、色彩にしびれる大使である。藍染めの伝統工芸にも繋がる芹沢さんを多角的に紹介したムックのようです。rakuten染色の挑戦 芹沢ケイ介知恩院御影堂内陣荘厳布バルチュスとの関係を節子夫人が語っています。p64<モダンな芹沢ケイ介氏>より 芹沢ケイ介氏のお嬢様が染色家・四本貴資氏に嫁がれ私の実家の側にお住まいでいらした関係で、当時紅型と呼ばれて注目を浴びていた美しい作品には少女の頃から接する機会に恵まれておりました。■共感し合った芹沢ケイ介とバルチュス バルチュスがはじめて来日しました1962年、私と出会う数日前になりますが、日本民芸館を訪問し、芹沢ケイ介氏にお会いしました。その当時の民芸館接待の間には芹沢作の絵が1枚掛けてあり、バルチュスはその美しさに思わず引き付けられて、「」と伺うと「」と顔紅らめて恥ずかしげに芹沢氏がお答えになったそうです。その子供のような純情さが大変印象的であったとよく話しておりました。 その時より、バルチュスは芹沢氏の作品に深い興味を抱きはじめ、数年後の1967年には蒲田にある工房と住居を二人で訪問することになりました。日本の伝統をこよなく愛するバルチュス、年毎にコンクリート化される東京の町の変貌を嘆き悲しんでおりましたので、宮城県の農家を移築された住居には大変感銘を受けておりました。 作品以外、多くの募集品や日常生活品にいたるまでいずれの品を眺めても、バルチュスと共有できる一貫した審美眼、そしてその源となる感性に大いに通じるものを分かち合えた再会でした。 バルチュスが特別気に入り、私のために求めた藍染の鯛泳ぐ文の帷(かたびら)はいまだに愛用しております。藍の色はすっかり褪せて麻の地色と交ざり合い、何とも表現し難い妙味のある衣、今は夏用の部屋着としております。■グラン・パレ個展への険しい道 この訪問の折、バルチュスはこの偉大な日本人の芸術家を外国にも紹介したいと真剣に考えはじめました。そして当時、パリの近代美術館館長をしておられた親友のジャン・レマリー氏に依頼したのです。 彼は芹沢作品に接し、すぐにその美しさを感知できるお方でした。美術史の大家であるとともに詩心を持った独特の風韻ある方で、パリで芹沢展をなす重要性を理解するのは彼のみであろうというバルチュスの構想でした。(中略) 数年が経ちました。レマリー氏は全力を注いで奮闘され、十年後にグラン・パレで成就するのです。パリの街に“芹沢風”が吹いた時は、一同目に涙浮かべる幸せにひたりました。グラン・パレでの展覧会の初日、羽織・袴姿の芹沢氏、レマリー氏、バルチュスは「とう、とう・・・・」と言葉を交わし抱き合って喜んだ光景が目蓋に浮かびます。■色彩へのこだわり 芹沢氏の作品は、桃山期を偲ばせる大胆な構図に加え、色彩の秀絶な調和に目を見張らされます。彼の生き方の中に美の摂理がしっかりと根を下ろしている故だと思います。 展覧会準備中、会場内の作品陳列を指示なさる場合、作品を運ぶ係員のシャツの色が気になるからと柿渋色の作務着を用意しておられたのは有名な話です。四本夫人は、「父は、亡くなる前の入院中でさえ、お茶を持つ看護婦さんのセーターの色はどうにかならないかね、あんな色調ではとても薬は飲めないとまで申していましたよ」と苦笑して話してくださいました。 型染和紙のカレンダーところで、過去の日記を見てみると、この本を借りるのは2度目であることが判りました。(イカン イカン)募集品の三春人形『染織の挑戦、芹沢ケイ介』2015.09.14より
2016.02.02
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図書館で『人口減少時代の住宅政策』という本を手にしたが・・・少子高齢化時代の昨今、現状の建売住宅、マンション、公営団地の行末、再生などが気になるわけで・・・・目下のところ「空家の処分、延命、再生」が、大使のミニブームとなっているのです。【人口減少時代の住宅政策】山口幹幸, 川崎直宏著、鹿島出版会、2015年刊<商品説明>より人口減少、少子高齢化、環境問題、災害対策ーー、未曽有の課題に直面する日本社会で住宅政策はいかに機能するか。社会の写し鏡としての住宅政策を戦後70年の軌跡から読み解き、成熟社会に向けた展望を開く。■第1部 住宅政策が変えたもの(戦後70年のエポック)萌芽期(戦前~1964)/高度経済成長期(1965~1974)/政策模索期(1975~1984)/バブル期(1985~1994)/政策転換期(1995~2004)/低成長期(2005~)■第2部 人口減少時代の論点住宅政策と10の論点日本の住宅政策について/人口減少・少子高齢化社会/住宅の公共投資(社会資本整備)/都市居住と郊外居住/環境・エネルギー・防災問題と住宅/建築技術・生産・住宅計画 <読む前の大使寸評>少子高齢化時代の昨今、現状の建売住宅、マンション、公営団地の行末、再生などが気になるわけで・・・・目下のところ「空家の処分、延命、再生」が、大使のミニブームとなっているのです。rakuten人口減少時代の住宅政策日本中どこでも見られるシャッター街には意気消沈してしまうが・・・ここにきて、コンパクトシティ論が語られるようになりましたね。そのあたりを見てみましょう。p174~175<6-07 地方都市の消滅懸念から、都市の集約化が叫ばれるが・・・>より 地方都市の中心市街地の空洞化が深刻になるなか、2006年、中心市街地活性化法(中活法)および都市計画法・建築基準法が改正され、1万平米を超える大規模集客施設が立地制限された。 これと連動するかたちで、コンパクトシティ論が活発化する。コンパクトシティとは、都市の郊外化やスプロール化を抑制し、市街地のスケールを小さくし歩いて暮らせる範囲を生活圏と捉えたまちづくりで、現在、札幌、稚内、青森、仙台、富山、豊橋、神戸、北九州などの各市がコンパクトシティを都市計画マスタープランなどの政策に位置づけ、市街地の集約化に向けた施策を展開している。 住宅政策の分野でも、複数の自治体で、まちなか居住の推進を掲げている。たとえば金沢市では、「まちなか」区域の定住人口増加をねらって、市内外からまちなか区域への住替え者などを対象に、新築・購入費などの借入金の一部を助成したり、まちなか区域内での共同住宅建設に補助するなど多彩な支援策を講じている。 このように、地方都市を中心にコンパクトシティやまちなか居住の推進が展開されるが、都市の集約化は、なにも地方都市に限った問題ではない。首都圏の大都市においても、まだら過疎化の進行を抑止することが政策課題となっている。大都市における都市の集約化は、地方都市と異なり、駅を中心としたエリアへの市街地の集約化のみならず、生活圏単位のコンパクト化の視点から、高度成長期に郊外に拡大した郊外地域を、公共交通でネットワークする形で郊外の住宅団地に集約化していくなど、集約化の考え方・方法も多様である。 このように、全国的に都市の集約化が政策課題になるなか、都市の集約化を加速させるかのように、国土交通省は2014年、都市再生特別措置法にもとづく「立地適正化計画」を発表する。立地適正化計画とは、市町村が作成する都市計画マスタープランの高度化版という位置づけであるが、コンパクトシティの推進に向け、都市機能や居住を誘導するゾーンを具体的に位置づけることで、各種交付金や税制優遇をひもづけながら、その実践を図ろうというものであり、今後の動向が注目される。 これまで、都市のコンパクト化は、おもに都市経営コストの縮減の観点から論じられてきた感があるが、今後はそれぞれの地域特性を踏まえながら、居住者の持続的な生活環境の確保と生活圏のコンパクト化の両輪で、その方向性を見極める必要があるといえる。ところで住宅再生に関して、リノベーションとかホームステージングとか横文字を使った広告がよく出るのでネットでその意味を探してみました。リノベーション住宅推進協議会より<リノベーションとは> リノベーションとは、中古住宅に対して、機能・価値の再生のための改修、その家での暮らし全体に対処した、包括的な改修を行うこと。例えば、水・電気・ガスなどのライフラインや構造躯体の性能を必要に応じて更新・改修したり、ライフスタイルに合わせて間取りや内外装を刷新することで、快適な暮らしを実現する現代的な住まいに再生していきます。allabout「ホームステージング」って何?より<欧米では当たり前の演出、ステージングしないと売れないのが普通>そもそも「ホームステージング」とは、アメリカで1970年代に生まれた不動産売却サポートのサービスです。現在では、100万ドル(1億数千万円)以上の中古戸建て、中古コンドミニアム(マンション)を売却するときは、「ステージング」をするのが当たり前といわれ、ステージングをしないと売りにくくなるほど一般化しているそうです。ヨーロッパやオーストラリアでも普及しています。アメリカではホームステージングの専門会社が数百社もあり、「ホームステージャー」と呼ばれる専門職も確立されています。インテリアコーディネーターと似ていますが、目的が異なるので、仕上がりの方向性が違ってきます。『人口減少時代の住宅政策』1
2016.02.01
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図書館で『人口減少時代の住宅政策』という本を手にしたが・・・少子高齢化時代の昨今、現状の建売住宅、マンション、公営団地の行末、再生などが気になるわけで・・・・目下のところ「空家の処分、延命、再生」が、大使のミニブームとなっているのです。【人口減少時代の住宅政策】山口幹幸, 川崎直宏著、鹿島出版会、2015年刊<商品説明>より人口減少、少子高齢化、環境問題、災害対策ーー、未曽有の課題に直面する日本社会で住宅政策はいかに機能するか。社会の写し鏡としての住宅政策を戦後70年の軌跡から読み解き、成熟社会に向けた展望を開く。■第1部 住宅政策が変えたもの(戦後70年のエポック)萌芽期(戦前~1964)/高度経済成長期(1965~1974)/政策模索期(1975~1984)/バブル期(1985~1994)/政策転換期(1995~2004)/低成長期(2005~)■第2部 人口減少時代の論点住宅政策と10の論点日本の住宅政策について/人口減少・少子高齢化社会/住宅の公共投資(社会資本整備)/都市居住と郊外居住/環境・エネルギー・防災問題と住宅/建築技術・生産・住宅計画 <読む前の大使寸評>少子高齢化時代の昨今、現状の建売住宅、マンション、公営団地の行末、再生などが気になるわけで・・・・目下のところ「空家の処分、延命、再生」が、大使のミニブームとなっているのです。rakuten人口減少時代の住宅政策この本の「はじめに」で、ニッポンの住宅問題の概観が述べられています。p6~7<はじめに>より わが国の人口は、2008年をピークに減少しはじめている。欧米に比べて極端に低い出生率が原因で、高齢化と相まって日本経済や私たちの社会生活は大きな影響を被ることになる。 出生率を改善し、人口減を食い止める方策が求められるなか、地方から都市への人口流出、とくに子を産む中心世代である若年女性の減少が地方都市の消滅につながるとし、にわかに自治体を含めて少子化対策に本腰を入れ始めた。 昨今では、生きがいや自身の存在感を地方移住する若者たちが増えているが、都市に魅力を感じて流入する若者も後を絶たず、この自然な流れを意図的に変えるのも難しい。 であるならば、東京など大都市に住む世帯形成期・子育て期にある世帯が、安心とゆとりをもって暮らせる住生活の環境改善にもっと力を注ぐべきであり、これは住宅政策に直結する課題といえる。大使はドングリ国で、阪神・淡路大震災後に鉄骨系のプレハブ住宅を建てのであるが・・・黎明期のプレハブ住宅が気になるので見てみましょう。p68~7<2-09 戸建て住宅プレハブの躍進>より プレハブ住宅は、低層住宅の分野ではわが国においてのみ定着したもので、一大産業を形成するまでに至った。それは日本人の生活様式や住宅市場という点で諸外国に比べ恵まれた条件もあるが、量産化の手法のみならず、住まいの性能や機能のより高度な快適性を追求してきた成果ともいえる。先進的な住宅部品の共用化などで従来工法にも影響を与え、住宅産業全体の資質向上に大きく寄与してきた。 わが国のプレハブ住宅は戦後間もなく産声を上げたが、当時はいずれも企業としては成功せずに消えていった。1955(昭和30)年の大和ハウス工業の「パイプハウス」が民間市場で成功した初のプレハブ建築とされる。1959年の同社の「ミゼットハウス」は、量産化され、コストが安いことなどから爆発的に当時の社会に受け入れられた。この刺激もあり、翌年には積水化学工業の「セキスイハウスA型」、翌々年に松下電工の「松下1号」などが相次いで発表され、本格的なプレハブ住宅へと発展していった。 この一連の動きは産業界に大きなインパクトを与えることになり、昭和30年代中ごろから鉄鋼や建築材料のメーカー、化学工業などが母体となったプレハブ住宅の生産が始まり、鉄骨系、木質系、コンクリート系など多くの住宅メーカーと開発技術者を誕生させた。(中略) この背景には、企業自らが銀行とともに開拓したプレハブ住宅ローン、公団や公社、電鉄会社などと提携した団地開発、代理店や特約店方式による販売網や住宅総合展示場による独自の販売方法、プレハブ建築協会の設立、住宅金融公庫の不燃組立て住宅への割増融資制度などの取組みがある。これらは、庶民や工務店の住意識の向上に影響を与えるとともに、企業の技術開発に刺激を与え、住宅の普及と住宅産業の成長支援につながった。現代の時代状況を見てみましょう。p160~161<6 本格的な都市の縮退時代に向けて>より 1970(昭和45)年に都市計画決定し、事業が開始されたわが国最大のニュータウン開発である多摩ニュータウン事業が2005年に修了したことで、これまで高度成長期を支えてきた郊外の計画住宅地における住宅供給が終焉を迎えた。また、2006年、住生活基本法が制定され、国民の住生活の安定の確保を目的として「住生活基本計画」の策定が閣議決定されたが、まさにその年、わが国の総人口が減転、本格的な都市の縮退時代に入った。 まさに、低成長時代の到来である。人口減少・少子高齢化の進展など、社会経済情勢の変化にともない、高齢者の介護や見守り・生活支援、省CO2対策、地域防災への対応、増え続ける空き地や空き家対策など、これまでの時代以上に、輻輳したさまざまな問題が顕在化している。そして、2011年3月11日に発生した東日本大震災は、こうした事態を加速化させた。 住宅政策の分野においては、高度経済成長期に大量供給されたマンションや郊外住宅団地が更新期を迎え、建替え問題が顕在化している。また、高齢者の増加にともなう住宅のバリアフリー化や在宅介護、介護施設やグループホーム、サービス付き高齢者向け住宅などの質の確保と円滑な住替えが課題となりつつある。さらに、単親高齢者や片親世帯の子育て層、低所得者などの住宅確保など、さまざまな問題に対応を迫られている。 住宅ストック面で捉えると、住宅の新規供給から既存ストックの活用・長寿命化を重視しながら持続的な再生が求められている。また、住宅などのハードな空間整備のみならず、地域マネジメントなどソフト施策を含め、地域コミュニティを再生し、多用な世帯が安心して暮らせる住生活の総合的な再生が求められる。住宅政策の来し方、今後の展開を山口さんが述べているが・・・これまでは戦略性が欠如していたとかなり手厳しいのです(笑)。p215<これからの住宅課題と市場政策の方向:山口幹幸>より 今後一層の展開が期待される政策のひとつは、既存住宅ストックの活用である。住宅数はすでに供給過多となり、ストックの改善や建替えに軸足を移す必用がある。しかし、分譲マンションでは老朽ストックが増大する一方、建替えが円滑に進まないことや空き家の発生などから管理面の問題も懸念される。 中古住宅を住まい方に応じ、改造するリノベーションも価格などから取得需要が少なく、事業の伸び悩みも見られる。新築と同様に高地価が住宅価格形成に大きく影響している。これらの原因は大都市での住宅政策に有効な土地政策を絡めた方策が欠如していることにある。 もうひとつは、高齢者の安心居住、住環境の地域管理、地球環境や省エネルギーなどである。これら住環境に関わるテーマは単独でなく住宅供給と一体的に対処すべき問題であり、モデルによる検討を経て住宅供給の方向性を示し、総合的な政策として市場に働きかけることである。(中略) こうして過去の住宅政策を振り返ると概して戦略性が欠如していたといえよう。政策は体系的な緒策であり、将来を見通した長期的、総合的視点に立った方策をもたねばならない。
2016.02.01
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