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季節の変わり目ですね 佐々木塾長は、頭が痛い…田中先生は、足首が痛い…僕は、ノドが痛い… 小田切副塾長は、おしりが痛い… Kama
2010.05.31
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ポンキッキのムックは雪男だ なんで、雪男のアタマからプロペラがはえているのかKama
2010.05.29
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【5月28日】これまで、3階と4階でやってきた愛夢舎。このたび、同じビルの1階も愛夢舎になることになりました2フロアだけでは生徒たちが座りきれず、教室の数も足りなくなったので、塾長佐々木が思い切って、借りることにふみきった。ホントは、間仕切りとか内装とかが済んで、教室として稼動できるようになったら・・・と思う間もなく、中間テスト前の自習にやってくる生徒が多すぎて、3、4階がパンク・・・急きょ、1階を稼動させることになったとゆー・・・。 それから1週間。今日、ようやくちゃんとした工事が始まりましたなにしろ、自習スペースに収まりきれない生徒たちから早く1階を稼動させろ、という要望が強いもんで、とにもかくにも、「空間」を確立せねば・・・ ということで、まずは、壁のクロス貼り。これさえ済んでしまえば、最悪、机とイスだけ持ち込めば、なんとか自習スペースは確保できる。午前中から作業がはじまり、半日たって、ようやく壁紙が貼られました。塗料(溶剤?)の匂いが、3階まで漂ってきてます。次の一手をどうさすか、佐々木塾長しだいです。リポーターKama
2010.05.28
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こんにちは、鎌田です何十年(?)も、ず~~~~っと気になっていることがあって・・・。 【靴下】 ほら、道路でたまに見かけませんか? 車道に落ちている、靴下。 あれは、何がどういう状況で、かたっぽだけ落ちたのでしょう 近くの家の洗濯物が飛ばされてきたというのが 一番ありそうな推論ではありますが、 靴下を見かけるとき、 近くにそれらしき住宅がないことが多いですよね。 さらに、そういう靴下って、 今さっき飛ばされてきた感じじゃなくて、 もう、なんか、 ぺしゃんこになって、道路にへばりついてる。 なーんで、靴下、 しかも、かたっぽだけ落ちているのか 誰か教えてください。 【カエル】 例えば、小学生のころ、 プールサイドで見かけた光景。 アマガエルがひからびて、 お亡くなりになっている 彼は、どうして そんな死に方をしてしまったのか。 もっというと、 なんでひからびるまで、 そこにたたずんでしまったのか だって、目と鼻の先には、 豊富な水があるわけで。 あとひと跳び、ふた跳びすれば、 そのカラダに水をいっぱい浴びることができたわけで・・・。 どーして、彼は、 そこに居続けたのか。 1分や2分じゃ、ひからびません。 だから、彼は、けっこうな時間、そこに居たことになる。 いくらカエルであっても、 10分もそこに居続ければ、 「あ、このままではいかん!!」 ということに気がつくであろう。 カラダ中から、水分が蒸発していっていることに 異変を感じるはずであろう。 仮に、プールの方へ跳ばなかったとしてもよい。 もうちょっとがんばって、草むらとかにたどりつけば、 すくなくとも、みんなの目にふれる、 あわれな最期をとげることはなかったはずである。 だいたい、順序がわからない。 彼は、生きながらにしてひからびたのか。 それとも、亡くなった後にひからびたのか 亡くなった後だとすれば、死因はなんだろう。 心臓麻痺? カエルの心臓麻痺とか、聞いたことない。 それに、死後にひからびたとすれば、 僕らは、ひからびる前のカエルの遺体と プールサイドで遭遇してもよさそうだけど、そういう経験はない。 だから、ひからびて死んでしまったと考えるほうが自然。 だからこそ、不自然に思うわけです。 なーんで、カエルは、 ひからびて、自分がミイラ化するまで 灼熱のプールサイドにたたずんでしまったのか。 なにか、哲学的な意味でもあるのだろうか? 誰か、教えてください。 Kama
2010.05.27
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生徒諸君、卒業生の諸君、そしてスタッフのみなさんたくさんのプレゼント・お祝いの言葉ありがとうございました。 厄(ヤク)年ですが飛躍(ヒ・ヤク)年にしたいと思います! (リョウマ先生の言葉を頂きました~笑) ジュクチョウ
2010.05.25
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こんにちは、鎌田です先ほど書きましたが、今日は佐々木塾長の誕生日(おめでとーございまーす×2)高校生のI君が、塾長に誕生日プレゼントを買ってきてくれましたよ普段はそっけない感じのI君、こういう優しいところがある、いいヤツなんですよ。 ところで、「僕(=鎌田)といえば扇子」というイメージがだいぶん定着してきているようでございます。最近は、僕もおもしろがって、毎日、持つ扇子を替えてたりするので、少々ブームになりそうな、なってそうな、そんなこともないような・・・。 I君、塾長に ↓ こんなものを買ってきてくれました。「のびのびうんち棒」。あの、アレですよ、「先生」がよく持ってる、黒板なんかを指す棒。先が「う●こ」になってますが、70センチまでのびるこの棒は、「う●こ」をはずすとボールペンにもなるスグレモノ。実は、コレ、3本目・・・。 I君、「塾長といったら、『う●こ』でしょうw」。 ・・・僕は、「いやいやいやいや・・・」と言ったんですけどね。佐々木塾長本人が「カマティーのトレードマークは扇子。 オレのトレードマークは『う●こ』!!」って言って、ぜひブログに書いてくれって・・・。本人が言ったんですからね。 僕が扇子で、塾長が「う●こ」・・・。いいのか?これでいいのか?Kama ・・・たぶん、いいのだ。今、小学生の授業で、さっそく使ってますw
2010.05.25
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こんにちは、鎌田です昨日の雨とはうってかわって、入間は、よーく晴れてます・・・・ってか、暑い さて、5月25日です。今日は「広辞苑記念日」だそうです。なんでも、1955年の今日、広辞苑の初版が発刊されたとかで。↓ ウチにもありますよ♪何年か前、第六版が発刊されて、ベストセラーになりましたね。まあ、広辞苑については、しょっちゅう買うようなものではありませんが、なんていうか、ブランドイメージとでもいうのか、とりあえず、1冊は置いておきたいですよね。 その実、使用頻度はあまり高くない・・・ウチにはもう一冊、普通のサイズの国語辞典があるから、そっちばっかり使ってしまう。「広辞苑様」は、書棚に鎮座され、ほかの辞書が生徒たちの手にとられていくのをいつも温かく見守っていらっしゃる。と思ったら、最近高校生が「広辞苑を貸してください」と言ってくるようになった。ようやく、大御所にもお仕事ができはじめた、といったところか。 ・・・重くね? というわけで、本日5月25日は、我らが佐々木塾長の誕生日でございますおめでとーございまーす♪ …ヒネくれてるから、なんか小ネタを挟まなきゃいけないと思ってこういう書き方になってしまうのですよ、ハイ。Kama
2010.05.25
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こんにちは、鎌田です雨が続きますね気がついたら、5月も末になってきました。デザインが桜のままだったので、「けろけろ」に直しました。(↑ わかる人にだけ、わかる~~♪)Kama
2010.05.24
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こんにちは、鎌田です生徒に冗談で、「結婚した」って言ったら、 「ありえないでしょっ!!」 って、怒られた>< あんまりだ・・・ Kama ・・・今日、明日の週末は、上藤沢中第1回テスト(中間試験)の直前大勉強大会です。みんな、集え~~~~。
2010.05.22
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こんにちは、鎌田ですこのひと月ほど、保護者会とかバーベキューとかで、保護者の方とお会いすると、↓ こんな感じに声をかけられる。「先生、ちょっと、ふっくらなさって・・・。」 ・・・ ・・・ ・・・ええ ・・・ええ、そうですとも。太りましたよ。ええ、太りましたとも、はいはい 自分でもオドロキなのですが、2月、3月の2ヶ月でですね~、ナント7キロも太ったですよそりゃ、見た目ですぐにわかるわな。その結果、生まれて初めて体重が60キロ台にのっかりまして・・・。さすがに「これはイカン!」と思って、別にダイエットっていうつもりじゃないけど、ちょいと食事に気をつけて、今はそこから2キロほど、落としました。それでも60キロ台・・・。いや、まあ、いいんですけどね。周囲の人にも「その身長(174センチ)ならふつうだ」と言われるし。でも、これまで30数年間、ずっと50キロ半ばだったもんで、自分的に、けっこうショックだったりして・・・。 たぶん、ビョーキが大分治癒してきて、生活リズムが整って、健康的になってきたからだと思います。経過良好でございます。Kama
2010.05.21
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こんにちは、鎌田ですええ~~、「愛夢舎ヒストリー」の再掲載が続いておりますが・・・。 これねぇ~~、フシギなんですけどね、僕が、「ヒストリー」の再掲載をすると、「何か」が起こるんですよ、ホントに 今回も起こりました、ええ。 もう塾長佐々木がオープンにしてしまいましたが、 そういうわけで、愛夢舎は校舎が広くなることになりました この1年ちょっと、新築ビルの3~4階で運営して参りましたが、おかげさまをもちまして、もう2フロアでは、生徒が収まりきらなくなっちゃいましたこのビル、当初はウチしか入っていなくて、けっこうな期間、1、2、5階は入居募集の状態が続いていたんですけど、この1年で2階と5階には別の会社さんが入りました。 ・・・なので、少々、オマヌケなのですが・・・ウチは空いてる1階を借りることに・・・。 これで愛夢舎は、明の沢ビル1、3、4階という住所になります 今現在、受付は3階にあって、これを1階におろすかどうか、これから検討。でも、1階があるのに、3階受付って、やっぱりおかしい気がするし、でも、そしたら3階の改装が必要になるし・・・ どうやら、それなりの時間が必要となりそうなので、また新しくカテゴリを作ってみます。このカテゴリで、1階がどのように変わっていくか、逐一ご報告させていただきますね。 ・・・大半の人にとっては、どーでもいいか・・・ ちなみに、今の1階は ↓ こんな感じ。がらんどうなにがどうなることやら、僕にはまるで想像つきませ~ん。レポーターKama
2010.05.20
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(【第32章】へもどる)2010年。佐々木の構想は、いよいよ現実味を増してきた。これまで愛夢舎は、専任スタッフによって運営されてきた。開校当初は、塾長を筆頭に3名の専任スタッフがいた。それが一時的に2名になり、すぐに3名にもどり、そして、4名になった。4名は3名になり、また4名にもどった。途中、非常勤講師・中島が加わることになった。彼女は、スポーツインストラクターとの二束のわらじをはき、2010年で、講師歴7年目を迎えることになった。もはや、ベテランの領域であり、確かに勤務時間こそ短いものの、各種イベントへの参加のみならず、愛夢舎最大の企画である夏期勉強合宿のスタッフとしての位置づけも確立した。 佐々木の構想には、「若い世代の非常勤講師の雇用」が常にあった。世間には、専任スタッフのみで運営している塾は少なくない。場合によっては、塾長がたったひとりで経営しているところもある。愛夢舎にしても、4名の専任講師+1名の非常勤スタッフという体制で、不備が出たことは一度もない。つまり、「足りない」状況ではない。 だがしかし、今後数十年の長期にわたって、「愛夢舎」という「法人」が活き続けていくためには、ジェネレーションの若返りが必要である。そして、更なる発展、「法人」の成長には、より一層のマンパワーの充実が必要である。佐々木は口にする。「『自分が死んだら愛夢舎もおわり』 ということにしたくない。」 ただ、世代の若返り、非常勤講師の採用といっても、「愛夢舎」は妥協を許さない。「とりあえず、授業コマを埋める」だけの講師に用はない。たとえ、非常勤であっても、理念を共にし、信念をもって、生徒に向かいあう、そういう「人間」でなければならない。特に、「採用充実期間」があったわけではない。「募集の有無」でいえば、「愛夢舎」は、常に募集をしているのであり、同時に、人がいれば採用する、ということではない。中島以降、数人の非常勤講師が愛夢舎に加わり、そして去っていった。講師紹介・派遣を生業とする多くの業者が、愛夢舎にアプローチをかけ、そしてことごとく「仕事」にならず、辛酸をなめた。 2010年4月。事態は急激に変化した。卒業生であり、もはや伝説的に語られる「彼」が講師として加わることになった。間をおかず、同じく教員を目指す、その兄も加わることになった。さらに、かつての生徒が留学から帰国し、大学卒業までの間、講師をつとめたいという。いずれも、「愛夢舎」の成長を象徴する存在であり、模擬授業や生徒対応などにおいて、初めてとは思えぬスキルを有する者たちでもあった。また、史上初めてとなる、事務スタッフも、やはり卒業生の内から採用することができた。 長く4~5人で運営してきた「愛夢舎」は、急に11人の大所帯となった。これまで「動いてきた時計」が、まるで急流に飲まれるように、急加速度的に、針を回しはじめた。 【市原郷史】愛夢舎2期卒業生。早稲田大学国際教養学部在学中。愛夢舎から某大学付属高校に進学し、一旦は大学へ内部進学するものの、自分のやりたいこと、目指すこととのギャップに悩み、中途退学。しばらくの間、学費と受験のための費用を稼ぎだすべく工場勤務を経験した上、晴れて、第一志望の大学への入学が叶う。現在、中学2年生の英語の授業を担当。 【市原綾馬】市原郷史の兄。中国上海において、IT企業勤務をしてきたが、日本において学校教員を目指すべく帰国。今回、大学への編入も決まり、いよいよ目標に向けて励みつつ、愛夢舎でも教鞭をふるう。「やさしい先生」というもっぱらの評判。中学1・2年生の英語の授業を担当するほか、チューターとして生徒たちの学習指導も行う。 【今泉博文】愛夢舎2期卒業生。首都大学東京都市教養学部在学中。2010年、1年半のオーストラリア留学から帰国。英語教員を目指し、勉強を続ける中、自らのスキルアップを図るため、愛夢舎で勤務をはじめる。中学2年生の英語を担当。 【石塚由佳理】愛夢舎7期卒業生。初の事務スタッフとして勤務。主に小田切副塾長の補佐として、各種事務処理を行う。 ~【第34章】へつづく
2010.05.20
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「F1フライング」ではないです。 「1Fフライング」です。 正式発表はまだ・・・と思っていたのですが、本日、フライングしてしまったので、発表してしまいます。 実は愛夢舎のフロアが増えます。1階も愛夢舎になっちゃいます(笑)。 まだ、改装もなにも進んでいませんが・・・ 今日は中高生の定期テスト前で、完全にキャパオーバー。私の独断で1階を自習スペースとして稼動させてしまいました(笑)。 今後、1階の環境も(徐々に)整えていきますので乞うご期待! ジュクチョウ
2010.05.18
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こんにちは、鎌田ですある友人から、さらにその友人について、こんなハナシを聞いた。 その子は、わりかし大きめの家に暮らしていて、玄関までに、いくばくかのアプローチがあるらしい。で、その途中に排水口というかなんというか、下を汚水が流れる「穴」があるという。カタチ的には、マンホールみたいな。 もちろん、普段はフタがあるわけだけど、なぜか、その日は、フタがなかった。その子は、さっそうと歩いていて、見事に「穴」に落ちたのだそーだ すぽーん・・・って、胸くらいまで。で、近くにいた人が心配して、あわててかけよると、彼女は、足を泥だらけ、血だらけにして言ったそうだ。 「やぁ~~だ、アタシったら~ 穴があったら入りたいぃ~~~! っていうか、もう入ってるしぃ~!!」 ・・・もうね、僕は又聞きだったわけだけど、おかしくておかしくて、ヒザを叩いて大笑いしてしまったという・・・ いやしかし、そんなとっさの状況でよくまあ、こんなセリフが出てきたもんだ機転が利くというか、回転が速いというか・・・アタマいいんだか悪いんだか、わけわからん。Kama(…いや、実際、とってもアタマがいいんでしょうけどね)
2010.05.18
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(【第31章】へもどる)2008年冬。愛夢舎は、内部生とその保護者、また、地域の皆様に「校舎移転」の報告を行った。 2009年の2月末日、すなわち、その年度の受験生が無事に受験を終えるまでは旧校舎で、かわらず運営を続ける。そして、2009年3月1日より、新校舎にて、新年度をスタートする。とてもアクロバティックな計画だ。 セオリーに従い、一ヶ月程度の新規開校募集期間を設けるのがよいのではという意見もあったが、佐々木、小田切にとって、「たった一日での移動」は今回が初めてのことではなかった。(⇒⇒⇒ 【序章】夜逃げ へもどる) もちろん、2月中に、移動できる荷物は少しずつ運搬していく。また、3月に入ってからも、ひと月程度をかけ、旧校舎の処理を行っていく。だが、3月1日新規開校、3月3日、初回授業実施というプランはゆるがない。初めは遅れ気味に見えた建設工事であったが、年が変わるころにはビルの全体像がみえるようになった。(Zapping⇒⇒⇒【観察日記.1】へジャンプ) 実際、工事はギリギリその日まで続いた。 2009年3月4日。新校舎での「入塾説明会」が実施された。その日、ビルには工事の作業員が多く出入りし、説明会のその時間までエレベーターが使えないというトラブル、また、外の電気の不具合などが続いた。それでも、旧校舎での説明会では考えられなかった、大人数の保護者が集まってくれる。その後、数度の説明会を実施。内装、各所の手直しも進み、やっとビルから工事関係の人の姿がなくなった頃・・・。愛夢舎の生徒は、1.5倍に膨れ上がっていた。 後から聞くと、「上藤沢の『愛夢舎』が移転してきた」という印象を持つ方も確かにいたが、それ以上に「新しいヘンな名前の塾ができた」と思った方の方が多かったようだ。また、「ヘンな名前」との闘いである。 ~【第33章 マンパワー】へつづく
2010.05.18
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(【第30章】へもどる)2008年秋。佐々木は重大な決断をくだした。これまで8年にわたって運営をつづけてきた「一軒家」、一時は、佐々木自身の自宅でもあった、古びた、愛すべき、校舎。ここを離れ、拠点を別に移す。持ち主が「家」を手放すという、スタッフにはどうにもならない事情を受けての決断であった。もっとも、次の持ち主が決まり、その持ち主との交渉により、同じ校舎での運営を続けることはできるかも知れなかった。その可能性は十分にある。だから、佐々木の決断は、「売却」という状況による、「仕方のないこと」ではなかった。 かつて、鎌田は、愛夢舎のメンバーに加わる以前、すなわち、全国の塾や学校の人材関係業に身をおいていたとき、佐々木と運営の相談をしているとき、こう口にした。「校舎を他のところにするつもりはないんですか?」また、懇意にしているかつての後輩であり、今の盟友であるところの他塾の塾長は、愛夢舎を訪問して、こう言った。「ここでなければ、もっと生徒は集まりますよ。」ある私学の副校長を招き、講演会を実施したときにも同じことを言われた。「こんな場所で、これだけの人がいるなんてねぇ。」 つまり、外部の誰しもが、「この『家』でなければ、もっと・・・」と言い放ち、そして、内部の誰しもが、「この『家』でなければならない」と思い続けていた。幹線道路から離れた通りに面した広い駐車場。さらにその奥に、ひっそりと居を構える、木造の古い一軒家。仮に前を通る人がいたとしても、「こんなところに塾がある」とは思わなかったであろう。だから、愛夢舎の生徒は、ひたすら、口コミで増え続けてきた。愛夢舎を訪れる人は、ふと立ち寄ってみた、ということは皆無であって、塾生に加わりたいという意志をもって、やってくるのであった。 だが、メンバーというより、「愛夢舎」という法人、擬人化した組織の意識の中にはずっとある予感があったにちがいない。「やがて、この場所を離れる。」佐々木は言う。「確かに、愛夢舎を創ったのは自分だが、 もはや、 『愛夢舎』=『佐々木』ではない。」愛夢舎という塾は、確かにひとつの「意思」を持つに至っていた。その「意思」は、もちろん佐々木の意思でもあるが、小田切、鎌田、田中の意思でもあり、また通う生徒やその保護者の意思でもある。さらには、地域の人の意思をも含んでいる。多くの人の「意思」が複合して、ひとつの組織が擬人化する。それが法人である。法人「愛夢舎」は、「一軒家」を離れることを予感していた。それを後押しするように、売却のニュースがとびこみ、決定権をもつ佐々木の背中を押した。 数ヶ月をかけて、候補となるテナントを探した。できるだけの妥協を避けて物件を見回るも、なかなか、「ここぞ」という場所にあたらない。そんなとき、ひとつの不動産業者が話を持ちかけてくる。これからビルを建設する計画がある。5階建てになる予定のそのビルは、入居者が決まり次第、建築を開始する。入居者は当然、ビルの最初の住人になるわけだから、その希望にあわせて、同時に内装工事を進めることができる。予定地の空き地は、近隣の3つの中学校、5つの小学校のいずれからも通える位置にある。それほど広いとは思えないが、間取りをみるに、各フロアに2つから3つの教室は作れそうだ。今の一軒家より、面積自体は減るものの、運営するのに、まあ困らなそうである。こうして愛夢舎は、ついに一軒家を離れることになった。 ~【第32章 移転】へつづく
2010.05.17
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「テスト勉強大会」でございます! 10:00AM~10:00PM・・・12時間いきます!
2010.05.16
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(【第29章】へもどる)学習塾 愛夢舎の校舎は「一軒家」である。が、佐々木の持家ではない。大家が存在する、「借り家」であった。 2000年9月。前の塾を閉鎖し、新しく塾を開校するにあたって、佐々木と小田切が探し当てた物件、それが「一件家」だった。以来、塾としての運営ができるよう、家の内部をさまざまに改造した。家庭用の照明を蛍光灯にしたり、黒板を設置したり、欄間をふさいだり、隣り合わせの部屋を壁で仕切ったり、その逆に、仕切りを取り払ったり。そもそもが「一軒家」であるから、電力供給にも限界があって、年に何度か起こる「停電」は、愛夢舎の風物詩ともなった。校舎が「一軒家」であることに、初めて訪れる人は、さまざまな反応を示す。あるとき、生徒の保護者からこんな話を聞いた。「チラシを見て、ここはいい塾だと思い、 息子を連れてきた。 しかし、玄関に入るとき、 『おやじ、まさかここじゃないだろうな、ここだけはやめてくれ』 と本人が拒否したが、とにかく話だけでもとやってきた。」 入塾した生徒たちは、一様に「一軒家」を気にいってくれた。生徒と講師の距離感はゼロ。奥には台所もあって、これ以上「アット・ホーム」(=家庭において)を体現した校舎も珍しい。 2008年。それは突然訪れた。第三者による伝達だった。 「大家が、この一軒家を売却する予定である。」 愛夢舎の面々は、はじめはなんのことだかよくわからなかった。「この建物が売りに出される? じゃあ、塾は?我々は?生徒たちは?」しかし、売却の情報は真実であったようだ。新しい持ち主が決まって、その持ち主が、この地において「愛夢舎」という塾を続けて運営することを希望すれば、今と大した違いはない。しかし、その持ち主が、この地を「サラ地」にすることを希望すれば、それもその持ち主の自由。そうなれば、我々はここを出ていかねばならないし、校舎たる「一軒家」も残らない。無論、生徒たちの居場所も失われる。 あまりに一方的な通達に、正直、憤りを覚えるメンバーもいたが、佐々木はいきなり、重大な決断を迫られた。もし、新しい持ち主が「一軒家での愛夢舎」を認めてくれれば何の問題もない。生徒にも迷惑をかけずにすむ。しかし、ひとたびその持ち主が「出て行ってくれ」と言えば、佐々木にはどうすることもできない。そして、そうなる可能性は否定できない。 ならば、追い出される前に、自ら、ベストな状態で、他の地に拠点を移すべきではないのか。 が、またしても葛藤に陥る。しかし、この「一軒家」あっての「愛夢舎」だ。もし移動するとなれば、それはおそらく、ビルのテナント。いわゆる「塾」になってしまうであろう。今の愛夢舎を気にいってくれている人たちには受け入れてもらえないのではなかろうか。「一軒家の雰囲気がよかったのに」。そういう声がいまにも聞こえてきそうだった。だったら、新しい持ち主が愛夢舎に好意的であることを、ひたすら祈るか...。 しかし、佐々木は思う。 だが、待てよ。「愛夢舎」は、確かに「アット・ホーム」な塾だ。そう自負している。 では、「ホーム=家」とは、何だ?もちろん、建物も「家」の要素のひとつだろう。でも、愛夢舎が「家」たるゆえんは、きっと、建物ではないはずだ。いや、建物であっては困る。「家」とは「人」だ。愛夢舎は「人」の集まり、佐々木を中心とした講師陣そして、そこに集まってくれる生徒・保護者、支えてくれる、地域の人々。それらによって「家」である。 ならば、建物がビルだろうがなんだろうが、関係ない。このメンバーで「家」をなすメンバーで続けていくことに変わりはないのだから。佐々木は決断を下した。 ~【第31章 新天地 ~べつのかたち】へつづく
2010.05.14
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(【第28章】へもどる)「彼」は、愛夢舎という塾になって2回目の卒業生だった。中学生の頃、背が低いことにコンプレックスを抱いていた彼は、いわゆる「口が達者」な生徒であった。先生に軽口をたたき、放っておけば、塾の経営診断の真似事まではじめる。しょっちゅう矢吹に抱え上げられたり、文字通り「つまみ」出されたりしていた彼だが、身の内からあふれ出る魅力は、そのまま彼の人望となって、多くの「家来」が存在した。 中学部を卒業した彼はある大学付属の高校に進学する。高校生になっても、しばらくの間、愛夢舎通いは続いていた。が、「高校生の授業は、楽しかった中学生のころと違う」という当たり前を理由にして、彼は塾を卒業した。 数年がたった。彼が大学に内部進学したということは、懇意にしている彼の母親から聞いた。 さらに数年後。 彼が大学を中退し、工場で働いているといううわさが流れてきた。うわさは本当であった。一旦は大学に内部進学したものの、周囲の人間のレベルの低さに愕然とし、こんな中で、俺には学ぶものはない、と実に高慢で身勝手な理由で、彼は中途退学した。 彼が愛夢舎へやってきた。もう一度、大学に通いたいという。そして、学校の教師になりたいという。 数年の間に、成功を体験し、挫折を味わい、社会にもまれて、彼はまるで別の人間のように成長していた。 彼は、他の塾生のように授業に参加することなく、あいている部屋で、黙々と勉強するようになった。必要があれば、そして時間があれば、先生に質問をする。文系の彼は、日本史の修得に大変苦労した。日本史専攻の田中先生の指導のもと、本来、「麻酔」となるべき授業なしに、スパルタ式の学習に、彼は耐え続けた。合宿にも参加した。やはり授業は受けなかった。ひとり、個室を与えられ、他の中学生・高校生が先生の叱咤激励の中、合宿を「楽しんでいる」最中も、彼は黙々と机に向かう。食事のときだけは顔を合わせるが、それ以外の十数時間、彼はひとりきり。並大抵の精神力では、昼寝をしたり、ボーっと他のことを考えたり、散歩に出たり、いろいろな「逃げ道」を探したくなるものだ。しかし、彼は、修行僧のように、過酷な環境に自分を置き続けた。 彼が愛夢舎で勉強をしはじめて1年。彼は、一般受験で、大学合格を果たした。完全に、彼が自分自身の力だけで勝ち取った合格だった。彼は周囲の人間と交わした約束、そして、自分が自分と交わした約束、その約束を守った。早稲田大学国際教養学部。早大生となった彼、市原郷史は、自然と愛夢舎のスタッフに加わった。~【第30章 家】へつづく
2010.05.13
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残念ながら、鎌TやタナTのことではありません(笑)。 愛夢舎1期生のN君が7月に式を挙げることとなりました! 彼は本当に思い出深い生徒の1人です。 開校当時1人(だったけな?)しかいなかった中2生に誘われて無名の我が塾に来てくれました。 入塾後の「右肩上がりの成績アップ」は、今でも我が塾の「伝説」となっております。 高校受験・大学受験の勉強を愛夢舎でがんばってくれました。高校は県立上位校に進学し、大学は現役で国立に、そして、超有名証券会社に入社。 「エリート」という言葉がそのまま当てはまってしまうかも。 そんなN君の結婚式に、私と副塾長もご招待いただきました。 是非とも行かせていただきたいと思っております。 ただ、土曜日なので、私は授業バリバリ(苦笑)! 塾生のみんなには迷惑を変えてしまうかもしれないけど、 代講や振り替えで調節させていただけるとありがたいです。 このジュクチョウのワガママを聞いていただけると幸いです・・・ ジュクチョウ
2010.05.13
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8:30PM現在、4クラスが授業中(4教室)、自習スペースが受験生と定期テスト前の中学生で満席。 自習組の座席が足らず、講師席(塾長席含)も稼働中(笑)。 講師も7名で指導中!
2010.05.11
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(【第27章】へもどる)2007年3月。第8期となる愛夢舎の新年度は、専任講師3人体制で始まった。「3人」で「回らない」わけではない。そもそも、始めた頃は佐々木、小田切、矢吹の3人だった。当時とは、生徒の人数は比べようもなく増えているが、その代わり、技術力も上がっている。実際、3月中は、3人と時間講師の中島で、すべての授業を担当した。しかし、佐々木は「4人目」を採用することを決めた。佐々木の頭の中には、愛夢舎発展の構想がある。それは、何年も前に築き上げたもので、多少のズレはあったものの、おおむねその構想どおりに進んできた。つまり、矢吹が去ることも、三輪が加わることも、鎌田が戻ってくることも、すべて佐々木の構想どおりであったのだった。そして、その「発展の構想」には、「4人」という人数が必要であった。 2月。鎌田は東京・新宿のとある会社に向かった。そこは、かつて人材紹介・派遣会社に勤めていた頃の鎌田の同僚が独立して起業した、教育業界専門の人材紹介会社であった。かつての鎌田の盟友が、社長を務める。鎌田は社長と直接会談し、愛夢舎に見合う人材を手配してくれるよう、依頼した。実は、これ以前にもいくつかのルートから、愛夢舎で専任講師として勤務することを希望する者はあった。来るもの拒まずの姿勢で、佐々木が面接をし、模擬授業を行い、実際の授業を見学する。だが、実際に専任講師として勤務を始めた者はいなかった。選考、試用期間の間で、みんな言うのだ。「私には、ここでの仕事は難しすぎます。」「自信がありません。」「重すぎます。」と。佐々木、小田切、鎌田の3人は、長くキャリアを積んできた。3人とも、元は教室長である。つまり、その辺の塾の「校長」が3人そろっていることになる。知らず知らずのうちに、愛夢舎での勤務を希望する講師にとってはものすごく高いハードルを作ってしまっていた。そこで鎌田は紹介会社にある注文をつけた。愛夢舎が「重く」感じられるのなら、初めから「重い」ことを覚悟した人に来てほしい。専任講師として採用するのだから、それは将来、幹部的な位置につくべき人であってほしい。鎌田は、この「愛夢舎ヒストリー」を社長に手渡し、愛夢舎に興味があるという候補者に読ませるよう、指示した。愛夢舎のこれまでの成り立ちを知ってもらうには、これを読んでもらうのが早い。 2月の依頼から、一ヶ月が経った。経過は、鎌田の予想どおりであった。愛夢舎での勤務自体には、多くの人が興味を示す。「ああ、それこそ自分の理想としていた教育です」と、みんな言う。しかし、ヒストリーを読むと、やはり言う。「自分にこれはできそうもない...。」要するに、彼らにとって、確かに愛夢舎は「理想の教育現場」であったのだろう。だが、その中にいざ自分が飛び込むとなると躊躇してしまう。 4月末。会社の社長から、鎌田に連絡が入った。「希望者がいます。全部話した上で、ほかの大手と比較しても愛夢舎でやりたいって言ってます。」 所沢在住だという28歳の彼は長く個別指導の塾で勤務してきたという。校長からの信頼も厚く、実質、その校舎の「ナンバー2」であるとのこと。「ならば、その塾で社員として働けばよいではないか」と思うのだが、どうも彼はそこでは飽き足らず、より自分のイメージする理想の環境を求めているようだ。大手進学塾で勤務した後、最終的に自分で塾をつくることも考えていたという。そう、ベンチャー志向の人物だった。学歴も高く、年齢もほどよい。経験もある。これは大手も放っておかないだろう。面接を終え、彼からの返事を待つ佐々木はほかの塾に行ってしまう可能性も感じていた。しかし、彼は、愛夢舎を選んだ。 2007年5月。1週間程度の試用期間を経て、「もう、正式採用でいいだろう」という佐々木の決定を受け、彼は愛夢舎メンバーに加わった。田中健一。最初の仕事として、バーベキュー大会の火起こしをする彼の姿があった。 ~【第29章 彼】へつづく
2010.05.11
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中間テストが迫ってきました! F中 あと 10日! K中 あと 16日! M中 あと 27日! 5月16日(日)は「大勉強大会」愛夢舎のオープンはAM10:00!
2010.05.11
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こんにちは、鎌田です先月、こんな「ラー油」に関する記事を書いた。それで、↓ コレを手にいれたことを書いた。エスビー食品のコレは、まあ、まずくはなく、どちらかといえばおいしい・・・でも、別に毎日食べなくてもいいかな・・・という感想であった。 今日、つい先ほど、保護者のMさんが塾に立ち寄ってくれて、「鎌田先生、ハイっ!」って、↓ コレをくださった。おおお、いまや入手困難No.1の食品本家本元の「桃ラー」ぢゃないですかぁホンモノを見るのは、僕も初めてだぁ。 「桃屋」の「辛そうで辛くない少し辛いラー油」、愛称「桃ラー」は、供給がまるでおいついておらず、そのへんのスーパーでは品切れがずっと続いている大人気商品だ。あまり深くを語るとご迷惑がかかってしまうので結論だけ書きますと、「裏ルート」で入手してくださったありがとうございます。 さっそく、今日のおひるごはん、先生たちで試食してみた。うむ。エスビー食品のものより、ラー油の部分が多い気がする。エスビーは、もっとジャギジャギで、そのまんま食べている感じだから。 まず、塾長が食す。「おっ!ウマイ!!」 そして、田中先生。「あ、おいしいっ!!」僕も、そうですね~、エスビーより桃屋の方がおいしいかな。あ、小田切先生は、おそばだったのと、「辛いものはニガテ」ということで、ほんのちょっと味見しただけでした。 それにしても、先日の「ミドリムシクッキー」といい、「桃ラー」といい、どうも最近、みなさんが気をつかってくれてる感が強い。本当にありがたい限りなのですが、みなさん、落ち着きましょう。僕が、ミドリムシミドリムシとぎゃあぎゃあ騒いでいるのは、ぎゃあぎゃあ騒ぐこと自体が目的なのであって、誰もが騒ぐことを騒いでもおもしろくないので、どーでもよさ加減が強いものについてぎゃあぎゃあ言っているのであって・・・。・・・ま、いいかちなみに、ミドリムシの方は、おかげさまで、この2~3日で愛夢舎内で話題の中心となっております。これが、ブームをつくる、ということです。Kama
2010.05.10
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(【第26章】へもどる)2006年。愛夢舎は安定期に入ったかのように思われていた。佐々木を筆頭に、小田切、鎌田、三輪の専任4人体制も3年を超え、大学生になると同時に時間講師をはじめた中島も、担当授業数は少ないが、2年以上のキャリアを積み重ねてきた。生徒とクラス数の増加に伴い、中島以外の時間講師の採用も行った。単純に、授業が埋まらなくなったからではない。物理的に授業を行うだけだったら、時間講師の採用は必要なかった。ただ、体制が落ち着いてきたことによって、佐々木はもちろん、小田切、鎌田あたりまではできるだけ管理業務に専念する時間を確保することを目的に、自分の授業をほかの講師に任せていったのである。佐々木個人で言えば、これまでほぼ全学年の英語指導にあたってきたが、「塾長」としての業務に集中すべき時期がきたのかも知れないし、将来を見据えた上で、自分たちの「後継者」を育てていきたい、そんな思いもあったのだろう。 2006年12月。専任講師・三輪の両親が突然佐々木の元を訪れ、状況は一変した。4人の職員のうち、佐々木は埼玉出身、小田切は東京出身で、ともに家庭を持ち、自宅に暮らしている。一方、鎌田は長野出身、三輪は愛知の出身で、両親を実家に残し、埼玉では一人暮らしを長く続けていた。考えてみれば、三輪の様子は、この年になった早々からおかしかった。日々の仕事になかなか集中できず、自らの体調を崩すことも多かった。40度近い高熱を出して、授業直前まで病院に入院していたこともあった。単純に言えば、三輪は長く悩んでいた。実家に残してきた親の調子が良くない。冬期講習もせまった12月のある日、愛知から三輪の両親が佐々木に会いにやってきた。三輪の進退について、本人も含めて相談するために。三輪本人の意志としては、志なかばで退職することをよしとしていなかった。元々体育会系の人間である上に、大手進学塾への就職を蹴って来たほど、愛夢舎にほれ込んでいた。このまま自分の好きな「塾」での仕事を続けるべきか、長男である自分が親元に帰り、両親の面倒をみるべきか。 2007年になって、三輪は退職を決意した。 彼の最後の仕事は、今面倒をみている受験生を最後まで見送ることだった。辞めざるを得ない状況は、昔の鎌田と似ていたかも知れない。その鎌田は三輪に当時の状況を語り、受験生に自分の精一杯をぶつけることで「やり残し」を作らぬよう、語った。かといって、自分がいなくなることを知ることで、受験生に余計な不安、気持ちの乱れを与えたくない。あくまでも平常心で、試験会場に向かってほしい。三輪は、自分の辞意を生徒に悟られることのないよう、普段どおり・・・いや、これまで以上に熱心に指導にあたった。佐々木、小田切、鎌田の3人は、先のことも考えてのことではあるが、三輪への最後のはなむけとして、できる限り、彼が生徒指導に専念できるよう、三輪が抱えるその他の業務を担っていった。 2007年2月末。いよいよ明日は県立高校入試というその日、夜10時まで全力投球で生徒指導にあたった三輪の業務は終了した。「ふぅ~~~っ!」三輪は大きな息をついた。既に地元・愛知の塾で勤務することが決まっていた三輪は、数年後、成長したあかつきには残る3人と再会することを誓い、愛夢舎を去っていった。目に涙をためながらも、彼は笑顔であった。最後の最後まで、生徒たちに心配をかけぬよう、自分の思いをひた隠しに隠した、見事な去り際であった。 3月。受験を終えた生徒たちは塾に報告にやってくる。愛夢舎にはすでに、三輪の姿はなかった。 ~【第28章 変革・再生】につづく
2010.05.10
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(【第25章】へもどる)かつての生徒であった中島からのハガキは、ただ「お元気ですか?」というだけの内容だった。しかし、郵便配達員さんの心遣いに運命的なものを感じた佐々木は、中島に連絡をとり、数年ぶりに会うことにした。 所沢で待つ佐々木、小田切、鎌田の前に現れた彼女は、当時よりいくぶん大人っぽくなったものの、基本的に、以前と変わらぬ雰囲気だった。 中島は、浪人中であった。 偏差値70の有名大学付属高校に合格を果たしたものの、中島はそれを蹴って、都立高校に進学した。彼女の高校は、地域ではトップクラスのところであったが、公立高校の限界か、多くの生徒が浪人する結果となる。彼女もまた、自分の愛する塾が崩壊し、勉強の場を失い、現役での大学進学は成らなかったのであった。 所沢で、ひとしきりお互いの近況報告をし、中島の現状を知った佐々木らは、彼女に最大限の協力をすることを約束した。 「彼女の今の姿には、自分たちにも責があるやも・・・。」 佐々木はそう考えたのかどうか・・・。 程なく、愛夢舎で勉強する中島の姿が見られるようになった。ただ、彼女は授業に参加したわけではない。「授業」は、受験勉強においては、その苦労をやわらげるための「麻薬」のようなものである。「授業」で、楽しく、分かった感を感じ、理解のきっかけをつくり、あとは自分で復習、問題演習を繰り返す。結局、得点力を伸ばすのは、自らの努力にほかならない。言い方をかえれば、授業を受けずとも、ひたすら問題集、参考書と向かうだけで、十分学力は身につく。ただ、それには強靭な忍耐力が必要になるだけ。 中島は、ひばりヶ丘在住であった。にも関わらず、武蔵藤沢まで毎日のように足を運び、ほかの生徒と関わらないよう、奥の部屋でコツコツ勉強をすすめる。佐々木、小田切らが授業の合間に様子を見に来て、まとめて不明点を質問する。家や図書館でもできそうな方法であるが、中島にとって、佐々木らの見守る中で勉強すること自体が重要だったのかも知れない。だとすれば彼女の「時計」もまた、動き始めたと言える。 3月。中島は浪人生活にケリをつけ、大学に進学することになった。 と同時に、新たな先生、「中島先生」が誕生した。 どういうわけか、愛夢舎に通う生徒たちは教育関係の仕事に興味を持つようになることが多い。いつの頃からか、中島も塾での勤務を希望するようになっていた。 素養があるかという点と、授業ができるかという点は、また別の次元の問題だ。しかし「素養」という意味で言えば、中島はある意味、佐々木らの教育理念を体感し、誰よりも理解している一人であった。 中島は、愛夢舎初の時間講師として、長く勤務することになった。また、これを皮切りに、愛夢舎では時間講師の採用を行うようになっていく。 2008年の現在に至るまで、中島を含めて4人の時間講師が勤務してきた。 東京大学を卒業し、法科大学院に通いながら、何年も司法試験の合格を目指す者。商社就職の内定を勝ち取った後、卒業までの残りの時間を、人と接し、自分を育てることに充てた大学4年生。そして、中島同様、愛夢舎で受験勉強をすすめ、やはり学校教員を志望し、大学入学と同時に勤務をはじめた卒業生。 タイプはそれぞれ異なったが、佐々木が採用を出す共通点がある。 それは自らが夢に挑戦していること。生徒に夢を実現することを語るのに、自らが夢を持つことは、佐々木にとって最大のポイントである。 採用に至らなかった者も数多くいた。 一旦、愛夢舎の教育理念にあこがれをもち、「こんな教育が理想だったんです!」と、目を輝かせてやってくる。しかし、現実の姿を見ると、「自分には、これは重すぎて、とてもできる自信がありません・・・。」と、数回の見学で辞退していく。 佐々木の方から不採用を言い渡したことは、実は、一度もない。 見ればみるほど愛夢舎が好きになっていく。そういう人たちが、講師として勤務に入る。共通しているのは、夢を追う人たちであること。愛夢舎は、講師採用においても、来るものをこばまない姿勢をとっている。 ~【第27章 そして、彼は去っていった】につづく
2010.05.09
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こんばんは、鎌田です高校生のMさんが、やってくれましたよ~~!! ミドリムシクッキー!!彼女の通う高校がSSH(スーパーサイエンスハイスクール)なもんで、その行事で、日本科学未来館を訪問し、そのおみやげで買ってきてくれました。ありがと~~~~彼女が袋から箱を取り出した瞬間、愛夢舎は一気にテンションが上がった僕だけじゃないよ。中学3年生の2人のYさんとか、文字通り、歓声を上げた。ミドリムシ、テンション、あがるわ~~~~。 箱には、「世界を救う!?未来の食べ物!」って書いてある。ミドリムシが世界を救っちゃうんだぞ~。 さっそく、その場にいた人たちで試食してみた。ミドリムシクッキーには、1枚あたり、2億匹のミドリムシが入ってる。 2人で半分ずつ食べたけど、これで1億匹分。6人で、合計3枚を食しました。 ミドリムシ、6億匹、瞬殺!(いや、だから、クッキーになった時点で死んでるって…) 味の感想は、なんつーか、非常に甘さ控えめでございまして、僕にとってはありがたいものの、もう少し味があっても良いかなぁ。ミドリムシの味は、ミドリムシそのものを食べたことがないからわからないけど、特に、「おお、ミドリムシだぁ」とは思わなかった。でも、一緒に食べたYさんが、「なんかがいるような感じがする」と感想を述べていた。 買ってきてくれたMさんは、メチャメチャテンションの上がってる僕らをみて、「・・・なんなんですか、この塾は」とあきれておりましたが。 なんていいましょう、例えば、僕であれば、さっきまでの自分の認識領域にミドリムシクッキーの味はなかったわけで、つまり自分の外の存在であったわけで、でもこれで、ミドリムシが僕の領域の中でひとつの範疇(カテゴリ)を形成するに至り、それは僕の中にミドリムシが飛び込んできたともいえるが、むしろ、僕がミドリムシに歩みより、僕という実存がミドリムシの世界にまで広がったともいえる。つまり、「僕」が拡大したといえ、それは非常なる喜びであり・・・・・・っていうことを力説したのですが、どうも、わかってもらえなかったようです。 1日1枚、1週間で7枚食べると1週間で14億の命が僕らの糧になるわけだ。本当に食糧事情が悪くなってあるいは、雪山登山なんかにいくとき、ミドリムシクッキーが流行して、1日10枚を食べると、3日で60億の命をいただいたことになる。人で言えば、地球の全人口を食らったことになる。 ・・・今、中島先生が説明書をみて、「へぇ~、アミノ酸が全部入ってるんだぁ・・・」と理系らしい感想を述べているが、そんなことは、僕にはどーでもいい。ミドリムシクッキー、ばんざい!Kama ・・・すいません、テンション上がりっぱなしで書いたら、なんか、アタマがおかしい人の記事みたいになっちゃった・・・。
2010.05.08
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(【第24章】へもどる)2003年秋。 鎌田が愛夢舎に加わって数ヶ月が経った。前の会社を退職した鎌田は、およそ一ヶ月の充電期間を自ら設けて、実家で過ごした後、夏期講習会から「塾講師」として復活した。いきなり、朝から晩まで一日7~8コマの授業、そして、彼の塾業界での「時計」が止まった夏期合宿と、あれよあれよという間に流れていき、秋にはすっかり「塾屋」としての感覚を取り戻していた。 佐々木、小田切、鎌田の3人がそろったことで、「当時の話」に花が咲くのも無理はない。当時を知らぬ三輪が「へぇ~、すごかったんですね。」と耳を傾ける。そんな場面が授業後の校舎でよく見られるようになった。昔話の中で、当時の生徒の話題もよく出てくる。当時の中学生も、もう大学生になっている年齢だ。ひとりひとり名前を思い出しながら、話に花を咲かせた。 あるとき、郵便局から連絡があった。佐々木宛に一枚のハガキが来ているという。 夜逃げ同然の形で引っ越してきたため、愛夢舎の住所は、以前の塾の関係者には知られていない。だが、ハガキの差し出し主は昔の生徒であった。 中島典子。佐々木、鎌田がひばりヶ丘で、高校合格まで面倒をみていた生徒である。その後、母体が倒産し、各校舎単位での経営となってからも、元社長のそばで、彼女が高校2年生になるくらいまでは、ひばりヶ丘の塾に通い続けていたというウワサを聞いている。なぜ突然・・・。どうやって、愛夢舎の存在を知ったのか? 佐々木がまず思ったのは、元社長が仕組んだ「罠」ではないか、ということだった。佐々木には塾の外部に「仲間」がいた。佐々木と同時期に独立し、同じように元社長のコンサルティングを受けながら塾経営をしてきて、やはり元社長との闘争に踏み切った同志たち。聞けば彼らは、元社長の執拗ないやがらせに嫌気がさし、結局示談金を支払ったり、何の損害だか分からないが、「賠償金」という名目で金銭を支払ったりしていた。この部分については、佐々木だけが被害を受けていなかった。今頃、元社長は「佐々木からだけ、金を取れていない」と、キリキリ舞いしているかも知れない。「佐々木はどこに行った?」と。そこで、なんらかの手段で今の所在を発見し、中島を使って探りを入れてきたのかも知れない。まだしつこく追ってくるのか、あの男は・・・。一瞬そんなことを思った佐々木ではあったが、ハガキの主が、あの中島である。誰よりも佐々木に懐き、自己をしっかりと持った、やけに大人びた中学生であった中島が、そんな姑息なことに手を貸すとは考えにくい。また、鎌田は元社長が実は「小物」であったことを知ってしまっていた。塾で働いていた頃は、社員の掌握の仕方や様々な演出によって、なるほど「スゴイ人」であるように思っていた。鎌田のみならず、働く全社員が「社長には逆らえない」と思っていたフシがある。しかし、塾を離れ、大手塾がひしめきあうような「業界」の中で過ごす中で、元社長の卑小さがどんどん明らかになっていったのである。業界内で、どれほど彼の名前が知られていないことか。また、知っている人がいたとして、どれほど「大したことないヤツ」として扱われていることか。どれほど業界内での影響力がないことか。所詮、町の小さな個人塾の塾長としての位置づけでしかなかった。 そこで、佐々木は郵便局に連絡をとって、ハガキを受け取ることにした。 真相はこうであった。中島がハガキを出した宛先は、前の武蔵藤沢校であった。当然そこに佐々木たちはもういない。普通なら「転居先不明」で、返送されるはずであったが、配達係の郵便局員さんが、たまたま佐々木の名前に見覚えがあった。 「佐々木さんって、確か別のところで塾をやっていたような・・・。」そこで、局員さんは親切心で、「もしやお宅ではありませんか?」と知らせてきてくれたのであった。 なんという偶然。もし配達員がほかの方であったとしたら、ハガキが手元に届くこともなかったろう。もしその配達員さんが、「佐々木圭」の名前を忘れていたとしたら、それはそれで、ハガキは返送されていただろう。 佐々木の言うことの裏づけのようであるが、これを偶然と呼べるだろうか。こうして、中島は「必然の運命」として、佐々木との再会を果たすことになった。 ~【第26章 先生】につづく
2010.05.08
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こんにちは、鎌田です愛夢舎の先生たちは、遅めの昼食をとりますだいたい午後3時から4時の間。ちなみに、僕と佐々木塾長は、この「昼食」と、仕事が終わってからの「夕食」の1日2食のペース。小田切副塾長と田中先生は、健康的な1日3食。今日のおひるは、所沢の定食屋さんに出前を注文しましたよ↑ 田中先生の頼んだもの。どうやら、1枚のお皿に全部のっかってくるとは思っていなかったようですが。「ジャンボ盛合せ」メニューの中から「とんかつセット(ロースカツ、野菜イタメとライス)」。・・・・・・巨大であるこれ、確実に2食分、ありますよね食べてるのを見てるだけでこっちが気持ち悪くなりそう・・・さしもの田中先生も、このボリュームには参ったようで、最後は小田切先生にヘルプ要請。まぁ、しかし、それでもよく喰うわ。思わず聞いてしまった。 「朝ごはんも食べたんだよね?」 すると、田中先生は事もなげに答える。 「いや、朝はちょっとだけですよ。 パンだけです。 バターロール7個。」 ・・・ どーして太らないんでしょう、この人?Kama
2010.05.07
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こんにちは、鎌田です大盛況のバーベキューから1週間。昨日まで、愛夢舎もゴールデンウィークでオヤスミをいただいておりました本日から営業開始。さっそく、何名かの生徒が自習しにきてくれましたよさて、オヤスミ期間中は、僕らスタッフはそれぞれ別行動をしておりました。(←当たり前だ…)塾長佐々木と田中先生はかねてからお付き合いの続いている岐阜県の「つばさ塾」さん、その塾長であるがっきーさんをたずね、新幹線でお伊勢まいり(←寄ってないらしいが)、三重県まで1泊旅行。もう、大変密度の濃い時間を過ごしてきたようです。小田切副塾長は、家族サービスでもって、富士急ハイランドに出かけたとかい~なぁ~。で、僕はですね、長野の実家に帰省しておりました。ビョーキのこととかで、両親には心配をかけたので、今後はできるだけ頻繁に親元に帰ろうと思っています。 ・・・んが。どーせ、4日と5日は道路が渋滞するだろうとふんで、3日の夜に上信越自動車道にのって、関越道~圏央道を目指し・・・ ・・・くらいました45キロの大渋滞・・・・・・45キロかと思ったら、どんどこどんどこ、ブツぎれだった渋滞がつながっていって・・・。結局何キロの渋滞だったのか・・・・。つかれました・・・・ さて、今日から本格的に愛夢舎始動です。早くも2週間後には、一発目の定期テストがせまっています。おやすみ気分はここまでだぁ~~っKama
2010.05.06
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