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こんばんは、鎌田です本日、4月29日、飯能河原おいて愛夢舎恒例の「バーベキュー大会」を実施いたしました急な場所の変更にも関わらず足を運んでいただいた生徒・保護者皆様、ありがとうございます 12時の開始にあわせて、塾長佐々木と僕は、午前10時に武蔵藤沢を出発。車を走らせて、わずか10分後、フロントガラスに水滴が・・・雨だ・・・しかも、かなり本降り・・・。 むむ、愛夢舎史上初めて、バーベキューの中止となってしまうのか・・・ ・・・なーんて心配は、僕らはしません。なんてったって、ウチにはアラー小田切がいる(↑別に驚いているわけではありません太陽神です)かつて、富士登山においても発揮されたスーパー晴れ男パワー小田切大明神からアラー小田切に昇格したその神通力をもう、僕なんかはまるで信じきっていて、途中、生徒から「雨、降ってますけど、やるんですか・・・?」と問い合わせの電話が入るも、まるで心配しません。 結構なザーザー降りが続きました。しかし、開始予定の12時。 すっかり雨は上がり、それどころか、カンカン照りの様相。 ほらみろ、ピーカンだ。さすがアラーの神ここまで来ると、もう偶然ではありませんよ~。今日は、生徒だけでなく、多くの保護者の皆様がかけつけてくれました。ご家庭の道具をお持ちいいただいたり、差し入れをお持ちいただいたり。多くの御心遣いをいただきましたよ♪ 今年はスタッフも多くなって、僕の感想としては、過去最高にバーベキューらしいバーベキューができました。なんていうか、落ち着いてお話ができた。↑ こちら、市原郷史先生と、石塚さん。コンビで手際よく、調理をすすめる。なかなかやるでないか↑ 市原綾馬先生も、負けておりません。ひとり、たくましく、どんどん肉を焼きあげていきます。もちろん、ベテラン勢だって負けてません。↑ 田中先生は、スモークチーズをお皿にアレンジメント。ニクい演出だねっ、このっ!!今泉先生も中島先生もみんなキビキビと働いておりましたよ。 おかげで、今回は僕はコンロの前にほとんど立つことなく、写真をまったりとりながら、過ごすことができました。 ・・・サボってる? ・・・じじい? 意味わかりません 生徒たちの食欲は、やっぱりすごい。肉が焼け始めたとなると、もう、↓ この状態です。四方八方から出てくる箸は、決して料理のお手伝いをしているわけではありません。むしろ、ジャマしてますしょーがないよねー、若いんだから。 ・・・っていうか、人数が多いんだから。ええ~、今回お集まりいただいた方は、小田切副塾長のカウントによると・・・。 92名! 過去最高数です。 えっとですね~92名は、バーベキューをまったりやるレベルの人数ではないのではないかと、僕はそう思うわけなんですけど~、だって、それって、サッポロビール園とか、そういう規模のハナシでしょう?その辺のファミレスの定員より多いぞ、きっと。 ちなみに参加費をいただいております。おひとりさま500円。 ・・・書きたかぁないが、一応書いときますが、スーパー大赤字です。 いーんです、普段、愛されてる愛夢舎からのほんの恩返しでございます。・・・って、佐々木が言ったかどうだか・・・。 ちなみに、ちなみに、用意した食材は、お肉だけで16キロ。 ・・・ ギャル曽根でも、さすがに食えんだろう、これは。 でも、あっという間になくなりました。むしろ、少々足りない感じになっちゃって・・・。 ナメてました。ええ、ナメてましたとも。 でも、生徒たちも概ね楽しんでもらえた様子。中には「花よりダンゴ」の子も多くいて・・・ ↓いいですね~。川遊びにたわむれる子どもたちを見ていると、なんか、こっちの気分がいやされていきます。本人たちは、「着替えをもってくればよかった~」とか言ってましたが、中には、用意周到、ちゃんと着替え持参の子すらいた。こうして、あれよあれよという間に時間が過ぎ、気がついたら午後4時。ひとしきり食べて、遊んで、しゃべりつくして今年のバーベキューは幕を閉じました。 ・・・92名か。 もう、100人、目前だなぁ・・・。 100人超えたら、お肉、何キロ買えばいいんだろう。っていうか、どこで実施すりゃいいんだ? まあ、それはまた来年考えるとして。参加していただいた方々、僕らも楽しい時間を過ごさせていただきましたよ~。ありがとうございまーす。Kama
2010.04.29
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(【第23章】へもどる)2003年7月。 鎌田は7年近く暮らした「ひばりヶ丘」を離れ、武蔵藤沢に引っ越した。引越しには、佐々木、小田切、三輪がかけつけた。 数ヶ月にわたる相談を経て、鎌田は佐々木と小田切の下に「返る」ことにした。(Zapping⇒⇒⇒【Kama Final 時間は動き出す】へジャンプ) 愛夢舎の経営状態は、佐々木から逐一聞いていた。自分が行くことで、佐々木、小田切にはもちろん、新人の三輪君にも負担をかけることになるのは分かっている。それでも、佐々木は何年経っても「ウチにおいでよ」と鎌田に言い続けた。小田切と三輪も、鎌田が来ることになったことを知ったとき、普通に歓迎した。それが、鎌田を呼び戻す結果となった。 こうして、愛夢舎は専任4人体勢となった。一教場の学習塾に専任が4名。企業人として、多くの学習塾の経営事情を見てきた鎌田にとって、それがどれだけ異常な状態であるか、計算するまでもなく分かった。愛夢舎を続けていくには、愛夢舎が発展するしかない。生徒が集まって、校舎を増やし、先生も増え、みんなが幸せになる。そのために来てくれ。佐々木が鎌田に与えた問題は、とても難しいものだった。 このときから、鎌田は頻繁に「時計が動きはじめた」という表現を使う。例えば鎌田にしてみれば、やり残したその続きが始まった。以前の塾にいた頃、実は鎌田は、自らが面倒を見続けた生徒を卒業まで送り出したことがなかった。新人として「ひばりヶ丘教室」に配属となり、およそ一年、受験生をはじめとする生徒を指導し続けたが、受験直前、清瀬教室に異動となった。次の年、清瀬の生徒の面倒を見てきたが、やはり受験直前で校舎が閉鎖となった。小田切とともに新所沢で生徒指導にあたったときも、夏を過ぎたと同時に、社を離れる結果となった。他の会社で活躍を続けても、彼の中の時計は当時のままであった。愛夢舎に来ることで、その「止まった時計の針」が再び動きはじめた。 不思議なもので、動きはじめた「時計」は、愛夢舎全体を巻き込んだようである。佐々木と鎌田と、ふらりと立ち寄った店で、大分昔、以前の塾で佐々木がお世話になった先輩との縁が戻る・・・。あるとき塾を訪れた方が「姉があの塾で大変お世話になったんです・・・」と、実は昔の「よき時代の塾」の理解者であって、佐々木らが「あの塾」の残党だということも知らず、偶然のように、愛夢舎にその弟が入塾してくる。時は前後するが、近隣の中学校の体育祭に出かけると、小田切、佐々木が新所沢で指導していた生徒が、教師として活躍している・・・。 ウソのような話であるが、佐々木、小田切、鎌田が、以前同じ塾で勤務していた頃の「時間軸」に戻ったかのように、環境が酷似してゆく。一点違うのは、当時のようにベクトルが破滅の方向を向いているのでなく、発展のベクトルであったこと。そこから1年程度の期間で、生徒は倍増することになった。 佐々木はよく言う。「世の中に『偶然』なんていうことはない。必ず『なるべくしてなる』ものだ。」 鎌田が塾に「復活」して数ヶ月後、愛夢舎は、さらなる「必然の再会」を果たすことになる。校舎を飛び越えて、唯一、鎌田が自分で卒業させたと認識し、佐々木が何年経っても、やはり気になり続けていたある生徒との再会・・・。 ~【第25章 郵便屋さんの贈りもの ~なかじ】につづく
2010.04.28
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明日は愛夢舎1番人気企画「BBQ大会」! 参加予定人数が80名を超えそう・・・ スゴイうれしいけどごった返しそう(笑)。(大丈夫かな・・・) 天気も心配ですが、明日の予報は晴れ? 副塾長の「晴れ男」に期待します。 ジュクチョウ
2010.04.28
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(【第22章】へもどる)1999年9月。鎌田は佐々木、小田切の残る倒産直前の「塾」を退職した。(Zapping⇒⇒⇒【Kama.1 先生を育てる】へジャンプ)「塾」を離れた後、彼は他の塾へ就職しようとは、微塵も考えなかった。前の塾以外で教えるつもりは、全くなかった。教育業界には残ろうと思った。そして、今度は「先生を指導する立場」に興味を持った。ひとりの講師が教えられる生徒は、せいぜい同時に数十人であろう。しかし、自分が10人の教師を育て、彼らがそれぞれ10人の生徒を育てたら、100人の生徒が育つことになる。そう考えた鎌田は、教育業界専門の人材サービス会社に就職したのだった。 全生徒数が50000名を超える、全国チェーンの学習塾経営を中心とする、社員800名の総合グループ企業。(数値は当時のもの)その中で、鎌田は本社傘下において新規事業となった子会社の創立メンバーとなった。当時の社員はわずか5名。親会社が大きいといっても、鎌田が所属する子会社はベンチャー企業もいいところだった。 2003年4月鎌田は28歳になっていた。会社は平均的な黒字経営が続くようになった。社員も30名まで増えていた。ここに至るまで、営業、人事、企画・システム開発ほか、およそ経理以外の全ての部門に関わり、会社の基礎を築いてきたのが鎌田だった。いざ会社が軌道に乗り、鎌田にはコンピュータシステム管理部門の責任者のポストが用意されることになった。 ただ、彼本人は、コンピュータ業務をしたいわけではない。あくまでも「教育業界」にいたかったのである。それに、ここに至るまで、会社の全部門を築いてきた。 地盤もでき、落ち着いたので、もう、平安に暮らしなさい・・・。 おそらく会社が用意したポストは、鎌田の功績を認めた上のものであったろう。これからは、もう少し楽をして、その代わり「管理業務」を中心にやってくれ、と。 鎌田は、この会社で自分がやるべきことが終わったことを感じていた。もう自分がいなくても、この会社は勝手に成長していく。社員もどんどん増えていくだろう。自分も、「このイスに座っていれば給料がもらえる」そんな役割を過ごせばよい。だが・・・。 過去に「塾」を辞めるにあたって、鎌田には両親に頭を下げた経験があった。それゆえ、せっかく入った比較的大きめの会社での「安定」を、簡単に捨て去ってよいものか。 前は「『自分のやりたいこと』なんて、勝手だ」と叱られた。自分にはまだ「自分のやりたいこと」を追う資格があるのだろうか。第一、今の会社に大きな不満があるわけではない。仕事以外にも目を向けて、楽に暮らしていけばいいじゃないか。 さまざまな葛藤が彼を襲った。内臓に神経性の炎症を起こし、体重も激減した。 自分には、まだやり遂げていない、他にやるべきことが残っている。だから、この数年間、休日を返上して「出かけて」いったのではないか。まだ自分の中では「完結」していないのだ・・・、いや、何を考えている、この座を捨てるのは「愚の骨頂」だ、誰がどう考えてもアホな行為だ、やめておくべきだ・・・だが・・・。 あるとき、独身にも関わらず、30歳にして都内にマンションを購入した同僚が、酒の席で鎌田にぼやいた。「あ~あ、家、買っちまったしなぁ・・・。あと30年、これを続けなきゃなんねぇんだよなぁ・・・。」 28歳の鎌田は、迷いを断ち切った。 ~【第24章 そして彼らは集まった ~Reunion。時計は動きはじめた】につづく
2010.04.28
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(【第21章】へもどる)2002年12月末。矢吹の辞意を受け、愛夢舎の面々は新しい講師探しに入った。学校教員や塾講師の採用活動を主業務としていた鎌田にも協力を仰いだ。鎌田は鎌田で、自身の培ってきたコネクションを利用し、人材探しの一助を担った。鎌田は佐々木に、いくつかの募集手段を提案してみた。かつてのような大規模な採用活動は到底できない。時間もない。提案した鎌田自身も効果については半信半疑だったが、佐々木が試した手法は、Webによる講師募集であった。現在は関連のサイトが多く存在するが、当時は数える程度しかなかった。講師を目指す人にとって、それらがどれほど認知されているものか、鎌田も大して期待はしていなかった。佐々木の書いた原稿がWeb上に公開された。果たして、5名ほどの応募者が集まった。意外と効果があるもんだ。佐々木以上に、鎌田が感心していた。 「応募」⇒「書類選考」⇒「試験」⇒「面接(複数回)」これが企業組織の一般的な採用までの流れであろう。しかし、愛夢舎では応募者に対して、これとほぼ逆の流れで採用活動を進めていく。すなわち、まず面接を行う。このときも同様で、それは時間がなかったからという事情からだけではない。数千人の応募者から採用者を絞り込む「新卒採用活動」。その中心となって数年の経験を積んできた佐々木にとって、面接の重要さは、他の選考試験のどれをもはるかに上回るものであった。またそれは、人事専門企業に身をおき、毎年数千名もの学校教員志望者の面接を行ったきた鎌田にとっても同様である。 「人は結局、会ってみなければわからない」。 Webサイトに愛夢舎の講師募集記事が掲載されて間もなく、佐々木は鎌田に一本の電話を入れた。 「ひとり、すごくいいヤツを採用したよ」。 新たに採用となった彼は、たまたまWebサイトの記事を見て、愛夢舎に興味を持った理系の学生だった。大学時代に、個別指導の塾でのアルバイトを経験した結果、理系学生としては大変珍しい、塾業界への就職を第一志望としているという。また、すでに日本一の売上高を誇る大手進学塾の採用内定も獲得しているという。 「そんなヤツが、なんでまたウチみたいなところに・・・」 佐々木は不思議に思ったが、ともかく会ってみることにした。同じ埼玉県内ではあるが、割と遠方に住んでいたため、電車で武蔵藤沢駅までやってくることになった。 当時の愛夢舎は、武蔵藤沢駅からは、歩くと30分程度かかった。面接当日は、小田切が車で迎えに行くことになった。写真も何もないので、どんな風体だか、分からない。「お互い、スーツを着ているはずだから、声をかけあいましょう。」そんな適当な打ち合わせであったが、小さな駅だから大丈夫だろうと、小田切は考えていた。それでも、スーツを着ている人が何人もいたら困るので、年齢は24歳、大学まで長きにわたって剣道に打ち込んできた青年であるという予備情報を得て、小田切は駅に向かった。駅に到着すると、果たしてそこにはスーツを着た青年が待っていた。長きにわたって「柔道」をたしなんできたような風貌のその男が、三輪卓也であった。 三輪を車に乗せ、愛夢舎に戻る間のわずかの時間で、小田切は「コイツにしよう」と思ったという。そして佐々木もまた、三輪に会ってほんの10分程度で決めた。「この男にしよう」。 三輪本人は、愛夢舎をいたく気に入り、大手塾の内定を蹴って、愛夢舎で働きたいと言う。向こうは、株式上場を果たしている、最大手塾。こちらはできたてほやほやで、毎月の給料の保障すらままならない塾。なんでまた、せっかくの内定を蹴ってまで、リスクを冒すのか。三輪にしてみれば、これから発展するか衰退していくか分からない、しかし、発展するならば、自らの手で発展させていくことができる、そんな「成長の可能性」にひかれたようである。彼はベンチャー志向型の人間だった。 佐々木からの電話を受け、三輪の採用確定を知った鎌田は、他人事ながらほっとした。「体育会系の理系学生」。一言でまとめても、評価すべきポイントは2つもある。 講師職といえば、「ホワイトカラーのブルーワーカー」なんて評されることがあるくらい、スーツ姿の見た目には想像できないほど、はっきり「肉体労働」であり、根性がモノを言う。体力自慢は大歓迎である。また、塾業界で徹底的に不足しがちな講師が、数学と理科、すなわち「理系講師」である。例えば、大学生に対して「中学生にいずれかの教科を教えるとするなら、何がよいか」と尋ねれば、ほとんどの学生は「英語」と答える。理系学生は、卒業後も研究職か技術を活かせる企業への就職を志望することが多いため、教育業界では慢性的な人材不足に陥るのである。 三輪の採用確定によって、彼がどのくらいの期間で戦力となり得るかにもよるが、とりあえず矢吹が退職することによるダメージは最小限にとどめられそうだった。 また、愛夢舎に「新しい血」が加わることにもなる。 佐々木、小田切をはじめ、矢吹ほか草創期を築いた職員も含め、全員、前にいた塾で育った人材であり、必然的に、仕事に対する考え方、手法など、ある程度同じ方向を向いていた。そこに、全く未知の三輪が加わることにより、どのような「化学変化」を起こすものか。愛夢舎は、新たな方向に向かうことになるかも知れない。 ・・・それはそれとして、矢吹退職の知らせを受けて、鎌田は鎌田で思うところがあった。 ~【第23章 究極の選択】につづく
2010.04.27
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それは「イライラ」。 周りの人たちも不快にするし、自分自身が非常に不快。 この感情を持ちながら行動していると、災難も連鎖する。 なにも良いことなし。 「イライラ」した理由なんて考えたらダメ。 「イライラ」し始めたら、ゆ~っくり深呼吸。鏡をみて幸せな笑顔をつくる(笑)。人に話しかける(目いっぱい楽しそうに)。 はい、「イライラ」消えましたね(笑)。これで万事OKです! ジュクチョウ
2010.04.27
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こんにちは、鎌田です今、愛夢舎ではミドリムシが流行ってます。今、ミドリムシがアツイ! ・・・ ・・・すいません、ウソです僕が勝手に流行らせようと思って、ミドリムシ、ミドリムシとつぶやいているけど、どーにも、なかなか、流行っていません>< でも、ミドリムシがアツイのは本当ですよ。なんでも、生産がカンタンで、しかも、栄養価が高いらしい。あの、ミドリムシです。動物なんだか、植物なんだか、わからん単細胞生物。緑色の。 まるで知らないという方は、そうですねぇ、中学生の理科の教科書、たとえばこの辺りの人でしたら東京書籍の「新しい科学2分野下」の37ページに写真が載ってますよ~ で、このミドリムシがですね、健康食品として注目されてるらしい。すでに、サプリメントなんかも発売されている。 そして、「ミドリムシクッキー」というのがある。 おおお、これはぜひぜひ試してみねば! ・・・とそう思ったのですが、日本未来科学館まで行かないと手に入らないらしいそして、もしかすると、もう販売されてないかもしれない。うーん、残念・・・。 クッキー5枚入りで450円。 ブログのネタに払うお金としては、そんなに高くない。でも、クッキー買いに行くほど、僕はヒマでもない ある生徒が、もしかしたら未来科学館に行くかもしれない、というから、ぜひ買ってきてくれ!とお願いしたらあきれられた・・・ ミドリムシクッキー。クッキー1枚に、なーんとミドリムシが2億匹、入ってるらしい。 2億!!これ、あれだなぁ、もしミドリムシが人間だとしたら、ひとくちで、日本が丸ごと飲み込まれるってことだなぁ。でも実際、ミドリムシにも意識があるかもしれないし、また逆に、僕ら人間はある生命体にとってはミドリムシ程度の大きさかもしれないし、そうなると僕らもひとくちで飲まれるかもしれないし、あるいは、2億の意識をひとくちで大量虐殺してるわけだなぁ。 ・・・ ・・・ちがった ・・・クッキーになった時点で、もう死んでるわ このクッキーを1箱食べると、ミドリムシを1グラム摂取できるらしい。1箱5枚入りだから、1枚あたり、0.2グラム。 ・・・。 0.2グラムで2億匹。 すると、1匹あたり、0.000000001グラム・・・。なんと微小な・・・ホコリより軽いだろう、コレ。 ・・・ちがう・・・水分が蒸発してるからこんなに軽いんだ。 ・・・まあ、どっちにしても、ミドリムシがどうこうの前に、「ひとくちで2億人」は、あまり気分のいいもんではありませんね。 ミドリムシベーグルもあるらしい。こっちは、ベーグル一個で15億人を大量虐殺することになるらしい。 ・・・ドーナツ化中国人絶滅・・・。(↑ この表現、クレームくるかしら?) ミドリムシベーグルを頼むとドリンクがつくらしい。「ミドリムシをイメージしたドリンク」だそうだ。 ・・・どんなイメージだ?でも、ミドリムシは入ってないらしい。 機会があれば、ミドリムシ大量虐殺食品、食べてみたいような、みたくないような・・・。Kama
2010.04.26
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(【第20章】へもどる)2年の歳月が過ぎた。 2001年3月、「学習塾愛夢舎」の記念すべき第1期卒業生が巣立っていった。 不要な圧力から逃れた佐々木、小田切、矢吹の3人は、本来の「心」を取り戻した。これまでの出会いは「音楽」をきっかけとしたものであったが、矢吹もまた、かつて「音楽」に魅せられた者だった。 2001年4月には、企業人として活躍するようになっていた、かつての盟友・鎌田を加えて、「愛夢舎バンドライブ」を開催するに至った。佐々木、小田切にとっては、6年ぶりとなる「職場内バンド」であった。(Zapping⇒⇒⇒【Band 1】第1回 愛夢舎バンドライブ を振り返る へジャンプ) 2002年の冬。佐々木は鎌田との連絡を密にとっていた。もしかすると窮地に追い込まれるかも知れない。 矢吹は秋あたりから、鎌田に頻繁にメールを送り、自分の進退についての相談を行っていた。鎌田は第三者でありながら、愛夢舎に出入りしており、塾の様子を客観的に見ることのできる立場にあった。また、鎌田の当時の職は、大手から小規模まで、数多くの学習塾や私立学校の内部事情を知る立場にあった。矢吹が敢えて塾外の人間に相談をもちかけたのは、そのあたりが理由になるだろうか。ともかく、矢吹は鎌田に、「自分は愛夢舎を去るべきか否か、考えている」という旨をストレートに相談した。鎌田と佐々木の信頼関係は深く、それは矢吹も知っていたことであろうから、当然、鎌田に相談することが佐々木に筒抜けになることも分かっていたはずである。・・・鎌田を通して、佐々木に伝えて欲しかったのかも知れない。 佐々木は強い説得を試みなかった。愛夢舎をさらに発展させていく自信と使命感はあった。その発展のプランの中に、矢吹の名前をあったであろう。それでも、進退を考える者は、自分の人生の発展を考え、身を切るような思いで新たな道を切り開こうとしているのだから、その判断は何より尊重しなければならない。 佐々木は、自分の下で働く者に、いつでも同じことを言う。「他で頑張りたくなったら、自分を向上させたくなったら、いつでも遠慮せず、言いなさい。自分は止めない」と。 矢吹が去れば、愛夢舎の運営上、困ることは目に見えていたが、佐々木は同じように接したに違いない。矢吹は、2003年2月末、第3期卒業生を送り出すと共に、自らも愛夢舎を去ることを佐々木に告げ、佐々木もこれを快諾した。お互いの今後の発展を祈念して。 ~【第22章 そして彼は武蔵藤沢に降り立った ~Neo Blood】につづく 注.愛夢舎を去った矢吹は、現在某私立大学の事務職に就かれています。大学職員として忙しい毎日を送りつつ、ご家庭も持たれました。住所も近い小田切とは、仕事を超えた交友が続いています。
2010.04.26
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(【第19章】へもどる)2000年9月。「学習塾愛夢舎」が産声をあげた。もっとも、在籍する生徒は前の塾のままであったし、佐々木をはじめとするスタッフもまた同じままだったが、校舎も移転し、心機一転したみんなの心は晴れやかだった。無論、いきなり経営状態がよくなるわけはない。相変わらず、小田切や矢吹の収入は少なかったし、佐々木、小田切、矢吹の3人で授業後にトシエの手料理を囲む姿も変わらない。 だが、ベクトルの向く先は、確実に変わっていた。 新たな校舎の立地は、お世辞にも、良いと言えるものではない。以前の塾は、大通りに面し、近くに複数の小中学校があった。それに対し、新しい愛夢舎は、幹線道路から外れた場所にあるだけでなく、広い駐車場の奥に古びた一軒家を構えるのみで、「そこにある」と知らない人にとってはまるで目につかない建物だった。 ところが、以前はチラシをまいても、生徒に呼びかけてもまるで集まらなかった生徒が、どういうわけか、自然と増えていく。生徒が友だちを見学に連れてくる。保護者が、新たな保護者を紹介してくれる。 佐々木は、以前の塾での習慣から、広告を作成し、新聞折込をすることにした。広告での反応はほとんどなかった。それでも、いわゆる「口コミ」で、生徒が増えていく。 佐々木は、広告の考え方を改めた。こんなにお金をかけて、フルカラーの折込をしても生徒が集まらない、むしろ、広告をまかなくても、来る人はやってきてくれる。ならば、ただひたすら、自分たちの考えを伝える、それだけを、ただ・・・。 佐々木が作った新しい広告は、B4の白い紙に、自らの思いをただひたすら、紙一面びっしり、文字で埋め尽くしたものだった。これを、折込ではなく、自らの手で、ポスティングしていく。初めは小田切も矢吹もその効果については疑心暗鬼であった。が、「ゲリラメッセージ」と佐々木が名づけたこのチラシを回を重ねて配っていくうちに、「毎回読んで、全部とってあるんです。」という家庭が意外なほどに多かったことが後々分かった。 新しい塾、新しい気持ちになって、余裕も出てきたのだろう。彼らは、趣味をたしなむようになった。 3人に共通する趣味、それは、3人を結びつけたものでもあった。 音楽。 佐々木がドラムを叩き、矢吹はベースを弾く。小田切は、大の歌好きだった。前の塾が豊かだったころ、佐々木と小田切は、イベントでバンド活動をしたことがあった。 また、バンドでもやってみたいな・・・。 佐々木は、定期的に連絡をとっていた鎌田に「バンド加入依頼」を出す。土日休みの仕事についていた鎌田はこれを快諾し、ギタリストとしてセッションに参加。 ひと月に1度、2つ離れた駅のそばにあった練習スタジオに金曜の深夜、4人は集まり、特に目的もなく、曲を演奏するようになった。 年が変わるころ、ある保護者の提案で、その企画が生まれた。 2001年4月。「第1回 愛夢舎バンドライブ」が開催された。(Zapping⇒⇒⇒【Band.1 第1回 愛夢舎バンドライブを振り返る】へジャンプ) 以来、年に1度、4月には「愛夢舎バンドライブ」が実施されるようになった。 ~【第21章 そして彼は去ることを決めた ~それぞれの発展のために】につづく
2010.04.25
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(【第18章】へもどる)2000年8月某日深夜。 佐々木、小田切、矢吹の3人は、トラックにコピー機や教材を積み込み、近所の「元・一軒家」に向かっていた。 佐々木が出した結論、それは、武蔵藤沢校を閉校・廃業とすることだった。 ただ、自分たちを慕って通ってくれている生徒や保護者に、迷惑はかけたくない。 この頃、生徒は創業当初の2倍程度、20人まで増えていた。決して多くはないが、気に入って通ってくれている彼らの面倒を見続けたい。 そこで佐々木は、現在の校舎は廃業とするものの、「同じ武蔵藤沢地区」に新たな塾を設立して、通ってくれる生徒の面倒を引き続きみることにしたのである。 当時通っていただいていた全ご家庭からのご理解をいただいた。全ての生徒が、新しい塾に入塾してくれることになった。それどころか、新しい校舎を作るにあたって、引越しの手伝いを申し出てくれる保護者さえあった。新しい校舎は、小田切と佐々木が中心になって探した。ビルのテナントでもよいのだろうけれど、何しろ時間がない。さし当たって、テナントを改装するような費用もない。偶然か運命か。広めの駐車場の突き当たりに、かなり大きめの一軒家が「貸しテナント」として入居募集を行っているのを見つけた。「うどん・そば屋」をやるのに向いているという。佐々木と小田切は、さっそく内見した。無論、ただの家だから、教室として使うためにはそれでも多くの改装が必要であったし、「うどん・そば屋」にも向いていなそうな様子だったが、2人が出した結論は一致していた。「ここなら、いいんじゃないか?」 後から思えば、一軒家といえども、塾として使うには非常に都合のよい物件であった。まず、広い。何十人もの人が一度に入れる家など、そうはない。広めの庭も、駐輪場として最適であった。また、前が駐車場で、家に囲まれているわけではない。佐々木をはじめ、小田切も矢吹も、前の塾で鍛えられた授業力には定評があった。楽しく、分かりやすい。その代わり「声が大きい」ということも、特徴として出てくる。住宅街のど真ん中では、到底彼らの授業は行えない。ここなら、本当に近くの家の方には迷惑であるかも知れないが、まあ、授業を行っても差し支えがない。「古めの家である」という点さえ気にならなければ、塾としては申し分なかった。 そして、「家」であることを大きなマイナスと感じた者もなかった。なぜなら、例えば小田切については、自分が通い続け、愛してやまなかったかつての「塾」もやはり「家」だったから。 新たな塾名は、相談する前から決まっていた。 前の会社と関係のない、本当の意味での佐々木たちの塾、「愛夢舎」は、こうして誕生した。 ~【第20章 愛夢舎バンド】へつづく
2010.04.25
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(【第17章】へもどる)元社長による経営コンサルティングが始まって数ヶ月が経過した。 ひと月に1度、元社長は校舎を訪れる。そして3時間、佐々木と話をしていく。しかし、話の中に塾の運営を革命的に変化させる内容は、佐々木には感じ取れなかった。 仮にも、自ら始めた小さな塾を10年で10校舎にまで広げ、「時代の寵児」のように言われた元社長である。会社運営経験のなかった佐々木にとって、コンサルティング契約を提案してきてくれたときには、非常に頼りがいのある存在だと思った。周囲からの疑問の声もなかったわけではないが、それに勝るだけの信頼が、元社長にはあった。 だから、佐々木は思った。「自分が、話の内容を理解しきれていないだけだろうか」。 だとしても、結局運営向上に直結しないコンサルティングのために、ひと月あたり50万円を支払っているのは、どうなんだろう・・・。 同時期に独立し、同じようにコンサルティングを受けている元同僚に話を聞いてみた。いつぞやのコンサルティングでは、じっくり話を聞いた後、「もっと売上をあげるためにはどうすればいいか、分かるか?」と元社長に聞かれた。「いいえ、(だからコンサルティングを頼んでいるんですけれど・・・)」と答えた彼に元社長は答えたそうだ。「まず、もっと働け」・・・と。それで50万円・・・? コンサルティング契約の一部として、各社(塾)が行う企画・イベントの運営を担うという条項があった。例えば、従来の塾で恒例となっていた夏期合宿。その運営を担ってくれるというのであれば、これは助かる。元社長の主催する企画会議に、当時教務部長であった矢吹が出席した。ところが、校舎に戻った矢吹は、釈然としない顔で佐々木に報告した。「まず僕らに『企画書を作れ』って言うんですよ。で、パンフレットやポスターを『作れ』とも・・・。」 独立した社長たちは、元々佐々木の同僚であった。同じエリアで開業しているわけではないから、商売敵ということでもないし、佐々木はお互い情報交換をして、協力体制を築いていこうと考えていた。ところが、どうも彼らの自分に対する態度がよそよそしくなってきた。何か気にさわることでもしただろうか・・・。 ある月のコンサルティングの場で、ひとりの元同僚の名を挙げ、元社長が「そういえばアイツ、佐々木のところの営業妨害をしようとしてるようだぞ、気をつけろ」と耳打ちした。寝耳に水とはこのことか。なぜ自分が攻撃されねばならないのか。 その疑問が解けたのは、数ヶ月経ってからのことであった。機会あって詰問した佐々木に、元同僚本人は、こう語った。「営業妨害?そんなこと、考えるわけがないじゃないですか。それより、佐々木先生こそ、小田切先生を使ってウチの生徒を引き抜こうとしたっていうじゃないですか。だから『お前もやり返してやれ』とは言われたんですけれど・・・。」 だいぶ、事の真相が見えてきた。そういえば、昔からおかしなところは多々あった。 社員が減給に次ぐ減給で、生活に困っている状態だったのに、なぜあの頃の社長は、それでも高級外車に乗っていられたのか。なぜ定期的に本部に顔を出す社長の母親が、会社の通帳を持っていたのか。毎年夏になると社員が草むしりをしていた新所沢の空き地は、なぜ今でも彼のものなのか。さまざまな研修に参加する社員から、必要以上の参加費を徴収していたが、その金はどこにいったのか・・・。 前の会社が崩壊を迎える何年も前から、元社長個人に数億円の負債が発生していたことが判明したのは、佐々木が「真実」を見出した頃だった。 佐々木は考えた。このまま月に50万円のコンサルティング契約を結んでいても払えるはずがない。だいたい、現時点で払えていないのだから。そして、その内容も、どう考えてもいい加減である。自分だけならともかく、このまま小田切、矢吹を奴隷のような状態にしておくわけにはいかない。 佐々木は、コンサルティング契約の解約を願い出た。 元社長の態度は一変した。違約金や滞納費、合宿やスキー旅行など、未実施の企画立案の放棄についての、他塾への損害賠償など、意味のよくわからない、数百万円の支払いを要求された。 なんだ、これは。もはや、恐喝ではないか。 ただの口約束であればよかったが、そこは初めから仕組まれた罠であり、完全に敵わないとは限らないものの、争うには相手に分がある状況に、佐々木は追い込まれた。 後日談であるが、ケースこそ違えど、巧妙な書類の取り交わし、あるいは書類の隠滅、本人以外の名義による手続きなどにより、法的に争った場合には自分自身に被害が及ばないような手はずを整えることに関して、元社長は非常に巧みであった。法律は「法的に正しい者」を守るのであり、それは必ずしも「人道的に正しい者」を守ることにはつながらない。 彼によって自己破産に追い込まれた者、精神疾患に追い込まれた者、「法で裁けないなら、もう殺すしかない」と、自暴自棄の状態に追い込まれた者・・・。被害者は後を絶たなかった。 佐々木は手段を講じあぐねた。言われたとおりの金額を払って終わりにするのも、釈然としない。自分たちは、コンサルティングに関しては何一つ恩恵にあずかっていないのだから。第一、そんな金額、払えるわけがない。今ですら、借金をかかえながら生活をしているのに。 でも、佐々木は塾と小田切・矢吹、そして自分の家庭を守らねばならない。 彼は覚悟を決めた。 ~【序章 夜逃げ】 【第19章 「廃業」と「本当の始まり」】につづく
2010.04.24
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こんにちは、鎌田です今、愛夢舎ではある映画が流行ってます 「ロボゲイシャ」。 今、「ロボゲイシャ」がアツイ!…もっとも、僕が勝手にDVDを買って半分むりやり、先生たちに回して見せてるだけなんですけどね あるテレビ番組で紹介されていたのをみた。なんでも、予告編の動画がyoutubeで100万アクセスを超えたとか。その紹介のVTRを見ていたら、これが、もう、とってもバカバカしく、くだらなそうご存知のとおり、僕は「くだらないこと」が大好きなのだが、その僕にしても、あまりのくだらなさ加減でDVDまで買ってしまったのは、今回が初めてだ。 「おおっ!!くだらない!! これは、買わねば!!」って、ホントにそういう勢いです。ネタばれになるので、内容についてはあまり書きませんが、なんていうか、ロボットが芸者なんですね、いや、ちがうか、芸者がロボットか。ロボットだから、ミサイルが出たりする。戦車になったりもする。で、敵と戦う。もうね、なんていうか、その映像がいちいちばかばかしいというか、くだらないというか。でも、実際に見てみると、意外なくらいストーリーがしっかりしてて、そこが少々残念・・・どうせなら、もっととことん、ストーリー自体もくだらなければよかったのに。実際、竹中直人とか、志垣太郎など、名優も出演してたりして、チープな要素はあまりない。でも、ばかばかしいまあ、でも、昔、トマトが巨大化して人を襲ってくるという映画があったが、その方がよりくだらなかったかな。 以前、同じような動機で1枚のCDを買ったことがある。名前を書くと、ファンの人に申し訳ないので伏字にしますが、「C-●●●●」という4人組のアイドルっぽいグループ。このグループの新曲リリースのCMがテレビで流れていて、その歌の、あまりの下手さ加減に耳を奪われた。「おおっ!こんなに下手なプロがいるのかぁ! シロウトのヘタならいっぱいいるけど、 CMで宣伝しちゃうのか、これを!! これは買わねば!」っていう勢いで、買おうとしたけど、当然、そのへんのCD屋にはおいてなくて、amazonを駆使して入手したという・・・。いざ聴いてみると、そのヘタさ加減はCM以上で、じゃあ例えば他に取り得があるのかというと、残念ながらそれもなくて、もう、歌に限っては、聴いているうちにどんどんかわいそうになってきて「もう、やめていいんだよ。」ってなぐさめてあげたくなる。たぶん、これを読んでるみなさんは、「ある程度のヘタ」を想像されていると思いますが、そのヘタを10倍ヘタにしたくらいが、実際だと思います。ホントに、ヘタでヘタでしょうがない。とにかくヘタでヘタでしょうがないから、このヘタさ加減をみんなにも分かってもらいたいと愛夢舎の旧校舎で先生や生徒に聞かせたら、しばらくの間、「C-●●●●」が、愛夢舎で大人気になったもしや、これをプロデューサーは狙ったのか?その頃は、「C-●●●●」がアツかった。愛夢舎限定で。ちなみに、このグループ、驚くことに、まだ存続している。そしてさらに驚くことに、メンバーが全員替わってる。・・・ さて、今は「ロボゲイシャ」がアツい。この映画、まだ劇場でも公開中らしい。まあ、僕のようにわざわざ買うこたぁないけど、レンタルでもなんでもいいので、「くだらないこと」がお好きな方はぜひどうぞ。ホントにくだらないから。Kama
2010.04.24
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(【第16章】へもどる)2000年3月。 長く佐々木を支えてきた女性職員が退職した。初めから予定された退職であった。佐々木独立当初より、年度末までの勤務と定まっていたのである。これで、第3期の大学新卒者は、全員「塾」を去った。 後任者は決まっていた。小田切である。 これによって、愛夢舎の草創期を築き上げた、佐々木、矢吹、小田切のトリオチームが形を成した。 わずかずつではあるが、運営に追い風が吹いてきた。 一旦広まった悪い評判は、なかなか消えないものである。佐々木が独立するまでに、大分長く「評判の悪い塾」の歴史を築いてきてしまっていた。「金もうけ主義の塾だ」と言われたこともあった。前任者たちが、校舎周辺の美化に無頓着であったため、雑草が伸び放題になり、近所の方からお叱りを受けたこともあった。 佐々木は誠心誠意、そうした悪評をひとつずつ崩していった。自らが草むしり、掃除にいそしみ、「新たな塾」となった自分たちの考え方を丁寧に語っていった。以前は会社の指令により、教室長は一枠最低2時間、一週間に12時間以上の保護者面談を実施することが義務付けられていた。面談の場を借りて、商品販売を行うためである。佐々木は、こうした「押し売り」にも見える、機械的な面談もやめた。 徐々に保護者の中からも、「手伝ってあげるよ。佐々木先生、一生懸命だからさ。」と、校舎美化などに協力を申し出てくれる方も現れた。誠意の積み重ねは、人に伝わるものだと感激した。この頃の保護者の方に対して、佐々木は未だ「恩人」と感じている。 生徒数も、少しずつではあるが、増えていく兆しがみられた。 矢吹も小田切も、非常識とも思える安月給で働いた。特に小田切は、実家住まいであることを自ら理由とし、「コンビニエンスストアで働く高校生でも、もう少し稼ぐであろう」というような収入で勤務した。 そんな献身的な彼らに、わずかながらできることとして、勤務時間終了後、トシエの手料理を囲み、テーブルで遅めの夕食をとる3人の姿があった。 ただ、どういうわけか、自分たちの頑張りの割りに、経営状態、生活状況は、全く楽になっていかない。 その原因は明らか。毎月発生する、元社長への「コンサルティング費用」の支払いであった。 独立当初の生徒数は、わずか8名。光熱費のほか、もちろん、校舎の家賃も発生している。これに対して、コンサルティングの費用は、一ヶ月あたり50万円。小学生でも分かる計算だ。全生徒の月謝を合計しても、コンサルティング費にすら到底追いつかない。いわんや、自分たちの給与など・・・。 佐々木は自問自答を繰り返した。そして、あるときをきっかけに佐々木は思った。「様子がおかしい・・・」。 ~【第18章 欺瞞、真実、そして 闘争】につづく
2010.04.24
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こんばんは、鎌田です今、愛夢舎では、「中国茶」が流行ってます。今、「中国茶」がアツイ!…もっとも、僕が独りで盛り上がって勝手に急須に突っ込んで、先生たちに飲ませてるだけなんですけどね入間・狭山といえば、「狭山茶」の名産であって、そんな地域で、なんの中国茶だ、このやろう!といわれるかもしれないけど・・・。なにを思ったか、突然中国茶に目覚めてしまいまして、各種、買い揃えておるです、はい↑ これ、プーアル茶。今のところ、先生方には一番評判がいいヤツです。入れると、まるでコーヒーかと思うような黒い色が出ます。お茶っ葉も変わってて、田中先生は「ひじきかと思いました・・・。」と↑ これは、一葉茶。この巻かれた葉っぱ1枚で、けっこう、何杯でも飲める。ところが、このお茶、別名があって・・・。「苦丁茶」というそうな・・・。「くていちゃ」あのテレビなんかで、芸人さんが罰ゲームとかで飲んでるやつ?僕は、ネットで調べてみるまで知らなかった。確かに言われてみれば、苦いけど、でも、そんなびっくりするほどのものじゃないなぁ、大分慣れたせいかなぁ。他の先生方も、初めは「苦っ!」って言ってたけど、最近はそうでもない。もっとも、初めてのお客さんには、ちょっと出せないけど・・・。 あと、僕は、ジャスミン茶なんかも好きですね。ただ、他の先生たちには評判が悪くて僕はひとり、こっそり、たまにちょびちょび飲んでる。 さて、この中国茶たち、輸入品なのですだから、パッケージには中国語が並んでる。僕は、残念ながら中国語はわからないのだけど、こういう品にありがちな日本語の説明も付け加えられている。ところが、どうもこの日本語が、おかしい。↓ コレ、その一葉茶(苦丁茶)の日本語説明・・・。写真だと見づらいかも知れないので、ちょっと転記してみる。「苦丁茶は富丁茶とも称されて、 冬青科大叶冬青●に属する。 (↑この字、日本には無い…) 寒え性で、苦い味の甘い味がする。」・・・何が言いたいのか、よくわからない。「寒え性」ってのが、特にわからない。「苦い味で甘い味」っていうのは、きっと、はじめは苦いけど、そのうち甘くなるとか、そんな感じだろうか。しかし、飲む前にこれを読むと、苦いんだか甘いんだか、どっちやねん、とツッコミたくなる。 もっとスゴイのがある。↑ コレは、ライチ紅茶の箱の説明書き。これを日本語では、次のように書いてある。「レイシの紅茶は優良品質の紅茶で レイシの精華に協力して変調して、 果実の香は鼻をつぃて、お茶の味は濃厚で、 (↑ホントに小さく書いてある) 入り口が細くて滑って、 その外形のロープが結び目を締めるのは 細くてまっすぐで、 色合いの烏潤、内の質の香気の香り、 味は新鮮でさゎゃかでょくて、 スープの色の紅亮、レイシの特色がぁつて、 そして持つて消化を助けて、 胃腸ぉょび目が覚める脳の気持ちが ゅつたりする効果をきちんと整理する。」 ・・・ ・・・ ホントにこう書いてあります。いや、そりゃあ、中国の人が一生懸命外国語に訳したわけで、それが残念なことになっちゃうのは仕方がないことで、例えば僕らが英語を使っているとき、ネイティブの人に「あー、しょうがねぇなー」と思われるのと同じ感覚だけど、それにしてもコレは、ひどすぎませんか?「入り口」あたりでおかしなことになってきて、なぜか突然ロープが結ばれちゃって、脳の気持ちが整理されちゃってる。もうね、何が言いたいんだか、想像すら不可能まあ、ありがちですけどね。味はおいしいですKama
2010.04.23
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(【第15章】へもどる)佐々木は独立し、新たな自分自身の会社として「武蔵藤沢校」を継続させることにした。 ところで、現在では会社法が改正されているものの、当時は「有限」であっても、会社を新たに興すには、いくばくかの資本が必要であった。こうした『ジリ貧』状態の中で、佐々木にその資本があったはずもない。 佐々木は佐々木で、恥をしのんで、実家の財産を切り崩していた。また、人生のパートナーとなるべき人の援助もあった。小規模な塾としての再出発を果たした武蔵藤沢校の新たなメンバーに、一人の女性が加わった。 2000年1月1日、佐々木は結婚。公私で佐々木を支えてきた女性は、「トシエ先生」と呼ばれるようになった。 さて、校舎と教室長は存続したが、それ以外のスタッフは未定である。会社組織が解散したと同時に、社員もフリーの状態になったのだから、講師が各校舎での業務を続けるかどうかは、本人の意志で決めていくことになる。 佐々木は、自分以外に2人のスタッフを雇うことにした。一人は、ここまで共に働いてきた、武蔵藤沢校の講師としてキャリアを積んだ女性職員。彼女こそ、鎌田の同期採用内定者40名の「最後のひとり」であった。 もうひとり。武蔵藤沢校にやってきたのは、1年前に佐々木が育てた矢吹であった。彼は佐々木という人間の理念に共感し、フリーとなった今、その元にやってきたのであった。 実は、このとき、退職して既に3ヶ月が経った鎌田にも、佐々木は声をかけた。一緒にやらないか、と。だが、この頃鎌田は、塾ではないが教育人材に関わる企業に既に就職しており、(Zapping⇒⇒⇒【Kama.1 先生を育てる】へジャンプ)勤務をはじめて2ヶ月程度が経過したところであった。さすがに入った会社を2ヶ月で退職するわけにもいかない。これまで経験することのなかった「企業人」としてのスキルを磨き、いつか、ともすれば数年後には合流するであろう意志のみを確認し、その場での再会はならなかった。ただ、その後、別の場に身をおきながらも、部分部分で鎌田は愛夢舎の運営の協力を続けていた。 小田切は、と言うと、こちらはこちらで、佐々木と共に新たな塾を築き上げていく意志が強かった。しかしながら、自分の所属していた新所沢校舎には、まだ生徒が通っている。小田切も校舎を譲りうけての独立を勧められたひとりであったが、それは断り、一旦、新所沢校はひばりヶ丘校舎を運営することになった新会社の運営するところとなった。これに伴って、小田切自身もその会社の一員となったのであるが、佐々木とともに武蔵藤沢での塾運営にあたることは、この時点でほぼ固まっていた。 全生徒数8名で「愛夢舎」の塾運営はスタートした。 ~【第17章 逆向きのベクトル ~塾の成長と追い込まれる生活】につづく
2010.04.23
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(【第14章】へもどる)1999年8月。 長野県志賀高原において「夏期勉強合宿」が実施された。8泊9日で行われ、高速道路のサービスエリアで、講師が大声で怒鳴り散らす「軍隊式指導」、しかし、その効果の高さは参加した者にしか分からない。その場所に、鎌田もいた。 入社して3年、結局鎌田は毎年合宿にスタッフとして参加し、残り少ないメンバーにおいて、当時の合宿の精神とシステムを誰よりも把握するうちの一人となっていた。すでに業務の引継ぎや身辺整理を終え、この合宿を成功させることが、彼の最後の仕事であった。その鎌田は、日程の途中、5泊6日の日程で合宿を終え、一足早く志賀高原を去る小学生とともに、業務を終えた。渾身の力を出し切り、合宿スタッフでは事情を知るわずか2名の講師に別れを告げ、鎌田は生徒とともに東京に戻った。彼を見送った講師のひとりが、小田切であった。東京の各校舎は、夏期休業中であった。鎌田は最後に、佐々木、小田切をはじめとする仲間たちに一通一通、直筆の置手紙を残し、誰に見送られることもなく、ひっそりと社を去った。(Zapping⇒⇒⇒【Kama.1 先生を育てる】へジャンプ) 鎌田が去った後、いよいよ会社は、崩壊への秒読みに入っていった。もはや、各校舎には、業務が成立しうるギリギリの人員しか残っていなかったため、以降に退職を申し出た者は、いわく「損害賠償を請求する」などと、脅迫じみた説得で残留を承認させられる結果となった。もう、辞めることすらできなくなったのである。 それでも、会社を去るものはいた。もっとも、円満退社は不可能な状況である。辞意を似たことをほのめかすと、脅迫説得が即座に入る。合意による退社が不可能であるなら、残る手段は「逃げる」ことのみだ。どのみち、立て替えた出費の返金はもちろん、退職金はおろか、何ヶ月も遅れている給料の支払いも見込めない状況である。「円満」であろうが「逃亡」であろうが、大した違いはない。そう考える者がいても、それを責めることができようか。残るメンバーは、両手の指で数えられるくらいにまで減っていたが、突如行方をくらます者がポツリポツリとあったのである。 週に1日でも休めば、どこかの校舎で授業ができないという事態が起こる。佐々木も小田切も、校舎間を飛び回った。 社長は、ついに会社組織の解散を決定した。 実質的な「倒産」であったが、「倒産 ⇒ 廃業」とするかどうかは、残ったメンバーに委ねられた。まず、会社組織は解体される。自動的に、社員は職を離れることになる。残るのは、まだ生徒の残っている「校舎」である。そこで、現在の各校舎長を中心に、その校舎を譲り受けることができる。その後は「校舎」がひとつの組織となって、運営を続けるもよし、廃業させるもよし。もちろん、校舎を引き受けることなく、組織解体とともに、その場を離れてもよし・・・。 結局、残ったメンバーは、生徒を見捨てることのできない、誰よりも「先生」らしい「先生」たちであった。社長からのこの提案に、真っ先に応じて校舎独立を決意したのが、武蔵藤沢校の教室長であった佐々木であった。 結局、組織は5つに分裂した。佐々木を含めて、社長業に就くのは初めての者のみで、登記から経営手法から、何から何まで初めてのことであり、不安に思う新社長も多かった。 そこで、元社長の提案により、当分の間、各会社の経営コンサルタントとして、元社長が参加することになった。 一定の費用を元社長に支払い、コンサルティング契約を結び、ひと月に1回、会社の経営状態を診断してもらう。そして運営向上のための相談を行い、経営に反映させていく。ほかの4人の新社長同様、佐々木もまた、元社長とのコンサルティング契約を結んだ。 こうして、武蔵藤沢校は、その実体を残した。佐々木が教室長であることや、以前からいた先生が講師として残ったのには変わりがなかった反面、「愛夢舎」という新しい組織がこの校舎を運営していることは、あまり公にされなかった。 そしてまた、この「仕組み」に、大きな罠がしかけられていることに気づいた者もいなかった・・・。 ~【第16章 「愛夢舎」】につづく
2010.04.22
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(【第13章】へもどる)ついにその時が来た。数々の経費立て替えを繰り返し、自身の生活も切り詰めるだけ切り詰めた。仕事も頑張った。何とか、一人でも、新しい生徒に来てもらおうと、少ない予算の中で、印刷業者を値切りに値切り、全校舎・全部門の広告を自分ひとりでデザインし、果ては印刷業者の会社にまで出向き、一緒に原稿作成までした。三週間以上、1日2~3時間の睡眠時間で会社に寝泊りし、家に帰るのは着替えのためだけの生活を続けた。勤務状況管理のためのタイムカードも、どうせ会社に「住んで」いるんだからと、勤務時間に合わせて打刻するのが馬鹿らしくなって、午前3時とか4時とかに打刻し、人事部の立場であった、盟友のはずの佐々木から、「そんなヤケっぱちの仕事でいいのか」と叱責される場面もあった。矢吹をはじめとする新人の生活は保障しなければならない。そこで会社は、新人メンバーへは提示額どおりの給料を支給し、その分、キャリアの長いメンバーの給料を切り詰めた。もはや、借金をするほかなかった彼は、消費者金融に手を出した。当時、残っているメンバーのほとんどが、いくばくかの借金を背負っていたが、返せる見通しは立たなかった。それでも頑なに、彼は仕事を続けた。「いい加減、辞めなさい」という両親の説得は数年にも及んでいた。何しろ入社前から、「お前が選んだ会社はおかしい」と言い続けてきたのだから。それすらも「俺はこれに命がけなんだ、やりたいことなんだ!」とはねのけ続けた。校舎に行けば生徒がいる、仲間がいる、だから・・・。ある日、姉から電話があった。大変なんだって?ちょっと待ってなさい、ダンナが話したいって言っているから。そう言って姉は1年前に結婚した夫に電話を替わった。 「ああ、どうも。色々話を聞いたんだけどね。キミさぁ、自分の暮らしもマトモにできてないんでしょ?お父さんとかお母さんに迷惑かけてさ、それで『自分のやりたいこと』とか言うの、違うんじゃない?間違ってるよ、キミは。」 返す言葉がなかった。これまで身内に同じようなことは何度も言われてきた。それをはねのけてきたのは、親だから、姉弟だからという「甘え」であった。義理の兄とは言っても、元々は「他人」である。その「他人」に、「第三者」に、分かっていたはずの、でも決して意識はしたくなかった事を、ズバリ、なんの逃げ場も用意されることなく、突きつけられた。 できれば、同期で「最後まで残った一人」になりたかった。最後まで、生徒と、仲間と一緒にいたかった。でも、これ以上は、やってはいけないのだ。自分は「辞めなければならない」のだ。 1999年9月― 夏期合宿を最後に、鎌田は退職する決意を固め、辞意を表明した。消費者金融からの借金は数十万円にのぼり、返済する目処もなく、両親に頭を下げ、詫びを入れた。数ヶ月遅れで振り込まれた最後の給料は、10万円を下回っていた。 ~【第15章 「別離」と「再出発」 ~独立の決断】につづく
2010.04.22
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(【第12章】へもどる)1998年。塾は、完全な経営難に陥っていたが、それでも新卒採用活動は続いていた。もちろん、規模は縮小されていたが、新人を採用するという方向は転換しなかった。 窮地に追い込まれたサービス業が、なんとか再起をかけてとるべき方法論の一つに、「規模の拡大」がある。どうせ現状のままであれば破綻は免れない。そうであるなら、例えば塾であるなら、新校舎をいくつか出店し、そこでの「復活劇」にかけるのである。ダメだったとしても、結果は出店しなかったときと、さほど違いはない。この期に及んで新卒採用を続けるのには、そんな「一発大逆転」を狙う意図があったのかも知れない。 ジョブ・ローテーションにより、佐々木は人事部長になっていた。もっとも、こんな状況下である。直接利益を生むことのない人事部での業務のみで過ごせるはずがない。複数の校舎を行き来し、忙しく授業を行う中での採用活動であった。小田切に課せられた人事関連業務は少なかった。小田切の運営する新所沢校は、数少ない「赤字ではない校舎」だったから。会社の再起をかけるにあたって、小田切の校舎はひとつのカギとなるはずであった。入社してまだ2年目の鎌田であったが、本部校舎での教務主任、ピンチヒッターとしての教室長を歴任し、キャリアは積み重なってきていた。しかしながら、やはり校舎の経営不振に陥り、たったひとりで清瀬教室に勤務する日々が続いていた。彼もまた、採用内定者の教育担当者として、職務を割り当てられた。 何しろ、再起をかけた新人内定者であるから、教育を施し、即戦力以上の戦力に育て上げる必要があった。やはり数十名の内定者を出し、残っているメンバーで彼らの教育にあたった。(この時点で、鎌田の同期は、彼を含めて2人のみとなっていた。) 数ある入社前研修の中で、特に鎌田が相談役を担当したのが、学力試験の対策に関してであった。大学生にとって、例えば授業の技術などは、練習を繰り返すうちに身についてくる。学生が苦労するのは、自身がかつて勉強したはずの学科知識を取り戻すことであった。1年以上にわたっての専門内外の教科指導経験を通じ、小田切同様、5教科を完全に指導できる講師に成長していた鎌田の元に、内定者からは「どうしたらこの教科ができるようになるか」度々相談の電話が入った。 内定者の中で、特に頻繁に相談してくる学生がいた。彼は日本史専攻であるため、社会の知識は大変素晴らしかった。また、学生自分に塾でのアルバイト経験があり、模擬授業を観覧した際、鎌田は思わず「うまい!すごい!」と褒め称えた。その反面、理系教科を苦手としており、鎌田は彼に勉強の指導を行うこととなった。 彼は、人事部長たる佐々木自身が直接面接を行い、強力な戦力となる人物として、採用内定に踏み切った学生であった。サッカーを趣味・特技とし、かつてJリーグのチームにスカウトされたこともあるという。 名前は矢吹和宏。彼は後の愛夢舎設立に大きく貢献することとなる。 ~【第14章 崩壊 ~こうして彼は戦線離脱した】につづく
2010.04.21
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GW明けから、待望の理系講師2人がやって来ます! N先生とK先生です! まずはチューターとして勤務してくれます。 数学や理科が苦手な生徒には朗報ですね。(もちろん、英語もバッチリですよ) お楽しみに!そして、よろしく!
2010.04.21
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(【第11章】へもどる)生徒は減少の一途をたどり、塾を運営していく資金が殆どない状態が続いていた。 小田切は、生徒に受験させる模擬試験の代金を、自分で支払った。一人や二人ではない。100人近い生徒の分を、である。コンビニエンスストアには、毎日のように「自腹」でプリントをコピーする鎌田の姿があった。佐々木は、何十人分もの野外教室の参加費を、自分で支払った。 再び模擬試験の時期になった。今度は、残っている社員みんなでカンパし合って、なんとか費用をかき集めた。 中には、自分の所属校舎までの電車賃すら支払えず、みんなに少しずつ小銭を借りて、なんとか校舎にたどり着く職員の姿もあった。そんな「先生」たちの苦労も、一旦はまってしまった歯車から脱出するには力が足りなかったようだ。赤字は増え続けた。 自分たちは、減給されている。親元ならいざ知らず、大半の人間が一人暮らしをしている。もはや自分の生活を成り立たせるのも危うい。その上で、数々の経費を立て替える―いや、返ってこないことは初めから覚悟の上であるから、「身銭を切る」と言った方がよかろうか。 一日三回の食事をとることもはばかられ、食事の回数を減らす。内容も、できるだけ安価で済むよう、「ソースを使わず、塩だけで食べれば、スパゲッティは安くあがる」、「米だけ炊いて、校舎に持っていっている」なんていう情報交換もなされた。 抜け出す方法はなかったのか? 実は、あった。その場に残っている誰もが知っていた。 「会社を辞めること」である。 実際、去って行く社員はいた。ただ、それは全盛期に社員が抜けていったときと、事情が違った。「もはや去る以外に生活していく方法がない。」その状況に追い込まれた者から、泣く泣く去って行く状況であった。 冷静に考えれば、自分たちのしていることがどれだけ馬鹿らしいことか、分からなかったわけではなかろう。仮にも自分たちは「働いている」のだ。にもかかわらず、働けば働くほど、どんどん自分たちの生活が窮地に追い込まれていく。 何かプラスがあるのだろうか。いや、きっとないであろう。 他の仕事がないわけでもなかろう。早く退職して、やり直した方が良いのではなかろうか。そう考えようと思えば、考えられたはずである。しかし、やはり残り続けた。なぜか。 答えは、もはや誰にも分からなくなっていた。 ~【第13章 わずかな期待 ~4番目との出会い】につづく
2010.04.20
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(【第10章】へもどる)1998年度―。歯車が完全にかみ合っていなかった。塾は経営不振に陥り、生徒数は減少の一途をたどっていた。 減るのは職員だけではない。先生が減れば、生徒も減っていく。どこからおかしくなってしまったのか、誰にも判断ができない状態に会社は陥っていた。一時は「西武池袋線最強」とまで言われた新興急成長企業は、みるみるうちに生徒減少の波に飲まれていった。 しかし、校舎は自社ビルで運営しているわけではない。確実に毎月の家賃が発生する。生徒が減っていくとはいえ、自分を含めた職員も、こうして会社の売上で生活している。なんとか生徒を増やし、健全な状態戻さねばならない。ほぼ同時期に「ひばりヶ丘」、「清瀬」、「新所沢」の各校舎で教室長を務めていた佐々木、鎌田、小田切の3人は、一様に危機感を覚えていた。 何しろ教室長は、校舎運営責任者であり、ということは月々の校舎の収支報告を行う立場である。月末になると、ひと月の月謝収入を計算する。そこから校舎運営費(家賃・光熱費・電話代ほか)を引く。さらに自分の給料と校舎で働く職員の給料を差し引いていく。この単純な計算の結果、金額に余りの出る校舎は、もはやほとんどなかった。打開策として会社が指示したのは、各家庭からの売上単価を上げることであった。もちろん、生徒が増えればそれでよい。しかし、増やすためにはPRが必要である。PRにも経費が回らないとなると、とりあえずそのための経費を集めねばならない。月謝の値上げはあまりに露骨であるため、それ以外の部分での売上アップを教室長は至上命題として課せられることになった。例えば、塾のグッズとして文房具を販売する、ひとりの生徒に、できるだけ多くの授業を受講してもらう、野外教室への参加を、強制に近い形で勧誘する。 結果は言うまでもない。悪評が悪評を生み、どうすることもできないまま、生徒減少に拍車をかけるのみとなった。 次にとった対策は、減給である。まずは運営責任者たる教室長が、減給処分となった。それだけではない。今となっては生徒に受験させる模擬試験ですら、注文するだけの経費が回せない。プリントを配ろうにも、コピー代金を会社が出してくれない。 つくづく「先生」という職業は因果なものである。模擬試験を注文するのに会社が費用を出さないとなったとき、「先生」はどうするか。 決まっている。「自分が代わりに支払う」のだ。 誰が強要したわけではない。会社の方針でもない。会社の方針は「注文できない」という、ただそれだけのことだから。 しかし、少ないながらも自分たちの授業を受けにきてくれて、わずかではあるかも知れないけれども、自分たちに期待してくれている、そんな生徒を裏切るわけにはいかない。 それが「先生」である。 「会社が出してくれないので、模擬試験は受けられません。」そんなこと、かわいい生徒たちに口が裂けても言えるだろうか。 「コピーをさせてもらえないから、授業は教材なしでやります。」そんなことができるだろうか。 ・・・できるのかも知れない。「仕事人」として、あるいは「労働者」としてならば。生徒の受験を目前に校舎を去った「職業講師」ならば。 しかし、この状況に至るまで、佐々木が、小田切が、鎌田が、他の数少ない仲間が残ったのはなぜか。 「生徒がいるから」。「労働者」ではなくて「先生」だから。それだけである。 ~【第12章 借金】につづく
2010.04.19
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こんばんは、鎌田です今日、日曜日は、生徒対象のセミナーが、2つ、実施されました。愛夢舎では、日曜日には通常授業はありませんが、そのかわり、テスト対策講座とか、受験生対象の特別授業などが行われます。今日行われたセミナーも、そうした特別講義のひとつ。学校がはじまって2週ほどがたち、今年度についての目標、心構えなどをつくる時期。愛夢舎では、心構えをつくることも指導の一環と考えるので、これは、僕らにとっても「必要」なことであって、とても大事な会であって、もちろん余分な費用はいただいておりません昼間は、新中学1年生と新入会生を対象とした「勉強法セミナー」。これから学校と塾とで勉強をしていくにあたって、「勉強するって、どういうことだろう?」というところから考える。そこからスタートして、では、勉強するのに最適な環境とは、良い成績をとるというのは、どういうことか、教務部長の田中先生からの講義がある。生徒たちには、レジュメが配られる。黒板に書かれたことだけをメモするのではなく、きちんと、姿勢を正して話を聞き、大切だと思ったことを、自ら書きとめていく。勉強の基本でしょうけれども、なかなかできないものです。その点、今年の1年生は、みんな一生懸命にレジュメに書き込み、立派なノートが完成したようでしたそれにしても、田中先生、なかなか興味深い話をする「なぜ勉強をするのか」 ↓「幸せに生きるために、必要不可欠なことである」。「授業とは何か」 ↓「1人でやる苦痛を和らげる、『麻酔』である」「先生への質問は『手術』である。」「日頃から『健康管理』に気を遣っている人は、『手術』はいらない。」「宿題は、先生からの『薬』である。」「自習は、自分の意思でやる『リハビリ』である。」などなど・・・。 僕がはたで聞いていて、ほほう、と思ったのは『聴き方』についての話をしていたとき田中先生の教えによれば、「聴く」というのは「耳に入れる」ことではない。「聴」という漢字をよく見てみると、「耳」の右側に「目」が横たわっている。その下には「心」。つまり、「耳」と「目」とで「心」に届かせるのが、「聴く」ということだ。あるいは、「十」「四」の「心」で「耳」に響かせること。いずれにせよ「心」=「脳」で聴くのである。 また、ノートをとるというのはどういうことか。紙に書くことだけではない。田中先生によれば「ノート」は「脳と」だ。勉強は「脳と」でするもんだ。ノートに書き留める、脳に、心に留める、ノートを見直して気づく、その全てが「脳と」だという。うーん。身内ながら、深い話をする。 夕方になって、さきほど、中学3年生対象の「入試ガイダンス」がはじまった。この4月に「受験生」になった彼ら。でも、自分が立ち向かう「高校受験」の仕組みすら、よくわかっていない。愛夢舎では、5月ゴールデンウィーク中に、実際に志望校まで足を運び、「志望校調査」をしたためてもらう。その準備として、まずは入試の仕組みを理解しようというのが目的だ。今、まさに、僕の右の教室で田中先生が熱弁をふるっている。多くは、入試の仕組みそのものについての話だが、それに先んじて、こんなことを語っていた。「彼を知りて己を知れば、百戦して殆(あや)うからず。 彼を知らずして己を知れば、一勝一負す。 彼を知らず己を知らざれば、戦う毎に必ず殆うし。 孫武」 ・・・すごいことを教えてる。 コレ、ウチの教務部長です。Kama ・・・ホントは、田中先生が自分で書いた方がいいと思ったんだけど、なにしろ、そういう忙しい立場でいらっしゃるので、かわりに僕が書きました。・・・僕?・・・鎌田です。・・・ヒマ?・・・
2010.04.18
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(【第9章】へもどる)1997年から98年にかけて、「ひばりヶ丘教室」は佐々木、鎌田のタッグによって運営された。2人とも、根っからの講師であったわけではなかった。むしろ、実際に働くようになるまで、講師職に興味のなかった2人であった。 「ひばりヶ丘教室」は本部校舎ということもあり、その他の校舎から講師が出張して授業を行うこともあったし、小田切ら、本部勤務を主とするスタッフの出入りも多かった。(運営本部スタッフは、夜になると授業を担当することもある。)当然のように、ひばりヶ丘は情報の集中地になり、そこに拠点をおく佐々木、鎌田は、さまざまな指導法やノウハウを吸収していくことにもなった。 1998年、鎌田は清瀬教室の教室長となり、新たな生徒たちの面倒を見ることとなった。佐々木は、人事部長として、本部異動となった。 「ひばりヶ丘教室」から若干離れた場所に移った2人が、それでも気になっている生徒がいた。彼女は、英語の学習に行き詰ると、自分の通う教室の先生にではなく、運営本部に直接やってきて、佐々木に指導を仰いだ。数学や国語については、清瀬教室に電話をかけ、鎌田に指導を仰いだ。 「職業」として講師を務める以上、そこに私情を挟むことはない。どの生徒も分け隔てなく指導する。ただそれでも、完全に均等な面倒見になるとはいえない。中には彼女のように、積極的に先生につきまとう生徒もいて、指導機会という面で言えば、ただ先生の指示を待っている生徒に比べれば圧倒的に増えるのは当然である。意識してか無意識のうちにか、彼女は「自分にとって『使える先生』」を決めていたようである。彼女こそ、分け隔てなく先生に接するのではなく、利用する先生を限っていた。だから、彼女に利用されることは、先生としては自信につながり、一層指導に熱が入る。利用されない先生は、寂しい思いをすることになる。「先生の使い方」の大変上手い生徒であった。彼女は自分の納得のいくことであれば、先生の指導に従順に従った。納得いかない場合には、反発するのではなく、ただそれを無視することにした。彼女に言うことを聞かせられない先生は、どうすれば自分の指導に従ってもらえるのか迷うことになり、そうなると、もはや主従が逆転してしまう。その意味では、彼女は『厄介な生徒』であったのかも知れない。 彼女は、佐々木、鎌田、小田切らには絶対の信頼を寄せていた。特に、佐々木に関しては、受験校の選択から勉強計画の立案、イベントへの参加や運営に至る面まで、彼女に与えた影響は大きかった。 やがて高校受験のシーズンになった。彼女の第一志望校は、近隣の都立高校であったが、先に「併願校」として、首都圏の最難関私立高校を受験することになった。 各校舎で本命視されてきた、早稲田、慶應系列高校などを狙う彼女以外の生徒は総くずれしていった。 そんな中、2月11日、本部で業務にあたる佐々木、鎌田の元に電話が入った。高校での合格発表掲示を見るために渋谷まで行っていた彼女からの連絡であった。普段より少し嬉しそうな、それでもいつものようにあっさりとした物言いで、「あ~、受かりました~」とだけ、彼女は言った。 私立高校の中でも難易度が極端に高いといわれる英語の試験に対して、佐々木が講じた対策。過去10年分の出題を徹底分析して、出題される図形問題のパターンを読みきった鎌田の数学指導と、もはや奇跡としか言いようのない、古文の出典題材丸ごと的中。そして、彼らの指導に忠実に従い、膨大な学習量をこなした彼女の努力が、塾全体で、この年一番の合格実績として、実を結んだ。 中島典子の「私立 青山学院高等部 合格」は、激務に追われる佐々木らにとって、清涼剤となった。が、しかし、彼女は結局、青山学院への進学は辞退。当初の希望であった都立高校へ進学することにした。 ~【第11章 塾の終焉 ~逃れられない魔の歯車】につづく
2010.04.18
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こんにちは、鎌田です2ヶ月ほど前、このブログで「読解力のつくゲーム」として、アドベンチャーゲームブックというものをご紹介しました。(未読の方は、こちらからどうぞ)その後、何人かの方から、自分も子どもの頃にハマッていた、というようなお話をお聞きしました。ウチの生徒たちの間での広まり具合は、今ひとつ・・・。さて、書いたとおり、僕は小学生から中学生にかけてこのゲームブックなるものがえらく好きだったのですが、実は、さらに上級者向けのゲームがある。「ダンジョンズ&ドラゴンズ」、通称、「D&D」。こっちも知っているというヒトは、当時はさぞかし、変人扱いかオタク扱いされたことでしょう。(・・・ん?そうでもない?)ゲームブックの場合には、冒険の筋は出来上がっていて、指定された番号のページにとんで、そこの指示に従う。自分がやることといえば、与えられたいくつかの選択肢の中からひとつを選ぶこととサイコロを振る程度のこと。「D&D」は、自由度がかなり高い。プレイヤーとしてゲームに参加するメンバー以外に「ダンジョン・マスター」という役割の人が必要となる。ダンジョン・マスターは、自らが冒険をつくり、それをプレイヤーに語っていく。プレイヤーは、ダンジョンマスターとの会話の中で自分のキャラクターの行動を決めていく。つまり、はじめから用意された筋や選択肢は、ない。テーブルを囲んで、マスターが「おはなし=冒険」の舞台を語りあげ、プレイヤーは、自由に自分の行動を語る。 そうですね~、「おままごと」のさらに高度なものといえばいいでしょうか。僕は、そもそも、「おままごと」の高い効果を信じていて、おままごとがうまくできる子は、必ず、勉強もできるようになる。だが、「おままごと」では、あくまでも自分の身近に実在する家庭での様子、その中での「ロール=役割」を演じる。それに対し、「D&D」ではモンスターが跋扈する洞窟や地下迷路、魔法の世界という、まったくもって架空の世界を創造し、決して現実では存在しえないロールを演じる。その分、自由度が高く、レベルが高い。僕は、D&Dを実際にやったことはありません。友人と「やってみたいね」と話したことはよくありますが、なにしろ、この場合、相当なイマジネーションを有するマスター役と絵や文字を使わず、マスターの語る世界を思い描け、なおかつ、冒険にふさわしい行動を想像できるレベルの高いプレイヤーが必要となる。楽しくこのゲームができる人は、クリエイトというかイマジンというか、そういう点で、相当高いスキルを有する人であると思う。 さて、前置きが長くなりましたが、先日、近隣の高校に通うある生徒が「これを読んでほしい」と、一冊のノートをもってきた。表紙には「ドラゴンクエスト ~導かれし三人の勇者」と書かれている。どうやら、自分で冒険物語を作ったらしい。 ところがところが、これはひとりで書いた、いわゆる「小説」ではないという。 聞いてみると、むしろ「交換日記」に近い。3人のメンバーで書いたということだが、例えば1人目が話の序をある程度まで書き、次のメンバーに渡す。次のメンバーは、1人目が書いた話の続きを書いて、3人目にまわす。こうして、3人のメンバーの間を何回も何回もノートはぐるぐるめぐって、やがて長い冒険物語ができあがった。 これは面白い!面白いというか、素晴らしい!「読んでくれ、読んでくれ」としつこく言うので僕も今日、読破してみて、ぶっちゃけ、ヘンな日本語だらけだし、誤字も間違った語句も多い。はっきり言って、ひどく読みづらいでも、それはこの際、重要ではないんですね。重要なのは、その3人のメンバーが、こうした遊びを思いつき、全員が、まさに「D&D」におけるダンジョンマスターであるかのように物語を綴っていったという、そのこと。これは、いいぞぉ!!願わくば、小学生や中学生が、こうした遊びを思いついて、やり始めてほしいものだ。ぜひ、ウチの生徒たちにはやらせたい。 だが、ここで問題がある。この遊びは、外からの強制によっては決してできるものではない、ということ。そもそもこういうことを思いつく子であるからこそこれが成り立つのであって、そうなると、このゲームによって、創造力・想像力が養われるのか、創造力がある子だから、このゲームをするのか、鶏と卵的な問題になってしまうのだけど・・・。こういうゲームをやっていると、文章を書くことに抵抗感がなくなり、やがては、自分ひとりで小説を書き始めるような気もする。また、もちろん、前からの流れを引き継ぎ、次へつなげる「論理力」も養われるであろう。論理力は、即ち、数学的能力である。だから、すべての力の源として、「鎌田推奨あそび」にしたいところだが、うーん、なにせ鶏と卵、どっちが先なのかわからんからなぁ・・・。Kama
2010.04.18
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(【第8章】へもどる)この塾では、現場の活性化を図り、人材育成の停滞を避けるため、「ジョブ・ローテーション制度」を導入していた。ひとつの現場、ひとつの職種に固定し、その人材が成長を止めることを避けるため、原則一年ごとに、本人の希望に基づいて別の職場・職種に異動していく制度である。 1997年4月、大学新卒者として入社した鎌田は、本部校舎「ひばりヶ丘教室」の教務主任に配属された。教室長・佐々木のパートナーとして、同じ現場で勤務することになったのである。 以降、1999年に至るまで、佐々木、小田切、鎌田の3人はいくつかの現場を転々とすることとなった。 勤務を開始して程なく、春期講習会に突入した鎌田は、いきなり「塾の洗礼」を浴びることとなった。学習塾業界では、夜遅くまでの勤務が一般的なため、午後からの出勤が通例であるが、この塾の講習会では、全員午前9時から授業を担当することになる。特に、授業・生徒指導の責任者たる職が「教務主任」であるため、鎌田の担当授業は最も多かった。そもそも「講師」という職種に全くの魅力を感じていなかった彼であったが、四の五の言う暇もなかった。そして、小田切らとともに、連日に及ぶテスト作成のための徹夜作業である。大学を出たての身で、右も左も分からない状態であったが、「とにかく、徹夜してでもやらなければ」という現場の切迫した状況だけは分かった。 鎌田の同期は、次から次へと会社を去っていった。過酷と言うには、あまりに過酷すぎる労働条件である。彼が社会人となってわずか2ヶ月。5月のゴールデンウィークが明ける頃には、20人いた同期社員がすでに半分近くまで減っていた。多くの先生でにぎわっていたひばりヶ丘教室も、夏休みが明ける頃には、佐々木と鎌田、1人の女性社員の3人のみになっていた。ただ、この3人で運営をしていた時期、少人数体制で一致団結しての仕事は、佐々木と鎌田の深い連携を生んだと言える。しかし、それも長くはなかった。次から次に社員が去っていき、ついには清瀬教室の教室長が、唯一の校舎配属職員とともに去ることになった。つまり、校舎はガラ空き状態になる。 塾で働く者にとって、教え子が無事に進学を決め、卒業するまで見届けることは最も大切なことの一つである。そこまでの苦労も、教え子が受験を乗り越え、巣立っていくのを見て、ようやく報われる。しかるに、清瀬教室は卒業まであと3ヶ月たらずの受験生を残し、ガラ空き状態・・・。 全員にとって苦渋の選択であったに違いない。しかし、誰かが行かねばならない。 選ばれたのが鎌田であった。佐々木らの働きかけもあり、鎌田は「ひばりヶ丘教室」の生徒を佐々木ひとりに託し、清瀬の後始末をするため、教室長として赴任することになった。 翌1998年、4期目の大学新卒者が入社し、一時は新人の活躍に期待が集まった。しかし、状況は一緒だった。次から次へと職員は去っていく。 もはや、鎌田の同期は、たった5人しか残っていなかった。 ~【第10章 ひばりヶ丘黄金期 ~個人技の成せるもの】につづく 参考:1997年以降、3人のジョブ・ローテーション【佐々木】 ひばりヶ丘教室 教室長 ⇒ 本部人事部 部長 ⇒ 武蔵藤沢校 教室長【小田切】 狭山ヶ丘教室 教室長 ⇒ 本部教務部 運営課課長 ⇒ 新所沢校 教室長【鎌田】 ひばりヶ丘教室 教務主任 ⇒ 清瀬教室 教室長 ⇒ 本部営業部 広報課 ⇒ 新所沢校
2010.04.18
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少年時代・・・どうしたら野球選手かプロゴルファーになれるか。 高校時代・・・どうしたらプロのミュージシャンになれるか。 大学時代・・・どうしたらジャーナリストになれるか。 アメリカ時代・・・なんでもできるんじゃないか~カン違い(笑) 就職した20代・・・どうしたら上司に認められるか。 独立した30代頭・・・どうしたらお客様(生徒・保護者)に認めてもらえるか。 独立3年目まで・・・どうしたら自分と社員がちゃんと食えるようになるか。 そして40代・・・どうしたら後身(講師陣、社員)を育てられるか。 成長株である田中先生の残業風景(明日の「入試ガイダンス」と「勉強法セミナー」の資料を作成中)を見ながら(笑)、思いをめぐらせています・・・ ジュクチョウ
2010.04.17
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こんばんは、鎌田です出勤すると、田中先生がコーヒーを入れていたカップの上に乗っけて、その上からお湯を注ぐタイプのヤツ。佐々木塾長の分と自分の分を入れると、戸棚からおもむろにビンを取り出して、スプーンで加える。マリーム。その姿を見ていて、ふと思った。「マリーム」って、どんな意味だろう僕は、コーヒーにそうした類のものを入れないから今まであまり気にすることがなかった。でも、もちろん、名前はよく耳にするわけで・・・。ビンには「marim」と綴られている。一応、英和辞書をひいてみたが、載っていないむ、英語ではなかったか。では、果たして何語だろう??とりあえず、田中先生に尋ねてみた。「うーん、でも、 『クリーム』と「かかってる」のは間違いないですよね~。」おおっ!!なるほど~、「クリーム」と「マリーム」か!!恥ずかしながら、今の今まで気づかなかった。言われてみれば、確かにそうだ。さしずめ、「マ」ろやかなク「リーム」ってとこだろうか。さすが田中先生、発想の持っていき方がスゴイ。そこで、他のも聞いてみた。「クリープ」ってのがある。英語ではCreepという単語はあるが、「Creap」というのは、ない。なんだろう?これは田中先生も思いつかない様子。すると、佐々木塾長が「クリーミーパウダー、pはパウダー」と、あっさりと教えてくれた。ほおおお。なるほど~。僕はまるで思いつかなかったが、これぞ、三人よれば文殊の知恵。 そこでそこで、さらに尋ねてみる。「ブライト」は?これも、英語では「Bright」というのがあるけど、コーヒー用のは「Brite」だ。すると、またしても佐々木先生。アメリカ人なんかが、最近の絵文字感覚でもって、「Night」を「Nite」と書くようなことがあるらしく、たぶん、それだろう、と。うーむ、流石。 ではではでは、「ニド」は? ・・・というような会話が昼の愛夢舎では行われます。別に、ヒマなわけではありません。Kama
2010.04.17
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(【第7章】へもどる)年度末が近づいた。すなわち、新卒者の大学卒業が近づき、同時に鎌田の勤務開始が迫ってきた。この年の内定者は、はじめは40名ほどいた。しかし、いざ勤務が始まったときに残っていたのは、およそ20名だった。 新卒内定者へは、半年以上の期間をかけて入社前研修が行われた。学生対象であるから、研修は土曜と日曜を使う。ひと月に4日程度。「教習所」のように「研修簿」が用意されており、入社までの期間に全ての項目を習得することが、内定者に課せられた。習得すべき項目は50以上におよび、ひと月4日程度の研修では、到底追いつかず、研修日にあてられた日以外にも、個人的に、インストラクターとなる職員と約束を取りかわし、研修に赴くことが必要であった。まして、鎌田の場合には9月からの研修参加。他の内定者に3ヶ月ほど遅れている。急ピッチでの習得が必要となった。 この年、佐々木と小田切は採用チームに加わっていた。 佐々木は、本部校舎である「ひばりヶ丘教室」の教室長として勤務していたため、出入りする内定者とは必ずと言ってよいほど顔を合わせた。その流れから、模擬授業の指導などを中心に行うことが多かった。また、小田切は校舎配属ではなく、運営本部・教務部運営課において課長職にあり、進路指導関係の研修ではアドバイザーとして参加した。 研修期間を経ていくうち、鎌田が2人と出会う機会が出てきた。内定獲得まで、2人と会ったことはなかったが、塾のパンフレットの写真で顔だけは知っていた。鎌田にとって、2人の第一印象は、「怖そうな人」であった、2人とも。 それまで会った職員は、やけに明るくニコニコ笑っている人が多かったが、佐々木は何かこう、真面目な人という印象であった。小田切に至っては、研修の際に内定者どうしが意見交換をしているとき、「・・・あのさぁ、それって、意味、なくねぇ?」と不機嫌そうにボソっと口をはさんでくる。その場の空気は凍りつく・・・。(今にしてみれば、不機嫌でもなんでもなく、それが自然体であったようであるが) 3人が急激に接近したのは、12月に行われた「スキー研修」のときであった。きっかけは、やはり「音楽」であった。何かのはずみで「おっ、キミも音楽、やるの?」と共通の話題が生じ、盛り上がった。鎌田については、音楽は「やる」どころの話ではない。一時はプロミュージシャンや音楽大学進学すら考えたことがあるくらいである。 年度末。当初の「採用内定者」は半数までに減っていた。鎌田が内定者に加わった9月以降、研修の過酷さと実際の勤務への不安から、毎月のように辞退者が発生した。また大学卒業が危ぶまれ、合意の上、内定取り消しとなる者もいた。例の「研修」が修了せず、入社を断念する者もいた。 実は、採用予定人数は初めから20名であったことを鎌田が知ったのは、数年後のことであった。応募者数千名からの選抜のみならず、さらに採用者を厳選すべく、研修期間中にひそかに選抜が行われていたのである。 残った本採用者は、当初会社が期待した「優秀な人材」であったはずであり、いずれも即戦力として各校舎および運営本部へと配属されていった。3名の新入社員が、いきなり教室長に抜擢された。1名の新人が社長秘書に抜擢された。鎌田を含む残りの新人も、要職に配属されていったのである。 ~【第9章 ジョブ・ローテーション ~繁栄あるいは衰退へ】につづく
2010.04.17
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(【第6章】へもどる)1996年9月、当時大学4年生の鎌田昌典は、本部校舎である「ひばりヶ丘教室」の一室に、他の新卒内定者3名と座っていた。 この年で3年目となった大学新卒者採用は、年間を通じて数千万円のコストを投じ、コンタクトをとる学生も数千名。とても開業10年目の会社とは思えない規模になっていた。そうまでして「よい人材」がほしかった。一般企業同様、この塾では5~6月には次年度採用内定者を決定していた。3年目となったこの年は、採用人数枠を拡大し、それまでの2年を準備期間とするならば、本格的な新卒採用の初年度であったと言える。 6月までに内定を勝ち取った学生は、すぐ「入社前研修」に参加する。いかにして経験値のない学生を「即戦力」とするか。組織が出した結論は、大学卒業までの期間に育てるということだった。育てる過程で、脱落者は、やはり出る。たかが月に4日間とはいえ、ほぼ丸一日拘束され、高度な内容の研修を受けるうちに、内定を辞退する者、他社へ流れていく者-。「強い理念」だけではつなぎとめられない人材もいるのは、当然のことであった。 6月時点での内定者は、8月になると事前に定めた予定数を4名下回った。この補充として行われたのが「9月内定者採用活動」である。鎌田をはじめとする4名は、この「補充メンバー」であった。 鎌田が9月内定に回ったのには、わけがあった。それまで鎌田は、全く別の業界への就職活動を続けていた。目指していた業界とは、マスコミ業界-特に、音楽業界であった。 あらゆる業界の中でも、テレビ局、レコード会社などのマスコミは、特に採用活動の時期が早かった。大学3年時の冬に本格化し、4年生になる頃にはほぼ終了してしまう。鎌田は3年生時から就職活動を開始していたものの、競争率数千倍という難関になかなか門が開かず、ほぼ全社が採用活動を終了する5月になって、活動に行き詰った。 対象の業界を少し広げてみよう。そんなことを考えながら、6月、鎌田は母校である高校に赴き、社会科教員のタマゴとして、教育実習を行った。「とりあえず取れるものは・・・」という程度に教員免許取得のための授業を受講していたので、教育実習に参加するも、別に教師になりたいわけではなかった。しかし、実習を終える頃には「教える仕事」についての考え方が少し変わっていた。悪くないかも知れない、と。 夏休み。マスコミ以外の業界も・・・と考えたものの、さて、どの業界を見ようかという段になると、特に思い当たらない。とりあえず、色々な業種の企業が集まる「合同企業説明会」に参加してみた。正確に言えば、鎌田は既にある企業からの内定を得ていた。ただ、滑り止め程度に試験を受けた金融系のその企業には、ほとんど興味はなかった。「本当にどこにも決まらなかったときには・・・」その程度で考えていた。 新宿で行われた企業説明会では、ひやかし半分で色々な会社のブースに顔を出してみた。どの業界にも食指が動かないまま、会場内をうろついていたとき、「どうですか?ウチの説明を聞いてみていただけませんか?」と声をかけてきた女性スタッフがいた。「烏合の衆」ともいうべき会場内において、妙にさわやかで明るく、場慣れしている雰囲気もあり、特に断る理由もなく案内された会社の説明を聞いた鎌田は、ブースを去るときには、会社見学の申込をしていた。 佐々木同様、鎌田もまた、塾業界に全く興味のなかった人間である。さらに言えば、鎌田は「塾」という産業に対して否定的なイメージしか持っていなかった。「塾は受験戦争を引き起こした諸悪の根源だ。」そんなことまで考えていた。 実は、彼自身は学習塾に通ったことがなかった。中学生の頃、成績上位であったことから、どこからどういう風に情報が流れたものか、自宅に学習塾から電話があり、「無料でいいから通ってほしい」という勧誘につきまとわれた。そんな経験からも、塾に対してはマイナスのイメージしかなかった。それなのに、なぜ? 鎌田にとってこの塾は、彼のイメージする塾とは全く違っていた。「勉強がすべてではない」と言い切る姿勢、「人格教育をもって『生きる力』を育てるのです」という力強い、自信に満ちた説明。 彼は文系学生であったが「何かを創りたい」という欲求が強かった。音楽業界を志望したのも、何かを産みたかったからであった。彼がこの塾との出会いで思ったのは「『人』を育てるって、究極じゃないか?」ということだった。 かくして、鎌田は遅ればせながら9月、1997年度新卒採用内定者のメンバーに加わった。 ~【第8章 そして彼らは出会った ~学生の混乱と企業の思惑】につづく
2010.04.17
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(【第5章】へもどる)設立10年が経過した。そもそも個人経営の小規模組織である。新たな職員の補充は、基本的にアルバイトからの正社員登用に限っていた。ある意味、正社員の必要性に乏しかったとも言える。現在でさえ、多くの学習塾は、運営の大半をアルバイトが担っている。大手になればなるほどその傾向は強く、それは数値的な経営戦略によるものであるが、一つの校舎に正社員は1人か2人。彼らはほとんど授業を担当せず、では誰が授業を行うのかというと、それが学生アルバイトである。人件費を最低限にとどめられ、経営効率は良い。 佐々木、小田切の勤務する塾でも、当初は同様の形をとっていた。もっとも、それは経営戦略の上でのことではなく、卒業生の中に「教えてみたい」という意志を持ったものが多かったということからの結果であったが。当時、塾の講師というアルバイトは、時給の高さゆえに人気のある職種であった。特に佐々木・小田切の勤務する塾では、講師個人への期待値と負担が大きかったためか、他塾と比較しても厚遇であったし、さらに独特の強い理念があったため、勤務希望者は多かった。アルバイトの学生が、新たに優秀な学生を紹介、勧誘するなどして、雑誌媒体での募集とあわせると、比較的労せず、人材補給がなされていた。 しかし、「優秀な人材」というのは、この時点では、「類まれなる『個人技』を発揮できる人材」を超えるものではなかった。「その先生にしかできないこと、ほかの人間にはマネのできないこと」が塾内をはびこっていた。それはそれで良いことなのかも知れないが、「企業」という観点において考えるならば、彼らが現場を離れれば『個人技』もなくなるわけで、決して将来が明るいとは言えない。 そこで、塾を「大規模な株式会社」として将来存続させるための「マニュアル」が必要とされた。つまり、極端に言えば、「そのとおりに実践すれば、誰もが『優秀な人材』になれるであろう手本」の作成である。 と同時に、人材補充についても、思いつきであってはならない。出店および経営拡大の計画に則った採用活動の必要性がここに発生する。そして、「マニュアル」が完成したあかつきには、誰もが優秀になれるはずだから、ここで必要な人材とは「ひたすらマニュアルに従う者」である。これまで発展に導いてきた『個人技』は、マニュアルに逆らう、ひいては企業の方向性に対する反骨精神であるとされ、むしろ排除される方向に傾くのである。 こうして、組織は大学新卒者を対象とし、本格的な企業としての採用活動に乗り出した。1994年。まさに、佐々木が中途採用者として門を叩いた年のことであった。仮に採用方法を大学新卒者対象に切り替える決定があと半年早ければ、佐々木の入社はなかったに違いない。そして、もしそうであったなら、小田切との出会いもなく、今の愛夢舎は存在しなかった。 さて、1994年より始まった「大学新卒者採用活動」は、はじめは手探り状態であり、年を追うごとに進化していった。何しろ、新卒者を相手にどのような活動をするべきか、また、内定を出したはよいが、『個人技』を持たない学生をいかに育ててゆくか。採用活動そのもののマニュアル化も同時に行わねばならない状況となった。翌1995年の採用活動は、昨年得た経験を元に、より本格的なものとなった。本部組織内の人事部のみでなく、一部の職員によって採用・教育チームが編成された。大学求人、新卒者向け就職誌への記事掲載、ダイレクトメールの発信、合同企業説明会への参加ほか、募集の方法も多岐に渡るようになった。塾現場において、生徒からの評価が高い講師を中心に、新人講師育成のための教育プログラムも構築されていった。 徐々にシステムが確立し、マニュアル化が進行していくが、採用・教育にあてるコストも膨大なものになりつつあった。 『個人技』の排除と、高コストを投じての新人採用・・・。その向かう先が見通せた者は、社長を含めて、誰もいなかった・・・。 ~【第7章 彼は遅れて来た ~3期新卒採用】につづく
2010.04.16
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(この記事は、「愛夢舎ヒストリー」と関係ありません) 事務で活躍している石塚さんがディズニーランドのおみやげを買ってきてくれましたよ今日は、佐々木先生がオヤスミなので、小田切先生、田中先生と僕が、お先にいただきました。ひとりひとりに買ってきてくれたんですね。ありがとう~~小田切先生には、↓ コレ。ホネのカタチのカンカンに入ったホワイトチョコレート。「わんこ」のイメージでもあったのかなぁ。 田中先生には ↓ こちら。シックなパッケージに入った、コーヒービーンズ・チョコレート。うんうん、田中先生、自宅でコーヒー豆を挽いてるくらいのコーヒー通だからね。よくわかってるなぁ そして、僕には ↓ これ。ふりかけ。 ・・・ ・・・ふりかけうんうん、僕は甘いモノが苦手だからね~、よーく分かっていらっしゃる。 ・・・聞く前に石塚さんが教えてくれましたよ。 「鎌田先生が、コレをかけてたら おもしろいかと思って・・・。」 ・・・・・・でも、僕も、僕がひとりで部屋でお茶碗にコレをふりかけてたら確かにおもしろいと思う。スタッフのことをよく分かっている石塚さんなのでした。Kama
2010.04.16
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(【第4章】にもどる)2人は、年下の小田切が、年上の「新入社員」佐々木を迎える形で出会った。お互いの第一印象は悪かった。それぞれが相手を「いけすかないヤツ」と感じた。 それまで長きに渡って「塾」の空気に慣れ親しんできた小田切は、理屈では説明のつかない「塾の文化」が体に染み渡っていた。「学生のアルバイトなのに、なぜ勤務時間を超えてまで、そんなに働くのか」、「なぜ、新しい発想・提案が必要なのか」、「なぜ、塾の先生がスキーを教えるのか」、「なぜ、『講師』が経営管理までするのか」・・・。改めて問えば、いずれも答えに窮する疑問である。当然のことだ。答えなど、はじめから、ない。しかし小田切は10年近くその空気を吸い続けてきた。彼にしてみれば、全てがそもそも疑問の余地などない、「当然のこと」であった。 これに対し、アメリカという「自由」、「個人」、「契約」の土地で、多くの異国民と関わってきた佐々木には、アメリカ的な、ビジネスライクな発想があったのかも知れない。自分の能力を提供することを条件に、会社と個人が契約する。これが西洋における「雇用」である。留学担当として契約している自分が、授業をしたり、他部署の雑務をこなしたりする不自然さ。これもやはり説明に窮する。ただ、この塾では、理念にひかれてそこに居る人間の割合が極めて高かったため、勤務時間が終了し、普通にタイムカードを打刻して帰宅する、そんな佐々木に対しての視線は冷たかった。何も悪いことはしていない。何の違反もない。残っている仕事もない。理由などないが、でも周囲の視線は語っていた。「この男はなぜ帰るのだ?」そして、その視線を送る者には、やはり説明はできないのだ。「なぜ帰ってはいけないのか」と。 授業のみならず、経理や教材作成ほか、きわめて経営に近い場での経験を多く積んだ小田切は、若くして老練な雰囲気を持っていた。多くの経験を積むことで、年齢に不相応な職務スキルと、その結果としての貫禄を身につける者が多いのも、この塾の職員の特徴であった。あるとき、新人・佐々木のタイムカードの打刻処理に、「それではダメだ」と、小田切は叱りに近いアドバイスを与えた。佐々木は、簡単に言えば、「カチンときた」。「何だ、この人は?」これが、佐々木にとっての小田切の第一印象であった。そんな2人であったが、時を経ずして、職場内で最も仲の良い2人となる。2人とも、音楽が好きであった。音楽が2人をつないだ。程なく、「塾の空気」に順応した佐々木は、留学事業に固執することなく、生徒指導にいそしむようになり、いつしか「誰よりも働く社員」になっていた。これも、簡単に言えば「塾のセンセイ」の仕事に「ハマった」。そうなると、勤務が深夜にまで及ぶことは当たり前となり、少しでも睡眠時間をとりたいところだが、音楽好きの2人は、深夜からカラオケに通った。朝まで歌って、太陽が昇った頃に仮眠をとって、間もなく出勤する。そんな日も少なくなかった。学生の頃にバンド活動においてドラムを担当していた佐々木と、幼少の頃、ピアノを習っていた小田切は、職場内でバンド活動も行うようになり、さらに結びつきが深まったのかも知れない。生徒参加型のスキーイベントでは、2人が中心となってバンド演奏も披露した。お互いの第一印象からは想像し得なかった仲のよさ、信頼関係であった。表面的なタイプも全く異なっており、新しく入社した講師から見ると、なぜ2人の仲が良いのか分からなかったかも知れない。一つだけ言えるのは、2人は全職員の中でも群を抜いて多趣味であり、遊びが好きであった。 ~【第6章 大規模な新卒採用】につづく
2010.04.16
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(【第3章】にもどる)そもそも「学習塾」という産業は何十年も前から存在した。しかし、昔のそれは「一部の生徒が最難関の学校に進学するために通うもの」という印象が強く、「塾=スパルタ式」なんていう図式が世間のイメージにあったかも知れない。これに対し、近年の学習塾は、「学校の補佐的な存在」果ては「学校の代わり」などというイメージまでがつき、ほとんどの生徒が通うものと、その位置づけが変わってきた。こうした、あらたなイメージの学習塾産業は「新教育産業」と呼ばれることがある。 小田切が通い、佐々木が入社した塾は、1983年に創業、3年後の1986年に法人化し、「株式会社」となった。学習塾業界においては、決して老舗ではなく、むしろ「新参者」として数えた方がよかった。ただ、「新参者」でありながらもその勢いは強く、創業当初の校舎であった一軒家は、「運営本部」として校舎としての機能を廃止し、ひばりヶ丘駅前のビルテナント(3~5階独占)をはじめとして、各駅のそばに次々に校舎を展開、会社となってから10年後には、西武池袋沿線に10校舎を展開する規模に成長した。どの塾においても、「成績を上げる」ことは、塾としては当然のことであり、そのほかの点で独自性を出し、他塾との差別化を図るのが一般的な戦略であった。この塾は「生きる力を育てる『人格教育』」を歌い文句にしていた。当時の広告には、こんな文句がある。『これだけははっきりさせておきたい。 我々は「成績を上げればいい」と思ってやっているわけではない。 君たちは将来様々な問題にぶつかる時がくる。人間としての実力が問われる時が来る。 いずれ一人で立ち向かわなければならない。我々がその時のために、 今、授けておきたい力がある。その力とは、自分自身の直面した多くの体験から 幸せに生きる術を「自ら学びとる力」である。我々は塾生の「学ぶ力」を伸ばしている。』この理念にもとづき、年間の学習カリキュラムの中に、キャンプや釣り、スキーや地引き網漁体験学習ほか、多くの体験型学習が組み込まれていた。今でこそ、野外教室や体験学習を行う塾はめずらしくないが、当時としては画期的であったと言える。さらに、こうした体験学習を全て教科学習に結び付けているのが特徴であった。例えば、キャンプの場合、生徒は現地集合。どうやってそこまで行くのかは、生徒が自分たちで調べる。食事も自炊。こうした中で、情報を集める力が身につき、それは教科学習にも役立つはずだと考える。この教育の賜物か否か、新参の塾にしては進学実績は素晴らしかった。中心となる生徒は高校受験生であったが、全国最難関とされる開成高校をはじめ、国立大学付属高校、早稲田・慶應系列、青山学院・中央・明治・法政・日本ほかの有名大学付属高校、公立最上位高校ほか、名だたる有名難関校への合格者を毎年輩出した。 どうしても「進学塾」としての色が濃くなり、入塾を考える生徒にとって敷居が高くなってきたため、1994年には全く好対照の塾として「補習塾」という位置づけの別名の塾を立ち上げた。この塾では「過去は問いません。私たちはゼロからはじめますから」をモットーとし、勉強に対して苦手意識を持つ生徒のために、補習的な内容を指導することにした。 大変なのは、働く講師たちである。進学塾部門では、首都圏最難関校を目指す生徒を指導し、補習塾部門では通知表がオール1の生徒を指導する。さらに、野外教室では(これも指導の一貫と考えるので)講師たちはインストラクターとなり、スキーや釣り、飯ごう炊飯などを指導する。ただ勉強が得意なだけでは、到底勤まらない。講師は講師で、研鑽の日々である。しかしながら、理念にひかれるのは生徒だけではない。大人だって同じである。この塾に自分の考える教育像を見る講師は少なくなく、ほかの塾に行けば、あるいは自分自身で家庭教師でもやった方が余程ラクで、収入的にもワリが良かろうに、チャレンジ精神旺盛な高学歴の講師が集まる結果となった。講師は講師で、とどまるところを知らず、次々と新たな試みを繰り広げた。アメリカのネバダ州立大学、レイクランド大学などと提携を結び、塾に通う生徒を対象に短期留学企画を立案したりもした。 佐々木が「自分の仕事」と見出したのが、まさにこの短期留学事業であり、生徒として、講師として、塾の理念を体現してきたのが小田切であった。 ~【第5章 そして2人は出会った。】につづく参考:1998年当時 校舎一覧 進学塾部門 : ひばりヶ丘教室、清瀬教室、狭山ヶ丘教室、武蔵藤沢教室、狭山市教室 大学受験部門: ひばりヶ丘校、狭山市校
2010.04.15
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(【第2章】にもどる)小田切直之の「塾経験」は、大変長い。 初めて経験した「塾」は、中学2年生のときであった。「できれば、通うのに不便でなく、それなりのレベルの都立高校に進学したい。」高校受験を意識した小田切が、自分自身で通うべき塾を探した。ひばりが丘(現・西東京市)は「大都会」と言うほどの町ではないが、それでも両手の指では数え切れないほどの数は、迷うべき塾があった。「決め手」は何だったろう?塾長の人柄だろうか。ともかく、あまり聞いたことのない、老舗ではなさそうな塾に通うことになった。普通の一軒家を改造してやっている塾だった。なんでも、塾長はもともと家庭教師をしていたが、「良い先生だ」という評判が広まり、いっそ「塾」という形でやった方がよいのではないかということで、家を改造して始めたらしい。狭い一軒家の塾の割には、ずいぶん多くの生徒がいる。こうして、小田切の進学塾通いが始まった。翌年、小田切は見事第一志望の都立高校への進学を果たし、高校受験を成功のうちに終えた。彼は高校生になってもその塾に通い続け、3年後、現役で大学受験に成功することになる。大学生になっても、塾との縁は切れなかった。そもそも、野外教室やらスポーツ関係のイベントやら、勉強以外の企画が多く、そこにこの塾の魅力を感じていた部分もあった。だから、大学に進学して「卒業生」となってからも塾のイベントには参加していた。 そうこうするうちに、いつの間にか塾で後輩を教えることになった。小規模の塾では、元生徒が講師として教壇に立つことも多い。小田切も何人かの同窓生と一緒に、自分の育った塾に「学生アルバイト講師」として残ることになった。塾に通い始めて4年が経った頃のことである。就職活動はしなかった。塾長に「このままウチでやらないか」という誘いも受けていたし、小田切自身、この仕事が気に入っていた。ほかの業界や、ましてほかの塾での仕事を探す必要もなかった。自然、彼は「学生アルバイト講師」から「正社員」となって、塾での勤務を続けた。 何年も勤務を続ける中、色々な人の出入りを見てきた。毎年送り出し、また新たに迎える生徒はもちろんのこと、職員の出入りも激しい。自分のように、アルバイト講師から始める学生もいる。辞めていく職員もいる。かと思うと、正社員を目指して応募してくるヤツもいる。 ・・・佐々木 圭が新入社員として「塾」に加わったのは、小田切が23歳のときのことであった。 ~【第4章 『西武池袋線最強』の塾】につづく
2010.04.15
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~佐々木は英語を活かせる職業を目指し、塾の就職試験に臨んだ(【第1章】にもどる) いざ試験に足を運んでみると、自分以外の応募者はどうも「留学」などということに興味がなさそうな気配である。みんな、先生(講師)を目指してきており、「留学」ということに限定して参加しているのは佐々木だけのようである。はっきり言って、自分だけが異質・・・。採用試験はとんとん拍子に進んでいき、職種の希望などを聞かれる段においても「留学斡旋事業」にこだわったつもりだった。自分は「塾のセンセイ」をやりたいわけではない。英語の能力が評価されてか、佐々木は無事に就職を決めることができた。留学関係の業務を行いたいという希望も認めてもらえているようである。でも、会社の中心業務はあくまでも「学習塾経営」である。現場に職員として加わる以上、塾での教育のなんたるかも分かっていなければならない。だから、とりあえず授業もやらなければならない・・・。そんな理屈も、「そんなものであろうか」と捉え、「まあ、中学生にABCを教えればよいのだろう」と、軽く思った。どっちにしても、それは職員になるために全員がやるべき「義務」なのだろう。アメリカの学校は、年度の始まりと終わりが日本と半年ほどずれる。ニューヨークの大学院を修了した佐々木は、結果的に日本では中途半端な時期に就職が決まり、こういうのも日本では「中途採用」と言うのであろうか、即座に勤務を始めることになった。 とりあえず、何から始めることになるのだろう。よく分からないまま出勤した現場に、若手講師 小田切直之の姿があった。 ~【第3章 そして彼は塾にいた。】につづく
2010.04.14
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(序章「夜逃げ」に戻る) 「学習塾 愛夢舎」の誕生を語るには、そのメンバーの出会いから振り返らねばならない。1994年4月、当時25歳の佐々木 圭は、とある企業への就職を決めた。佐々木が勤めることになった、ひばりが丘(現・西東京市)に本社を構えるこの会社は、学習塾を経営する会社であった。別に、塾に就職したかったわけではなかった。自分の力を試すべく、職種を限って探したところ、行き着いた先がたまたま塾だった。佐々木が探した職業、それは「英語の力を発揮できる職業」だった。 就職を決める3ヶ月前の12月、佐々木はアメリカを離れ、日本に帰国した。彼が渡米したのは、その2年半前の1992年までさかのぼる。(Zapping⇒⇒⇒【Kei.1 父の死】へジャンプ)アメリカで2年半を過ごし、まがりなりにも英語でのコミュニケーションに困らなくなった。大学院での課程を修了し、しばらくはアジア各国に日本の事情を紹介する雑誌のフリーライターとして活動していたが、いざ就職となったとき、「せっかく培った英語力である、できればこれを活かした職業に就きたい」と考えていた。もちろん、ライターでも良かったし、通訳や、場合によっては商社勤務でも良かったかも知れない。 あるとき、佐々木の目にとまったのが、「留学斡旋事業の担当者を募集している」という、就職誌上の募集記事であった。これはよいかも知れない。学生相手に自分の過ごしてきたアメリカを紹介するとともに、現地の大学などに赴き、手配・交渉などをする。自分の留学体験が最も活かせる業種であるだろうし、受け入れ先となるアメリカの学校を開拓するのも楽しそうだ、少なくとも、自分が事業の方向性を切り開いていくことに、やりがいを感じられそうである。佐々木はさっそくこの会社に連絡をいれ、採用試験に臨むことになった。 ~次回【第2章 『先生』としてのデビュー】につづく
2010.04.13
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2000年8月某日深夜。埼玉県入間市の片隅で、佐々木、小田切、矢吹の3人は、コピー機や教材・教具を、トラックに積み込んでいた。行き先は、すぐ近所の一軒家 ―いや、元・一軒家であった。塾としての一大イベント「夏期合宿」を契機に、佐々木は小田切、矢吹の2人の盟友に自分の決意を語り、また2人も自分たちの考えを佐々木に伝え、計画を実行することになったのである。これまでと縁のない新たな環境で、新たな自分たちの塾を作ろう。それまで非常に過酷な状況が続いていた。小田切などは、ほぼ無給で働く日々だった。それでも、自分たちを慕って通ってくれる生徒はいた。そんな生徒や保護者に、迷惑はかけたくない。そこで、3人は元の塾と同じ地域、生徒たちの通える武蔵藤沢地区に別の塾を作り、引き続き生徒の面倒をみることにしたのである。当時通っていただいていた全家庭からのご理解をいただいた。全ての生徒が、新しい塾に入塾してくれることになった。それどころか、新しい校舎を作るにあたって、引越しの手伝いを申し出てくれる保護者もあった。金銭面や生徒数、経営状態などに、決して余裕があったわけではなかった。むしろ、がんばってもがんばっても、生徒にとってプラスになることをすることができない。そんな「理不尽な環境」からの脱出のため、無一文の開校を挑んだのである。ビルのテナントなど、借りられるはずもない。佐々木が選んだ道は、一軒家に自らが暮らし、そこで塾を運営することだった。小田切も矢吹も、その佐々木の決意に賭けたのである。 そもそも、夜逃げ同然の形で「家」で塾を運営することになった理由・・・。そのきっかけは、「夜逃げ」の6年前にさかのぼる。 ~次回 【第1章 そして彼は塾に来た。】につづく
2010.04.13
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こんにちは、鎌田ですおかげさまで、多くの新しい生徒さんに御入塾いただき、今年度が無事にスタートいたしました。ありがとうございます3月初めから、愛夢舎では新年度ということになっておりますが、実際的には、新学年としての学校がはじまるこの4月からが生徒、ご家庭にとっては「新年度」である印象がお強いのでしょう。春期講習会を終え、先週金曜日から名実ともに「新学年」に進級した生徒たちが授業に通っています。昨日の月曜、今日の火曜が、4月になって初めての授業である生徒が多く、新しいメンバー、新しい先生(ふふふ・・・)との出会い、楽しみにしていてくださいね。さて、当ブログも、皆様のご支援を賜り、毎日数百件のアクセスをいただきようになりました。本当にありがとうございます。ただ、最近、どうも記事が偏っている、と言われたわけではないのですが、僕が勝手にそう思っておりましてどういう方面に偏っているかというと、どちらかと言えば、どーでもいいこと、アホなことを追求する方面に偏りつつあるかな・・・とこのブログを始めたきっかけは、愛夢舎という塾がどのような経緯でもって成長してきたかという、その歴史を皆様に知っていただきたい、という思いでした。しかるに、最近は、「そば」だの「仮面ライダー」だの・・・これではいかん・・・とちょっと自戒いたしまして・・・。そこで、数年前からの常連様にとっては「またか・・・」という印象でございましょうが、改めまして、当ブログの本当の目的である、愛夢舎の歴史について、再掲載していこうと思います。「愛夢舎ヒストリー」(本編)を再掲載いたします。歴史は、ヒストリーを書き終えたときからまた綴られておりますので、以前のエンディングバージョンに、加筆するつもりでおりますまた、そんなことには興味がない、アホなことを書けというご要望もあるかも知れませんので、日々のことは、相変わらず綴っていきたいと思います。が、これまで愛夢舎の成り立ちについてご興味のなかった皆様は、ぜひこれを機会に、私たちの歴史について、知っていただければ幸いでございます。どうぞ、ご一読くださいませ。(画面左のカテゴリを開ければいつでもご覧いただけるのですが、 今回、メイン記事としてセンターで連載いたしますので、 毎日の更新をお楽しみにしていただけると嬉しい限りです。)Kama ・・・どこかの出版社が興味をもってくれて、ハナシをもちかけてくれないかな~と、ひそかに願っておりますww
2010.04.13
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「松っちゃん、浜ちゃん」の方ではない「街」の方である。先日、阿川佐和子氏のエッセイを読んでいると、「ニューヨークに着くと、さっそくダウンタウンへ繰り出した」という文があった。その瞬間、僕のカラダに電撃が走った 「ダウン」=「下」「タウン」=「町」 おおおおお~~~!!「ダウンタウン」=「下町」ぢゃないかぁぁぁっ!!恥ずかしながら、30年以上生きてきて、当たり前のように「ダウンタウン」とか「下町」とかいう単語を使ってきて、ようやく気がついた。いや、まったくもって、「盲点」といいますか、日常において、発見というのはあるもんですねぇ。「下町」という言葉は、明治以降、つまり、英語が輸入されて、「ダウンタウン」を翻訳したもので、あるはずがない。また、反対に、「下町」が輸出されて、外国人が「ダウンタウン」という言葉を生んだはずもない。ということは、まったく別の文化圏、まったく別の言葉を用いる思想圏において、人々は「街」に対して、同じ感情をいだき、偶然にも、2つの言語で同じ構造の単語ができあがったということになる。これはある意味奇跡的であるが、ある意味、構造主義の信頼性を裏付けるものでもあろう。この感動、うまく伝えられないなぁだって、まるで別の国で、同じような状況を説明するのに、片や「下」という単語、片や「ダウン」という単語。そして「町」と「タウン」。その文化において同じ意味をもつ単語の組み合わせが起こっているんですよ。なんという偶然であり、なんという必然であろうか そういえば、アメリカで暮らしたとき、同じような体験をしたことがある。ホストファミリーの面々が、「くそっ!!」というような場面で、「ダメっ!ダメっ!!」と言う。うん?彼らは日本語を知っているのか?と思って、辞書で調べてみたら、「damn」という単語に行き着いた。ほほう、「くそっ!!」って状況に対して、日本語と英語では、同じような音で表れるのかぁ。それは言語学を紐解いてみると、ごくごく当然のことと思えてくるのであるが、「ダメ!」と「damn!」の類似、これにも感動したことがある。言語学、構造主義を総合すると、つまり、ヒトはその使用する言語および所属する文化にかかわらず、感情を表現する「音声」について、ある程度の普遍性をもつ、といえる。(↑ なんか、ヘンな日本語ダナー)いやぁ、これはこれは・・・。 ・・・と感動にひたって5分後辞書で確認した僕が目にしたのは、「Down Town」に、日本語の「下町」の意味はないという表記であった もうね、がく~~~~~ん!!!ですよガラガラと音を立てて、感動が崩れ去ったのでした・・・。 ちなみに、日本語の「下町」に相当するのは「Lower Town」だそうです。Kama
2010.04.10
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こんにちは、鎌田ですえ~、僕も昨日気がついたのですが、この楽天ブログの絵文字が、なんか変わりましたね。ほとんどのキャラクターが、ぴょこぴょこ動くこっちがいいという人もいるのでしょうが、僕は、前のネコが好きだったので、いまひとつ・・・さて、唐突ですが、僕は、身長174センチ弱。会った人には、もっとあるように見られるけど、それはたぶん、僕がひょろひょろしているから、特に、首がひょろーって長いからで実際には、173センチ台。靴のサイズは、25.5センチ26だとデカい。がんばれば25でも入るかも。そうするとですね~、その両方を知った人に、よく言われるですよ。「足、ちっちゃ!!」自分ではごくごく標準的と思っているのですが、どーなんでしょう、身長に対しては小さいのかなぁ。よくわかりませんが、もし僕が、足が小さいのだとすれば、思い当たることがある。何回かこのブログでも書きましたが、僕は小学3年生から6年生まで、長野県でスピードスケートをやっておりました。夏場はもちろん、陸上トレーニングということになるのですが、スケート場のオープンする11月くらいから3月までは毎週軽井沢のスケートリンクに通っていたのと、高学年の頃には、学校で校庭にU字溝とブルーシートでリンクを作っていたりもしたので、毎日スケートをしていた。スケート靴というのは、そこそこいい値段がするもんで、靴の部分とエッジの部分は、別の料金。今のようなスラップスケートこそなかったものの、少しいいものを手に入れようとすると10万円くらいしたもんだそれに対して、僕の家族はそもそも長野出身ではなく、千葉県から移り住んでいた。長野に行って初めて、スピードスケートの文化を知った。それで、僕も3年生になったら、クラスの4分の1くらいが入るスケートクラブに参加して、道具一式を買ってもらうことになった。しかし、そういういきさつであるので、僕自身も、たぶん親も、こだわった、いい値段の道具を買い揃えようとは思わなかった。僕がはいていたのは、中古のスケート靴。それを、3年生から、確か、5年生まで、使い続けた。もしかして、6年生までだったかも知れないけど、いくらなんでも、それはすごすぎるので、たぶん1回は買いなおした気がする。でも、1回だ。つまり、僕は伸び盛りである小学中~高学年の時期を一足のスケート靴を履くために、足をぎゅうぎゅうに詰め込んで過ごしたのだ。昔の中国に「纏足(てんそく)」という文化があり、なんでも、足の小さい人を美しいとしたとか。そのため、身分の高い貴族の女性なんかは、幼い頃から、ヒモで足をぐるぐる巻きにしばり、足の成長をとめたという。そう考えると、サザエさんの一家は、みんな足が異常に小さく、さぞかしみんなで纏足をがんばった結果、シャツをどうやって着るのかまるでわからない、頭の大きさに対して異常に小さい足とスリムすぎる肉体美を手に入れたのだろうが、まぁ、このへんはどうでもよろしい。とにかく、僕はまったく意図しないところで「纏足」していた・・・。これが僕の足が小さい原因だ・・・とウチの母親が言っておりましたぁ。 さて、僕の足は、そんなんだが、手は手で、少々おかしい。ホントは写真で見てもらえば一目瞭然なのだが、残念ながら、僕は手を2本しかもっていないので、両手を写すには、少々たりない。なので、これは想像していただくしかないのだが、僕の左右の手は、大きさが違う。「そりゃ、みんな違うでしょう」と言われると思うけど、僕の「違う」は、見た目ではっきり違う。両の手のひらを合わせてみると、左手の指先が、右手の指先から1センチくらいはみでて見える。簡単に言うと、左手の方が、明らかにデカい。これはですね、原因ははっきりしております。ギターのせいです。正確に言うと、ギターの練習の一環で、指の間を広げるトレーニングを、ひまさえあればしていたんですね。その結果、左手がでかくなった。ピアノで言うと、右手だと1オクターブ+1音、ドからレまでがやっとこさなのに、左だと、わりかし簡単にドからミまで届く。コレ、ホントです。そして、僕がギターを弾くようになったのは、中学2年だか3年生の頃。つまりですね、そのくらいの時期からでも、人のカラダって、どうにか改造ができるんですね。その昔、「一・二の三四郎」というマンガで、身長の足りなかった主人公が、気合でもって身長を伸ばしたというエピソードがあったが、僕にとっては、あながち絵空事ではない。さすがに、30を過ぎた今からどこかを改造しようとは思わないけど、十代の生徒諸君は、まだまだ間に合うぞよ。ついでにもひとつ。中学生の頃、僕は非常に目つきが悪い・・・・・・今でも悪いのかもしんないけど、とにかく「怖い」と言われておった。先日は、「やさしい顔をしている」と言われた。お世辞じゃなければ、顔つきも改造されたようだKama
2010.04.09
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こんばんは、鎌田ですテレビなんかを見ていると、おかしなものが流行しているようですね。「ラー油」。ただのラー油ではなくて、なんでも、カリカリのニンニクが入ってて、そのまんま白いごはんの上に載せるとおかずになるという。本家、ピーチハウスのヤツは、「桃ラー」なんて呼ばれて、(↑ もうええやん、桃屋で)そりゃあえらい人気で、どこのお店に行っても品切れ状態だとか。そんな情報を数週間前に仕入れて、イオンあたりに行ってみると、なるほど、ラックはからっぽで、「供給が追いついていません」というような貼り紙すら。ふーん、そんなにおいしいんだぁ。そう思っていた矢先、よく行く近所のスーパーで、コイツを見つけた。ぶっかけおかずラー油。どうやらこのお店では、桃屋の取り扱いはないらしいが、このエスビー食品のにも「フライドガーリック入り」って書いてあるし、やりたいことは一緒なんだろうから、まあいいや、コレでも。僕は、流行しているものには、できる限り追いついていこうと思ってる。それが、あまりに自分の許容範囲を超えていたらハナシは別だけど、とにかく、「知らずに語る」というのは、潔しとしない。そんなんで、とりあえず買ってみた。それで、食べてみた。ごはんにのっけて ・・・。 ・・・うーむ ・・・桃屋じゃないのがイカンのだろうか。 いや、まずくはないよ、まずくはおかしなものが流行するなぁ、と思いました。 これが先週のハナシ。今日そのスーパーに行ったら、売り切れ状態だった。ふ~ん・・・。(あ、ラーメンやギョウザのタレに加えたら、いいアクセントになりました)Kama
2010.04.08
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連日ニュースで、ペット遺体の不法投棄事件が報道されていますね(しかも入間のお隣、飯能市)。 なんか納得いかなくて・・・ 私も昨年夏、愛犬の葬儀をしたのですが、その葬儀屋さんはとても良心的にりっぱな葬儀を行ってくれました(人間顔負けの)。 そしてまた、最近、私の教え子がペット葬儀の会社を立ち上げたばかりです。彼も動物をこよなく愛する人間で、「飼い主の方々が、悲しみの中にありながらも前向きな気持ちで、愛犬(猫)たちとお別れするには、どんな葬儀をしてあげるべきか」ということを私に話してくれます。 今回の事件は、そういう良心的なペットの葬儀屋さんたちには大変迷惑な話ですね。 たまたま、私の周りにそのような良心的な葬儀屋さんがいらっしゃいましたので、そんな業者さんたちへの応援メッセージとして書かせていただきました。 ジュクチョウ
2010.04.07
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こんにちは、鎌田です今日は、春期講習会最終日。各学年とも、授業日に勉強した内容の定着度をはかる「確認テスト」を受験します。午前中は新しく中学・高校に入学する「新1年生」が、そして今は、小学生と高校生がそれぞれのテストを受けていきました。昨日の「復習」の成果もあって、100点満点も出ました♪(どんなテストであっても、満点はすごいのです~~)これから、中学2・3年生がやってきます。彼らのテストが終わると、講習会は幕を閉じます。今日の先生たちは、採点マシーン赤ペンの残量が一気に減る一日です。Kama
2010.04.05
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こんばんは、鎌田です朝9時から始まった、春期講習復習日。午前中の高1生、中1生、昼から夕方にかけての小学生、高校生が帰宅し、今は、中3生と中2生が復習にいそしんでいます。いつもは笑い声の絶えない↑このクラスも今日はシーン・・・もくもくと鉛筆を走らせています。「やりっぱなし」にならないよう、明日の確認テストに向けて、がんばる。先ほど、小学生のひとりが「疲れる・・・」と嘆いておりましたが、そーなんです、勉強は、非常に疲れるもの。だから、愛夢舎の合宿では、一日中勉強しかしていないのに、お腹がすいてしょうがない。バッチリ3食、おかわりしながら食べても体重は増えない。「授業」は、勉強をラクにするための、ある種の「麻酔」。今日こそが、自分の苦手なところを「治す」、治療の日です。あと3時間、がんばれ!!Kama
2010.04.04
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おはようございます、鎌田です今日は、春期講習会5日目。「復習日」と銘打ったこの日は、これまでの授業で勉強したことがちゃんと身についているかどうか、テキストの問題を解きなおして、確かめてみる日です。春期は期間が短いから比較的忘れにくいですが、それでも、初日に勉強したことなど、往々にして、忘れてしまっているもの。「やりっぱなし」を防止し、新学期からの学校の勉強に確実につなげるための愛夢舎の講習会の特徴です。↑ こちらは、この4月から中学生になる、新1年生のクラス。普段の授業では、先生の大きな声がひびき、生徒たちの元気な発言や笑い声にあふれるクラスですが、復習日の今日は、いつもとはちがう、静まり返った感じ。聞かれる生徒の声は、すべて問題に関する質問です。「勉強は、自分の力で、 自分のわからないことをクリアにしていく。」そのことを、この復習日で学びます。ある意味、最も大きな「学び」です。「復習日」は「自習」とは違います。「勉強の仕方」を先生たちに教わる日です。ご覧のとおり、1年生のクラスには3人(…撮影している僕も含めれば4人)の専任ベテラン講師がびったりついて、問題の解き方だけでなく、復習の進め方を逐一指導していきます。特に、彼らにとっては、この勉強の姿勢を身につけることが、1ヶ月後に初めて受ける、中学校の定期テストの勉強でさっそく活きてくるのです。↑ 隣の教室では、新高校1年生が、同じく復習。さまざまな難関にぶつかり、愛夢舎名物夏期合宿を過ごし、晴れて受験勉強を突破してきた彼ら、さすが、知ったるもんです♪先生がいちいち修正しなくとも、自分たちのすべきことをちゃんとわかっています(もちろん、無言・・・もくもくとやってます)今日は時間差で、全ての学年の子がこうした指導を受けます。夜9時までいきまーすKama
2010.04.04
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こんにちは、鎌田です春期講習会4日目です。愛夢舎の「春」は、4日間の授業の後、丸一日かけて、学習内容の復習をします。明日の「復習日」をうけて、最終日には確認テスト。「復習日」こそが「実力」がつく日であり、実は、もっとも重要な日であったりもする。(先生たちが、もっとも疲れる日でもある・・・) それにしても、だいぶん暖かくなってきましたね~ ・・・そうでもない? ・・・入間市民にとっては、これでもずいぶん暖かいんですよ~。 さて、暖かくなってきますと、僕の「愛用品」の出番でございます。↓ コレ。扇子。当初は「なんで持ってるの?」とか言われましたが、なんでと言われても、なんとなくいつの間にか持っていたので・・・。そうだなぁ、ラッシュ時の電車通勤をしていたサラリーマン時代に、ホームでパタパタ仰ぐのに持っていたのが、講師職に戻っても続けて持っていたから・・・かなぁ。いつの間にか、僕のトレードマークとなっている・・・と思います。「持ちすぎだろう!」というツッコミもあるかも知れませんが、下は500円、上は5000円まで、いろいろそろえて楽しんでいます。さすがに扇子に万単位をつぎこむほどの甲斐性はありませんが。『「にゃんこ」、「扇子」の鎌田』として覚えていただければ♪ 先日、今年はじめて扇子を生徒の前で広げたら、「扇子の鎌田」を知らなかった子がフシギそうに見ていた。で、何種類も持っていることを知ると、少々驚いていた。 「扇子のセンス、いいですねぇ~~~~」 ・・・。・・・愛夢舎の子たちは、そんなレベルのことは言いません その子は「扇子のファンですか?」と言いました。(かるく塾長がツボに入ってた) 僕のトレードマークは、もうひとつあるようです。右手のうでわ。生徒に言わせると「数珠」だそうですが、これが数珠なんだかなんなんだか、している僕も知らない。で、これも「なんでしているんですか?」と言われますが、やっぱり、なんとなく、いつの間にか・・・という感じなので。自分でもはっきりした理由をもっていないから、冗談でこんな答え方をするときもある。「そうだなぁ、ほかの先生と『見分けるため』だなぁ。」実際、この1ヶ月ほどでいきなり愛夢舎の先生が倍増したので、特に新人生徒さんたちはどれが誰先生だか、覚えるのに大変かもしれない。僕らは、直接授業を担当していなかったとしてもすべての先生と仲良くなってほしいので、「にゃんこ」、「扇子」、「うでわ」をみたら、それが「カマタ」だと思ってくださいねー。脈絡のないハナシで、失礼しました。Kama
2010.04.03
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春期講習・4月と、たくさんの入会をいただいております。感謝の嵐!(ゲリラメッセージも書かなきゃなぁ・・・) (新)中1クラスは4月からクラスを増設することに決定しました。また、募集を再開いたします。是非お問い合わせください。 春期講習終了は4月5日(月)です。 (4/6~8は休館日となります) 新学期再開は4月9日(金)です。
2010.04.02
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おはようございます、鎌田です春期講習会2日目でございます。月もかわり、生徒たちのタイムカードに書かれる学年も「新○年」が「○年」に変わりました。学校でも、いよいよ新年度のスタートです。 さて、まったくもって私事で恐縮なのですが、ここで、ひとつ、重大な発表をさせていただきます。 ついに、僕も結婚いたしまーす♪ ・・・すいません、ウソですなにせ、今日は4月1日、「エイプリルフール」でございますから。なんか毒のないウソをつこうと思ってはみたものの、結局、こんなのになっちゃったコレが相変わらずウソであるのが悲しい・・・ さて、エイプリルフールに関しては、実は2年前にすでにブログに書いておりました。基本的に思うところは変わっていないので、以下、当時の記事を引用(←で日本語、正しいのかな?)いたします。--------------------------------------------(以下、2008年4月1日の記事より)今日は4月1日。エイプリル・フールの日だ。この日の由来は、僕は知らない。が、とにかく嘘をついても許される日であるらしい。しかし、この日を楽しむことができるのは特定の人に限られると思う。 それはすなわち、普段、ウソを言わない人。 自分で言うのもなんだが、僕は極めて、ウソを言わないと人間だと思う。いや、そうありたい、そうあるべきだ、そうでなければならないと思っている。 少なからず、この仕事についていて僕らの言うことを信じてくれる人がいる以上、結果論だとしても僕らの言うことがウソであっては悲しむ人が出てしまう。それは仕事上のことだけではない。だから僕は、今となってはできる限り本心で語っているつもりだ。 今日が4月1日だということを知って、何人もの生徒が僕にウソをついた。ある子は僕に「引越しすることになった」と言う。 「へぇ、そうなんだ」という僕に「へへっ、ウソだよ~」と笑った。 ウソが笑って許されるのは普段、その人が正直だから。普段からウソつきであったとしたらそのウソに、なんの面白みも愛嬌も、ない。正直に、赤裸々に語ることはひょっとすると恥ずかしいことかもしれない。でも、赤裸々に語る勇気をもっているからこそウソをつくことが許される。 そんな日だと思っている。先に書いたが、僕は人の信頼を裏切らないよう普段から、ウソを言わないよう、気をつけている。それは、不可抗力で僕が意図せずともウソになってしまうようなことであっても出来る限り「本当」になるように気をつけている。-------------------------------------・・・とまぁ、当時こんなことを書いて、その後にウソを2つほど書いたのだったが、そのときにも「結婚します」とウソついた。 ウソをついてバチがあたったのだろうか。 未だ、ウソは現実になりませんよよよ・・・・Kama
2010.04.01
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