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『江藤淳と大江健三郎』小谷野敦(筑摩書房) 本書は、基本的に、文壇ゴシップの積み重ねであります。 この筆者はいろんなテーマの本を書いていらっしゃいますが(私もすべて読んだわけではありませんが)、何をテーマになさっても文壇ゴシップ集的な展開となっていて、まー、それが個性ですね。それを面白がる者も(私なんかもそうかな)おります。 筆者もその辺りは心得ていて、「あとがき」に「いつもの通り、作品論はあまりやらず、逸話で語る伝記」と書いていらっしゃいます。 タイトルのお二方の「逸話」はもちろん、それ以外の方のもたくさん書いてあります。 そっちのほうをちょっと、短く書き出してみますね。 西脇(順三郎)は詩人として名高く、のちノーベル賞候補と言われるが、ノーベル賞を貰いたがって醜態に近かったのは、堀口大学と並ぶ。 (江藤淳と小林秀雄の対談の一部を引用して)……それは江藤の言うのが正しいので、私はこんなのを読むと、なんで小林秀雄のような馬鹿を日本人はありがたがるのか、情けなくなる。 八三年には、小島信夫の『別れる理由』が野間文芸賞を受賞している。このむやみと長い小説は、読み通した人は少なく、『群像』に延々と連載された身辺雑記小説で、くだらないものである。小島はそれ以後も、この手のしまりのない身辺雑記を、しまりのない文章で書き続けて、なにゆえか偉い作家のように思われて世を去った。大江は小島から、才能がないとはっきり言われたと言っている。 という感じでとても面白いですが、一応ここまでで置いておきます。 で、さて、江藤淳と大江健三郎ですが、なぜ筆者がこの両名を並んで取り上げたかについては、今度は「序文」に、自分は大学在学中に大江のように小説家デビューを目指したがそれがかなわず、大学院に進んだ頃、今度は江藤のような文芸評論家になろうと方向転換したと、たぶんこれでしょうかね、なかなか夢多き青春です。 そして本書を書こうと思ったきっかけについては、江藤の自殺後、年と共に江藤の存在感が薄れ、江藤関係の書物も売れなかったとか聞き、そんな中で果たして江藤淳は本当にそんなに偉かったのかという疑念が深まったとあります。 なるほど言われればそんな気もしますし、でも現代に生きるほとんどの文筆業者の運命は、そうなっているんじゃないかとも思いますね。 ともあれそんな形でお二方が並んだようですが、しかし考えれば、二人のことを書くに当たって、一方の人がすでに亡くなっているというのは、いかがなものなんでしょうか。 物言わぬ死者の方に厳しくはならないでしょうか。 まー、あっさり結果を言いますと、そうなっています。江藤淳にはかなり厳しい評価となっています。 でも、例えば大江健三郎には、本書を書く上で手紙で疑問点を問い合わせ、返事を貰ったりしているのですから、これではまー、そうなるのも宜なるかなと思いますね。 でもでもさらに、そもそも大江と江藤では文学者としての器がかなり違うという気もして、そこまで考えると、始めから無理な比較、非対称な二項対比だとも思います。 それは、重要な文学的評価以外の部分でも、江藤が厳しい指摘を受けている所がかなりあって、実はそんなところが結構面白いのですが、少し江藤にかわいそうな気もします。例えばこんな部分。 (引用文の後)江藤の自慢臭ふんぷんたる回想文である。最後の最後、遺書に至るまで、江藤はこういう大舞台で見得を切るような文章から手を切れなかった。 江藤は賞をとったり芸術院に入ったりすると、手放しで喜びのエッセイを書く。稚気愛すべしとも言えるが、そういう自分を客観視する視点がないから、厭味に見える。 (大江のジョークのエピソードに続けて)つくづく思うのだが、こういう話の出来ないところが江藤のダメなところで、江藤は、「やはり妻は怖いので」みたいな、よくあるジョークを使うことすらなく、自分が不遇だと思えば悲憤慷慨し、それを国家全体の大問題のように言うことしかできないのだ。 いかがでしょうか。一方の大江健三郎は確かに、小説作品からも感じられますがなかなか豊かなユーモアのセンス(それはかなり個性的なものですが)をお持ちのようです。 というわけで、わたくしは楽しく読書致しましたが、このお二方が並んで取り上げられる理由はあまり無いということが分かりました。 ちょっと本線から離れますが、かつて斉藤美奈子が、文芸評論に村上春樹と村上龍が並んで説かれることが多いのを取り上げて、名字がたまたま同じだけでそれ以上の比較をする意味は全くなく、村上龍は比べるならむしろ田中康夫じゃないかと言っていました。田中康夫はどうかとは思いますが、基本的には私もそう思います。 ただ、これは本書のサブタイトルにあるのですが、『戦後日本の政治と文学』という作家の二面性を、この二方が少なくともそれぞれに高い意識で持っていたという視点でまとめますと、この両者は十分比較の対象となり、また実際、彼ら以降そんな文学者は稀な気がします。 もっとも筆者は、この二人の政治意識のあり方については、対極にありながらもどちらも理解しがたいような拙劣さにあると指摘しています。 最後に、私が本書の中でもっとも笑った、大江のエピソードの記述を紹介します。 高校時代大江が『オデュッセイア』を読んでいると「ガーター」という語が出てきます。英和辞典で調べると「靴下どめ」と書いてあるのですが、大江青年はよく分かりません。そこで側にいた学校図書館の女性司書に聞くと、大江をからかったのか、女子体育の先生に聞いてみたらいいと言われます。この先、引用しますね。 そこで狭い体育館へ行くと、女性の体育の先生は備品の点検をしていた。ガーターとは何でしょうかと訊くと、君、そこのドアを閉めなさい、と言い、スカートをぱっとめくって、これがガーターです、と言い、「いろいろ詳細にスカートの下の様子を見せて、説明してくださった。私の人生で、あれだけ圧倒的な経験は他にない(笑)、といいたいほどの思い出です」(『読む人間』)。どこまで本当だか分からない。 最後の「どこまで本当だか分からない。」のコメントが、実にいいですね。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2017.12.30
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『おじさんはなぜ時代小説が好きか』関川夏央(岩波書店) 前回の続きです。 前回私が本書から取り上げて報告していましたのは、例えばこんな箇所です。 (前略)古風な道徳に殉ずる覚悟を持つ者は「近代的自我」の束縛から自由です。そういったことが私たちの好感を誘うのは、不思議なようでいて、自然です。 おじさんと時代小説の相性のよさは、たしかに「保守化」と関係があるでしょう。しかしその根底には「人間は進歩しない」という経験的確信があります。生活は便利さを刻々と増すが、それは人間の質や幸福感の向上とは何ら関係がない、という苦い認識です。 ここで指摘されているのは「ユートピア小説」としての時代小説、そして時代小説が「ユートピア小説」である理由は、人間の内面(=自我)をテーマにはせず、人間社会の永続性をへの信頼を基盤としているからであるという事が描かれているとわたくしは理解しました。 つまりそんな展開の許、筆者は見事に時代小説の「応援団」を果たしているということであります。いえ、これで納得していいのだとは思います。 でも、ややこしいことの好きなひねくれた難儀な性格の私は、ふとこんな指摘にも目がいったりします。 義理や人情は現実にいまでも私たちの原理として生活を律しているのに、なぜか現代文学では扱いません。そして不思議なことに、それを扱ったら恥ずかしくて読めないものになってしまう。やはり、「人間は不純である」したがって「私も不純である」という現実認識や、「不純であってなぜ悪い」という居直りが現代文学の背骨をつらぬいているからでしょうか。しかし時代小説になるとなぜか恥ずかしくなくなる。この謎はきちんと解かれてしかるべきだと思います。 少し屈折した指摘のように読めます。(それは多分途中に、言わずもがなの現代文学に対する非難めいたニュアンスの表現が入っているからでしょう。筆者は時々こんな近親憎悪感情を書くようですが。) 簡潔に言えば、時代小説になぜ義理人情はマッチするのか、ということでしょう。 あまり「謎」という感じはしないのですが、もしそれが謎であるならばと、わたくしも考えてみたので、ちょっとその私見を書いてみます。 象徴的に述べればそれは、そこには刀を常時持っている人たちがいるからではないでしょうか。 詳しくは覚えていませんが、確か『葉隠』の中にも、武士は迷ったらとにかく死ぬことが肝要だとあったように思います。常時刀を持っていると言うことは(もちろんそれは武士だけですが)、人を殺す自分、人に殺される自分、そして我が腹を切る自分が極めて身近な未来として想像できる(想像すべきであるというのが武士の心得)ということでありましょう。 このことを「人命軽視」と指摘するのは、とんでもない見当違いでしょうか。過去を現在のモラルで断罪する愚でありましょうか。 本書にも取り上げてある森鴎外の「殉死三部作」は、死ぬことで生きるというテーマではありましょうが、次々に簡単に人が死んでいく様は、やはり人命軽視文化の現れとも思います。 これも本書で少し取り上げている山田風太郎の一連の「明治小説」の中に、確かこの時代の人命軽視は明治という時代がやはり一種の地獄のような時代であったという指摘があったように思います。 さらに連想は飛躍するのですが、ふと思いだした小説として、岩井志麻子の『ぼっけいきょうてい』という短編集に描かれた昔のある地方の庶民の人生には、マイノリティー(例えば両親がいないこと、貧しいこと、身体に障害があること、さらには女性であることなどの、様々な社会的弱者であること)な人間の運命に訪れる圧倒的に残酷な人間性の完全否定が、ホラー小説としてオカルティックに露悪的にどろどろと描かれています。 いえ、わたしは何も「ないもの買い」をしようというわけではありません。 それこそ「言わずもがな」な指摘をしただけなのかも知れません。 ただ、上記に筆者が少し意地悪をいった「現代文学」の主なるテーマには、それこそ筆者の「謎」の指摘の解決に向かって奮闘している文学者が数多くいると言うことを、ちらりと思っただけであります。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2017.12.17
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『おじさんはなぜ時代小説が好きか』関川夏央(岩波書店) 城下には日々剣術の稽古に心を鍛えながら、袴の折り目も真っ直ぐに、すばやく歩み去る若い武士がいます。たゆまず家の仕事をこなしながら、天地を恨まない女たちがいて、堀割を流れくだる水のように清涼な印象の娘たちがいます。町家の居酒屋に集って、一匹の冬の鰊を三人で分けながら、卵を抱いたいちばんおいしいところを譲り合う老いた武士たちがいます。 そういう人たちが住む世界はある種のユートピアです。そのユートピア性は、彼らが歩む道、彼らが渡る清流の橋が百年かわらないと頼もしく思われる気持からもたらされます。 いかがでしょうか。この文章は本書の、藤沢周平について書かれた部分から引用しましたが、いかにも時代小説の「ユートピア」性が、読んでいて羨ましいばかりに書かれていますね。 そもそも本書は、タイトルから想像されるとおり、時代小説の良さを説こうというテーマの本ですから、まぁ、これくらい褒めていたってまず全く「問題」はありませんよね。 その本が人間世界のどんな現象を取り上げたものでも、褒める(よく知らない人にその世界の素晴らしさをレクチャーする)というテーマに絞って書かれていれば、きっとこうなります。 例えば、『素晴らしきプロ野球の世界』『アマゾン礼賛』『インナーウェアの誘惑者たち』『宮大工が語った』『お天気お姉さん万歳』等等……なんてどうでしょう。 という風に、まず考えて読みます。つまり、手放しで褒めるのオッケーが前提です。 では次に、何について褒めているのか、これをちょっと考えてみます。 まず、こんな記述から。 司馬遼太郎は自己憐憫や卑下自慢を性として嫌っていましたし、その憐憫や自慢の対象となる「私」を軽んじていました。つまり「私」なんかちっとも大切ではないということです。したがって「私」のなかにあると認定された文学的「内面」の存在をも疑っていました。「内面」などない、または「内面」などいらないというのです。 もし『蝉しぐれ』が時代小説でなかったら、ちょっと恥ずかしくて読めないかも知れません。ところが時代小説ならすらすらと読める。ばかりか、さわやかに読める。それは「内面」というものが描かれていないからです。作者自身が「内面」を信用していないからです。 ……なるほど、時代小説のユートピアを第一に保障しているのは「自我」の否定であるというわけですね。そういわれると確かに納得ができそうにも感じます。 しかし自我を否定した個人は、代わりの何に精神的に依存して生きるのでしょうか。それについては、既に冒頭の引用文にも書かれてありましたが、筆者はこう説いています。 歴史小説から史伝に移った晩年期、鴎外は学術文化の伝承ということを考えました。(中略)やがて『渋江抽斎』を書きました。とうに死んでしまった江戸の知識人と鴎外は、学術文化への態度や趣味でつながっています。またその線上には多くの有名無名の人があらわれては消えていきます。それらの人々の歴史的な営みの末端に自分はあり、死者とのつながりのなかで自分は安定した境地が得られるのだ、と鴎外は考えたのでした。 冒頭の引用文の「彼らが歩む道、彼らが渡る清流の橋が百年かわらないと頼もしく思われる気持」と基本的に同じですよね。一種の歴史性に依拠した「諦念」でありましょう。 そして一方で、筆者は時代小説に定番の批判については、こんな風に「居直り」ます。 人が「義理と人情は古い」とか、「あいつは浪花節だね」というとき、それは古さをばかにしているわけですが、なぜ義理や人情や古さがばかにされるようになったのかと思います。 (中略)学校へ行くのも就職するのも義理ではありませんか。恋愛や親切は人情ではありませんか。お世話になった人からの頼みは断りにくい。そこには義理と人情の相克がありましょう。現代も人の世は、義理と人情を軸に回転しているでしょう。「トラウマ」で壊れた人ばかりの世の中になれば、義理も人情も無用ですが、その場合、世の中そのものもなくなってしまいはしませんか。 ……えっと、今回は少し引用だらけの内容となってしまいました。 時代小説の「肝」を筆者は「内面の否定」と分析していることについて、なるほど大いに納得しつつ、しかし、内面を否定された登場人物ははたしてどのような規矩のもとに実際行動するものなのか、そしてそれは本当の「ユートピア」なのかなどを、次回もう少し考えてみたいと思います。 ……えー、続きます。すみません。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2017.12.10
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