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『夏目漱石・こころ』姜尚中(NHK出版) この本はNHKの番組「100分で名著」の、タイトル・テーマの時の内容をまとめた本ですね。この番組は私も結構楽しく拝見しています。 ところが、この漱石の時は見ていないんですねー。なんでだったんでしょーねー。 とにかく、そんなわけで本書を読んでみました。とっても面白かったです。 そもそも筆者の姜尚中氏が、漱石フェイヴァレットな方なんですね。だから、同じNHKの他の漱石特集番組なんかでも、幾つかナレーションや解説などをなさっていたのを私も知っています。 私はそんな筆者にとっても好感を抱いていたのですが、先日読書友達の女性に、本書がとても面白かったということを喋ったら、あにはからんや彼女は「でも姜尚中って方、独特の『暗さ』がありません?」と言うではありませんか。 なるほど言われてみればそうも言えそうで、さらに彼女が言うには、「あの暗いトーンで本の内容をあれこれぼそぼそと分析されてしまうと、もー、私なんか、どんどん暗ーく重ーくなってきて、その本が読めなくなってしまいそうなんです。」 ……うーん、まー、いろんな感じ方があるモンですねー。 そこで私は、確かにその通りのところがありますよねー、むにゃむにゃ……とお茶を濁したのですが、言われてみればまさに本書はそんな本です。 例えば、本書の表紙には、タイトルと著者名と並んで、「あなたは、真面目ですか」という一文が書いてあります。 このフレーズは漱石の『こころ』の本文にある一文ですから、私はそんなに違和感はなかったのですが、でもよく考えてみれば、確かに「あなたは真面目ですか」なんて、いきなり表紙で問われたりすると、思わず怯んでしまいますよね。暗さもここに極まれりという感じがします。 というわけで、「暗さ」の国から「暗さ」を広げるためにやって来た使者のような姜尚中氏による、漱石作品の「暗さ」の総本山のような『こころ』の解説書です。 いえ繰り返しますが、私はとても面白く読んだのですがね。 さて読んでいると、やはり、出てきましたねー。 『こころ』は「デス・ノベル」である、とあります。 主な登場人物のほとんどが死ぬと書いてあります。(本文に列挙してあります。「先生」、K、「私」の父親、お嬢さんの母親、明治天皇、乃木将軍。……でもこの列挙は、ちょっと我田引水の感がありそうですが…。) ……うーん、確かに暗い。 もちろん本文には、筆者が『こころ』を「デス・ノベル」だと解釈する説明が、丁寧に書いてあります。 それはこういう事ですが、箇条書きにしてまとめてみますね。 1、漱石は、近代の幕開けである明治という時代の根元的な「不幸」を、 徹底的に突き詰めた最初の作家である。 2、その「不幸」は、明治という時代が近代的自我と個人主義を要求し、 そしてそれは人間の孤独を代償としていたことによる。 3、特に日本の開化は西欧列強からの圧迫による「皮相上滑りの開化」であるため、 やめるにやめられず、「涙をのんで滑って」いくしか方策はなかった。 4、その結果、国民は精神を病むことから逃れられず、そして病んだ精神の 先にあるものは「死」である。 なるほどねー。でもこのまとめは、文明評論をテーマとした有名な漱石の講演「現代日本の開化」の内容とほぼ一緒ですよね。(病んだ精神の先にある死までは、講演では述べていませんが。) しかし姜尚中が本書で言うには、小説『こころ』にこそこの理論が血肉を持った登場人物たちのドラマとして描かれている、と。 例えば『こころ』のいくつかの疑問点、本当のKの死因は何なのか、「明治の精神」とは何なのか、なぜ「先生」は妻に真実を語らないのか、当事者男性二人が自殺するこの三角関係に別の解決策はなかったのかなどといったものが、「現代日本の開化」の内容をトレースすると、それなりに納得のいく形で見えてくるように思います。 実は私は以前より、なぜ漱石だけが今に至るまで日本国民の「師」のごとき扱いを受けのか、疑問を持っていました。 小説家としては彼以外にも優れた人はいるだろうに、なぜ漱石だけが別格なのか、漱石は私にとってもフェイヴァレットでありますが、でもよくわからないでいました。 本書を読んだ後でも、そのことについて納得できたというところまで感じることはできませんでした。 しかし、50歳になる2か月前に亡くなった、晩年は幾つもの病気に悩まされ続けていた、そして小説を作るという特殊な才能に傑出していた一人の日本人が、生涯をかけて考え続けていたことは、少し鳥肌が立つような「偉大」なことだったのかもしれないと、ふと私は考えたのでありました。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2017.08.25
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『夏目漱石』十川信介(岩波新書) 漱石イヤーの2年目という事で、改めて漱石関係の本を読みました。 こういう風に、タイトルにまともに作家名を入れた評伝は、当たり障りのないことしか書いていない入門書のような気がしませんか。 そう思って私は、本書を買おうかどうか少し迷ったんですね。でも本の帯に、かつて1000円札に描かれた有名な漱石の写真が印刷されてあって、その隣にどうも漱石の書簡からの引用じゃないかと思うのですが、わりと大きな字で一文が書かれてありました。 この一文がなかなかいい文で、まー、言ってみれば本書の宣伝担当者の狙いに見事に私は引っかかったのですが、この一文に後押しされて本書を買いました。 それはこんな一文です。 「僕も弱い男だが弱いなりに死ぬまでやるのである」 いい文でしょ。ただ、私が読み落としたのか、この文が本文のどこにあったのか分からないんですけどー。 ま、そんなわけで買って読んだ本です。 しかし私が買おうかどうか迷った「危惧」はやはり少し当たっていまして、漱石入門書めいた部分がかなりありました。(いえ別に入門書の記述がいけないというのではないのですが、一応すでに知っている情報をそのままに読まされるのに少し、少し抵抗があっただけのことです。) でも逆にそんな少々の不満を抱えながら読んでいたからか、ところどころハッとするような指摘に出会えました。そんな中から一つを紹介したいと思います。 『坊ちゃん』についてなんですけれど。 『坊ちゃん』について、私は以前から二つの疑問を抱いていました。なぜ私がそんな疑問を持ったのか、素朴に『坊ちゃん』本文を読んだ感想だったようにも思いますし、漱石関係の評論のたぐいに書いてあったのか、よくわかりません。とにかくこの二つの疑問です。 1、少年時の坊ちゃんはあまりに両親に愛されなさすぎはしないか。 一方なぜ下女の「清」はあれほど無条件に坊ちゃんを愛するのか。 2、坊ちゃんと清が同じ墓に入るというのは、なにか少し変ではないのか。 この二つについて、私でもそれなりに答えることはできそうなのですが(ちょっとだけ書いてみますね。この人間関係・家族関係は漱石のあこがれだった、とか。)、本書の仮説によると一気に解決できます。こんな仮説です。 強引すぎる推測を承知で言えば、「俺」は草双紙に出てくるような、父と清の間に生まれた子供だったという感じさえ生じてくる。「婆さん」と言っても、当時の感覚では四十女は婆さんである。(中略) ……うーん、どうでしょう。本文ではこの前後に、もう少し続けてこの仮説の証明がされています。 例えば、「清」は主人(坊ちゃんの父親)の意に反してまで坊ちゃんをかばうが、この時代下女はあり余っていて、なぜ清は本当に失職の恐れをも厭わず坊ちゃんをかばったのかとか、父親の死後、坊ちゃんの兄が、坊ちゃんへの手切れ金と一緒に清にも六百円を渡しているが、この額は下女の退職金としては高額すぎると書いてあります。(もちろん兄は、清の真実を知っていたんですね。) また、『三四郎』について書かれた箇所にも、「広田先生」の見た夢の話に絡んで「両親の子供ではない幻想」とでも言うべきものが(これは広く少年少女が取りつかれる幻想ですが、漱石の場合はさらに「心の傷」として実際にそんな状況下にあったことは有名な話)、仮説の逆照射として書かれてあります。 ……という風に、なかなか興味深い指摘が所々にあります。 「あとがき」を読みますと、筆者が本書の狙いについて書いています。必ずしもその通りに描かれているとは感じなかったのですが、とにかくこのように書いてあります。 本書が主としてめざしたことの一つは、彼が友人、弟子との対他意識ばかりでなく、妻子、特に妻の鏡子と対等に接しようとする変遷であり、その分岐点はやはり修善寺の大患にある。(中略)『彼岸過迄』以下、その淋しさは徐々に肥大化し、表面にせり上がってくるが、それが男性だけでなく、結婚した妻たちにも現れるのが、晩年の作の特徴である。 私はこの文章を全くその通りだと思うのですが、ただ現代に振り返ってみると、晩年の漱石の気づきは、現代人が当たり前のように持つ夫婦観とか孤独観の入り口に、やっと辿りついたに過ぎないのではないか、と。 ではそんなやっと入り口に立っただけの漱石の人生観を、なぜ我々は繰り返し繰り返し読むのでしょうか。 それは結局のところ漱石生誕一五〇年の間、この巨大な問いに対して人間はほとんど答えを手に入れることができず、戸惑ったままであったからではないでしょうか。 現代人の憂鬱は一向に解決せず、それ故にその黎明期に苦闘した漱石の足跡は、そのまま現代の我々が苦悩を考える手立てとして、大いに有効なのでしょう。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2017.08.19
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『人間晩年図巻1990~94年』関川夏央(岩波書店) 本書の成立について、著者による「あとがき」に、このように触れられています。 しかし時は移った。人の死に方の情報が寡少またはゼロになったのは「個人情報」の壁がはりめぐらされたためだ。ならば、平均余命といっしょに著しく長さを増した「晩年」を中心にすえるのは? 山田風太郎の名著『人間臨終図巻』の続編を企画したが、このような理由でストレートにはうまくいかなくなった、ということですね。 なるほど、私もこの本を手に取った時に一番に気づいたのですが、「臨終」が「晩年」に変わったのは「個人情報」保護法のせいだったんですか。 思いも掛けぬものが、いろいろと影響してくるものなんですねー。 ……うーん、でもしかし、何といいますかー、読者のささやかな権利の一つである個人的な感想において、私は残念ながらこの変更による企画は、あまりうまくいっていないのではないか、と感じてしまいました。(いえ、それは単にタイトルの問題だけではなく、たとえ山田風太郎作品と同じタイトルであったとしてもそうだったのかも知れないですが。) ……えっと、まず最初に確認しておきますが、私は本書の著者について、丸谷才一が亡くなった後、唯一の現存するフェイヴァレットな文芸評論家だと思っています。 本書のように文芸評論とは言えない多彩な仕事ぶりについても、基本のところがしっかりしているから、何について語られていてもとても素晴らしいと評価しています。 という前提をして、にもかかわらずひょっとしたら本書の企画はあまりうまくいっていないかと考えたと言うことですが、どこがどううまくいっていないかちょっとまとめてみますね。(1)「臨終」を「晩年」に変えたせいで、つまり「晩年」までを対象としたことで、 山田作品に比べ長すぎる(冗漫な)ものになったのではないか。(2)しかし特徴ある一人物の晩年を書ききるには、5~10ページ程度ではいかにも 短かすぎ(深みに欠ける)はしないか。 実は山田風太郎作品でも、「臨終」と銘打っておきながらほとんど一人物の全生涯を駆け足で触れたような章は少なくなかったのですが、本書ではもっとそんな感じになっているように思います。 一例としてオードリー・ヘップバーンについて書いた章など、始めと終わりは額縁のように晩年について触れていますが、ほとんどの量を占める中心部分はヘップバーンの生涯の駆け足です。事実だけが列挙され、なんだかとても読みにくい。 いえ結局のところ、ある人物の晩年の生き方を書こうとすれば、そこに至る部分(「プレ晩年」)について触れないわけにはいかず、どうしてもこうなってしまうというのはとてもよく分かります。 山田作品のように、亡くなった直接原因だけに絞って書くのをテーマにすると(触れましたように完全にはそうなってはいないのですが)、あっさりまとめてすとんと書くことができそうな気がします。(描写だけで描けそうです。そして、余韻も残りそうです。) でも晩年を書くために「プレ晩年」にまでテーマ広げていけば、全体として説明の羅列を免れず、結果、例えばウィキペディアみたいな文章になってしまった、と。 一方で描写テーマに「プレ晩年」までを含んでしまえば、山田作品にあったフットワークは臨むべくもなく、なんだかしつこくて冗漫さが感じられる、と。 それらの思いがセットになって、わたくしは申し訳ないながら本作に「帯に短し襷に長し」という印象を抱いてしまいました。 ……うーん、本当に申し訳なくも、なかなか難しいものですねぇ。 ただ、そんな風に少しぶつぶつ言いながら読んでいたのですが、さすがに出自は争えず(って、この書き方は相応しいのでしょうか)、文芸評論が対象とするような記述部分は、とっても素晴らしかったです。 例えば、幸田文の晩年に触れた個所。 総理大臣山本権兵衛の孫の山本満喜子を取り上げながら祖父の権兵衛の記述にいたり、そして本書の「本歌」作家山田風太郎の名著『エドの舞踏会』について論じた部分。 また、女優山本安英の生涯を描いた章(これも晩年だけを取り上げた記述ではまるでなかったですが)など、これらは本当に良かったです。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2017.08.06
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