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『嚇奕たる逆光…私説・三島由紀夫』野坂昭如(文藝春秋) 先日ついでがあって、中島敦の『山月記』を読みました。 あの小説はわたくしにとって時々ふっと読みたくなる小説で、すでに何度も読んでいるのですが、今回ちょっとじっくり読んでみると、なんと言いますか、「詰め切れていないんじゃないか」と感じる部分があるように思いました。(えー、当然ながら、それはお前の読解力不足のせいだと指摘されれば、まー、そもそもがアバウトな造りの頭である上に加齢のせいでそこいら中のネジが緩みだしていることは、我がことながら気付いてはいるのですが……。) ともあれ例えばそれはどんなところかと言いますと、それは『山月記』の最も読ませどころのひとつであるのですが、「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」というフレーズの部分です。 ここがね、…えー、かつての私は割りとすっと入っていたつもりだったのですが、今回読むと、なるほどこの対句表現は文章の効果としては素晴らしく、この表現に辿り着いた時中島敦は「やった!」と思ったかも知れないなくらいの想像ができる見事な表現ではあるのですが、今回じーとその前後も含めて読んでいると、「あや? これ、ちょっと、ムリがないか」と、ぼそりと呟いてしまいました。 ……えーっと、今回のテーマは『山月記』ではありませんのでこのくらいでやめますが、今回も読んでいて、虎になった「李徴」が自らの中に「天才」が存在するか否かについて、本当に七転八倒しながら苦悩している様がまざまざと感じ取れました。 読んだ後ついでにちょっと『中島敦全集』も覗いてみたのですが、「第三巻」の「断片」に、李徴の苦悩をほぼなぞるような形で敦自身の苦しみが書かれてあるのを見つけ、少し感動してしまいました。 さて、冒頭の本の読書報告に繋げていこうと思っているのですが、連結のキーワードは「天才」ですかね。まー、三島由紀夫がテーマでもありますから。 そもそも、表現者(小説家と区切ってもいいのですが)は自らの天才を何によって証明させるものなんでしょうか。 もちろんそんな証明はハナからできっこないもので、それ故にこそ苦悩があるのでしょうが、いわば古来多くの小説家が、自らの内なる天才の存在を巡って大いに苦悩してきたとは想像できそうです。 例えば本文にはこんな表現があります。 三島が、小説に自己の存在を託していたことは確かだ。性倒錯の作品が異端の刻印押され、囂々と非難を浴びるのならそれでまた自らを確認し得る。それはまた戦後のまやかしの証しでもあり、時代を敵としてはっきり見すえることもできよう。戦後の風潮を、三島は早くから憎んでいるが、これは、すでに確固として、世のしきたり、日常生活には適応しきれぬ自覚があり、戦争はこの奇妙な生物も、まともな人間も、ひとしく破滅させてくれる約束だった。あやふやな生を確かめるのに死ほど有力なものはなく、夭折の天才の栄誉にもありつける。平和な時代には、求むべくもない。 この文の中に「奇妙な生物も、まともな人間」という表現がありますが、「奇妙な生物」とは三島のことを指し、三島は自らの内なる天才を異端性(と裏腹の特権性)によって証明しようとしたのではないかと筆者は説いています。 少しゴシップめきますが、三島由紀夫がホモセクシュアルであるかどうかについて、筆者はおおよそ否定派であります。そんな行為はきっとあっただろうが、本質はそうではないと書いています。 三島=同性愛者の原点というべき『仮面の告白』の「仮面」とは、ホモセクシュアルがそれに該当し、上記引用文でも触れていますが、それによって「異端の刻印」を受けることが狙いではなかったか、と。 では、「仮面」の下にあるものは何なのか。 実は本書は、「私説・三島由紀夫」とあるように、例えば三島由紀夫の系図を探りながら並行して筆者自身の(少なからず複雑な)系図を語っています。それゆえ、三島についての評論や研究というよりは、三島由紀夫を核にしつつ我が半生を語る長編随筆のような作りになっていて、上記引用個所からも伺えますが、断定はあるが証明はないといった展開がしばしば見えます。(そこが同時に面白い部分とも言えましょうが。) ふたたび戻って、「仮面」の下にあるものは何なのか。 それは、「自己愛」と「自殺志向」。私はたぶんこの二つを、筆者が説いているように読みました。 なんだそんな二つは、三島を巡る一般的な理解の範疇にあるものに過ぎないではないかという気も全くしないではないですが、そこに誘導していく筆者の、自らの人生の重ね合わせによる共感や反発また飛躍ある直感などにこそ、本書の眼目があると思います。 特に自殺を巡って、芥川と太宰がすでにあの形で先行した後に、果たしてどんな自殺の「創造性」が残っているか、そして三島の自殺のオリジナリティの高さを指摘する本書に、私は高いオリジナリティを感じました。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2017.06.30
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『文学ときどき酒――丸谷才一対談集』丸谷才一(集英社) 以前から時々書いてますが、本作の筆者丸谷氏は、その著書をみんな読んだわけではありませんが、私のフェイヴァレット作家の一人であります。 まずこの作家の、文学に対する知識と造詣の深さに圧倒されるんですね。 どうしてこんなにいろいろと知っているんだろう、と。 確か三島由紀夫が書いていましたが、大教養人が大作家でもあった時代はもはや過ぎてしまった、と。 三島が大教養人であると同時に大作家でもあると考えた文豪は、たぶん森鴎外とか夏目漱石とか幸田露伴とか、そんなあたりの方だと思いますが、なるほど、時代が下ってくると人間が小粒になるなんて言い回しもよく聞くフレーズで、確かにそんな気もしないわけではありません。(ただし、時代が違うということはとても大切な要因で、例えばハイドンは100以上の交響曲を作ったがベートーヴェンはたった9つしか作っていないというのは、言わずもがな、フェアな比較ではないですよね。) で、さて、丸谷才一です。この方が大教養人であるとともに大作家であるのかどうか、実はわたくしには判断の基準がないのですが、こと文学の教養・見識についてだけで判断すれば、やはり「大教養人」のように思います。 例えば本書には10編の対談が収録されているのですが、実に広汎様々な文学的話題が盛り込まれています。ちょっと幾つか、すべて短めに取り上げてみますね。(丸谷氏の発言ばかりではありませんが。) ……本来雑誌というのは、本を読む人の一部が、本を読むことへの味付けとして、あるいは気勢をつけるものとして読むものでしょう。そういう、本と雑誌の関係が、日本では今まで逆転していましたね。雑誌が一番立派なもので、本はその次に来る何かもっと低いものという具合だった。(吉田健一との対談) ……(有島)武郎みたいな主人公がいて、その細君が肺病になって死ぬんだが、これは事実そういうことがあったんだ。須磨子がその役で、死の床で自分の日記読んで、回想シーンになる。それがその時分にしちゃ新しい趣向なんだよね。その日記を読むのに、ベッドで横向きもまずいから、上向きにすると、浴衣だから袖が下がっちゃって、二本の腕がニュッと出る。肺病で明日か明後日死ぬやつが、太ってやがんだ。あいつ(笑)。(里見とんとの対談・里見の発言) ……和歌というものがあるせいで、女の人たちも自分の意志をはっきり示すことができたわけですね。それは一つには和歌には敬語法を使わなくて良かったから言い切れたんじゃないですか。普通の会話は、当時はむやみに敬語を使うでしょうそれで強いことが言えない。会話は遠慮深い表現の場ですよね。ところが和歌だと、臣下が天皇に向けてものを言うかたちで歌を詠む時でも敬語を使わないという、詩的世界の約束事が確立していましたからね。(円地文子との対談) ……ことばの感覚の問題ですが、場合によって日本人と外国人との日本語についての感覚が違うこともあります。たとえば「葵」という名前ですね。日本人にはきれいでしょうが、外国人には「あおい」という語呂は全然よくない。子音がないからでしょう。(ドナルド・キーンの発言) ……どうも日本の詩歌の伝統は動植物に一種のランキングをつけているのではないか、と思われるんですね。ランキングの最上位が勅撰集に出てくる動植物であって相撲でいえばこれがまあ東西の三役。次が王朝歌人が取上げた動植物で、これが幕内。その次が俳諧ではじめて取上げた動植物、最後に現代短歌、現代俳句にうたわれるもの――という四段階がある。(大岡信との対談) こんな風に列挙していくと切りがないのですが、日本現代文学から日本古典文学、そして西洋文学と実に広く深い含蓄が語られます。 ……ちょっと考えるのですが、こんな作家って、丸谷氏以外にいらっしゃいますかね。 司馬遼太郎なんかも何でも知っている方のような気がしますが、あの方の場合は日本歴史一本槍という感じもしますね。(でもないかも知れませんが、昔、ゴッホについて書かれた文章を読んだような気がします。) だから思うに、これは一作家の知識量の問題というよりは、自らの持っているそんな知識を広く世間に向かって公開したがるか否かという、そんな物書きとしてのスタンスの話ではなかろうか、と。 冒頭付近にあげた森鴎外なんて文豪も、きっと丸谷氏ぐらいの様々な知識は持っていたと思われますが(もっとたくさんかも知れませんが)、丸谷氏のようには発表なさいませんでした。(と、思うんですが。) これは結局のところ、例えば少し意地悪に書けば、丸谷氏はスノッブな知識のひけらかしとも言えないわけではないでしょうが、うーん、まぁそれはあまりに悪意ある解釈でしょう。 とすると、今度は意地悪っぽくなく書けば、一つは「啓蒙主義」、もう一つの解釈は、丸谷氏が作り上げ(とまでは言えなくても)洗練させた「知識芸」(これは今私が考えた言葉ですが、こんな書き方を許していただけるなら趣旨はおわかりいただけると思います)ではないか、と。 おかげで我々は、実に楽しく簡単に、そしてとても深い文学などの世界を垣間見ることができています。 そしてそれを読んだ我々がその次にすべきものは、それらの知識の断片の「原典」の書物に直接触れることでしょうが、それについても、その世界の扉の前まで、実に懇切丁寧でさらに瀟洒なエスコートをしてくれています。 やはり丸谷才一は我がフェイヴァレットであります。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2017.06.10
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