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『宮沢賢治殺人事件』吉田司(太田出版) 以前にも確か本ブログで書いたように記憶しますが、何のことかと言いますと、ある作家についての社会的評価と私の実感との乖離についてであります。 それはきっと私が不明なだけで、そのお方の文学の価値がわからない愚か者が私であるという事ではありましょうが、そして最近はわたくしも少しずつ、なるほどこんなところがやはり凄いのだなーと、「訂正」したりもしているのですが、ともかく私の中にそんな思いの文学者が3人いらっしゃいます。このお方たちなんですがね。 樋口一葉・石川啄木・宮沢賢治 まず一葉という方ですが、彼女の高評価は圧倒的な筆力で描いた小説群という事でしょうが、まーはっきり言いますと、確かにすごい擬古文かなという気は何となくしますが、本当のところは、一葉の擬古文が本当に優れているのかいないのか、もはや私には鑑賞眼がありません。だから凄さが実感として私の中に定着しません。(それに作品数がいくらなんでも少なすぎませんか。) 次に啄木ですが、確かに啄木の短歌はリリックで親しみやすく、なるほどこれは一つの天才の発現だなと思わないでもないですが、いかんせん啄木本人についていろんなことを知るたびに、人として本当にこれでいいのかという感想が次々に出てきます。 確かに作者と作品は別物ではありましょうが、作者の実態(人間的な問題がありすぎるんじゃないかというような実態)を知ると、作品の評価が自分の中で下がるのもいかんともしがたいことでありましょう。 ということで、一葉も啄木も私の中では少し低評価であります。 で、さて宮沢賢治です。この方についても、一般的な評価がとても高い方であるということは、私も存じ上げていました。しかし本書を読み始めると特に初めのほうに書いてあるのですが、評価が高いなんてレベルではない、と。 賢治は「聖人」であるという、ほとんど「宮沢賢治教」=宗教化現象が起こっていると書いてあります。 ……うーむ、私の知らないところでそんなことが起こっていたのかー。 本書は、多岐にわたって「賢治教」の実態と過ちが「暴露」されています。本当にあれこれ書かれてあるのですが、それを絞り込みますと3つの「賢治教」断罪理由にまとめられると思います。この3点です。 1・賢治は生涯常識的な金銭感覚を持つことなく、一人の人間 としての独立した生計を営むことができなかった。 2・賢治が実際に行った様々な「農学」の試みや実践は、 継続性・計画性・現実的有効性をことごとく欠いていた。 3・賢治の持つ「無私性」と「宗教性」は、戦前戦中のナショ ナリズムや特攻精神と極めて親近性のあるものであった。 この3点について、本書は様々な伝記的事実を指摘しています。例えば「1」について、 彼の経済生活が生涯政次郎の財産で賄われていたことは、どんな賢治本にも載っている。月に百五円もの給料を得ていた農学校教諭の時代でさえ、その給料を「東京モダン」の丸善の洋書購入にあてたり、西洋音楽のレコードや裸婦の洋画や一千枚の浮世絵・春画の収集に散財(略)している。また「教養講座」と称して、西洋料亭での「洋食フルコース」を生徒たちにごちそうしてしまう。そんなごちそう接待して、生徒に人気のない教師なんていない。大人気だが、無一文。妹のトシにまで金を借りまくる”生活無能力者”ぶり。 「2」「3」については、こんな感じ。 羅須地人協会で彼は一体なにをやっていたか。農学校出の教え子たちを集め、夜な夜な蓄音機レコードのコンサート会などを優雅に開いていた。教え子たちとは、「最低でも小作料三十~四十俵は取る地主クラスの息子たち」である。いわばムラの「学士さま」的存在の篤農集団。それに町の奇矯好きの文化人が加わったの、があの有名な羅須地人協会の実態だったのである。(略)花巻の村の古老などは、「自分たち貧乏百姓は、戦前、宮沢賢治の名前さえ知らなかった」といって、その賢治の階級性を笑ってみせた。 『農民芸術概論綱要』の中に埋めこまれた、「隠れ国柱会」の精神、即ちあの「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(=大日本国成仏スズンバ吾レ成仏セベカラズト念ゼヨ)の侵略精神が清らかな美辞麗句のベールをぬいでヌーッと生臭い鎌首を現し、満蒙アジアの侵略にパクリと喰いつかないでおられたろうかとは、危惧するところだ。賢治は、ギリギリ危うくセーフ! のところにいたのだ。 ……と、まぁ、こんなことが一杯書いてありまして、わたしとしてはそれなりに啓蒙され興味深かったです。 ただ上記の3点について、例えば、「1」と「2」は、どちらも多くの文学者にあった人格上の欠点に過ぎないではないかと居直るという手がないでもありません。上述の啄木とか、太宰なんかも同じじゃないか、と居直ってしまうわけですね。 「3」について、これは取り上げられ方がドイツの作曲家ワーグナーと似ているような気がしました。 生前のワーグナーの言動は、時代が変わってしまえばヒトラーの言動ととてもよく似ていました。つまりワーグナーも「ギリギリ危うくセーフ」といえそうな人でした。(……「ギリギリ」はちょっと言い過ぎかもしれません。19世紀後半に亡くなった方ですから。) ともあれ、どの時代に生まれたかは本人の全くあずかり知らぬながら、その人の人生のみならず死後の評価もガラリと変えてしまうものであります。 そしてこんな風に考えていきますと、残るのはやはり作家と作品は切り離して考え、そして作品の文学性のみを評価する、という事になるのでしょう。 たぶんそれが正解にかなり近いとは私も思いつつ、ただ本書を読んだ後では、そんな考え方自体に文学の傲慢性がどこか感じられるようで、これはまた、わたくし自身の大きな課題でもあるような気がします。 最後に、文芸評論家小谷野敦によりますと、本書が出版された時賢治研究者の間ではかなり話題になったそうですが、その後「賢治教」はどうなったかといいますと、結局本書の登場も焼け石に水であったということのようです。 ……うーん、このこともまた、いろいろ考えさせられることでありますねぇ。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2017.10.28
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『現代文学論争』小谷野敦(筑摩書房) この筆者の書籍は、実はわたくし今までに数冊読んだことがあります。 しかしはっきり言いまして、……うーん何といいますか、なんか、こー、感覚的についていけないと感じる部分がありました。もう少し具体的に言いますと、いえ、ちょっと言葉を選ぶんですが、まー、よーするにー、少し品位というものが不足してやしないかな、と、まぁ、ちょっとだけ思ったりしていました。 でも思うに、筆者はそんな意見が出るかも知れないことくらい十分承知の上で、むしろそんな意見に対して、自分だけカッコつけるんじゃないよくらいの感覚を持って書いているのだと思います。 ということで少し怯む部分の気持ちを筆者に持ちつつ、しかし一方で筆者がものすごくエネルギッシュに文学研究をしている(すごくボリュウムのある作家評伝を立て続けに何冊か出版していらっしゃいます)ことには、感心させていただいておりました。 という感心部分を期待しての本書の読書であります。 ……が、さてこれも、うーん、……でもさらに遡ってよく考えますれば、わたくしは以前より、人間はいくら討論をしても自説をそう簡単には変えるものではないという「自説」を持っておりました。それはテレビの討論番組なんかを見て思ったのですが、その上、「文学」(客観的評価などそもそもできるのかという「文学」)とくるのですから、落ち着いて考えれば、稔りあるものが期待できると思う方がおかしいくらいのことは読む前から分かっていてもいいはずでありました。 というわけで「文学論争」を読んで、文学論に稔りがなければいったい何が残るかと言いますと、それはもう「文壇ゴシップ」だけといってもいい、と。 そして私は、上記に「品位」がどうのこうのと書いておきながら、実はさほどその手の話が嫌いなわけではない、と。(ただそんなのばかりずーっと読み続けますと、さすがに何かが少し違っているんじゃないかという感覚と、ぐったりした疲労感が出てきます。) そんな中でゴシップから少し離れて(あまり離れているわけでもないですが)、本書中少し面白かったのが、文学研究の方法として一時期かなり流行ったと聞く「テクスト論」批判であります。 「テクスト論」については私は、石原千秋の文章で、作品(テクスト)から作者の姿を追い出す、そしていかなるテクストも誤っていないことを前提に解釈していくという研究姿勢であることなどを知りました。 この姿勢もはじめはなかなか面白そうだと思ったのですが、少しずつ詳しくその世界に入っていくと、なんかすごい違和感が生まれてくるんですね。 それは例えば、本書では漱石の『こころ』の後日談の話、つまり「先生」が自殺した後、学生の「私」は未亡人となった先生の奥さんと結婚するか否かという「論争」が取り上げてあり、最後にこういう風にまとめてあります。 ものすごくバカバカしい情景であると言わざるを得ない。大の大人が、たかが小説の、しかも書かれてもいない「後日談」について、学術雑誌の上でかくのごとき「論争」を展開しているである。まさに「空の杯でのやりとり」であって、江藤淳などが一顧だにしなかったのも当然であろう。 ここには「作品論」とか「テクスト論」とかいうものの、根本的なバカバカしさが表れている。だが残念ながら、私を含めて、当時の若い、愚かな文学研究者たちは、けっこう真剣にこういう議論を読んでいたのであって、それらは「ニューアカデミズム」とか「ポストモダン」とか「フランス現代思想」とかの、根本的なバカバカしさ、非学問性の象徴であると言えるだろう。 本書の別の個所には「テクスト論」による森鴎外の『雁』評論も少し書いてありますが、これなどは思わず噴き出してしまう解釈です。 それは『雁』の、一人称で書かれているはずの描写が崩れているという、わりと有名な部分のことです。ここ、面白いので、ちょっと引用してみますね。 (略)しかも、テクスト論は、その後完全に破綻した。森鴎外の『雁』は「僕」という男が書いたことになっており、これは帝国大学の学生で、岡田という、やはり学生の友人と、高利貸の妾であるお玉という女との交情を描いている。ところが途中から、高利貸とお玉の喧嘩や、それがセックスで和解に至る過程などを細かく描いており、なぜ「僕」がそんなことを知りうるのか。竹盛天雄・早大名誉教授はこれを、「僕」がのち高利貸となって、その主人から話を聞いたのではないかとしている。 ……えー、吹き出しませんでしたか。私は思わず笑ってしまったのですが。 というわけで、「現代文学論争」は、ほぼ不毛です。これを学問というのはかなり恥ずかしいという気がします。 ただわたくしは、こんなブログをやっていることからも分かるように、まー少しカルティーな感じの「純文学」趣味の者なので、スノッブなゴシップも含めて、少し疲れはしましたが、まずまず楽しく本書を読ませていただきました。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2017.10.14
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『漱石のこころ』赤木昭夫(岩波新書) 前回の続きです。 実は本書にはサブタイトルが付いていまして、「――その哲学と文学」とあります。 ところが前回に述べましたように、私の軟弱な頭はさっぱり哲学向きにできていません。 ということで、自分が分かるところだけを取り上げるという極めて「好き嫌い」の読書報告になっているのですが、私の理解の及ばないところを知らん顔して以下に説こうと思っているのは「自我」であります。 そもそも漱石文学の重要テーマ(と言われている)の「自我」とは、もう少し詳しく言うと何なのか、そして、漱石にとってなぜ「自我」なのか。 この二点が、とてもよく分かるように書かれてありました。 まず筆者は「自我」の定義並びに存立条件を以下のようにまとめます。 自我とは、ラテン語での第一人称エゴの訳で、自と我を重ねた訳語だが、同一性、連続性、主体性の三つが要件とされる。それらによって、他から区別される、独自の感情をもち、一貫した、矛盾しない、判断を下す自分(私)が自我だ。 ……ちょっと中断してみますが、どうでしょう。ここはさほど難しくもないですが、こんな書き方がわたくし、ちょっと苦手なんですね。「ラテン語での第一人称エゴの訳で、自と我を重ねた訳語」なんて表現は厳密性を重視しているのでしょうが、なんかよくわからないことないですかね。私なんか読んでいて、厳密性が結果的に諧謔だけを生んでいるような気がするんですがー。……まぁ、いいです。引用を続けます。 他から区別され、いつも変わらなくても、独自に判断が下せなければ、自我たり得ない。その点からして、経済的な自由度が、自我にとって最重要の要件になる。 さて自我の存立条件が出てきました。最近の漱石評論には必ず出てくる「経済性」が、出ていますねー。当たり前と言えば当たり前なんでしょうが、漱石作品の中で「経済性」は確かに、ストーリー上の極めで重要なメインエンジンです。そして、登場人物のそれを可能にした明治中期以降の経済的安定性について、さらに触れていきます。 米の収量が増加し、小作料率が変わらなかったため、地主の収入が増し、資金に余裕が生じた中以上の地主が、健全な水力電気株などに投資すれば、その次男坊は東京で遊民生活が送れた。(略) このように、自我を叫んでも有名無実にならない経済的基盤が備わりはじめるにともなって、自我とは何かの追及が深まったのだ。(略) 日露戦争後は、自我がブームだったのだ。(略) 他に先がけて、そこに漱石が着目した。さすが鋭いと評価されるべきだろう。 どうですか。一気になぜ漱石にとって「自我」なのかまで行ってしまいました。なかなか鋭い分析であります。 そしてさらに、小説で自我を最も効果的に取り上げる方法について、漱石の採った作戦がどうだったのかとテーマは進んでいきます。 ひとくちに自我と言っても、世間で肯定される場合と否定される場合がある。 自我に基づく行動や考え方について、肯定される場合は個人本位主義(個人主義・インディヴィジュアリズム)、否定される場合は利己主義(エゴイズム)と、呼び方が変わった。(略) 自らが三角関係(それに類する男女関係)を主導したのであれば、それは個人主義にとどまらず、利己主義へ転落した証拠として描き出される。 ……なるほど、上手に分析しますねー。特に「三角関係を主導した」という表現は見事です。この語は、『それから』の代助や『こころ』の先生をはじめ、中期以降の漱石作品の主な主人公の行動上のエゴイズムをすべて説明しているように思います。 漱石は、三角関係の中にこそ「自我」の正体が、つまり「個人主義」なのか「利己主義」なのかが如実に表れると(恋愛の中で個人主義は利己主義に変質しやすいと)、捉えたわけですね。 というわけで私は、漱石の「自我」とは何なのか、なぜ「自我」なのかについて大いに蒙を啓かれたのですが、本書は合わせて、世間の中で肯定されようが否定されようが、そもそもの「自我」が持つ属性の説明として、『彼岸過迄』の「市蔵」のこんなセリフに触れています。(「自我」についての漱石の認識の一つです。) 『彼岸過迄』の市蔵は、千代子と行き違うのは彼のひがみのためで、それは彼が母の実子でないからと叔父に明かされ、自我について反省させられ、つぎのように洩らした。「……お話を聞いてすべてが明白になったら、かえって安心して気がらくになりました。もうこわい事も不安な事もありません。その代わりなんだか急に心細くなりました。さびしいです。世の中にたった一人立っているような気がします」 この「さびしさ」こそ、すべての現代人が逃れることのできないものであるという理解が多くの漱石作品の底に流れていることは、これまた有名な話であります。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2017.10.01
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