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『恋と女の日本文学』丸谷才一(講談社文庫) 本書を読んでいて、そういえばそうだったなぁ、とつくづく思い出したことがありました。それは、かつて私は丸谷才一のエッセイを繰り返し繰り返し読んでいたっけなぁということです。 ちょっと、我がデーターを調べてみました。 何を調べたかといいますと、私は読んだ本について30年くらい前から読書メモをつけていまして、そのペーパーメモを数年前に、えいやっと半年くらいかけてエクセルデーターにしたんですね。 だから改めて正確に確認しますと、私は1988年から97年の間に46冊の丸谷氏の主にエッセイを読んでいることがわかりました。 ……ふーむ、自分ではもっと頻繁に読んでいたようなイメージがあったのですが、10年間に46冊というのは、多いのかな、さほど多くないのかな。 ともあれ、主観的にはわたくしにとって丸谷エッセイはフェイヴァレットだったなぁということを思い出したのですが、思い出したという表現からわかるように、最近はさほど丸谷エッセイを読んでいなかったんですね(その理由は、まぁ、今回はパス)。 で、久しぶりに読みますと、やはりとっても面白いではありませんか。 かつて私が丸谷エッセイを読みながら感じていた「知の喜び・楽しさ・素晴らしさ」を今回もひしひしと感じました。そして相変わらず達者な全編にあふれる何とも言えないユーア。例えばこんなところは、私は読んでいて思わず吹き出してしまいました。 (本居)宣長の生涯には不思議なことが一杯あるが、とりわけすごいのは、どうしてあんなに和歌が下手だつたのかといふことである。『新古今』が大好きで、何とかしてああいふ歌を詠みたいと念じながら生き、学びつづけた人なのに、本当に才がなかつた。才のなさが凡庸ではなかつた。 こんな感じで本文を抜いていけばキリがないのですが、以下少し話を進めて本書全体のテーマについて見ていきたいと思います。 実は本書のテーマは、筆者による「あとがき」にこう書いてあります。 「日本文学が恋愛と色情に特殊な関心を寄せていること」 なるほど言われてみれば確かに我々素人でも、例えばお正月に家族でやる「百人一首」を何かの拍子にちょっと丁寧に読んでいたらそのように感じたりしますよね。 また、日本古典文学作品の一等賞はおそらく『源氏物語』だといわれますが、しかしあのお話は天皇ファミリーの「不倫」の話じゃないのか、そんなのが一等賞でいーのか、などと思ったりしますよねー。 そんなテーマを、筆者は様々な蘊蓄を交えながら時にじっくり、時に強引に証明していきます。 しかししばし待てよ、と。 そもそも「恋愛と色情(性欲ですかね)」とは生物の二大欲求なんだから、それに文化が文学が関心を寄せるのは当たり前じゃないのか、と思いませんか。 日本文学がらみでちょっと思い出せば、例えば北村透谷は「恋愛は人生の秘鑰である」と書いてますし、太宰治は『津軽』に、私の専門研究分野は愛であると書いています。 第一西洋文学には大恋愛小説が山のようにあるではないか、と。 でもそれは、明治維新以降の話なんですね。日本に近代西洋文化が輸入されて現在に至っているから我々はそんな風に理解してしまうわけで、例えば平安時代、日本人が理解していた国は、日本と中国とインドしかなかったわけですから。(言わずもがなですが「日本、中国、インド」という国名もその頃はありません。「本朝、震旦、天竺」ですか。) つまり本書の論証の本当に面白いところは、古代から中古と呼ばれるその頃、すべての日本文化の偉大なる師匠であった中国文化にほぼ恋愛と色情に対する関心がなかったにもかかわらず、なぜ「弟子」筋であった日本文化(日本文学)が、それらに特殊な関心を寄せたのか、ということであります。 ねっ。こういう風にまとめると興味深いでしょ。 事実とっても興味深い内容なのですが詳しくは書けません。でもひとつだけ、特にけっこう過激なしかし説得力もわりとあるその論証について、さわりの部分だけ紹介してみますね。 丸谷氏は、こう書いています。 中国文化と異なって恋愛と色情が日本文学の中心になったのは、主に平安時代の結婚形態である「招婿婚」(=婚姻の実態が妻方の実家で行われ、夫は夜にそこへ足を運ぶ形式)が日本で長く続いたせいではないか、と。 そしてこのことがなぜ日本文学の恋愛と色情重視の理由になるのかの説明が、この後続くのですが、これがまたとても面白いです。 ……えーっと、なんだか引っ張って引っ張って、そして最後は放り出したような紹介になってしまいました。 しかし、丸谷エッセイの醍醐味は、やはり原文でじっくり味わっていただかねば、と。 ……ということで、すみません。よろしく。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2017.04.23
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『漱石はどう読まれてきたか』石原千秋(新潮選書) 冒頭の漱石関係評論の読書報告の後編です。 前回は第一章の内容を中心に書いてきましたが、ここからは第三章の内容について考えてみたいと思います。第三章はこんなタイトルです。 「第三章 いま漱石文学はどう読まれているか」 つまりここには最先端の漱石作品研究の案内が書かれてあるのですが、そんな研究の紹介をいくつか読んでいくと、私はかなり戸惑ってしまうんですね。 ここに書かれてあるのはいったい何なのだろうと。 それは言い換えると、大学の文学部などで行われる学問としての文学研究とはいったい何なのか、何を目指しているものなのかが、道に迷ったように分からなくなってくるということであります。 本書の「あとがき」に、現代日本の大学の文学部の変遷について触れた個所があります。 そもそも1960~70年代に起こった大学文学部の拡大は、当時の「女性の急激な大学進学率の伸びの受け皿」として生起したが、1986年の「男女雇用機会均等法」以後、社会が好景気であっても不況期であっても、文学部は「政治的正しさ」によって相手にされなくなっていき、その勢いは急速に失われたとあります。 (「政治的正しさ」とは、雇用における男女の差別撤廃を企図した法律施行の結果、文学部以外の学部に女子学生が多く進学したことを言います。) まぁ、改めて言われるまでもなく、現代における文学研究の社会的な必要性などは、始めから今に至るまであるようなないような、いや、ないようなないようなものであったわけですね。 加えてそこに、もっと根源的な文学研究の限界(「限界」とは筆者は書いていませんが、たぶんそれは文学研究の「壁」の様なものだと思います)が現れてきます。 こんな表現があります。 小説の記述から「作者の意図」がわかるという幻想、あるいは日記や書簡などの記述を参照してであっても、「作者の意図」がわかるという幻想を持つのはやめよう。「作者の意図」通りに読まなければならないとか、「作者の意図」通りに読めるといった幻想を持つのもやめようというだけの話しである。 ……ふーむ、なるほど。……しかしそうだとすれば、今の文学研究論文には一体何が書かれているのだと思いませんか。それを筆者はこんな風に述べています。 (略)それは一つは、文学研究が「全体像」や「本質」を示すことができるなどということはあり得ないという認識から来ている。「文学研究は、ある角度(枠組)から読んだときにだけ、限定的ではあるが、あるまとまりを持った意味を引き出すことができる」というまっとうな姿勢が広まったからだろう。 どうですか。文学研究は「全体像」とか「本質」は追究しない(できない)と書かれていますね。 また、「まっとうな姿勢」と書かれてありますが、筆者はこの傾向を「文学研究を知的な仕事にしたいという願いもこもっていた」「これが知的な文学の論じ方というものだ」と補足しています。 で、その結果どうなったかというと、これも筆者は書いています。 文芸評論家や文学研究者の読みは「ふつう」でないことが多い。いや、文芸評論家や文学研究者はあえて「ふつうでない読み方」をするのが仕事なのである。よく、「学問とは常識を疑うところからはじまる」というようなことが言われる。小説の読みも同じで、「ふつうの読み方」がよくわかっている文芸評論家や文学研究者が、あえて「ふつうでない読み方」をするのがすぐれた文芸評論や研究論文の条件だ。もしそうでなければ、わざわざ活字にして世に問う価値などない。 この部分についても、筆者はさらに「その意味で、文芸評論家や文学研究者は世間から見れば非常に特殊な読みを競い合っているとも言える。」と補足しています。 重ねて、どうでしょうか。 実際、本書所収の最先端の漱石作品研究の事例を読んでいると、まさにそんな感じになっています。 例えば「それから」を読むにあたって代助と三千代の恋愛に触れず、この話を代助が実家である「長井家」から捨てられる物語だと読むなんていう事例が書かれています。(この読みは、実は結構面白かったのですが…。) しかしわたくし思うのですが、こうなってくると文学研究にとって対象である文学作品とは、料理の素材のようなものではないか、と。 例えば、私はこの度、今まで和食の素材のように思われてきた味噌を使ってフランス料理を作ってみました。さあ、召しあがってください、と。 で勝負は、食べた人がおいしいというか、まずいというかに懸かっている、と。 筆者は「私は『学会ではこんなに面白い読み方が試みられていますよ』と多くの人に伝えたいと思っている。しかし、その『面白い読み方』が『商品』にならなければ意味がない。」と述べています。 さて最後になりますが、私は現代の文学研究がそんなスタンスにあることを知って冒頭には「戸惑ってしまう」と書きましたが、それが面白くないということではないんですね。 面白くないことはないが、それに何の意味があるのか分からないという戸惑いです。(ここに「意味」なんて言葉を持ってくると、また混乱が起こりそうなんですが…) 一方本書の「あとがき」には、「現在でも、文学は広く読まれている。しかし、文学部はしだいに必要とされなくなってきた」という一文もあります。さもありなん。 本質も全体像も述べずに特殊な読みを競い合うのが知的な文学の論じ方、つまり文学研究の最前線であるというのは、……うーん、たぶんそれでいいのだろうなとも思いますし、本当にそれでいいのかとも思うところであります。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2017.04.08
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『漱石はどう読まれてきたか』石原千秋(新潮選書) 少し前にも話題にしたように思いますが、ここんところたまたま図書カードを何枚かいただくことがありました。 そもそもここ数年の私の貧しい蔵書は、全国展開の古本チェーン店舗で買うか、ネットのショッピングモールで何点かポイントが貯まったから買うかの、ほぼどちらかでした。つまり新刊書を正規の値段で買うということがほとんどないという、本屋さんの顰蹙を一手に買うような蔵書入手形態でありました。 だから今回、久しぶりに何冊かの本をまとめて書店のレジに持って行ったのはまるで「豪遊」したようで、小心者のわたくしは少しドキドキしたのでありました。 そんな風にして買った本です。以前書店で見つけた時にちょっと欲しいなと思いながら、ちょっと我慢した本です。 さてそんな本書のトータルな内容は、まさにタイトルそのままですが、構成は三部形式になっています。こんな感じ。 第一章 同時代評とその後の漱石論 第二章 単行本から読む漱石 第三章 いま漱石文学はどう読まれているか とっても見通しがいいですね。こう書いただけで、本書の紹介が終わってしまいそうです。でもちょっとだけ、蛇足のように屋上屋を架すように続けていきます。 三つのパートに分かれてはいるのですが、筆者が一番頑張って書いていらっしゃるのは第三章です。分量も、アンバランスにも全体の3分の2くらいあります。 でも第一章の、同時代評を取り上げた部分もとても面白かったです。メインの第三章に入る前に、ちょっとだけ触れておきますね。 どんなところが面白かったかといいますと、例えば、漱石作品を少し頑張って何冊か読んだ方ならきっとご存じのこんな言葉。 「前期三部作」「後期三部作」 そもそも漱石という作家は、わずか十数年(明治38年~大正5年)の小説家生活の内に、十編の長編小説を(ほぼ毎年一編ずつという恐るべき創作力で)書いた方ですね。 十編を一応順番に並べますと、こうなります。 「吾輩は猫である」→「虞美人草」→「三四郎」→「それから」→「門」 「彼岸過迄」→「行人」→「こころ」→「道草」→「明暗」 「坊っちゃん」なんかの中編小説やその他短編小説は省いてありますが、この十作の内の3番目から5番目をまとめて「前期三部作」、6番目から8番目をセットで「後期三部作」と呼ぶという、有名な文学史的習わしであります。 ところが同時代評はそうはいかないんですね。 「門」と「彼岸過迄」の間に大きなテーマの進展(展開)があるなんて、当たり前だけれど、漱石が亡くなって作品全体が見通せてからでないと(そこまで行かなくても、せめて「道草」が書かれ始める頃まで待たないと)分からないから、「前期・後期」なんて言う「くくり」にはできないわけです。 もっと細かなところを話題にすれば、例えばその小説がまさに連載されている最中の評論の場合、主人公が誰なのかさえ同時代評によって異なってきます。 そもそも「後期三部作」なんて、みんなそんな謎解きのような書きぶりですものね。 「彼岸過迄」の最重要人物は「須永」ですが、彼を中心に物語が展開するのは全体の半分を過ぎてからですし、「こころ」の「K」の登場もそうです。「行人」については主人公は「一郎」か「二郎」かということも、途中までではよく分かりません。 そんなことが同時代評からは読めて、何かはっとする視点の新鮮さのように感じられたりします。また、先見の明のある論者とない論者がわかったりなんかもして、なかなか面白いです。 とまずそんな感じの第一章なのですが、筆者が最も力を入れている第三章になりまして、ここもとても面白くはありながら、私は思わず「うーん」と唸って考えずにはいられない感想を持ちました。 いえ、石原千秋の他の書籍も以前少し読んでいましたから、本当は全く唐突なものではありませんでしたが、それでもつくづく考えたのですが、……えーっと、すみません、次回に続きます。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2017.04.02
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