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『シャッフル航法』円城塔(NOVAコレクション) 10の短編が収録されている短編集です。 小説ジャンルについては、ほぼ無意味とは言われながらもそれでも便宜的に続いているジャンル分けで書きますと(だって、純文学と大衆文学の垣根は無意味だともう半世紀近く言われながら、芥川賞と直木賞はかなり「峻別」されています。数少ない文壇からの「社会的発信」だからでしょうね。)、SF小説になるでしょう。 例えば、表題作の「シャッフル航法」は、コンピューターで(ここは「で」でいいんでしょうね。「が」とまではいってないようです。)書いた作品です。 確かにジャズのようなリズムがあるし、例えばコンサートでバンドの各楽器演奏者同士が楽器でコミュニケイトしているような面白さがあります。 しかしこういうのは、何と言いますかちょっとイメージが飛びすぎるかもしれませんが、「工場ウォッチ」みたいなものじゃないでしょうかね。 また、坂口安吾が昭和初年に「日本文化史観」で述べている、実用性を純粋に追及していくとその先には美があるといったもの、日本刀の美とか民芸品の美しさとかと同じなんじゃないでしょうか。 もっとも、そんな作品をこの度作ったのは間違いなく筆者ではありますが。 ……というふうに、わたくし思うのですが、SF小説と純文学の出会いは、なかなか興味深い問題といいますか、「現象」をはらんでいます。 また例えば、別の短編にはこんな表現があります。 当然ここで忘れるわけにいかないことには、00もまた観測者を含む宇宙であるからには、不完全性定理に従い、新たに語りえない現実が出現するという点だ。0スペースの内部から見て、既にあらゆる種類の出鱈目を可能とする00スペースにおいても語りえない現実を付け加えた宇宙は、素朴に000スペースの名を与えられることになり、以下同文のなりゆきが、最初の超限順序数ωまで、そしてそこから先へもどんどこ続くことになる。 イプシロン0。 私は申し訳ないながら、書かれてあることが何一つ(に限りなく近く)わかりませんでした。(ついでながら、こんな文を、短編小説とは言え一定量読まされますと、いいいいーーという気にはなります。) この作品は、こういう文章が理解できる人のみを読者として書かれているんでしょうか。そういえば森鴎外の小説なんか、読者にあるレベル以上の教養を要求しているところが確かにありますものね。(鴎外は新聞小説として連載していた史伝に対して、面白くないという反応が読者から湧き上がると「キレて」反論しています。) そんな風に考えると、小説表現が一番に基盤としている言葉の知識の共有というものは、いったいどんな広がりを持っているものなのか、我々読者はどんな共通理解をしているものなのか、少し気になったりします。 あるいは、上記文に戻ると、これはひょっとしたらぎゃはははと笑いながら読む箇所なのかな、パロディとして。 めったに読まないSF小説を読むと、そんな、まー、いわば小説の基本というか前提というか、普通ならあまり気にしない小説の「約束事」について、改めていろいろ考えることができて、面白いといえば面白いです。 また、別の作品は明らかに小説とは何かという小説であったりしています。 こういうのは「メタ小説」というんでしょうか、SF小説「大御所」の筒井康隆の作品をはじめ、結構いろんなところで見る気がします。 でもこれもアバウトにわたくし思うのですが、小説が小説とは何かを説き始めるというのは、小説の持つ「本能」(小説はその黎明期から自らの解体を内にはらんでいるジャンルであるという「見識」ですが、これはたぶん丸谷才一あたりの剽窃です)みたいなところがあると思う一方、多くの芸術が紛れ込む袋小路のような気がします。 20世紀以降の現代美術も現代音楽も、あるいは文学の中でも小説よりもより「芸術」に近い現代詩も、そんな「行き止まり」から抜けられなくて、どんどん玄人好みの、といえばいい言い方で、要するにどんどん一般的「鑑賞者」を失っているように思います。(たぶんそれは、衰退といっていいと思いますが。) などといろいろ考えるのですが、さて10作の短編小説を読み終えて、どれが好みだったかなーと思い返すと、「内在天文学」、「つじつま」(この「つじつま」という作品は、息子が子宮から出てこなくて、その中で成長していき大人になって結婚もし子供も生まれ、という話です。うーん。)あたりが浮かび、これらの作品はざっくりまとめると、何とか手の届きそうな想像力の射程範囲にある作品が、その作品世界を構築して、そしてその底辺に詩的な「孤独感」が流れている作品だと思います。 と、本当にざっくりまとめますと、それって結局は「不易流行」ではないのかな、と。 ……うーん、不易流行か。……。 不易流行といえば、松尾芭蕉は江戸時代の文学理論ではないですか。大昔、ですよ。 ……うーん、結局は、人間は変わらないということ、なのでしょうか、ねぇ。……。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2018.12.22
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『敦煌』井上靖(新潮文庫) 本小説のテーマというかモチーフは解説文にもありますし、何より本体の小説のエピローグ部にも書かれてあります。下記に、文庫の裏表紙の一文から取ってみました。 西夏との戦いによって敦煌が滅びる時に洞窟に隠された万巻の経典が、二十世紀になってはじめて陽の目を見たという史実をもとに描く壮大な歴史ロマン。 ちょっとネットで調べてみたのですが、実際この発見は世紀の大発見といってよく、約八百五十年前の質量共に膨大な文書が突然発見されたということで、中国のみならずアジアの歴史を塗り替えるようなものであったようです。 (ついでにネットで、この作品の舞台でもある「千仏洞」のいろんな写真を見ていたのですが、そんなのを見ていると、やはり中国の歴史って本当にすごいなぁと思いますね。筆者の井上靖が、特に中国の西域に強い興味を持っていたわけがとってもよく分かります。) 本書は、そんな膨大な書物がなぜそんなところにあったのかという謎について、一つのアンサーを書いた作品であります。 でも、そんなモチーフで小説を書くというのは、一体どんな感じなのですかね。 私は筆者井上靖についてほとんど何も知らないのですが、少なくない作品で中国の歴史をお書きになっていることくらいは知っています。有名な『天平の甍』は読んで、すごいなーと思いました。 ひょっとしたら歴史小説を書く作家にとって、そんなモチーフは、例えば織田信長の生涯を書くというようなこととあまり変わらないのかなとも思います。 ということに、なぜ私がヘンにこだわったのかというと、簡潔に言えば、ゴールラインの分かっている小説では、登場人物の行動は段取りにならないのかと思うからです。(一例を挙げますと、主要登場人物の一人が雷に撃たれて死ぬという展開などのことです。) 私は本書の最後まで、主人公の特異な人生の最初の一歩となる西夏の女ならびに彼女から貰った文書に書かれてあった西夏文字との出会いが、強烈に主人公の人生をねじ曲げたことの理由が、よく納得できませんでした。 筆者もそのあたりについては思うところがあるのでしょうか、作品中に再三その出会いの場面を回想描写し、様々な説明を加えています。しかし、それがどうにも私にはすとんと心の中に入ってこず、うまく感情移入ができませんでした。 それは、その後のウイグル族の女性との出会いについてもそうでした。 なぜ自らの危険を冒してまでその女を助けようとしたのか、そこの主人公の気持ちがどうもよく読みとれず、結局私は、入口のところでスムーズに入ることができなかったせいで、最後まで滑らかに主人公に寄り添うことができなかったといえそうです。 しかし読み終えて、どうも納得がいかなくて何というつもりもあまりなく内容をメモしていて、はっと気が付きました。 あ、そういうことだったのか、と思いました。 それは、本書は「ビルドゥングスロマン」ではなかったかということです。 「ビルドゥングスロマン=教養小説」とは、例えば漱石の『三四郎』とか、尾崎士郎の『人生劇場』とか五木寛之の『青春の門』とか、そもそもの出自はゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』ですか、主人公の様々な成長を辿っていく物語ですね。 ではなぜ本書が教養小説なのか。わたしはこんな風に本書をまとめてみました。 1、科挙不合格 → 2、西夏の女、西夏文字との出会い → 3、兵士 → 4、ウイグルの女との出会いと彼女の死 → 5、仏教への傾斜 → 6、歴史認識と人間存在の限界 → 7、経典を救う → 8、自分の人生の意味の発見 どうですか。こんな風にまとめてみると、きれいな「ビルドゥングスロマン」展開になっていることがよく分かりますね。(上記「6」のまとめは少し牽強付会っぽいですが。) では、本書を読んでいる時なぜ私はこの図式に気が付かなかったのでしょうか。 このまとめをじっと見ていて、一つこれかなと発見したことがありました。 冒頭近くの主人公の科挙不合格とその直後に西夏の女に出会った後に、こんな表現があります。 趙行徳は再び歩き出した。歩きながら行徳は、自分というものが今までの自分とはどこか違ってしまっているのを感じた。何がどのように変わったのか見当はつかなかったが、兎に角、自分が心の中に持っていた大切なものが、他の何ものかとすっかり置き換えられてしまったような気持ちだった。趙行徳はつい先刻まで進士試験にこだわっていた自分がひどくつまらないものに思えた。ましてそのために絶望的になっていた自分が滑稽な気がした。たった今彼が眼にした事件は、学問とも書物ともまるで違った無関係なものであった。少なくともいま彼が持っている知識では理解し難いものであった。それでいて趙行徳のこれまでの考え方や、人生への対かい方というものを、その根底から揺すぶるだけの烈しい力を持っていた。 実は科挙不合格に関する主人公の心情描写は、この部分の前後に小さい説明があるくらいでほとんどありません。しかし、この科挙不合格こそが趙行徳に決定的な人格危機をもたらせ、そして以降の彼の行動を、自分でも不可解と感じるような極端へ振らせた原因であったわけです。 ところが、この部分について、筆者は極めて薄い関心でしか描きません。ここはもっと書き込んでおいた方がいいのではないかと私は愚考するのですが、筆者は先を急ぐように物語を進めていきます。 あるいはここには、古代中国人の独特の感性や生き方、文化が影を落としているのかも知れません。(特に生死観や人生観は違いが大きいと思います。) とにかくこの部分の「書き込み不足」が、私にとっては後々まで作品世界への没入を少し妨げていたのでした。 ただ最後に、自分の人生上の重大な危機に本人が何より気づかない、気づいても関心が薄いという図式は、ひょっとしたら現代の日本の青春の大きな課題と同じかも知れないなと、私はふっと思ったりもしました。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2018.12.09
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