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『あきらめ・木乃伊の口紅』田村俊子(岩波文庫) 本書の解説は、1952年の日付がある佐多稲子の文章ですが、冒頭近くにこんな表現があります。 勿論、田村俊子は、今日すでに、明治大正の文学史上に、その評価を得ている作家である。が、その作品の普及は多くなされていない。しかも俊子の作品の与えた感銘の、察知される当時の華やかさにくらべれば、今日その作品は読まれていない。田村俊子は、樋口一葉につづくひとりの才能豊かな婦人作家として、今日正当に読みつがれるべき作家である。 明治以降の近代日本文学史の中の作家をぽつぽつと読み続けていますと、この手の作家は過去にけっこう沢山いることを知ります。しかしその中の、「今日その作品は読まれていない」ことについては、歴史的な価値はあれどもしかしそれに尽きるという作品と、なるほど今ももう少し読まれてもよいのにと感じる作品とがあります。 さて田村俊子はどちらでしょうか。 この度私は初めて田村俊子の作品を読みました。 冒頭の岩波文庫には、長短6編の小説が収録されています。 読んだばかりの私の感想ですが、中に瑞々しい描写や広がりのある哀感もあったりして、もうこれは現代では読めないだろうと感じる作品は、特にありませんでした。ただしそれは、明治末期の社会的風俗を前提に読めば、ということでもあります。 本書に引きつけて明治末期の社会的風俗を前提にするとは、つまり、その社会の中で自立・自律を求めた女性が自分の力で生きていくことの、あるいは世の中に何事かを成すことの、いかに困難であるかを知った上で読むということです。 再び上記の佐多稲子の解説文に戻りますが、田村俊子の作品の「当時の華やかさ」は、実は大正時代初期のほんの五、六年でしかありません。 その終盤は、スキャンダラスな私生活が実態以上に取り上げられて(保守的な社会モラルによる指弾)筆が荒れていき、その才能は限界を示さずにはいられなくなりました。 その原因について、もちろん結局は才能の質と量であるということはいえます。 田村俊子は明治15年生まれ没年は昭和20年です。例えばよく似た生没年の女流作家に与謝野晶子がいますが(明治11年~昭和17年)、ほぼ同時代を生きながら、現代での両者の評価の格段の違いは、やはり才能の質と量の差としか言えないだろうとは思います。 与謝野晶子以外でも、私は今回田村俊子の小説を読んだのにつられて、同時代に生きた様々な女性について他の本を読んでみたのですが、中で名前のみ何となく知っていた高群逸枝(明治27年~昭和39年)の生涯が、なかなか興味深くありました。 社会への出始めは出身地熊本県の代用教員で、その後才を認められた詩・和歌の道に進むべく上京するも詩想の限界からアナーキズム評論家となります。 しかし高群は37歳で、それまでの一切の交遊を断ち切って女性史研究に没頭し、そして女性史学不朽の名著を著し第一人者となりました。 そんな高群が書いた随筆に、こんな一文があります。 根本の問題は学問の自由、真理の探究であるが、学者がつねに政治的制圧をうけることはまぬがれえない。 田村と高群を、比較せねばならない理由は全くありませんが、やはりここにも才能の質と量、言い換えれば「志の高さ」の圧倒的な落差があるような気がします。 しかし、持って生まれた才能だけにそこまで責を負わせるのは酷ではないかと考えた時、次に浮かぶのは人生の伴走者の選択でありましょうか。 上記に挙げた与謝野晶子しかり、また田村俊子のやはり同時代作家として岡本かの子(明治22年~昭和14年)がいますが、彼女たちの「文学的熟成」には、人生上の伴走者つまり伴侶の人柄の質(人間性や価値観)を外すことはできないでしょう。(晶子、かの子両者の伴侶の芸術的な才能は不問として。) そして俊子は、たぶんここでもあまり恵まれませんでした。 本書を読み終え、そして何人かの女性作家とその生きた時代とを調べた私は、田村俊子とは時代が少しずれるのですが尾崎翠(明治29年~昭和46年。この作家こそ歴史の中から復活し、現在も読み継がれている作家です)の生涯を知った時にも感じた人間の運命の痛ましさと残酷を、今回も改めて感じたのでありました。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2018.03.30
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『漱石と日本の近代・上下』石原千秋(新潮選書) 上下2巻、500ページほどもある本です。『坊ちゃん』から始まって(なぜか『猫』がありません)『明暗』まで、12章にわたって一作ずつ漱石作品を分析しています。 力作です。啓発される部分も多いです。 例えば、なぜ『明暗』は優れているのか。→その前の作品までは漱石は「近代人」を描いていたが、『明暗』に至って描かれるのは「現代人」である、とか。 例えば、結局の所漱石が全小説を通じてテーマとしたのは(特に朝日新聞社入社以降)「家族小説」であり、そしてその「家族」を破壊しようとした「女の謎」である、とか。 そんななかなか興味深い指摘がたくさんあります。 しかしこんなにいっぱい書かなくちゃいけないんだから、なかなか研究者も大変そーだなー、などと感心(同情?)もしてしまいます。 でも一方で、そんな読みが本当にできるのかな、何の意味があるのかなと首をひねる箇所も、実は少なくないです。その理由はたぶん二つあると思います。 一つは、これは以前読んだ同筆者の別の本に書いてありましたが、作品読解の新しい可能性を拓くためにわざとトリッキーな読みをすることがある、ということです。(申し訳ないながら、これはちょっと苦しいいいわけですよねー。素人の感想文じゃないんだから、いってみればやや不良な商品をそれと知りつつ売るってことじゃないですか。) まぁ、そんな理由が一つ。 もう一つは、これはわたくし以前より感じていたことなんですが、漱石作品が研究されて少なくとも既に100年は経つでしょう。(だって没後100周年が去年だったかありました。) 私が心配するのは、もう研究することが無いんじゃないかということです。新しい発見なんてもはや無いんじゃないでしょうか。 だから、結果的にほんのちっちゃなことを「針小棒大」に論じねばならず、私のような素人が読んでいると、だからどうなん? 今までの解釈とどう変わっているのん? と思ってしまうようなことも、……えーっ、少なからずある、と。 まず、そんなふうに感じたところを、一つだけ書いてみますね。 『こころ』について論じられたところなんですがね。筆者は漱石のこんな文に注目します。(『こころ』のあらすじ紹介はパスします。) その時の私には奥さんをそれ程批評的に見る気は起こらなかった。(「先生と私」十五) この部分を取り上げて筆者は、「当然、『手記』を書いている『いま』なら静を『批評的』に見ていることになる。」と。 これがわたくし、よく分からないんですね。「当然」なんて言葉が入っていることも含めて。 確かに、「その時」はこうこうであったという表現は、今は違うという文脈で読める場合もあります。でも、そう読めない文脈だっていっぱいあると思うんですがね。シンプルに「その時」という限定された条件下の状態説明をしているだけのことで、ましてそこに「当然」なんて言葉をつけて、だから「いま」は違うとすっぱり言い切れるものなんでしょうか。 この一見トリビアルに見える分析がなぜ筆者に取り上げられているのかと言いますと、筆者はこの「証明」を手掛かりにし、自らの主張に向かって自陣を大きく拡げていくからです。 つまり、遺書を書いている「いま」は、「先生」は妻である「静」を「批評的」に見ているということは、Kの自殺の責任の半分程度を二人の女性(妻の「静」と、「奥さん」と書かれている静の母親ですね)が負うべきだと考えていることであり、さらにそうならば、「先生」の自殺の理由はまるまる半分無くなってしまうことになると展開しているからです。 でも、そんな論理展開の最初の大切な部分の「読み」について、……うーん、本当にそう読める、いえ、そうとしか読めないように言いきれるものなんでしょうか。 などという、細かいぼんやりしたよく分からない部分が幾つかありました。 後もう一つ、読んでいてどうも違和感を強く感じたのは、「語り手」の絡んでいる部分でした。これは、要するに「テクスト論」というヤツですね。 例えば『坊ちゃん』の「おれ」は、誰に向かって何のためにこの話を語っているのかという問いかけです。この「問題意識」も私にはよく分かりません。 これは結局のところ作者の存在についてほとんど触れず、作品内部ですべてを完結させようとするからこんな事になると思うのですが、なんだか読んでいて少し「気持ち悪さ」を感じます。 『こころ』についても、また同種の指摘があります。 「先生」の手記には「妻」にはこの内容は知らせたくないとあるのに、そしてたぶん「妻」はまだ生きているだろうに、なぜ第1・2部の主人公「青年」は「先生」の手記を公開したのか、と問いかけているところです。 でもねぇ、そもそもこれは漱石の創作なんでしょ。 そんなところにまで踏み込んで、混乱しないものなんですかねぇ。それにたとえ合理的な答えが出たとしても、その答えに意味はあるのでしょうか。(もしそんなところにまでどうしても踏み込むのなら、そんな「青年」の手記をなぜ漱石が書くのかという所まで一気に行っちゃわないんですか。何の意味があるのか、……うーん、よく分かりません。) ……えっと、なんだか違和感部分ばかりになってしまいましたが、上記冒頭あたりの二つの私の疑義について、実は私の中で答えを持っています。 一つめ「トリッキー」なまでにテクストにこだわるのは、やはり煮詰まりかけている(ように見える)漱石研究において、新しい発見は本文の一語一文をゆるがせにせず読むこと以外にはないのだということだと思います。一種の「原理主義」でしょうか。 もう一つの「針小棒大」についても、そもそも文学研究というものがそういった「浮世離れ」な側面を確かに持っていて、しかしその蓄積こそが、学問的な進化と広がりを保証するからでありましょう。 少なくとも、振り返ればはるか昔の我が大学時代の文学研究も、間違いなく大いに、大いに「浮世離れ」していたと、今となってはとても懐かしく思い出すものであります。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2018.03.17
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『マークスの山』高村薫(ハヤカワ書房) 先日、作家中川右介が推理小説について書いた本を読んでいると、日本の推理小説の黎明期に、「日本初の本格探偵小説作品論」と評価するべき小酒井不木の文章が引用されていました。こんなことが書かれてありました。(文中の「探偵小説」という用語は、ほぼ「推理小説」と理解していいと思います。) 探偵小説の面白味は言う迄もなく、謎や秘密がだんだん解けて行くことと、事件が意表外な結末を来す点にある。而もその事件の解決とか、発展とかが、必ず自然的でなくてはならない。換言すれば偶然的、超自然的又は人工的であることを許さない。其処に作者の大なる技巧を必要とする。 この文章は大正十二年に書かれたものですが、ほぼ現在の推理小説にも当てはまるように思います。もっともこれは基本的な「定義」めいた文章で、特にラディカルなことは言っていないせいでもありますが。 今回の読書紹介の本書も、作品の内容を当てはめていくと、ほぼ上記の「定義」内に収まります。ただ、本書はいわゆる「倒叙型」(この言葉も中川評論で知ったのですが、犯人が誰であるかは早い内に作品に描かれて、その読者が知っている事実を探偵がいかに推理するかという書き方)の作品だから細かな部分はややそぐわない所もありそうです。 ということで、本作は結局の所「推理小説」であります。 何を当たり前のことを言っているのだとお思いの貴兄、すみません、すべてわたくしが悪いのです。私の勝手な思いこみでありました。少しだけそのあたりを説明させていただきます。 実は高村薫の作品は、わたくし初めて読みました。 なぜ初めて手に取ったのかと言いますと、高村氏がテレビなんかで時々、様々な社会的事象についてコメントをなさっている姿を拝見したんですね。そしてその内容をよく聞いていると、なかなか私にとっては納得できる、共感を覚える趣旨でありました。 で、わたくしはこう考えました。 かつて平成の始め頃までですか、あたかも「天下のご意見番」のごときお方として私は司馬遼太郎氏を考えていました。しかし司馬氏が亡くなって、次に私が考えたお方は養老孟司氏でした。しかしこの方もご高齢で、また司馬氏ほど社会事象に広くコメントをなさる方ではなく(頭はすっごく良さそうな方でありましたが)、少し物足りなかったもので、合わせ技で考えた人物が内田樹氏でした。 とそんなことをなんとなく考えていたところに、上記の高村コメントに何度か接したもので、次代の「ご意見番」はこの方ではないかと、まぁ、そう思い、それならば御本職の小説も少しは読まねばなるまいと手に取ったと、そんな次第であります。 この小説、百万部も売れたんですってね。……うーん、本当に百万人も読んだんでしょうか。だって、とっても長くてとっても重い内容であります。私は読んでいてとてもしんどくて、寝ては悪夢にうなされそうでありました。 ただそのことについては、私があまり推理小説を好みとしていないという個人的理由によるのかもしれません。私が推理小説(特に本格的社会派推理小説)をあまり好まない理由は、まず殺人などの残酷な場面をリアリズムで読むのが嫌なこと、そして犯罪者の特異な内面描写も読むのが辛いことの2点(しかしこの2点は、よく考えてみれば推理小説の「華」ではありませんか)です。そして本作はこの両方を含んでいます。(二つめは倒叙型の作品ゆえに普通より多く。) では、なぜそれでも何とか最後まで読み切ることができたか(私は文庫本でない版で読みました。二段組みで440ページあります)と言いますと、やはり冒頭に書いた小酒井不木の書いた推理小説の評価ポイントがとても高いと感じたからでありましょう。 440ページをじっくりストイックに書ききった筆力は、やはり並のものではありません。 少し前に、新聞の文芸時評でしたか、高村氏の新作が推理小説的展開から離れ始めているとあったような気がします。 この度私は、初めて読むのに、まぁ最も有名な作品からと思ったのですが、そもそもの動機が推理小説的長所以外のものを期待していたのですから、その新刊から入った方がよかったかもしれません。 例えば筒井康隆氏がSF小説から入って、今やその枠組みに全く収まりきらない小説群を書いていらっしゃるように、わたくしの(勝手な)希望としては、小説ジャンルを飛び越えるスケールの作品を、高村氏もどんどんお書きいただきたいものであります。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2018.03.04
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