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『転々私小説論』多田道太郎(講談社文芸文庫) この筆者の本は、確か高校生になった頃に少しまとめて読んだ覚えがあります。 本書の解説部に著書目録があるのですが、『しぐさの日本文化』『遊びと日本人』などと言った文庫じゃなかったかなと思い出します。 あわせて書かれてある年譜を見ていたら出てくる加藤秀俊の著書と一緒に、少しまとめて読んだことを思い出しました。今で言えば、社会学なんでしょうか、その頃そんな「マイブーム」だったのかもしれません。 しかし、たぶんこの筆者の文学関係の本は読んだことがなかったように思います。 この方は、仏文学の学者さんなんですね。知っていたようにも思いますし、この度初めて知ったような気もします。 それは、過去に読んだ本もこの度の本も、全く文芸評論家的な文体ではないと感じたからです。 文体はかなり個性的、といいますか、とにかくシビアな文芸評論的文体とは全く違います。 本書解説に口実筆記であるとありますが、それにしても、まるでどこかの御隠居の一杯機嫌の語りの文体という感じです。 例えば、こんな一文。(太宰治の作品についての文章。) だけど「待つ」という掌篇では、一人称じたいが「ぼんやり」しており、「ただもやもや」しているだけ。駅のベンチでひとり座り、ただ「待っている」だけ。 誰かひとり笑って声をかける。おおこわい、ああこまる。 人間をきらい、こわい。 人間の集まった世の中は、あいさつやお世辞ばかりで、こわい。人に逢うのがいやいや。 ……いえ、この文体は、特に後半は、太宰の「待つ」の作品世界(太宰得意の女性一人称による文体)の引用と渾然一体となっていますが、まぁ、こんな語りです。 実は筆者は、私小説を論じるにはこんな形のものが最もふさわしいという考えを持っているんですね。次の文は、宇野浩二について述べている部分です。 彼がいちばん好きな西洋の作家はゴーゴリで、『ゴオゴリ』という本も書いています。それも分析が全然ない。「外套」という小説はこうです、「鼻」という小説はこうです、それにはこういうおもしろいところがあるというふうに書いている。このごろの人は、文芸評論を書くと必ず分析になりますが、宇野浩二にいわせれば、それは文芸評論ではなくて、文芸学あるいは文学学だということになります。(中略)学である以上は分析をしなければならない。これは文芸と全然関係がない。宇野浩二は、そういうものを「文学」とは思いたくなかったのではないかと思います。 本書が、この轍を踏んでいるのは明らかです。 そしてこのことが、最初私にはどうもなじめなくって、何だかふざけているような感じがして少し困りました。 いえ、本当はそんな引っ掛かりは最後まであったのですが、にもかかわらず最後まで読んだのは、その文体による説明が、筆者や作品に対する愛情に裏打ちされた直観から描かれたものだと感じられたからです。 次文は葛西善蔵について述べた部分です。 (略)歴史上、被害妄想的と言われてきた人はジャン=ジャック・ルソー。彼は、いろんな人に追いかけられたり、噂でぼろくそにやられたり、かなり被害妄想的なところのあった人のようです。葛西にも同種の妄想があったとすれば、日本の私小説の源流は、世界的には十八世紀フランスのこのジャン=ジャック・ルソーに求めてもいいかも知れません。 ルソーは人生の最後に言っている。「こうして私は、この地上に一人きりになってしまった」(『孤独な散歩者の夢想』) これにはたしかに日本の私小説に一脈通じるものがある。 なるほどここには、筆者の御専門の仏文学者が出てきますね。 本書には、葛西善蔵、宇野浩二、井伏鱒二、太宰治の4名が論じられています。 私は前の二人の評論が面白いと思いました。井伏氏のは、何だか井伏氏が偉すぎる感じで、太宰治のは、あまりに太宰が好きすぎて(筆者が東大の仏文に進学したのは太宰の後を追ったからだということです)、テレてしまって断片みたいになってしまいました。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2018.06.24
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『菜穂子』堀辰雄(岩波文庫) 大概なんにも知らない人間ですが、いえ、わたくし自身のことですが。 それでもまぁ、少しは他の分野のことに比べると相対的に知っているだろうと恥ずかしながら自負している(本当に恥ずかしい)近代日本文学の事についても、へえー、知らなかったなぁ事案が多すぎる、と。 何のことかといいますと、これも出典曖昧話題で誠に申し訳ないのですが、かつて「漱石山脈」という言葉があったように、ある時期まで「堀辰雄山脈」は近現代日本文学のメインストリームであったと、何かで読んだことです。 言われてみれば、そうかーと気づくでしょ。 堀辰雄から、軽井沢経由で中村真一郎とか福永武彦とかに行くラインですね。この第二次戦後派の方々の影響力は、さらにどの辺まで行くのか。 詳しくは知りませんが、博覧強記とかインテリゲンチャっぽいみたいな共通項で辿っていくと、第三の新人とか大江健三郎あたりを巻き込んだり飛び越えたりしながら、ひょっとしたら丸谷才一あたりまで繋がっているように感じます。とすれば、丸谷氏すでに亡き今でも、何となくセンターラインではないですか。 そんな「堀辰雄山脈」があった、と。(ただし、堀辰雄の前の繋がりには芥川龍之介がいて、とすれば、これは芥川―漱石の「漱石山脈」の末裔じゃないかとも考えられはするのですが。) そんな堀辰雄の作品集です。 かつて私は堀辰雄の熱心なファンでもなかったのですが(だから堀が「山脈」を作っているような方とは知らなかったのですが)、むかーし、『曠野』という短編小説を読んだ時は、かなり強いインパクトを受けました。 しかし、その後他の作品に広く手を出さなかったのは、今考えてみると二つの原因です。 1.『曠野』のインパクトは、少なからず気味悪く殺風景な印象のものだった。 2.その後読んだ『風立ちぬ』などに、勝手に強い通俗性を感じた。 この辺りでしょうかね。 この「2」については、冒頭の短編集中の作品にも少なからず感じられるものがあって、例えば何といっても『聖家族』の冒頭、 死があたかも一つの季節を開いたかのようだった。なんてところを読んでいると、とにかくまず、うーんと唸ってしまいます。 (しかし今回私がちょっと思ったのは、これはいわば中原中也的な才能ではないかということでして、中也はインパクトの強い短いフレーズを作り出すのがとってもうまいと私がかねがね思っていたということです。しかしともあれ、この才能そのものには当たり前ながら、罪はない、と。) さて本書は、堀辰雄の生涯のテーマであった「菜穂子」系の中短編小説を集めたものです。この系列の筆者の意図は、収録されている『菜穂子』の「覚書」にほぼ書いてあります。 『アンナ・カレーニナ』あたり(これは書いていませんが、日本の小説でいえばたぶん有島武郎の『或る女』あたり)を狙ったものだということですね。 しかし量的にとても「アンナ」になれなかったのは、ひとつは「文体」のせいでしょうか。この「詩的」な文体では、やはり量的に豊かなものを目指すには限界があるような気がします。 そしてもう一つ挙げるとすれば、私がかつて『曠野』に思った殺風景さと同質のものの存在が、それを阻んでいたように感じます。(それは何と言いますか、かなり雑駁にまとめますと、長編小説に必要な人生に対するもっとアバウトな許容が欠けているという感じ。) また、この殺風景なものの正体をさらに突き詰めていけば、それは堀辰雄の現実の肉体の問題にきっと突き当たるのでしょうが、しかし堀辰雄は享年48歳です。 同病で亡くなった作家たちの、例えば梶井基次郎は31歳、織田作之助33歳、国木田独歩36歳、樋口一葉に至っては24歳であります。 こんなことをあれこれわたくしが書いたところでどうというものではありませんが、48歳まで生きたこの筆者は(晩年は闘病生活にその時間の多くを費やされたようですが)、やはり書くべきストーリーをあまり持っていなかったのではないかと感じるのは、私の愚かなバイアスのかかった見方でありましょうか。 いえ、病によって最愛の対象が衰弱していく様を見つめる眼に、文学的なテーマがないといっているわけではありませんが……。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2018.06.09
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