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『砂漠ダンス』山下澄人(河出文庫) 紀貫之という人はとても偉い人だそうですね。 以前、高校の国語の先生をしている友人から聞いたことがあります。 彼の話によりますと、紀貫之が偉いのは、三つの日本初の記録ホルダーであるからだそうです。 三つの記録とは、 一つ目、日本で初めてひらがなで日記を書いた。→『土佐日記』のこと。 二つ目、日本で初めて勅撰集といわれる和歌集を編集した。→『古今和歌集』のこと。 三つ目、日本で初めて「和歌の評論」を書いた。→「古今集仮名序」のこと。 というように、一つでも「日本初」があればそれは歴史に刻まれるのに(ついでに高校教師の彼は、例えば日本で初めて「腑分け」つまり遺体を解剖された死刑囚は、ちゃんと名前が歴史に残っているぞという、例えになっているのかどうかよくわからない話もしていました。きっと授業で何回か話したジョークなのでしょう。)、それが三つもあるのは、いかに紀貫之が偉大であるかを語って余りあるということだそうです。 つまり、さほどに、本当に初めて新しいことをするというのは難しいわけですね。 そして、さて、本書です。 面白かったですねー。確かに、新しい何かがありました。 筆者は、本作ではなくその後に書いた作品で芥川賞を受賞なさったそうですが、いかにも芥川賞にふさわしいと私は思いました。 そもそも芥川賞とは、ファッションショウの○○コレクションである、F1レースである、という説を私は持っていまして、小説表現の最前線を示す作品こそ芥川賞にふさわしいと考えています。 そんなファッションでは実際には街は歩けないじゃないかとか、そんな速度で走れる一般道はどこにもないなどの意見は、犬に喰わせておけばいいと考えています。 まさに本書はそんな小説でした。 実は私は今少し興奮しているのですが、本当に新しいものに触れるというのはそれ程スリリングで、そしてあまりない経験です。 では、本書のどこが新しいと私は思ったのでしょうか。 そもそも小説の評価とは、私は、優れた物語と優れた表現(文体)で定まると考えます。 テーマの素晴らしさというのはもちろんあるでしょうが、それは小説の場合「後付け」になるように思います。単独で素晴らしいテーマは、評論などで論じられるべきで、小説の場合は物語と表現が先行すべきだと思います。 とすると、その小説が新しいというのは、物語が新しいか、表現が新しいかのどちらか(両方が新しいというごく稀なケース、また実際には、この両者はそんなに明確には分離できない等がありますが)でしょう。 わたくしが思うに、本書は「表現」があたらしい、と。 例えば、小さなところですが、こんな表現。 私の住んでいる部屋は街の東を流れる川沿いのアパートの三階にある。街は国の北にあり、秋には住宅地まで熊が出る。 明日、徹と名付けられる男の子が美智子という女から生まれた。 この二つの部分は、本書にある二つの作品のそれぞれ冒頭部ですが、違和感が明らかにあるのは後者の冒頭でしょう。我々は普通「明日」と過去形「生まれた」を、このようにダイレクトには結びつけません。 前者の文章で私が少しおやっと感じたのは、「街は国の北にある」という、一見何の変哲もないと思われるかも知れない部分です。でも、どこか少しこの表現はヘンじゃないですか。この書き方は、何かを説明したのではなく、何かを説明しないことの表明のような気がします。 それはまた、読みにくい文体への志向とまとめることもできます。 小説の場合は、表現意欲として読みにくさを目指すというのが明らかにあるからです。簡単にその意図を考えれば、きっともっと考えて読めということでしょう。 例えば、吉田健一の文章などはそんな典型じゃないのでしょうか。(でも私は読みにくいせいで、吉田健一の作品はさほど読んではいません。)大江健三郎の『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』の頃の文体もとても読みにくかったなーと思い出します。 本書では、この読みにくさは、様々なエピソードのつなぎ目にまず最も特徴的に見られます。併せて、次々と描かれるエピソードの、なんともまとまりのなさにおいても。 でもこれは一読すると誰もが気づくところで、コロンブスの卵のように、誰かに実行されてしまうと、あーそんな手も確かにあったなーと、少し「ほぞをかむ」気持ちになったりします。 具体的に挙げるには短い引用では抜きにくいこの「新しい文体」は、結局のところ二つの要素にまとめられるように思います。 ひとつは、文体自体が強烈な自己主張をしていることです。典型的な一人称文体だと思います。だから、この文体が今後、はたしてどれだけのものや場面を表現することができるかという危惧も感じます。 (かつて優れてオリジナルな文体を持ってデビューした作家は、例外なくそんな自らとの格闘の一時期を、キャリアの中に持ちました。例えば村上春樹などもそんな作家だと思います。) もう一つは、それはやはりこの文体で描かれているもののイメージの素晴らしさになるかと思います。なんと言っても文体だけが単独に素晴らしくあることは、なかなかに困難なことです。 例えば本書に、コヨーテに変身した「わたし」が砂漠を駆けるシーンが出てきますが、そこに描かれるイメージの瑞々しさ、開放感、圧倒的な「自由」感覚は、描かれた世界がまるで子どもの空想画のようで、児戯にもあふれ、そしてはっとするほどインパクトがあります。 そんな小説でした。 本当はこの先に、その文体によって何が描かれていたのかということの「審判」があるのでしょうが、そんな「意味」は求めず今回は取りあえず、近来稀なほど私自身が楽しく読めたことが、とてもよかったです。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2018.10.28
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『新樹の言葉』太宰治(新潮文庫) そもそもなぜ太宰治でなぜ『新樹の言葉』なのかと考えますに、それはやはり私に間歇的に太宰治が読みたくなる時期があるということかなと思うのですが、図書館でするすると何かに導かれるように本書を手に取ってしまいました。 いえ、本当はもう少し「見当」があって、確かこの文庫本に「愛と美について」が入っているんじゃないかと思い出していたのでしたが、案の定入っていました。 この「愛と美について」という短編は、私だけでなくきっと少なくないファンがいると思うのですが、とても上手ないい話です。せっかくですから、この名短編を例にして少し考えてみたいと思います。 このあたりの時期の太宰作品は、まー、整理した言い方をすれば、「まるで整理されていない」くらいの言い方になるのでしょうか。 上述「愛と美について」のような珠玉作があるかと思えば、川端康成が批判してそれに太宰が噛み付いたその川端の批判対象そのもののような作品、語り手の「愚痴話」めいた記述を前面に押し出してしまった数編があります。 それは太宰ファンには結構面白いお話しでしょうが、まーやはり「二流」めいた気がします。本短編集でいえば「春の盗賊」「花燭」「秋風紀」あたりはそんな感じがします。 例えば、太宰には「黄金風景」という極めて短くもとても出来のいい小説があるのですが、上記の「花燭」はほぼ同一のテーマを用いて、そして多分3倍くらいの長さを使って、しかし出来は劣るように思います。 「春の盗賊」も、いくら何でも書きすぎだろう(「太宰話」が。後述)と言う気がします。本書の解説を奥野健男が書いているのですが、「春の盗賊」を「小説としては殆ど体を成さぬまで、自己の心を語った異色作」とまとめていますが、さすがに評論家はうまく褒めるものであります。 もともと太宰治の小説には、特に作品序盤、筆者を模したような語り手が登場してあれこれ「太宰話(……苦しい。生まれてすみません。悲しい嘘です……。など)」を語るという特徴があります。 世にいう太宰ファンとは、少なくともこの「太宰話」を目障りだとまでは思わない読者であるのでしょう。(まー私もそうかも知れません。) ただ太宰の上手なところは、そんな部分を梃子にして一気にぐいっと物語の核心に読者を引っ張り込むところで、しかしそのためには語り手部分と小説の本筋とのバランスがとても大切であり、そしてそこにこそ稀代のストーリーテラー太宰治の才能が開花していると思います。 本文は冒頭に書きましたように「愛と美について」を考えたいと思っているのですが、今述べていたのは、太宰作品には二つの層があって、それがうまくバランスが取れた時には絶妙のできばえになるということですが、さらに「愛と美について」には、もう一層語りの層が出てきます。 語り手が作中の語り手たちを語り、そしてその語り手たちがさらにストーリーを語るという、入れ子仕立てでありましょうが、あざといばかりに手の込んだ(太宰らしいサービス精神に満ちた)作品構造になっています。(太宰は同構造の続編も書いているのですが、私の好みでいえばこちらであります。) 本当のところ、私は本書の全短編を読んで、もうひとつ何か違うんじゃないかという「違和感」めいたものがありました。 何といいますかそれは、上記本文にも書きかけているのですが、安易に走っていないか、作者の、作品への全力投球が少し信じられないという感じのものです。 で、この感じの正体は何だろうかと、さらに考えたんですね。 本書には昭和14年と15年の作品が収録されているのですが、この時期というのは、太宰の豊穣な中期の作品群(「走れメロス」「駆け込み訴え」「富岳百景」「女の決闘」「御伽草子」などのきら星のごとき名作群)の直前であったせいかなと始めは思ったんですね。 しかし少し太宰の年表を探ると、今挙げた名作だけでも「御伽草子」以外はみんな昭和14年と15年の作品ではありませんか。 ……うーん、昭和14年には、すでに太宰の豊穣期は始まっていたんですねー。 しかしそれにしては、なぜこんなにできばえの善し悪しがあるのでしょうか。 よくわからんなーと思いながら、私は本文を読み終えたもので、奥野健男の書いた解説を読み始めると冒頭にこうありました。 「この『新樹の言葉』で、新潮文庫の太宰治の本は十六冊目になる。」 最初は、「ふーん、そーなんだー」という程度の呆けたような感じ方しかしなかったのですね。でも、何となく気になってじっとにらんでいましたら、おやっと気付きました。そして今更ながらなーるほどと思いました。 この「十六冊目になる」とは、少し意地悪に読めば「そろそろ二級品も入ってきますよ」という意味ではありやなしや。 いやそれはあまりに意地悪な読み方でありましょうか。 これはきっと、「選ばれた太宰ファンのあなたのための作品が、この度集まりました」と読むのでしょう。 だって太宰の第一創作集『晩年』の冒頭作「葉」のエピグラフに、 撰ばれてあることの 恍惚と不安と 二つわれにあり ヴェルレエヌと、確か、ありましたよね。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2018.10.15
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