戦後すぐの「産めや ふやせや」の頃
いま どっかのアホ大臣の産む機械よりすごかった。
年子 40過ぎの新生児ママもいたり 子沢山のうちが多かったです。
当然貧乏な当時に子沢山だから、猶一層貧乏なわけ
塾通いなんてなし よくて算盤塾
商家の子供は 帰れば家の手伝い 農家の子は 牛や鶏の世話
月給取り(サラリーマン所帯の事でした)の家の子供は、お使いなど
昼寝は畳
起きた後は 顔に畳の跡がくっきり
ちゃんと子供にも仕事がありました。昼寝もその一つ。親の仕事の邪魔にならないもん。
河原や原っぱで遊び、夕方にはくたくたになり粗末ですが晩飯を食べて
バタンキュウ 宿題は忘れたぁ なんて毎度の事
給食費の払えない貧しい子もいました。
今は金があっても払わんそうで
学校の校舎は 平屋か二階建て 当然木造で
冬は窓が風でガタガタうるさくて、隙間だらけ。
雑巾がけはオケツを持ち上げて、用意ドン 真冬の掃除は手が冷たくて
つらかったね。
テレビが登場したのは昭和33年辺りでしたか。
テレビのあるお家は大変 近所のガキ共がみんな見せてと来るのです。
ついでに夕飯まで振る舞ってくれたり、私なんか毎晩どこかのお宅で
ご飯を呼ばれていました。←図々しいガキ 多分こまっしゃくれで面白かったのでしょ。
お年寄りのいるお宅ですごく可愛がってもらったのを覚えています。
子供はみんなで育てるという概念があったので、知らない人から叱られもしました。
子供会の世話役のおじちゃん おばちゃんは大変です。
夏は海水浴 ラジオ体操の監督とハンコ捺し 会場の草刈りまでしてくれました。
このおじちゃんに叱られるとガキ大将も シュン。
「海水浴なしだぞ」なんて叱られるから。
おいしいおやつも テレビゲームもありません。
でも みんな不幸ではなかったし、登校拒否の子供もいませんでした。
なんで今の学校はおかしくなってしまったのでしょう。
当時は体罰なんて当たり前 男の先生の前だとみんな ビシっとしてました。
バケツ持って立たされるりもありましたよ。
毎度立たされる子供なんか 先生が「コラぁ」と言っただけで
バケツを取りに行く始末です。
でも それが当たり前だったし、親は当然受け入れていました。
ただし、先生も叩く時は、場所と叩くコツも心得ていて、跡が残るなんて
絶対になかったし、怪我なんかしませんでした。
私は いたずらしている子供やわきまえない子供は叱っています。
叱った後、「君は頭のいい子だから ちゃんとわかるよね」とリカバリー。
強盗区は、とても子供の多い街なのです。
スーパーには、3人引き連れたママのお買い物姿も沢山います。
先日は おんぶしているママも見ました。
とてもうれしかったな。
とりとめもない話になりました。 ゴメンね
ばーさんの回顧録です。![]()
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