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ヘルマン・ヘッセは、妥協できない優等生、強迫性の強いタイプ。 中森明菜は、献身と背信を併せ持つ、依存性が強いタイプ。 ヴァージニア・ウルフは、ガラス細工のように繊細、失調型の傾向が強いタイプ。 飯島愛は、性と外見に異常にこだわる、演技性が強いタイプ。 ジェームス・ディーンは、危険なスリルを求める、反社会性が強いタイプ。 その他にも、傷つくことに敏感すぎる、回避性の強いタイプや、 過剰な自信と劣等感を抱える、自己愛性が強いタイプ等々があり、 境界性パーソナリティ障害と言っても、ベースにある性格により、その症状の出方は様々。このように、本著はタイトル通り「境界性パーソナリティ障害」について記したものであるが、本著は、全ての人、特に子の親たらんとする者ならば、須く読むべき一冊である。それは、境界性パーソナリティ障害の克服は、万人における自己確立の歩みと、ほぼ軌を一にするものだからである。 境界性パーソナリティ障害の核となる病理を克服する過程は、 分裂した自分を統合することである。 それは、優れて弁証法的な過程でもあるが、 それは単なる二分法的な認知を克服するということに留まらず、 自己の確立そのものに関わる問題である。 思春期を迎えるまでは、親から与えられたものをそのまま鵜呑みにして、自分を形成する。 それが自分だと素朴に思っている。 それは親の価値観に支配された「よい自分」である。 ところが、思春期頃から自己意識が育ってくるにつれて、今まで自分だと思っていたものが、 実は親から押しつけられたお仕着せにすぎないことに気づく。 ことに、親から与えられた「よい子の自分」が外の世界で通用しない状況にぶつかると、 このお仕着せが次第に腹立たしいものに思えてくる。 そうなってくると、それを脱ぎ捨て、否定し、まったく正反対の自分を纏おうとする。 それが、「悪い子の自分」である。 親のアラ探しをして恨みつらみを言い、困らせることをし、 育てられたことに感謝するどころか、どうして自分なんか産んだのだ、 生まれてこなければよかったと、コレまでの人生をすべて否定するのである。 そこで起きていることは、親に与えられた「よい子の自分」を一旦、すべて葬り去り、 自分の手で自分を作り直そうとする試みなのである。(p.245)ここで、境界性パーソナリティ障害の人は、「よい子の自分」と「悪い子の自分」が統合されることなく、バランス悪く並存してしまい、そのため、二分法的で極端に揺れ、不安定になってしまうのである。裏返せば、統合前の思春期は、誰もがこのバランスの悪い状態であるということ。つまり、「よい子の自分」も「悪い子の自分」も、どちらも大切な自分だと受け止め、それを統合して、「本来の自分」に辿り着くまでの間は、それなりの対応が必要なのだ。 どんな親でも、偏りや欠点を抱えている。 関係が濃厚になるとき、悪い影響も出やすくなる。 子どもは、悪影響の部分をまともに蒙るようになった。 昔であれば、祖父母や雑多な人がその影響を中和し、補うことができたが、 緩衝材の役割を果たすものがなくなってしまい、 親が子どもをかまってやれないときに、代わってそれを補う存在もいなければ、 親の事情や気分や考え方に歯止めをかける存在もなくなり、 子どもは親に大きく左右されるようになったのである。(p.126)このように、核家族化が進んだ現在の家族は、根本的な問題を孕んでいる。そして、この状態を、個人的に打開していくことは、そう容易いことではない。 自殺企図を伴う境界性パーソナリティ障害の改善に有効なプログラムを開発した マーシャ・リネハンは、境界性パーソナリティ障害の治療に取り組むことは、 「リーグ最下位のハイスクールのフットボールチームの、 シーズン最終試合でコーチするようなもの」だと述べている。 どん底から、大逆転を果たして、 チームを勝利へと導くのと同じような技量と情熱が必要なのである。(中略) 弱って死の瀬戸際にいる者が奮い立ち、もう一度現実に向かい合い、 それを乗り越えて生き抜いていこうとするのには、 敗色濃厚で意気消沈した選手を、もう一度自分の足で立たせ、 チャレンジさせようとする名コーチのような手腕が必要なのである。(p.198)どんな事態にも動じず、安心させ、逆転の発想を刷り込み、優れている部分に焦点を当て、本人の可能性を信じ、それを伝える。「聞く」テクニックを磨き、ピンチをチャンスに変える言葉を使い、発症のきっかけと本当の原因を区別し、悪いパターンを見つけ出し、過去と現在を結びつけ、囚われを解除する。境界性パーソナリティ障害の改善に取り組む者と同じことが、現在の家庭や学校、教育機関等に求められているのである。
2014.11.30
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「安井算哲よ、天を相手に、真剣勝負を見せてもらう」 保科正之の命に、「必至!」と応じた渋川春海。 改暦が社会に及ぼす影響は、宗教・政治・文化・経済の全てに及ぶ。 この大事業に、春海は『蝕考』で挑むが、最後に誤謬、そして失意の日々。 「授時暦を斬れ、渋川春海」 関孝和の言葉に、「必至!」と応じた渋川春海。 「今は、士気凛然、勇気百倍だ」 えんに向かって、再度改暦の儀に挑むことを宣言した渋川春海。 あの北極出地の測定を任されてから、今年で二十三年。 今や、多くの算術家や旧来の暦法を重んじる者、 あるいは中国の学問が最高と信じる者からの罵詈雑言が、 春海一人に集中していた。 そうまでして改暦の名誉が欲しいのか。 そういう声が全国から聞こえて来た。 「うん……欲しいな」 闇の中で春海は呟いた。 建部と伊藤に褒めて欲しかった。 酒井と光国に天に触れたと告げたかった。 死と争いの戦国を廃し、武家の手で文化を作りたいと願った保科正之の期待に応えたかった。 闇斎の、島田の、安藤の、改暦事業を立ち上げた仲間たちの悲願を叶えたかったし、 亡き妻に胸を張って報告したかった。 村瀬に喜んで欲しかったし、えんと我が子に、自分の存在を誇ってもらいたかった。 関孝和という男が託してくれたものを何としても成就させたかった。 己だけの春の海辺に立ちたかった。 それにしても、いったいいつの間に、これほどの人間が関わるようになったのだろう。 どうして自分が、いつまでもその渦中にいられたのだろう。 からん、ころん。 そう思った途端、たまらない喜びが込み上げて来た。 いつか聞いた金王八幡の算額絵馬の鳴り響く幻の音が鮮やかに耳に響いた。 喪失した天守閣の向こうに広がる果てしもない青空を見た。 それらの美しさを思いながら、いつしか微笑みながら泣いていた。(p.271)この物語の全てが見事に凝縮された場面。この場面を読むために、この物語は存在する。
2014.11.30
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日本の職場の変遷について考察した一冊。 1990年代前半まで、旧日本的経営「プロジェクトX」の時代は、 メランコリー親和型仕事倫理に基づき、 柔軟(曖昧)な職務構造で、良好な職場集団性が発揮されていた。 メランコリー親和型倫理を構成するのは、 「対人的配慮」「役割同一性」「秩序への固着」の三点である。 「対人的配慮」の精神は、「気配り」「頼まれたら断れない」 「自分本位ではなく他人本位」等、人に尽くそうとする姿勢。「役割同一性」は、「仕事でも家庭でも全力投球」「強い責任感」「組織への忠誠心」等、自分の役割に忠実に振る舞おうとする性質。「秩序への固着」は、まじめさ、几帳面、完璧主義のような型にはまった「秩序性」を重んじる姿勢。ところが、1980年代後半に入ると、職務構造に非対称性が現れ(ひとり「ぼっち仕事」の増加、職務構造の硬直化)、職場集団性が変容・解体した(人間関係の葛藤・摩擦、相互配慮性の欠如)。メランコリー型は孤立化し(職場・社会環境の二極分化)、過労死が増加する。メランコリー型孤立化の背景は、「過労」と「寡労」の共存。長時間労働と短時間労働の格差拡大。そして、「メランコ仕事倫理」に対して「ナルシス仕事倫理」が台頭。伝統的メランコリー型の絶対数が減少し、仕事と責任の一方的背負い込みによる過剰労働が発生した。2000年代に入ると、自己愛と「やりたいこと」思考の働き方が目立つように。「ナルシス仕事倫理」の一般化。その代表が、ヒルズ族による自己中心的で「キャラ立ち」する仕事ぶり。自己愛型上司によるパワハラも問題となり始める。 かつてのメランコリー親和型うつ病とは違って、 最近の軽症うつは、責任を自己に引き受ける重圧感よりも 他者の視線と評価におびえる不安感を基調としている。 現代の職場では、管理の強まった業績評価や顧客からのクレームに常におびやかされ、 しかもそれを自分ひとりで対処する必要に迫られる。 孤独と不安が常態化しているのだ。(p.31)このように、職場の構造や環境の変化といった観点から、「うつ」の変化を捉えようとする試みは、とても興味深いものである。これからの、更なる研究が大いに期待されたのだが、残念ながら、著者の大野正和氏は、2010年7月に50歳という若さで亡くなられた。
2014.11.30
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『都合のいい「うつ」』で、林先生のことが紹介されていたので読んでみた。 うつ病ではないのに、うつ病とされているもの。うつ病と称しているもの。 これを、本著では「擬態うつ病」と読んでいる。 擬態うつ病というのは、よく誤解されるのですが、 何か特定のものを指すわけではありません。 図にお示ししたとおり、 うつ病ではないのにうつ病とされているものの総称です。(p.156)この図において「擬態うつ病」とされているのは、「甘え」「新型うつ病」「適応障害」「境界性パーソナリティ障害」「他の精神疾患」。そして「うつ状態」の中に、この「擬態うつ病」と「うつ病」「躁うつ病」があり、「うつ状態」とは別の、左端の方に「仮病」が示されている。そして、本著では「甘え」「新型うつ病」「適応障害」「境界性パーソナリティ障害」「他の精神疾患」「躁うつ病」「仮病」「うつ病」のそれぞれについて、説明している。 「擬態」には、「にせ物」「偽装」というような悪い意味は含まれていません。 もちろん図の左端にある仮病は悪いことですが、 仮病は擬態うつ病の中のごく一部にすぎません。 擬態という言葉は、もちろん、自然界にある擬態から拝借したものです。(p.157)こうやって、図で示されると、何となく分かったような感じにはなるのだが(図では「擬態うつ病」と「仮病」は別物になっており、上記説明には矛盾がある)、やはり最終的には、その判別は難しい。特に「うつ病」と「適応障害」の区別は、素人では難しい。というか、専門医ですら、その判断は難しい。 が、ここにうつ病と擬態うつ病をめぐる問題の複雑さ・難しさがあります。 ケース9も、それから過労自殺が認定された裁判例も、 自殺するまで思い詰めていたのですから、「うつ状態」であったことは間違いありません。 「うつ状態」とは、気持が落ちこんだ状態の総称です。 ですからその範囲はとてつもなく広く、 甘えで落ちこんでも「うつ状態」、うつ病の症状も「うつ状態」と呼ぶことができます。 それはうつ病とは違いますが、うつ病と呼んでもいいのではないかと考える人が、 精神科医の中にもいます。 学界でも、「適応障害に伴ううつ状態をうつ病とするのかしないのか」 というテーマは議論になっています。 これを「反応性うつ病」と呼ぶべきだと考える人もいます。 裁判ではそれをうつ病と認定している。 ということは、裁判所は学界での未解決な議論を飛び越えて、 独自にうつ病という診断を決めているということになります。(p.80)これが現状であるから、素人考えで判断して、対応するととんでもないことになる。そこに最大の難しさがある。 うつ病とは確かに違う。 でも、一つひとつの症状を取り上げてみれば、うつ病に似ている。 全体像も経過もうつ病とは違うから、同じ病気でないことは確かだ。 そこで精神科医たちは、 「逃避型抑うつ」「未熟型うつ病」「ディスチミア親和型うつ病」など、 さまざまな新病名を編み出しました。 新しく現れた病態に対して、専門家が研究し、新たな診断名を提唱する。 それを出発点として、専門家の間で議論を重ね、新たな治療法を開発する。 医師として当然の仕事です。 けれどもここに、一つだけ、そして重大な、問題がありました。 それは、これらをうつ病の一種としたことです。(中略) 「逃避型抑うつ」「未熟型うつ病」「ディスチミア親和型うつ病」など、 専門家が研究段階の名前として提唱した病名が適合する人々が、 「うつ病の一種、しかし従来のうつ病とは違う」という意味で、 「新型うつ病」と呼ばれるようになった。 これは、医学的に誤ったやり方であることはもちろんですが、 それに加えて、うつ病について急速に広まりつつある知識が、 事態をさらに混乱させることになってしまっています。 すなわち、対応法や治療法が混乱を極めるという事態になっているのです。(p.101)さらに、専門医においても、次のような診断が必要となる。これを読むと、もうどうしたらいいのか、さっぱり分からなくなってしまう。 「うつ」も、その人の元々の状態と比べて 「うつ」といえるかどうかということが最も実用的な基準です。 人の心が、万人に共通な基準で測定できるものではない以上、 正式な診断基準は、一人ひとりにとってはあまり実用的ではないのです。 むしろ、その人その人の元々の状態からの逸脱が、何よりも正確な診断基準といえます。 そしてそれが本当に判断できるのは、 その人の元々の状態をよく知っている身近な人に限られます。(p.135)そして、次の記述が、本著の結論である。やはり、素人判断は禁物である。本著に書かれていることを上辺だけ受け取り、「うつ病」と診断書が出ていても、それは「擬態」かもしれないなどと、安易に対応してはいけないのである。 適応障害でも、うつ病と同等の対応が求められることがある。 二章の「適応障害への対応」でそのように説明したのは、 適応障害であっても症状によってはうつ病と同じ治療をすべきという意味でもありますが、 このケースのように、 当初は適応障害に見えても実はうつ病だったということもあるからです。 最終章である六章は「注意!」と題しましたが、 本当は五章までのどのケースも、安易な判定は慎まなければなりません。 現実の人間を目の前にした時、うつ病か、うつ病でないか、 その診断は決して簡単ということはないのです。 どんな場合でも「注意!」は必要です。(p.151)では、どうすればいいのか?次の記述に尽きると思う。 医師が、医療のプロフェッショナルとして、毅然とした態度をとることが必要でしょう。 うつ病でないものには、うつ病でないと、はっきり言わなければなりません。 気持の落ち込みを訴える人を、すべてうつ病として、休養が必要という診断書を発行すれば、 本人には感謝され、医師としそれなりの自己満足は得られるかもしれません。 患者数が増えて、精神科という業界の領土拡大にもつながるかもしれません。 けれどもそれは、医療のばらまきです。(p.158)
2014.11.30
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パッと見たら教科書に見える。 そのサイズといい、厚みといい、表紙の絵といい。 そして、まさしく中身も「株」の教科書。 しかも、とびっきり出来の良い教科書である。 発行されたのは2005年6月。 なので、登場するトピックスは古い。 でも、基本的なことは今も同じ。 これは『経済ってそういうことだったのか会議』と同様。 ***本著に書かれているポイントの主なものは、次のようなものである。・株で大損しないためには、過去5~10年くらいのチャートを見て、 株価が現在どんな水準にあるのかをチェックする。・IR(インベスター・リレーションズ)も、こまめにチェック。・利回り=配当/株価×100は、大事な指標。・「情報の速さ」という点では個人投資家は圧倒的に不利。・ヒットする商品をCMや映画でみつける。・情報判断能力を身につけるには、経済の基本的しくみを理解する。・個人投資家は中・長期投資に向いている。・定番の大ヒット商品を多く生み出している会社は中・長期投資に適している。・テレビ局や映画会社の株は中期的な投資対象。・個人投資家は、「将来」に関するニュースにも注目する。そして、特に重要だと思われるのが、次の二点。・過去5~10年分くらいのチャートを見て、 最初の段階で「買い時」と「売り時」を決めておく。・すぐには必要にならない「余力資金」で買う。 *** このような感じで、とりあえず今は「フジテレビ」に対しては (ドラマだけでなく、情報番組やバラエティー番組などでも) とても勢いを感じることができます。 でも正直に言って、「10年後のフジテレビ」に対しても 同じような勢いを感じられるのか、については分かりません。 それは、「テレビ局」は、基本的に流行を生み出すことで 大きな収益を得ますが、流行ほどうつろいやすいものはなく、 安定的に流行を作り続けるのは不可能に近いからです。(p.83)こういう記述を見つけると、昔の著作も読む価値が十二分にあるなと、改めて感じることが出来る。
2014.11.26
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例年11月、将軍の前で行われる「御城碁」。 碁打ち衆として登城を許された四家の者のみが、そこで勝負する。 そのうちの一人が、二代目安井算哲。 またの名を渋川春海という。 が、この春海、碁以上に興味を持っているのが算術。 ある朝、金王八幡宮に奉納された、難問難題、術式に解答が記された勝負絵馬群の中に 一瞥して答えを書いたものと思われる七枚を見つける。 それが、関孝和との初めての遭遇、そして、えんとの出会い。そんな春海が、老中・酒井により、日本中の北極出地を命じられる。即ち、緯度を計測し、地図の根拠となる数値を出してこいと。そして、建部、伊藤らと共に出立してから487日、役目を果たし江戸に帰還。が、旅の途中、建部はこの世を去り、えんは嫁いでいった。ただし、関孝和との勝負は成し得たのだった。
2014.11.26
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『ネットがつながらなかったので仕方なく本を1000冊読んで考えた』で、 ホリエモンが強く薦めていたので、読んでみた。 元・経済財政政策担当大臣竹中さんが、 「だんご3兄弟」の佐藤さんに、経済について語る対談集。 本著の元となる単行本は2000年4月に、2年半の月日をかけて発行。 さらに、この文庫版は、その2年半後の2002年9月1日に、 「会議 その後」の部分を加えて発刊された。 なので、そこで語られる時事問題は、一昔二昔前のことである。しかしながら、そこで語られている「経済」については、決して過去のものではない。「貨幣と信用」「株の話」「税金の話」「投資と消費」「企業とビジネス」「労働と失業」現在でも通用する、しっかりとした経済の基礎理論である。それらを、肩の力を抜いて、愉しく読み進められることに本著の価値がある。学校の授業でも使えそうな内容で、そんな教育をやってみたいと、竹中さん本人も本著の中で述べている。出来るならば、もう一度会議を再開してもらって、現時点での経済状況を盛り込んだ新版を作ってもらえると、とても嬉しいのだが。
2014.11.26
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上巻の最初の記事は、月刊PLAYBOYの2005年2月号掲載のもの、 そして、今巻の最後の記事は、2007年10月号掲載分。 さらに単行本化した際、2010年時点の視点や情報が盛り込まれ、 最後の「文庫版のための新章」が記されたのが、2012年のこと。 これは、随分長い時間をかけて完成した作品であり、 その間に、焦点となっている事件についても、色々な変化が起こった。 ホリエモンが、その著書『ネットが……』で書いていたように、 社会や組織の有り様について、とても考えさせられる一冊だった。 *** だから、知ちゃんのことを思うとね、 本当にかわいそうで、すごくいい子だったんです。 本当に可愛かった。 あどけないというか、 彼女と子どもたちも被害者ですよね(p.20)これは、麻原が足繁く通っていた寿司屋の店主が、著者のインタビューの最後にもらした言葉。「知ちゃん」とは、麻原の妻・知子のこと。 麻原彰晃を別な視点から見る。 それはこの連載の狙いであり、テーマでもある。 でも作業はなかなかはかどらない。(p.28)著者は、麻原の足跡を追い、麻原を知る人たちを訪ねて回る。しかし、その人たちが、そう易々と麻原について語ることはない。一言をもらうために重ねた努力は、並大抵ではない。そして、何より問題なのは、麻原自身の言葉を聞くことが出来ないということ。 過剰なセキュリティと治安への幻想を抱きながら、 アメリカは憎悪と報復を世界中に撒き散らした。 過去形ではない。それは現在進行形で続いている。 なぜならいったん発動した危機管理意識は、力で仮想敵を捻じ伏せても決して鎮静はしない。 敵がいない状態が怖くなるからだ。 こうして安心を得たいがために新たな仮想敵を作り続けるというとても倒錯した構造に、 アメリカは嵌ってしまった。 米国務省の年次報告によれば、9・11から2年後の2003年には 208件しか起きていなかった世界のテロは、2005年には1万1111件に急増した。 もちろん、テロの定義が変わったことで件数が増えた可能性はある。 でもそれを差し引いても、明らかにテロは増えている。 アメリカが支持するイスラエルという国家の歴史と現状が示すように、 強い被害者意識は過剰な自衛意識を整合化し、 容易に他者への加害へと連鎖する。(p.72)これは、本著の中でも最も重要な意味を持つ記述だと思う。特に、最後の2行については、よくよく意識しておく必要がある。 確かに何年か前までは、麻原ぶっ殺してやるって、頭の中はそればっかりでした。 でも最近は、麻原さんだけを悪い奴にしてそれでよいのだろうかと思うようになってきて。 例えば事件前の警察の動き、行政の対応、メディアの報道、これら全部ね、 今は知らない顔をしているけれど、むしろそちらのほうに腹立たしさを感じるんです。 私はもう今の段階では、麻原さんよりもっと罪深いのは行政だという思いがありますよ (p.119)これは、「オウム真理教被害者の会」代表の永岡弘行氏の言葉。永岡氏は、息子がオウムに入信したことを知ってから、同じように子供が入信した家族たちと連絡を取り、この会を結成。息子が脱会した後も、オウムへの関わりを継続してきた人物。 実現不可能な世迷いごとに思えても、あるいは現世の法を犯す指示ではあっても、 これはマハームドラーなのだと整合化してしまう弟子たちの心理メカニズム (これは洗脳とは違う)。 そして最終解脱者であると宣言したがゆえに、 弟子たちから報告された情報の判断や確認ができなくなるという自己呪縛。 錯綜するこれらの要求を背景にしながら、 麻原の内面を慮る側近たちの「過剰な忖度」が発動する。 こうして麻原が喜びそうな報告を無自覚に捏造してしまうという意識状態に、 多くの側近たちがいつのまにか嵌っていった。(p.228)これは全ての組織が持ちうる一面として、非常に興味深いもの。「最終解脱者」の部分は、様々な呼称に変換可能なものだと思う。 もちろんこの仮説が正しいとしても、これは明らかな結果論だ。 しかし2010年2月22日に國松孝次元警視庁長官が口走った 「(警察当局には)強制捜査が入ることを予測したオウム真理教側が、 何らかの捜査攪乱作戦に出るのではないかという情報があった」ことが事実なら (おそらく事実なのだろう)警察は地下鉄サリン事件の発生を見過ごしただけではなく、 結果としては、地下鉄サリン事件を誘発したことになる。 やはりこれはまずい。 できることならこの経緯については内密にしておきたい。 國松元長官も含めて警察首脳部がそう考えたとしても、 組織防衛としては当然だとの見方もできる。 坂本弁護士一家殺害事件の原因を結果的には作ったTBSや、 捜査を本気でやらなかったために解明を(やはり結果的に)遅らせた神奈川県警が 激しく批判された状況も、彼らの教訓になったのかもしれない。 オウム憎しの世相に萎縮した警察の危機意識を、 同じ国家機関で人事交流もある検察庁や裁判所は共有する。 多くの人が注目する麻原法廷でこの事実関係が明るみに出ることだけは、 絶対に避けねばならない。 もし裁判を打ち切ることができるなら、こんなに都合のよいことはない。(p.281)こういうことも考えられるということだが、裁判の進行や麻原の状態から、その可能性をどの程度のものとしてとらえるべきか?組織や国家の持ち合わせる危うさと、それを取り囲む社会の共鳴。これは、この事件だけに限ったことでは、決してない。
2014.11.26
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『ネットがつながらなかったので仕方なく本を1000冊読んで考えた』で、 ホリエモンが紹介していたので、読んでみた。 オウム関係の書物は『アンダーグラウンド』と『約束された場所で』、 この2冊くらいしか読んだことがないが、インパクトは強烈だった。 そして、森達也氏の手による本著である。 この作品は、第33回講談社ノンフィクション賞を受賞したが、 「確定判決にほとんど触れず、ノンフィクションとは言えない」との批判を受けた。 また森氏は、従軍慰安婦問題では「現場レベルでは絶対に強制はあった」と主張している。 *** 正常な意識状態を持たない男を被告席に座らせる裁判など、 何も期待できなくて当たり前だ。 でも現実にはそうなった。 地下鉄に無差別にサリンを撒くことを指示した動機も含めて、 事件の本質はいまだに解明されていない。(p.34)森氏が、初めて麻原の裁判の傍聴をした時、その姿を見て、声を発することができなかった。どう見ても正常な状態とは思えない、詐病の可能性は否定できないにしても。 だからやっぱり不思議だ。 なぜ精神鑑定の動議すらできないのか。 なぜ検察も弁護団も裁判所も沈黙してきたのか。 なぜこれまで裁判を傍聴してきたメディアや識者やジャーナリストたちは、 麻原の様子がどうも普通ではないとアナウンスしてこなかったのか。(p.47)その後、弁護団の要求によって精神鑑定が行われることになる。しかし、その結果は、訴訟能力は失っていないとするものであった。 この後に記された岡崎の見解は、ある意味で実に単純明快だ。 拘置所内で投与された向精神薬が、 麻原の人格崩壊の原因ではないかと彼は推測している。 彼自身が接見した司法関係者からの情報だという。(p.78)麻原の次女の記録や、麻原の担当をしていた衛生夫の証言からも、当時の麻原の状態を、かなり詳細に知ることができる。 優しい人も人を殺す。 親鸞が弟子の唯円に、「お前は私の言うことは何でも信じるか」と念を押してから、 「人を千人殺しなさい。そうすればおまえも往生できるよ」と突然命じる場面が、 『歎異抄』には描かれている。 驚いた唯円は、「そんなことはできません」と当然ながらこれを拒絶する。 すかさず親鸞は「ならばんあぜ私の言うことを信じるなどと言ったのか」 と問いつめた後に、こんな言葉を口にする。 「これでわかっただろう。 たった一人の人間でも殺すことができないのは、殺すべき縁がないからだ。 善人だから殺さないのではない。 また人を殺すつもりなどなくても、 縁がもよおせば百人でも千人でも殺すことができるのだ」 つくづく信仰の本質は凄まじい。 親鸞のこの言葉における縁を正義や自衛意識に置き換えれば、 まさしく戦争や虐殺を説明する論理になる。(p.158)上巻は、森氏の、次女・カーリー、三女・アーチャリーへのインタビューで終わる。姉妹の、ある意味淡々とした受け答えの中に、何とも言えないものを感じた。
2014.11.23
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タイトルだけ見たら、何の本だか分からない。 副題は「遺伝子と神について」。 タイトルから想像されるものとは違って(?) いたって真面目な生物学の本である。 柳田さんが『犠牲 サクリファイス』の中で、 本著のことを書いていたので、読んでみた。 けれど、「何だか、前に読んだことがある気がするなぁ」と思っていたら、 『風の中のマリア』の中で語られていた内容だったと、途中で気付いた。 ***「二人のキョウダイか八人のイトコのためなら、私はいつでも命を投げ出す用意がある!」これは、集団遺伝学の研究で名高いJ・B・S・ホールデンの言葉。血縁が近いと、自己犠牲になれるということを雄弁の物語る言葉。「二人の子か四人の孫のためなら」ではない。 ハチやアリなどのコロニーは、普通一匹の女王が産んだ娘たち(ワーカー)が中心となった 大変に血縁の近い者たちの集団である。(中略) そこで彼はワーカーと他のメンバーとの血縁度を計算してみた。 血縁度というのは、 ある個体が他人ならまずもっていないような珍しい遺伝子をもっていたとすると、 それが血縁個体の中にも発見される確率のことをいう。(中略) 血縁度は人間を始めとするたいていの動物では、親子で1/2、キョウダイでは1/2 (但し、一卵性双生児で1、異父母キョウダイでは1/4)、 祖父母と孫とでは1/4、イトコどうしで1/8、などである。 このとき、たとえば親から子を見ても、子から親を見ても1/2という値に変わりがなく、 血縁度には普通対称性があると言える。(p.37)これは、W・D・ハミルトンの「社会行動の遺伝的進化」という論文の内容。ところが、ハチやアリでは受精卵からはメスが、未受精卵からはオスが産まれるため、この一般的なケースが当てはまらない。以下は、『風の中のマリア』でも示されていた内容でもある。女王とワーカーでは、血縁度が1/2で、一般的なケースと同じになるのだが、オスバチは、倍数体である女王が卵を未受精卵のまま産んだ結果だから、倍数体の女王から、半数体のオスバチを見ると、血縁度は1/2になるが、半数体のオスバチから、倍数体の女王を見ると、血縁度は1になるのである。そして、倍数体であるワーカーから、半数体のオスバチを見ると、その血縁度は1/4、ワーカーどうしの血縁度だと3/4となり、母親との血縁度より高い数字になる。 つまり、ワーカーにとっては、自分が生んだ娘が女王になるよりも、 女王にメスを産ませ、その中から次期女王が出現した方が得なのである。 その方が自分の遺伝子をより多く次代に残すことができるのである。 ワーカーが自分では子を産まず、せっせと働くのは何を隠そう、 それが自分の遺伝子を最も効率良く残していく方法だからなのだ。(p.40)そして、R・ドーキンスの『The Selfish Gene』である。 何がセルフィッシュ(利己的)なのか - それはジーン(遺伝子)である。 では、生物とはいったい何なのか - 生物は遺伝子が自らのコピーを増やすために作った生存機械にすぎない。(p.45) 我々のこの体は、遺伝子が自らを乗せるために作り上げた乗り物だと言うのである。 遺伝子は、悠久の時間を旅するという自分自身の目的のために我々の体を利用している。 個体は幾つもの遺伝子が今偶然にも乗り合わせているうたかたの存在で、 個体の死が生命の終わりを意味するわけではない。 主体は最初の最初から遺伝子の側にあったのである。(p.46)利己的遺伝子(セリフィッシュジーン)の乗り物(ヴィークル)としての存在としての生物。 ある動物が、どうも理解に苦しむとか、 頭が狂っているとしか思えないような変な行動や形態を示しているとき、 我々はその個体を操るその個体以外の利己的遺伝子の存在を疑ってみるべきなのである。 (p.91)もちろん、利己的遺伝子は、個体(乗り物)の維持より、遺伝子自体の存続を優先する。そして、文化的伝達の単位・ミームである。 遺伝子と比較したミームの特徴は、伝達の速度が極めて速いこと (遺伝子ならどうしても一世代かかる)、 伝達が非血縁者の間にも起こること(これはあまりにも当然)、 それにコピーミスが大変頻繁に起こること(噂話の伝達を考えよ)などである。(中略) ミームは、特に人間において遺伝子と互角か、 もしかするとそれ以上の力をもっている可能性があるのである。 この本ではここから先、人間は遺伝子とミームという 二種類の自己複製子の乗り物であるという観点を導入する。(p.100)人間は、遺伝子とミームの乗り物。この考えをもとに、著者は、この先の文を書き進めていく。それは、これまで思ってもみなかった主客逆転の世界。確かに「そんなバカな!」である。
2014.11.23
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著者は、光学部品商社にシステム担当として勤務する酒井さん。 2007年8月にうつ病と診断され、同年8~9月と翌年5~8月に 二度の休職と復職を繰り返した方。 現在も週に一度、飲料内科に通院、抗うつ薬を飲み続けている。 これは、本著の著者紹介欄に記されたものなので、 もう3年近く前の状況。 同欄に酒井さんの主催しているブログのアドレスが載っていたので覗いてみると、 寛解されたようですし、転職もされたようですね。 ***本著は4つのステップに沿って、記述されています。まず、ステップ1は、「生活編 復職までにしておくこと」。本著を読もうとする多くの人が、この段階におられると思います。日常生活を点検し、家事から始めることが、スタートになるでしょう。続くステップ2は、「基本編 仕事に対する考え方を改める」。中でも、「仕事を圧縮するという考え方を身につける」にあるどうすれば仕事の時間を短く、より少ない労力で仕事を達成できるか、そすいった工夫をすることは、とても大切な姿勢だと思いました。次の、ステップ3は、「応用編 職場でできる小さな工夫」。私は「怒りはキチンとボールにぶつける」が興味深かったです。それは、笑顔で対応しつつ、拳に握った小さな「握力ボール」を力いっぱい握ることで、そこに怒りの感情を放出してしまおうとするもの。そして、ステップ4は、「改善編 うつとつき合う小さな工夫」。その最後を飾るのが、『「うつ病だから」は止めよう』。うつ病を理由に、夢を諦めたり、目標を下げたり、可能性を閉じたりする必要は、まったくないのです。上に掲げた以外にも、たくさんの仕事術が紹介されています。システム担当をされていた方らしい、具体的な行動が示されているので、その中から、興味を持ったものを、ちょっと試しにやってみて、自分に合うものを見つけていければ、良いのではないかと思います。
2014.11.22
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著者は、うつ歴12年以上のジャーナリスト・上野玲さん。 巻末の著者紹介には、うつは「現在はほとんどよくなっている」とあるが、 ジャーナリストとしては「本書を最後に、無期休業中」ともある。 気になったので、ネットで調べてみた。 すると、結構色んなことが分かってきた。 ツイッターは、こんな感じ。 著書については、こんな感じ。 私も本著の「終論」には唖然とさせられたが、ここまでとは…… *** 社会一般が信用する(と思われている)新聞などで 「昨今の若者たちに見られるムード」という、 およそ精神科医とは思えない、無責任な言説をばらまき、 その結果、「新型うつ」という言葉を社会的に浸透させた役割を果たしたのが、 マスコミ御用達精神科医である香山リカ氏です。(中略) その香山氏が「新型うつ」についてどのように書いてきたかの軌跡を 書籍の発売順に追ってみましょう。(p.62)そして、『知らずに他人を傷つける人たち』『うつ病が日本を滅ぼす』『しがみつかない生き方』『「私はうつ」と言いたがる人たち』『私は若者が嫌いだ!』『雅子さまと「新型うつ」』『うつで困ったときに開く本』等々、香山さんの著書を引き合いに、その言説を非難し、さらに、植木恵理さんをも、その標的としている。 これまで「新型うつ」を分析・解説している精神科医・カウンセラーの言説から、 はっきりわかることがあります。 それは、現在の日本(及び世界中)の精神医学界において、 「新型うつ」はまだ「うつ」として確定された症状にはなっていない、 という事実です。(p.86) うつの社会理解がきちんとされていない現状では、 「新型うつ」も従来型うつも一緒のように考えられていることは、 これまでも何回となく書いてきました。 従来型うつの人は、頑張る人です。 頑張りすぎて、心がオーバーヒートしているから、うつの症状で苦しんでいます。 そういう人こそ、休息が必要です。 そして、心の疲労が取れて、働けるようになったら、 また頑張ってくれる人材にきっとなるでしょう。 そういう従来型のうつも、 「新型うつ」と同じにしか思っていない上司や経営トップがいたら、 みすみす大切な人材を失ってしまうことになってしまいます。(p.203)ここで述べられている、所謂「新型うつ」というものは、本当に存在するのか?そして、存在するならば、それと「従来型のうつ」との違いはどのようなもので、どのようにして判別することが出来るのか?そして、その違いによる対応について、どのように社会に周知していけばよいのか?もちろん、所謂「新型うつ」という症状は存在するのだろう。しかし、「従来型」と「新型」の線引きは、容易ではないようだ。「スペクトラム」として捉えようとする向きもある。が、診断書として提出される際には、双方とも同じになってしまう現状もあると聞く。そのことが、社会に大きな戸惑いを生じさせることになる。「うつ」には、どのように対処すればいいのか?専門家ですら困難な「従来型」と「新型」の線引きを、素人が出来るわけもなく、また「診断書」には、その違いが示されていない……しかし、この状況を放置することは、全ての人にとって不利益を生み続けることになる。
2014.11.22
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『軽症うつ病』の笠原嘉先生の自伝。 副題は「二十世紀から二十一世紀の六十年を医師として生きて」。 先生の歩みは、日本の精神科の歩みそのもの。 先生の歩みを知ることで、日本の精神科の歩みを知ることが出来る。 昭和30年~40年代の、精神病院新設ラッシュによる病床数激増。 そして、脳に作用する本格的薬物療法開始と外来患者の増加。 昭和60年前後からは、街角診療所スタイルの精神科が登場し、 精神障害が軽症化すると共に、世間の偏見も大幅に減少した。このような大きな時代の動きの中で、先生が、どのように精神科というものと向きあってきたか、そして、どれほど大きな足跡を残されてきたか、それが、目次のページを見るだけで、よく分かる。 第1章 医学生の精神科医という職業選択 - 逡巡と決断 第2章 新人医師生活 - 病棟の重症患者に出会い、ショックを受ける。 それまで心酔していた精神分析では通じないと覚る 第3章 大阪ミナミ体験。鬼軍曹(?)的な講師から、 神経学の初歩とヤスパース「精神病理学総論」と両方を仕込まれる 第4章 母校へ帰り新任教授の下で精神病理学(精神医学的心理学)を専攻する。 分裂病発病の際の心因論的側面というテーマをもらい難渋する 第5章 薬物療法の時代始まる - それまで病棟でじっとしていた統合失調症の人が 動きだし、会話が可能になり、コンタクトがとれるようになる。 うつ病の外来患者が増える。うつ病の病前性格研究おこる 第6章 神経内科という診療科が独立し神経精神医学から神経学の比重が減る。 それとともに、本来の「精神医学とは何か」をより真剣に問うようになる 第7章 診療体制の変化が生じる - 1950年制定の精神衛生法の影響が徐々に出始める。 私立精神科病院が全国に多数設立され、病床数が3万から30万に激増する 第8章 新設の大学保健センターへの配置転換。 大学生のクランケをたくさん診る 第9章 全国区規模の大学紛争に出会う。全学のそれがおさまった後にも 医学部には長々と残った - 反精神医学に関心をもつ 第10章 欧州風の精神医学的人間学に魅かれ、自分でも試みに一、二論文を書いてみる。 二十世紀の精神病理学の一特徴と思う。 しかし自分には合わないと思い、手を引いた 第11章 留学の不首尾。代償として短期間の外国研究所滞在を何度かする。 彼我の臨床学に微妙な差のあることを痛感する 第12章 研究の軌跡 - いつとなく健康保険下で行われる「日本の診察室での臨床研究」を 自分の業と定める 第13章 入局二十年目にして名古屋大学教授に配置転換 - その1972年以来今日まで四十年を名古屋で過ごす。住みよい街で、 その上皆がよくしてくれる。第二の故郷になった。 第14章 自己流の外来精神医学の試みを「うつ病」をモデルにしておそるおそる始めた 第15章 産業立県の趣の強い愛知県にきてはじめて大企業の産業精神保健に関わる 第16章 「役に立ちたい」という生来のお節介が出て、啓発書をいくつも書き、 必ずしもこのましからぬ「出版精神医学」の台頭に加担する 第17章 米国からDSM-IIIという“黒船”来る。 この公衆衛生学的精神医学によって明治以来の欧州風の精神病理学は駆逐される。 国立大学を定年退官し、その後数年間私立医大を経験する 第18章 予期しなかった成行から、日本精神神経学会理事会に 六年間関係する(1988~1994年) 第19章 七十歳にして、縁あって街角の外来クリニック二就職。 以来十四年を診察一筋にすごす。私にはこの仕事が合っていた! 第20章 薬物療法がベースになった今こそ、それを補完する 「日本に合った」小精神療法を提案したい 終 章 二十世紀におこった精神病理学は後世に何を残せるか。 二十世紀後半におこった米国のDSM精神医学の「次には」 どういう精神医学がくるのだろうか一般向けの啓発書ではないので、価格もお安くはないのだが、一読の価値が大いにある一冊である。
2014.11.22
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CSで活躍した凡田、丸金が、日本シリーズに入ると絶不調。 スパイダースはサベージに三連敗で、後が無くなる。 しかし、逆・シリーズ男と呼ばれることになったこの二人が、 ここから、妙にツキ始める。 第4戦、凡田は中前にはじき返された当たりが二重殺。 丸金は振り逃げ成立の間に、三塁走者が生還し決勝点。 第5戦、凡田はバックスクリーンへの大飛球を中堅手が超美技。 丸金は、捕手の打撃妨害で、三塁走者が生還し決勝点。以後、第6戦はスパイダース打線が爆発して完勝。雌雄を決する第7戦は、1回裏一死満塁、2対0の場面から、先発・椎名を引き継いだ凡田が、8回までを無失点に抑える。そして、8回裏に丸金が、逆転スリーランを放ち逆転。9回表は、抑えの瀬川が、キッチリ締めて日本一に。MVP選出は、凡田か丸金かで難航するが、結局丸金に。まぁ、これは普通に妥当な線だと思うけれど、瀬川も有りだろうし、第6戦で安打を放っているなら、中堅手も有りじゃないかと、私は思った。さて、時は遡りナッツ編。西浦の南蛮監督への進言で、背番号1を2年生のナッツがつけることに。その後、西浦はナッツを熱心に指導するが、予選2試合で連打される。が、対海藤大長坂戦では、大雑把で無造作な投球で、苦手・大野を押さえ込み完封。この時の投球を再現したのが、日本シリーズ第7戦だったのだった。この事実を知っているのは、西浦だけ。
2014.11.15
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勝運に見放された凡田は、2軍でも結果を残せない。 味平のおかみさんとユキちゃんが、応援に駆けつけてくれても、 1軍に昇格した樹が大活躍しても、凡田は2軍暮らしのまま。 やっとのことで1軍に昇格出来たのは、公式戦残り5試合の時点。 しかし、昇格後4試合は登板無し。 そして、CS進出をかけた最終戦、4対4の同点、8回表無死満塁の場面で登場。 ここを三者三振で切り抜けると、その裏に、丸金が勝ち越し本塁打。 9回表を抑えの瀬川が3人で締め、スパイダースはCS進出を決定する。その後も、凡田の活躍は凄まじく、スポーツ紙の一面を飾り続ける。CSファーストステージは、カーナビーツに連勝。ファイナルステージでも、テンプターズに4連勝し、日本シリーズ進出決定。凡田は、クライマックスシリーズのMVPに輝いたのだった。凡田とユキちゃんの関係は、順調に進んでいるようです。
2014.11.14
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正捕手・寺杉がケガで登録抹消され、替わりに丸金が1軍へ。 高卒6年目で年俸500万円の選手が、この好機を活かし大ブレーク。 凡田も先発した試合で好投するが、丸金が満塁本塁打を放った直後、 8回表に満塁弾を浴び降板、またしても勝ち星を逃す。 0勝5敗のこの時期に、久し振りに訪れた味平で、 凡田は、遂にプロ野球選手であることがばれてしまう。 しかし、それが切っ掛けで、ユキちゃんにお酌をしてもらう幸運をゲット。 さて、これからこの二人、一体どうなっていくのか?丸金は好調を維持し、1軍に戻ってきた寺杉を押しのけスタメン出場中。一方、ワイルドワンズはフロントが一新され、北王子の来季監督就任が白紙に。そんな北王子に、テレビ局から来年のオリンピック・キャスターのオファー。また、スパイダースは、彼を来季監督にする調査を開始していた。好調から一転、丸金は全く打てないようになり、20打席ノーヒット。先発した凡田は、北王子のアドバイスで好投し、無失点に抑えるが、試合は延長10回0対0の引き分けで、またしても勝ち星がつかず。このまま、先発ローテーションを外されるかもしれない危機に。時は遡り、山梨県立鶴見川高校では、スピードガンを購入。西浦の最高球速148km/hに対し、ナッツは139km/h。しかし一点狙いでは、西浦が120キロを割るのに対し、ナッツは130キロ台後半を維持。そして、銭が懸かったときのナッツの集中力は、安田スカウトの目の確かさを証明していた。
2014.11.14
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スパイダースは開幕から5連敗。 そして、第6戦に先発した凡田は、5回を2失点に抑えるが、勝負はつかず。 2回目の登板は7対2でリードしていたが、5回裏直前で降雨ノーゲーム。 3回目は5回3失点、9対3でリードしたまま救援を仰ぐが、最後は引き分け。 その後、中二日で3度先発のマウンドに上がり、 いずれの試合も、3イニングをパーフェクトに抑える。 しかし、凡田に注目する北王子は、この起用に異を唱える。 その後、凡田は3連即KOで、2軍行き。高校の先輩・西野は、現在、ケーブルテレビ野球実況ディレクター。凡田は西野から、動くボールの重要性を聞かされるが、2軍調整中のサベージ・五利に投げ込んだボール球を、本塁打される。しかし、その球は、後輩・大野に復調の切っ掛けを与えることになる。交流戦終了間際に、凡田と大野は1軍昇格。大野は猛打爆発・完全復活を遂げ、凡田は五利を中飛に抑える。時を遡り、ナッツは練習試合で、海藤大長坂高の1年・大野にメッタ打ちされる。一方、エース・西浦は、完全に押さえこみ、悪い仲間からも救い出す。これが、大野が西浦をリスペクトしている理由。しかし、これで何故、西浦はプロに行けなかったんだ?
2014.11.14
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オトワラジオが、解説者に大物・神野を迎えたため、 近藤が来季の職を失うことになり、凡田と松本アナは大慌て。 独立リーグのコーチ職を何とか探し出し、近藤も覚悟を決めるが、 突然、神野のモップス・ヘッドコーチ就任が決まり、近藤は来季も解説者。 スパイダースも次々に契約更改が進み、山梨県人会の大野、渋谷は増額。 そして、凡田も粘りの交渉で、800万円アップの年俸2,600万円に。 一方、昨季で現役引退したワイルドワンズの北王子は、今年から注目の解説者。 来季の監督就任に向けて(?)、凡田に先発転向を促す。さて、ナッツは2年生になって、2番手投手に。そして県予選で、2試合連続ノーヒットノーラン(いずれも5回コールド)。彼の活躍に焦るエース・西浦。そして、周囲の注目が集まることを恐れるスパイダースの安田スカウト。今巻は、ユキちゃん登場せず。
2014.11.14
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シーズンオフ、ラジオ番組にゲスト出演した凡田は、 緊張を和らげる為、一杯引っかけて臨むが、 日本シリーズのあり方を非難するなど大暴走。 しかし、途中で素面に戻り、最後はジョークとして何とか切り抜けた。 秋期練習中、凡田の周りでも、一人二人と戦力外通告を受ける者が。 大卒1年目で10勝を挙げた是川も、その後の不振でトレードに。 一方、東光とパープルシャドウズの西河内はトライアウトに臨み、 日本球団からは声がかからなかったものの、台湾球団と契約出来た。スパイダースのファン感謝デーに、テンプターズファンのユキちゃんが来場。成り行きで、凡田はユキちゃんと言葉を交わし、握手をするが、渋谷章もライバルに?時は遡り、ドラフト候補のエース・西浦をも凌ぐ身体能力を発揮し始めたナッツ。テンプターズのスカウトは、西浦よりもナッツ・凡田夏之介に興味を示していた。ちょうど季節的には今の時期で、タイムリーな話題でした。
2014.11.14
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凡田は、先発予定の秋葉が熱を出したため、 ワイルドワンズ戦に先発するが、挟殺プレイで張り切りすぎ、 右手を骨折して、交流戦を直前に戦線離脱。 1軍に復帰したのは9月で、チームは優勝争いをしていた。 その時、凡田と共に1軍に上がってきたのが、同学年の樹六破。 樹は良い当たりを悉く好捕され、守備でも凡田に迷惑をかける。 その後のプロ入り初安打・初打点も、勝敗に全く関係ない場面。 さらに、子供の誕生を間近に控え、そればかり気にする樹に、凡田が忠告。それを機に、打撃開眼した樹は、打ちまくり勝利に大貢献。しかし、暫くすると研究され、全く打てなくなってしまう。そして、優勝のかかった試合、凡田は痛恨の勝越本塁打を浴びるが、その直後に樹が同点本塁打を放ち、引き分けで優勝が決定する。普通の野球マンガになってきたかも。
2014.11.14
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栗城は、元テンプターズの左の中継ぎ投手。 現役の頃から4つ下の凡田と仲が良かったが、球速にこだわり過ぎ、 通算成績1勝7敗2セーブ、最高年棒1,500万円で、11年の現役生活を終える。 現在は、バッティング投手兼スコアラー、年収600万円の1年更新球団職員。 カーナビーツの瀬戸内番長・原武はプロ14年目の中継ぎ投手で32歳。 通算成績8勝14敗2セーブ、年俸2,900万円、地元メディアでは人気キャラ。 コレと言った凄い球はないが、誤魔化しと開き直りの投球が信条。 しかし、凡田に本塁打を浴び2軍落ち、そのシーズンは1軍復帰は成らず。凡田は、大衆定食屋「味平」の店員・ユキちゃんがお気に入り。しかし、彼女は凡田の存在に全く気がついていない様子。そして、大ファンのテンプターズ戦を球場観戦した際、凡田が好投。それでも、気付いてもらえない凡田って、どう?久々にプロ野球選手誕生かと、母校・山梨鶴見川高校の期待を集めるエース。が、プロのスカウトが集まった試合で、イイところが見せらずに終わる。一方、その後を引き継いだ後輩の二番手投手・ナッツが、好投を見せる。試合終了後、スパイダースの徳永は、偶然会ったナッツに声をかける。先輩投手・西浦は、ドラフト会議で、どこからも指名されず、ナッツは、1年後のドラフト会議で、指名を受ける。たった1試合で、すべてが決まるわけではないけれど、たった1試合が、始まりの切っ掛けになることはある。
2014.11.14
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甲子園優勝投手で、ドラフト1位入団の箕川。 しかし、ケガに泣かされ、6年間で1軍登板が一度もないまま引退。 そして、今は球場の売店で働いている。 こういう選手もいる……それも結構な数。 スパイダースの第4捕手・東光は、32歳で年俸500万円。 ワセダ大学では、主将で大スター、ドラフト2位でプロへ。 同級生の北村は、2軍の捕手で、4年間一度もベンチ入りせず。 今ではドーヨスポーツのエース記者で、年収1,000万円?北村は定年まで給料が保障され、東光は来年の保障もない。これも、結構よくある話。プロ野球での活躍を目指すか、それとも一流商社でガッチリ稼ぐか。その選択は、本人にとっては、それほど簡単なものではなかっただろう。
2014.11.13
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『ネットがつながらなかったので仕方なく本を1000冊読んで考えた』で、 ホリエモンが、この作品のことを書いていたので、読んでみた。 タイトルの「グラゼニ」は、本作の主人公・凡田夏之介が造った造語。 「グランドにゃ銭が埋まっている」のグラ銭。 凡田は、26歳独身。高卒後ドラフト最下位でスパイダースに入団。 プロ入り8年目で、左サイドスローの中継ぎ投手。 契約金1,500万円、そして今年の年俸1,800万円。 趣味は「プロ野球名鑑」を見ることで、そこに掲載されている年俸にこだわる。凡田は、自分より年俸の低い打者に対しては、見下ろして投球し、押さえこむ。そして、年俸が5,000万円より高い打者には、開き直ってキレの良い球を投げる。ところが、年俸が自分より上で、5,000万円位までの打者には、腕が縮こまってしまい、打たれてしまうという選手。ノンプロから26歳でプロ入りした、テンプターズの4年目・土井は、年俸700万円で、小さい子供が二人いる、今日、二軍から上がったばかりの選手。そして、代打で登場した土井を、凡田は気迫のダイビングキャッチで投邪飛に打ち取る。土井は、翌日二軍に落とされ、来季の契約の保障はない……。元スパイダースのラジオ解説者・徳永は、凡打と同郷の先輩。現役で50勝しか出来なかった徳永が、解説者になれたのは幸運だったが、その解説は感覚的で、評価されておらず、その座は風前の灯火。だが、仲の良い凡打が登板したお陰で、鋭い解説を連発し、首の皮がつながった。カーナビーツの土手来は、通算本塁打500本、本塁打王3回の4億円選手で40歳。昨シーズン終盤に、凡田の死球で右手首を骨折して、シーズン終了。今シーズン開幕にも間に合わず、一週間前に復帰するも、6試合で24打席無安打。しかし、凡田から同点二塁打を放つと、翌日から打ちまくることに。これで、球界の宝であるスラッガーは、見事に復活を果たすことになったのだが、球団にとっては、高年俸の高齢選手が存在する為に、チーム編成は硬直する。紙一重のところで、選手の人生が左右され、営利企業である野球チームも、大きく変わっていくことが、痛感させられる。
2014.11.13
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ひなの担任は、国分先生から若手の小見川先生に。 果たして彼は、高城に「何をしたか分からせる」ことが出来たのか? だが、そのあたりのことは一切描かれていない。 分からないまま、ヒナは高校の始業式の日をを迎えてしまったから。 夏の日の土曜日、零の通う私立・駒橋高校に見学に行ったひなは、 零と同じ高校に進学する決意をかためることに。 そして、零に勉強を教えてもらいながら、受験勉強に取り組み、 翌春、見事に合格を果たし、入学する。それにしても、受験勉強中に出てきた、あかりの作った「甘やかしうどん」や、合格発表の日の「ツナと半じゅく玉子のマカロニサラダ」「チーズたっぷりナスのミートグラタン」「もも肉の山盛り☆ジューシーからあげ」「プチおにぎり&甘いタクアン」「ガーリックトースト」は、ホント美味しそう!!さて、将棋の方は新たな個性的キャラクターが登場。「立てば不吉、座れば不気味、歩く姿は疫病神」死神と呼ばれた男、喪服の棋士・滑川七段。そして、第70回名人戦、第7局にて宗谷名人に敗れはしたものの、藤本棋竜に「今の将棋界 宗谷以外でやっかいなヤツ 大した棋士」と言わせた土橋九段。さて、次巻では、零の対局シーンが見られるか?
2014.11.13
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今巻は何と言っても、第33期棋匠戦第5局の大激闘を制し、 見事に永世棋匠を獲得した、柳原棋匠の勝負への執念が凄い。 敗れた島田八段も、喜ぶお年寄り達に思わず口元を綻ばせる。 この敗戦を肥やしにして、また一歩着実に強くなるのだろう。 もちろん、宗谷名人との記念対局に敗れた零も、 宗谷名人に一歩近付く経験を経て、 今後、ますます精進を重ねて行くに違いない。 二海堂も、見事に復活!
2014.11.12
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もぉ~っ、前巻もスゴかったけど、今巻はもっとスゴかった。 それは、零の新人王お祝いに、三姉妹が食したメガもってり…… じゃなくて、ひなが飲んだ胃薬の効き目…… でもなくて、ひなのクラスの担任を引き継いだ学年主任の国分先生。 やった人間は絶対に認めない 周りの人間も チクッたら次は自分がやられるから口をつぐむ 証拠なんて出て来る訳が無い イジメではね 証拠が無いのが当たり前なんですよ じゃあ川本が… 嘘をついているって証拠は? それを見せていただく迄は 学校として あなたの言い分にも 納得はできませんよ?学校が本気になれば、こんなもんだ! 「教育」か…… 「教育」とは うまい事言ったもんだよ… 「教える」に「育てる」か… 「育」の字が無けりゃ とっくに放り出しているぜ こんな事…もちろん、林田先生もヨカッタよ。 結果は大事だけどな 桐山 人に伝わるのは結果だけじゃない 世界は結果だけで回ってるんじゃないんだよ林田先生に励まされ、零は宗谷名人との記念対局に臨む。一方、櫻井七段を破った島田八段は、柳原棋匠の通算十期がかかる棋匠戦。一曲目は敗れたものの、タイトル奪取を虎視眈々と狙う。
2014.11.12
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いやぁ~、この作品スゴクなってきましたねぇ。 巻を重ねる度に、どんどん魅力的になっていく。 スタートの頃は、「どうなの……」っていう感じもあったんだけど、 今じゃ、あちこちのシーンで、ビシバシ胸に迫ってくる。 どのキャラも、イイですね。 零も、二海堂も、島田八段も、川本家の人々も。 そして、今巻では、何と言っても林田先生。 教師の中の教師っていう感じです。 でも最低限やっちゃイカン事だけは見えて来た 「解決しないと!!」って周りの人間がヒートアップして 本人の気持ちを置き去りにして つっぱしっちまう事だ たとえイジメが沈静化しても そこに居場所が無くなっちまったんなら意味がねーからな だから大事なのは 「ひなちゃんがどんな風な解決を望んでいるのか」をよく聞く事だこれで、零も考えて、高橋君に動いてもらったりするわけだけど、将棋のようには、うまく先を見通せなかったわけで……それで、ますますいじめはエスカレートしていくのに、ひなの担任は、とってもダメダメな先生なわけで……それで、あかりも困ってしまって、「ほんとにイザとなったら 頼っちゃうからね!? いい!?」って、零に言うことになってしまう。そして、林田先生は、大激怒。 ここは学校で お前は まだたったの高校2年生で オレは教師だ 教師なめんなよ!? まず ひなちゃんは話す相手を変えてみるのもありだと思う 学年主任とか 別の教科の先生とか 学校には担任だけじゃない 話してダメだったら 他の先生に言ってみてもいいんだそして、イザとなったら、その時は、 もし相手がモンペ出して来んなら こっちはモン教出すしかねーだろが!?帰り道で、林田先生は、零に「教師の意地」で肉まんをおごり、「ズレてる」とか「がんこ」だとか、零の悪口ばかり言っちゃうのだった。一方、零は、新人戦準決勝で、蜂谷五段を破るものの、二海堂は、山崎五段に敗れ、病院に入院してしまう。零は、島田から二海堂の体調について聞き、準決勝の棋譜を見せてもらう。決意を胸に秘め、大阪で山崎と対局した零は、見事に新人王を獲得する。そして、対局が終わるやいなや、修学旅行中のひなを探すべく京都に向かい、その姿を、河原で見つけたのだった。もう、めちゃくちゃドーンと来た!!感ぁ~ん動おぉ~ぅ!!!
2014.11.12
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獅子王戦で宗谷名人に敗れた島田八段は、 人間将棋が行われる故郷の山形県・天童へ。 百面指しで、自分の作ったクラブのお年寄り達の相手をするその姿に、 零は、幸せな気分になる。 また、高2になった零は、前担任の林田先生と共に 放課後将棋科学部、略して「将科部」を結成し、活動を開始する。 そして、そこで作ったラムネを持って、川本家を訪ねる。 部活や先輩、先生の話を聞いてもらうために。一方、宗谷名人は、名人戦で隈倉九段と対局し、防衛を果たす。また、後藤九段には、入院中(寝たきり?)の妻がいることが判明。そして、そんな後藤のもとに、香子は押しかけている。零を交えての、複雑な三人の関係。さらに、突然、ひなが学校でいじめられていることも判明。小学校から仲良しだった友人が、疎外されているのを庇い、その友人が、とうとう耐えきれずに転校してしまった後、ひな自身が、いじめのターゲットになってしまったのだった。 でもっっ みんなが言った通りになっちゃった 明日から ひとりだ ひ…ひとりぼっちになるの こわいよう… ほんとは ずっと怖かった でもっっ でもっっ 後悔なんてしないっっ しちゃダメだっ だって 私のした事は ぜったい まちがってなんか ない!!この言葉に、零は、過去のひとりぼっちだった自分が、嵐のように救われるのを感じる。そして、一生かかってでも、ひなに恩を返すと約束する。これから、どうなっていく?
2014.11.12
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零は、島田研究会で、二海堂や重田らと切磋琢磨し、 島田八段の相手や、身の回りの世話も始める。 一方、川本三姉妹は、零が香子と一緒にいるところに遭遇。 香子が零の義姉だと知るが、あかりは二人に別の関係があると気付く。 そして、島田は獅子王戦で宗谷名人と対局。 その合間に、島田のこれまでの棋士人生が描かれる。 その背負っているものは、とてつもなく大きい。 が、あえなく4タテで終幕……。しかし、その島田が投了した最後の局面について、零は、妙手に気付く。宗谷が気付いたのと同じ手を。これは、先崎八段のコラムの解説を読んでも、素人には難しい……
2014.11.12
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第3巻になって、俄然盛り上がってきました。 年末に風邪をひいて寝込んでた零を、三姉妹が連行。 大晦日と三箇日を、川本家のコタツの中で温かく過ごす。 そして、迎えた獅子王戦挑戦者決定トーナメント。 零は辻井九段を破り、スミスは横溝七段を破る。 スミスの次の相手は、後藤九段。 香子絡みで、零との間に何かしらの因縁のある男らしい。 その後藤は、準決勝でスミスを撃破する。 零は、次の対局で勝てば、決勝で後藤と当たる。しかし、その前に立ちはだかったのが島田八段。零は、じわじわと追いつめられ、完敗。そして決勝でも、島田は後藤を2勝1敗で下す。 今日みたいにさ 一人ではどーにもならん事でもさ 誰かと一緒にがんばればクリアできる問題ってけっこうあるんだ そうやって力をかりたら 次は相手が困っている時 お前が力をかしてやればいい 世界って そうやってまわってるんだ あのな 大事な事だぞ? いいか? 一人じゃどうにもならなくなったら 誰かに頼れ でないと 実は 誰も お前にも 頼れないんだ林田先生の言葉に促され、零は、二海堂の兄弟子でもある島田八段の研究会に入ることになる。それにしても、島田八段、なかなかカッコイイ。そして、二海堂の零への思い入れも、半端無い。
2014.11.11
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さて今巻は、ヒナの大好きな松田君が、零が棋士だということを知っていて、 ヒナの家にやって来て、零に何故高校に編入したのかを尋ねるお話しと、 それが切っ掛けで、ヒナが、零と二海堂から将棋を教えてもらうというお話し。 零の「逃げなかったって記憶が欲しかった」というのは、分かる気がする。 そして、今巻一の盛り上がりは、MHK杯における零の対局を熱く解説する二海堂。 流石に、この物語の裏主人公の面目躍如。 さらには、『将棋はじめて絵本』も力が入っている。 お話とは別だけど、先崎八段のコラムも面白い。さて、香子は、色んな意味で、今後のお話のキーパーソンになってくる予感。それに比べ、零が対局した松永七段と安井六段は、まだまだ雑魚キャラレベル。「まわりのモノを喰いちぎってでも生きていく為だけに走り出す獣」その真の姿を零の中に見せてくれるのは、彼らではなかった。
2014.11.11
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2011年のマンガ大賞を受賞した、羽海野チカさんの作品。 羽海野さんといえば、『ハチミツとクローバー』が有名だけど、 私は、マンガはまだ読んでないし、アニメも映画もテレビドラマも見ていない。 だから、私にとって、この作品が、初めての羽海野作品。 主人公は、プロ棋士の桐山零。 C級1組五段17歳、高校2年。 小学3年の時、遠足から戻ってくると、 両親と妹が、飲酒運転のトラックの巻き添えで、即死していた。父の妹・貴和子は、零を引き取らず、施設に入れようとしたが、そこに、父の友人で、かつて奨励会で一緒だった騎士の幸田が現れる。零は、幸田の家で育てられ、棋士を目指すことになるが、幸田の娘・4歳上の香子と、息子・同い年の歩との関係が悪化し、家を出た。現在は、六月町のアパートに、一人で住んでいる。そして、川に架かる橋を渡った向こう側に三月町があり、そこには、和菓子屋・三日月堂の川本相米二と、孫娘で、店を手伝っている長女のあかり、中学2年生の次女・ヒナ、そして保育園に通う三女・モモの三姉妹が住んでいる。あかりは、夜は銀座の酒場で働いており、ある日、店の前で酔いつぶれていた零を介抱し、自宅へ連れて来たのだった。そして彼女は、ガリガリの子を拾ってきて、フクフクにするのが好き。零をライバルとする二海堂晴信四段が、ストライクらしい。 ***ま、1巻は、こんな感じで、各主要キャラのお披露目でした。
2014.11.11
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精神医療における診断のインフレと多剤投与・過剰服薬の現状について 最も明解かつ詳細に記された一冊であり、関係者必読の名著。 著者は、DSM-III(1980年出版)DSM-III-R(1987年出版)の作成に手を貸し、 DSM-IV(1994年出版)では、編集委員長を務めたアレン・フランセス。 DSM-IVは、DSM-IIIにごくわずかな変更しか加えなかったが、 結局、自閉症やADHD、成人の双極性障害の見せかけの流行を引き起こすと共に、 製薬会社が煽ったいくつかの障害についても、過剰診断を防げなかったと悔いる。 監修は、著者を恩師と仰ぎ、DSM-IV作製にも関わった大野先生。 *** 生物学的検査が欠如していることは、精神医学のきわめて大きな弱点である。 どんな診断も、どうしても誤りがちで二転三転しやすい 主観的な判断に基づくことになるからだ。 それは、いろいろな種類の肺炎を引き起こすウイルスや細菌についての検査をせずに、 肺炎を診断するのに近い。(p.44)この例えは分かりやすい。そして、精神医学における診断の土台の脆弱さを、強く物語っている。それ故に、診断基準は、より重要なものとなるのだ。しかし、それを設定することは、想像以上の努力を要したのである。 われわれは、どれだけの人々が異常なのかという疑問に答えてくれる 単純な基準などないということを受け入れなければならない。 正規曲線は、クオークからコアラまで、あらゆるものの分布について多くを語ってくれるが、 どこまでが正常でどこからが異常かは教えてくれない。 精神病状態のために大声で叫んでいる人なら、 全くの素人でも精神疾患だとわかるくらい平均値から離れているが、 日々の不安や悲しみはどれくらい深刻なら精神疾患と見なせるのか。(p.39)基準を設けることの難しさを、端的に示してくれている。何を<正常>とし、何を<異常>とするのか?その線引きを、誰が決めることが出来るのか?そもそも、精神疾患とは、何なのか? 私は精神疾患の定義を何十も調べたが(しかもひとつは自分でDSM-IVに書いたが)、 どういう状況だと精神疾患とみなすべきかを決めるのに、 まただれが病気なのかを決めるのに、 少しでも役立つものは何ひとつないと思っている。 精神疾患の有用な定義がないことは、 精神医学における分類の中心に大きな穴をうがち、 答えのないふたつの難問をもたらしている。 診断のマニュアルにおさめる疾患をどうやって決め、 ある人物が精神疾患かどうかをどうやって決めるのか、の二問だ。(p.51)DSMを作った本人に、こう言われてしまうと、もうお手上げである。どうすればいいのだ?それでも、基準は作られた。そして、それをもとに、医師が診断を下した…… レッテルの意味するものと意味しないものとを - 子どもたちが変わったのではなく、診断のされ方が変わっただけであることを - 人々やメディアに教えるという事前指導を講じるべきだった。(p.235)著者は、DSM-IVによるアスペルガー障害の過剰診断の激増を、予見出来なかった。著者は、このことをたいへん後悔している。基準作りは難しかったが、それ以上に、それを用いる医師の能力が、大いに問題だったのだ。 1988年から2008年にかけて、向精神病薬への支出は三倍になり、 抗うつ薬の消費量はほぼ四倍になった。 そして、不適格な医師が薬をばらまいている。 処方箋の80パーセントは、適切な使用法をろくに教わっていないかかりつけ医が書いている。 彼らは製薬企業の営業員と偽情報に踊らされた患者から強烈なプレッシャーを受け、 7分間の診察を慌ただしくおこなっただけで処方箋を書いており、 きちんとした審査も受けていない。(p.21)これは、アメリカにおける状況を述べたもの。日本ではどうなのだろう?患者が増え、薬剤の消費量が増え、医師が7分で診察を済ませているのは同じだろうが、処方箋を書いているのは、日本ではどんな医師なのか? 私のいう「<正常>を救い出す」とは、 精神医学による診断や治療の価値を否定するものではない。 むしろ、精神医学がいまおこっていることを、 適切な範囲内でこれからもおこなわせるのをめざしている。 どちらの方向だろうと、極端に走るのは同じくらい危険だ- 正常を抹殺してしまうほど精神疾患の概念を拡大するのも、 精神疾患を抹殺してしまうほど正常の概念を拡大するのも。(p.54)「中庸」である。しかし、これはそれほど簡単なことではない。「言うは易く、行うは難し」である。全体像が把握できていない者に、バランスを保つことは出来ない。 現在や未来の愚かな流行に呑みこまれないようにする最善の方法は、 かつての流行が及ぼした害を認識しておくことである。 歴史がそっくりそのままくり返すことはけっしてない。 その複雑な相互作用には、無数の確率の組み合わせがあるからだ。 だが、歴史が韻を踏むのはたしかである。 たとえ見た目は流転していても、歴史を形作るおおもとの力はかなり安定しているからだ。 過去の韻をよく知るほどに、未来にそれを分別なく繰り返すことは少なくなる。(p.191)「温故知新」である。対象の全体像を把握するため、先人の業績を念頭に置くことは、必須であろう。それにしても「歴史が韻を踏む」とは、けだし名言である。こういう見方が出来れば、物事を見つめる視野も大いに広がる。 正確な診断は人命を救いうるし、不正確な診断は人命を奪いうる。 多くの人々にとって、最初に診断を受ける日は、先行きに大きな影響を及ぼす転換点になる。 診断が正しくおこなわれて有効な治療につながれば、それはすばらしい一日となる。 しかし、診断が軽率、無神経におこなわれれば、 それは長期の治療という悪夢の引き金になりうる。(p.363)私が、現在、患者にとって、最も重要だと思い、その方法が分からないでいること。それは、どうすれば、正しい診断、正しい治療に辿り着くことが出来るのかということ。誰が自分にとって、最良の医師であり、どこに行けばその医師に会えるのかということ。精神医療においては、それは、もう運に頼るしかないことなのか。『中村勘三郎最期の131日』等を読むと、そうとしか思えなくなる。それでも、『岐路に立つ精神医学』に示されたように、様々な困難を克服して精神疾患が解明され、診断と治療法が確立される日が来ることを、強く望む。
2014.11.11
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ホリエモンが、本著のことを 『ネットがつながらなかったので仕方なく本を1000冊読んで考えた』に 書いていたので、読んでみた。 『ヘルタースケルター』も凄かったけど、本著はそれ以上だった。 途中からは、読むのが息苦しくなってきた。 しかし、本人にとっては、もう筆舌に尽くしがたい状況だったはず。 本当に、こんなことが起こりうるのか?為し得るのか?というレベル。 環境なのか、状況なのか、本人の特性なのか、統合失調症ゆえなのか……私は、とてもこんな風に生きることは出来ないし、生きたくもない。それでも、これを自分自身の人生として受け入れ、生きなくてはいけない人もいる。そして、彼女は生きた。生きている。人間の強さを思い知らされる。
2014.11.11
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『ネットがつながらなかったので仕方なく本を1000冊読んで考えた』で、 ホリエモンが、本著のことを「極端すぎる生き様を知ることで、 自分が置かれている状況に幸せを感じたり、 自分に足りないものを知るヒントになるかもしれない」と書いていた。 独特のタッチで描かれた、独特の世界。 まさに、異才。 SFの世界でありながら、リアリティに溢れている。 そして「しかし それはまた別の機会に TO BE CONTINUED」。りりこは、どうなった?ちかこは?麻田は?でも、「また別の機会」は、まだ訪れていない。映画も見てないけど、DVD借りてこようかなぁ……
2014.11.10
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久し振りにTSUTAYAへ行ったら、平積みしてあった。 「ウソッ……」と思ったけれど、また発売日から2週間以上もたっていた。 「やっぱり、ネットで予約注文しておくべき……」と反省した。 そして、帯を見てもう一度「ウソッ……」と思った。 ちょっと、そんな気がしていたのだけれど、次巻が最終巻。 「そうか……終わっちゃうのか……」と、悲しくなった。 でも、もう16年以上も続いたんだから、仕方がない。 ファイナリストが描かれた表紙絵は、これまでで一番のお気に入り。お話しの方は、まずレフの演奏。前巻のカイの演奏シーンがスゴ過ぎたので、それ程には盛り上がらず。最終審査結果発表は、それなりにドキドキしたけれど、カイの一人勝ちで、良かったと思うと同時に、ちょっと拍子抜け。来年春頃に、最終巻は発売されると帯にはある。いつ、発売されるのかな……まぁ、延期になっても、今さら驚かないし、次は、絶対ネットで予約して、発売されたらすぐ読めるようにしておくから。
2014.11.10
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久し振りに、本を読んで笑ってしまった。 いつもながらの小気味良いテンポで、 勢古さんが、いかがわしいビジネス書を、斬って斬って斬りまくる。 哄笑的な痛快さに溢れる娯楽本。 が、それだけに終わらないのが、流石なのである。 最後には、ちゃんと「成功とは何か」「働くとは何か」を、 じっくりと考えさせられてしまうことになる。 もう、これは100点を付けるしかない。 ***まず、第2章の「恐るべき三人の強者」について。私は、「真似っ子」本田健さんの著作は読んだことがない。続く「なにがなんだか」石井裕之さんの著作は、『一瞬で信じこませる話術コールドリーディング』と続編を読んでいる。そして、本著に示されている「人を動かす12の方法」の次の部分については、日頃の自分を反省させられた。 「走らないこと」。 なぜなら、走ってるやくざの親分などいないから。 大物は「ゆっくりと出てくるから迫力がある」。 電車がホームに来た、あるいは横断歩道で青信号が点滅している、 そんなときも走らないこと。 それはあなたが電車や信号の 「一方的な都合に、振り回されているということ」である。(p.061)そして、本著における主役中の主役「ヘンテコ大王」苫米地英人さんの著作は、『洗脳力』他、合計で4冊も読んでいるが、いずれもビジネス本ではない。そして、本著に示されている苫米地さんの『「1日10分」でスピード脳に生まれ変わる』における次の記述には、最も驚かされた。 「今日未来」「近未来」「中未来」について 「3つの玉ができあがれば、最後にこの3つの玉を統合させて、ひとつの玉にします」。 もう、どうやって?などと訊いてはいけない。 とにかく「ひとつの玉」にするのだ。 そしてだね、これを、これを、これを「ドラゴンボールのように『光の玉』にします」。 うわあ、出たあ!!ドッカーン!! そしてほら、ここで太陽を見たときのまぶしさの感覚をみんな覚えているよね。 その感覚でこの「光の玉」を「まぶしくて我慢できないくらい明るく」するのです。 天下一武道会!銀河列伝!スーパーカミオカンデ!トマベチ先生ばんざあい!! まさしく前代未聞。空前にして絶後。すごい男である。 これぞまさしく「ヘンテコ大王」である。(p.084)さて、第3章は「3冊の元祖本と成功法則」。私は、ナポレオン・ヒルの『思考は現実化する』は読んでいない。『7つの習慣』は、このブログを始める前に読んだので、記録がない。『人を動かす』も同様。第4章、第6章には、読んだことのあるものが一冊もなかったが、第5章では、『鏡の法則』と『夢をかなえるゾウ』は、読んだ。そして、第7章の「その場しのぎの一姫二太郎」では、神田昌典さんの訳書『ダメなら、さっさとやめなさい!』は読んだ。勝間さんの本は、『勝間和代のインディペンデントな生き方 実践ガイド』他、計3冊を、本田直之さんの著作は、『ホウレンソウはいらない!』を読んだ。 『レバレッジ・マネジメント』のなかで、 本田は「人は報酬のみで働くのではない。 職種によっては高額の報酬を得ているわけではないが、 彼らはその職業に携わっている誇りを意欲に変換している。 『この会社で働く誇り』を、 社員に行きわたらせるのが優れた経営者の必須条件といえるだろう」と書いている。 本田はわかっているのである。 だったら年間四〇〇冊もの本を読んでいるのだから、 もう少しきちんとした本を書くべきだろう。(p.219)私も、全く同感である。そして、第8章『「成功」することと人生』からが、実は本著の中核となる部分。 わたしはすべての人に存在価値があるとは思っていない。 すべての人に「成功」があるとも思っていない。 しつこいが、「成功」などどうでもいい。 それよりはすべての人に「失敗」はない、と考えたい。 「成功」した人生はあるかもしれないが、「失敗」した人生などない、と思いたい。 「失敗」したように見えるのは、他の人生と比べるからである。 だが人生が「過程」そのものであるならば、「失敗」もへちまもないのである。 きつかっただろうな、淋しかっただろうなと思われる生はあるだろうが、 それでも、よくがんばったなという生があるだけだ、と思いたい。(p.238)第9章に登場する伝説の経営者についても、彼らは「成功」したから偉いのではなく、彼らの生き方は「成功」なんてつまらないものを越えていると言う。彼らの考え方や仕事の仕方、生き方を学ばねばならないのだと。稲盛さん、岡野さんの著作は読んだ。松下さんや本田さん、永守さんの著作(か他の著者による伝記)も読んだはず。付録では、『チーズはどこに消えた』『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』『餃子屋と高級フレンチでは、どちらが儲かるか?』『なぜ、社長のベンツは4ドアなのか?』は読んだ。こうしてみると、本著には掲載されていないものも含めて、私も、結構ビジネス書は読んできたなと、再認識した。そして、次の記述で、なぜ勢古さんの著作に、私が共感することが多いのかが分かった。「そういうことか」という感じである。 また内田樹のブログで申し訳ない。 本書に関係あると思われるので利用させていただきたい。 それほど熱烈というわけではないが、わたしが内田ファンということもある。(p.283)
2014.11.08
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『心の深みへ』を読んで、本著の存在を知った。 副題は「我が息子・脳死の11日」。 25歳の次男・洋二郎さんを失った柳田邦男さんの追悼記。 心の病に苦しんだ末の自死であった。 タイトルの『サクリファイス(犠牲)』は、タルコフスキーの映画。 洋二郎さんが、骨髄移植に協力しようという気持を抱くようになった 思想的背景として最も重要だった作品。 そして、次のような出来事ことが起こった作品。 2つの腎臓の摘出がすんで、洋二郎の遺体をわが家に連れて帰ったのは、 午後十一時すぎだった。 居間に安置して、グラスに水を供えたとき、賢一郎がテレビのスイッチを入れた。 偶然にも、NHKの衛星放送で タルコフスキーの映画『サクリファイス』が放映されているのに気づいたのだった。 映画はいままさに終わろうとするところだった。 なんということだろう、あの『マタイ受難曲』の アリア「憐れみ給え、わが神よ」のむせび泣くような旋律が部屋いっぱいに流れた。 私は立ちすくんだ。 洋二郎は神に祈ったことはなかった。 頑ななまでに祈らなかった。 私には目に見えない大きなもの、 すべてを超越したものとしての神の存在への畏怖の念を抱きつつも、 全身全霊を投げ出して祈るという行為をしたことがなかった。 だが、このとき私は、神が洋二郎に憐れみをかけ給うてほしいと心底から祈る気持になった。 どういう神なのかと考えることもせずに。 アリアの旋律はいつまでもいつまでも私の胸に響きつづけた。(p.188)私が、本著を通じて考えさせられたことの一つ目は、精神疾患と自死の問題。洋二郎さんの死は、常に身近にいた父親・柳田さんにとっても、あまりに唐突なものに感じられたということ。 サマースクーリングで水泳の授業を受けていたのは、 洋二郎が自死を決意したたった二、三日前のことだったのだ。 神経症患者は、外見上はこれといった異常があるわけではないから、 健康人から見ると、なぜ苦しんでいるのか理解できない場合が多い。 まして洋二郎のように、自分の辛さを抑えてでも、友人にやさしい接し方をすると、 とても心を病んでいるなどとは信じられない人柄に映ってしまうのだ。(p.98)そして、二つ目が、死の意味が「人称」によって全く異質であるということ。「一人称の死」は、自分自身の死。「二人称の死」は、連れ合い、親子、兄弟姉妹、恋人の死。「三人称の死」は、第三者の立場から冷静に見ることのできる死。 このように「人称」による死の意味の違いという視点から見ると、 デンバーの小児科病院におけるホスピス・プログラムは、 医療者には「三人称の死」にすぎない新生児の死であっても、 「二人称の死」に直面した親の立場を大事にして、 グリーフワークのための「時間」と「場」を確保しようという、 新しい医療のあり方なのだということが、より鮮明になってくる。(p.204)そして、三つ目が「遺伝子死」について。次の言葉は、洋二郎さんが柳田さんに言ったもの。 「人間という生物が遺伝子の単なる“乗り物(ヴィークル)”に過ぎないのだとしたら、 今議論されている脳死なんかより、”遺伝子死”のほうが、 はるかに重要じゃないかなあ」(p.146)「人間という生物が遺伝子の単なる“乗り物(ヴィークル)”に過ぎない」という感覚は、私自身も、時として感じることがあるものなのである。ちょっと興味が湧いたので、柳田さんが例示した竹内久美子さんの『そんなバカな!遺伝子と神について』も読んでみようと思う。
2014.11.08
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『会社が消えた日』の中で、 井植敏さんが、ホリエモンの『ゼロ』を読んでいたという話が出てきた。 そして、著者の「お読みになって、どうでしたか」という質問に、 こんな風に答えていた。 「うん、一回りも二回りも大きくなったね。 逮捕される前は彼は、人と会うのにネクタイなんかいらんと言うとった。 それは間違いではない。 しかし、論理的整合性があれば、何をしても構わんと思ったら大間違いや。 ネクタイをしろというルールはないが、日本の社会でそれは通らない。 自分がカネをもうけるより、 人に喜んでもらうことに生きがいを見いだすようになったんと違うか。 人間、それが一番の幸せや」そして、ホリエモンの著作を読んでみようと思い、本著を手にした。 情報が入ってきたら、すぐにビジネスモデルにアウトプットする習慣をつける。 「この情報があれば、こんなビジネスが可能かも知れない」と、 条件反射的に考えていくのだ。 それだけで、目の前の風景も、自分の働き方もずいぶん変わるんじゃないか? 本を読んでいる時も同じだ。 特にサイエンス系のノンフィクション本を開いていると、 字を読むことよりもビジネスモデルを考えることのほうに頭を使ってしまう。 それがむしろ普通だ。 だって、そのほうが生産性が高いから。 本の内容なんて、読んでもすぐ忘れちゃうし。 「後で考えよう」と思っても、その時は永遠にやってこない。(p.43)要するに、ホリエモンは、ビジネスに活かすべく、情報収集に勤しんでいる。本を読むのも、もちろんビジネスのためである。 職業はたくさん経験したほうが刺激的だし、 色んな視点が身について相乗効果が出るはずだ。 むしろ今の時代、色んなスキルや分野が、 何かのイノベーションで突然ツナガルということがよく起こる。 その時、自分が過去に経験していた職能が案外役に立ったりするものだ。(p.52)これは、『生き方の演習』で塩野さんが言っていた「教養」につながるもの。他の人たちの専門分野にも好奇心を働かせ、そういうことをすべて押さえると、今度は自分のビジネスにおいて、今までのものとは違ったものを展開できる。教養は情報であり、情報は「役に立つもの」である、ということか。 結局、これまでに何度も言っているけれど、儲けたければ科学である。 当然のことだ。 都市に生きる人が身の回りを見渡してみたとき、 その中で科学的な方法を介さずに生まれているものなど、限りなくゼロに近い。 現代社会は、言い換えれば科学の魂だ。 科学的な手法で生み出され、大量生産されるモノによって、 僕たちの生活は支えられている。それゆえに、科学は金になる。簡単な図式だ。 そして科学といえば理系である。 よく「僕は文系だから」「理系は難しくて」なんて言っている人がいるが、 理系を否定することは科学を否定しているようなもの。 そしてそれは、科学に“使われる”人間になる、と言っているようなものだ。 そうではなく、科学を“使える”人間になっていくことで、 いろいろ変わっていくんじゃないかと思う(p.165)方向性としては、共感できるところが大きい。が、「儲けたければ」と、言ってしまうところがホリエモンなのである。 どこまでも人間臭く、非常識で、大胆で、協調性がない。 ヒーローとは結局そういうものだ、と再認識させられる。(p.96)そして、ヒーローになりたいのが、ホリエモンなのである。少なくとも、本著を読んだ限りでは、「人に喜んでもらうことに生きがいを見いだすようになったんと違うか。」とは、思えなかった。やはり、『ゼロ』を読んでみないと、「一回りも二回りも大きくなったね」とは感じられないのだろう。次に読むホリエモンの著書は、『ゼロ』一択である。 ***本著を読んで、ホリエモンお薦めの『経済ってそういうことだったのか会議』と『A3』『天地明察』『人間仮免中』をネットで発注した。そして、『グラゼニ』も読んでみたいと思っている。『ゼロ』を読むのは、その後になりそうである。
2014.11.08
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副題は「若者たちへ」。 2010年10月1日初版発行。 塩野さんが、出版の12年前に話した内容を書籍化したもの。 『ローマ人の物語』や『日本人へ』では分からなかった一面が垣間見えます。 外国語は道具として勉強し、 母国語がきちんと話せることが大切。 わが子を世界のどこでも生きていける人間にし、 母と子の関係が生き方の演習。私が、本著で特に印象に残ったのは「教養」について。立花隆氏が「教養はまず役に立たないものである」と述べたのに対し、それは、19世紀の概念だと思うと、塩野さんは言います。ルネサンスの時代のヨーロッパでは「役に立つもの」という考え方だったと。 その典型がレオナルド・ダ・ヴィンチですね。 彼は万能の天才と言われていますが、 それは、ルネサンスでは、万能というよりもすべてを押さえるいうような意味なんです。 つまり、彫刻ではどういうようなやり方をするか、 建築科はどんなふうな作り方をするか、 彫金家はどんなふうにするかと、そういうことをすべて押さえると、 今度は絵を描く時、今までの画家とは違った絵が描けると彼らは考えたんです。 そういうルネサンスの時代の教養が、 私は教養というものの原点だろうと考えるのです。 つまり、ルネサンスの時代の教養というのは、 他の人たちの専門分野にも好奇心を働かせるという意味なんです。 田舎暮らしを優雅にするためというような、 イギリスのジェントルマンの時代の概念とは違うわけです。(p.46)一分の隙もない完璧な説明。「教養」を高めたいと、強く思いました。
2014.11.08
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『軍師官兵衛(2)』を読んで、暫く間が空きましたが、 やっと(3)を読むことが出来ました。 この辺りは、しっかり大河を見ていたので、 各シーンを思い出しながら読むことが出来ました。 それでも、「こんなシーンあったっけ?」というところもあり、 忘れているのか、見逃しているのか、 ひょっとしてドラマとは違った描写になっているのかと、 色々考えさせられ、面白かったです。本巻の最大の見所は、秀吉の勘兵衛に対する態度の変化。天下人となる契機となった中国大返しでは、最大の功労者であり、それまでは、間違いなく最も信用していた人物であった勘兵衛に対し、その絶大過ぎる能力ゆえ、警戒心を高めていく。そして、もう一人のキーパーソンが、茶々。織田家の血を引くこの人物が、秀吉が手にした天下を奪い取る。彼女が光成を利用したのか、あるいは光成が彼女を使用したのかは分からないけれど、とにかく、彼女のなかに、権力奪取の野望があっただろうことは間違いないでしょう。 ***先日の文化の日に、姫路城と「黒田官兵衛大河ドラマ館」に行ってきました。私は、これまでに何度も、姫路城には行ったことがあるのですが、今回が、一番人の数が多かったです(多過ぎて、建物が傷められないか心配……)。ドラマ館も、大河を見ている人には、十分楽しめるものでした。
2014.11.05
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メンタルヘルス・マネジメント検定試験3種受験に向けた 重要ポイント&問題集で、公式テキスト第3版に対応したもの。 各項目について、ポイントを簡潔にまとめており、 公式テキストよりは、ずっと分かりやすく、読みやすい。 ただし、各章末に掲載されている確認問題を解いてみると、 本著には掲載されていない内容もあるので、 本著のみを用いて勉強するだけでは、決して十分とは言えず、 やはり、公式テキストは必読のものである。私は、公式テキストをざっと一読してから、本著に書かれている内容を読み、確認問題を解いた後に、本著に掲載されている模擬問題(50問)を解いてみたが、思ったより時間がかかった(45分程)。実際の検定試験では、制限時間が2時間なので、まぁ、時間的には、そんなに問題ないだろうが、点数の方は、合格基準の70点は上回ったものの、まだまだ、実力不足だということを痛感させられた。合格率が7~8割程度という検定試験だが、なめてかかると、足下をすくわれそうな感じ。もう一度、公式テキストを読み返してから、次は、過去問をやってみようと思っている。
2014.11.05
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勢古さんが『不孝者の父母考』の中で、 「丸山健二の父親がちょっぴり可哀そうである」と書いてあるのを見て、 どんな人のか知りたく思い、このエッセイを読んでみました。 1967年に『夏の流れ』で、第56回芥川賞を23歳の時に受賞した小説家です。 文壇との関わりをほとんど持たず、「孤高の作家」と形容される方らしい、 現代都市文明への批判的視座からの記述で一貫しています。 生きるなんて、時間なんて、才能なんて、学校なんて、仕事なんて、親なんて、 友人なんて、戦争なんて、不安なんて、健康なんて、死ぬなんてなんて、なんて、なんてで埋め尽くされる章題。なんて、なんて、なんてな著者の生き方が伝わってきます。 そもそも家庭や家族は崩壊するのが当たり前で、それが健全な形なのです。 けっして悲劇ではありません。 崩壊しない家庭のほうが、むしろ悲劇と言えるのでしょう。(中略) あなたが最優先すべき目的は、家を一日も早く出て行くことです。 そして、家族の共有物であった時間を完全に自分のものにすることです。(p.33)本著は、若い読者に向けてのメッセージとして書かれているもののようです。ここでは、家族についての考え方、時間の使い方についての著者の考え方が、よく分かります。 他人に教えを請う習慣は悪癖です。 その悪癖があなたを自立から遠ざけ、 ますます混乱させ、苦悩の数を増やし、生気を奪い取ってゆくのです。 言うまでもないことですが、これはあなたの人生です。 国家や、社会や、家族のための人生などではありません。(p.70)さすがに「孤高の作家」です。内田先生の『街場の共同体論』に書かれていたこととは、対極の考え方です。 人間としてそこまで落ちぶれたくない、 文明社会における一員として最低限の生活は確保したいと願う あなたに残された選択肢は、およそふたつです。 勤め人になるか。 自営業に就くか。 そのどちからかです。 あなたが前者の道を選んだ場合は、こう自問してみてください。 「勤め人になるためにこの世に生まれてきたのだろうか?」 あなたは、赤の他人にこき使われ、 尻を蹴飛ばされるためだけに生きる運命にあるのでしょうか。(p.83)この後、サラリーマンのことを散々扱き下ろした後、「自営業」の道を勧めます。ちなみに本著の発行日は、2005年の10月30日です。 あなたの親子関係をどうしますか。 お互いの力を当てにしたほうが楽に生きられそうだからという、 両者ともに自立できないことから発生した 親子の情の荒海のなかでいっしょにおぼれ死んでゆきますか。 それとも、心を鬼にして、親が自立できないのなら、 せめて自分だけでもと意を決し、 見苦しい生き方をいつまでもつづける親のわざとらしい絶叫を背中で聞きながら、 わが道をどこまでも突き進みますか。 あるいは、ときどき引き返してきて親の様子を確かめ、 付き添ってやる必要がないことを再確認してから、 また自分の道へと戻って行きますか。 それは、あなたが決めることです。(p.118)著者は、1943年12月23日の生まれですから、この文章を書いたときには60才を越えていたはずです。著者には、妻や子供がいる(若しくはいた)のでしょうか?それとも、ずっと独身なのでしょうか? 真の友人とは、生きる目標をしっかりと定め、 孤独と闘いながら自立の道を着実に歩んでいる人間のなかにしか存在しないのです。 その前にあなた自身がそうした人間にならない限り、 かれらと出会うことも絶対にあり得ないのです。 一旦<友人もどき>を全員遠ざけ、かれらを知人の棚に仕舞い込み、 あなた自身を個人というすっきりとした立場に戻してみてはどうでしょう。 そうすれば、周囲の者たちと調子を合わせて生き、 平均的なレベルを保つことに躍起になって苦悩していた愚かさと煩わしさに 気づくことでしょう。(p.124)「自立」とは何か?それについての考え方に、独特なものをもっておられるということが、本著を読んで、強く感じました。そして、その自身の考え方に基づいて、生きてこられたということも。
2014.11.05
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