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「うつ」に関する書物も、ほどほどには読んできたが、 そういった書物をネットで探している際、 メンタルヘルス・マネジメント検定試験というものがあるということを知った。 それで、どんな内容について出題されるのかと思い、本著を読んでみた。 そして、そこに記されている内容は、 おおよそ、これまで読んできた書物の中で見たことのあるものばかりだった。 ただ、本著はテキストであり、設問等は一切掲載されていない。 なので、私が、本著の内容について問われたとき、答えられるかどうかは分からない。そこで、過去問題集と、いわゆる参考書的なものを発注した。まだ届いていないが、果たしてどんなものか楽しみである。
2014.10.30
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『佐野洋子 100万回だってよみがえる』を読んで、 私は佐野さんの作品を、いくつかのエッセイと 『100万回生きたねこ』しか読んでないことに気付いた。 そして、本作を読んでみることにした。 かなりヘビーなお話しである。 『シズコさん』等を読んでないと、 「……………」とか「?」だと思う。 私なんか、読んでても、かなり戸惑ってしまった。佐野さんに出会うのが、この作品だったとしたら、私は、別の作品に手を伸ばさなかったかも知れない。先にエッセイを読んでて、本当に良かった。そして、それはとても幸運なこと。この作品は、『太陽』に1992年から1993年に連載されていた。谷川さんと結婚した後、そして神経症に悩まされる少し前の時期に当たる。父や兄への思いと母への思い、そして、そう思ってしまう自身の葛藤の凄絶さに圧倒される。
2014.10.30
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内田先生の著作のなかでも、本著はインパクトが強かった。 『下流志向』や『日本辺境論』レベルの衝撃度。 時代は移り変わり、社会は確実に変化したなという感じ。 消費社会を突き詰め、辿り着くべきところに辿り着いた。 こんな世の中に、どうしてなってしまっのか? それを、内田先生らしく、明解に解き明かしてくれる。 それじゃあ、これから先どうすればいいのか? そのヒントを、内田先生的発想で、示してくれる。 *** 僕たちが目の前にしているのは、「問題」じゃないんです。 「答え」なんです。戦後の国民的努力の成果なんです。 だから、「あ、あんなことをしてきたせいで、こんなことになったのか……」と がっくりするというのが、いちばん適切な対応なんです。(p.68)振り返ってみる……私たちは、いったいどんな社会を作りたかったのだろうかと。 見落とされがちなことですが、バブル期以前まで、自分が「何もの」であるかは、 消費行動によってではなく、労働行為によって示すものだと僕たちは教えられてきました。 「何を買うか」ではなく「何を作り出すか」によって、アイデンティティは形成されていた。 自分が作り出したものの有用性や、質の高さや、オリジナリティについて 他者から承認を得ることで、僕たちは自らのアイデンティティを基礎づけてきた。 でも、八〇年代からの消費文化は、そのルールを変えてしまいました。 それがこの時期の最大の社会変化だったと思います。 「労働」ではなく「消費」が、人間の第一次的な社会活動になったのです。(p.97)そして、消費社会の空気は、至るところに充満し始める。 今、人々が学校教育に求めるのは「国家須要の人材育成」ではありません。 自己利益の追求だけに専念する人間の育成です。 共同体の公益のために学校は存在するという根本の合意が忘れられて、 私的利益の増大のために学校は利用すべきものだというふうに、 人々は考えるようになってきてしまった。(p.147)「教育」も消費の対象物、即ち商品となった。より良いものを、よりやすく手に入れることが、美徳とされるようになった。 でも、今日本で行われている教育論のほとんどすべては、 「人間というのは自己利益を最大化するために、教育機会を利用する存在である」 ということを、無謬の前提にして話を始めている。 その前提から出発する限り、何をやっても学校教育は破綻に向かう他ありません。 自己利益の最大化を優先すれば、 人間は「自分さえよければそれでいい」という基準でふるまうようになる。 そして、子供たちが共同体内部で限られた教育資源を 競合的に奪い合っているのだというフレームワークで考えれば、 そこからは「自分だけが教育資源を独占的に利用でき、 自分以外のものはできるだけ教育機会から阻害されることを願う人間」 しか生まれてきません。 そして、現にこの社会は、そういう人間を続々と生み出しつつある。(p.160)さらに、情報化社会が進んだことが、これに拍車をかける。 ただ、読者の皆さんには、あまりメディアに振り回されずに、 「大々的に報道されているが、実はよくあること」と、 「あまり報道されていないが、実は前代未聞のこと」を、 自分で見分ける工夫はされておいたほうがいいですよ、と申し上げたいのです。(p.19)情報化社会で生き抜くための、基本的メディア・リテラシー。でも、それを備えている人は、実はそんなに多くない。 クレーマーというものを生み出したのはメディアですよ。 相手が行政でも、医療機関でも、学校でも、 とにかく「一番うるさくて文句を言う人」の言い分を、 最優先に聴くべきだということをルール化したのはメディアですよ。(p.238)メディアが何を目的に活動しているのかという基本的なことを、消費社会の中においては、常に頭に入れておかなくてはならないのだ。このようにして、現代を生き、現代を形作っている人々は、生み出された。そして、あらゆる集団や組織が、彼らが支持する論理で動いている。 家族というのは、まさにそのメンバーが病気になったり、失業したり、 へんな宗教やイデオロギーにかぶれたときの、 最後のセーフティネットであるはずのものだからです。 家族が非対称的であることを禁じたら、弱者にはもう居場所がない。 弱者の面倒は行政が見ろ、そのために高い税金を払ってるんだから という言い分は合理的かも知れませんけれど、 僕はそういう考え方にはどうしても賛同できない。(p.190)私も賛同なんかしたくない。 今の日本社会は、若い人がスタンドアロンで 「誰にも迷惑をかけず、かけられず、自分らしく生きたい」 というようなことが言えるほど、もう豊かも安全でもない。 「お互いに迷惑をかけたりかけられたりしながら、愉快に生きていく」ノウハウを、 若い人たちは身につけてゆかなくちゃいけない。(p.86)そう、現在の社会は、特異な条件下でのみ存在可能な社会。しかし、その特異な条件は、もはや土台から崩れ去ろうとしている。じゃあ、どうすればいいのか? でも、相互扶助システムというのは、 「強者には支援する義務があり、弱者には支援される権利がある」という、 不公平なルールで運営されているのです。 個人の努力の成果は個人宛に戻ってくるのではなく、共同体が共有する。 みんなが持ち寄ったものを一山に集めて、それを必要に応じて分配する。 それが相互支援のルールです。(中略) 残念ながら、現代人はこのルールがよく理解できない。 「オレの努力の成果はオレのものだろう?何が悲しくて、他人と分けなくちゃいけないんだ」 と、青筋立てる人がたくさんいます。(p.108)このルールが理解できないと、先には進めないということか……でも、青筋立てる人のほうが、圧倒的大多数なんですよね、現在は…… 今の年寄りたちが「高度成長期の日本は夢があって、親子も仲良くて、 地域社会のつながりも深くて、国民は幸せだったけれども、 それからどんどん社会が悪くなった」というような回想をするのを、 軽々に信用してはいけません。 時代の気分ということで言えば、そういう「三丁目の夕日」的ノスタルジーを語る人たちが、 決して口に出さないことがあります。 それは一九六〇年前後の日本には、「黙示録的な恐怖」が取り憑いていたということです。 でも、それは誰も日常生活の話題にしなかった。 「黙示録的な恐怖」というのは、核戦争の危機のことです。 第二次世界大戦の末期から始まった米ソの冷戦は、 一九五八年のベルリン危機、六二年のキューバ危機の頃には、 いつ核戦争が始まってもおかしくないところまで来ていました。(p.24)この時代の気分の実感は、ベトナム戦争終結後に生まれた人たちには分からないと思う。少なくとも、太平洋戦争が終わって20年程を経た1960年代時点では、まだ、日本が戦争に巻き込まれ、攻撃を受けることになるかも知れないとか、自分が兵隊として戦わねばならない時が来るかもしれないという感覚は、十分にあった。即ち、昔に戻ればそれでいいなんていう、そんな簡単な問題ではないということ。この状況から抜け出す手だてはあるのだろうか? つまりコミュニケーション能力とは、コミュニケーションを円滑に進める力ではなく、 コミュニケーションが不調に陥ったときに、そこから抜け出すための能力だということです。 (p.166)これは目から鱗。こういった力が、現状を変えていくヒントになりそうな気がする。
2014.10.30
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佐野さんの文藝別冊・追悼総特集。 2011年4月30日に初版発行されたもの。 内容は、自身のエッセイや対談、他の方々の追悼文にエッセイ等盛りだくさん。 佐野さんの交友関係の広さには、本当に驚かされる。 佐野さんの作品では、「船旅日記」と「卵、産んじゃった」が強烈。 「知らなかった」に記された時期と同じ頃の記録だが、どちらも、本当にスゴイ。 「船旅日記」は刈谷政則さんの解説文で、より実感が湧く。 また、「卵、産んじゃった」の描写は、佐野ワールドの極地とも思える。対談は、どれも興味深いものだったが、私が最も印象に残ったのは、元夫・谷川俊太郎さんと息子・広瀬弦さんのもの。 うん。つまり、愛情を注ぐ人にはすごい濃いの。 どうでもいい人にはすごく寛大なんですよ。 そんな細かいこと気にしないんだけど、 ちょっと好きになると、自分の思い通りにしたいのね。(p.94)これは、谷川さんが、佐野さんについて語った言葉。シズコさんや息子さん、ふたりの夫だけでなく、佐野さんが関わった人たちには、全部このパターンだったんだろうなと思う。父や兄のように、早くに死んでしまった人たち以外には。 いたちの最後っ屁っていうかさ。 あれで、向こうの親戚、ものすげー怒っちゃって、大変だったみたいなんですよ。 これは本にしちゃいけないだろうって思いながら読んでましたね。 また大げさに書くからね。嘘も交えて、巧妙に。(p.98)これは、広瀬さんの『シズコさん』評。 普通の人だよ。 それを無理矢理、悪者に仕立て上げる。(p.99)これは、広瀬さんの、祖母・シズコさん評。それに対して、谷川さんが、 ハハハ、それで、また仲良くするというドラマを自分で作りあげてる。 そこが面白いんだからしょうがないんだよね。本当のところ、どうだったんだろうと考え込んでしまった。
2014.10.28
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著者は、日本初の栄養療法専門クリニックである 新宿溝口クリニックのDr.溝口。 精神科や心療内科を専門とする医師ではなく、オーソモレキュラー療法で、 食事を見直し、サプリメントを用いて、うつ病や不安障害などを治療している。 低血糖症、鉄欠乏、亜鉛欠乏、ビタミンB欠乏、たんぱく質欠乏、 この5つの栄養欠損が、心のトラブルを引き起こす。 「うつ」にならないよう、食生活を見直そうというのが、著者の考え。 巻末には「脳の栄養不足を防ぐ食べ方ガイド」も掲載されている。 栄養療法の考え方はまったく違う。 セロトニンの材料となる栄養素、たとえば、アミノ酸や鉄、亜鉛、ビタミンB6などを 身体に取り入れることによって、セロトニンそのものを増やすのである。(中略) 栄養療法が広く普及すれば、抗うつ剤などによる副作用の悩みも解消すると思うのだが、 残念ながら、現在のところは圧倒的に亜流の位置に置かれている。 精神疾患の治療に活かしているドクターは、数えるほどしかいないのが現状だ。 認知までの道のりは、依然、険しいのである。(p.29)第1章のタイトルは『「うつ」の95%は脳の栄養不足!?』というもの。「!?」からして、医学を扱う書物のタイトルとしては、怪しげに感じてしまうが、実際、第1章を読んでみると、この95%という数字が、本文中に登場するのは、次の部分だけあり、統計資料等は一切掲載されていないのである。 しかし、食事がまったくかかわっていないうつは、おそらく5%未満ではないか、 とわたしは思っている。 逆にいえば、うつに悩む人の95%は 食事になんらかの問題があると考えられるのである。(p.30)そう、この数字の根拠は、ただ著者自身が「わたしは思っている」ということだけ。これでは「圧倒的に亜流の位置に置かれている」のも、致し方ないのではなかろうか。
2014.10.28
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2013年6月20日第1版第1刷発行。 私がこれまでに読んだ精神医学関係の書物のなかで、 精神医学の現状や今後の課題について、最も明確に示されていた一冊。 著者は、理化学研究所主任研究員の加藤先生。 一般読者向けに、コンパクトに要点を絞って記述されているが、 内容は専門的で、一読ですぐに理解できるようなものではない。 それでも、200頁余の紙幅を、17もの章に分けてくれているので、 何とか最後まで読み切ることが出来た。そして、全体を通じて述べられていることは、最後の「おわりに」にまとめられている。 現状ではゲノム研究が進み、脳科学研究がすすみ、 精神疾患を克服するためのさまざまな条件は整ってきている。 問題は、精神疾患を克服するために、それらをどのように組み合わせ、 どのような道筋を辿ったらよいのかというビジョンがないことであると、 問題提起をしてきた。 そしてどのようにしたら精神疾患が解明できるのかという具体的なビジョンを提示した。 さらに、そのビジョンを達成するには、様々な困難があるということも紹介した。 それはゲノム研究における困難、脳組織研究における困難、 基礎研究と臨床研究の間で行ったり来たりするコラボレーションの際の困難、 動物に精神疾患があるのかどうかといった根本的な疑問をどうかわして動物モデルを作るか、 倫理的な問題、臨床研究の推進の必要性などである。(中略) 本著のタイトルにある通り、精神医学は今、岐路に立っている。 一つの道は、これまで述べた通り、 様々な困難を克服して精神疾患を解明し、診断と治療法を開発する。 そして脳の病気である精神疾患と、心の悩みをはっきりと区別し、 それぞれに必要な対策を講じよう、と筆者が本の中で述べたような方向である。(中略) その中には、ブレインバンクの問題、研究倫理の問題など、 精神医学と社会の接点の問題が多くある。 精神医学の内部だけで、精神疾患を克服することができるものではない。 精神医学が、これらの困難を乗り越え、精神疾患を解明し、本当の医学となっていくのか。 あるいはこのまま中途半端な状態で終わってしまうのか。 岐路に立たされている精神医学をどちらに向かわせるかは、社会が決めることかも知れない。 (p.209)様々な困難を克服して精神疾患を解明し、診断と治療法を開発する。脳の病気である精神疾患と、心の悩みをはっきりと区別し、それぞれに必要な対策を講じる。これこそ、症状の苦しみ、副作用の苦しみ、理解されない苦しみという、精神疾患の三つの苦しみを抱える患者や家族の、最大の望みだろう。海外の巨大な製薬会社が、向精神薬の開発から撤退するなか、日本の製薬会社の踏ん張りにも期待したい。また、生物心理社会モデルに留まり続けるのではなく、画期的な生物学的原因が発見されることを、強く望む。
2014.10.28
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エッセー「死ぬ気まんまん」と「知らなかった」、 筑地神経科クリニック理事長・平井達夫先生との対談、 関川夏央さんの『「旅先」の人-佐野洋子との思い出』から成る一冊。 佐野さんが亡くなって半年余で出版されたもの。 平井先生は、佐野のさん脳に転移したガンを、ガンマナイフで取り除いた主治医。 対談からは、佐野さんの病状がよく分かる。 関川さんは、佐野さんと親交のあった小説家・ノンフィクション作家。 掲載文からは、これまで知らなかった佐野さんの一面が垣間見られる。「死ぬ気まんまん」は、いつもの佐野さんらしいエッセイ。他の作品同様、平常心で読み進めることが出来た。それに対し、「知らなかった」は、かなり衝撃的で異質。この時期の佐野さんの状態が、如何ほどのものであったかがよく分かる。『役にたたない日々』の中で、「私はガンより神経症の方が何万倍もつらかった」とか、「私は自律神経失調症とウツ病で、家でウンコ色の芋虫の様にころがっていた」と書き記されていた佐野さんの実感が、ストレートに伝わってくる。私にとっては『シズコさん』以上にインパクトのある作品だった。 *** あれから、私はいかなる思想も信じないことにした。 目の前で見たもの、さわったものだけがたしかだとしか思えなくなった。 テレビのニュースも用心している。 報道というものは、何によらず用心している。 それは私が自分で決めたことかどうか、わからない。 ファザコンの私は、 父が「活字は信じるな、人間は活字になると人の話より信用するからだ」と 夕食の訓辞に何百回も言っていたからかもしれない。(p.25)これは、小田実が西ベルリンのブランデンブルグ門の前に立ち、その様子をルポしている映像を見て、佐野さんが、自らの体験を元に「それは嘘です」と記した後、書かれたもの。そういうものだと思って、報道は見る必要があると思う。 その前に、自身の大脳に蓄えられた知識を言葉や文字で子孫に伝える努力が必要です。 また、ちゃんと子どもを残して、ご先祖様から受け継いだDNAを 松明のように受け継がせておかないとダメだと言うことです。 このように考えると、自分が死んでもDNAはすでに子孫に受け継がれ、 自分の大脳に蓄えられたものも子孫に受け継がれており、 自分が消滅してしまうわけではなく、 死ですべてが無になるわけではないのです。(p.128)これは、平井先生との対談で、佐野さんが述べた言葉。先ほどの「報道」に対する姿勢同様、この点についても私は佐野さんと同意見。この世に生を受けたからには、「ご先祖様から受け継いだDNAを、松明のように受け継がせ」ることは、人にとって、最も重要な役割の一つだと思う。 最近はふたりだけの結婚式もありますが、後が大変だと思います。 同僚や先輩のところや、親戚に挨拶回りが大変でしょう。 結婚式もやっぱり昔の人の知恵だなと思います。 結婚式をやれば、一遍で住むんですよ。 みんな気が済むんだから、やればいいんです。 だから、葬式もそれと同じで、ちゃんとやらなきゃだめですよ。 それ一回で済むんです。(p.138)これは、対談のなかで、平井先生が述べた言葉。なるほどなと、考えさせられた。結婚式もだが、それ以上に葬式について。やっぱり、ちゃんとやった方がイイのかなと。 私は奥さんの、主人は止めてほしかったのだと思います、 という言葉が頭から離れなかった。 どんなに冷静沈着な人も、頭で考えることと気持の底の底は自分でもわからないのだ。 その時にならないとわからないのだ。 奥さんも医者もわからなかったのだ。 患者の言葉の向こう側の言葉ではないものは、その時が来ないとわからない。 理性や言葉は圧倒的な現実の前に、そんなに強くないのだ。(p.183)大きな航空会社のパイロットらしい男は、初めから告知を希望し、自分の症状を正確に把握していた。主治医から余命二ヶ月と告げられ、自分でホスピスの資料を集め、そこに決めた。「最後は家族だけで静かに」と以前から言っていた。ところが、前の病院では、ちゃんと取っていた食事を、ホスピスに入った日から、全く取らなくなり、話もしなくなった。そして、奥さんは佐野さんに言ったのだった。「主人はお医者さんに止めてほしかったのだと思います。まだそんな必要がないって。」エッセイ「知らなかった」のなかでも、最も衝撃的な部分の一つ。
2014.10.28
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河合隼雄さんと柳田邦男さんの対談集。 1985年から2002年までに行われた7回の対談を一冊にまとめたもの。 かなり昔の対談だが、内容に古さは感じられない。 副題は『「うつ社会」脱出のために』。 特に印象に残ったのは、第四話「人が死ぬときに迫る」と、 第五話「息子の死を見つめて語る」。 第四話では、『死ぬ瞬間』のキューブラ-=ロスについて、 第五話では、柳田さんの息子さんの死について語られている。 *** 日本の男性は個人主義でない方法で集団的に生きる生き方をうまく身につけている。 ところが、女性はいままでその下積みでしたね。 日本的な生き方をそれほど身につけていない。 そこに西洋的なものが入ってきたため、女性のほうが西洋スピリットに対する適応度が高い。 いまの離婚が急増している現象など、まさにそのあらわれではないでしょうか。 個人主義的に考えれば離婚したほうが正解という場合がたくさんある。 従来はずっとしんぼうしてきたけれども、 いまでは女性のほうから離婚を言いだすケースが多くなった。 一方、男性は日本的な集団的生き方で生きているから、 離婚なんて全然考えていない。 そこで、ある日突然、奥さんから離婚の話しが出るから仰天してしまう。 女性が西洋流の個人主義、合理主義的な論理で言ってくるから、 男のほうはまるで対応できない。 これは若者と中年との関係にも言えます。 若者たちが個人主義的な論理で攻めてくると、中年層はそれに対して何も言えない。 そういう問題がすごく多い。 だから私は、「日本の意識改革は女性、子どもがする」と言っているんです。(p.40)これは、もう30年近く前の河合さんの言葉。当然、生きていれば、若者だった者は中年に、中年だった者は老年に差し掛かかっている。個人主義、合理主義的な論理の持ち主が、増加しているはずだ。そして、河合さんは、次のようなことも言っている。 変革にはどうしても苦しみがともなうから、誰もしたくないと思っている。 その苦しみをそらすために、みんな悪者を探そうとするわけです。 そのときに私がそばにいて、 「悪者なんていませんよ。希望はあります」と言いつづけていればいいわけです。 ただそれだけ。それが私たちの仕事なんです。(p.65)それに対して、柳田さんが、 悪者を探すのは、自分の苦痛をやわらげるためなんですね。 ともすると、夫婦がお互いに責任をなすりつけあい、憎みあったりする。そして、河合さんが、 だから、子どもが問題を起こしたら、両親は自分が悪者と言われはしないかと怖がって、 私たちと会うのをいやがるようになる。 そういうときにぼくらが、「お父さん、お母さんが原因ではありませんよ」と言うと、 そのとたん、ほっとする。自分が悪者にならないように、常に誰かの責任にしようと悪者探しを続ける。個人主義がはびこり、スケープゴートを次々に必要とする社会。まさに、今の日本は、そういう世の中になってしまった。そして次は、別の対談における、河合さんの言葉。 あるいは、親子でもめている人に 「お母さん、もう少し子どもにやさしくしてください」と言っても、 それは正しいですけど、やさしくできないから困っているんでね。 だから、正しいことというのはだいたいあまり役に立たないですよ。 ほんとうに役に立つことを言うのはすごくむずかしいですね。(p.86)むずかしいです。正しいだけでは、理屈だけでは、うまくいかない。では、何が必要なのか……最後も、やっぱり河合さんの1995年の言葉。 そうなると、死ぬのは敗北で、 死から救ったら勝ちだということばかり思うわけでしょう。 そして、死んでいく人に対しては、負け戦だという考えをもつわけですね。 しかし、負け戦なんかじゃないですよ。 その人は無意味に死んでいくんじゃなくて、 人生をどう全うするかというすごい仕事に直面しているわけです。 これは医療にとってもものすごい大切な仕事だと思うんですね。 そういうふうに考えるようになったら、医学もずいぶん変わると思うんですけどね。(p.217)人は誰もが、生まれた瞬間から、死に向かって歩み始める。なぜ、どうせ死んでしまうのに、歩を進めるのか?その歩みに、いったいどんな意味があるのか?死が負け戦なら、その意味を見出すことは出来ない。
2014.10.25
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著者の佐藤さんは、神戸新聞を経て、読売新聞の記者となった方。 精神医療の在り方に疑問を投げかける著作は数多くあるが、 本著は、それらの中でもポイントをしっかり押さえ、 具体的なケースを挙げながら、冷静に記述されている。 問題として挙げられているのは、診断や投薬についてが主となるが、 特にインパクトが強いのは、第2章の「拉致・監禁」と第4章の「過剰投与」。 隔離病棟から脱出に成功した加藤さんや、 多剤大量投薬で亡くなったアキラさんに関する記述には、ゾッとさせられる。 *** 画像検査などの客観的な診断法が確立していない精神科では、 患者の話をじっくり聞くことでしか診断できない。 それなのに患者の話をまともに聞かず、 症状の有無だけで安易に診断する精神科医が増えてしまった。(中略) 昔の精神科医が良かったとはとてもいえないが、 近年の精神科医の診断能力低下は実に嘆かわしい。(p.22)この神奈川県の精神科クリニック院長の言葉が、様々な問題の根底にある。 一般の人にも名がよく知られ、 とても有力な精神科教授が率いる大学病院を退院した患者さんを最近診て驚きました。 入院中に脳波検査すら受けていなかったのです。 2012年のことですよ。 有名大学病院でもまだこんなレベルなのです。(p.71)精神科医の斉尾武郎さんの言葉に、「なぜ?」という疑問が湧き起こる。そして、斉尾さんは、このようにも述べている。 基本を勉強せず、適当に診療しても怖くない精神科医がなぜこれほど多いのか。 精神科の治療ではすぐには死なないので、 間違った治療に対する罪の意識が薄いのでしょう。(p.75)愕然とするしかないが、「そうかも」と思ってしまう、自分も怖い。さらに、次の記述にも驚かされる。 統合失調症の疑い例と、 自閉症スペクトラムの二次的症状をきちんと鑑別できる精神科医は少ない。(p.180)「できない者もいる」ではなく「少ない」だ。患者の立場からすると、精神科医と名乗る者なら「誰でも出来る」と信じているのに。こんなことを書かれてしまうと、自分の主治医に対しても「この人は大丈夫なのだろうか?」と疑心暗鬼になって当然だ。そして、幸運にも「出来る」主治医に担当してもらえたとしても、薬を飲めば、副作用というものは、出るときには、出てしまう。 パキシルは、衝動性を亢進する副作用が報告されている。(p.40) 杏林大学准教授の渡邊衡一郎さんらが、 抗うつ薬の服用者1187人を対象に行った2008年の調査では、 射せい障害や性的感覚の衰えなえど、性機能障害の発生率が27.3%にのぼった。 だが対処法がなく「我慢している」との回答が目立った。 性機能障害の副作用に敏感な海外の調査では、さらに高い発生率が示されている。(p.213)そして、副作用の次には、離脱症状が待ち構える。 2005年初め頃から抗不安薬のソラナックスを飲み始めた。 1日2.4mgの最大容量が処方された。 この年の秋には別のクリニックに移ったが、 そこでもソラナックスの最大容量の処方が続いた。 田中さんは副作用を心配したが、2つめのクリニックの主治医が 「何年も服用していい安全な薬」と話したため、4年以上飲み続けた。(p.250)ここに登場した田中さんは、不調が続いたので、主治医に、薬をやめる相談をし、服用量を半分にしてから、3か月後には断薬した。減薬時には、激しいイライラ感が、断薬後には、日光が眩しく、眼痛が起こり、意識が朦朧とし、救急車で運ばれてしまう。その後、田中さんは、同じベンゾジアゼピン系の薬剤による副作用に苦しんだウェイン・ダグラスさんと共に「アシュトンマニュアル」日本語版を完成させる。精神科医ではなく、患者が作ったという事実が、日本の精神医療の現状を雄弁に物語る。まだ分からないことだらけの疾患に、知ったかぶりをした人間が対処すると、悲劇は起こる。精神疾患のメカニズムが解明され、それに効用がある薬剤が、一刻も早く開発されることを期待するのはもちろんだが、それ以上に、資質能力に欠ける精神科医が排除され、誠実に疾患や患者と向き合い、知識能力を高める努力を怠らない医師ばかりになることを望む。※ 文章が出来上がった段階で、プレビューをしてみると 「わいせつ、もしくは公序良俗に反すると判断された表現が含まれています」との表示。 そこで、p.213の引用文中の「性」を「せい」と、一か所ひらがな表示に変更することで、 プレビュー及び公開が出来るようになったことを、ここに記しておく。
2014.10.25
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副題は「親が死んではじめて気づいたこと」。 著者は『定年後のリアル』の勢古浩爾さん。 私は、勢古さんの本を読んで、佐野さんを知り、 佐野さんの本を読んで、親子関係というものを改めて考えさせられた。 そして、勢古さんの親子関係についても知りたくなり、 本著を読むことにした。 そこには、佐野さんとは随分違った親子関係があった。 当たり前のことだけれど。 *** 子どもにとって親とは、一個の名前で呼ばれる全人格的存在ではない。 職業や役職や友人の数といった社会性などどうでもよく、 出世欲も性欲も見栄も保身も卑怯も自己顕示も小心も皮肉も姑息も傲慢も、 父と母のなかには見たくないのである。 だから子どもは父と母以外の側面を見いだすと反発するのではないか。 むろん、これは子どもの勝手なのだが、元々子どもとはそういうものである。 現実の父と母は卑小である。 実際に父親や母親になってみるまでもない。 たいていの人間は卑小である。 そんな人間が父や母になったからといって、とたんに偉大になるわけがないのである。 父と母は自分に自信のないものである。 世俗にまみれた者である。 ここでもまた、死んで初めて、父と母は「大いなる存在」になるのである。 存在としては卑小であっても、子どもへの慈愛はほんものだったからである。(p.31)これを読んだら、佐野さんだったら何と言うのだろう。特に最後の一文について、コメントを聞いてみたかった。 親は子ども時代を経験しているのに、子どもの心がわからなくなる。 時代も社会もまったく違ってしまうからだ。 しかしそれ以上に、子どもに親の心はわからない。 親になってみないと、親の気持ちは絶対にわからない。 「絶対に」である。 むろん、親の心は理解されなくてもいいのだが、 丸山健二の父親がちょっぴり可哀そうである。(p.90)丸山健二さんは、小説家である。丸山さんは、危篤の父親に訊きたいことがあったという。 こんな最悪の状態に陥ってしまっても、 拷問部屋のような集中治療室に閉じ込められて 白い天井を眺めているだけの体になってしまっても、 まだ生きていたいのかという質問がそれだった。(p.87)そして、実際に訊いたのだそうだ。 立ち上がり、すぐ側まで近づき、今度はもっと露骨な言い方で、 死にたいのか生きたいのかという二者択一を迫る質問を浴びせた。(略) 『死にたくない』と、父はそう言った。(p.88)丸山さんは、葬式が終わるか終わらないうちに、さっさと自分の生活に戻り、一日も無駄にせず、せっせと小説を書き続けねばならないと思ったそうである。丸山さんと父親との関係の詳細は、本著からは分からない。しかし、父親も可哀想だが、丸山さんも可哀想だなと、私は思った。 たとえ親にどんなことをしてやっても、 『後悔しないために』などできるわけがないのである。 子どもに注いでくれた愛情としてくれたことの総量に、 子どもがなにをどのようにしても敵うものではないからである。(p.97)丸山さんは、こんな文章を書くことが出来ないまま、人生を終えてしまうのだろう。それを、私は可哀想と思うのだが、丸山さんからすると、余計なお世話だということになるのだろう。親子関係にも、色々ある。 男というものは、それぞれの身分と暮らしに応じ、 物を食べ、眠り、かぐわしくもやわらかな女体を抱き…… こうしたことが、とどこおりなく享受できうれば、それでよい。 いかにあがいてみても人は…… つまるところ男の一生は、それ以上のものではない。 人にとって、まこと大切なるは天下の大事ではのうて、わが家の小事なのじゃ。(p.186)本著に引用された、池波正太郎著『さむらい物語』の一節である。こんな言葉を、口にすることが出来るようになれれば良いなと、私は思っている。
2014.10.25
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2011年12月10日に第一刷発行。 当時は、かなり売れて、評判になっていたように思う。 本著の文章が書かれたのは、東日本大震災前後の時期で、 震災そのものについての記述も、結構見られる。 しかし、何かの雑誌等に掲載された文章ではないようで、 著者の言う「雑文」を、一冊にまとめたもののようである。 にしては、本著の背負うタイトルと、書かれている内容との間に、 著者が言うほどの共通性を、私自身は見出すことが出来なかった。五木さんの著作は『戒厳令の夜』を、映画を見る前に読んだくらいで、『四季・奈津子』は購入しただけで、ずっと書棚で眠っていた。『親鸞』は、読んでみたいなと思っていたのだが、今回の読書で、ちょっと手が遠のいてしまったかもしれない。
2014.10.23
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本著は、文藝春秋2010年5月号から13年10月号に掲載された 塩野さんの、その時々に書かれた文章をまとめたものである。 政治についての記述は、今読むと古い過去の出来事ではあるが、 その経過、変遷が蘇り、なかなか興味深いものがある。 日本では、民主党政権から自民党政権へと移り変わり、 その間に、首相は、菅さんから、野田さん、安倍さんへと替わった。 東日本大震災が起こり、そこから様々な問題が発生し、 「想定外」という言葉が飛び交って、その対応に右往左往した。 メディアとは、権力やときの政府に反対することこそが自分たちの使命と信じているので、 今の日本に不満で政府や電力会社を非難する日本人や日本の組織を見つけると、 まるで鬼の首を取ったかのように嬉しがって報道する。 批判もあれば非難したくなることもあるだろう。 だがそれは、少し落ち着いた後でやってはどうか。 情勢が落ち着いた後ならば、建設的になるかもしれない。 被災者たちが品位を保って耐えているのだから、 他の日本人も品位を保って耐えてはどうだろう。(p.81)一方、イタリアではギリシャ危機の余波をかぶって、モンティが首相となり、かなり上手くスタートを切ったものの、後が続かなかった。それでも、絶体絶命のピンチは、なんとか乗り切り、多少は落ち着いたのだろうか?最近日本では、イタリアのニュースが流れることは、あまりない。 今回の災害をめぐる外国メディアの報道に、一喜一憂する必要はまったくない。 メディアとは、国外国内を問わず、次の性格をもつものだからである。 1.何かが起こらないと報道しない。 2.悪いことならば何であろうと取り上げるのに、事態がうまく進んでいるような場合だと、 報道心を刺激されないのか、取り上げられることははなはだ少なし、になる。 3.自分の国や自分自身が興味をもつことしか報道しない。 4.とはいえ報道人も職業人なので、毎日何かを書き言わねば仕事にならない。 それで、何もないときは、予測記事をたれ流す。 それがまた、たいていの場合的をはずれている。(p.97)さて、一年以上も前に書かれた文章の中に、思わずハッとさせらるものを見つけた。 韓国では私の作品のほとんどすべてが出版されているので二度行ったのだが、 滞在中に受けたインタビューでこう質問された。 日本による36年間の植民地時代をどう評価するか、と。 次にあげるのは、そのときの私の答えである。 「男と別れた後の女には、二つの生き方があるのです。 第一は、別れた男を憎悪し怨念に燃えその男に害あれと願いながら、一生をおくる生き方。 第二は、過去などはきれいさっぱりと忘れて新しい男を見つけ、 と言って昔の男とも仕事を一緒にしたりして、愉しい第二の人生をおくる生き方。 あなた方は、どちらを選択なさりたいのですか」(p.219)この後に続く、朝鮮総督府の建物の破壊についてのやりとりも、さすが塩野さん、と言えるものだった。
2014.10.23
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著者は1972年にノーベル医学・生理学賞を受賞した ジェラルド・M・エーデルマン。 本著は、「意識」とは何なのかを明確にし、 できるだけ簡潔に、著者の見解をまとめようと試みたものである。 しかし、「はじめに」に記されているように、 このテーマは、すんなり頭に入ってくるほどやさしくはない。 「読者のみなさんにもそれなりの奮闘をお願いしたい」と、 冒頭で著者自らがお願いしている理由は、読み進めるほどに分かってくる。「クオリア」という概念ですら、素人にはイメージすることが難しい。ましてや、本著で著者が唱える「ダイナミック・コア仮説」を理解することは、脳科学の基礎知識すら持ち合わせていない者には、並大抵のことではないだろう。私など、目で字面を追い続けただけというのが、実情だ。それでも、「意識」を脳の働きから生まれるものとしてとらえ、どのようにして、ニューロンの発火から主観的な感覚や思考や情動が生まれるのかを探ろうとする試みは魅惑的だ。そして、それを明らかにしようという研究は、現在も続いている。
2014.10.22
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今さらながら、気付いたのですが、 私は、これまでに稲盛さんの著作を、一冊も読んでいませんでした。 でも、セブンイレブン関係の本は、何冊か読んでいても、 鈴木さんの著作は一冊しか読んでなかったりするので、驚くこともないです。 そして思ったのは、これまで読んだビジネス界のトップの方々が書かれたものと、 随分肌合いが違うなということ。 そして、その理由は、読み進めていくうちに分かりました。 本著は、臨済宗妙心寺派円福寺で得度し僧籍を得た方の、説法なのです。 ***まず、本著で繰り返し述べられているのは、次のこと。 人生をよりよく生き、幸福という果実を得るには、どうすればよいか。 そのことを私は一つの方程式で表現しています。 それは次のようなものです。 人生・仕事の結果=考え方×熱意×能力(中略) まず、能力とは才能や知恵といいかえてもよいのですが、多分に先天的な資質を意味します。 健康、運動神経などもこれにあたるでしょう。 また熱意とは、事をなそうとする情熱や努力する心のことで、 これは自分の意志でコントロールできる後天的な要素。 どちらも0点から100点まで点数がつけられます。(中略) そして最初の「考え方」。 三つの要素のなかではもっとも大事なもので、 この考え方次第で人生は決まってしまうといっても過言ではありません。 考え方という言葉は漠然としていますが、いわば心のあり方や生きる姿勢、 これまで記してきた哲学、理念や思想なども含みます。 この考え方が大事なのは、これにはマイナスポイントがあるからです。 0点までだけではなく、その下のマイナス点もある。(中略) したがってさっきもいったように、 能力と熱意に恵まれながらも考え方の方向が間違っていると、 それだけでネガティブな成果を招いてしまう。 考え方がマイナスなら掛け算をすればマイナスにしかならないからです。(p.026)常識的に判断される「よい心」が、「プラス方向」の考え方だと稲盛さんは言います。小学校の教室に掲げられている標語ような倫理観や道徳律が大切だと。この辺りのことが、読んでいて「説法」を聞いているような感じになる理由でしょう。そして、その延長線上で、リーダーとしての資質について、このように述べています。 同じような趣旨のことを、中国は明代の思想家、呂新吾が その著書『呻吟語』の中で明確に説いています。すなわち、 「深沈厚重なるは、これ第一等の資質。磊落豪雄なるは、これ第二の資質。 聡明才弁なるは、これ第三の資質。」 この三つの資質はそれぞれ順に、人格、勇気、能力ともいいかえられるでしょう。 つまり呂新吾は、人の上に立つ者はその三つの要素を兼ね備えていることが望ましいが、 もしそこに序列をつけるなら、 一が人格、二が勇気、三が能力であると述べているのです。(p.131)三はあるが、一や二に欠ける人しか見当たらない日本の政治の現状。しかし、二と三があって、一に欠ける人がリーダーになったら、もっと怖いような気もします。そして、一がある人なんて、どんな人なのか?この人という具体例を挙げるのは、歴史を遡っても、そう容易いことではないでしょう。 そういうことが何度かくり返されたあと、私は相談する相手を一新しました。 つまり新しく、むずかしい仕事に取り組むときには、 頭はいいが、その鋭い頭脳が悲観的な方向にばかり発揮されるタイプよりも、 少しばかりおっちょこちょいなところがあっても、 私の提案を「それはおもしろい、ぜひやりましょう」と無邪気に喜び、 賛同してくれるタイプの人間を集めて話をするようにしたのです。 むちゃな話だと思われるかもしれませんが、構想を練る段階では、 実はそれくらい楽観的でちょうどいいのです。 ただし、その構想を具体的に計画に移すときには、 打って変わって悲観論を基盤にして、あらゆるリスクを想定し、 慎重かつ最新の注意を払って厳密にプランを練っていかなくてはなりません。 大胆で楽観的にというのは、あくまでもアイデアや構想を描くときに有効なのです。 そしてその計画をいざ実行する段階になったら、再び楽観論に従って、 思い切って行動にとりかかるようにする。 すなわち「楽観的に構想し、悲観的に計画し、楽観的に実行する」ことが物事を成就させ、 思いを現実に変えるのに必要なのです。(p.051)この辺りの記述は、実用的だなと思います。ただ、実際に行うとなると、これも容易いことではありませんが。
2014.10.22
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武蔵美卒の佐野洋子さん、西原理恵子さん、リリー・フランキーさん。 本著は、この3人の対談集。 佐野さんと西原さんの対談は、2007年7月10日に、 佐野さんとリリーさんの対談は、2009年11月24日に行われたもの。 共に、佐野さんの自宅で行われた対談を文章化したものですが、 こういった対談の方が、その人の人柄とか本音とかが出てくる気がします。 手で書く文章は、書かれる前も、書かれた後も、慎重な判断が働きやすいけれど、 口から発する言葉は、それが結構難しいということでしょうか。 *** すごいといえば、佐野さんの“心の痛み”を持ち続けるエネルギーのほうがすごいですよ。 佐野さんが「波」(新潮社)に連載されている、 お母さんとのことを書いた『シズコさん』を読むと、痛みのゴーヤチャンプルーみたい。 恨(ハン)がありますよね。(p.30)これは、西原さんの言葉。あれは確かに「恨」ですね。 男って、一種の虚構を構築しないと生きていけないじゃん。 そこがかわいそう。 だから女とけんかしても勝てないわけ。 女に、「だってそうなんだもん!」と言われたら、しょうがないもんね。 男は論理の上に立ってるから、論理をさーっと取っ払ったらグチャグチャになっちゃうよ。 それより、「だってそうだもん」って人のほうが強いんだね、絶対に。(p.117)これは、佐野さんの言葉。男と女の本質を突いたものだと思います。 子どもたちの自殺が問題になってるけど、実は働きざかりの男性もいっぱい死んでる。 自殺で亡くなる人は、交通事故死を上回ってるんですよね。 男の人は、「働かない」という権利がないから、オレ、やーめた」とは言えない……。 それで仕事で行き詰まったりリストラされたショックで心を病んで 自殺する人が多いんですね。 でも女は最初から「働かない」選択もあるから、そんなことでは死にませんよね。 いざとなったらなんでもやろうとするもん。(p.159)これは、西原さんの言葉。確かに。これに対して佐野さんが、 男って気が弱いところがあるから。さらに、西原さんが、 そう。壊れちゃうからね。 女は丈夫というか、長持ち。 男のほうが精密機械のような気がする。 女の方がトカレフ(旧ソビエト連邦陸軍が採用した軍用自動拳銃)みたい。 ドロの中に落としたけど、ふくと使えちゃう、みたいな。なるほど。そして、佐野さんがこう締めます。 男って、ちゃんと立ってる木みたいで、折れるときはバキッと折れちゃうけど、 女は柳のように、あっちにフニャフニャ、こっちにフニャフニャして、 なかなか折れない強さがあるよね。 やっぱり女はすごいね。(笑)さらに、西原さんは、こんなことも言ってます。 知り合いの保護司のかたが言うには、男はいくらグレてもいいんだって。 「外に出ればつらい目にしかあわないから、それでかえって鍛えられる」と言うんです。 ダメなことをしたら先輩が殴りにくるからって。 一方女の子は、グレたら本当に大変だそうです。 覚悟を決めた女の子たちは底がない。 「若ければ若いほど、外に飛び出せばいい夢が見られるから、 二度と家に帰らなくてもすむ」と言うんです。 そうなったら親がどんなに泣いても叫んでも、帰ってこないんですね。(p.165)これも真実だなぁ。そして最後に、リリーさんとの対談の中での、佐野さんの言葉。 それで私、どうしてドイツ人には哲学者が多いのか、わかったよ。 あれはさ、あんまり生きていることが楽しくないから、 「生きるとは?」と考えちゃうんだと思うの。 イタリア人は楽しむことを知ってるから、そんなこと考えなくていいのよ。(p.214)「生きるとは?」なんて考えるのは、確かに楽しんでいる状況じゃないときですよね。
2014.10.22
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『神も仏もありませぬ』と『役にたたない日々』を読んでいたので、 著者の佐野さんやその家族については、ある程度知っていたけれど、 本著を読んで、そのあまりのドロドロさに圧倒されてしまった。 涙もろい人なら、号泣してしまうこと間違い無し。 母親と娘との間で、これ程までの確執が生じるものかと戦き、 同じ母親の娘でも、姉妹で、こんなに違う関係になるものかと驚き、 その母親を、家から追い出した息子の嫁のパワーに怯み、 その母親と叔母とで、障害者の弟妹に対する態度があまりに違うので呆然とした。 *** 私が母を愛していたら、私は身銭を切らなくても平気だったかも知れない。 大部屋で転がされていた、私が知ってる特養に入れても 良心はとがめなかったかも知れない。 私は母を愛さなかったという負い目のために、 最上級のホームを選ばざるを得なかった。(p.23) 私は、ずっと私の半生をかけて、 母親と娘というものは特別に親密なものに違いないと思っていた。 私だけなのだ、母親が嫌いなのは。 しかしよく聞くと、母親とうまくいかない娘というのは、 ここほれワンワンの意地悪じいさんが掘り出す汚いもののように、 想像を越えて沢山いた。(p.194)母親を愛せないことに、罪悪感を持ち、苦しみ続けた佐野さん。母親の痴呆が進むのを見て、自分も同じようになっていくことを恐れる佐野さん。そして、その心配は、恐らく現実のものとなって、さらに佐野さんを苦しめたのだろう。それでも、60歳になる頃、母親に触れることが出来るようになって、本当に良かった。 私は自分が幼年時代によい資質を全部使い果たしたと思っていたが、 母と同じように、時代と共に世の中が変化するのと同じ様に変わったのだ。 皆んなが地を丸出しにし始めた。 地を丸出しにするのが個性なのだろうか。 私は今の民主主義がどうも日本人のお口に合わない様な気がする。 というか、片手落ちの民主主義で、権利はどこまでも主張し、 権利と義務が一体であることに気づかない様なのである。(p.166)でも、佐野さんが書いていることやお話ししていることは、本音だったのだろうか?それとも、強がって意固地になっていただけなのだろうか?あるいは、それもハッキリしない状態になってしまっていたのだろうか? 家族の問題の根の深さや複雑さは、想像を絶するものなのは間違いない。
2014.10.18
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メンタルヘルス・マネジメントについて記されたものですが、 タイトルにもある通り、「人事・管理職のための」書籍です。 それ故、あくまでも、ケアする立場からの視点で書かれており、 ケアされる立場の者からすると、結構厳しい内容に思える箇所もあります。 特に、著者の真野さんは、産業医という立場の医師でありながら、 MBAを取得して、企業で働いた経験もお持ちの方なので、 企業経営者的な発想も、そのベースにしっかりとお持ちのようです。 そして、内科医であり、精神科の医師ではありません。 *** さて、究極のうつ病発症予防は、うつ病になりにくい人を採用することです。(p.75) いずれにせよ、若い人の価値観が多様化していることに企業が対応し切れていない以上、 どのような採用方式をとったとしても、適応障害の発生や離職は避けにくいのです。(p.76)一人の社員をケアし、フォローすると言うよりは、一つのコマとして扱っている感じがする箇所が見受けられました。これは、効率を問われる企業経営者からすると当然の発想とも言えますが、産業医として、このような姿勢を前面にお話しをされると、ケアされる立場の者はキツイです。 うつ病になると会社を休んだりします。 それは当然、後述するように会社の生産性を下げることになります。 この意味でも、うつ病対策が叫ばれるようになってきた、という背景もあるのです。 今まで、全体の生産性が下がる点は多く指摘されていますが、 実は、長期で休んだりして企業に大きな損害を与える社員の多くが、 優秀な社員、言い換えれば生産性が高い社員であるケースが多いのです。(p.40) ウツが多いのは、このように交渉ごとにかかわる部門の人たちです。(p.41)ここでは、優秀な社員がうつになる可能性を指摘しているのですが、そうなってしまった場合については、受診すること以上のことは言及していません。ここで、このようにして再び戦力として復帰して活躍している例などが語られていれば、ケアする者も、される者も大きな希望となるのですが、そこまで求めるのは酷でしょうか?それでも、本著は、よくあるマニュアル本とは、一線を画す内容であることは確かです。
2014.10.18
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著者は、株式会社リヴァ。 2012年8月に設立された民間の復職支援施設。 スタッフは、臨床心理士、精神保健福祉士、社会保険労務士、 キャリア・コンサルティング技能士、産業カウンセラーなど。 そこで、どんな取り組みが行われているのか、 そして、そこでトレーニングした人達は、その後どうなったのか。 記されている内容は、企業の広報誌的色彩が濃いものですが、 具体的で詳細な説明は、利用を考えている人には有り難いでしょう。特に復帰支援施設の活用ケースは、成功例だけでなく、失敗例もあり、また、施設を活用せず、一人で復職を果たした人の例もあって、とても参考になります。中でも、私の印象に残ったのは、次の部分。 私も産業医に怒られましたが、復職をなめてかかってはいけません。 休職・復職を経験した友人に 「半年は辛いから、無理しないでね」と言われていたのですが、 「自分は特別だから、大丈夫」とタカをくくっていました。 結果は友人の言うとおり、確かに半年は辛かったです。 今でこそ普通に出勤して仕事をしていますが、 それもがんばれる範囲で仕事しようという考え方ができるようになったお陰かもしれません。 復職にどれくらい時間がかかるかは、やってみないと分からないものなので、 半年は休みを挟みながらまったり会社に行こうくらいに思っておくと良いのかもしれません。 それくらいの余裕を持って、あまり自分を追い込まず、 自分のペースで進めればよいと思います。(p.256)『精神科・心療内科の上手なかかり方がわかる本』や『「うつ」からの職場復帰のポイント』、『「うつ」からの社会復帰ガイド』等と共に読むことで、より理解が深まると思います。
2014.10.14
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『神も仏もありませぬ』では、北軽井沢での生活が描かれていたが、 こちらでは、東京での生活が描かれている。 相変わらずの一人暮らしで、母上もまだ御存命。 妹さんやご子息も登場される。 この作品では、2003年からの6年間の様子を知ることが出来るが、 日々の暮らしの中にも、月日の流れが感じられる。 途中で母上が亡くなられ、この作品群を書き終えた2年後に佐野さんも亡くなる。 『神も仏もありませぬ』とは、その辺りの感触が違う。 *** 買ったのをすっかり忘れていた。 少なくとも二カ月毎日、日に何度もそれを見ているのだ。 背中の毛がゾロリと立った。(p.21)すっかり呆けてしまった母親を、長年見続け、自分自身にも、その兆候が次第に明確になっていくことを、極度に恐れている佐野さん。そして、夢を見る。 次の瞬間見えているものが、全部白い迷彩服になって、 迷彩服と脳がバーンとはじけて四方にとび散った。 私の脳みそはとび散って、世界は白いまだらだらけになっていた。 私の体も頭もとび散って、ただ白いもようがうようよと動くだけだった。 夢の中で、あー母さんは今こうなっているのだ、知らなかったと思い、 今母さんはこうなのだとわかり、そして、私は母さんと同じくらい呆けたのだと思った。 不安とか恐怖を超えてその様な状態があることを誰も知らないのだとわかった。(p.128)私は、この部分を、とてもリアルに感じてしまった。「ただの夢じゃないか」と言える人が、羨ましいと思う。 母さんは一日一日と少しずつ確かに人でなくなる。 母さんは呆けてきれいになった。 おかしなことに品までよくなった。 正気の時は乱暴でがさつでパワフルだった。 正気の時は私は母さんとの確執に苦しんだ。 私は母さんが人でなくなり始めて、母さんを許した。 正気の時に許せたらと思ったが、うまくいかないものだ。 私だけ得をしたような気がする。 「ねえ、あそこにほら白い人がいる」 「どこに」 「あそこ」。 白い人などいなかった。(p.141)そして、対人関係にも悩みを抱えている。いつも言い争いになって、言い過ぎて、後味が悪くなり、云わなければよかったと落ちこむ。自分自身でも「切れたら気狂いなのだ」と思っているのに。私は、次の部分も、残念ながら、とてもリアルに感じてしまった。 私なんか、よく友達が、付き合ってくれる、 みんな私の事を我慢して我慢して付き合ってくれているのだ。 あゝ始まった、始まったと思う事ばかりなのだろう。 他人が何か意見を発表すると私は必ずくるりと他人の意見と反対の場所に飛んでゆくのだ。 今思うとそれ以上云いつのって来る人は居なかった様に思う。 それが大人ってもんだろう。 わたしはどこで大人になりそこねたのだろう。 どんどん落ちこんでゆく。(p.188) あー私は友達が一人も居なくなってしまう。 もう嫌われ者の名前を聞いたら、「アアあの人ね」と云って笑われる。 文房具屋のおやじみたいになっちまっているのだ。 私は身もだえして汚い底なしの沼にとび込んだような気がした。(p.89)そして、気になる記述を見つけた。 あんたらも時間の問題なのよ。 私はガンより神経症の方が何万倍もつらかった。(p.113) もう息子が二十五、六になっていた時、私は自律神経失調症とウツ病で、 家でウンコ色の芋虫の様にころがっていた時、息子の友達が麻雀で遊んでくれた。(p.217)そうか……それは、知らなかったな…… 私は今、何の義務もない。 子供は育ち上がり、母も二年前に死んだ。 どうしてもやりたい仕事があって死にきれないと思う程、私は仕事が好きではない。 二年と云われたら十数年私を苦しめたウツ病がほとんど消えた。 人間は神秘だ。 人生が急に充実して来た。 毎日がとても楽しくて仕方ない。 死ぬとわかるのは、自由の獲得と同じだと思う。(p.247)私は、この部分については、まだリアルに感じることが出来ないでいる。
2014.10.14
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佐野さんは『百万回生きたねこ』の作者。 でも、『百万回生きたねこ』は読んだことがある人でも、 佐野さんの名前を覚えている人は、そんなに多くないのでは? かく言う私も、申し訳ないけれど、名前は全く覚えていなかった。 それでは、なぜ今回、佐野さんのエッセイを読むことになったのかというと、 それは、『定年後のリアル』という本で、本著のことが紹介されていたから。 そして、読書に先だって、ネットで調べてみると、 佐野さんというのは、とても興味深い人だということが分かった。そして、エッセイも鮮烈。穏やかな世界で生きておられるようで、実は内面にはこちらがおののく程の激しさがある。でなければ、人里離れた山村で、一人で暮らすなんてことは出来ないだろう。たとえ、それが様々な人々との交友で、日々が埋め尽くされているように見えていても。 呆けたら本人は楽だなどと云う人が居るが、嘘だ。 呆然としている四歳の八十八歳はよるべない孤児と同じなのだ。 年がわからなくても、子がわからなくても、季節がわからなくても、 わからないからこそ呆然として実存そのものの不安におびえつづけているのだ。 不安と恐怖だけが私に正確に伝わる。 この不安と恐怖をなだめるのは二十四時間、母親が赤ん坊を抱き続けるように、 誰かが抱きつづけるほか手だてがないだろうと思う。 自分の赤ん坊は二十四時間抱き続けられるが、 八十八歳の母を二十四時間抱き続けることは私は出来ない。 そしてやがて私も、そうなるだろう。 六十三でペテンにかかったなどと驚くのは甘っちょろいものだ。(p.18)佐野さんが、八十八歳の痴呆の母親について述べたものだ。母親が佐野さんに「おいくつでいらっしゃいますか」と何度も何度も尋ね、佐野さんは「六十三です」と何度も何度も繰り返す。そして、母親に尋ね返すと「四歳ぐらいかしら」と答えたのだった。 孔ちゃんの死が私にショックを与えたのは、今まで全く感じた事のないさびしさだった。 父が死んだ時とも、兄が死んだ時ともちがう。 私達が老いて、誰にも死が近づいている。 これからも生き続けるということは、 自分の周りの人達がこんな風にはがれ続けることなのだ。 老いとはそういうさびしさなのだ。 一カ月前床をたたいて泣いたのに、今、私はテレビの馬鹿番組を見て大声で笑っている。 生きているってことは残酷だなぁ、と思いながら笑い続けている。(p.154)一人で暮らすということは、こういうことに向きあう時間が、とても長くなるということ。そのことが、どんな文章のうちにも、強く感じられる。
2014.10.13
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先にドラマを見てしまってから読みました、 お話自体は、ドラマ化に当たって、そんなに変更されてないです。 本作では、柴田が登場していますが、ドラマでは登場していません。 本当は出演して欲しかったけれど、大人の事情でしょう。 実写化すると、原作のイメージを損ない、劣化するのが常ですが、 本作の場合、もともとドラマとしての「SPEC」の世界があって、 その上に乗っかって、本作が描かれ、ドラマ化された流れなので、 こちらが純然たる原作と、言い切れない部分もあるのかと。さらに今回は、私の場合、先に述べたように、ドラマを見てから本作を読んだので、どうしても、ドラマを基準にしながら、本作を見ることになってしまいます。結論、残念ながら、ドラマほどには、描ききれていません。お話しに、ほぼ変更がないということは、表現力の問題ということになるのでしょう。もちろん、紙幅の関係や、動画の方が色んな面でアドバンテージがあることを差し引いても、画力不足は、やはり致命的でした。動きのない世界で、動きを表現するということは、難しいですね。
2014.10.13
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昨夜から始まったテレビドラマを見たのだが、 ネット上では、かなりの酷評。 原作を実写化すると、間違いなく非難の声は上がるし、 原作が人気があればあるほど、そうなるのは常のことだけど。 私は、この作品の原作を全く読んだことがなかったので、 昨日、ドラマを見たときも「こんなものか」と思っただけだったのだが、 あまりの酷評振りに、まぁ一応原作もちょっと見ておくかということで、 今日、初めて「ぬ~べ~」を読んでみたわけである。まず、舞台設定が、原作は小学校、ドラマは高校ということで、もうこの時点で、お話自体が全く別ものになってしまう。現在の妖怪ブームに乗っかるのなら、小学校舞台の方がずっと自然な気もするが、そこは、色々と大人の事情で、こういうことになったのだろう。だから、もうこれは、タイトルや登場人物の名前は同じだけれど、全く別のお話と割り切って、ドラマの方は見た方がよい。私は、ドラマも原作も、昨日と今日の二日間で見たり読んだりしただけなので、どちらにも深い思い入れがないから、そんなことが言えるのかもしれないが……原作の方では、カッパのお話しが面白かった。これは、多分ドラマの方でも採用されるだろうなと思ったが、さて、どうなるだろう?丸山君も、あまり原作にとらわれすぎず、自分の「ぬ~べ~」を演じて欲しい。
2014.10.12
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新聞で、若者の就職に関する書籍として、 本著のことが紹介されていたので、読んでみました。 著者の本田さんのお名前は、よく拝見するので、その著作も読んだことがある、 と思っていたのに、今回調べてみると、何と一冊も読んでいませんでした。 さて、「ハイパー・メリトクラシー」は、本著の中で度々登場する言葉。 それは、非認知的で非標準的な、感情操作能力とでも呼ぶべきもの(いわゆる「人間力」)が、 個人の評価や地位配分の基準として重要化した社会状態を意味しています。 これは、認知的な能力(頭のよさ)よりも、意欲や対人関係能力、創造性など 人格や感情の深部、人間の全体におよぶ能力を、評価の俎上に載せています。著者は、この「ハイパー・メリトクラシー」が、若者に対し厳しい負荷を突きつけており、労働市場改革や福祉の拡充だけでは、対抗策として不十分であると言います。そして、「進路選択」という不可避の課題に対処する手掛かりを得るためには、「柔軟な専門性」という概念と、それに基づく教育面・労働市場面での施策が有効としています。また「やりがいの搾取」という言葉も、頻繁に登場します。 「好きなこと」や「やりたいこと」を仕事にすることが望ましいという規範は、 マスコミでの喧伝や学校での進路指導を通じて、 すでに若者のあいだに広く根づいている(1.趣味性の素地)。 しかし、実際には、企業組織内のハイアラーキー(ピラミッド状の階層構造)の 底辺部分に位置づけられて、何の権限も与えられないことも多い若者にとって、 裁量性や創意工夫の余地がある仕事は 希少価値をもつものとして憧憬の対象となっている(2.ゲーム性の素地)。 また、日本の若者のあいだでは、 自分の生きる意味を他者からの承認によって見いだそうとするためか、 「人の役に立つこと」を求める意識がきわめて強い(3.奉仕性の素地)。 さらに、「夢の実現」などの価値に向かって、 若者が自分を瞬発的なハイテンションにもっていくことによってしか乗り切れない、 厳しく不透明な現実も存在する(4.サークル性、カルト性の保持)。 これらの素地につけいるかたちで、「<やりがい>の搾取」が巧妙に成立し、 巻き込む対象の範囲を拡大しつつあるのが現状だと考えられるのである。(p.100)バイク便ライダー、コンビニのアルバイト、ケアワーカー、居酒屋のアルバイト。こういった仕事が、1~4の素地を具体化する仕事として例示され、企業にとって、きわめて好都合な「自己実現系ワーカホリック」の若者が生み出されている様子を、説明してくれてくれています。 すなわち、短時間労働者は、時間的な自由度を得る代わりに、 収入や安定性を犠牲にせざるをえない。 長時間労働者は、没入できる仕事を得る代わりに、他の生活を犠牲にせざるをえない。 そして、中時間労働者は、安定を得る代わりに可能性や自由を犠牲にせざるをえない。 このように、いずれの働き方においても、仕事に関わる重要な何かと引き換えに、 別の重要な何かを手放さざるをえないような状態が生じているのだ。(中略) そして、代償の中身が立場によって異なるために、 働く者はたがいのつらさがわかりにくく、 むしろ自分とは違う層への羨望混じりの憎悪をかき立てられることになる。(p.152)これなどは、若者の問題ではなく、労働者全体に関わる問題です。ただ、これを一朝一夕に解決することは、間違いなく無理でしょう。ひょっとすると、どこまでいっても完全に解決など出来ない問題のような気もします。それでも、ちょっとでもマシな状態に、一歩ずつ踏み出していくことが重要だと思いました。
2014.10.10
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定年後の暮らしに関するマニュアル本かと思っていましたが、違いました。 マニュアル的なことなんて、一切書いていません。 書いてあるのは「自分のことは自分で考えるしかない」ということだけです。 あとは、著者自身のことや、世間のこと。 それでも、どんどん読み進めてしまいます。 それは、本著が、とてもリズムやテンポが良い文章で、読みやすいから。 ここまで、気持ちよく読むことができる本は、なかなかないでしょう。 お手本にしたくなるような筆力です。 *** いったい定年になってなにを失ったのかと数え上げると、その細目はこんなものである。 1.仕事(当然)、2.給料(当然)、3.目標意識、4.仕事仲間との会話・つきあい。 5.定期券、6.不自由(拘束時間)、7.仕事上の人脈、8.名刺。 ほかに仕事にまつわるものとしては、9.達成感、10.評価、11.仕事上での空虚感、 12.部下や上司から名前を呼ばれること、13.自負感、 14.スケジュール手帳(手帳)などなど。 ようするに、あなたはいまや何者でもないのである。 なんの肩書きもないただのおじさんになってしまったのだ。(p.29)この辺りは、「そうなんだろうな」と普通に読み進めたのですが、 ところが退職してわかったことは、たしかに毎日楽ではあるが、 これといってとくにどうということはないということだった。 毎日が日曜日は、思ったほど、心弾むようなことではないのである。 あっても最初だけである。すぐ慣れる。常態化する。 恋愛感情が冷めていくのとおなじである。(p.31)「毎日毎日じゃ、そうなっても不思議はないかな」と思ってしまい、 そもそも「好きな時間に起きて、好きなものを食べて、好きなところに行って、 好きなことをして、好きな時間に寝る」というのがただの観念であり、 なんの実態もなかったのである。(中略) 結局、好きな時間に起きて、好きな時間に寝る、 ということだけが退職後の実態である。(p.35)「そうか、起きる時間と寝る時間を、自分で決めることが出来るだけなんだ」と気付かされ、 そして、その残った自分ひとりの時間がこれまた長い。 夢中になっているときの一時間はあっという間だが、 暇をつぶすための一時間は中々過ぎて行かないのである。 なにをしても、やっぱり残ってしまうひとりの時間。 こいつをどうするか。 こんな室内でゴロゴロしているだけではだめだと屋外に出たはずなのに、 結局また室内に戻ってきてしまうのだ。 外に出れば出たで、電車に乗るにも喫茶店に入るにも、 美術館や展覧会や映画に行くにも、安い昼食をとるにも金がかかる。 自由とはじつに金のかかる代物である。(p.111)「そうですよね。結局何をするにも、お金がかかりますもんね」と納得するしかなく、 つまらないことだが、三日間絶食をしてみた。 食は生活の句読点であり、それが失われると一日はのっぺらぼうの時間になる。 それが失われると生活における楽しさの大半が失われる、ということに気づいた。(p.164)「それでも、食べることだけは止められない」と思い至る。そして最後は、 わたしが死んでも、たったひとつの命が消えて行くだけのことである。 大したことではない。 わたしにとっては大したことだろうが、世界にとってはまったく大したことではない。 この世はつねに生きている者たちのものである。(p.230) ***著者の村上春樹さんと村上龍さんに抱く思いには、「そうですよね!」と、思わず共感しました。有川浩さんに対する突っ込みも「なるほど!」と頷きました。もちろん、上野千鶴子さんへの数々のお言葉も。
2014.10.10
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『「うつ」は病気か甘えか。』で、名著として紹介されていたので読んでみました。 結論を言えば、間違いなく名著です。 『「うつ」は病気か甘えか。』の著者のスタンスから、 薬剤使用に否定的な内容を想像していたのですが、そうではありませんでした。 それなりの心理的理由があっておこる心理的反応ではなく、 ひとりでにおこる種類のうつ病。 「第三者にわかりにくい程度」のうつ病、 それを「軽症うつ病」と本著では呼んでいます。 そして、そこに登場する人たちの呈する症状や感覚は、 私がこれまで読んだどの本に書かれていたものより、ピタッとフィットするものでした。 *** 「ゆううつ」が「不安」と「おっくう」を伴ってこういう三角形の構造をもっているとき、 それに何週間も耐えつづけることは ファイトと能力を兼ね備えたこの男にさえむつかしかったのです。(p.21)この男というのは、著者の長い友人である55歳のサラリーマンで、大製造業界の責任ある地位に就いていた人物です。 夜中に目が覚めて、あとが眠れない。(中略) この夜中の陰気な気分、悲しい気分は、朝まで尾をひき、 目が覚めているのにおきあがる気力が出ない。(中略) 食事もうまくない。 もちろん責任上欠勤はしないが、職場に出ても仕事に手をつけるのが「おっくう」で困る。 やっと仕事に手をつけても、すぐにイヤになる。(p.23)とにかく、職場に辿り着くまでが一仕事。さらに、着いたら着いたで、仕事にならない…… その上、ときにイライラしてくる。 身体がそうなるのか心がそうなるのか、そのところははっきりしないのだが、 とにかく、じっとしていられない。 人にわからないように、そのあたりをウロウロしてみたり、体操をしてみたり、 ため息をついたりしてごまかしている。(p.24)このイライラ、じっとしていられない症状については、この男性だけでなく、他の女性の症状でも、示されています。 イライラする。こうして椅子に座っていても、じっとしていられない。 身体のイライラなのか、心のイライラなのかよくわからない。 いつもイライラといっしょに不安がある。 理由がないのに不安とイライラが湧いてくる。 イライラしだすと溜め息ばかりがでてくる。(p.94)椅子にじっと座っていられないことは、想像以上にとても辛いことです。家にいても、職場にいても、電車やバスの中でも、座り続けることが出来ません。家の中なら、横になってしまうことも出来ますが、他の場所ではそうもいきません。電車やバスの中では立っていればいいですが、職場ではデスクワークが出来ません。さらに、同じ場所で、じっと立っていることが出来なくなると、もっと困ります。ずっと手足のどこかを小刻みに動かすか、先の男性のようにウロウロすることになるからです。さらにさらに進むと、じっと横になっていることさえ苦痛になってきます。こうなると、寝ることもままならなくなってしまいます。 たとえば、少し「おっくう」になり仕事の能率がおちると、 能率を維持するために一段と入念に仕事をしたり、 時間を延長して残業を増やしてしまう人がいます。 上司の目を気にしてそうするというよりは、そうしないと自分の気がすまなくなるのです。 中年期にはじめてうつ病になる人のなかには、後に述べますが、 元来几帳面で仕事熱心な性格傾向の持ち主が少なくありません。 彼らは「ゆううつ」が始まると、持ち前の几帳面さを増強させます。 むしろ意地になるのだ、という人さえいます。 休息すればよさそうなのに、休息しにくくなります。 そうして、引き返しにくいところまで心の疲れを増幅させていきます。(p.70)「そうしないと自分の気がすまなくなる」ところまでくると、もうどうしようもありません。しなくてもいいことまで、しないではいられなくなってしまいます。自分でも、してもムダなことだと分かっているのに、それを止めることが出来ません。しないままにしておくと、不安で不安でしかたがなくなるからです。 この婦人は自分から夫を説得してやってきました。彼女はいいます。 「ゆううつ」気分は外見から推測するよりはずっと苦しい体験だったから、 精神科であっても治してもらえるならどこでもいくという気持だった、と。(中略) むしろ、紹介する人のほうが、精神科へ、といったら患者さんに失敬ではないか、 嫌がられないか、と心配顔のことが多いようです。(p.39)自分で自分をコントロールできなくなる、自分が自分でなくなる感じ、さらには、やるべきことをやらないと、不安で不安でしかたがないのに、それが、自分の手でどうしてもやれなくなってしまったら、もうお手上げです。「治してもらえるならどこでも行く」というのは、率直な気持でしょう。 「おっくう感」はうつ病にとって 先の「不安・イライラ」「ゆううつ気分」につづく第三の大事な精神症状です。(中略) ただ、こうした外面的な抑制症状は軽症うつ病ではそれほど目立ちません。 しかし、外的ならぬ内的な、 つまり主観的心理的な抑制症状は軽症の段階ですでにはっきりあります。 ここで「おっくう感」というのがそれです。(中略) また表現しようとしても言葉のうえでは、 ごく普通の倦怠感をあらわす以上の表現が容易にみつからないのも、 他人に伝達されにくい一因でしょう。 しかし、困ったことにこの症状は「不安感」や「ゆううつ感」が消えたのちにも、 最後までしつこく残ることが多いのです。 そういう場合、専門家ですらそのどこまでが症状で、 どこからが怠け心なのか、区別しにくいことがあります。(p.102)この「おっくう感」が最後までしつこく残るというのも、辛いところです。自分自身でも、それが症状なのか怠け心なのかが分かりません。以前なら、簡単に出来ていたことが出来ない、する気にすらならない。「自分の弱さ」のせいではないかと、ここでも苦しむことになります。 ***全体を通してとても丁寧な表現で、著者の診察・治療に対する真摯な姿勢が滲み出ていました。精神医療に携わっている方が、著者のような方ばかりだと本当に素晴らしいのですが……最初は、タイトルにある「軽症」という言葉に、いわゆる「新型うつ病」を扱った書籍だと勘違いしてたのですが、全く違いました。「うつ」に関わる方には、間違いなく必読の一冊です。
2014.10.10
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研修医時代に、激務のため「うつ」になった著者が、 自身の7年間の苦しみの末に見出した「ウツを消し去る方法」を紹介する一冊。 序章で自身の体験を、第1章で「メンタルセラピー」について述べた後、 第2章から第5章までで、ウツを消し去る20の習慣について説明しています。 薬とカウンセリングに頼っていた著者は、一冊の本との出会いで変わります。 それは、ジェームス・スキナーの『成功の9つのステップ』という成功哲学の本。 「医者はもともと病気の専門家で、健康のことについては何も知らない」の記述を見てから、 著者は考え方や食生活等を変え、ウツを克服したと言います。紹介されている20の習慣は、いたってシンプルなものと言えるでしょう。ただし、読んでいて「なるほど!!」というようなものは少なく、「ストン」と腑に落ちるというより、「ボヤ~ッ」として捉えどころがない感じ。「で、具体的にはどうすれば?」と聞き返したくなるところが多かったです。つまり、本著は「うつを消し去る習慣」を教えてくれるというよりは、「ウツを消し去るには、こういうふうな考え方にすると良いですよ」ということを教えてくれる本です。まぁ、そういう風に考えをパッと切り替えることができれば、苦労はないのですが……この「考えを切り替える」ため、何をどうすればいいのかを、もう少し具体的に書いて頂けると、有り難かったです。
2014.10.10
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「いちがいもんの花」は、四姉妹がすずの叔母の家がある金沢を訪れるお話。 幸と佳乃は、叔父・叔母と共に、親戚と相続の話し合いに臨むが、 すずと千佳は、従兄の直人と金沢観光に出かけることに。 そして、叔父や叔母とは、良好な関係を築くことが出来たのでした。 「逃げ水」は、「こんなはずじゃなかったのに」がテーマのお話し。 二ノ宮さんの弟も、坂下課長も、幸も佳乃も、 それぞれに、「こんなはずじゃなかったのに」と思っていることが。 「夢や理想はモチベーションになるけど、終点じゃない」という泰之の言葉が印象的。「地図にない場所」は、直人が鎌倉にやってきて、すずと風太の案内で「糸切屋」というアトリエを訪ねるお話し。途中、道に迷いながらも辿り着いたアトリエで、女性作家に出会う。そこは、直人にとって大切な「地図のない場所」になりそうな予感。「肩越しの雨音」は、すずに掛学から特待生のオファーが来たお話し。そして「四月になれば彼女は」は、その続編。 やっと見つけた居場所から出ていくことに 不安があるんじゃないかな 悩んだり立ち止まったりできる場所が 今はある それは決してなくならない それがわかれば きっと前に進めます 坂下課長が佳乃に言ったこの言葉が、これから先の展開を教えてくれます。それにしても、坂下課長は、何か重いものを引きずっていて、謎の影の部分を持ちながら、色んな場面で、キーパーソンの一人になっています。吉野が恋をするのも、よく分かります。
2014.10.07
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凄く興味をそそられるタイトル。 一つのチームで長年指揮した人や、複数チームで指揮した人なら このタイトルで、書こうと思えば、書ける人は結構いると思う。 でも、商売になる本に仕上げることが出来るのは、やっぱり野村監督。 目次を見るだけでも、圧倒される豪華メンバー。 さらに、2013年のWBCで指揮したオランダとキューバの監督も教え子。 野村監督が指導して育てた選手たちは、指導者としても大活躍。 まさに、日本の野球を変えた人物。それぞれの選手の記述も面白かったが、やはり深みがあるのは、自身のことについて述べた部分。どのようにしてID野球が形成されていったのかという、野村監督の歩みに触れることができる内容。また、実際に自分の目で見たかったと思ったのは杉浦投手のピッチング。それに加え、野村監督の教え子ではないけれど、宮本遊撃手の所で出てきた遊撃手・吉田義男、三塁手・三宅秀史、二塁手・鎌田実に、ノッカー・藤村富美男の試合前の伝説のノック。野村監督の著作で、こんなところに登場するくらいだから、本当に凄かったのだと思う。吉田さんと鎌田さんのプレイは、うっすらと記憶にあるのだが、とにかく上手かった。三宅さんの守備や藤村さんの打撃が、全く記憶にないのが本当に残念。
2014.10.07
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「うつ」に関する書物は多数出版されており、 私も、ほどほどには、これまでに読んできました。 しかし、「そう」ということになると、状況は違います。 私も「躁」だけを扱った書物を読むのは、本著が初めてです。 著者の春日先生によると、「鬱」が「心の風邪」なら、 「躁」は「心の脱臼」というイメージだそうです。 なるほど、同じ「うつ」でも、「単極性障害」より「双極性障害」の方が、 色々とたいへんだということと、通じるものがあるのでしょう。本著の内容は、次のようなものです。 第1章では、躁を構成する三大要素として全能感・衝動性・自滅指向を挙げた。 第2章では、躁の世界は光があっても影がなく、騒がしく休むことを知らないと記した。 またあるタイプの奇人たちと躁的な要素との関連、俗物臭やキッチュとの関連、 更には老年期に生じがちな精神の偏重との関連を述べた (このテーマは本章で、暴走老人との絡みでふたたび語った)。 第3章では、小説や作家を題材に躁の生々しい実際を眺めてみた。 また躁と「うつ」との対比から、人の心の不可思議さを考察してみた。 第4章では、犯罪や事件と躁との関わりを追った。 単に「訳の分からない事件」として扱われているものの中には、 躁病という角度から眺めることで理解の及ぶケースが 散見されることが納得いただけたことと思う。 そして、この第5章では、自己愛と躁との類似について述べたあとで、 暴走老人たちの異常な言動について躁的心性を手がかりに解釈を試みたのであった。(p.157)そして、第6章では、躁病の診断と治療について述べています。中でも興味深かったのは、第3章で取り上げられた有吉佐和子さんや中島らもさん、幸田文さんのエピソードや、第4章で取り上げられた放火事件やハイジャック事件についての記述でした。
2014.10.07
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「彼岸会の客」は、すずの母親の妹が、訪ねてくるお話し。 それは、すずの祖母に当たる人物が、孫に残したお金を渡すため。 すずの母親が亡くなったとき、葬儀にも来なかった家からの突然の訪問者に 4姉妹は、不穏なものを感じ身構えていたのですが…… そこで、すずの叔母が語ったのは、母親と祖母との関係、 そして、すずの母親が、すずの叔父に当たる兄に言った言葉。 私は浅野さんの家族から夫と父親を奪ってしまった。 そのうえ、すずという宝物まで授かったから、これ以上もらうわけにはいかない「秘密」は、二ノ宮さんの病気と、裕也のオクトパス退団をめぐるお話し。そのことに気付き、そのことを知った者が、それを別の人に明かせないの心の葛藤。「群青」は、それを受けてのお話し。裕也は、オクトパスに残って、風太の助手を務めることになり、二ノ宮さんは、幸が主任を務めるストレス緩和病棟で亡くなる。このお話しでは、二ノ宮さんが亡くなる前に、坂下が佳乃に言った言葉が印象的。 でも 神様は人の事情を いちいち考えてはくれない だから神様は ありがたくて…恐ろしいんでしょうね さっそく新しい提案を考えましょう もちろん二ノ宮さんの案件です 神様が考えてくれないなら こちらが考えるしかないでしょう「好きだから」は、幸が乳腺外来で細胞診を受けるお話し。その中で、幸は患者の立場について知り、考えることに。 病気はすごく個人的なことだ 病む者の気持は やはり本人にしかわからない どんな現実も 結局はひとりで向きあわなくてはならないのだ 当事者に寄りそおうとするのと 当事者になるのとでは 天と地ほども違いました 患者になるって こういうことなんだって はじめてわかった気がしました 少しでも患者さんの心に寄りそえたら……と思っていたつもりでしたけれど しょせん ひとごとだったんですね 傲慢でしたこの言葉に対する、二ノ宮さんの彼氏・山猫亭の福田の言葉。 ひとごとで かまわんのとちゃう? 看病するもんが 病人といっしょにヘタレてしもたら 困るのは病人や しょせん代わりに痛い思いしてやることも 死んでやることもできひんのやし 大阪のおばちゃんやったら アメちゃんあるで- なめとき-て よーわからんこと言うかもしれへんな けどアレで あんがい役に立つもんやで 病気は治らへんでも アメちゃんでもなめとこかなー思うこともあるよってな幸は、この言葉と泰之で、けっこう復活しました。
2014.10.03
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「帰れないふたり」で、幸は椎名と別れ、 「ヒマラヤの鶴」で、千佳の勤務先店長・浜田三蔵が裕也を救い、 「聖夜に星降る」では、すずと風太が益々その距離を縮め、 佳乃は上司・坂下のハンドルネームが「えびす」だと知る。 そして「おいしいごはん」で、幸は井上泰之とメルアドを交換し、 すずは、かつて父と母がカフェー・山猫亭に来ていたことに気付く。 やはり、この作品は、幸とすずが主役で、佳乃と千佳は脇役。 特に千佳は、その描かれ方が浅いので、もうちょっと活躍させて欲しい気も。そして裕也も、「ヒマラヤの鶴」は彼の心の葛藤が描かれているお話しのはずなのに、何故か存在感が希薄で、以後その度合いは、すずと風太の関係が進むほどに減じていく。まぁ、あれもこれもになると、全体がとっちらかって収拾がつかなくなるから、仕方がないと言えば、本当に仕方がないんですけれどね。
2014.10.02
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「思い出蛍」は浅野すず、「誰かと見上げる花火」は幸・佳乃・すず、 「陽のあたる坂道」は浅野すず、「止まった時計」は幸がメイン。 3巻になって、いよいよお話しが動き始めた感じです。 それぞれが元居た場所から、一歩を踏み出そうとしているところ。 「なんか いくら努力してもどうにもならないことってやっぱあるけど だからって別に終わりじゃないんだなって」というすずの言葉。 「止まっていた時間はもうおしまい いつか自然に好きな柄のカーテンを選べるようになる」という幸の願い。今巻で一番カッコ良かったのは、やっぱり風太かな。
2014.10.02
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「花底蛇」は藤井朋章、「二人静」は多田裕也、 「桜の花の満開の下」は尾崎風太、「真昼の月」は香田幸がメイン。 それぞれに、背負っている過去や現在、未来があり、 その中で、必死で藻掻きながら生きている姿に、強く胸を打たれます。 また、お話しの舞台となっているのが、鎌倉の街というのもピッタリ。 北鎌倉を舞台とする『ビブリア古書堂の事件手帖』で感じるものと、 共通する空気を、この作品から感じました。 まぁ、単にイメージだけですけれど……。中でも、本著のタイトルにもなっている「真昼の月」の香田幸のお話しは、今巻のメインとなった4人の中で、最年長であるためか、背負っているものの深みが濃く、複雑であるように感じました。実写版で、綾瀬さんが演じきれるかな?
2014.10.02
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2013年度の漫画大賞受賞作。 ずっと読みたかった作品を、やっと読むことが出来ました。 感想は「流石!!」の一言。 凄く良かったです。 長女・幸、次女・佳乃、三女・千佳、 そして、父親の死後、同居することになった腹違いの妹・すず。 この四姉妹のキャラが、それぞれ見事にたっています。 それぞれのシーンで、じわっと伝わってくるものがあります。マンガと言うより、映画やドラマを見ているよう。2015年に実写映画が公開予定だそうですが、「そりゃあそうでしょ」という感じ。キャストは、幸を綾瀬はるかさん、佳乃を長澤まさみさん、千佳を夏帆さん、そして、すずを広瀬すずさんが演じ、監督は是枝さん。藤井朋章や湘南オクトパスのメンバーを、誰が演じるのかも楽しみです。
2014.10.02
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「おまけ4コマ」が、その1からその3まで、 さらに「Break time」や「パロディマンガ」と、 これまでになく本編以外のものが目立った今巻。 どうなんでしょうか……。 また、本編もちょっとインパクトが弱くなってきたような気も。 ギャグというか、お色気というか、そちらはエスカレートしてるのに、 「精神医療」というものからは、距離が出来つつある感じ。 まぁ、ターゲットからすれば、これで良いのでしょうけれど。でなければ、コミックスが11巻出せるほど、連載が続きませんものね。そう、こういうマンガだと割り切って読むことです。そうすれば、「セルフモニタリング」も「葬式躁病」も「LOH症候群」「スキーマと自動思考」「ダブルバインド」も興味深いものです。
2014.10.01
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この作品も10巻目。 スタートした頃の内容は、確かに心療内科で扱われるものが主でしたが、 次第にその守備範囲は広くなり、精神医療というより心理学っぽい感じが……。 でも、もちろん参考になるところは多いです。 例えば「フランクルの心理学」。 「人生の意味とは?」なんて、哲学っぽい。 そこで登場する「体験価値」「創造価値」「態度価値」。 この「3つの価値」が、生きる意味を探すヒントになると言う。何かを「体験」する価値。何かを「作り出す」価値、出来れば世界や人のためになるものを。そして、心の中で「意味」を考え続けること。3つめなんか、まさに哲学です。本巻では、睡眠薬や抗不安薬についてのお話しもあり、「ベンゾジアゼピン」や「GAVA」が登場します。これなんかは、この作品の本筋のお話しですよね。精神医療の授業で使えそうです。
2014.10.01
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「上方比較・下方比較」「反論思考」「セルフ・ハンディキャッピング」 「シュビッツバートの決断技術」等が本巻で扱われている内容。 「Eの心理テスト」は、テレビ番組でもやってましたね。 ひょっとして、この本が元ネタ? と言うこともないのでしょうが、この作品を教科書に使っての授業って…… まぁ、精神医療のエピソードの導入には使えるかと思いますが、 果たして、これで学んだ学生さんには、何が一番頭の中に残るのでしょうか? そこまでしないといけないとは、大学の先生も、色んな意味で大変ですね。さて、本巻の中では「認知のゆがみ」が、私は最も印象に残りました。「過度の一般化」に陥る三つの言葉、「いつも」「みんな」「絶対」。でも実際は、「いつも」じゃないし、「みんな」じゃないし、「絶対」じゃない。そのことに気付くことが大事なのですね。
2014.10.01
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