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「神秘学の記号と象徴」そのアストラル界と霊界との関係第一講:シュトゥットガルト 1907年 9月13日秘学(オカルト/occult)の記号とアストラル界・霊界との関係Ⅱ叡智の像としての光 預言者や宗教家が光について語り、光によって叡智を表そうとするとき、このことを単に彼が思いついたとか、才気煥発であろうとしてこのような表現を用いたとか考える必要はありません。神秘学者は事実に立脚しているのであって、才知に富んでいるということは重要ではないのです。ただ真実であろうとするのみです。神秘学者として人は、無秩序な思考をする習慣を捨てねばなりません。すなわち、恣意的に結論を引き出したり、判断を下してはならず、一歩一歩霊的な事実を手がかりに、正しい思考を発達させていかねばなりません。こうした光についての形象にもきわめて深い意味があり、ひとつの霊的な事実です。このことを認識するために、再び人間の本質に目を向けてみましょう。ご存じのように人間の本質の第三の構成要素はアストラル体であり、喜びと悲しみ、歓喜と苦悩、衝動、熱望と激情といった人間の内的魂的な体験が有するすべての担い手です。植物にはアストラル体がなく、従って人間や動物のような喜びや悲しみは感じません。今日、自然研究者が植物の感情について語るとき、そもそも感情の本質について完全な誤解に基づいています。アストラル体の正しい表象は、時代の経過とともにアストラル体の遂げてきた進化を追求するときにのみ得られます。すでに以前、大宇宙での進化との関連における人間の進化を考察いたしました。その際、人間の物質体が人間本性の最も古く最も複雑な構成要素であること、エーテル体はそれほど古くなく、アストラル体はもっと若く、自我にいたっては人間本性のうち最も若いものであることを見てきました。その理由は、物質体はその進化においてすでに地球の四つの惑星状態を経てきたからです。私たちの地球が以前、土星状態と呼ばれる受肉状態にあったとき、すでに物質体は原基の状態で存在していました。その当時、はるか昔ですが、地球はまだ固体ではなく、人間はまだ今日の形態をとっていませんでした。ただ、その土星上には物質体の原基があったのです。けれどもエーテル体、アストラル体といった他の体はまだありませんでした。地球の第二の受肉状態、太陽上ではじめて人間にエーテル体が付与されました。当時、人間のエーテル体はきわめて明白に五芒星の形態を有していました。後にこの星の第三の受肉状態、月上でアストラル体が付加されることにより、これはいくらか修正されました。さらに月は、地球へと変わり、以上の三体に加えて自我が登場します。さて、私たちは次のように問うことができます、これらの体は人間本性に受肉する前にはいったいどこにあったのか。例えば、太陽上でエーテル体として物質体の中に組み込まれられたものは、古い土星上ではどこにあったのか。エーテル体というものもどこからかやってきたのに違いないのが答えでしょう。エーテル体は、土星の周囲にあったのです、ちょうど今日、地球の周囲に大気があるように。後になって人間に組み入れられたものは、すべて古い土星の周囲に、気圏内にすでにあったのです。同様に、太陽においては、月上ではじめて組み入れられるアストラル体が周囲にありました。古い太陽を次のように表象することができます。太陽は今日の地球のような岩石、植物、動物から成り立っているのではなく、太陽上に存在していたのは二つの自然領域でした。太陽上に見いだせる存在、人間は、どうにか人間的な植物といったところで、こうした存在とともに、古い太陽上には、一種の鉱物もありました。けれどもこの古い太陽を現在の太陽と混同してはなりません。古い太陽は厚い流動するアストラル的な外被に取り巻かれていました。古い太陽はいわば、アストラル的な空気の覆いに囲まれていて、このアストラル外被は光輝いていました。古い太陽上の舞台はこんなぐあいだったのです。今度は再び、物質体、エーテル体、アストラル体と自我を有する今日の人間を考察してみましょう。さてこの自我がアストラル体へと働きかけて、これをよりいっそう知的、道徳的、霊的な関連において浄化すると、このアストラル体から霊我ないしマナス(manasは人間の心、知性、自我を司っている不可視の身体である。英語のmindに相応)が生じます。はるかな未来、今日ほとんど始まっていないこのことが完了されたときには、このアストラル体が「物質的に」輝きを発することでしょう。植物がすでに自らの内に新しい生命の萌芽を宿しているように、アストラル体もすでに光の萌芽を宿しています。いつか人間が自らのアストラル体をもっともっと純化し、浄化しきったあかつきには、この萌芽が宇宙空間へと光を発することでしょう。この地球は、別の惑星へと変容するでしょう。今日の地球自体は暗いのです。外部から観察することができたとしたら、地球はただ太陽の光を反射して明るく見えるだけだということがわかります。けれども、いつか地球自体が光輝くようになるでしょう。そのときには、自らのアストラル体全体を変化させてしまっている人間によって光輝くのです。すべてのアストラル体の総計が光となって、宇宙空間に光を放つことでしょう。古い太陽の場合もそのような状態でした。古い太陽の住人は、現在の人間たちよりも高次の存在たちで、これらの存在は光輝くアストラル体を持っていました。聖書において非常に正確に光の霊あるいはエロヒムと呼ばれたこれらの存在は、そのアストラル本性を宇宙空間に放射していたのです。さて、人間が自らのアストラル体に組み入れたものは何なのか、と問うならば、答えは、それは私たちが善、聡明さと呼ぶものだ、それを通して人間は自らのアストラル体を高貴にするということです。私たちがまだ食人種の段階にあり、すべての激情に盲目的に従う未開の人を観察するとき、そしてその人は何によって高度に進化した人間と区別されるのかと問うとき、こう言わざるを得ません、文明人はすでに自らのアストラル体に働きかけてきたが、未開の人はまだそうしていないという点で区別されると。自らの激情や衝動を、これには従ってよい、別のはいけないと自らに言い聞かせるほどに把握している人は、道徳的な概念や理念を形成しています。つまりこれがアストラル体を変化させ高貴にするということなのです。人間は受肉を重ねつつアストラル体に働きかけることにより、ますますいっそう前述の光輝く存在へと自らを高めていきます。これは「叡智の働きかけ」と呼ばれます。アストラル体の中に叡智が増せば増すほどアストラル体は光輝を増します。あの太陽上に住んだ存在、エロヒムたちは全き叡智に貫かれていました。私たちの魂と肉体との関係は、ちょうどこの光と叡智の関係なのです。光と叡智の関係は考案されたイメージではないということがお分かりいただけたでしょう、これはひとつの事実に基づいており、ひとつの真実なのです。光は事実叡智の身体なのです。こうして私たちは、宗教的な古文献が光について叡智の形象化として語っていることを理解できるようになります。哲学・思想ランキング
2023年09月30日
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「神秘学の記号と象徴」そのアストラル界と霊界との関係第一講:シュトゥットガルト 1907年 9月13日秘学(オカルト/occult)の記号とアストラル界・霊界との関係Ⅰ人間の記号としての五芒星(ペンタグラム/pentagram) 五芒星(ペンタグラム)を考察してみましょう。ご存知のように五芒星についてはあれこれ詮索され解釈されておりますが、神秘学においてそういうことは問題になりません。神秘学者が五芒星について語ることを理解するためには、まず人間の本質の七つの基本要素を思い起こさなくてはなりません。ご存知のように、人間の本質は、七つの基本要素として物質体、エーテル体、アストラル体、自我、さらに霊我、生命霊、霊人(神智学文献では後三者はマナス、ブッディ、アートマ)から成ります。手で触ることのできる物質的なものである物質体は除外しましょう。ここでとりわけ考察の対象になるのは、エーテル体です。エーテル体はすでに物質的な感覚にとっては隠されたもの、いわゆる「オカルト的なもの」に属します。通常の目ではエーテル体を見ることはできないからです。エーテル体を知覚するには霊視的な方法が必要です。実際にエーテル体を見ることができたら、むろん物質体とは全然違うものです。エーテル体はたいていの人が想像するような希薄な物質的身体、一種の微細な霧の塊といったものではありません。エーテル体の特徴は、浸透してくるさまざまな流れから構成されているということです。エーテル体は実に物質体の建築家、形成者なのです。氷が水から形成されるように、物質体はエーテル体から形成されます。このエーテル体はあらゆる面に向かって、海のように流れに貫かれているのです。それらのうち主な流れが五つあります。両手両足を開いて立ってごらんなさい。人間の身体はこの絵のように表されます。この五つの流れを人間はひとりひとり自らの内に隠し持っているのです。これらの流れが矢印に示された(図参照)方向にエーテル体を貫き、いわば人間のエーテル体の骨格を形成しているのです。絶え間なくこれらの流れはエーテル体を通過し、これはその人が動いているときも変わりません。どんな姿勢をとっていようと、常にひとつの流れが、額の中心、眉間の一点から発して右足へ下り、そこから左手へ、さらに右手へ、それから左足、そこから再び額へもどります。五芒星と呼ばれるものは、エーテル体の中で人間の物質体そのもののように内的に動いているのです。ですから神秘学者(オカルティスト)が五芒星について、人間の図形として語るとき、それはあれこれ思案して作り出された何かのことを言っているのではなく、解剖学者が骨格について語るのと同じなのです。この図形は、現にエーテル体の中に存在していて、ひとつの事実なのですから。こうしたわずかのことからも、ある記号の実際の意味がどのようなものであるかがわかるのです。神秘学において皆さんが出会う記号や形象はすべてこのような真実に導いてくれるものです。五芒星は、エーテル体の動く「骨格」であり、それゆえ人間の図形なのです。これがこうした記号の本当の意味なのです。図形や記号を用いる正しい指針を少しずつ獲得すると、それらは人間をしだいに霊的世界の認識に導き、霊視力を獲得させる手段となります。瞑想において五芒星に沈潜する人にはこれらのエーテル体内の流れの道筋が見いだされます。これらの記号の恣意的な意味をあれこれ考え出すのが目的ではありません。瞑想においてこれらの記号と関わるとき、ただし、忍耐強く行わねばなりませんが、秘められた真実に導かれます。これは、あらゆる形象や記号と同じく、皆さんがさまざまな宗教的古文献の中に見いだすことのできるものにもあてはまります、こうした形象は、深く神秘学に根ざしているものだからです。哲学・思想ランキング
2023年09月29日
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「神秘学の記号と象徴」そのアストラル界と霊界との関係第一講:シュトゥットガルト 1907年 9月13日秘学(オカルト/occult)の記号とアストラル界・霊界との関係。Ⅰ人間の記号としての五芒星(ペンタグラム)。Ⅱ叡智の像としての光。Ⅲ「叡智の働きかけ」によるアストラル体の変成と高貴化。Ⅳ地球の未来の進化。Ⅴ内的な光を獲得するための修練。Ⅵ叡智の光と天球の音楽。Ⅶ天球の調和(ハーモニー)と惑星運動。Ⅷアトランティス人の知覚。Ⅸ人体の比率としての箱船。記:オカルトは、超自然、魔女、魔法、心霊などを指します。宇宙人やUFOは含まれていません。*超常現象/paranormal phenomenon:現在までの自然科学の知見では説明できない現象のこと。 ここシュトゥットガルトでこれから行います四回の講演は、いくぶん内密な性格を持つことになると思います。何といっても皆さんの大部分は神智学協会に属され、すでに長年に亘って神智学の根本理念に親しんでこられ、従ってこの分野のより内密な題材に精通したいとお望みでしょうから。これらの講演で扱いますのは、アストラル界及び霊界と関連する秘密(オカルト)の形象と記号です。一連の秘密の象徴と形象のより深い意味を述べるつもりです。その際、初めの二回の講義で、いくらか奇妙に聞こえることがあっても、三回、四回と進みますと、完全な説明が得られるということにご注意いただきたいと思います。事の性質上、そういうことになるのです。神智学の講演は、いわば唯物主義的なやり方で単純な要素の上に組み立てられた他の講演とは違うのですから。最初はどうしても不明確な点があり、それが次第に明確に理解できるようになっていきます。形象や記号は、通常の世界のみならず、神智学的な世界においても、しばしばただひとつの意味を表す、多かれ少なかれ恣意的な何かであるという印象を与えますが、これはまったく正しくありません。皆さんもすでにそのような形象や記号について聞かれたことがおありでしょう。例えば、宇宙のさまざまな惑星が記号で示されることなどです。また、神智学のアレゴリー(象徴)においてよく知られた記号は、いわゆる五芒星(ペンタグラム/pentagram)ですね。さらに、ご存知のように、さまざまな宗教において、光というものは、叡智の、霊的な明澄さの意味で言及されています。さて、このような事柄の意味を問えば、これはしかじかのことを意味するといった表現を聞いたり読んだりなさるでしょう。例えば三角形は高次の三性を表す云々。神智学の著作や講演でも、たびたび神話や伝説が解釈され、「これはしかじかのことを意味する」と云われます。感覚の背後、この意味の本質の背後に至ること、このような形象の真実を認識すること、これを、この連続講演の課題といたします。これがどういうことか、ひとつ例を挙げて説明してみましょう。哲学・思想ランキング
2023年09月28日
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「霊的世界の入口/DIE SCHWELLE DER GEISTIGEN WELT」14/参照:新版1918のための後書き 魂が超感覚的な世界に意識的に参入する能力を獲得しようとするなら、基本的には表象活動であるところの働きを内側から展開することによって、まずその力を強めなければならない。とはいえ、この表象は日常意識において単に感覚知覚やそれに伴うものに従って展開される強さで行使されるべきものではない。そこにある表象は知覚よりも遥かに弱いものであり、単にこの強さで行使しても、魂が超感覚的な世界に参入する能力を発達させることはできない。表象は、単に表象に留まるとしても、知覚そのものの強さにまで強化されなければならない。それは目に見えるものの影のような模写の織物に留まるのではなく、それ自体が目に見えるもの、絵画的なものにまで濃縮しなければならない。生き生きとした像を刻み付けるようにするのである。とはいえ、魂的な力をもって単にこの像の中に留まることが重要なのではない。その像から注意を逸らし、像を形成する自分自身の活動へと向かうのである。それによって、自分が内的に強化された自己意識の内にあるのを見出すのであるが、同時に、この内的な魂の訓練を何度も繰り返していると、数週間乃至数か月、 あるいは、もっと長い時間が経った後に、この強化された自己意識を掴み取ることによって、超感覚的な世界と関わりを持つようになっていることに気づく。最初、この世界との接触は一般的な感情的印象の中で体験されるような混沌としたものである。しかし、その混沌の中から少しずつ形成されるようになるのはそれ自体で差別化された客観的な像の世界である。人は、像を形成する訓練を行うことで、しばらくすると、ある外的な霊的現実が強化された自我意識を用いて像を紡ぎ出すようになるのであるが、それらの像は それら自身の啓示の中でひとつの客観的な超感覚的世界を表現する像としての自分自身を示しているということに気づくようになる。これは、より正確に記述するならば、人間の魂が超感覚的な世界への途上で出会う像の織物による経験であり、本書の「2.霊的世界の認識について」の中では次のように述べられている。「瞑想によって強化された魂的生活の力を通して、まず、魂による超感覚的な世界との「接触」が行われる。それによって、魂的 生活の流れの中から特徴的な像が浮かび上がってくるが、そのような像は実際には完全に魂そのものから織られた一幅の絵巻物である。それは魂自身が感覚の世 界の中で獲得した力から織りなされており、実際、記憶に比肩し得るもの以外には何も含まれていない。」と。超感覚的な意識に向けて努力する者は、明瞭な内的体験の中でこのプロセスを自ら可視化することで、超感覚的な分野における現実を認識するとともに、それを想像上のファンタジーという単なる幻想から区別するための確かな可能性を自分のものとする。本書の「2:霊的世界の認識について」の中では、超感覚的な体験の端緒に立つ意識が有する像とは、「さしあたり、カーテンのようなものであり、それは魂が超感覚的な世界に触れられたと感じるときその魂が自らその世界の前にかけたものである」と述べられている。この「カーテン」について述べておく必要があるだろう。何故なら、その像は最初に自分の自我意識を超感覚的な世界にまで高めるためだけのものだからである。人はそれによって自分が霊的存在であると感じるのであるが、まだそれを通して客観的に超感覚的な外界を見ることはできない。それは人間が感覚生活の中で自分自身の有機体の一部と感じるような目を有していても、その目自体が照らされるわけではなく、したがって、外界がその働きを目の中へと展開することはできないようなものである。人は魂の中に織り込まれた像の中でいわば自ら作動し続けることによって、その像を霊的に透明にしなければならない。像は彼ら自身が発展することによってますますそのようになる。その結果、人は像を見るのではなく、それを単に魂の中に生きるものとして感じながら、それでもそれを通して超感覚的な現実の本質を知覚するのである。人が超感覚的な世界に初めて参入するときに有する知覚印象のひとつは、この世界へと引き上げられたその自我意識によって、彼がこの世界の存在たちと共感と反感によって結び付けられているのを見るというものである。「7:自我感覚について、そして、人間の魂の愛する能力とその元素的な世界との関係について」参照すれば、人は既に、本当に超感覚的な世界に参入しようとするのであれば、その表象に関しても感覚の世界を離れなければならないという経験をすることに気づいている。確かに、感覚の世界から得られた表象によって超感覚的な世界で見られるものを記述することはできるだろう。例えば、ある存在が色彩現象を通して現れることについて語ることができる。ただ、超感覚的な実在についてのそのような記述を受け入れる者は、真の霊探求者がそのような色について述べるとすれば、それは感覚的な意識をもってその色を感知するのと同様にして何かを魂的に体験したということを意味しているということを決して無視してはならない。感覚的な色彩と同じ何かを意識の前に有しているということを言葉で表現しようとする者は、霊探求者ではなく、空想家または幻視者である。一方、人が超感覚的な世界についての最初の超感覚的な知覚印象を本当に眼前に有するのは共感と反感の体験によってである。霊の探求者が自分で見たものを単に図示することを意図して、感覚的な経験から取ってこられた表現を用いて話すとき、正にそのように語らざるを得ないことに失望する人々がいる。というのも、そのような人々は、感覚的な世界とは異なる超感覚的な世界を自分で認識しようと努める代わりに、感覚的な世界の一種の替え玉(ドッペルゲンガー/doppelganger)を超感覚的な世界として認めたがっているのである。この超感覚的な世界は感覚的な世界よりも繊細で、より「エーテル的」なものである筈ではあるが、それ以外の点では、感覚的な世界とは別の表象によって捉えられなければならないという要件まで課すはずのものではない。しかし、本当に霊的な世界に自分で近づこうとする者は新しい考え方を取り入れることにも適応しなければならない。感覚的な世界の希釈された霧のような像だけを表象しようとする者には超感覚的な世界を把握することは不可能である。日常的な意識での魂的生活の中で卓越した役割を果たす記憶力は超感覚的な世界の知覚に際して適用される人間の能力として考慮されることはない。本書の「7:感覚について、そして、人間の魂の愛する能力とその元素的な世界との関係について」の中で記憶について述べられた箇所「正しく発達した 人間の霊視においては、超感覚的な世界への目覚めが生じるとき、感覚世界の中で魂が体験したことへの記憶は利用可能な状態に留まる。」を誤解しないように、このことは考慮されるべきである。人間の魂が物理的な世界の中で生活するに際してこの記憶力を有しているのは、その世界の中でのその活動をその身体組織を通して遂行するためである。超感覚的な世界へと高められた魂がその世界の存在や事象に直面したときにその記憶力を行使するということはない。最初、魂はこの世界の中で自分の前に立っているものを単に「見る」だけであり、再び自分の体に戻ったとき、その印象が記憶として残ることはないとはいえ、それがそのままで留まることはない。魂は物理的な世界での経験から記憶力の余韻を携えていくことで、自分はこの超感覚的な世界においてもあの感覚的な世界において自分自身であるところのものであるということを超感覚的な体験の中でも知ることができるのである。この記憶力が魂にとって必要なのは、自我意識の中での文脈が失われないためである。しかし、これ以外に、超感覚的な世界へと高められた自我意識は、その世界で体験した印象を変容させ、物理的な世界の感覚的な印象のような体の中での印象にする能力をも獲得する。そして、それによって、超感覚的な世界で体験されたものへの一種の記憶を保持することが可能となる。そうでなければ、この体験は絶えず忘れ去られることになるだろう。とはいえ、物理的な世界の印象が人間に働きかけるときには、その印象自体が彼の中で何かを引き起こすことによって、後でその印象を思い出すことができるようになるのであるが、超感覚的な領域においては、後で日常的な意識の中でもそれらを知ることができるように、そこでの経験そのものに働きかけなければならない。超感覚的な体験においては、すべてが意識の十全たる光の中で進行しなければならない。霊的な探求者がいつも苦労するのは、超感覚的に為された彼の体験を思い出すことができるように、それを保持することである。彼が知っていることを「ただ思い出しながら」他の人々に語るのは容易なことではない。それを求められた場合には、彼が見たものをそれについて語るべきときに再び見るために、その経験をしたときの条件を魂の中に再構築するように強いられるということがよくある。超感覚的な世界の中で体験された像とその像に対応する現実との関係もまた、感覚的な対象あるいはプロセスに対する魂的な印象の関係のように簡単なものではない(「8:感覚世界と超感覚的世界の境界について」参照)。超感覚的な世界における意識はこの関係を完全に見通していなければならない。目の前に机があるというようなものではない。魂の前に机があることによってその中に生じるもの、それはほとんど生きていないか、意識の中で完全に色合いが変化させられている。超感覚的な存在を知覚したときには、あるいは上述した仕方でその像を「透視」したときにも、この像を自己意識の中で感情的に体験するのである。そして、人が超感覚的な意識をもってこの感情的な体験の中に完全に沈潜しさえすれば、魂の前に現実が現れるのであるが、その体験は像の体験とは完全に区別されることができ、また、区別されなければならない。これら二つの体験が互いの中に消失することは許されない。何故なら、人が体験することがらに関しての幻想の源はそこにあるからである。 (了)哲学・思想ランキング
2023年09月27日
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「霊的世界の入口/DIE SCHWELLE DER GEISTIGEN WELT」13/参照:本書中の記述と私の「神智学」及び「神秘学」中の表現との関係について 元素的な世界や霊的な世界における人間の魂による経験を現す名称はこれらの経験の特質に合ったものでなければならない。そのような名称を付与するに当たっては、既に元素的な世界における経験においても感覚世界とは全く異なった経過を辿ることを考慮しなければならない。元素的な世界における経験は魂の変容能力及びその共感と反感の観察に基づいている。これらの経験に名前を付けるとしたら、当然のことながら、その変化する特質から何かを受け入れなければならなくなる。感覚世界にとってはそうであるべきような融通の利かないものであってはならないのである。これは問題の本質に関わることであり、このことを考慮しない限り、本書における命名と「神智学」や「神秘学」における命名との間に矛盾を見出す可能性がある。これら2冊の著書の中では、一方では誕生(受胎)から死までの、他方では死から誕生までの間に魂が十全たる発達を遂げるときに有する経験を特徴づけるような名称が選ばれている。一方、本著では、霊視的な意識が元素的な世界や霊的な領域に参入する際に有する経験を考慮した命名がなされているということを考慮するならば、この矛盾は解消する。「神智学」や「神秘学」では、死後、物質的・感覚的な体が魂から抜け落ちて間もなく、本書でエーテル体と名づけられているあの体もまたそこから抜け落ちるとされている。そのとき、魂はここでアストラル体と呼ばれる存在の中に生きる。エーテル体は魂から抜け落ちた後に元素的な世界の中で変容し、この元素的な世界が構築する存在の中へと移行する。このエーテル体の変容に際し、人間の魂は最早そこにはいない。とはいえ、魂はこの元素的な世界における経過を死後の外的世界として経験する。「神智学」や「神秘学」の中では、この元素的な世界を外から見る経験が、魂による魂的世界の通過として記述されているのである。この魂的世界とは、そこでは超感覚的な意識の観点から元素的と名付けられている世界と同じものであると想像すべきである。死と誕生との間の中間の時期に「神智学」における記述の意味で魂がそのアストラル体から解放されると、ここで「本当の自分」と呼ばれる実体の中でさらに生き続けることになる。そして、アストラル体は、魂がもうそこにはいなくなったことで、ここでまさに「忘却」として特徴づけられるものの中を自ら通過して行く。いわば感覚によって観察可能なもの、あるいは人間が感覚体の中で発達させるところの意志、感情、及び思考によって経験されるものが何もない世界の中へと突き進んで行くのであ る。そして、この世界をその外界として生き抜いていくのは「本当の自分」の中で存在し続ける魂である。この外的世界における体験を特徴づけるとすれば、「神智学」や「神秘学」の中で「霊的領域」の通過として記述されたような仕方でそうすることができるだろう。そのとき、「本当の自分」の中で自己体験する魂は、感覚存在であった頃に魂的体験として自分で自分の中に構築したものを周囲の霊的な世界の中に有することになる。死と新生の間にある魂がここで思考生命存在の世界として記述されている世界の中に見出すのは、その内的な存在の内部で、感覚的な知覚や感覚存在としての思考、感情、及び意志を通して自ら経験したあらゆることがらである。哲学・思想ランキング
2023年09月26日
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「霊的世界の入口/DIE SCHWELLE DER GEISTIGEN WELT」12:人間の「本当の自分」について 魂がそのアストラル的な体の中で自己を体験し、周囲に思考生命存在を有するとき、自分が物質的な体の、そしてまたエーテル的な体の外にいるのが分かる。 しかし、そのとき魂は、自分の思考、感情、そして意志はある限定された世界の領域に属しているが、自分独自の本質にしたがって、この領域に限定されているもの以上のものを把握することができると感じる。霊視的になった魂は霊的世界の内部で次のように言うことができるだろう。感覚世界において、私は肉体が観察できるものに限定されている。元素的な世界において、私はエーテル体に束縛されている。霊的世界において、私はいわば島の上にいて、その岸辺にまでしか私の霊的な存在を感知できないとしても、思考生命存在の行為によって織られ、霊的な眼差しの前にかけられたベールを通り抜けたとき、私が知ることができるはずの世界が岸辺の向こうにあると。魂がこのベールを通り抜けることができるのは、元素的な世界における生にとっても既に不可欠な献身の能力をますます発達させるときである。魂が超感覚的な世界における意識の衰弱、曇り、さらには、その破壊を免れるためには、物理的、感覚的な世界における経験を通して育成されるような力をさらに強化する必要がある。物理的・感覚的な世界においては、魂が思考を自分の中で体験するためには、自分自身の魂的な努力なしに自然に割り振られた力だけを必要とする。元素的な世界においては、思考は夢に似た体験へと弱められるため、もし、魂がこの世界への参入に際して、その内的な生命の強化に努めていなかったとしたら、思考は生じるや否や忘却の手に落ち、そもそも意識されることはない。そのため、特に意志の力を強めなければならない。何故なら、元素的な世界においては、思考はもはや単なる思考ではなく、内的な活動性と独自の生命を有しているからである。思考が意識の範囲内から逃れ出ないようにするためには、それは意志によって把握されることになる。霊的世界の中では、思考は完全に独立した生命存在なのである。思考を意識の内に留めようとするのであれば、感覚世界においては肉体が、元素的な世界においてはエーテル体の共感と反感が魂のために展開する力を、魂自身がその内部で展開するべく、自分を強化しなければならない。霊的世界においては、これらすべてを諦めなければならない。何故なら、感覚世界や元素的な世界の体験は単に思い出のように現存しているに過ぎないからである。そして、魂自身はこれら両世界の外にあり、周りには霊的世界が存在しているが、当初、この世界はアストラル体に何の印象も与えない。魂はその記憶によって、自分自身で生きていくことを学ばなければならない。当初、その意識内容は、「私は存在する、そして、今現在、私は無の前に立っている」というものでしかない。しかし、感覚的あるいは元素的な事象の単なるイメージではなく、この活性化された自由な思考体験を表現する記憶がそのような魂的体験から生じるとき、その記憶と霊的な環境のいわゆる「無」との間の対話が魂の中で始まる。そして、この対話の結果として生じるのがアストラル体意識の中での表象世界である。この進化の時点において魂が必要としているのは、それまで魂が唯一知っていた世界の岸辺に立ち、想像上の無に直面することに耐えることができるようにする力である。最初、この想像上の無は魂にとってどこまでも本当の無である。とはいえ、いずれにしても魂はいわばその背後に記憶の世界を有している。魂はこれらの記憶にすがることができる。その中で生きることができるのである。そして、その中で生きれば生きる程、魂はアストラル体の力を強化する。この強化とともに、過ぎ去った魂の存在と霊的世界の存在たちとの対話が始まるが、この対話の中で、魂はアストラル的な存在として自分を感じることを学ぶのである。昔からの言い伝えにあるように、「人間の魂がアストラル的な存在としての自分を体験するのは世界言語の内部においてである」と言うことができる。ここで言うところの世界言語とは、霊的世界における活発な霊的対話のように行われる思考生命存在による思考行為のことである。霊的世界にとってのこの霊的対話というのは感覚世界にとっての行為に当たるものである。さて、超霊的な世界に参入しようとする魂は、自分自身の意志により、物質的及び元素的な世界の記憶を消し去らなければならない。それが可能となるのは、それまで魂にその存在についての意識を与えてきたあらゆるものが魂から根絶されたとしても、その存在を完全に失うことはないという確信が霊的な対話から得られたときだけである。魂は実際に霊的な深淵の前に立ち、同時に、その意志、感情、及び思考を忘れ去るための意志衝動をつかみ取らなければならない。意識の中の過ぎ去ったものを放棄しなければならないのである。ここで必要となるこの決意のことを、物質体あるいはエーテル体の事情によるのではなく、自分自身の意志による意識の完全な睡眠状態への誘導と名付けることができるだろう。この決意については、しばらく無意識の状態にあった後で、以前そこにあったのと同じ意識に再び戻ることを目指すというのではなく、この意識が最初から自分の意志によって本当に忘却に没頭すると考えるべきである。この過程は物質的な世界や元素的な世界ではなく、霊的な世界においてのみ可能である、ということをよく考えてみなければならない。物質的な世界においては、消滅は死として生じることが可能であるが、元素的な世界に死は存在しない。元素的な世界に属している限り、人は死ぬことができず、単に別の存在に変容することができるだけである。霊的な世界では、言葉の厳密な意味で、明確な変容もまた不可能である。何故なら、人間存在が何かに変容できたとしても、霊的な世界においては、体験された過去が自分自身の意識存在として現れるからである。この記憶存在が霊的世界の内部で弱まるべきであるとするならば、それは意志による決断そのものを通して、魂から忘却の中へと沈められなければならないのである。超感覚的な意識がこの意志決定にまで至ることができるのは、それに不可欠な魂の力を自分のものにしたときである。意識がそこに至ったならば、それまでに自分で呼び出した忘却から、「私」の真の本質が浮かび上がってくる。超霊的な環境は人間の魂にこの「真の自我」についての認識をもたらすのである。超感覚的な意識は、エーテル体やアストラル体の中で自分を体験することができるように、「真の自我」の中でも自分を体験することができる。この「真の自我」は霊視によって生じたものではない。つまり、それはどの人間にとってもその魂の奥底に存在しているものである。超感覚的な意識は、どの人間の魂も意識していないけれども、その本質に属する事実を、ただ意識的に体験するのである。人間は物質的な死の後に霊的な環境に少しずつ慣れていく。その中で最初に浮かび上がってくるのは感覚世界からの記憶を伴う人間の本質である。確かにそこでは物質的・感覚的な体の支えはないかも知れないが、その本質は意識的にこれらの記憶の中に生きながら、それらに対応する思考生命存在をそれら の記憶そのものに組み込むことができる。そのため、それらの記憶は、物質的-感覚的な世界の中では正にそうであるような、単に影のような存在では最早なく なるのである。そして、死と再生の間のある時点で霊的環境の思考生命存在が強力に働くため、意志衝動なしに前述の忘却がもたらされ、それによって「真の自我」の中での生活が浮上する。霊視的な意識は、死と再生の間の体験としてはある意味自然現象であるところのものを、魂的な生活を強化することによって、自由な霊的行為として引き起こすのである。但し、ある地上生において、表象を霊的世界に向けることがかったならば、この前生へのいかなる思い出も物質的・感覚的な体験の中で生じることはあり得ない。はっきりそれと分かる記憶が後から浮かび上がってくるためには、前もってそれについて知っていなければならないのである。そのように、ある地上生のことを次の地上生において思い出すことを期待するのであれば、既にその地上生において霊的な存在としての自分についての認識を得ている必要がある。とはいえ、この認識は霊視によって獲得される必要があるというわけではない霊的世界についての認識を霊視によって直接獲得した人の場合、感覚世界の中で何らかの個人的な体験を思い出すように、この認識を得た地上生に続く地上生において、以前の地上生への想起が彼の魂の中に生じるであろう。霊視ではなく、理解力によって精神科学に取り組む場合には、この想起が生じるとしても、それは感覚世界においてそれについての報告を聞いただけの出来事を思い出すようなものである。哲学・思想ランキング
2023年09月25日
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「霊的世界の入口/DIE SCHWELLE DER GEISTIGEN WELT」11:肉体の最初の萌芽について 地球存在に先立つ月及び太陽存在については本書の先の部分で述べた。月存在の内部ではまだ地球存在を思わせる印象が霊視的な意識に現れる。しかし、霊視的な眼差しを遥かなる太陽存在にまで遡って向けるならば、最早そのような印象を得ることはできない。この太陽存在は完全に存在たちの世界として、そして、そのような存在たちの行為の世界として現れるのである。この太陽存在についての印象を得るためには、地球の鉱物あるいは植物的な生命の領域において表象へともたらされ得るものすべてを遠ざける必要がある。何故なら、そのような表象は、単に地球自体の初期の状態のための認識-それは植物生命の領域から得られる認識であるが-そして、遥か昔に過ぎ去った月の存在状態にとってのみまだ意味がある得るものだからである。動物界や人間界を通して呼び起こされ得る表象は古い太陽存在にまで遡る。しかし、その表象はこれらの領域の存在が感覚に現れるようなものについては何も描写しない。さて、人間の超感覚的な意識はエーテル体の内部で働く力を見出すが、その力が像へと変化することで、エーテル体が古太陽期における霊的な存在たちの働きを通してその最初の原基を世界形成の中で獲得したことを表現する像が得られるのである。そして、人はこの原基が月期や地球期を通してさらに発展していくのを追っていくことができる。それはそこでの変化によって、現在、人間のエーテル体として働いていることを証しするものとなった、ということが分かる。人間の物質体を理解するには、人間意識のさらに別の活動が要求される。さしあたり、それはエーテル体の外的な模造のように見える。しかし、正確に観察するならば、もし、物質体がエーテル体の感覚的、物理的な開示以外の何ものでもなかったとしたら、感覚的な存在状態にある人間がその存在性を十分に展開することは決してなかっただろう、ということが明らかになる。もし、そうであったならば、一定の意志、感情、そして思考は成立したかも知れないが、それらが統合されることで、「自我体験」の中で自らを表現する意識が人間の魂の中に生じることはなかったであろう。このことが完全に明らかとなるのは、その意識が霊視の特徴を持つまでに発展したときである。この自我体験が物質的-感覚的な体を纏っているときの人間に生じるのは、差し当たり感覚界においてのみである。彼はそれをそこからエーテル的な世界や霊的な世界へと持ち込み、そしてそれを彼のエーテル体やアストラル体に浸透させることができる。人間の自我体験が最初に形成されるのはエーテル体やアストラル体の中ではなく、物質的-感覚的な体の中である。今、物質的-感覚的な人間の体を霊的世界から観察すると、何らかの実体がそこに存在しているのが分かるが、この霊的世界からではその真の姿を完全に明らかにすることはできない。魂が霊視的な意識として霊的世界に歩み入ると、思考実体の世界に馴染むようになる。ただ、自我体験だけは、対応する強化された魂的力によってこの世界に持 ち込むことができるようなものであり、単に世界思考から紡ぎ出され得るものではない。世界思考の世界においては、まだ周囲に自分自身との一致を示すものを 感じることはないのである。魂がそのようなものを感じる魂は思考にも見捨てられるような体験へと至らなければならず、したがって、すべての感覚的体験や、思考、感情、意志のあらゆる体験もまた、いわば超感覚的なものへの途上で、置き去りにすることになる。そうすることによってはじめて魂は、感覚的、エーテル的、アストラル的な存在としての人間が観察し得るものすべてに先行する、世界の根底に横たわる実体とひとつである、と感じるのである。そのとき人は以前から彼に知られていた霊的世界よりもさらに高次の領域にいるのを感じる。「自我」だけが自己体験することができるこの世界は超霊的な世界とでも名づけられよう。思考実体の領域もまたひとつの外的な世界としてこの世界から現れる。超感覚的な意識がこの世界に身を置くと、次のような仕方で特徴づけられるような体験をする。人が超感覚的な意識の道を様々な段階を経て辿るとき、この特徴的な体験に至るのである。魂がエーテル的な体の中にいて、エーテル的な事象や存在たちに取り巻かれている自分を感じるとき、自分が物質的な体の外にいるのを知るのであるが、この物質的な体は実体としてそこにあるにもかかわらず、外から見ると変化しているように見える。霊的な眼差しの前には、それは地球存在の始まりから現在まで活動してきた霊的な存在たちによる行為の表現としての部分、そして、地球が古い月の状態であったときに既に存在していたものたちの表現である別の部分の中へと自らを解消するのである。意識が単に元素的な世界の中でのみ体験する限り、それはそのようなものに留まる。その意識がこの世界の中で認識することができるのは、地球が古い月の状態であった間に、いかに物質的な存在としての人間が形成されたか、ということである。意識が霊的世界に歩み入ると、さらにある部分が物質体から剥がれ落ちる。それは月状態の間に霊的存在たちの行為によって構築された部分である。しかし、その他の部分は残る。それは地球が太陽状態であったとき、当時の人間の物質的な実体として既に存在していた部分である。太陽期の間に霊的な存在たちの行為によって生じたあらゆるものは霊的世界の観点から描写され得るとしても、この物質的な実体からまだ何かが後に残る。まだそこに残るものとは、超霊的世界から見てはじめて霊的存在たちの行為であることが分かるようなものである。それは太陽期が始まったときには既に存在していたことが明らかとなるようなものであり、太陽期以前の地球の状態にまで遡らなければならない。私は「神秘学」の中で、何故、地球存在のこの状態を地球の「土星状態」と名づけ得るのかを検証しようとした。地球は太陽になる以前には「土星」であった。そして、この土星状態の間に、物質的な人体の最初の萌芽が、霊的存在たちの行為によって、普遍的な世界過程から生じた。そして、この萌芽は、太陽、月、そして地球期の間に、引き続き別の霊的存在たちの行為が加わることによって再構築され、現在の物質的な人体となったのである。哲学・思想ランキング
2023年09月24日
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「霊的世界の入口/DIE SCHWELLE DER GEISTIGEN WELT」10:霊的世界存在について 霊視的な意識が元素的な世界の中で復活するとき、人間には感覚世界の中でだけ自分のものとすることができる生活を自分自身の中で展開することができる存在たちをそこに見出す。これらの存在たちが彼ら自身、即ち彼らの自我を感知するやり方は人間が感覚世界の中でそれを感知するのとは異なっている。彼らは彼らの意志を人間よりもはるかに強く彼らの自我に浸透させ、自分を意志するのである。彼らは彼らの存在を彼らの意志そのものによって獲得したものとして感知する。その一方で、彼らの思考に関しては、人間が思考を生み出すように、それを生み出しているという感情を有していない。彼らは彼らの思考のすべてを霊感として感知する。それは彼らの中にではなく、世界の中にあって、そこから彼らの中に流れ込んでくるものとして感じるのである。したがって、これらの存在にとっては、彼らの思考は世界に流出した思考秩序の鏡像であるということに疑いをはさむ余地は全くない。彼らは彼らの思考を思考するのではなく、世界思考を思考するのである。これらの存在は彼らの思考をもって世界思考の中に生きるが、彼らは自分自身を意志する。彼らの感情生活は彼らの意志と思考に従って形成される。彼らは自分たちを世界全体の一部と感じ、この世界全体に相応しいものであるように自ら意志することが不可欠であると感じる。霊視的になった魂がこれらの存在の世界に精通するとき、自分自身の思考、感情、そして意志についての理に適った表象へと至る。この人間の魂的能力は元素的な世界におけるエーテル的な人体の中では発展することができない。元素的な世界においては、人間の意志は弱く夢のような力に留まり、人間の思考はぼんやりとして吹き消されるような表象世界に留まる。そこでは自我感情はそもそも存在すらしない。人間にとって、これらすべてに至るためには、肉体を纏っていることが不可欠なのである。霊視的になった魂が元素的な世界から本来の霊的な世界に上昇するとき、元素的な世界に比べても、感覚世界の状況からさらに遠く離れた状況の中にあるのを体験する。元素的な世界の中では、まだ多くのものが感覚世界を想起させる霊的な世界の中では、完全に新しい関係性の前に立つことになる。感覚世界の中で獲得できた表象だけをそこで有している限り、何も始めることができない。とはいえ、人間は、感覚世界の内にある人間の魂として、内的な生を強化することにより、霊的世界での滞在を可能にするものを感覚世界から霊的世界に持ち出さなければならない。そのようにして強化された魂的生活を霊的世界に持ち出さない限り、人はその世界の中でひたすら無意識の状態に陥る。そのとき、人はちょうど感覚世界の中で植物がそうであるような状況に居合わすことになるだろう。人は人間の魂として、感覚世界の中には存在しないけれども、それでもその中に存在することが証されているものすべてを霊的世界に持ち込まなければならない。人は感覚世界の中のいかなる事物や事象にも直接的には対応しないこれらの証されたものによって喚起されるであろう表象を感覚世界の中で形成することができなければならない。感覚世界の中のあれこれの事物が描写するあらゆるもの、若しくは、彼是(あれこれ)の感覚的な事象が記述するあらゆるものは霊的な世界の中では無意味である。人が感覚によって知覚できるもの、感覚世界の中で用いられる理解力によって証明できるものは霊的世界の中には存在しないのである。霊的世界への参入に際しては、感覚的な表象を適用可能な一切のものを置き去りにしなければならない。とはいえ、人が感覚的な事象や経過に対応しないような仕方で感覚世界の中で形成した表象は霊的な世界に参入するときにも魂の中に現存する。当然のことながら、誤って形成されたような表象も含まれているかも知れない。霊的な世界への参入に際して、これらの表象が意識の中に存在する場合には、それらが不適切なものであることがそれら自身の存在によって証明される。それらの表象は、魂がその誤った表象を正しいものに置き換えるために、感覚世界あるいは元素的な世界に戻ろうとする衝動を魂に刻印するように働く。けれども、霊的な世界の中で魂が正しい表象へともたらすものに向けては、その世界で縁のあるものが接近を試みる。魂が霊的な世界の中で感じるのは、その内的な存在全体が思考だけから成り立っているような存在たちがいるということである。これらの存在たちが有しているのは思考体とでも呼べるような体である。これらの存在たちは、ちょうど人間が感覚世界の中で自立性を体験するように、この思考体の中で自立性を体験する。霊的な世界の存在たちについての印象を獲得するために魂的生活を強化するためには、人間が取得する表象についての感情に浸透された思考が適している。元素的な世界における変容能力のために発達させられるべき献身の感情が高揚することで、人がそれへと変容すべき他者がこの献身の中で単に共感あるいは反感を感じさせられるだけではなく、献身する魂の中にその独自性をもって復活することができるとき、霊的な世界のための知覚能力が生じる。そのとき、ある霊的な存在はこのような仕方で、別の存在はまた別の仕方でいわば魂に語りかけるのである。そして、思考言語による霊的な交流が始まる人は思考を体験するのであるが、思考の中で存在を体験しているのを知っている。思考の中で自己表現するだけではなく、その独自性をもって思考の中に存在するものの中に生きるということは、魂によって霊的な世界に生きるということを意味している。魂が元素的な世界の存在たちに対して抱く感情とは、これらの存在たちは自分の中に射し込んでくる世界思考を有しており、彼らは彼らの中に射し込んでくるこれらの世界思考に従って自らを意志するというものである。人間が感覚世界の中ではじめて達成するようなことを達成するために、元素的な世界にまで下りてくる必要がなく、既に霊的な世界でこの存在段階を達成している存在たちに対して人間の魂が抱く感情とは、これらの存在たちは完全に思考素材から成り立っている、世界思考は彼らの中に流れ込んでくるのではなく、その存在たち自身が、その独自性をもって、この思考の織物の中に生きているというものである。彼らは世界思考が自分の中で生き生きと思考するのに任せる。彼らの生活は世界思考が語ることを知覚することの中で営まれる。そして、彼らの意志は思考を表現へともたらすことができることの中に存する。そして、彼らのこのような思考のあり方は本質的に世界に遡及する。存在であるところの思考が、やはり存在であるところの別の思考と会話するのである。人間の思考生活はこれらの霊的な思考存在生活の鏡像である。人間の魂は、感覚世界において物理的な存在の中に織り込まれているように、死と再誕の間の時期には、この思考存在生活の中に織り込まれる。魂の思考期間存在は、その魂が誕生あるいは、受胎を通して感覚的な存在へと歩み入るとき、この魂の運命を設計し、それに霊感を与えるように働く。人間の運命の中で働いているのは、魂の現在の地上生に先行する地上生から残された純粋な思考生命存在が世界の中で働くようになったものである。超感覚的な意識がこの思考生命存在の霊的な世界に参入すると、全く新しい状況の下で感覚世界に相対していると感じる。感覚世界においては、霊的な世界がひとつの「異なる世界」として魂の前に立っているように、霊的な世界の中では、この感覚世界がひとつの異なる世界としてその前に立つ。然し乍ら、この感覚世界は、霊的な眼差しにとって、感覚存在の内部で知覚し得るものすべてを欠いている。感覚や感覚に結びついた理解力によって把握されるようなあらゆる特性が消え去るようなものである。このことは逆に、霊的な世界から見ると、感覚世界の真に独自の本質自体は霊的なものであるということを示している。霊的な世界から眺める魂の眼差しの前に、以前の感覚世界の代わりに、霊的な存在たちが現れる。彼らが展開する働きが合流することによって、感覚を通して眺められる世界、独自の感覚存在としての人間が目の前にする世界となるものが生じるのである。霊的世界から見ると、感覚世界の特性、力、物質等々は消え去り、それらが単に見せかけのものであることが露になる。人が目の当たりにするのはそれでもこの世界から残った存在たちだけであり、これらの存在たちの中にこそ真の現実が横たわっているのである。元素的な世界についても同様である。霊的な世界からの眼差しにとって、存在たちそのものではないものはすべてこの世界から消え去る。そして、魂が感じるのは、この世界においても存在たちが関係しており、その存在たちは、彼らの働きを合流させることによって、共感と反感の器官を通して正に元素的なものとして現われるところの存在を現出させるということである。感覚世界の中の意識が周囲に有する状態や特性の代わりに、存在たちが現れるということが超感覚的な世界での体験にとって不可欠な要因となっているのである。超感覚的な世界は結局のところ存在たちの世界であることが明らかとなる。そして、これらの存在たち以外にもまだあるとすれば、それはこれらの存在たちの行為の表現として存在するものである。感覚の世界も元素的な世界も霊的な存在たちの行為として現れる。哲学・思想ランキング
2023年09月23日
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「霊的世界の入口/DIE SCHWELLE DER GEISTIGEN WELT」9:霊界の諸存在について 魂が超感覚的な世界に超感覚的な意識をもって参入するとき、感覚世界では思い描くことができないような仕方で自己認識することを学ぶ。魂はその変容能力によって、自分と親密な、あるいは疎遠な存在たちを知るようになるが、同時に、超感覚的な世界で出会う存在としては、単にそれと親密であるだけではなく、自分自身を知るためには、それと自分を比較しなければならないような存在たちがいることにも気づく。そして、さらなる観察によれば、これらの存在たちは、魂自身がその感覚世界における経験や体験を通してそれになったところのものに、超感覚的世界においてなったものであるということが分かる。元素的な世界の中で人間の魂が出会うのは、人間自身がエーテル体やその他の超感覚的な体の他に肉体を担っていることによってのみ発達させることができる力と能力を元素的な世界において発達させた存在たちである。ここで定義された存在たちは、何ら物理的・感覚的な身体を持っておらず、人間が肉体を通して持つような魂的存在をそのエーテル体を通して持つようになった者たちである。彼らはある程度までは人間と同等の存在たちであるが、感覚世界の条件には従わない点で異なっている彼らの認識は人間の認識と似ているが、彼らはそれを感覚によって獲得したのではなく、彼らの表象や彼らの本質の奥深くからくるその他の魂的経験をいわば上昇させることによって獲得したのである。それは彼らの内的生活であるかのように彼らの内に据えられる。そして、人間が記憶表象をその魂の深みから呼び出してくるように、彼らの魂の深みからそれを呼び出してくる。人間は、このようにして、彼が感覚世界の中でなることができたものに、超感覚的世界の中でなった存在たちを知るようになる。この関連で言えば、これらの存在たちは人間と同種のものと呼ばれ得るが、世界秩序の中では、人間よりも一段上に位置している。彼らは人間の上に位置する存在領域、存在の位階において人間の上に位置するヒエラルキアを構成する。彼らのエーテル体は、同じ種類のものであるとはいえ、人間のエーテル体とは異なっている。人間がそのエーテル体の共感と反感を通して地球の超感覚的な生命体に織り込まれているのに対して、これらの存在はその魂的生活をもって地球に縛られることはない。これらの存在たちがそのエーテル体を通して何を体験しているかを観察すると、人間がその魂の中に有している体験と似たものであることが分かる。すなわち、彼らが有しているのは思考、感情、そして、意志である。とはいえ、彼らは、人間が肉体を通してのみ発達させることができるものを、エーテル体を通して発達させる。彼らは彼らのエーテル体を通して彼ら自身の存在を意識するに至るのである。人間は物理的・感覚的な体の中で得た力によって獲得したものを超感覚的な世界に持ち込まなければ、超感覚的な存在については何も知ることができないだろう。超感覚的な意識はエーテル的な人体の助けによって観察する能力を得ることでこれらの存在を認識することを学ぶのである。この意識はこれらの存在がその生活空間や作業場とする世界へと人間の魂を上昇させる。人間の魂がこの世界の中ではじめて自分で体験するとき、これらの存在の認識を仲介する像としての表象がその意識の中に現れる。これらの存在は物理的な世界に直接介入することはなく、したがって、物理的・感覚的な人体にも介入しない。彼らは肉体を通して可能となる経験にとっては存在せず、ある意味で、感覚世界に踏み込むことのない霊的超感覚的な存在なのである。もし、人間が感覚世界と超感覚的な世界との境界に注意を払わなければ、これらの存在の真の表現ではない超感覚的な像を彼の物理的・感覚的な意識の中に引き入れるということが生じ得る。これらの像はルツィフェル的あるいはアーリマン的な存在の体験を通して生じるが、これらの存在は先に述べた超感覚的な存在に似ているとはいえ、彼らとは対照的に、人間が感覚世界として知覚する世界の中にその住処と活動の場を移しているもし、人間が、「入口を守る者」との経験を通して、超感覚的な世界と感覚存在との間の境界を正しく顧慮することを学んだ後で超感覚的な世界から超感覚的な 意識を通してルツィフェル的あるいはアーリマン的な存在を観察するならば、これらの存在をその真の姿において知ることができる。彼らは自分たちの本性にふさわしい活動の範囲内に留まる別の霊的な存在たちとは異なっていることが分かる。霊学はルツィフェル的あるいはアーリマン的な存在について、この観点から記述しているのである。その場合、ルツィフェル的な存在については、彼らに相応しい活動の場は物理的・感覚的な世界ではなく、ある種の元素的な世界であるということが分かる。元素的な世界の内部でまるで洪水のように像として湧き起こるものが、人間の魂の中で幻覚としての様相を帯びることなく、彼のエーテル体の中で生き生きとし て働くならば、この像が魂の中に侵入し、その中にルツィフェル的な存在がいたとしても、その行為は世界秩序に違反するものとはならない。そのとき、これらのルツィフェル的な存在たちからの働きかけによって、人間の魂は感覚世界に単に織り込まれている状態から自由になるのである。しかし、もし、人間の魂が元素的な世界においてのみ展開すべき生活を物理的・感覚的な世界に持ち込むならば、つまり、エーテル体の中でのみ支配的であるべき共感と反感が肉体の中の感情にまで影響を及ぼすようにさせるならば、この魂を通して、ルツィフェル的な存在が普遍的な世界秩序に反抗する流れを手に入れることになる。この流れは、感覚世界の中にいる他の存在たちの生命への思いやりに基づく愛以外のものが感覚世界の共感と反感の中で働くところでは、どこにでも存在している。愛される可能性のある存在があれこれの特徴を有しているからという理由で愛されるとき、ルツィフェル的な要素がその愛に混入する可能性はない。愛される存在の感覚的に現れる特徴の中にその根拠を有する愛はルツィフェル的な影響を遠ざける。ルツィフェル的な流れに傾く愛とは、愛される存在にではなく、愛する存在にその根拠を有する愛である。ある存在を、自分が気に入るような特徴を有しているからという理由で愛するならば、ルツィフェル的な要素に親和性のある魂の部分で愛しているのである-とはいえ、ルツィフェル的な要素はいかなる場合にも邪悪なものであると言うべきでは決してない。何故なら、人間の魂は、超感覚的な世界の事象や存在については、ルツィフェル的な要素の意味で愛さなければならないからである。超感覚的なものに魅かれるために用いられるべき種類の愛は、感覚的なものに向けられるときはじめて世界秩序に反するものとなるのである。超感覚的なものへの愛は、愛する者の中に高められた自己感情を正しく呼び起こすが、そのような自己感情の高まりを求めて感覚世界の中で追求される愛は、ルツィフェル的な誘惑に相応しいものとなる。霊的なものへの愛は、それが自分のために追求されるとき、解放的な働きをする。感覚的なものへの愛は、それが自分のために求められるとき、解放的には働かない。愛によって得られる満足が自分にとっての足かせとなるからである。アーリマン的な存在は、ルツィフェル的な存在が感情する魂に対してそうするように、思考する魂に対して自己主張する。彼らは思考を感覚界に縛りつける。いかなる思考も感覚存在の中に基礎づけることができない世界の大いなる思考秩序の一部として自己主張するときにのみ意味を持つ、という事実からそれを逸脱させるのである。アーリマン的な要素は、人間の魂的生活がその中に織り込まれている世界の中に、ルツィフェル的な要素に対抗するものとして存在していなければならない。ルツィフェル的な要素がなければ、魂は感覚的な存在を観察する中でその生を夢想し、自らを越えて高まろうとするいかなる衝動も感じることはないだろう。それに対抗して働くアーリマン的な要素がなければ、魂はルツィフェル的な要素の手にかかり、その主要な存在意義の一部がそこにあるにもかかわらず、感覚世界の意義にはほとんど注意を払わず、それを知ろうとはしなくなるだろう。したがって、アーリマン的な要素が人間の魂の中に正しく位置づけられるのは、それが適合する世界である感覚世界に馴染む方向に導くときであるもし、人間がこの世界をその通りのものとして受け取るならば、その世界にとってはその性質上一時的であるべきあらゆるものの中で、それなしで済ますことにもなりかねない。自分の中のルツィフェル的な要素やアーリマン的な要素を根絶やしにすることでそれらの手に落ちないようにしたいと言うならば、それは全く不可能である。例えば、もし、自分の中のルツィフェル的な要素を根絶すると、自分の魂によって超感覚的な世界に向けて努力することができなくなる。もし、アーリマン的な要素を根絶すると、もはや感覚世界をその十全たる意味において正しく評価することができなくなる。これらの要素と正しい関係へともたらされるのは、それぞれにバランスを取るための錘を反対側に置くときである。これらの世界存在たちによるあらゆる悪影響が結果として生じるのは、それぞれがそれぞれに対抗する力によって正しい調和へともたらされるときではなく、それらがあちこちで無制限に効力を発揮するときである。哲学・思想ランキング
2023年09月22日
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「霊的世界の入口/DIE SCHWELLE DER GEISTIGEN WELT」8:感覚世界と超感覚的な世界の境界について 様々な世界の間の関係を知るには、ある世界においてその世界の秩序に「適う」働きを展開すべき力が、それ以外の世界で展開するならば、その世界秩序に「反する」方向を取る可能性があるということを考えに入れる必要がある。人間のエーテル体の中に二つの相反する力、他の存在への変容能力と強い自我感情が存在するというのは人間の本質にとって必要不可欠なことである。人間の魂のこれらの力は、感覚存在としての魂が抑制されることがなければ、発展へと齎される可能性はない。元素的な世界においては、ちょうど、感覚世界において、睡眠と覚醒が人間の生活を可能とするように、それらの力が相互補償されることによって人間の存在が可能となるのである。そのような二つの力の関係はお互いを打ち消し合うようなものでは決してなく、両方が発展しつつ、お互いにバランスを取るように働かなければならない。さて、自我感情と変容能力が今述べたような仕方で互いに働くことができるのは元素的な世界においてのみである。感覚世界においては、両方の力の相互関係と協働の中から生じるものだけが世界秩序の意味で作用することができる。もし、エーテル体の中にあるべき段階の変容能力が感覚存在の中にまで働きかけたとしたら、その人は、魂的には、彼の肉体からして何か自分ではないものとして自分を感じるだろう。肉体は感覚世界の中で人間にしっかりとした刻印を押すが、それによって、彼は一人の特別な人間存在としてこの世界の中に存立する。彼はそのエーテル体によって元素的な世界の中に存立するわけではない。彼がこの世界の中で完全な意味において人間であるためには、様々な形態を取ることができなければならない。もし、それができなければ、元素的な世界の中で完全な孤独に陥る。すなわち、自分自身の他には何も知ることができず、いかなる存在や事象とも疎遠であると感じる。これはしかし、この世界にとっては、そのような人間に相応しい存在や事象が存在しないことと同様である。しかし、もし、人間の魂が元素的な世界では不可欠な変容能力を感覚界で発展させるようなことがあれば、その魂は個人としての実体を失うだろう。そのような魂は自分自身と矛盾した生き方をすることになる。物理世界にとっての変容能力は魂の奥底に安らぐ力でなければならない。それは魂にその基本的な気分を付与するが、感覚世界においては発展することのない力である。超感覚的な意識は変容能力を習得しなければならない。もし、それができなければ、元素的な世界においては何も観察することができなくなる。そのようにして、超感覚的な意識は元素的な世界において自己認識する限りにおいてのみ用いられるべき能力、そして、それは感覚世界に戻るや否や抑制されるべきものであるが、そのような能力を自分のものとする。超感覚的な意識は両方の世界の「境界」に絶えず注意を払わなければならない。超感覚的世界に適う能力は感覚世界の中では作動すべきではない。魂が感覚世界において自己認識するとき、そのエーテル体の変容能力が作動し続けるようであれば、感覚世界の中に対応する実体のない表象で日常的な意識が満たされ、その魂の表象生活は混乱に陥るだろう。各世界の間の「境界」に注意することは超感覚的な意識の正常な働きにとって不可欠の要件である。超感覚的な意識に到達しようとする者はいかなる妨害も超感覚的な世界の認識を通して日常的な意識に入り込ませないように注意しなければならない。人は「入口の守護者」について学ぶことで、いかにそれが魂とともに感覚世界の中に立っているか、魂がいかに力強く、超感覚的な世界の力や技能から作用すべきでないものを感覚的・物理的な意識から追いやるかを知るようになる。「入口の守護者」によって仲介される自己認識なしに超感覚的世界に参入するならば、人はこの世界の体験によって圧倒されるだろう。この体験は幻覚的な表象として物理的・感覚的な意識に押し入ってくるかも知れない。そのとき、それらは感覚的知覚の特徴を帯びており、その結果、魂はそれらを現実のものとして捉えるが、実際にはそうではない。正しく発達した霊視は元素的世界の表象を、物理的・感覚的意識が感覚世界の体験を現実のものとして捉えなければならないのと同じような意味で、現実のものとして捉えることは決してない。元素的な世界の表象は、魂の変容能力によってはじめて、対応する現実に正しく関係づけられるのである。エーテル体に不可欠な第2の力、強い自我感情もまた、元素的な世界に適った仕方で、感覚世界における魂的生活の中に突出すべきではない。もし、そうなった場合、それがエゴイズムと結びついている限りにおいて、感覚世界における不道徳な傾向の原因となる。霊学による世界観察は人間の行いにおける「悪」の源泉をこの点に見出す。もし、人が悪の源泉ともなるその力なしでもこの世界秩序が存立し得ると信じるなら、それは世界秩序というものを誤解していると言える。もし、これらの力を利用できなければ、人間のエーテル存在は元素的な世界の中で発展することはできなかった筈である。元素的な世界の中だけで作用するならば、これらの力は完全に善い力なのである。それらが悪を齎すのは、人と元素的な世界との関係を魂の奥底から規定するのではなく、感覚世界における魂の体験の中に据えられることで、エゴイズム(利己主義/egoism)の衝動へと変化するときである。その場合、それらの力は愛の能力に対抗して働き、不道徳な行為の源泉となる。強い自我感情がエーテル体から肉体の中に移行すると、エゴイズを強める原因となるばかりでなく、エーテル体を「弱める」原因ともなる。超感覚的な意識は、超感覚的な世界への参入に不可欠な自我感情が弱まれば弱まる程、感覚世界の体験の中で、エゴイズムがますます強まることを見出すに違いない。エゴイズムは人を強くするのではなく、その魂の奥底から、弱くするのである。そして、人間が死の門を通るとき、誕生から死までの間の人生で展開されたエゴイズムは、超感覚的な世界での体験に向けて、魂を弱める方向で働く。哲学・思想ランキング
2023年09月21日
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「霊的世界の入口/DIE SCHWELLE DER GEISTIGEN WELT」7:自我感覚について、そして、人間の魂の愛する能力とその元素的な世界との関係について 人間の魂が意識的に元素的な世界に参入すると、感覚の世界で得ていた多くの表象を変える必要に迫られる。もし、魂が相応しい力を強化していれば、この変化にも対応可能である。ただ、魂がこの強化を自分のものとすることを避けるときには、元素的な世界への参入に際して、その内的な生活をその上に構築すべきしっかりとした基盤を失うような感覚に襲われることになるだろう。物理的-感覚的世界で得られた表象は、そこで得られた通りのものとしてそれらにしがみつこうとする限りにおいてのみ、元素的な世界への参入にとっての障害となる。しかし、それにしがみつこうとする理由は、魂の「慣れ」以外にはない。当初は単に感覚世界と共にある意識がこの感覚世界で生じたその表象の状態を唯一保持すべきものとするのに慣れているというのは全く自然の成り行きである。そして、それは自然の成り行きというだけではなく、必要なことでもあるもし、魂的生活が、ある意味硬直し、厳格に強要された表象の中で生きる意識を感覚世界の中で発達させなかったとすれば、それはその内的なまとまりやそれに必要な堅牢性に至ることは決してなかったであろう。魂は、感覚世界と共に生きることで自分に与えられるあらゆるものを通して、元素的な世界の中でもその自立性や自己完結性を失うことなく、その世界に参入できるようになるのである。元素的な世界への参入に際しては、この自立性が無意識的な魂的特質として存在するだけではなく、意識存在の中にしっかりと保持されることができるためにも、魂的生活の強化は達成されなければならない魂が元素的な世界を意識的に経験するには虚弱すぎる場合には、そこへの参入に際して、鮮明な記憶の中に生き続けるには余りにも弱く魂に刻印された思考が消滅するように、その自立性が消滅する。実際、その場合には、魂が意識的に超感覚的な世界に参入することは全く不可能である。魂は、魂の中に生き、「入口を守る者」と呼ばれ得るあの存在によって、超感覚的世界への参入を試みるたびに感覚界に投げ返されるだろう。それでもやはり、この世界をいわばのぞき見するとともに、感覚世界に再び沈潜した後、超感覚的世界に由来する何らかのものを意識の中に保っているとすれば、そのような別世界からの戦利品によって表象生活の乱れが引き起こされる。感覚世界で獲得し得るような健全な判断力が相応しい仕方で育成されていれば、そのような混乱に陥る可能性は全くない。魂と超感覚的世界の事象や存在との正しい関係はそのような判断力の強化を通して築かれるのである。すなわち、これらの世界で意識的に生きるためには、魂の衝動が不可欠なのであるが、感覚世界においては、その衝動が超感覚的世界に立つほどの強さにまで高められることはない。それは人が体験することがらへの帰依の衝動である人はその体験の中に沈潜し、それとひとつになることができなければならない。すなわち、自分自身の存在を度外視して、自分以外の存在の内側にいるのを感じる程にまでそれが可能とならなければならない。自分の存在による自分が体験する別の存在への変容が起こるのである。人にこの変容能力がなければ、超感覚的世界の中で本当のことは何も体験できない。何故なら、あらゆる体験は、今、お前は「この種類」に変身しているのだから、その本性がお前の本性を「この」ように変化させる存在とともに生きているのだということを意識することに基づいているからである。この自己変容、この他者への感情移入が超感覚的世界に生きるということであり、人はこの体験を通してこれらの世界の存在や事象を知るようになるのである。このようにして、人はある存在とはあれこれの仕方でいかに近縁関係にあるか、別の存在とは、それ自体の本性によって、いかにより疎遠であるかということに気づく。共感や反感として、特に元素的な世界において特徴づけるべき魂的経験の基調が現れるのである。例えば、元素的な世界の存在や事象との出会いを通して、共感と言うべき体験が心に浮かぶのを感じる。この共感体験の中で、元素的な存在や事象を認めるのである。ただ、共感と反感の体験については、単にそれらの強さや程度が問題になると思い描くべきではない。物理的-感覚的世界における共感や反感の体験に関しては、共感と反感それぞれが単により強いか、より弱いかを語ることには確かにある程度意味がある。元素的な世界における共感と反感は、単にその強度によって区別されるのではなく、例えば、感覚世界における色彩が相互に区別されるように区別されるのである。多彩な感覚世界があるように、人は多種類の共感あるいは反感に満ちた元素的世界を体験することができる。ここでさらに考慮すべきことは、元素的なものの領域にとって、「反感」にはその対象から内的に離れるような意味合いはないということである。すなわち、そこで言うところの反感とは、単にある元素的な存在あるいは事象の特徴とでも言うべきものであって、感覚世界において青色が赤色に対しているように、他の事象や存在の共感的な特徴に対するものである。人がそのエーテル体の中で、元素的な世界へと目覚めることができるようなひとつの「感覚」について語ることができるだろう。感覚世界の中で目が色を、耳が音を知覚するように、この感覚は元素的な世界の中で共感と反感を知覚することができる。そして、感覚世界の中で、ある対象は赤、別の対象は青であるように、元素的な世界のある存在からは一種の共感が、別の存在からは反感が霊的な眼差しの中に射し込んでくる。共感と反感によるこの元素的な世界の体験は、必ずしも超感覚的に目覚めた魂だけに起こるものではない。それは、どんな人間の魂にとっても、絶えず手元にあるもの、人間の魂の本質に属するものである。日常的な魂的生活にとっては、この人間の本質についての知識が形成されていないだけである。人間は、彼が担うそのエーテル体を通して、元素的な世界の存在や事象と密接に結びついており、人生のある瞬間には、ある一定の仕方で元素的な世界の共感と反感に織り込まれ、別の瞬間には、別の仕方で織り込まれるのであるとはいえ、エーテル存在としての魂は、自分の中に共感と反感がはっきりと言い表されるような仕方で働いている状態を絶えず生きることはできない。感覚存在においては、覚醒状態が睡眠状態と交代しなければならないように、元素的な世界においても、共感と反感の体験に別の状態が対置されなければならない。魂はあらゆる共感と反感から離れ、自分自身の中で自分だけを体験すること、すなわち、自分自身の存在だけに注意を払い、それを感知することができるのである。確かに、この感知は、自分自身の存在を「欲する」ことについて語り得る程の強さにまで至る可能性がある。ここで問題となるのは、人間が容易には描写できない魂的生活の状態である。何故なら、それは彼にとって純粋で唯一の本性という意味で、感覚世界においては他に類を見ない、強く純粋に私である状態、あるいは魂の自己感知の状態だからである。その状態は、元素的な世界に対して、共感と反感の体験に不可欠な献身とは逆に、「私は私のためだけに、私の中だけに居たい」と言えるような衝動を魂が感じると云えるようなものである。そして、魂は、ある種の意志を発展させることによって、元素的な共感と反感の体験に向けた献身の状態から脱却する。元素的な世界にとって、この「自らの内に生きる」ことはある種の睡眠状態であり、事象や存在への献身は覚醒状態である。人間の魂が元素的な世界の中で目覚め、そして、自己体験への意志を発達させるとともに、「元素的な眠り」の必要を感じるとき、それは魂が十分に発達した自己感情をもって感覚生活の目覚めた状態に戻るために生じる。何故なら、感覚世界におけるこの自己感情に満ちた体験とは元素的な睡眠に等しいものだからである。元素的な睡眠は魂を元素的な体験から引き離すことから成っている。超感覚的な意識にとって、感覚世界における魂の生活とは霊的な睡眠であるというのは文字通り正しい。正しく発達した人間の霊視においては、超感覚的な世界への目覚めが生じるとき、感覚世界の中で魂が体験したことへの記憶は利用可能な状態で残る。この記憶は利用できる状態で残らなければならない。もし、そうでなければ、霊視的になった意識の中には、自分自身の存在ではなく、全く別の存在や事象があることになるだろう。そうなると、人は自分について何も認識できず、自分を霊的に生きることもなく、別の存在や事象が魂の中に生きることになる。そう考えると、正しく発達した霊視にとって、強い「自我感情」の育成が大きな価値を持っていることがよく分かる。人がこの自我感情の中で霊視によって発達させるのは、決してそれによって初めて魂の中にやって来るような何かではない。魂の奥底にいつでも存在しているにもかかわらず、感覚世界の中で展開される日常的な魂的生活には知られないままに留まるような何かを認識するようになるのである。強い「自我感情」はいわゆるエーテル体によってではなく、物理的-感覚的な体の中で自己体験する魂を通して利用可能となる。魂が自我感情を感覚世界におけるその体験から霊視状態の中へと持ち込まなければ、それは元素的な世界での体験に向けて十分に装備したことにはならないということが明らかになるだろう。魂の自己感情、その自我体験は、感覚世界の中での人間の意識にとってなければならないものだとしても、抑制されることが不可欠である。それが抑制されることによって、魂には、感覚世界の中で高貴な道徳的力及び同情心の育成を体験する可能性が得られる。感覚世界における魂の意識的な体験の中で強い自我感情が突出していたならば、道徳的な衝動や表象は正しい仕方で発達することができず、愛という実りをもたらすことができないだろう。献身というこの元素的な世界における自然な衝動は、人間的な体験の中で愛と呼ばれるものと同じであると見なすべきではない。元素的な意味での献身とは、他の存在あるいは事象の中で自分を体験することであり、愛とは、自分の魂の中で他者を体験することである。この体験を発展させるためには、魂の内奥に存在する自己感情の上にいわばベールがかけられなければならない。そして、それによって、それ自体の力としては弱まった魂の中に別の存在たちの喜びや悲しみが自分の感情として立ち現れてくる。愛が芽生えてくるのであるが、人間の生活の中で真の道徳性が育ってくるのは、その愛からである。愛は人間にとって感覚世界における体験の最も重要な果実である。人が愛や思いやりの本質に貫き至るとき、それらの中に見出すのは、いかに霊的なものが感覚世界の中でその真の姿において生きているかということである。ここでは、他者へと変容することは超感覚的なものの本質に属している、と言えるだろう。感覚的、物理的に生きる人間の中で、霊的なものが自我感情を抑制し、愛として復活するように変容するとき、この霊的なものはそれ自身の元素的な法則に忠実なままである。人間の魂は超感覚的な意識によって霊的世界の中に目覚めると云えるが、同時に、感覚世界における霊的なものは愛の中で目覚めると言うべきであろう。愛や思いやりが降り注ぐところでは、感覚に深く浸透する霊的なものの魔法の息吹を聞くことができる。したがって、正しく発達した霊視が思いやりや愛を減退させることは決してあり得ない。魂が霊的世界に正しく順応すればする程、不親切や思いやりの欠如を霊そのものの拒絶と感じるようになるのである。上記に関して、霊視的になった意識による体験が示すのは全く奇妙な特徴である。自我感情は、超感覚的な世界の体験には不可欠なものであるとはいえ、容易に抑制され、しばしば弱まり、死にかけた記憶の中の思考のように振る舞う一方、憎しみや愛に欠けた感情、超感覚的世界参入後の魂的経験を強化しようとする不道徳な衝動となる。すなわち、それは生きた疑惑のように魂の前に立ちふさがり、醜く働きかける表象となるのである。そのとき、超感覚的な意識は、これらの表象に苦しめられないように、しばしばこれらの表象による印象を弱める霊的な力を探し求めるという方便にすがる。しかし、そうすることによって、魂は獲得された霊視を堕落させるこれらの力に浸透されることになるのである彼らは霊視を霊的世界の善良な領域から引き離し、邪悪な領域に導き入れる。その対極にあるのが真実の愛、魂の正しい善意であり、その意味で意識の力を強化するような、霊視への参入にとって不可欠の魂的体験である。超感覚的な世界における経験が可能になる前に、魂には準備が必要であるということについて語られるときには、本当に愛する能力、真の人間的な好意や思いやりへの傾向もまた多様な準備手段のひとつに数え入れられるということもまた付け加えられるべきであろう。感覚世界の中で過度に発達した自我感情は道徳性に対抗するように作用する。あまりにも弱く発達した自我感情は、元素的な共感と反感の嵐によって実際に翻弄される魂が内的な確かさやまとまりを欠く原因となる。これらを手に入れることができるのは、十分強い自我感情が、日常生活では意識されないままに留まるエーテル体の中に、感覚的・物理的な体験から働きかけるときである。この自我感情は確かに手に入れなければならない。とはいえ、真に道徳的な魂の気分を発達させるためには、思いやりや愛への傾向を通して抑制されることが不可欠なのである。哲学・思想ランキング
2023年09月20日
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「霊的世界の入口/DIE SCHWELLE DER GEISTIGEN WELT」6:「境域の守護者」と超感覚的意識のいくつかの特徴について 人間は感覚世界を体験することで、これまでの考察の意味で彼の実体がそこに根ざす霊的な世界の外に立っている。超感覚的な世界に参入する超感覚的な意識にとって、感覚界で得られる魂的諸力の強化が必要であることをよく考えてみるならば、この体験が人としてのあり方にどの程度関係しているかが分かる。もし、この強化がなければ、超感覚的な世界への参入に際して、魂は多少の気おくれを感じる。魂は、この参入を前にして、そのような参入は不可能であるという「証明」を求めることによって、それを避けようとさえする。しかし、もし、魂が参入に向けて十分な力を見出すならば、参入後に、自らの存在を自立したものとして主張するのを魂に許す力、そして、元素的な世界や霊的な世界においてはそうしなければならないように、その意識の領域において、思考を体験するだけではなく、実体をも体験することを許す力を自らの内に認識する。こうして、魂は、これらの力を集めることができるのは感覚世界に生きるときだけであると感じ、感覚世界の中を導かれて行く必要性を洞察するのである。この洞察が生じるのは、超感覚的な意識が特に思考を通して体験するときである。元素的な世界への参入に際して、意識は像の形で知覚される存在たちで満たされる。この世界の中では、感覚世界における思考生活の中で展開されるような内的な魂的活動をその存在たちに向けて展開するまでに至ることはまずない。にもかかわらず、思考しながらそこに入り込むことなくして、この元素的な世界の中で、人間存在としての方向性を見出すことは不可能である。確かに、人は思考による観察なしでも元素的な世界の存在を見ることはできるかも知れないが、それが実際に何であるかを知ることはできない。そのような人は、何らかの文章を読むことができない人が、それを読むことができる人が見るのと全く同じものを眼前にするのに似ている。ただ、その文章が意味と実体を有するのは、後者にとってだけである。とはいえ、元素的な世界に滞在する間は、超感覚的な意識が感覚世界において遂行するような思考活動を行うことは決してない人間のような思考する存在は、元素的な世界の正しい観察によって、その存在と力の意味を共に知覚し、思考しない存在はその意味と実体を欠いたその像を知覚するだろう、というのが本当のところである。霊的世界に歩み入ったとき、例えば、アーリマン的な存在は、思考存在としての魂によって見られないならば、何か全く異なるものとみなされるだろう。ルツィフェル的な存在やその他の霊的世界の存在たちも同様である。思考によって強化された霊視的な眼差しをもって霊的世界から観察するとき、アーリマン的な存在やルツィフェル的な存在たちは彼らがそうである通りのものとして見られるであろう。魂が十分な思考力で武装していないならば、霊的世界から見たとき、ルツィフェル的な存在たちが霊視的な像の世界を占拠し、観察する魂の中に幻想を呼び起こすことで、魂自身が求める霊的世界にますます深く入り込みながら、実際には、ルツィフェル的な力が自分たちの存在に似たものとして準備しようとしている世界にますます深く沈み込んでいくことになる。確かに魂はますます自立していく自分を感じるが、その実体やその源泉には相応しくない霊的世界に順応しているのであり、見知らぬ霊的環境に入り込んでいるのである。感覚世界はルツィフェルのような存在たちを覆い隠すので、感覚世界の中では、これらの存在たちは意識を惑わすことができない。彼らは意識にとって単にそこにいないので、意識は、彼らに惑わされることなく、十分に思考的に強化される可能性を有している。感覚世界において十分に霊視に向けた強化がなされた分だけ霊的世界に歩み入るということは、健全な意識の本能的な特性に属すものである。意識は感覚世界においていかに体験できるかにかかっているが、それが本領を発揮するのは、それが感覚世界に負っているところの思考、感情、熱情等々によって自分自身を体験できるときである。この体験に意識がいかに強く依存しているかが特に明らかとなるのは、超感覚的な世界への参入が実際に起こった瞬間である。人が人生の特別な瞬間の高められた記憶に強く執着するように、超感覚的な世界への参入に際しても、ひたすら自分が完全にできることだけに向かおうとするあらゆる傾向がまるで魂の奥底からのように必然性をもって現れる。そこで気づくことになるのは、いかに人間が基本的には人を感覚世界に結びつける生活に執着しているかということである。そこでは、この執着が、人が人生の中でこの事実について作り上げるあらゆる幻想なしに、その完全なる真実において明らかとなる。超感覚的な世界への参入に際して、いわば最初の超感覚的な成果として、それまで全く考えられなかったような一片の自己認識がもたらされるのである。そして、実際にはいつもそこにいる世界に、本当に意識的に参入しようとするのであれば、いかにあらゆるものを後に残して行かねばならないかということが明らかとなる。人が人間として意識的に、そして無意識的に、感覚世界の中で自分から行ってきたことが最高度の明晰性をもって魂の視界の中に入ってくる。多くの場合、この経験は人が超感覚的世界に参入しようとするさらなる試みをすべて中止させる結果につながる。したがって、霊的な世界への滞在が成功するためには、いかに別様に感じ、感知することを学ばねばならないかを明確にしておくということが重要となる。以前に有していたものとは全く異なる内的な魂的状態を確立するように決意しなければならない。言い換えれば、これまで成就したものに別のものを付け加えなければならないのである。 それでは、超感覚的世界への参入といったような瞬間には、一体何が起こるのだろうか。人がいつでもそうであったところの存在を見るのである。とはいえ、今まで絶えずそこからそれを見ていたところの感覚世界からではなく、霊的な世界から、幻想なしで、その真実の姿を見るのである。人はそれを見ることによって、自分の霊的な価値を評価することができるだけの認識能力によって自分が完全に浸透されているのを感じるそのような観察によって明らかとなるのは、何故、人は超感覚的世界に躊躇なく意識的に参入しようとしないのかということである。この参入のために人が有する強さの程度が明らかとなるのである。人は意識的な存在としての自分自身がいかにそこから遠く離れているかを見る。そして、より正確に見通せば見通すほど、その意識を持って感覚世界の中にとどまろうとする傾向もまたそれだけ余計に強く生じる。高められた認識はこれらの傾向をまるで魂の深みにある隠れ家からのように誘い出す。人はそれらを認識しなければならない。何故なら、そのことによってのみ、それらは克服されるのだから。とはいえ、それらは認識においてやはり全く特別な力を有していることを証明する。それらは魂を圧倒し、魂はそれらによって自分が奈落の底に引きずり降ろされるかのように感じる。自己認識の瞬間というのは厳粛なものである。巷では、あまりにも多くの哲学や理論が自己認識について云々しているが、魂の眼差しは、それらによって自己認識に直結するその厳粛さに導かれるというよりも、むしろそれから気を逸らされる。そして、この厳粛さにもかかわらず、人間の本性が自分自身を自己体験することによってその成熟度を発展させることができるまでは、本能的に霊的世界に入り込むことがないように秩序づけられていることをよく考えてみるならば、どれほどの慰めとなることであろうか。超感覚的世界の存在との最初の最も意義深い出会いが人間としての発展過程の中で追及すべき真の自分との出会いであるということは何という慰めであろう。人間の中には超感覚的な世界への参入に際して越えられなければならない境界を注意深く見守る存在が潜んでいると言える。この人間の中に潜む霊的な存在とはその人自身であるにもかかわらず、目がそれ自体を見ることができないように、日常的な意識にとってはほとんど認識できない存在であり、それが霊的世界への「入口を守る者」である。彼を認識できるようになるのは、人が実際に彼自身であるというだけではなく、まるで彼の外に立っているかのように、まるで別の人に相対しているかのように彼に直面する瞬間である。超感覚的世界の他の体験と同様、「入口を守る者」もまた内的に強化された魂的能力によって可視的になるのである。さて、霊視的な眼差しにとっては、「守る者」との出会いが認識へと高められるとしても、それとは別に、この出会いは決して単に霊視的になった人にとってだけ起こるような出来事ではない。この出会いが生じるのと全く同じことが眠りに落ちるすべての人に生じるのである。そして、その眠りが続く限り、「自分自身に相対すること」、「入口を守る者」の前に立つのと全く同じことが継続する。眠りの中で、魂は自らを超感覚的な存在へと高めるのである。しかし、そのとき、その内的な力はそれ自身の意識を呼び起こす程には強くない。超感覚的な体験を理解するという意味では、特に、その微妙な始まりにおいては、超感覚的なものについてのそれなりの知識を形成することができなとしても、それを体験する準備を開始することができたということに魂的な注意を向けることもやはり大事である。当初、霊視は非常に微妙な仕方で生じる。そのため、人は大体においてほとんど手に取るように見えるだろうと期待しているので、掠めて行くような霊視的な諸印象に注意を払うことはない。彼らはそれらがそのようなものだとは全く認めようとはしないのである。それらが生じるときには「忘れ去られること」を前提として生じる。それらはあまりにも微かに意識の中に入って来るだけなので、魂の中の薄い雲のように全く注意を払われないままに留まる。こうして、大方の人は見霊というものをさしあたりそうであるのとは全く別様に期待しているので、多くの熱心な霊的世界の探求者にとってもそれが見つからないのである。この関連においても、「入口を守る者」との出会いは重要である。たとえ、人がその魂を正に自己認識に向けて強化していたとしても、この出会い自体は単に最初の見霊の微かに掠め去るようなものかも知れない。しかし、人は他の存在に比べて自分自身の存在にはより強い関心を持っているので、他の超感覚的な印象のように簡単に忘れ去られることはないだろう。とはいえ、「守る者」との出会いが最初の超感覚的な体験である必然性は全くない。魂の強化は様々な方向性を取り得る。魂が取る最初の方向性が、この出会いの前に、他の存在やプロセスをその霊的な視界へともたらす可能性はあるが、この遭遇は、超感覚的世界への参入後、比較的早期に生じることになるだろう。哲学・思想ランキング
2023年09月19日
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「霊的世界の入口/DIE SCHWELLE DER GEISTIGEN WELT」5:アストラル体とルツィフェル的存在について、エーテル体の特質について 感覚世界の中に、そして、エーテル的な世界の中にも、そこがまるで彼らに想定された舞台であるかのように、霊的な領域から働きかけているのが観察される別の種類の霊的な存在たちがいる。彼らは感じる魂を感覚世界から完全に開放し、ある意味でそれを霊化しようとしている者たちである。感覚世界における生は世界秩序に属している。人間の魂は感覚世界の中に生きることによって、その存在条件の領域に属する発達をその中で遂行する。魂がこの感覚的な領域に織り込まれているということは、人が上方の世界で知るようになる存在たちの働きの結果である。この働きは感じる魂を感覚的な作用の制約から解放しようとする存在たちに対抗するものである。ここでは、この存在たちをルツィフェル的な存在たちと呼ぶことにしよう。ルツィフェル的な存在たちは感覚世界の中に立って、この魂的な(感じる)ものの中のあらゆるものに言わば目を光らせながら、それらをこの感覚世界から引き出し、彼らの性質に似た彼ら自身の世界領域に組み込もうとする。上方の世界から見ると、このルツィフェル的な存在たちの働きはエーテル的な世界においても顕著なものとなっている。彼らは、その思惑にしたがって、彼ら自身の内部に、感覚世界の重さの影響を受けない力の領域を打ち立てようとしているのであるが、その重さとは、上方世界の存在たちによって、この感覚世界の中に織り込まれることがあらかじめ定められているものである。もし、アーリマン的な存在たちが単に世界秩序の中に根拠づけられるような一時的な存在の消滅をもたらすだけならば、彼らの縄張りの内に留まることになるように、もし、ルツィフェル的な存在たちが感じる魂に力を浸透させ、この魂がその力によって感覚世界における強制を乗り越え、この強制に対して自立し、自由な存在として自分を感じる、という衝動をますます感知するようにさせるならば、彼ら自身の領域を踏み越えることにはならない。ところが、ルツィフェル的な存在たちは、上方世界の全般的な秩序に反して、ある特別な霊の王国を創造し、感覚世界の魂的な存在たちをそれに向けて改造しようとすることで、その領域を逸脱する。感覚世界におけるルツィフェル的な存在たちの働きがいかに二つの方向に押し寄せるかを見ることができる。一方では、人間が感覚的な現実の単なる経験を超越することができるのは、これらの存在たちのお陰である。彼は彼の楽しみ、彼の高揚を単に感覚世界だけから引き出すのではない。彼は何か輝きの中に生きるもの、美しく輝くものとして感覚を超越する何かを享受し、それへと高まることができるのである。ルツィフェル的な働きは、この面では、最も意義深い文化の華、特に芸術的なものを生じさせるのに貢献してきた。人はまた、単に感覚的な事物を記述したり、思考の中で模写したりするだけではなく、自由な思考の中に生きることができる。彼は感覚の世界を超越する創造的な思考を展開したり、事物について哲学したりすることができるのである。他方、魂の中のルツィフェル的な力の過剰は多くの熱狂や混乱の源泉となるが、それらは魂的な活動の中でより高次の世界秩序の制約に捉われることなく展開しようとする。人間の魂は、「別の自我」を有することで、上方の世界に属している。しかし、下方世界の存在にも属しているのである。超感覚的な意識は、そのための適切な準備がなされたとき、上方世界の中にいるのを感知する。とはいえ、超感覚的な意識にとって、事実が変化するのではなく、単にどんな人の魂の中にもある事実にその事実についての知識が加えられるだけである。どの人の魂も上方の世界に属しているが、同時に、人が感覚世界に生きるときには、この感覚世界のプロセスの対象となる感覚体が割り当てられる。そして、元素的な世界のプロセスの中に生きる繊細なエーテル体が割り当てられる。感覚体とエーテル体の中には、アーリマン的な存在とルツィフェル的な存在の力が働いている。この力は霊的、超感覚的な性質のものである。 人の魂が上方の(霊的な)世界に生きる限り、それは-この表現を用いるとすれば-アストラル的な存在である。そのようなものとしての人間のアストラル的存在は地球の内部で作用する条件には左右されないということも、この表現を正当化する多くの理由のひとつである。人間のアストラル存在の中には、地球の自然法則ではなく、恒星世界のプロセスに関連する法則が働いているということを霊的な科学は知っている。したがって、この命名は正当化されるように思われる。人間の物理的-感覚的な体、及びエーテル的で繊細な体の認識に続くのは、第三の、アストラル的な体の認識である。しかし、アストラル的な人体は、それ自体の本質に関して言えば、上方の世界、本来の霊的な領域に根ざしているということが考慮されなければならない。この領域において、それはこの霊的な世界に活動の舞台を有するその他の存在と同じ種類の存在である。元素的、及び感覚的な世界が遥かなる霊の反映である限り、エーテル的な人体と物理的-感覚的な人体もまた人間のアストラル的な存在の反映とみなされなければならない。しかし、これらのエーテル的な体や物理的-感覚的な体の中には、ルツィフェル的な存在とアーリマン的な存在に由来する力が支配している。これらの存在たちが霊的な起源となっているため、感覚的、物理的な体や、エーテル的な体そのものの中にも人間の一種のアストラル的な存在が見い出されるのは当然のことである。超感覚的な意識の像だけを受け入れ、その意味を正しく理解できないような霊的観照には、物理的な体やエーテル的な体のアストラル的な衝撃を本来のアストラル体として受け取る、ということが容易に起こり得る。この「アストラル体」は、人間存在における正に四肢であるが、彼の働き中では、彼を世界秩序へと本当に導く合法則性に対抗するように方向づけられているのである。日常的な人間意識にとっては、魂のアストラル存在について認識することはさしあたり全く不可能であるため、この分野における混同と混乱の可能性はますます大きなものとなるしかし、第一段階の超感覚的意識もまたこの認識を達成することはできない。人がこの意識に達するのは、そのエーテル体の中で自己体験するときである。とはいえ、彼がエーテル体の中で見るのは彼の「別の自我」の鏡像であり、彼が属する上方世界の鏡像である。そのように、彼は彼のアストラル体のエーテル的な鏡像を見るのであるが、それに含まれるルツィフェル的な存在やアーリマン的な存在とともにそれを見るのである。本著の後半では、人が日常の生活においてその存在であると見なすところの「私」は、「本当の私」ではなく、「本当の私」の物理的-感覚的世界における反映であるということが警句の形で示されるはずである。同様に、エーテル的な観照にとって、アストラル体のエーテル的な反映は、「本当のアストラル体」の幻像となり得る。 超感覚的な意識は、上方世界に精通することをさらに追求する中で、人間存在に関する下方世界における上方世界の反映の本質についての真の洞察を得るに至る。特に、人間が今の地上存在としてそれを身に着けているようなエーテル的で繊細な体は、本当は上方世界の彼に対応するものの反映ではない、ということが示されるのである。それはルツィフェル的な存在とアーリマン的な存在の働きによって歪められた鏡像である。上記の存在たちが働く地上存在の特質を通すことによっては、エーテル体の霊的な原像が地上の人間の中に完全に反映されることはあり得ない。超感覚的な意識がエーテル体の原像の完全な反映が可能な領域に向けて地上の道を追求していくと、現在の地球の状態を越え、さらに先行する月の状態をも越えて、遥かなる過去に引き戻されるのを見る。現在の地球は月状態から、さらに月は太陽状態から発展してきた、ということについての洞察を得るに至るのである。太陽状態という名前が正当化される理由については、私の「神秘学」の中に詳細が見いだされる。地球はかつて太陽状態にあり、そこから月状態へと発展し、それから「地球」になったのである。人間のエーテル体は、太陽状態の間は、彼がその源泉をその中に有する世界の霊的なプロセスや存在の純粋な鏡像であった。超感覚的な意識にとっては、これらの存在たちは完全に純粋な叡智から成立っているということが明らかとなる。したがって、人間は、地球の太陽時代という遥かなる過去において、宇宙の叡智存在の純粋な反映としてそのエーテル体を獲得したと言うことができるそして、続く月と地球の時代とを通してこのエーテル体は変容し、現在、人間存在の中にあるようなものとなったのである。□これまでの要約/ZUSAMMENFASSUNG DES VORANGEHENDEN 人間は霊的な世界に属する魂的な存在の核を自らの内に担っている。この魂的な存在の核は、繰り返される地上生を貫いて生きるところの人間の永続的な実体であり、ある地上生においては、日常意識の内部で、この意識に対抗する自立的な存在として発展し、人間の物理的な死の後には、純粋に霊的な世界で生き、そして、適切な時間が経過した後、新しい地上生の中で、以前の地上生の結果を生きる。この永続的な実体は人間の運命を吹き込むものとして働く。それは、ひとつの地上生が世界秩序に基づいて基礎づけられた先行する地上生の結果として生じるように、この運命に影響を与える。人間はこの永続的な存在そのものであるが、その中では、彼の「別の自我」の中にいるようにして生きている。存在としての彼がこの「別の自我」である限り、彼は、物質体とエーテル体の中に生きるように、アストラル体の中に生きているのである。物質体の環境は物質的なものであり、エーテル体のそれは元素的な世界であるように、アストラル体の環境は霊的な領域である。人間の「別の自我」と同じ種類、同じ起源をもつ存在が、アーリマン的な力とルツィフェル的な力として、物質的な世界と元素的な世界の中で働いている。それらが働く方法を通して、アストラル的な人体のエーテル的及び物質的な人体に対する関係が理解可能なものとなる。エーテル体の起源は、地球の遠い過去の状態、いわゆる太陽期に見出される。 図式的には、ここで述べたことにしたがって、人間を次のように考察することができる:I. 物理的-感覚的環境中の物質体それを通して、人間は自分を自立した独自存在(私)として自覚する。II. 元素的な環境中の繊細な(エーテル的な)体それを通して、人間は自分を地球生命体の一分枝として認識するとともに、それによって間接的に、連続する3つの惑星状態の一分枝として認識する。III. 純粋に霊的な環境中のアストラル体それによって、人間は、元素的、及び物理的な世界がその反映である霊的な世界の一分枝である。その中に横たわっているのは、繰り返される地上生の中で表現されることになる人間の「別の自我」である。哲学・思想ランキング
2023年09月18日
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「霊的世界の入口/DIE SCHWELLE DER GEISTIGEN WELT」4:繰り返される地上生とカルマについて副題:●人間のアストラル体と霊的世界について●アーリマン存在について 日常的な感覚で言うところの外的世界のように、魂的な意識にとって外的な世界である何かが魂の生活を支配しているということを認めるのは、魂にとって特別に困難なことである。魂はそれに対して―無意識的に―毛を逆立てて抵抗するが、それはそれ自身の存在がその事実によって危険に曝されると信じるからである。魂はその霊的な眼差しを本能的にその事実から逸らす。最近の科学はその事実をそのようなものとして理論的には容認しているとしても、まだそれを自分で内的に把握したり、自分に浸透させたりといったあらゆる帰結を伴いながら、その事実を十分に体験しているとはいえない。意識がこの事実を生き生きと感じることができるようになったとき、魂存在の中には、生と死の間の意識的な魂的生活の範囲内で発展することができるあらゆるものから独立した実体であるひとつの内的な核が認められるということが分かるようになる。意識は、その根底に、意識そのものがそれを産みだしたものとして感じるべきひとつの存在を認めるようになるのである。そして、その意識の担い手であり、あらゆる力や特性を有するその体もまた、その産物として感じ取られなければならない。魂は、そのような体験を追求する中で、魂の中にあって意識的な生活の影響を受けようとしない霊的実体が成熟していくのを感じるようになる。誕生と死の間を生きる間、この内的な実体がますます力強くなると同時に、ますます自立していくように感じるところにまで行きつくのである。誕生と死の間の生活において、この実体は、それ以外の体験に対して、ちょうど植物存在の中で発育する種子が植物全体に対するのと同じような関係にある、ということが分かるようになる。但し、植物の種が物理的な存在であるのに対して、魂の種は精神的なものである。そのような体験を追求していけば、人間の繰り返される地上生という考え方を認める方向へと導かれる。もし、人が誕生から死までの間、物理的な地上の体で覆われているときには許されることのなかったあの生命状態を、死後の精神的な世界において、純粋に精神的な仕方で経験していたならば、その魂は自分からある程度独立したその存在の核の中に、現在の人生の果実を新たな人生へと担っていくことになる種子を感知することができる。そのとき、この考え方から必然的に別の考え方が生じるが、それは、誕生と死の間における現在の感覚的な生が遥か昔に過ぎ去った別の地上生の結果であり、魂はその別の地上生の中でひとつの種子を育んでいたということ、そしてちょうど、植物の種子が、それがその中で生じた古い植物を離れ、長期間、別の存在条件の下に置かれた後、新しい植物になるように、その種子は、死後、純粋に精神的な世界の中で生き続け、新生を通して新しい地上生へと歩みを進めるまでに成熟するというものである。超感覚的な意識は、相応しい魂の準備を通して、ある人生の成果を次の地上生へと運んで行く、ある程度自立した核がこの人生の中で育っていくという過程の中に沈潜することを学ぶのである。魂の流れの中から、これまで人が自分の自我と見なしてきた存在から独立し、それよりも上位にあるもののように見える第二の自我が、絵画的、実体的に、あたかも自分の本性が露になろうとしているかのように浮かび上がってくる。それはこの自我に霊感を与えるものであるかのように見える。人は、この後者の自我として、それに霊感を与え、その上位にあるものと合流する。そのように、超感覚的な意識は、日常的な意識が、そうとは知らず、生きている状況を見通しているのである。人がそれと交じり合う精神的な外的世界に対してだけではなく、より高次の意味では自分自身ではあるけれども、感覚界においては必然的に自分自身であると感じるべきものの外側に立つひとつの精神的な実体に関しても、今、しっかりと自分を保つために、再び魂の強化が必要となる。このような第二の自分が魂の流れの中から絵画的、実体的に現われる様子は、様々な個々人にとって、全く異なるものである。私は、劇場用の魂の描写である「秘儀参入の門」、「魂の試煉」、「境域の守護霊」、「魂の目覚め」の中で、いかに様々な個々人がこの「別の自我」の体験に向けて努力するかを描写しようとした。今、日常的な意識の中の魂がその「別の自我」によるインスピレーションについて何も知らないとしても、それでもやはりこのインスピレーションは魂の奥底に存在している。ただ、このインスピレーションは、思考や内なる言葉の中にあるようなものではなく、行為を通して、プロセスを通して、できごとを通して作用する。この「別の自我」は、魂をその運命の詳細へと導くとともに、能力、傾向、天分等をその中に呼び起こす。この「別の自我」は人生の運命全体の中に生きているのである。それは誕生と死の間に制約された自我に同行し、喜び、高揚、苦悩をその中にもたらすあらゆるものをもってその人生を形成する。超感覚的な意識は、自らがこの「別の自我」とともにあるのを見出すことにより、物質的な人間が自分の存在を「私」と呼ぶように、人生の運命全体を「私」と呼ぶことを学ぶのである。東洋の言葉で「カルマ」と呼ばれるものは、ここに示されたような仕方で、「別の自我」、「精神的な自我存在」とともに成長する。人間の一生は人生から人生へと継続する自分自身の本質存在からインスピレーションを受けて生じるのである が、そのインスピレーションは、後の地上存在の運命が以前の地上生の結果として現われる、というような仕方で生じる。こうして、人は自分自身を「別の存在」としての自分、すなわち、感覚存在としての自分ではなく、この感覚的な在り方においては、単にその働きを通してのみ自らを表現するようなものとしての自分を知ることを学ぶのである。意識がこの世界に歩み入るということは、元素的な世界に対して、精神的な領域と呼ぶことができる領域にいるということである。人は、この領域の中で感知している限り、感覚世界におけるあらゆる経験や体験が生じている輪の外に立っている自分を見出す。いわば自分が後に残してきた世界を別の世界から振り返るのである。とはいえ、人は人間として両方の世界に属しているという認識に至る。人は感覚世界を霊的世界の一種の鏡像と感じる。とはいえ、それは単に霊的世界のプロセスや存在達がその中に映し出されている鏡像であるというだけではなく、その中には、それ自身で自立した生が営まれているのである。人が鏡の中を覗き込むとき、彼が自分を見ることで、その鏡像が自立した生を獲得するのに似ている。そして、人はこの霊的世界の鏡像の自立した生を引き起こす霊的な存在たちを知るようになる。これらの霊的な存在たちは、その源泉を霊的世界に有してはいるが、その世界の舞台を離れ、その活動の場を感覚世界の中で展開していると感じられる。したがって、人は相互に働きかける二つの世界に直面することになる。ここでは、霊的な世界を上方の、感覚の世界を下方の世界と呼ぶことにしよう。人は、ある意味でその視点を上方の世界に移したことによって、その特徴ある霊的な存在達のことを下方の世界において知るようになる。それらの霊的な存在の一種として、人が感覚の世界を物質的なものとして体験する理由を彼らの中に見出すというようなものがいる。すべての物質的なものは実際には霊的なものなのであるが、それらの存在達の霊的な働きによって、感覚界の霊的なものが物質的なものへと堅く硬化させられているということが分かる。ある特定の名前は在席の方々にも不評ではあるが、霊的な世界の中で活動しているのが見られるもののために、それは必要とされる。したがって、ここでは、感覚界の物質化を引き起こす存在をアーリマン的な存在達とでも名づけることにしよう。さて、これらのアーリマン的な存在達に関して言えば、彼らはその本来の領域を鉱物界に有していることを示している。これらの存在達が鉱物界に君臨するとき、彼らは、この領域において、彼らが本来何者なのかということを十分に明らかにする。植物界やそれより高次の自然界においては、彼らは何か別のことがらを遂行する。人が元素的な世界の領域を考慮するとき、この別のことがらがはじめて理解可能なものとなる。霊的な領域から見ると、この元素的な世界もまたこの霊的な領域の反映のように見える。とはいえ、元素的な世界での鏡像の自立性は、物理的な感覚世界のそれに比べると、それほど大きくはない。元素的な世界においては、霊的な存在たちのアーリマン的な性質は感覚世界におけるほど支配的ではないとはいえ、これらのアーリマン的な存在たちが元素的な世界から展開するのは、存在の消滅と死の中にその表現を見出す別の働きである。有体に言えば、アーリマン的な存在たちは、より高次の自然界のために、死をもたらすという任務を有しているのである。死が存在の秩序にとって不可欠なものに属す限り、アーリマン的な存在たちの任務はこの秩序において正当化される。とはいえ、アーリマン的な存在の働きを霊的な領域から観察すると、下方の世界では彼らの働きに何か別のものが関連しているということが分かる。彼らは、この世界の中にその活動の舞台を有していることで、彼らがその源泉を有する上方の世界で働いていたときには彼らにその力を付与していた秩序には縛られていないと感じる。彼らは上方の世界では決して持つことができなかった自立性を下方の世界の中で獲得しようとするのである。このことはとりわけ人間へのアーリマン的な働きかけにおいて顕著なものとなるが、それは感覚世界の中では人間が最高の自然領域を構成しているからである。彼らは自立するために、人間の魂的生活を、それが感覚存在に捉われている限りにおいて、より高次の世界から引き離し、彼ら自身の世界に完全に組み入れようとする。人間は、思考する魂として、その源泉をより高次の世界の中に有している。霊視的になり、思考する魂はこのより高次の世界にも歩み入る。感覚世界の中で展開し、この世界に縛りつけられている思考にはアーリマン的な存在の流入と呼ぶべきものが含まれている。これらの存在たちはいわば感覚世界内部の感覚的な思考に一種の永続的な存在性を付与しようとしているのである。彼らは、彼らの力が死をもたらすがゆえに、思考する魂に死を免れさせ、人間のその他の本質だけを無の中に流れ込ませようとする。しかし、人間の思考力は、彼らの意図にしたがって、感覚的な領域に留まり、アーリマン的なものの本性にますます似たものとなるべきあり方を受け入れることになる。今述べたことは、下方の世界においては、単にその働きを通してのみ表現される。人間は、彼の思考する魂の中で、霊的世界を認識する力、それ自体の中で生き、そして存在していることを自ら知っている力で自分を満たすよう努力することができる。しかしまた、彼の思考する魂をそのような力から引き離し、その思考を単に感覚世界を把握するためだけに利用することもできる。そのような誘惑はアーリマン的な力からやって来る。注:魂的存在生命に齎す「死」の意義哲学・思想ランキング
2023年09月17日
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「霊的世界の入口/DIE SCHWELLE DER GEISTIGEN WELT」3:人間のエーテル体と元素的な世界について 人が遥かなる超感覚的な霊やその理解のための認識を達成することになるのは、当初この認識に対抗して魂の中に存在するある種の障害を克服することによってである。ここで示される障害は、確かに魂的な体験のただ中で働いてはいるが、日常生活の中ではそのようなものとしては意識に上らないという点に基づいている。人間の魂の中には、さしあたり魂自身がそれについては何も知らないけれども、ちょうど外的世界の存在や事象についてそうするように、最初は少しずつでもその知識を獲得していくべき多くのものが息づいているのである。魂がこれらについて知るようになるまでは、魂にとっての霊的な世界とは、何か全く未知のもの、その独自性において、魂が感覚世界の中でその体験を通して学ぶことができるようなものが何もない世界である。そのようにして、魂はこの霊的な世界の前に置かれ、その中に全くの「無」を見ることになる。無限の、空の、荒涼とした深淵の中を覗き込んでいるように感じるかも知れない。そのような感情は、当初は無意識的な魂の深みに実際に存在している。魂が有するこの感情は怖気や恐怖に転じる。それについては何も知らないままに、魂はその中で生きている。魂がそれについて知っているものだけではなく、魂には未知であっても実際にその中に存在しているものもまた魂の生活にとって支配的となっているのである。さて、魂がその思考領域から「反論の根拠」、霊的世界に対する「反証」を求めても、それが生じることはない。それでも、魂自体の価値からして、この「根拠」は必須であることから、魂は上記の感情に対する一種の麻酔を求めるのである。人は、霊的世界の「非存在」を「証明」できるが故に霊的な世界やそれを認識する可能性を否定する者となるのではなく、「霊的世界を前にした尻込み」を誤魔化そうとする考えで魂を満たそうとするが故にそうなるのである。ここで述べられた魂的生活のすべての事実を俯瞰したときに初めて「霊的世界を前にした尻込み」に対する唯物論的な麻酔薬への欲求から解放され得る。「魂的な恐怖現象としての唯物論」は魂論の重要な一章である。「霊的なものを前にした尻込み」が理解できるものとなるのは、感覚世界の事象や存在たちは超感覚的世界の事象や実体たちの外的な表現であるという事実の承認に向けて格闘したときである。この理解が生じるのは、人間にとって感覚的に知覚可能な体、外的な科学だけが関係する体は、その中に感覚的あるいは物質的な体が雲の中のより濃縮された核のように含まれている繊細で超感覚的・エーテル的な体の表現であるということを洞察したときである。このエーテル体は人間存在の第2の構成要素であり、その中には物質体の生命の基盤が横たわっている。さて、このエーテル体に関して、人間は、彼がその物質体において物質的な外的世界から隔絶されている程には、その外的世界から隔絶されてはいない。エーテル体に関してひとつの外界が語られる場合、それは感覚によって知覚される物質的な外界を意味しているのではなく、人間のエーテル体が物質体に対するように、物質世界に対する霊的環境を意味している。人間はエーテル的な存在としてエーテル的・元素的な世界の中に立っているのである。さて、日常的な経験の中ではそれについて何も知られてはいないが、人がよく経験すること、すなわち、彼がエーテル存在として元素的な世界に存在しているという事実が意識されるとき、その意識は日常的な経験についての意識とは完全に異なったものである。この意識が超感覚的な経験のために生じるとき、日常的な意識には隠されているが、人生の中ではいつもそこにあるものが知られるようになる。さて、人は、日常的な意識の中で、自分のことを「私」と言うが、それによって彼はその肉体の中に生じる存在のことを意味している。感覚世界における健全な魂的生活は、彼が自分を自分以外の世界から区別された存在として認識することに基づいているのである。人が何らかの外的世界の事象や存在を「私」に属するものと見なすとき、この健全な魂的生活は損なわれる。人がエーテル存在として元素的な世界の中で自己体験する限りはそうではない。そこでは、私であるとしての自分の存在と、何らかの周囲の事象や存在との境目がはっきりしなくなるのである。また、エーテル的な人間存在は、感覚世界の中で見慣れているような「内面」ではない内面の中に自分を見出さなければならない。ある意味で「外界」であるとはいえ、自分の「私」に属していると言わざるを得ない力、事象、及び実体が、元素的な「遺産管理の」世界には存在する。人はエーテル的な人間存在として元素的な世界実体の中に紡ぎ込まれているのである。人は物質的-感覚的な世界において思考を有しているが、それを「私」の現状と見なすことができる程にそれらの思考と一体化している。エーテル的な人間存在の中には、感覚世界における思考のように、「内部」へと親密に働きかけている力、事象等々があるが、それらは思考のようにふるまうことはなく、存在たちのようであり、魂とともに魂の中に生きるものたちである。従って、超感覚的な認識には、魂がその思考に対して自立したものとして自己主張するために有しているような、力強い内的力が必要となるのである。そして、基本的に、真に霊を見るための準備は、魂を内的に強化することによって、思考に満たされているときだけではなく、エーテル界の力や実体がそれ自体の存在の一部であるかのようにその意識領域の内に生じるときにも、魂の独自存在として自覚を可能にしておくということにある。魂が、エーテル界の存在として、自分を主張する手立てとなるその力は日常生活の中に存在している。最初、魂はこの力について何も知らないが、それを有しているのである。魂がその力を知るためには、まずそれに向けた準備が必要となる。魂は霊を見るための準備の中で獲得されるすべての内的な魂的力を自分のものにしなければならない。人は、この内的な魂的力を自分のものにしようと決意できない限り、周囲の霊的な世界を認知することを恐れ、霊的世界は存在しない、あるいは、それは認識できないという幻想に、無意識の内にすがることになる。この幻想は、彼の独自存在(私)が実体的で外的な霊的世界により覆われ、あるいは、曇らされるときの本能的な恐れに打ち勝つのを助ける。ここで述べられたことに対する洞察を有する者は、物質的-感覚的な人間の「背後」にエーテル的な人間存在を、そして、物質的、感覚的な世界の背後に超感覚的なエーテル的・元素的世界を認めるようになる。物質的な意識が感覚世界の中で自立的でも実体的でもない思考を見出すように、霊視的な意識は元素的な世界の中である程度の自立性を有する実体を見出す。この元素的な世界に精通してくると、より大きな関連の中で部分的に自立した実体を見るようになる。最初、物質的な人体の四肢が部分的な独立性を有しているように見えたとしても、その後、全身の一部として存在しているのが分かるように、超感覚的な意識にとって、元素的な世界の独自存在たちはひとつの大きな霊体の生きた四肢として統括される。そして、超感覚的な経験の進展により、その霊体が地球の元素的な・超感覚的な生命体であることが理解される。この地球生命体の内部では、エーテル的な人間存在そのものが、ひとつの四肢として感じられる。 霊視における進歩とは元素的な世界の存在に精通することである。この世界は様々な種類の存在たちによって生気を与えられている。これらの実体的な力の活動を表現しようとするなら、彼らの様々な特徴を像によって示すことしかできない。そこにいるのは、恒常性、堅牢性、重さへと突き進むあらゆるものと類縁であることが分かる存在たちである。彼らを地の魂と呼ぶことができる。そして、知ったかぶりや生半可な真実の説教と思われることを恐れずに云えば、「グノーム」について語ることができる。その特徴から、空気の、水の、火の魂と呼ぶことができる存在たちが見いだされる。しかし、そのとき、別の存在たちもまた現れる。確かに、これらの存在たちは元素的でエーテル的な存在たちのように現れるが、彼らのエーテル的な存在性の中には、元素的な世界の実在性よりもさらに高次の種類の何かが差し込んでいるのが認められる。単なる物質的な意識によっては、人間の真の存在に近づくことができないように、元素的な世界にまでしか手が届かない超感覚的な認識段階においては、これらの存在の真の在り方に近づくことはできないことが分かる。 前述の、仮に地の、水の、空気の、火の魂と名づけられ得る存在たちは、ある意味で、地球の元素的な生命体の内部に彼らの活動の場を有している。彼らはそこに彼らの課題を有しているのである。より高次のものとして特徴づけられた存在たちの活動は地球の領域を超えたところにまで到達する。超感覚的な体験の中で彼らをさらに知るようになれば、人は意識を保ちながら彼自身が地球の領域を超えたところへと霊的に導かれることになる。人が見るのは、この地球の領域がいかにして別のものから構築されたかということ、そして、その中に発達させている霊的な核から、将来、いかにしてひとつのさらなる領域、ある意味で「新しい地球」を生じさせることができるのかということである。そこから地球が構築された世界を何故古い「月惑星」と呼ぶことができるのか、そして、地球がそこに向かって苦闘している将来の世界を何故「木星」と呼ぶことができるのか、ということについては私の「神秘学」の中で述べた。実際、「古い月」の中には、地球世界がその変容を通してそこから生じたところの遥か昔に過ぎ去った世界が見られ、地球世界がそこに向かって苦闘している将来の世界は霊的には「木星」として理解されるのである。*ここまでの要約/ZUSAMMENFASSUNG DES VORANGEHENDEN○繊細なエーテル的人間存在が物質的な人間の基礎になっている。 この存在は、物質的な人間が物質的な環境の中にあるように、エーテル的な環境の中にある。エーテル的な外界は地球の超感覚的な生命体へと編成されている。これは古い世界である月世界が変容した存在として、そして、未来の世界としての木星世界への準備状態として生じる。以上のことから、図式的には人間を次のように考察することができる。 I.「物質的、感覚的な環境中の物質的な体」:それによって、人は自分を自立した独自存在(私)として認識する。 Ⅱ.「元素的な環境中の繊細な(エーテル的な)体」:それによって、人は自分を地球生命体の一員として、また、間接的には、3つの連続した惑星状態の一員として認識する。哲学・思想ランキング
2023年09月16日
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「霊的世界の入口/DIE SCHWELLE DER GEISTIGEN WELT」2:霊的世界の認識について 霊的世界の事象や存在に少しずつ近づくべく、自ら拡張し変容する概念が与えるものを日常的な魂的生活の中で観察するならば、精神科学の成果への洞察が容易になる。この道を辛抱強く選ぶことがなければ、霊的な世界を物理的あるいは感覚的な世界にあまりにも似たものとして表象しようとする誘惑に簡単に負けてしまうことになる。確かに、この道を抜きにしては、霊そのものやその人間に対する関係について適切な表象を得るということは決してないだろう。霊的な出来事や存在たちは、人がその魂にそれらの知覚に向けた準備をさせたとき、彼の方に近づいてくる。それらが近づいてくる仕方は、物理的な事実や存在たちの出現とは全く異なるものである。しかし、記憶のプロセスを魂の前に据えてみるならば、この全く異なる種類の出現についてひとつの表象を得ることができる。 いくらか以前に人が何かを体験したとしよう。それはある特定の瞬間に、あれこれの機会を通じて、魂的な体験の地下から湧き上がってくる。人は、そのようにして湧き上がってくるものがある体験に対応していることを知っており、それをこの体験に結びつける。回想の瞬間に人が有するのは、その体験の「非同時的」な記憶像以外の何ものでもない。今、その人の魂の中にひとつの像が湧き上がってくる。それはひとつの記憶像のようではあるが、この像は以前に経験した何かではなく、その魂には何か未知のものを表現しているというような仕方で湧き上がってくるように思われる。それによって、人は、この「魂」にとってそれに対する準備が十分に整ったとき、いかにその魂の中に霊的な世界が初めて現れるかということについてのひとつの表象を得たことになる。一方、霊的世界の事情にあまり通じていない者は、あらゆる「想像上の」霊的体験は、単に魂がそのようなものだとは気づかず、そのため、それを霊的世界の啓示であると見なしているところの多かれ少なかれ不明瞭な記憶像以上のものではないという異議をいつも唱える。さて、この領域においては、幻想と現実を区別するのは困難なことであるということは決して否定されるべきものではない。確かに、超感覚的な世界からの知覚を有していると信じている人の多くは、本当はそのようなものであるとは知らずに、彼らの記憶像に取り組んでいるに過ぎない。ここで全く明確に見るためには、何が幻想の源泉であり得るかについて、多くのことを知っていなければならない。例えば、その印象が十分に意識の中には浸透しないほど一瞬それを見さえすれば、それが後になって、恐らく全く姿を変えて生き生きとした像として現われるということがあり得る。人は自分がそのできごとに関わる何かを有していたとは全く思わず、本物の霊感を得ていると確信するのである。このことやその他多くのことがらは、精神科学の特性に慣れていない者には、霊視についての報告が最高に疑わしいものに見えるということを完全に理解可能なものとする。私の著作「いかにしてより高次の世界の認識を獲得するか」の中で霊視の修練について語られたことすべてを注意深く順守する者には、この領域において幻想と現実を見分ける可能性が与えられる。とはいえ、これに関連して、やはり次のことにも触れておく必要があるだろう。霊的な認識はいずれにしてもまず像として現れる。それらは、それに向けて準備が整った魂の奥底から、そのような像として浮かび上がってくるのである。そこで問題となるのは、これらの像に対する正しい関係を獲得することである。それらがどんな現れ方をしたとしても、それら自身のことであると間違っても受け取られないようにするとき初めて、それらは超感覚的な知覚にとって価値あるものとなる。それらがそのように受け取られるやいなや、それらには通常の夢以上の価値はほとんどなくなる。それらは人が文字を眼前にするかのようにして現れるのでなければならない。人はこれらの文字の形を目で追うのではなく、それらの文字によって表現されるものをその中に読み取るのである。何らかの書かれたものが文字の形を記述することを要求するものではないように、霊視の内容を構成する像は、それらをそのようなものとして解釈するのではなく、その像としての存在性から完全に目を逸らし、それによって超感覚的な事象あるいは存在として表現されるものへと魂を導く必要性をもたらす。それによって以前は全く知らなかった何かを知ることになる手紙が以前から知っている文字だけから構成されているといって誰も異議を唱えたりしないように、超感覚的な意識による像に向かって、日常生活から借りてきたものだけを含んでいると言われる所以もない。確かに、それはある程度正しいが、本当の超感覚的な意識にとって重要なのは、そのように日常生活から借りてきたものではなく、像の中で自らを表現するものなのである。いずれにしても、魂はまずそのような像が霊的な眼差しの中に現れるのを見るための準備をしなければならない。しかし、それに加えて、これらの像に留まるのではなく、それらを正しいやり方で超感覚的な世界に関連づけるために、細心の注意を払って感情を訓練しなければならない。真の霊視には、単に像の世界を見る能力だけではなく、感覚の世界における「読む」ことに比肩する別のものもまた属している。超感覚的な世界とは、さしあたり完全に日常的な意識の外に横たわっている何かとして表象すべきものである。この意識は、それによってこの世界に貫き至ることができるようなものを何も持ち合わせていない。瞑想によって強化された魂的生活の力を通して、まず、魂による超感覚的な世界との「接触」が行われる。そのことを通して、魂的生活の流れから特徴的な像が浮かび上がってくるのである。そのようなものとしてのこれらの像は、実際には、完全に魂そのものから織りなされる一幅の絵巻物である。それも、魂自身が感覚の世界の中で獲得した力から、それは織りなされているのである。像の織物として、それは記憶に比肩し得るもの以外には実際何も含んでいない。霊視的な意識を理解するためには、このことをもっと明確にしておく方が良いであろう。そうすれば、像の本性について幻想に陥ることはなくなる。そして、それによってそれらの像を超感覚的な世界に関連づけるべき方法のための正しい感情を修練することになる。人は、それらの像を通して、超感覚的な世界において「読む」ことを学ぶのである。感覚的な世界の印象を通してこの世界の存在や事象の傍らに立つ方が、当然のことながら、超感覚的に観照された超感覚的な世界の像を通してそうするよりも遥かに近いものがある。さしあたり、これらの像は、魂が超感覚的な世界に触れられたと感じるとき、その魂がその世界の前に自らかけたカーテンのようなものであるとさえ言える。重要なのは、人が経験を重ねながら超感覚的な事物に少しずつ精通していくことである。適切な解釈、正しい読解は、経験の中で徐々に生じるものである。意義深い超感覚的な体験には自分自身の観照を通して生じるものがあるが、人はそれをいかなる日常的な経験の記憶像にも関連づけることができない。にもかかわらず、ある種の超感覚的な認識についての確信を得た人たち、あるいは少なくとも得たと信じている人たちについて言えば、この分野において多くの不合理な主張がなされることが確かにある。輪廻転生について確信している何と多くの人たちが、彼らの魂の中に生じる何らかの像を以前の地上生での体験に関係づけることであろうか。これらの像があれこれの点で現在の生に似た先行する地上生を指示しているように見えるとき、あるいは、「知性により」その想像上の前世から容易に現世を把握できるように見えるときには、いつも疑い深くあらねばならない。先行する地上生の真の印象が「実際の」超感覚的な体験の中で生じるときには、大体において、この前世は、人が現世から思いつくものすべてや、現世のための願望や苦闘のすべてをもってしても、決して思い描くことができなかった、あるいは、想像で思い描こうともしなかったようなものである。例えば、現世のある瞬間に前世の印象を感じ取ることがあるが、前世において所有していた能力その他を自分のものにすることは全く不可能である。そのような意義深い霊的体験のために、日常生活の思い出であり得るような像が立ち現れることは決してなく、これらの像の大半は日常的な経験の中では全く思いもよらないようなものである。完全に超感覚的な世界からの真の印象については、遥かに高いレベルでそう云える。したがって、例えば、地上生と地上生の間の存在状態や、以前の地上生における最後の死と現世における誕生との間の生に関連する像を現在の生から構成する可能性は全くないということがよくある。人が地上生の中で人や物に向けて発達させる嗜好とは完全に矛盾する嗜好を霊的な生の中では発達させていた、という経験をすることがある。人が地上生において喜んで取り組むように促される何かを、以前の死と誕生の間の霊的な生の中では嫌がって避けていたということが分かるのである。この事象への思い出として日常的な体験から湧き上がってくる可能性のあるものすべては、霊的な世界からの真の知覚を通して得られる印象とは違ったものとなるはずである。物事が今説明されたような状態であるとしても、精神科学に通じていない者はそれでもやはり異議を唱えるであろう。彼は次のように言うことができるかも知れない。「いいかい、君には好きなものがあるだろう。人間の本性とは複雑なものだ。それぞれの嗜好には、隠された嫌悪感が混じっている。当のものについても、ある特定の瞬間に、それが君にわき起こってくるのだ。君はそれを誕生前の経験だと考えるかも知れないが、恐らく無意識的な魂的事実から全く自然に解明されるよ」と。一般に、そのような異議に対して、確かに彼は大体において正しいだろうとしかほとんど言いようがない超感覚的意識の認識を「疑いの余地なく」得るというのは簡単なことではない。とはいえ、「思い違いした」霊の探求者が思い違いをして、意識下の事実を誕生前の霊的な生の認識に関連づけ得るということが事実であるように、精神科学的な修練によって、意識下の魂的状態をも包含し、その関連で、幻想からも自由であり得るような自己認識へと導かれるということもまた事実なのである。しかし、ここでは、超感覚的な世界に由来するものを、単に自分の表象が形成したものから区別することができる超感覚的な認識のみが「本物」であるということだけを主張しておこう。とはいえ、この区別する能力は、超感覚的な世界に精通する中で、ちょうど、感覚世界の中で、熱い鉄に指で触れるのと単なる想像上の熱い鉄とが区別されるように、この分野においても、知覚が想像からしっかりと区別されるというような仕方で獲得されることになるのである。哲学・思想ランキング
2023年09月15日
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「霊的世界の入口/DIE SCHWELLE DER GEISTIGEN WELT」1:人が思考に対して持ち得る信頼、及び瞑想により思考する魂の本質 人間の思考は、目覚めた日常意識にとって、印象、感情、感覚等の中で進行する魂的生活の流れのただ中にあるひとつの島のようなものである。人は印象や感情を理解したとき、言い換えれば、それらに照明を当てる思考を把握したとき、それらの印象や感情をある程度完遂したことになる。魂の船が思考という島に漕ぎ着けたとき、自我は情動や熱情の嵐の中にあっても、何らかの平安を得ることができるのである。魂は本来、思考に対する信頼を有している。もし、この信頼がなければ、人生におけるあらゆる確かさが失われるに違いないと感じているのである。思考に対する疑いが生じたとき、魂の健全な生活は終わりを告げる。何らかのことに関して、思考における明晰さの中に入っていくことができない場合でも、ただ思考の十分な力と鋭利さをかき集めることができれば、明晰さは自ずと生じる筈だという慰めを持つことはできるに違いない。何かを思考によって明晰さへともたらすことができないという自分の無力さに対しては落ち着いていられるとしても、ある特別な生活状況により、十全たる光に到達することが不可欠な領域に追い込まれている場合、思考そのものが満足をもたらすことはないだろうと考えることに人は耐えられない。思考に対するこの魂の気分は認識へと向かう人類のあらゆる努力の根底に横たわっている。その気分は特定の魂的状態によって弱められる可能性がある。魂の暗い感情の中では、それはいつでも検出可能な状態にある。思考の有効性と力そのものに疑いを抱くような考え方はその魂の基本的な気分を見誤っている。というのも、ある種の過剰を通して、疑いと謎を彼にもたらしているのは、やはり多くの場合、そもそも彼の思考の鋭さだからである。思考を本当には信頼できないのであれば、やはり単に思考の結果であるところの疑いと謎が根絶されることはない。思考に関連してここで示唆された感情を自分の中で発展させる者は、単に自分の中で人間の魂的力として構築するものだけを思考の中に感知するのではなく、彼や彼の魂に全く依存せず、それ自身の内にひとつの世界実質を担っているような何かをもその中に感知する。人が何らかのものの中で生きようとするのであれば、それに向けて努力しなければならない世界実質とは、彼に属していると同時に、彼には依存しない世界にも属している のである。思考生活に専念できるということには、何か深い平安がある。魂はそのような生活の中で自分自身から解き放たれると感じる。とはいえ、魂はそれと同時に、正反対のもの、すなわち、完全に「自分自身の内に居られる」という感情を必要としている。魂の健全な生活に不可欠な振り子のリズムは双方の感情の中に横たわっているのである。基本的には、睡眠と覚醒はこのリズムの究極の現れに過ぎない。覚醒時には、魂は自分自身の内にあり、それ自身の生を生きている。睡眠時には、一般的な世界体験の中へと自らを解消し、またある意味では自分自身から解放されるのである。魂の振り子の両方向への振れは内的な体験の様々に異なる状態によって表現される。そして、魂にとって、感情、感覚、情動などが「自分自身の内にあること」であるのと同様、思考の中に生きることは自分自身から解放されることでもある。そのように見るならば、思考が魂に提供するのは、世界から疎外されているという感情に対抗するために必要な慰めである。人が「次から次へと走り去る一般的な世界事象の流れの中で、私にとってしか意味をなさない私の感情、私の望みや意志を持つ私とは何者なのかと感じるのは当然のことである。人が思考の中での生を正しく感じ取るやいなや、そのような感情に対して、人は「これらの世界事象に関連する思考はお前をお前の魂とともに受け入れる。お前がその事象の本質を思考によってお前の中に流れ込ませるとき、お前はその事象の中に生きる。」という別の感情を対置する。そのとき、人は世界によって受けとめられ、その中で自らが正当化されていると感じることができる。そのとき、この魂の気分から、魂にとってのひとつの力づけが生じるが、魂はそれをあたかも世界の力そのものから賢明なる法則に従って送り届けられたもののように感じるのである。この感情から、「単に私が考えているのではなく、世界の生成が私で考え、私の中で自らを打ち明けているのだ、私は単に世界がそこで思考として生きていくための舞台を提供しているに過ぎない。」と魂に言わせる段階まではもうそれほど遠くはない。この感情はあれこれの哲学によって拒絶される。「人間の魂の中での世界の自己思考」という今述べた考え方を全くの間違いであるとすることは、様々な根拠に基づいて、一見完全に説得力があるものとされ得るのである。それに対して、このような考え方は、内的な体験を通して、苦労して獲得されるようなものであるということが理解されなければならない。そのようにしてそれを手に入れた者にしてはじめて、その有効性を完全に理解し、いかなる「反証」もその有効性を揺るがすことはできないということを知るのである。それを自分で手に入れた者は、幾多の「反証」や「証拠」にどれ程の価値があるのかを直ちに全く明確に理解する。それらの内容の証明力についてまだ間違った表象を有する可能性がある限り、それらはしばしば実に的確なもののように見える。そのとき、そのような「証拠」をそれ自体で権威あるものと見なす人達と了解し合うのは困難である。これらの人達は、まだ自分の中で内的な努力をしていないので、間違って、恐らく愚かにも彼らに生じるものの承認へと彼をもたらした他の人達を誤って信じることになるのである。自ら精神科学への道を志す人にとって、ここで示した正に思考についての瞑想のように、瞑想することが有効である。そのような人にとってやはり問題となるのは、彼の魂を精神的な世界への扉を開く状態にもたらすかどうかである。もし、魂が自分の中に入り込もうとしている霊的な事実あるいはその告知に何も注意を払わないのであれば、この扉は最も鋭敏な思考、最も完成された科学性にも閉じられたままに留まる。 「私は自分が宇宙事象の流れとひとつになって思考するのを感じる」という魂の気分の中にいかなる力づけが横たわっているかを繰り返し感じ取るならば、霊的な認識の把握にとって良い準備となり得る。その場合、これらの思考に値する抽象的な理解が問題なのではなく、そのような思考が内面生活を通して力強く流れ、魂的な生活の中に霊的な生命の風のように広がるときに体験するような、賦活する働きをその魂の中に感じることの方が遥かに重要である。そのような思考の中に横たわっているものの理解だけではなく、それを体験することが重要なのである。十全たる信じる力をもってそれが魂の中に現存するとき、はじめてそれは理解される。霊的な世界、及びその存在や事象を理解するための機が熟すべきであるとすれば、それが理解された後も、それは魂の中で何度でも活性化させられなければならない。魂はそれ以外の思考、感情、記憶等々を排除することで、それだけを魂の中に存在させながら、繰り返し完全にそれで自らを満たさなければならない。そのように、ひとつの透徹した考えに繰り返し自己集中することで、日常生活においてはある程度分散している力が魂の中に結集する。魂は自分自身の中で自分を強めるのである。この結集された力が霊的な世界とその真理のための知覚器官となる。 上で示唆されたことによって、正しい瞑想のプロセスを知ることができる。まず、日常的な生活や意識が提供する手段によって洞察可能なひとつの考えにできるだけ集中する。次に、この考えの中に何度も沈潜しつつ、それと完全にひとつになる。そのようにして理解された考えとともに生きることによって魂は強化されるのである。ここでは思考の本質そのものから取り上げられた考えが例として選ばれたが、それはそれが瞑想にとって特別に実り多いものだからである。とはいえ、瞑想に関連してここで述べられたことは、先に説明したやり方で獲得されるそれぞれの考えについても有効である。 上で示唆した魂的生活における振り子のリズムから生じる魂の気分を知っていることで、それは瞑想にとって非常に実り多いものとなる。それによって最も確実に、瞑想の中で霊的な世界に直接触れられたという感情に至るのである。そして、この感情は健全な瞑想によるひとつの成果である。この感情は覚醒時におけるその他すべての日常生活の内容へとその力を及ぼす。それは必ずしもその瞑想の気分の直接的な印象のようなものがいつもそこにあるということではなく、その瞑想体験によって人生全体に活力が漲(みなぎ)ると言い得るような仕方でその力を及ぼすのである。もし、その瞑想の気分が常に存在する印象のように日常生活を通して流れていくならば、この生活の天真爛漫さを乱すような何かをその上に浴びせることになる。そうなると、その気分は、正に瞑想時において、十分に強く、そして、十分に純粋であることができなくなる。瞑想が正しく結実するのは、正にその気分とともに他の生活部分から突出することによってである。瞑想は、何か特別なもの、高められたものと感じられるとき、その他の生活部分に対しても、最も良く働きかけるのである。哲学・思想ランキング
2023年09月14日
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「霊的世界の入口/DIE SCHWELLE DER GEISTIGEN WELT」序論:本書では、霊的な認識が感覚の世界と霊的な世界を隔てている境界を越えるときに見られるような世界と人間存在の諸部分について、いくつかの記述が格言の形で与えられる筈である。それは系統的な表現でもなければ、何らかの関連で求められるような完成品でもないが、霊的な体験から試みられた自由な仕方によるいくつかの記述である。この関連で言えば、本書は昨年出版された「人間の自己認識への道」と同様、私の他の著作を補完し、拡張するものである。とはいえ、ここで追及されたのは、他の著作に関する知識なしでも、それ自体で読まれ得るような表現である。精神科学の認識へと本当に分け入ろうとする者であれば、人生の霊的な領域は常に新たな側面から考察できることが必要であると感じる筈である。確かに、個々のそのような表現には一面性がつきまとうというのは当然のことである。このことは、感覚世界に関してよりも、霊的な領域の記述について遥かによく当てはまる。したがって、一度受け入れたひとつの表現に満足する者は、霊的な認識に本当に熱心であるとは言い難い。私としては、そのような記述によって、霊的な世界の認識に向けてここで暗示されたような仕方で熱心に取り組む人の役に立てればと願っている。したがって、私の著作の中で何らかの観点から記述された霊的な事実は、いつも別の観点から表現するよう試みている。そのような表現は、ある人物や事象が様々な観点から描写される場合のように、互いが互いを補完する。ある一定の観点からなされるそのような個々の記述は、別の観点からでは明らかにならないような認識を述べる機会ともなる。自ら霊視を試みようとする者にとって、瞑想の素材としてのさらなる手掛かりとなるものもまた本書の中で提供される。これらの手掛かりをそれに相応しい仕方で魂的な生活に適用しようと試みるならば、それに気づく筈である。M?nchen, im August 1913 Rudolf Steiner1913 年 8 月 ミュンヘンにてルドルフ・シュタイナー哲学・思想ランキング
2023年09月13日
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「四次元/Die Vierte Dimension」数学と現実第二部 質疑応答 ドルナハ 1922年12月29日 ◎討論:講義を聴いてお分かりと思いますが、私たちは触れることのできる空間と視覚的な空間を区別しなければなりません。この違いは、一方では数学についての、他方では物理的な世界についての考察を越えて進むように私たちを促します。私の連続講義を聴いてお分かりかと思いますが、数学は人間精神から、あるいは人間そのものから産み出されたということが真実であることに変わりはありません。そして、私たちが純粋に数学的な領域、それは数学的な意味で規定される領域、その中にますます入り込むにしたがって、私たちはますます現実を包括的に理解することが少なくなります。皆さんは現代の人々が数学を用いて現実を記述しようとしたとき、繰り返し生じてきた困難をご覧になってきました。例えば、もし、皆さんが無限に大きな球から平面へと移行することを考えるならば、皆さんはこの投影幾何学の基礎と、現実についての私たちの通常の考え、私たちの周囲の世界との経験的な相互作用に基づく考えとを調和させることは殆んどできないでしょう。したがって、私たちの仕事は、そして適切な教育というバックグラウンドを持っている多くの人々はそれに向けて大いに働かなければならないでしょうが、非常に具体的な領域で、現実を理解するために数学的な考えを用いるように努めるということです。この点に関して、ひとつ問題を提起してみたいと思います。その問題を成功裏に解くことができるのは、数学者たちがそれに向けた真剣な取り組みを実際に始めるときだけです。私は触ることができる空間について理論的な説明を行いました。今、私たちの触覚という地上的な経験のすべて、実際、それこそ私たちが取り扱っているものなのですが、それを必然的に取り込むような仕方でこの空間を扱ってみてください。私たちは、それに本来的に備わっている次元性を含めて、私たちの触覚経験のすべてを重力に対する私たちの関係性の中に組み込まなければなりません。私たちは重力の影響下にあり、そして、周辺の異なる方向からやって来る種々の求心的な力が微分方程式を立てることを可能にします。触ることができる空間に関しては、私たちはこれらの方程式を、分析幾何学や分析動力学の中で、決定された動きに対する方程式を扱うような仕方で扱わなければなりません。そのとき、これらの方程式を積算することが可能になりますが、それは触ることができる空間における私たちの経験に対する特定の積を私たちに与えます。一方、微分はいつも私たちを現実から遠ざけます。 これらの微分を積算することによって、一昨日皆さんにお話しした図式が得られます。もし、皆さんがそれらの現実へと回帰しようとするのであれば、皆さんは私がその講義で示したようにしなければなりません。現実に触ることができる領域においては、積分方程式を用いて作業しなければならないのです。触るということに関しては、垂直の次元が一定の微分を有していますが、そのため、この式における変数xにはプラスかマイナスの符号がついていなければなりません。このことによって、触ることができる空間についての私たちの経験に対する積分式を立てることが可能になります。そのことを次の式で表してみましょう。 ∫f(x)dy その結果、触ることができる空間についての私たちの経験に対する積が得られます。さて、先に進んで、視覚的な空間にこの同じ原則を適用してみましょう。ここでもまた、私たちは、分析幾何学や分析動力学の中で決定された動きに対する方程式を扱うのと同じ仕方で扱うべき微分方程式を立てなければなりません。その積分では、全く同様の積が得られるのですが、最初の式では、変数xの符号が正であったことを考慮してその積は負であると考えなければなりません。細かいことはすべて省略しますが、積分をこのように扱うときには、ひとつの解が得られ、それはまた別の方程式へと導きます。 ∫f(x)dy けれども、それぞれの式から別の式を差し引きすると、それらは互いに打ち消し合い、その結果、ゼロに近づきます。つまり、視覚空間に対して積分するときには、触れることができる空間に対する積分を打ち消すような積分結果が得られるのです。そして、触れることができる空間に対する積分で思い出すのは、それはより広範なものですが、一般の分析幾何学や動力学に関連した状況や関係性のために必要とされる方程式の多くです。唯一の相違は、動力学の方程式には重力が含まれなければならないということです。もし、視覚の空間的な側面を数学的な言葉で表現する正しい方法を見つけることができさえすれば、私は視覚的な空間に対して適用可能と考えられる積分を得ます。私たちがいつも行っているのは、些細な例から始めて、視覚についての解釈を構築し、そして、視覚空間を考えるときには避けられない垂直方向の動きを考慮しなければならないのを忘れてしまうということです。私たちは、視覚はいつでも重力とは反対の方向に働くことを強いられるということを認めなければなりません。この事実を考慮すると、積分を一方では動力学に、他方では光学に関連づけることが可能になります。このようにして、私たちは、現実の状況を包括する使用可能な積分において、動力学、光学、あるいは、その他のものを定式化します。しかしながら、積分間の差がゼロであるというのは全く正しいというわけではありません。それはひとつの微分であり、ゼロと書く代わりに、このように書かなければなりません。 dx=∫-∫ ; □□□+□□- もし、そのような積分と、その結果得られる微分を繰り返し探求することで、dxに対応する微分方程式に導かれるとすれば、dxがここでは正、そして、ここでは負であると考えるとき、dxは数学的な意味で虚数であることが分かるでしょう。けれども、もし、その結果として得られる微分方程式を積分するならば、その結果は驚くべきものです。皆さんがその問題を正しく解くならば、皆さんは自分でそれを経験することができます。このステップは音響、音響式へと導くのです。こうすれば、皆さんは、内在する現実を理解するために、本当に数学を用いたことになります。皆さんは、垂直軸上の下方には動力学、上方には視覚、何故なら、光は負の重力に等しいからですが、それを配さなければならないのに対して、聴くことは水平軸上において生じるということを学びました。皆さんがこれらの計算式を立てるときには、ラグランジの等式の結果として、一方には数学があり、他方には物理学があるという不一致が観察されるばかりではなく、この基礎の上に、数学と物理学の領域においてなされ得る仕事が、以前、系統発生学の領域において私が指摘した仕事と正に同じくらい生産的であるということがお分かりになるでしょう。この線に沿って、単に記述的な考察を通してではなく、これらのことをやり遂げることによって、私たちは現代の自然科学と人智学の間の違いを見いだします。私たちは私たちの計算が具体的な現実にしっかりと根付いたものであることを示さなければならないでしょう。(了)哲学・思想ランキング
2023年09月12日
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「四次元/Die Vierte Dimension」数学と現実第二部 質疑応答 ハーグ 1922年4月12日 Ⅲ 相対性理論と人智学◎質問:アインシュタインは、時間-空間連続体は四次元的であると言っています。もし、私の理解が正しければ、あなたは、四次元は二次元になる、何故なら、四次元は負の三次元だからと言いました。これはイマジネーションの世界とアインシュタインの連続体との間には結びつきがあるという意味で説明されるべきなのでしょうか。通常の科学的な思考にしたがえば、そのような空間とは平面であると結論せざるを得ないと思います。ですから、イマジネーション的な世界は三次元空間中における非常に特別な平面であるということになりそうです。それは真っ直ぐである必要はなく、同じ場所に留まる必要もないかも知れませんが、それはいかなる瞬間においても、その存在を確かめることができなければならないでしょう。このテーマについての私の考えは恐らく人智学の線に沿ってはいないかも知れませんが、それについて人智学が何を語るのかを知りたいと思います。答弁:いくつかのコメントを除いて、あなたの考えは人智学の線に沿ったものです。私が付け加えたいのは、抽象的なレベルではなく、現実のレベルで、私たちが三次元から四次元への移行を試みるときには、私たちは四次元を記述するために負の記号を用いなければならないというのは完全に正しいということです。それは、ちょうど、負債が貯蓄をキャンセルするように、四次元への移行は単に三次元を取り除く、つまりキャンセルするということです。状況をそのようにイメージする以外に方法はありません。けれども、もし、私たちが単に抽象的に性急であるならば、私たちはますます多くの次元からなる存在形式を取る「無限の後退」へと至ります。けれども、これは抽象的な方法を続けるということであり、状況を実際に見ることに根ざしたものではありません。私たちがイマジネーション的な世界に入るとき、私たちは本当に、幾何学から借りてきた表現を用いるならば、平面の世界に直面するのです。私たちは時間という平面の世界に直面します。この世界の奇妙な特徴のひとつは、もはや空間における第三の次元に戻って関連づけられないということです。このことを理解するのは難しいのですが、皆さんは合成幾何学において類似の状況を見いだすでしょう。そこでは、もし、実際に三次元世界に境界を課すとすれば、三次元性の境界を表面として、球面というよりはむしろ平坦な表面として考えるように強いられます。つまり、合成幾何学は三次元空間が平面によって境界づけられていると仮定します。皆さんが三次元性の境界へと至るとき、皆さんが見いだすのは平面ですが、その限界は、今度は円というよりはむしろ直線として想像されなければならず、そして、この直線はふたつというよりはむしろひとつの終点を有しています。この時点において、皆さんの思考と知覚は、平面を三次元空間の境界として、直線を平面の境界として、そして、直線の限界として無限に遠いひとつの点について考えることがどんなに首尾一貫したものであろうと、完全に一致することが不可能となります。合成幾何学にとっては、これらの考えは現実的なものです。合成幾何学はイマジネーション的な世界の中で発達する知覚へとその働きを及ぼします。しかし、私たちがイマジネーション的な世界は平面の中に横たわっていると言うとき、私たちはこの平面を、その配座を規定することによって、三次元空間に関連づけることはできないのです。それは三次元空間から引き上げられ、どこにでもあり、あらゆるところにあるものとなります。このことを想像するのが難しいのは、私たちが三次元空間の中で視覚化することに慣れているからです。けれども、イマジネーション的な世界は三次元空間中に横たわっているのではなく、三次元性についての規範はそれには当てはまらないのです。 私たちがイマジネーション的な世界に類似したものを芸術の中に見いだすのは、色を基盤として絵を描くときです。私たちがそれを行うとき、私たちは平坦な表面上で作業しますが、そうではなく、もし、私たちが曲がった表面上で作業するとしても、その曲面は描くということの中にその起源を持つのではなく、別の状況に発するものです。私たちが平面上に描くとき、私たちの可能性は描写される遠近法に限定されません。皆さんもご存じのように、それは比較的最近発見されたことです。遠近法が現れたのは絵画の歴史の中でも非常に最近のことであり、わずか数世紀前のことです。けれども、描写される遠近法に加えて、私たちは色に本来備わっている遠近法を用いることができます。私たちはそのような原理をドルナッハにおける私たちの絵画の中で用いてきました。思考というよりはむしろ感情と色の基盤の上では、黄色は私たちに向かってあまりにも強く向かってくるために、それはほとんど攻撃的と言えるほどです。反対に、私たちが青を用いて描くときには、それは退きます。しかし、どちらの色も同じ表面上にあります。このように、二次元的な広がりだけしか使えないときでも、三次元的な現象を表現することができます。これは単に皆さんが状況を視覚化するのを助けるための例であって、イマジネーション的な世界は絵画の世界と同じではありません。 あなたがあなたの質問の中で表現した考えは人智学にとっても全く真実なのですが、本当に、イマジネーション的な世界がアインシュタインの連続体との結びつきを有していると無条件で言うことはできません。アインシュタインの連続体は知覚というよりは抽象に基づいています。その第四の次元は他の三つの次元と類似のものとして構築されますが、空間中における客観的な認識から、最初にイマジネーションとして現れ、第三の次元がその負号によってキャンセルされることによってのみ空間的な意味で表現することができる真の超感覚的な認識へと私たちが移行するときには、それを受け入れることはできません。次に私が述べようとしていることは、人によっては非常に挑戦的なことのように思われるかも知れませんが、それでも、それは私が経験したことです。現実には、状況はこのように見えます。つまり、皆さんが健全な常識を持って客観的な世界の中で活動するとき、皆さんの方向性は空間の三つの次元だけから導き出されます。最初の次元は皆さんの直立姿勢の中に、第二の次元は皆さんの左右の次元の中に、そして、第三の次元は皆さんが両の目で焦点を合わせることの中に本来備わったものです。皆さんがイマジネーション的な世界の中にいるときには、皆さんはこれら三つの次元の中に住んでいるのではありません。そこでは、皆さんは二つの次元の中だけに住んでいます。もし、私がこれらの次元の空間中での位置を示すべきであるならば、私は人間を通る垂直の断面を取らなければならないでしょう。イマジネーションにおいては、上下と左右の次元についてだけ語ることができるのです。皆さんがイマジネーション的な世界の中で移動するとき、皆さんが持ち歩くのはこれらの次元だけです。それらは空間中の配座システムに関連しているということができないのは、この理由によります。ユークリッド幾何学の意味でそれらを規定することはできません。けれども、それらは私たちの知覚にとっては現実的なものです。イマジネーション的な世界の文脈の中で三次元について語ることは無意味です。私たちは、二次元性についての経験、客観的な世界においては持つことができない経験を扱っているのだということに気づくべきです。イマジネーション的な世界においてはふたつの次元が、インスピレーション的な世界においてはひとつの次元だけが現実なのです。すべてのインスピレーションは、もし、私たちがそれらを本当に空間に割り当てたいのであれば上下に動きます。直接に対象を捉えるインテュイション(直感・予感)は点のようですが、それを配座システムに関連づけることはできません。私たちは、これらのより高次の領域においては、ユークリッド空間に立ち戻ることはできないのです。(了)哲学・思想ランキング
2023年09月11日
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「四次元/Die Vierte Dimension」数学と現実第二部 質疑応答 ハーグ 1922年4月12日 Ⅱ 相対性理論についての疑問◎質問:相対性理論について答弁:相対性理論についての議論には際限がありません。三次元空間における宇宙的なできごとに対する観察者としての私たちの視点からこの理論に反対することはできません。つまり、知覚される空間に基づいて相対性理論に反対することは不可能なのです。もちろん、私たちの知覚に関する限り、球が平面化していたとしても、空間全体が球の平面化の方向に内的に拡張していたとしても同じことです。ですから、私たちが三次元空間からの見方を扱っている限り、アインシュタインの相対性理論は完全に正しいのです。この理論が現れたのは、人間進化と科学の歴史において、私たちが最初に純粋に空間的な意味で考えることができるようになった、つまり、非ユークリッド空間の意味においてであろうが、相対性理論の意味においてであろうが、ユークリッド空間を私たちの出発点として捉えながら、何とか考えることができるようになった正にその瞬間でした。三次元空間の中では、アインシュタインの相対性理論に異を唱えることは不可能なのです。(図67a)図67a この理論に対する反論の可能性を議論し始めることができるのは、いかにしてエーテルの領域へと移行するか。つまり、三次元空間の体からエーテル体への移行ですが、それを見いだすときだけです。エーテル体は遠心的というよりも求心的に形成されます。皆さんは、皆さんのエーテル体の中で、空間の全体性において生きています。例えば、AとBの間の距離についての皆さんの知覚は、あるときはこのようであり、またあるときはこのようになります。この現象に気づけば、皆さんは、これらの点の内、どちらかが絶対的な意味で動いていなければならない、と言うことができますが、それを行うためには、皆さんは皆さん自身が空間の全体性の中に立っていなければなりません。その時点で議論が可能になるのです。このようなわけですから、私は相対性理論に関する現在の概念を巡る私たちの議論のすべては次の質問で終わらざるを得ないと確信しています。「それで、どうしてそれが分かるというのですか。」と。それとは対照的に、私たちが内的な知覚、絶対的なるものが見いだされる領域へと移行するやいなや、私たちは、相対性理論のような問題はニーチェが観察者の立場と呼んだところのもの、そして、その最も極端な例が相対性理論なのですが、それへと私たちが行き着いたことを示しているということに気づくように強いられます。この立場を受け入れる人にとっては、それが誰であれ、相対性理論は単に事実であり、それに対するいかなる反論も不可能です。しかし、それは実際的な考察からは除外され得ます。かつてシュツットガルトの狂信的な相対性論者は、いかに私たちがある一定の方向に動くのも、その反対の方向に動くのも同じことであるかを説明しました。もし、私たちがマッチ箱を一方の手に、マッチをもう一方の手に持っているとすれば、マッチをマッチ箱にこすりつけるのも、マッチ箱をマッチにこすりつけるのも結果は同じです。もちろん、そのような場合には、相対性理論は完全に正しいのですが、私は次のように叫びたくなるのです。「箱を壁に釘付けしてからもう一度やってみてくれ」と。これは相対性理論の価値を打ち消すものでは決してありません。それは単に、ちょうど私たちが二次元空間から深さの次元へと移行することができるように、世界のどこからでも精神的な要素の中へと移行できるということを示しているに過ぎません。そのときには、そしてそのときにだけ、相対性理論は有効であることを止めるのです。相対性理論についての議論が永遠に続く傾向があるというのはそのためですが、それは、観察者の立場からはそれに反論できないという理由によります。その理論に反対するいかなる議論にも反論が可能なのです。 皆さんは、観察者としては、皆さんが観察しているものの外側に立っています。つまり、そのとき、皆さんは主観と客観を厳密に区別しなければならないのですが、皆さんがより高次の認識へと上昇するやいなや、主観も客観もなくなります。このテーマに関しては、恐らくQ&Aの文脈からお話しできることがら以上のお話ができるのですが、さらなる思考へと促すものとして、もうひとつのアイデアを述べておきたいと思います。私たちが観察者の世界に、つまり空間の世界に留まる限りにおいて、相対性理論自体に反論の余地はありません。私たちは、この世界から逃れ出て初めて、単なる観察者としてではなく、対象を経験する、例えば痛みを共有する世界へと入っていくのです。皆さんが他の存在との単なる関係性から、そして、相対性理論が関係性の内部でのみ可能であることは十分理解できる共有された内的経験としての痛みへと移行することを学ぶやいなや、例えて云うならば、この経験が相対的なものかどうかについてあれこれ考える余地はなくなります。こうして、皆さんは、矛盾を作り出したり、矛盾が存在するのでその状況は現実的なものではないと言ったりすることができなくなります。生活の中では、矛盾は現実なのですが、それは生活を構成する存在たちが、異なってはいるけれども交差している領域に属しているからです。皆さんが現実的なものへと移行するやいなや、存在するいかなる矛盾も解かれなければならないと言うことはもはや許されないのです。もし、それが現実であるならば、それを解くことはできません。私がここで言いたいのは、相対性理論が関係性の世界において発達するのは自然なことであるということです。もし、観察者の立場が唯一可能な観点であるとすれば、この理論に対するいかなる反論も不可能です。けれども、私たちが存在達の中に、そして、痛みや楽しみの中に巻き込まれるようになるやいなや、相対性理論を維持することはもはや不可能になるのです。(了)哲学・思想ランキング
2023年09月10日
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「四次元/Die Vierte Dimension」数学と現実第二部 質疑応答 ハーグ 1922年4月12日 Ⅰ- より高次元の空間について◎質問:より高次元の空間についての質問答弁:通常の軸配座系は三次元空間を記述すると云うことができます。図式的にお話しするならば、私たちはある種の代数的な仮定に基づいて先に進み、そして、私たちを平面から三次元空間へと導いた過程を抽象的なレベルで繰り返します。その結果は、四次元、五次元、あるいはn次元空間です。私たちはヒントンのテサラクトのような図形を構築することさえできるのです。けれども、テサラクトは現実の図形ではなく、単に、真のテサラクトの三次元空間への投影です。純粋に理論的、抽象的なレベルでは、そのような演繹をしても何の問題もありません。理論的なレベルでは、私たちは時間の中で、単に、式や計算を使い、私たちが行っている飛躍、つまり、それが飛躍であるのは、時間の中への移動は第一次元から第二次元、そして第三次元への移動とは異なるからですが、その飛躍を考慮しながら、時間の中で三次元空間から四次元空間へと移動することさえできます。最初の移動過程を洗練させることによって、本当に時間の中への移行が可能になるのです。その結果は抽象的な四次元空間です。私たちは、私たちが行っていることを視覚化する必要がない限りにおいて、抽象的で、純粋に知的なレベルに留まることができます。けれども、私たちがそれを行おうとするとき、私たちは弾性の問題に突き当たる一方で、私たちの純粋に抽象的な思考のつながりは「無限の後退」へと導いていきます。私たちは、さしあたり、振り子は単に際限なく振れ続けると想像することもできますが、動力学的には、振動があるだけです。それが現実の状況です。私たちがイマジネーション的な知覚のレベルへと上昇するときには、四次元やそれ以上の次元があると仮定しつつ、単にそのプロセスをいつまでも繰り返すことはできません。一次元を表すために+a、二次元に+b、三次元に+cの表記を用いるとして、もし、私たちが現実の空間を記述しているならば、四次元を+dのように書くことはできないのです。そうではなく、現実の状況は私たちに-cと書くように強制します。第四の次元は単に第三の次元を無効にし、二つの次元だけが残るのです。ですから、そのプロセスの最後に、私たちに残されるのは4つではなく、2つの次元だけです。同様に、もし、第五の次元があると仮定するならば、それには-bの、そして、第六の次元には-aの表記を用いなければなりません。つまり、私たちは点へと帰ってきます。弾性の法則によって、私たちは出発点へと帰ってきたのです。この現象はイマジネーションの中に、つまり、主観的な実験としてですが、存在しているだけではなく、一昨日お話ししたような仕方で、ひとつの現実になるのです。(図66a)図66a 私たちがこの地球の表面、そして、この植物の根を見ている限りは、私たちは重力の特定の表現を取り扱いながら、空間における通常の次元の内部に留まっています。けれども、私たちが花の形を説明しようと試みるときには、これらの通常の次元はもはや十分ではありません。私たちは私たちの出発点としての軸の交点について語る代わりに、正にそのような点の対極にある無限の空間から始めなければなりません。外に向かって遠心的に動く代わりに、内に向かって求心的に動かなければならないのです。その結果得られるのは波打つ表面です。遠方へと散逸するのではなく、外から圧力が行使されるのですが、その結果は滑るような、撫でるような動きです。圧力の結果であるそのような動きは、軸の交点を私たちの配座の出発点とすることによっては正確に記述することができません。その代わり、私たちは無限に大きな球を配座の中心にしなければなりません。そして、配座はすべて中心に向かって動かなければなりません。つまり、私たちはエーテルの領域に入るやいなや、通常の配座系の正反対、質的にも正反対なのですが、それであるところの軸配座システムを適用する必要があるのです。エーテルに関する物理学の通常の理論は、この違いを考慮しないという間違いを犯しているので、エーテルを規定するのが難しくなっているのです。それはあるときは液体、あるときは気体と見なされます。中心点から放射する配座システムをエーテルに適用するのは間違いなのです。私たちがエーテルの中に入っていくやいなや、私たちは球を取り上げ、外側から内に向かう全体システムを構築しなければならないのであって、その反対ではありません。(図66b)図66b このような問題が興味深いものとなるのは、数学的に跡づけながら、物理学の領域に入っていくときです。私たちの理論を発達させるということは、非常に現実的なことのように見え始めますが、限界の問題を解くためには大いに貢献するかも知れません。けれども、今のところ、そのような理論は非常にわずかしか理解されていません。例えば、私はかつてある大学の数学の講義でこのテーマを紹介しようとしたことがあります。この講義で、私は、これらが双曲線の接線で、これらがその分岐であるとすると、右側の部分は発散しており、左側の部分は集中していると想像しなければならないと言いました。つまり、完全に正反対のことが起こっているのです。このような考察は私たちを徐々に空間のより具体的な取り扱いへと導くのですが、このような取り扱い方はほとんど受け入れられません。純粋に分析的な数学者たちはしばしば合成幾何学に対していくらか偏見を持っています。けれども、現代の合成幾何学は、純粋に形式的な数学から離れ、経験の問題に取り組むことができるようにします。私たちは、純粋に分析的な幾何学だけを用いている限り、現実の領域に近づくことはできません。分析的な幾何学は座標の終点やそれらの座標軸上の位置などを確立することができるだけです。私たちが線や円だけを用いて構築するときには、イメージによる助けが必要となり、視覚化に頼ることを強いられます。合成幾何学が非常に有用なのは、数学の形式的な側面から離れることを可能にするからです。それは私たちが自然における数学的な要素について考えなければならないことを示しています。(了)哲学・思想ランキング
2023年09月09日
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「四次元/Die Vierte Dimension」数学と現実第二部 質疑応答 ドルナッハ 1921年8月26日 ◎質問:太陽は空間中を螺旋状に移動しており、地球は太陽を追いかけるようにして螺旋状に移動しているのであって、太陽の周りを周回しているわけではないと理解すればよいのでしょうか。答弁:もう少し長い連続講義であったならば、これらの問題をより詳細に議論することは比較的容易だったでしょう。ここでは、ごく簡単にそれらの問題に言及しただけです。その根底に横たわるものを二三の僅かな言葉で述べるのはほとんど不可能です。あなたの質問に答えるに当たっては、精神科学的な探求の結果を簡単に要約することから始めたいと思います。まず、宇宙における空間的な関連について、観察や特定の観点から私たちが引き出す結論は、それがいかなるものであれ、いつも一面的なものなのですが、プトレマイオスの太陽系が一面的な観点を示しているように、コペルニクスのモデルを含む他のすべての太陽系に関するモデルもまた一面的なものです。移動する物体間の関係についての私たちの結論は私たちの特定の観点に基づいていますが、これらの関係はその観点からは測定され得ない動きによって不可避的に補足され、変化させられます。以上の前提を注意事項として述べましたが、私たちが地球と太陽の動きの関係についての見方を発達させるのに役立つ別の精神科学的な発見について考えるということを皆さんにお願いしたいと思います。太陽は空間中で曲線を描いて移動していると想像しなければなりません。もし、この曲線を十分に遠くまで辿るならば、それは複雑な螺旋形状をしていることが分かります。それを簡単にしたものはこのように見えます(図65a)。図65a 地球は太陽を追いかけて同じ軌道を進みます。皆さんが太陽との関係で地球がどこに位置しているかを考察するならば、地球がここにあるときには、観察者が太陽を見るためには、右の方を見なければならないということが分かります。さて、可能性のある別の配置を図示してみましょう(図65b)。図65b 矢印は見る方向を示しています。最初の例では、ある一方向からの視点で太陽を見ましたが、今は反対方向からの視点でそれを見ます。容易に理解できると思いますが、このモデルを正確に視覚化するならば、地球は太陽を追いかけていますから、私たちは最初に一方向から、そして、次に別の方向から太陽を見ることになり、地球が太陽の周りを円周状あるいは楕円状の軌道を描いて回っているように見えるのです。この動きの第一義的な要素、つまり、地球が太陽を追いかけているという事実は、ある別の関係性によって、さらに明確にすることができますが、それを説明するとすれば、何時間もかかってしまうでしょう。けれども、肝心なのは、単に私たちの見る方向だけが回転するという点です。 お話ししたように、この要約は長期にわたる精神科学的な探求の結果を示すものですが、その他の関係を考慮するとすれば、さらに複雑なことになります。太陽の動きについてのよりよい概観を得ようとするとき、私たちが気づかなければならないのは、コペルニクスの体系を生徒のために描いてみせるために私たちが使う単純な線がますます複雑になり、ついには全く描くこともできず、すべてが空間の領域から滑り落ちてしまうということです。私が精神科学の観点からお話ししようとしたのはこのようなことです。物理的な科学の歴史的な観点からコメントするならば、上で概観した探求の結果について、今日、非常に衝撃的であると思われることは、コペルニクス的な見方の中に本来備わっているものです。コペルニクスは三つの法則を考え出しました。最初の法則は、地球が自転しているということ、第二の法則は、地球が太陽の周りを公転しているということ、第三の法則は、概念的なレベルでは、地球の公転は単に暫定的な説明を提供するに過ぎないということです。ところが、実際には、地球の太陽に対する関係は固定的なものなのです。この第三法則は、コペルニクスがその第二の動き、つまり、太陽を巡る地球の回転を記述したとき、それは単にある種の計算を便利に行うための方便として仮定したのだということを確信しており、それを事実として述べるつもりはなかったということを証明しています。今日、私たちはいつもこの第三法則を無視し、太陽系に関するコペルニクスのモデルは第一と第二法則だけを包含していると思いこんでいます。けれども、もし、私たちがコペルニクスの観点を本当に研究するならば、単に天文学的な計算に基づくだけで、この第三法則は本当に必要なものであるということがすぐに分かるでしょう。ご存じのように、このようなことは科学の歴史の中ではよく起こることです。(了)哲学・思想ランキング
2023年09月08日
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「四次元/Die Vierte Dimension」数学と現実第二部 質疑応答 ドルナッハ 1921年4月7日 答弁後半:空間の抽象的な概念 私たちは、我々人間としての空間の経験を出発点としなければなりません。私たちは、私たち自身の活動による経験の結果として、実際には、空間におけるたったひとつの次元、つまり、深さの次元だけを知覚します。この深さに関する能動的な知覚は、私たちが殆ど見逃している私たちの意識の中のプロセスに基づいています。けれども、この能動的な知覚は、平面についての思考、つまり、二つの次元における広がりについての思考とは非常に異なったものなのです。私たちが両の目で世界を見るとき、これら二つの次元は私たち自身の魂による活動の結果ではありません。それらは与えられたものとしてそこにあります。しかし、第三の次元は、通常は意識化されない活動の結果として生じます。私たちは深さ方向を認識するために、つまり、ある対象が私たちからどのくらい離れているかを知るためにそれに働きかける必要があります。私たちは平面の広がりに働きかけることはありません、それは直接的な知覚として私たちに与えられます。一方、深さ方向の次元には、私たちは二つの目を使って実際に働きかけます。私たちが深さを経験するその仕方は、意識と無意識の間の境界のきわめて近くに横たわっています。けれども、私たちがそのような過程に注意を払うことを学ぶとき、深さを推し量るという決して十全には意識的ではない活動、それはせいぜい半意識的あるいは1/3意識的なものですが、対象を単に平面において見るときよりも、理性的な活動、つまり、活動的な魂の経過に対して、より近いところにあるということが分かります。このように、私たちが三次元空間の中のひとつの次元を能動的に獲得するということは、私たちの客観的な意識を代表するものです。そして、私たちは、私たちの直立姿勢が深さ方向の次元、つまり、前方と後方に貢献しており、そのことがその次元を他の次元と交換不可能なものにしていると云わざるを得ません。個々の人間にとって、深さの次元は他の次元とは交換不可能なのです。二次元性についての私たちの知覚は、これら二つの次元、つまり上下左右が私たちの目の前にあるときでさえ、脳の他の部分に関連づけられています。この知覚は見るという知覚プロセスに本来備わったものであるのに対して、第三の次元が私たちに生じるのは、理性の活動に関連した脳の中心にきわめて近いところに位置する部分においてです。ですから、私たちの経験という意味においても、第三の次元は他の二つの次元とは非常に異なった仕方で生じるのです。けれども、私たちは、イマジネーションのレベルにまで上昇するとき、第三の次元についての経験を置き去りにし、二つの次元において見ることになります。ちょうど通常の意識において、前後を経験するためには、私たちが十分には意識していない働きが必要とされるように、このレベルにおいては、私たちは左右を経験するための活動をしなければなりません。そして、最後に、私たちがインスピレーションのレベルにまで上昇するときには、上下の次元についても同じことが言えるようになります。私たちの通常の知覚であるところの神経に関連した知覚に関する限り、私たちは第三の次元を経験するために働きかけを行わなければなりません。けれども、私たちがこのシステムの通常の活動を排除し、直接リズム系に向かうときには、私たちは第二の次元を経験します。ある意味で、これは私たちがイマジネーションのレベルにまで上昇するときに起こることです。私はこのことを非常に正確に表現してきたというわけではありませんが、今のところはそれで問題はないでしょう。そして、私たちが第一の次元を経験するのは、私たちがインスピレーションのレベル、つまり、私たちの人間としての有機体を構成する第三のものにまで上昇するときです。私たちが抽象的な空間の中で出会うものは正にそのように見えるところのものであるということが分かります。しかし、それは私たちが数学的に達成するものはすべて私たち自身の内部からやって来るという理由によります。数学的に導かれる三重の空間とは、私たちが私たち自身の中から導き出すような何かなのです。私たちが超感覚的な知覚レベルを通って下へと赴くとき、結果として得られるのは、三つの同等の次元を有する抽象的な空間ではなく、むしろ、前後、左右、上下という三つの異なった次元ごとに得られる三つの異なった価値です。これらの次元は相互に入れ替えることはできません。そのとき、私たちは、x、y、そしてz軸が同じ強度を有していると想像する必要もないという結論に至ります。しかし、それは、ユークリッド空間においては、それら三つの次元に本質的なものとして想像されていることです。もし、私たちが分析幾何学の式に忠実であろうとするならば、私たちは、x、y、そしてz軸をその強度において同じものとして見なければなりません。もし、私たちがx軸を、まるでそれが弾力を持っているかのように、ある一定の強度で引き延ばしながら大きくするならば、y軸とz軸も同じ強度で成長しなければなりません。言い換えれば、ひとつの次元を拡張するために、ある一定の強さを適用するならば、その拡張する力は三つの軸すべて、つまり、ユークリッド空間の三つの次元すべてに対して同等のものでなければなりません。私がこの型の空間を「固定された空間」と呼ぶのはそのためです。固定された空間は現実の空間が抽象化されたものですが、それは人間の内部から発達してくるものであり、同じ強度でという原則は現実の空間には当てはまりません。現実の空間について考えるときには、拡張する強度は三つの次元すべてにとって同等であるとはもはや云えないのです。そうではなく、それは空間的な拡張強度の結果として生じる人間の比率に依存しています。例えば、y軸、つまり上下の方向を見てください。私たちはその拡張強度を、左右の方向に対応するx軸のそれよりも大きいものとして想像しなければなりません。現実空間の抽象的な表現である定式は、私たちはこの定式もまたひとつの抽象であるということに注意しなければなりませんが、三つの軸に関して楕円を描きます。超感覚的な知覚はこの三軸空間が三つの非常に異なる拡張の可能性を有していることに存しています。私たちの物質体は三つの軸に関する直接的な経験を提供しますが、そのような経験が私たちに告げるのは、この空間もまたその内部に存在する天体の影響における相互関係を表現しているということです。私たちはまた、このようにして空間を視覚化するとき、三次元宇宙に存在するものとして私たちが考えるものすべては、ユークリッド空間における場合のように、x、y、そしてz軸の拡張強度が同じであるとするならば、説明することができないということを考慮しなければなりません。私たちは宇宙を、三つの軸を持つ楕円に対応させながら、それ自身の配置を有するものとして想像しなければなりません。ある種の星の配置は、この考えが正しいことを示唆しています。例えば、私たちは普通、天の川はレンズのような形をしていると言います。それが球状であるとはとても想像できません。もし、私たちが物理学的な事実に適合したいのであれば、それを別様に想像する方法を見つけなければなりません。私たちが空間を取り扱うその方法は現代の思考と自然との一致がいかに貧弱なものであるかを示しています。太古の時代と文化においては、固定された空間の概念が生じるなどということは誰にも起こりませんでした。本来のユークリッド幾何学が三つの等価な拡張強度と三つの垂直軸からなる固定された空間についての明確な考えを取り入れていたということさえできないのです。空間に関する抽象的な概念は、抽象性が私たちの思考の本質的な特徴となり、ユークリッド空間に計算を適用し始めたかなり最近の時代になってから現れたに過ぎません。太古の時代の人々にとって入手可能な知識は、今日、超感覚的な洞察に基づいて、再び発達させられることができるところのものに非常に似たものでした。お分かりのように、私たちが今日(こんにち)深く寄りかかり、当然のものとしている概念が非常な重要性を持っているのは、それらが現実とはかけ離れた球の中で働くものであるからに過ぎません。今日、私たちが取り扱う空間とはそのようなひとつの抽象なのです。それは現実の経験が私たちに教えるところのいかなるものからも遠く隔たっています。今日、私たちはしばしば抽象的なもので満足します。私たちは経験主義についてあれこれ語りますが、抽象的なものに言及しながら、それに気づいてさえいないということが非常に多いのです。私たちは、現実の世界において現実のことがらを取り扱っていると信じていますが、この関連で、私たちの考えがいかにひどく矯正を必要としているかが分かります。 精神科学者は、彼らが出会う考えごとに、それが論理的であるかどうかを単に問うことはありません。空間に関するリーマンの概念は完全に論理的なのですが、それはある意味でユークリッド空間に依存しています。それを結論に至るまで考え抜くことはできません。それは私たちのアプローチがきわめて抽象的な思考によるものであり、私たちが導き出す結論のひとつによって、この過程における私たちの思考が逆転するからです。精神科学者は、ある考えが論理的であるかどうかを単に問いかけたりはしません。彼らはまたそれが現実に対応しているかどうかを問います。ひとつの考えを受け入れるか拒絶するかを決めるとき、彼らにとっては、それが決定的な要素になるのです。彼らがひとつの考えを受け入れるのは、それが現実に対応しているときだけです。現実への対応は、私たちが相対性理論を正当化するものとしてそのような考えを適切に取り扱い始めるときにも、ひとつの評価指標として用いられるでしょう。この理論は、それ自体、この上なく理論的なものですが、その理由はそれが純粋に論理的な抽象性の領域において理解されているからです。相対性理論ほど論理的なものはありません。けれども、私たちがその上で活動できるかどうかは別の問題です。皆さんは、単にこの理論を補強するために示される類比を眺めるだけで、それらが現実とは非常にかけ離れていることがお分かりになるでしょう。それらは単なる思考の遊びです。相対性理論の擁護者は、これらの考えは単に象徴的なものであって、問題を視覚化するのに役立てるためにあると私たちに言います。けれども、それらは単なる象徴ではありません。それらなしでは、その過程全体が宙に浮いたものになってしまうことでしょう。ですから、あなたの質問に関して私が言おうとしたのはこのようなことです。お分かりのように、そのような領域に関わる質問に対する簡単な答えはありません。(了)哲学・思想ランキング
2023年09月07日
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「四次元/Die Vierte Dimension」数学と現実第二部 質疑応答 ドルナッハ 1921年4月7日 答弁中半:超感覚的な三軸空間 私たちが空間についての抽象的な考えに縛られているかどうかを知るのは重要なことです。私たちは抽象的な空間だけを語ることができるのでしょうか。言い換えれば、もし、この空間についての抽象的な概念が、私たちに語ることが許される唯一のものであるとすれば、ただひとつの反論だけが可能であり、そのひとつの反論というのは、リーマンの幾何学や他の総合幾何学の形態によって十分になされてきたものです。例えば、カントの空間についての定義は健全にも非常に抽象的な空間概念に留まっています。彼の概念は、さしあたり制限がないか、あるいは無限であるかについて注意を払いません。19世紀を通して、この空間についての概念は内容に関しては、内的にも数学によって粉砕されました。際限はないけれども無限ではない空間にカントの定義を適用することを想像することはできません。彼がその「純粋理性批判」の中で後に提示したところの多くのもの、例えば、彼の超越理論は、もし、制限がない曲がった空間の概念で置き換えられなければならないとしたら、揺らぎ始めることでしょう。私はこの曲がった空間の概念がものごとを想像するときの私たちの通常の方法に問題を投げかけるということを知っています。けれども、空間が曲がっているという仮定に対して、純粋に数学的あるいは幾何学的な観点からなし得る唯一の反論は、それが私たちを、さしあたり現実からは非常に隔たっているところの純粋に抽象的な領域へと移行することを強いるということです。この状況をもう少し詳しく見ますと、現代の総合幾何学の起源についての議論には奇妙な循環があるということ、つまり、空間の限界には無関心なユークリッド幾何学の考え方から出発してそれに至るということが分かります。その後で、私たちは球の表面に適用されるような派生的な考えに移行します。これらの派生的なものやそこから結果として導かれる形に基づいて、私たちはある種の置換に取りかかり、そして、それから空間の再説明をすることができるようになるのですが、私たちが述べるあらゆることがらは、ユークリッド的な配座幾何学を前提としているのです。この前提の下に、私たちは一定の曲率を得ます。私たちは派生的なものへと至るのです。この計算はすべてユークリッド幾何学を前提としています。しかし、ここで私たちはターニングポイントに来ました。曲がった形から得たものについての新しい見方や説明に導くことができる別の考えへと至るために私たちが使うのは、他ならぬユークリッド幾何学の助けを借りて発達させた曲率のような考えなのです。私たちの活動は本質的に抽象的なものから抽象的なものを導き出すことによって、現実から離れた領域においてなされます。この活動が正当化されるのは経験的な現実が私たちをそのような抽象から得られる結果に合わせるように強いるときだけです。ですから、その質問は、抽象的な空間は私たちの経験とどこで対応しているのか。そのようなものとしての空間、ユークリッドが想像したような空間は抽象的なものであるが、その知覚可能な経験的側面はどこにあるのかということになります。哲学・思想ランキング
2023年09月06日
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「四次元/Die Vierte Dimension」数学と現実第二部 質疑応答 ドルナッハ 1921年4月7日前半:無限と無際限の概念◎質問:空間の三つの次元はその構造において異なるといわれていますが、どこにその違いはあるのでしょうか。答弁:この質問は「空間の三つの次元はその構造において異なる」というような形で定式化されたことはありません。あなたが言及しているのは恐らく次のような考えについてでしょう。 第一に、数学的な空間がありますが、何れにしても、何らかの正確さをもってそれを本当に想像するならばですが、私たちはそれを、三つの直交する軸上の座標軸系によって規定される三つの直交する次元あるいは方向から成っているものとして想像します。私たちが通常の数学的な観点からこの空間について考察するときには、これら三つの次元をそれらがあたかも正確に同じものであるかのように扱います。私たちは、上下、左右、前後という次元の間の違いをほとんど問題にせず、それらはお互いに交換することができるとさえ信じています。単に数学的な空間の意味では、x軸とz軸がつくる平面、それらもまたお互いに直交していますのに直角のy軸上の平面が「水平」であるといっても、「垂直」であるといっても、結局のところ違いはありません。私たちは、この型の空間が境界づけられているかどうかにも同様に関心を払いませんが、そのことは、私たちが通常はそれを際限がないものとして想像するところにまでは到達しないということを意味してはいません。私たちは単にその限界を気にしないだけです。私たちは、例えばx軸上のどの点からでも、終点に至ることなく、どこまでもその軸上を動き続けることができると想像しているのです。19世紀を通して、総合幾何学はこのユークリッドの空間概念に対立する多くの考えを提示してきました。例えば、少し思い出して頂きたいのですが、リーマンは空間に際限がないということと空間が無限であるといいうこととを区別していました。純粋に概念的な指向の観点からも、際限がないことと無限であることが同一であると仮定する必要はありません。結局のところ、皆さんが以前に描いた図を分割することはもちろん可能ですが、皆さんが球の表面に留まる限り、皆さんを立ち止まらせるように強いる境界に行き着くことは決してできません。ですから、球の表面は、皆さんの描画能力に関して言えば、際限がないと言うことができます。けれども、このことは、そのような表面が無限であると主張していることを意味していません。このように、純粋に概念的なレベルでは、私たちは際限がないことと無限であることとを区別することができるのです。 ある数学的な条件下では、この区別はまた空間全体にまで拡張することができます。もし、私たちが、x軸あるいはy軸に線分を付け加え続けることによってそれを延長していくことを決して妨げられないと想像するならば、この空間の特徴はその際限のなさを証明していますが、それが無限であることを証明しません。私が線分を際限なく付け加えていくことができるという事実は、必ずしも空間が無限であるということを意味していません。それは単に制限がないということかも知れないのです。私たちはこれら二つの概念を区別しなければなりません。もし、空間が、際限はないけれども無限ではないものであるならば、それは、ちょうど球面がそうであるように、本来曲がっていて、何らかの仕方で出発点に戻ってくるものであると仮定することができます。現代の総合幾何学におけるある種の考え方のいくつかはそのような仮定に基づいています。これらの仮定に異議を唱えるのは簡単ではありませんが、それは、空間に関する私たちの経験からは、それが無限であると結論づけることができないからです。それは曲がっているだけで、無限ではないとしても問題はないのです。もちろん、最近の総合幾何学のほとんどすべてを説明することなく、この一連の思考を結論にまで持って行くことは私にはできません。しかし、リーマン、ガウス、そして他の人々の論文は容易に手に入ります。そして、もし、あなたがこの種の数学的な考えに興味をお持ちであるならば、思考のための多くの材料をそれらは提供してくれるでしょう。これらは、ユークリッド幾何学の固定した中立的な空間概念に対する純粋に数学的な反論です。これまで私が触れてきた議論のすべては、純粋に、「制限がない」という概念に基づいています。けれども、あなたの質問は他のところにその根拠を持っています。つまり、その根拠とは、私たちの計算にかかる空間や分析幾何学において私たちが出会うような空間、例えば、私たちが三つの直交する座標軸上の配座システムを取り扱うときに出会うような空間とは何か抽象的なものであるという考えです。では、抽象的であるとはどういうことでしょうか。先ず、この質問に答えなければなりません。哲学・思想ランキング
2023年09月05日
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「四次元/Die Vierte Dimension」数学と現実第二部 質疑応答 ドルナッハ 1921年1月15日 人智学的な立場の必要性◎質問:アインシュタインの問題に関する人智学的な立場の必要性についての質問。知覚可能な世界を離れてエーテル的なものに向かうとき、私たちは何故、突然記号を逆転させなければならないのか。答弁:勿論、このことは、特別に人智学的な立場を取ることなく、他の多くの科学分野においてなされているように、単にその現象を研究することによってもなされ得ることです。私は、数ヶ月前、少数の聴衆のためにここで行った講義の中で、いわゆる熱理論の現象に関する偏見のない観点を示しました。その場合、私たちはこれらの現象を数学的な定式の中で表現するように努めなければなりません。そのような定式の奇妙な特徴とは、私たちが観察することができるプロセスに対応した定式だけが、つまり、その結果が現実に対応し、現実によって検証することができるような定式だけが正しいということです。もし、皆さんが、圧力容器の中のガスが熱せられたときに何が起きるかを理解したいのであれば、クラウジウスやその他の人々によって考え出された定式をそれに適用することは可能ですが、それは人為的なものとなります。今日(こんにち)、公式に認められていることですが、事実は定式には一致していません。思考実験の天才アインシュタインの理論との関連で行われた実験を記述するというのは奇妙なことです。これらの実験は、ある理論が正しいという仮定に基づいて設定されましたが、その実験はその理論を確認しなかったので、思考の中だけに存在する実験のみに基づいて、別の理論が打ち立てられました。これとは対照的に、もし、皆さんが熱現象を扱うとき、それが伝導熱であるか放射熱であるかの違いによって、適当な正あるいは負の符号を単に定式に挿入することによって処理しようとするならば、現実が定式を確認するということが分かります。他の推し量ることができないものへと移行するときには、単に符号を負に変えるというのは不十分であり、私たちは確かに別のことも考慮しなければなりません。私たちは、知覚可能な領域における力は放射的に働くのに対して、エーテル的な領域に属する力は周辺からやって来るため、負の値を有しており、円周の内部でのみ働くと想像しなければなりません。このように、私たちが他の推し量ることができないものへと移行するときには、別の対応する値を挿入しなければなりません。そのときには、実際の現象によって検証される定式に至る、ということが分かるでしょう。人智学に関係するかしないかに関わらず、誰でもこのアプローチを取ることができます。 私はここで別の点を強調したいと思います。私がこれらの4つの講義の中で皆さんにお伝えしたことは私の人智学的なアプローチから出てきた、と考えるべきではありません。私がこれらのことがらをお話ししたのは、それらが真実だからです。いわゆる人智学的なアプローチは現象を予測するのではなく、現象から結果として生じるのです。それは適切な概観の結果に過ぎません。私たちが偏見なく対象やできごとを認め、理解しようとするならば、その結果として、人智学的なアプローチが生じることができるのです。もし、私たちが自分の出発点として偏った観点を取らなければならないとしたら、私が皆さんにお話ししたことに対する見通しは貧弱なものになるかも知れませんが、そういうことではありません。私たちは厳密に経験的な基礎の上に立って、適切な現象を追求しなければなりません。それでも私は、人智学的なアプローチがベストである、と主張したいのですが、それは単に結局はその結論になったということに過ぎません。 *別の質問に答えた後、ルドルフ・シュタイナーは次のように結論づけた。 私が繰り返して強調することができるのは、ここシュツットガルトで発展している人智学を指向した精神科学は党派的あるいはアマチュア的な運動ではないということだけです。確かにその力はまだ弱いものですが、それは現実的で権威ある科学を目指しています。皆さんが精神科学を検証すればするほど、ますます皆さんは、それはいかなる科学的な検証方法にも耐え得るものであるということに気づかれるでしょう。精神科学が今日被っている多くの誤解は、真に科学的なアプローチがなされた結果として生じたものではありません。その敵対者達が精神科学と戦うのは、彼ら自身があまりにも科学的過ぎるからではなく、十分に科学的ではないからです。そのことはさらなる検証によって示されるでしょう。けれども、未来において、私たちはより少なく科学的になるのではなく、むしろより科学的にならなければなりません。科学は真の発達を遂げるべきです。つまり、科学は、私たちを物質の領域へと導いたのと同様の正確さをもって、私たちを精神的な領域へと導かなければなりません。(了)哲学・思想ランキング
2023年09月04日
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「四次元/Die Vierte Dimension」数学と現実第二部 質疑応答 ドルナッハ 1920年10月15日 答弁後半部: さて、これからふたつの対極を示すことにします。これは理論とは無関係のように見えますが、実際には大いに関係があります。何故なら、これらのことがらすべては理論以上のものを取り扱っているのであって、それは、もし、私たちのそれについての思考が健全なものであれば、正され得るものであるからです。現実に問題となるのは健全な思考、単に論理的ではない思考を発達させる必要があるということなのですが、その理由は、論理は数学にも適用されるということによります。私たちは論理を数学の中に取り込むことができるのですが、その結果、完全に首尾一貫した構造、つまり、首尾一貫しているにもかかわらず、現実に適用される必要が全くない構造が得られるのです。私たちがこれまでに到達したのは、ものごとはいかなる真の現実感覚をも欠いている行儀の悪い思考方法をいかに当てにしていることか、ということを示すことができる地点です。一方で、ここに現代科学が提供すべきあらゆるものを要約しょうと試みる本があります。この有名な本は、何万という部数、恐らくは7乃至8万部が既に売れていると思われるオズワルド・シュペングラーの「西洋の没落」ですが、ご承知のように、このことはその4、5倍の数の人々がこの本を読んだということを意味しています。このことからも、それが、単にある意味で現代の思想から現れたというだけの理由で、いかに現代の思想にとてつもない影響を及ぼしたかといいうことが分かります。この本の著者は、現代思想が究極的に行き着く先の結果を定式化する勇気を持ち合わせていたのです。シュペングラーはこの本の中で、天文学、歴史、科学、そして芸術が提供すべきあらゆるものを眺望します。彼が大量の証拠を集めたということは私たちも認めざるを得ないでしょう。シュペングラーが真に現代的な天文学者、生物学者、美術史家等の考え方から究極的な結論を引き出す勇気を持っているのは、実際にこのような仕方で考えるからです。例えば、シュペングラーの本は、熱力学の第2法則を明確に証明することができるのと同じくらい明確に、三千年紀の始まりには、西洋文明は完全に野蛮な状態へと堕落しているであろうということもまた証明します。この本は現代文明の没落を示しただけではなく、今日、どのような科学的記述であれ、それを明確に証明することができるのと同様の明確さで将来のできごとをも証明したということを認めなければなりません。現代科学の方法論という意味で、シュペングラーの西洋の没落に関する証明は、いかなる天文学的な証明やその種の証明と比べてみても、確かに有効なものであり、いかなるものであれ相対性理論に関する証明よりは遥かにましなものです。彼の結論の抜け道を探すことができるのは、シュペングラー自身が見ていない要素を見る人たち、つまり、将来において人類にとっての全く新しい衝動を提供することになる人たちだけです。それは人間の最も内奥の核から生まれ出る衝動、現代の思想だけに立脚しているいかなる科学にも見ることのできない衝動です。然し乍ら、シュペングラーの考えとはどのようなものだったのでしょうか。相対性論者とは異なり、オズワルド・シュペングラーは、現実に対応した範疇の中で考えます。けれども、彼が考えることすべてがお互いに整合性がとれているというわけではありません。彼が、天文学、生物学、歴史、建築、彫刻等々について発達させる概念がいつも噛み合っているわけではないのです。それらが形成する構造は、共に成長したいくつかの結晶に比肩できるようなものです。それらはすべて混乱しており、お互いに破壊し合っています。もし、私たちが、シュペングラーの本を読んでいる間、現実感覚を維持しているとするならば、彼の概念は溢れかえっているということが分かります(*保存されていない描画を参照しながら)。オズワルド・シュペングラーは確かにどのように考え、どのように概念を発達させるべきかを知っているのですが、それらはお互いを破壊し合っています。お互いを吹き飛ばし、お互いを切り離しているのです。ひとつの概念がいつも別の概念を無効にするため、全体としては何も残りません。展開するシュペングラーの考え方に私たちの現実感覚を適用するときに見ることができるのは酷(ひど)破壊活動なのです。シュペングラーは現代的な思考におけるひとつの極、異なったあらゆる分野から導き出される概念からひとつの統一を構築する極を代表しています。この傾向に加担する哲学者達は、個々の科学から彼らが導き出すすべての概念が集められ、一点に集約しようとする試みの中で、いわばひとつのシステムへと統合されることができるほどの抽象的なレベルにおいて、あらゆるものを明確に規定します。ところが、それらは一点に集約するかわりに、お互いに粉砕し合い、無効にし合うのです。シュペングラーは現代科学の哲学者として、他の多くの哲学者達に比べてはるかに優れています。他の哲学者達の概念はお互いに破壊し合わないのですが、それは彼らの系統立てがそれらを十分正確に規定する勇気に欠けているからです。他の哲学者達の科学哲学においては、彼らがいわば虎の爪と猫の足とをいつも取り違える結果、個々の科学的な探求における哲学的な帰結と称されるコミカルな構築物が生じてきます。これらの哲学者達をまじめに考察してみるならば、シュペングラーが哲学の習慣にしたがって結果として生じることができるあらゆる科学的なものについてのすべての科学及び認識についての経験を有している、ということが分かります。 他の極もまたひとりの哲学者、つまり、シュペングラーほどの評価は受けていませんが、それでも人気のある哲学者、ヘルマン・カイザーリンク卿によって代表されます。カイザーリンクがオズワルド・シュペングラーと異なるのは、彼の概念のどれひとつとして、いかなる内容も有していないという点においてです。シュペングラーの概念が脂ぎっているのに対して、カイザーリンクのそれは空疎です。後者の概念は決してお互いに矛盾しません。何故なら、それらは、基本的には、中身のない籾殻のような仕事に過ぎないからです。カイザーリンクの唯一の考えと言えるのは、これもまた空の籾殻ですが、精神は魂と結びつかなければならないというものです。カイザーリンク卿は激しく人智学を攻撃します。例えば、「未来」という雑誌の中で、人間を様々な構成要素であるエーテル体、感覚体、感覚魂等々へと分解した咎で私を責め立てたのですが、実際には、人間はひとつの統一体であり、そのようなものとして機能しています。精神は魂と結びつかなければならないという考えは悪魔的なまでに巧妙ですが、実際、賢いという点では、スーツはひとつの統一体であり、個別の構成要素、例えば、ベスト・ズボン・靴等々に分解すべきではないと云う以上のものではありません。それは全体でひとつの統一体ですから、仕立屋に上着とズボンを別々に作らせ、それに合うように靴屋に靴を作らせたりはしません。これらのすべてはそれを身につけている人間の上でひとつの統一体を形成するというのは当たり前のことです。カイザーリンク卿がその抽象的な理想主義の中でそれらはひとつの統一体であると主張したからといって、上着とズボン、それから多分に靴も一着の洋服として縫い合わせるというのはナンセンスです。これが反対の極です。 一方には、お互いを破壊し合う概念のシュペングラーがいて、他方には、全体として空虚な概念のカイザーリンクがいます。多少なりとも現実感覚を有している者にとって、シュペングラーを読み、彼の概念のすべてがお互いにぶつかり合い、お互いを粉砕しながら、お互いの中へと押し進むのを見るのはひとつの拷問です。皆さんはこのすべてを本当に経験させられます。いくらかでも芸術的な感受性を持っている人であれば、特にそうなります。シュペングラーの本は完全に非芸術的な構築物のです。ところが、皆さんがカイザーリンクの本を読むときには、一ページ読むごとに立ち止まって息を吸い込まなければなりません。彼の概念はその内部に空気を有していないのです。思考を形成しようとしても、そこには何もないのです。しかし、当(まさ)にそのために、これらの概念は人々にとってきわめて理解し易く、心地よく感じることができるものとなっています。この不能な無思索家がまた人々に、精神科学によって確認される事実の中にはなにがしかの真実が含まれているかも知れない、しかし、自分は霊感を持っているという連中のひとりではないので、それについて確認することはできず、したがって、それらが真実であると仮定することもできない等々の事柄を告げるときには、特にそうなのです。もちろん、この種の話しは、特に人々が自分自身で必要な証拠を提示することができないときには、折りたたまれ、片づけられてしまいます。そのような人たちが、今日、特に好んで読むのは、自分で確かめるのに苦労するような作家ではなく、そのような事実は確認できませんと認めるような作家なのです。特に、カイザーリンクが芸術について書き散らかしていることがらは皆さんの髪の毛を逆立たせるのに十分なものですが、非常に人気があります。このテーマに関して申し上げるべきことはこれだけです。 「何を」を考えるべきではあるが、「如何に」をもっと真剣に考えるべきであるとゲーテが言うとき、それが何を意味しているかについての感覚を、皆さんはこれまでの議論から発達させているかも知れません。シュペングラーを読むとき、皆さんは「何を」を考えることができますが、それは彼が提示すべき多くの「何を」を持っているからです。しかし、ゲーテは、世界観というものは全体をその配置と組織、そして思考の本来的な調和において、いかに見るかということにかかっているのだ、ということを知っていました。このことは、シュペングラーに関しては、「何を」を考えることになる、と私たちが言う理由です。シュペングラーは確かに「何を」を、それが考えられるべきであるような仕方で、考えるのですが、「如何に」を考えるのには完全に失敗します。ゲーテは、とりわけ、思考はいかに配置されるべきであるかを考えるように促します。カイザーリンクに関しては、彼は「如何に」を有しているように見えると云うことができるでしょう。実際、彼の仕事は「如何に」を束ねたものなのですが、「何を」が、詰まる所ところがないのです。(了)哲学・思想ランキング
2023年09月03日
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「四次元/Die Vierte Dimension」数学と現実第二部 質疑応答 ドルナッハ 1920年10月15日 答弁中半部:霊性太陽系 天体は単純な幾何学的な過程の記述にのみ適うような単純な経緯には従っていません。このことが起こるのは、私たちが、真に人間を含み、人間の中で生じる現象を観察する自然科学の形態へと進んで行くときだけです。これらの現象を考慮することは、私たちが宇宙空間における出来事や経過についての観点を発達させるための助けになるでしょう。ウンガー博士も触れたように、人間は人間的な要素を考慮しない今日の科学から本当に閉め出されているのです。相対性理論のような考え方、そして、それは確かに現実に対応していないのですが、そのような考え方が影響力を持つことができるのは、現代科学があまりにも完全に現実からかけ離れているために、人間の外側にあるあらゆるものを取り扱いながら、その内部で生じることは何ひとつ取り扱わないからであるということに他なりません。人類は現実に即した方法で考えるという技術をもう一度習得し直さなければならないでしょう。ここに石があるとしますと(*記録されていない図を指し示しながら)、皆さんはそれが独立して存在する。少なくともある程度は独立していると見ることができます。すべては皆さんがどのような前提に立っているかにかかっているのです。私たちがその石の境界線の内側にあるものを見るとき、私たちはその石についてのある種の観点を発達させると云うことができます。けれども、今は石ではなく、摘み取ったバラについて考察するとしましょう。私たちは石にとっての現実性を石の境界の内側において割り当てるのと同じ仕方では、バラにとっての現実性を割り当てることはできません。その理由は、摘み取ったバラは独立して存在することができないということによります。それは何か別のものとの関連で発達しなければなりません。私たちは、石はその記述された境界の内側に一定の現実的な存在性を有している、けれども、バラはそうではない。何故なら、それはその根や茎との関わりの中でしか存在し得ないからであるといわなければなりません。もし、私がそれを其の根から引き離すならば、その存在にとっての前提条件はもはや存在しなくなり、維持することが不可能になるのです。私たちは、自己の思考をものごとの中へと沈め、それらのもの自体を考慮する技術を学び直さなければなりません。私たちがこの技術を再び獲得したときにのみ、私たちは、当然の帰結として、例えば、天文学の健全な形態を有していることでしょう。私たちは相対性理論のような恐ろしく抽象的な考えを持たなくても済むようになります。本質的には、相対性理論は真の現実であるところの考えに基づいたものではありません。通常の定式:s=v×t(距離は速度と時間の積に等しい)はきわめて示唆に富んでいます。現実を記述するとすれば、ただ次のようv=s/tに書き表すことができるだけです。私たちが抽象的な方法で現実を把握するときには、現実の対象物の中に存在するあらゆるものを計算することができます。抽象的なレベルでは、多くの異なるものを把握することができるので、抽象性の中に留まったままで多くの異なる計算をすることができるのです。けれども、私たちはこれらの抽象性を現実的なものと信じるべきではありません。無機的な世界においては、速度だけが現実であり、時間と空間は単なる抽象です。ですから、私たちが時間と空間を含む計算を始めるときには、私たちは非現実的なものの領域へと入り込み、そして、ひとたび非現実的な意味で考え始めると、もはや現実へと戻ることはできなくなるのです。ですから、これらの問題は私たちの時代の非常に重要な欠点に関連しています。今日では、自然を理解しようとするとき、人間は精神を完全に無視するようになり、私たちの魂は抽象性に向かうようになりました。ある意味で、抽象性を扱うのはきわめて気持ちのよいことです。何故なら、そのとき、私たちは私たち自身を対象やできごとに沈め込むことを学ぶ必要がないからです。空間や時間の意味で考えることは、定性的な側面に私たち自身を沈めたり、あるいは、何か別のことがらとの関連で、現実的なものとして考えることができるものであれば、何であれ、それによって、現実的な意味で抽象的にではなく考えることができるということに気づいたりすることよりも容易なのです。皆さんはこれから私が言おうとしていることを信じる必要はありませんが、何れにしてもこれは本当のことなのです。思考する能力や現実を理解することへの願望を育てた人間にとって、アインシュタインの相対性理論を読むことは拷問なのですが、それは、アインシュタインが提示する考えのすべては、数学的に非常に首尾一貫したものであるにもかかわらず、多少なりとも現実感覚を持つものにとっては、文字通り考えも及ばないことだからです。そのような思考を追求しても何もなりません。誰かが箱の中に閉じこめられて高速で空間中を飛行し、戻ってみると新しい世代の人々や全く異なる状況があったということについて、アインシュタインが考えたあれこれのことを提示するとき、それには何を意味し、どういう種類の道理にかなっているのでしょうか。私たちがそのような状況について考えるときには、私たちはもちろん空間と時間の意味においてのみ考え、その実験に供されている間に破壊されるかも知れないその人物や物体の外的な体的本性については無視しています。この反論は、相対性についての課題を狂信的に考える人にとっては素朴なもののように見えるでしょうが、現実との関連においては考えざるを得ないことです。現実感覚を持っている人であれば誰であれ、そのような思考を結論に至るまで見通すことはできません。例えば、車を運転しているとき、パンクしたと考えてみましょう。私が乗った車が地上を疾走していると考えるのも、車がじっとしている間に下の地面が動き出していると考えるのも同じだと仮定しましょう。もし、本当に違いがないのだとしたら、車だけに関係する小さな故障のために、地面が突然ぶつかってくるというようなことがどうして起こるのでしょうか。もし、それが同じことだとすれば、この状況をどのように考えればよいのでしょうか。その結果は外的な変化に影響されるはずがありません。前に申し上げたように、相対性の理論家に関する限り、そのような異論は恐ろしく素朴なものかも知れませんが、それらは現実というものを実際に反映しているのです。その思考が抽象性に、首尾一貫した思考を支えているのであれば、抽象性でもよいのですが、そうではなく、現実に根ざしている者であれば誰であれ、そのような問題を指摘しないわけにはいきません。ですから、私たちは基本的には理論的な形態を取る天文学とともに生きているのです。ひとつの古典的な例は、私たちがコペルニクスの3法則を無視していることです。私たちはそれが心地よくないので、脇へ押しのけているのです。それを研究すれば、私たちが慣れている計算を不快に感じることを学ぶことになります。私たちは何をやっているのでしょうか。私たちはコペルニクスの第二法則を適用するのですが、私たちの計算は釣り合いがとれず、正午が間違った場所に行ってしまいます。そこで、私たちはベッセル補正として知られる日々の補正を導入します。けれども、もし、私たちが、それらの示唆するところのものに十分に気づくとすれば、コペルニクスの3法則を考慮する必要性を理解するように、つまり、現実を扱い始めることになります。ここでのポイントは、そのような問題の背後にある原則を認めるということです。現在、私たちがそのような原則を取り扱う方法は私たちをあらゆる方向に彷徨(さまよ)い出させていまいます。シュテッフェン氏の仕事は、認識の特別な領域において、三つのそのような耐え難い道を提示したという点で素晴らしいものです。今日今どき、そのような間違った道に出会うことは珍しくありませんが、それらは現実の生活に影響を及ぼします。私たちは現実を欠く数学から導かれる方法で考えるように訓練されていますが、この型の思考は次第に天才の試金石と言ってもいいようなものになっています。実際、現実感覚というものは、ときとして、天才よりもずっと役に立つのですが、その理由は、もし、皆さんが現実感覚を持っているならば、皆さんは現実の状況の側に留まらなければならないということによります。皆さんは物体やできごとの中に皆さん自身を沈め、それらとともに生きなければなりません。もし、皆さんが現実感覚を持っていなかったとすれば、皆さんは、単に数学的な定式や手法を操作することによって、あらゆる種類の抽象性を、最も天才的な方法で、空間と時間に課すことができます。皆さんは真に驚異的なレベルの抽象性へと上昇することさえできるのです。これらの抽象性は、ときとして、きわめて説得力のあるものとなり得ます。私は現代のセット理論のことを考えているのですが、それは無限を説明するための基礎として用いられてきました。セット理論は数学のまさに原則であるところの数を解消するのですが、その理由は、数を通常の数ではなく、単に人為的に選んだセットを別のセットと比べることによって、個々の実体をそれらの質や順番とは無関係にクラス分けすることによります。セット理論は無限について一定の理論を発達させることを可能にしますが、その間ずっと抽象性の中を泳ぎ回っているのです。具体的な現実の中では、そのような操作を遂行することは不可能です。私たちは徐々に私たち自身を現実の中に沈める必要性を無視することに慣れるようになったという点に注意することが重要です。この関連で、精神科学は本当に誤解を解く必要があります。哲学・思想ランキング
2023年09月02日
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「四次元/Die Vierte Dimension」数学と現実第二部 質疑応答 ドルナッハ 1920年10月15日 答弁前半部:コペルニクス3法則記(参照):ケプラーが発見した惑星の運動に関する三つの法則。 第一法則は、惑星の軌道は楕円でその焦点の一つに太陽がある。 第二法則は、惑星と太陽を結ぶ動径は等時間に等面積を描く。 第三法則は、惑星の太陽からの平均距離の3乗と公転周期の2乗の比は一定である。質問:コペルニクスの3法則についての質問ーー このような短い時間の中でコペルニクスの3法則についてお話しすることはできません。ですから、ただその歴史についてコメントさせていただきます。古いプトレマイオスの体系をひどく揺るがし、天体に関する私たちの見方を革命的に変えたコペルニクスの基本的な仕事を見てみるならば、それが三つの法則を含んでいるということがお分かりになるでしょう。これら三つの法則の最初のものは、太陽の周りを測心円状に回る地球の年周期について語り、第二のものは地球の自軸上の回転、第三のものは季節と歳差運動に関連した地球の年周期について語ります。天文学は発達しましたが、コペルニクスの3法則をその全体性において考察することはできないままです。事実、コペルニクスの後継者達はそれを上手に取り除いているのです。この法則について云えることはそれだけです。それについて包括的な描写を行うとすれば、私たちはここに真夜中までとどまることになるでしょう。彼が手に入れることができた現象に基づいて、コペルニクスは、最初、太陽を巡る地球の周回運動から生じる日々の変化を、彼の3法則が包含する季節、年、そして、より長周期の変化を考慮することなく計算しました。そして、彼は、もし、地球の位置にいて、日々の変化や太陽を巡る地球の周回運動に依存する変化を他の天体との関係で考察するならば、結果として、地球が太陽を周回しているという観点が得られると結論づけました。この観点は季節や歳差運動のような他の現象とは相容れないものであり、そのことは、実際、地球が太陽の周りを回っているという仮定を無効にするものです。地球と他の天体との相互作用を定量化し計算することを可能にするために、私たちはそれを簡略化し、単に一年以上あるいは何世紀以上にも亘って観察することができる変化については無視するのですが、その理由はこれらの変化が太陽を周回する地球の運動に依存する日周変化を複雑にするからです。コペルニクスがその第一及び第二法則の中で表現した仮定に基づいて日周変化を計算すると、地球が太陽の周りを一年で周回しているという結果が得られます。コペルニクス自身が言っているように、もし、私たちが私たちの計算に第三法則を含めるならば、日周運動の計算のために用いた第一法則、つまり、地球の一年の動きを導き出した第一法則の中に含まれる要素を帳消しにし、そのような年周運動を殆んど排除してしまいます。いずれにしても、コペルニクスの3法則は無視されてしまいました。人々は安易に、地球は24時間で自軸上を回転し、その間に、一年で太陽の周りを動くという仕方で前進すると仮定する方を好んだのです。この解決法が容易なのは、太陽は全く動かないというコペルニクスの仮定に教条的にしがみつく限りにおいてです。けれども、私たちはずっと以前に、この仮定を放棄するように強いられました。そして、コペルニクスの3法則は復権させられなければならなかったのです。この課題についてはただ簡単に概略を述べることができるだけですが、申しましたように詳細な数学的、幾何学的な説明をしようとすれば数時間かかってしまうでしょう。もし、私たちがコペルニクスの3法則を本気で取り上げるならば、地球が太陽の周りを回っているという結論にはならないのです。太陽が動いているのです。つまり、もし、地球が太陽の周りを単に回転しているのだとすれば、太陽は地球を追い越してしまうでしょう。地球は太陽の周りを巡ることはできません。何故なら、その間に太陽は地球から遠ざかってしまうでしょうから。現実には、太陽が動き続けているのであって、地球やその他の惑星はそれを追いかけているのです。それはスクリューの軌跡のような線で、一方には太陽があり、別の端には地球があります。私たちが地球と太陽、そして、それらの前進するスクリュー状の動きに二重の焦点を当てることによって、地球が太陽の周りを回っているという幻想が生じるのです。このすべてにおいて興味深い点は、コペルニクスが今日の我々よりももっと進んでいたということです。彼の3法則はコペルニクス以後の天文学上の発展から抜け落ちてしまいました。私たちが地球に関して計算する太陽を巡る年周期を無効にしてしまうようなその他の現象について記述するこの3法則なしに、私たちの天文学は発達してきました。コペルニクスを正当に評価するために、この法則は再び導入されなければなりません。このテーマはそれほど大きな興味を引くことはありません。何故なら、もし、私たちが天文学に対して真に現象論的なアプローチを取るとすれば、私たちは第一に、そして、とりわけ、ブリーデ博士が既に触れたように、私たちが極端に複雑な動きを扱っているのだということに気づかなければならないからです。そして、これらの動きを記述しようとするときに私たちが用いる幾何学上の構成は、単純な幾何学的な過程の記述にのみ適っているということにも気づくことになります。天体はそのような単純な過程には従っていません。ですから、いつも障害が出現し、そして、私たちはさらなる仮定を付け加えることによって補償しなければならなくなります。私たちがそのような仮定を越えていくとき、天文学は全く異なって見えるようになるでしょう。哲学・思想ランキング
2023年09月01日
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