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「神秘学」解析「キリスト存在について」-9 運動霊あるいはデュナミスの行為のことがらのすべてはさらに次のような結果をもたらしました。月の進化が地球の進化へと移行したとき、その過程全体がある意味で繰り返されました。月進化の潮流のただ中に自らを投げ入れた「あの存在たち」は、それと関わりを持とうとしない存在たちに遅れを取ることになりました。また「別の存在たち」はさらに遅れをとることになったのですが、それは彼らが退行する進化に魅了されたからです。 ですから、これらのことが起こった結果、地球進化の間、二種類の天使人間が存在することになりました。先行していた天使人間たちと、後に取り残された天使人間たちです。先行する天使人間たちはレムリア期になると人間への働きかけを開始したのですが、それは人類が人間自我の種子を受け取ることができるまでに成熟していたからです。彼らは人類にいわば選択肢を提示したのですが、それは、月の発達段階以来、宇宙進化の過程に紛れ込んでいたものとはもはや関わりを持たず、精神的な世界に直ちに上昇するというものでした。私たちがルシファー的な存在と呼ぶところの彼らは自我にまで至ることはできませんでした。後に取り残されていた存在たちは人間のアストラル体への働きかけを開始するとともに、「天上の戦い」の結果をアストラル体の中に注入しました。運動霊たちが反抗命令を受けて「天上の戦い」に参加し、「障害の神」となったことから、その行為の結果が人間のアストラル体の中に侵入したのですが、そこではそれは別のより重要な意義を持つことになりました。と申しますのも、そこでの結果は、過ちと悪の可能性に相当しているからです。こうして人間は間違いを犯す可能性と悪の可能性を与えられたのですが、同時に、自分の力で間違いと悪を乗り越えて上昇する能力をも受け取ったのです。 第二ヒエラルキアに属する運動霊あるいはデュナミスのような存在にとっては自ら悪となる可能性は全くなかった。彼らは反逆するように命令されたのだということを考えてみてください。第三ヒエラルキアに属する存在、つまり、人間に最も近い天使だけが、妨害的な運動霊につき従うことも、あるいはつき従わないこともできたのです。屈服しなかったものたちは天上で戦い取られた勝利を描く絵の中に表現されています。それらは人間がアストラル体への受肉、つまり動物人間の段階にまで進んでいた月の進化段階の間に生じることになったものを表現していると考えられます。純粋なままに留まった天使存在たちは、謂わば月進化の過程から自らを引き離し、下方の月上で起こっていることを免れたのです。この図は様々な形で私たちの魂の前に提示されます。それはまずミカエルと龍の相互間の戦いとして表現されているのが見い出されますが、ミトラ教の雄牛の図の中にも非常に明白に表現されているのが分かります。けれども、それらは、これらの天使存在たちは自らの義務を放棄したということを言うために表現されたのではありません。それらによって意図されていたのは、未来のための理想を描くということです。そこで言われていたのは次のようなことです。「これらの存在たちはむしろ精神的な世界に上昇することを好んだが、お前たちは「妨害的な力たち」に従った別の存在たちと共に下降した。今、お前たちが取り入れたものに働きかけ、それを精神的な世界へと運び上げるかどうかはお前たちにかかっている。上方に向かう道上で、お前たちはミカエルや雄牛の征服者になるように求められる。」この種の象徴はこのような二重の意味で説明されなければなりません。ですから、お分かりのように、人類が自分自身の力でその目的を達成する可能性を与えられたのは運動霊たちが反抗命令を受け取ったからに他なりません。それはセラフィームでさえ彼ら自身の努力によっては達成することができない何かです。最も重要なのはこの事実です。セラフィーム、ケルビーム、トローネたちには神によって彼らに与えられた直接的な衝動に従う以外のことはできません。主天使たち、実際には第二ヒエラルキア全体も同様です。ただ運動霊の位階に属するものの一部が反抗する命令を受けただけです。彼らが発展の道筋を横切るように身を投げ出したときにも、彼らには神の命令に従う以外のことはできなかったのです。「悪の源泉」とでも呼べるようなものを引き起こすときでさえ、彼らはただ神の意志を遂行したにすぎません。自らを悪の僕とすることによって、これらの運動霊たちは、悪という回り道によって、善を強化しようとした神の意志を達成したのです。哲学・思想ランキング
2023年04月30日
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「神秘学」解析「キリスト存在について」-8 木星進化と火星進化の中間段階に当たる時代を通して、いささか浅薄な表現をしますと、デュナミスあるいは運動霊の領域に属する一団の存在たちに対して「反抗命令」が出されました。彼らは、前進的な影響を及ぼす代わりに、進化の過程に障害を生じさせるように配置されたのです。このことは「天上の戦い」として私たちに知られるようになりました。これらのいわば「反抗する命令」を受けた運動霊たちの行為は進化の道を横断して投げつけられたのですが、それは、ヒエラルキア存在たちを支配する宇宙の力が自らに、もし、道がなだらかであったとすれば、存在することになるように意図されたものは決して生じないだろうと言ったからです。何かもっと偉大なものが生じなければなりません。 さて、皆さんが荷車を押し、そして、それを前に押すことで、一定の力を発達させると想像してみてください。もし、皆さんが荷車に重い荷物を積むとすれば、皆さんはより強く押さなければなりませんが、そのために皆さんはより大きな力を発達させることにもなります。神が宇宙進化の過程を木星期に至るまで、そしてそれを越えて進めようとしたと想像してみてください。確かに人間はよく進化したかも知れませんが、その進む途上に障害が置かれたとしたら、さらに強くなることもあり得ます。ですから、ある種の運動霊たちが反逆命令を受けなければならなかったのは、人間をよくするためだったのです。当初、彼らは悪の存在ではありませんでした。彼らを悪の力と見なす必要はありません。むしろ、彼らは発達の道筋の上に障害を置くために自らを捧げたと言ってもいいでしょう。ですから、これらの運動霊は、言葉の最も広い意味で、「妨害の神」あるいは「抵抗の神」と呼ぶことができます。これは発達の道に沿って置かれた障害あるいは抵抗の神たちなのですが、それが置かれた瞬間から、未来に達成されるべきあらゆることがらが成し遂げられる可能性が生じたのです。これらの抵抗命令を受けた運動霊たちはまだ彼ら自身が悪の存在であるというわけではなく、反対に、通常の発達過程に反抗することで、彼らは進化の偉大な促進者となったのです。とはいえ、彼らが創り出した嵐の中から次第に悪が生じたために、彼らは悪の創始者となりました。 「抵抗命令を受けた」運動霊にとっては、発達の過程は仲間の運動霊のそれとは非常に異なったものになりました。彼らの活動の影響が非常に異なったものになったことで、「月」の発達過程において、これらの運動霊たちは私たちが「天使」と呼ぶ存在たちの誘惑者となりました。「月」の進化段階において、「天使」たちは人間の段階を通過していました。発達過程における障害の影響を目撃した「天使人間」が「月」の上にいたのです。彼らは自らに次のように言いました。「我々は今これらの障害に立ち向かっていくことができる。「月」進化の流れの中に飛び込むことができる。しかし、我々はそれを差し控えたい。その中に飛び込むのではなく、善き神々と共に上方に留まることを選ぶ」と。これらの天使存在たちは、下方で月の段階が進展する間、その発達の中に障害をもたらした運動霊たちから自らを引き離しました。ところが月の上には、「私たちは彼らには追従しない。何故なら、もし、そうしたとすれば、発達の形式は元に戻り、何も新しいことは起こらないだろうから」と自らに言う別の天使人間たちがいました。確かに、月の発達段階以降、何らかの新しいことが導入されたのは、正に障害が存在していたからなのです。次のように言う存在たちがいました、「私たちは下の方で起こっていることに何も関わりたくはない。私たちは劣った者たちとの交流を望まない運動霊たちとともに留まる」と。 これらの存在たちは、古い月の発達が続いている間、月の塊から離れて、太陽の中で生じていたあらゆることがらに追従する者たちとなりました。彼らは、障害が存在するために放り出されていた月の上で生じていたことがらに関わることを望まなかったのです。しかし、中に飛び込んだその他の者たちは、月の上に発達上の障害が存在していたために、彼らが受け取ることになったあらゆるものを彼らの肉体的な本性の中に取り込まなければなりませんでした。彼らは、もし、そうでなかったとしたら、そうなっていたであろうよりも、もっと自らを硬化させなければならなかったのです。彼らの肉体的な鞘はより濃密なものになり、運動霊による行いの結果をその体の中に担うことになりました。とはいえ、運動霊あるいはデュナミス (dynamis / dunamis) の行為は神的な宇宙計画の中に確実に基礎づけられたものであったということは覚えておかなければなりません。哲学・思想ランキング
2023年04月29日
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「神秘学」解析「キリスト存在について」-7 キュリオテテス、デュナミス、そしてエクスシアイ、あるいは叡智霊・運動霊・形態霊と呼ばれる次のヒエラルキア(階層構成)にまで降りてくると、彼らはもはや神を直接見ることはないと云わなければなりません。彼らには、神をその直接的な形態において、つまり、神そのものを見るということはもはやないのですが、彼らは神の顕現を、つまり、こう言ってよければ、その表情を通して、神が自らを現すのを見るのです。その表情が神であることは彼らにとって明らかです。セラフィーム、ケルビーム、そしてトローネと同様、彼らもまた神によって顕現されたものを実行するための直接的な衝動を受け取ります。その衝動は全く強力であるというわけではありませんが、それでも直接的なものです。セラフィーム、ケルビーム、そしてトローネにとって、神の命令と見られるものを実行しないという可能性はありません-それは考えられないことなのですが、それは彼らが神の近くにいるためです。しかし、キュリオテテス、デュナミス、そしてエクスシアイにとっては、神自身によって意志されないことを行うということもまた同様に問題外のことなのです。とはいえ、世界がさらに進化していくためには、そこに何か非常に特別なことが介入しなければなりませんでした。 さてここで、神秘学的な叡智においてある程度の進歩を達成した人たちにさえ理解するのがいつも困難であったようなテーマを紹介しようと思います。古代の秘儀においては、次のような仕方で、それを理解可能なものにしようとしました。古代の秘儀への参入におけるある特定の段階で、弟子は残虐で恐ろしい形相をした敵対的な力が存在するところへと導かれたのです。そして、その力は、弟子の目の前で、考え得る最も恐ろしい所行を遂行しました。これらのことを行ったのは、他ならぬ仮面をかぶった司祭、仮面をかぶった聖人たちでした。必要な試みを生じさせるために、司祭たちは恐ろしい存在として、幽鬼的な姿に仮装し、考え得る最も恐ろしい所行を遂行したのです。これは何のためだったのでしょうか。秘儀参入者、司祭が悪を行うものの姿で、悪の仮面を被って弟子の前に現れたのは何故でしょうか。発達というものが、正しい道からいかに遠く逸れてしまうものかということを弟子に示すためです。弟子は、悪に直面して立つという幻想を抱くようにさせられました。仮面が取られたときに弟子は初めて真実を見ました。幻想が取り払われたときに初めて、弟子はその場面が試験あるいは試みを創り出すための手段であったことを知りました。弟子を悪に対して強化し、武装させるために、当然のことながら過ちを犯すはずのない司祭によって、それは最も忌まわしい姿で示されたのです。これは宇宙進化の中で実際に生じたことがらの反映に過ぎません。哲学・思想ランキング
2023年04月28日
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「神秘学」解析「キリスト存在について」-6記:ヒエラルキア(hierarchia; hierarchy)原義は「神聖なものの統治」。 キリスト教用語で、位階および位階に応じて組織された支配関係や教会組織の全体を指すが、此処ではディオニュシオス偽書における「天上の位階」を指すものと想われる。人間の魂がいかにして神に至るかをディオニュシオスは終始問題にする。そしてその際決定的となるのが位階(ヒエラルキア)である。位階とは聖なる秩序であり、知識であり、活動である。位階は、到達の段階に応じて、神の姿に似たものになろうとし、神より注ぎ込まれた照明の段階(アナロギア)に応じつつ、神と類似のものに向かって高まってゆく。上の位階は下の位階に対して啓示となり、下の位階にある者は上の位階があることによって神の恵みを受け取ることができるという。具体的に言えば位階には天使の位階と教会の位階がある。 我々はここまで、私たちの太陽系が存在するに至った過程を大まかに概観してきましたが、次のような疑問、つまり、実際には私たちの人間としての祖先であるところのより高次のヒエラルキア存在たちとの関係で、人間はどのような位置にあるのかという疑問が生じました。私たちは最高位にある存在としてのセラフィーム、ケルビーム、そしてトローネから始めることができるでしょう。実際、それらの本性を特徴づけることによって、私たちは人間についての正しい考えに至ることができます。しかし、私たちがセラフィームを越えて行くときには、たちまち聖なる三位一体の領域に入っていくことになります。これこそが、セラフィーム、ケルビーム、そしてトローネが有している特別なこと、宇宙における他の存在たちには手の届かないことです。つまり、彼らには「神を直接見ること」と呼ばれる特権なるものが与えられているのです。彼らは人間がその発達の過程を通して徐々に追い求めなければならないものに初めから与(あずか)っているのです。私たちは、人間として「思考、意志、その他のますます高い力を達成するために、私たちは今日いる場所から始めなければならない。もし、私たちがこれを行うならば、私たちはますます神の側に近づき、神はますます私たちと共にいるようになる。こうして、私たちは、私たちにはまだ隠されているものに向かって自分を発達させなければならない、つまり、「神性」へと近づかなければならないのだ。」と云います。一方にはセラフィーム、ケルビーム、トローネがいて、片方には人間がいますが、これらの間の違いとはこのようなものなのです。精神的なヒエラルキアにおけるこれらのより高次の存在たちは、彼らの発達の最初から、神であるところの聖なる三位一体と共にありました。彼らは正に最初から「神性」を見る位置にいることができたのです。セラフィーム、ケルビーム、そしてトローネにとっては、人間がそこに向かって進まなければならない条件が初めからそこにありました。これらの存在たちは初めから神を見ていたということ、そして、その命がある限り、彼らはいつも神を見ているだろう、ということに気づくことはとても重要なことです。彼らが成し遂げることはすべて神を見ることを通して行われ、神は彼らを通して働きます。彼らの行いがそれとは別様に為される可能性はありません。彼らにとって、それ以外のことを行うのは不可能なのです。神を見るということは強大な力と影響を彼らに及ぼすので、彼らは神が間違いようのない確かさと直接的な衝動をもって命じることを成し遂げます。熟慮とか判断というようなものに似たものは、これらの存在たちの領域には存在していません。彼らには、見たものを実行するための直接的な衝動を受け取るために神が命じるところのものを見るということだけが存在しているのです。彼らは神をその本当の姿において、その通りのものとして見ます。彼らは自分たちを単に神の意志と叡智を実現するものとして考えています。最高次のヒエラルキアが置かれている状況とはこのようなものなのです。記:此の章で注意すべきはセラフィーム、ケルビーム、そしてトローネにしても、画家が象徴的に描く人格化された表象は捨て去るべきだと云うことです。哲学にしろ数多の宗教のうちの神を人格化して表象させない宗教あり、シュタイナーの神秘学でも人間身体形姿をもって人格化された表象の天使は顕われない筈です。霊とは物理学的形姿を持たないとするのが霊学思想の基本的な取り扱いだからです。哲学・思想ランキング
2023年04月27日
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「神秘学」解析「キリスト存在について」-5 我々の惑星地球の形成は古い土星から始まりました。本当にそれはそのように始まったのです。そして、その形成は木星に至るまで継続しました。木星上で全体的な創造が始まったとき、周辺にいる存在たちのすべてもまたその過程に参加しました。けれども、ちょうど内部の存在たちが惑星系を開始し、彼ら自身の発達を継続するために働いたように、外側にいる存在たちもまた周辺から内に向かって働きかけました。ある種の存在たちが中心から外側へと退いたように、外なる宇宙空間の中にいたあの存在たちも同じことをしました。周辺にいた一定の存在たちもまた退いたのです。木星自体が縮小するにしたがって、退いていた存在たちは圧縮して天王星を形成したのです。同様に、火星進化の間には、退いていた存在たちは縮小して海王星を形成しました。天王星や海王星といった名前は、このような事柄に対して古代人たちが相応しい名前を付けたような仕方では、もはや選ばれてはいませんが、それでも、天王星という名前にはまだ重要な何かが残されています。それは、正しい名前をつけるプロセスに関して、人がまだ何かに気付いていた時代に名付けられました。ですから、私たちの惑星系を越えて存在するあらゆるものは、集合的に「天王星」という名前をもって表現されたのです。このように、この二つの惑星(*天王星・海王星)は―私たちの近代天文学はその他の惑星と同列に扱いますが、実際には全く異なる基盤の上に立っており、私たちの世界の形成には特に関係していないのです。それらは、古い土星期の間には私たちといまだに何らかの関係を持っていた存在たちが退き、宇宙の周辺を越えたところにその住む場所を確立したことによって生じた世界を表現しているのです。このことから、例えば、これらの惑星が退化してゆく月を有しているというような多くの事実を導き出すことができます。記:此処にはつい最近に取り消された太陽の第八惑星であった冥王星(*現在では「準惑星」)は登場しません。シュタイナーの神秘体験の神秘性の発現が新実在かどうかは甚だ不透明ではあります。神秘学は「神の啓示」や「仏の覚り」更には「物理学の法則絶対主義」とも一線を画しています。然し乍ら、今時の唯物論的社会科学・唯物史観の論者からは泡沫論とされようとも、シュタイナーの神秘学及びその体験は人間が人生の糧として生きてゆく何らかの参考になる指針としての価値があること、それが第一です。哲学・思想ランキング
2023年04月14日
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「神秘学」解析「キリスト存在について」-4 土星期より前の、地球進化における最初期の時代を通して我々のところへとやって来たところのものすべては、中心へと消え去るものはすべて周囲において再び立ち現れ、外側へと、星座を越えたところへと移されました。太古の叡智では、これは「結晶化した天国」と呼ばれました。以前の進化に属する存在たちの行いはそこに堆積しています。それらは新しい存在たちが創造的になることができるための基盤を構成しているのです。 既にお話ししましたように、このようなことがらを現代的な理解力で理解するのは難しいのですが、それは私たちが物質的な側面だけを考察することに慣れているからです。物質が三次元空間中の一点から消え去って、別の次元を通過した後、どこか別のところに再び戻ってくる、などということを認めることに私たちは慣れていないのです。皆さんが三次元空間の文脈で考えることに留まっている限り、そのことを把握することはできません。なぜなら、この現象は三次元空間を超越しているからです。ですから、それは別の側から再び三次元空間中に入ってくるまで見ることはできません。その間、それは別の次元の中に存在しています。このことは私たちが理解しておくべきことがらです。と申しますのも、宇宙創造の諸側面はこの上なく複雑な仕方でお互いに関連し合っているからです。ある場所にある何かは、三次元空間中の全く異なる場所に見いだされる別の何かと複雑な仕方で結びつけられているのです。記:シュタイナーが霊的世界の土星期前の世界をどのように神秘体験したかは想像しかねますが、現代先端宇宙科学の「超ひも理論」の折り畳まれた多次元世界を連想させます。三次元までしか認識出来えない人間が仮に多次元に入り込んだら世界は我々の想像を絶する世界が待ち受けます。次元の転移にはアインシュタインの相対性原理の光速制限は働かないからです。超ひも理論提唱者ホーキング博士も勘ぐり深く憶測すれば神秘体験者であった可能性さえ筆者に疑わせてしまいます。哲学・思想ランキング
2023年04月13日
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「神秘学」解析「キリスト存在について」-3 精神的な観点からまず考察しなければならないのは、個人の進化ということです。レオナルドダビンチは、彼が達成したものによって、更なる高みへと上昇しました。それが彼の上昇を構成しているのです。私たちが自分に問いかけるのは、偉大なる創造者たちが地球の物質の中に刻み込んだ偉大な思想や偉大な衝動は地球の未来にとって何らかの意義があるのかということです。未来は地球を灰燼に帰し、男たち女たちが土から作りだしたあらゆるものは、地球という惑星がもはや存在しなくなったとき、消えてしまうのでしょうか。皆さんはケルンの大聖堂/cologne cathedralを賛嘆します。それほど遠くない将来、たったひとつの石が別の石の上に残っているということもないでしょう。このことは、人類がケルンの大聖堂というものを石の中に体現したということは地球全体にとって無意味であったということを意味しているのでしょうか。私たちは今、人間が自分と一緒に地球から持ち去るものについてではなく、地球そのものについて考えています。惑星というものは、実際、その進化の過程でますます小さくなっていくものです。それは縮むのです。それは惑星の物質的な部分の宿命なのですが、それで話が終わるわけではありません。それは、いわば肉眼や道具によって観察され得る部分に過ぎません。物質にはそのようにして観察され得るものを越えて行く進化もまたあるのです。私は今、この点を越えていく物質の進化について考察したいと思いますが、それによって私は、現代人には理解が難しく、ほとんど理解不可能であると私が先に述べたところのものへとやって来ました。「地球」は絶えず縮小しているのです。物質は周囲のあらゆる面から中心に向かって押し潰されています。当然のことですが、十全なる意識に基づいて力の保存測があると言うことができます。けれども、同じように十全なる意識に基づいて、あらゆる神秘家に知られている別の事実、つまり、物質はますます中心へと圧縮している、そして何と、中心点へと消え去っているという事実があると言うことができるのです。ひとかけらの物質がますます中心へと圧縮され、そこで消え去ると想像してみてください。それは別の側に押し出されているのではりません。中心点で、それは実際に無の中へと消え去っているのです。言い換えれば、地球は、その物質的な側面が中心点へと押しやられているために、最終的には中心の中へと消えていくということになります。けれども、それで話が終わるわけではありません。中心において消えていく分だけ周辺に現れるのです。それは最果てにおいて再び現れます。物質は空間中の一点、つまり中心点で消え去り、別のところ、つまり周辺に再び現れるのです。中心へと消え去るものはすべて周囲において再び立ち現れます。あらゆる働きがこの物質の中へと注ぎ込まれました。惑星上で働いていた存在たちは、あらゆるものを物質の中へと刻印づけました。当然のことながら、物質は現在の形姿においてではなく、この変容の過程によって受け取った形姿において存在しています。ですから、皆さんはケルンの大聖堂が、その物質的な断片は中心点へと消え去ったとしても、別の側から再び現れて来るのを見ることになるでしょう。惑星上で成し遂げられたことがらは何ひとつ、絶対に失われることはありません。それは反対側から戻ってくるのです。記:上記の「地球」を現代物理科学「ブラックホール」のアインシュタインの重力理論に当て込めば重力無限大の「無の特異点」を予感していたようにも思えます。まして、「中心点で消え去り、別のところ、つまり周辺(*周辺宇宙はワームホールを通してのホワイトホール)に再び現れるのです。中心へと消え去るものはすべて周囲において再び立ち現れます。と理解すれば、あながち、シュタイナー神秘学の夢想若しくは神秘体験は実相へと近づいてきます。哲学・思想ランキング
2023年04月12日
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ルドルフ・ジョセフ・ローレンツ・シュタイナー「神秘学」解析「キリスト存在について」-2 人間が去った後の地球は荒涼とした廃墟になっているであろうということは想像に難くありません。それは住民に見捨てられた後の都市の廃墟と比されるかも知れません。皆さんはそのような都市がほんの僅かな時間が経過しただけでどのようになるかを、つまり、いかにそれが徐々に土の塊になるかをご存じですね。自然の力に捉えられた古代の都市を見ると、その過程がどのようなものであるかというについての絵画的な図式が得られます。実際には、今日においてもそのようになっているのですが、地球の未来についてはこのことは当て嵌まらないしょう。以下次のような観察が、将来、私たちの地球はどうなっているのだろうかという疑問に対する答えに向かって皆さんを導いて行くことができるでしょう。レオナルドダビンチやラファエロのような人物、或いは、彼此(あれこれ)の分野におけるその他の偉大な天才たちの地球進化に対する意味とは何なのでしょうか。 ラファエロやミケランジェロがすばらしい芸術作品群を制作したということ、そして、それらは正に今日に至るまで幾千万という人々によって鑑賞されているわけですが、そのことは地球進化にとってはどういう意味があるのでしょうか。皆さんの何人かは、ミラノにあるレオナルドの「最後の晩餐/Last Supper」を見て、ある種の悲しみを覚え、そして、このすばらしい作品はあとどのくらい持つのだろうかと考えたかも知れません。ゲーテは、彼の最初のイタリア旅行において、まだこの作品が十分に輝いているのを眺めることができましたが、私たちにはもはやその状態にあるこの作品を見ることはできないということを思い出してみるべきです。ゲーテの時代から今日に至るまで、外的な物質的環境の中に置かれたこの芸術作品の運命というのは、今やそれは私たちの中に悲しみの感情を呼び起こすというような種類のものなのです。ゲーテの時代から私たちの時代までの時間と同じくらいの時間が経った後に生きる人々にとっては、この作品はもはや存在していないかも知れません。人間が地上の物理的な物質に刻印づけ、創造したあらゆるものについても同じことが言えます。 地球そのものや、人間の思考の産物についてさえ同じことが言えるのです。人間がより高次の領域へと上昇し、その領域へと精神化されているであろう「あの霊的世界での存在」時代について想像してみて下さい。現在の言葉の意味での思考というもの。私は科学的な思考に言及しているのではありません。と申しますのも、それらは三乃至四百年もすれば何の意味もなくなっているでしょうから。つまりは、脳によって創り出され、地上において意味を成す人間の思考というものは、より高次の世界にとっては何の意味もないものなのです。それらは地上においてのみ意義を有しています。けれども、人間は地球を去らなければなりません。さすれば、何百年あるいは何千年にもわたって私たちが地上で作り上げてきたあらゆるものはどうなっているのでしょうか。哲学・思想ランキング
2023年04月11日
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「神秘学」解析「キリスト存在について」-1 私たちの今回のテーマ「キリスト存在について」には、前回の講義の最後に出された質問とは別に、つけ加えることが多くあります。宇宙についての考察を10回の講義で尽くすことは事実上不可能です。ですから、私たちの主たる問題を取り扱う前に、私たちの結論に関係するいくつかのことがらを述べさせていただきたいと思います。 最初に述べなければならないのは、現代的な意識には理解が難しく、実際、ほとんど理解不可能なようなことなのですが、それに気づいておくならば、それはそれで良いというような事柄です。つまり、惑星系というのは一度現れたものがどうして再び消え去るのかという質問に関連したものです。精神的な観点から、その発達過程がいかにして生じるかということが明らかになります。存在というものはより高次の段階へと上昇するものなのですが、彼らが前進する過程においては、以前の活動の場から離れて行かなければならないのです。つまり、他の場所では獲得できなかったであろうというようなある種の能力を発達させることを一定の期間にわたって彼らに可能にした、それまでの居住場所を離れなければならないのです。進化の過程において、私たちが古いレムリア期と呼ぶあの時代が近づいて来ていたとき、人間はその発達において、土星、太陽、月の段階を通して達成することができたところのものすべてを要約して繰り返すところにまで来ていました。その後、人間は地球進化の環境の中に現れたのですが、それは正に私たちの更なる発達のために用意されていたものなのです。私たちはレムリア期、アトランティス期を通過して、私たち自身の時代へと発達して来ましたが、受肉から受肉へと移行しながら、私たちは未来に向かってさらに発達して行くでしょう。そして、暫くのその後、人間は再び地球を離れなければならなくなるでしょう。地球には人間に与えるべきものが何もなくなっているのですが、それは新たに更なる発達の可能性を提供することができなくなっているということです。哲学・思想ランキング
2023年04月10日
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「神秘学」解析シュタイナーのキリスト観-2- 2:四つの福音書のキリスト叙述第1講 福音書の光に照らした人類生成の深遠な秘密の三 マタイ福音書-2 マタイ福音書の考察において我々に立ち現れてくるのは、ヘブライ(*古代イスラエルの別称) の古代の本質です。けれども、単にヘブライ古代の本質のみならず、この民族の全世界のための使命、新たな時代の誕生、それが古ヘブライ世界からのキリスト教の誕生ということです。そして、ヨハネ福音書を通して、より偉大な、意味深い包括的な理念を学ぶことができるならば、そしてルカ福音書を通しては、最も熱い、限りなく熱い供犠の愛のための感情を獲得することができるならば、更にマルコ福音書の考察を通して、あらゆる存在と領域の諸力についての認識を獲得することができ得るならば、今得られるのは、人類の内部、地上の人間の進化の内部に、パレスティナにおけるキリスト・イエスを通じて生きているものについての認識と感情です。人間としてのキリスト・イエスであったもの、人間としてのキリスト・イエスであるもの、人間の歴史と人間の進化の秘密のすべてが、マタイ福音書に含まれています。マルコ福音書のなかに、地球と地球に属する宇宙のあらゆる領域と存在たちについての秘密が含まれているように、マタイ福音書においては、人間の歴史の秘密がを探究せねばなりません。ヨハネ福音書を通してソフィアの理念を学ぶなら、ルカ福音書を通して供犠と愛の秘蹟を学ぶなら、マルコ福音書を通して地球と宇宙の諸力を学ぶなら、マタイ福音書に注目した考察を通してひとは人間の命ある生、人間の歴史、人間の運命を知るようになるのです。 我々の精神科学運動の七年において、原理・原則を消化するために四年、それらを生のさまざまな領域へと投げ掛けるべき光として深めるために三年費やしていたなら、今、マルコ福音書の考察がそれに続くことができるでしょう。そうすれば最後に、マタイ福音書に注目してキリスト・イエスを考察することにより、建物の全体を完成させることがで得きたでしょう。けれども人生は不完全なので、少なくとも精神科学運動に携わっているすべての人々の場合、そうではなかったとしても、誤解を起こさせずに直ちにマルコ福音書の考察へと移ることは不可能なのです。ヨハネあるいはルカ福音書の考察の帰結としてキリスト・イエスの本性について何か知ることができるだろうと信じるとしたら、キリストの姿を完全に見誤ることになるでしょう。逆にまた、マルコ福音書に関連して言われなければならないことを、一面的にあらゆることに適用してよいのだと信じることにもなるでしょう。そうすると誤解はすでにあったものよりもさらに大きくなるでしょう。ですからこのことを考慮して別の道が選ばれなければならないのです。さてそこで次回には、可能な限り、マタイ福音書に注目した考察が続かなくてはなりません。そのためさしあたり、マルコ福音書の巨大な深みを諦めることになりますが、そのかわり、その人の全体がひとつの特性だけで描写され尽くされるなどと誰かが思うことは避けられるでしょう。それによって誤解を取り除くことができるでしょう。そしてまず、古ヘブライ民族からキリストが出たことについて、パレスティナでのキリスト教の誕生と呼びうるものについて、可能な限り考察がなされるでしょう。それについては次回、マタイ福音書に注目して考察していくつもりです、それによって、またもひとつの特性とこの存在全体の考察と混同することを避けなければなりません。そうすればそれに続いてマルコ福音書に注目して語られねばならないことが容易になるでしょう。記:シュタイナーのヨハネ、ルカ、マルコ、マタイという四つの福音書がそれぞれどういう視点からキリスト存在を描き出しているかを述べ、シュタイナー世界でのキリスト存在を予告する内容。ヨハネ=鷲、ルカ=牡牛、マルコ=獅子、マタイ=人間というシンボリズム(象徴主義/symbolism)の深い意味とともに、ヨハネ福音書、ルカ福音書の叡智と愛をまず基本として消化してから、マルコ、そして、マタイへという順番・プロセスが重視されています。この第1講で話題にされる順番はヨハネ、ルカそしてマルコ、そしてマタイですが、最後尾の言われる通り、次の第2講で(マルコ福音書より先に)まずマタイ福音書についての考察を行えば誤解を避け、マルコ福音書の理解が容易になるということで、第2講はマタイ福音書との関連で「古ヘブライ民族の使命」について語られています。偉大なる力に関わるマルコ福音書の考察はそれだけ慎重にしなければならないからです。哲学・思想ランキング
2023年04月09日
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「神秘学」解析シュタイナーのキリスト観-2- 2:四つの福音書のキリスト叙述第1講 福音書の光に照らした人類生成の深遠な秘密の三 マタイ福音書-1 人間としてのキリスト・イエスとは何であったのか、彼は人間として地上での肉身の生存期間三十三年にどのように地上に働きかけたのか、この考察は、マタイ福音書との関連で展開することができます。マタイ福音書に含まれているものは、私たちに自らのうちで調和しているひとつの人間像を与えます。私たちがヨハネ福音書において、宇宙万有の一部である宇宙的な神人(Gottesmensch)を描写したなら、並びに、私たちがルカ福音書において、自らを犠牲として捧げる一個の愛の存在を描写しなければならなかったなら、そしてマルコ福音書においては、ひとつの個性のなかの宇宙意志を描写しなければならなかったなら、マタイ福音において私たちが得るのは、パレスティナ出身のひとりの人間、三十三年生き、私たちがほかの三つの福音書の考察によって獲得することのでき得たすべての統一をその内なるなかに持った人間の真の姿です。マタイ福音書との関連では、キリスト・イエスの姿がまったく人間的に、ひとりの地上の人間として私たちには現れてきますが、ほかの考察を前提としなければこの人間を理解することはでき得ません。このときこの地上の人間は色褪せているとしても、この色褪せた像のなかにはそれでも、尚やはり、ほかの考察によって獲得されたものが反映しているのです。キリストの人格についての像は、マタイ福音書に関連する考察によってはじめて与えられます。 このように今、以前私たちが第一の福音書を取り扱った時には別の特徴づけをせざるを得なかった事柄が示されます。今私たちは二つの福音書の考察を終えましたので、これらの福音書が内的にいかに相互に位置づけられるか、そして、いかに私たちがキリスト・イエスの表像の心象を得ることができるか云うことです。これはこの地上でキリスト・イエスを通じて存在するようになった人間に、私たちがそれに相応しい準備をして近づくときにのみなのですが。ヨハネ福音書に関連づけられる考察においては、私たちに神人が立ち現れました、そしてルカ福音書との関連では、地上においてゾロアスター教や仏教の同情と愛の教えとして発展したもののなかにあらゆる方向から流れ込んだ潮流を自らのうちに統一する存在が顕われてきます。私たちがルカ福音書に注目して考察をしたとき、今まであったすべてのものが私たちにたち現れてきたのです。マタイ福音書が考察されるとき、何よりも親密詳細に私たちに立ち現れてくるのは、キリスト自身の民族から、古ヘブライ民族から生じるものでしょう、つまり、その民族に根ざした人間イエス、ほかならぬ古ヘブライ民族の内部でそうあらざるを得なかった人間イエスです。そして私たちは、地球人類のために、まさにこのキリスト・イエスの血が貢献できるために、なぜ古ヘブライ民族の血がまったく特定のしかたで用いられねばならなかったかを認識するでしょう。哲学・思想ランキング
2023年04月08日
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「神秘学」解析シュタイナーのキリスト観-2- 2:四つの福音書のキリスト叙述第1講 福音書の光に照らした人類生成の深遠な秘密の三 マルコ福音書-2 キリスト(*ここでは人類の救世主、霊的世界の最高霊)と見做す高き太陽存在について、私たちがヨハネ福音書の意味で、霊的な意味における地球に注ぐ太陽の光(Tauschen mit der Erdensonne)について語るように語り、ルカ福音書の意味で、キリストの地球太陽から迸る(ほどはしる)愛の熱について語るなら、マルコ福音書の意味においては、私たちは霊的な意味での地球太陽の力そのものについて語ります。地球における諸々の力として存在するすべて、秘されかつ開示された地球の諸力・活力として此処彼処(ここかしこ)で活動するすべてが、マルコ福音書に注目して考察するときに私たちに現れてくるでしょう。ヨハネ福音書の意味で自分を高めるとき、地球に到来した理念を予感するのみではあっても、キリストの地球上での思考のように理解することが許されるなら、ルカ福音書の熱を自分自身を通して流出させるとき、供犠の愛の熱い息吹を感じることができるでしょう。つまりは、ヨハネ福音書のなかにキリストの思考を、ルカ福音書を通してキリストの感情を予感することができるなら、マルコ福音書を通してキリストの意志を良く知るようになり得ます。キリストが愛と叡智を実現するための諸力そのひとつひとつを知るようになるのです。 ヨハネ福音書およびルカ福音書についての考察に、マルコ福音書についての考察を付け加えることができれば、三つの特性を予感しつつ把握していることでしょう。そのときひとはこう言うでしょう、畏敬の念をもって私たちは御身(おんみ)に近づき、御身の思考[Denken]、感情[Fuehlen]、意志[Wollen]について、御身の魂のこれら三つの特性が地球上の最高の模範として私たちの前に高く掲げられているのを予感しますと。 私たちはこのような考察をしました、ちょうど小さな規模において私たちが人間を考察し、人間は感受魂、悟性魂、意識魂から成ると言い、今度は感受魂、悟性(*理性までにはいかない理解)乃至は、心情魂、意識魂の特徴を考察する場合のように考察したのです。私たちが意識魂という語をキリストに適用するなら、私たちは次のように言うことができるでしょう。意識魂はヨハネ福音書において私たちに予感的に理解される、心情魂はルカ福音書を通じて、その意志の力のすべてを伴う感受魂はマルコ福音書を通じて、私たちに理解されると。私たちがそれを一度考察することができれば、これは私たちに、開示されかつ隠された自然力について、私たちの世界にあり、キリストという唯々(ただただ)ひとりの個性(Individualitaet)に凝集された自然力について明らかにするでしょう、それは私たちに、宇宙に存在するあらゆる力の本性について明らかにするのです。私たちはヨハネ福音書においては思考内容のなかに、ルカ福音書においてはこの存在の感情のなかに沈潜しましたが、このマルコ福音書の場合人間はそれほど深くこの個性に入り込む必要はないので、この考察は単にマルコ福音書において私たちに宇宙のあらゆる隠された自然力および霊力の組織(spiritual organization)として立ち現れてくるものに対してのものとなります。このすべてはアカシャ年代記に記(しる)されています。マルコ福音書の圧倒的な記録を私たちに作用させるなら、すべては私たちに反映されるのです。そのとき私たちは予感しつつ、キリストという単一の存在のなかに凝集されているもの、通常は宇宙という単一の存在全体に振り分けられているものを理解するでしょう。そして、私たちがさまざまな存在たちの基本的な原理原則として知っていたものが、さらに気高い輝きと光のなかで私たちに現れるです。全宇宙意志の秘密を含んだマルコ福音書を私たちに明らかにするとき、私たちは深い敬意とともに宇宙の中心点に、キリスト・イエスに近づいていくのです、キリストの思考、感情、意志を徐々に会得しながら。 思考、感情、意志が相互に入り混じって作用しているのを観察すると、まるごとの人間のおおよその像(表象[Bild])が得られます。けれども私たちは、ひとりの人間の場合ですら、思考、感情、意志を分けて観察しないわけにはいきません。私たちがすべてを統合する場合、私たちの眼差しはすべてを見通すことができるためにはもはや十分ではないでしょう。この三つの特性を分けてそれぞれ別個に考察することによって私たちは課題を比較的軽減しているのですが、他方私たちがこれら三つの特性を人間の魂のなかで統合的に見ると、私たちの思い描く像は色褪せてくるでしょう。すべてを一緒に考察するには私たちの力は不十分なので、私たちが原因でそういうことになるのです、私たちが諸特性を統合すると、像は色褪せるからです。 ヨハネ、ルカ、そしてマルコ福音書という三つの福音書を考察して、それによってキリスト・イエスの思考及び感情、その意志について予感を得たなら、これら三つの特性を再び調和(Harmonie)へと導いているものを統合することができるでしょう。但し、このときにはどうしてもその像は朧げな色褪せたものになってしまわざるを得ません、人間のどんな力も、私たちによって分けられたものを十分に統合することはでき得ないからです。と申しますのも、本質においてあるのはひとつの統一(Einheit])であって分離(Trennug)は存在しないからです、私たちは究極において漸くそれをひとつに統合することを許されます。けれどもそのときそれは私たちの前で色褪せたものになるでしょう。そのかわりには究極において私たちの前には、初めて人間としての、地上の人間としてのキリスト・イエスとなったものが立っているのを知ります。哲学・思想ランキング
2023年04月07日
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「神秘学」解析シュタイナーのキリスト観-2- 2:四つの福音書のキリスト叙述第1講 福音書の光に照らした人類生成の深遠な秘密の三 マルコ福音書-1 我々はキリスト・イエスのふたつの特性、宇宙の光と叡智を私たちは描写し、これら二つの特性の高次の意味を予感し理解することに私たちを導いたすべてを行うことを怠りませんでした。けれども、この存在そのものを前にした私たちの敬意と畏敬の念はあまりに深いので、この存在が自らのうちに秘しているそのほかの特性について、私たちはもういくらか理解したなどとは思ってもみないでしょう。ここで今、第三のものが考えられるです。この第三のものは、私たちの運動の内部ではまだ観察されていないものと関連していますので、一般的な特徴づけを行うことだけしかできません。ただ、次のように云えるでしょう、ヨハネ福音書のキリストを描写するなら、高き存在として働きかけるキリストを描写する。けれども、叡智に満ちたケルビムの領域を意のままにする存在であるキリストをも描写すると。ヨハネ福音書の意味ではこのように、キリストは鷲の高みに漂うケルビムによって呼び起こされる気分とともに描写されます。ルカ福音書の意味でキリストを描写するなら、キリストの心臓から熱い愛の火として迸るものが描き出されます。宇宙にとってキリストであるところのもの、セラフィムの居ますあの高みで働きかけることによってキリストであるところのものが描かれるのです。セラフィムの愛の火が宇宙を貫き流れ出し、そしてそれはキリスト・イエスを通じて私たちのこの地球に伝えられました。 さて、ここで第三のものを描写しなくてはならないでしょう。それは、キリストが単に叡智の光、愛の熱であるだけでなく、つまり地球存在の内部でのケルビム的およびセラフィム的要素だけでなく、私たちがキリストの力の全てを観察すれば、この地球存在のなかにキリストが、かつて存在(war)し、且つ、現に存在(ist)することによって地上(*地球)世界のキリストとなったところのもの、トローネの領域(*十三天使の一の領域世界)を貫いて働くものとみなし得るものです、それを通じてあらゆる強さ、あらゆる力が宇宙にもたらされ、叡智の意味においてあるもの、愛の意味においてあるものが成就されるのです。これらは霊的ヒエラルキアの最高の三つ、ケルビム、セラフィム、トローネです。セラフィムはその愛とともに、私たちを人間の心の深みに導き、ケルビムは私たちを鷲の高みへと誘います。叡智はケルビムの領域から放射されてきます。帰依に満ちた愛は供犠となり、犠牲の牡牛は私たちにそれを象徴(シンボル)として示します。宇宙を貫いて脈打つ強さ(Staerke)、つまり、あらゆるものを実現するための力を繰り広げる強さ、宇宙を貫いて脈打つ創造的力、これを獅子はあらゆる象徴表現をとって私たちに示します。キリスト・イエスを通じてこの地球に引き入れられたあの強さ、すべてを秩序づけ方向づけ、それが展開されるとき最大の威力を意味するあの強さ、これを、マルコ福音書の書記はキリスト・イエスにおける第三の特性として私たちに描写します。記:シュタイナーのキリスト観-2- 2:四つの福音書のキリスト叙述第1講に接して、恥ずべきことかな私は噴飯ものとしか思えません。此れはシュタイナー自身の神秘体験から出たものではなく、何らかの権威への妥協を察するからです。シュタイナーが教会権威を超えて自らに世界の真相を神秘体験を通して認識哲学として語るには、不足・不充分であることはシュタイナーが世界の教育活動に貢献していることから云えばとりわけです。哲学・思想ランキング
2023年04月06日
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「神秘学」解析シュタイナーのキリスト観-2- 2:四つの福音書のキリスト叙述第1講 福音書の光に照らした人類生成の深遠な秘密の二 ルカ福音書 シュタイナーは第1講でヨハネ福音書に次いでルカ福音書についての講義を行います。我々はルカ福音書から前項のヨハネ福音書講義から、また別のものを見てとります。ヨハネ福音書についての考察において語られたことを、「私は宇宙の光である」という言葉の理解のための手段と看做すなら、場合によってはルカ福音書についての考察は、ただルカ福音書を十分深く把握すれば、イエスの磔での「父よ、彼らをお許しください、彼らは自分が何をしているかわからないのですから」、若しくは、「父よ、あなたの御手に私の霊[Geist]を委ねます」という言葉の言い換えと解してよいかもしれませんが、キリスト・イエスであるもの、今や単に宇宙の光としてではなく、原初の人間の契約違反の罪を献身という最大の供犠を齎した存在、自身を失うことなくすべてを自分のなかで一つにすることを許された存在としてキリスト・イエスであるもの、献身という供犠として特徴づけられるもの、自己自身のなかに最大の供犠、考え得る最大の献身という供犠の可能性を孕み、そしてそれによって未来のあらゆる人間の生と地球の生を貫き暖かく注ぎ込む泉である存在、つまりこの言葉のなかに捉えられ得たすべては、私たちがキリスト・イエス存在と呼ぶものの第二の面を与えるのです。 このように私たちはこの存在を、その同情において大いなる供犠を実現することができる存在、その光の力によって現存するあらゆる人間を照らす存在として特徴づけました。私たちは、キリスト・イエスという存在のなかにあった光と愛を描写したのです。それで、ヨハネ福音書およびルカ福音書をその完全な範囲において捉えるひとは、キリスト・イエスのなかで「光」であったもの、キリスト・イエスのなかで「愛と同情」であったものについて、ある意味で予感を抱くことができます。私たちはキリスト・イエスのなかに、二つの特性をその普遍的な意味において理解しようとしたのです。悠久の叡智としてあらゆる事物にのなかに注ぎ込み、それらのなかで生き活動する宇宙の霊的な光としてキリストについて語られねばならなかったこと、これは霊的な考察に明らかになり得ます、これはまたヨハネ福音書から私たちに向かって光り輝きます、そして、人間に到達できる叡智であって、ある意味でヨハネ福音書に含まれていないものはありません。宇宙の叡智はすべてこのヨハネ福音書のなかに含まれています、なぜならキリスト・イエスのなかに宇宙の叡智を見るひとは、単にその叡智がはるかな過去にいかに実現されたかということのみならず、はるかな未来においていかに実現されるかも見るからです。したがって、ヨハネ福音書に関わる考察においてひとは、人間的なあらゆる生存の上空高く、鷲のように舞います。ヨハネ福音書の理解を可能にする大いなる理念を繰り広げなければならないとき、広大無辺な理念とともに、個々の人間の魂のなかに起こることを超え、空中を舞うのです。包括的な宇宙理念(世界理念)は、ヨハネ福音書に関連して考察を行うときに私たちに流れ込むあのソフィア(Sophia]を働かせます。そしてこのとき、ヨハネ福音書から流れ出るものは、日々刻々移ろう人間の運命のなかで起こることすべてを越え、ひとり鷲の高みで旋回しているように私たちには思われるのです。 それから下降し、そして、刻々と日に日を継ぎ、年を経て、世紀から世紀へ、千年紀から千年紀へと続くひとりひとりの人間の生を観察するなら、とりわけ、そこに人間の愛と呼ばれるあの力を観察するなら、生きている人間の心と魂のなかでこの愛が数千年を通じてうねり息づいているのが見えます。さらに、この愛が一面においては人類の内部で最大の、最も意味深い、最も英雄的な行為を成し遂げるのが見られます。それから、人類の最大の供犠が、あれこれの存在あるいはあれこれの事柄に対する愛から流れ出したのが見られます。そしてさらに、この愛が人間の心のなかで最高のことを成し遂げるのを、けれども同時にそれが諸刃の剣のような何かであることが見られます。ここにある母親がいます。彼女は自分の子どもを心底から愛しています。子どもが何か乱暴な振る舞いをしても、彼女は子どもを愛していて、その深い熱烈な愛情にあっては子どもを罰するということがどうしても出来得ません。更に子どもが二度目に乱暴な振る舞いに及ぶと、今度も母親は深い愛情のために子どもを罰するに忍びません。引き続きそんな調子で、子どもは成長し、役に立たない人生の平和を乱す者となります。こういう意味深な事柄に触れるときは、現代から実例を取るのはよくありませんから、ずっと以前の例を挙げることにします。十九世紀の後半、わが子を愛し抜いた母親がいました。どんなものもこの愛を賞賛するのに足りない、何様なことがあっても愛は人間の最高の特性の一つとはっきり言っていたようです。さて、この母親は子どもを愛していたので、この子が家族のなかで働いたちょっとした盗みのためにこの子を罰するということがどうしてもできません。続いて二度目の盗みが起こり、彼女はまたも罰することができませんでした。その女の子は悪名高い毒殺者になりました。その子は、叡智に導かれない母の愛によって毒殺者になったのです。愛は叡智に浸透されたときに最も偉大な行為を成し遂げます。けれどもゴルゴタから世界に流れ出したあの愛の意味とは、まさに、愛がひとつの存在のなかで、宇宙の光と、叡智とひとつにされたということなのです。したがって、私たち、愛は世界で最高のものであると認識しつつ、同時に、愛と叡智が最も深い意味において補完し合っていることを認識するというようにふたつの特性を考察すれば、これはキリスト・イエスに眼差しを向けることなのです。 けれども今ヨハネ福音書およびルカ福音書についてこれらすべての考察が行われましたが、私たちは何を理解したのでしょうか。叡智の普遍的な光、愛の普遍的な熱、と呼ぶことができるあの特性、世界でほかのどんな存在にもなかったやりかたであのようにキリスト・イエスのなかに流れ込み、かつてどんな人間の認識力も近づけなかったあの特性、この特性以上のことは何も理解しなかったのです。そして、ヨハネ福音書との関連では、鷲の高みにあるかのように人間の頭を超えてゆく力強い理念について語られる一方、ルカ福音書に依拠すれば、瞬間ごとにひとりひとりのどんな人間の心にも語りかけてくるものが見出されます。ルカ福音書の重要な点は、それが愛の外的な顕(あらわ)れであるあのような熱で私たちを満たすということです、最大の犠牲を厭わない愛、自己自身を捧げ、自身を捧げること以外何も望まない心構えのあの愛への理解で私たちを満たすのです。 ほぼ同様に感じられるのは、正しい意味で考察するときにルカ福音書に関連する考察する場合にそうなるあの心情の状態についてイメージを得たいと思うなら、そこへと急ぐ犠牲の牡牛の見られるあのミトラ像において私たちに現れてくるものです。牡牛の上に人間が座っているのが見え、上には大いなる宇宙の出来事の歩みが、下には地上的な出来事の歩みがあります。この人間は、血を流す牡牛の体に斧を打ち込みます、人間が克服せねばならないものを克服することができるように自らの生命を捧げるこの牡牛の体に。人間が生の道を行くことができるように犠牲にされねばならないこの人間の下の牡牛を観察すると、ルカ福音書に関わる考察に正しい基本的な気分を与える感情・心情状態をほぼ得ることができます。犠牲の牡牛つまり自分自身の中へと深まっていくべき愛の顕れのなかにあるものを理解していた人々にとって、いつの時代にも牡牛がそうであったところのものです、そういう人々はルカ福音書の考察が与えようとする愛の特性の描写についても何かを理解します。何故なら、それが描き出そうとしたのはキリスト・イエスの第二の特性以外のなにものでもないからです。けれども、ひとつの存在のなかの二つの特性を知るひとは、その存在全体を知っているのでしょうか。この存在においては最大の謎が私たちに向かって立ち現れてきますので、ふたつの特性を理解するための説明が不可欠でした。しかし、ふたつの特性の考察からこの存在そのものを見通すことができるなどと思う人があってはなりません。哲学・思想ランキング
2023年04月05日
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「神秘学」解析シュタイナーのキリスト観-2- 2:四つの福音書のキリスト叙述第1講 福音書の光に照らした人類生成の深遠な秘密の一 ヨハネ(羅甸: Johannes)福音書記:第1講で話題にされる順番はヨハネ、ルカそしてマルコ、そしてマタイなのですが、最後の部分で言われているように、次の第2講でマルコ福音書より先に、マタイ福音書についての考察を行えば誤解を避け、マルコ福音書の理解が容易になるということで、第2講はマタイ福音書との関連で「古ヘブライ民族の使命」について語られています。「神・霊的力」」に関わるマルコ福音書の考察はそれだけ慎重にしなければならないようです。 シュタイナーのヨハネ福音書とルカ福音書に関連してなされた考察とは如何ばかりのものなのでしょう。仏教などに精通していたとはいえ彼の精髄にはイエス・キリストの姿影が沁みついています。我らがキリスト・イエス(*存在として有る)と看做すこの存在についてのそもそもが、現代における人間の理解力に可能な限りにおいて、一人ひとりの人間精神(Menschengeist)にとって、更には個々の魂にとってどういう意味を持っていたかということを、何か一面的に語るということを考察の出発点とするのは不可能だということです。そのようなことは私たちの考察の内部では、存在する最大の宇宙(この存在についてのそもそも現代における人間の理解力に可能な限りにおいて、かくも偉大なかくも広大にして力強いものなので、キリスト・イエスとは誰で、このキリスト存在はひとりひとりの人間精神(Menschengeist)にとって、および個々の魂にとってどういう意味を持っていたかということを一面的に語るということを考察の出発点とするのは不可能だということです。そのようなことは私たちの考察の内部では、存在する最大の宇宙(*此処ではユニバースとしての宇宙世界)問題に対して敬意を欠くように思えたでしょう。深い敬意と畏敬、これが私たちの考察をまさにそこからもたらしたあの気分を表す言葉です。深い敬意と畏敬、これはたとえば次のような気分のなかに表現されるかもしれません。お前が最大の問題に立ち向かうのなら、人間の理解を高く評価しすぎないよう努めよ。あらゆるものを、これほど高度な精神科学がお前に与えてくれるものであっても、決して高く評価しすぎないよう努めよ、そして生の最大の問題に立ち向かうということであれば、最高の領域にも上昇せよ。そして、この圧倒的に大きな問題を「ひとつの/原文は斜字」面から特徴づける以外の何かを言うために人間の言葉が十分なものであるなどとは考えるな。ここ三年にわたって行われた講義は、全て他ならぬすべて、ヨハネ福音書において私たちに現れた言葉を中心点としています。私は宇宙(*ユニバースとしての宇宙世界)の光である、私は世の光であるというのがその言葉です。ヨハネ福音書について説明されたすべての講義では、ヨハネ福音書のこの言葉を理解しなければなりません。そして、ヨハネ福音書に関連して行われたこれらの講義は、次のようなことのためにはほぼ十分なものでした。この言葉を自らのものとするならば、語られたこの言葉を少しずつ理解していくためには、つまりヨハネ福音書そのもののなかにある「私は宇宙の光である」という言葉がどういう意味なのかを、予感するだけであるにせよ理解するためには、これらの講義で十分だったのでしょう。記:太陽光を仰ぎ見て、その光が輝くのを見ると何某らの開示として受け入れた経験がある方もおられるでしょう。人間は光りあるものに神聖を感じることがあります。それ故に、キリストであるイエスが自らについて「私は宇宙の光である」というのは、宇宙の叡智を担う存在を意味します。哲学・思想ランキング
2023年04月04日
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「神秘学」解析シュタイナーのキリスト観-1- 1:パウロの「コリントの信徒への手紙」の三 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり」(創世記2-7)とあるように、アダムが人間の、土の体、地に属する者の原型であったとすれば、逆にキリストの秘儀によって、キリストが人間の天に属する者の原型になったわけです。ここで理解する必要があるのは、肉体は一見、目に見える形で存在しているように思われがちだが、実際はそうではなく、見えない形で、肉体の存在形式ともいえるものがあるわけです。その肉体の存在形式を地上的、土てきな実質が満たすことで、現在の肉体が成立しているのです。キリスト衝動の核心にあると思えるのは、この復活したキリストという、人間にとって理想としての肉体の存在形式をそれぞれの人間が受け入れて、成長させていくということにあります。それをパウロは、あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒ですと述べています。。死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときには朽ちるものであっても、朽ちないものに復活し、蒔かれるときには卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活することになります。そうした霊化した肉体としての霊体の形成には、そこに自我が深く関わってくることになります。けれど、この自我は、肉体という鏡があってこそはじめて働くことのできるのです。それは、闇のなかで自分の体を映そうとしても見えないようなもので、肉体がなければ自我は働くことができ得ません。自我を顕現させるためには、つまり、自らを意識化するためには、肉体という鏡がどうしても必要であり、さらに、それによって自我が肉体に働きかけてそれを変容させる作業が不可欠なのです。要は、「霊主体従」という重要な観点、霊も体もともに重要だけれども、霊がそれを導かねばならないということです。通常思考では、霊を高次のもの、体を低次のものとして捉えがちか、体だけで、まったく霊的なものを否定するかでしょう。 物質というのは、第一ロゴス(logos)(※① ロゴス(言葉)。② ギリシア哲学で、ことばを媒体として表現される理性。また、その理性の働き。③ ギリシア哲学では、万物が流転するという宇宙の真理、理法。また、万物の流転中に存在する一定の法則や原理。④ キリスト教では、神のことば。また、それが形を得て現われたイエス・キリスト及びその神性をいう。)としての「父」なる働きであり、そのことを理解しなければ、人間がこうしてわざわざ地上に肉体をもって存在する意味は決してわからないことになります。肉体を霊化すること、その秘儀がキリスト衝動であるともいえます。もちろん、それは道教や密教のような性急な方向ではなくて、「愛」と「叡智」と「自我」ということの調和の中で、達成しようというものにほかなりません。この「コリントの信徒への手紙」のパウロの言葉は、そうしたことを理解して初めて受け取ることのできる重要なメッセージです。シュタイナーのキリスト理解は正教会の宗教教義としての理解とは神秘学であるだけに聖書理解とは異質なのです。哲学・思想ランキング
2023年04月03日
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「神秘学」解析シュタイナーのキリスト観-1- 1:パウロの「コリントの信徒への手紙」の二 パウロは、ユダヤのなかでも可成り秀でたすぐれた秘儀参入者でしたし、加えてギリシァの秘儀にも精通していました。彼のその秘儀によれば、「キリスト」はこの世に現身の肉体をもって生まれるのではなく、将又、霊体(変容した肉体)としての復活ということを理解できなかったのでしょう。肉体からエーテル体(生命体)が離れた状態で活動するというのはその秘儀では周知のことではあったろうに人間の疑惑心は底が知れません。パウロのダマスクスでの体験というのは、復活する筈がないキリストをまさに霊体として体験し、そこで彼は新めて秘儀を体験したということになります。そして重要なのは、この「復活」除いてしまえば、キリスト教は、教義そのものが破綻します。キリスト教は「愛の宗教」だとかいうことがよくいわれるけれど、宗教というのは多かれ少なかれ、「愛(*キリスト教ではアガペー/agape)」の教え」だともいえます。そうであれば、但し、「復活」がなければ、それは表現形式の問題だけだということになってしまいます。そうではないということが、「コリントの信徒への手紙」にちゃんと書かれているのです。「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とされ見なされます。」ということは、キリスト教の教義の骨子はは、キリストの復活、死者の復活ということにあるということは確かででしょう。その復活は、魂のありようを失ったゾンビではなくて、人間の霊魂の進化のひとつの極致としての在り方です。密教であれば即身成仏がありますが、それは霊体(変容した肉体)としての復活ということに他ならない。肝要なのは、肉体をひとことでいって、ただ物質だとしてとらえれば、理解できないものがあるということです。哲学・思想ランキング
2023年04月02日
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「神秘学」シュタイナーのキリスト観-1- 1:パウロの「コリントの信徒への手紙」の一 パウロの「コリントの信徒への手紙」にはこうあります。キリストは死者の中から復活したと宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などないと言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかった筈です。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とされ看做されます。(15-12~15)しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人アダムによってによって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、(*創造者が命を吹き込んだ)アダムによって(*知恵・好奇心・疑いの等々の神との契約違反の見返りに)すべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされるようになったのです。(15-20~22)しかし、死者はどんな様子で復活するのか、どのような姿かたちで来るのかと聞く者がいるかもしれません。愚かな人だ。あなたが蒔くもの(*小麦etc)は、死ななければ命を得ないではありませんか。あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。神は、御心のままに、それに体をお与えになります。どの肉も同じ肉だというわけではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉と、それぞれに違います。また、天上の体と地上の体があります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています。太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれ違いますし、星と星の間の輝きにも違いがあります。死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときには卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。「最初のアダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダム(*ナザレのイエス)は命を与える霊となったのです。最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。最初の人は土で出来、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。わたしたちは土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。(15-35~49)哲学・思想ランキング
2023年04月01日
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