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「四次元/Die Vierte Dimension」数学と現実第二部 質疑応答 ドルナッハ 1920年3月31日 答弁後半:拡張数学続答弁:私たちが今日、西洋文化の中で経験するところの退廃の大部分は、制御したいという私たちの欲求を力学的な観点からのみ満足させることに関連しているということに繰り返し人々の注意を引くのは何らかの意味で有意義なことでしょう。この点で、私たちは非常にうまくやりました。私たちは鉄道、電報、電話、そして、無線や複合電信さえも発達させたばかりではなく、この大陸の多くの部分を舗装し、そして破壊しました。私たちの制御への欲求を完全に満足させるということが破壊へと導いたのです。制御したいという私たちの純粋に技術的な欲求から始まった発達を直線的に追求するということが破壊へと導きました。この破壊的な側面は、私たちが病的に拡張する物理的な現象についての機械論的な観点を別の観点、すなわち物理現象の詳細を単に機械論的な考え方で包み込むことによって根こそぎにしてしまうことのない観点で置き換えるとき、完全に取り除かれるでしょう。機械論的な観点は、確かに非常に良好な生理学的説明を産み出しましたが、私たちは物理的な現象の詳細に対する機械論的な観点から離れていくことでしょう。私たちの新しい観点、そして、それについては一時間でその最後の結論に至るまで議論することはできませんが、それはまた現実に基づく数学の拡張へと導くことになるでしょう。私たちが気づかなければならないのは、過去30年か50年にわたって、混乱した機械論的な考え方が、いわゆるエーテルに関するあらゆる種類の意見を可能にしたということです。以前、別の文脈で触れた物理学者プランクは、多大な努力の後、次のように記述するに至りました。もし我々が、物理学の中で、とにかくエーテルについて語りたいのであれば、それにはいかなる物質的な性質をも帰属させるべきではない。それを物理的な意味で想像するべきではないのだと。プランクは物理学がエーテルに物理的な性質を帰属させることを控えるようにさせたのです。エーテルについての考えや概念が本来的に有している間違いは、あまりにわずかの数学しか含まれていなかったとか、あるいはその種類のことがらが原因ではありません。それらのことがらが生じたのは、エーテル仮説の支持者たちが、物理学の個々の問題をカバーするために数学を拡張しようとする傾向によって、完全に消費されてしまったからです。彼らの数学が間違っていたのは、エーテルの効果が役割を演じる定式の中に数を持ち込んだとき、まるで重みのある物質を扱っているかのように振る舞ったことによります。私たちがエーテルの領域に踏み込んだことを知るやいなや、数学的な定式の中に通常の数を持ち込むことはもはやできないのですが、私たちは数学そのものを本当に拡張することを求める必要をも感じるようになるでしょう。この点についてはふたつのことがらだけをはっきりさせておく必要がります。物理学者のプランクは、もし、我々が物理学の中でエーテルについて語りたいのであれば、少なくともそれに物質的な性質を帰属させることは控えなければならないと言いました。そして、アインシュタインの相対性理論は、あるいはその種の相対性理論であれば何でもそうですが、私たちにエーテルから完全に離れることを強要します。ここでは、簡単な示唆を与えることができるだけですが、主な点は、私たちがエーテルに移行するときには、物理学の定式、つまり物理的な現象に適用される数学的な定式に負の数を持ち込まなければならないということだけです。これらの数は負でなければならないのですが、それは、ちょうど形式物理学において正の数から負の数へと移行するときのように、正の物質からゼロを通って反対側に移行するときには、エーテルにおいて私たちが出会うところのものは、アインシュタインが信じているように無でもなければ、プランクが言っているように純粋な負でもなく、ちょうど負の数が正の数の反対であるように、何か正の物質の反対の性質を有するもの(*反物質)として想像すべきものであるからです。負の数とは何であるかを議論することになるかも知れませんが、数列を負の数にまで純粋に数学的に拡張することは、私たちが負の数の性格を明確に理解する前であっても、現実にとって意義深いものとなります。もちろん、私は、19世紀における重要な数学論争、正と負の記号の中に質的な側面を見た人々と負の記号を単に負の被減数を欠く減数として見た人々の間の論争をよく承知しています。この論争は特に重要というわけではありませんが、物理学が、質的な効果からエーテル的な効果へと移行するときには、私たちが正の数から負の数へと移行するときに形式数学において辿る道筋と同じ道を辿ることを強要されるということに気づくことは重要です。私たちが数をこのような方法で取り扱うと決めたならば、式の結果をチェックする必要があります。形式的な虚数の概念を正当化するために、形式数学において多くのよい仕事が為されました。物理学においても、私たちは、ある地点においては、正負の数を虚数で置き換えることを強いられることになります。この地点において、私たちは自然に適した数と相互作用することを始めます。私は自分がこれらのことすべてを非常に簡潔に描写し、わずかの言葉でそれを総括したということを知っていますが、皆さんには可能性ということについて意識しておいていただかなければなりません。私たちが重さのある物質から生命の力へと移行するときには、私たちは、物質の量的な側面の反転を示すために、私たちの式に負の数を持ち込まなければなりません。そして、私たちが生命を越えていくやいなや、私たちは負の数から虚数へと移行しなければならないのですが、それは単に形式的な数なのではありません。それは、ちょうど虚数列が正と負の整数の数列に関連しているように、正や負の数からではなく、質的かつ本来的に、エーテル的な側面もしくは負の物質と、質的な側面もしくは正の物質の両方に関連する実質的な側面から導き出された性質を有する数なのです。このように、形式数学とある種の現実の領域との間には、本当に結びつきがあるのです。もし、自然を制御したいという人間の欲求を満足させることにおける真に理性的な申し出が単なる機械論、物理学、あるいは生理学よりも効果的ではないというつまらない思いこみのために、私たちの考えを現実に近似させ、あるいはそれを現実の中に沈めようとする試みが失敗するとしたら、それはとても残念なことでしょう。実際には、それらの考えは私たちがあれほどまでに栄光あるものとしたところのテクノロジーに機械論的な世界観を適用するよりもさらに効果的であるはずです。この機械論的なテクノロジーは、確かに人類の文化的な発展にとって偉大な結果をもたらしました。けれども、通常の物理学的な計算の結果としての自然科学の栄光ある発達についてとめどもなく語る人たちは、私たちの関心が全く技術的な領域に向けられた結果としてその他の領域が被った苦しみを心にとどめておくべきです。単なる技術的な理解や自然の制御によってもたらされた退廃から逃れるためには、私たちの機械的、機械論的な知識とは異なり、ものごとの本質的な性質を認めることを拒否できない生理学や物理学を頼りにすることができるかも知れません。お分かりのように、この機械論的な領域はものごとの本質的な性質を簡単に退けてしまうのですが、それは正に、この本質的な性質が、我々の周囲の空間すべてに広がり、入手可能であるからに他なりません。物理学の分野全体が、機械論の分野が発達したような仕方で発達するのはそれほど簡単ではありません。ものごとの本質的な性質を認めようとしない議論のすべてはこのことから来ています。物理学者が純粋に機械論的な観点から考えることを選ぶときには、存在を理解することを安易に拒絶するかも知れません。今日、数学的な言葉で機械論を表現するために用いられる定式の背後には存在は存在しません。存在が始まるのは、私たちがもはやこれらの式を単に適用するのではなく、数学そのものの本質的な性質へと探求を進めるときだけです。これが、重さのないものをカバーするように数学の分野を拡張するためにはどうしたらよいかという質問の答えになっていればよいのですが。(了)哲学・思想ランキング
2023年08月31日
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ルドルフ・ジョセフ・ローレンツ・シュタイナー「四次元/Die Vierte Dimension」数学と現実第二部 質疑応答 ドルナッハ 1920年3月31日 前半◎質問:通常の数学は形、表面、そして固体、液体、気体の力線を包含しています。熱、化学、そして生命の領域についての数学はどのようにイメージされるのでしょうか。答弁:第一に、今あるような数学の分野は、もし、私たちが数学に似たやり方で、但し、それは類比以上のものではないのですが、より高次の領域を記述したいということであれば、適切に拡張される必要があるでしょう。皆さんも恐らくご存じのように、数学を拡張する必要性は既に19世紀には明らかになっていました。別の機会に、昨日もそうだったと思いますが、議論した点について少し触れさせていただきますと、19世紀の終わりには、ユークリッド幾何学を補い、より高次の次元を含む計算を遂行することができるような非ユークリッド幾何学が必要であるということが明らかになっていました。当時の数学者たちは、数学は拡張されなければならないということを示唆していたのです。対照的に、通常の、重さのある物質について考えている限り、三つの通常のユークリッド次元以外の次元を適切に用いるという必要はありません。けれども、今日の数学者たちにとっては、熱や化学的な影響、あるいは生命の要素についての領域に関して適切な観点を探求しようという傾向があまりにもないために、数学的な思考をこれらの領域に拡張することは、本当に大変な問題になります。数学者たちが今日提議している観点は、ものごとの本質を把握することはできないという物理学の側からの告白に対して釣り合いを取るものには確かになりません。そして、物理学者たちが首尾一貫した立場を取るとすれば、物理学は光の本質を取り扱うものではなく、ゲーテが光の像と呼んだところのものを扱っているに過ぎないということを認めないわけにはいきません。当然のことながら、分別ある物理学者は、職業人として、ものの本質を探究することは拒絶するでしょう。その結果、事態は不幸な状態、すなわち物理学者たちがものごとの本質をいかなるレベルにおいても扱うことをしないという状態になるということを認めないわけには行きません。そして、通常の唯物的な物理学の観点から哲学をでっち上げる連中は、単にものごとの本質を探究するのを拒否するだけではなく、そのようなことは不可能であるとさえ主張するのです。その結果、私たちの今日の地球に関する観点は非常に一面的なものとなっています。何故なら、物理学は単に地学の問題なのでは決してなく、一般的な知識のためにそのような特殊な分野が産み出すことができるものの総体を扱うものだからです。こうして、私たちは物理学が時間の経過の中で発達させてきた機械論的で非数学的な世界観からくる不幸な結果に直面することになるのです。ゲーテが、私たちは光の存在や性質について語るべきではない、むしろ、それに関する事実、つまりその行為と苦しみ、それらは光の本性についての完全な記述となりますが、それについて知るように試みるべきであると言ったとき、彼が意図していたのは、決して、光の本性の問題については原則として考えることを拒否するということではありません。彼が指摘したのは、正に、昨日ここで議論したような方法で構築される真の現象学は最終的には問題になっているその存在のイメージを本当に与えるということです。物理学は、それが真の現象学であるか、あるいはそうであろうとしている程度に応じて、現象の本質、少なくとも力学の本質についてのイメージを本当に与えるのです。ですから、私たちが単に物理学的な現象の力学的な側面を扱っているのではないとすれば、つまり、私たちが力学以外の分野を扱っているとすれば、力学的な観点は、ものごとの本質を認識しようとする私たちの能力を妨げます。そのとき、その程度に応じて、私たちは、ゲーテが意図していた現象学、それはゲーテ主義の中で涵養させられますが、それと、ものごとの真の性質に近づく可能性を排除するところの原則を有するあらゆるシステムとの間の根本的な違いを強調する必要があります。そのことは、自然をコントロールしたいという私たちの欲求にとっての力学的な方法の優位性とは何の関係もありません。技術や力学の分野、それはここ数世紀の間に大きな勝利を収めました。そして、自然を理解するためのその力学的な基盤は、自然をコントロールしたいという私たちの欲求をある程度満足させるであろうということはよく理解できます。しかし、別の領域においては、この自然を理解し、コントロールしたいという衝動は、技術が希求したようなタイプの知識に向けて押し進むことを拒否したためにどれ程の遅れをとったのでしょうか。技術あるいは力学と、物理学に始まり、化学から生物学へと続く学問との間の違いは、これらのより高次の分野は単に定性的であるか、あるいはそのようなものだけを扱うということではありません。その違いは、力学と力学的生理学が非常に基礎的で、簡単に把握できる側面であり、そのため、私たちのコントロールへの欲求を少なくともある程度は何とか満足させたということに過ぎません。けれども、この時点で、私たちがより高次の、より非力学的な分野に移行するとき、コントロールしたいという私たちの欲求をどうやって満足させたらよいのかという疑問が生じます。私たちは、将来的には自然を単なる技術を超えた方法により、少なくともある程度は支配できるということに頼らざるを得なくなるでしょう。私たちは、技術的な分野においてさえ、自然を理解しコントロールすることに失敗することがよくあります。もし、誰かが力学の法則に関する十分な知識なしに鉄道橋を造るとしたら、その橋はいつかはその上を列車が通っているときに崩壊するでしょう。私たちは間違った情報に基づく不十分な制御に対してはすぐに反応します。しかしながら、力学に基づくのではなく、現象学を発達させるプロセスから導き出されるより複雑な領域に基づく制御のときには、それはいつもそれほど簡単に証明されるというわけにはいきません。三番目の列車が通っているときに崩壊する橋は、関連する力学を理解するには不十分に動機付けられた誰かによって造られたに違いないということはそれほど差し支えありません。患者を死なせる医者の場合、その開業医の理解への欲求と彼あるいは彼女の自然に対する制御との間に同様の結びつきを確認するのはそれほど簡単ではありません。医者が、病気は治したけれども、患者を殺したというとすれば、それは技術者が、欠陥のある橋を設計したというほど簡単ではないのです。要するに、私たちの自然についての力学的な観点が、単に力学的な技術の領域において、この欲求を満足させることができることを証明したからといって、自然を制御したいという私たちの欲求の重要性を性急に強調することには慎重であるべきです。自然に対する別の見方も、制御したいという私たちの欲求を別の仕方で満足させることができるでしょう。昨日、確か別の観点から触れたことについて、もう一度指摘させていただきますと、私たちは真の現象学的なアプローチを適用することなしに、世界についての力学的な観点と人間との間の溝に橋を架けることは決してできません。ゲーテの色彩論は、色の物理的、生理学的な現象を提示するだけでなく、色の感覚的、道徳的影響を探索することによって、その課題全体を人間に適ったものとします。私たちは、精神科学の仕事をする中で、ゲーテによって指摘された色の影響から人間存在全体を理解するというより幅広い課題、そして自然全体を理解するというさらに幅広い課題に移行することができます。哲学・思想ランキング
2023年08月30日
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「四次元/Die Vierte Dimension」数学と現実第二部 質疑応答 ドルナッハ 1920年3月30日◎質問:人智学は化学のさらなる進歩にどのような影響を及ぼすのでしょうか。答弁:私たちがコリスコ博士によって述べられた型の現象学に取り組んでいると仮定すると、この質問は非常に包括的なものですから、答えは単にヒントを与えるだけのものになるでしょう。私たちは、第一に、そしてとりわけ、適切な現象学を発達させなければならないだろうということに気づくべきです。現象学は単に現象や実験結果を思いつきで集めたものではありません。真の現象学とはゲーテがその色の理論の中で試みたような現象のシステム化なのです。それは単純なものから複雑なものを導き出し、基本的な要素や現象がそこから現れる基盤へと立ち返らせます。もちろん、私は何人かの全く知的な人々が、定性的な現象と元型的な現象との間の結びつきを上手に提示したとしても、複雑な幾何学的関係が定理から数学的に導かれるときの方法とは比べものにならないと主張するであろうということを十分に承知しています。この理由は、幾何学的な関係が本来的な構造に基づいてシステム化されているためです。私たちはこれらの定理から数学がさらに発達するのを数学的なプロセスの本質的に必然的な継続として経験します。しかし、他方で、私たちは、現象あるいは元型的な現象を体系づけるときには、ものごとの物理的な状態を観察することに依存しなければなりません。この議論は、幅広い支持を得ているのですが、正当なものではなく、単に不正確な認識論、特に経験についての概念をその他の概念とやみくもに混ぜ合わせた結果であるに過ぎません。この混乱は、部分的には、人間の主観がそれ自身の経験を形作ると間違って考えることから結果として生じます。何らかの対象物が人間の主観に結びついているところを想像しなければ、経験という概念を発達させることは不可能です。私がゲーテ的な元型のイメージの前に立っていると想像してください。私がそれをより複雑なものにするとき、それから派生する現象が結果として生じますが、私は、その結論を支えるために、外的な経験を頼りにしているように見えます。この主観と客観の関係と、私が三角形の頂角の和が180゜であることを数学的に示すときやピタゴラスの定理を認識論的に証明するときに起こることとの間に原理的な違いがあるでしょうか。本当に何らかの違いがあるのでしょうか。実際、数学というものもまた結局のところいわゆる認識の科学がその意味で用いているところの経験というものの上に成り立っているのだということに気づいた19世紀あるいは20世紀の非常に才能ある数学者たちによる研究から明らかなように、それらの間に違いはないのです。これらの数学者たちは、当初はユークリッド幾何学の単なる補足でしかなかった非ユークリッド幾何学を発展させました。理論的には、三角形の三つの頂角の和が360゜であると幾何学的に考えることは実際に可能なのですが、それは空間が異なる段階の曲率を有していることを前提としているということを認めないわけにはいきません。私たちの通常の空間は規則的なユークリッド的尺度つまり次元と零度の曲率を有しています。単に空間がより曲がっている、つまり、その曲率が1より大きいと想像することによって、私たちは、三角形の三頂角の和は180゜より大きいという結論に至ります。この分野では、このテーマについてより詳細に研究したオスカー・シモニーが行ったような興味深い実験がなされていますが、そのような努力によって、ある観点から言えば、私たちが数学的あるいは幾何学的な定理に関して述べる結論は、あらゆる現象論的な結論と同様に、認識論的な検証を必要としていると述べることが既に必要であるということが示されるのです。(了)哲学・思想ランキング
2023年08月29日
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「四次元/Die Vierte Dimension」数学と現実第二部 質疑応答 シュツットガルト 1920年3月11日 - Ⅱ◎最初の質問:質問は、そのような理解(*純粋に形式的な数学が単に象徴的に表すことができるだけの数、そして、ある意味で抽象化とは追加的な対応する点を特定の空間領域に適用すること)は現実に対応しているかというものです。私たちが単純な幾何学において行ったことは、数学のすべての領域においても可能である筈であることから、数学的な対象を元型と物理的なイメージとを仲介するつなぎ目として理解するということは、恐らくこの講義の中で提示された物理学をサポートするのに必要なタイプの計算を行うための基礎を提供することができると考えてよいでしょうか。◎第2の質問:これ(*形式的な数学)は、私たちの思考をコントロールし、高めることによって私たちが到達することができるところのいわゆる超経験的な領域への道であり得るのでしょうか。答弁:あなたの最初の質問を正しく理解しているとすれば、あなたは元型と物理的なイメージとの間の中間的な段階としての数学の領域にアプローチすることができるかどうかを尋ねられているのだと思います。数学の各領域を純粋に精神的、経験的な観点から眺めてみましょう。数学の空間的、幾何学的な領域とは何でしょうか。それとも、あなたは算数についても考えていたのでしょうか。(*アレクサンダー・ストラコシュ:幾何学について考えていました。)。この連続講義の中で、私は既に、どのようにして通常の幾何学図形に到達するかについて強調的に示唆してきました。私たちは経験的なアイデアから抽象化によってそれらを見いだすのではありません。まず数学的かつ幾何学的な図形はある種先験的なものです。それらは人間の意志の本性から導き出されますから、私たちが数学的な図形を経験するときには、数学的な領域において活動的であるとともにその現実に関わることがいつでも可能であると云うことができます。ですから、そのような図形は、経験的なレベルにおいてさえ、外的な現実(*それを私たちは単にイメージの形でのみ有することができます。)と存在の直接的な内容(*それを私たちは内的に経験します。)との間の一種の中間的な段階を既に表現しているのです。精神的な意味で経験的な見方をすれば、私たちが幾何学を理解するときには、元型と物理的なイメージとの間の中間的な段階を把握しているということが示されるでしょう。けれども、この一連の思考を検証するためには、まだやらなければならないことがあります。もし、幾何学的、数学的な図形が本当に元型とイメージとの中間的な状態であるならば、イメージが有していないようなある一定の非物質的で理想的な属性を持っているはずです。とはいえ、それがそのように非物質的なものとなるのはイメージの領域においてのみです。イメージは組み合わせである可能性もあり、必ずしもその元型に対応してはいません。私たちが直面する単なるイメージがどれも元型に対応しているとは限らないのです。然し乍ら、仮に私たちがある一定の量の現実を取り込んだ中間状態を有しているならば、私たちに必要なのは、対応する特定分野の現実を見いだすことができるということです。そして、私たちにはそのような領域を勝手に結びつけることはできません。私たちには元型を日常的な仕方で結びつけることは決してできないのです。私たちはそれらを、それらが明確な経験として存在するところのそれら自身の領域の中に探さなければなりません。こうして、この中間領域、すなわち、皆さんが数学的対象の知覚された合法性の領域と呼んだところのものを正しい方法で把握するためには、私たちはその構成を絶対的で固定された元型と際限のない数のイメージとの間の中間状態としても理解しなければならないのです。つまり、私たちは数学のすべて、特に幾何学を、本来的に動きのあるもの、少なくとも潜在的な形態においては、すべての現実の中に存在しているものとして説明しなければならないでしょう。例えば、私たちは三角形を動きのないものとして想像することはできません。そうではなく、その概念についての全体的な視界を見通すようにしなければなりません。三角形とは何でしょうか、それは直線に囲まれた領域であり、その角の和は180°です。私たちはその三辺の長さを無限に変化するものとして想像しなければなりません。この定義は無数の三角形もしくは流動するひとつの三角形を生み出すことになるでしょう。このようなものの見方は結果として流動的な幾何学を生じさせることになります。私たちは、この流動的な幾何学が自然界にとっての何らかの意義があるということ、例えば、それが結晶化の法則に関するひとつの側面に対応しているということを証明できなければならないでしょう。ですから、あなたの質問に対する答えは「イエス」です。この観点は実際、現実に対応するひとつのアイデアに基づいているのですが、その概念全体を明確にするためには、やるべき多くのことが残っています。 私はこれらのことすべてに関係してくるもうひとつ別の課題についても触れないわけにいきません。ご存じのように、最近、人々は、より高次の現実の領域に参入しようとするとき、より高次の次元に頼るという習慣を形成しています。私たちの秘教概念の基礎を形成した形式主義の場合、必ずしもそうではありませんでした。以前の時代の人々は、通常の物理的な図形は三次元的なものとして考えるべきであるのに対して、アストラル空間に属する図形は二次元平面にあるものと見るべきであると言いました。ここで注意していただきたいのは、私が今お話ししているのは存在の領域あるいは平面についてであり、そのため、「アストラル」という言葉は、私がブリュンメルさんとのお話の中で、物理的な体と「自我」の間の段階を記述するときに用いたのとは異なる意味で用いられているということです。次の段階であるルーパ平面は一次元の範囲内にあるものとして想像されなければなりません。そして、アルーパ平面について想像するときに私たちは点へと至るのです。このように、私たちがより精神的なアイデアへと向かうときには、次元の数は増えるのではなくて、むしろ減らなければならないということができます。私たちが上方から下方へと向かうときにも、この現象に出会います。例えば、次のような一連の思考を試みるときにもそうです。私たちは精神、魂、そして体を問題なく区別することができます。けれども、地上を歩き回っているような人間の中にある精神的な要素とは何でしょうか、この精神的な要素は極端に濾過された形態で存在していると言わなければなりません。私たち人間は私たちの抽象的な思考を精神に負っています。つまり、それは私たちの中の精神的な要素なのです。それ自体では、単に感覚的に知覚可能な対象やできごとだけを感じ取りますが、その知覚方法は精神的なものです。私たちが思考の精神性を体的な要素にまで下って辿るとき、それは人間の物理的な体の中にひとつの表現を有しているのですが、一方、より包括的な精神的要素はそのような表現を有していないということが分かります。大まかにいいますと、私たち人間が役割を演じるところの精神的な世界の三分の一は物理的な人体の中に表現を有しています。これが魂となりますと、人間が役割を演じる精神的な世界の三分の二が物理的な人体の中に表現を得ます。そして、物理的な体にまで行き着きますと、三分の三が表現を得ることになります。私たちが上から下へと移行するとき、私たちは、元型からそのイメージへの発展において、元型は容易にその存在の側面を後に残す。そして、この現象は私たちの物理的な側面についての本質的な特徴を提供すると想像しなければなりません。反対に、私たちが上方に移動するときには、イメージの中に取り込まれていない新しい要素を発見することになります。然し乍ら、私たちが下方に移動するとき、私たちが出会うのは単なるイメージではありません。現実がその中に入ってくるのです。夜間に肉体とエーテル体がベッドの中に横たわるとき、アストラル体と「自我」は単にそこから抜け出して、それを空にするというのは本当ではありません。アストラル体と「自我」が離れている間に、より高次の力が肉体とエーテル体に入り、それらを生き生きとさせるのです。同様に、ひとつのイメージもその元型に起源をもつ要素だけを含んでいるのではありません。そのイメージがひとつのイメージとなり、実体に属するようになるとき、これらの要素が入ってくるのです。そのとき、興味深い質問が生じるのですが、それは、単に想像的に結びつけられたイメージは、いかにしてひとつの現実的なイメージになるのかというものです。それは私が触れた別の課題が入ってくるときに生じる質問ですが、ここではさらに、私たちが二次元について考えるときには、最初の一連の思考は第一の次元を照らし出すことができる第二の次元に直接導くというコメントをさせていただきたいと思います。すべての二次元図形は二次元の中で描くことができますが、三次元空間を占める図形はそうはいきません。私が遠近法のようなものを使うのではなく、色を使って絵を描き始める、つまり、色をコピーし色のイメージを提供すると考えてみてください。そのとき、私はイメージを形成するために、空間を直接平面に取り込んでいるということは誰もが認めるでしょう。この時点で、私はこのイメージの中で色を表現しているところのものは、三次元空間のどこかに横たわっているのか、つまり、三次元に取って代わり得るところの何かを示唆するために、色を用いることは可能なのかと問うかもしれません。ひとたび、色の要素についての概観を得たならば、私たちは、二次元の中に三次元性をもつイメージを創り出す特別な方法で、色を配置することができるようになります。すべての青は退く傾向があり、一方、黄色は前に出てくるということは誰にでも理解できます。このように、私たちは単に色を使うことによって三次元を表現します。三次元の拡張的な側面を表現するために、色の持つ強調的な側面を用いることによって、私たちは三次元を二次元へと圧縮することができるのです。この一連の思考に別の思考を結びつけることによって、私たちは流動的な幾何学に到達します。そして、私たちは次のような考え方を取り込むことができるように、本当に幾何学を拡張することができるかもしれません。つまり、数学において、私たちは合同の三角形AとBを構築することができるが、平面上に描かれた赤と青の三角形の間に拡張された数学的結びつきを見いだすこともまた可能なのではないか。私が青い三角形を描くのと同じ方法で、赤い三角形を形成する単純な線を単に引くことは本当に許されているのか。私が赤い三角形と青い三角形を同じ平面に描くときには、赤いのはまさにそれが赤いという理由で小さくなければならず、一方、青いのは単にそれが青いために大きくなければならないだろうとはっきり言う必要があるのではないだろうかと。今、強さの要素を私たちの幾何学に取り込み、そうすることで、強さを用いて計算を遂行することができるようにすることは可能なのか?という疑問が生じます。このことは、左の目と右の目が一緒に働くことの意義を十分に明らかにしてくれるでしょう。立体的な視野は両目がともに働くということに依存しています。光学の領域において、この現象は私の右手で左手をつかむのと同じです。体の一部で別の部分に触ることが決してできない存在は、「私」について考えることが物理的にできません。私が空間の中で自分を「私」として経験することができるのは、単に通常の経験主義には少しだけ隠された現象、つまり、私の右と左の視野が交差しているという事実によるものです。この事実は、「私」という現実を包含するものではありませんが、私たちに「私」についての正しい概念を形成するようにさせます。 さて、もし、私たちの目が、多かれ少なかれ対称的である代わりに、ひどく非対称であったとすれば、私たちの「私」について考える物理的な能力がいかに影響されるであろうかということについて想像してみてください。例えば、もし仮に、あなたの左の目が右目よりもかなり小さく、左右の立体像が非常に異なっていたとしたらどうでしょうか。あなたの左目はより小さい像を作り出し、それを絶えず大きくしようと試みる一方、あなたの右目はその反対、つまり、その像のサイズを小さくしようと試みなければならないでしょう。この努力は、あなたの静的な立体的視界に、より生き生きとした視界の形態を付け加えることになるでしょう。けれども、本当の生き生きとした視界は、あなたがイマジネーション的な知覚に接近し始めるやいなや達成されるものであるに違いありません。この知覚は、非対称的な要素を絶えずお互いに適合させなければならないということから結果として生じます。ドルナッハにある彫刻の中心像は、それが精神へと上昇していることを示すために、非常に非対称的なものとして表現されなければなりませんでした。それはまた、人間のあらゆる側面、例えば、私たちの立体的な視覚は、基本的に一方の極か他方の極に絶えず逸れている均衡状態であるということもまた示唆しています。私たちは、上下、前後、左右の間で絶えず均衡状態を創り出していかなければならないということによって人間なのです。(了)哲学・思想ランキング
2023年08月28日
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「四次元/Die Vierte Dimension」数学と現実第二部 質疑応答 シュツットガルト 1920年3月11日 - Ⅰ-③◎第3の質問:精神科学の線に沿ってさらに発達させる必要があるのは現代数学のどのような側面でしょうか、特に形式的な側面についてはどうでしょうか.答弁:形態数学の将来の発展に関して言えば、やるべきことが多く残されている、多くのことが可能であるということを認めなければなりません。私が次に述べることは形態数学への不当な扱いになるかも知れませんが、それは、近年ではそれについて行くことが私にはより難しくなっているからです。私がこの分野で何が起きているかを十分に承知していたのはずいぶん前のことですから、事態は変化しているかも知れません。けれども、世紀の変わり目より以前には、私はいつも、形態数学の分野で公表される論文は、それらの計算や働きがとにかく実際に可能であるのかどうか、あるいは、それらは何らかの現実の状況に合わせて、いずれかの点で変更される必要があるかどうかについて恐ろしく無関心であるという感じを持っていました。例えば、一次元の多様性に二次元の多様性を乗じたときには何が起こるかと問うことができます。そのような問いに答えることは可能ですが、それでも、私たちはこのような操作がそもそも現実に対応しているのか、少なくとも想像することが可能な何かに対応しているのかと問わなければなりません。どこかに行き着くためには、「単に計算が可能である」ということがどういうことなのかをはっきりと規定する必要があるでしょう。ひとつの例として、私は昔、ピタゴラスの定理を、視覚的な助けを借りることなしに、純粋に数の見地から証明しようと試みました。幾何学の中にうっかり迷い込まないように、純粋に算術的な要素をできるだけ厳密に定式化することが重要になります。私たちが数の計算をするとき、私たちが常数の範囲内にとどまる限りは、それらは単なる数であって、特定の空間領域における数システムについて語る必要はありません。皆さんはこれが可能であることをご覧になりました。しかし、私たちは私たちの通常の空間を離れなければなりません。純粋に形式的な数学が単に象徴的に表すことができるだけの数、そして、ある意味で抽象化とは追加的な対応する点を特定の空間領域に適用することなのですが、それを設定する前に、そのようなより高次の数を幾何学の助けなしに想像することはいかにして可能なのかを。つまり一連の数を通して単純で直接的であるリニアな関数を表現することができるという意味で可能なのかを検証しなければならないと私が感じているのはこの理由によります。私たちは、正と負の数の関係を純粋に基本的なレベルで想像するにはどうしたらよいかという質問に答えなければならないでしょう。私はその課題に取り組んできたわけではありませんし、それについて十分に知っているわけでもないので、はっきりとした答えを提供することはできませんが、ガウスの解法、つまり、正と負の違いを純粋に概念的なものと仮定することは、私には不十分のように見えます。負の数とは、被減数のない引き算以上のものではないというデューリングの説明も同様に不十分のように見えます。デューリングは虚数(-1の平方根)も同様の方法で説明しますが、この数は、その表記法こそ存在しますが、現実においては実行できない操作を遂行しようという試み以外のものではありません。もし、私が3と、そこから差し引くべき何ものも持っていないとしたら、3が残ります。その操作に関する表記法は存在しますが、何も変化はありません。デューリングの観点では、微分して得られた商は表記された操作に過ぎず、他のいかなるものにも対応しません。私には、デューリングのアプローチもまた一方的なもののように見えますが、解決の方法は恐らくその中間にあるのでしょう。けれども、これらの問題が解決されない限り、私たちは、形式的な数学において、どこにも行き着くことはないでしょう。(了)哲学・思想ランキング
2023年08月27日
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「四次元/Die Vierte Dimension」数学と現実第二部 質疑応答 シュツットガルト 1920年3月11日 - Ⅰ-②◎最初の質問:曲面や多岐管上の各点の関係を通して超虚数を規定しようとする私の試みは現実に即したものでしょうか。答弁:最初の質問に関していえば、私たちが人間の中に見て取ることができるのは、あるレベル以上に横たわっているもの、そして、あるレベル以下に横たわっているものだけです。これをほとんどの方が理解できるように説明しますと、人類の代表として中心に位置するキリストが両端にアーリマンとルシファーを従えたドルナッハにある木彫を見る人にはいつも説明するのですが、私たちは、私たちが出会うような人間を、均衡状態の中にあるものとして本当に想像しなければならないということになります。片方には超感覚的なものが、他方には感覚以下のものがあります。個々の人間は、超感覚的なものと感覚以下のものとの間で、絶えざる均衡状態にあるものとしてだけ表現されます。もちろん、人間は兎にも角にも小宇宙であり、そのようなものとして大宇宙に関連づけられています。ですから、私たちは人間の各細部とそれらに対応する大宇宙における現象との間の結びつきを説明できなければなりません。そのことを次のように図示してみましょう。これが(*保存されていない図を指し示しながら)バランス面であるとして、人間の中の感覚以下の要素を閉じた曲線として想像し、そして、超感覚的な要素、もしくは人間がその意識の中に有しているところのものを開いた曲線として想像するならば、得られる形態は、下方において結び目を有し、上方において外側に開いたものになります。この図はまた、人間がどのようにして大宇宙に組み込まれているかを表現しています。この下方にある取手のような領域は私たちを大宇宙から引っ張り出す一方、この上面にある開いた曲線は私たちを大宇宙へと組み込みます。人間の自由意志による決定の領域はおよそこのあたりに位置しています。自由意志のレベルより上では、人間の力は大宇宙に出て行くのに任されます。このレベルより下にあるものはすべて大宇宙の力を包み込んでいますが、それによって私たちは特定の形姿を取ることができているのです。この曲線によって形成されるいくつかの平面図形の内部に、私たちが探求できる宇宙的な思考を表現する一連のデータをXとして書き込みましょう。ここには私たちが探求し得る宇宙的な力があり、ここには宇宙的な動きがあります。もし、私が、上部にあるこれらの数字を含む式を立てるとすれば、下部の人間の中にあるものに対応した式が得られます。X、Y、そしてZ要素についての式が必要になります。けれども、私がこの関係を表現する数を見つけようとしても、この平面上で手に入る数システムの領域の中でそれらを見つけることはできません。超感覚的な人間と感覚下の人間を結びつけるためには、曲面上に横たわるシステムに属する数を含む式に頼らなければなりません。これらの面は、放物線を対称軸の周りで回転させてできる図形の表面、つまり、三角錐の各点が絶えず速度を変化させるような仕方で回転するときに生じる表面としてより正確に定義できます。もっと複雑な放物線の回転体もありますが、その各点は、お互いの関係を固定的に保持するのではなく、ある法則性の範囲内で変化することができます。このように、私の目的に役立つ表面とは、生きた放物線の回転体なのです。 私が記述している関係はきわめて困難なものです。今まで、何人かの人がそれについて想像してきました。そして、その必要性が見いだされてきたのですが、公式的な計算が可能になるのは、秘教的事項、精神的な科学、数学との共同作業が可能になったときだけでしょう。今日、あなたが私たちのために概要を示してくれた道は、ひとつの始まり、すなわち、頂点が一点で接するふたつの回転する放物線上(ひとつは下方で閉じており、ひとつは上方に開いている)の数システムに適用される関数の組み合わせに対応するものを見いだすという課題に対する最初の可能な答えとなっています。お話ししたように、私たちに必要なのは、これらの現実の状況に実際に対応した表面上にある数を見いだすということに他なりません。哲学・思想ランキング
2023年08月26日
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「四次元/Die Vierte Dimension」数学と現実第二部 質疑応答 シュツットガルト 1920年3月11日 - Ⅰ-①記:答弁は第2の質問からされている。◎第2の質問:虚数(虚数とは2乗するとマイナスになる数です。)の領域についての生き生きとした観点を獲得することは可能なのでしょうか。そして、この領域には実際の実在が基盤として存在しているのでしょうか。答弁:第2の質問から始めることにしましょう。その答えを定式化するのは容易ではありませんが、その理由は、私たちがそれを行うためには、視覚化の領域から非常に大きく離れなければならないということによります。数日前にミューラー博士の質問に答えたとき、皆さんは、私が数学的な事例に具体的な関連を与えるために、長い骨から頭骨への移行に向かわなければならなかったとはいえ、それでもやはり図象的な例示は有効であるということをご覧になりました。少なくともあの場合には、対象を視覚化すること、したがって、ひとつのものから別のものへの移行が可能でした。 虚数の領域を精神的な現実として眺めようとするときには、私たちは、私が最近行った物理学についての連続講義において示したように、正から負へと移行する必要があります。私たちがいわゆる考え得るものと考え得ないものとの間の一定の関係を理解しようとするとき、この移行は私たちの考えを現実にとって真なるものにしてくれます。けれども、通常の領域を視覚化するときでさえ、私たちはそれらを図示するいつものやり方を超越する必要があるということが理解できます。ひとつだけ例を挙げてみましょう。通常のスペクトルを平面上に描く際には、赤から緑を経て紫まで直線を引くことができます。けれども、そのような描画方法は、赤を表示するために、多かれ少なかれこの(*保存されてはいない。図を指し示しながらの模様。)平面内に曲線を描くときにのみ包含されるところの関係するすべての側面を示してはいません。次に、紫を表示するために私たちは黒板に向かい、その裏側に廻るのですが、そうすれば、上方から見たとき、赤は黒板の前面にあることになります。紫を内側、すなわち化学的な作用に向かうものとして、そして、赤を外側、すなわち熱に向かうものとして特徴づけるためには、私は、赤に関しては、平面から出て、紫に関しては、その中に戻らなければならないでしょう。ですから、私はここで直線を拡張し、通常の仕方で描かれた私の図を実際に描くべきものの投影として見るように強いられます。高次の現実に関わるある種の現象について明確であるためには、正の物質的側面から負の物質的側面へと移行するだけでは不十分なのです。赤から緑を経て紫へと至る直線上を動くことが不十分であるように、それは正に不十分です。私たちが、正と負によってそれぞれ示されるような、空間的な領域から非空間的な領域へと移動するときには、私たちは空間と非空間のより高次の形態へと移行しなければなりません。この過程は、円周上を回って出発点に戻る代わりに、螺旋上を移動するようなものです。私たちは、ちょうど、別の場合に、ふたつの異なるタイプが、両方を含むひとつの統合体として総合されるように、空間的であるとともに非空間的である何らかの存在を思い描くこともできます。私たちはこの第三の要素を探さなければなりません。より高次の現実の領域では、物理的な現実を正として記述するならば、私たちが空間を離れ、精神の領域に入り始めるところのエーテル的な領域を負として記述しなければなりません。けれども、アストラル的な領域に歩を進めるとき、正と負の空間はもはや十分ではありません。私たちは、正に定型的な数学において、虚数が正と負の数に関連しているように、正と負の空間に関連する第三の要素に向かわなければならなりません。そして、次に、私たちがアストラル領域から自我という真の存在に歩を進めるとき、虚数との関係でいえば、超虚数的な概念が必要となります。ですから、私は超虚数の概念に対するアカデミズムの反感には決して満足しなかったのですが、それは、私たちが自我のレベルにまで上昇するためには、この概念が本当に必要なのであって、それは私たちの数学的な定式が現実の領域を離れることを望まない限り、省略することができないものであるという理由によります。単に、純粋に定式的な数学においてその概念をいかに正しく用いるかが問題なのです。今日、私が会った人物は確率の問題を議論していましたが、この問題は数学的な操作を現実に関連づけることの大いなる難しさを非常に明確に示すものです。保険会社はある人がいつ頃死にそうかを計算することができますが、その数字は集団に適用されたときには非常に正確なものです。しかし、保険会社の出した数字から、特定の個人が予測された年に確かに死ぬと結論づけることは不可能です。このように、これらの計算は現実を欠いているのです。その計算結果は定式的な関連においては屡々正確なものですが、それでも現実には対応していません。私たちは、ある場合には、数学の定式的な側面を、そのような超経験的な現実についての結果に一致させるように、矯正しなければならないかも知れません。例えば、a×b=0が成り立つのは項のひとつが零であるときだけであるというのは正しいでしょうか。aかbが零に等しいときには、その答えは確かに零でしょう。けれども、両項とも零でなくても、答えが零に等しくなる可能性があるのではないでしょうか。実際、現実の状況が私たちを超経験的な現実に対応するところの超虚数に向かうように強いるとすれば、それは可能かも知れません。私たちは本当に、現実と虚数の関係、超虚数と虚数や実数との関係を明確にしようとすべきなのですが、同時に、計算を支配する法則を変更しなければならなくなるでしょう。哲学・思想ランキング
2023年08月25日
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「四次元/Die Vierte Dimension」数学と現実第二部 質疑応答 續1920年3月7日◎第三の質問:アインシュタインの理論によれば、1kgの質量の中には途方もない量のエネルギーが蓄えられていることになります。物質を破壊することによって-つまり、それを精神化することによって、新しいエネルギー源を取り出すことは可能なのでしょうか。答弁:あなたが取り上げた問題は、私たちが今日議論した部分のアインシュタインの理論には直接は関係していません。物質を分裂させることによってエネルギーを解き放つことは確かに可能でしょう。理論的な側面はそれが特別に困難なことではないことを示しています。問題は私たちがこのエネルギーを用いるための技術を持っているかどうかです。私たちは解き放たれた巨大な力を利用することができるでしょうか。その力がそれを用いて動かそうとしているモーターを破壊するとすればそれは不可能です。私たちはまずこの力を統御することができる機械的なシステムを開発しなければならないでしょう。純粋に理論的な観点から言って、大量の放射エネルギーをその利用のために解き放つためには、そのエネルギーに耐えることができる物質が必要なのです。そのエネルギーを解き放つこと自体は全く可能であり、それを解き放つのは利用することよりも遙かに容易なことです。◎第四の質問:物質をまるごと取り除いて、エネルギーと放射だけが残るようにすることは可能でしょうか。答弁:ある意味では、真空管の中で起こっていることに見られるように、物質は取り除かれ、電流だけが残ります。速度だけが残り、そして速度がこの現象に関係する数学的な定式において決定的な要素となっています。関係式E=mc²においてはエネルギーと質量が同時に現れていますが、いわゆる質量とはエネルギーとは異なるものであるという事実がそこで十分に考慮されているかということが問題なのです。あるいは、私がこの式を書くときには、私は実際には同一のものをふたつのものとしてきわめて抽象的に分離していることになるのでしょうか。それが許されるのはポテンシャルエネルギーについてだけですが、その場合には、アインシュタインの式E=mc²はポテンシャルエネルギーについての古い式を新しいものであるかのように見せかけているにすぎません。◎第五の質問:私たちはp×s(原注:仕事量wは力pに移動距離sをかけたものに等しい)を私たちの出発点として取ることができるでしょうか。答弁:ここで生ずる困難は、単に次のような理由によります。ある等級のシステムに属するふたつの構成要素を別のシステムに属するものと比較するとき、例えばもし、二人の人間が一定量の仕事をこなすのにかかる時間を日没によって提供される要素と関係づけるならば、全体システムのなかでの過程は、というのも、それはそのシステムのすべての構成要素に本当に適用され得るからですが、非常に容易に、いかなるシステムにも属さず、それ自身で自立することができるものの特徴を帯びることになるからです。太陽系から導かれる一年というような抽象的なことがらが別のシステムにおいても有効であると仮定すべきではありません。例えば、人間の心臓が5年の間にどんなに変わるものであるかを確かめるならば、ある人の心臓が5年前にどのような状態にあったかを現在との比較で記述することができます。けれども、単に同じ計算過程を続けて、150年前にはどうであったか、あるいは今から300年後にはどうなっているかと問うこともできます。 天文学者たちは、地球の現在の状態から出発するとき、このようなことをやっているのです。彼らは時間の経過に伴う変化をきれいに計算しますが、現在の地球上における状態に関しては、300年後の人間の心臓に関する計算と同じくらい意味のないものです。私たちは、ひとつの過程に内在する時間に関して有効であるところの結論はその過程が終末に至るときには意味をなさなくなるということをいつも忘れてしまいます。このように、現時点で生きている全体システムとしての有機体を超越することは私にはできません。全体システムは私の概念がそのシステムの内部に留まるようにします。そして、私がその境界を踏み越えるとき、私は直ちにそのシステムを犯すことになるのです。有効であるかのように見えてしまうのは、私たちが等級的なシステムを全体システムの意味で関連づけ、そして、そのような等級的なシステムの内部でのみ適用される要素を絶対的なものとすることに慣れているからです。(了)哲学・思想ランキング
2023年08月24日
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「四次元/Die Vierte Dimension」数学と現実第二部 質疑応答 續1920年3月7日◎第二の質問:アインシュタインによって仮定された時間の相対性には何らかの現実性があるのでしょうか。答弁:時間の問題に関しては、通常の機械的な定式ではなく、弾性についてのある定式に基づいて考えることから始める必要があるでしょう。弾性理論の考えを借りる必要があるのです。最前面を形成する分散や拡散を、無限へと広がり続ける実体として拡張的に想像することはできません。それは一定の周縁部に至ると必ず自分自身へと戻ってきます。現実の状況を扱おうとするならば、太陽が放射する光は無限へと消え去ると云うことはできません。そのようなことは全くないのです。拡張する弾性の力が尽き、それ自身へと戻ってくるようになる境界が必ずあります。拡散し、無の中へと消え去るという条件を満たすような無限系などというものは存在しないのです。拡散する実体は、それが何であれ、まるで弾性体を支配する法則にある程度従っているかのように、境界に到達するとそこで向きを変えるのです。私たちが光について語るとき、私たちが扱っているのは、決してあらゆる方向へと際限なく拡散し続けるような何かではありません。そのようなものではなく、私たちがいつも見いだすのは波のうねりと比較できるような状況です。私たちが定式を探すべき場所はそこであり、通常の力学のなかではありません。それから、まだ時間そのものの問題があります。実際、時間はこれらすべての変容を通過して行くと言えるのではないでしょうか? この力学の領域においては、いわゆる時間というものは現実的なものではありません。s(距離)=c(速度)×t(時間)という最も単純な式を取り上げてみましょう。通常の乗法にしたがえば、sは本質的にcと等価でなければなりません。何故なら、そうでなければ空間sは時間に等しくなりますが、そのようなことはあり得ないからです。この式のなかの空間については、いずれにしても数学的にはcに等しいものとして考えることしかできません。リンゴや梨を乗ずることは不可能です。そうではありませんか。一方を他方に換算しなければなりませんから。数式のなかでは、時間は数でしかあり得ないのですが、そのことは現実の時間が数であることを意味しません。私たちがそのような数式を書くことができるのは、私たちが取り扱っている数には色がついていないと仮定するときだけです。式c=s/tは別です。ここでのsは数tの大きさに関係するような一定の大きさを持った空間です。それによって速度cが与えられます。これは、特定の知覚し得る量の空間を占めているものが原子や分子であると想像するにしても、あるいは物質であると想像するにしても、現実の状況です。私は、私が経験的に直面するいかなるものも一定の速度を有していると想像しなければなりません。これ以上の結論は抽象にすぎません。時間は移動距離と除数から私が導き出したもの、私が被除数から導き出した何かですが、これらは抽象的なものです。現実的なものとは、そして、これは力学系にのみ適用可能なのですが、各物体に内在する速度です。例えば、物理学者たちが別の理由付けのために原子理論を受け入れるとすれば、原子が内在的な速度を有することなく存在すると仮定すべきではありません。速度が本当の現実なのです。ですから、私たちはこう言わなくてはなりません。いわゆる時間とはできごとや過程から抽出されたものであると。私たちが出会うもののなかでは速度だけを現実のものとして見ることができるのです。このことを完全に理解するならば、私が時間と呼ぶところのものは現象の結果として現れるのだと結論づけることをもはや避けることはできません。それは現象のなかで共同的な役割を演じるので、私たちはそれを何か相対的なものであると見なして無視するべきではありません。この抽象化された要素の共同作業が産み出すのは、例えば、ある有機体のライフスパン、生から死までの時間的隔たりというような一定の現実性を持った基本的な概念なのですが、その過程は内的なものであり、それを外的に測定することはできないのです。いかなる有機体もその有機体内部で起きているあらゆる経過の結果として生じ、かつその経過に組み込まれているところのライフスパンを有しています。有機体のサイズについても同様のことが言えます。それはその有機体にとって本来的なものであり、何か他のものと比較して測定すべきものではありません。ライフスパンとか生体の大きさといったような概念は私たちが通常仮定しているような仕方では有効に機能しないというのが適当な結論です。 人間には特有の大きさがあります。今、私たちの通常の宇宙に非常に小さな人間が存在していると仮定してみましょう。他のすべての目的にとっては、他の対象物と比較したときの人間の大きさは重要ではありません。ところが、人間にとっては、その典型的な大きさが重要なのです。何故なら、その大きさは本来的なものだからです。これが重要な点です。人間をより大きなものとして、あるいはより小さなものとして勝手に想像することは全宇宙に対して罪を犯すことです。例えば、どこかの科学的な思考家が、私たちの太陽系よりも遙かに大きな、あるいは遙かに小さな太陽系にはどのような生命がいるだろうかと想像します。このような疑問はナンセンスです。私たちが現実に出会う実在がどれほど大きいか、そしてその寿命はどれほどかというのは内的な必然性の問題なのです。ここで、私はひとつの全体として考え得るいかなる実体もそれ自身の時間をその内部に担っているということを申し上げなければなりません。一片の無機的な物体は他のいかなるものからも独立しているものとして見ることができますが、一枚の葉については、その持続する存在が木に依存していますから、そのような見方はできません。ですから、考えなければならないのは、観察している実在がひとつの全体、総体、あるいは自己充足した系であるかどうかということです。然れども、私が観察するいかなる全体的なものもひとつの内在する要素として時間を取り込んでいますから、それぞれの物体やできごとに本来備わった時間に加えて、物事の外部に抽象的な時間が存在するという概念についてはあまり考えません。時間を始まりから終わりへと過ぎ去るものとして見るのは、個々の馬に基づいて、「馬」という抽象的な概念を発達させるのに少し似ています。個々の馬は空間という外的な現実のなかに存在していますが、概念というものは何かそれ以上のものを要求します。時間についても同じことが言えます。時間というものは本来変化するものなのかという質問は本質的に意味がありません。何故なら、それぞれの全体システムはそれ自身の内在する存在のなかにそれ自身の時間と速度を有しているからです。いかなる無機的あるいは生命的な過程の速度もこの内在する時間というものを遡って指し示しています。ひとつの軸座標系を別の系に関連づけることはいつも可能であると仮定する相対性理論ではなく、私たちが全体としての有機体に向かうのと同じ方法で対処することができるような全体システムはどこに見いだされるかを明らかにするために、むしろ絶対性理論を確立したいと私が思うのは以上の理由からです。私たちは、例えば、地球進化におけるシルリア期の全体性について語ることはできません。何故なら、ひとつの全体としての系を構成するためには、シルリア期は別の進化期と結びつけられなければならないからです。人間の頭部をひとつの全体として語ることも同様に不可能なのですが、それはそれが体の他の部分とともに人間に属しているものだからです。私たちは地質学的な年代を、それがまるで現実の状況であるかのように、他の年代から独立して記述します。しかし、そうではありません。ひとつの年代とは、ちょうど生きた有機体が、それからは何も差し引くことができないようなひとつの現実であるように、地球進化全体との関連においてのみひとつの現実なのです。経過を座標軸に関連づけるのではなく、それらの過程をそれら自身の本来の現実に関連づけることによって、その全体システム、あるいはその総体を見ることができるようになるということの方がずっと適切です。その時点で、私たちはある種の単子論 (Monad) に立ち返らなければならなくなるでしょう。私たちは、相対性理論を克服し、絶対性理論に到達することになるのかもしれません。そのとき、アインシュタインの理論は抽象化に向けた努力の最後の表現であるということが私たちに明らかとなるでしょう。アインシュタインは抽象的なもののなかで機能しますが、彼の抽象化は、彼の仮定が非常に基本的なことがらに適用されるとき、ときとして耐え難いものとなります。例えば、私自身が音速で移動するときには、音はどのような働きを及ぼすでしょうか。もし、私が音速で移動すれば、もちろん音は決して聞こえないでしょう。何故なら、音は私と共に移動することになるからです。現実の言葉で、つまり全体性において考える人にとっては、そのような概念を用いることは不可能です。何故なら、音を聞くことができるいかなる存在も、音速で(原注:空気中を)移動したならば、バラバラになってしまうであろうからです。そのような概念は現実の世界における観察に基づいたものではありません。時間とは本来変化するものなのかと問うときも同じです。もちろん、抽象的な時間においてであれ、絶対的な時間においてであれ、何らかの変化を確認することはできません。それは「先験的」に想像されなければならないのです。しかしながら、私たちが時間の変化について語るときには、時間の現実を把握しなければならないのですが、それは、一時的な経過が世界のなかに存在する全体系に本来どのように結びついているのかを考慮することなしには、不可能なことなのです。(了)哲学・思想ランキング
2023年08月23日
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「四次元/Die Vierte Dimension」数学と現実第二部 質疑応答 シュツットガルト 1919年ーーーー◎質問:*記録なし。答弁:「数学」とは、空間中で作用する力の総体を抽象化したものです。私たちが数学的な定理をアプリオリ(先験的)に有効であると言うとき、それは、人間が他の存在たちと同じ力の線上に存在しているという事実、そして、人間は空間の形式やその他のものに属していないあらゆるものからそれを抽出することができるという事実に基づいているのです。(了)第二部 質疑応答 1920年3月7日◎最初の質問:光の絶対伝播の法則は正しいのでしょうか。答弁:最初の質問は、絶対空間中で光が一定の速度で進むかどうかに関するものであると思われます。ご存じのように、絶対空間中における光の伝播について語ることは実際不可能です。何故なら、絶対空間というものは存在しないからです。私たちが絶対空間について語る根拠とは一体何でしょうか。あなた方は、光の伝播は無限に大きく、光はその実際の伝播を媒体の抵抗から導き出してくると考えられると言いましたが、それは確かにそうです。そこで、お聞きしたいのですが、あなた方の観点から見て、他のあらゆる物体が移動する速度について語るのと同じ意味で、光の速度について語ることはそもそも可能なのでしょうか。*ヘルマン・フォン・バラヴァル:絶対に不可能です。 もし、私たちが光を他の何らかの物体と同等のものであると仮定しないのであれば、他の物体の速度を測るのと同じ方法で光の速度を測定することはできません。通常の物体、物質的な対象物が、ある速度で空間中を飛行していると仮定してみましょう。この物体は、時間のなかにおけるある特定の瞬間に、ある特定の場所にありますが、速度を測るための私たちの方法全体が、ふたつの異なる時間の間で、その物体の位置が出発点とどれほど異なっているかを考察することに依存しています。この測定方法は、移動する物体がその移動線上の各点から完全に離れるときにのみ可能となります。その物体がこれらの点から離れるのではなく、後に痕跡を残すと仮定してみましょう。もし、一定の空間中を移動する物体がその空間を離れるのではなく、その移動ラインを占め続けるとしたならば、この測定方法を適用することはたちまち不可能になります。しかし、それは私たちがその差異を測定できないからではなく、推進する速度が推進される物体を絶えず変化させるからです。空間を離れるときにはその空間を空にするものではなく、その空間を完全に空にするかわりに、後に痕跡を残すような実体を取り扱うとき、通常の測定方法は適用できません。このように、物質的な物体の速度について語るのと同じ意味では、一定の光速度について語ることはできません。それは、位置的な差異という速度計算の基礎を与えるべきものに基づく等式を形成することができないからです。このように、私たちが光の伝播を扱うときには、光の外的な伝播速度についてのみ語らざるを得ないのが分かります。けれども、もし、私たちが光の伝播速度について語るとすれば、私たちは、その速度を測定するために、発散する光の源泉へと絶えず立ち返るように強いられることになるでしょう。たとえば太陽の場合、私たちは発散する光の起源へと立ち返らざるを得ないでしょう。私たちは光の発散が始まるところから測定を始めなければならず、その光が無限に複製されると仮定しなければならないでしょう。けれども、この仮定は正しくありません。何故なら、光が拡散していく最前面は単純にどこまでも大きくなるのではなく、ある種の弾性の法則に従うようになり、一定の大きさに達したときには、方向が逆転するからです。その地点では、私たちはもはや単純に拡散する光ではなく、戻ってくる光、同じ道を逆に辿りながら収縮する光を取り扱うことになります。つまり、この基盤の上に立てば、光に満たされた空間の中に存在すると仮定される単一の位置取り、つまり、ある地点から別の地点へと拡散する何かについてではなく、ふたつの実在の出会い、ひとつは中心からやって来るもの、もう一方は周辺からやって来るものですが、それらの出会いについて取り扱うことになります。ですから、次のような根本的な問いかけをしないわけにはいきません。私たちが光の伝達について考察するとき、私たちは本当に通常の意味における速度を取り扱っているのだろうかと。ご理解いただけたかどうか分かりませんが、私は通常の意味における伝播速度を取り扱っているのではありません。そして、通常の速度から光の速度へと踏み出すときには、弾性式に基づく定式を見いださなければならないのです。もし、物質の動きについてのイメージを用いるとすれば、そのような定式は、境界として固定された領域を有する弾性的に関連した空間部分が閉じた弾性系の中でどのように振る舞うかというその方法を反映したものでなければなりません。ですから、光の挙動についての記述に移るときには、通常の定式を用いることはできません。この理由により、アインシュタインの仕事には根本的な誤り、つまり、通常の力学的な定式、と申しますのも、それが彼の仕事だからですが、それをを光の拡散に適用し、空間中を進む物質的な対象物と同じ方法で光を測定することができるものと仮定するという根本的な誤りが見られるのです。光は、疾走する物質的、宇宙的な粒子から構成されているのではないということを彼は考慮していません。光とは輻射の痕跡を後に残すところの空間のなかでのできごとであり、そのため、それを測定するときには(*保存されなかった描写についての言及あり云々)、単純に、まるである物体が遠くからやってきて後に何も残さずに離れていくかのようにして測定することはできません。そうではなく、光が伝達されるときには、いつもそこに跡が残るのであって、それはある一定の速度で伝達されると云うことはできないのです。単に最前面だけが伝達されます。これが重要な点です。ここで扱っているのは、その拡散する要素によって分類された空間のなかにある特別な実体なのです。そして、そのとき、第一の誤りに関係した第二の誤りが見られます。つまり、アインシュタインは、実際にはお互いに接近する点からなる力学的な系に適用される原則を宇宙全体に適用し、そのため、その全体をひとつの系としてみたときには、宇宙は単に機械的な過程の総体ではあり得ないという事実を無視しているのです。例えば、もし、宇宙がひとつの有機体であるとするならば、その経過を機械的なものと仮定することはできません。私の手の中で機械的な経過が生じるとき、私の体全体が反応し始めるのであって、本質的に閉じた機械的な系によってそれが決定づけられることはありません。別の動きのための定式を光の動きに適用することは受け入れられますか。それとも、宇宙全体の反応が関わってくるでしょうか。宇宙全体の反応なしに光のない宇宙を想像することはよけいに困難ですが、この反応の働きは、閉じた機械的な系における速度とは非常に異なったものなのです。私にはこれらがアインシュタインのふたつの主要な誤りであるように見えます。私は彼の理論をただ簡単に調べただけですが、私たちは皆、数学的に誘導されたものは経験的な結果と実際に一致し得る、ということを知っています。例えば、太陽の傍を通り過ぎる星の光が理論的な予測値と一致したからといって、アインシュタインの理論がたちまち証明されたというわけではありません。 アインシュタインの思考方法がいつも逆説的で抽象的な理由は、その背後に横たわるこれらふたつの主要な要因によるものです。この状況は皆さんが以前に用いたウィルヘルム・ブーシュによる例、すなわち、力を込めて腕を振り上げられたために、今にも顔をひっぱたかれるのではないかという感じを持つときの状況です。それは、時計が光速度で飛び去り、そして戻ってくるとしたら生じるであろうことからアインシュタインが結論を引き出すのにやや似ています。皆さんにお伺いしたいのですが、このような考えに何らかの現実性があるでしょうか。その考えを突き詰めることは絶対にできません。何故なら、時計に何が起こるかを考えざるを得ないからです。もし、あなた方が思考を現実だけに限定することに慣れているならば、あなた方はそのような思考を完結へともたらすことはできません。そのような考えを述べているアインシュタインの文章を読むと、彼の結論が今お話ししたような基本的な誤りに基づいているのが分かります。以上が私の最初のコメントです。哲学・思想ランキング
2023年08月22日
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「四次元/Die Vierte Dimension」数学と現実第二部 質疑応答 ベルリン 1913年11月27日◎質問:死と再生の間にある人間は体に受肉している人間と同様の時間感覚を有しているのですか。答弁:このテーマについては、1914年3月19日に行われる予定の死と再生の間にある人間についての講義において、更に、より詳細な情報が与えられることになるでしょう。今日のところは、死後の生活とは、感覚で知覚可能な物理世界の関係性を離れ、空間と時間に関する全く異なる関係性のなかに入っていくことであるということだけを述べておきたいと思います。相対性理論によって、私たちは時間についての異なる概念を発達させ始めています。私たちは運動方程式の因数から精神的な世界への移行を果たすことができるのですが、それは私たちがそれらの因数をc=s/tの形で用いるときだけです。何故なら、sとtは、ご存じのように、感覚で知覚可能な世界に属しているのに対して、c(あるいは速度のv)が属しているのは、無機的な物体に関してさえ、実際には内的な経験の領域だからです。このように、私たちが精神的な世界における時間を理解したいのであれば、私たちはまず問題となる存在が持っている速度の量について語らなければなりません。そうすれば、比較を通して、部外者としての私たちが一時的な関係性について何らかのことを決定することが可能になります。例えば、その種の比較を通して、カマロカの生活においては、時間は三倍のスピードで経過するということが見いだされます。そのような探求によって、精神的な世界における時間と感覚生活における時間との関係に関する印象が与えられます。精神的な世界においては、異なる時間原則が支配しています。感覚で知覚可能な世界の原則と比較すると、これらの原則は内面化され、変化することができます。私たちがそこで経験する時間は、内的な発達過程に依存しているために、明確で数学的な言葉によって物理的な世界における時間の長さと比較することはできないのです。(了)記:カマロカの世界=基本的に、我々人間が「死」と呼んでいるものは、肉体の消失を指しています。しかし人間は肉体だけではなく、肉体以外の体を持っています。この現世では、人間の意識は肉体の感覚の中にあります。従って、肉体が自分の全てだと感じています。死後、肉体の消失を迎えると、人間の意識は、全面体に魂に移行します。この意識の移行は、実は、肉体が存した時も、同じ状態だったのですが、ただ、そのことに気づいていなかっただけのことだったのです。肉体を消失して初めて、普通は、そのことを、必然的に意識することとなります。死を通過すると、通過しても、人間はその存在としては、生き続けています。そして肉体の無い世界、つまり霊界に存在の領域が移行します。人間は、この世で肉体として生きている時も、潜在的にはこの領域を生きていました。つまり人間は、複合的な生命存在だったのです。そして霊界に帰ってきました。その始まりは、低次の霊界に、その入り口があります。そしてそこに、「カマロカ」があるのです。哲学・思想ランキング
2023年08月21日
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「四次元/Die Vierte Dimension」数学と現実第二部 質疑応答 ベルリン 1913年2月13日◎質問:黄金分割は秘教的な法則に基づいているのでしょうか。答弁:それは空間中に存在するものの影響に基礎を置いていますから、黄金分割は確かに秘教的な法則に基づいています。ゲーテはこの法則について、最も隠されたものは最も明らかなものであり、その反対も真である、つまり、それは私たち人間の構成に密接に関連する法則、すなわち、繰り返しと、バリエーションによる繰り返しの法則であると述べています。例えば、ブッダの語りを見てみますと、いつも同じ内容が少しずつ変化しながら繰り返されますが、それを省略することはできない。何故なら、内容だけが重要な要素ではないからということが分かります。黄金分割は単に繰り返しの問題ではありません。私たちは繰り返し同じ比率を見いだすのですが、その理由は実際には三つの構成要素しかそこにはないからです。(原注:黄金分割とは、線分を2分割するとき、短い部分の長い部分に対する比が長い部分の線分全体に対する比と同一になるようにする方法。訳注:線分の長さを10とすると、黄金分割の各部分の長さはX2-30X+100=0の解となる)。黄金分割が私たちの心を動かすのは、繰り返しの自己充足性(しかし、それは自己形成されたものではありません)によります。(了)哲学・思想ランキング
2023年08月20日
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「四次元/Die Vierte Dimension」数学と現実第二部 質疑応答 ベルリン 1910年11月2日◎質問:/答弁:植物は四つの次元を有しています。第四の次元の方向においては、力は下から上に向かって働き、樹液が上方に流れることができるように重力に対抗しています。この上昇へと向かう方向は、水平の二方向が葉にとっては重要でないという事実と相まって、結果として葉の螺旋状の配置を生じさせます。このことから、植物においては、下へと向かう方向、もしくは重力の方向は第四の次元によって打ち消されているのが解かります。植物が空間のなかで、ひとつの方向において自由に動くことができるのはそのためです。動物は五つの次元を有しています。彼らの第四と第五の次元は二つの他の次元に対抗するように作用します。動物においては、二つの次元が打ち消されているために、動物は二つの方向に自由に動くことができます。人間は6つの次元を有する存在です。第四から第六の次元までが他の三つの次元に対抗するように作用しています。したがって、人間においては、三つの次元が打ち消されています。その結果、人間は三つの空間的な次元を有しており、三つの方向に動くことができるのです。(了) 第二部 質疑応答 バーゼル 1911年10月1日◎質問:電気とは何でしょうか。答弁:電気は物質より下の状態にある光であり、可能な限り最も圧縮された光です。私たちはまた、内面性を光に帰属させなければなりません。つまり、光は至るところでそれ自身なのです。熱は空間なかで三つの方向に拡散しますが、光の場合、私たちは第四の次元について語らなければなりません。それは四つの方向に拡散します。第四の次元としての内面性を有しているのです。(了)第二部 質疑応答 ミュンヘン 1912年11月25日◎質問:精神科学は第四の、そして、より以上の高次の次元に関して、何かを達成しているのでしょうか。答弁:あなたの質問に対する答を理解可能なものにするのは容易なことではありません。私たち人間は、物理的な世界、感覚で知覚することが可能な世界が教えるものから出発しますが、その世界では、空間は三つの次元を有しています。少なくとも理論的なレベルにおいては、数学者たちは四次元や、より高次の次元についての考えを定式化しますが、それは三次元空間に関する彼らの考えを、変数を通して、分析的に拡張することによってです。ですから、少なくとも数学的な思考の文脈においては、より高次の多様性について語ることが可能なのです。これらの問題に精通している人たちにとっては、つまり、その問題に心血を注ぎ込み、かつ必要な数学的知識を有している人たちにとっては多くのことがらに光が当てられます。一例として、ウィーンのシモニーについて触れたいと思います。最初、より高次の次元はアイデアのなかだけに存在します。それらを実際に見るようになるのは、私たちが精神的な世界に入っていくときですが、そこでの私たちは、直ちに三つよりも多い次元を把握するようになることを強いられます。そこでは、私たちに提示されるいかなるイメージも、つまり、三次元性が本来もっている特徴をまだ保持しているところのいかなるものも私たち自身の魂の過程が反映されたものに他なりません。より高次の世界においては、非常に異なる空間的な関係が支配しているのです。もっとも、それをまだ空間的な関係と呼びたいのであればですが。時間についても同じことが言えます。あなたが主張することのすべてが幻想に基づいたものではないということをどうして確かめられようかと説き立てる人々がいつも大勢いるのですが、そのような人たちは時間の関係がどのようになっているのかを考えてみる必要があります。此のことは、彼らが精神科学の活動分野では幻想とは全く異なる現象が扱われるという事実を無視しているからにあります。今日の講義は非常に長いものでしたが、すべてを語ることは決してできません。あなた方の質問は私が講義のなかで話したことを補足する機会を提供してくれます。私たちが精神世界に参入するとき、時間と空間に関して生じる変化について、もう少し指摘させていただきたいと思います。私たちが黄泉の国へと消失する、というイメージが戻ってくることが、いわば意味を持つのは、より高次の次元からのアプローチがなされるときだけです。けれども、ちょうど感覚知覚が可能な世界における三次元性がそうであるように、それはそこでは自然で自明のことなのです。通常の幾何学が精神世界の存在やできごとにあまり適合しないのはそのためです。数学者を代表して言わなければならないのは、四次元についての思索が現実的な価値を獲得するのは、私たちが精神世界に入っていくときであるということです。けれども、より高次元の空間についての彼らの結論は、通常は、三次元的に知覚されたユークリッド空間に基づいて一般化されたものであり、現実に基づいたものではありません。そのため、彼らの結論はその現実に十分対応しているものではないのです。精神科学者が探求する存在やできごとに関する計算を行うためには、もっと良い数学が必要なのかも知れません。けれども、あなたの質問に対する答は「イエス」です。超感覚的な世界との対応関係、そしてまた、無限に関する数学的なアイデア、特に一定の初歩的な数学上の課題はひとつの現実となります。何年も前に私自身が経験した次のような例があります。私が大学で近代の合成投影幾何学と分析的力学を学んでいたときに気がついたのですが、アストラル空間に属する非常に重要な特性に関する洞察が突然のひらめきのように得られました。それは、無限へとのびる直線上で、無限に遠い左側の点は無限に遠い右側の点と同一であるという概念、つまり、その線上の点の配列に関しては、直線とは現実には円であり、もし、私たちが曲がりくねることをせず、十分に長く直線上を動きつづけるならば、私たちは反対側から戻ってくるという概念です。私たちはこのことを理解することができるかも知れませんが、そこから結論を引き出すべきではありません。何故なら、精神的な探求においては、結論はどこにも導かないからです。そうではなく、現象が私たちに働きかけるのにまかせることが、超感覚的な世界の認識へと私たちを導くのです。超感覚的な世界を取り扱うときには、数学を過大評価しないことが大切です。数学が有益なのは純粋に形式的なレベルにおいてだけです。それには現実の状況を把握する可能性はほとんどありません。とは言うものの、精神科学と同様、数学は魂自体に本来備わった力によって理解することができ、誰にとっても平等に真実であるところのものなのです。数学と精神科学が共有しているのはそのことです。(了)哲学・思想ランキング
2023年08月19日
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「四次元/Die Vierte Dimension」数学と現実第二部 質疑応答 デュッセルドルフ 1909年4月21日◎質問:私たちは精神的なヒエラルキア存在が支配する「領域」について語るわけですから、三次元性の概念は彼らにも適用できるのでしょうか。答弁:人間の本質は空間のなかで実現されると云うことができます。けれども、秘教的な観点から言えば、空間そのものは創造的な活動の結果として造り出されたものとして見なければなりません。その創造は最高次のヒエラルキア存在たちの働きや活動に先立つものですから、私たちは空間の存在を前提とすることができます。しかしながら、最も高次の三位一体を空間的な意味で想像するべきではありません。何故なら、空間はその三位一体によって創造されたものだからです。空間は創造されたものですから、精神的な存在たちは空間をもたないものとして想像されなければなりません。然し乍ら、私たちの世界の内部におけるヒエラルキア存在たちの影響には、人間による影響と同様、空間的な限界があります。それ以外のヒエラルキア存在たちは空間の中を動きます。◎質問:時間は精神的なプロセスに適用されるのでしょうか。答弁:時間が精神的なプロセスに適用されるのは勿論のことです。但し、人間存在における最高次の精神的プロセスは、時間なしにその経過を辿るという概念に導きます。ヒエラルキア存在たちの活動には時間がありません。時間がどのようにして生じたかについて語るのは困難です。何故なら、時間という概念は、その言葉に、「生じる」ということが必然的に含まれているからです。時間についてではなく、私たちは時間の本質あるいはその存在について語るべきかもしれませんが、それを議論するのは容易なことではありません。もし仮に、すべての存在が同じ発達のレベルにあったとすれば、時間は存在していなかったでしょう。時間は、多くのより高次の存在たちと、多くのより低次の存在たちとの間の相互作用を通して生じます。様々のレベルの発達は時間なしでも可能ですが、それらの相互作用が時間を可能にしているのです。時間が存在しないという状態のなかでは、私たちは等しい進化のレベルについて想像することができます。これらのレベルに差が生じ始め、それらが相互作用を始めるとき、時間の概念が現れます。神性でさえ進化します。進化が継続するとき、進化の概念自体も進化するのです。◎質問:空間とは何でしょうか答弁:私たちが三位一体について想像するときには、空間をもたないものとして想像しなければなりません。何故なら、空間は三位一体が創造したものだからです。いわゆる空間は、ひとつの創造であり、私たちの世界に属するものです。空間は、地上的な存在性のなかで発達する存在たちにとってのみ意義があります。誕生から死までの人間は、虫が地面の下で生きているのと同様に、空間と時間のなかにおいて精神から切り離されています。時間に関して言えば、人間が近づくことができる最も高次の状態は時間のない状態です。内密なことがらが役割を演じることになるために、時間が存在するようになるという概念、あるいは時間の本質や存在について語るのは容易ではありません。時間が意味を持つようになったのは、古い月が太陽から分離してからに過ぎません。あらゆる外的なものは空間のなかに存在し、あらゆる内的なものは時間のなかで経過します。私たちは空間と時間の両方に取り囲まれているのです。*質問・答弁追記 デュッセルドルフ 1909年4月22日 私たちは三次元空間を視覚化することができます。プラトンの学院における重要な定理は「神は幾何学する」というものです。幾何学の基本概念は超感覚的な能力を目覚めさせます。位置幾何学(原注:合成的投影幾何学の旧名)は、円周上の点はどこでも同じである。右に向かって無限に遠い点は左にある出発点と同じであるということを証明します。したがって、結局のところ、宇宙は球であり、私たちは出発点に戻ってくることになります。私が幾何学的な定理を用いるときには、それらはいつも通常の概念性の境界にある概念(原注:普遍的な投影定理の測定にかかる境界事例)へと転換します。ここでの三次元空間は私たちを私たちの出発点に連れ戻します。それは、アストラル空間においては、点Aが点Bとの間にいかなる結びつきをも持つことなく、それに働きかけることができる理由)です。(原注:投影された直線sの2点A、Bはその直線をふたつの部分に分けます(図91)が、そのうちのひとつの部分は線sの遠方の点を含んでいます。投影幾何学においては、両方の部分が点Aと点Bをつないでいると考えられます。一方、ユークリッド幾何学においては、直線gの遠方の点を含んでいない部分だけがAとBをつなぐものとして考えられます。) 私たちが神智学のなかに唯物主義を持ち込むのは、精神に向かって進めば物質はますます希薄になると仮定する間違いを犯すときです。この種の考え方は精神には導きません。そうではなく、点Aと点Bとの間の結びつきについての考えが私たちに四次元を視覚化する可能性を与えるのです。ひとつの例として、私たちは虫こぶスズメバチ(原注:塚スズメバチの聞き間違いと考えられる)のくびれた腰部について考えることができます(図63)。中間部分の物理的な結びつきがなく、ふたつの部分が、アストラル的な活動によってのみ結びつけられ、ともに動き回るとしたらどうでしょうか。今、この概念を、より高次元の空間における多くの活動領域に拡張してみてください。(了)哲学・思想ランキング
2023年08月18日
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「四次元/Die Vierte Dimension」数学と現実第二部 質疑応答 ニュルンベルク 1908年6月28日◎質問:時間には始まりがあったわけですから、空間にも限界があると仮定できるのは明らかです。現実にはどのような状況になっているのでしょうか。答弁:それは非常に難しい質問ですが、その理由は、今日の大部分の人々にとって、その答を理解するために必要な能力を発達させるのは難しいということによります。何故ならと申しますのも、今、あなた方はその答を一見したところの価値において取り上げざるを得ないかも知れませんが、それが完全に理解されるのは将来においてだからです。私たちが考えているような三つの次元を有する物理世界の空間というのは非常に瞞し(まやかし)の概念なのです。私たちは通常、空間は無限へと至るか、あるいは境界を有しているかのどちらかであり、その境界は何らかの形で板張りされ、行き止まりになっているに違いないと考えます。カントは、無限の概念と、限定あるいは有限性の概念のふたつを持ち出して、それらの両方を肯定し、また否定するために言うべき何かがあるということを示しました。けれども、この問題はそれほど簡単には判断できません。すべての物質は空間のなかに存在し、そして、すべての物質は精神の濃縮された部分であるわけですから、私たちが空間の問題についての明晰性を達成することができるのは、通常の物理世界からアストラル世界へと上昇することによってだけであるということが明らかになります。超感覚的な能力を有していない私たちの数学者たちは、既にそれに関連した奇妙な現象を嗅ぎつけています。私たちが直線について想像するとき、それは、私たちの通常の空間中では、両方向において無限へと至るように見えます。けれども、私たちがアストラル空間中で同じ線を辿るとき、それはカーブしているということが分かります。私たちがそれに沿って一方向に動くときには、私たちは、まるで円周上を動いているかのように、最終的には反対側から戻ってくるのです。円がますます大きくなるにつれて、それを周回するために必要な時間はますます長くなります。結局、その円はあまりに大きくなって、円のどの部分もほとんど直線のようになるのですが、それは円の非常にわずかに曲がった円周の部分と直線との差が非常に小さくなるからです。物理平面上においては、アストラル平面上においてのように、反対側から戻ってくることはできません。物理世界においては、空間の方向はまっすぐであるのに対して、アストラル空間中では、空間は曲がっているのです。アストラル領域に入るときには、私たちは全く異なる空間的な関連性を取り扱わなければなりません。ですから、空間は、私たちが考えているようなまやかしの構造をしているのではなく、ひとつの自己完結した領域であると云うことができます。そして、人間にとって物理空間として現れているものは、自己完結した空間の写しあるいはコピーにすぎません。空間は板張りされているところで限界を有していると云うことはできませんが、私たちはいつも出発点に戻ってくるわけですから、空間は自己完結していると言うことができるのです。(了)哲学・思想ランキング
2023年08月17日
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「四次元/Die Vierte Dimension」数学と現実第二部 質疑応答 ベルリン 1904年11月1日前文:シャウテン氏は四次元についていくつか問題を提出しています。 私は四次元について講義を行なうつもりですが、そこでもシャウテン氏の説明に結びつけてこの四次元の見方についてご案内したいと思っています。そのときに直接的な実験に結びつけて四次元についてお話するほうが良いでしょうね。(了)シュツットガルト 1906年9月2日◎質問:「自我」の働きについて答弁:「自我」はアストラル体、エーテル体、そして肉体に働きかけます。すべての人間は道徳的な自己教育を通してアストラル体に働きかけるのです。けれども、秘儀参入のプロセスあるいは秘教的な学びに関しては、ただそれを始めるときでさえ、人がアストラル体に働きかけるべき多くのことが残っています。秘儀への参入は、審美的な趣味や宗教の涵養を通して、より精力的なエーテル体への働きかけを始めるということによって特徴づけられます。ある点では、アストラル的な意識は四次元的です。それに関するおよその考え方をあなた方に提示するために、あらゆる死せるものは三つの通常の次元のなかに留まる傾向がある一方で、ここでは、あらゆる生きたものは絶えずそれらの次元を超越すると言わせてもらいます。あらゆる成長するものは、その動きを通して、第四の次元を三つの次元の内部に取り込むのです。もし、私たちがどこまでも大きくなる円周上を動くとしますと、私たちは最終的には直線へと至ります(図61)。けれども、もし、私たちがこの線に沿って動きつづけるとしたら、私たちの空間は三次元的ですから、私たちはもはや私たちが出発した地点に戻ってくることはできません。すべての面が閉じているアストラル空間のなかでは、私たちは戻ってくるでしょう。アストラル空間のなかでは、無限へと動きつづけることは不可能なのです。物理的な空間は第四の次元に対して開いています。高さと幅は二つの次元です。そして、第三の次元は持ち上げて外に出すことであり、次いで第四の次元へと入っていきます。哲学・思想ランキング
2023年08月16日
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「四次元/Die Vierte Dimension」数学と現実多次元空間 1908年10月22日、ベルリン 空間の概念 1-2 空間に関する概念に次いでの問いは、果たして我々の概念的な思考様式は、空間を出発点として、より高次の現実へと拡張し得るかというものです。数学者たちにとっては、そのような思考様式に包含されているのは数字を含めた計算だけです。これは許されることなのでしょうか。これからお示しするように、数字を用いて空間の大きさを計算するということは、非常な混乱の因ともなります。何故そうなるのでしょうか。ひとつの例を上げれば充分でしょう。この平面図形は両サイドをどんどん広げていくことができます。そして、ついには、二つの線に挟まれた無限に広がる平面図形が得られることになります(図56)。図56:この平面図形は無限に広い幅を有していますから、その大きさは無限大です(∞)。さて、他の人々が、この二つの線に挟まれた領域は無限に大きいという話しを聞くとしましょう。当然のことながら、これらの人々は無限大について考えるでしょう。けれども、もし、あなた方が無限大について触れるならば、彼らはあなた方が言おうとしていることについて全く間違った考えをもつかも知れません。それぞれの四角の側にもうひとつの四角をつけ加える、つまり、無限に多くの四角を有するもうひとつの列をつけ加えるとしましょう。その結果得られるのはやはり無限大ですが、最初の無限大のちょうど二倍とななる、大きさの異なる無限大なのです(図57)。したがって、∞=2∞となります。図57:同様に∞=3∞もなり立つともいえましょう。数字を用いた計算においては、無限は、何らかの限定された数字と同様、容易に用いることができます。最初のケースにおいて、その空間は無限大であるというのは真実ですが、それ以外のケースでも、空間が2∞・3∞等々であるということもまた真実なのです。数字を用いて計算するときには、このようなことが起こり得ます。お分かりのように、無限大の空間という概念が数字計算に結びつけられる限り、より高次の現実へとさらに深く貫き至ることは不可能となります。数字というものは、実際、空間とは無関係なのです。エンドウ豆やその他の物体と同様、空間に関して、数字は全体として中立なのです。ご存じのように、数字による計算が現実の状況を変えるということは決してありません。もし、私たちがエンドウ豆を三個もっているとすれば、掛け算がその事実を変えることはありません。その掛け算が正しかったとしてもです。三×三=九の計算が九つのエンドウ豆を作り出すことはないでしょう。このような場合、何かについて単に考えても何も変わりません。そして、数字計算は単なる思考なのです。たとえ私たちが正しく掛け算をしたとしても、手元に残るのは三個のエンドウ豆であり、九個ではありません。同様に、数学者たちが、二・三:四あるいは五次元に関して計算を行ったとしても、私たちの前にある空間はやはり三次元です。あなた方がそのような数学的な考えを巡らしたいという誘惑に駆られるのは分かりますが、それらが証明するのは、高次空間に関する計算を行うことは可能であるということだけです。数学によってでは、高次空間が実際に存在することを証明することはできません。その概念が現実に有効であるということを証明できないのです。私たちはこの点に関して厳密に明確でなければなりません。この課題に関して数学者たちはその他の非常に巧妙な考えを巡らしてきましたが、そのいくつかを考察してみましょう。私たち人間は三次元空間のなかで、考えたり、聞いたり、感じたり、等々を行います。二次元空間中でのみ知覚することが可能な存在がいると想像してみましょう。彼らの体的な組織は彼らが平面のなかに留まることを強要し、そのため、彼らは二次元を離れることができないでしょう。彼らは左右と前後に関してだけ、動いたり知覚したりすることができるでしょう。彼らは、彼らの上と下に存在するものに関しては、いかなる考えももたないでしょう。とは申せ、三次元空間中における私たちの状況も同じなのかも知れません。私たちは、私たちの体的な組織が三次元に適合しているために、第四の次元を知覚することができず、ちょうど二次元存在が第三の次元の存在を推論しなければならないように、それを推論しなければならないのかも知れません。人間にはただその方法しかないと考えることは実際に可能であると数学者たちは言います。もちろん、その結論は正しいとしても、それは単に間違った説明であるかも知れないと言うことも確かにできるでしょう。ここでもまた、より正確なアプローチが必要とされるのですが、この問題は、空間の無限性を理解するために数字を用いようとした最初の例ほど簡単ではありません。今日の私の説明は、わざと単純なものに限ろうと思います。この結論に関しては、最初の純粋に技術的、算術的な線に沿った理論づけとは状況が異なります。この場合には、何か本当に把握しなければならないものがあるのです。平面のなかで動く物体だけを知覚することができる存在がいるだろう、ということは十分に考えられます。そのような存在は上と下にあるものにはまったく気づかないでしょう。その平面内の点がその存在に見えるようになると想像して下さい。もちろん、その点が見えるのは、それが面内にあるからに過ぎません。その点が面内を動いている限り、それを見ることができますが、その面から外に出るやいなや、それは不可視となります。その平面存在に関する限り、それは消失してしまうのです。さて、その後、その点がどこか他のところに現れると想像してみましょう。それは再び見えるようになり、また消失し、等々です。その点が平面から出ていくとき、その平面存在は、それを追っていくことはできませんが、「その間、その点はどこか私には見ることができないところにいる。」と言うかも知れません。平面存在の心の中に入り込みながら、ふたつの可能性について考えてみましょう。それは、一方で、「三番目の次元があり、その物体はその中に消えたが、後でまた現れた。」と言うかも知れません。あるいはまた、それは「バカな奴が三次元などと言っているが、その物体はただ単に消えて、その度に再び現れたのだ。新しく創り出されたのだ。」と言うかも知れません。この場合には、その平面存在は論理的な法則に違反している、と言わなければならないでしょう。もし、それが、その物体は繰り返し解体され、再び創り出される、と仮定したくないのであれば、その物体は平面存在には見ることができない空間のなかに消えたのだ、ということを認めなければならないでしょう。彗星が消えるとき、それは四次元空間のなかを通過しているのです。さて、この問題に関する数学的な考察のなかにつけ加えられなければならないものを見てみましょう。私たちは、私たちの観察の場のなかに、繰り返し現れたり消えたりする何かを見いださなければならないでしょう。超感覚的な能力は必要ありません。もし、平面存在が超感覚的な能力をもっていたとすれば、その存在は第三の次元があるということを、推論によってではなく、経験から知っていたことでしょう。人間についても似たようなことがいえます。超感覚的な能力を有していない人は、「私自身は三次元に限定されているけれども、周期的に現れたり消えたりするものを観察するやいなや、四次元が関係していると言っても間違いではない。」と言うほかありません。 ここまで述べてきたことはすべて完全に明白であり、それを肯定するということは、あまりにも簡単なことなので、現代の盲目状態にある私たちにはそのようなことは起こりそうもありません。「繰り返し消えたり、再び現れたりするものは存在するか?」という問いに対する答は非常に簡単です。ときとしてあなた方のなかに現れては再び消え、超感覚的な能力を有していない人にとってはもうそれを知覚できなくなるような喜びについてひとつ考えてみて下さい。それから、同じ感情が、何か別のできごとのために再び現れます。この場合、あなた方は、平面存在のように、二通りある方法のうちのひとつの方法で振る舞うことができます。あなた方は、その感情はあなた方がついていけないような空間の中に消えたのだ、と言うこともできますが、その感情は消え去り、それが再び現れる度に新しく創造されるのだ、と主張することもできます。しかし、無意識のなかに消えるいかなる思考も、消えて再び現れるものがあるということの証拠になるというのは本当です。もし、この考えがあなた方にとってありそうなことのように見えるならば、次のステップは、唯物的な観点から持ち出されそうなあらゆる異議を定式化してみるということです。私は今、最も手強そうな異議に触れてみようと思います。その他の異議はすべて簡単に反駁することができます。人々は、この現象は純粋に唯物的な言葉で説明することができると主張するかも知れません。私はあなた方に物質的なプロセスという文脈において消えたり再び現れたりするものの例を提示したいと思います。作動している蒸気ピストンを想像して下さい。ピストンに力が加わっている限り、私たちはその動きを感知します。さて、反対方向に働く同様のピストンでその動きに対抗すると想像して下さい。その動きは止み、機械は静止します。動きが消えるのです。同様に、人々は、喜びの感情とは脳のなかの分子の動き以上のものではない、と主張するかも知れません。分子が動いている限り、私は喜びの経験をもちます。何か別の要素が分子に反対の動きを生じさせると仮定してみましょう。喜びは消えます。この線に沿って考えをずっと先まで追求しない人は誰でも、実際、これは先に示された考えに対する非常に重要な反論であると考えるかも知れません。しかし、この反対意見を詳しく見てみましょう。ちょうどピストンの動きが反対方向の動きの結果として消えるように、分子の動きに基づく感情は反対方向の分子の動きによって打ち消されると云われます。ひとつのピストンの動きが別の動きに対抗して作用するとき、何が起きているのでしょうか。最初の動きと二番目の動きの双方が消えるのです。第二の動きは、自分をも除去することなしに、最初の動きを除去することはできません。その結果は動きの完全な不在です。いかなる動きも残りません。このように、私の意識のなかに存在するいかなる感情も、それ自身をも除去することなしには、別の感情を除去することはできません。ですから、ひとつの感情が別の感情を除去することができるという仮定は全くの間違いなのです。その場合には、いかなる感情も残らず、感情の完全な不在が生じることになります。それでもなお言うことができるのは、最初の感情は第二の感情を無意識のなかに追いやるかも知れないという程度のことです。けれども、そう言ってしまえば、私たちの直接的な観察の網にはかからないけれども、それでも存在する何かがあるということを認めたことになります。 今日は、超感覚的な知覚については全く考察せず、純粋に数学的な考えについてのみお話ししてきました。四次元世界が存在するという可能性を認めたところで、私たちは、超感覚的な能力なしに四次元物体を観察することは可能かと問うかも知れません。その種の投影が私たちにそれを可能にします。私たちは平面図形の向きを変えて、それが落とす影が直線になるようにすることができます。同様に、直線の影は点に、三次元の立体的な物体の影のイメージは二次元の平面図形になり得ます。こうして、四次元の存在を認めてしまえば、三次元図形は四次元図形の影のイメージであるというのは全く当然のこととなります。これは四次元空間を想像するひとつの純粋に幾何学的な方法です。けれども、幾何学の助けを借りてそれを視覚化する別の方法もあります。二つの次元を有する正方形を想像して下さい。今、その境界を構成する四つの線分がまっすぐに延ばされてひとつの直線を形成すると思い描きましょう。あなた方は正に、二次元図形の境界をまっすぐに引き延ばして、それらが一つの次元のなかに横たわるようにしました(図58)。このプロセスをもう一歩前に進めてみましょう。ひとつの線分を想像して下さい。ちょうど正方形に関して、一つの次元を取り除くことで行ったように、その図形の境界が二つの点へと倒れ込むようにするのです。私たちは一次元図形の境界を正にゼロ次元において表現しました。私たちはまた立方体を展開して、それを六つの正方形へと広げることができます(図59)。私たちは立方体の境界を広げて、それが平面のなかに横たわるようにしました。こうして、線は二つの点として、正方形は四つの線分として、そして、立方体は六つの正方形として表現することができると云うことができます。一連の数字:二、四、六に注意して下さい。図59;次に、私たちは八つの立方体を取り上げます。ちょうど、前の例で、幾何学図形の境界が展開されたように、八つの立方体は四次元図形の境界を構成するのです(図60)。それらを並べると、結果として正四次元図形の境界を示す二重の十字架が得られます。ヒントンはこの四次元立方体をテサラクトと呼んでいます。図60:この作業はテサラクトの境界についての心的なイメージを与えてくれます。この四次元図形についての考えは、二次元存在が立方体の境界を平坦化して、つまり、それらを展開して、立方体についての考えを発展させることに比肩されます。(了)哲学・思想ランキング
2023年08月15日
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「四次元/Die Vierte Dimension」数学と現実多次元空間 1908年10月22日、ベルリン 空間の概念 1-1 今日のテーマは様々な困難を私たちに提示することになるでしょう。そして、あなた方のリクエストによるこの講義は一連の講義の一つとして見られなければなりません。単に形式的なレベルにおいてであったとしても、その課題を深く理解するためには、数学的な予備知識が必要です。尚且つ、その課題の現実を把握するためには、秘教主義へのより深い洞察が要求されるのです。今日は、この側面について、さらなる考察のための刺激を与えるとしても、きわめて皮相的な取り扱いしかできないでしょう。より高次の次元について語ること自体が非常に難しいことなのですが、それは、通常の三つの次元を越えたいかなる次元であっても、それを思い描くためには抽象的な領域に入っていかなければならず、もし、私たちの概念がきわめて正確かつ厳密に定式化されていないとすれば、その領域において、私たちは深淵へと落ち込むことになるということによります。私たちが知っている多くの人々、友人敵をば問わず、この運命を辿りました。より高次の次元空間についての概念は、私たちが一般に信じているほど数学にとって見知らぬものではありません。数学者たちは既により高次元の操作を含めた計算を実行しています。もちろん、数学者たちがより高次元の空間について語ることができるのは、きわめて限られた範囲においてであり、本質的に、彼らが議論できるのは、それが存在する可能性についてだけです。そのような空間が現実のものであるかどうかを決定するのは、実際にそれを見ることができる人たちでなければなりません。ここで私たちが取り扱うのは、もし、それが正確に定式化されたならば、私たちの空間に関する概念を本当に明確なものにするであろうような純粋な概念です。空間とは何でしょうか。私たちは普通、空間は私たちのまわりにある、私たちは空間のなかを歩きまわる等々とい云います。空間に関して、より明確なアイデアを得るためには、私たちはより高いレベルの抽象化を受け入れなければなりません。私たちはその中で私たちが動き回るところの空間を「三次元的」と呼びます。それは上と下に、右と左に、そして、前と後ろに拡がっています。私たちが物体を見るときには、私たちはそれを三次元空間を占めているものとして、つまり、ある一定の長さ及び幅、そして高さを有しているものとして見ます。けれども、もし、私たちがより高度の明晰性を達成することを欲するのであれば、私たちは空間についての概念の詳細を取り扱わなければなりません。最も単純な立体である立方体を、長さ、幅、そして高さの最も明らかな例として見てみましょう。立方体の底面の長さと幅は同等です。この底面を、それが最初にあった位置から、その長さと幅に等しい高さにまで持ち上げると、立方体、すなわち三次元図形が得られます。立方体の境界を検証してみますと、それらは平らな表面から構成されており、それらの表面は今度は同じ長さの辺によって境界づけられているということが分かります。立方体は六つのそのような平らな表面を有しています。平らな表面とは何でしょうか。ここまで来ますと、きわめて鋭敏な抽象性に耐えられない人たちはあらぬ方向に彷徨(さまよ)い始めるでしょう。例えば、蝋でできた立方体の境界の一つを蝋の非常に薄い層の形で切り取ることは不可能です。何故かというと、得られるのはいつも一定の厚みをもった層、すなわち、立体だからです。この方法では、立方体の境界に到達することは決してできません。その本当の境界は長さと幅だけを有しているのであって、高さ、すなわち厚みというものがありません。こうして、私たちは、平らな表面は三次元図形の境界の一つであり、一つ少ない次元を有しているという公式に到達します。では、正方形のような平らな表面の境界とは何でしょうか。ここでも、それを規定するためには、高度の抽象性が要求されます。平面図形の境界は線ですが、それは一つの次元、長さだけを有しています。幅は取り除かれました。線分の境界とは何でしょうか。それは点であり、ゼロの次元を有しています。このように、私たちは幾何学図形の境界を見いだすために、いつも一つの次元を取り除くのです。とりわけよい仕事をしたリーマンを含めて、多くの数学者の思考の跡を辿ってみることにしましょう。ゼロ次元を有する点、一次元を有する線、二次元を有する平面、三次元を有する立体について考えてみましょう。純粋に技術的なレベルにおいて、数学者たちは、第四の次元をつけ加えることは可能かと問います。もし、それが可能であったならば、ちょうど平面が立体の境界であったように、線が平面の、そして、点が線分の境界であったように、四次元図形の境界は三次元図形でなければならないでしょう。もちろん、数学者たちはそれからさらに進んで、五、六、七、あるいは、正の整数であるn次元について考えることさえできるでしょう。 ここまで来ますと、私たちが、点はゼロ次元、線は一次元、平面は二次元、そして立方体は三次元を有していると云うとき、ある明晰性の欠如が入り込んできます。私たちは立方体のような立体を、あらゆる物質、蝋・銀:金等々から作り出すことができます。それらの物質は異なっていますが、仮に、私たちがそれらをすべて同じ大きさにするならば、それぞれが占める空間の量は同じになります。そして、もし、私たちがこれらの立方体が含んでいるすべての物質を取り除くならば、私たちに残るのは、特定の空間部分、立方体の空間的なイメージだけです。これらの空間部分は、その立方体がどのような物質でできていたかに拘わらず、すべて同じ大きさになり、すべてが長さ、幅、そして高さを有しています。私たちはそのような立方体の形をした空間が無限に広がり、結果として無限の三次元空間が生じると想像することができます。物体はこの空間の一部に過ぎません。哲学・思想ランキング
2023年08月14日
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「四次元/Die Vierte Dimension」数学と現実四次元空間 1905年11月7日、ベルリン 図48 - 図55 すべての空間的な現象と空間における実際の関係の事象の一つは、二つの次元の捻じれです。二つの閉じた輪をつなぎ合わせるためには、そのうちの一つを開いてもうひとつに差し込まなければなりません。さて、私は空間本来の多様性を確かめるために、長方形の細長い紙でできたこの図形を二回捻じります。つまり、片方の端を固定して、もう片方を360回転させます。そして、その帯をピンで留めながら両端をくっつけます。この捻じった輪を長さ方向に半分に切りますと、結果としてつなぎ合わさった二つの輪が得られます。それらの輪はどちらかひとつを破ることなしには、分離させることができません。単に帯をねじることによって、そうでなければ四次元に入ることによってのみ実行することができる操作を三次元のなかで行うことができるようになりました。これは単なる遊びではなく、宇宙的な現実です。ここに太陽があり、太陽をまわる地球の軌道と、地球をまわる月の軌道があります(図48)。地球は太陽のまわりを動いていますから、月と地球の軌道は、ちょうど私たちの紙でできた二つの輪のように捻じれているのです。地球進化の過程で、月は地球から離れていきました。この分離は、私たちの二つの紙の輪がつなぎ合わさったのと同じ仕方で生じました。空間をこのようにして見ますと、それは本来的に生きたものとなります。図48:次に、正方形を考えて下さい。それが空間中を移動して立方体が描かれると想像しましょう。正方形の動きはそれが最初にあった位置に対して垂直でなければなりません。立方体はその面を構成する六つの正方形からできています。立方体の外観を示すために、私はその六つの正方形を平面上に並べて置くことができます(図49)。私はこれらの正方形を上方に折り曲げることによって、つまり、それらを三次元に移行させることによって、立方体を再構築することができます。六番目の正方形がトップにきます。この十字架状の図形を形成するために、私は立方体を二次元のなかに崩し込みました。三次元図形は広げると二次元図形に変わるのです。図49:お分かりのように、立方体の境界は正方形です。三次元の立方体はいつでも二次元の正方形によって境界づけられるのです。一つの正方形を見てみましょう。それは二次元であり、四つの一次元線分で境界づけられています。私はこれら四つの線分を単一の次元のなかに広げることができます(図50)。正方形がもつ次元のうちのひとつを規定する辺を赤い実線で、もうひとつの次元を青い破線で表します。長さと幅の代わりに、赤と青の次元について語ることができます。図50:六つの正方形から立方体を再構築することができます。つまり、私は四という数字、正方形の辺を構成する線分の数を越えて、六という数字、立方体の側面を構成する平面の数に至ります。このプロセスをさらに一歩進めて、私は六から八、四次元図形の「側面」を構成する立方体の数へと移行します。私は八つの立方体を配置して、二次元平面においては、六つの正方形から構成されていた先ほどの図形の三次元における対応物を形成します(図51)。図51:さて、この図形の裏表をひっくり返して折り畳むことができる、八つの立方体を図形全体のなかに閉じこめることができると想像して下さい。四次元空間のなかにある四次元図形を創り出すために、私は八つの立方体を用います。ヒントンはこの図形をテサラクトと呼びました。その境界は、ちょうど通常の立方体が六つの正方形から構成されるように、八つの立方体から構成されます。このように、四次元テサラクトは八つの三次元立方体によって境界づけられます。二次元のなかでのみ見ることができる存在を思い描いて下さい。この存在が立方体から展開された六つの正方形を見るときには、正方形1、2、3、4、そして6だけを見るのであって、決して中央の影をつけられた正方形5を見ることはありません(図52)。あなた方自身が展開された四次元物体を見るときも同様です。あなた方は三次元物体だけを見ることができるわけですから、中央の隠された立方体を見ることは決してできません。図52:立方体を正六角形の輪郭が現れるように黒板に描くとしましょう。その他の部分は後ろに隠されています。あなた方が見ているのは一種の影の像、二次元空間への三次元立方体の投影です(図53)。立方体の二次元的な影の像は、菱形、あるいは等辺の平行四辺形から構成されます。もし、立方体が針金でできていると想像するならば、後ろにある菱形も見えるでしょう。この投影図は六つのオーバーラップした菱形を示しています。このようにして、立方体全体を二次元空間のなかに投影することができるのです。図53:さて、四次元空間のなかにある私たちのテサラクトを想像してみましょう。その図形を三次元空間中に投影すると、四つの相互に貫入しない斜めの立方体である平行六面体が得られるはずです。これらの平行六面体のうちの一つはこのように描かれるでしょう(図54)。図54:しかし、八つの平行六面体は、四次元空間中における四次元テサラクトの完全な三次元投影像を得るためには、相互に貫入しなければなりません。私たちは、八つの適切な仕方で相互に貫入した平行六面体の助けを借りて、テサラクトの完全な三次元的な影を描くことができます。結果として得られる空間図形は四つの対角線をもつ菱形十二面体です(図55)。立方体の菱形投影像においては、三つの隣接する菱形が他の三つと合致するために、立方体の六つの面のうち三つだけを見ることができます。同様に、テサラクトのひし形十二面体投影像においては、四つの相互に貫入しない菱形立方体だけを、テサラクトの八つある境界立方体の投影として見ることができるのですが、それは、四つの隣接する菱形立方体が残りの四つを完全に覆ってしまうからです。図55:こうして、テサラクトの三次元的な影を構築することができるのですが、それは四次元物体そのものではありません。同様に、私たち自身も四次元存在の影なのです。私たちが物理平面からアストラル平面に移行するとき、メンタル像を形成する能力が涵養されなければなりません。二次元存在が三次元的な影の像を生き生きとイメージするように繰り返し試みていると思い描いて下さい。三次元の四次元に対する関係を心的に構築することは、数学的な四次元空間ではなく、現実の四次元空間をのぞき見ることを可能にする内的な力を発達させることになります。もし、私たちが、より高次の世界において、私たちに見ることを可能にする能力を発達させていなかったならば、私たちはいつもそのより高次の世界、つまり通常の意識の世界のなかで無力なままに留まるでしょう。私たちが物理的な感覚知覚の世界において見るために用いる目は、私たちがまだ子宮のなかにいるときに発達するのです。同様に、見ることができる者としてより高次の世界に生まれることができるためには、私たちは、まだ地球という子宮のなかにいる間に、超感覚的な器官を発達させなければならないのです。物理的な目の子宮のなかでの発達は、このプロセスに光を当てるひとつの例です。立方体は、長さ・幅・高さという次元を用いて構築されなければなりません。テサラクトは、同じ次元に第四の次元を加えた次元を用いて構築されなければなりません。植物は生長しますから、三次元空間から抜け出します。時間の中に生きるいかなる存在も三つの通常の次元から自らを解き放ちます。時間が第四の次元なのです。それは三次元という通常の空間の内部では不可視のままに留まり、ただ超感覚的な力によってのみ知覚することができます。動く点が線を創り出し、動く線が平面を創り出し、動く平面が三次元図形を創り出します。三次元空間が動くとき、結果として生じるのは成長であり発達です。そこにあるのは、動き、成長、そして発達として三次元空間に投影された四次元空間もしくは時間です。あなた方は、三つの通常の次元を積み上げるに当たっての私たちの幾何学的な思考が現実の生活へと継続しているのを見いだすでしょう。時間は三つの次元に対して垂直であり、第四の次元を構成しています。それは成長します。時間が、存在するものの内部で、生きたものになるとき、知覚能力が生じます。時間が存在の内部で内的に乗ぜられ、自ら動き出すようになるとき、結果として生じるのは感覚を有する動物存在です。実際に、そのような存在は五つの次元を有しているのですが、他方、人間が有している次元は六つです。私たちは、エーテル領域(アストラル平面)においては四つ、アストラル領域(下位のデヴァカン)においては五つ、そして、上位のデヴァカンにおいては六つの次元、計十一を有しているのです。こうして、精神の多様な顕現があなた方のなかに見られることになります。デヴァカンがその影をアストラル空間のなかに投げかけるとき、結果として生じるのは私たちのアストラル体です。アストラル領域がその影をエーテル空間に投げかけるとき、結果として生じるのはエーテル体等々です。 時間がひとつの方向に動くとき、自然界は死滅し、別の方向に動くとき、それは生き返ります。これらの流れが出会う二つの点が誕生と死なのです。未来は絶えず私たちに出会うためにやってきます。生が一方向にだけ動いているものであったならば、何も新しいことは生じなかったでしょう。人間は天才、つまり彼らに向かって流れてくる彼らの未来、彼らの直感(インテュイション)をも有しています。働きかけを受けた過去は反対側からやってくる流れですが、それはその存在を、その時点までに進化してきたようなものとして決定づけます。記:現代宇宙物理科学の統一理論として期待される超弦理論、その現在知られている5つの超弦理論を統合するとされるМ理論がシュタイナーの説く11次元説と同数なのは単なる偶然の一致なのかどうか、不可解なことは世の常でしょうか。(了)哲学・思想ランキング
2023年08月13日
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「四次元/Die Vierte Dimension」四次元空間 1905年11月7日、ベルリン 図46 - 図47 我々の在する通常の空間は三つの次元、長さ・幅・高さを有するとされています。点はゼロ次元、直線は一つの次元として長さだけを有しています。この黒板は平面ですが、それは二つの次元、長さと幅を有しているということです。立体は二つの次元に加えて高さの三つの次元を含んでいます。三次元図形はどのようにして生じるでしょうか。全く次元をもたない図形、つまり、点を想像して下さい。それはゼロ次元を有しています。点が一定の方向に動くとき、結果として直線あるいは一次元図形が生じます。さて、その直線が動いているのを思い描いて下さい。それによって生じるのは長さと幅をもつ平面です。そして、最後に、動く平面が描くのは三次元図形です。しかし、私たちはこのプロセスを続行するわけにはいきません。私たちは動きを用いて三次元図形から四次元図形、あるいは第四の次元を創り出すことはできないのです。第四の次元についての概念を発達させるために、どのようにイメージを用いることができるでしょうか。ある数学者や科学者、例えば、ツェルナーは、精神世界が四次元空間中に存在すると仮定することによって、その世界を感覚で知覚可能な世界との調和へともたらしたいという誘惑を感じていました。 平面上に横たわる完全に閉じた図形である円を想像して下さい。誰かが私たちに硬貨を円の外側から内側に動かすようにと言ったとしましょう。私たちは円周を横切るか(図46)、あるいは、もし、円周に触れることが許されないとすれば、硬貨を空中に持ち上げ、それを円の内部に置くしかありませんが、そのためには第二の次元を離れ、第三の次元に入ることが要求されます。硬貨を魔術のように立方体や球のなかに動かすためには、私たちは第三の次元を離れ、第四の次元に移行しなければなりません。今回の人生において、私が最初に空間の性質を把握し始めたのは、現代の合成的投影幾何学を学び始めるとともに、円を直線に変形させることの重要性を理解したときです(図47)。世界は魂の最も繊細な思考のなかに現れます。図47:さて、円を想像してみましょう。私たちはその円周をずっと辿っていきますと、最初に出発した点に戻ることができます。その円がどんどん大きくなっていく一方、接線は変化しないと想い描いてみましょう。その円はますます平らへとなっていきますから、それは最終的には直線になるでしょう。これらの段階的に大きくなる円を辿るときには、私はいつでも一方の側から降りて行き、出発点に戻るまで反対側を上がって来ることになります。最終的には、私は無限に辿り着くまで一方向に、例えば右とすれば右へ動いて行くことになります。こうして、私が無限から戻ってくるのは反対側、左からでなければなりませんが、それは直線のなかに連なる点が円のように振る舞うからです。このことからすれば空間には端がありません。それは、直線の点が閉じた円の点とちょうど同じように配置されているために、正に直線には端がないのと同じです。同様に、私たちは、無限の広がりをもつ空間は、球の表面のように、自己充足していると想像しなければなりません。私たちは今、無限の空間を円あるいは球の意味で記述しました。この概念は私たちが空間の現実を考えてみる上での助けとなるでしょう。ここで、私たちが考えもなしに無限に向かって進み、反対側から何も変わらずに戻ってくると想像する代わりに、何某らの方法でもって光を運んでいると想像してみましょう。直線上の一定の地点から見たとき、この光は、私たちがそれを遠くへ運ぶほどますます弱くなり、私たちがそれをもって無限から戻ってくるときには、ますます強くなります。そのとき、もし、私たちが光の強さの変化を正負の変化として思い描くならば、光が強くなる一方の側は正であり、他方は負となります。正に相対する空間の効果であるところのこれらふたつの極は、大自然におけるあらゆる影響のなかに見い出されます。この考えは、力を有しているものとしての空間概念、つまり、空間のなかで作用する力は力そのものが現れたものに過ぎないという考えへと導きます。私たちは三次元空間のなかで、内側から働く力を発見する可能性を疑うことはもはやないでしょう。そして、すべての空間的な現象は空間における実際の関係に基づいているということに気づくでしょう。哲学・思想ランキング
2023年08月12日
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「四次元/Die Vierte Dimension」数学と現実第6講:1905年6月7日、ベルリン 1-6 次元の投影 水と、凍ることを許された水について考えて下さい。いずれの場合も実質は同じですが、水と氷とでは形態において非常に異なっています。人間における三つのより高次の次元についても、同様のプロセスが生じていると想像することができます。人間を純粋に精神的な存在として想像するときには、彼らが自我意識、感情、そして、時間という三つのより高次の次元だけを有し、そして、それらの次元が物理世界における三つの通常の次元のなかに反映されていると考えなければなりません。 より高次の世界についての認識へと上昇することを望むヨギ(秘儀の学徒)は、反映であるところのものを徐々に現実で置き換えなければなりません。例えば、植物について考えるときには、彼らはより低次の次元をより高次の次元で置き換えることを学ばなければなりません。植物の空間的な次元のうちのひとつを無視し、対応するより高次の次元、つまり、時間で置き換えることを学ぶことによって、彼らは動く二次元存在を理解することがきるようになります。この存在を単なるイメージに留める代わりに、現実に対応づけるために、秘儀の学徒は何をしなければならないのでしょうか。もし、彼らが単に第三の次元を無視し、第四の次元をつけ加えるだけであったとすれば、その結果は何らかの想像上のものであるかも知れません。次のように考えれば、私たちが答に向かって進むための助けとなるでしょう。つまり、生き物をフィルム撮影することによって、確かに本来は三次元的であったできごとから第三の次元を差し引くことになったとしても、連続的な映像が時間の次元をつけ加えることになります。そして次に、私たちがこの動くイメージに知覚能力をつけ加えるとき、私たちが行っていることは、私が三次元図形を四次元のなかに曲げ込むこととして記述した操作に似たものとなります。この操作の結果得られるのは四次元的な図形ですが、その次元には私たちの空間的な次元のなかの二つ、そして、二つのより高次の次元、つまり、時間と知覚能力が含まれています。実際、そのような存在が本当にいるのですが、私たちの次元に関する探求が真の結論へとやってきた今となっては、私はあなた方のために彼らの名前を告げたいと思います。二つの空間的な次元、つまりは平面ですが、それを想像し、この平面が動きを付与されていると推測して下さい。それが曲がることによって感覚存在となり、その前にある二次元平面を押しているところを思い描くのです。そのような存在は私たちの空間中にいる三次元存在とは非常に違って見えますが、その振る舞いも非常に異なっています。私たちが構築した表面存在はひとつの方向に完全に開かれているのです。それは二次元的に見えます。それはあなた方の方にやってきますが、あなた方はその周りを回ってみることができません。この存在は放射するものであり、ある特定の方向における解放性以外の何ものでもありません。そして、秘儀参入者たちは、そのような存在を通して、火の炎のなかで彼らに近づく神の使いとして彼らが記述したところの別の存在をよく知るようになります。シナイ山頂で十戒を受けるモーゼの記述は、正に彼がそのような存在の接近を受けたということ、そしてその次元を知覚することができたということを示しています。この存在は、第三の次元を差し引かれた人間に似ていましたが、感覚と時間のなかで活動していました。 宗教的な文献中の抽象的なイメージは外的な象徴に過ぎません。それらは、私たちが類比を通して理解することを試みてきたところのものを自分のものにすることによって学ぶことができるような圧倒的な現実なのです。あなた方がそのような類比について、より熱心に、そして精力的に考えてみればみるほど、そして、より熱心にそれらのなかに沈潜すればするほど、それらの類比は、より高次の能力を解放するために、ますますあなた方の精神に働きかけるようになります。このことは、例えば、立方体の六角形に対する関係とテサラクトのひし形十二面体に対する関係との間の類比についての説明にも当てはまります。ひし形十二面体はテサラクトの三次元的な物理世界への投影です。これらの図形を、それらがまるで独立した生命を有しているかのように視覚化することによって、つまり、立方体がその投影である六角形から、テサラクトがその投影であるひし形十二面体から生長してくるのにまかせることによって、あなた方のより低次のメンタル体は、私が今記述した存在を把握することができるようになります。あなた方がただ単に私の提言に従うだけではなく、秘儀の学徒がそうしたように、しっかりと目覚めた意識のなかで、この作業を生きたものにしたならば、あなた方はあなた方の夢のなかに四次元的な姿が現れ始めるのに気づくでしょう。そこまで来れば、それらをあなた方の目覚めた意識のなかにもたらすことができるようになるのも、それほど遠いことではありません。そのとき、あなた方は、あらゆる四次元的な存在のなかに、第四の次元を見ることができるようになっていることでしょう。記:アストラル領域は第四の次元、ルーパまでのデヴァカンは第五の次元であり、アルーパまでのデヴァカンは第六の次元である。神秘学が描く物理世界、アストラル世界、天界(デヴァカン)は六つの次元を包含しています。もっとさらに高次の世界はこれらの次元の対極にあるものです。(第6講・了)哲学・思想ランキング
2023年08月11日
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「四次元/Die Vierte Dimension」数学と現実第6講:1905年6月7日、ベルリン 1-5 次元の投影 次元存在も今や、私たちは五次元へとやってきました。あなた方は、この次元は第四の次元に対して垂直な別の境界をもっているはずだというかも知れません。私たちは、第四と第三の次元の間の関係が第三と第二の次元の間の関係に似ているということを見てきました。五次元についてイメージするのはより困難ですが、ここでもそれについて何らかのアイデアが得られるような類比を用いることができます。次元というものはどのようにして生じるのでしょうか。あなた方が線を引くとき、その線が単に同じ方向を保っている限り、さらなる次元が現れることはありません。次の次元がつけ加えられるのは、二つの相反する方向あるいは力がある点で出会い、中和すると考えられるときです。新しい次元とは力が中和させられることの表現としてのみ生じてくるものなのです。私たちは新しい次元を線の追加として、つまり、その線のなかで二つの力の流れが中和させられているところの線の追加として見ることができなければなりません。私たちはその次元を右から来るものとしても左から来るものとしても想像することができますが、最初の場合にはポジティブなものとして、第二の場合にはネガティブなものとして想像します。ですから、私はそれぞれの次元を力たちの対極的な流れ、正負の両方の構成要素をもつところのひとつの流れとして把握します。対極を構成する力の中和、どちらでもなくなることが新しい次元なのです。これを私たちの出発点として、五次元に関する心的なイメージを発展させてみましょう。私たちは四次元が時間の表現であることを知っていますが、最初に四次元のもつ正と負の側面を想像してみなければなりません。それらにとって時間が意味をもっているところの二つの存在が衝突するところを思い描いてみましょう。その結果は、先ほど私たちがお話しした対抗する力の中和に似たものであるはずです。二つの四次元存在が結びつくとき、結果として生じるのはそれらの五次元です。五次元とは対極的な力の交換、あるいは中和の結果もしくは帰結であり、そこでは、お互いに影響を及ぼし合う二つの生きたものが、空間に関する三つの通常の次元においても、あるいは第四の次元、すなわち時間においても共有することのない何かを生み出しているのです。この新しい要素はその境界をこれらの次元の外に有しています。それは私たちが感情移入あるいは知覚活動と呼ぶところのものですが、その能力はある存在に別の存在についての情報を提供します。それは他の存在の内的な、即ち魂的、精神的な側面についての認識です。より高次の、つまり、第五の次元が付け加えられることがなければ、知覚活動の領域に入ることなしには、いかなる存在も、時間と空間の外に横たわる他の存在の側面について知ることは到底できなかったでしょう。当然、私たちは知覚活動を、この意味においては、五次元の物理世界における単なる投影あるいは表現として理解しています。 同様の方法で六次元を構築しようとしても、あまりに難しくなってしまいますから、今はそれが何であるかをお話しするだけにしておきましょう。もし、私たちがこれまでの線に沿って考えを進めるならば、私たちは、三次元世界における六次元の表現は自我意識である、ということを見いだすでしょう。三次元存在としての私たちは、私たちの姿形という特徴をその他の三次元存在と共有しています。植物はもうひとつの次元、四次元を有しています。したがって、植物の究極の存在が三次元空間のなかで見いだされることは決してないでしょう。あなた方は四次元、つまりアストラル領域にまで上昇しなければなりません。もし、あなた方が知覚能力を有する存在を理解したいのであれば、五次元であるところの低次のデヴァカンもしくはルーパ領域にまで、そして、自我意識を有する存在、つまり、人間を理解しようとすれば、六次元である高次のデヴァカンもしくはアルーパ領域にまで上昇しなければなりません。私たちが現在において出会うような人間は、本当には六次元存在なのです。私たちが知覚能力としての感情移入、自我意識と呼んだところのものは、それぞれ五次元と六次元の通常の三次元空間への投影です。たとえ殆どの場合は無意識的にとはいえ、人間はこれらの精神的な領域にまでずっと延びているのです。その本来の特徴を認識することができるのは、そこにおいてだけです。六次元存在としての私たちが、より高次の世界を理解するようになるのは、より低次の次元に特徴的な属性を放棄しようと試みるときだけです。 なぜ私たちは世界を単に三次元的なものと信じているのか、ということについて、私には示唆する以上のことはできません。私たちの観点は、世界をより高次の要因の反映として見る、ということに基づいています。あなた方が鏡のなかに見ることができるのは、あなた方自身の鏡に映った姿に過ぎません。実際には、私たちの物理世界の三つの次元は、三つのより高次の、原因となる、創造的な次元の反映、有形の像なのです。このように、私たちの物理世界は、それにつづく三つのより高次の次元グループ、つまり、第四、第五、そして第六の次元のなかにその対極となる精神的な対応物を有しています。同様に、第四から第六にかけての次元は、その対極となる対応物を、さらにもっとはるかな精神的な世界のなかに、つまり、私たちにとっては推測の域を出ない次元のなかに有しているのです。哲学・思想ランキング
2023年08月10日
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「四次元/Die Vierte Dimension」数学と現実第6講:1905年6月7日、ベルリン 1-4 時間の投影 四次元的な存在に関しては、何が起こる必要があるのでしょうか。変化は三次元の内部で生じなければなりません。言い換えますと、あなた方が二次元的なものである絵を壁に掛けるときには、それらの絵は一般的には固定されています。二次元的なイメージが動いているのを見るとき、あなた方は、その動きの原因は壁の外にしかあり得ない。つまり、空間の第三の次元がその変化を促しているのだと結論づけるに違いありません。三次元の内部で変化が生じているのを見いだすとき、あなた方は、その三次元空間の内部で変化を経験する存在たちに影響を及ぼしているのは四次元であると結論づけなければなりません。私たちが植物をその三次元においてのみ知るとき、私たちはそれを本当には認識していません。植物は絶えず変化しています。変化は植物の本質的な側面、存在のより高次の形態の証しです。立方体はそのままです。つまり、その形態が変化するのは、あなた方がそれを打ち壊すときだけです。植物は自分でその形態を変化させますが、そのことはその変化が三次元の外に存在し、四次元において表現される要因によって引き起こされているに違いないということを意味しています。その要因とは何でしょうか。お分かりのように、あなた方は、この立方体をどの時点において描いたとしても、それはいつも同じであるということを見いだすでしょう。けれども、あなた方が植物を描き、三週間後にオリジナルの植物をあなた方の絵と比べてみるとき、オリジナルの方が変化していることでしょう。ですから、私たちの類比は十分に正当なものです。どの生き物もその真の存在がそのなかに生きているところのより高次の要素を指し示しているのです。そして、時間はそのより高次の要素の表現です。「時間とは、生命あるいは四次元の徴候的な表現」、物理空間という三次元のなかにおける顕現です。言い換えれば、時間がそれらにとって本来的な意味をもっているところのあらゆる存在は、四次元的な存在のイメージなのです。三年、あるいは六年経ったとしてもこの立方体はやはり同じでしょう。しかし、百合の実生は変化します。何故なら、時間がそれにとって本当の意味をもっているからです。私たちが百合のなかに見るものは、四次元的な百合存在の三次元的なイメージに過ぎません。時間とは、四次元の、あるいは有機的な生命の、物理世界という三つの空間的な次元のなかへの投影、もしくはイメージなのです。連続するそれぞれの次元がひとつ前の次元とどのように関連しているかということを明確にするために、次のような一連の思考を追ってみて下さい。立方体は三つの次元を有しています。三番目の次元をイメージするために、あなた方はそれが二番目に対して直角であると自分に言い、そして、二番目は一番目に対して直角であると言います。それら三つの次元の特徴は、それらがお互いに直角であるということです。私たちはまた第三の次元を次の次元、つまり、第四の次元から生じるものとして考えることもできます。立方体の表面に色をつけ、その色を、ヒントンが行ったように、特別な方法で取り扱うと思い描いて下さい。あなた方が引き起こした変化は、正に三次元的な存在が時間上で発展し、それによって四次元に移行するときに被るところの変化に対応しています。あなた方が四次元存在のどこかを切り取るとき、つまり、それから四次元を取り去るとき、あなた方はその存在を破壊することになります。植物に対してこれを行うということは、ちょうど植物の姿を石膏に刻印するようなものです。あなた方はそれがもつ四次元、つまり時間の要素を破壊することによって、それをしっかりと所持しますが、結果として得られるのは三次元的な姿です。いかなる三次元的な存在であっても、その存在にとって、時間すなわち第四の次元が決定的に重要であるときには、その存在は生きていなければなりません。哲学・思想ランキング
2023年08月09日
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「四次元/Die Vierte Dimension」数学と現実第6講:1905年6月7日、ベルリン 1-3 現実の事物の真相 ここで現実の事物の真相、この一連の考え方を世界一般へと適用してみて下さい。世界は三次元的ですが、もし仮に、あなた方がそれを思考のなかで把握しながら、それをそれ自体で考えるならば、あなた方はそれが本質的に動かないものであることを発見するでしょう。たとえあなた方がそれをある時点で凝固したものとして想像するとしても、それでもなお世界は三次元的です。現実には、世界は時間のなかのどの二点を取ってみても同一ではありません。それは変化しています。では、これらの異なる瞬間がなかったとしたら、何があるか、何が残るかを想像して下さい。もし、時間がなかったとしたら、世界は決して変化しないでしょう。しかし、たとえ時間、あるいは変化がなかったとしても、世界はやはり三次元的です。同様に、壁の上のイメージは二次元的なままですが、それらが変化するという事実は、三次元が存在しているということを示唆します。世界が絶えず変化しているということ、たとえ変化がなかったとしても、それは三次元的なままであるということは、その変化は四次元のなかに求める必要があるということを示唆します。変化の理由、変化の原因、変化の活動は三次元の外に求められるべきなのです。この時点で、あなた方は四次元の存在とプラトンの比喩の正当性を把握します。三次元世界全体が四次元世界の投影像である、ということを理解するのです。残る問題は、如何にしててこの四次元の現実を把握するかということです。もちろん、私たちは、四次元が直接三次元に入ってくることは不可能であるということを理解しなければなりません。それはできないのです。四次元は三次元のなかに単純に落ち込むということができません。ここで、私は、三次元を超越するという概念をいかにして獲得するか、ということをあなた方に示してみたいと思います。私は、以前ここで行った講義のなかで、同じような考えをあなた方のなかに目覚めさせようとしました。ここに円があると想像して下さい。この円がどんどん大きくなって、そのどの部分もますます平らになると思い描くならば、結局は直径が非常に大きくなり、その円は直線へと変化させられます。直線は一つの次元だけを有していますが、円は二つです。どうすれば私たちは二次元のなかに戻ることができるでしょうか。直線を曲げて、再び円にすることによってです。あなた方が円盤を曲げると想像するならば、それはまずボウル状になりますが、もし、あなた方がそれを曲げ続けるとすると、最終的には球になります。曲げられた直線は二次元を獲得し、曲げられた平面は三次元を獲得します。そして、もし、あなた方が球をさらに曲げることができるとすれば、それは四次元へと曲がっていかなければならないでしょう。その結果得られるのは球状のテサラクトのはずです。球面は曲げられた二次元図形と考えることができます。自然においては、球は細胞の形態で、つまり、最も小さな生きた存在として現れます。細胞の境界面は球状です。生きたものと生きていないものの違いがここにあります。鉱物は結晶の形態においては、いつも平面、つまり平らな表面で境界づけられていますが、生命は細胞から構築され、球状の表面で境界づけられています。ちょうど結晶が平らに延ばされた球面、もしくは平面から構築されるように、生命は細胞、もしくは隣接する球から構築されます。生きているものと生きていないものとの間の違いはその境界の特徴にあるのです。八面体は八つの三角形によって境界づけられています。私たちがその八つの面を球として想像するとき、結果として得られるのは八つの細胞からなる生き物です。三次元図形である立方体を「曲げる」とき、結果として得られるのは四次元図形である球状のテサラクトです。けれども、もし、あなた方が空間全体を曲げるとするならば、そのとき得られる図形の三次元空間に対する関係は、球の平面に対する関係と同じです。三次元物体としての立方体は、あらゆる結晶と同様、平面によって境界づけられています。結晶の本質は、それが平らな境界面によって構築されるということです。生命の本質は、曲げられた表面、つまり細胞から構築されるということですが、さらにより高次の存在レベルにある図形は四次元構造によって境界づけられることでしょう。三次元図形は二次元図形によって境界づけられ、四次元的な存在、つまり生き物は三次元的な存在、つまり、球や細胞によって境界づけられます。四次元的な存在は五次元的な存在、つまり、球状のテサラクトによって境界づけられます。こうして、私たちは、三次元存在から四次元存在へ、さらには五次元存在へと進む必要があるということを理解します。哲学・思想ランキング
2023年08月08日
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「四次元/Die Vierte Dimension」数学と現実第6講:1905年6月7日、ベルリン 1-2 事物の現実 私たちは類比によってこれらの関係へと到達しましたが、今ここで行ったことを、プラトンとショーペンハウアーが洞窟の比喩のなかで与えたすばらしいイメージに結びつけてみたいと思います。プラトンは、洞窟のなかに、鎖につながれているために首を回すことができず、後ろの壁しか見ることができない人々がいると想像するように私たちに言います。彼らの背後で、別の人々が色々なものを運びながら洞窟の入り口の前を通過します。これらの人々と彼らが運ぶものは三次元的ですが、囚人たちは壁に映った影しか見ることができません。例えば、この部屋にあるものも、すべて反対側の壁に映った二次元的な影のイメージのように見えることでしょう。そして、プラトンは世界のなかにおける私たちの状況も同じだと言います。私たちが洞窟のなかに繋がれている人々なのです。他のあらゆるものがそうであるように、私たち自身は四次元的なのですが、私たちが見るものすべてが三次元空間におけるイメージの形で現れるのです。プラトンによると、私たちは事物の現実ではなく、その三次元的な影のイメージを見ることに依存しているということになります。私は私自身の手を単に影のイメージとして見ますが、現実には、それは四次元的なものなのです。私たちは、四次元的な現実のイメージであるところのもの、私があなた方に示したテサラクトのイメージのような、イメージだけを見ているのです。プラトンは、古代ギリシャにおいて、私たちが知っている体は実際には四次元的なものであり、私たちはその三次元空間における影のイメージだけを見ているのだ、ということを説明しようとしました。この記述は全くの思いつきのものというわけではありません。それを簡単に説明します。もちろん、最初のうちは、それは単なる推測に過ぎない、と言うこともできます。壁の上に現れるこれらの姿の一体どこに現実性があると想像できるでしょうか。しかし今、あなた方がここで一列に座っていて、動くことができないと想像して下さい。突然に影が動き始めます。あなた方は壁の上の影が二次元から離れることなしに動くことができるなどとは結論づけられないでしょう。壁の上で像が動くときには、何かが原因で、壁の上にあるのではない現実の事物の動きが生じたに違いありません。三次元空間中にある事物はお互いにすれ違うことができます。もし、あなた方が二次元的な影のイメージをお互いに貫通することができないものとして、つまり、実質から成り立っているものとして想像するならば、すれ違うということはそれらにとっては何か不可能なことなのです。もし、私たちがこれらのイメージを実質的なものであると想像するならば、それらは、二次元を離れることなしに、お互いにすれ違うことはできません。壁の上のイメージがじっとしている限りは、壁から離れたところで、つまり、二次元的な影のイメージ世界の外で何かが起こっていると結論づける理由は私にはありません。けれども、それらが動き始めるやいなや、私はその動きの源泉を調べ、その変化は壁の外に、つまり、三次元のなかに起源をもつものであると結論づけるように強いられます。このように、イメージにおける変化が、二次元に加えて三次元があるということを私たちに伝えたのです。単なるイメージといえどもある種の現実性ときわめて特殊な属性を有していることは確かですが、それは現実の事物とは本質的に異なるものです。鏡像もまた単なるイメージであるということを否定することはできません。あなた方は、鏡のなかのあなた方自身を見ますが、鏡の外、こちら側にもあなた方は存在しています。第三の要素の存在、つまり、動くところの存在ですが、それなしには、あなた方はどちらがあなた方なのかを本当に知ることはできません。鏡像はオリジナルと同じ動きをします。それは自分で動くことができず、現実の事物、すなわち存在しているものに依存しているのです。このように、私たちがイメージと存在を区別できるのは、存在しているものだけが自分から変化し、あるいは動きを生じさせることができるということによってです。私は、壁の上の影のイメージは自ら動くことができない。したがって、それらは存在しているものではないということに気づきます。存在するものたちを発見するためには、私はイメージを越えていかなければならないのです。哲学・思想ランキング
2023年08月07日
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「四次元/Die Vierte Dimension」数学と現実第6講:1905年6月7日、ベルリン 1-1 図42 - 図45 今日は、空間の第四の次元についての連続講義を結論づけなければなりませんが、実際には、ひとつの複雑な系をより詳細に提示してみたいと思っています。そのためにはヒントンのモデルについて、もっと多くのことを提示する必要があるでしょうが、私にできるのは、彼の徹底的で洞察力に富んだ三冊の本をあなた方に紹介するということだけです。当然のことながら、これまでの講義で示されたような類比を用いることに消極的な人には、四次元空間についての心的な表象を獲得することは不可能でしょう。思考を発達させる新しい方法が必要なのです。では、テサラクト(四次元立方体/正八胞体)の真のイメージとしての平行投影像を得る試みをしてみたいと思います。私たちは、二次元空間中の正方形には四つの辺があるということを見てきました。三次元におけるその対応物は立方体ですが、それは六つの正方形の面をもっています。(図42)図42:その四次元的な対応物はテサラクトですが、それは八つの立方体によって境界づけられています。従って、テサラクトの三次元空間への投影像はお互いを貫く八つの立方体から構成されます。私たちはこれら八つの立方体を、三次元空間のなかで、どのように符合させることができるかを見てきました。ここでは、テサラクトの別の投影像を構築してみましょう。立方体を光に向けて差し上げることによってボード上に影が映るようにすると想像して下さい。そのとき、私たちはチョークでその影をなぞることができます(図43)。お分かりのように、それは六角形になります。もし、立方体が透明であると想像するならば、その平面上への投影図においては、立方体のこちら側の面三つと向こう側の面三つが合わさって六角形の図になるのが分かりますね。図43:テサラクトに適用することができる投影法を得るために、あなた方の前にある立方体を、こちら側の点Aが向こう側の点Cにちょうど重なるような位置に置くと想像して下さい。そのとき、もし、あなた方が三次元を取り除くとしますと、結果として得られるのはやはり六角形の影です。それを描いてみましょう(図44)。図44:立方体がこの位置にあると想像しますと、あなた方に見えるのはこちら側の三面だけで、別の三面は後ろに隠されています。立方体の表面は遠近法によって狭く見え、その角度はもはや直角には見えません。こうして、私たちは二次元空間のなかに三次元的な立方体のイメージを創り出しました。この投影法では辺が短くなり、角度が変化しますから、私たちは立方体の六つの正方形の表面をひし形として想像しなければなりません。さて、平面上に三次元的な立方体を投影する操作を、三次元空間のなかに四次元図形を投影することによって繰り返すことにしましょう。八つの立方体から構成される図形であるテサラクトを三次元のなかで表現するために平行投影法を用いることにします。この操作を立方体に施す場合には、三つの見える辺と三つの見えない辺ができます。つまり、実際には、それらは空間のなかに突き出しているのであって、投影面の上に横たわっているわけではありません。さて、立方体が菱形平行六面体に歪められると想像して下さい。そのような図形を八つ取り上げますと、あなた方はテサラクトを規定する構造を組み立てることができますが、それらの構造は、菱形十二面体のなかで相互に貫入し、平行六面体と二重に合わさるような仕方で構築されます(図45)。図45:この図形は立方体に比べて一本多い軸をもっています。当然のことながら、四次元図形には四本の軸があるのです。その構成要素が相互に貫入しているときにも、四本の軸は残ります。このように、この投影図には平行六面体として示される相互に貫入する八つの立方体が含まれています。菱形十二面体は三次元空間のなかに投影されたテサラクトの対象像あるいは影なのです。私たちは類比によってこれらの関係へと到達しましたが、その類比は完全に有効なものです。ちょうど立方体を平面上に投影することができるように、テサラクトもまた三次元空間のなかに投影することによって表現することができるのです。得られる投影図のテサラクトに対する関係は、立方体の影の立方体に対する関係と同じです。この操作は容易に理解できると思います。哲学・思想ランキング
2023年08月06日
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「四次元/Die Vierte Dimension」数学と現実第5講:1905年5月31日、ベルリン 1-2 図35 - 図41 四次元空間図形を三次元へと還元することでは、実際に何が問題になっているのかについて、理解をもっと容易にするために、三次元空間のなかで四次元物体を表現するための別の方法についてお話ししたいと思います。ここに正八面体があります。その八つの三角形の面はお互いに鈍角で合わさっています(図35)。図35:この図形を想像し、そして、私と一緒に次のような一連の思考を追いかけてみて下さい。お分かりのように、これらの辺は二つの表面が交わるところに存在しています。例えばふたつがABで交わり、ふたつがEBで交わっています。八面体と立方体の間の唯一の相違は、表面が交わる角度です。立方体のなかではそうであるように、表面が直角に交わるときにはいつでも、形成される図形は立方体でなければなりません。しかし、ここでそうなっているように、それらが鈍角で交わるときには、八面体が形成されるのです。表面が異なった角度で交わるようにすることによって、異なった幾何学図形を構成することができます。図36:次に、八面体の表面を交わらせる別の方法を思い描いて下さい。AEBのようなここにある面のひとつがあらゆる方向に広げられると想像して下さい。(図36)下側の面BCFと、図の向こう側にあるADFとEDCも同様に広げられます。これらの広げられた面もまた交わらなければなりません。この対称軸に関しては二重の対象性が存在していますが、それは「半分裏返しになった対象性」とも呼ばれます。これらの面が拡張されるとき、最初にあった八面体の四つの面、ABF・EBC・EAD・そしてDCFは除去されます。最初にあった八つの面から四つが残り、これらの四つは四面体を形成しますが、それは半分の八面体と呼ぶこともできます。何故なら、それは八面体の面の半分を交差させることになるからです。それは八面体を真ん中から半分に切るという意味で半分の八面体なのではありません。八面体のそれ以外の四つの面をそれらが交わるところまで拡張しても四面体ができます。元の八面体はこれらふたつの四面体が交差したものなのです。立体幾何学あるいは幾何結晶学においては、半分の図形と呼ばれるものは元の図形を二つに分けたというよりは、面の数を半分にした結果のことをいいます。八面体の場合、これを視覚化するのは非常に簡単です。同様に、ひとつの面を別の面と交わらせることによって半分にした立方体を想像してみるならば、得られるのはいつも立方体です。立方体の半分はいつでももうひとつの立方体なのです。この現象から重要な結論を引き出すことができますが、とりあえずもうひとつの例を示してみましょう。ここに菱形十二面体があります(図37)。お分かりのように、その面は特定の角度で交わっています。ここにはまた異なる方向に走る四本のワイヤー系(それらを軸ワイヤーと呼びましょう)、がありますが、それらはつまり、菱形十二面体のなかで反対側にある特定の角を結ぶ対角線です。これらのワイヤーは菱形十二面体の軸システムを表していますが、それは立方体のなかに考えることができる軸システムと同様のものです。図37:三つの直角に交わる軸システムのなかで、これらの軸のそれぞれに関して堰き止めが生じ、交差面が形成されますと、その結果として立方体が生じます。異なった角度で軸を交差させますと、その結果として異なる幾何立体が生じます。例えば、菱形十二面体の軸が交わる角度は直角ではありません。立方体を半分にすると立方体が得られます。これは立方体に関してだけ成り立ちます。菱形十二面体の面を数を半分にすると、全く異なる幾何図形が生じます。さて、八面体の四面体に対する関係とはどのようなものか、ということについて考えてみましょう。つまりそれはこういうことです。もし、私たちが四面体の八面体への変換を段階的に行うならば、その関係は全く明瞭になります。その目的のために、ここに示すようなひとつの四面体を取り上げて、その頂点を切り落としてみましょう(図38)。私たちは、切断面が四面体の辺上で出会うまで、より大きな塊を切り落とすことを続けます。切り落として残った形が八面体です。私たちは適当な角度で頂点を切り落とすことによって、四つの面で仕切られた空間図形を八つの面をもつ図形に変換したことになります。図38:四面体に対して今行ったことを立方体に対して行うことはできません。立方体は三次元空間の写しである点において独特です。宇宙の全空間がお互いに直角な三つの軸で構築されていると想像して下さい。これら三つの軸に直角な平面を挿入すると、いつでも立方体が生じます(図39)。ですから、私たちが、ある特定の立方体というよりは理論的な立方体の意味で「立方体」という言葉を使うときには、私たちはいつでも三次元空間の写しとしての立方体について語っているのです。ちょうど八面体の面の半分をそれらが交わるまで拡張することによって、四面体が八面体の写しであることを示すことができるように、ひとつひとつの立方体もまた空間全体の写しなのです。もし、空間全体を正であるとして想像するならば、立方体は負になります。立方体はその全体性において空間の対極にあるものです。物理的な立方体は幾何学的な図形ですが、本当に空間全体に対応するものなのです。図39:二次元平面によって境界づけられた三次元空間のかわりに六つの球によって境界づけられた空間があると仮定して下さい。その空間は三次元空間です。私はまず交差する四つの円、つまり二次元的な図形によって二次元空間を規定することから始めます。今、これらの円がどんどん大きくなると、つまり、半径がどこまでも長くなり、中心点がますます遠くなると想像して下さい。時間の経過と共に、円は直線に変化するでしょう(図40)。そのとき、そこにあるのは四つの円ではなく、四つの交差する直線とひとつの正方形です。図40:さて、円の代わりに、桑の実状の形態をとる六つの球を想像して下さい(図41)。ちょうど円がそうしたように、球がどこまでも大きくなると思い描いて下さい。これらの球は、ちょうど円が正方形を規定する直線になったように、ついには立方体を規定する平面になるでしょう。その立方体は六つの球が平面になった結果です。ですから、立方体とは、ちょうど正方形が四つの交わる円の特別な例に過ぎないように、単に六つの交わる球の特別な例なのです。図41:平面にまで広がるこれら六つの球が、以前に立方体を規定するために私たちが用いた正方形に対応していることにはっきりと気づくとき-つまり、球状の図形が平らな図形へと変化させられるのを視覚化するとき-その結果として生じるのは最も単純な三次元図形です。立方体は交差する六つの球を平らにした結果であると想像することができるのです。円周上の点は円周上にある他の点に辿り着くためには、二次元を通過して行かなければならない、と言うことができます。けれども、もし円が非常に大きくなって直線を形成するまでになると、円周上のどの点も一次元を通過して行くだけで他のどの点にも辿り着くことができるようになります。二次元図形によって境界づけられる正方形について考えてみますと、正方形を規定する四つの図形が円である限り、それらは二次元的ですが、直線になるやいなや、一次元的となります。立方体を規定する平面は三次元図形(球)から発達してきます。それは六つの球のそれぞれからひとつの次元が取り去られることによってです。立方体を規定するこれらの表面が生じるのは、次元が三から二に減少させられることを通して、まっすぐに引き延ばされるからです。それらは次元をひとつ犠牲にしました。それらが第二の次元に入って行くのは、奥行きという次元を犠牲にすることによってなのです。ですから、こう申し上げてもよいでしょう。空間の各次元はひとつ上の次元を犠牲にすることによって生じると。二次元的な境界を有する三次元的な形態があるとして、三次元的な形態は二次元へと還元されるとするならば、私たちは次のように結論づけなければなりません。三次元空間を考えるときには、それぞれの方向は、無限の円が平らになったものと考えるべきであると。そのとき、私たちが一方の方向に動くとすれば、いつかは反対の方向から同じ場所に戻ってくることになるでしょう。このように、通常の次元空間はそれぞれひとつ上の次元が失われることによって生じたのです。三軸系は私たちの三次元空間にとって本来的なものですが、その三つの直角に交わる軸のそれぞれは、直線になるために、ひとつ上の次元を犠牲にしています。こうして、私たちはその三つの軸方向のそれぞれをまっすぐにすることによって、三次元空間を達成します。その経過を逆転させることによって、空間の各要素は再び曲げられることもできるでしょう。ですから、次のような一連の思考が可能です。一次元図形を曲げると、結果として生じる図形は二次元的である。曲げられた二次元的な図形は三次元的なものとなる。そして、最後に、三次元的な図形を曲げることによって四次元的な図形が生じると。このように、四次元空間は曲げられた三次元空間として想像することができます。この時点で、私たちは死んだものから生きたものへの移行を行うことができます。この曲げるということのなかに、死から生への移行を明らかにする空間的な図形を見いだすことができるのです。三次元への移行に際しては、四次元空間の特別な例が見いだされます。つまり、それは平らになったのです。人間の意識にとっては、死とは三次元的なものを曲げて四次元的なものにするということに他なりません。肉体をそれ自体で取り上げた場合には、逆が真となります。死とは四次元の三次元への平坦化なのです。(第5講・了)哲学・思想ランキング
2023年08月05日
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「四次元/Die Vierte Dimension」数学と現実第5講:1905年5月31日、ベルリン 1-1 図31 - 図34 前回第4講において、私たちは四次元空間図形を三次元へと還元することによってそれを視覚化しようとしました。最初、私たちは三次元図形を二次元図形に変換しました。私たちは、立方体のもつ三つの次元を表現するために三つの色を用いて私たちのイメージを構築するという方法で、次元を色で置き換えましたね。次に、その立方体を展開し、すべての面が平面上に横たわるようにしたのですが、その結果得られた六つの正方形においては、異なった色をもつ軸が二次元空間のなかで三つの次元を表現していました。そして、私たちは、立方体の表面である各正方形の第三の次元への移行を、色のついた霧のなかを移動させて別の側から再び出現させることとして思い描きました。私たちはすべての正方形の面が移行正方形を通過し、その色を帯びると想像しました。こうして、私たちは色を使って、三次元の立方体を二次元のなかに描こうとしたのです。正方形を一次元のなかで表現するためには、二種類の異なった色をその対になった各辺のために用い、立方体を二次元のなかで表現するためには、三つの色を用いました。四次元図形を三次元空間のなかに描くためには四つ目の色が必要でしたね。そして、三つの異なる面の色をもった立方体を二つの異なる辺の色をもった私たちの正方形と同様のものとして想像しました。そのような立方体のそれぞれが第四の色の立方体を通って移動しました。つまり、それは第四の次元、もしくは色のなかに消えたのです。私たちはヒントン(*チャールズ・ハワード・ヒントン/Charles Howard Hintonは、イギリス出身の数学者であり、科学ロマンスと呼ばれるSF作品を書いた作家)の類比に従って、境界をなす立方体のそれぞれを新しい第四の色のなかを通って移動させ、反対側からそれ自身の色で再び現れるようにしました。図31:さて、もうひとつの類比を示したいと思います。四次元を三次元に還元するための準備として、もう一度、三次元を二次元に還元することから始めましょう。私たちは私たちの立方体をその六つの正方形の面から構成されているものとして思い描かなければなりませんが、それを展開するときには、六つの正方形のすべてがつながったままになるようにではなく、ここに示すように(図31)、それらを別様に配置することにします。お分かりのように、私たちはその立方体をそれぞれ三つの正方形を含む二つのグループに分けました。両方のグループとも同じ平面上にあります。私たちが立方体を再構築するときには、それぞれのグループの位置を理解していなければなりません。立方体を完成させるためには、ひとつのグループをもうひとつの上に置いて正方形6が正方形5の上に来るようにしなければなりません。正方形5をその場所に置くと、正方形1と2は上に、正方形3と4は下に折り曲げなければなりません(図32)。そのとき、対応する線分の対、つまり、同じ色の線分、図31のなかでは、同じ数と重さのスラッシュで示されるは一致します。私たちが三次元空間への移行を行うとき、二次元空間中では分散しているこれらの線が一致することになるのです。図32:正方形は四つの辺、立方体は六つの正方形、そして、四次元図形は八つの立方体から構成されます。ヒントンはこの四次元図形をテサラクト(四次元立方体/訳註・日本語では「正八胞体」と呼ばれている)と呼びます。私たちの仕事は、単にこれら八つの立方体をまとめてひとつの立方体にすることではなく、それぞれを四次元空間を通過させることによってそうする、ということなのです。私が正に立方体に対して行ったことをテサラクトに対して行うとき、私は同じ法則を観察しなければなりません。四次元図形がその三次元的な写しとどのような関係にあるかを見いだすためには、三次元図形のその二次元的な写しに対する関係との類比を用いなければなりません。展開した立方体の場合には、三つの正方形からなる二つのグループがありました。同様に、四次元的なテサラクトを三次元空間のなかに展開しますと、その結果として四つの立方体からなる二つのグループができます。それらはこのように見えます(図33)。この八つの立方体による方法は実にすばらしいものです。図33;私たちは、二次元空間中で正方形を取り扱ったのと全く同様にして、三次元空間中で四つの立方体を取り扱わなければなりません。私がそこで行ったことによく注意して下さい。立方体が二次元空間中で平面になるように展開すると、結果としてグループ化された六つの正方形になります。同じ操作をテサラクトに施すと、結果としてシステム化された八つの立方体になります(図34)。私たちは三次元空間上での考察を四次元空間に移し替えたことになります。三次元空間のなかでそれらの辺が一致するように正方形を組み立てるということは、四次元空間のなかでそれらの面が一致するように立方体を組み立てることに相当します。立方体を二次元空間のなかに平面として横たえますと、結果として私たちがその立方体を再び組み立てたときに一致することになる対応する線が得られました。テサラクトにおいても似たようなことが各立方体の面に関して起こります。テサラクトを三次元空間のなかに展開すると、結果として後で一致することになる対応する表面が得られるのです。ですから、私たちが四次元のなかに移行するとき、テサラクトのなかでは、立方体1の上の水平面は立方体5のこちら側の面と同じ平面のなかに横たわることになります。同様に、立方体1の右の面は立方体4のこちら側の面と、立方体1の左側の面は立方体3のこちら側の面と、そして、立方体1の下の面は立方体6のこちら側の正方形と一致します。他の面の間にも同様の対応が存在します。その操作が完結したとき、残るのは立方体7、つまり他の6つの立方体に取り囲まれた内部の立方体です。図34:お分かりのように、ここで私たちがもう一度携わっているのは三次元と四次元の間の類比を見いだすということです。前回の講義で私たちが見た図にもありましたが(図29)、ちょうど二次元空間のなかでだけ見ることができるいかなる存在も四つの他の正方形に取り囲まれた五番目の正方形を見ることができないように、この例の場合にも、七番目の立方体に関して同じことが言えます。それは三次元的な視覚には隠されたままに留まるのです。テサラクトにおいては、この七番目の立方体は八番目の立方体、つまり四次元のなかにおけるその写しに対応しているのです。これらの類比のすべては私たちが四次元への準備をするのに役立ちます。と申しますのも、空間に関する私たちの通常の観点のなかには、私たちが慣れ親しんだ三つの次元に他の次元をつけ加えることを強制するものは何もないからです。ヒントンの例に従って、ここでまた色を使ってもよいでしょう。対応する色が一致するように立方体を組み立てることを考えてみましょう。そのような類比を用いるのでなければ、四次元図形について考察する方法については、ほとんどいかなる指針も与えることができないでしょう。哲学・思想ランキング
2023年08月04日
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「四次元/Die Vierte Dimension」数学と現実第4講:1905年5月24日、ベルリン 1-4 錬金術師たちがいうところの「変容」[第二のテキストバリエーション(variation)] もし、私たちが四次元空間に関する真の見方を獲得したいのであれば、非常に特別な訓練をしなければなりません。まず第一に、私たちは水についての非常に明晰で奥深い視覚像を涵養しなければなりません。そのような視覚像は通常の方法では達成されません。私たちは大いなる正確さをもって水の本性のなかに沈潜しなければならず、いわば水の内側に忍び込まなければならないのです。第二に、私たちは光の本性についての視覚像を造りださなければなりません。私たちは光についてよく知っていますが、それが外から来るのを受け止めるときの形態においてのみ知っているだけです。瞑想することによって、私たちは外的な光の内的な対応物を獲得します。私たちは光がどこで生じるかを学ぶのですが、それによって、私たち自身が光を造りだすことができるようになります。私たちがこれを行うことができるようになるのは、瞑想もしくは感覚から自由な思考の間に、これらの概念をして私たちの魂に本当に働きかけるようにさせることによってです。私たちの周囲のすべてが流れる光として現れます。次に、私たちは私たちが涵養した水の心的な表象を光のそれと「化学的に結合」しなければなりません。光に完全に浸透された水は錬金術師たちが「水銀」と呼んだところのものです。錬金術(alchemy)の言葉では、水プラス光はすなわち水銀なのです。けれども、錬金術の伝統においては、水銀は単なる金属の水銀ではありません。私たちはまず光の概念から水銀を創りだすための私たち自身の能力を目覚めさせなければなりません。そのとき、私たちは水銀を、つまり、アストラル界の一要素であるこの光に浸透された水の力を自分のものとします。 第二の要素は、私たちが空気についての生き生きとした心的な表象を涵養し、そして精神的な過程を通して空気の力を抽出するとともに、それを私たちの内の感情に結びつけることによって、暖かさ、もしくは火の概念を点火するときに生じます。ひとつの要素は抽出されますが、もう片方は私たち自身が創りだすのです。これらのふたつ、空気プラス火は、錬金術師たちが硫黄と呼んだところのもの、すなわち輝く火の空気を産み出します。水の要素とは、本当は聖書の言葉「そして、神の精神が水の面に立ちこめていた」のなかで言及された実質のことなのです。 第三の要素は「神の精神」、もしくは音に結びつけられた地です。それは私たちが地の力を抽出し、それを音に結びつけるときに生じます。聖書が言う「水たち」とは、通常の水のことではなく、私たちが四つのタイプの力から構成されているのを知っているところの水、空気、光、そして火のことです。これら四つの力がアストラル空間の四つの次元を構成しています。 お分かりのように、アストラル実質は半分主観的なものです。つまり、アストラル実質の一部だけが周囲の環境から獲得され得るのです。その他の部分は概念的かつ感情的な力から客観化を通して獲得されます。デバチャンにおいては、私たちは完全に主観的な要素だけを見いだすでしょう。つまり、そこには客観的なものは存在していないのです。私たちがそこで行うところのいかなることもデバチャン世界の象徴的な表現に過ぎません。これら高次の世界のなかに横たわっているものに達することができるのは、私たちのなかに新しい知覚方法を発達させることによってだけです。これらの世界に至るためには、人間は能動的でなければならないのです。(第4講・了)哲学・思想ランキング
2023年08月03日
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「四次元/Die Vierte Dimension」数学と現実第4講:1905年5月24日、ベルリン 1-3 錬金術師たちがいうところの「変容」[第一のテキストバリエーション(variation)] もし、私たちが四次元空間についての真の観点を獲得したいのであれば、非常に特別な訓練を行わなければなりません。まず第一に、私たちは私たちが水と呼ぶところのものについての非常に明晰で奥深い視覚像(ヴィジョン)、但し、心的な表象(イメージ)ではないものを育てなければなりません。そのような視覚像を達成するのは難しく、長々と瞑想することが要求されます。私たちは大いなる正確さをもって水のなかに沈潜しなければなりません。私たちはいわば水の本性の内側に忍び込まなければならないのです。第二の訓練として、私たちは光の本性についての視覚像を創造しなければなりません。私たちは光についてよく知っていますが、それが外から来るのを受け止めるときの形態においてのみ知っているだけです。瞑想することによって、私たちは外的な光の内的な対応物を獲得します。私たちは光がどこで、どのようにして生じるかを知っていますが、私たちは自分で何か光のようなものを造りだすことができるようになります。瞑想を通して、ヨギ(*ヨギ♂・ヨギニ♀は、本来の意味ではただヨガをする人という意味ではない。インドでは、本来、最高のサマディを得た人、ニルバーナ、ムクシャに達した人を指す。)あるいは秘儀の学徒は光を造りだす能力を獲得します。私たちが純粋な概念について真に瞑想するとき、つまり、瞑想もしくは感覚から自由な思考の間に、これらの概念が私たちの魂に働きかけるようにするとき、その概念から光が生じるのです。私たちの周囲のすべてが流れる光として現れます。秘儀の学徒は自分で涵養(*醸成)した水の視覚像をその光の視覚像に「化学的に結合」しなければなりません。光に完全に浸透された水は錬金術師たちが「水銀」と呼んだところのものです。錬金術の言葉では、水プラス光はすなわち水銀なのです。然し乍ら、錬金術の伝統においては、水銀は単なる金属の水銀ではありません。私たちが純粋な概念に自ら働きかけて光を生じさせる能力を目覚めさせた後、水銀はこの光と私たちの水に関する視覚像とが混じり合ったものとして生じます。私たちは、アストラル界の一要素であるこの光に浸透された水の力を自分のものとします。 第二の要素は、ちょうど私たちが以前に水の視覚像を涵養したときのように、空気の視覚像を涵養するときに生じます。私たちは精神的な過程を通して、空気の力を抽出するのです。そのとき、ある種の方法で感情の力が濃縮されることによって、感情に火がともされます。あなた方が空気の力をいわば感情によって点火された火に化学的に結びつけるとき、結果として生じるのは「火の空気」です。ご存じかも知れませんが、この火の空気はゲーテの「ファウスト」のなかで触れられています。それには人間の内的な参加が必要です。ひとつの成分は存在している要素、空気から抽出されますが、私たちはもうひとつの火、もしくは暖かさを自分で造りださなければなりません。火プラス空気から産みだされるのは錬金術師たちが硫黄と呼んだもの、もしくは輝く火の空気です。聖書が言うところの「そして、神の精神が水の面に立ちこめていた」が本当に意味しているのは、水の要素のなかにこの火の空気が存在しているということなのです。 第三の要素は私たちが地の力を抽出し、それを音のなかにある精神的な力に結びつけるときに生じます。その結果生じるのは「神の精神」と呼ばれるところのものです。それは雷とも呼ばれます。活動する「神の精神」は雷、地プラス音です。このようにして、「神の精神」はアストラル実質の上を漂っていたのです。聖書が言う「水たち」とは、通常の水のことではなく、私たちが四つのタイプの力から構成されているのを知っているところの水、空気、光、そして火のことです。これら四つの力の連なりはアストラル空間の四つの次元としてアストラル的な視界の前に現れます。これがそれらの本当の姿です。アストラル空間は私たちの世界とは非常に異なって見えます。多くのアストラル的な現象と思われているものは単にアストラル世界の側面が物理世界に投影されたものに過ぎません。 お分かりのように、アストラル実質は半主観的なもの、つまり、主体に対して受動的に与えられるもの、半分の水と空気です。一方、光と感情(火)は客観的なもの、つまり、主体の活動によって現れるようにされたものです。アストラル実質の一部だけが外部に見いだされ、周囲の環境のなかで主体に与えられることができます。その他の部分は、個的な活動を通して、主観的な方法によってつけ加えられなければなりません。概念と感情の力は、私たちが能動的な客観化を通して与えられるものからその他の側面を抽出するようにさせます。アストラル界においては、私たちは主観的・客観的な実質を見いだすことになるのです。デバチャンにおいては、私たちは完全に主観的な要素だけを見いだすでしょう。主体に対して与えられるだけのいかなる客観性ももはやそこにはありません。其のこと故に、私たちはアストラル界において、人間によって創造されなければならないひとつの要素を見いだします。私たちがここで行ういかなることもより高次の世界の、つまりデバチャンの象徴的な表現に過ぎません。この連続講義のなかであなた方にお話ししてきたように、これらの世界は現実的なものです。これらの高次の世界のなかに横たわっているものに達することができるのは、視覚像への新しい可能性を発達させることによってだけです。これらの世界に至るためには、人間は能動的でなければならないのです。オカルト・ホラー小説 ブログランキングへ
2023年08月02日
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「四次元/Die Vierte Dimension」数学と現実第4講:1905年5月24日、ベルリン 1-2 図27 - 図30 立方体の三組の表面が被る変化を視覚化するために、私たちはそれらが、それぞれ緑、赤、そして青を通過するものと想像し色の付けした線の代わりに正方形を、そして空の空間の代わりに、いたるところに正方形を思い描いて下さい。そうすれば、図形全体をさらに別の仕方で描写することができます(図27)。他の正方形が通過する正方形は青の色がついています。それを通過する二つの正方形は、その移行を行う前後で、その側面に引き寄せられています。ここではそれらは赤と緑になっています。第二段階においては、青-緑の正方形が赤の正方形を通過し、第三段階においては、二つの赤-青正方形が緑を通過します。図27:これは立方体を平面に展開するためのもうひとつ別の方法です。ここに並べられた九つの立方体のうち、上段と下段の六つの正方形だけが立方体そのものの境界を形成します。中段にあるそれ以外の三つの正方形は移行を表現しています。それらは単に他の二つの色が第三の色のなかに消えることを意味しているに過ぎません。ですから、移行の動きに関しては、私たちはいつも一度に二つの次元を取り上げなければなりません。何故なら、上段と下段にあるこれらの正方形のそれぞれは二つの色からなっており、それに含まれない色のなかに消え去るからです。私たちはこれらの正方形が第三の色のなかに消え去り、反対側から再び現れるようにします。赤-青正方形は緑を通過します。赤-緑正方形は青の辺をもっていませんから、青のなかに消え去るのに対して、緑-青正方形は赤を通過します。お分かりのように、私たちは私たちの立方体を、このように二次元の正方形、つまり二色に塗られた正方形を第三の次元、あるいは色を通過させることによって構築することができるのです。次の段階は明らかに、正方形の代わりに立方体を想像し、ちょうど二色の線から正方形を構築したように、三色それぞれの次元からなる正方形から構成されているものとしてこれらの立方体を視覚化するということです。三つの色は空間の三つの次元に対応します。ちょうど正方形の場合にそうしたような方法で先に進もうとするならば、私たちは四つ目の色をつけ加えて、それぞれの立方体が自分にはない色を通過しながら消えることができるようにしなければなりません。そこには三つの移行正方形の代わりに、単に四つの異なる色、青・白・緑そして赤をもった移行立方体があるだけです。正方形に正方形を通過させる代わりに、今度は立方体に立方体を通過させるのです。シャウテン氏のモデルはそのような色のついた立方体を用いています。ちょうどひとつの正方形に第二の正方形を通過させたように、今度はひとつの立方体にそれ以外の色をもつ立方体を通過させるようにしなければなりません。こうして、白-赤-緑の立方体は青の立方体を通過します。一方の側でそれは第四の色のなかに沈み込み、別の側から元の色で再び現れます(図28.1)。ですから、ここには三つの異なる色の表面をもつ二つの立方体によって結びつけられたひとつの色、もしくは次元があるのです。図28:同様に、今度は緑-青-赤の立方体に白の立方体を通過させなければなりません(図28ー2)。青-赤-白の立方体は緑の次元(図28-3)、青-緑-白の立方体は赤の次元(図28-4)を通過しなければなりません。つまり、それぞれの立方体は自分に欠けている色のなかに消え去り、別の側から元の色で現れなければならないのです。これら四つの立方体は、先の例における三つの正方形と同様、お互いに関連しています。ひとつの立方体の境界を表現するためには六つの正方形が必要でした。同様に、四次元の対応する図形、テサラクトの境界を構成するためには八つの立方体が必要なのです。立方体の場合には、単に残りの次元を通過して消え去ることを意味する三つの付属の正方形が必要でしたが、テサラクトには全部で12の立方体が必要です。それらは平面における9つの正方形と同様の仕方でお互いに関連しています。ここで行ったことは、前の例において正方形に関して行ったことと同じです。新しい色をひとつ選ぶ度に、ひとつの新しい次元を加えました。私たちは四次元図形によって組織化された4つの方向を表現するために色を用いました。この図においてそれぞれの立方体は三つの色をもち、四番目の色を通過していきます。次元を色で置き換えるポイントは、三次元そのものは二次元平面のなかに取り込むことができないということにあります。三つの色を用いることで、それが可能になります。四次元についても、三次元空間のなかにひとつのイメージを創り出すために、四つの色を用いて同じことを行います。これは、そうでなければ複雑になるはずの課題に導くためのひとつの方法です。チャールズ・ヒントンは、いかにして四次元図形を三次元のなかで表現するかという問題を解決するためにこの方法を用いました。 次に、もう一度立方体を展開して平面のなかに置いてみたいと思います。黒板にそれを描きましょう。さしあたり、図25の底面に相当する正方形を無視してください。そして、あなた方が二次元のなかでのみ見ることができると、つまり、黒板表面上で出会うことができるものだけを見ることができると想像してください。この例では、五つの正方形を、ひとつが真ん中にくるように配置しています。内部の領域は不可視のままに留まります(図29)。外側をぐるっと巡ることはできますが、二次元のなかでのみ見ることができるあなた方は決して正方形五を見ることはないでしょう。図29:さて、立方体の六つの面の内、五つを取り上げる代わりに、テサラクトの境界をなす八つの立方体の内の七つについて同じことを行い、私たちの四次元図形を空間のなかへと展開してみましょう。七つの立方体の配置は黒板の平面上に置かれた立方体の表面の配置に似ていますが、ここにあるのは正方形ではなく、立方体です。こうして得られる三次元図形はその構造において正方形からなる二次元の十字と似ています。それは三次元空間におけるその対応物となっているのです。七番目の立方体は正方形のひとつと同様、どこからも見ることができません。いかなる三次元的な視覚能力だけを有する存在もそれを見ることはできません(図30)。展開された六つの正方形を立方体へと組み立てたようにしてこの図形を組み立てることができるとすれば、私たちは三次元から四次元へと移行することができるでしょう。色によって示された移行は、この過程がどのようにして視覚化されるかを私たちに示します。図30:私たちは少なくとも、私たち人間が三次元空間だけを知覚することができるにも関わらず、四次元空間を視覚化するにはどうすればよいかということを紹介しました。この時点で、あなた方は、いかにして真の四次元空間の表象を獲得することができるかということについての疑問をもたれるかも知れません。そこで、いわゆる錬金術的な秘儀について紹介したいと思います。と申しますのも、四次元空間に関する真の観点は錬金術師たちがいうところの「変容」に関係しているからです。オカルト・ホラー小説 ブログランキングへ
2023年08月01日
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