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2020年10月21日の中国新聞朝刊に関西大学文学部教授の串崎真志さんの記事があった。HSP(ハイリー・センシティブ・パーソン)の説明であった。人間関係に対する極度な息苦しさを感じながら、同時にテレビ等の衝撃映像(事件、出来事、光や音)などの外からの刺激から過度な心身への影響を受けてしまう人のことだそうだ。その特徴を6点あげておられる。1、腹を立て怒っている人を見ると怖くて逃げだしたくなる。2、絶えず同僚や上司、友達や配偶者・子供の顔色が気になる。3、学校などの教室、職場などでみんなと一緒にいることに息苦しさを感じている。4、他人の自分に対する気持ちを、悲観的に先読みしてしまう。5、観念の世界にどっぷりとつかり、空想や妄想癖がある。6、匂いや音、衝撃映像にいつまでも取りつかれてしまう。繊細な神経の持ち主である神経質性格が陥りやすい事ばかりである。対人関係で自分が傷つくことを極端に恐れている。エネルギーの大半を自己防衛に充てているので、絶えず生きづらさが付きまとっている。しだいに自分の殻に閉じこもり、他人との交際を拒絶するようになる。自己内省中心で、本来のやるべきことに手が出なくなる。そういう人は、ちょっとした外部からの刺激に対して過剰反応をするようになる。こういう人は行動と精神の悪循環を招き、神経症予備軍となっている。HSPというのは、回避性人格障害とよく似ている。私はこういう人に対して、森田理論学習をお勧めしたい。まず自分の神経質性格について学習する。どんな性格にもプラスとマイナスの両面があるということを知るだけでも楽になる。神経質性格は、心配性であるが、反対に感受性が鋭いというのが特徴だ。細かくて小さい事でもよく気が付くということをプラスに捉えてどんどん生活の中で活かしていくことが肝心だ。森田理論学習に取り組むことによって、神経質性格という類まれな、素晴らしい性格を持って生まれてきたことは幸運だったと思えるようになるはずだ。生活の発見会の集談会に参加すれば、正しく理解し、実践の手助けをしてくれる仲間がいる。これを活用しない手はない。私は毎月参加して34年になる。振り返ってみれば、人生最大の幸運であった。次に内省的で反省ばかりしていては、精神的に苦しくなるばかりだということを理解する。車でもブレーキばかり踏み込んでいるばかりでは何も始まらない。アクセルを踏み込んで初めて前進して、目的地に行くことができる。「凡事徹底」をキーワードにして生活してみてはどうだろうか。このことを森田では、生の欲望の発揮と呼んでいる。森田理論の核となる考え方の一つである。次に人間関係は、必要に応じて必要なだけの付き合いで構わないということを理解する。必然的に引っ付いたり離れたりの人間関係になる。薄くて幅広い人間関係を心掛けることになる。その方が本来まともな人間関係の構築につながる。森田でいう「不即不離」の人間関係の在り方を学習することだ。挨拶をするだけでもよい。それ以上、苦しい思いをして人と仲良くしなくてもよいのだ。そして凡事徹底を基本にして、自分の好きなことを見つけて、取り組んでいけばよいのだ。人は人生を楽しむために生まれてきたのだと思えるようになることが肝心だ。
2020.11.30
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森田先生のお話です。我々は人生の欲望に対して、常に念掛け・あこがれながら、その目的を失わず、しかも何かとその現在現在の事柄に対して、力の限りのベストを尽くしているのが、「物そのものになりきる」という自然の状態であります。そこに初めて「努力即幸福」という心境があるのであります。物そのものになりきれば、例えば剣道の稽古にしても、打ち込むこと・防ぐこと・そのときそのときの工夫・研究に一心になって、目の前の勝負ということを超越するようになる。その現在になるから、稽古は稽古・勝負は勝負・真剣は真剣という風に、その時々の一心不乱の全力になる。(森田全集 第5巻 616ページ)森田理論を学習した人は、「物そのものになりきる」という言葉の意味はよくお分かりだろうと思います。問題は生活の中で応用できないということかと思われます。どうしても今一歩一心不乱な状態になれない。集中できない。時間を忘れるくらいのめりこむというよりも、早く処理して自分の手元から離したいという気持ちになってしまう。その根底には、心身ともに楽になりたい。エネルギーの無駄使いは抑えたいという気持ちがあるのかもしれません。森田先生の言葉でいえば、功利主義になり、近ごすくなってしまう。どうすれば「物そのものになりきる」ことができるのか考えてみたいと思います。1、先入観や思い込み、つまり「かくあるべし」で物事を判断する態度が強すぎると、「物そのものになりきる」ことから遠ざかっていきます。「物そのものになりきる」ためには、事実に寄り添う姿勢が強く求められます。事実を客観的に正確・詳細に把握しようという態度が求められます。事実の把握が抽象的であいまいなままですと、感情の発生が起きません。感情が動き始めないと、「物そのものになりきる」という方向には向かいにくいと思います。事実を両面観で正しく知りたいという気持ちが大切になります。2、森田理論で「物そのものになりきる」という言葉を学習しますと、物そのものにならなければ神経症の克服はできないのだと考える人が出てきます。これも「かくあるべし」の一種です。思想の矛盾に陥ります。頭で考えたことと実際の出来事が一致しなくなるのです。この方向は、「物そのものになりきる」方向を目指しているように見えますが、実際には真逆の方向に向かってしまいます。神経症の発症の原因を作り出しているのです。3、生活のための仕事、勉強のための勉強、他人から指示、命令、強制されたことなどは、自発的、自然発生的な行動ではありません。最初から「物そのものになりきれ」と叱咤激励しても無理があります。森田先生に言わせれば、お使い根性の取り組みでは、永遠に「物そのものになりきる」事はできないと言われそうです。でもそれが事実です。4、それらを踏まえてどういう態度で生活していくと「物そのものになりきる」事ができるのか。それは取り組んでいることの中に、問題点、違和感、疑問、改善点、改良点、課題などを見つけ出すことです。最初は小さな気づきから始まります。森田でいう純な心です。それを見逃さないで、宝物のように取り扱うことが大切です。メモなどしてきちんとキャッチすることが肝心です。そうしないとすぐにその宝物は忘却の彼方に消え去っていく運命にあるのです。これが「物そのものになりきる」ことができるかどうかの分岐点になります。5、小さな気づき、第一の感情を受け止めると、興味や関心が湧き上がってきます。弾みがついてくると、発見、工夫、研究、アイデア、課題、目標、夢、希望へと膨らんでいきます。その時には自分でも気がつかないうちに、「物そのものになりきっていた」状態になっているのです。一心不乱になるという状況を作り出しているのです。6、森田は不安、恐怖、違和感、不快感などの感情を速やかに流すという理論です。そのための手段として、「物そのものになりきる」という態度が大いに役立つものなのです。
2020.11.29
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五木寛之氏が次のように語っておられます。僕はいつも考えていたのが、何で自分が敗戦のときに、かつての大日本帝国である植民地に、その植民地の支配国の少年として生まれたかということです。あのとき、もし自分が朝鮮人として生まれていたならば、8月15日は祖国が復活した喜びの日である。日本人だから、あそこでは自分の祖国が崩壊した、悲惨な生活の始まりだったわけです。自分は子供だったから別に植民地にしようと思って朝鮮にいたわけでもないし、朝鮮人を蔑視していたわけでもないんだけれど、でも自分は日本人であったという烙印が背中に押されている。植民地支配の子弟であった。だから、さまざまなかたちでの迫害とか、戦後の苦しみを得るのは当然のことなんだ。でも、「俺は別にそういう気持ちはなかったよ、俺は子供だったから責任はなかったよ」と言えないのが、宿業なんです。植民地支配者の子弟、その一族の烙印を背中にポンと押されている。それは否定できないですよ。(親鸞と道元 五木寛之、立松和平 297ページより引用)自分の力ではどうすることもできないことは確かに存在しています。男に生まれたかったのに、女として生まれてきた。白人に生まれたかったのに、黒人として生まれてきた。平和な時代に生まれてきたかったのに、太平洋戦争の最中に青春時代を過ごす羽目になった。先進国に生まれてきたかったのに、その日の食べるものにもありつけない貧しい国に生まれてきた。五木寛之氏はこれらを宿業と呼んでいる。過酷な宿業を背負って生まれてくると、差別や偏見にさらされます。地位や財産を没収され、命が危険にさらされます。実際にその宿業の下で虫けらのような悲惨な死を遂げる人も後を絶ちません。この人たちは失意のうちにこの世を去るために生まれてきたのでしょうか。仕方のない事なのでしょうか。森田先生の立場は、そういう境遇を素直に受け入れなさいということです。自然に服従し、境遇に柔順なれということです。つまり理不尽で、自分の気持ちや考え方と真っ向から対立している現実を素直に受け入れましょうという考え方です。現実否定、現状否定、事実否定という考え方はとっていません。そういう事実に寄り添いましょう。事実に対する洞察力を高めていきましょう。事実に対する自覚を深めて、事実唯真の立場を確立していきましょうという考え方です。そしてそこに自分の居場所を確立していきましょうという考え方です。森田先生の考え方にはもう一つ大切な考え方があります。自分の立ち位置が自覚できたならば、そこから運命を切り開いていくという考え方です。人それぞれ時代背景や境遇、環境、置かれた立場が違います。ですから、人それぞれに取り組むべき課題は異なります。その課題がやりがいがあるとか小さすぎるとかは関係がありません。自分に与えられた課題に真剣に取り組むということが肝心です。宿業振り回されて犬死するような人生であってはならない。宿業を素直に受け入れて、自分の立ち位置を明確にして、少しでも運命を切り開いていくという方向に向かっているかどうかが問題になってくるのです。
2020.11.28
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今はコロナで自粛しているが、私はカラオケの好きな人に誘われて1ヶ月に1回から2回はカラオケに出かけている。カラオケはウィークデイと土曜日曜祝日とでは料金が違う。安く上げようと思えばウィークデイをお勧めしたい。私たちはjoysoundという機種を指定している。このカラオケには採点機能がついている。自分の歌唱を5つの視点から100点満点で採点している。私は全国採点というのは、全国の歌の上手な人と順位を比較するので嫌いなのだが、この採点方法は気に入った。こういう機能があるのを初めて知った。音程40点満点、安定感30点満点、抑揚15点満点、ロングトーン10点満点、テクニック5点満点で採点している。音程については楽譜に似たようなものが表示されている。それに沿って歌っているかどうかがすぐに分かる。基準から外れていると赤丸で表示される。テクニックは、こぶし、しゃくり、ビブラートの数で判定されている。安定感というのは30点満点で採点されている。はっきりとわからないが、息継ぎ、テンポ、リズムの取り方が関係しているのかも知れない。抑揚、ロングトーン、テクニックは人によってそんなに差は出ない。高得点をただ出す人は、音程と安定感の点数がよい。音程が36点以上、安定感が25点以上になれば、88点から90点以上になる。私のカラオケ仲間は音程が抜群である。赤マークの注意喚起の表示はほとんどでない。ほぼ正確な音程で歌っている。点数としては常に35点以上出す。安定感というのは25点から26点くらいだ。その人は足や手で4拍子のリズムを無意識のうちに刻んでいる。それでも87点から90点ぐらいをコンスタントに出す。全国の平均点を常に上回っている。綜合評価のコメントも、音程感はプロ並みのレベルに達していますというのが多い。私の場合は、総合評価として「音程にぶれがあります」というのがよく出る。「息継ぎの位置を確認しましょう」というのも出る。基準の音程を外れて、赤丸の注意信号がいくつも出る。点数でいえば、32点から35点ぐらいだ。安定感はほぼ22点ぐらいだ。夢追い酒、あやめ雨情、千代田の女はいずれも87点で、自分としては最高だった。しかし全国平均が89点とか90点超えなのでがっかりだ。この点について、仲間の助言を求めた。音程は確かに先天的なものがあるという。しかしそれ以上に大切なことがあるという。その人は歌手の歌唱を毎日何回も聞いているということだった。紙に歌詞を書いて音程や音の伸ばし方、ブレスの位置を確認しているというのだ。その積み重ねを怠らないようにしている。もともと歌がうまいというより、カラオケが好きなので、研究を欠かさないのだという。自己満足的な歌い方は、ナビでいえば道なき道を走行しているようなものだという。早速歌唱指導をしてもらった。すると歌手が音程を下げているところを、あなたの場合は逆に上げているという。それが何か所もある。これをすると音程にすぐに赤丸が付く。聞いていると違和感があり、不快になるという。その場所を具体的に教えてくれた。十分に納得できた。それと、腹式呼吸をしていないということだった。口先だけで歌っているので、音程が安定しないのだという。また歌うというのは鼻先や頭の先から声をだすというイメージが大切だという。これは絶対に身に着けないといけないそうだ。また、あなたの場合はどちらかというと悪声になる。でも悪声はそれなりに深い味わいがあるので、治さなくてもよいという。むしろそれを伸ばした方がよいという。武道や能などで、「守離破」という言葉がある。あなたの場合は、「守」を徹底する段階だという。それを無視している。楽譜を取り寄せて、歌手の歌唱をそっくりまねるという段階をおろそかにしてはならないという。そういえば私は歌詞を覚えてしまうと、物まねに力を入れるよりも、すぐに自分流に歌う癖がある。その方が勝手気ままで開放感があり、気持ちがよいからだ。そのような方法で、高得点を出そうとすること自体が認識の間違いだということだった。いくつも改善点があるので頭が混乱しそうだ。とりあえず、音程を合わせることとリズムをとりながら歌うことを身に着けたい。それも2曲から3曲に絞って取り組みたい。音痴の私がいつの日かカラオケ仲間をびっくりさせてやりたいという目標ができた。
2020.11.27
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孔子の言葉だそうだ。偉い人は人の意見を尊重して、いたずらにこれを排斥せず、しかも自分の意見は持っている。下等の人は、人が何か言えばただちにそうかと思いながらも一度は争ってみる。偉い人は衆議に服従するけれども、自分の見識は動かない。下等の人は自分の見識はなくて、いたずらに屁理屈をいって、自己の存在を目立たせようとする。(森田全集第5巻 白揚社 412ページから413ページ)耳の痛い言葉である。自分にもそういう傾向があるからだ。誰かが何か言うと、すぐに上げ足をとって、非難的で反対意見を述べる。その人たちは「そうはおっしゃいますが・・・」というのが口癖である。普段から憎々しく思っている人に対しては、相手の話を聞こうという気持ちが最初からないのである。そういう人の反対する理由を聞いてみると、ただ反対のための意見を述べているのに過ぎないので話の中身が薄い。話を聞いてみるとすぐに正体が分かる。森田理論を深めている人は、とにかく相手の意見や考え方に耳を傾ける。最初から反対のための反対意見を述べることは皆無である。目には目を、歯には歯をというような対立関係にはなりにくい。そして評価できる点はないか、貴重なアドバイスが含まれていないかという気持ちで対応する。片寄った先入観や悪いと決めつけるようなことがない。そして、特徴的なことは、元々自分の意見や考え方は、しっかりと持っている。普段から疑問に思ったことは徹底的に分析して、それなりの考え方を確立しているのだ。その立場と相手の考え方の違いはどこにあるのか、しっかり把握しようとする。立場の違いがはっきりすれば、その溝を埋めるべく話し合いをしていく。自分の考え方よりは、相手の主張が理にかなっていると思えば、自分の考え方はあっさりと取り下げる。自分の考え方のほうが、理にかなっていると思えば、相手が納得してくれるまでとことん説明する。違いを乗り越えて妥協する。調和を目指す気持ちが強いのだ。そう気持ちがあれば、たとえ相手から反対意見を述べられても、感謝こそすれ、腹立たしくはならないと思う。周りの人とともに、より良い方向性を目指していくという立場に立っている。こういう立場は、相手の存在、人間性を最大限に尊重しているので、友好的な人間関係に発展していく。自分の周りに自然発生的に人の輪ができるのである。楽しく生活できる。反対に、相手の存在を軽々しく扱い、人間を人間とも思わないような態度をとる人は、孤独な人生を歩んでいくことになる。他人と対立関係の態度をとり続けている人は、そういうオーラをプンプンと周りにまき散らしているのですぐに分かる。笑顔がない。険しい顔つきをしている。いつも難しい事を考えているようではあるが、中身は貧弱だ。自己防衛に躍起になっている。その態度がオドオドして自信のなさを醸し出している。言葉遣いが、ぞんざいである。けんか腰である。懸命に孤軍奮闘しているが、第三者から見ると、その姿は痛々しく見える。それは反対することでかろうじて自己存在理由を探し出そうとしているからである。そういう人には近づかないほうがよい。危害を加えられないように遠巻きに構えて見守る事が鉄則である。これは森田理論の不即不離の考え方の応用である。君子という人は、「かくあるべし」を他人押し付けることの弊害についてよく分かっている人だと思う。相手の意見や考え方、存在、性格、能力、職業、境遇などをあるがままに認めて、受け入れることができる人であると思う。そして大きな包容力で、相手を許すこともできる。森田理論を哲学にまで高めて、日常生活の中で縦横無尽に活用している人だと思う。自分は小人だと思う人は、森田理論を深耕することで、多少なりとも君子への道が開けてくるはずだ。
2020.11.26
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第52回の形外会で井上さんが次のように発言されている。みんなの前で森田先生から、井上君は読書恐怖が治ったといわれると、自分は治ったような気がしないが、治ったふりをしていたら、いつの間にか治ってしまった。次に根岸さんも同じことを言っている。退院後に治ったと思ったが、そのうちにまた治らない。しかし森田先生が、治ったというから、仕方なしにその通りにしていたら治ってしまった。この二つの話から分かることは、第三者から見て神経症が治ったと見立てているのに、主観的には治っているような気がしないのが普通であるということです。特に強迫神経症の場合、不安にとらわれやすいという気質は変わらない。実践・行動すればするほど、不安はどんどん発生してくるので、とても治ったと宣言できない。不安に振り回されないで、目の前のなすべきことに取り組みたいという気持ちが強いので、どうもすっきりと治ったと宣言できないのでしょう。森田先生は、なんでもその人の働きが事実においても、偉くなったのが治ったのです。細かい気持ちの事を、とやかく言うのではない、といわれています。このことを分かりやすく言うと次のようになると思います。1、不安を抱えながらも、目の前のなすべき課題に取り組む習慣が身についている。2、「かくあるべし」で物事を判断する態度が後退して、常に事実に寄り添い、そこを基点にして生活する態度が身についている。こういう段階に到達すると、不安、恐怖、違和感、不快感などは問題にならなくなるのです。それ等に関わるよりも、日常茶飯事、仕事、勉強、家事、育児、課題、問題点、趣味、夢、目標などの事を問題にすることが多くなるのです。生活に即した考え方をするようになるのです。時々不安に押しつぶされるようなことがあっても、この段階に到達していれば、神経症を克服したと宣言してもよいのです。森田先生はこの段階は、小学校、中学校卒業程度にあたるといわれています。それで十分なのですが、神経質性格者は生の欲望が強いので、その上の高校、専門学校、大学、大学院を目指していただきたいといわれています。これを私なりにまとめてみました。3、事実に対しては是非善悪の価値判断をすることをやめて、自然を素直に受け入れて、自然と同化する生き方を目指す。4、自分のつかみ取った森田理論の内容を、まだ森田理論を知らない神経質性格者に伝承していくこと。5、人間社会は昔から欲望が暴走して、幾多の惨禍を繰り返してきた。これは人間の欲望が暴走してきた結果である。森田理論は生の欲望の追及は必要ではあるが、同時に抑止力も必要であると指摘している。つまり欲望の暴走は抑止力を働かせて調和・バランスをとる必要があると教えてくれている。この考え方を、人間社会の財産として、世界に向かって発信していくこと。私は、1、2で救われたので。次に3、4、5の方向を目指していきたいと考えています。
2020.11.25
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今日は雑念恐怖について考えてみたいと思います。誰でも、読書や勉強をしている時、それに集中して、能率を上げて、早く理解したい、早く覚えてしまいたいと考えます。効率を上げて無駄なことを排除したいのです。ところが、ふとさまざまな雑念が割り込んできます。これを黙認していると、効率が悪くなり、本来の目的の達成が遅れてしまう。だから雑念が湧き上がってこないように対策を立てて実行しなければならないと考える。雑念恐怖の人はそのことにとらわれて、何とか雑念を無くそうと格闘し始めるのです。これに対して、森田理論では、放ったらかしにすればよいという。雑念が起これば、そのままに肯定して対立させておくとよいという。しかしそう言い聞かせても、無視することは難しい。放ったらかしにしようと考えることは、注意と意識をそこに固定することになるので、益々雑念にとらわれてしまうということになるからです。私はチンドン屋に入り老人ホームなどで慰問活動を行っている。パートはアルトサックスの演奏です。演奏前に、もし運指を間違えて演奏が台無しになったらどうしようという不安が出てきます。特に曲の最初をソロで演奏するときに不安が高まります。リーダーが曲目の紹介などをしている時に最高潮に達します。その時は、不安に感じている部分の運指を何度も繰り返して練習して安心感を得ようとします。そうすれば練習の時のように自信をもって演奏に入れると思うのです。ところが悲しいかな、指の動きが金縛りにあったような状態になり、不安が的中して運指を間違えて恥をかいてしまうのです。グループのメンバーにも迷惑をかけてしまいます。この精神的なからくりは、雑念恐怖と同じです。何とか不安を取り除きたいと考えて、悪戦苦闘することが、ますます注意と意識をそこに集中させて、心身を硬直させて固まってしまうのです。最初は何とか対策を立てて、無難に乗り越えようとしているのです。しかし恐怖が限界を超えてしまうと、闘う意欲がなくなり、投げやりになってしまうのです。この二つのエピソードで分かることは、気になる不安や恐怖に意識を集中させていることです。ですから解決法としては、意識の集中をやめて分散させることです。欲望や不安に意識を集中させないためにはどうするか。まず欲望です。読書や勉強を効率的に行いたいという欲望が過剰になっています。つまり完全主義、完璧主義、理想主義、コントロール至上主義に陥っています。これを弱めてやることです。60%できれば十分合格点を与えてもよいと考えることです。大相撲の世界では、8勝7敗(54%)の勝率で番付が落ちることはない。場合によっては、番付が上がることもある。失敗しても命を落とすこともない。人間性を否定されることもない。生活信条としては、「ほどほど道」を目指すということです。それから欲望は一つだけではありません。生活していると、次から次へと欲望が生まれてきます。その欲望の波に乗っていくというイメージを描くことが有効です。他の欲望の追及が蚊帳の外になったとき、葛藤や苦悩が生まれてくるのです。次に不安です。不安の数を増やしてやるということです。例えば運指を間違えてはいけないという不安ばかりではなく、その他の不安に思っていることにも心を配っていくということです。例えば、顔の表情は硬くなっていないか。衣装の乱れはないか。他の人との音合わせは終わっているか。楽譜の準備は完全にできているか。風で飛ばされるようなことはないか。リードの取り付けは、きちんと装着できているか。楽器の調子は万全か。各種のネジはきちんと止めてあるか。柔軟体操は終わっているか。腹式呼吸の練習は終わったか。忘れ物がないかチェックリストで確認したか。次の曲目の把握はできているか。他のメンバーの動向は把握しているか。舞台に立った時の並びはどうするか。マイクの設置に問題はないか。音は出るようになっているか。動作のチェックは行ったか。そしてこれらをルーティンとして淡々とこなしているという状況を作り上げているか。考えてみれば打席に立つイチロー選手やフィギュアスケートの羽生結弦選手もルーティンを大切にしています。行動に専念している時は、不安そのものとかかわりあっていないという事実を参考にしたいと思います。
2020.11.24
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今日は女優の芦田愛菜さんの「信じること」についてのコメントを考えてみたいと思います。これはSNSで発信されていました。ちなみに芦田愛菜さんは、現在16歳だという。次のようなコメントをすること自体、大変な驚きであった。1、「(私は)その人を信じようと思います」2、「(信じることでよくありがちなことは)その人自身を信じているのではなく、自分が理想とする人物像に期待してしまっている」3、「(相手から)裏切られたとか期待していたとか言うけれど、その人が裏切ったわけではなく、その人の見えなかった部分が見えただけであって、見えなかった部分が見えたときに、それもその人なんだと受け止められる。揺るがない自分がいることが信じられることと思いました」4、「揺るがない自分の軸を持つことは難しいからこそ、人は「信じる」と口にして、不安な自分がいるからこそ、成功した自分や理想の人物像にすがりたいんじゃないかなと思いました」この考え方を材料として、森田理論をさらに深めていきたい。1番目では、最初から相手を非難、否定しないで、まず相手の理不尽な言動であっても、その事実を受け入れたいといわれている。森田理論では、「かくあるべし」を相手に押し付けることを封印して、とりあえず事実、現実、現状を素直に受け入れるという考え方です。2、相手を自分の持っている物差しで、安易な是非善悪の価値判断はしませんといわれている。普通は、相手が自分の持っている期待や理想からかけ離れていると、我慢できなくなってつい批判、否定してしまう。これは方向性が間違っていませんかといわれている。肯定、激励、評価、称賛することに重きを置かないのはどうしてなのか。そうすることで人間関係はうまくいくのに、実践・実行しない人が多い。自業自得に陥っている。3、相手の態度、性格、容姿、能力、言動などを、価値批判しないでそのまま認めていくことが大切だといわれている。そうした一貫した態度を持ち続けることが、自分を信じる事だといわれています。それが揺ぎない自分を作り上げることだといわれている。芯ができると、自信を持って生きていくことができます。そして「かくあるべし」に重きを置いた生活態度を、事実に重きを置いた生活に変えていきたいと高らかに宣言されています。4、そうはいっても、人間はどうしても、観念中心になりやすい。完全主義、完璧主義、理想主義、目標達成主義、コントロール欲求に流されてしまう。これは人間のサガのようなものです。でも、いつまでもそこに固執する態度は如何なものか。たしかに「かくあるべし」人間から、事実本位の人間に転換することは大変むずかしい。しかしそこを目指していかないと、「揺るがない自分の軸」はいつまで経っても確立することはできない。葛藤や苦悩から解き放されて、精神的に安定的で豊かな人生観を確立するためには、事実本位にこだわる姿勢を保ち続けることが一番であると思う。これは生涯森田で、森田理論にかかわりあうことで、徐々に近づいていけます。
2020.11.23
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森田の自助組織に参加している人は多いと思います。私は生活の発見会の集談会に参加して34年になります。自分の人生の半分は森田の自助組織とかかわってきたのです。参加してきたことで、自分の人生をより味わい深いものにしてきたのです。長い経験の中から、集談会の開催日が待ち遠しいという状態にするにはどうしたらよいか考えてみました。一言でいうと、集談会が役に立っている。自分が楽しんでいるという実感が持てるかどうかだと思います。アットホームで、居心地がよい会だと実感できればよいと思います。毎回毎回そのように感じることはありませんが、1年単位で振り返ってみたときにそのように感じられれば良いのだと思います。そのためには、いつまでも受け身で参加するのではなく、主体的にかかわることが大切になります。これは最初から難しいと思われがちですが、参加しながらなにか役に立つことはないかと思っている人はいくらでも思いつきます。特に人より30分早く来ることを実行している人は、手伝うことがすぐに見つかります。その次には、簡単な世話係を引き受けることです。世話役というのはあるのではなく自ら作り出すものだと思います。参加者全員が何らかの役割を分担していることが理想です。会場予約係、会場づくり、花を飾る、名簿係、案内版を作る、図書係、お菓子係、お茶係、受付係、初心者対応係、連絡係、進行係、会計係、報告係、運営係などいくらでもあります。これをしないと、人間というのは、楽をしたい、億劫なことはしたくないという気分に流されてしまいます。世話係というのは、気分本位に陥らないための抑止力となっているのです。気分本位はよほどの強制力で制御しないと、すぐに流されてしまいます。人間の弱いところだと思います。気分本位に流されると後で必ず後悔します。次に集談会に参加する前の準備に時間をかけることが大事です。発言内容を準備しないで、着の身着のままで参加していては、得るものはほとんどないと言っても過言ではありません。自己紹介と体験交流は、集談会の定番のプログラムです。この二つに照準を合わせて事前準備をすればするほど、参加する意義が高まります。まずは自己紹介で話す内容です。初心者が一人でも来られたら、自分の苦しかった時の状況を話します。これは、紙に書いて整理しておくことが有効です。初心者がいないときは、自己紹介の内容はがらりと変わります。・日記を見て、ここ1か月間にあった出来事を整理する。嬉しかったこと、辛かったこと、失敗したこと、感動したことなどです。・親との関係、夫婦の関係、子どもとの関係、ペットとの関係、親戚関係、仕事関係、近隣関係、症状、病気、健康など。・皆さんにお伝えしたいお得な情報、旅行、趣味、映画、コンサートなど。・最近読んだ発見誌の記事で印象に残ったこと。・日常生活の中での森田の活用・発見事項・実践課題の進捗状況など。・その他これらの中から1つか2つを選択して、分かりやすく紹介できるように吟味する。その際、長くても5分以内に話し終えるように気を付ける。次に体験交流で話す内容を検討しておく。・今現在悩んでいること。症状のこと。・生活面で困っていること・森田関連のことで疑問に思っていること・森田学習や実践の中で気が付いたこと・森田関係で感動したこと・その他一人当たり10分ぐらいの時間はあると思いますので、一つの話題に絞って準備をしていくことです。ちなみに私は集談会の当日1時間ほど時間をとって、自己紹介と体験交流で話す内容について検討しています。検討すればするほど、発言したくなってうずうずしてきます。この3つを心掛けて参加していると、参加することの意義が実感できます。楽しみながら暖かい人間関係をはぐくみ、神経質者としての人生観を獲得できるとしたら本望ではありませんか。
2020.11.22
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10月号の生活の発見誌に人間同士の付き合いについて次のように提案されていました。家族懇談会、親戚づきあい・兄弟姉妹でのカラオケ・同窓会・PTA・町内会・趣味のサークル・防犯防災の会、他のNPO法人といった発見会以外の身近で普通の社会活動をバランスよくやってみることもお勧めします。ごく少数の特定の人と親密な関係になるのではなく、その時その場の必要に応じて、引っ付いたり離れたりの人間関係を目指す方がよいといわれているのだろうと思います。森田でいうと、変化に対して臨機応変に対応できる不即不離の人間関係を目指すということになります。これは年賀状をどういう人たちに何枚出しているかでだいたい分かります。集談会の仲間、仕事関係、以前の職場の仲間、親戚関係、様々な趣味の仲間、子どもの関係で知り合った人、資格試験の仲間、スポーツや釣りの仲間、麻雀仲間、飲み友達、カラオケ仲間、株式研究会の仲間、同級生、町内会、田舎で近所付き合いをしている人たちなど。年賀状を出す時期になると、それぞれに思い出がよみがえります。遠くに住んでいて義理で出しているような人でも、近くに旅行するようなときに、連絡を取り合って会うことができると至福の時間を過ごすことができます。私はこの考え方でやっています。以前はコップ一杯の人間関係を5つぐらい作ろうと思ってやっていました。この方法はうまくいきませんでした。自分は親友だと思って深入りしても、相手にとっては煩わしく思っている場合もありました。またいくら親しくしていても、何かをきっかけにして、溝ができてそれが大きく広がっていくこともありました。この方法では、最後は孤立してしまう事になるのです。特定の人と一心同体になるような親密な人間関係作りは要注意だと思います。コップに少ししか飲み物が入っていない薄い人間関係は精神的に楽です。そういう人間関係を広く浅く作ることが森田の目指しているところです。友達の友達はまた友達という事になります。そういう関係にあると、自分が困っている時に、助けになる適切な人が頭に浮かんでくるようになります。人間関係は憎みあったり、対立関係になるケースは必ずでてきます。そういう時は、今は縁のないときだと判断して、基本的には距離を置き、離れてしまえばよいのです。その方が、ストレスが溜まりません。
2020.11.21
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今日は会社の中での人間関係で苦しんでいる問題について考えてみましょう。会社では上司や同僚などから、批判、否定、強制、対立、無視、リストラの危険にさらされています。ミスや失敗、会社に損害を与える、ノルマの未達、仕事の遅延、指示や命令に従わない、無気力でやる気が見られない、自分勝手で協調性がないと判断されると、容赦なく叱責、非難されます。また馬が合わなくなり、特定の人と犬猿の仲に陥る事があります。同じ事務所の中にいるのに、口をきかなくなります。挨拶もしないという人です。組織の中で周りの人から嫌われるということは、異物として組織から排除されてしまうのではないかという不安が付きまといます。そうなると社会的には死んだも同然ということになります。排除されてしまうと、収入源がなくなるわけですから、再就職先を探さなければならなくなります。こういう状況に陥る事は何としても避けたいということになります。そのために、自分の考えや言い分は抑圧して、相手の考えや言い分に同調するようにふるまうようになります。相手から「かくあるべし」を押し付けられても、言い返すことをしない。心の中では猛反発しながらも、表面的には波風を立てないで、平静を装っているのです。それが少なくとも一日の時間の三分の一以上を占めて、ストレスをため込んでいるのです。精神的疾患を発症するのは時間の問題だと思われます。この問題に対して、森田理論では人間関係は「不即不離」でいきなさいと教えてくれています。人間関係は、引っ付きすぎず、離れすぎずの距離感を維持することが大切であるという考え方です。会社では仕事の必要に応じて、必要なだけの人間関係を維持するだけで十分だということになります。親密な人間関係の構築を目指して、維持しようという考え方は間違っていますよと教えてくれているのです。薄くて幅広い人間関係を目指しているのが森田理論なのです。会社の中では極力必要以上の親密な人間関係を作ろうとしない気持ちが大切なのです。ところが神経質者は、問題のある人間関係が発生すると、それにのめりこむという習性があるのです。井の中の蛙というか、自ら対人関係での問題を作り出して、さらに増悪させているのです。それが、ちょっとした注意や叱責、非難や否定に対して、過剰反応する原因になっているのです。普通の人は嫌なことがあると、その時は落ちこみますが、すぐに水に流すことができているのです。会社勤めは生活費を得ることが第一の目標です。それが達成できていれば、人間関係に問題があっても、会社に残る事は可能です。ところが、会社での人間関係で悩んでいる人は、その目標を忘れて、人間関係を良好に保つことだけにフォーカスしているのです。本末転倒なのです。これではたとえ転職してもまた同じ問題で悩むということになります。森田理論で「不即不離」の人間関係を学び、実生活に活用している人がいます。そういう人は、会社の人間関係だけではなく、幅広い人間関係を構築しています。まずは集談会の人間関係を大切にしている。ここに参加していると、かかりつけのカウンセラーを持っているようなものです。神経症に限らず、人間関係、生活上の問題点、人生観の確立に至るまで幅広く相談することができます。その他、同級生、隣近所、地域活動、親戚、家族、趣味の会、勉強会。スポーツ仲間、学習仲間、OB会などの付き合いも大切にしています。そういう多彩な人間関係の中で生活しているのです。会社の人間関係だけにどっぷりと漬かっている人は大変危険です。その割合が現在100%に近いのでしたら、その比率をどんどん下げていくことが当面の目標になります。薄く幅広い人間関係を目指すことで。結果的に会社での人間関係も改善できるというからくりになっているのです。
2020.11.20
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会社などに就職している人から次のような悩みを訴えられることがある。1、仕事の内容が自分に合っていないような気がする。生活のためには辞めることもできない。どうしたらいいでしょうか。2、会社での人間関係で悩んでいる。お互いに利害むき出しで、非難、否定、叱責、拒否、無視、人格否定の応酬で、針の筵に座っているような気持になる。生きている心地がしません。どのように対応すればよいのでしょうか。この二つの問題が解決すれば、会社勤めはずいぶん楽になると思います。今日はこの問題について考えてみたいと思います。せっかく森田理論を学んだのですから、それを活用して解決していけばよいのではないでしょうか。まず、第一の質問からです。会社に就職するということは、基本的に自分の労力を提供して、会社が儲けるために行動することが求められます。その対価として、生活費を得ることができます。つまり仕事というのは、自分がやりたいと思っていることではないのです。会社が従業員や生産手段を使ってたくさんの利潤を上げたいと思っていることなのです。多くの人にとっては、仕事内容は自分の意思とは乖離しています。そのままでは、意欲的に取り組むことはあり得ないと思われます。強制、命令、指示、叱責などによって、自分の行動を制御されているのが本来の仕事だと思います。本来会社での仕事は面白くないものなのです。この点はしっかりと押さえておきましょう。そういう仕事の本質を無視して、仕事に対して生きがいを持ちたいと言っているようなものです。この相談は出発点からして矛盾を孕んでいると思います。この問題について、森田理論では次のように考えます。仕事自体は、もともと他から強制される行動を強いられるということです。それは、運命、宿命、境遇のようなものです。どうすることもできないものです。でもその枠の中でも仕事を楽しむことはできます。やりがいにまで高めることもできます。それは、仕事の中に問題点、改善点、改良点などを発見することです。興味や関心を高めることです。課題や目標を見つけることです。そのためには、よく観察して見つめるということが必要になります。また最初はイヤイヤ取り掛かった事であっても、一旦はものそのものになって行動することが大切です。そうなれば、あれ程嫌っていた仕事に意欲的になります。実は自分の天職であったと感じるようになるのです。長い間仕事を続けている人は、そういう体験を思い出すことができるのではないでしょうか。特に就職したての頃は、必死になって仕事を覚えようと頑張っていたと思います。ただしこれは一過性のものであって、当面の問題が片付くと元の木阿弥に戻ってしまったというのが、実際のところではないでしょうか。そのような時に、今の仕事は自分のやりたいこととは違う。自分にあっていないという考えが湧き上がってくるのではないでしょうか。ですから仕事に取り組むときは、問題点、改善点、改良点、課題、次の目標を絶えず探しまわる態度を維持して、実際にそういうものが現実に存在しているかどうかが問われてくるのです。そういう人は仕事を自分のものとして引き付けているということになります。そういう姿勢で仕事に向き合っているのかどうかが、厳しく問われているのだと思います。仕事に対して一心不乱に取り組んでいる人は、この仕事が自分に合っているかなどと言う質問はしないはずです。ただ気が付いたら、仕事によって人生が味わい深いものに変化していたと思えるようになるのです。第2の問題は、明日の投稿といたします。
2020.11.19
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森田理論では、目の前に存在する物や目の前の出来事を、先入観や決めつけをしないで「じっと見つめなさい」と言われます。見つめていると、普通は感情が動き出すのです。今までの感情の上に、さらに新しい感情が自然に湧き上がってくるのです。森田理論では、以前の感情が新しい感情にとって代わることを好ましい事だと考えています。山の谷あいを勢いよく流れる小川のようなイメージです。神経症というのは、不安な感情を流さないように、意識と注意というエネルギーを集中投下している状態です。どうしてその不安にかかわり続けるのか。その不安を解消しないと、いつまでも気になってイライラしてしまう。精神錯乱状態になることを恐れています。またこのままでは自分の将来の足元を掬われてしまう。自分の身の破滅を招いてしまうと考えてしまうのです。神経症的な不安が頭の中を占領してしまうと、生活が回っていかなくなります。これは認識の誤りです。森田理論によって不安の取り扱い方を学習する必要があります。この点に関して、疑問が寄せられました。以前の感情が新しい感情にとって代わるということは、古い感情はなくなってしまうのではないか。これは問題だというわけです。例えば、得意先から席空きの担当営業マンに折り返し電話をしてもらうように依頼を受けたとします。それを他の事に注意を向けていたために、すっかり忘れてしまうことがあります。こういうことは困りますね。これに似たことはたくさんあります。こうした気づきは宝物として大切に取り扱うことが必要になります。次々と湧きあがってくる気づきは、きちんとメモなどをしてキャッチしておかないと忘却の彼方に飛び去ってしまうことを忘れてはなりません。億劫でも面倒でもあっても紙に書いておくことが、神経質性格を活かすことにつながります。ここで言っているのは、どうすることもできない神経症的な不安は、どんどんと流してしまいましょうということなのです。次に、自分は気が付かなかったことを、人が気が付いて指摘してくれることがあります。そしてすぐに対応を迫られることがあります。例えば、私はマンションの管理人をしています。居住者の人が、エントランスホールのシャンデリアに、やぶ蚊のような虫の死骸が溜まっていると指摘されました。管理人としてこんなことにも気が付かないのか。仕事に身が入っていないのではないか。すぐに掃除するようにと叱責されました。自分が気が付くべきところなのに、全く気が付かず人から指摘されるということは、どういうことなのか。神経質なのではなく、鈍感そのものなのではないか。自己嫌悪してしまいました。こういう例もたくさんあります。これをいちいち取り上げて自分を否定するのは問題だと思います。こういう場合は、ありがたくその気づきをいただくことです。自分の気づきとして取り扱うことです。自分の気づかなかったことを教えてくれてありがとう。注意、忠告、叱責に対して、決して八つ当たりしてはいけません。肝心なことは、その気づきを得て、どう対応したかということです。素直に対応すれば、その過程でまた新たな気づきや発見をする契機となるのです。弾みがついて感情や動き出すということです。この路線に載せるということが森田理論の要なのです。自分自身の気づきだけではなく、他人から気づきを教えてもらうことによって、感情が流れて生活が前進していくことが肝心なのです。
2020.11.18
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今日は計画有休取得でお休みでした。天気が良いので、広島県三原市の佛通寺の紅葉を見に行きました。関東や京都の紅葉にはかないませんが、かなり見応えがありました。紅葉はちょうどよい時期に訪れるのが大切ですね。谷あいを勢いよく水が流れていました。青森県の奥入瀬渓流を思い出しました。
2020.11.17
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楽しみが一つもない人生は味気ない。だから誰でも楽しい事や快感を求めて活動している。集談会の近況報告を聞いていると、活動の内容が基本的に二つに分かれているように感じる。一つは、自分を受け身の立場に身を置いて、外から与えられる楽しさが伴う刺激を追い求めることで、豊かで楽しい人生にしていこうという人である。追い求めているということは、積極的で意欲的である。具体的には、Go―Toキャンペンなどを積極的に活用している。割引制度を利用して観光地、温泉旅行、グルメ三昧などを楽しんでいる。ホテルなどは普段は宿泊できないような高価な部屋を予約している。その他、日ごろからアンテナを張って、バスツアー、海外旅行、スポーツ観戦、演劇鑑賞、映画鑑賞などを楽しまれている。ギャンブルに手を出す人もいる。市内でミシュランガイドに登録されているような料理店に予約を入れている。料理を自ら作るという気持ちは希薄で、有名なお店やお惣菜情報にたけている。乗用車などに凝って高級車を乗り回している人もいる。家なども、親の援助を得て高級タワーマンションなどに住んでいる人もいる。大型テレビは8K、4Kである。スマホは2年ごとに最新機種にしている。家の中は、高級な服や靴、お宝で足の踏み場がないほど、埋め尽くされている。こういう人の特徴は、多額のお金がかかる。移動することで手にできるものが多い。一つ一つの楽しみが短命である。線香花火のようでぱっと一瞬華やかであるが、すぐに暗闇に戻る。一つの楽しみと次の楽しみの間に隙間時間が生まれる。この時間帯が長くなると、イライラやモヤモヤの原因となる。こうした人生の豊かさ、楽しみを追い求める人とは一線を画している人がいる。一般的には少数派ですが、何とも言えないいい味を出しておられる。そういう人の特徴を整理してみました。自分の日常生活の中でささやかな楽しみをたくさん持っている人である。そういう人は、日々の生活の中で、小さな課題、目標、夢を持っている人である。あるいはそういうものを見つけ出そうとしている人である。自らがそれらに向かって積極的にかかわる過程そのものが、人生の醍醐味ではないかと思っているような人である。そういう人は集談会の近況報告で、生活感にあふれたこんな話をされる。ビールをおいしく飲む方法を発見しました。先日タイのあら炊きをおいしくする料理法を見つけました。自分の畑で採れた旬の材料を使った新しい料理への取り組み状況。家庭菜園の楽しみ方について。奥さんとの人間関係で心掛けていること、子どもや孫の付き合い方や成長の楽しみ。カラオケで音程をとる方法について。日ごろ心がけている身体の手入れ。運動や健康法。家の修繕。盆栽や草花の手入れ。ペットのしつけ方。近場での温泉地、観光地、図書館、公民館活動、近所の人との交流など。話ながら、地味すぎて誰も真剣に聞いてくれないなどと言われる。私は決してそうは思わない。畏敬の念が湧き上がってくる。この手の豊かさや楽しみを目指している人は、努力する過程が楽しみそのものになっているので、その快感は刺激的とは言えないが、じんわりと長く持続しているようだ。またそんなにお金はかからない。遠方まで移動する必要はないようだ。移動してまで、楽しみを追い求めなくても、そこら中に人生の楽しみのかけらはいくらでも転がっていると思っている節がある。私はこの二つの豊かさ、楽しみの見つけ方は、両方とも必要だと思う。ただそのバランスを心掛けることを提案したい。基本は2つ目にある。日常生活に丁寧に取り組むことで、小さな楽しみをたくさん見つけ出す。そして1年に数回は、一つ目の楽しみを組み込んでいくやり方である。これが人生に変化とアクセント、刺激を与えます。ただし、一つ目の楽しみの追及に偏るのは問題だと思う。人生を豊かにするはずの行動が、逆に空虚でむなしい人生をおびき寄せてしまうような気がします。基本は、凡事徹底の中での楽しみを数多く見つけることの中にあるのではないでしょうか。そういう人は、地に足のついた安定感を感じます。
2020.11.17
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形外会で、森田先生が高良先生に、西郷隆盛について何か面白い話はないですかと質問されている。これに対して高良先生は次のように返答されている。誰かが城山で、隆盛に、「もう腹をお切りになってはいかがですか」といったところが、隆盛は「腹を切ると痛いぞ」と言ったそうです。(森田全集第5巻 608ページより引用)詳しいいきさつは分かりませんが、西南戦争で負けたので、自死することを進言したのかもしれません。普通の人は、そのような提案に対して、賛同するか、反対するか自分の意見を述べられると思います。そして最後まで戦うか、あきらめて自死するか自分の態度を明らかにされると思います。西郷さんはそんな事は一切言っていない。「腹を切ると痛いはずだ」という将来の事実を述べているに過ぎない。この発言を聞いただけで、普段から私たちが目指している、事実本位の生活をされていたことがよく分かります。森田先生が高く評価されている人物であることは間違いないと思う。森田先生の言葉も紹介しておこう。西郷隆盛は、平常どんな場合にも、決して言い訳という事をしなかったようです。西南戦争も、決して隆盛の意志からではない。自分の学校の生徒が、暴動を起こした事から、行きがかり上、そのようなことになったので、後にその前後策に対する幹部会でも、隆盛は自分では、意見をいわず、成り行きにまかせたような風であった。(森田全集 第5巻 595ページより引用)西郷さんは、江戸城の無血開城を勝海舟との交渉で成し遂げた立役者である。ここで幕府と薩長同盟軍が内戦状態に陥ると、開国を迫っていた欧米によって日本は植民地にされてしまうということがよく分かっていたのである。欧米各国はそれをねらって、両陣営に武器や資金を供与していたのです。西郷さんは先見の明を持っておられたのです。華々しい表舞台には登場されていないが、日本の歴史に燦然と輝いておられる方です。森田先生は、その西郷さんは、持論を展開して、先頭に立って周囲の人を鼓舞していた人ではなかったといわれているのです。会社でいえばワンマン社長ではなかった。経営戦略会議では、取締役の提案をじっと腕組みをして聞いているような人だった。持論を展開して、大きな川の流れにあえて背くことは、後に大きな禍根を生み出すことをよく知っていたと思われます。特に著明なリーダーであればあるほど、経営戦略上の持論を展開すれば、部下は有無を言わず従わざるを得なくなる。部下はそれぞれの意に反したことを強制されるケースが出てくる。そういうことはあってはならない事だという意思が強かったのだと思われます。「かくあるべし」を部下に押し付けるよりも、部下たちの意向を反映して行動を起こす方がよほど意味がある。最終的にみんなの意見がまとまると、自分としては異論があっても、みんなで決めた方向で自分が先頭に立って果敢に行動をする人だったというのです。しかしいったんみんなで決めたことは、失敗したときにはリーダーである自分が全責任は負います。責任を取って会社の経営から手を引きますという覚悟を持っていた。ですからみなさんは、心置きなく自分たちの決めた課題や目標に向かって突き進んでくださいという気持ちだったのだ。私利私欲のない素晴らしい理想的なリーダーと言えます。森田理論の考え方そのものを、リーダーとして体現された方であったと言っても過言ではありません。たとえ失敗して自分が不利な立場に陥る事が予見されても、周囲の流れに逆らうという道は選択されなかったということです。これは大きな変化のうねりの中でできることに精いっぱい取り組むという姿勢になります。こういうリーダーに巡り合えた人は、己の性を尽くすことにつながります。西郷隆盛の生涯は森田理論の立場から、再度検証してみる価値があると思われます。いずれ取り組んでみたいと思っております。
2020.11.16
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高良武久先生は「適応不安」が神経症の原因になっていると指摘されています。適応不安とは、現在の自己の心身の現象、状態をもって、自己の生存上不利であると感ずる気分、換言すれば、自己が現在の心身の状態をもってしては、環境に適応し得ないという不安の心理であると説明されています。例えば、今の状態では就職しても営業の仕事ができるはずはない。現在の自分では、学校生活で友達と仲良くやっていけるとは思えない。近い将来直下型大地震が起きたとき、生き延びることはできないのではないか。自分もガンになって死んでしまうのではないか。適応不安を感じている人は、実際に目の前に起きた事ではなく、過度な取り越し苦労をしている人です。それが最悪の場合、精神交互作用で益々悪化し、神経症として固着してしまうのです。観念の世界で最悪のケースを想像して、もし考えているようなことが現実に起きてしまったらどうしようと考えているのです。行動して、失敗をして、工夫や改善しながら目標に近づく考え方はありません。観念上の試行錯誤がすべてという考え方なのです。そういう人は、気になる一点に照準を定めて、悶々と苦しんでいます。心の奥底では、どうせ挑戦しても成果が上がるはずはないと考えています。ビクビクしながら行動して、ずっこけてしまうとやはり考えていた通りのことが起きた。自分の考えは正しかったことが証明できたと思ってしまうのです。益々観念の世界に浸るようになります。そして不安に思うこと、やっても失敗すると決めつけたことには、決して手をださない人間になってしまうのです。適応不安に陥る人は、観念中心で自己内省が強い人です。自己内省に偏り過ぎているという点で自己中心的な人です。観念の世界で考えたことで、すべてのことをコントロールしていきたい。支配していきたいという気持ちで生きている人です。そういうことが可能であるという間違った考え方で、生活しているのです。「かくあるべし」を前面に押し出して、事実、現実、現状には目が向かなります。人間は本来、注意や意識を外に向かって解放させるようにできています。その自然の流れを、意思の力で無理やり自己内省に引きずり込んでいるのです。すると自然の変化には無頓着になります。変化を観察する、察知するということはできません。そんなことは考えもしない事だったということになります。季節の変わり目、人の気持ちなどは全く分からなくなります。これでは、森田理論でいう周囲の変化に臨機応変に対応した生き方はできなくなります。適応不安に振り回されると、神経症に陥ってしまいます。適応不安に翻弄されないためには、不安が襲ってきたとき、解決可能なものと解決不可能なものを区別することが大切です。解決可能なものには、積極的に不安解消のために対策を打つことです。将来に備えて事前の準備をしておく。解決不可能なものは、事実よく観察して、事実を認める。そして事実を受け入れる。事実本位の生き方に変えていくということです。その不安を持ちこたえたまま、目の前の小さなたくさんの課題の処理に取り組んでいく。事実にこだわる割合が多くなり、観念の世界での試行錯誤が少なくなることで、適応不安は遠のいていきます。
2020.11.15
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「三業を整える」という言葉が仏教の中にあります。「三業」というのは「身業」「口業」「意業」の3つです。「身業」というのは身体を整えること。美しい立ち居振る舞いを心掛けること。健康な身体を維持するということです。「口業」というのは言葉づかいを表します。相手に対して怒りの感情をぶっつけたり、汚い言葉で罵ったりせず。いつも穏やかで思いやりのある言葉を心掛けること。この「身業」と「口業」が整って初めて「意業」すなわち心が整うことになるのです。心を整えるという言葉が流行しましたが、いきなり心を整えることはできません。心を整えるためには、まずは立ち振る舞いをただし、美しい言葉使いを心掛ける。その先にこそ「意業」がある事を忘れてはいけません。行動は多少乱暴でも、心の中は優しい。言葉づかいは荒っぽいけれども、本心ではそんなことは思っていない。周りの人たちはきっと自分の心を分かってくれている。そういう人がいます。しかしそれは違うと思います。暴飲暴食を重ねて、いつも傲慢な振る舞いをしている。怒りを前面に出し、部下を怒鳴りつけている。そういう人で心が整っている人を私は知りません。心穏やかに過ごしたいと思うのであれば、また周りの人たちからの信頼を得たいと思うなら、まずは自らの立ち振る舞いや言葉使いを見直すことです。(限りなくシンプルに、豊かに暮らす 枡野俊明 PHP研究所 168ページより引用)この話は、神経症の克服にも役立つと思います。神経症に陥っている人は、心が不安でいっぱいになり、居ても立っても居られない状態になっています。絶えず心がかき乱されているわけです。普通は、すぐにでもその不安を軽減、あるいは除去しようとする。薬物療法などがそうです。カウンセリング、様々な精神療法などもあります。しかし、これらの対症療法で、すぐに不安がなくなるかといえば大変難しい。多少の効果があっても、すぐにまたぶり返す。さらに新たな不安が出てくる。不安による生きづらさはほとんどなくならない。ここで枡野さんの話が参考になります。枡野さんは、「身業」と「口業」が整って、初めて「意業」すなわち心が整うことになるといわれています。これを森田理論で言い換えれば次のようになろうかと思います。不安に振り回される生活をなくするためには、まず規則正しい生活をする。衣食住を自ら整える。つまり日常茶飯事に丁寧に取り組む。運動を心掛けて、身体を鍛える。つぎに「かくあるべし」を自分にも相手にも押し付けるようなことをしないで、事実本位に生きていく。どんなに理不尽な出来事であっても、できる限りの対策をとったのちは、自然の流れに身をゆだねる。事実をあるがままに受け入れながら生きていくということです。人間関係の基本は、自分の「かくあるべし」を相手に押し付けないことだと思います。森田理論の学習と実践によって、そういう態度を養成していくこの二つは森田理論のかなめです。口で言ってしまえば、簡単なことですが、実践は大変難しい。奥が深いのです。横道にそれてもよいので、元の路線に立ち戻れる修正能力は身につけておきたいものです。それが森田理論の学習によって可能となるのです。
2020.11.14
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私はささやかながら家庭菜園に力を入れている。60キロ離れた田舎の畑で作っている。中山間地の高原にある。今はダイコン、ハクサイ、キャベツ、ニンジンなどが大きくなっている。しかし今年は秋ジャガで失敗をした。隣近所の畑では、大きな葉を茂らせているのに、我が家の秋ジャガは芽の出が悪かった。そのうえ、11月中旬に入ると寒さのために、せっかく出てきた芽が枯れてしまった。失敗した最大の原因は、植え付け時期にあったと考えている。我が家では9月22日に植え付けた。近所で聞いてみると、それは遅すぎるということだった。秋ジャガは寒い季節に向かって植え付けるので、できる限り早めに植え付けるのかコツだそうだ。秋ジャガの成育期間は極端に短いのだ。近所の人たちは8月下旬には植え付けが終わっていたということだった。そして3か月後からの収穫を予定されていた。11月末ごろからである。私の場合は、12月の末が収穫時期になる。その間に寒さや霜に合えばアウトになる。それではマルチをしたらどうかと聞くと、それは邪道だと言われた。近所の人に学ぶ必要があったのだ。そういえば春ジャガを2月に植えたときもなかなか芽が出てこなかった。植え付け当時は寒かったからである。春ジャガは暖かくなる春から初夏に生育するので枯れることはない。秋のジャガイモ作りには、植え付け時期を誤らないということが大切だということがよく分かった。それをきっかけにして、近所でいろいろと聞いてみた。まず種芋はどんなものがよいのか。みんな農協で買っていた。私はホームセンターでもっとも安い種芋を買った。品種は何かと言われたがそんなことは気にしていなかったので全く分からない。秋ジャガの種芋は、寒さに強く早く生育するものがよいといわれる。北海道産は春にはよいが、秋の種イモは長崎産などがよいという。ジャガイモは品種だけでも10種類以上はある。近所の人と同じにすればよかった。自己流ではダメなことがよく分かった。ちなみに品種によって食べ方が違うそうだ。男爵は煮崩れしやすい。ポテトサラダを作る時はこれが扱いやすい。メークインーは煮崩れしないので、肉じゃがやカレーやシチュウに使うとよいそうだ。次にジャガイモはナス科の植物で連作は避けた方がよいそうだ。しいて連作するときは、ブロックWなどの土壌改良剤を使う必要がある。またジャガイモの隣に九条ネギを植えると、連作障害を避けることができるという。この2つは共生作物だという。足りないものを補ってすくすくと育つ。それからジャガイモは弱酸性の土地に良く育つ。石灰を入れすぎると、そうか病になりやすいことも初めて知った。それから芽かきは行ったかといわれた。芽かきとは何ですかと聞いたら、近所の人に笑われた。これだから素人は困る。作っているだけで満足しているのかといわれた。ジャガイモは芽が勢いよく出るから、2本ぐらい残して間引いていく作業のことだ。せっかく出た芽をそのままにしていると、小さなジャガイモだらけになるそうだ。そういえば我が家のジャガイモは小ぶりのものが多かった。それから1か月ほど経ったら必ず株もとに追肥をするようにする。近所の人は米ぬか、もみ殻燻炭、木酢液などで作った追肥だった。ただしこれは配合肥料でもよいそうだ。自己流は駄目なことがよく分かった。近所の人との交流を深めて教えてもらいながら、野菜つくりに取り組むことが大事なのだと思いました。これは森田理論の学習と同じですね。自己流は時間もかかるし、試行錯誤の連続で、思ったほどの効果が上がらない。
2020.11.13
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形外会で野村先生のお話です。私の知人に、耳鼻科の医者で、飛行機の二等操縦士の人がある。飛行機に乗った時の心理を聞きました。雲が非常に恐ろしいそうです。雲に包まれると、とんでもないところを、飛んでいるのではないかと、実に不安だそうです。ある時は、雨が降ってきて雲の上に出た。ところが雲の切れ目がない。見渡すかぎり、茫々たる海原のようです。そのうちに、広い大洋の上を実際に飛んでいるような気持になってしまい、どこかに着陸する海岸はないかとあせった。島が一つ見えたので着陸したら、それは雲の上に出た赤城山で、そこに墜落したそうです。今までは、操縦者の感じに重きを置いていたが、誤りが多いのでこの頃は機械に従うように訓練しているそうです。これに関して、黒川大尉も、やはり機械に頼るほうがよいといわれています。飛行機に乗ると不安になって、なかなか落ち着かない。不安でないようにしようとしてもできません。それで飛行機の上では、難しいことは、全く考えられなくなる。込み入った計算などは、とてもできないので、進路なども前に精細に計算しておいて、飛行機の上では簡単なことしかやりません。私一人がそうかと思ったら、聞けば誰でもそうだそうです。(森田全集第5巻 528ページより引用)疑心暗鬼になると、事実が見えなくなる。パニックになって、自分の都合に合わせて、事実を捏造してしまう。事実よりも虚偽に身をゆだねてしまい、最後には自滅してしまうということだと思います。私は濃霧の中で車を運転したことがあります。10メートル先も見えないのです。ライトをつけて、ノロノロ運転です。それでも対向車とぶつかるのではないか。道路をはみ出して、谷底に転落するのではないかと疑心暗鬼になるのです。目隠しをして車を運転しているようなものですから、当然不安になります。そうなりますと、不安が憶測を呼んで、より悪い事態を想像してパニックになるのです。このように事実が見えない。事実が分からないことはとても怖いことです。そういう意味では、夜間運転も怖いのです。白いラインが消えかかっている道路はなおさらです。夜間で雨降りの運転はさらに恐怖です。知らない土地で悪条件が重なった運転は、生きた心地がしません。パニックがさらに大きなパニックを呼び寄せて、事故につながることもあるのです。こういう悪条件の重なった時は、運転をしないことが大切だと思います。そういうゆとりを持つことが大事です。翌日、快晴になって、視界がよくなってから運転すれば、不安もないし、事故も起きません。さらに一泊して出費が多くなっても、命には代えられません。これは、普段の生活の中で起きる不安に対しても同様です。あせり、慌てふためくことで、事実はますます混迷の度を増します。また事実を先入観や思い込みで決めつけてしまうことは大変危険です。森田理論では、事実をよく観察する。自分の目で確認する。事実かどうか実験して確かめる。他人の話を鵜呑みにすることは間違いが多くなる。自分が現地に足を運んで確認することが大切である。事実唯真というのは、「かくあるべし」が入り込む余地がないぐらい、それに注力することが求められるのだと思います。事実は軽々しく取り扱うことがあってはならないと思います。念には念を入れて、真実を知ろうとするその態度が、安楽な生き方につながるのです。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」というのは、事実確認ができないときに、慌てふためくさまを的確に現しています。
2020.11.12
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高良武久先生は、多勢の前で話す機会が多く、話すことに非常に恐怖を感じている人に次のようにアドバイスされています。不安を感じながら一生懸命にやるだけですね。楽をして人前でしゃべりたいというのではなくて、しゃべることはへたであろうがなんであろうが、いい内容を言おうと心がければいいわけですね。その方が大切です。私は、人前で話すことは非常に苦手だと思っていた。それで、とにかく、自分が話をするのは下手なんだから、なるだけ内容をよくしようということに、一生懸命につとめたつもりでいましたね。それでいいんですね。そしたら、人もだんだんに、あの人の話はいいというふうに認めてくれるようになりますからね。うまく話そうとしたら、内容のほうがかえって留守になりますから。多勢の人の前で講話をするような人は、話し方教室などに通って、インパクトのある話し方を身に着けようとする傾向があります。そういう講座があります。抑揚をつけ、緩急をつけ、ユーモアセンスを取り入れる。NHKのアナウンサーのように発音がよく、耳ざわりがよい活舌の訓練をする。政治家のように圧倒的な迫力で相手に感動を与えるような手法を学ぶのです。高良先生は、まず自分は人前で話すことは下手だと認めてしまいなさいと言われています。しかしその事実を安易に認めてしまうと、人間として進歩することはないのではという疑問が湧いてきます。確かに一理あります。ここで大切なことは、そういう努力を決して否定されているのではないと思います。その方向で努力する前に、まずは話す内容の方に力を入れなさいと言われています。話す内容が心もとないのに、話法ばかりに力を入れることは本末転倒であるといわれているのだと思います。話法にエネルギーをつぎ込む人は、他人にすごい人だとほめてもらいたい気持ちの強い人だと思います。尊敬されたい。一目置かれる存在でありたい。圧倒的な存在感を示したい。優越感を味わうことが最大で唯一の目標となっているのです。そうなりますと、話す内容に投入するエネルギーはどうしても減少してきます。話しぶりは圧倒的な迫力はあったが、話の内容は陳腐で参考になることはほとんどない。その方面で目の肥えた人から見れば一目瞭然なのです。そのうち、話に飽きてきて、さらにその人の人格まで否定されてしまいます。内容よりも話法に力を入れる人の心理は、絶えず他人の評価を気にしています。批判される、否定される、反対される、拒否される、無視されるようなことはあってはならないと考えるようになります。つまり注意や意識が自己防衛的になっているのです。自己内省的、専守防衛的に偏っているのです。精神的にはつらくなります。これでは話の内容の質を高めようという方向には向かいません。結果として現実の評価の方は、自分の理想からどんどん乖離していくことになります。ここで心掛けることは、自分の話法は決して褒められるようなものではない。でも、話の内容としては、みんなの役に立つように徹底的に準備しておこう。一つでも参考になり、役立ててもらいたい。実際に自分の生活に取り入れてみようと思ってもらいたいたい。大事なことだが、普段みんなが見落としている点に気づいてもらいたい。役に立った。参考になった。また機会があれば、ぜひ話してください。そう感じてもらえるように、精いっぱい時間をかけて準備していく。努力してみる。こうなりますと、精神状態は内向きではなく、外に向かって解放されているのです。ここが最も肝心なところです。それを前提として、次に話し方を改善すれば、感動を与えることができるようになるのです。
2020.11.11
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今年に入ってコロナウィルスが大発生しました。連日テレビでは感染者数と死亡者数が発表されています。11月8日現在感染者数107086人、死者数は1812人、回復者97197人と発表されています。感染しても、ほとんどの人は回復しているというのが現実です。対策としては、感染者の隔離、マスクの着用、アルコール消毒、不急不要の外出の自粛、学校の休校、自宅待機、在宅就業、イベントなどの中止、経済活動の中止、外国人の渡航禁止などがありました。これ以上の拡大を防ぐために、コロナ対策一点に絞って、官民挙げて必死に闘っているのが現状です。この対策について、渡辺利夫氏は次のように発言されています。日本におけるコロナウィルスによる重症者や死者数は、外国と比べると少ないのが現状です。また、季節性のインフルエンザ、交通事故、自殺者数と比べてみると特段に多いということはない。季節性インフルエンザの死者数は、2018年度は3325人でした。また2015年の交通事故の死亡者数は4117人でした。2018年は3523人です。そして毎年2万人から3万人の人が自殺しています。先進国で1位といわれています。こちらの方の死者数の方がはるかに多い。これは驚くべ数字ですが、コロナ対策のように大騒ぎされることはありません。こちらの対策はどうなっているのか。マスコミというのは、そこにしばしば登場する専門家と称する人々を含めて、事態がいかに深刻であるかを事実以上に深刻に伝えるのが「仕事」となっているようです。事態の深刻さを訴えれば訴えるほど、人間の移動は止まり、経済がたちゆかなくなり、それによって生計が維持できなくなって、生存さえ脅かされている人々が現に増えています。(生活の発見誌 10月号 5ページ)これはコロナウィルスを予防するためには、経済活動はどうなっても構わないという考えになるのではないでしょうか。健康でありさえすれば、命はどうなってもよいという考え方と同じです。一見正しい考え方のようですが、本末転倒の考え方です。これは森田理論でいう「防衛単純化のメカニズム」が働いているのではないでしょうか。この言葉の意味するところは、私たちは生きていく中で、様々な解決困難な問題が出てきます。それらの数が多くなると、どこから手をつけていけばよいのか判断できなくなるのです。そこで、その中から一つを選択して、当面の闘うべき相手としてみなすことです。コロナさえ防ぐことができれば、後は何とかなる。何としてもコロナウィルスだけには打ち勝って見せるという考え方なのです。コロナウィルスの撲滅に注意や意識、エネルギーを集中させていく考え方です。これは特に政府や行政にその気持ちが顕著です。コロナウィルスの動向だけは、報道や対策が途切れることはありません。その結果、国民の生活が破壊されるようなことがあってはならない事です。運転資金がなくなり、事業の廃業に追い込まれることはあってはならない事です。政府はこんな時は、自粛協力した人たちには、粗利補償して下支えしなければならないのです。現在のGDP550兆円が、350兆円台に下がると、取り戻すことは至難です。何しろ一旦廃業すると生産設備も技術もなくなってしまうわけですから。GDPが下がると国民所得が減って生活困難者が増加してくるということなのです。むしろこの機会を利用して、菅首相のブレーンの一人のアトキンソンさんは生産性の悪い中小企業はどんどんつぶすことを真剣に提言しているのです。これに対して森田理論は「無所住心」の考え方です。一つの不安や恐怖などに、ことさら注意を振り向けてはいけない。今の時期、コロナ対策の比重が多くなることはやむを得ない。ところがその事しか考えないというのは大問題だということです。国民の生活がどうなろうと構わないという風潮が蔓延することは大変危険です。それは森田でいえば、一つの症状と格闘し過ぎて、精神交互作用で蟻地獄の底に落ちていくということになります。神経症は大変苦しいものですが、その不安と戦いながら、自分たちの生活や仕事を何とか回していくことを忘れてはならない。コロナは豊かな生活を維持するための障害の一つに過ぎないという考えに立たないと、今まで積み上げてきた生活や生活基盤が、根こそぎ破壊されてしまうような気がしてなりません。
2020.11.10
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森田先生の言葉です。なおいつでも、大事なことは、人はいたずらに強がり、負け惜しみで、頑張る事をやめる事です。そして弱気に徹すれば、常に安楽になり、結局これが最も強くなる結果にもなるのであります。(森田全集 第5巻 582ページより引用)今日はこの言葉を分かりやすく解説してみようと思います。私たちはスポーツでも、勉強でも、仕事でも、容姿でも、持ち物、出世でも人と比べて負けていることが許せない。ライバル視して何とか相手に勝ちたいと思う。生の欲望が強い神経質性格の場合は特にその傾向が強いように思います。それがプラスにでると、やる気の源泉になる場合があります。ところがこの生き方には大きなマイナス面がある。第一に「かくあるべし」が強化されてしまうことだ。・絶対に相手を倒さなければならない。・絶対に相手に勝たなければならない。・負けるようなことは許されない。負けてしまうと、自分のすべてがダメなように思えてくる。・相手を見下ろすような人間にならなければならない。など。「かくあるべし」という考え方が強化されると、葛藤や苦悩が発生する。苦しい生き方を受けいれざるを得なくなります。第二に、自分の欠点や弱点、ミスや失敗を隠蔽し、ごまかすようになる。そういうものはあってもよいが、人に知られてしまうことは絶対に許せないのである。事実を素直に受け入れることができないので、言い訳や弁解が多くなる。事実を捻じ曲げるために様々な工作を行うようになる。うそやほころびが出てくると、それをごまかすために、また別のうそを重ねる。そういうことに明け暮れる生活は、実に味気ないものです。森田先生は、弱気に徹するといわれていますが、別の言葉でいえば、地のままの自分で生きていくということだと思います。見栄を張って、相手と張り合わない。取り繕うとしない。誇張した自分、脚色した自分になろうとしない。つまり、どんなに承服しがたいことがあっても、事実を素直に受け入れて、自然体で生きていけば、精神的な葛藤や苦悩は生まれないということです。自然体と言えば、台風に遭遇した時の柳の木が参考になります。枝が引きちぎれないほど乱れまくっています。これを見ていると、人間に置き換えれば、心身の破滅を招くのではないかと思われます。ところが、事実は違います。台風一過の秋晴れの中で、柳の木は何事もなかったかのように、たたずんでいるではありませんか。とても感動的です。その一方で、巨大台風が来たとき、樹齢何百年といわれるような巨木が倒壊して無残な姿をさらしています。巨木は大型台風に対して、いつも張り合っていたのだと思います。これまでの小さな台風には、すべて打ち勝ってきたのです。力の差を見せつけてきたと言ってもよいと思います。ところが、今回の巨大台風には勝てなかったということです。事実を無視して、反旗を翻すということは、最後は負け戦になるということだと思います。体力が弱くなり、精神的にも気弱になると、形勢は一挙に逆転してしまうのです。それはちょうど水泳の上手な人が、川上に向かって泳ぐようなものです。すこしは頑張る事ができるでしょうが、エネルギーの消耗が激しすぎます。2m進んでも1mは流される。労多くして、実入りが少ない。精魂が尽き果てます。自然の川の流れに少しでも背くと、とんでもないことになります。反対に川の流れに沿って泳ぐと、自然の力の応援を得て、自分の実力以上の成果を出すことができます。心身ともに葛藤や苦悩が発生しない。これが森田理論でいう、素直に事実に従った結果なのです。
2020.11.09
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森田先生は実践・行動するときは、次の3つの点を考慮しないといけないといわれています。1、その出来事や事件の事実を観察して明確にすること。2、その時の周囲の状況に目を配ること。3、その時の自分の身体と精神状態を自覚すること。これを私の経験に当てはめて考察してみました。会社で昼休みに5、6人集まって雑談していました。急にある人が私の過去の仕事のミスを取り上げて、面白おかしく話し始めました。その場にいた人たちは、その人に同調して、はやし立てました。「あいつはそういううっかりミスをするんだよ」「この仕事はあいつには向いていないよな」私はいたたまらなくなった。そのうち相手に対して怒りがこみ上げてきました。顔はこわばり、身体は硬直した。午後からの仕事は上の空になりました。これはもっともらしい説明のように見えますが、事実が具体的ではありません。このミスの内容は具体的にはどういうことだったのか。私は当時中学校の卒業式で使うための舞台幕の注文をもらい、パソコンで発注書を作り工場に送信したのです。1週間ぐらい経って、商品が出来上がり学校に送られました。すると袖幕の色が違っていたのです。エンジの色のところが青色の商品が届いたのです。一文字幕などはエンジ色なのに、袖幕だけが青色ではバランスが悪いのです。得意先、施主、取り付け業者、営業マンからクレームの電話が入りました。謝っても許してもらえるはずもありません。卒業式に間に合わない。二度手間になる。損失が発生するなどの電話でした。私は、「取り返しのつかない事をした。どうしよう」と右往左往して、力が抜けてしまいました。ここでは、自分のミスや失敗を取り上げて批判するよりも、まず事実を過不足なく説明する態度が大切になると思います。そうなると、雑談の内容は個人攻撃から、ミスの発生原因に及ぶことになります。個人の能力や人格を責めるよりも、仕事の進め方の問題点を探る方向に向かいます。たくさんの仕事をこなしていると、誰でもミスは起こしているのです。人間のすることでミスは0にすることはできないのです。0にしなければならないということに意識が向くと、仕事をたくさんこなすことができなくなります。こなせばこなすほど、ミスの発生頻度が上がってくるわけですから、最後には手も足も出なくなってくるのです。事実にこだわる態度は、敵の攻撃をかわすことができると思います。雑談の場に加わっていた人たちも、面白おかしくはやし立てた。これはどうすることもできない。でもその人たちもミスをしている人です。人がミスをすると、「なんだこんなイージーなミスをして、馬鹿な奴だなあ」という人も、立場が変われば、今度は自分が矢面に立たされることになるのです。高額商品は、送信する前にチェックの方法をみんなで意思統一した方がよいのではないか。ミスに学んで仕事の改善をしていかないと、また誰かがミスを繰り返す。この件に関しては、私はすぐに関係カ所に事の顛末報告することが必要でした。そしてまずは丁寧に謝る。そして上司や営業に報告する。そして指示を仰ぐ。そして何よりも代替え品の発注をする。生地は何としても今日の発送とする。赤帽などを利用して工場に搬入する。工場に電話して、工程の変更を依頼し、大至急で制作してもらう。この際経費の事は二の次である。ミスという事実を素直に認めて、事後処理を急ぐことで、夢遊病者のようになって、仕事が手につかなくなる事態は避けることができたのではないか。むしろ雨降って地が固まる事になっていたのではないか。ミスや失敗は必ず発生します。その内容に着目して、事実を白日の下にさらしていくのだという態度の人は、ミスや失敗を自分が成長する糧として活用できるのだと思います。事実を軽視する人は、自己防衛、他人を怨む、自己嫌悪、自己否定の悪循環に振り回されることは間違いないようです。
2020.11.08
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野球の観戦・・・テレビで見るのと実際に球場で見るのと全く別物です。特にピッチャーとバッターボックスの距離はテレビで見ると近く見えますが、実際にはかなりの距離がある事が分かりました。菊・・・我が家のベランダはかわいい菊が咲いています。そういえば各地で菊花展が開催されています。そこで買った福助が目を楽しませてくれています。タマネギの植え付け・・・今頃がタマネギの植え付け時期です。5月に入ると収穫です。
2020.11.07
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私はチンドン屋に入っていて、アルトサックスを人前で演奏する機会があります。人前で楽器を演奏するとき、ことのほか緊張します。口の中がカラカラになります。その緊張感を持ったまま、無心になって、演奏している時はうまくいきます。よく演奏する曲は1000回以上も練習をしているわけですから、自然の流れに乗っていれば、うまくいくのです。しかも毎日少なくとも30分は練習を続けているのです。ところが演奏中に前ぶりもなく前頭前野が動き出す時があります。「まさか間違えて恥をかくようなことはないだろうな」という考えがふっと湧いてくるのです。そうなると金縛りにあったようになり、自由に指先が動かなくなるのです。その結果、普段は何でもないところで間違えてしまうのです。その時の意識は、間違えてはいけないという事に意識が向いています。過去に間違えて恥をかいたことなどが思い出されると、その気持ちに拍車がかかるのです。そして避けなければいけないことに注意や意識が吸い寄せられて、結果としてミスをおびき寄せてしまうということです。私は無我夢中になれば、問題なく演奏できることは分かっています。ところが、勝手に割り込んでくる前頭前野の悪魔のようなささやきはどうすることもできないのです。特にリーダーが曲目の紹介などをして、間が空く時が問題です。余計なことを考えすぎるからです。その時間違えないように運指を確かめたりしていると特によくない。突然振られて急いで、考える時間もなく、演奏を始める時の方が比較的うまくいく。森田先生は、そのように神経の集中が一点で起こってしまうのは問題だといわれています。注意の集中が起こると、心の自由な流転が妨げられる。これは拡大鏡を太陽に当てていると、下にあった紙が燃えだすようなものです。注意や意識の集中は恐ろしいものだと思います。火事になってしまうわけですから。神経が四方八方に働いている時の方が、注意の固着が起きない。神経が周囲の変化に臨機応変に対応して、心が自由自在に流転・適応していく。こういう状態になれば、演奏もうまくいく。例えば、お客さんの年齢層を確認する。年配者が多いか。子どもはいるか。舞台はどうなっているか。立ち位置はどうするか。動き回るスペースはあるか。マイクの調子はどうか。服装の乱れはないか。楽器の調子はどうか。演奏曲目とその順番はどうか。仲間との打ち合わせは大丈夫か。どこに力を入れて盛り上げようか。つまりルーティーンを確立して、それを淡々とこなすことで前頭前野が入り込まないようにするのです。注意したいのは、それを自分に言い聞かせるということは、注意がそこに張り付いているということなので、元の木阿弥になるということだ。淡々とルーティーンが繰り返される状態にしたい。それはバッターボックスに立つ前のイチロー選手や演技を始める前の羽生結弦選手の動作を見ているとよく分かります。
2020.11.07
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困難なことが予想されるとき、気分本位になってすぐに逃げだす人がいます。失敗することがかなりの確率で予想されることには、絶対に手を出さない。でも一時的な心の安定を求めた結果、むなしい時間を過ごすことになります。人が困難を突破して成功するのを、指をくわえてみていることになります。森田先生はそんな人を意思薄弱性気質といわれています。神経質気質とは区別されていますが、2つの気質が同居している人が多いのが現実です。神経質気質と意思薄弱性気質を合わせて持っていると、実践・行動が滞ります。成功体験による自信を深めることができなくなります。自己嫌悪や自己否定で、積極的になれず内にこもるようになります。アメリカのDSM―Ⅳでは、回避性人格障害といわれています。ここでは3つに分類されています。まず「神経敏感タイプ」ですが、他人の言動や感情表現に対して過敏に反応し過ぎるために、「円滑な対人関係」を維持することができない心配性過多のタイプ。このタイプは、「自分の傷つきやすさ・自信の欠如」に対して自覚的であり、「他人からの批判・侮辱」を過敏に恐れて対人的に引きこもってしまうのです。私たちがよく耳にする対人恐怖症という神経症に陥りやすい。「恐怖感の強いタイプ」とは、「自己の対人能力の低さ」と「他人に対する不信感・緊張感」を特徴とするタイプで、他人の信頼・愛情を信用する能力に欠けているために恐怖感・不安感が高まりやすい。このタイプは愛着障害を抱えており、見捨てられ不安が強いのが特徴です。これは自分のせいではない。親の育て方に原因があります。「自己を見捨てるタイプ」とは、他人とかかわること自体に不安を感じて、「現実的な対人関係」からできるだけ遠ざかり、自己内省的な方面にどんどん傾斜していきます。基本的身だしなみや入浴・歯磨きなどもできなくなることもあります。これが症状化すると、厭世的な生活になってしまいます。このように分析すると、気分本位と回避性人格障害は、弊害が多く改善しなければならないものと考えがちになります。しかし元々は、自分に迫ってきた心の危機から何とか自分を守りたいという気持ちの表れです。自己保存欲求に従っているのです。ですから、もともと心の危機を素早く察知して、一旦は自分の心の危機を回避させてきたわけです。重篤な精神病に陥らなかったことは評価してあげてもよいのではないかと思います。「うまく逃げたあんたは偉い」と誉めてあげてもよいのです。そんな自分でも「生きているだけで十分だ。どんな状態でもあんたの味方だ。いつまでもあんたを守り抜いてみせる」という気持ちだけはしっかりと持つことが大切になると思います。そのような自分を自己嫌悪、自己否定しては、心身ともに悪影響を与えるばかりです。また気分本位・回避性人格障害は、その人の気質のようなものですから、おいそれと改善することは難しいと思います。そうはいっても逃げることで他人に多大な迷惑をかけることがあります。気分本位になって、さぼってばかりでは、仕事のノルマも果たせません。自分も暇を持て余して、無為の時間を過ごすことになります。自分にとっても他人から見ても、禍根を残すことになります。そのような場合は、次のような行動をとることをお勧めします。営業などの仕事では決して一人で単独行動してはなりません。二人以上での営業活動をお勧めします。他人の目があると、安易な逃避、回避行動は防止することができるからです。何かに挑戦するときも、団体行動の中で取り組むようにすればよいと思います。つまり誰かの協力を仰いで、実践・行動に取り組むことが大切になります。なぜかと言えば、逃避したり、回避することが習慣化しているからです。これは大変しつこいもので自分一人で解決できるものではないと考えます。そのためには、日ごろから心の安全基地となるような人やグループを探す。例えば、自助組織生活の発見会などの人間関係などに身を置いておく。利害関係のない趣味の会などに属しておくことです。気分本位・回避性人格障害は自分一人では治せないと自覚することが大切です。他人に抑止力の役割を依頼することで、気分本位を乗り越えていくのです。そういう出発点に立つことができれば、自分を責めることをしなくなります。「気分本位の自分は、自分一人では治せないのだ」と宣言してしまいましょう。そのためには、仕事や勉強、日常茶飯事、子育て、介護などは、できるだけ単独行動は避けて、二人以上での共同作業を行うことを提案いたします。
2020.11.06
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森田先生が次のような歌にもならない文句を書かれた。憂しといふは何をいふらん。花は咲き雷ははためき木枯らし狂うこの歌の説明は次のごとくである。花が咲くのも散るを思えばとり越苦労であり、雷も気が引き立ち木枯らしも痛快である。人生の物事は時と場合とにより、見方によってはどうとも名状する事ができる。決して「憂し」とか、「人生苦」とかいう一定の標識はないのである。場合によっては「月みれば千々に物こそかなしくなる」のである。何が悲しいのか面白いのか、決して見当のつくものではない。ここでは「どう思え」とか、「思うな」とかそんな事は決して教えない。自由に思うままに思わせておく。それで苦楽好悪とか、思うとか思わぬとかいう事を超越し・無視し・放任する事ができるようになった時に、初めてすべての神経質の症状が解消するのであります。(森田全集第5巻 579ページより引用)ここは森田理論の中でも難しい部分です。私の理解の範囲で、かみ砕いて説明してみましょう。森田先生は神経症が治るということに関して3段階ある言われています。不安が強くて怖い。しかし苦しいままになすべきをなす。これができるようになれば小学校卒業程度である。次に「かくあるべし」から出発することをやめて、事実本位に徹する。これができるようになれば中学卒業程度である。ただ中学卒業の段階では事実にそのものに対して是非善悪の価値評価をしている。事実を自分の物差しで、いいとか悪いとか区分けをしているのです。これがまずい。事実そのものには、本来良いも悪いもないのです。それは本人が、自分の物差しを押し当てて、自分勝手に価値判断しているだけなのです。大学卒業程度というのは、自然な出来事(つまり事実の事です)を価値判断しないであるがままに受け取れるようになった段階の事です。価値判断しないで事実に素直に従う態度に至ることです。事実を価値判断する態度は、自分や他人を否定する方向に向かいやすいのです。価値判断することが特に問題になるのは、悪い、良くない、間違い、苦しい、辛い、悲しいなどと価値判定した場合です。これらを排斥しよういう態度が問題になるのです。つまり中学卒業以前の状態に、すぐに戻ってしまうことが問題なのです。でも普通の人は目の前の出来事に対して、是非善悪の価値評価をしながら生活しているのが現実です。ではどういう心掛で生活していけばよいのか。まず不安が襲ってきた時にする行動が、将来に明るい展望が開けるもの、あるいは他人のために役に立つものかどうかを見極めることです。そう判断できるものに対しては、積極果敢に不安の解消に向けて行動を開始する。その2つに当てはまらない不安に対しては、仮に価値判断しても基本的には無視する。しかし無視するといっても現実には不可能です。人間には価値判断するための前頭前野が発達しているので、現実問題として、それを無視することはできないのです。次善の策としては、どうにもならないことは、しぶしぶイヤイヤながら事実を受け入れるようにするしかありません。自然に服従するという態度、というか覚悟を持って生活をしていくということになります。それが事実として、大学卒業への道へとつながっていくものと考えています。しかしこれは言うは易く行うは難しいです。実際には難しい面があります。この段階は、理解にとどめる程度でよいのかもしれません。理解することは必須と考えています。事実本位の生活を心掛けたうえで、目の前のなすべきことに取り組んでいく。そして森田理論が教えてくれている「ものそのものになりきる」生活を続けていくことだと考えます。そうしますと、注意や意識が目の前の物事の方に向いていきます。行動することで、自分が価値判断していたこととは違う結果が出てくることが増えてきます。それを積み重ねていくと、頭の中で自己流に価値判断していたことは、必ずしも正しくはなかったという感覚をつかめるようになるのではないかと考えております。
2020.11.05
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私たちはどういう境遇の下でこの世に生を受けたかにより、その後の人生が運命づけられてしまいます。どんな国に生まれたのか、どんな時代に生まれたのか、どんな家に生まれたのか、どんな親から生まれたのか、男に生まれたのか、女として生まれたのか、どんな性格に生まれたのか、どのような潜在能力を持って生まれたのか、五体満足の身体で生まれたのか、そうではなかったのかなどです。このような境遇は自分が選択することはできません。その事実を価値批判しないで受け入れるしか方法はありません。ところが人間という生き物は、なかなかその事実をすんなりと認めようとはしません。知恵がついてくると、現実、現状、事実を上から下目線で見下ろして、価値批判するようになります。そして反抗し、否定するようになります。自分という一人の人間の中で、敵と味方に分かれて、絶えず戦いを繰り返しているようなものです。力関係から見ると、観念のほうが圧倒的であって、事実の方を痛めつけています。事実の方は誰の援助も受けられず、無援孤立状態に陥ります。雲の上にいる自分が現実の自分に寄り添ってくれるようになると精神的には楽になるのですが、そういう方向に向かいにくいのが人間の性かもしれません。例えば自分を生んで育ててくれた親の恩を忘れて、親に反発してしまう人が多いのが現状です。親がパーフェクトであったならば、今の自分はこんなに苦しむことはなかったはずだ。親のしつけ、子育て、教育はあまりにも問題が多かった。不幸な子供をこの世に作り出しただけだ。あってはならなかったことだ。だいたい親になる資格のないような人が、子どもを作ったのだから救いようがない。一方親は子供のことは目の中に入れてもいたくない。むしろかわいくて、心配で仕方がないのです。でも子供の方は「親の心、子知らず」で反発するばかりです。こうなりますと、必然的にいがみ合い親子の断絶となります。そして自分が親になった時に、実の子供から同じような目にあわされることになるのです。まさに歴史は繰り返されているのです。こういう人は、親だけを拒否し、否定しているだけでは済まないのです。生まれた国、時代、家柄、性別、性格、能力、容姿などすべての分野にわたって、批判的・否定的な立場に立っているのです。これらの多くが自分と敵対関係にあるのです。自分と対決している存在として自己認識しているのです。心穏やかに暮らせるはずがないのは当たり前のことです。この問題の解決策は森田理論の中にあります。一言でいうと事実唯真という考え方です。難しい言葉ですが、「かくあるべし」という態度を減少させて、事実本位に生きていくということです。事実を受け入れていくと、無駄なエネルギーを浪費することがなくなります。事実を見つめていると、建設的、生産的、創造的な課題が見えてくるようになります。そこにエネルギーを投入すると、生きがいが生まれてきます。目標が達成できれば自信もつきます。そしてさらに大きな目標を持てるようになります。人生の苦しみはありますが、神経症的な葛藤や苦悩はなくなります。森田理論は、自分の境遇を価値批判することはやめましょう。どんなに過酷で理不尽だと思っても、その事実を認めて受け入れる態度が何よりも大切なのだと教えてくれています。そこにしっかりと足場を固めましょう。足場を固めたら、それぞれの人が、それぞれの能力、持てる力を精いっぱい活用して、運命を切り開いていきましょうという理論なのです。その方向性を目指すことが、人間としてまっとうな生き方ではありませんかと教えてくれています。事実本位の立場に立てば、どんなに反発していた親でも、同じ時代を懸命に生きてきた仲間として、親しみが湧き上がってくるのではないでしょうか。いつの時代でも100%完全な親はいません。不完全な親でありながらも、元々は子供の成長と幸せを願ってきたのです。そんな親が子どもに対して、何とか幸せになってもらいたいと思っていたのに、思い通りにならなかった。むしろ子供との人間関係がぎくしゃくしてきた。心の中では申し訳なかった。親としては失格だったねと謝っているのです。その思いをくみ取って、心から許してあげることができないものでしょうか。親を許せるようになった時、親子の関係はよくなります。さらに自分を取り巻く境遇に対しても、寛容な気持ちで受け入れることができるようになるのです。対立関係にあった状態から、友好関係に変わるわけですから、生きやすくなるのです。そうならないと、自分が親になったときに、子どもに対して申し訳なかったと懺悔するようになるかもしれません。この問題は、不完全な親、理不尽なことをいう親であっても、その事実を認めて受け入れることができるかどうかにかかっているように思います。
2020.11.04
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今日は森田先生のおすすめの実践・行動の心構えについて考えてみたいと思います。絶対にしてはならない事から説明してみましょう。基本的には、自分の都合、気持ち、気分、身体の状態を推し量って、行動に踏み込むかどうかを決定してはいけないということです。これはどういうことかというと、「今はやる気が起きない」「興味や関心が湧かない」「疲れている」「病気でしんどい」「行動すれば病気が悪化する」「資金がない」「協力者がいない」「設備や道具がない」・・・などと言う自分の都合で、行動しないほうを選択するというのは間違いだということです。自分の気分や都合ばかりを推し量っていると、目の前に起きている変化に対応することができなくなる。例えば、火事、地震、津波、雷、噴火、台風、土砂災害などが起きたとき、運が悪いと命を落とすかもしれない。関東大震災の時、根岸病院の壁が崩れ落ちている時、ある精神病患者がケロッとして、「ずいぶん大きな揺れですね」といって平然としていたという。こういう自然災害の時は、危険を察知したら、どんな状況にあろうが、真っ先に身を守るための行動をとなければならない。自分の都合や気分を問題にしていると、命を落としてしまう。森田先生は実践・行動に当たっては、自分の気持ちや都合を最優先させてはならないといわれているのです。自分がいま置かれている状況、境遇、環境などを見極めて、行動するかしないかを決定することが大切であるといわれている。一言でいうと、外部の変化に合わせて、臨機応変に実践・行動することが大切だといわれているのです。強行軍の時は、いくら疲れていてもみんなについていくことになります。いくら仕事に行くのが嫌でも、生活費を得るためには、足をひきずりながらでも会社に行かなければならない。次に、ここで大事なことは、外部の変化を正確につかむということです。外部の変化を間違って掴んでしまうと、間違った方向で行動することになります。たとえば、最近下痢が続き、出血しているようなときは、すぐに内視鏡で検査して、ガンではないかどうかを判断してもらう。そんな検査は嫌だと言って無視する態度では、重大な変化を見落とすことになります。外部の変化を正しくつかむために、森田先生が提案されていることは「みつめよ」ということです。目の前の出来事をよく観察しなさいということです。他人の意見を鵜呑みにするのはまずい。先入観や思い込みは事実とは異なることが多い。現地に立ち会い、自分の目で真偽のほどを確かめることが大切です。見つめていると、気づきや発見が見つかる。興味や関心も出てくる。問題点や課題も見えてくる。この段階に達した時、変化に対応した正しい行動を選択することができるのです。
2020.11.03
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長谷川洋三氏のお話です。森田先生は、「従順」と「盲従」とを峻別している。「従順」とは、気がすすまないが、とにかく必要なことはやる、あるいは半信半疑だが、一応はいわれたとおりにやってみるという態度である。そこには批判精神が働いている。これに反して「盲従」とはこの批判精神が働かず、唯々諾々と、「右を向け」と言われれば何の疑問もなく何の疑問もなく右を向き、「左を向け」といわれれば左を向くといった態度であって、森田先生はこの盲従的態度をきびしく戒めている。最近の言葉でいえば、「従順」には主体性があるが、「盲従」には主体性が失われているのである。(生活の発見誌 11月号 20ページより引用)「従順」も「盲従」も行動することは同じなのだが、この2つは月とすっぼんだといわれているのである。その違いをはっきりさせておこう。普通は実践・行動することで、物事の方に注意や意識が移っていく。そして気づきや発見がある。興味や関心が深まっていく。工夫やアイデアが浮かんでくる。それが弾みとなって、やる気が湧き上がってくる。最初は他人から指示された事であっても、イヤイヤシブシブ取り組んでいくうちに、感情が動き出してくるのである。感情が変化して動き出してくると、主体性の発揮につながる。主体性の発揮がきっかけとなり、新たな行動へとつながっていく。盲従の場合は、指示されたことだけを早く仕上げて、自分の手から離したいという気持ちが強い。指示されたことをとにかくやってしまえば、何も問題ないでしょうという気持ちが強いのです。その結果が不十分で問題だらけだろうが、本人は馬耳東風なのです。どこまで行っても、主体性の発揮とは無縁なのです。これでは感情は動き出さない。実践や行動によって、元の感情を速やかに変化させて、流していくという目的から見ると、これは大きな問題ということになります。従順というのは、最初は相手の指示に対して反発しています。どうして私がやらなければいけないのか。他の人に頼めばよいのにという気持ちがあることも多い。それこそイヤイヤシブシブ引き受けて行動するということになります。考えてみれば、人生の三分の一を占めているといわれる仕事もそうですね。最初から仕事が面白くて仕方がないという人は、ほとんどいない。その証拠に高額な宝くじが当たれば、すぐに退職したいと思っている人が多い。これが普通の状態であり、何ら問題はないのです。問題はこの先にあります。イヤイヤ引き受けた仕事に対して、ものそのものになって取り組んでみたかどうかが問われることになるのです。仕事でいえば、大きな不具合や問題が生じて、それを解消するために必死になって取り組むようなことがあります。こういう状態になると、感情が動き始めます。気づきや発見、工夫やアイデアが泉のようにこんこんと湧き上がってくるようになります。不具合や問題が生じなくても、主体的に取り組むことで、感情は動き出します。森田理論は、物事を観察することで、感情が生まれ、その感情を速やかに流すことを目的としている理論なのです。特に不快な感情はそうして解決していくのです。谷あいの小川を勢いよく流れる水のごとくです。これがお城に停滞している水のような状態になると、汚く濁って雑菌がはびこってしまいます。これが神経症を引き起こす大きな原因となっているのです。最初はイヤイヤ仕方なしの行動で何ら問題はありません。それがむしろ普通の状態です。問題はその先にあります。森田先生の言葉に、「ものそのものになってみよ。天下万物すべて我がもの」というのがあります。どんなに気が進まない事であっても、一旦は時間を忘れるくらいの気持ちで取り組んでみることが大切なのです。その方向を目指していると、自分の人生はとても味わい深いものに変わっていくのです。
2020.11.02
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森田先生のお話です。富士山の強力を職業としているものは、平常は百姓などをしていて、夏は強力になる。毎年初めて登るときには、強力でもやはり、普通の人間であるから、人並みに足も痛む。その翌日ははなはだしい時は、便所でも、こごめないほど、股やふくらはぎが痛いとの事である。もしここで休めば、2、3日で回復する。しかし3日に一度登山するという風では、職業にならない。しかたがないから、痛いのを我慢して、足を引きずるようにして、強いて登山を続ける。そうすると、一週間ばかりもたつうちには、いつともなしに、足の痛みもなくなり、夏中続いて、その職業をやっていくことができるとの事である。(森田全集第5巻 566ページより引用)身体の痛みがある場合は、治療や休養をとって回復を図るのが普通の考え方です。森田先生は、この考え方だと職業としては成り立たないといわれています。確かに痛み耐えて、仕事を続けことで、痛みがなくなる場合もあります。この場合は、いきなり富士登山をするのではなく、1週間ぐらいかけて体を順応させてから、初めて強力の仕事に入るのがセオリーかと思います。ただここで森田先生の言いたいのは、身体の痛みや精神的苦痛に影響を受けて、本来なすべきことから逃避してしまうというのは問題だということだと思います。一時的な身体の痛みや精神的苦痛と格闘することは、百害あって一利なしということです。プロ野球の監督で、「身体の悪いところがあったらすぐに申告してくれ。直ぐに休ましてあげる」と選手たちに言ったという。プロ野球の選手は、シーズン中は移動が続き、遠征先ではホテル暮らしである。生活が不規則になり、身体や精神が疲労困憊状態になりやすい。そしてケガと隣り合わせの仕事である。また炎天下での連戦も続く。過酷な仕事である。そんな時に、監督の言葉を真に受けて、気分本位になって「今日はどうも力が入りませんので休ませてください」と言ったらどうなるのか。「よし分かった」と言ってもらえるかもしれません。しかし監督は、そういう選手が相手と闘争心を持って勝負に向かう選手ではないとみなしてしまうのです。プロ野球の世界は、そういう選手を試合で起用するほど甘い世界ではない。またその選手のポジションが空くのを手ぐすね引いて待っている選手が次々と出てくるのです。こういう態度ではプロ野球の世界では生き抜いていくことは不可能です。10年以上も選手生活を続けている選手はどうしているか。身体の疲れがある。けがを抱えている状態が普通の状態だと認識しているのです。中には指の骨折を隠してまで試合に出るという選手もいる。試合に出続けてこそ意味があると考えているのです。国民栄誉賞の衣笠祥雄さんはそう考えていました。つまり疲労感や痛みを押して仕事を続けているということです。ケガは試合に出続けながら治していくという気持ちを持っているのです。一度掴んだポジションは絶対に死守する。自分と家族の生活はプロ野球選手の仕事を通して守り抜いていくという気持ちを持っているのです。そのために、規則正しい生活を送る。食生活に気を配る。野球以外の誘惑を断ち切る。贅沢三昧の生活には気を付ける。寸暇を惜しんで、絶えず技術を磨いていく。人の見ていないところで練習を積み重ねている。つまり野球中心の生活を貫いている。マッサージやストレッチなどに力を入れて、体のメンテナンスを念入りに行う。ケガは仕事をしながら治していくことを考えて実際に実践している。これらを淡々と繰り返している人たちが、過酷な勝負の世界で生き続けている。我々はこれに学んで、不安を抱えたまま生活を維持していくという態度を崩さないようにしたいものです。
2020.11.01
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