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面白い話を聞いた。恥をさらし、忍び難きに耐えて、会社勤めを継続して生活費を得てくる。そんな生活を40年継続した人は、人生の勝利者である。さらに70年以上生き延びた人は、100%人生の成功者である。その過程では死ぬほどつらいこともたくさんあっただろう。しかし、延命できてここに到着したことの重みは大きい。大きな痛手を負ったとしても、命を粗末にしないで、自分を護り通したあんたは偉い。山本五十六は次のような言葉を残している。苦しいこともあるだろう云い度いこともあるだろう不満なこともあるだろう腹の立つこともあるだろう泣きたいこともあるだろうこれらをじっとこらえていくのが男の修行である。男は人間に、修業は修養に置き換えて読んでください。ちなみに修養とは、森田理論を学習し、実行によって神経質性格者の生き方を確立することである。ここで大事なことは、実践・実行によって精神の働きを体得することです。不安なこともあるだろう怖いこともあるだろう違和感を感じることもあるだろう不快なこともあるだろうそれらをあるがままに受け入れて、生の欲望に邁進することが神経質者の目指す道である。
2020.05.31
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森田先生はインギンな人は強情な人であるといわれている。人に対して、非常にインギンな人は、他の人の、どんな場合をも無頓着に、単に自分の礼儀を全うし、独善を押し通して、融通の利かぬ人である。つまり人に対して思いやりがなく、強情の人である。人の忙しいのも、見境なしに、廊下に座って、無理やり丁寧に、お辞儀するような人は、何かにつけて、人と調和・妥協のできない人である。インギンというのは国語辞典によると、とても丁寧で重々しいとある。類似語に、「インギン無礼」という言葉がある。表面上は丁寧な態度だが、実は内心馬鹿にしているということをいう。馬鹿にしていなくても、上から下目線で批判的な雰囲気を漂わせている。こうしてみると、インギンな人は自己中心的な人である。自分の言いたいことややりたいことを押し通そうとする。相手の立場を考慮して、自分の言動を抑制しようという気持ちは皆無である。相手との調和、バランスを意識していない。その結果、相手の人が全く見えていないようである。これを相手から見れば独善的とみなされるのである。森田での人間関係のコツは調和や妥協を目指していると思う。人間はそれぞれみんな欲望を持っている。それを前面に出しあって生きていくのが本来性である。という事は、ふたりの人間がいれば絶えず、言い争いが発生する。その対立点をはっきりさせて、話し合いによって妥協点を目指していく態度が欠かせない。そうしないと人間関係が破綻してしまう。インギンな人は、自分の「かくあるべし」という独特な価値観で、相手を追い詰めるのが習慣になっている人だと思う。インギンな人は、多くの人から敬遠されるので、表面上必要以上の丁寧さを押し出して、相手からの信頼感を獲得ようとしているのである。しかし現実はそれが裏目に出て、気の利かない人、無神経な人とみなされる。考えていることと現実があべこべになっている。そしていつも葛藤や苦悩でのたうち回っているかわいそうな人なのである。インギンでない人は事実をよく見て、その場にふさわしい言動になっている。事実本位の人はインギンではない人といえる。
2020.05.30
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2020年5月25日安倍総理は、200兆円規模の経済対策を行うと発表した。中身を見てみると、税金や社会保険料を一定期間猶予するなどと言うものも含まれている。あるいは中小企業、小売店、飲食店が倒産しないように、無利子の融資を行うための費用などが計上されている。あくまでも貸付金なのです。つまりこの緊急事態を乗り越えるために、政府が補助金を出して、無条件で助けに入るというものではないのです。最近新規事業を始めた人、売り上げから家賃や仕入れの経費を賄っている人たちは、誰が見ても事業継続は困難です。よほどの貯えがない限りは倒産せざるを得ません。借金を抱えたままで、生き残れる人は生き残ってくださいという経済対策なのです。倒産した人は自己責任ですから、政府が助けることはできませんといわれているようなものです。こういう状態では、国債発行による真水の経済対策費は10兆円から20兆円ぐらいだろうと予想していた。真水というのは直接GDPを押し上げる政府最終消費支出のことです。直接政府が無条件で国民や企業を下支えしていくという事です。補助金です。後で返済してくださいというような対策ではないのです。自民党の「日本の未来を考える勉強会」は真水の経済対策費として100兆円規模の経済対策を提言しています。つまり緊急事態宣言で休業した間の粗利補償、休業補償、今後の事業や生活の立て直しの費用を政府が全額負担することを提案している。そうしないでいったん倒産してしまうと、再起不能になる。日本のGDPは相当下がる。自殺者が相当数出ることが予想される。そのためには国債の発行が必要となりますが、第一次補正予算では25.7兆円の国債発行でした。この中に、国民一人当たり10万円の現金支給12.5兆円が含まれています。今回の第二次補正予算は31兆円になった。一次と合わせて56.7兆円となる。不十分とはいえ、予想がよい方に外れて喜ばしいことだ。ただし、この内容は注意深く監視しないと執行されない可能性がある。というのは、31兆円の内約12兆円は企業の資金繰り支援です。これが返済義務を伴うものであれば、審査に手間どり、企業の負担を迫るものである。なんだかんだと理由をつけて執行を渋るようだとなかったことと同じ結果になる。必ずしも返済を強要しない「劣後ローン」として、積極的に貸し付ければ効いてくる。次に予備費が10兆円あります。これは使用目的を限定しないで、臨機応変に支出していくというものです。この点について、ある御用学者は「予備費については、財政再建の視点から、これはできるだけ使わないようにすべきだ」という提言をしている。財務省や政府が使う事を渋れば、なかったことになる。つまり31兆円の内、22兆円は我々国民が政治家を通じて世論という圧力を加えないと、使われない可能性がある。アドバルーンだけ派手に上げただけで終わりという事にもなりかねない。政府がスピード感をもって確実に実行に移すかどうかを見極めたい。マスクはいまだ届かず、10万円の現金給付も遅々として進まない事を考えると、きわめてあやふやである。さて、この第2次補正予算の決定に至った原因を考えてみると、一つには内閣支持率の急激な悪化がある。それと、「日本の未来を考える勉強会」のメンバーを中心とする自民党の若手議員の突き上げがあったことだ。これが岸田政調会長、西村経済再生担当大臣、麻生財務大臣、安倍総理を動かしたのだ。これは地元の人たちの切実な訴えのたまものだ。今回は世論の動向に政府が敏感に反応したという事だ。二次補正はないと言っていた財務省の意向を吹き飛ばした格好となった。こういうことは今までになかったことだ。政治や経済に関心を持たないと、無力感で投げやりになります。あきらめムードになります。今回は死活問題ですから、そうはならなかったのです。無関心になると、政府、財務省、御用学者、経済評論家、マスコミの説明を鵜呑みにしてしまいます。自分たちで調査したり、考えたりしなくなります。それが私たちの生活の悪化につながってしまうのです。この流れは何とかして食い止めたい。「日本の未来を考える勉強会」では、大きな成果だが、GDPの減少を防ぐためには、まだまだ不十分だとコメントしている。まだまだ半分くらいだと言っている。今後第三次補正予算を組むことも十分あり得ると提言している。さらに消費税の減税や撤廃という問題も提案したいと言っている。そして緊縮財政を積極財政に切り替える必要があると説明している。なにしろ、財務省の中には、コロナ問題が終わったら、早速復興税のような増税を行うと考えている人もいるのだ。そういう人たちに対抗するためには、国民自ら政治や経済の学習は欠かせない。そしてSNSや地元の町会議員、市会議員、県会議員を通じて、国会議員に働きかけていくことも考えていく必要がある。そうすれば、政府の政策を変えさせることができる事を今回学ぶことができた。関心のある方は、自民党の安藤裕衆議院議員が主宰されている「日本の未来を考える勉強会」の提言内容がyou tubeにアップされていますので、視聴されることをお勧めいたします。私はこれを機会に政治に関心を持って、経済の基礎を改めて学習したいと感じております。特にMMT(現代貨幣理論)の学習は欠かせないなと感じている次第です。これは別に本を読まなくてもyou tubeでいくらでも説明されている。
2020.05.29
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私は家庭菜園でいろんな野菜を作っている。作っているもの、これから作りたいものを列挙してみる。トマト、ナス、ピーマン、キュウリ、カボチャ、イチゴ、オクラ、エンドウ、キャベツ、白菜、ブロッコリー、タマネギ、ネギ、ワケギ、ホウレンソウ、春菊、レタス、ダイコン、ラディッシュ、ニンジン、サトイモ、サツマイモ、トウモロコシ、ジャガイモなどである。野菜はそれぞれに強烈な個性を発揮している。特徴、持ち味、成長の過程が全く違う。人間は野菜を作るにあたっては、それぞれの個性を見極めてすくすくと成長できるように援助してあげることだと思う。森田でいうと「野菜の性を尽くす」という事になる。野菜の生育は旬というものがある。夏野菜を秋口に植えると寒さで枯れてしまう。イチゴなどは寒い冬を経験させないと実はつけてくれない。初期生育は手間がかかる。芽が出るまでは保温したり、水やり、間引きが不可欠である。赤ちゃんも1歳6か月までの間は母親が付きっきりで、世話をする。野菜も同じことが言える。独り立ちしても放任してはいけない。絶えず観察して追肥や土寄せを行う。雑草が多くなれば、雑草退治を行う。上に伸びるものは支柱を立ててやる。あるいはネットを張る。カラカラ天気が続くと水やりが欠かせない。いつも近くにいて成長を見守ってあげるという態度が欠かせない。病気や虫に弱い野菜がある。キュウリはベト病に弱い。キャベツ、ブロッコリー、ハクサイは虫に弱い。虫よけネットをしないとほとんど虫に食べられてしまう。トマトは南米の乾燥地帯の生まれのため、ジメジメした雨に弱い。雨よけをつけてやる必要がある。連作障害に弱い野菜がある。ナス科の野菜(ナス、ジャガイモ、トマト、ピーマンなど)は、連作すると収穫量が少なくなり、病気が多くなる。よって同じ場所で作り続けることは避けた方が賢明だ。反対にダイコン、サツマイモ、ニンジンなどは連作障害は出ない。野菜には相性があり、それを考慮して組み合わせてあげると、すくすくと成長しやすい。上手に組み合わせると、病気にならず、健康になる。その組み合わせのことを共生作物、共栄作物という。すでに先人たちが検証によって確立している。例えばキュウリとジャガイモは相性がよい。トマトの後はホウレンソウ、ハクサイなどがよい。ナス科の野菜同士を組み合わせると、ネコブ病が出やすい。ところがそのあとにトウモロコシのようなイネ科の野菜を作ると、ネコブ病の菌は死滅することが分かっている。トマトはアスパラと合う。イチゴはインゲンと相性がよい。そのほかホウレンソウは酸性土壌を嫌う。サトイモは水分の多い土壌を好む。ラッキョウやネギなどは砂地のような土壌を好む。ナス科の野菜、キャベツ、ダイコン、ハクサイなどは大食漢である。反対にカボチャ、エンドウ、ジャガイモ、サツマイモなどは小食である。ジャガイモなどはやせ地のほうが味の良いものができるといわれている。サツマイモなどは多肥するとツルボケになる。これらをうまく組み合わせていく。野菜には根を深く張るものと、浅根の野菜がある。トマト、ナス、ピーマン、ダイコン、ゴホウ、トウモロコシなどは深く根を張る。キュウリやイチゴは浅根の野菜である。これらをうまく組み合わせると、土壌の団粒構造を維持できる。このように見てくると、野菜つくりはとても奥が深いことが分かる。野菜つくりの名人は、組織に入っても適材適所でマネージメントにたけた人になる。特徴や観察を丁寧にして、その人が伸びていく方法を見定めて、ピッタリと寄り添うことができるようになる。野菜つくりの名人をめざすことは、「人の性を尽くす」ことに通じる。
2020.05.28
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今日は情熱大陸で放映された魚食普及人の上田勝彦さん(55歳)を取り上げてみたい。どんなことをされているかというと、漁師に対して魚の神経締めや鮮度保つための下処理のやり方の指導、道の駅などでの魚の販売方法の提案、主婦の人に対して魚料理の講習、見向きもされていない魚の調理方法の開発などである。依頼に応じて全国を飛び回っており、予約は数か月先まで埋まっているという。元々は水産省の官僚であったという。自由を求めて転職されたのだ。魚は鮮度が命だといわれる。そのために船に乗り込んで神経締めで一瞬で締める方法を漁師に指導されている。カワハギなどは船上で下処理をする方法を指導していた。言われたとおりにすると、魚は新鮮で包丁の食いつきが違ってくるという。山口県の阿武町の漁師の依頼に応じて、船に乗り込んで荒れた海で指導していた。漁師も今まではそんなことは知らなかったという。感謝されて、上田さんがやってくると、自然に人の輪ができて夜は宴会が始まる。そこで出される料理は、上田さん自身がまかない料理を作る。番組ではぶりのあら炊きを作ってふるまったがこれが絶品であった。道の駅で地元でとれた魚が売られていた。のどぐろが5匹入って900円。サザエが10個入って1000円という安さだった。そのために、阿武町の道の駅には人だかりができるという。これに対して、町のまちづくり推進課との打ち合わせでは、安売りして行列ができても漁師にはメリットはないという。適正な価格で生産者を支えていくという視点を持つ必要があると指摘されていた。上田さんは、魚を通じて生産者、加工・流通業者、小売業者、飲食店、家庭のみんながハッピーになれる道を絶えず考え続けているのだ。主婦の人への魚を使った料理教室にも感動した。まず魚を使ったみそ汁の作り方です。水にみそを溶かしていく。次に下処理をした魚と根菜類の野菜を入れる。ここで初めて火を入れるのだそうだ。この工程が一番よいといわれていた。次にサワラを使った混ぜご飯の作り方です。サワラは前日の夜下ごしらえをして流水で洗い、水気を取っておく。ご飯が炊きあがるとサワラ、塩、日本酒、ゴマ、青物野菜を入れて混ぜる。すぐに蓋をして3分間待つ。これで十分に火が通るそうだ。試食してみるとおいしいと評判だった。これに刺激を受けて魚料理に挑戦してみますという主婦の言葉が印象的だった。次に北海道根室の水産加工場に飛んだ。ここではモズクガニという灰色の蟹がたくさん獲れるが、見た目が悪くてどうも売れそうにないという。その蟹を横浜の自宅に送らせて、すりつぶしてスープを作っていた。味見は息子の協力を仰いでいる。というより一緒に料理法の開発をしているのだ。その息子(中学生か高校生ぐらい)が心憎いことを言っていた。お父さんをどう思っているかという質問に対して、「親としてよりも、人間として尊敬している」というのだ。しかも父親の目の前で堂々というのが素晴らしい。将来りっぱな人間として成長するのが目に見えるようだった。
2020.05.27
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森田全集第5巻の251ページからの引用です。今日、患者が、鋸で木を切っているところを見たが、ここの患者は、鋸の種類を選ばないうえに、いくら鋸が切れなくても、平気でひいている。鋸の切れ味などは全く無頓着である。職人は、道具を大事にして、常にこれを研いでいる。素人は、その研ぐ時間で、少しでも、木をひいた方が、その時間に、余計に能率があがると思っている。これは大きな思い違いである。先日も材木屋で、木挽を見たが、鋸の目立てを、1日に3回ばかりもやり、1回に40分ぐらいもかかるという事である。素人が考えて、無駄な時間が、実は最も大切な時間であるのである。これは草刈り機も同じである。使っているうちに刃がちびてくる。切れ味の悪い草刈り機は、それをエンジンの回転数でカバーしようとするので燃料が余計にかかる。そして草に対して草刈り機を強く当てて引きちぎるようにして刈るので、人間のほうもしんどい。エンジンもめいっぱい吹かすので終いには焼け付いて煙が出てくる。田舎に帰ると近所の人はみんなグラインダーのついた研ぎ機を持っている。切れが悪いと感じると、みんな刃を研いで使っている。ところがある人が言うには、そんな面倒なことはしなくてもよいという。ホームセンターに行けば1000円ぐらいで新品が手に入る。よく切れる刃が欲しかったら農協で買えば3000円ぐらいで長持ちする替刃が手に入るという。使い物にならなくなったらすぐ廃棄するというのだ。研げば新品同様になるのに、なんとも割り切れない。でもそれが効率的だという。第一グラインダーを買うお金がもったいないという。妙に納得させられるような話だった。しかし物の性を尽くすとはいえない。森田先生の話を考えてみると、まず木が切れないという事に無頓着であるのが問題であると思う。刃がちびたり欠けた鋸は確かに切れ味が悪い。切っている途中で鋸が曲がったりする。スムーズに切れないとイライラしてやる気がしなくなる。そういう不快な感情に気が付かないというのはどうしたことなのか。この場合は、木が切れないという事実に向き合っていない。それは木を切るという事に真剣に取り組んでいない。そんなことはどうでもいいではないかという気持ちなのだと思う。それよりは、神経症を克服することを考えた方が得だ。先生に言われたことを素直にやっているのに、文句を言われるような筋合いはない。そういう気持ちでは、鋸が切れようが切れまいが関係ないという事になる。ここで気づきがないというのは、森田では救いようがないと思う。森田では行動実践によって、豊かで鋭い感情が泉のごとく、こんこんと湧き出ることを前提としているのである。そこが森田の出発点であるともいえる。原点ともいえる。森田先生は「見つめよ」といわれる。見つめながら、ちょっと気に留めていれば、何らかの感情が湧き出てくる。これが大事なところです。私たち神経質者は他の性格と比べると、感性が鋭く豊かであるという特徴があります。それなのにどうして豊かな感情が湧き出てこないのでしょうか。それは目の前のことに目を向けていないからだと思われます。森田では「無所住心」といって一つのことに集中してはいけないといいます。アンテナを広げてあらゆる刺激に敏感になって、緊張感のある生活をお勧めしています。その時の注意や意識は外向きになっています。決して内向的にはなっていません。鋸の例では、ほぼ100パーセント近く内省的になっているのだろうと思われます。しかも、ネガティブで悲観的、自己嫌悪、自己否定に傾いています。そういう状態では豊かな感情が発生してこないのです。元々感性は鋭いものを持っているのですが、強い内省性によって抑圧されているのです。ダムで水がせき止められているような状態です。豊かな感情を発生させるためには、自己内省一辺倒の生活を外向きに転換させてあげることが重要になると思われます。そのためには「凡事徹底」に取り組むことだと思われます。
2020.05.26
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我が家の田舎の庭です。現在シャクナゲが満開です。手前は畑です。現在ジャガイモなどが大きくなっています。金網はイノシシ除けです。昨日の昼は七輪でバーベキューを楽しみました。
2020.05.25
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森田先生のお話です。全く無意味のようなことでも、実際に当たってみると、そこに大きな人生の意味がある。極めて些細な家庭の仕事の内にも、人生の意味の発見があり、私のところでは、この意味で神経質が全治し、あるいは悟りの境涯にも達することができるのである。我々の知識の進歩・真理の発見には、まず疑問・懐疑というところから出発する。疑問があってこそ、初めて研究心が起こるのである。我々は先入観や伝統や独断やで、そのままに決めてしまって、少しも疑わない時には、ただの凡人である。リンゴが落ちる事を真剣に疑問としてこそ、初めてニュートンが、引力を発見したのである。人間の指は、切りそろえたように、一様ではなくて、なに故に長短が不ぞろいであるか、といえば、強迫観念ならば、正に詮索・疑問恐怖となるべきところである。しかるに深くこれを研究・考察する時に、誠にこれは掌中に、球をつかむに、ピッタリと適応するようになっている。猿の親指は、人間のように、他の指と相対向せずに、同じ方向に向かい、枝に飛びつくにはよいが、物をつかむには不適当にできているのである。(森田全集第5巻 270ページから271ページ要旨引用)これは日常生活の心得について説明されている部分である。イヤイヤ仕方なしに手掛けていくなかに、関心、興味、疑問、懐疑、気づき、発見が生まれてくることが肝心なのである。先生に言われたから仕方なくやっているのでは、興味や関心などは生まれてこない。こういうのはお使い根性の仕事だといわれている。また神経症の克服のための実践や行動は、心が常に神経症の克服に向いている。物事本位にはなっていないので、関心や興味を持とうとしても無理なのである。最初は気が向かない、さぼって楽をしたいと思っても構わない。その自然な感情をそのままに感じ取ればよいのです。でも放っておくこともできないので、しぶしぶ手をつける。仕方なく起床して会社に行くための準備を始める。すると停滞していた感情が、行動に促されて少しずつ動き出していくのです。ここが肝心なのです。行動が呼び水となって精神が緊張モードに入っていくのです。最初は他人から強制されたことでも、神経症を治すという実践・行動でも構わないのです。イヤイヤしぶしぶでも全く問題ない。観念中心の世界から、行動の世界へと方向転換するという事が肝心なのです。行動していくと、ついそちらのほうに気を取られて、症状のことは気にも留めていなかったという状況がしばしば現れるようになります。その先に関心、興味、疑問、懐疑、気づき、発見が生まれてくるのです。行動に弾みがついてくると、もう大丈夫です。このことを森田理論学習で学び取り、実生活に応用できるようになると、第一段階の神経症の克服は達成できるのです。またこの段階をきちんと踏んで、基礎固めを行わないと、次の本丸の第二段階の神経症克服には向かうことができません。無理に進むと砂上の楼閣を築くようなものです。混乱して、いつの間にか破綻します。ちなみに本丸は「かくあるべし」を減少させて、事実本位の生活態度を身に着けることです。そして生の欲望そのものになり切れば、森田の達人の域に達することができます。ここまでくれば、よくぞ人間に生まれたりと感謝できるようになります。
2020.05.25
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形外会である方の日記の内容が紹介されている。地下鉄で浅草に行く。今日のように雑踏にもまれた事は初めてである。絶えず心がハラハラしていた。ハラハラしているほうが、落ち着いている時よりも、楽であることを知った。従来ならば、こんな時、落着こう落着こうと努力、腹式呼吸をやったり、人を見下していたりしたものである。人間の心は、風船玉のように、いつもフワフワ漂っているものと思う。空中を漂っている方が、風船にとって、安定である。風が吹いても、風の吹くままに、流されているから、なかなか破れない。これに反して、風船球を一定の所に固定しておくと、少しの風に会えばたちまち破れるのである。(森田全集第5巻 268ページ)この方は不安、恐怖、違和感、不快感などの感情が湧き起こってきたときに、それを取り除こうとやりくりしていたのです。神経症に陥る過程では、みんなこのような行動に向かいます。エネルギーのない人は、気分本位になって逃げ回ります。入院して修養が進むうちに、そういう方向は間違いだと気が付かれている。感情は一つのところに固定してはいけない。感情は風の向くまま、気の向くまま、自然発動に従って自由に泳がしておくことが肝心だ。感情は自然現象であって手出しできないものであることが分かった。正しい感情の取り扱い方を体得されている。感情を風船球に例えるあたりは名文といえる。そしてアンテナをいっぱいに広げて、その時、その場に応じて様々な刺激をうける。豊かな多くの感情が、次から次へと入道雲のように湧き上がってくる。一つ一つの感情に対していちいち丁寧に対応している余裕すらない。不快、不安、恐怖、悲しみ、嫉妬、怒りの感情が沸き起こっても、またすぐに次の感情が沸き起こってきて、以前の感情はすぐに流されていく。サーファーが波に乗って軽快に疾走しているイメージである。そのためには森田では「無所住心」の生活態度を養成することをお勧めしている。自己内省一辺倒から、外向きに注意や意識が転換するようにするのである。さらに変化に即座に対応する生活習慣を身に着ける。そして変化を予測して、いつでも対応できるように準備しておく。そういう生活習慣が身についたとき、神経症は跡形もなく消え去っていく。神経症の克服は、まず森田理論学習によって考え方を改める。それを実践・行動によって、自分の生活信条として継続していく。こういう方向で研鑽を積むことで初めて達成可能となる。
2020.05.24
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5月22日 13:30 ~ 5月25日 12:00 の期間限定で、you tubeにアップされます。今回は「森田療法の克服体験談」2例です。公益財団法人メンタルヘルス岡本記念財団の創始者である岡本常男元理事長の胃腸神経症の克服体験談が含まれています。https://www.youtube.com/user/mentalnobuメンタルヘルス岡本記念財団のホームページからもすぐにアクセス可能です。興味のある方はぜひご視聴ください。
2020.05.23
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ショック・ドクトリンという言葉があります。これば新型コロナウィルスのような社会を揺るがすような問題が発生したときに、普段はとてもすんなりと通らない法案をどさくさにまぎ紛らせて、審議をすることなく、数の論理で法律にしてしまう事を言います。今、米や野菜などの種子法の改正が問題になっています。日本には種子法があります。それは戦後国民を飢えさせたという反省から、「二度と国民を飢えさせない」という決意のもとに生まれました。米、野菜、花卉、果樹の品種の育成や改良は手間暇がかかります。農家が行うことはとても無理です。種苗会社は可能です。そこで日本では、政府が都道府県に予算をつけて、その地域、地域にあった品種改良を行い、優良で安価な種を農家に提供するようにしていたのです。このおかげで市販の種の10分の1の価格の種を農家に提供することができるようになったのです。しかしこの法律があっては都合の悪い人たちがいたのです。世界の種子業界を牛耳っているアメリカのモンサント社のようなグローバル企業です。世界の農産物の種子は、すでに寡占化が進んでいます。グローバル企業4社ですでに7割を抑え込んでいるのです。日本の種子もモンサント社がどんどんと特許申請をしているのです。そういう企業は2年目には芽が出ないようなF1品種を作って販売してきました。あるいは種苗会社の都合の良いように遺伝子操作を行っています。ラウンドアップという除草剤を売り込むために、除草剤を散布しても枯れない種子を開発しているのです。すべては世界の農産物の種子を独占販売して利益を上げるためです。そのためには、日本のように政府が予算をつけて、品種改良して、安価に農家に提供してもらっては困るのです。だから日本に対して規制緩和を求めているのです。グローバル企業が、今だけ、金だけ、自分たちだけのために、多くの人たちを犠牲にしようとしているのです。種子法が改悪されてしまうと、自家採取はできなくなります。そんなことをすると法律で罰せられるようになります。高い種子をグローバル企業から買わないと作物を作ることができない時代がやってくるのです。これは国民や人類の将来に希望をもたらすものではありません。今反対の声を上げないと、子孫を不幸にさせると思います。現代は政治に関心を持たないと、私たちの生活を境地に追い込み、貧困と隷属の世界に追い込もうとしている人たちの独り舞台になると思います。だから神経症で苦しくても、政治から目を離してはいけないと思います。私は森田理論学習によって、神経症の克服と人生観の確立を目指していきますが、同時に世の中の動向をウォッチングして改悪勢力の動向から目を離さないでいこうと思っています。神経症を克服しても、人生観を確立できたとしても、生活を破壊に導くような政策には反対していきます。そのためには常日頃から政治に関心を寄せて学習を欠かさないことだと思います。
2020.05.23
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森田理論では、行動するにあたっては、気分本位であってはならないといわれています。どんなに気分が行動することを拒否しても、イヤイヤ仕方なしに、日常茶飯事、仕事や勉強などに手を付けなくてはいけない。行動することが呼び水となって、気分そのものが変化してくることを忘れないようにしなければいけない。行動することで、将来の明るい見通しが立ってくる。しかし行動することは不安も大きい。エネルギーも使います。考え違いしやすいのは、やりたいという気分が出てきたら行動しようと思うことです。やりたいという気持ちが湧きおこらない限り、行動はしないと決めつけている。こういう考えだと、基本的生活習慣、規則正しい生活、取り組むべき日常茶飯事、仕事や勉強などは気分本位になります。行動を恣意的に選択しているので、規則性が保てない。基本的に他人に依存して、自分みずから手掛けることが少なくなります。またやる気のないままに行動すると、軽はずみな見切り発車となり、目指していた結果が得られないという不安もあります。納得するまで考え抜いて、これなら成功間違いないという確信を得たときに行動しようと考えるようになります。こういう考えだと、シュミレーションした通りにならないとすぐに挫折する。こんなはずではないと思うと、軌道修正するとか態勢を立て直すという事は考えなくなる。自分には無理だ、自分は何をやってもミスや失敗ばかりすると自己否定するようになります。あるいは、無理やり自分を叱咤激励して行動に追い立てることも起こります。自分の気持ちとは反対のことに取り組むのですから、苦痛そのものです。これは自分を「かくあるべし」で追い込んでいるのです。その一方で、暇な時間を持て余すようになる。それをいかにして穴埋めしようかと無意識的に考えるようになる。刹那的な刺激を与えていかないと、生きているという充実感が持てない。自分で何かを手掛けていく楽しみよりは、人から与えられる楽しみを期待して生きていくようになります。本能的な快楽を追い求めるばかりで、人間としては堕落していくのです。反対に、気分がよいときはやりすぎになります。そして疲れてしまう。次の行動への弾みがついてくるどころか、もう二度と行動する気持ちになれなくなる。家の中は散らかし放題、仕事はさぼり放題になりやすい。当然気分はイライラして、生きていくことがつらくなります。このように考えると、行動のとっかかりはイヤイヤ仕方なしという事が多い。それでいいのです。その気持ちのままに手を出し足を出していく。気分本位でやらない方法を選ぶと後悔ばかりが残ります。気分本位を押しのけて行動していくのが正解という事になります。その途中は一本調子で目的にたどり着くことはめったにない。山あり谷あり、問題だらけで、時にくじけて撤退や逃避したくなる。一時的に撤退や逃避してもよいが、態勢を整えて、再び行動するのが肝心です。行動して目的が達成できれば小さな幸せを感じることができる。自信もついてくる。それが次への行動の呼び水につながっていく。観念中心の人は成果が上がらない。自信が生まれない。他人に依存しないと生きていけない。自立できない。内省的になり、自己嫌悪、自己否定で苦しむようになる。人間に生まれてこないほうがよかったと考えるようになる。そうならないためには、森田理論の「行動の原則」を学んで、実践に移してもらいたい。
2020.05.22
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生活の発見誌の4月号からの引用です。柳生但馬守という剣豪に沢庵和尚が送った手紙がある。その中に、何の某と呼ばれて、「ハイ」と即座に返事する。そこにスキのないところがあるんだよといっている。ところが何の某と呼ばれて、しばらくしてから何の用事だろうかと思いながら、「ハーイ」といったら、そういうのは駄目だといっている。物事に即する態度というのは、その刺激に対して自分が一体になる。外界の物事を処理する場合に、その物事を処理することそのものを目的とすると、何のため、何のためという余計なことはいわなくなる。面白い話です。これは外部からの刺激に対して、即座に反応することの大切さを指摘している。どのような変化が起きても、間髪を入れずに適切な行動がとれる。特に命の危険にさらされた場合、とっさの行動が生死を分けます。韓国で地下鉄の火災や大型船の沈没で多くの人が命を落としました。火災を甘く見た人や「船内にそのまま留まっていてください」という放送に従った人は命を落としました。即座な行動・対応ができなかった人は、悔やんでも悔やみきれないことになりました。外部刺激に対して即座に対応できる人と対応できない人はどこが違うのでしょうか。私は普段から精神が緊張状態にあるか、弛緩状態にあるかの違いだと思います。森田理論に「無所住心」という言葉があります。身の回りのあらゆることに神経を張り巡らせて、神経が張り詰めている状態のことです。そういう精神状態にある人は、間髪を入れずに即座に対応できる。反対に「退屈だなあ。何か刺激のあるおもしろいことはないかな」「どうやって時間をつぶそうか」と考えている人は、精神が弛緩状態にあるのです。昼間の活動時間帯は精神緊張状態を維持することはとても大切です。そのためには「凡事徹底」をお勧めしたいと思います。目の前のなすべき課題に心を込めて取り組んでいる人は、すぐに精神緊張モードに入ります。興味や関心、気づきや発見、工夫やアイデア、意欲や情熱が生まれてきます。行動は積極的、生産的、建設的、創造的に変化してきます。ただ単に歩いているのではなく、手を大きく振りながらランニングをしているようなイメージです。すると弾みがついて好循環が始まるのです。他人から声をかけられて、どのように返答するのかをみるだけでこのようなことが分かるのです。
2020.05.21
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1月から3月のGDPが年率換算でマイナス3.4%と落ち込んだ。10月から12月は消費税が10%に増税されたためマイナス7.1に落ち込んでいた。4月から6月はさらに落ち込むことが予想される。民間シンクタンクはマイナス20%減と予想している。500兆円のGDPが400兆円から300兆円に減少するのではないかと言われているのだ。いったん減少したGDPの回復は長い年月がかかる。GDP三面等価の法則により、国民総生産、消費、国民所得が軒並み大幅に減少する。企業経営が立ち行かなくなる。特に中小企業は厳しくなる。全日空の社員は現在医療用ガウンを作るような状況に陥っている。事業の廃業が相次ぎ、多くの人が生活を維持することがままならない事態が想定される。これはまさに令和恐慌と呼ぶべき事態である。これに対して政府の対策はお粗末といわざるを得ない。内閣支持率は急激に悪化してきた。このままではさらに悪化するだろう。希望はないのか。一つだけある。自民党の若手議員が立ち上げた「日本の未来を考える勉強会」である。安藤裕衆議院議員が立ち上げた勉強会だ。会員議員と勉強会参加者はかなりの人数だ。ホームページなどで確認してほしい。地元選出の議員が含まれていれば、直接話を聞くことができるし、要望もできる。3月12日に内閣に提言を行っている。・少なくとも30兆円の国債発行を行うべきである。・2025年プライマリーバランス黒字化は一時棚上げにする。・十分な休業補償を行う。・中小企業に対しては失われた粗利を100%補償する。・消費税を当面0%にする。年収200万円の人にとっては20万円の現金給付と同じ効果がある。中小企業にとっても、粗利を削って消費税を支払っているので効果がある。・今後の経済対策としては、国土強靭化、教育、科学技術投資、サプライチェーンの再構築、特定国依存型のインバウンドの見直し、内需主導型の経済成長を促す。これらの政策は、政府や財務省が眉を顰めるような提言ばかりである。増税や緊縮財政ばかりを考えて実行してきた人たちにとっては、到底容認できない内容である。これに対抗するためには世論の高まりである。そのためには、政治に関心を持ち、政府の経済政策の中身を検証していく学習が必要になると思う。
2020.05.20
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人間にはコントロールできない事とできる事があります。コントロールできないことは、どんなに承服しがたいことでもあるがままに受け入れていく。コントロールできることは、どんなに気分が重くてやる気が起こらなくても取り組んでいく。この態度で臨めば、生活するうえで、何も問題が起こらないようになっています。ところが、これが逆になっている人がとても多い。神経症に陥っている人は、その最たるものです。まずその区別をすることが肝心です。コントロールできないことはどんなことでしょう。・自然に湧き上がってきた不安、恐怖、違和感、不快感などです。・自分の境遇です。親、兄弟、容姿、性格、能力、生まれた国、生まれた時代などです。・自分の弱点、欠点、ミス、失敗などです。どんなに取り繕ってもごまかせない。・他人を自分の思いのままにコントロールすること。他人の自分への仕打ちなど。・自然災害、経済変動、紛争や戦争などです。自然災害などは、あらかじめリスク回避のための準備をすることが欠かせません。しかし基本的には、どんなに理不尽だと思っても受け入れるしかありません。その他の項目に対しては、白旗を上げてあるがままに受け入れて、そこを出発点と考えていくことが賢明だと思います。しかし現実必ずしもそうなっていない。むしろ反対の行動をとっていることが多い。自ら葛藤や苦しみの元を作り出している。次にコントロールできることは何でしょう。というよりもコントロールしなければならないことは何でしょうか。・どんな感情でもあるがままに受け入れるという事です。そのためには森田理論の「感情の法則」「欲望と不安」の学習は必須となります。そして一つの感情に固執するのではなく、感情を山奥の小川を流れる水のように、流す技術を身に着けることが大切になります。・運命は受け入れるしかない。自分の運命を受け入れて、まさにそこを出発点にできた人が素晴らしい人生を築き上げていく。自分の人生を終えるときにはっきりと目に見える形で結果が出る。後悔したくなければ、グチを言わずに運命や境遇は受け入れたほうがよい。・「かくあるべし」が少なく、事実本位の生き方は肩の荷を下ろしたような楽に気持ちになれる。そういう人は素敵なオーラを醸し出している。自然に人の輪が広がる。・地震、津波、土砂災害、台風、大雪、雷、伝染病などは事前の準備が大切です。そして実際に自然災害が起きたときに、あらかじめ決めていた素早い行動が、生死を分けます。不安に学んで用意周到な手立てをしておくことが肝心です。そのために国土強靭化のための政治をしてもらうように政治家に働きかける。
2020.05.19
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年金や医療費について次のようなことが公然と言われています。現在は4人の現役世代が1人の高齢者を支えていますが、これから先は3人の現役世代が1人の高齢者を支えていくようになります。そしてこのまま世界一の長寿が続いていくと、2人の現役世代が1人の高齢者を支えていかなくてはならない。これを放置していくと、日本国は経済破綻する。こんな話を聞くと、高齢者は肩身が狭い思いがします。長生きすることは悪なのか。病院に行くことは、現役世代に迷惑をかけていることなのか。高齢者は社会の邪魔者として、質素倹約に努めて、ひっそりと生きていくしかないのか。また我々高齢者は今まで給料の中から年金の原資を積み立ててきた。それを還元してもらっているのだから、別に迷惑をかけているわけではないと反論する人もいます。この話は本当なのか。真実を調べ上げてみました。事実はそうではありませんでした。確かに65歳を超える高齢者はこれからもどんどん増加していきます。人口ピラミッドを見ているとうなずける話です。さらに平均年齢も80歳を超え、100歳を超えている人も一つの市ができるほど増加しています。それに引き換え少子化で、15歳から64歳までの労働生産人口はどんどん減少しています。世代間扶養という視点から考えると、少ない現役世帯が増え続ける高齢者を支えていかなくてはならないという理屈が成り立ちます。現役世代から見ると、生活することで精いっぱいなのに、どうして高齢者の面倒まで見ることが可能なのか。いい加減にしてくれ。いつまでも長生きされては、我々の生活が破壊されてしまう。つまり国民年金、厚生年金、健康保険料、介護費用、税金などを増やしてもらっては、私たちの生活が立ち行かなくなります。しかし高齢者が年金、医療、介護などのサービスを受けているということは、日本のGDPを大きく押し上げているという事になります。GDPを押し上げないと国の成長はないわけです。現在の日本は世界全体から見ると最低水準です。ほとんど増加していない。ほとんどの国が大きく増加している中で、日本が一人蚊帳の外といった状態にあるのです。GDPの増加に大きく影響を与えているのは、個人消費、企業の設備投資、公共投資などがあります。これらは消費税の増税と緊縮財政のおかげでほとんど伸びていません。それがデフレの原因になっているのです。デフレというのは物価が安くなったといって喜んでいる場合ではないのです。自分たちの所得が減って、経済が停滞し、生活がどんどん負のスパイラルに陥ることになるのです。そして生産設備が老朽化して、最後には生産したくても生産できなくなる。そのよい例が農業です。農業機械が老朽化してくると、米さえ作ることができなくなります。生産設備を持たない国は後進国、発展途上国に分類されています。信じられないでしょうが、日本経済を見るとまさにその道を突き進んでいるのです。このままいけば日本は中国の属国となるかもしれません。中国の属国になれば、言論の自由、思想の自由、行動の自由は政府によって制限されるようになります。それを指をくわえて、容認するのですかという話になります。GDPを押し上げる個人消費、企業の設備投資、公共投資は減少あるいは横ばいですが、大きく伸びているものがあります。政府最終消費支出といわれている部分です。政府が否応なく支出している年金、医療費、介護費用などが大幅に伸びている。これが今の日本GDPを大きく押し上げているです。これが仮にマイナスになっていると、GDPはマイナス成長に落ち込んでいるはずです。極度のマイナス成長は、国としての将来は約束されないのです。ですから高齢者が医療や介護サービスを大いに消費しているという事は、決してマイナスではなく。経済成長に大きく寄与していると考えた方がよい。医療や介護の問題は、医療費や介護費用の高騰ばかりが問題にされているが、それは問題を矮小化させていると思う。真の問題は、増え続ける医療費や介護の需要に対して、供給が追い付いていないという事なのです。医者、看護師、介護職員、医療機器、介護用具の不足があります。稼働率の悪い病院などは統合やベッド数の削減の政策が行われています。高齢者が満足できるような医療体制、介護体制がまだまだ不十分という事です。経費の削減のために、むしろ質やサービスの低下を招いているのです。現在の医療従事者は懸命に働いておられるのですが、生産性の向上が図られていないという事です。どんどん新しいシステム、技術やサービスを開発し、充実させていく必要がある。つまり、この分野の生産性の向上が見られない。停滞して技術革新が止まったままになっている。どんどん高まる需要に対して、供給が追い付いていないととらえるべきなのです。それを外国人労働者によって穴埋めしようとしているのです。安易に外国人労働者に頼ると、医療従事者の所得は増えません。過酷な労働の割には所得が増えていかない。また、それに胡坐をかいてしまうと、医療や介護の技術革新は一向に進展しません。外国人労働力に依存すると、医療や介護の進歩はありません。あるいは混合診療、自由診療を拡大して、保険適応診療を骨抜きにしてしまうような手法はあってはならないことです。世の中の流れは、そういう方向を目指しています。将来国民皆保険は骨抜きにされる可能性が非常に高いのです。人の言っていることを鵜呑みにしてしまうのではなく、いったんは果たしてそうなのかと、調べてみることは大切なことです。一人でできなければ、大勢で手分けして真偽のほどを調べてみることです。そうしないとどんどん間違った方向に流されてしまいます。気が付いたらもう手の施しようがなかったという事態に追い込まれてしまいます。森田理論で学習した通りのことが起きてしまうのです。
2020.05.18
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昨日電車で移動しましたが、1両に5人ぐらいしか乗っていませんでした。今日はパチンコ屋の前を車で通りましたが、駐車場にはほとんど車は駐車していませんでした。営業はしているみたいでした。人が出てきていないのです。飲食業界をはじめ、あらゆる業界に深刻な影響を及ぼしています。新型コロナの影響がもろに襲いかかっています。このまま経済活動の停滞が続くと、たいへんな事態に発展します。この状況に対しては、政治主導での対応が不可欠となっています。この問題についてyou tubeで大胆な提言が行われていましたのでご紹介します。消費税ゼロ 緊急鼎談 その1、緊急鼎談 その2安藤裕(衆議院議員)藤井聡(京都大学大学院教授)三橋貴明(経世論研究所 所長)以上3名による、令和恐慌を乗り越えるための緊急提言の座談会です。現状認識を深めるために、ぜひとも視聴されることをお勧めいたします。
2020.05.18
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私たち神経質者は、主体的に生きていきたい、後悔しない生き方をしたい。積極的に生きていきたい。夢や目標を追い求めて生きていきたいと願っています。ところが多くの人の現実は、対人的な不安や恐怖が発生して、積極的な生き方に抑止力がかかっている。自分の思いや願いとは反対の結果に終わっているのが現状です。その原因として考えられることは、他人から拒否、無視、批判、否定されることを気にしている。プライド、自尊心、誇り、人格、存在を脅かされることに我慢がならないのです。他人が自分をどう扱うのか絶えず神経を研ぎ澄ましている。専守防衛的な生き方になっているのです。何よりも社会的な死を恐れているのです。ある意味実際に命を落とすことよりも怖いと思っています。結婚したい。子供をもうけて暖かい家庭を作りたいという夢や希望は誰でも持っています。お眼鏡にかなう彼氏や彼女がいても、もし拒否されたらどうしようという気持ちが湧いてきます。もしそんなことになればみじめだ。そうだ。なにもしなければみじめな気持ちは味わうことは避けられる。ここは夢や希望は我慢して、現状維持で我慢しよう。独身というのも案外楽しいものだと、自分を納得させてしまう。私は書籍の訪問販売の仕事をしていました。断られることが多い仕事です。断られると自尊心がものすごく傷つくのです。その結果、仕事をさぼるようになりました。営業成績を上げて同僚や上司から評価されたいという気持ちは強いのですが、自尊心が傷つくことが恐ろしくて、逃げ回る事しかできないのです。仕事で成果を出さないという事は分かっていますが、金縛りにあったようで身動きができないのです。私は対人的な不安や恐怖は取り除くことはできないと思っています。また逃げ回ると後で後悔するという事もよくわかっております。それでも、夢や目標はあきらめきれない。あきらめてはいけないと思います。ではどうすればよいのか。自分一人ではどうすることもできないと白旗掲げることです。事実を認めたうえで、目標をしっかりと視野に入れていれば何とかなります。私の場合は人の力を借りることが有効だと思いました。自分一人ではすぐに仕事をさぼる方向に向いてしまいます。ところが二人一組の営業活動になりますと、相手の目がありますので、すぐにさぼるわけにはいかない。何とか仕事にしがみつくことになります。また断りを受けても、自尊心が傷つく割合が低くなることも経験しました。二人でやると成果が上がらないように思いますが、さぼっているよりはましでした。ただいつもそういう相手が見つからないというのが難しかった。結婚したい人は自分一人で考えていてもどうにもならないと思います。行動としては逃げ腰になっています。自分を信頼してはいけません。こういう場合も他人の援助を受けることです。友だち、親戚、職場の先輩、同級生、趣味の仲間などに幅広く声をかけておくことです。そうすると誰でもそういえばあの人がいいのではないかという人は1人や2人は思い浮かぶものです。そしていろんな集まりに参加しておくことです。縁というのは不思議なもので突然にやってくるものです。対人的な不安を抱えていても、それを認めて受け入れ、夢や希望を追い求めている限り必ず実現します。そのためには幅広く薄い人間関係を広げておくことが有効です。
2020.05.17
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4月号の生活の発見誌に神経質者の行動の傾向についての投稿があった。今日はそのことについて考えてみたい。いつも不安にこだわる。自分の不安のほうにまず目が向いてしまう。不安に限らず、恐怖、違和感、不快感などもあります。私はそれらにとらわれてしまう特性はなくならないと思います。問題は不安にとらわれやすい特性を価値判断することだと思います。そういう特性は悪い。生活するうえでマイナスに作用している。だからそういう悪い特性は無くしてしまうほうがよい。修正しなければならない。少々の不安材料はあっけらかんと笑い飛ばしてしまうような性格改造をすることが望ましい。イケイケどんどんの人を見ては、その人にあこがれ、自己嫌悪に陥る。私は不安には大いにこだわるほうがよいという考えです。森田理論で欲望の強い人ほど不安を感じるという事を学んだからです。普通の人が気が付かないという事まで不安を感じる。これは私たちの最大の長所として再評価する必要があると思います。普通の発想ではないと思われるかもしれませんが、森田理論学習によって信念に代わりました。ただこれを長所として生かすためにはちょっとしたコツがあります。頭に浮かんだ不安を確実にチャッチしておく必要があるのです。そうしないと、不安で苦しむだけで、むしろ自分を否定する道具になってしまうのです。気づいた不安がすぐに忘却の彼方に飛び去ってしまうと、せっかくの宝物が自分の手からスルッとこぼれ落ちてしまうのです。それを防止するためには、確実にキャッチする習慣を作り上げることです。以前の生活の発見誌に「紙切れ法」を紹介している人がいました。気づいたことを紙切れにすぐ書き留めていくことを実践している人でした。これだけは心を鬼にして実践している人でした。その紙切れを数多く集めることが実践目標になっていたのです。そして仕事の合間、家に帰ってからその紙切れを机の上に並べて整理するのです。すぐできること、取り組みやすいもの、納期が指定されているもの、時間がかかるもの、人の協力が必要なもの、今の自分では解決困難なものなどに仕分けするのです。そしてすぐにできるものから行動に移していくのです。片が付いたらその紙切れは処分するのです。不安にとらわれやすい神経質性格者だからこそ実現可能なことです。そのうち川柳、俳句、ユーモア小話のネタなども思いつくようになります。これを仮に1か月、3か月、1年と期間を決めて徹底してとり組んでみてください。生活が活性化し、周りの人からも評価されるようになると思います。そして仕事に追われていた自分が、反対に仕事を追っていくように変化してきます。不安はあればあるほど課題をたくさん抱えているという事になります。不安があるからこそ生きがいを感じることができるという事になります。だから不安は大いに自分の生活の中で活かしていくことが大事になるのです。
2020.05.16
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森田全集第5巻の652ページに神経症の治り方が分かりやすく説明されている。まず小学校卒業程度の治り方である。神経症に陥って苦しい。気分が悪い。そんな時、そう思いながらも普段の生活を維持していく。イヤイヤ仕方なしに仕事に行く。人付き合いもする。趣味の会にも行く。当たり前のようなことだが、神経症に陥ると、症状に振り回されて当たり前のことができなくなる。森田理論を学習して、当たり前のことができるようになると症状は治る。この段階では症状で頭が狂いそうであるが、症状だけにかかわっているわけではない。100パーセント症状のことばかり考えていた状態から、抜け出しつつあると判断できる。その割合が80パーセント、70パーセントと低下することで、症状から離れていくというイメージである。生活が充実するにしたがって、周囲の人からは症状に振り回されている人とは見えなくなる。こういう治り方である。第一段階の神経症の陶冶のことである。次に中学校卒業程度の治り方である。今でいうと高校卒業程度の治り方のことである。不安、恐怖、違和感、不快感は嫌なものである。普通はそれを取り除こうとする。すっきりした精神的な安心感を得たいのである。そこまでのエネルギーのない人は、気分に振り回されて逃避的な行動をとる。これが神経症発症の原因を作り出している。森田理論学習によって、そのからくりや弊害が分かり、取り除いたり逃げ回ることをしなくなった人は神経症を克服した人といえる。一口で言うと簡単であるが、ハードルは高くなる。不安な気持ちが襲ってきても、どんな理不尽な出来事が目の前に立ちはだかっても、事実や現実を受け入れていけるようになった人のことである。そのためには森田理論学習と仲間や先輩の援助が必要となる。その方法を様々に用意しているのが森田理論である。それらを総動員して自ら体得していくものである。最後に大学卒業程度の治り方というのがある。生の欲望の発揮のことである。生の躍動そのものになり切っていくことである。ここで肝心なことは、欲望が発生すると不安も発生するということだ。欲望を車のアクセルとすると、ブレーキにあたるものが不安になる。アクセルを踏み込まないと車は前に進むことはない。第一に心掛けることはアクセルを踏み込むことである。ところがカーブや坂道ではブレーキを活用しないと大事故になる。生の欲望の発揮は、不安の役割を理解して、不安を活用しながら行うことが肝心である。こうしてみると昔から小学校卒業程度で森田から離れていく人が多い。私は森田のだいご味は、中学卒業程度にあると考えている。この段階は観念中心の世界から解放されて、事実の世界に自らの置き場所を変えた人だと思う。そういう人は楽に生きている。あるものを大切にしている。活かしている。人間に生まれたことを感謝している。他人との人間関係もよい。立派な子育てをしている。つまり確固たる人生観が確立しており、自信にあふれているのである。こうなれば周りの人にとても良い影響を及ぼすようになる。この段階に来れば、大学卒業程度の段階にはすんなりと入ることができるようになる。森田の学習に取り組んでいる人は、ぜひとも中学卒業程度を目指してもらいたいものである。
2020.05.15
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この番組は自己否定について深く考えさせられる番組だった。役者を職業とする本木雅弘さんは、神経質性格で細かいことにこだわる人であると思う。そんな自分が好きになれない。そのためかどうか友達はいない。樹木希林さんの娘さんと結婚されている。家族の人間関係は良好で、家族からは尊敬されている。番組では、天下の悪役といわれる斉藤道山を演じていた。普通監督のオッケーが出ると、仕事から解放されて「やれやれ」と安心する役者が多い。本木さんは、ビデオを見て納得ができないと、監督と話し合い、何度も撮り直ししていた。共演者を巻き込んでの取り直しなので、大変なことになる。本木さんは自分の神経質性格をストイックであまり評価していないように感じた。「自分には愛がない、だから自分も 愛せない」と思い悩んでいたという。周りからみると一目おかれている、存在感のある役者なのに、完全を求めて現状に満足できない。自分は演技が未熟だ。もっと感動的で人の胸を打つ演技ができるはずだと自分を追い込んでいく。果てしなく完全な演技を追い求めているので、肉体的、精神的に疲れる。そんな本木さんに、樹木希林さんは「もっと 楽に生きたら?自分が疲れない?」と声をかけてくれたとのこと。そんな樹木希林さんに、「そんな生き方ができない人の気持ちがわかりますか」と常々反発していたという。これは取り扱いを間違うと、「かくあるべし」を自分に押し付けることになります。本木さんの場合は、自分の演技がまだまだ未熟だという現実を再認識するように作用している。現実に妥協することなく、問題点や課題を明確にする方向に向かっている。そして改善や改良すべきことを見つけ出して、自分を鼓舞して仕事に臨んでいる。生きるエネルギを生み出す源泉になっているのだ。生の欲望が強い人だ。努力の人だ。絶えず大きな問題や課題を抱えているので圧迫感で苦しいのだろう。その方向は森田でいう「努力即幸福」の世界であって、森田先生が目指されていた世界である。努力している最中は心中穏やかではないのです。でもそうするしか生きる道はないといったイメージでしょうか。そうした中、本木さんが大きく飛躍する映画がありました。「おくりびと」という亡き人を棺に納め、その魂を見送る「納棺師」を扱った映画です。周囲からは葬式の裏側を描いてもヒットしないと反対されたそうです。本木さんは本を読んで自ら提案し、実際に納棺師の仕事を体験された。「自分は現実を知っている、そこに触れたっていう自信ですかね、自信が圧倒的に違った。私にしては珍しく人間に愛情があったんじゃないですか」とコメントされていた。自ら納棺師のもとに足を運び体験されたというのがすごいですね。森田の考え方そのものですね。樹木希林さんが遺された雑記帳の中に、「美によって神に到達するこの道がもっともやさしく望ましい。虚飾なく、それでいて心を動かす何か一芸を観せるんではなく、心を込めて自分を出すんではなく無念な魂を鎮めていただけるよう演じる」という一文があったという。この言葉について、本木さんは「演じる時はまだ答えの出ていないあなたの自我は脇に置いといていた方がいいんじゃない?もう少し素直に祈る気持ちで演じるべきじゃないの…。自分という未完成な状態を晒しているっていう行為で、そうやって認めていくのね、そうやって諦めていくのねっていうことをまた突きつけられた」と述べていた。奥の深い言葉だと思います。正確にはその真意がわかりません。樹木希林さんの「美によって神に到達する道がもっともやさしく望ましい」という言葉ですが、私は次のように解釈しました。どんな理不尽なこと、どんなに不幸な境遇や事件が起きても、最終的には事実、現実、現状をあるがままに受け入れて、自分の出来ることに可能な限り精魂を傾けるような生き方が望ましい。決して「かくあるべし」を前面に押し出して、自己否定、他人否定、自然破壊という過ちを繰り返してはなりませんよ。広島の原爆慰霊碑の前には、「安らかにお眠りください。過ちは決して繰り返しませぬから」と刻印されている。しかし喉元過ぎれば熱さ忘れるではないですが、その固い決意はいとも簡単に忘れてしまうのも人間であります。
2020.05.14
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私は神経症で苦しんでいる人の中に、ビールを飲むことが好きな人がいたら、神経症との格闘は棚上げにして、いかにしておいしくビールを飲むかという課題に取り組むことを提案したい。目標としては350ミリのビールをおいしく飲むことです。それでは物足りないという人は500ミリまでである。飲む時間は晩酌である。昼間に飲むことはお勧めしない。底抜けに飲み放題の目標設定はお勧めしない。二日酔いや飲みすぎは百害あって一利なしである。そのための方法を紹介していこう。昼間はガブガブと飲料水を飲まないようにする。昼間は体をよく動かす。エレベーターなどは使わないで、階段を上る。ウォーキングなどの運動を心掛ける。家の中に一日中いて、晩酌でおいしいビールを味わいたというのは虫がよすぎる。これを心掛けるだけで、十分においしいビールを味わうことができる。次にさらにおいしくビールを飲む方法をご紹介したい。ビールは夏は4度から8度に冷やす。冬場は10度がよいそうだ。冷やしすぎると泡が立ちにくくなる。ビールは泡でうまみや風味を閉じ込めるので大変重要なのである。ビールを注ぐコップは冷凍庫で冷やすのではなく、氷を入れて冷やす。次にビールの注ぎ方に注意を払う。まず勢いよくグラスいっぱいに注ぐ。一分ほどでビールと泡が1:1になる。そしたら2回目のビールを泡の真ん中に注ぐ。泡が4、ビールが6の割合になるまで待つ。最後にゆっくりと注いで泡立てる。これでサーバーで入れたような、豊かな泡のあるビールが完成する。機が熟すまで待つことが肝心だ。興味がある方は各ビール会社が工場見学を行っている。もちろん試飲もできる。社会見学になる。ぜひお勧めしたい。私は大阪に単身赴任していた時に、サントリー京都工場を見学した。この近くにはサントリー山崎工場もあり、ここではシングルモルトの試飲ができた。ほろ酔い加減になったころ、近くの京都競馬場に立ち寄り競馬を楽しんだ思い出がある。最後は京阪電車で大阪市内に戻り、天満天神商店街のなじみのすし屋で寿司を食べるのが息抜きとなっていた。遠くの友達にも紹介して、都合3回もツアーを実施した。当然みんなに感謝された。「たかがビール、されどビール」関心や興味があれば、工夫次第で無限の楽しみを見つけることができる。この件に関して2017年7月2日にも投稿していますのでご覧ください。
2020.05.13
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インナーチャイルド、アダルトチルドレン、愛着障害はほとんど同じ内容だと思われます。親が子供に過保護、過干渉、無視、放任、育児放棄することで、子供の成育過程に支障を生じている。自立できない。依存的になる。刹那的、本能的な快楽を追い求める。何かに挑戦して楽しみを見つけることができない。気分本位で逃避的になる。自分に自信が持てない。自己肯定感が持てない。自己嫌悪、自己否定が強い。他人が信頼できない。他人と対立的になる。自立できない。依存的になる。これらがその人の一生に付きまとうわけですから、やり切りません。こうならないためには、これから子供を育てる人や孫の世話をする人は、子育ての基本を学んでいく必要があります。まずは1歳6か月までに愛着の形成を確実に行うことです。親子の信頼関係の形成はとても大切です。親の温かい愛情の下で、子供は安心感と信頼感を獲得していきます。その後は常に子供のそばにいて、子供が挑戦する姿をじっと見守ることになります。様々なことに挑戦させて、多くの経験を積ませる。そしてやればできるという成功体験を数多く積み重ねていく。子育ては母親だけではなく、父親も積極的にかかわる必要があります。目標は、自分に与えられた問題や課題に対して、安易に逃げないで、積極的に取り組んでいける人間に育てる。経済的にも精神的にも自立して建設的、生産的、創造的な人生を歩んでいけるように支援することです。そのために森田理論学習を活用することを提案いたします。神経症の成り立ち、神経質の性格特徴、感情の法則、実践・行動の取り組み方、不安と欲望の関係、生の欲望の発揮、「かくあるべし」の弊害、事実本位の生き方、認識の誤りなどは子育てする親や祖父母に大変役立ちます。生活の発見会では、ファミリー集談会というのがあり、子育て中の母親が集まって子育ての悩みや原則を学んでいます。一般の人も一人よがりの子育てではなく、基本を学び、問題が発生したときには、相談できる仲間を持っておくことはとても大切です。不幸にしてインナーチャイルド、アダルトチルドレン、愛着障害を抱えてしまった人はどうすればよいのでしょうか。自分一人ではどうすることもできないと思います。遅まきながらでも、岡田尊司氏の提案されている、「心の安全基地」作りに取り組むことです。親との間で起きた問題ですから、親以外の人間関係の中で「心の安全基地」を作る必要があります。集談会の仲間、配偶者、友達、師、先輩、カウンセラーなどから見つけることです。何か心の問題を抱えたときに、信頼して相談できる人を見つけておくことです。私はアダルトチルドレンですが、集談会の中に信頼できる先輩を見つけることができました。その人も神経症で悩んでいた人だったので、傾聴、受容、共感力がありました。私は会社での人間関係などで問題が発生すると、相談に乗ってもらいました。今考えると、母港を持っていたようなものです。時々母港で心の洗濯をして、態勢を整えてまた新たに出航できたのです。集談会でも「心の安全基地」になれるような人は、数は多くはありませんが間違いなくおられます。そういう人は自分の話をよく聞いてくれます。非難や否定はしません。妙案がなくても、いつまでも寄り添って気にかけてくれています。そして秘密は決して他人に口外しません。そういう人を見つけて、後ろ盾を持っていると、安心感が生まれて、積極的な行動へとつながるのです。
2020.05.12
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精神科医、青木薫久先生がお亡くなりになったそうです。先生には、はるばる広島においでいただき講話をしていただきました。それも2回もおいでいただきました。岡山での「心の健康セミナー」では親しくお話をさせていただきました。「心配症をなおす本」は何度も読みました。グリーン森田の話、仏教の神髄についてのお話が印象に残っております。それから森田全集第5巻は青木先生の担当だったというエピソードをいろいろとお伺いしました。森田理論普及のために多大な功績を残されたことに対して、深い敬意を表します。ご冥福をお祈りいたします。
2020.05.11
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高良武久先生はジョンという犬を飼っておられたそうです。雑種で、毛が長くて汚れていて、連れて歩くのも恥ずかしいような犬です。夕方になると、私の顔を見て、散歩に連れて行くように吠え立てる。それを見ると、連れて行かないわけにはいかないような気持になる。汚らしい犬だけれども、長年それを世話していると、それに対する愛情が湧いてくる。人に対しても、物に対しても、動物に対しても、植物に対しても、自分の周りにあるものを世話していく。りっぱに育てていく。そういう自分の愛するものを自分の周りにたくさん持っておく。これが豊かな生活につながるものだと思います。自己中心から解放された、「日々是好日」というような、豊かな生活というものは、そういう世話をするものをどれだけ身の回りに集めているのかに尽きると思うのであります。私もそう思います。神経症で悩んでいる人は、世話の必要なものを持つことが有効です。私の経験を話してみたいと思います。私は草花を育てることが好きです。ベランダでは、季節の花が咲き乱れています。特に福助作りをしてからは、菊を育てることに興味が出てきました。毎日調子を見て水をやります。菊などは水やりを怠るとすぐしおれます。田舎では時期になるとスイセン、チュウリップ、アジサイ、コスモスなどが咲き乱れます。これらは一度植えておけば手がかかりません。そのほかシャクナゲなども立派な花を咲かせて楽しませてくれます。庭木もたくさん植えてあります。庭木は元気よく育つものと、すぐに枯れてしまうものがあります。カイズカイブキ、マキ、シャクナゲ、ユズリハなどは大きく育ちました。金木犀、レットロビン、山茶花、千両、万両などは残念ながら枯れてしまいました。楽しみがあるので田舎にはよく足を運びます。近所の人は、ヤギやニワトリ、烏骨鶏などを飼っている人もいます。田舎では自家用野菜に取り組んでいます。このブログでも何度も紹介しました。これからはジャガイモ、トマト、ナス、ピーマン、キュウリ、キャベツ、カリフラワーなどを植えます。イノシシがいるので先日は柵を作りました。発酵鶏糞をまいたり、輪作を考えたり、畝を立てたり、支柱を立てたりと手間がかかりますが、収穫できた時の喜びは何物にも代えがたいものがあります。沢山出来るとおすそ分けしています。昨年はキャベツと白菜などはほとんど虫に食われたのでも今年は虫よけをしました。松の盆栽が好きなので管理していましたが、水をたくさんやってはいけないというのにとらわれて枯れてしまいました。金魚も飼っていましたが、3年ほどで死んでしまいました。本来は10年近く生きるそうです。これらは育て名人に指導してもらわないとうまくいかないと思います。私の周りには犬や猫や鳥を飼っている人が多いです。家族の一員と思って世話をしておられるようです。糞尿の始末、部屋の中の掃除、食事の準備、運動、病気の予防と世話をすることがたくさんあります。動物を飼い始めると、自分の行動がある程度制限されます。その分親身になって世話をするので、愛情が深まるのだと思います。自分の周りに世話の必要なものがあると、症状のみに振り回されことがなくなります。注意や意識を分散させるという効果があります。神経症と格闘している人は、世話の必要なものを身の周りに集めることに取り組んでみてはいかがでしょうか。
2020.05.11
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水谷先生が森田先生のところに入院されていたときにこんなことがありました。水谷青年が、一年草の草花に一心に水をやっていました。森田先生がやってきて「君は何をしているのだ」といわれました。この草花は一年草で、花はすでに咲きつくし、自然に枯れるべき運命にある。じっと見ると誰にでもすぐに分かることだ。君にはそれが分からないのか。水谷青年は、森田先生に「見つめよ、見つめよ」と繰り返し指導されていました。普段からその言葉を繰り返して反復していたそうです。学校から帰ると、すぐに草花のところにとんで行って水をやっていました。森田先生の言葉にとらわれて、先生の言われたとおりに実行しなければいけないと自分に言い聞かせていました。いつも草花のことを気にかけていなければならない。ほかのことは放り投げても、草花から目を離してはいけない。草花に注意や意識を無理やりでも振り向けていなければならない。そういった「かくあるべし」にがんじがらめに縛られているために、心は草花には向いていないのです。一年草の草花がその命を終わらせようとしていることにはまったく気づかない。その時意識はどこに向いているのか。自分の行動を見て、森田先生が「君は私の言ったことを忘れないで、きちんと実践している。大したものだ。これからもこの調子で頑張りなさい」などいう評価を期待しているのだ。あわよくばみんなの前で、水谷君を見習って行動するようにと誉めてもらうことを期待している。森田先生の「見つめよ」という言葉は、じっと見つめていると何らかの感情や連想が沸き起こってくるはずだ。もともと備わっている豊かな感情を泉のごとく湧きださせることを狙っているのだ。事に触れ、時の経過とともに、様々な豊かな感情が生まれてくる。森田ではそれがないとなにも始まらない。感情が湧き出てくると、関心や興味が湧き、気づきや発見や工夫などを思いつくようになる。それをもとに行動していくと、生活はどんどん建設的、生産的、創造的に発展していく。水谷青年と森田先生の決定的ともいえるようなすれ違いはいかにして生まれたのか。水谷青年は劣等感が強く対人恐怖症といわれている。そういう人は他人の言動に振り回されやすいという特徴があります。裏を返せば、自己信頼感が持てない。自己肯定感がないわけです。自分はこう思います。自分はこうしたいのです。自分はこうして生きていきます。そういう芯のようなものが確立されていないので、他人に振り回されてばかりなのです。今まで地に足のついた生活習慣がないために、小さな成功体験の積み重ねができていないのです。小さな成功体験を積み重ねていると、自信がついて、自分はやればできるという自己信頼感が育ってきます。そのためには、まず森田の言う「凡事徹底」の生活習慣を維持することが大切になります。これはやる気になれば誰でもできます。そのうえで高良武久先生は、「これは誰にも負けないという特技・専門分野を持ちなさい」と言われています。10年一つのことに取り組めば、誰でもその道のエキスパートになれるでしょう。それが自信となり、その後ろ盾があると、どのような人生の艱難辛苦に対しても、立ち向かっていけるようになるのです。対人恐怖症は、あってもほとんど問題にならなくなるのです。感情を発生させて、生活を活性化する前に、自己肯定感を作り出すことに取り組む必要があります。
2020.05.10
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田舎のお寺の住職さんのお話です。1945年日本は戦争に負けました。その当時アメリカにいた日本人は全員収容所に入れられました。子供からお年寄りまですべての日系アメリカ人が対象になりました。アメリカはドイツやイタリアとも戦っていましたが、収容されたのは日本人だけです。日本人はアメリカ人から「ジャップ」と呼ばれて軽蔑・差別されたのです。突然真珠湾攻撃をつかけてきた卑怯な国とみなされていました。また黄色人種に対して根強い偏見があったようです。身からでた錆とはいえ、なんと不合理で、理不尽な扱いを受けていたことでしょうか。日系アメリカ人はその屈辱に耐えて、ひっそりと日本人であることを隠すようにして生きていたそうです。その艱難辛苦は想像するに余りあるものがあります。その日系移民たちが涙を流して喜ぶ出来事がありました。1963年全米ヒットチャートで3週連続1位に輝いた日本の歌です。坂本九さんの歌った「上を向いて歩こう」という曲です。しかし曲名は「スキヤキ」という名前に変更させられました。日本の歌謡曲が全米ヒットチャート1位になったことはそれ以降ないそうです。日系移民たちはラジオにしがみついてその曲を聞きました。坂本九さんのビブラートのきいたやさしい歌声は、のどの渇き切った砂漠の中でおいしい水をごくごく飲むような体験です。胸が張り裂けそうになり、泣きながらその曲を聞いたそうです。ともすれば卑屈になり、孤立しがちな当時の日系移民の人たちをやさしく包み込んでくれたのです。自分がどん底にいるときに、見捨てることなく、包容力をもって支えてくれる人がいることで生きる勇気が湧いてきます。この歌には、日系移民たちを精神的に支えていく力があったのです。上を向いて歩こう 涙がこぼれないように思い出す 春の日 一人ぼっちの夜幸せは雲の上に 幸せは空の上に上を向いて歩こう 涙がこぼれないように泣きながら歩く 一人ぽっちの夜この歌の歌詞を見ると、「事実唯真」の世界を歌ったものだと思います。事実を土台にして這い上がっていくという力強さを感じます。日系移民の置かれたつらい状況を受け入れて、そこから目線を上げて、目的本位に生きていきましょうと励ましてくれているようです。私は「青い山脈」の替え歌で、「森田とともに」という替歌を作って歌っています。「上を向いて歩こう」もレパートリーに加えたいと思います。この曲はサックスでよく演奏していますが、テンポがよく、ノリがよい曲です。森田に通じる歌詞だと改めて認識しました。
2020.05.09
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田舎では現在藤が満開です。
2020.05.08
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トヨタ自動車の豊田章男社長はグランドホッケーの選手だそうだ。敵味方11人で、スティックを使い、相手ゴールにボールを打ち込むスポーツだそうだ。豊田社長のポジションはフォワードです。サッカーでいうPK戦のようなものがある。その時フォワードの選手は防御に回る。ここからが面白いのですが、じっと構えてゴールを死守するのは駄目だといわれている。相手と距離をもって防御することは危険が増す。打たれたボールが加速度を増し、浮き上がってくる。そのボールが自分の体に当たってけがをすることがある。それを防ぐためには、相手に近づくことが必須だといわれている。近づくとボールの威力は小さくなる。痛いのは痛いがそれが軽減される。だから危険に速く近づくことが、結果として安全を確保することにつながる。一般的には危険が迫った時、身に危険が及ばないように、安全を確保して、遠巻きに見守るという人が多い。一見安全なように見えるが、それは一時的なものだ。事態は深刻になり、ある限界点を超えてしまうと、もはや打つ手がないところに至る。危険を察知したらすぐに逃げるという人が多い。命にかかわる場合はそうするべきだと思う。延命するためにできる限りのことをするのが、すべての動物に課せられた宿命である。しかし不安、恐怖、違和感、不快感に耐えきれなくなって、すぐに逃げ出すという習慣の人は、いつまでも心身ともに危険にさらすということになると思う。対人恐怖の人が、相手のやり方が問題だと思っても、相手の仕返しを恐れて言いたいことも言えない。我慢する。耐える。これでは問題は解決しない。相手に対する不平や不満はどんどん増悪する。自分にはストレスがたまる。そして何かをきっかけにしてダムが決壊するような大惨事を招いてしまう。会社内でそのことがうわさになって居づらくなり、ついには退職する。家族の生活を支えるという最大の目的が果たせなくなって後悔することになる。最悪のシナリオですが、過去にこういう人をたくさん見てきた。自分も退職までは追い込まれなかったが、似たり寄ったりであった。相手と考え方や行動の違いを感じたときはどうすればよいのだろうか。まず相手の考えや行動をよく見る。いったん相手の立場になって理解する。すぐに是非善悪の価値判断を持ち出すと、争いになる。戦うことが目的になる。「かくあるべし」で相手を遣り込めることは、百害あって一利なしである。次に自分の考えややりたいことを相手に伝える。この時私メッセージを活用する。そして、双方の考え方や行動の違いを白日の下にさらけ出す。どうにもならない溝が横たわっていることをお互いに確認しあう。次は自分が譲ってもいい部分と相手に譲歩してもらいたい部分を話し合う。100%相手に譲歩してもらう事は不可能である。仮にそうであっても敵に塩を送る気持ちは持っておいた方がよい。いつもシナリオ通りに進行することはない。しかし森田理論学習で対人関係のコツを学習していたという事は大きい。対人関係のコツは、問題が小さいうちにこそ解決のヒントがある事が分かっている。限界点を超えると解決に向かって努力することはかなりハードルが高くなる。問題が小さいうちにこの法則を活用する習慣を身に着けておくと、いざという時に役立つケースが生まれてくる。
2020.05.08
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森田先生は、精神療法でもそのほかの通俗療法でも、機会さえあれば、なるたけ実験するという心掛けを持っている。前には酸素の注射が、喘息にも効くとの事で、妻に勧められて、連れて行かれた。第一回の時に、喘息は起こらなかった。その日は風呂に入ったから、そのために起こらなかったようでもある。すなわち次に風呂を試みたが、その時は起こった。次には注射ばかりして、すべてその他の条件の加わらないようにして実験をした。今度は喘息が起こった。これで注射も風呂も二つとも、直接に喘息には効かないという事が分かった。普通、迷信・妄信の起こるのは、ある療法で偶然に起こった事を、すべての他の条件を考えないで、そのままに効があったと信じる事から起こるのであります。(森田全集第5巻 210ページ)森田先生は事実の確認をとらないで、先入観や決めつけで物事を判断することを警戒しておられます。他人が教えてくれた情報をうのみにしてしまうやり方では、もしそれが間違いであったという場合どうするのか。データーの裏づけもないのに、自分勝手に否定的な結論ばかり出す。例えば、同僚が笑いながら雑談しているのをみて、きっと自分の悪口を言っているに違いないと決めつける。あるいは挨拶をしたら無視された。あの人はきっと自分のことを嫌いなのだろうと決めつける。多くの人から評判がよく、有能であると認められているにもかかわらず、たった一人からの評判をくよくよと悲観的に考えてしまう。それに振り回されるようになる。確たる証拠もないのに、悲観的な結論を出してしまう。例えば、あなたが大学の先生で素晴らしい講義をしていたとしよう。しかしあなたは居眠りしている学生を見つけました。実際には、この学生は前の晩コンパで飲みすぎて疲れていたのですが、あなたは「どの学生も私の講義を退屈がっているのだ」と決めつけてしまうようなことが起きるのです。事実を先入観によって歪曲してしまう人は、自分にも他人にも不幸の種をまき散らすようになります。観念優先の世界にどっぷりとつかっていますので、現実や現状を目の敵にして戦うようになるのです。その弊害を森田理論学習によって自覚して、生活態度の改善を図ることが、未来の生活が大きく花開くきっかけとなります。事実を無視する人は犬も食わない。分かりきった事でも、現地に出向いて自分の目で確認する。今までの経験でこうなるはずだという事も、一度は実験によって確かめてみる。森田の眼目である事実本位に徹すると、事実を軽々しく取り扱うという事はできなくなります。他人を平気で傷つけることはなくなります。事実こそが神様なのだという考え方のことを「事実唯真」といいます。森田は東の横綱を「生の欲望の発揮」とすると、西の横綱は、「どこまでもどんな時でも事実に寄り添う態度の養成」に尽きると思います。
2020.05.07
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新型コロナウィルス対策で成功した国がある。ニュージーランド、台湾、韓国などである。これらの国は、初期段階で検査を拡大して、陽性反応の出た人はホテルなどに隔離した。速やかに外出を控える対策をとった。都市封鎖に近いことを実施している。また速やかに外国人の渡航禁止などの措置をとった。水際作戦を徹底した。サーズやマーズの痛い経験を新型コロナウィルスの拡大阻止に役立てることができた。これらの対策を強力に推し進めるリーダーがいた。政府が初期段階で国民の生命と安全を守るために速やかに対応する必要があったという事が分かる。様子を見る、楽観視する、軽視すると問題をどんどん悪化させてしまうという危機意識を持つことが必要だったのである。そのためにはサーズやマーズが蔓延したとき、日本はそれに巻き込まれなかったと安心するのではなく、今度次の危険なウィルスが蔓延したときに、どうするのか対応策を決めておくべきだったのである。もし新型鳥インフルエンザが蔓延すると、死者の数は計り知れないことになるといわれている。鳥インフルエンザは致死率が非常に高いものがある。感染すると即死亡に近づく。今回の新型コロナウィルスは日本という国の在り方を改めて問い直していると思う。日本という国の国民の生命と安全を守るために私たちはどう行動したらよいのか。日本という国が独立自治で、自分たちの国は自分たちの手で守り抜くのだという決意を固めることを迫っているのではないか。今回はウィルスの脅威にさらされた。それ以外の脅威として地震、津波、土砂災害などがある。社会インフラの老朽化の問題もある。それ以外では大きな問題として国防と食料の自給の問題がある。国防については、ほぼアメリカに依存している。対等な協力関係を構築しているというが、日本はお金を出して解決を図っているのであり、実際にはアメリカに言い返すこともできない。日本が自ら日本を護るという気持ちはないのだ。少しでもそういう気持ちがあれば、国防をアメリカに依存することは考えられない。食料はほとんど輸入に頼っている。食料を世界中から買いあさっている。これがいつまでも維持できると考えているようだと大変なことになる。今回のウィルスの蔓延に、もし食料の不足が起きていたとすると日本という国の存続の問題になる。実は先進国で日本のように自給率が低下している国はない。それは食料の自給が国の安全保障と直接結びついているので無視できないのである。面倒なことだが国の独立と自立を旦保するためには、食料の自給に手をつけるのがまともな国の考えることである。現にイギリスは、自給率の向上に向かって舵を切りなおした。それは輸出を制限しても取り組むべき課題であると考えている。日本は工業製品の輸出立国として活路を見出していくというのは、国を亡ぼすような考え方である。そうしないと国民の生命と安全が守れないだけではなく、他国に精神的にも経済的にも支配されるようになるのだ。そんなことにも気がつかないというのは、海辺の砂浜に立派な家を建てて喜んでいるようなものだ。波にさらわれて一挙に地獄に突き落とされてしまう可能性が大である。この先天候異変による不作、世界の人口が90億人に近づいたとき、新興国の生活水準が上がってきたとき、日本の国民が飢餓で苦しむようになるのを指をくわえてみているだけでよいのだろうか。政府や経済界のリーダーたちにはぜひとも気付いてほしい。国と国との関係で見ると対等な関係は維持できないという事だ。日本が今どんなに経済力、技術力で優れていても、対等な話し合いはできなくなるだろう。相手に支配され、服従されてしまうのである。はっきり言えば、築いてきた財産や国土を奪われ、不当な扱いをされるようになるだろう。どんなに立派なことを論理的に説明できたとしても、大人と幼児が相撲を取っているようなもので勝ち目はない。肝心なところで首根っこをつかまれているので、自己主張できないのである。つまり日本という国は、自分たち自ら守るのだという決断をしないと、その場の対症療法に振り回されてしまう事になる。神経症でいえば症状に振り回されてばかりという事だ。今の自分たちさえよければよいと考えているとすれば、私たちの子孫に明るい未来を託すことはできなくなる。後で私たちの先祖は何という取り返しのつかない事をしてくれたのかと怨まれるのではなかろうか。
2020.05.06
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寺田寅彦さんが次のような言葉を残している。ものを怖がらなすぎたり、怖がりすぎたりすることはやさしいが、正当に怖がることはなかなかに難しい。これを神経症に当てはめて考えてみよう。神経症に陥ると、不安、恐怖、違和感、不快感でいっぱいになります。エネルギーのある人は、それらを自分の力で何とか取り除こうと格闘するようになります。エネルギーのない人は、当面の苦痛を回避して少しでも楽になろうとします。どちらも理にかなっており、将来に希望が湧いてくるように見えます。しかし現実は、非情にも神経症は克服することはできません。むしろどんどん増悪してしまいます。いつまでもその悪循環から抜け出すことができないのです。これが、「ものを怖がらなすぎたり、怖がりすぎたりすることはやさしい」ということだと思います。人間はどうもつい易きに流されやすい生き物だと思います。では正当に怖がるとはどういうことでしょうか。そのために必要なことは何でしょうか。神経症を丸裸にして正体を見極めることが不可欠だと思います。森田に「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という言葉があります。夜間一人で墓場の近くを歩いていると、なにやら不気味な音がしている。これは幽霊が出てきたに違いないと決めつけて慌てふためく。急いで逃げないと命がなくなるかもしれない。急いで走って逃げようとするが、足がもつれたり、何かに躓いて倒れてけがをする。翌朝出かけてみるとススキが風に揺られた音であった。どうして昨夜はこんなことで気が動転してしまったのか、理解できない。じっと丹田に力を入れて、ゆっくり歩けば、何も問題は起こらなかったのだと分かる。神経症に対して、基本的には薬物療法などの対症療法に走ることは避けたいものです。そういう人には、神経症の正体を見極めるために森田理論学習をお勧めいたします。神経症とは何か、神経症の成り立ち、神経質性格の特徴、感情の法則、認識の誤り、行動の原則の基礎学習をするだけでもよいと思います。神経症の正体を明確に理解できるようになると、慌てふためくことがなくなります。そして関心や興味がでてきた人は、次のステップに進みましょう。正体を理解して、受け入れるようになると、次の段階に進むことができる足掛かりができてきます。森田理論を活用して日々の生活をいかに充実させていくのか。不安とはどのように付き合っていけばよいのか。自分はどのようにして生の欲望の発揮に取り組んでいけばよいのか。「かくあるべし」を前面に打ち出した生活態度を改めるためにどうすればよいのか。「事実本位」の生活態度を獲得するために取り組むべき課題は何か。そのほかにも、生活に応用すべき宝物が次々と見つかる事でしょう。そうなれば、人生90年を生き抜くための自信と勇気を得ることができると思われます。
2020.05.05
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国民栄誉賞に輝いた衣笠祥雄さんが亡くなる3か月前に単独インタビューに応じた。その内容がyou tubeにアップされている。その話から森田に関係するものを3点紹介したい。衣笠さんは当時の根本監督に呼ばれて次のように言われた。「衣笠君、君は野球を職業としているだろ。プロフェッショナルだよね。プロなら何か売り物があるだろう。君の売り物はなんだ」当時の衣笠さんには何もなかったそうだ。必死になって考えた。そして長打力を売り物にしよう。三振を恐れずにフルスィングすることを心掛けよう。そのために寸暇を惜しんで素振りを繰り返した。衣笠さんは、日本歴代7位の504本のホームランの成績を残されている。私たち神経質者の売り物は何だろう。生の欲望が強い。感性が鋭い。自己内省ができる。粘り強い。人生という舞台で、これらに磨きをかけて、これを売り物として勝負すべきではないのか。これらの特性を意識しないで、刹那的、刺激性の強い他から与えられる欲望を追い求めるばかりというのは如何なものか。感性が強いという事を、心配性で精神的に苦しいからと言って、発揚性気質に性格改造しようとするのは如何なものか。自己内省で自分で自分をいじめているのはどうしたことか。自分の存在、もともと持っているもの、強味などに光をあてて、育てていく態度を持ち続けることが肝心なのではないか。監督から、「痛かったらすぐに言ってくれ。永遠に休ませてあげるから」とも言われたそうです。監督はそんな選手は全く使うつもりはないという事を明言されていたのです。プロ野球の選手はケガや故障がつきものです。デットボール一つ受けただけでも。引退に追い込まれる場合があります。だから少々の痛みがあっても試合を休むわけにはいかないのです。衣笠さんは骨折などの満身創痍の状態でも試合に出ていた。休みたい、療養に専念したいという気持ちはいつもあったが、仕事は休まなかった。他の選手が鵜の目鷹の目で自分のポジションが空くのを待ち構えているのです。その選手が大活躍してレギュラーに定着してしまうと、自分の居場所はなくなるわけです。私たちは神経症に陥ると、日常茶飯事、仕事、付き合いなどには目が向かなくなります。1日24時間頭の中で神経症と格闘しています。神経症でいくら苦しんでいても、時間になれば起床する。身支度をして会社に行く。ぼつぼつ仕事に手をつける。最低限の付き合いはこなす。買い出しをして食事を作る。後片付けをする。神経症で苦しいので会社を休む、日常茶飯事は家族に依存する。外食に頼る。付き合いはしないという事になると、「永遠に人間をやめてしまう」ようなものです。その方が一見安楽な人生のように思われますが、人間としての当然の生き方を放棄しているので精神的に自滅してしまうのです。森田は心身一元論ですから、身体面でも病気を招いて、どうにもならなくなるのです。最後に衣笠さんはインタビューワーに次のように質問されていた。スポーツは誰に向けてしていると思いますか。観客に向けてでしょう。観客の中でも誰だと思いますか。子供たちですか。そうなんですよ。それを忘れてはいけないのです。プロのスポーツ選手は子供たちの手本にならなくてはならないんです。あの人のようになりたい。だから頑張るんだ。そう思ってくれるような選手を目指すことが大切なのです。一流選手になって年俸を吊り上げることが最大の目標になってはいけないのです。私は34年も森田理論学習に関わってきた。それで大切なことが分かった。森田を生活の中で活かしているその姿を現在神経症で苦しんでいる人たちに見せていく。苦しんでいる人たちが、ゆくゆくはあの人のようになりたいと自然に思える。口数は少ないけれども、そういう生き方が自然にできている。そういうところを目標にして努力されている人はすごい。そういう影響力を持っている人、近寄りがたいオーラを放っている人に魅力を感じます。数は少ないのですが、世にも珍しい人が確かに生活の発見会の会員の中におられるのです。まさに感動ものですね。生きる勇気をいただいております。
2020.05.04
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森田全集第5巻の中に高浦先生が次のような話をされている。昨日は慈恵医大の講義にお供して、その帰りに、その帰りに、少し散歩をされたが、路傍で、クズ屋の持っている自動車のゴムのきれを見付けられた。それが1貫目4銭とのことである。それを何になさるかと思ったら、先生はそれをテーブルや椅子やの足の底にお張りになるのである。100匁にも足らぬものを10銭ももらえば、クズ屋も大もうかりであり、先生も廃物利用で、大きな得になる。(森田全集第5巻 228ページ)森田先生は普段、椅子が板の間にこすれて傷つくことを気にかけておられたのだろう。何か解決法はないものだろうかと思案しておられたのです。普通考えられることといえば、椅子の下に何か敷物を敷くことが考えられます。絨毯のようなものを敷くと、確かに床は傷まなくなります。ところが絨毯は高価です。しかも飲み物をこぼしたりするとシミになります。ほこりが隙間に入り込むと不衛生になる。掃除に時間がかかる。帯に短し、襷に長しでどうも名案とはいいがたい。その気持ちをそのまま持っておられたからこそ、クズ屋でゴムの切れ端を見つけたときにこれだとひらめいたのです。神経質者はこのように小さな問題点によく気が付くのが大きな特徴です。心配性な神経質性格を忌み嫌う人も多いのですが、小さなことによく気づくことは、感性が鋭いという長所でもあります。この特徴を普段の生活の中で大いに活用していくことが大切だと思います。この気づきをメモなどして忘れないようにする習慣を身に着けて、実際に行動に移していくことが大切です。だから小さな気づきは宝物なのです。生活の活性化は、その手のストックを普段からいくつ持っているかが鍵になります。そうすれば意識や注意が外向きになり、生活の改善に結びつきます。人の役にも立ちますし、神経症とは無縁になります。神経症を克服した人は、そういう習慣を確実に身に着けているのです。独創的なアイデア、仕事の改善や提案、新しい試みなどを打ち出す人を見ると、普段の生活が活き活きしています。程よい緊張感の中で過ごしています。目の前のなすべき課題に一心不乱に取り組んでいます。そういう状況の中で、気づき、発見、独創的なアイデアは生まれているのです。のんびりと満ち足りた生活を楽しむという気持ちを優先している状態では、どんなに頑張ってもどだい無理なのです。「退屈だ、何か楽しいことはないかな、今日一日どうやって時間をつぶそうか」などという気もちが出てきたら危険です。そういう時は森田の基本である「凡事徹底」に立ち戻ることが大切になります。そうすれば、砂を噛むような空虚な気持ちはなくなります。
2020.05.03
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森田先生のお話です。私が患者を救済しようとする心は、ちょっと変形すると、容易に宗教的の気分になりやすい傾きがある。それ故に私は患者に対して、常にそうならないように防いで、患者をして、常に科学的に物を正しく見るようにする事を忘れないようにし、事実唯真をモットーとするように導くのである。(森田全集第5巻 208ページ)ここでいう宗教的とは如何なることを言うのだろうか。事実に裏付けされない観念の世界で作り上げたものを真理や理想として打ち立てて、多くの人に啓蒙し普及する活動のことだろうと考えます。真理や理想を生きるための指針とすると、不安定だった精神状態が、目指すべき方向性が定まり、安定してくる。いいことずくめのように思えるが、事実によって検証されていないので、真実かどうかは分からない。ただそれを真実だと思い込ませているのである。観念的なものを絶対的で普遍的なものとみなすことは大変危険である。観念と事実に乖離が起きる。観念で事実をコントロールしようとするので、自己否定、他人否定、現実否定が起きる。観念を優先して、事実を軽視する考え方をとってはならない。森田では観念よりは、事実を最優先する考え方なのである。森田先生は、森田理論が宗教的になってはならないといわれている。森田先生は、森田理論は科学的な裏付けをとる姿勢を忘れてはならないといわれる。演繹法ではなく、弁証法で発展させていく必要がある。森田療法の原型が完成したのは1919年といわれている。それまで森田先生は神経症の治療のためあらゆることをされた。催眠療法、精神分析、禅、神道、岡田式静座法、易占い、生活正規法、説得療法、遊戯療法、薬物療法などである。それらの多くは役に立たなかった。その失敗を基礎にして、森田理論は完成しているのである。また、森田先生は自ら不安神経症で苦しんでいた経験を持っておられたことが役に立っていた。こうしてみると、盲目的に森田理論を宗教的に崇め奉ることは問題だということになる。森田理論が果たして正しいのかどうか、実践や応用によって検証していく姿勢を持つことが大切である。・不安を持ったままなすべきことをなす。・「かくあるべし」を自分や他人に押し付けることをやめて、事実を素直に認めて受け入れる。この2つが森田理論の眼目もといえるが、これが神経症の克服に本当に役立つのかどうか、実際の生活の中で確かめてやろうという姿勢で取り組んでみてもらいたいものである。そうなったとき、森田理論は観念の世界から離れて、事実に裏打ちされた科学としての輝きを放つようになる。
2020.05.02
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夫婦喧嘩が絶えないという人に森田先生は次のように話しされている。この場合は、ただ自分は、不機嫌な気むずかしい我儘者であるということを自覚し、人にもこれを認めさせて、その結果として、当然人に嫌われ、うるさがられるものであるということを覚悟し、その応報を受けさえすればよい。決して自分はこのような性質であるから、人は大目に見て、自分を許してくれるべきである、人は自分が悪人でないことや、自分の正直のところなど認めて、理解してくれなければならぬ、などと考えてはならない事である。このように思い定め、覚悟して後には、社交的にあるいは家庭的に、時と場合とに応じて、笑うも笑わないのも、自由自在で、必ず自然の人情味が現れるようになるのである。夫婦の人間関係は、お互いが「かくあるべし」を押し付けあっていては、決してうまくいくものではない。相手のことを批判、否定、拒否、無視、抑圧、脅迫していては、一緒の家に住むこと自体が苦痛となる。森田先生はそういう自分の状態を自覚して、事実本位に切り替えて、因果応報を覚悟することを提案されている。私は夫婦は元々あかの他人であり、分かり合えないという前提に立つことが肝心であると思っている。そういう人が結婚して家庭を作るということにどんな意味があるのか。人間は一人で生きていくことはできない。他の人間とのかかわりの中で、はじめて物理的にも精神的にも延命させていくことができる。その最小単位として、夫婦関係があると思う。これが太古から繰り返されてきた。結婚すると、解決すべき共通の問題や課題が次々と出てくる。家事、育児、子育て、付き合い、生活費の調達などである。考え方や意思の違いのある二人が、その違いを乗り越えて進むしか道はない。そのためにどうするか。自分の気持ちや考えを相手に伝えることが必要になる。ここで相手とは当然気持ちや考え方に違いがあるはずだという前提に立つことが大切になる。次に、その違いを白日のもとにさらけ出すことだ。どこに違いがあるのかお互いが認識しあうことが大切である。二人の間にある溝を埋めていくために話し合いを持つ必要がある。妥協点をつけて、譲ったり、譲られたりする人間関係を維持する必要がある。アメリカでは結婚する前に、お互いが対立したときはどのように対応するのか、クリナップ契約で文書にしてあるという。結婚する前にきちんと取り決めをしておくことはきわめて重要です。埋めることのできない溝が出てきたときに、それを持ち出して、原点に返って話し合いをするのだ。いざこざの多い夫婦であっても、お互いが問題を話し合いによって調整していくという気持ちを持っていれば、きっと乗り越えていける。そして乗り越えていくたびに、夫婦としての器が大きくなっていくのだろう。「あの人は何を言っても聞く耳を持たない人だ」などとお互いが口にするようになると、すでに本来の夫婦関係は破綻していると思う。そういう人は、森田理論を夫婦関係に応用することを真剣に考えてもらいたいものだ。
2020.05.01
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