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形外会での中島氏の発言です。私は入院中、兎の箱の制作をある患者から受け継ぎました。先生から中島にやらせるようにとの事であったそうです。私は今まで、全く鉋や鋸を持ったことがなく、父からも人からも、全く無器用なものと承認され、私も全くできないものと、決めておりました。しかし、今度は、行きがかり上、思い切って請け合ってしまいました。どうしてよいか見当がつかないで、2時間ばかりも、じっと見つめておりました。それからやってみると、案外上手に出来上がって、我ながら感心しました。後に先生からも、よくできたといってほめられ、自分は、やれば何でもできるものであるという事を体験したであろうといわれました。これは実に私が、一生の生きる道の基礎を体得したものと感謝している次第であります。(森田全集第5巻 126ページより引用)中島氏は、それまで鉋や鋸を使って物を作った経験がなかった。自分はそんなことはできるはずはないと決めつけていたのです。ところが、指示されて手をつけてみると、予想外の出来栄えに自分でも驚いた。先生からも評価されて、一つの自信になった。ここで掴んだことは、今まではやる前から先入観で、「そんなことやったこともないのにできるはずはない」「挑戦することは無謀としか言いようがない」などと決めつけていたのです。これは中島氏に限らず、頭でっかちな神経質性格者の特徴です。石橋を叩いて安全だと分かったとしても、「万が一」の不安が払しょくされなければ手をつけない。やらない口実、やれない理由を次々と思いついて、言い訳ばかりするようになるのです。手をつけなければ、煩わしいことをしなくて済みますから、やれやれと一瞬ほっとします。ところが、そのうち暇を持て余すようになります。時間をどうやってつぶそうかと考えるようになると、緊張感がなくなり、精神状態は弛緩状態に陥ってしまいます。やるべきことがない、問題や課題がないのは、楽な生き方のように見えますが、精神状態はボロボロになります。人間本来の生き方を放棄しているからです。赤ちゃんは歩けるようになるまでは、何回も試行錯誤を繰り返しています。立っては倒れ、立っては転んでいます。でも、立って歩けるようになるはずがないと決めつけている赤ちゃんはいません。失敗しても、立って歩けるようになるまで、何度でも挑戦しています。まずつたえ歩きができるようになります。そのうちだれでも立って歩けるようになっていくのです。何度失敗を繰り返していても、立って歩けるようになりたいという欲望の方が強いのです。すぐにあきらめてしまっては、いつまでも経っても歩けるようにはならない。失敗しても挑戦し続ける態度は、元々すべての人間に遺伝子として組み込まれているのだと思います。関心や興味のあること、問題点や課題、夢や希望に向かって行動することが人間に宿命づけられているのです。ところが、知恵がついてくるにしたがって、観念でできるかできないかを判断するようになったのです。予期不安があるものは、安易にできないほうに分類しているのです。やった方がよいことでも、難しいこと、やっても無駄骨を折るだけのこと、手間暇がかかりめんどくさいものなどは、気分本位になってやらないほうに分類しています。その結果、自分が元々持っているできる意欲や能力は眠ったままになります。手をつけないとその能力を鍛えて高めていくことはできません。小さな成功体験が積み重なっていかないと、生きる自信は生まれてきません。すべての苦を排除して、楽ばかりを追い求めるようになると、もはや人間とはいいがたい。人間の堕落が始まるのです。先入観や決めつけでやらない方を選択するのではなく、「ダメでもともと、うまくいけば儲けもの」という気持ちで、フットワークよく身体を動かして生活しましょうというのが森田だと思います。その姿勢を維持すること以外に、明るい未来はやってこないようになっているのです。
2020.03.31
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厚生労働省によると、全国の児童相談所が2018年度に児童虐待の相談・通報を受けた件数は159850件(速報値)で、統計を開始から28年連続で増加している。内訳は心理的虐待が55.3%、身体的虐待が25.2%、育児放棄18.4%、性的虐待1.1%となっている。(中国新聞2020年2月19日朝刊より)テレビなどの報道を見ていると、その親たちが、「これはしつけの一環として行ったことだ」という。子供が虐待の結果亡くなっても、「体罰ではありません。あくまでもしつけるつもりでした」という。これは体罰としつけの違いが分かっていないか、誤解していると思う。体罰の実態は次のようなものです。・注意したがいうことを聞かないので頬を叩いた。・いたずらしたので長時間正坐させた。・物を盗んだので、お尻を叩いた。・宿題をしなかったので、食事を与えなかった。・寒い冬場に薄着で外に追いだした。暑い夏場に家の中に入れなかった。・イライラしたとき、「あんたはいらない。生まれてこなければよかったのに」などと暴言をはく。子供が、親の指示・命令に素直に従わず、勝手な行動をとったので、親がイライラして、あるいは切れてしまって、短絡的に体罰を与えて親に服従させようとしている。体罰というのは、子供をしつけようという気持ちよりも、自分たちのイライラや不快感を取り去るのが第一目的となっている。消臭剤をスプレーして、瞬時に悪臭を取り去ろうとしているようなものだ。目的があくまでも自己中心的なので、子供のことは眼中にない。自分たちのイライラ、不快感を払しょくしたいという気持ちが強いのだ。親から「かくあるべし」を押し付けられて、大人になった子供はかわいそうだ。人への信頼感が育たず、愛着障害になる。アダルト・チルドレンになる。対人恐怖症になる。そして自分たちが親になったときに、世代間にわたり悪しき連鎖が繰り返されるのである。体罰もしつけも親が主導権や強制力を持って、子供に対する点は同じだ。ではしつけと体罰の違いは何だろうか。親がきちんとしつけをしないと、インドで発見されたというオオカミに育てられた少女のようになる。その子は四足で歩いていたという。言葉もしゃべれない。人間というよりは、動物そのものだった。保護されて人間として育て直そうと試みられたが、その願いはかなわなかったという。親になると子供をきちんとしつける責任がある。それも強制力を発揮して厳しくしつけるのが親の務めである。しつける内容としては、まず規則正しい生活習慣である。食事のマナー、トイレ、挨拶、きまりごと、礼儀作法、思いやり、言葉遣いなど。次に、社会のルール、法律、仕組み、交通ルールなど多岐にわたる。きちんとした生活習慣の獲得、社会の法律やルールを身につけると、生活がスムーズに流れるようになる。社会にすんなりと溶け込んでいくことができるようになる。何も知らない子供の目線に立って、「こうしたほうがいいよ」「やってみてごらん」と行動を促す。子供の挑戦する姿を近くで温かく見守る。できるようになれば一緒に喜ぶ。円滑な生活習慣の獲得は、親から子供への愛情のこもったギフトなのである。後で、よくぞここまできちんとしつけてくれたと子供から感謝されるものである。体罰は「かくあるべし」を子どもに押し付ける態度であり、「しつけ」は子供の成長を願って、親から子供への愛情のこもった人間教育なのである。体罰としつけは似ているようであるが、全く別物である。
2020.03.30
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昨日の投稿記事に、「神経症が治るには、修養を積んで、その時機に達して起きることで、その準備がなくて起こるものではない」とある。まず「修養」という言葉について森田先生は次のように説明されている。実行によって精神の働きや動きを体得することである。修養はともかくも実行である。私に接近し、私の気合いに触れねばならぬ。この感化を受けることを薫陶といいます。この気合で神経質が治るのであります。(森田全集第5巻 191ページ)修養ということは、実行の復習であって、思想の規定でない。撃剣のようなもので考えると、最もわかりやすい。これは相手の隙間に打ち込み、受け止めるには、こうするとか思想判断する余地は少しもない。打つもはずすも、そこに間一髪もない。いわゆる電光石火の機がそれであります。つまり思考を排し、直覚と実行とから出発するのである。(森田全集第5巻 70ページ)これで修養の意味がはっきりと分かります。観念の世界で「なるほど、そうだったのか」と理解して納得することではないのです。現在、集談会などで森田理論を学習しています。これは体得とは言わない。神経症の成り立ち、感情の法則、神経質の性格特徴、不安の役割、不安と欲望の関係、生の欲望の発揮、「かくあるべし」の弊害、事実本位などを学んでいます。これを頭で理解したので、森田から離れるといった人がいますが、実にもったいない。この状態は、畳の上でクロールの練習をするようなものです。手足の動きを完全にマスターしても、実際にすぐにプールで泳げるようになるのか。全く役に立たない。むしろ理論を知っているために、それにとらわれてますますぎこちない泳ぎになってしまいます。理論は何も知らない子供たちが、直接プールに入り足をバタバタさせているうちに、何日か経つとそれなりにクロールができるようになっている。実行・実践が先で、後で理論を応用して精度を高めていけば鬼に金棒となります。これはスキー、テニス、野球、サッカーでも同じことが言えます。森田先生の指導は、まず実行・実践させることなのです。その後で、あるいは同時並行的に理論の裏付けをされているのです。森田理論が先で、その後で実践・実行ではないということです。私たちのやり方は、とにかく森田理論をより深く、哲学的、学問的に納得して高めていく方向に偏りがちになっています。これはいかにもやり方がまずい。学習レベルは大学卒業レベルなのに、慢性のうつ状態になる人がいます。そういう人が集談会にやって来て、最近落ち込んでいますなどと発言される。学習レベルから見ると、もはやつまずきようのない人がもがき苦しんでいるのです。そういう人の実行や実践力を見ると、ほとんど見るべきものがないのが実態です。そうなると、高度に精練された森田理論が、自分を攻撃する武器に変化しているのです。森田を知らないときの方が、付き合いやすかったといわれるようになるのです。私が大きな影響を受けた人がいます。その方は、「物の性を尽くす」「ものそのものになる」という2点に絞って、生活の中にいかに根付かせようかと努力を惜しまなかったひとです。このブログでもその内容を紹介しています。集談会の場でも、生活森田・応用森田の生活ぶりが、楽しく様々に語られます。例えば、雑草取り、おいしいビールの飲み方、カラオケの練習法、タイのあら炊き、相撲の見方、盆栽の見方、茶碗の洗い方、夫婦の人間関係などなどです。体験に裏打ちされた森田理論が、分かりやすく、しかも説得力をもって、やさしく語りかけてくるのです。いつの間にか森田の神髄を的確に説明されているのです。こういう人が森田の世界では多大な功績を残す人となるのです。私たちは理論学習から入りました。それはそれでもいいと思います。しかし、次に実行・実践に入ることが欠かせません。必須科目となるのです。理論学習と体験学習が同じ大きさの車輪で、前に向かって進んでいる状態を作り上げることが重要なのです。もし理論の車輪がとてつもなく大きくなり、実践・行動の車輪が小さいままだと、前進はしません。実践・行動の車輪が基点となり、理論の車輪がその周りを勢いよく空回りするようになります。バランスが悪いと、せっかくの森田理論が自分を責める道具になり、神経症は益々悪化するようになるのです。これは実践や行動を軽視した当然の報いなのです。お互いに注意したいものです。
2020.03.29
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森田先生の話です。薪割をして頓悟したような事と、しだいに悟る漸悟というようなことがあるけれども、いずれも修養を積んで、その時機に達して起こる事で、その準備がなくて起こるものではない。まず頓悟ですが、薪割をしていた人が一瞬で森田理論のポイントが分かったというようなことです。本来自分の意識や注意は、きちんと目の前の目的物に向いている必要がある。神経症で苦しんでいた時は、意識や注意は不安や恐怖、自分の症状などに向いていた。外に向かうべき意識や注意が、自己内省一辺倒であった。これが神経症を作り出していたことが、薪割をしていた時に瞬時に分かったのである。この方は、不安や恐怖を敵視しないで、それらを抱えたまま、物事本位に生の欲望を発揮していけば神経症を克服していくことができる。ただしこの頓悟は日々実践や行動で努力していかないと、すぐに元の木阿弥になることに注意する必要がある。1週間の内観療法を受けた人が次のように言われていた。終了間際になると、今まで両親に多大な迷惑をかけていたことが思いだされて懺悔の気持ちが湧いてきた。涙が止まらなくなった。これからは家族や身の周りの人に対して感謝の気持ちを持って生きていこうと固く心に誓ったという。ところが日常内観をしていなかったため、しばらく経つと感謝の気持ちは薄らいできた。また自分の「かくあるべし」を押し付けるようになってきたという。この例に見るように、頓悟は一瞬でポイントを会得するという面がある反面、気を抜くとすぐに元の木阿弥になるのである。漸悟は対人恐怖症のような強迫神経症の人の治り方である。「治らずして治った」というような感じである。一瞬で治るということはない。通常は何年かかかる。森田理論が理解できて、生活の場で修養や体得を通じて分かる。何年か経過して振り返ってみると、治るということはこういうことだったのかと分かるような治り方である。不安、恐怖、違和感、不快感は無くそうと努力しても治らないということが分かった人を言うのである。いかにももどかしい治り方であるが、その理屈がきちんと理解できて、治そうとする努力をあきらめた人が、治った人なのである。そういう人はエネルギーの投入方法が変わってくる。症状を治すことから、不安の役割や不安と欲望の関係をよく知っており、不安や不快感をむしろ積極的に取り込んで生の欲望の発揮へと方向転換しているのである。ですから、神経症が治っているかどうかは、その人の生活ぶりを見て判断するのである。決して不安、恐怖、違和感、不快感が霧散霧消しているかどうかに注目しているわけではない。むしろそれらは生活が活性化するにしたがって、その数や量がどんどん増加してきているとみているのである。つまり目のつけどころが全く違うのである。
2020.03.28
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森田先生曰く。この形外会で、ある患者は、自分を赤裸々に打ち出すことによって、急に治ったこともあった。(森田全集第5巻 124ページより引用)形外会という公の場で、自分の症状のことを隠さないでありのままにしゃべることで、神経症は治すことができるといわれているのだ。ここでのポイントは、大勢の人のいる場で自分の症状を公開するということだ。今でいえば体験発表などの場のことである。これを時々思い違えて、入院患者が2~3人で部屋に集まって、コソコソとお互いの様態を話し合うことがある。これは森田先生が言う赤裸々に話すこととは全く違う。これはお互いの傷をなめ合って、少しでも苦痛から逃れようとしているだけのことである。人間は他人に知られるとまずいと思うことは隠します。ごまかします。弁解、言い訳、責任転嫁をする習性があります。例えば髪が薄いのを隠すためにかつらをつける。身長が低いのでシークレットブーツを履く。太っているのを隠すために、コルセットのようなもので身体を締め付ける。シミなどを隠すために厚化粧をする。こうした生活態度は、事実、現実、現状を決して受け入れないという信念からきています。弱み、欠点、ミス、失敗などはあってもよいが、他人に知られてはならない。他人に知られると、軽蔑される。馬鹿にされる。最後には軽くあしらわれて、仲間として受け入れてもらえなくなる。そうなるとこの社会で生きていくことができなくなる。そういう状況に陥ることは何とか回避したいという本能的な欲求があるのです。そのような行動をとることで、危惧している状況は回避できているのでしょうか。残念ながら、隠そうとすればするほど周囲の人は、隠していることに気づいています。それは夜間、蛍光灯をつけた部屋内は外からよく見えますが、中から外にいる人のことが全く見えていないのと同じことです。反対に、都合の悪いことをうまくごまかして、自分たちをだまそうと装っていることに対して、「この人は信頼できない人だ」「気を許しているといつか危害を加えられるかもしれない」などと、バリアを張るようになるのです。決して人間関係はよくなりません。私が小学生の頃、テストで平均点が60点ぐらいの時、30点ぐらいしかとれていない友達がいた。その友人は何を思ったのか、休憩時間に友達に見せていた。私にはできないことだった。すると、みんなが寄ってたかって「こんなところを間違えたのか。バカだなあ」と冷やかされていた。友達は、意気消沈するかと思いきや、むしろそれを自慢しているようだった。先日、同窓会があって、その方にどんな仕事をしていたのかと聞いてみると、誰でも知っている大きな会社の部長だったという。部下が大勢いたという。それをうまく束ねていたそうだ。彼は「運が良かっただけだよ」と言っていた。しかし同級生の中では出世頭だった。この友達は、自分をよく見せるために、隠したり、ごまかしたりしなかったことが、幸運をもたらしたのではないかと感じました。それだけのことなのに、人を引き付けることが自然にできるのです。自分の弱み、欠点、ミス、失敗などを隠さないでおもしろおかしく公開できる人は、「かくあるべし」を自分や他人に押し付けることをしない人です。いつも事実に寄り添い、事実本位の生き方が身についている人です。そういう人は肩ひじ張らず、楽な生き方ができています。さらに、自分の周りに自然に人だかりができているのです。赤裸々に自己を打ちだすことは、事実本位の生き方を身につけるための、ひとつの関門となっているのです。
2020.03.27
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第9回の形外会の終了後、午後6時から9時まで晩餐会と余興が行われている。まず「職業当て」と称し、一組二人の背に、芸者・医者・女中など書いた紙片をつけ、互いにこれを見せ合いたる後、決して言葉を用いず、身振りのみで、これを相手に知らせる。次に「トェンティー・クェッション」と称し、相手が例えば電灯・鯉など、ある一つの物の名を考えているのに対し、その問う方の人は、たとえば人工物か、鉱物質か、この室内にあるかなどと問い、答え方はイエスとノーのほかは答えてはならぬという規則である。森田全集第五巻には、この手のレクレーション、余興の話が確か11回ほど出てくる。この部分はあまり重要視されないで、飛ばし読みもされている人もいる。私は、この部分だけをとり出して冊子を作って読み合わせをすればよいと考えている。事実私が立ち直りのきっかけとなったのは、森田先生の鶯の谷渡りの宴会芸の話を知って、支部研修会の余興で一人一芸を披露することを思いついたからである。アルトサックスの演奏から始めた。それから物まね、手品、獅子舞、どじょう掬い、腹話術、どじょう掬い、しばてん踊り、浪曲奇術へと続いた。これらは今や老人ホームの慰問活動での出しものとして活用している。特にアルトサックスの演奏では、素人チンドン屋に入れてもらい、年間20回から30回の興業を行っている。これにより生活の幅が広がり、精神が緊張して、こまごまとしたことによく気がつくようになった。さらに行動的になり、雑事や雑仕事を大切にすることができるようになった。だから趣味、遊戯、スポーツ、園芸、音楽、動物を飼うことなどは、神経症を克服するためにはとても有効なのである。支部研修会で作品展と一人一芸の披露を行ったことがある。実に多くの人がいろんなことに取り組まれていることが分かった。作品展では農作物、絵画、水彩画、面つくり、俳句作り、書道、園芸、陶芸、獅子舞などの実物が持ち込まれた。そのいずれもがすばらしい出来だった。自分で作った米や作品は希望者にくじ引きで当たった人にプレゼントされた。かくし芸や一人一芸も、琴の演奏、洋曲、楽器演奏、阿波踊り、獅子舞、カラオケ、小型ドローンなど盛りだくさんであった。支部研修会に参加している人の大半は、神経症を克服した人が多いのです。さらに、森田を生活に応用して、存分に活用している人が多いのです。その人たちが取り組まれていることだから、見応えがあるのです。こういうのを見ていると、自分も元気が出てきます。興味や関心が湧いてきて、実際にまねてみる人が出てきます。私は集談会でもたとえ10分でもそういう時間を作ることが大切だと感じています。健康体操、川柳の披露、似顔絵、合唱、コーヒーを入れ、手づくりクッキーやケーキを賞味する。司会者の前には自分で作った生花を飾る。などなど。さらに年に2から3回は、15分ぐらいの時間で生活森田・応用森田の発表を行う。そういう目的や楽しみがあることが、集談会継続のきっかけとなるのです。普通に考えると、森田理論の学習内容の質を高めることが一番だと考えやすいのですが、それは潤滑油を差さないで歯車を無理やり回そうとするようなものです。期待するような効果はでないだろうと思われます。これで沈滞気味の集談会が一挙に活性化すると思いませんか。
2020.03.26
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森田全集第5巻99ページからの引用です。最近、朝日新聞に、五重奏ということがでていた。それは本を読みながら会話をし、字を書き、計算をするとか、同時に5種類のことをするということです。聖徳太子は一度に8人の訴えを聞かれたとのこと、すなわち八重奏である。私共も平常、2つや3つの仕事は同時にやっている。例えば病院などでも、患者の家族に面会しながら机上の雑誌を読み、一方には看護婦に用事を命令するとかいうようなものである。三重奏である。我々の日常は、誰でも同時にいくつもの方面の事を考えているのが普通のことである。強迫観念でも、苦しみながら何でもできるものである。神経質の人の考え方の特徴として、それを自分でできない事と、理論的に独断してしまうのである。これを分かりやすい話でいえば、食事をしながら配偶者と話をする。子供と会話を楽しむ。子供の食べている姿を見ている。テレビのニュース番組などを見る。新聞を見る。手紙やダイレクトメールなどを見ている。今日の予定を確認している。部屋の温度調整をしている。電子レンジのチンを待っている。風呂が沸く時間を気にしている。お湯が湧くのを待っている。料理が出来上がるのを待っている。実にたくさんのことを気にかけている。いくつもの事が同時並行的に進行しているのである。いくつものプロジェクトが同時並行で処理されているのだ。そういう状態では精神状態が緊張状態にあり、変化対応力がある。ひとつのことにのみ意識や注意が固定しているわけではない。次から次へと意識や注意の向かう方向が切り替わっている。神経症の蟻地獄に陥っている人は、食事をしていても、意識や注意の大半は、症状のことに固定されている。目の前で起こっていることには無関心、無頓着である。精神状態は緊張感が失われて、うつろである。変化にとっさに反応することはできない。本来外に向かうべき注意が自己内省へと向かう。それもネガティブで否定的なことばかり考えている。神経症を克服した人は、興味や関心、気づきや発見、アイデア、問題点や改善点、課題や目標が泉のようにコンコンと湧き出ている。森田先生のところから退院した人は、今まで気づかなかったこまごましたことによく気がつくようになったといわれている。停滞していた淀みに、勢いよく水が流れ込んで、異臭を放つ芥が一挙になくなっていくようなイメージである。もし雑念恐怖、集中力について、意識や注意を一点に集中、固定することと考えておられるならば、それは認識の誤りであると森田理論は教えてくれている。そうすればすぐに神経症を発症する。様々なことに大いにとらわれる。しかしとらわれることが多くて、以前にとらわれたことは、メモしていないとすぐに忘れてしまう状態が私たちが目指しているところです。
2020.03.25
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第10回形外会の記録の中に神経症の治り方についての説明がある。まず森田先生の著書を読むだけで治る人が相当数いる。たくさんの礼状によって分かる。また、1回の診察、数回の外来で治る人も多い。倉田百三氏は頑固な強迫神経症を5、6回の診察で治された。入院する人は、早いのは1、2週間で完治した人もいる。まれには4ヵ月もいた人もいます。平均は40日ぐらいです。治らない人も100人中、6、7人はいます。治る人と治らない人の違いは、森田療法に従順に服従すると否とによることです。自己流の理屈をいうものは、縁なき衆生というよりほかはありません。(森田全集第5巻 95ページより引用)著書とテープだけで胃腸神経症を克服された方の中に、メンタルヘルス岡本記念財団の創始者の岡本常男さんがおられます。この方は食べたくても胃腸に負担をかけたくないという思いから、30キロ台まで体重を落とされた方です。岡本さんは、森田の考え方に従って、流動食から取り組まれました。普通の人にとっては、訳もなくできることでも、胃腸神経症の人にとっては、まさに命がけの恐怖突入だったのです。その成果は3か月後ぐらいから現れはじめ、1年後にはもう胃腸神経症を克服されたようです。森田理論は、最初はいくら反抗的な気持ちを持っていてもよいのです。ただ実行にあたっては、渋々仕方なしでもよいので、指導されたことに素直に取り組んでみることが大切です。そうすると短期間で蟻地獄の底であえいでいた状態から、地上にはいだすことができます。そのからくりは観念的に考えているだけでは解決できません。真実は実践や行動に取り組むなかにあります。指導内容は、不安には手をつけない。不安を持ちこえたまま、日常生活の方に意識や注意を向けて実行していく。すると自然発動的に日常茶飯事のことに関心や興味が生まれてくる。気づきや発見、工夫や改善が泉のように湧き出てくるようになる。次第に生産的、創造的、建設的、意欲的な生活に変わっていく。このようにして入院森田では神経症を治していったのです。懇切丁寧に指導しても、実践や行動しない人が6、7%はいたということです。神経症の完治のためには、もう一つ取り組むべき課題があります。「かくあるべし」を少なくして、事実に基づいた生活に切り替えていくことです。一人の人間の中には、現実でいろんな問題を抱えて葛藤や苦しみを持っている自分とそれを空の上の方から見下ろして批判している二人の自分がいます。森田では「かくあるべし」を振りかざして、自分や他人を何かにつけて否定している自分がいるといわれています。それが神経症の元になる葛藤や苦悩を作りだしているとみているのです。空の上にいて、現実の自分を否定している自分が、すっと地上にいる自分のところに舞い降りてきて、共に手を携えて生きていくようになれば神経症は完治すると思います。これを「事実本位」の生活態度を身につけると言います。そのノウハウを森田理論学習では様々に提案しているのです。形外会では、第一段階を卒業した元入院生の方が、森田正馬先生のもとに集まって、その後理論的な裏付けの学習をされているのです。その内容が森田全集第5巻です。日本が世界に誇る歴史的名著といわれているものです。この本には、ノーベル賞を与えるだけの価値があります。そうなれば、森田理論の考え方は世界に浸透していくものと思われます。多くの人の福音になることは間違いありません。
2020.03.24
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森田先生は「具体的に話す」ことを指導されている。具体的ということについて説明すれば、たとえば「生活を正規にせねばならぬ」とか、「精神を常に緊張していよ」とか、そんなことは抽象的のことで、実際には何の役にも立たない。ここではその事を例えば、「7時間以上、寝てはいけない」とか、「終日戸外にいるように」とかいう風に、具体的に教えて、それで立派に生活正規、精神緊張の結果が得られるのであります。これを抽象的に言うようでは、私のいわゆる思想の矛盾で、かえってその結果は思うようにならないのであります。(森田全集第5巻 90ページ)森田先生は具体性を欠いて、抽象的な話をすることを大変嫌っておられた。これを循環論理と言っておられる。神経症の患者に、「どこが悪いか」と聞くと、「神経衰弱だ」という。「それでは分からぬ。まず症状をいうように」といえば、「物が気になる。いろいろのことが苦しい」と答える。「ともかくも、何が一番苦しくて、第一に治したい事は」と反論すれば、「神経衰弱を治してもらいたい」という。これを循環理論といって、果てしのないことである。この場合、「気になる」と「神経衰弱」とが循環するのである。この時に、何が気になり、それをどのように改良したいかという事を、具体的に実際に追及していけば、初めて煩悶がなくなって、ともかくも、ある一定の方向に、活路が見出されるようになる。(森田全集第5巻 517ページより要旨引用)学習会でも、自己紹介などで、「私は対人恐怖症です」などと抽象的な話をする人が多いのが現状です。話することが恥ずかしいのか、隠しておきたいのか、話すことが面倒なのか分かりませんが大変残念なことです。少なくとも森田が目指している方向ではありません。ある商工会で、県内の企業348人を対象に、言葉のイメージを調査したそうです。その一例を紹介しましょう。大勢とは何人ぐらいでしょうか。回答は、最多が1万人、最小が4人だったそうです。おじさんは何歳以上の人のことを指しますか。最高は78歳。最小は22歳。長電話の時間はどれぐらいのことを言いますか。最長は10時間。最小は2分。つまり会話の中で、大勢、長電話、年寄りなどの抽象的な言葉を使っていると、受け取る人によってさまざまで、発信者の正確な意図はほとんど伝わらないということです。「みんながそう言っている」という言葉をよく聞きますが、実態を確かめてみると友達の一人だけがそういっていた。私もその話に賛同した。すると「もうみんながそう言っている」ことになってしまっているのです。これを誰それさんが「こう言っていた」「私もその通りだと思う」「その考えを支持します」と具体的に話すればまちがって伝わることはありません。具体的に話すという態度の獲得は、事実本位の生活態度を身につけるための出発点となります。事実をよく観測する。具体的に話す。隠しごとをしないで赤裸々に話す。いいわけをしないで話すことは、事実本位の生活態度を身につけるための関門となるわけです。
2020.03.23
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森田先生は数学の嫌いな子供に対して、1日に3回でも5回でも何回でもよい。2分間でも5分間でも簡単に言えば、1から9までの数字を何回でも、丁寧に繰り返し書かせる。すなわち本人が、苦痛や骨折りを感じないような、容易な問題を与えて、楽にやらせる。(森田全集第5巻 78ページ)普通数学が嫌いな子供は、基礎ができていないので、まず公式を徹底して教える。次にその公式を使った応用問題を数多く解かせる。こんなふうに考えて指導するとよかろうと考えがちだ。森田先生はこんなことを子どもに押し付けていると、ますます数学嫌いな子供になってしまう。最初のとっかかりは、簡単なことから始めるとよい。そうするべきだといわれている。つまり、実践・行動に関しては、前もって頭で納得してから動きだすのではないのだ。何も考えず、尻軽く簡単なことから始める。すると次第に弾みがついてくるという。森田先生が原稿を書くときは、初めの3、4行が最も骨が折れ、3枚目ぐらいまでは思想がまとまらないでなかなか苦しい。5枚6枚となれば、もはや調子に乗って思想が湧きだしていくらでも書けるようになる。この面白い心持を覚えているから、初めの3行の難産の苦しみを耐えて骨を折ることができるのである。(森田全集第5巻 63ページ)私たち神経質者はやる前にうまくいくだろうか。うまくいかなかったらどうしようと考えすぎる。やるべきことがどんどんと魔物のように膨らんできて、そのうち手も足も出なくなることがある。やってみれば難しそうに思えたことが案外やさしかったと思うこともある。その反対ももちろんある。河井寛次郎氏の言葉に「手考足考」という言葉がある。やりながら考えるということです。簡単なこと、容易なこと、手をつけやすいことを見つけて、すぐに行動する癖をつけることが肝心なのです。すると精神状態が高揚してくる。感情が動きだすのである。数学嫌いの子供に、1から9までの数字を書かせることに何の意味があるのだろう、と思われる人がいるかもしれない。それは井戸水を汲みあげるときに、呼び水を入れることと同じだ。呼び水を入れることがきっかけとなって、次の行動につながっていくのだ。呼び水を入れないといつまで経っても、水は出てこない。最初は億劫でもよい。イヤイヤ仕方なしでもよい。尻軽い行動が弾みとなって、次第に活動的になってくることを忘れないようにしたい。森田では生活に必要なことを、最初はイヤイヤ仕方なしに取り組むことをお勧めしている。
2020.03.22
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野村克也さんと妻の沙知代さんは40年連れ添ったおしどり夫婦といわれている。なりそめは、野村さんが1972年に離婚訴訟中だったころ、沙知代さんと出会った。当時の沙知代さんには夫がいた。それで略奪婚などとバッシングを受けた。沙知代さんはマスコミの前でも言いたいことをいい、世間をあっと言わせる行動をとる人だった。野村さんが南海の監督だったころは、球場に出入りして、監督夫人として振る舞うようになった。そのあまりの横暴さに、オーナーは野村氏に「監督をとるか、女房をとるか」と迫ったという。野村氏は「女房をとります。仕事はいくらでもあるが沙知代は一人しかいない」と言ったそうだ。そして監督を解任されている。1996年に沙知代さんは衆議院選挙に出馬している。1999年には沙知代さんのメディア出演が続き「サッチー・ミッチー」騒動を引き起こしている。2001年には沙知代さんは、脱税事件で有罪判決を受けている。2009年には「女房よ」というシングルをリリースしている。沙知代さんが作詞を担当して、野村氏が歌手として歌っている。歌詞を見ると、「誰もいない この世のどこにも お前を超える人は」とある。沙知代さんは自己愛性人格障害者ではないかと思える内容である。それだけ沙知代さんは、あらゆることに自信満々だったのだろう。これだけの世間を騒がす問題行動が重なると、普通は離婚するのではないかと思う。ところが、野村さんは、不祥事を起こすたびに妻を許し、かばい続けていた。それが何とも不思議です。一切批判や否定をしないのですから。完全に妻を信頼して、どんな不祥事を起こしても妻の肩を持っているのですから。森田でいう事実をあるがままに認める。素直に受け入れるということです。そしてどんな不祥事を起こしても、自分が妻を護りきって見せるという太っ腹な性格なのです。これが自分を信頼し、選手を信頼して、成長させた原動力になっていたのでしょう。二人でテレビに出たときも、沙知代さんが言いたい放題のことを言う。時には夫の失敗なども持ちだす。性格も問題にする。野村氏は、その横で発言を控えて、苦虫をつぶしたような苦笑いをしている。監督としては言いたい放題、やりたい放題なのに妻の前では借りてきた猫だ。これは完全にかかあ天下の家庭だなと思っていた。脱税で有罪判決を受けたときは、「妻の問題で監督を2度もクビになっているのは、世界中を探しても私ぐらいだろう」と言いつつ、「老後の蓄えを思って始めたこと」と沙知代さんの行動を咎めることはしなかった。全幅の信頼を置いていたということだろうか。野村さんは妻のことを「ド―ベルマン」と評していた。その意味するところは「外では一見凶暴に見えるが、家では主人に従順」ということだそうだ。事実沙知代さんは家庭の問題はきちんとこなして、野村さんが野球に専念できる環境を整えてくれていたそうだ。それだけに沙知代さんが亡くなられたときは、無精髭を生やして痛々しかった。その後2年間で急速に衰えが目立つようになっていった。私は夫婦といえども不即不離を念頭に置いている。基本的にはそれぞれが好き勝手なことをしている。助け合う場面があればできるだけのことはする。発見会活動で出歩くことが多いが、苦情を言われたことはない。今では私も不十分ながら妻の話はできるだけよく聞くようには心掛けている。昔は「かくあるべし」を押し付けてばかりで、申し訳なかったと思っている。後悔で穴があったら隠れたいような気持になることがある。妻は趣味や飲み会、会合に出かけることが多いが、私も快く送り出している。お互い言いたいことを言いあうので、波風はよく立つが、別れるといった話になったことはない。料理、洗濯、掃除をよくしてくれるので大いに助かっている。今考えると、これでよかったのではないかと思っている。
2020.03.21
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森田先生は、「風邪をひくのも魔がさすのも、必ず常に気の緩んだ時で、周囲の状況とこれに対する自分の反応が、適応性を失ったときに起こるものである」と言われている。暖かいところから急に寒いところに入り、また寒いところから暖かいところに入る時に、これに対する心の変化が、適応せず、気が緩んだところで風邪をひくのである。故にうたた寝のようなことがよくない。ここでは周囲の状況の変化に対して、素早く対応できるように心がけて生活しなさいと言われている。目の前の変化をよく見て、緊張感を持続して生活しなさいと言われている。森田先生は車に乗るときも、ゆったり、のんびりされていることはなかったようだ。急ブレーキで止まったり、事故に備えて、片足を前に出してとっさの危険回避の態勢をとっておられたという。何をそこまでと思われる人がいるかもしれない。森田理論の中でも、この「変化対応力」はぜひとも身につけたいところだ。変化対応力で分かりやすいのは、サーファーの波乗りである。上手なサーファーは大きな波のうねりをとらえて、素早くその波に乗る。その後は波の変化を予測して、その変化に対応している。波で体が隠れるので、見ているものまで興奮させる。うまくいけばそのまま波打ち際まで疾走することができる。爽快な気持ちを味わうことができるのだ。しかし素人ではなかなかうまく波に乗ることはできない。それは技術が未熟で、波の変化をうまく捉えきれていないからである。変化対応力が身についてくれば、爽快で人を感動させるような波乗りができるようになる。気象の変化の兆候は、つねに気象衛星が観測している。人間はその衛星画像を目で確かめて分析している。そのおかげで、1週間先の天気までほぼ正確に当てている。台風が発生するとその進路がほぼ分かる。適切に対応すれば、被害も最小限に抑えることができる。特に太平洋などを航行する大型船舶などは、気象レーダーなどで気象の変化を分析して、航路を変更している。航空機もそうである。これらは観察を怠らなければ、ある程度、変化の予測が可能なものである。関心を持って、事象を観察すれば、変化の兆候をつかむことができる。小さな変化を見逃さないで掴もうとする生活態度の養成は必須となる。そうなれば、森田理論でいう「無所住心」の世界に入り、緊張感のある生活となる。次に変化が予測できないものがある。交通事故、ケガや病気、伝染病、地震、雷、火事、土砂災害、火山の噴火、経済変動などである。予測するまえに突然人間を襲ってくる。変化に対応する時間的余裕がない。変化予測不可能なものに対しては、仮説を立てて、変化を予測し、対応策を事前に決めておくことが有効です。そうしないと慌てふためくことになる。こういうのは取り越し苦労とは言わない。地震に備えて家具を固定しておく。耐震化工事をしておく。非常食を備蓄しておく。生活用品を用意しておく。ヘルメットを用意しておく。ラジオや懐中電灯を用意しておく。家の中ではどこに身を寄せるのか。逃げるときはどこに避難するのか。津波が発生したときはどこに行くのか。もしものことを予測して普段から対応策を準備して、避難訓練をしている人は、とっさの行動がとれる。変化の予測を無視している人は、頭が混乱して、右往左往することになる。最悪の場合は命を落とす。変化には観察していれば容易につかめるものと、予測や予想が極めて困難な変化がある。どちらの変化にも対応できるようにしておくことが大変重要であると思う。普段から変化対応力を身につけた人は、神経症とも縁が切れていく。
2020.03.20
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今日は森田理論の中で出てくる、「平等観と差別感」について考えてみました。森田では差別感については、「劣等感的差別感」などと言われます。この意味するところは、自分だけがことさら外界からの刺激に対して、特別に抵抗力が弱い。他人と異なって、自分だけが精神的、身体的に重大な欠点や弱点を持っている。このように絶えずネガティブ、悲観的に思考する傾向がある人のことを言います。他人の持っている長所や強みと、自分の短所や弱みを比較して劣等感に陥っているのです。本来なら、自分に短所や弱みがあるのなら、その反対に長所や強みもあるに違いない。自分の長所や強みを自覚して、それを活かすことを考える必要があるのです。差別感というのは、自分と相手を比較して、その違いに着目して、自分なりの価値判断をしているのです。たとえば、人間は誰でも耳や目は2つ、鼻や口は一つあります。ところがその形状は十人十色です。その違いに着目して、美人、イケメン、ブス、三枚目などと勝手に価値判断をしてランク付けをしているのです。問題なのは、その判断は自分独自のものではなく、普遍性を持っていると勘違いしていることです。それを基にして、自分にも他人にも修正を求めてくるのです。整形美容、過度なダイエット、アデランスなどをして自分をごまかし、普通の人間を装おうようになるのです。差別感を前面に押し出している人は、隠す、ごまかす、否定する名人です。これに対して平等観を身に着けている人は、人間は誰でも苦しいときは苦しい。楽しいときは楽しい。人間は誰でも耳や目は2つ、鼻や口は一つあります。基本的には、体つきや考え方は同じようなものだと思っているのです。ところが詳細に観察してみると、考え方、思想、性格、容姿、能力、生育環境などは2つとして同じものはありません。その違いが存在していることを、あたりまえのことだと思っているのです。その違いを自分の価値判断に合わせてやろうなどと大それたことは考えていません。それを認めて受け入れないと何も始まらないと思っています。人間同士はもともと考え方が違うので、まず相手の考え方をよく聞く必要がある。そして自分と相手の考え方の違いを白日のもとにさらけ出す。その後話し合いを行ってその溝を調整していくしかない。つまり他人の存在、考え方、性格、容姿などを尊重しているのです。互いに自分の意見をぶっつけて言い争いにはなりますが、その底にはなんとか和解したいという気持ちが働いています。ストレスを二人の力で解消しようとしているのです。差別感を身に着けている人は、自分の考え方を相手に押し付けようとしているのですから、最初から信頼関係などはありません。殺し合いの喧嘩になることもあります。相手を自分の思い通りに手なずけてしまおうとしているのですから、お互いが傷つけ合うようになるのです。森田理論ではお互いの違いをあるがままに認めて、そこを出発点にして生活していきましょうという考え方なのです。
2020.03.19
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森田先生は「目的本位」に行動しなさいと、この言葉自体を取り上げて説明されている部分はありません。この言葉は、高良武久先生が言われ始めたと聞いたことがあります。そのために「目的本位」は軽視してしまう人がいます。なかには、この厳しい世の中、「目的本位」に努力しても報われないケースが多い。そうなれば、挫折して自己嫌悪、自己否定するようになるじゃありませんか。実践・行動はその時々で気のついたことを、コツコツとやればいいのです。目的や目標を持つことは、百害あって一利なしです。目的や目標が「かくあるべし」になっては、それが自分を攻撃するようになるのです。持てる人はそうすればよい。なければなくても構わない。そういうものを持たないほうが、むしろ自然ではないですか。妙に納得させられる話のように思いますが、何か割り切れないものもあります。それは人間は、欲望を持ち努力精進することを宿命づけられた生き物だからだと思います。欲望を達成したいという気持ちを持っていない人は、別に人間に生まれてこなくてもよかったのではないでしょうか。第一覇気がなくなります。そしてその時の気分に流されてしまいます。人間はその宿命に従って、いつも小さくてもいいので、目的や目標を持つ必要があると思います。森田全集5巻の中に次のような話があります。たとえば、川にかかった丸木橋を渡るとき、丸木橋の先の目標物をしっかり見つめていないと川に落ちてしまうことがある。キャッチボールをするときに、相手がグローブを構えたところをしっかりと見つめていないと、暴投してしまうことが多い。薪割をするとき、薪をしっかり見つめて、斧を振り下ろさないと薪にはヒットしない。丸木橋の話では、もし足を踏み外して川に転落したら、大変なことになるという不安や恐怖が出てくる。その不安や恐怖心が強くなると、障害を乗り越えて丸木橋を渡ろうという気持ちはなくなるだろう。目的を見失い、気分本位に流されてしまうと、生きる意味を見失い、自己否定するようになる。それに打ち勝つためには、何しても向こう岸にわたって、目的を達成したいという強い欲望が必要になります。キャッチボールの話では、力を抜いて相手のグローブをしっかり見つめていることが大切である。その時、自分の腕の動きや身体の状態などを気にしているようだと、益々動作がぎこちなくなってしまう。意識や注意は目的物に向いていることが大切である。その結果当然に暴投を招いてしまう。薪割も同じことだ。ボーリングでも一番ピンをしっかり見つめて、力を抜いて投げないと、すぐに外してしまう。低い点数の人は、それを無視して力いっぱい投げれば、ストライクが取れるだろうなどと考える。目的物よりは、爽快感を味わいたいという気持ちの方が強い。投げる姿勢が正面の1番ピンに向いていない。むしろ自分の投げる姿を、仲間はどのように感じているだろうか。人より悪いスコアだと恥ずかしい。人に馬鹿にされるかもしれない。おかしな投げ方になってはいないだろうかなどと考えている。どこに行くのかはボールに聞いてくれという感じだ。ストライクになるときは、それは見事だが、1本でも残るとスペアがとれない。100点以下しか出せない人は、たまにストライクはあるが、ほとんどスペアがとれていない。そして、たまにガーターをだしてしまうという傾向がある。これはしっかりと目的物を捉えていないから起こる現象である。私たちの実践・行動は、正しい目的を持って、それにチャレンジするという気持ちを強く持つことが大切です。そしてその実現に向かって実践・行動することが大切です。エベレストに登頂を果たす。甲子園で優勝する。オリンピックで金メタルを獲得する自分の得意分野でノーベル賞をもらう。芥川賞や直木賞をもらえる小説家になる。芸能の分野でテレビに取り上げてもらえるような有名人になる。このような大それた目標をいきなり口にする人がいる。失敗や挫折をする確率がとても高くなる。気分本位に陥る可能性が出てくる。いきなりはるか遠い目的や目標よりは、目の前の小さな目的や目標を設定したほうがよい。少し努力すれば実現可能な目的、目標を設定して生活することが大切です。日常茶飯事、家事、育児、仕事、勉強、趣味などで小さな目的を明確にすることです。小さな目的は達成が容易なものばかりです。達成できると気分がよくなります。自信がついて、行動に弾みがついてきます。その延長線上に大きな目標や夢への足がかりが作られるのです。そのためには、メモを活用して、頭に一瞬浮かんだ目的、目標を逃さないことが大切です。ストックを絶えずため込んでいくという姿勢を持ち続けることが重要になります。生き生きした生活をしている人はみんな、意識はしていませんが、「目的本位」の生活になっているということを忘れないようにしたいものです。
2020.03.18
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「自己嫌悪、自己否定する自分を責めてはいけない」などと、自分に別の「かくあるべし」を押し付けている人はいませんか。このやり方では、自己嫌悪、自己否定はなくなりません。その理由は、「自分を責めてはならない」ということが、新たな「かくあるべし」になるからです。問題のある考え方を、別の合理性を持った考え方で納得させようとすると、事態が収束するどころかますます悪化してきます。これは、「不安と格闘してはならない」「生の欲望を発揮しなければならない」というのも同じことです。これらは森田の核心部分ですが、これが「かくあるべし」になってはまずいのです。「・・・しなければならない」「・・・してはならない」などで言い表されるものは、いくらまともな考え方でも、「かくあるべし」から出発しているので、楽にはならないのです。むしろ、取り組めば取り組むほど苦しくなるものなのです。それでは自己嫌悪、自己否定は解消できないではないですかという声が聞こえてきそうです。もっともなことです。結論から言えば、解消することは可能です。ただし、別の方法で取り組むことによって可能となります。ではどうすればよいのか。まずそれを観念の世界でこねくり回すことをやめることです。つぎに観念中心の世界から抜けだして、身体を使う行動へとチェンジしていくことです。目の前の日常茶飯事、仕事、家事、育児、介護、運動、趣味、社会活動、課題や夢などに取り組んでいくことです。なんだそんなことかと思われるかもしれません。拍子抜けされるかもしれません。でもこういう切り替えができれば、その瞬間は「自己嫌悪、自己否定」のことを、頭の中でこねくり回さなくて済みます。考えてみてください。カラオケの好きな人が、カラオケを楽しんでいるとき自己否定していますか。料理が好きな人が、新作料理に真剣に取り組んでいるときに、自己嫌悪感が出てきますか。釣りが好きな人が、夢中で魚釣りを楽しんでいるときに、自己否定感がありますか。自分の興味や関心のあることに取り組んでいると、時間がたつのを忘れています。精神が緊張状態にあり、いきいきしています。新たな気づきや発見もどんどん浮かんできます。そこから意欲ややる気が高まり好循環が生まれてきます。失敗すれば、つぎにうまくいくように工夫や改善をします。達成や成功の経験をすれば、それが大きな自信になります。さらに弾みがついて、新たな目標も見えてきます。生活の中で、小さな楽しみのかけらをいくつも見つけることができるようになると、「自己嫌悪、自己否定」のことは忘れていたという時間が増えてくると思います。そういう状態は、結果として少なからず自己肯定の好循環に入っているのです。自分の存在を受け入れられるようになっているのです。自己否定はたまには出てくるが、特段生活には支障がなくなります。そんなことを考える時間がなくなったということになります。「自己嫌悪、自己否定」で頭の中がいっぱいという人は、今一度「凡事徹底」の生活になっているのかどうか振り返ってみる必要がありそうです。人間は、「閑居して不善をなす」といわれますが、まさにこのことです。
2020.03.17
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森田先生は次のように言われています。神経症を克服しても、犠牲心が発動しないで、自分の打ち明け話が恥ずかしい。人に知られては損害だという風では、まだその人は小我に偏執し、自己中心的であって本当に神経症が全治しているのではない。集談会でも神経症を克服してまったく寄り付かなる人をたくさん見てきました。その後の動向を見ていると、元気に森田を活用して生き生きと生活しておられる人はごくわずかのようです。むしろ悶々として、そのまま失意の人生で終わってしまうのだろうなと感じることが多いのです。結局森田には縁のなかった人なのだなと思っている。森田先生は縁なき衆上度し難しといわれている。私が参加している集談会に、高齢だが休まず続けて参加している人がおられる。その人は森田理論の神髄を掴んでおられる。そして森田理論を実際に生活に存分に活用しておられます。私はその方は森田理論学習の世界では10本の指に入る人だと思っている。その人は淡々と自分の体験したことを基にして話しされる。すごいオーラがあるので、人を引き付けてやまない人だ。治ったということから見ると、森田理論はもはや必要がない。集談会に来ても得るものはほとんどない。それでも毎回欠かさずに集談会に参加されている。その態度は、森田理論の「物の性を尽くす」「己の性を尽くす」ことの実践ではないかと感じている。自分は森田のおかげで神経症を克服した体験を持っている。それをいま悩んでいる人たちに、語り部となって、学習で掴んだことや体験談を話してあげている。それは人のためにしているようではあるが、自分を極限まで活かし尽くしていることにつながっている。「人のために尽くす」というのは、思想の矛盾に陥りやすいが、その方は言動が結果として、多くの人に大いに役立っている。神経症の体験は貴重なものであった。これがあったおかげで自分の人生をよく深く考えることができた。いろんな教訓を得ることができた。さらに神経症を克服して、神経症の成り立ち、克服方法について体験を通してつかんだ。現在は精神的に安定した生活を送っている。これを悩んでいる人たちに話してあげることは、自分が苦労の末に掴んだもの、持っているものを今に活かしきることに通じる。神経症を克服して、森田から離れて、我が道を突き進むことも考えられるのだが、その人は自分の持っているものを、困っている人たちのために活かしていく道を選ばれたのだ。自分が神経症から解放されればそれでもう森田とは縁を切るという考え方は、実は自分の掴んだ貴重な財産を眠らせてしまうことになる。つまり、せっかく自分が身につけた森田的な考え方、生き方、活用の仕方は宝の持ち腐れとなってしまう。森田の考え方は、ないものねだりをするのではなく、自分の思想、存在、性格、能力、所有物、時間、財産などの価値を見つけ出して、とことんまで活かしきるという考え方なのである。この考え方を発展させると、欲望の暴走が起きないようになっているのです。争いや戦争などが起こらなくなる。人々はお互いを尊敬して、仲良くなれる理論なのです。そういう基本となる森田の考え方を無視するということは、実は森田理論の核心部分が身についていないということにつながる。
2020.03.16
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人間は放っておくと、「かくあるべし」が前面に出てきて、自己否定をする生き物だと思います。自分だけならまだしも、他人、配偶者、子供、親にも「かくあるべし」を押し付けてしまいます。それが言葉を使い、大脳の前頭前野が発達した人間の宿命でもあります。森田理論学習では、「かくあるべし」の発生や弊害について学んできました。そして「事実本位」生き方の重要性について再認識しました。でも「かくあるべし」はなかなかしぶとくて、容易に「事実本位」を身に着けることができません。意識的に取り組んでいかないと難しいように思います。今日は自分を認めて受けいれるキャッチフレーズを考えてみました。これを机の前に貼りつけたり、メモするなりして意識付けをするというものです。参考になるのは、赤塚不二夫の天才バカボンの口癖の言葉、「これでいいのだ」です。これを脚色して自分なりキャッチフレーズを作りませんか。参考例をあげておきます。「あるがままの自分でいいのだ」「人間は裸で生まれてきたのに、これ以上何を望むのだ」「苦しいときは逃げてもいいのだ。うまく逃げたあんたはえらい」「時にはウソをついてもいいのだ。ウソをつくことは方便なのだ」「たまにはミスや失敗をしてもいいのだ。言い訳しないでユーモア小話のネタにするのだ」「弱点や欠点がいくらあってもいいのだ。見方を変えると弱点や欠点は自分の最大の強みなのだ」「勉強ができない。仕事ができなくてもいいのだ」「たとえ容姿が醜くてもいいのだ」「いつもおどおどする神経質な人間でもいいのだ。裏を返せば鋭い感性を持っているということなのだ」「引っ込み思案で自己主張ができなくてもいいのだ。そのおかげで大きな失敗はしないのだ」「ガンになってもいいのだ。健康のありがたさに気づくことができたのだ」「自分の配偶者、子供、両親、兄弟姉妹、友達は今の自分にぴったりなのだ」「どんな自分であっても今が最高なのだ」舌足らずのところは自分で改良してください。その他、本当は自分なりにピッタリする言葉を考えてみてください。いつも口ずさんでいると、その気になってくるのが不思議です。これらは、理不尽で不甲斐ない自分を嫌悪するよりは、まず開き直って現実を素直に認めてしまいましょうという戒めの言葉なのです。普通、あまりにも「かくあるべし」にがんじがらめにされているので、身動きがとれないのです。「事実本位」とのバランスをとるためには、少々手荒な手法も取り入れることが必要なのです。自分の気にいった言葉を机や日記などに書いて毎日唱和するのです。現実を上から下目線で否定するのではなく、事実、現状、現実の自分を素直に認めて受け入れていくことを目指しているのです。そしてどんなに問題を抱えていても、自分に寄り添って、自分をかばい護りきって見せるという決意の表れなのです。死ぬ時までその気持ちを持ち続けることが肝心です。すると次が開けてくるような気がするのです。自分にどんなことが起きても、自分の味方で庇うことができる人と、自分との果てしない戦いに明け暮れる人では格段の違いが生じてしまいます。人間の幸不幸というのは、自分がどちらの立場に立っているかに左右されてしまいます。素直というのは、理不尽で嫌な事実、現状、現実をあるがままに認めることができる人です。素直の反対は、屁理屈、弁解、責任転嫁、拒否、無視、抑圧、否定を繰り返している人のことです。これを信条として、自分、他人、子供、親たちに「かくあるべし」を振り撒いているのです。これで幸せになろうというのは思い違いも甚だしいと言わざるを得ません。
2020.03.15
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2月号の生活の発見誌に考えさせられる記事があった。2ページから10ページに掲載されています。森田理論学習を始めて日の浅い人に、知らず知らずのうちに「支援」というより「指導」というか、「指示的」になっていませんかという指摘だった。確かにそういう傾向がありますね。神経症でのたうち回っている人に、その苦しい気持ちには手をつけないで、目の前のなすべきことに取り組んでみましょう。森田理論では、それに取り組むことをお勧めしています。などなど。相手の話をよく聞かないで、「いきなり森田」です。相談する人は、そうすればよいのは分かっています。頭では分かっているのに行動に移せない。自分自身に対する不甲斐ない気持ちを持っている。すぐに嫌なことから逃げだしてしまう自分を自己嫌悪している。そういう人に「いきなり森田」の考え方を勧めては、二度と集談会に参加したいとは思わなくなる。それが自然な流れだと思います。「いきなり森田」はアドバイスする人の自己満足に終わり、相手には届かないことのほうが多い。初心者に対して先輩会員は、傾聴と受容と共感の気持ちで接することが大事です。話やすい雰囲気をつくり、相手に心地よい居場所を提供してあげる。相手の話を価値批判しないでよく聞く。私たちも以前は神経症でのたうち回っていました。その時に先輩が、「私もそうでしたよ。苦しい気持ちはよく分かります。一緒に森田の学習をしていきましょう。きっと楽になりますよ」と寄り添ってくれました。そのとき、「この会には私と同じ体験をした人がいる。自分もよくなるかもしれない」とかすかな希望を見つけだしたことを思い出します。悩んでいる人たちは、自分はどんなことに不安を感じていて、「本当はどんな生活を期待していたのか」など自分の感情を自覚できていない人も多いと思うのです。行動する前に、今どういう思いを抱いているのかを話してもらう。いろんな思いがあっても「それはそれでいいんじゃない。みんなそうだよ」と受け止めてもらえるような体験が大切だと思います。「いきなり行動」を強要するよりは、不安を含めて様々な感情をそのまま受け止めてもらえることが先にこないといけない。初心者に対しては、「いきなり森田」ではなく、深く包み込むような、一緒に悩んでくれる人がいるアットホームな居場所を提供してあげるだけでよいのだと思います。そして次には、その人の神経症体験や森田を活かした生活実践の話が参考になる。それがないと、森田は食わず嫌いの一品になってしまいます。実にもったいないことが起きるのです。集談会の進行でまず心がけることは、包容力のあるアットホームな集談会を目指すことであると考えます。森田の先生がいるような集談会は、心強いのは確かだが、かえって弊害も多いことを忘れてはならない。
2020.03.14
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頭に浮かんだ「雑念」にとらわれて、家事や仕事に集中できないという悩みを持っている人がいた。一般的には、「雑念」のことは気にしないで、目の前のなすべき家事や仕事に集中しなさいということになる。しかし、実際に雑念恐怖の人はそれではい分かりましたということになるだろうか。私はまず無理だと思う。この方には、「雑念」はあってはならないものだという認識の誤りがあると思う。「雑念」があっては、目の前の家事や仕事に集中できない。「雑念」を邪魔な存在として忌み嫌っているのである。何とか「雑念」が頭の中に出てこないように様々工夫しているうちに、注意と感覚がその一点に集中して、イライラしてどうにもならなくなってきた。自分一人ではどうすることもできない状態になってしまった。どうしたら「雑念」を気にしなくなるのか。あるいはどうしたら取り除くことができるのかという相談です。解決法としては初心者のうちは苦しくても目の前のなすべきことをなしていくことでしょう。しかしいつまでもそこで留まっていてはまずいい。次に認識の誤りを正していくことも必要だと思う。この「雑」がつく言葉を探してみると、雑草、雑魚、雑誌、雑仕事、雑踏、雑種、雑木林、雑煮などいろいろとある。全体に共通するイメージとしては、不要なもの、邪魔なもの、存在していてはいけないもの、役に立たないというものだ。多くの人間がそういう共通のイメージを持っているものだ。これらは、人間が勝手に存在してはいけないものと評価をしたものの総称である。本来、「雑草」という植物がある訳ではない。人間にとって少しも役に立たない。それどころか種を撒き散らかして、本来人間が育てている野菜の生育の邪魔をしている悪しき存在物なのである。「雑草」取り除くためにどれだけのエネルギーや除草剤を使っているのだと思っているのかと言いたいのである。「雑草」は人間にとって不必要なもの、そして戦うべき相手なのである。「雑草」自体は、与えられた環境の中で精いっぱい生命力を発揮しようとしているだけなのだ。その点では私たちと同じ目的の基で生きているのだ。「雑念」はなくすることができるのか。人間は目の前の出来事に対応して、次々とたわいもない感情が湧き起こるようになっている。一つ一つの感情に対する注意の集中は少しの時間である。映画のシーンを見るようにどんどんと変化して移り変わっていくのだ。それが太古から繰り返されてきた人間の自然の姿である。目の前の出来事や刺激に対して、一時的にとらわれてはすぐに消え去っていくのが本来の姿である。「雑念」恐怖の人は、そんなとりとめのない感情の発生はなきものにしたいといわれているのである。感情を自分のコントロール下において、自由に制御したいといわれているのである。そのような自然に反することはできない。走るときに手を振らないで、垂らしたまま走ってくださいと言われるようなものである。自然の営みに反旗を翻しているようなものである。自然の変化に従う生き方のほうが、理に適っているし、楽な生き方ができる。仮に、雑念がなくなって、目の前の家事や仕事に集中するどうなるのか。神経がその一点に固着されるということになります。変化に対する感情の流れが止まってしまいます。水の流れを止めてしまうと、藻が生えて、雑菌が湧いて異臭を放つようになります。この状態は森田が目指していることとは真反対のことです。すると精神活動は緊張状態から、弛緩状態に陥ってしまいます。弛緩状態になると気づきや発見を思い浮かばなくなり、活動は停滞してしまいます。こういう状態で、神経症は発症しやすくなるのです。ですから、雑念はむしろどんどんと発生させたほうがよいのです。そういう状態を森田理論では「無所住心」と言います。昆虫が触覚を使って四方八方に神経を研ぎ澄まして生活しているような状態となります。一時的にとらわれても、すぐに流して、次々ととらわれる対象が変化していくことが望ましいのです。それが人間にとっても生き生きと生きられる道となります。雑念がつぎつぎと浮かぶことは、精神が緊張して活動状態にあり、喜ばしいことであるという認識を持つことが大切となります。
2020.03.13
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元広島東洋カープの選手だった衣笠祥雄さんは、1987年国民栄誉賞に輝いている。その理由は、当時の連続試合出場の世界記録を超えたからである。当時の記録は2130試合であった。衣笠さんはその後さらに2215試合まで記録を伸ばした。約17年間一日も休まずに試合に出続けたことになる。その間不振に陥り同僚の選手からも、「お前が打たなかったから負けた」と嫌みを言われることもたびたびあった。そんな時、衣笠さんは、決して腹を立てるようなことはしなかったそうだ。次の日は、バッティング投手に打ち取られた球種とコースを要求して猛練習をしていたという。ふがいない結果を受けいれて、気持ちを切り換えて、常に前進する気持ちを持ち続けたのであろう。その不屈の闘志は一体どこから生まれてきたのだろうか。最大のピンチは、1979年に巨人の西本投手の投げたシュートが肩甲骨に当たり亀裂骨折をしたことだ。連続試合出場が10年目に突入して、日本記録更新まで124試合に迫っていたときだった。その試合で西本投手は3連続死球を与えたため、大乱闘に発展した。倒れ込んだ衣笠選手に駆け寄ってきた西本選手に衣笠選手は次のように声をかけた。「来るな。大丈夫。危ないからベンチに帰っておけ」だったという。実際には大丈夫ではなかった。骨折して、激痛が走り、痛みで眠れなかったのだ。戦線離脱しても不思議ではない状況だった。自分が苦しんでいるにもかかわらず、よく相手のことを思いやる言葉が出たものだ。西本選手は、宿舎に帰ってから、すぐに謝りの電話を入れた。怒鳴られることを覚悟していた西本選手に信じられない言葉が待っていた。「心配するなよ。それよりも、勝てるゲームを落として損をしたね」その試合巨人は7対1で勝っていたが、最後には8対8の引き分けに終わった。涙が出るような、暖かい言葉であったという。さらに驚くことに、次の日、代打で出て、江川投手の速球に3球三振だった。すべてフルスイングだった。衣笠さんは、「1球目はファンのため、2球目は自分のため、3球目は西本君のために振った」という言葉を残している。バットを振った勇気と粋なせりふは、西本選手の胸に染みたという。「気にするな。そういってくれていると受け止めた。衣笠さんの気づかいがあったから、その後も思い切って内角を攻めることができた。(思うように投げられない)イップスにならずに済み、長らく野球人生を送れた」「もしあの時、衣笠さんの大記録が途切れていたら、おそらく僕の野球人生はその時点で終わっていたと思う」衣笠氏の励ましに力を得て、西本投手は、その後もひるむことなく得意球のシュートを投げ続けた。翌年から6年連続で2桁勝利をあげる投手へと成長した。さらに中日に移籍した1989年には20勝で最多勝に輝いている。普通なら自分を傷つけ、野球生命を奪いかねない死球を与えた投手に対して、憎しみ以外は何も湧かないような気がする。故意ではないにしても、損害賠償を要求したくなるような気がする。自分の苦しいことは横において、相手のことを思いやる気づかいは私にはできない。衣笠さんは、理不尽なこと、不幸な出来事に対してそのままの事実を受けとめる態度で貫かれている。どんなに承服しがたい事実であっても、素直に認めて受け入れるという態度が身についているからこその言動である。常にそこから這いあがっていくのが人生なのだと教えてくれている。この話は、実は森田理論が目指している世界であると感じた。事実本位の生き方です。森田理論の核となる考え方なのだ。森田理論を学習したことのない人が、それを身につけて、生活の中で活かしておられたことに驚きを隠せない。(2020年2月2日 中国新聞参照)
2020.03.12
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玉野井幹雄さんのお話です。人は誰でも、自分自身に対するように人にも対するものです。ですから、自分自身を大事にするのと同じ程度に、他人を大事にすることができるということになります。逆に言うと、自分自身を大事にすることのできない人は、他人を大事にすることができないということです。同じことですが、ありのままの自分を受け入れることができない人は、他人を受け入れることができないものです。また、自分の欠点を許すことができる人は、他人の欠点を許すことができますし、自分の欠点を許すことのできない人は、他人の欠点を許すことができないものです。ですから、人間関係をよくするためには、まず自分自身の中の折り合いをつけることが先決だということができます。つまり、自分の中が「現実の自分」と「それを批判している自分」に分かれて争っている状態の和解を図ることが先決だということです。「現実の自分を受け入れる」ようになれば、無駄な抵抗をしなくなりますから悩みも少なくなり、孤立感からも解放され、人間関係もよくなるのであります。(いかにして悩みを解決するか 玉野井幹雄 自費出版 160ページより引用)自分で自分を嫌ったり、否定するということはあり得ないように思えますが実際にはあります。本来一枚岩になって、目の前に迫ってくる危険、問題点、課題に対して対応しなければいけないのに、仲間同士で骨肉の争いをしているようなものです。戦争で目の前の相手と闘わなければいけないときに、自分の後から味方となるはずの身内が、「あとずさりするな」と自分に向かって鉄砲を放って脅しているようなものです。精神状態が不安定になり、本来のやるべきことには手がつかなくなります。自分のなかで対立している二人が仲良くなるにはどうしたらよいでしょうか。森田で勧めているのは、批判している自分が現実の自分に寄り添うようになればよいといっているのです。現実の自分が批判している自分に寄り添うようになると神経症になります。精神的な葛藤と苦しみでのたうち回るようになります。これが森田理論でいう「かくあるべし」を少なくして、事実、現実、現状を素直に受け入れて、そこを出発点として生活していくということなのです。事実、現実、現状を素直に受け入れるとは、自分の容姿、神経質性格、自分の病気、体力。能力、経済状態、家族、会社、学校、社会、境遇、環境、生まれた地域や国、時期などを価値批判しないで素直に認めてしまうということです。受けいれて服従していくことです。一体になれば闘う必要がありません。エネルギーの無駄遣いもなくなります。どんなにか精神的に楽になります。そうなれば、目の前に迫ってくる危険、問題点、課題に対して心置きなく対応できるようになります。夢や希望に向かって歩みだすことができます。そのための方法は、森田理論が詳しく教えてくれています。このブログでも数多く取り上げています。興味のある方は、「事実本位・物事本位」のカテゴリーの中から、学習してみてください。きっとご自分に合った方法論が見つかると思います。
2020.03.11
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森田理論の感情の法則の3の活用について考えてみたい。感情は同一の感覚に慣れるに従ってにぶくなり不感となるものである。具体的な例で説明してみましょう。寒い冬場に風呂の湯船に浸かることを考えてみてもらいたい。最初はちょっと熱いなと思う。外で緩めのお湯で体を慣らす。中には、水で熱さを加減してから入る人もいるかもしれない。よい気持ちでしばらく暖まっていると、今度はちょっと温るいと感じるようになる。そこで今度は熱湯を入れて、お湯の温度を上げようとする。つまり湯船に浸かっているうちに、体が最初のお湯の熱さに慣れてきたといえる。最初は少し熱いようだと感じても、少し我慢していれば、その環境に慣れてきて、熱さを感じなくなる。これはプールに入る時にも同じことが言えます。プールに入る時は、反対に飛び上がるほど冷たい感じがする。身震いします。何ともいえない不快な感じがします。ところがしばらく泳いでいると、慣れてきてちょうどよい水温と感じる。体が水温に適応して、不快感が跡形もなく消え去ったのである。そのうち、このプールの水温は、やけに熱苦しいと感じることもある。不快感に抵抗しなければ、そのうち慣れて、その不快感は快感へと変化してくるということである。このように慣れるとその反対の感情さえ湧いてくるのである。不快感がなくなるということは、不快感を取り除こうという意欲は湧いてこなくなる。つまり刺激がなくなり、無意識状態に変化するということでもある。慣れてくると精神は緊張状態から弛緩状態に変わってくるのである。精神の弛緩状態というのは、日常生活の中では注意しなければならないと森田理論は教えてくれている。この感情の特徴を理解したら、ぜひとも生活の中で活用していきたい。どうすればよいのかを考えてみましょう。ところで神経質性格の人は、もともと感性が強い。他の人が気づかないような小さなこともよく気がつく。人も気持ちもよく思いやることができる。神経質性格者は他の性格特徴には見られない優れた特徴を持っている。その神経質性格をプラスとして認識し、生活の中に活かしていくためには、最初にハッとした感情に慣れてしまっては元もこうもない。これこそが宝物と認識することが大切なのである。無意識状態になると、応用や活用ができなくなる。実にもったいないということになる。最初の気づきをきちんとキャッチして風化させないことが大切になる。そうしないと、最初の気づきはしばらく経つと、すぐに忘却の彼方へと飛び去ってしまう。そうしないためには、今すぐにできることや時間のかからないものはすぐに手をつける。億劫だ、気が進まないなどと言っていると、慣れてしまって、せっかくの気づきという宝物が存在したことさえ思いだせなくなってしまう。今すぐにできないことは、忘れないようにすぐにメモしておく。日記に書いておく。そして時々メモの内容を確認する。このストックをたくさん溜めていくことだ。神経症からいち早く立ち治っていく人は、ほとんどこのメモを大事にしている。これが自分の人生が花開いていく第一歩となっている。この法則を実施するだけでも神経症を治すという第一段階は達成可能となります。
2020.03.10
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森田の学習の中に、「外相ととのえば内相自ずから熟す」という言葉があります。私がこの言葉を聞いてすぐに思いだすことがあります。「靴がそろえば、心がそろう」という言葉です。集談会に参加していた女性から聞きました。とても分かりやすいと思いました。目の前のなすべきことにイヤイヤでも取り組んでいくと、神経症的な悩みや葛藤は少なくなるということです。森田を学習する前は、心の問題なのに、どうしてそこにメスを入れないのか。全然関係のないようなことを押し付けて、自分の悩みを聞いてくれない。腹が立つという人もいました。それで集談会には参加しないという人も数えきれないくらいいました。実は、私がそうだったのです。藁をもすがる思いで参加したのに、この会は傷をなめあう会なのかと思いました。でも他に行くところもなく、仕方なしに参加していたのです。そのうちその意味がよく分かりました。神経症は直接症状に切りこんでいっても治らない。治らないどころか、ますます悪化していく。神経症を治すためには、「急がば回れ」ではないのですが、回り道を選択したほうが目的に近づくということだったのです。そのための具体的な方法が「凡事徹底」だったのです。日常茶飯事、仕事などに丁寧に取り組むということだったのです。するといろんなメリットが出てきます。一番のメリットは、症状に固定していた感情が流れ出すということだと思います。鴨長明の方丈記に、「流れに浮かぶうたかたはかつ消えかつ結びて留まるためしなし」とありますが、症状を克服するためには、感情を動かし、速やかに流すという事が欠かせないのだということがよく分かりました。治った人はすべてこの関所を通過しているのです。そして実践行動面に比重が移ってくるにしたがって弾みがついてくる。生活内容が好転するころには、神経症はあるにはあるが、生活に支障はない。神経症を持っていたほうが人間味があってよいのではないかと考えるようになります。神経症があったおかげで、森田理論学習に出合えた。人生をより深く考えるようになった。神経症に悩んだことは幸運だった。などと心の底から思えるようになるのです。外相を整えるという点では、もう一つ重要な視点があります。外相をととのえる実践行動には、必ず目的があるということです。例えば、食べるという行動は、エネルギーを補給して、命をつないでいくという目的があります。仕事をするという行動は、収入を得て、必要な生活物資を調達して、日常生活を維持していくという目的があります。目的が存在することで、モチュベーションが上がってくるのです。これと反対の生活態度は「気分本位」です。気分本位の行動には目的はありません。目の前に現れてくる出来事や刺激に対して、本能で反射的に反応しているだけのものです。目的がないので、湧き上がってくる感情や本能、欲望のおもむくままに行動してしまうのです。この行動は、苦を避けて楽を追い求め、刹那的快楽、一時しのぎ、気休め、怠惰な生活に振り回されるようになります。一時的には楽で楽しいかもしれませんが、最後にはやるせなさ、あじけなさ、むなしさだけが残ります。ですから外相を整えるためには、その時その場の必要に応じて、つまり生活を豊かにし、前進させるという目的の基に取り組むことが大切となります。そのような目的がない行動はほとんど意味をなしません。症状を治すための行動は、本来の目的から外れているので、症状を治すという目的はいつまで経っても達成できません。むしろ悪化の一途をたどってしまうのです。以上行動実践のための参考にしてください。
2020.03.09
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玉野井幹雄さんが自費出版された本に、「いかにして悩みを解決するか」がある。この本によると、玉野井さんは対人恐怖症だった。22歳のころに森田を知り、治ったのは50歳を過ぎていたといわれる。その間、何とか森田理論で対人恐怖症を治したいと考えておられた。なぜそんなに時間がかかったのか。当時は大分県南部の小さな町に住んでおられた。森田の学習は生活の発見誌と森田関係の単行本だった。集談会には参加することができなかった。後で振り返るとこれは問題が多かったと反省しておられる。自分の都合のよいところばかり読んで、独りよがりの「森田中毒症」になったそうだ。その中でも、「治らないとあきらめればよい」というのを、治すための手段であると誤解していた。前向きに仕事をしていても、これは対人恐怖症を治すためにやっているのではないという考えと絶えず会話していた。最初のうちはこれでもよいが、いつまでも症状を治そうとする目的を持っていては、それが障害になって治らないという体験をした。途中で森田に愛想をつかして、ついに森田を捨てることになりました。森田の単行本は目のつかないところに隠す。発見誌は読まなくなりました。するとその後に、今までと同じように症状と葛藤する自分がとり残された。一方で、自分がたとえ社会から抹殺されたとしても、自分を含めた家族の生活を維持していかなければならないという現実に直面した。会社では、管理職になり、責任上逃れることのできない立場に立たされました。仕事の面では、逃げるに逃げられない状況に追い込まれました。玉野井さんは、ただがむしゃらに仕事にくっついていったのです。森田で治るかもしれない、救われるかもしれないという甘い夢を捨てたのです。すると不思議なことが起こったそうです。駄目になるはずの自分が、駄目にならなかった。しかも、今まで見えなかった周りのものが、はっきりと見えはじめてきたのです。自分の足元が見えてきて、しかも次の一歩をどこに踏み出せばよいのかが分かってきた。神経症を治すということはどういうことかが分かったそうです。森田はいやな感じが治るとは初めから一言も言っていない。その嫌な感じは治らない、治してはならない。治すべきではない。などと言っている。むしろ、その嫌な感じと一体になって生きるところに本当の生き方があるのだ。だから、そのままなすべきことをしていけばいい。それがあるがままの生き方なのだと繰り返し教えてくれていることに気づきました。それが体験的に分かったのです。玉野井さんは、今までは、理論や結論を先に出しておいて、それを自分に当てはめようとされていたのです。そして、それを森田だと勘違いされていたそうです。そういうものを、一切捨てて、事実だけになって進むようになってから、その間違いが初めてわかったそうです。症状に関しては、それを治そうとする「目的本位」であってはいけない。あくまでも、その時の感情の事実に無条件に服従する「事実本位」なければならないといわれています。実に奥の深い話です。ただし、この話は、初心者の人は無視してもよいと思います。初心者の人は、症状を治すために、なすべきことに手をつけることで、症状からは比較的早く抜け出すことができる。初心者の観念中心の生活習慣を修正することが必要です。治すための理屈や理論を完全に理解してから、行動に取り組もうとするのはまずいと思います。それよりは、理論よりとにかく実践行動力を取り戻すことに力を入れましょう。実践や行動の生活習慣が出来上がってから、実践行動の意味や心構えを学習していくのがセオリーとなります。逆に言えば、蟻地獄の底から地上にはいだした人が、いつまでもそのような気持ちで実践・行動していると、症状はまたぶり返すことになってしまうのである。それは治すための行動だからです。ハツカネズミが糸車を回すような行動になってしまいます。弊害のほうが大きくなる。生きづらさは解消はされません。森田を憎むようになってきます。この段階では、実践行動の裏づけとなる理論学習や取り組み方法が問題になります。その見極めができるかどうか、その後の展開が全く違ったものになるということだと思う。これが分かるようになるためには、集談会に参加して認識を改める学習が有効です。そのために森田理論学習は相互学習をお勧めしているのです。仲間や先輩と一緒に学習に取り組んでいると、自然に分かってくることだと思います。
2020.03.08
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今コンビニでは24時間営業の廃止、多量の食品ロスの発生、多量の食品添加物の使用が問題になっているという。食品ロスでいえば、正味切れの商品が一店舗当たり10キロから15キロ廃棄されている。コンビニは全国に5万8669店舗(2019年9月時点)あるので、1年間では相当な量の食品が廃棄されている。実にもったいない。正味切れで処分する前に、値下げして販売すれば売れるのではないかという意見もある。それは本部が許さないのだ。もし食中毒が発生したらどうなるのか。本部やすべての加盟店に悪影響が及び、取り返しのつかないことになると考えられている。1件の食中毒も出してはならないという気持ちで、組織を上げて取り組んでおられるということだ。それがひいては顧客満足度を高めて、信頼されるコンビニとして支持されるという考えだ。さらに、その一環として、食品には食中毒防止のために、多量の食品添加物が使われている。食品を扱っている人に言わせると、「あれは人間が食べる物ではない」という。添加物がてんこ盛りに含まれて美味しい味付けをしている食品を食べ続けていると、人間の健康に必ず悪影響が出てくるだろうという。毎日コンビニ食だけで済ませている人にとっては気がかりな言葉だ。いま本部と加盟店の間で24時間営業の見直しが検討されている。夜間の従業員の確保が難しいというのがその理由だ。当初は朝7時から夜の11まで営業していた。いつの間にか、多くのコンビニが本部の指導のもとに24時間営業に切り替えた。夜遅くまで仕事をする人や夜間の仕事をする人にとっては、大歓迎でした。本部は顧客満足度を高めることを追求していった結果24時間営業にたどりつきましたという。ここでのキーワードは、あくなき顧客の利便性の追及、顧客満足度の向上である。言葉を変えれば、コンビニが今後も大衆から支持されて生き残っていくためには、絶えずイノベーションを繰り返して、利便性、顧客満足度を高めていく必要があるという。一時も停滞するとすぐにライバルとの競争に負けてしまうという。将来はドローンを活用して、携帯で注文を受けて決済を行い、空輸で商品を速やかに届けることも考えられているという。これに対して私の感想です。顧客の利便性、顧客満足度の向上の裏で、犠牲にされていることがあるのではないか。食品ロスは開発途上国でその日の夕食にありつけない人から見ると、異常な光景に見えるのではないか。食べ物を廃棄するということは、必ずその反動が起きるはずだと考えるのが普通の人間ではないだろうか。食品ロスを恐れて、値引き販売をすると、価格破壊が起きることを恐れているようだが、そういう考え方がまともだと考えていることが異常なのではないか。また本来は劣化する食品が腐らないように、過剰な食品添加物を入れることは倫理的に許されることなのだろうか。こういう考え方は、人間賛歌の考え方ではない。儲けや利潤を最大限に上げようとする人間の利己主義の最たるものである。コンビニは便利なので、毎日のようにコンビニ食を食べている人がいる。そういう人は、スーパーなどのお惣菜屋にもよく出かける人である。つまり食材を買って、家庭で料理を作るよりも、おいしいと評判のお惣菜を買って食卓に並べることが習慣化している。本来なら自分でなすべき日常茶飯事から手を抜いて、他人に依存しているのだ。空いた時間でバラエティ番組を楽しみ、一方では神経症と格闘して、葛藤や苦しみを作りだしている。つまり今や、コンビニの利便性、顧客満足度の追及は、人間の依存体質を助長して、人間破壊をもたらしているとみるべきだ。森田的な生活は自分でできることは自分でこなす。自立しています。日常茶飯事に真剣に取り組んでいくことです。全面的に依存はしていません。当然、コンビニやお惣菜中心の食生活は極力避けているものと考えています。
2020.03.07
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集談会に参加されている人で、マンネリを感じている方はいないでしょうか。私も経験があります。集談会に参加する意味が見出せない。つまらない。できれば止めてしまいたい。その時は参加者が常時3名ぐらいでした。多くても4名か5名でした。世話活動をしていたため仕方なく参加していました。本来の集談会よりも、その後の飲み会が楽しみという有様でした。結局その集談会は、私が大阪に転勤するときに、大きな集談会と合併しました。つまらないと感じた原因を考えてみました。人数が少ないので自己紹介で話すことがない。学習内容が「森田理論学習の要点」の読みっぱなしでマンネリ化している。体験交流で話すことがない。話題を用意していない。以上通りいっぺんのプログラムをこなしているだけでした。あまりにも面白くないので1時に初めて3時には終わるということもありました。こんな勉強会では時間と交通費の無駄だなと思っていました。習慣化していることで、飽きてやる気が起こらない。やることの意味が感じられない。マンネリ化して物足りなさを感じている。このような悪循環に陥ることは誰でもあると思います。どのように打破していけばよいのでしょうか。森田では「休息は仕事の中止ではなく、仕事の転換にある」と言います。飽きてきた時は、その仕事は中止して、他の仕事をするというものです。頭を使った仕事から、身体を使った仕事に転換するということです。そうすれば、気分転換になり、再び意欲が出てくるというものです。集談会で言えば、それまでのやり方をいったん中止して、新しいやり方に変えてみるということではないでしょうか。自己紹介、理論学習、体験交流はメインの活動ですから、それはそれとして残す。ただしその内容は新しいものに変えていく。時間短縮も視野に入れて、取り組んでみる。例えば自己紹介は、初めての参加者がいる時は、自分が苦しんでいた時の原稿を作っておく。とくに初めての参加者のために、手渡すチラシなどはきちんと用意しておく。いつものメンバーの時は症状については省く。そのかわりにこの1か月の生活内容について話す。他の参加者にもそういう提案をする。日記を見るといろんなことを経験しているので、それを家で整理してきて発表する。それを心がけていると、興味のある話が出てくると、思わず身を乗り出します。理論学習は「森田理論学習の要点」の読みまわしだけというのは中止する。これは要点だけを書いてありますから、これを膨らませていかないと飽きてくると思います。活用の仕方を工夫する必要があります。そうしないと参加者が減少してくるでしょう。1年間の学習予定表を作り、みんなで意見を出し合ってやってみたいことを書いていく。派遣講師の講話、発見誌の体験談の読み合わせ、様々な視聴覚教材の導入、要点の深耕、単行本、冊子、森田全集第5巻、体験発表などいろいろと思い浮かぶと思います。これらに取り組むと、行き当たりばったりではない、1年間の学習計画が完成します。この活動だけでもなんだかやる気がみなぎるような気がします。体験交流は、事前に話す内容を家で十分に練ってから参加することです。今現在生活で困っていること、この1か月でうれしかったこと、つらかったこと、症状について、森田理論の実践で気づいたこと、森田理論で疑問に思っていること、挑戦してみたいこと、人間関係、今月号の発見誌で興味があったこと、夢や目標などです。体験交流が面白くないという人は、家でなにも準備をしていないからです。特に話したい話題がない人が一人でもいると、体験交流が盛り上がりません。これでは体験交流という言葉が泣きます。みんなで体験交流で話す内容は、家で1つは用意してきましょうと共通認識にすることが大切です。体験交流の時間が一番面白いという集談会は、間違いなく人が集まってきます。それは得るところが多いからです。この他、レクレーションを取り入れたり、生活森田・応用森田のコーナーを設けたり、コーヒータイム、居酒屋での飲み会を企画したりといろいろとアイデアは出てくると思います。これらをアクセントとして取り入れることで、さらに集談会は楽しくなります。そして人間同士のつながりも深まってきます。集談会がマンネリに陥ることは極めて危険な兆候です。黄色信号、赤信号が点滅している状態です。警告してくれているのに、それを無視し続けていると、どんどん参加者が減少してくるでしょう。参加者を一人でも増やすということはとても時間と労力がかかります。反対に参加者の減少はあっという間に進行してくるのです。気がついてからでは、もう遅いのです。仮に可能であっても、長い時間がかかります。そういうときは、一つでも新しい活動内容を導入することが大事です。実際に変化を起こすが大事だということです。また、1年間の活動計画を立てて、先を見すえた活動を継続することも大事になってきます。
2020.03.06
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多くの人間は、できない理由はいくらでも探し出す。そういう人は、問題解決のためにどんなことをすればよいかよいかについては、ほとんど気づかない。暇を持て余し、失意と後悔の多い人生に愛想をつかしてしまう。二度と人間に生まれ変わりたいとは思わなくなる。今日はこの問題を考えてみたい。赤ちゃんだったころは誰でも好奇心いっぱいだった。何度失敗しても出来るようになるまでチャレンジしていた。そうです。人間はもともと前向きで活動的な生き物だったのです。だれでも、日常茶飯事、仕事、勉強、家事、子育て、問題や課題、夢や希望に向かって情熱を燃やして生きたいと思っている生き物なのです。実際そういう人はいます。生き生きと生活されています。ところが一般的には成長するにつれてしんどいことはやりたくない。エネルギーの無駄遣いは極力抑えたい。お金で済むことなら、何でも人様のお世話になればよい。煩わしいことは考えないで、楽しく過ごすことだけを考えて、こころゆくまで楽しみたい。やらなければいけないことはたくさんあるが、できるだけ手を抜いて楽な方に流されていく。「さぼりたい、楽しみたい、人が見ていなければさぼりたい」いつの間にか、自ら何かを手掛ける中で小さな喜びや幸せを見つけるよりも、他人から与えられる幸せを追求していく生き物に変化している。その相反する気持ちが絶えず綱引きをしています。そして多くの人は実践や行動することを放棄して、楽な方に流されてしまう。怠惰な悪魔のささやきに同調して、堕落の道へと落ちていくのです。楽な方向に流されると、その瞬間は楽をして得をしたような気持ちになります。後で振り返ってみると、どうしてこんなに味気ないことになってしまったのか。自分の人生は一体何だったのかと後悔するようになるのです。こうした考え方に流されていると、それがその人の気質となり、体質が変化してしまっているのです。実践・行動するよりも、やらなくて済むほうに重心がかかっているのです。当然どうしたら出来るかという考え方はしたくてもできないのです。反対にできない理由を次から次へと思いついて、できないことを正当化しようとするのです。無気力、無関心、無感動の人にやる気を出せといっても無理な話です。馬を水のみ場に連れて行っても、無理やり水を飲ますことはできないのです。そういう人は観念的になっています。頭の中で考えたことを、現実に適応させようとするので、無理が生じます。現実が自分の理想としていることから乖離している。現実を無理やり理想に合わせようとするので、葛藤や苦悩が生まれてくるのです。反対に何でも興味や関心を持って取り組んでいる人は人生を楽しんでいます。少々の障害物は乗り越えていきます。乗り越えるたびに自信をつけて、一回り大きな人間へと成長しているのです。さらに大きな夢や目標にチャレンジする意欲がみなぎってくるのです。そうなれば、また機会があれば人間に生まれ変わってみたいと思うようになります。もし神様がおられれば、きっとそういう人にチャンスを与えられるだろうと思います。両者の差は最初はほとんどなかったのです。森田に、「毫釐の誤り千里の差を生ず」という言葉があります。どこをどう間違ったのか、歳をとるたびにその差はどんどんと開いていくばかりです。そうならないためには、まず「凡事徹底」、普段の日常生活に精魂を込めて取り組むことだと思います。森田がいつも言っていることですが、今一度この言葉の意味を考えてみたいと思います。
2020.03.05
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今日はサッカーのドリブルデザイナー岡部将和さんの紹介をしたい。逆転人生という番組で紹介された内容である。岡部さんは子供のころからサッカーのドリブルが上手だった。それに磨きをかけて世界一のプロサッカー選手になることが夢だった。小学校6年生の時に、横浜マリノスジュニアユースの入団テストを受けて合格した。300人の中で4人しか選ばれない狭き門だったのに合格した。しかしその後は不運が続いた。大学時代はチームメイトと接触して肩を脱臼した。その後、脱臼癖がついてしまった。サッカーの名門校だったが、プロからの誘いはなかった。大学卒業後は、Fリーグのフットサルのプロチームに入った。給料は勝利したときのみ支給された。当然生活は困難を極めた。そこでやむなく副業を始めた。子供たちにフットサルを教えるコーチのアルバイトを始めたのだ。そこで研究を重ねて、ドリブルで相手を抜く方法を、誰でも理解できるように理論化した。感覚ではなく、言葉で具体的に説明できるようになったのだ。それをビデオ撮影してSNSで毎日発信し始めた。ここから逆転の人生が始まった。この動画は再生回数が2億回を超えているという。現在は日本中を回ってドリブル理論の普及に力を入れておられる。依頼が止まらない状態になっている。SNSの拡散は世界中に及んでいる。番組では日本代表の小林祐希選手に指導を行っていた。元オランダ代表のエドガー・ダビッツ選手との親交もできた。尊敬していた元アルゼンチン代表のアルマール選手との面会も実現した。今やNBA、フェンシング、東芝のラグビー、ボクシングの選手に対しても指導依頼が舞い込んでいるという。みんなが間合いのとり方の指導を求めてくるのだ。岡部さんの言う相手を抜くドリブル理論とは何か。まず、相手とボールが届かない距離をとることが必要だ。距離を保って弧を描くようにボールを動かす。次に、シュートするときの相手との角度が大事だといわれている。ゴールと目の前にいる相手と自分が一直線の場合を180度とする。自分が右や左に動いて135度ぐらいに持っていく。シュートするときは、3度小さくボールを動かす。4回目に蹴る。その時軸足を前に出して蹴るようにする。その他ボールに足をつけたまま右左、上下に素早く動かすスクラッチという技がある。これらは理論を理解して、練習に励めば誰でも身に着けることができるという。ドリブルの上手な選手がいると、相手チームは2人3人と複数で対応に追われることになる。すると味方の選手がフリーになって比較的自由に動くことができるようになるというメリットが生まれてくるという。この話は森田理論学習の方法論として役に立つ。私は森田理論学習はまず基礎的学習を行うことから始める。その後、「森田理論の全体像」を理解して、4つの核になる部分を深耕する。これは何度もこのブログで取り上げている。その他森田理論のキーワードの学習、まとめを行う。それらを実際の生活に少しづつ応用していく。つまり理論と行動のバランスを意識して生活する。そのためには自分一人で学習や実践をするのではなく、仲間や先輩の力を存分に活用する。この流れを踏んで学習と実践に取り組んでいくと、真剣に取り組んでいる人は誰でも森田的な素晴らしい人生観を獲得することができる。これは一旦身につけると一生ものになる。こんな宝物をお金をかけずにものにできるのだから、放っておくてはないと思う。
2020.03.04
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「怒らない技術2」(嶋津良智 フォレスト出版)という本の中に次のように書かれています。人間は放っておくとすぐに人のあら探しをします。他人の短所にばかり目が向きます。「あの人はこの欠点を直すべき」ということにはいくらでも気がつきますが、「ここがすばらしい」ということは、なかなか見えてこないものです。痛いところをついていると思います。私自身を振り返ってみるとその傾向が強い。これが身についてしまっているのです。それで何度人間関係で問題を起こしてきたことか。反省してもしきれません。今日はこの問題について、深耕してみたいと思います。こうなる理由は2つあると思います。まず、人間には生存欲求、自己保存欲求があります。自分を護り、できるだけ延命を図りたいという欲求です。危険は回避したい。健康で長生きしたい。十分な食料を確保したい。などです。このような欲望は誰にもあります。なければ簡単に命を落とします。しかしこの欲求は抑制力を働かせて節度を守らないと、すぐに暴走してしまいます。他人を押しのけて、この欲望を満足させようとすると、争いが起こります。今の世の中は欲と欲のぶつかり合いで、国同士は脅しや戦争にまで突き進んでいます。人間は放っておくと、自己中心的になります。利他よりも利己主義に陥ってしまいます。そうなりますと、自己保身にばかりに意識や注意が向いて、他人の存在を思いやり、長所に気づくことはなくなってしまいます。するとぎすぎすした社会になってしまいます。人間はもともと、排他的で頑固な自己中心性を身につけた生き物であることを自覚して、制御する知恵を身につける必要があると思います。2番目の理由として、人間は成長するにつれて、親や家族、学校、社会から様々なことを学びます。そしてそれぞれの人が、それぞれのものの見方、考え方を身につけていきます。人それぞれ独自の物差しを持つようになるのです。観念的な価値観、主義、主張、生活信条、信念、行動パターンと言ったものです。森田では分かりやすく「かくあるべし」と言っています。よい言葉でいえば、アイデンティティの確立などと言います。この物差しを使って価値評価をし、次の行動を選択して生活しているのです。ここで注意したいことは、人それぞれこの物差しは違うということです。10人いれば10通りの物差しが存在するということです。ところが、自分の物差しにこだわり、普遍性のあるものだと勘違いしている人が多いのです。すると自分の物差しを相手に一方的に押し付けてしまうということが起きるのです。冷静になって考えれば、そんなことはあり得ない。元々人間同士は分かり合えない存在なのです。だから話し合って分かり合う努力をする必要があります。現実は譲ることもあれば、譲られることもある。絶えず妥協点を見つけて、話し合って、折合う点を見つける態度が欠かせません。「かくあるべし」を前面に押し出すと、人間関係がぎくしゃくしてとても生きずらい社会になります。いつも自分だけのことに過度にとらわれていては、他人の存在、長所、強みには全く気付かない。反対に欠点、弱点、ミス、失敗をことさら拡張して相手を追いこんでいくのです。人間関係は悪化の一途をたどります。他人が敵のように思えて自己防衛にエネルギーを投入せざるを得ないようになります。森田理論を深耕してその弊害に陥らないようにしたいものです。
2020.03.03
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人間は、「先入観、決めつけ、思いこみ」を事実と見誤る生き物である。事実を捏造して、それを基にして、自分の考えを述べたり行動する。他人をネガティブで悲観的なレッテルを貼るのが習慣になっている人が多い。こうした態度は、森田の事実唯真の立場から見ると、まるっきり反対の方向に向かっている。そして思想の矛盾に陥り、自他ともに葛藤や苦悩を招きよせている。これでは人間関係が改善することはないと思う。たとえば、以前このブログに対して、誹謗中傷をする人がいた。私がよく知っている人であった。昔は一緒に世話活動をしていた。自分の意見を臆することなく、大勢の前で正々堂々と述べられていたので、一目置いていた。今は集談会には参加されていない。森田理論の深耕にのめりこんでいる人である。会社を辞めたときは、ひどく落ち込むという経験を持っておられた。その方とメールでやり取りして分かったことは、このブログはほとんど読んではいないことが分かった。それなのに誹謗中傷を周囲の人にまき散らしていたのだ。私という人間を知っているので、森田理論学習の世界では大した実績もない。得るものは何もないはずだという強力な「先入観、決めつけ、思いこみ」を持っておられたのだと分かった。それを他人に向かって事あるごとに吹聴しておられたのだ。無視するだけならよいのだが、こき下ろすような言動があるので、無視できないのである。しかし何を隠そう私自身にもそういう傾向が強い。たとえばある人が会の責任者をしておられる。私は責任者はみんなの意見を取りまとめて、方向性や方針を出してリーダーシップを発揮してほしいという気持ちを持っている。しかし実際には名前だけの責任者である。ほとんど何もしない。このままでは会が衰退してしまうだろう。そうかといって責任者を変わりたいという気持ちはないようである。こうしたことが続き、あの人は責任者として不適格であるというレッテルを貼ってしまったのである。そういう考え方がゆるぎない信念として定着してきた。一旦「先入観、決めつけ、思いこみ」にとりつかれてしまうと、払拭することはとても困難だ。すると相手の言うことなすことが我慢ならなくなってきた。腹が立つのである。イライラして不快感で押しつぶされそうになった。言動も時折相手を責めるような雰囲気になってきた。困ったことになった。自分一人ではどうしようもなくなり、他の人に相談した。その人は、まずその現状を認めるしかないだろうという。今はそういう時期だ。でもその状況が永遠に続くわけではない。その人を非難するばかりでは事態は悪化するばかりだ。また意欲満々の時とやる気がない時は、波のようにうねっている。波の底にいる時は、上がってくるのを注意深く見守るのが賢明だ。それが現実、現状に寄り添う事実本位の実践になる。どんなに心もとなくても森田でいう原点回帰する必要がある。その人が責任者としていてくれることで、あなたも全部の責任を背負わなくて済んでいる。役に立っている面を見たほうがよい。そしてさりげなくその人が気がついていないことで、役に立つことを見つけて実行してみたらどうか。その人をサポートすることを見つけて実行してみたらどうか。現状を受けいれて、今の自分にできることを手掛けられてはどうか。そうすれば事態が多少なりとも好転する。さらにその方の評価も上がる。私はこの話を参考にして、イライラする気持ちを抱えたまま、その人のサポート役に回ることにした。今はどちらが責任者か分からない状態だ。ちょっと出しゃばりすぎている。その点は反省している。森田の「不即不離」の考え方を応用して、刺激を与えては、一歩下がって見守る。それの繰り返しを続けてみたい。相手の役割を全部取り上げて、自分がとって変わるようなことは、断じて避けなければと思っている。そのうち、その人が刺激を受けて、再び勢いを取り戻してくれるのを祈っている。
2020.03.02
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学校や塾の勉強が好きになりどんどん成績を伸ばしている人がいます。そういう人も最初から勉強が好きだったわけではないようです。何か勉強が好きになったきっかけがあったのだと思います。今日はそれを考えてみたいと思います。まず親が読書が好き、学習する楽しみを持っている。習慣になっている。子どもたちは、そんな親の姿をよく見ている。親と同じことをしながら成長していくのです。親がものそのものになりきって生きている生きざまが自分の子供に伝染していくのです。ある女性の人が言っていました。私は結婚する前は、「お父さんのような酒飲みで、家庭を顧みないで自分勝手な人とは絶対に結婚しないように気を付けよう」と思っていたそうです。でも実際に結婚した人を見ると、父親とそっくりな人を選んでいたのです。父親と性格や行動スタイルが似ている人に、知らず知らずのうちに引き寄せられてしまうのでしょうか。自分では気づかないうちに、親と同じような考え方や行動をとっているということだと思います。つぎに勉強が好きになった人は、小さな成功体験、達成感、喜びを積み重ねている。これは重要だと思います。・教科書やテキストに書いてあることが理解できた。・一冊のテキストをやり終えた。・公式を使って応用問題を解くことができた。・たくさんのことをほぼ完璧に記憶することができた。・試験の成績がよかった。・順位が上がった。・親、先生、友達から評価された。・資格試験に合格した。志望校に合格した。こういう様々な成功体験を持っている人は、その快感を脳に刻みこんでいる。そしてその快感をまた何度でも味わいたいという気持ちを持っている。つまり向上心が生まれている。自信が生まれている。自己肯定感を持っている。そして弾みがついてくる。興味や関心の範囲が拡がってくる。プラスの好循環が生まれてきたのだ。こういう人はどんどん成長する。最初は決して動かないと思っていた岩が少しずつ動きだして、坂道を転がっていくようなものだ。小さな喜びや成功体験がない人は、最初から勉強することは苦しい。興味や関心が出てきたら勉強に取り組もうと思っている。自分には勉強は向かないと思っている。あきらめている。益々勉強を敬遠するようになる。勉強する前から先入観と決めつけで、決して超えることのできない壁が立ちはだかっていると思っている。それは小さな成功体験がないか、積み重なっていないので、挑戦して再び達成感や喜びを味わいたいという前向きな気持ちにならないのだ。その壁を志望校や資格試験に合格した人はどう見ているのか。超えてしまえば比較的楽に乗り越えることができる壁だった。大変難しい資格や志望校に合格したのに大したことはなかったと思っている。自信をつけて、もう次の目標に向かっている。今度はどんな資格試験に挑戦しようか。あるいはどの方面の勉強に進もうかなどと思っている。そして将来どんな仕事をしたいかを比較的早くイメージできている。ですから、小さいうちはいろんなことに挑戦して、小さな成功体験を積み重ねることがとても大切なのです。そういう習慣を作り上げている人がさらに成長することができるのです。それが意欲的、生産的、創造的、建設的な人間に成長するために欠かせないと思います。親が子供を支援するということは、このような習慣を子供に身に着けさせることだと思います。
2020.03.01
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