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この問題の真実に近づくためのyou tube番組がありますのでご紹介いたします。興味のある方はご視聴してみてください。桜無門関 令和2年10月20日アップ 時間は57分です。馬渕睦夫さんと水島総さんの対談 第22回目テーマ 第3次世界大戦の分岐点となった米大統領選挙の行方このなかに菅総理の政治姿勢について、興味深い提案がありました。
2020.10.31
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対人恐怖症の人は、ミスや失敗を恐れる傾向が強いと思います。ミスや失敗をすると上司や同僚たちから批判や叱責されていたたまれない気持ちになるからです。無視される、馬鹿にされる、軽蔑されることは、絶対にあってはならない事と思っている。そういう気持ちの人は、他人がミスや失敗をすると内心嬉しくなる。心の中で、なんて馬鹿なことをしているのだと軽蔑しているのです。そして、あの人よりは自分の方がましだと優越感を味わっているのです。こういう人は、自信のある仕事、ミスや失敗の可能性が限りなく0に近いものを選別するようになります。しかも選別した仕事に、恐る恐る取り組むことになります。仕事の問題点や課題を見つけ出して、改善や改革してより効率的にしていこうという気持ちはさらさらない。大過なくその日が過ぎ去れば万々歳という気持ちしかない。人生そのものが閉塞していく考え方になります。むなしくなります。この状態は、どんどん目の前の仕事をこなしている人と比較するとスピード感がない。こなす量も少ない。そのため慢性的な残業過多に陥っている。周囲の人から見ると、あの人はやる気がない人と判定されてしまう。極端に言えば、給料泥棒のような人だと思われているのです。そういう人も、はるか以前には、できたら仕事をバリバリこなして、リーターシップを発揮して出世したいという気持ちは持っていたのだと思います。生の欲望が人一倍強い神経質性格を持っていますから当然のことです。しかし、過去のミスや失敗による心のトラウマが重圧となって、自己防衛せざるを得ない心境に陥っているのです。このまま他人の思惑に振り回されながら仕事を続けていかなくてはならないのかと暗澹たる気持ちになっておられることと思います。この問題を森田理論で考えてみたいと思います。ミスや失敗は一度たりとも許されないという「かくあるべし」に取りつかれています。生きている限りミスや失敗は発生するのが当然であるとい考え方に転換することができない。人間は3000回のミスや失敗をして、分別のある大人に成長していくのだという話を聞いたことがあります。それくらい、あるいはそれ以上に、多くの人はミスや失敗を繰り返しています。こうした事実が見えていないのです。そのことがさっぱりわからないのです。むしろ性格的に他人の批判や叱責が気にならない人たちなのだと思っている。あるいは、その人たちはうまくすり抜けるコツを身に着けている人だと思っている。これは認識の誤りです。積極的に仕事をすればするほど、ミスや失敗に出くわす機会は格段に増えていきます。我々が嫌なことから逃げまくっている間に、次々とミスや失敗の経験を積み重ねているのが事実なのです。ミスや失敗をイヤイヤ仕方なしに受け入れているといってもよいのです。ミスや失敗はイヤだけれども仕事から逃げまわることはできない。ミスや失敗を繰り返しながら、やり続けるしかないと思っているのです。そして大事なことは、数多くのミスや失敗の経験を無駄なことだと思っていない。ミスや失敗の経験が自分という器を大きくしてくれるものだと信じているのです。ミスや失敗は、私たちが成長していく上に欠かすことのできない食料のようなものだと思っている。特に小さいうちに沢山のミスや失敗の経験を積み重ねていきたいと思っているのです。絶えずミスや失敗の経験に学んで、成功につながる貴重なポイントを身に着けているのです。それによって大人になったとき、間違いの少ない対応方法がとれるのです。ミスや失敗の経験は宝の山だと思っているのです。インフルエンザの注射は痛いものですが、それによって予防できるのだから、我慢して病院に行くという態度なのです。ミスや失敗におびえている人は、二度とそういう状態には近づかないようにしています。ミスや失敗から成功への足がかりをつかもうとしている人は、今はタメを作っている時だと思っています。大きく飛び上がるときは膝を折って腰を沈めなければ、大きく飛び上がることはできません。その期間がないと自分は大きく飛躍することができないということを自覚している人です。そうすることで大きな果実をつかみ取ることができると信じている人です。ミスや失敗から逃げ回っていく人とそれを嫌なことだけれども人間として当然な事として受け入れる人との差はどんどんと広がっていくばかりとなります。これは一人の人間としての器の差になって現れてくるのです。ミスや失敗は注射針を打たれるような痛みはありますが、立派な大人になるためには欠かすことのできない貴重な経験であるという認識を持つことが大切になります。そういう認識を持っていれば、自分を責めなくなります。また次の問題、仕事、課題に向かって挑戦していけるようになります。
2020.10.31
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森田先生は、死ぬときは、その前に皆に集まってもらいたいと思う。告別式も、死んで後には、自分は何も知らないから、なるたけは死ぬ前にやってもらいたいものです。(森田全集第5巻 593ページ)私はそういう気持ちは全くない。一人で死んでも構わない。葬式も家族葬で構わない。もっとも参列者が多いとも思われない。墓に入れてもらわなくても、海や山に散骨してもらっても構わない。森田先生は大勢の人に囲まれ、惜しまれながら死んでいきたいとおっしゃられています。事実、高知県香南市にある森田先生の墓は、大きくてりっぱなものでした。この差はどこから生まれてくるのだろうかと考えてみました。それは気質の差なのではないか。神経症の症状を見ればある程度納得できることではないかと考えました。森田先生は不安神経症でした。不安神経症というのは広場恐怖の人と同じように、自分が孤立することに不安を感じるものです。一人の時パニックに陥って生死の境をさまようような状態は何とか避けたい。そのためには日ごろから他人と仲良くして、親密な人間関係を築いておくことが必須になる。人に親切にする。他人の関心を掴んで、その期待に応える。笑いやユーモアを振りまく。人の嫌がることを率先して引き受ける。プレゼントをあげる。他人の行動や考え方を尊重する。人生の目的が他人を大切にして、暖かい人間関係の中で、和気あいあいと楽しく過ごしたいという点に凝縮されている。家族思い、子ども思い、仲間思いが何よりも価値があり、すべてに優先されている。単身赴任の人は、普段から金曜日に家族のもとに帰る事を心待ちにしている。それにのめりこむと、良好な人間関係作りばかりにエネルギーをとられて、本来の人生の目的を見失うことにもなります。共依存というのはその典型です。対人恐怖の人はどうか。他人からよい評価をしてもらいたい気持ちが人一倍強い。負けず嫌いなのです。目立ちたい、一目置かれる人間になりたいのです。自己中心的な面が強く、たとえ孤立しても何とか生きていけるはずだと思っている。その目的達成のためには、艱難辛苦乗り越えていく生命力の強さを持っている。単身赴任の場合は、別に家族のもとに帰らなくても、不安な気持ちにはならない。それより、自分の好きなところに行き、自分の好きなものを食べて、自由気ままに暮らしていきたい。単独行動をとるというのが、基本的なスタンスなのです。基本的には、他人と仲良くすることに何のメリットも感じていないのです。むしろ家族が自分の単身赴任先を訪れてくれれば、いろんなところに連れて行ってあげるというスタンスです。むしろ人間関係は煩わしいことが多いと感じているのです。一人で心安らかに気ままに暮らしていきたいという気持ちが強い。それでは普通神経症の人はどうか。ガンでもないのにもしガンにかかったらどうしよう。もしオレオレ詐欺にかかったらどうしよう。交通事故を起こしたらどうしよう。仕事でミスや失敗を起こしたらどうしょう。このような取り越し苦労ばかりしている人です。別の側面から見ると、完全主義、完璧主義、理想主義、コントロール欲求の強い人です。天気でいえば、毎日が日本晴れでないと、イライラしてストレスで苦しい。不安が全くない、完全無垢な状態でないと、安心して生きている心地がしない。つまり100%でないと承知しない人です。99点以下はすべて0点として取り扱っているのです。それを露骨に態度に表して、自分や他人や自然を否定しているのです。「かくあるべし」を押し付けて、絶えず対立や争いごとを繰り返している人です。60%でもよしとする。ほどほどの生き方に変えると楽な生き方ができると思うのですが、本人の気質ですからなかなか変えることができないのです。こうした気質の違いは、行動として表れて、周囲の人に良い意味でも、悪い意味でも影響を与えていきます。私たちは、自分の気質がどれに当たるのか、自覚する必要があると思います。問題はその気質が制御能力を失って、暴走してしまうことです。気質そのものにはよいも悪いもありません。ただそれをつよく前面に出すと。生きていく上において、不具合が生じてくるのです。その一つが神経症の発症です。これに歯止めをかけるのは、第3者の存在です。配偶者はできれば別の気質の人を選んでバランスをとっていく。集談会、趣味の会などできるだけ多くの人との関係を作り、自分の気質が暴走しないように制御をかけるという態度が必要になると思います。
2020.10.30
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2020年11月の生活の発見誌に「和談」という記事があった。これは「かくあるべし」を相手に押し付けるのを防止する効果があると思いますので紹介させてもらいます。和談というのは相手の意見を聞いた後、先ず「なるほど」ということをルールとします。自分の方に異論があっても無くても「なるほど」と返事をするのです。それから、決して相手の意見を頭から否定しないことがルールです。「なるほど」と先ず相手の話を聞いて肯定的に受け取り、そのあとで自分の意見を出すようにします。このような話し方を「和談」と呼んでいます。和談による話し方ですと、意見交換が和やかに進み、お互いの意見の違いによる「対立や不和、喧嘩、争いなど」などが起きなくなります。さらに、みんなで話し合った結果は、創造性のある建設的で優れた解決策を生み出すことにつながる話し方なのです。例えば、「なるほど、そうですか。でもこんな意見についてはどうでしょうか」「なるほど分かりますよ。私も以前はあなたと同じことを考えていました。でも、今は、こんな風に考えているんですよ」「なるほどね、そうなんですか。分かります。しかしながら、こういった意見についてはどう思われますか」・・・会議などにおいて、せっかく勇気を出して発言した意見などに対して「それは違う」と他の人に頭から否定されたり、いきなり「それは間違いです」とみんなの前で言われたりしますと、あまりいい気持ちはしないものです。中には腹を立てて話す気にもならず黙り込んでしまうという方もいたりします。目上の方には「なるほど」の代わりに「おっしゃる通りです」とか「その通りだと思います」などが宜しいかと思います。または、「なるほど、おっしゃる通りです」や「なるほど、その通りだと思います」と、付け加えるようにするといいですね。(生活の発見誌11月号 46~49ページ引用)この和談という考え方は、「かくあるべし」から事実本位に移行するための一つの手法として付け加えたいと思います。「私メッセージ」に匹敵する、素晴らしい考え方です。いきなり自分の考え方を、一方的に相手に向かって話し、対立関係になることを防止してくれます。「なるほど」という言葉は本心ではなくてもいいのです。形から入るということが肝心です。相手と話しするとき口癖にして、しまうことが大切なのです。これによく似た言葉で「そうなんだ」という言葉をよく耳にします。「分かるよ、あんたの気持ちは」というのもあります。これも「なるほど」という言葉に共通することがあります。これらは別に本心から出た言葉でなくてもよいのです。そういう態度が習慣化されているということが大事なのです。自分の立場、考え方、気持ちを最優先するのではなく、まず相手の立場、考え方、気持ちに寄り添うという気持ちが優先されています。ここが肝心なところです。こういう人間関係は歯車を動かす時に、潤滑油が十分に行き渡っている状態です。そうでない場合は、常に対人関係で対立を招き、歯車でいえばギイギイと音がしている状態です。その時、我々の場合でいえば自己防衛にシャカリキになってしまうのです。そして本来の生き方からずれて行ってしまうのです。
2020.10.29
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この度、生活の発見会のホームページが新しく生まれ変わりました。ぜひともご覧ください。また知らない人にも紹介してあげてください。下記をクリックしてお入りください。生活の発見会一言でいうと大変親しみやすく変わりました。最初の画面では、「メンタルヘルス 生活の発見会」とあります。メンタルヘルスと付けたので、何をやっているグループなのか一言で分かるようになりました。生活の発見会は神経症で苦しんでいる人たちの自助グループということです。その中に神経症を克服した人や森田理論を存分に活用して人生を大いに楽しんでいる人も参加されています。貴重な人材の宝庫になっています。実際には全国で約100か所ぐらいの集談会が主体になって活動しています。全国各地で、毎月1回半日程度の時間で集まって、近況報告、交流、森田理論の学習を続けています。政治や宗教、営利活動は一切しない事にしています。集談会の参加費も必要最低限です。1000円以下です。学習のツールとして毎月1回、「生活の発見」という機関誌を発行しています。これは体験発表、森田理論の解説、会員の活動内容、その他貴重な情報が載っています。私は毎月隅から隅まで読んでいます。貴重な記事は私なりにまとめたり、切り抜きを行っています。今度のホーページには、6名の方の克服体験記が動画で紹介されています。さまざまな症状の人が出ておられますので、参考になると思います。この部分はぜひともご視聴ください。その他、慈恵医科大学の中村敬先生の「森田療法入門講座」も動画で視聴できます。森田療法の歴史、ポイント解説、集談会の内容も分かりやすく説明されています。このホームページの存在は、メディア報道、名刺などに刷り込んで、おおいに宣伝していこうではありませんか。そのためには、集談会へのリピート率を上げるための活動が前提です。これなくして、ホームページが先走っては、絵に描いた餅になってしまいます。心して会の運営に取り組んでまいりたいと決意を新たにしております。私は生活の発見会が、神経症の治療だけではなく、神経質性格者の人生観の確立のためになくてはならない組織だと確信しております。日本では神経質性格者が1000万を超えているといわれています。その中でせめて1万人の人が生活の発見会の存続の意義を見つけ出してもらえないものかなと思っています。その数が10万人、50万人、100万人に達すれば、日本の政治、経済、教育、子育て、生活、仕事などは、根本からより良い方向へ変わっていくと思います。また、世界の人類の未来をを明るいものに変えていく内容を含んでいるものと確信しております。ですから森田理論の考え方は、世界中に広めていく必要があると感じている次第です。そうしないと、現在の金融、政治、経済、紛争や戦争の状況から見て、いずれ人類は絶滅に向かって突き進むのではないかと危惧しています。
2020.10.28
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主食を工夫して、食事を楽しむことは大切だと思います。あとは味噌汁、すまし汁、スープ、けんちん汁、シチュウなどを用意すれば型ができます。それにお好みの一品加える。そして添え物を取りそろえれば十分です。それ以上を目指すことは、メタボの体形と身体の不調を招きます。というわけで、今日は主食にはどんなものがあるか考えてみました。白米や玄米食もよいのですが、それ以外にもいろいろとあります。ちらし寿司、炊き込みご飯(とりゴボウご飯、栗ご飯、あさりご飯、タコご飯、タケノコご飯、牡蠣ご飯、タカナご飯、豆ごはん、キノコご飯、鯛めし、ジャコご飯)カレー、キーマカレー、チャーハン、チキンライス、オムライス、石焼ビビンバ、赤飯、雑煮、お茶漬、雑炊、おむすび、日本蕎麦、ラーメン、うどん、スパゲティ、お好み焼き、タコ焼き、ピザ、かつ丼、牛丼、海鮮丼、親子どんぶり、うな丼、天津飯、手巻き寿司以上37種類思いつくままにあげてみました。これ以外にもまだまだあると思います。また工夫次第でそれぞれいろんなバリエーションを楽しむことができます。これらをカレンダーに書き込んで取り組めば、新たな目標ができます。その日の夕食は何にするか、その日になって考える人が多いと思います。スーパーなどに出向いて、安い食材、旬の食べ物、その日に食べたいもの、目についたおいしそうな惣菜を気の向くままに買い込むのも一つの手ではあります。その中にせめて一週間に2回ぐらい、上記のものから主食に変化を加えることをお勧めします。作り方が分からなければ、ネットで調べることです。そうしますと、食事作りに興味や関心が出てまいります。それが呼び水となって、やる気が充満してくるのです。創意工夫をすればするほど、ささやかな楽しみが増えて、さらに家族にも喜ばれるようになります。森田実践の基本は食事の準備にあります。それは毎日取り組むべき課題となっているからです。食材を作る、買い出しに行く、料理する、後片付けをすることに真剣に取り組むことで、神経症との格闘は格段に少なくなります。逆に言うと、インスタント食品で済ませる、出前をとる、外食に片寄っている食生活だと、神経症と格闘する時間を自ら作り出しているということになります。いつまでも神経症とは縁が切れないということになるのです。
2020.10.27
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今年はカボチャが大豊作でした。1本だけ植えたのに8個もできました。煮物だけでは食べきれないので、インターネットで探してお菓子を作ってみました。いつも口喧嘩ばかりしている妻と協力関係ができました。共同作業は夫婦円満になります。出来上がったマフィンは、コーヒータイムのおやつに最高でした。簡単にできますので興味のある方はぜひ挑戦してみてください。用意するものカボチャ、バター、砂糖かハチミツ、卵、薄力粉、ベーキングパウダー、マフィンカップなど作り方1、カボチャは茹でて、種と皮を取り除いてつぶす。2、溶かしたバター、砂糖かハチミツ、溶き卵3個を加えて練る。3、薄力粉をざる網で振るってさらにかき混ぜる。4、ベーキングパウダーを少々加えてトロトロにする。5、それらを小分けしたマフィンカップに入れる。6、オーブンを予熱する。7、オーブンで約25分焼けば出来上がりです。どうです簡単でしょう。自分で作ったものは格別のおいしさです。正確な分量はネットで調べてみてください。なお量りは必需品です。サツマイモもたくさん収穫できたので、今度はサツマイモマフィンにも挑戦してみます。神経症で苦しんでいる人は、お菓子つくり、加工食品作り、手芸、園芸、自家用野菜作りなどに挑戦することをお勧めします。
2020.10.26
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森田先生が形外会の高知支部発足式で話しされています。船酔いについて、商船学校が毎年多数の卒業生を出すが、卒業の時に、必ず遠洋航海に出ることになっている。その時に100人が100人ながら、みんな必ず船に酔う。酔わぬものはほとんどない。つまりこれが普通の人の生理的感覚であるといってもよい訳である。これを治すには必ず無理を押し通して、酔うがままに働かなければならない。中にはマストの上で、嘔吐するような事さえもある。つまり酔うがままに、しかたなしに、自分の職務を尽くすわけである。もしそれが、自分は酔うからといって、仕事を休んだり寝ていたりしていては、決していつまでも、船酔いは治らないとの事であります。(森田全集 第5巻 564ページより引用)何事も新しいことを始める時は、大変なエネルギーがいるということだと思う。月へ向かうロケットは燃料の70パーセントくらいは、地球の引力から脱出するために使うという。ほんの10分足らずの時間で、エネルギーの大半を消費するということは、いかに軌道に乗せるまでが大変なのかということがよく分かる。一旦引力から解放されれば、その後の、莫大な距離を飛行するためのエネルギーは、ごくわずかで済む。この話から学ぶことがある。よい習慣を身につけるということです。集談会では、あの人はいい人生を生きているなという人が少なからずおられます。そういう人は、良い習慣をいくつも身に着けて、毎日その習慣に従って淡々とした生活を繰り返しておられるのです。つまり行き当たりばったりの生活ではないのです。暇つぶしの生活、快楽、快適、好奇心を絶えず刺激するような生活ではないのです。そういう生活は、絶えずそういうものを探し回っているので疲れます。自分が習慣化した生活に向かって日々行動することによって、小さな感動や小さな喜びのかけらを全身で浴びている。虚しさを感じたりや精神が弛緩状態に陥ることがないのです。ここで大事なことは、小さな良い習慣をいくつも身に着けていくことだと思います。私の例でいうと、朝一番にブログの原稿を1本書く。約1時間。今日アップした投稿の修正と明日投稿する原稿のチェック。朝晩はベランダの草花の手入れと水やりを行う。どじょう掬いとしば天踊りの練習。毎日単行本を読む。できれば200ページの本を一冊。昼ごはんの後は30分仮眠をとる。仕事でマンションの管理人をしている。掃除をしながら、マンションの階段の上り下りを繰り返す。その間はカラオケの練習を行う。毎日通勤や仕事を通じて7000歩のウォーキングをする。仕事から帰ると、サックスの練習を30分する。部屋の整理整頓、掃除機をかける。日記を書く。株式の研究を30分から1時間行う。you tubeの討論番組をチェックする。これらはすべて習慣化している。基本的に同じ時間に同じようなことをしている。次のやるべきことを考えて行動することはあまりない。勢いをつけて行動するということもない。やらないと気持ちが悪いといった感じです。よく毎日ブログを投稿して大変でしょうといわれる。自分としては習慣化しているので苦にならない。自然体で取り組んでいる。むしろ森田理論が深まるので楽しみなのである。集談会でコロナで家にいることが多くて、気がめいるという話をよく聞く。またやる気が起こらなくて困っている。行動することはしんどい。面倒なことは、できればパスしたい。公民館活動に参加して趣味などを見つけたらどうですかと提案しても、そんなことをすれば疲れるでしょうなどと言われる。自家用野菜つくりはどうですかといえば、買った方が安くつくのではありませんかなどと返される。よい習慣作りは、最初は大変です。だから3日坊主になるのだと思います。それを我慢して、1週間、1か月、1年と続けていると習慣化されるのです。そういう良い習慣を1つでも持っている人は、人生の核となるものを一つ持っている人だと思います。そういう習慣を数多くつくれば、不安に振り回されたり、無気力、無関心、無感動とは無縁な生活に切り替わってくると思います。
2020.10.25
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ただいま公益財団法人 メンタルヘルス岡本記念財団の提供によりビデオセミナー開催されています。you tube配信です。今回は、慈恵医科大学の舘野歩先生の講話です。題は「パニック症 うつ病に対する森田療法」です。 期間は10月26日(月) 12時までです。関心のある方は、是非ともご視聴ください。
2020.10.24
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森田療法に取り組む人は神経症を克服したいからである。そのために生活の発見会という自助組織に入会し、森田理論を学んでいる。仲間とともに基礎理論を学ぶ。単行本を読む。研修会や講演会に参加する。なにも知識がなかった状態すら、少しずつ森田理論を学んでいくという方法をとっている。試行錯誤しながら、学習と実践を繰り返しているうちに、神経症が克服できるはずだという希望を持っておられると思います。これをさらに促進する方法を提案したい。手あたり次第学習に取り組む前に、まずは神経症を治したという人を探し出すことである。集談会の中にそういう人がいると一番よい。集談会の中で、「あの人は森田の達人だ」といわれているような人を見つけることに力を入れるのだ。もしいなければ、支部の研修会などに参加して見つける。この段階になると、何人も見つけることができると思う。この点に関しては自信をもって紹介できる。集談会は宝の山なのである。次に心掛けることは、その人の森田の活用方法をよく観察することだ。つまりその人に付きまとって、その人の考え方や行動を観察するのだ。毎日の生活パターン、日常茶飯事の取り組み方、趣味、人間関係についての考え方などを理解する。考え方よりも日常生活に森田を応用している人を見つけることがコツである。私はそういった人の家を訪問してつぶさに観察してきた。理解したら、それをそっくり自分の生活に取り入れるようにする。それがよいか悪いかを判断するのはやめておく。何から何まで真似てみる。その人の生活パターンに近づくことを目標にする。この方法は、目標をしっかりと設定するということです。これは従来のやり方・学習方法とは違います。その目標に到達するために、その人を参考にし、自分なりにも考えて日々生活するということです。一からやみくもに森田理論学習をするよりも、きわめて効率的になる。私の場合は、集談会の中でそういう人を見つけた。その方は、森田の申し子のような人だった。また、後輩への援助を惜しまない人だった。今でも畏敬の念を持って接している。信条としては、日常生活の中で、ごく小さな喜びや感動をたくさん見つけ出して、淡々と生活を繰り返しているという人だった。まさに地に足がついているような人だった。この方から、ビールのおいしい飲み方、おいしいタイのあら炊きの作り方、カラオケの楽しみ方、相撲の楽しみ方、映画の楽しみ方、テレビとの付き合い方、料理に対する考え方、加工食品の作り方、雑草との付き合い方、盆栽の手入れの仕方、ストレッチや運動についての考え方、旅行の楽しみ方、自家用野菜の作り方、畑の手入れの仕方、仕事との付き合い方、お金の使い方などを学んだ。できることはすぐに取り入れるようにしてきた。森田的には「ものそのものになりきる」ことの大切さを学んだ。損得を忘れて、一心不乱にと取り組むことの大切さを教えてもらった。そして「物の性を尽くす」ことが、「己の性を尽くす」「他人の性を尽くす」「時間の性を尽くす」「お金の性を尽くす」ことにつながり、人生を豊かにすることを学んだ。学ぶことは、真似ることだというが、まさにそのような感じだった。そんな中で自分の生活が森田的に変化していき、いつの間にか対人恐怖症に振り回されることは少なくなっていった。つまり神経症を克服できたのである。
2020.10.24
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徒然草の157段に次のような言葉がある。事理もとより二つならず。外相もし背かざれば、内証必ず熟す。ここで「事」というのは、外相たる現象のことです。「理」は本質たる真理のことです。ここでは「事理不二」といって、現象と真理は一つであると言っているのです。外相、つまり生活や行動をきちんと整えていけば、心は自然に整ってくるといわれているのです。生活上の困難さはあるが、葛藤や苦悩はなくなるということです。森田先生は次のように説明されています。外証というのは、外に現れた証跡、すなわち事実または実行であり、内証とは心の内部における感想の精神的事実であろうと思われる。それで、もし外証すなわち自分の行動が正しくて間違いがなければ、しだいしだいに、それに相当したところの内証すなわち感じが生育してくるということかと思う。僕のところでは外証を重視する。心の中ではどんなことを思っていてもよい。心のうちには、苦しみながら・ビクビクしながら・いやいやながら・どうにかこうか・人並みに仕事をやっていさえすればよい。きわめて簡単である。僕のところでは、たった40日間でいつとはなしに健康感が起こり、「自分は何でもできぬことはない」というような信念が湧きだしてくるのである。(森田全集 第5巻 560ページ)この点に関して、私たちが使っているテキスト「森田理論学習の要点」には次のようにあります。心の中でどんなに苦しくても、まず形だけ整えてみる。「やる気」になるのを待つのではなく、外側(行動や態度)をひとまずととのえれば、不快な感情も、その外側につられて後退していくものです。例えば、勉強するには、まず椅子に座り、本を開くということです。実践・行動と精神活動は、あざなえる縄のごとく相互に密接に関係しているということです。これを勘違いして、精神活動だけから解決しようとすることは認識の誤りなのです。私は集談会で教えてもらった「靴がそろえば心がそろう」という言葉をキャッチフレーズにしています。この言葉はキャッチフレーズにしては簡単で分かりやすいので気にいっています。そして規則正しい生活、凡事徹底を心掛けて日々生活しているところです。
2020.10.23
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五木寛之さんの話です。念仏というのは3つの段階からできています。最初は「お願いします」という依頼の念仏です。その次には、「お任せします」という念仏、もう自分は捨てて、あなたの手にお任せしますという。最後に、法然、親鸞、蓮如になってくると報恩感謝の念仏といって「ありがとうございました」と言っているわけです。自分は救われたという確信がある以上は、そこでお願いしますということもない、お任せしますということもなくて、ありがとうございます、と、ただそれだけ。「ああ、うれしい」「ああ、ありがたい」これがナマンダ、ナマンダということになる。(親鸞と道元 五木寛之、立松和平 祥伝社 264ページより引用)この話を神経質者が問題にする「不安」に置き換えて考えてみました。1、不安に取りつかれて苦しいので誰かこの苦しみを取り除いてくださいという段階です。抗不安薬やSSRIを飲んで少しでも楽になりたい。カウンセリング、森田療法、認知行動療法などで不安をなくしたい段階です。自分ではどうすることもできないので、どうか私を助けてくださいとお願いしているのです。2、不安が次々と湧きあがり、振り回されることは嫌なことです。しかしとらわれてばかりでは、生活や仕事が停滞してしまう。しかたがないので、不安を抱えたまま、目の前のなすべきことに取り組む。結果として、不安と格闘することをやめている段階です。するとあれほど自分を追い掛け回していた不安が、この人は追い回しても反発してこないので追い掛け回す意味がないと判断して、追い掛け回すことをあきらめたかのような状態になります。つまり治さずして、神経症が治ったという状態になるのです。3、2の段階はまがりなみにも当面の神経症は克服しました。何とか生活も仕事もこなしていますという段階です。しかし神経症的な不安は常に付きまとい、生きづらさは何ら解消されていませんという段階です。もっと自然体で楽な生き方はないものか。結論から言うとそういう生き方を身につける事は可能です。森田理論の学習と実践によって可能となります。この段階は自分や他人、自然に対して「かくあるべし」を前面に押し出して、常に摩擦を引き起こしている段階です。こういう態度を引っ込めて、いつも事実を認めて、受け入れるという態度を身につけることによってはじめて可能になります。そういう生き方が身に付いた人は、葛藤や苦悩のない世界に入ることができます。口に出てくる言葉は、自ずと「ありがとうございます」という感謝の言葉になります。森田理論は単に神経症を克服するだけではなく、人生観の獲得を視野に入れた哲学ともいえる理論なのです。
2020.10.22
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第47回形外会において、林さんが森田先生に次のように質問している。上役の人と議論するとき、自分の意見が正しいと思うけれども、しばらくその場ではその人の意見に賛意を表すことがある。そして時を経て後に、自然にそれに対する説明の工夫もできて、おもむろにその人に対して、あのことはこうも考えられないでしょうか、という風に持ちかければ、何かにつけて円滑にいくのではないかと思います。上役と意見が違うからといって、直ちにその場で反抗してしまえば、長上の顔をつぶすことになるから、にらまれることになる。これに対して、森田先生曰く。親や長上は何かにつけて自分より偉いはずである。したがってこれに対して畏敬の情の起こるのが人情の自然である。それで、親や長上のいう事は、あるいは自分と意見が違い、あるいは疑わしく、あるいは癪にさわることがあっても、それはそれとして、まずさしあたりその意見に従う、というのが僕のいわゆる柔順であって、実行上決して無理なことではありません。森田先生は、まず人情から出発することが大切であるといわれています。ところが、親や長上の考え方に無条件に賛同してはいけない。つまり、盲従するような態度ではいけないとも言われています。その考えを疑い、自分で事実を調べる。事実の裏をとることが大切だといわれている。林君の言うように、偉い人には何でもかんでも、常に必ず尊敬するとか、親のいうことは有難いと思わなければならぬとか、学者の説は信じなければならぬとか、そのような鋳型に自分の心をはめようとするのは間違いの元である。我々は疑うものは疑い、嫌いなものは嫌いで少しもさしつかえない。(森田全集第5巻 556ページより)この考え方は人間関係に大いに応用したいものです。まず相手の気持ち、考え、言い分を十分に聞くという態度が欠かせない。相手の立場や考え方を吐き出させるという態度を持つということである。実際には、聞く耳を持たず、相手を非難、否定、攻撃する人が後を絶たない。仮にある程度は聞いても、早合点して不十分ということが多い。こういう態度では、良好な人間関係は成立しない。そのうち話もしたくない。犬猿の仲になることは目に見えている。相手にいつまでも根に持たれることも発生する。しかし、そこで留まっていては、これまた問題である。言いたいことがあっても、抑圧していると、相手になめられてしまう。つまり親分と子分の関係が出来上がっています。相手との間で支配・被支配の関係が成り立ってしまう。それがいつまでも精神的なストレス、葛藤や苦しみをもたらす。またそういう関係が一旦成り立ってしまうと、修正することが困難になる。しかし神経質者の場合、後々の報復を恐れて、何も言い返せない人が多い。心の中では反発しているので、それがストレスとなる。そういう時は、森田理論学習の中で学んだ、「私メッセージ」をぜひとも活用したい。「私はこう思いました」「私の考えはこうです」「私はこうしたい」「私は好きではありません」「私はよく理解できません」相手に直接反論するというよりも、自分自身の気持ち、考え、言い分を相手に伝えるというものです。これは相手に対して喧嘩を吹っかけるものではないのです。相手との立場の違いを説明することになります。これができるようになると、支配・被支配の人間関係に陥ることは、ある程度防ぐことが可能となります。
2020.10.21
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私たちは何かに取り組むとき、その方法については多角的にシュミレーションを繰り返します。そしてある程度、成功のイメージを作り上げていきます。仮説といわれるものです。本来はその仮説に向かって、挑戦していくのです。成功すれば自信となり、次の新たな目標に向かう出発点となります。思い付きで行動するよりも、最初に仮説によるシュミレーションをいくつも考えることは成功への近道です。ところが神経質者の場合は、これが仇となっているのです。神経質者の場合は、その過程で障害となる問題点をことさらピックアップします。ネガティブで悲観的なことが一つでもあれば、行動に移すと失敗してしまう確率が高くなると考えます。失敗することが予想されると、挑戦することはエネルギーの無駄遣いとなると考えます。無駄なことはしたくないのです。効率性を第一に考えているのです。別の面から見ると完全欲が強いとも言えます。完全、完璧から外れることは受け入れることができないのです。やりながら完璧なものに近づけばよいということは考えません。最初から完全、完璧なものや人以外には近寄らないという考え方をしています。また失敗すれば、周囲の者から能力のない人だと軽蔑されることもある。そんなことになると、仲間として受け入れてもらえなくなると考えてしまうのです。100%成功すると確信を持てた場合にのみ行動する方がよい。少しでも、不安や障害物があれば行動や挑戦は中止した方がよいだろう。その方が肉体的にも精神的にも楽ができる。そしてますます観念の世界に迷い込んで、葛藤や苦悩を深めているのです。森田先生はこの問題について次のように説明されています。理屈で考えると、不安を持ちながら、イヤイヤながらする事は間違いが多く、イヤな心を取り直しておいて、朗らかにやればよくできると思うけれども、実際にはうまくいかない。不安な感情は、これをため直して、やる気を鼓舞していくには及ばない。うまくいくだろうかという不安があっても、その感情はそのままにしておくことだ。そして、ただ自分のなすべきことを、止むを得ずになし、なしてはならないことを、仕方なしになさなければよい。このことを私は「自然に服従し、境遇に従順なれ」と称して、その自然に発動する自分の感情をそのまま忍受する事を、「自然に服従」といいます。不安を抱えながら、仕方なしに実践・行動していく。これが「境遇に従順」であって、素直に我慢して、なすべきことをするのである。そうすると、心が自然の流れに従うようになる。自信もなく、不安の感情に振り回されていた心がいつの間にか流れ去っていくのである。(森田全集第5巻 554ページを参照して一部引用)
2020.10.20
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森田でいう「純な心」は、混じりけのない、純粋な心のことではありません。素直な心、第一に感じた感情、初一念のことです。出来事に直面して、最初にハッとした感情のことを言います。中学生の娘がいて、帰宅が遅いと、誰でも何か事件に巻き込まれたのではないか心配になります。何とか無事に帰ってほしい。これは当然純な心です。ところが、同時に別の感情も沸き起こってきます。家に連絡もなしに勝手に遊びまわっている娘に対してやり場のない怒りも湧き上がってきます。家に帰ってきたら、そのイライラ感を何とか払しょくさせないと気が済まない。そんな感情です。深夜娘が帰宅したとき、心配する気持ちはいつの間にか忘却の彼方へと飛び去っています。この感情をしっかりと捕まえておいて、娘に伝えることはできていますか。「お父さんとお母さんは、あなたが帰ってこないので、心配でしかたなかったのよ。でも何事もなくて、帰ってきてくれて安心した」これが言える人は、「純な心」の意味がよく分かっている人です。こうすれば、娘と親の信頼感はどんどん深まっていくことになります。子供は親を信頼し、大人になっても親を大切にするようになります。そうでない人は、親子とは名ばかりで、没交渉となります。ところがこの将来に展望が開けるこの素晴らしい感情を無視する傾向が強いのです。そして、自分たちに心配をかけた娘に対して、有無を言わせずに、怒りをぶちまけてしまうのです。娘の言い分を聞けばまだ救われます。いきなりの叱責では、娘もやりきれません。一旦壊れた親子の関係は、修復することが困難になります。そういうことが何回か重なれば、親子の断絶となります。親子の人間関係、特に父親と子供の人間関係がぎくしゃくしてしまうのはここに原因があります。これは「純な心」の活用方法が間違っているのです。どんな極悪犯人にもそうせざるを得なかった理由があると言います。盗人にも3分の理があるというものです。これを活用して、マイナス感情を吐き出す前に、相手の言い分を聞いてみることを心掛けたいものです。これは、怒りの感情をいきなり爆発させないで、間をとるということです。間をとれる人は、人間関係が破滅しない。感情の法則にあるように、どんな感情も口に出せば一山駆けのぼります。怒りの感情が刺激を受けて、ますます増悪するのです。自分には抑制することのできない暴れ馬となって疾走するのです。間を置くと、怒りの感情は多少抑えられます。その時に、もう一つの「純な心」を思い出すようにするのです。「そうだ、娘のことが心配で仕方なかったのだ」この感情に気づくようになった時、親子の関係、夫婦の関係、友人や職場の人間関係は大きく改善できるでしょう。これを会得するには、森田理論による努力が必要です。
2020.10.19
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今日は田舎で畑仕事でした。秋空の下での畑仕事は楽しいものです。第一運動になります。豆とサツマイモ収穫しました。ハクサイ、ダイコン、ジャガイモ、キャベツ、カリフラワー、ラディシュなどはずいぶん成長しました。ニンジンもおかげさまで芽が出そろいました。今日は春菊と大根を植えました。今月終わりには、タマネギの植え付けがあります。今日はその準備をしてきました。そういえば今ハクサイは、1玉500円ぐらいと高騰していますね。
2020.10.18
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現在you tubeのテレビ番組で、元大使の馬渕睦夫さんが、「これからの日本の未来を語る」と題して重要な提言をされています。題は「草奔掘起 緊急講演会」です。時間はちょっと長いのですが、2時間28分ほどです。日本の政治、経済、外交、安全保障、国民の暮らしに関心をお持ちの方は、参考になると思われますので、ぜひとも視聴されることをお勧めいたします。
2020.10.18
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形外会で林さんという方が、森田先生に次のように質問されている。同僚が転勤するようなときに、平常は、その人を非常に悪く言っているような人が、送別会の席などで、その人をほめたてて、体裁のよいお世辞ばかりをいうのがあるが、それは虚偽で自分を偽っているのではないでしょうか。こんな場合はどうすればよいのでしょうか。(森田全集第5巻 555ページ)これに対して森田先生は、常に自分が自分の目的にかなうように、適切に工夫すればよいと返答されています。何のことかよく分からないので、掘り下げてみたいと思います。この話に出てくる方は、普段から、相手のやることなすことに対して、批判的、否定的な態度をとっているのです。こういうのを犬猿の仲といいます。誰が何と言おうと、嫌いなものは嫌いだという気持ちになっているのです。林さんは、その嫌いという気持ちは自分に対して素直な感情である。森田ではその素直な感情のことを、「純な心」と呼んでいる。その「純な心」を「かくあるべし」で捻じ曲げることがあってはならないと学んだ。嫌いだという感情を、抑圧するのではなく、堂々と打ち出す方が正しいのではないかと質問されているのです。もっともらしい考え方です。しかしこれを実行すると大変なことになります。この考え方を実行した場合どうなるか。まず、相手を非難すると、注意や意識がそこに固定されてしまいます。そして、火に油を注ぐような結果を招きます。不快感、憎悪感がどんどん増してきます。賛同者を集めて、相手を窮地に追い込もうと画策するようになります。暴力に訴えるようなことになれば、人間関係は破綻してしまいます。そこには不快感はすべて取り去らなければならないという「かくあるべし」があると思います。そうしないと、不快感で精神が錯乱状態になるかもしれないという気持ちがあると思います。不快感が湧き上がる前提として、すべての人と楽しく愉快に付き合うべきであるという「かくあるべし」に取りつかれているいるのです。森田理論では、人間関係は「不即不離」でいくべきであると教えてくれています。人間同士は、お互いにいつもいつも平和で仲良くできるわけではない。人間2人いるだけで、気持ちや考え方の違いが出てくる。人間関係は、その時、その場の必要に応じて、引っ付いたり離れたりしている。これはまずいなというときは、距離を置いて付き合いなさいと教えてくれているのです。そして、活動に伴って薄く広い人間関係を作りなさいと教えてくれているのです。対立関係に陥れば、双方の言い分を対等な立場で出し合って、調整していくほかない。自分の嫌悪感をそのまま相手にぶっつけるということは、相手を自分のコントロール下に置きたい。相手を抑圧して、自由自在に取り扱いたいという気持ちの表れだと思います。そんなことをすれば、当然相手も反抗的になって、対立するようになる。そこにエネルギーを投入することになると、本来やるべき仕事が雑になる。また、日常茶飯事も投げやりになる。目標や夢に挑戦する意欲もなくなってしまう。つまり精神的に閉塞状態に追い込まれてしまうということです。これらの事から考えられることは、嫌いという感情にのめりこまないことが得策です。あたらず触らず、距離を置きながら、最低限の人間関係を維持していく。この場合は、人間関係が破綻しないように気を付けるだけでよいということです。そのために、相手のことが嫌いという感情を、覆い隠して、表面的には、心にもない事をいっても構わないということです。映画やドラマの役者のようになり切って、相手に悟られないように、上手に演技をする方がよいということです。自分の気持ちに正直になることにとらわれて、相手のことを完全に無視する、批判する、否定するようなことがあってはならないのです。この態度は、第三者から見ると幼児の振る舞いに見えてしまいます。こういう相手が嫌がるあからさまな態度をとる人が後を絶ちません。そういう人は、反対に多くの人から敬遠されているという事実を認識すべきです。好きな人がいるのと同じように、嫌いな人・虫の好かない人は必ずいます。こういう時こそ、森田理論の「不即不離」の考え方を、大いに活用するときだと思います。
2020.10.18
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元々西欧や中国は性悪説で成り立っているという。商売するときは、代金と引き換えが原則である。日本のように約束手形を発行して、3か月も6か月も支払いを猶予してもらうという発想はない。それは、元々他人や他国は信用できないものという根強い考え方があるからだ。商売するにあたっては、担保を取り、契約書を作ることから始める。言葉巧みに交渉を有利に進めることが最優先される。うまく相手をだまして、自分が得をすればよいという考え方である。騙された方が悪いという言う考え方に立っているので、相手に多大な損失を与えても罪悪感はない。相手にしてみれば、常に騙されないように自己防衛する必要がある。一瞬でも気を抜くと、相手に攻め込まれて、身ぐるみ奪い取られてしまうという危機感がある。自分や自国が豊かになるためには、戦略を立てて、武力や経済力を背景にして、他人や他国に攻め入り、奪い取ることが手っ取り早いという考え方である。そのためには早くから自立し、説得力や自己主張できる技を身につけていく必要がある。国でいえば、軍事力や経済力をつけて、相手国と同等かそれ以上の力をつけていく必要がある。これに対して、日本は性善説で成り立っている。他人や他国は、助け合いながら生きている同胞・仲間であるという考え方だ。人類みな兄弟であるという考え方である。人に役立つことや利益になることは、自分に何の見返りがなくても喜んでおこなう。根本的なところでは、無条件に相手のことを信用しているのである。元々相手のことを思いやり、信頼感が強いのである。和を重んじ、共存共栄を目指しているのだ。こんな国は日本やブータンなど少数派なのだ。世界中の人が性善説に立てば、争い、紛争、内乱、戦争はなくなると思う。しかし実際は違う。世界史は人間同士の醜い戦いの歴史だ。それは、日本のような性善説に立つ国民や国がほとんどないからだ。森田理論では、己の性を尽くし、他人の性を尽くすことを目指している。性悪説に立つ世界中の人々が、そういう考え方に切り替えることはできないものか。しかし現実は難しい。性悪説の立場に立つ国が多い中で、日本にとっては自己防衛という考え方が必要になる。そうしないと、日本人や日本は、欧米や中国人たちに、自分たちの領土や持ち物を根こそぎ奪い取られて、精神的にも洗脳されて、完全に支配されてしまうということになる。性善説があだになってしまうのだ。こうしてみると性善説の立場に立つのであれ、性悪説の立場に立つのであれ、自分の立場に固執することは将来に禍根を残すことにつながると思う。森田でいう両面観で両方にアンテナを張って分析する必要があると思う。今日本人と日本国にとって大事なことは、西欧や中国人たちのなすがままにされるのを指をくわえてみていることではない。特に欧米の国際金融資本と中国共産党の動向から目を離してはならないと考える。相手が何を考え、何をしようとしているのか、常に分析して、仮説を立てて対策を立てておくことである。そのためには、特に20世紀からの近代の世界史をよく学び、そのからくりを理解していくことだと思う。幸い日本には言論の自由がまだ保証されている。そして真実を伝え続けている人たちが、少なからず存在している。you tubeなどのチャンネルでは、批判や迫害を受けながらも、その真実に迫っている。有難いことだと思っている。そこから目を離さないで、本当の事実を掴むことを貫いていきたい。
2020.10.17
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森田先生は入院中の患者に次のように注意されている。掃除や炊事などをするときに稽古をする、練習をするという気持ちで取り組んではいけない。また別のところでは、いつまでもお使い根性で行動してはいけないとも言われています。神経症の克服のために、先生の指示に従って日常茶飯事に取り組むような態度では治らないといわれています。実行や行動は真剣に取り組むことが必要である。指示したことに対して、一心不乱取り組んでもらいたい。ものそのものになってやってもらいたいと森田先生はおっしゃっているのです。この点に関しては、なるほどそうかと納得はできますが、現実問題として大変難しいと思います。例えば仕事などに対して、生活を維持するためにイヤイヤ仕方なく会社に行っているのに、真剣に仕事に取り組みなさいと言っても無理がある。一時的にはそうなっても、継続することは難しい。どちらかというと、手を抜いて、さぼりながら、終了の時間まで無難に過ごすという気持ちの方が強い。この問題に対して私は次のように考えています。初めて取り組むような仕事・課題・問題点に対して、最初から意欲満々という気持ちにはなれない。イヤイヤしぶしぶ仕方なしに取り組むことが多い。ましてや、他人から指示・命令・脅迫されての行動は、自分の意志ではないので、苦痛である。だから、気分本位になり、いい加減に取り組む。さぼる。怠ける。すぐに止めてしまうことが起きる。それが普通なのではないかと思っています。ここで大事なことは、やる気がなくても、人から強制されたことでも構わない。実践・行動に手を付けたということが肝心だと思います。最初から気分本位になって、実践・行動を避けるという態度ではまずいと思います。最初はイヤイヤ仕方なしに取り組み始めることが一般的であるということです。それで構わないし、全く問題はないと思います。ただしいつまでもそのような態度が続くことは大問題です。やる気がない仕事ぶりは、心身ともにストレスとなって、自分自身を破壊していきます。これを打ち破るのは、「ものそのものになってみよ、天地万物すべて我がもの」という森田の考え方です。実践・行動していると、つい時間の経つのを忘れて、無我夢中になることがあります。その時は一心不乱に取り組んでいます。この経験は誰にもあると思います。こういう経験を持つことが大切になるのです。森田では取り組んでいることをよく観察しなさいと言います。見つめていると、自然発生的に、気づき、疑問、発見、課題、問題点が見えてきます。興味や関心が生まれてきます。気持ちが次第に外向きに変化してくるのです。それに伴って意欲、やる気、情熱、モチュベーションが高まります。他人から指示されなくても、自然に体が動いてきます。行動することによって、さらに新たな気づき、疑問、発見、課題、問題点が見えてきます。これによって、さらに上の目標に向かって行動するようになります。この好循環を作り上げることが肝心なのです。この好循環の流れに乗ると、生きがいを持ててうれしい。日々生活することが楽しいということになるのです。生きがいを見つけたということになるのです。ですから、最初は気が進まなくても一向にかまわない。他人から、指示、命令、脅迫されての行動でも全く問題はないのです。むしろそれが普通である。でもそれが続くことは耐えがたい苦痛になる。歯止めをかけるためには、「ものそのものなりきってみる」態度が欠かせないのです。練習や稽古という態度はよくないというのは、誤解を生みやすい言葉です。
2020.10.16
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この言葉はなかなか理解されない言葉です。神経症は治るのか治らないのかはっきりしてくださいと言いたくなります。今日はこの言葉の意味するところを考えてみたいと思います。一般的に病気が治るということは、薬物療養、手術、放射線治療、リハビリなどによって病気になる前の状態に戻すことを言います。大けがをしたときも、キズを修復させてケガをする前の状態に戻すことを言います。病気やケガの場合は、原状復帰が目標なります。目標を達成した時点で、病気やケガが治ったと宣言できます。では神経症になった場合、神経症になる前の状態に戻すことができるでしょうか。不安にとらわれる前の状態に戻すことが可能でしょうか。例え一つの不安をなくしても、様々な不安が泉のようにこんこんと湧き出るのでイタチごっこになるのではないでしょうか。神経症というのは、主に神経質性格を持っている人が発症します。そこで、神経質性格を別の性格に変えてしまえば、神経症で苦しまなくなると考えます。神経質性格以外の人を見て、それを目標にして、気質を変えようとします。例えば、小さな不安にクヨクヨと悩まない、外交的で何事にもあっけらかんとした発揚性気質に変えてしまおうと考えるようになります。それが達成できると、不安や恐怖が激減して、自由自在な生き方を手にすることができる。つまりこの目標が達成できた時点で、神経症が治ったと実感できるはずだと考えるようになるのです。この気質改造・性格改造は果たして可能なのでしょうか。神経質性格の人が、豪放磊落な人間に変身できるのでしょうか。表面的には可能かもしれませんが、それは一時的で、付け焼刃のようなものだと思います。つまり、神経症にかかりやすいという、神経質気質は変えることができない。一生付きまとう本体に対する影のようなものだということです。それでは神経症は永遠に治すことができないように思えます。しかし実際には神経症を治して、有意義な人生を送っている人がたくさんおられます。その人たちにはある特徴があります。神経症をもたらす神経質性格は変えることはできないということがよく分かっているのです。性格改造にエネルギーを投入するというバカバカしい。そして神経質性格は、他の性格者にはない優れた特徴があるということも分かっています。鋭い感性を持っている。粘り強い。責任感がある。分析力がある。夢や希望、目標達成に対する欲望が強い。などなどです。これらは他の性格者には希薄であることも分かっています。神経質性格のマイナス面とプラス面を過不足なく分析している人です。この性格のプラス面に磨きをかけていくことに注意や意識が向いている。つまり神経症は嫌な面があるが、それを治そうなどと大それたことは考えていない。神経質性格が持っているプラスの面を最大限に伸ばしていこうとしているのです。そういう方面の学習を森田理論で深耕している人たちなのです。その努力を継続するとどんなことが起きるか。主観的には神経症は治っていないが、客観的に他人から見ると、完全に神経症を克服しているように見えるのです。これが治らずして、治っている状態です。神経症が治ったかどうかは、自分で主観的に判断して判定してもよく分かりません。神経症を克服した人が、客観的な立場に立って、判断するほうが間違いが少ない。その方法で今どの程度治っているのか、判定することが大切です。他人があの人は神経症で苦しいというけれども、規則正しい生活ができている。凡事徹底の生活になっている。家事、育児、日常茶飯事、仕事、勉強、趣味などに真剣に取り組んでいる。そう判定したら、本人がいくら主観的にまだ神経症は治っていませんといっても、その段階で治っているのです。これが治らずして治っている状態なのです。言葉遊びのようですが、真実はこういうことです。
2020.10.15
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この言葉について、森田先生は次のように説明されている。(森田)先生に接近したいという心(親しみ)と、恐ろしいという心(敬)とが、はっきりと相対して、両立している時に、これが自然の純なる心であって、「敬して遠ざからず、親しんで馴れず」ということが自然に行われるようになる。この両立の心が、一方ばかりに偏すると、つり合いが取れなくて、あるいは先生が気味が悪いと感ずるままに、仕事をしても物置の隅や鶏小舎の先で、先生から隠れてするようになり、その結果は自然に精神の緊張を失って、患者同士でつまらぬ話などをして種々の弊害が起こる。つまり「触らぬ神に祟りなし」という無関心の安易な心を選んで、神様の有難さを考えようともしないのである。これと反対に、一方には、「先生に近寄らなくては損だ」という理屈から割り出して、恐ろしいという自然の感情を、強いて抑えようとすると、今度は、例えば、庭に落ちていた子供のゴムまりを拾ってきて、「先生これはどこに置けばよいですか」とか、あるいは「先生縄切れが入用ですが、どこにありますか」とか、常識はずれのつまらぬことを先生に問うて、強いて親しみを装って、なれて見くびるという結果になる。(森田全集第5巻 552ページより引用)これは森田理論の「不即不離」という考え方である。引っ付きすぎず、離れすぎずという人間関係のことをいう。また「不即不離」というのは、「精神拮抗作用」の説明でもあります。これを簡単に説明すれば、人間にある欲望が起きれば、必ずそれを抑制する感情も同時に発生するというものです。この「同時に」ということが重要です。欲望だけが発生するということになると、それは欲望の暴発を招きます。結果として、身の破滅を招く。あるいは他人を巻き込んで、紛争を引き起こす。欲望に比べて、抑制力が強いということになると、あらゆる面で引っ込み思案になり、手も足も出せなくなる。無為の人生を送り、晩年になって後悔することになる。森田理論というのは、欲望と抑制力はどちらも大切です。両方とも大事な役割を担っており、おおいに有効活用することに意義がある。しかし欲望の暴走に片寄ってはいけない。反対に抑制力一辺倒でもいけない。一方に片寄ればより戻すことが大切ですと教えてくれているのです。調和、バランスを意識して生活することが一番大切ですと教えてくれています。その意識づけのためには、机の前にヤジロべイを置いていつも眺めることです。ここで注意したいことは、欲望に弾みがついてしまうと、制御不能に陥りやすいという特徴があるということです。これはブレーキの壊れた車が坂道を疾走するようなものです。ですから普段から欲望は抑え気味に生活した方がよい。腹8分目という言葉があります。ほどほどがよいということです。完全、完璧は犬も食わないものと心得ることです。国家試験でもおおむね60%で合格ラインといわれています。一番良いのは、あくまでも欲望を前面に打ち出して、絶えず抑制力を活用してバランスを整えるということだと思います。車のアクセルとブレーキの関係と同じことです。アクセルを踏み込まないと、車は決して前進しません。そうかといって、ブレーキが故障していると大事故になります。それでは命の保障は不可能となります。サーカスの綱渡りのように、落下しないで渡り切ることができる人は、森田理論の世界では「森田の達人」のレベルに到達している人です。
2020.10.14
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森田先生は、間違った言葉使いに対して鋭く批判されています。例えば、「先生がいらっしゃった」というところを、「先生が来た」という。「婆やが来た」というところを、「婆やがいらっしゃった」という。親に対して、「お菓子を頂戴」というところを、「お菓子をくれ」などと言う。友達に対して、「お菓子をくれ」というところを、「お菓子を頂戴」などと言う。これは親が子供に対して、最上級の言葉でもって、習慣づけようとするからである。その子供は、成長して後にも尊卑高下の区別ができなくなる。これは言葉使いの修養が足りなかったためだ。言葉や行儀なども、いたずらに形式になじんで、時と場合による適応ができないからである。(森田全集第5巻 549ページ参照)森田先生は、言葉使いは、人を見て、臨機応変に使い分けることが大切だといわれているのです。目上の人や上司や先生などに対しては、尊敬語、謙譲語を使う。年下の人や部下や生徒などに対しては、決して、尊敬語、謙譲語は使ってはならないといわれているのだ。たかだか言葉使いにそんなに目くじらを立てなくてもよいと思われるかもしれない。第一神経症の克服とどんな関係があるのだと反論されるかもしれない。森田先生は、言葉遣いを、その場の状況によって使い分けできないということは、その他の変化に対しても、素早い対応ができないといわれているのだと思う。頭が弛緩状態に陥って、とっさの変化対応には間に合わない。昆虫の触角がピリピリと周囲の変化に反応するような状態にならない。こうした変化対応は、思いつくことさえできないということになるのです。森田理論は、変化に素早く対応する態度を身に着けさせようとしているのです。そういう態度で生活するようになればよいと教えてくれているのです。変化対応力は、観念的な世界にどっぷりとつかっていては身につかない。子供のころから、部屋の中でのテレビ遊び、一人遊びが多いと身につかない。外に出て緊張感を持って、実践・行動する中で身についてくるものである。子供のころからいろんなことに好奇心を持って、心身を活発に動かしていくことで身に着けていくものです。この変化対応力は、成長した大人が身に着けようとしても、なかなかうまくはいかない。それは習慣として凝り固まり、すでに臨機応変な変化対応力への親和性がないのである。特に、言葉使いなどは、治そうとしても、すぐに地が出てしまう。できるだけ変化に対応できるようにするためには、日々緊張感を持って生活することにある。凡事徹底、日常茶飯事を大切にして、頭よりはまず身体を動かす。そうすることで、興味や関心、気づきや発見が多くなる。そして、工夫やアイデアが生まれて、やる気が意欲を高めていくことができる。緊張感のある生活のほうが、変化に気づきやすいということです。次に変化に気づいたときは、即座に対応することが大切になります。変化に対応する習慣は、思考パターンがこれから先に向いているので、過去のミスや失敗で後悔ばかりということはなくなります。
2020.10.13
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森田先生の観察力というのは徹底している。1、自分が座敷に座っていて、そこを人が通ろうとする時、人に自分の前を通らせようとする人、15人。自分がちょっと身体を前にずらせて、人に自分の後ろを通らせる人、27人。2、自分の家にある蜜柑とか枇杷とかを食べるとき、悪いものから先に食べる人、20人。よいのを先に食べる人、22人。3、風呂に入るとき、ひと思いに飛び込む人、2人。ジリジリと、身体を沈める人、40人。4、同じく入浴するとき、惜しげなく風呂桶で湯を汲み出す人、8人。最小限度に倹約して使う人、34人。5、食事のとき、おかずを好きなものから、先に食べる人、22人。好きなものを後に残して、最後に食べる人、20人。6、外出のとき、お金を持たずに平気で出る人、2人。金を持たねば不安の人、40人。7、朝、顔を洗うとき、石鹸を使う人ね13人。石鹸を使わぬ人27人。(森田全集第5巻 541ページより引用)普通の人はこんなことには興味が湧かない。調査してみようとは考えない。森田先生は、おおよその傾向が分かればよいという態度ではない。仮説を立てたことは、実際に調査をしてみる。人の意見やうわさ話を事実として認めるということはしない人でした。先入観や思い込みで事実を捻じ曲げることがない。ほんとにそうなのか、間違いない事実なのか、事実に対するこだわりが半端ではない。「事実唯真」が森田の目指している態度ですが、これを徹底されています。次にここで注目したいことは、事実が分かったとして、是非善悪の価値判断をされていないということだ。例えば、風呂に入ったとき、惜しげもなくお湯を汲み出す人は駄目だとは言われていない。まず正確で客観的な事実を白日の下にさらけ出すことに注力されている。普通は、中途半端に事実を見てしまう。そして急いで、是非善悪の価値判断をしようとする。価値判断を急ぐあまり、事実を確かめる作業をおろそかにしてしまう。どちらかというと、事実はどうでもよい。それよりも、自分がどういう価値判断を下すかがより重要なのだと思っている。それが自分のアイデンティティの発揮だと思っている。森田理論学習は、その態度を逆転させることを目指しているのだ。完全に習得することは難しいが、その方向を向いているかどうかが決定的な違いとなる。
2020.10.12
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森田先生のところに入院すると、読書は20日ぐらいたってから許された。備え付けの本は、主として植物などの事実を述べたもので、小説類は1冊もなかった。(形外先生言行録 135ページ)その中で私が関心があるのは、森田先生が「古事記」を読ませていたということです。森田療法と何か関係があるかもしれない。早速調べてみた。古事記は、日本の国の始まりを書いた神話です。天上に住んでいる天照大御神が、孫の「ニギギミノミコト」を人間世界に送り込まれた。これを天孫降臨という。これが3000年続いている万世一系の天皇制の始まりである。神道の面白いところはいくつかある。その一つに、天皇は権力は持たないが、権威は持っているというのがある。人々が畏敬の念を持って、頭を垂れるほどの権威を持っているのだ。そういう意味では、日本人は「心のふるさと」というものを持っている。西欧や中国では、絶対権力者が同時に権威を持っている。これが日本では国の始まりの時点から、別々になっているというのだ。これが大変大きな意味を持っていることに今回の学習でよく分かった。天皇の存在は、権力者の暴走を諫める役割をもともと持っているのだ。それが日本人の行動様式の基盤になっているのである。次に、天照大御神は、先祖をお祀りし、稲作を行っている。種もみから苗を育て、田植えをして、稲刈りをしている。カイコを飼い、絹糸を生産し、着物を織っていた。日本の神様は、もとも自給自足を基本としていたのだ。この伝統行事は、現在も皇居で行われている。天皇が田植えをされて、稲刈りもされる。収穫物は、11月23日の新嘗祭で、天照大御神に供えられて、その後共食される。さらに、日本では八百万(やおよろず)の神様がいるという。つまり多神教なのです。他の神様を排除していないというのが大きな特徴です。外国では、一神教です。宗教が異なれば、結婚しようなどと言う気持ちにはなりません。つまり自分たちの生活圏から排除したいという欲望に駆られてしまうのです。この神様は、横並びで平等であるという。支配被支配とは無縁な関係にある。さらに、この神様はみんな仕事を持って働いている。働くことは神事なのである。神道では、それぞれが違った役割を持ち、役割を立派に果たすことで、人々が助け合う社会を目指している。注連縄(しめなわ)というのは、もともとくつろぐ場所と働く場所を区別するものなのです。働くということは、苦痛なものではなく、他人の役に立つ行為であり、喜びなのです。農作業、漁業、道具や生活必需品の制作、商人の仕事を通じて、能力を高め、精神的な修行をしているのです。仕事によって満足感と人生観を獲得しているとみているのです。現代の社会は、労働は労働対価を得るために我慢して耐えると考えます。そして、すぐに得か損か、見返りがあるかどうかを求めます。もともと日本で伝統的に伝わってきた労働に対する考え方というのは、見返りを求めず、献身的な行為のことだったのです。そして人々が手を携えて、楽しむものだったのです。こういう考え方というのは、欧米のグローバリストたちにとっては、理解しがたいのです。権威を持つ人と権力者が分離している。権威者が権力者をけん制している。自給自足を基本にしている。国民や国家が豊かになることを希求している。労働することは自己を成長させて、周りの人たちを豊かにするものだと考えている。グローバリストたちにとって、そういう考え方が全世界にはびこることは許しがたい事なのです。こういう考えだと自分たちの儲けにならないからです。この人たちは、国境を無くして、全世界の富を独占したいという欲望が暴走しているのです。自由貿易、規制緩和、民営化、紛争や戦争を推進することが、自分たちの利益に合致するものだからです。そういう人たちが全世界の人口の1割はいるといわれています。問題は後の9割の人たちは、その人たちの犠牲の対象にされてしまうということです。そういう仕組みが20世紀の初頭に、イギリスやアメリカで作られました。この考え方が、21世紀に入って容認されるということは、人間にとっては不幸なことです。人類の将来にとっては、どこかで修正されるべきものと考えます。そうしないと人類は滅亡するしかないと思います。以前地球上で欲望が暴走して、自ら滅亡を招いた人間というバカな生き物がいたと語り継がれる日が来るかもしれません。この考え方を見直すことができるとすれば、日本的な考え方です。その源流は古事記や日本書紀にあるのです。「古事記」の精神を再評価していきたいと考えます。そしてそれを引き継いでいる森田理論の考え方を世界に発信していきたいものです。
2020.10.11
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森田先生のお話です。「死の恐怖」と、「生の欲望」の関係は、相対性原理で説明すると分かりやすいと思います。ここにいう相対性とは、二つのものの釣り合いであります。自分が歩いているとき、そばを自動車が通れば、自動車は非常に早く走っているように見えますが、自分も自動車に乗って走っておれば他の自動車は動いていないように見えます。それと同じように、「生の欲望」が非常に大きければ、「死の恐怖」も消失して感じないようになるものであります。相対関係でそうなるのでありまして、「死の恐怖」がないのではありません。(新版 自覚と悟りへの道 白揚社 187ページから193ページ)この部分は症状から解放される道を説明されている部分ですが、分かりづらいところです。まずここで「死の恐怖」というのは、神経症を引き起こす神経症的な不安と置き換えてください。例えば、対人恐怖症の人は、相手と仲良く対等な関係でやっていけるだろうかという不安です。「生の欲望」とは、日常茶飯事、仕事、勉強、問題点や課題、興味や関心のある事に取り組むこと、目標や夢や希望に向かって挑戦していくことと置き換えて考えてください。森田先生はこの二つは相対関係にあるといわれています。ですから、不安を単独で取り上げて、処理しようとしてはいけない。また、神経症を克服した後は、生の欲望の発揮に目覚めていくわけですが、その方向で後先考えないで突っ走ってはいけない。不安と欲望はあざなえる縄のごとく密接に絡み合っているので、相対性原理の考え方で取り扱うことが肝心であるといわれているのです。普通の治療法は、不安ばかりを問題視して、対症療法に陥っているのです。その方向では、神経症は高い確率で再発生する。さらに見落としてならないことは、生きるための指針が確立できていないので、悶々とした生活がいつまでも続いてしまうということです。人生90年といわれる時代に、こういうことでよいのかといわれているのだと思います。神経症の治療に安易にテクニックを持ち込んではならないということだと思います。対人恐怖症の方の特徴を相対性原理で説明するとどういうことになるのか。1、対人不安が大きくなると、生の欲望の発揮は小さくなる。2、生の欲望の発揮が大きくなれば、対人不安は小さくなる。不安と欲望の相関関係はこのようになっているのです。2の方向を目指しているのが、森田理論です。ここで留意しておきたいことは、不安は欲望がある限りなくすることはできない。不安は欲望の暴走に対して、抑止力としての役割を果たしている。ですから不安を根こそぎ取り去ってはいけないということです。そういう意味では、不安は私たちに与えられた宝物として丁重に取り扱う必要があるのです。不安を目の敵にする神経症の治療は、すべて間違っているということなのです。次に、不安と欲望をどういう風に取り扱えばよいのか。一言でいえば、この二つを調和させればよい。バランスをとることに注力すればよいということになります。具体的には、サーカスの綱渡りの芸を参考にしてください。長い物干し竿のようなものでバランスをとっています。右に重心が移動すれば、左の棒を下げる。左に重心が移動すれば、右の棒を下げる。絶えず微調整を繰り返しています。片寄らないように細心の注意を払っています。いかにバランスを維持するかということに注意を払い、しかも少しずつ前進しているという事実が肝心なのです。そうしないと向こうの目的地にはたどり着けません。最悪の場合は、高所から落下してしまいます。下に網が張ってなければ、大けがをするか、最悪の場合、命を落としてしまいます。理想的な生き方があるとすれば、生の欲望を前面に出しながら、不安という抑止力を活用して、調和を希求した生活を続けていくことに尽きるだろうと思われます。
2020.10.10
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2日間にわたって優越感と劣等感について投稿しました。これは他人と比較して、是非善悪の価値判断をすることで生み出されるものだということがお分かりになったと思います。自己肯定感、自己否定感で葛藤している人も同じからくりによるものです。ここでは森田理論が目指している3つの方向性についてまとめてみたいと思います。1、不安の裏には欲望がある。人間の力でどうすることもできない不安に対しては、不安そのものをなくする対症療法はとらないようにする。生の欲望の発揮に目を向けて、生活を前進させる。不安を抱えたまま、なすべきをなすということです。気分本位に流されてはいけません。2、「かくあるべし」で凝り固まっていることで、神経症的な葛藤や苦悩が発生していることを自覚する。そしてどんなに理不尽なことでも、事実を事実として認める。事実をイヤイヤ仕方なしにでも受け入れる。事実を目の敵にするのではなく、常に事実に寄り添う態度を身につける。そこを出発点として、達成可能な課題に取り組みながら生活していく。3、2の段階では、事実に対して是非善悪の価値判断をしています。第3の段階では、事実に対しては、これは良いとか悪いとかの価値判断をしないという段階です。目の前で起きている出来事は、因果応報によって、なるべくして起きていると認めることです。自然現象に対して反抗的な態度にならない。自然と一体化する。寒いときには寒さになり切り、暑い夏には暑さになりきるような態度です。こういう態度になると、自然の変化に対して、自分の方から合わせていくことになります。流れに沿って自然調和を目指していくことになります。人間には理性的に物事を判断する前頭前野が発達していますので、大変難しい段階です。今まで生きてきた人生の中で、確固たる自分独自のものさしを作り上げてきました。それで目の前の出来事を的確に判断しないと、次の行動を選択できなくなると思っています。優柔不断な行動は、自分の存在基盤をなくするようなものだと考えています。今更犬や猫のような動物には戻れない。すぐに是非善悪の決断ができる人が優秀な人だと思いがちです。これは一理ありますが、それがすべてではないと思います。人間を精神的に追い詰めている面を見逃してはならないと思います。ここで森田理論が目指しているのは、繰り返しのようですが、事実にこだわる態度を堅持するということです。事実こそが神様である。事実を大切に取り扱うのだという覚悟を決めることです。「かくあるべし」がでたとき、是非善悪の価値判断をしたとき、「ちょっと待て、今事実軽視に陥っていませんか」と自己内省する必要があるのです。事実に寄り添っていないと自覚できれば、事実本位に引き返すことができます。その繰り返しによって、事実唯真への道が開けてくるものと思います。毎日日記をつけておられる人は多いと思います。とりあえず1か月間、今まで説明してきた3項目に従って、果たして自分の場合はどうだったのだろうかと振り返ってみる事をお勧めします。実行できている人は、相当高いレベルに達している人だと思われます。森田の達人の域に到達されている方です。
2020.10.09
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劣等感が気になる人は、優越感を意識する人でもあります。優越感とは自分が他人よりも優れていると思う気持ちの事です。自分は他人よりもイケメンだ、美人だ。自分は他人よりも勉強がよくできる。自分は安定的な仕事についている。自分のほうがりっぱな家に住んでいる。自分のほうが、動体視力が優れている。スポーツができる。自分と他人を比較して、自分のほうが勝っている。自分のほうが容姿、能力、実力、仕事面、境遇面で相手を見下す立場にいると判断して、自画自賛して悦にいっている状態です。優越感は精神的に安定感をもたらし自信を深めるものと考えがちです。自己肯定感を生み出すものと考えがちです。果たしてそうなのでしょうか。優越感の特徴は、相手と自分を比較することから始まります。そのあとで、是非善悪の価値判定を行っています。そして自分が優れていると思ったことに対して、優越感を感じているのです。反対に自分が劣っていると感じたことに対しては、劣等感を感じているのです。優越感を強く感じる人は、いつも劣等感で苦しんでいる人でもあるのです。比較することは、人間に生まれながら備わっていることだと思います。比較することが葛藤や苦しみを生み出しているので、他人と比較してはいけないといわれます。これは無理があります。自然の流れに反するようなものだと思います。また比較するということは悪い事だけではなく、良い面もあります。比較することで、自分と他人の違いがよく分かるという側面があります。違いを自覚できるようになると、自分の問題点や課題が見えてくることがあります。課題や目標に向かって努力精進する態度は、人間の本来性です。これは自分だけに焦点を当てて考えていても、なかなか見えてきません。大いに比較して自己洞察をプラスに活かすことは大切になります。ところが比較して事実、現実、現状を自覚した後で、自分のものさしで是非善悪の価値判断をしてしまうのです。これが後々問題になるのです。本来事実などにはよいも悪いもありません。これは天候などの自然現象を見ているとよく分かります。因果応報といって、何らかの原因があって、今の状態が起きているのです。それを自分の物差しでこれはよい、これは悪いと大岡越前のように裁定を下しているのです。物差しの目盛りは、人それぞれに違います。ある人にとっては良い事だと思っても、他人にとっては悪い事だと判定されることもあります。この自分なりの是非善悪の価値判断に基づいて方針を決定して、行動を開始してしまうのです。森田でいう「かくあるべし」という理想主義的な観念を優先して、行動を開始するようなものです。ここで問題なのは、事実、現実、現状には目が向かなくなることです。観念の世界に身をゆだねて、事実に寄り添うという気持ちは蚊帳の外になっているのです。すると自分の価値判断と事実、現実、現状との乖離が発生します。時間の経過とともに、そのギャップはどんどん大きくなります。これが精神的な葛藤や苦しみを発生させる原因となっているのです。こうしてみると優越感で悦に入り、劣等感で苦しいという人は、事実に寄り添うという考えが希薄な人ということになります。事実の世界に身を置き、事実を大切に取り扱うという人は、過度に優越感や劣等感を持つことがない。自己肯定観や自己否定観で苦しむということもなくなる。そういうことを問題にする事さえなくなるのです。「かくあるべし」という考え方から、事実本位への生き方に変える方法は、森田理論の得意とするところです。森田理論学習と実践により、ものにすることができます。このブログでも何回も取り上げていますが、取り組むべき課題は何項目もあります。これらは仲間と一緒になって生涯学習として深めていくものと考えています。そうなれば精神的にはとても楽な生活、生き方に変わっていきます。
2020.10.08
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劣等感で苦しんでいる人は多いと思います。今日は劣等感から解放される道を探ってみたいと思います。私は劣等感は、絶えず他人と比較して、自分が他人より劣っていると価値判断しているために発生すると考えています。比較や価値判断しないで、現在の自分の状態を動物のように、あるがままに受け入れることができれば、劣等感で苦しむことはないと思います。それは自分の個性、特性だと思うだけになります。良いも悪いもありません。そのありのままの状態で生きていくだけです。人間は脳の前頭前野が発達しているために、余計なことを考えるのです。ここでは分析できる能力がマイナスに作用しているのです。他人と比較することが身に沁みついていますから、それやめる事はできませんね。私自身もそうです。容姿、能力、学歴、境遇面で劣等感を感じることは多々あります。ここでは、他人と比較するということと、その結果について是非善悪の価値判断をするということを分けて考えてみたいと思います。まず他人と比較するということです。私は比較して自分と他人の違いをしっかり把握することは構わないと思います。むしろ比較しないと自分の状態がよく分からないと思います。事実に徹する人は、他人とどこがどう違うのか、あらゆる面から比較検討して、真実の事実に近づくだろうと思います。それは自覚を深めるために必要なことだと考えます。一般的には、人と比較することは百害あって一利なしと言いますがそれは違うと思います。問題は比較した結果について、自分独自のものさしで、是非善悪の価値判断をしてしまうことです。これが問題を引き起こしているとみています。事実、現実、現状は、本来は良いも悪いもないのです。そうなる必然性があって今があるのです。大雨、台風、地震、津波、噴火なの自然現象は大変イヤなものですが、これらは人間の手でどうすることもできません。こういうものに対しては、是非善悪の価値判定はしません。イヤなものだけれども、好むと好まざるとにかかわらず、受け入れるしかないからです。ところが自分の事になると、良いか悪いかを判断して、どちらかの立場に立つのかを明確に打ち出そうとするのです。そして悪いと判定したものに対しては、何とかしないといけないと考えるようになります。手っ取り早いところでは、劣等感を感じていることは、見つからないように隠そうとします。隠蔽工作です。また取り繕って問題は存在しないように脚色しようとします。最終的には、自助努力で人並みになるまで改善しようと考えるのです。借り物の自分、偽物の自分になるべくエネルギーの大半を投入するようになります。ところがその努力の多くは徒労に終わり、ますます劣等感を強めているのです。こうしてみると、劣等感を持っている人の特徴は、エネルギーが残っている人です。そして、強力な「かくあるべし」を前面に出して、是非善悪の価値判定をする人だと思います。その間違った価値観に従って、本能的に間違った行動へと突き進んでいるのです。第三者から見ると、どうしてそんなことをと思ってしまいますが、本人は真剣なのです。ひとり相撲を取って勝手に自分がずっこけているということです。そして葛藤が強くなり苦悩でのたうち回るようになります。神経症が固着して日常生活がままならなくなるのと同じです。では劣等感にどう対応すればよいのか。事実を価値批判しないで、イヤイヤしぶしぶでも受け入れるしかないということです。決して容易な道ではありませんが、その道しかないと思います。覚悟を決めて、森田理論学習と実践に取り組むしかないと考えています。森田でいう修養を深めていくということです。こういう方向に舵を切って生活することで、劣等感は減少してきます。具体的には、「かくあるべし」の弊害をよく理解する。「かくあるべし」よりも事実にこだわった考え方や生き方を身につけていく。事実をいい加減に扱わない。事実をよく観察する。実験によって確かめる。先入観や決めつけで事実を取り扱わない。人の話を聞いただけで、それを事実だと早合点しない。必ずみずから出向いて真偽のほどを確かめる。事実は片寄らないで両面観、多面観で見ていく。森田でいう「純な心」を生活面に応用していく。素直な感情を大切にして生きていくということです。私メッセージの発言を心掛ける。Win Winの人間関係を心掛ける。事実にこだわる生き方はとくかく奥が深いのです。このように事実に徹した生活を心掛けていると、どんなことが起きるか。他人と比較して、事実だけを見つめる作業を続けていると、自分の当面の課題や目標が見えてきます。森田理論でいう生の欲望の発揮に目覚めてくるのです。すると、注意や意識が劣等感ばかりに振り回されることはなくなります。気にはなるが、目の前の生活の課題や問題点、趣味や興味、関心ごとをこなすことが中心になり、結果として劣等感にかかわりあう時間がなくなるという状態になります。生活が好循環を始め、なおかつ劣等感が後ろに引っ込んでくる。劣等感に苦しんでいる段階では、生活が森田的に変化していないということです。ただし完全になくなることはありません。完全を目指すことは事実としてあり得ない事ですから、結果として不完全になります。ですから、劣等感をどうすればなくなるかという発想では、いつまで経っても劣等感はなくならないというからくりになっているのです。
2020.10.07
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引き続いて枡野俊明氏のお話です。すべての物事と向き合うときに「の」の心をもつこと。「と」の心で物事を見ないようにすること。これが禅の教えの一つです。まず「と」の心で見るとはどういうことなのか。たとえば「私と仕事」「私と友達」「私と夫」という風に考えるのが「と」の心です。この捉え方をすれば、それらと自分が対立することになります。「私と仕事」というふうに捉えるから、仕事に対する不平不満が生まれてくる。「私と友達」と捉えるから、友達に対する嫉妬心や競争心が生まれてくる。「私と夫」と捉えることで、そこに考え方の違いが浮き彫りになってくる。つまり「と」の心で見ることは、いつも相手に対して対立する立場になるということなのです。そうではなく「の」心をもって接してみてください。「私の仕事」というふうに仕事と向き合ってみれば、まさに自分と仕事が一体になっています。どんなに大変な仕事でも、どんなに失敗を繰り返しても、それは自分の仕事なのですから、自分で努力して頑張っていこうという気持ちがそこから芽生えてきます。「私の友達」というふうに考えれば、まさにその友達は自分自身と同じこと。友人に喜ばしいことがあれば、まるで自分のことのように嬉しくなる。友人に悲しいことが起きれば、自分のことのように悲しみが襲ってきます。そして何とかしてあげたいという気持ちが自然と芽生えるのです。お互いに「私の友達」と思えることが、本当の友人ではないかと私は思います。「私の夫」という気持ちがあれば、夫の心に寄り添うことができます。夫が疲れた顔をしていれば、会社で辛いことがあったのだろうかと心配になる。楽しそうにしていれば、自分の気持ちもはずんでくる。せっかくご縁があって夫婦になったのです。「一心同体」にはなかなかなれないですが、いつも夫婦がお互いに「の」の心でいること。夫婦の幸せは、そんな気持ちの中から生まれるのだと信じています。(限りなくシンプルに、豊かに暮らす 枡野俊明 154ページより引用)「と」の心は、基本的に、仕事や他人を、自分の気持ちや意思と対立するものとみなしているということだと思います。仕事は苦痛だ。本当は仕事なんかしたくない。生きていくために仕方なくしているのだ。他人を自分の思い通りにコントロールしたい。子分のような存在にしてしまいたい。人間関係は、絶えず支配と服従の綱引きをしているとみているのです。これらは「かくあるべし」を他人押し付けることが、習慣化している人の特徴です。これが葛藤や苦悩、そして神経症を生み出していくのです。森田理論を学習した人はよくお分かりだと思います。「の」の心は対立関係にはありません。それこそ「一心同体」といった感じです。仕事は私の生きがい。あなたはわたし。私はあなたといった感じです。相思相愛でお互いを思いやる関係にあるのなら問題は起きません。しかし一般的にはいがみ合うことが多いのが現実です。ここで気を付けたいのは、共依存の関係です。相手によって自分の自立性、主体性が骨抜きにされているような一体感です。これは人間本来の生き方からは外れていきます。それぞれが、自分なりの気づきや問題点、課題や目標、夢や希望に向かって努力していくことが人間の本来性です。つまり人間は、夫婦と言えども、元々それぞれの考え方や意思を持った生き物です。絶えず考え方の乖離や食い違いが発生しているのです。相手を尊重し、その違いを浮き彫りにして、お互いの妥協点を探していく姿勢を持つ。そのような人間関係を作り上げていくことが、すべての人間に課せられているのだと思います。
2020.10.06
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禅僧の枡野俊明氏のお話です。禅の考え方には「今」という時間しか存在しません。過ぎ去った過去に思いを寄せることをせず、未だ来ていない未来を思うこともない。今という一瞬を大切に生きていく先に、未来があると考えます。今を大事にすることは、すなわち即行動に移すということ。今やるべきことを明日に延ばさない。要するに「後回し」にする発想がないのです。人間にはつい、物事を後回しにしようとする癖があります。絶対に今やらなければいけないことはやるのですが、今やらなくてもいいものについては、何となく明日でもいいやと考えてしまう。大したことではないものであっても、後回しのものが増えすぎると、それは二進も三進もいかなくなってきます。片付けなどがいい例です。「後でやろう」と思う。その「後」は、ほとんどの場合、具体的な時間が決まっていません。つまり「後でやろう」と思ったことのほとんどは、結局はやらないままになってしまうのです。特に仕事の中で「後回し」を作ってしまうと、ちょっとした失敗であっても、時間が経ったことで、取り返しのつかないほど大きな問題になっている。そのような事態もあり得るでしょう。(限りなくシンプルに、豊かに暮らす 枡野俊明 PHP研究所 78ページより引用)耳の痛い話です。事務の仕事は一つ一つを分解してみれば、きわめて単純で簡単な仕事です。伝票や書類を整理する。きちんとファイルすることなどは面倒なものです。これらを「面倒だから後でやろう」とつい投げやりになることがあります。また、今月中にやるべき仕事を、来月に引き延ばすこともあります。簡単ですぐにできる仕事ほど、取り扱いがぞんざいになります。しかし、後回しにした単純な仕事が蓄積するとどうなるでしょうか。釣り糸が絡まったような状態になります。ほぐして元に戻そうとしても、複雑に絡み合って、すぐにほぐすことができなくなります。そのうちイライラして、ハサミでその絡まった部分を切り取ってしまうこともあります。小さな誰でもできるような単純作業を、後回しにした結果はみじめなものです。傍から見ると、あの人は基本ができていない。事務の仕事の適性がない。能力がないとみなされてしまいます。小さな仕事を後回しにしないで、丁寧に取り組んでいる人は、机の上や引き出しの中が整理されています。実に見ていて気持ちがよいものです。文房具も必要なもの以外は置いていない。整理名人の人は。頭の中もきちんと整理整頓されている。余裕時間が生まれて、その時間に仕事の改善や改革に振り向けている。新しい仕事の立ち上げなどを考えている。こういう人は、仕事を追っているのです。精神的に楽です。片や、仕事を「後回し」する習慣の人は、いつも仕事に追いまくられて、疲労困憊しているのです。残業までして頑張っているのですが、残念ながらこういう人からリストラされていくのです。ですから仕事に追われるようではいけないと思います。小さな、細かい仕事を、お札のように大切に扱うことで、無駄な仕事をつく出さないようにしたいものです。
2020.10.05
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人間関係が悪化している人を見ると次のような傾向があります。1、相手に自分の主義・主張を押し付けている。2、相手が自分の意に沿わないことをすると、すぐに相手を責めている。例えば、子供がいる家庭で、子どもに勉強やスポーツで過度の期待をかけて、叱咤激励している親がいます。夫婦で配偶者に仕事や家事でもっと頑張れと過剰な期待をかけている場合があります。会社で上司が部下に対して過度の営業目標を設定して追い込んでいる場合があります。戦時中の日本では、命を落としてでも、国民は国のために戦うべきだと洗脳していました。期待される方は束縛が強く、ストレスがたまります。期待というのは言葉の響きはよいのですが、自分の理想や完全主義を相手に押し付けていることです。この状態を、森田理論では「かくあるべし」を相手に押しつけているといいます。そういう人は、自分が相手から「かくあるべし」を押し付けられることには猛烈に反対します。自分だけが相手を都合のよいようにコントロールしようとしているのです。犬に紐をつけて自由を制限しているようなものです。自分がきちんと相手を管理しないと、とんでもない方向に行ってしまう。自分の言うとおりに従順に行動していれば、間違いないと思っているのです。思い上がりも甚だしい人のことです。これに対して森田理論の見解はどうか。森田理論の考え方は「物の性を尽くす」という考え方をとっています。拡大して考えると、「己の性を尽くす」「他人の性を尽くす」「お金の性を尽くす」「時間の性を尽くす」ということです。対人関係では、「他人の性を尽くす」ということです。人間は誰でも、この世に存在して、生きているだけで価値があるはずだ。その人独自の優れた能力、知識、知恵、性格、意欲などを発掘して、世のため人の為に活かしていくべきだという考え方です。これは雲の上にいる自分が、相手に指示命令を下している態度ではありません。相手の現実に寄り添って、相手を尊重して、暖かく見守っている感覚です。これは「かくあるべし」を一方的に押し付けるやり方とは正反対です。「かくあるべし」を押し付ける人は、それから外れたり、反抗する人を決して許すことはしません。攻撃、批判、否定、拒否、無視、抑圧、脅迫、迫害します。洗脳教育を行い、何とか矯正して自分に従わせようとします。どうにもならないと判断すれば、見放すようになります。関係性を断つということです。これは悲しいことです。最後には人間関係の破綻を招きます。事実本位の生き方を身に着けた人は、相手の欠点、弱点、ミス、失敗などに対して寛容です。事実をあるがままに受け入れることができます。つまり包容力を持って相手を許すことができます。相手は許されることによって、再びエネルギーを補給して、飛び立つことが可能になります。人間関係をよくしたいならば、相手に自分の主義・主張を強引に押し付けない。自分の意にそわないことをしでかしても、過度に相手を責めあげない。相手の立場を理解しようとする。相手を許してあげる。可能ならば、感謝の言葉をできるだけ多く使うようにする。これだけで人間関係は大きく改善できます。
2020.10.04
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コスモスは秋晴れのすんだ空によく似合っています。我が家の田舎の畑に毎年咲きます。赤い花は我が家のベランダに咲いています。
2020.10.03
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青山学院大学の陸上競技部の原晋監督は、就職試験では自分の強みをアピールしなさいと言われています。たまに就職試験で続けて落ちる選手がいる。その選手に、「どうした、学生時代に陸上競技に打ち込んだことは話したのか」と尋ねる。すると、「実業団就職ではないので、就職に関係ないと思い、一切話しませんでした」という。これに答えて、原監督はこんこんと説明する。「それって、君の生きざまを全否定しているわけ?中学・高校・大学と今までずっと陸上競技に賭けてきて、そのことを言わずして自分を売り込むなら、相手に対しても自分に対してもウソをつくことになる。これからの人生もずっとウソつきになってしまうよ。実業団就職でないのだから、大学時代に陸上競技の成績がどうだったかはある意味でどうでもいい話だ。陸上競技部にどうかかわったかを会社の人事は見ているのだから、堂々と話せばいいんだよ」「東大や京大、早稲田や慶応出の人間と学問で勝負しても負けるに決まっている。お前たちは、陸上競技で頑張った姿勢や、陸上競技で培った人間関係で勝負すればよい。面談の場では、一生懸命に陸上競技をやったことを堂々と述べればいいだけだ。だから、陸上競技に打ち込むことが就活なのだ」この話には考えさせられます。私たち神経質性格の人の強みは何でしょうか。これは森田理論で「神経質の性格特徴」を学習すれば理解できます。小さい問題や課題によく気が付く。好奇心が旺盛です。感性が鋭い。豊かである。創造的である。ミスや失敗の原因を掘り下げて分析できる。分析能力が高い。一旦取り組み始めたら、目標を達成するまであきらめない。一度噛みついたら離さないという、スッポンのような執着性を持っている。安易に軽はずみな行動はしない。事前によく考えて、問題や障害を取り除くことができる。何事にも責任感が強く、真面目に取り組む。心の中に高い目標、課題、夢、希望を持っている。就職試験ではこれらを具体的な話としてアピールすればよいのだ。こういう人が就職してくれれば、会社としてもメリットは大きいはずだ。神経質性格者は、もともと優れた特性を持っているのです。とても魅力的なのです。これらを全く評価しない。あるいはアピールしないで、発揚性気質の性格に変革しようなどと考えている。それはやり方に問題があります。そんなに人生は長くないのです。もともと自分が持っているもので勝負をかけないと、後悔してしまうのです。
2020.10.03
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再び、青山学院大学陸上競技部の原晋監督のお話です。箱根駅伝で優勝するためには、体力だけを鍛えることや、運動能力を高めることだけが指導のすべてだと思われている人が多いと思う。原監督は、それに加えて、部や個人の目標を明確にすることが欠かせないといわれる。個人の目標達成のために「目標管理シート」を取り入れている。これは、A4用紙一枚に1年間の目標と1か月ごとの目標、その下に試合や合宿ごとの具体的な目標を書き込んだものだ。ここで大切なのは、自分自身で考えて目標を決め、自分の言葉で書き込むことだ。これが、選手の自主性につながる。これには、「もう少し速く走る」といった抽象的な目標はダメで、必ず具体的な目標を書かせている。どんな小さな試合でも目標を設定させ、到達度を確認させる。原監督が目を通したあと、寮の階段の壁に貼り出している。これを見れば、普段話をしていない部員どうしでも、相手が何を考え、どういうことを実践しているかが理解できる。目標管理については、「一歩先」の目標ではなく、「半歩先」の目標を設定するように指導している。少し努力すれば実現可能な、できるだけ具体的で小さな目標を設定することだ。例えば、5000mのタイムを1分縮めるなどという目標は、妄想でしかないといわれる。ある選手は、小さな目標を8個設定していた。例えば、クロスカントリーを週3回取り入れる。体幹を鍛えるトレーニングとして2種目を週4回やる。手洗い、うがい、外出時マスクを守る。など。その結果については、月1回6~7名のグループ分けした班でミーティングを行っている。それぞれが設定した目標の進捗状態、目標を達成するための改善点や改良点を話し合っている。これは選手に任せて、自主運営させている。この考え方は、人間である限り、すべての人が取り入れる価値があると思う。自分の現在の状況をしっかりとつかんだ後は、少し努力すれば達成可能な目標設定することが大切になる。目標は人それぞれ異なる。これを、まずは日常茶飯事に取り入れてみる。小さな目標は、日々の生活の中でいくらでも頭に浮かんでくる。まずそれを忘れないようにメモすることが大切になる。これを実行可能なものや急ぐものなどから、片っ端から片づけていく。仲間の協力がいるものや期限があるものは別途メモしておく。その結果を日記などに書いておく。気を付けることは100%完全にこなそうとしない事である。60%から80%達成できれば十分だと言い聞かせることである。その結果を集談会の体験交流で発表すれば、いろいろとアドバイスがもらえるはずだ。これが軌道に乗ると、とりあえず、当面の神経症とは縁が切れると思う。
2020.10.02
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ジャガイモ、ダイコン、ハクサイ、キャベツ、ニンジン、ラディシュなどを植えました。写真はハクサイ、キャベツのトンネルです。これをしておけば虫に食べられることはありません。すべてダイソーで取り揃えました。支柱を抑えるキャップが優れものです。片方だけは石を置いています。ここを開けて水やりと雑草を取り除きます。手前にはニンジンを植えています。ニンジンは乾燥すると芽が出てきません。私は1週間に1回しか田舎に帰れませんので、毛細管現象をした自動給水器を取り付けました。土の中にセラミックの給水器を取り付けています。これが案外役に立っています。ネットで探しました。観葉植物でも使っていますが、ペットボトルですと1日で半分ぐらい吸います。
2020.10.01
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今年も生活の発見会では川柳の募集が始まりました。今年はぜひともタナカサダユキさんのイラスト原画をゲットしたい。今年の応募作品です。神経症 自宅待機で 休戦中マスク取り 酒を飲んでは またマスク神経質 マスク選びに こだわりがネット会 酒とつまみで 盛りあがる
2020.10.01
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2020年8月22日の中国新聞の朝刊に、相手からの頼み事や依頼に対して、自分が後腐れなく気分よく、相手にも不快感を抱かせない断り方についての記事があった。これを森田理論の立場から説明してみたい。まず、なぜ相手の頼みごとや依頼ごとをあっさりと断れないのか。それは、相手が気分を害して人間関係が悪くなるのではないかと恐れているのです。特に職場などの上司から頼まれると、「断ると今後の仕事に響くのではないか」とか、「自分が困った時に助けてもらえないのではないか」などと考えてしまうのです。そこで自分の本音(素直な気持ちや感情)を抑圧し、否定してしまうのです。人間関係に波風が立つことを恐れているのです。そんな関係を続けていると、相手に一方的に支配されてしまうということが起こります。自分の陣地がどんどん浸食されていくようなイメージです。小さな波風を抑えようとして、さらに大きな波風を立てているようなものです。なんでも「はいはい」と賛同して、自分の言いなりになってくれる人は上司や支配者にとってはやりやすい人です。少々の無理難題を吹っかけても、断ったり反対されることはない。安全パイとして、普段は意識することが少なくなります。空気のような存在です。対等な交渉相手とは思わなくなります。子分のような存在だと思ってしまう。これが後々大きな問題になるのです。子分は子分のままに生きていけば、命は保証されるかもしれない。しかし、意思や意欲を持った人間にとっては、針の筵に座っているような状況になる。そんな生き方は、生の欲望の強い神経質性格者にとっては、我慢できないと思います。自分の言いたいことを主張して、やりやいことに積極的に取り組んでいきたいという特徴を持った人間だからです。最初安易な気持ちでとった対応によって、支配被支配の関係が出来上がってしまうと、以後改善することは大変難しくなります。上司は、あなたがいつも無理を受け入れていたために、かえって「無理をしていた」と気づかない可能性が高い。主体性のない従順な人間だと決めつけている可能性があります。たまに反発すると裏切られたような気持になるのです。一方、あなたは「無理を聞いてあげたのに」という思いがあるために理不尽さを感じるのです。一回ぐらいは、自分の気持ちを尊重してくれてもいいのではないか思ってしまうのです。無理を重ねた挙句に関係性が悪化するのですからたまりませんね。一旦そういう関係性が出来上がってしまうと、覆すことは難しいということです。もし意を決して、相手の依頼を断ってしまうと、上司や支配者は反逆者、裏切り者として認識することになります。そして態度を豹変させて、反撃を加えることになります。他の仲間と徒党を組んで仲間から排除するようになるのです。これは人間関係で波風を立てないようにと思っていた人にとっては、解決困難な問題を抱え込むことになります。では森田理論では、この問題についてどう説明しているのか。人間が二人以上いる時は、意見の対立があるのは当たり前のことだと考えています。その対立をどのように取り扱うかが、ここで問われています。方法として、まず自分の考えや気持ちを相手に押し付けることが考えられます。これは自分の「かくあるべし」を無理やり相手に押し付ける方法です。当然言い争いになります。喧嘩になります。犬猿の仲になります。この方法はお互いにエネルギーを消耗して、自滅の道をまっしぐらといった感じです。もう一つは、自分の考えや気持ちを前面に出すと同時に、相手の考えや気持ちを吐き出させるという方法です。そして、どこに見解の相違があるのか確かめるという作業を行う。その溝を埋めるために双方が努力して歩み寄るための話し合いをする。少々の不満が残っても、ある程度のところで妥協する。その結果に基づいて行動を開始する。相手から依頼されたことについては、その依頼内容をよく把握する。納期はいつまでか、自分が適任なのか、能力的に可能なのか状況判断をする。その際、肝心なことは、自分の都合や自分の気持ちを優先することです。決して自分の素直や気持ちや感情を抑圧し、無視してはいけない。その気持ちを相手に伝えることも大切です。相手の役に立ちたい気持ちは、もともとあるわけですが、自分の本音の部分を第一に大切にしたい。そういう気持ちがあれば、自分の気持ちに反した、安請け合いはしないと思います。安請け合いをして、自分の正直な気持ちにうそをつくから苦しくなるのです。今はこの仕事を急いで仕上げないといけないので、申し訳ないが手伝えない。この後、友達との予定があるので、急にキャンセルはできません。今日は残業続きで気がめいっているので、気力がわいてこない。その代わり、あと2時間ほど待っていただければなんとか時間を作ります。明日は予定がありませんので、明日でよければ引き受けます。休息をとってエネルギーが回復すれば、お引き受けします。自分の都合と相手の都合の綱引きをして、ある程度のところで妥協点を見つける態度が欠かせないと思います。これは一般的にはwin winの人間関係作りといわれています。
2020.10.01
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