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4月号の生活の発見誌に、目上の人とか、知人と会って話したりする場合、どうしても目つきが悪くなって、顔があげられなくなるという人の話が載っていた。挨拶ぐらいはできるが、みんなと一緒に話し合って笑い興ずることができない。自分では、話の種はいくらもあっても、顔を上げようとすれば、硬くなって、見えるものすべてが不自然に強く目につき、傍にいる人など、気味が悪そうにされるので、苦しくてたまりません。これは電車で4人掛けの椅子に見知らぬ人と座り合わせたときに感じることです。特に他の3人が知り合いで、和気あいあいと会話をしている場合など居づらい雰囲気になります。目のやり場に困ります。眠ったふりをしたりスマホを見たりして、目を合わせないように注意しています。これに対して森田先生が的確なアドバイスをされている。「目が鋭くなる」とは、目がスラスラと動かないで、固定し見つめるために起こるので、自然の目が自由に動こうとするのをつい一定の所を、見てはならないと故意にけん制しようとするため、目がかたく動かなくなるためであります。これを治すには、この苦しいという感情は、けがや災難と同じで、防ぐことはできないものであると認識する必要がある。けがは痛く、恥ずかしいことは苦しく悩ましいのは当然のことである。すなわちそれは忘れたり、気を紛らせたりしても、どうすることもできない事である。最も正しいことは、従順におとなしく、逆らわずこれを忍受する事であります。そうすれば、感情の法則により、その苦悩は最も早く、薄紙をはがすように次第に消失するものです。これに反して、これに逆らおうとする時には、ますます執着になるものです。長上の人や知人と交話する時は、日本の礼法としては、その尊敬の度の強いほど、その人の膝の先、下腹・胸部というように、その近傍をぼんやり見ながら(その方向を見るともなしに目を向けながら)、先方が何かいう時、または自分の意見を確かめるとき、先方の顔を一寸瞬時、盗み見るのが法で、それがあたかも人情の自然であります。それをことさらに、見ないように、あるいは一定のところを見つめよう、人の目を見つめようという風に考えると、目が凄くなるのであります。また進んでは、自分が見てはいけないと思うところに注意や意識を無理やり向けていくことも有効です。それはかえって、自分の心の自然であるから、むしろそれに従うという心の態度であります。そうすれば、苦しい、恐ろしい、そのためにますます執着するような気持はするが、思い切って実行すれば、必ず早く治ります。「顔が上げられなくなる」そのままでよろしい。たって勇気を出して、顔を上げようとせず、オドオドして恥ずかしがっていればよいのです。以上申し上げる通り、その心持だけをただ実行しさせすれば必ず治ります。
2020.06.30
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森田先生のお話です。子供がダダッ子をいって泣くときに、どうすれば、これをやめさせることができるかと、判断できず、見込みが立たないで、迷いながら見つめていると、いつの間にか子供が泣きやむ。こちらで解決のできぬうちに、子供の方で自然に解決がつき、泣く時に対する最も正しき手段も、自ら分かってくるのである。教育のない親、さては教育のありすぎる母など、でたらめにほめたり、叱ったりする。子供は決して、思うとおりにならぬ。あまり自分の考え通りにしようとするから、少しも子供の心理を観察することができないのである。(森田全集第5巻 323ページ)子供を上手にあしらう事を考えていると、親の権力を利用して、子供を押さえつけようとします。その刺激に対して、子供は泣きわめき、暴力的になって必死に抵抗します。それを見た親は、さらに強い力を発揮して、子供をコントロールしようとします。こうした悪循環が繰り返されていくのです。子供が小さいうちは、圧倒的な力の差がありますので何とかなります。ところが子供が大きくなり、中学生ぐらいになると、形勢は逆転してきます。自分をいつも抑圧してきた親に対して反抗するようになるのです。親は言葉や力の攻撃を受けるようになるのです。一緒の家に住んでいることは、精神的な苦痛を強いられるだけではなく、身体の安全をおびやかされることになります。中には、子供の言いなりになって、おびえながら生活する人もいます。こういう状況が、死ぬまで続くと思うとやりきれないものがあります。ここまでくると、第3者の介入なしでは解決の道を探ることはできないだろうと思います。こういう悲惨な状況を回避するためには、幼児のころの親子関係をきちんとすることだと思います。その際、森田理論の学習が役に立ちます。森田先生は親が自分の不快感や怒りを払しょくするために、親の「かくあるべし」を安易に子供に押し付けてはいけないといわれています。不快感や怒りを持ったまま、「どうすればよいだろうか」と考えながら、子供を観察していればよい。すぐに叱責、脅し、抑圧、ご機嫌取り、ごまかしに走ってはいけない。ここで肝心なことは、安易な対症療法に走ってはいけないという事です。余計なことをしないで見守っていると、子供の方が自ら折り合いをつけて解決する。これは大人の人間関係でいうと、相手の言い分や気持ちを吐きださせる。よく聞いて、相手の真意を確認するという事だと思います。肝心なことは、客観的な立場から、あくまでも事実に基づいて行うということです。事実をうやむやにして、無条件に従うという事ではありません。それに対して、自分の言い分や意向はしっかりと持っていて、それを相手に伝えるという事を回避してはいけません。子供でいえば、電車の中で大騒ぎする。交通ルールを守らない。などがあれば、人に迷惑になる。危険な目にあうことになるわけですから、必死になって自分の考えを伝える必要があります。これは子供を自由自在にコントロールするという事ではなりません。まともな人間に成長するためのしつけです。大人になった子供から感謝されるようになります。一般的に言えば、子供いうことなすことは、包容力を持って見守る態度で接する。自分の主張は、私メッセージの手法を用いてしっかりと伝える。決して自分の「かくあるべし」を一方的に押し付けるという事にはならない。それは子供を一人の人間として尊重しているといえると思います。人間として対等に扱われて成長した子供は、大人になって他人に「かくあるべし」を押し付けるようなことはしないと思います。
2020.06.29
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ロバート・マートンという社会学者が、「予言の自己実現」という話をしている。最初の誤った考え方や予想に基づいて、実践や行動をすると、結果的に最初の誤った考え方や予想通りのことが現実の世界で引き起こされてしまう。何の説明をしているのか、具体例を挙げてみよう。今回の新型コロナウィルスの影響で、一時的に店頭からトイレットペーパーや紙オムツなどが消えました。食料の大量買いをする人もいました。後で分かったことですが、国内で流通しているトイレットペーパーは、97%が国産で、中国との貿易が途絶えても、品切れになることはありませんでした。それにもかかわらず、人々が買いだめに走り、品切れ状態になってしまいました。これは、「トイレットペーパーが無くなる」という誤った状況判断が拡散し、多くの人々が買いだめに走り、結果的に本当に店頭からトイレットペーパーが無くなった。品薄になるという事態が現実になったのです。テレビなどで大量買いしている人が映し出されると、つい自分もそれに影響を受けてしまうのです。商品の供給は問題がなかったにもかかわらず、流言飛語に振り回されたのです。このことを、森田先生は、森田全集第7巻の315ページから340ページに、「関東大震災時における流言飛語の心理」と題して詳しく説明されている。よくないうわさが町中を駆け巡り、人々が疑心暗鬼になり、右往左往している状況が詳細に書かれている。これを見ると、事実の確認の取れないものを、先入観や決めつけによって間違いのない事実として取り扱う事の弊害は計り知れないという事が分かる。ばかばかしい事なのですが、人間は事実とは反対の行動をとる生き物なのです。事実の取り扱いについて知りたい人はぜひ読んでみてもらいたい。「生の欲望」という本にも、一部分取り上げられています。事実を捏造して、それに基づいて行動をすると、事態は解決するどころか、ますます混迷の度を深めていく。他人の話をそのまま信じるのではなく、果たしてその話は間違いないのか事実の裏付けをとる態度が欠かせない。森田では「かくあるべし」を少なくして、事実に立脚した生活態度の養成をお勧めしています。その際事実を自分の目で観察する。自分で実験をして、間違いのない事実なのかを確認することから始める必要があります。事実の裏付けの取れないものは、安易に妄信してはならない。これだけのことを実行するだけで、「事実本位」の生活にかなり近づいていきます。
2020.06.28
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第3回心の健康ビデオセミナーがyou tubeアップされていますので、興味のある方はご視聴ください。6月26日13時30分より、6月29日12時までの期間限定です。公益財団法人メンタルヘルス岡本記念財団の提供です。今回は、「不安・こだわりに縛られた生活から自由な生き方へ」と題して、久保田幹子先生(法政大学教授)の講話です。大変分かりやすい内容となっています。
2020.06.27
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形外会での水谷氏のお話です。この前の形外会の余興について、会員の一人が、「余興も面白いけれども、先生のお話をうかがうことが少ないのは残念だ」というご意見がありました。森田先生にこのことをお話ししたところが、先生は、「患者が話を聞いて、治そうとするのは、あまり面白くない。常に実行を重んじなくちゃいけない。この余興でも、先生も一緒に、天真爛漫に遊び歌うことによって、多くの赤面恐怖や、強迫観念が治る」とか、言うようなことを言われました。(森田全集第5巻 308ページ)普通に考えると、神経症を治すためには、森田理論の基礎学習に専念することで克服できるような気がします。私の経験では、それは必要条件ですが、十分条件ではないと思います。ここで森田先生は、森田理論学習をすることよりも、実行を重んじる必要があるといわれています。森田理論学習は後付けでもよいといわれているのです。私たちの自助組織での会合では、森田理論学習がメインになっています。特に現在は効率的に森田理論を理解するという事が中心です。私が30年以上前に入会したころは、そうではありませんでした。集談会の中で歌を歌ったり、忘年会や新年会、暑気払いなどに趣向を凝らしていました。カラオケ、野外学習会、ピクニック、飲み会、テニス、スキー、花見などがありました。飯盒炊飯でカレーを作る行事もありました。一泊学習会は毎年ありました。キャンプファイヤーもありました。支部研修会では、夕方の懇親会や余興に多くの精力を費やしていました。症状で苦しいながらも、みんなで一緒に行動する体験もふんだんに用意されていたのです。少しでもみんなに楽しんでもらえるように、手分けして細かな準備をしていたのです。私は現在の集談会のプログラムの中に、「生活森田・応用森田」のコーナーを設けることを提案しています。生活や応用の話をせめて15分ぐらいでも取り入れることです。ゆくゆくは、そちらのことがメインになって、次に森田理論学習をする。今とは順序を逆にするのです。そんな運営はおかしいと思われる人がいるかもしれません。私の体験では、森田理論と実践のバランスを意識する方がよいと思います。その方が観念中心から生活中心に転換できるのではないかと考えています。最終的には、生活が森田的に変わっていかないと意味がないと思うのです。
2020.06.27
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4月号の生活の発見誌に次のような記事がありました。再下鈍の者も、12年を経れば必ず1験を得 (最澄)どんなに愚鈍の人でも、1つのことを12年続けていれば、必ず何かの結果が出てくると、天台宗の開祖である最澄は述べている。一つのことを休まずに続けていくことは難しい。ましてや、結果の見通しの立たないものは、心に弾みがつかない。しかしやり通さなければ技術も知識も身につかない。継続は力なりである。この話はとても大切なことを言われていると思う。仕事、趣味、資格試験、スポーツ、楽器の演奏、ブログ、日記でも何でも構わない。これはと思ったことを、継続していくと、とんでもない成果を上げるというのである。日々の実践はたいしたことがなくても、積み重ねるとすごいことになる。例えば、金利が7パーセントの時、10年間100万円を複利で金融機関に預けていると、10年後には200万円に増えていた。こんなイメージだ。着想はよいのだが、すべて長続きしないというのは、神経質の執着性を活かしているとはいいがたい。この話を聞いて思い出すことが3つある。一つは1992年6月号の生活の発見誌の記事である。ある板前さんで、奥さんからお父さんは政治や経済に関しては何も知らない。カラオケで歌を歌えば音程がでたらめ。麻雀をすればみんなのカモになる。ゴルフも人並みにはできないので、お荷物といわれている。その板前さんが悠々と人様の笑いものになっていられるのは、料理にかけては誰にも負けないという聖域を持っているからだという。その板前さんは相当な努力をされているのだろう。一つだけでよい。平凡なもので構わない。そういうものを持っているかどうか。そういうものを持っていると自信が生まれてくる。情熱や意欲が湧いてくる。その自信が思い通りに事が運ばないときに、強力にその人を支えてくれるという事だ。劣等感、自己嫌悪、自己否定に陥るのを防止してくれるというのだ。経営者の稲盛和夫氏は次のように言われる。私は化学の専門家です。セラミックについては誰にも負けまいと努力を重ねてきました。すると、この分野では世界中のどの研究者や専門家も太刀打ちできないところまできた。セラミックのことは稲盛に聞けという事になってきた。経営者というのは、そういう得意技を持つ必要がある。それは柔道で一本背負いが得意な人が、相手がどんなに警戒していても、決めるときにはきちんと成果を出す。そのために普段から切れと技術を鍛えていないといざというときに役に立たない。経営者はそういう努力精進を重ねることが必要なのです。高良武久先生は、世の中で役に立つ知識や技術を身につけなさい。10年ぐらい一つのことに取り組めば、その道のエキスパートになれる。そうなれば人が集まり、人間関係がうまくいくようになる。対人恐怖症の私は、この言葉に触発されて、このブログに毎日取り組んでいるのです。今8年半になります。この段階でも、始めたころと比べると、確かに高良先生の言われることは正しかったというのが実感です。
2020.06.26
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私たちは専門家や政府、マスコミの報道を間違いないと疑うことなく信じてしまうという習性があると思います。森田先生が今の世の中に生きておられたら、それは本当なのかと裏付けをとるために調べ上げられるだろうと思います。例えば、現在日本には1000兆円を超える借金があるといわれています。国民一人当たりでは800万以上になる。このままでは、ギリシャ、ロシア、アルゼンチンのように財政破綻してしまう。自力再生が難しくなり、IMFの管理下に置かれてしまいます。これを経済学者や政治家がとうとうと説明しています。そうならないためには、消費税を増税せざるを得ないのです。あるいは増え続ける医療費、介護費用を削減していかざるを得ないのです。公共事業なども削減せざるを得ません。政府の支出を極限まで抑えてしまうのです。前提をうのみにしてしまうと、消費税増税は受け入れざるを得なくなります。これを調べてみました。これらはすべて間違いであるという事が分かりました。早速説明してみましょう。ギリシャの破綻はユーロからの借金でした。ロシアやアルゼンチンはドル建てで借金をしていました。つまり外国から借金をしていました。それが滞ることは自己破産することになります。日本の場合は借金はすべて円建てです。外国から借金しているわけではありません。紙幣は日銀が発行していますが、政府は赤字国債を発行して、必要経費を調達しています。それは、旦那の会社が思わしくないときに、銀行から融資してもらうのではなく、身内である裕福な奥さんから借り入れをしているようなものなのです。会社でいうと親会社の経営が難しくなった時、子会社から借金しているようなものです。会社は決算の時、連結決算で負債と債権は相殺されてなくなるのです。自国の中での貸し借りは相殺されますので財政破綻することはありません。これがMMT(現代貨幣理論)が教えてくれた真実だったのです。経済学者、政府、財務省は財政健全化を声高に叫びます。つまり税金の範囲内に支出を抑えて予算を組むべきであると主張して、その考え方をもとにして経済政策を行っているのです。プライマリーバランスのことです。そのために消費税を増税してきました。支出を抑えるためには、医療費、介護費用の削減、公的年金の抑制、公共事業の削減などです。その結果国民所得はどんどん減少して、年収200万円以下という貧困家庭を作り出してしまいました。国民を豊かにするための政治とは言えません。増税、政府支出削減、規制緩和、自由化、民営化、グローバル化の推進で、多国籍企業や一部の人は裕福になりましたが、多くの国民生活はどんどん苦しくなっているのです。この考え方は、経世済民の考えではないのは誰が見ても明らかだと思います。今は減税を実施し、財政出動を積極的に実施して、デフレギャップを無くするという政策を矢継ぎ早に実施する時期です。そのうち需要が生産を上回るようになると、税収は自ずから改善できます。インフレ率が上がってきたときは、今の政府が行っている政策は理にかなっていると思います。今の政策の失敗により、国民は将来不安を感じて貯蓄をするようになりました。企業は物を作っても売れませんから、借金を返済して、内部留保を増やすようになりました。その結果GDPがどんどん減少して、中国にはどんどん差を広げられ、後ろからは韓国が迫ってくるという有様です。2016年中国のGDPは13倍、韓国は2.4倍です。日本は1.0倍で世界中を見渡しても最低水準です。それどころかデフレを脱却できていません。1997年から2008年までの12年間で、もしアメリカ並みの経済成長を達成していたら、国民一人当たり名目で6500万円の所得があったといわれています。逆に言えば本来もらえるはずの給料が間違った政治のためにもらえなかったということです。このままの状況が続くと2040年には、中国のGDPは日本の40倍になることが予想されています。現在は3倍程度です。軍事支出では20倍を超えることが予想されています。そうなりますと日本は中国の敵ではなくなります。属国にされてしまいます。益々デフレの悪循環のスパイラルに陥っているといわざるを得ません。「今だけ、お金だけ、自分だけ」というのんきなことを言っていては、世界から取り残されてしまう。新型コロナウィルスは政治や経済を見直すよいきっかけとなりました。森田で学んだ事実を正しく見る目を経済や政治にも広げていきたいものです。
2020.06.25
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2020年5月号の生活の発見誌(52ページ)に次のような言葉がある。症状を取り除きたいという気持ちはよく分かりますが、私は、症状を完全に取り除くことは難しいのではないかと思うし、その必要もないのではないかと思っています。むしろ症状が少しぐらい残っているほうが、悩んでいる人の気持ちに一層寄り添える(共感できる)し、森田の学習を続けるモチベーションの維持にもつながるのではないでしょうか。私はこの意見に同感です。この話に関連して、山野井房一郎さんは、大勢の人の前で話すことができなかった。それが修養が進んだころ、ビクビクハラハラしながらなんとかやり遂げることができた。話しの最後に「これをもって神経症を克服したことを宣言します」といわれたそうだ。本人としては心の中ではまだまだ苦しかったのではないかと思います。でもやるべきことから逃げないで、やり遂げることができるようになった時点で神経症克服の宣言をされているのです。この心意気が大切だと思います。森田では神経症の克服ついては、心の中で折り合いがついているかどうかについて問題にしていないのです。症状を取り除こうとして格闘することを止めて、目の前の日常茶飯事や仕事に取り組んでいるかどうかを見ているわけです。神経症の克服のかぎはまさにそこにあります。そういう克服の仕方は、症状を取り除いてすっきりした気持ちになりたいと考えている人にとっては、受け入れがたい考え方だと思います。目的が不安、恐怖、違和感、不快感に動じない人間になることを目指しているので、とても受け入れることはできないと思います。では神経症の克服に当たってはどういう方向を目指していけばよいのでしょうか。それは一口に言うと「生の欲望の発揮」に邁進していくことに照準を当てることです。ではとらわれていることに対して、手をこまねいているだけなのですかという反論が聞こえてきそうです。間違いと思われるかもしれませんが、その通りです。不安などを目の敵にして、対症療法で軽減させ取り除こうとする考えではありません。不安を受け入れる、共存するという考え方です。ここが森田療法と他の精神療法の違いとなっております。不安というのは、もともと人間が生きていくうえでなくてはならないものです。自然発動してくるものである。無くすることはできないし、無くする必要もない。信号機と同じで注意信号を発してくれているのです。黄色い信号が点滅している時は誰でもスピードを落として、周囲の様子を確認しながら慎重に運転します。これを無視していると、いずれ大事故を起こすことになるでしょう。このように考えると不安の存在はありがたいものなのです。それから不安の裏には欲望があるといいます。欲望のみを追及していくと、弾みがついて暴走し取り返しのつかないことになります。欲望は車でいえばアクセルです。アクセルを踏み込まないと車は決して前には進みません。しかしいったん動き出した車はブレーキでコントロールしないと、すぐに事故になります。命を失ったり、人様に迷惑をかけることになります。ですから不安は、欲望の暴走を制御するというありがたい機能を果たしているのです。そこのところを勘違いしてしまうと神経症で苦しむことになります。生の欲望の発揮を無視して、不安そのものを取り除こうとして、格闘した結果が神経症なのです。森田理論で不安の特徴や役割、欲望と不安の関係性をしっかりと理解することが肝心です。これは生活の発見会などの集談会に参加して、集団学習として取り組みましょう。そして不安を生活の中に活かしていくようになると、神経症とは縁が切れます。不安、恐怖、違和感、不快感が発生したとき、2つの対応方法があります。一つは将来に明るい展望が見込まれるものと人様に役立つことには、問題解決に向かって積極的に行動することです。それ以外の時は、不安を受け入れて、不安と共存共栄を図ることです。欲望と不安の調和を目指すのです。そういう治り方というのは、気持ちとしてはすっきりとはしません。不安がいつも付きまとっていて、うっとうしいと思うのが常であります。それはたとえて言えば、人間誰にも無数の細菌がとりついています。腸には無数の細菌が住み着いており、そのおかげで消化吸収が滞りなく行われているのです。細菌は気持ち悪いと言って、取り除くことはできません。また仮に取り除いてしまうと、自分の命は守ることはできない。バランスを取りながら、腸内細菌と共存共栄を目指すことで、自分の身体の健康を維持して、延命できるという事を忘れてはなりません。
2020.06.24
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大きな壁にぶち当たって、どのように乗り越えたらよいのか全く手掛かりがつかめないことがあります。そのような時、何が何でも自分一人で乗り越えようとする人がいます。でもどうすればよいのか全く手がかりがつかめない。森田先生は、そういう人は「どうしょうか」「困った」という考えが悪循環している。強情で、柔順という事の意味が、いつまでもわからない。自分はいま迷いの内にある。「迷いの内の是非は、是非共に非なり」である。そんなときどうすればよいのか。自分の信頼する人に相談するだけでよい、という極めて平易なことが分からない。自分でやるべきこと、やらなければならないことを安易に他人に依存することは慎む必要があります。ところが自分一人では乗り越えることができない問題に対して、一人でいつまでも苦しむという事は避けたいものです。例えば神経症の苦しみです。一人でいつまでも抱え込んで苦しむよりは、精神科医の診断を受ける。臨床心理士のカウンセリングを受ける。森田療法や認知行動療法などの精神療法を受ける。生活の発見会などの自助組織の会合に参加する。私は生活の発見会の集談会に参加して、仲間とともに森田理論学習することをお勧めします。神経症の成り立ち、神経質性格の特徴、感情の法則、認識の誤り、行動の原則、不安の役割、不安の取り扱い方、生の欲望の発揮、「かくあるべし」の弊害、事実本位の生き方を学習することが大切だと思います。何とか日常生活を維持している人でしたら、この方がよいと思います。このやり方で神経症は克服できます。さらに神経質者の生き方も分かってきます。森田理論はすでにきちんと理論化されています。約3年間で理論が分かり、生活への取り組み方が分かるようになります。出発点に立つことができるようになるのです。人生90年時代といわれている時代での3年間はあっという間です。それで人生の指針が身につくとしたら、望外の喜びになるのではないでしょうか。
2020.06.23
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対人恐怖症の人で、他人から軽蔑される。無視される。からかわれる。毛嫌いされる。馬鹿にされる。非難される。否定される。これらに耐えきれないという人がいます。そういう事があると、すぐにその人のことが嫌いになる。すぐに破れかぶれになり反発する人もいます。我慢して耐える人も心中穏やかではありません。そのことや言った人にとらわれて、気分が悪くなります。夜眠れなくなります。どんどん落ち込み、精神が不安定になります。胃がキリキリと痛むようにもなります。これは別に対人恐怖症の人だけではありません。自分のことを批判し、否定されると誰でも傷つきますし腹が立ちます。対人恐怖症の人との違いは、人間関係の考え方とその後の対応方法にあります。安倍首相の国会論争を見ていると、野党議員は事あるごとに反発しています。時には政治とは関係のない私生活のことを取り上げて攻撃されることもあります。非難、否定、中傷のオンパレードですから気分の良かろうはずはありません。しかし民主政治というのは、自分が攻撃のやり玉に挙げられるは苦しいけれども、対立関係を受け入れることでしか成立しえないという事を理解しておられるのだろうと思います。もしそれが嫌なら独裁国家を築いていけばよいのです。独裁国家というのは支配者が、縦横無尽に一般国民をコントロールするやり方です。一般国民は自由が制限されます。言論の自由、思索する自由、選択の自由、決断の自由、行動の自由はないのです。自由と平等の獲得の歴史から見ると時代錯誤も甚だしいと言えます。人間関係も同じです。2人の人間が一緒に生活していると、考え方や行動の違いがあるのが当たり前のことです。それを認めるか、認めないかでその後の展開が大きく違ってきます。他人の考え方や行動は自然現象と同じで、コントロール不可能という事を理解する必要があります。台風や豪雨が発生すれば、それが通り過ぎ、収まるのを待つしかないのです。コントロール不可能というものに戦いを挑む人はいませんね。あえて挑戦する人は最後には自滅してしまうのです。愚かなことです。人間関係は2人の人に好かれているとすると、2人の人には嫌われている。そして残り6人の人は好きでも嫌いでもないという関係にある。そういうバランスの上に人間関係が成り立っているといわれます。対人恐怖の人は好きな人は当たり前と思って、注意や意識を向けていない。無関心になっています。反対に嫌いな人に対しては、放っておけばよいのに、あまりにも肩入れしすぎている。やり方が逆になっているのです。ちなみに好きの反対は嫌いでしょうという人が多いのですが、好きと嫌いはコインの裏表の関係にあります。つまり好きは嫌いに、嫌いは好きに一瞬で裏返ってしまうものです。かわいさ余って憎さ百倍などと言います。またボーダーラインといわれる人格障害の人は、あれ程過大に褒め称えていた人でも、些細なことをきっかけにして誹謗中傷を繰り返す人に変身するのです。好き嫌いが表裏一体とすると、その反対語は無関心といわれています。この無関心というのは犬も食わない代物なのです。嫌いな人がいたら、その人とは森田理論の「不即不離」を応用して、距離をとることをお勧めします。遠巻きに眺めておくことです。反対に好きな人や好きでも嫌いでもない人と交流を図ることです。そのためには、濃厚な人間関係を少しだけ築いているという考え方は改めた方がよい。広く薄い人間関係を普段から築き上げておくことをお勧めします。親、配偶者、子供、親戚、友達、集談会の仲間、趣味の仲間、飲み友達、カラオケの仲間、会社、同級生などに広げておくことです。その時その場に応じて、付き合う仲間がどんどん変わってくるというイメージです。そして多くの人に好かれたいと思ったら、誰もができないでっかいことをやり遂げて注目を浴びることを目指すことはハードルが高い。それよりは小さなことで人の役に立つことや喜びそうなことをたくさん積み重ねて信頼感を高めていくように努力する方がよいと思います。
2020.06.22
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日本水フォーラム代表理事の竹本公太郎氏の著書に「水力発電が日本を救う」がある。これによると現在水力発電は国全体から見ると7~8%程度そうだ。しかし既存のダムに発電機を取り付けるとすぐに30%程度に上昇するという。これは現在あるものが活かせるので意味がある。現在、電力を作る手段としては、原子力、火力、太陽光、風力、地熱発電などがある。その中でも、現在は、化石燃料を使った火力発電が中心となっている。原料となる石油は当然輸入に頼っている。日本は国土の70%が山です。そして河川が約200本あるそうです。その山から流れ出る水の治水と利水のために、無数のダムを作っている。ところがそのダムに発電のタービンを取り付けていない。それはダムの管理は国土交通省が行っている。一方電力事業は経済産業省のエネルギー庁の管轄です。縦割り行政のために、治水、利水、発電という流れにはならないという。しかし、政府がイニシャティブを発揮すれば実現不可能ではない。水力発電を見直すことは、日本の元々持っている地形、資源、特性を活用することにつながる。日本は国土のほとんどが山に覆われ、しかもその山が急で水が勢いよく流れている。そこに治水のため、すでに多くのダムが作られている。世界中を見渡してもそんな条件に当てはまる国はめったにないといわれる。原子力、火力、太陽光発電の推進の前に、どうして水力に注目しないのだろう。特に原子力発電の場合、現在の技術では、使用済み核燃料の処分ができない。こんな状況の中では、真っ先に取り組むべきは水力発電ではないのか。もともと日本が持っている宝物に気づかないで、ないものねだりをしているとしか思えない。これは森田で言っていることと同じですね。竹本氏は水力発電を効率的に推進するために4つの提案をされている。1、可能なダムに発電機を取り付ける。2、ダムの水位を上げる。普段は台風時の大雨に備えて、ダムの水位は下げている。大雨の心配がないときでも水位は極力下げるようになっている。大雨時のダムの決壊を恐れているのである。ところが現在7日前ぐらいから台風の進路などはすでに分かっている。その間に水位を下げる対応をとっても間に合うのである。臨機応変な対応ができていないということだ。3、既存のダムのかさ上げを行う。10Mかさ上げを行うと、100Mのダムを1基作ることと同じ効果がある。効率的に運用できるようになる。現在は大きなダムを造ることは限界に達しているが、これなら容易に取り組むことができる。4、下流に小さいダムを造る。水力発電で使った水はそこでいったん受け止める。そして計画的に放水していく。こうすることで水の流れをコントロールできる。このダムにもタービンを取り付ければさらに電力を作り出すことができる。これらはすべて即実施可能である。しかも日本の特徴を最大限に活かせる。デフレの時代は政府がこのような政策を実施することで、需要不足を補ってGDPを増やすことができる。今の時代、財政均衡、プライマリーバランスの維持、増税を推進すると、ますます国民生活を圧迫し、景気は上向かないと考えている。
2020.06.21
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作詞家の西條八十さんは、大正12年9月に発生した関東大震災の時に上野公園に避難されました。大勢の人が着の身着のままに避難されていたそうです。そこで西條先生の生き方を変える出来事があったそうです。一人の少年が「船頭小唄」という歌謡曲をハーモニカで吹いたそうです。これは物悲しい演歌です。その時の情景を次のように書いておられます。一口に言えば、それは冷厳索莫たる荒冬の天地に、一脈の駘蕩たる春風が吹きいったかのようであった。山の群衆は、この一管のハーモニカの音によって慰められ、心をやわらげられ、くつろぎ、絶望の裡に、一点の希望を与えられた。(西條八十 唄の自叙伝)西條先生は、悲しいときに悲しい歌謡曲を聴くと心が癒される。絶望している時に絶望の歌を聴くと明るくなれる。歌謡曲には、人の心を動かす力がある事に気づかれたのです。それ以降は、童謡詩人から、人々に寄り添う歌謡曲の歌詞を作ることに方向転換されたそうです。古関裕而さんとコンビで数々のヒット曲を作られました。森田理論学習に取り組んでいる私たちに参考になることがあります。相手がつらくて悲しんでいるとき、「そんなことは気にしないで頑張れ」と叱咤激励するよりも、相手の気持ちに寄り添うだけでよい。つらい、悲しい気持ちを受け入れて、共感してあげるだけでよい。励まそうとする言葉を投げかけることで、相手は益々つらくなることがある。だだ側にいて「どうしたものか」気をもみながら見守ってあげるだけでよい。付き添ってくれる人がいるだけで、相手は十分いやされているのです。何か癒しの言葉をかけなければいけないと思っているとすると、それは大きな誤解です。精神的に苦しくなる時、理不尽な出来事でイライラすることは誰でも経験しています。そんな時に自分を奮い立たせるような勇ましい音楽を聴くと、意欲がみなぎってくるかというとそうではない。むしろ駄目な自分を責めて自己嫌悪に陥りやすい。つらくて悲しい気持ちに寄り添う短調の曲のほうが癒し効果が高い。そういう曲を普段から見つけておくことが重要です。それは歌謡曲、クラッシック、ジャズだろうが何でも構わない。私はそんなときはマーラーの巨人を聴きます。25分過ぎのところがお気に入りです。どれだけ救われたかわかりません。それから、映像を録画してそれを見ることで、癒し効果が得られるものがあります。私は、プロジェクト✕の瀬戸大橋の建設に携わった杉田秀雄さんのドキュメンタリー番組がお宝です。現場監督として重責を担い、その最中に奥さんをがんで亡くされて、男手一つで二人の娘さんを育てた人です。もう一つは、プロ野球界で優れた選手を育て上げ、その後高校教師に転身し、これからという時にがんで亡くなられた高畠導宏さんをモデルにした「フルスィング」というドラマがお宝です。くじけそうになった時、自暴自棄になった時、これらのDVDを見ると何とも言えない気持ちになれるのです。自分に寄り添ってくれて、癒し効果があるのです。精神的な危機を迎えたとき、こういうものを持っているかどうか、活用しているかどうかで、その後の展開が変わってくると思っています。
2020.06.20
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今日は自由に生きることを考えてみたいと思います。それを考えるにあたって、まず自由業の人のことを考えてみましょう。士業、開業医、塾、店舗、職人、飲食業、町工場などを自ら代表者となって切り盛りしている人です。自由業の人たちは、まず売り物がなければなりません。社会に役立つ技術や能力、商品が必須です。絶えずイノベーションを心掛けて改善、改良していく努力を継続する必要があります。それを社会に認知してもらうために、自ら営業する必要があります。短期、中期、長期の経営計画も必要になります。会計、財務、法律の知識も必要になります。従業員を雇う場合は、人事労務の知識、マネージメント力も必須です。実際には周りの人の協力を得て、切り盛りしていくことになります。会社などに雇用されている人達との違いはなんでしょうか。取り組むことに自由があるという事だと思います。私たちがあこがれている自由があるのです。頭で考えたことは、人に迷惑が掛からなければどんなことにも挑戦できる。自由を考えてみると、言論の自由、思索する自由、選択する自由、決断する自由、行動する自由があります。自らの頭で考えて、行動できるというフロンティアスピリットが働いています。自由の獲得は人類の悲願でした。差別や偏見、抑圧や隷属からの解放運動でやっとつかみ取った成果なのです。自由を獲得して、民主的な話し合いで解決する社会を作り上げてきたのです。しかし自由の裏には責任があります。これが厄介なのです。何でも自由にしてもよいが、その結果には責任を持ってくださいという事です。失敗したとき、何とか見逃してくださいというわけにはいかない。他人に依存することも、責任転嫁することもできないという事です。すべての責任を自ら背負っていくしかないのです。順風満帆に進行すればこんなに楽しいことはない。ところが失敗すれば奈落の底に突き落とされてしまうのです。自己破産や生きる意欲が根こそぎ奪われるような状況は何が何でも避けたい。ですから自由の獲得は人類の悲願ではあったが、実際に自由の身になってしまうと右往左往する人が後を絶たないのです。そこでどんなことが起きるのか。せっかくつかんだ自由な生き方を自ら放棄してしまう人が出てくるのです。サメの周りには小さな小魚が絶えず付きまとっています。サメの巨大な力を利用して自分の安全を確保しようとしているのです。自由に泳ぎ回りたいという気持ちは封印しているのです。命さえ守られるのならば、自由などはどうでもよいという気持ちになっているのです。人に依存する生き方は、安全と食料、必要な生活物資は確保できるのです。しかも考えなくても済む。いわれたことを適当にこなしていればよいのです。努力する必要がない。責任を取らされることはない。上司が責任を取らされるのです。自分は安全を確保してうえで、依存して生きていけるので、精神的にはずいぶん楽ができるのです。このように自由と依存を考えた場合、自由な生き方を選ぶ人は少なくなってしまいます。自由な生き方を放棄した人は、束縛、強制、制約、拘束、服従、制限、指示命令のもとで生活していくことになります。砂を噛むような味気ない人生だが、自由人として生きていくことはリスクがとてつもなく高いと思っているのです。命さえ保障されれば、生きがいとか人間らしく生きるといったことは問題にならない。自由人としての生き方を選択するのか、心身ともに誰かに依存した生き方を選択するのか、すべての人間に問われているのだと思います。さらに言えば日本という国体の問題でもあるわけです。
2020.06.19
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5月号の生活の発見誌に「柿の実事件」の話が載っている。山野井房一郎氏の体験談だ。ある時森田先生が山野井さんに「柿の実を一つとってほしい」といわれた。柿の木には50個ぐらいの実がついていた。その時森田先生のところには23、24名の人がいた。50個とれば一人当たり2個から3個は回ると考えられました。他の入院患者の応援を得て、50個全部をもぎ取りました。その中から大きくて色づきがよい柿を3つ、4つ先生のところに持って行った。「よく取った」と言って森田先生からからほめられると思った。内心ここでまた私の信用が一段上がるかなと思っていた。ところが先生は「そうか」と小さな声でおっしゃったきりです。山野井さんは、私があんなに苦労して、しかも大勢動員して自分が大将のようになって、せっかく一生懸命に取りましたのに、心外だと思っておりました。山野井さんはこの事件を後で振り返って、これではまだ退院させるわけにはいかなかったのだなと感じたそうです。普通はこのように依頼があった時、言われたことだけではなく、プラスアルファを付け加えたのだから相手から評価されるはずだと考えます。言われたことだけをするのは、お使い根性といいます。イヤイヤ仕方なく、早く片付けてしまいたいと思って行動するので、心がこもっていない。また、実践・行動によって、弾みが付き、気づきや発見、興味や関心が高まることは少ない。森田理論は、実践・行動することで感情が動き出して、弾みがつくことを目的としていますので、山野井さんの行動は何ら問題はないし、評価されるものだと考えるのが普通です。どうしてこのようなずれが生まれたのでしょうか。これは相手の考えや気持ちを無視して、自分の考えや気持ちだけを優先して行動しているからだと思います。この時の森田先生の思いはどんなのだったのだろう。それは昔からいた婆や教えてくれた。「あれは先生が大事にしておられた柿の木で、昨年秋から1年経ってようやく実を結んだから、先生がとれといわれたら、枝や葉のついたものを、2つ3つ都合良く取って差し上げればよかった」森田先生の立場から見れば、相手の気持ちを軽視、無視して独りよがりの行動という事になります。自分の立場からのみ考えて行動したことは、相手と軋轢を生みだすという事です。行動するにあたって気づいたプラスアルファを付け加えることは素晴らしいことです。ただそれは相手から見ると、「小さな親切、大きなお世話」になる場合があるのです。そういう場合は、あらかじめ相手の気持ちや考えを確認する必要があるのです。「先生、柿が50個ぐらいありますので、全部とってもよいですか」この場合は、「いや、2個か3個でよい」といわれる可能性が高いと思います。そういわれれば、自分の考えは引っ込めざるを得ない。結果として相手と対立することはなくなる。気づきや発見、アイデアなどを思いついたとき、他人に何ら影響を及ぼさないのなら、積極的に行動に移してみるとよい。うまくいかなければ、何かを掴んで修正していく。どんどんやる気が生まれてくる。努力即幸福の世界に入れる。ところが少なからず相手に影響を及ぼす場合は、ひとりよがりの行動は慎む必要がある。自分の気持ちや考えと相手の気持ちや考えの2つを天秤にかけることが欠かせない。それが一致するところを確認して、初めて実践行動へと舵を切りなおしていくのだ。そうすれば二人ともハッピーになれる。自分一人だけの考えや思い込みで行動すると、相手と対立してしまうことが多い。なれあいの関係になると、「いつもこうしている」という先入観で、この基本を無視している。そして小さな対立が次の対立を生んで、人間関係が悪化する。終いには人を避けて自分一人で生活した方がどんなにか気が楽だという気持ちになる。しかし孤立、孤独な生活は味気ない。寂しいものです。それは精神的にも身体的にも、他人との付き合いの中でしかいきいきと生きていけない人間の宿命だと思います。それができると言い張る人は仙人のような生活に甘んじるしかありません。
2020.06.18
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形外会で浜さんが、次のように森田先生に質問された。庭に犬の糞を見つけたとき、汚い、イヤだというのが、純なる心ではありませんか。これに答えて森田先生曰く。それはもとより純なる心である。自然の感情である。しかし、庭の糞なり、台所の洗い残りの皿など、静かに見つめていれば、そのままに捨てておくことができなくなるのである。君はいやなものは避けるというが、そんな言葉は屁理屈である。通るたびごとに、庭先の犬糞が目に付いては、決して、そのような理屈は、成り立たないのである。(森田全集第5巻 260ページ)森田ではどんな時でも、「純な心」から出発することをお勧めしています。犬糞が汚くてイヤだというのは、当然「純な心」です。ただその気持ちや感情を優先して行動すると、犬糞を見て見ぬふりをする。誰かが処理してくれるまで待つという事になります。自分では何もしないことになります。これは不快感に振り回されて逃げ回っていることになります。気分に振り回されている。流されているのです。不快感、不安、恐怖、めんどうだ、やる気が起きないなどという気持ち自体は「純なる心」ですが、それに振り回されるというのは「気分本位」の態度です。「気分本位」というのは、自分に湧き上がってきた感情や本能に従って行動するというものです。人間にはそのような感情や本能が湧き上がってきたときに、それと対立する考え方も同時に湧き上がってくるようになっています。森田では「精神拮抗作用」といっています。普通の人は、この特徴を兼ね備えていることを思い出すことが大切なります。犬糞が汚くて気持ちが悪いという感情は当然大切にしないといけません。しかし不快な気分に一方的に振り回されていると、不快感はいつまでも残ります。不快感にとらわれて、それこそ神経症にまで発展してしまいます。その気持ちはあるがままに認めて受け入れることが肝心です。次に、何とかして処分したいという気持ちも大事にしないといけません。いやいや仕方なく自分で片づけるのか。あるいは人に処分してもらうのか。いずれにしてもそのまま放置するのではなく、解決に向かってどうするのかを考えてみることです。気分本位の感情や本能に流されそうになった時、森田の「精神拮抗作用」を思い出して踏みとどまることは極めて大切です。「精神拮抗作用」が人間に備わっていることで、気分本位に振り回されることや欲望や本能の暴走を抑止することにつながっているのです。「精神拮抗作用」の役割を認識して、そのバランスを整えていける人が、自分の生活を発展させて、社会に適応していける人となります。
2020.06.17
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親鸞の弟子の唯円が書いたとされている歎異抄に次のように書いてある。善人なおももて往生をとぐ、いわんや悪人をやこれだけでは何を言っているのが全く分からない。唯円は次のように説明している。善人でさえ救われるのだから、悪人はなおさらである。なぜなら善人は自分の力を過信しがちだが、自分の愚かさに悩み、絶望する悪人のほうが、大いなる力にすがるしかなくなるから、救われるのも当然なのだ。続いて、人は知恵や能力、努力だけでは、決して心の安らぎに達しない。その無力さを知り、自然のあるがままの仏の手に身を委ねた時、初めて人は救われる。私は仏教のことは何もわからないのですが、森田理論に通じるとこがあると思いますので、私見を述べてみたい。ここではっきりしているのは、善人よりも悪人のほうが先に救われるという事である。言い換えれば、悪人のほうが葛藤や苦悩が少ない生き方ができると宣言している。ここで言われている善人や悪人は世間一般に思われているイメージとは全く異なる。ではここでいう善人とはどんな人のことを言うのか。自分は世のため人のために役に立つ行動をとっていると自負している人のことだろう。確固たる理想主義的な観念優先の思想を身に着けて、それを自分にも他人にも振りまいている人のことをいうのではないか。森田でいう「かくあるべし」を前面に押し出している人のことをいうのではないか。無知で救いようのない人をなんとか立ち直らせてやりたいなどと思っている人である。いわゆる人格者といわれるような人である。次に悪人とはどんな人なのだろうか。悪人は俗世で罪深いことを繰り返してきた。謝っても謝り切れない。などと罪悪感を持っている。つまり自己内省する力のある人のことをいう。一般的には自己嫌悪、自己否定しながら生きている。また命を何とか繋いでいくだけで精いっぱいの人。夢や目標などには考えが及ばないような人。現実、現状、事実を認められないのは、善人と同じある。葛藤や苦しみは強い。だが善人と違って「かくあるべし」を自分や他人に押し付けていない人のことを言っているのではないか。そのようなことを考えるゆとりのない人なのである。悪人の場合は、「かくあるべし」を持っていないので、事実を素直に認めて受け入れるという事になると、それだけですぐに救われる。「南無阿弥陀仏」を唱えるだけで救われるというのは、事実を否定するのではなく、事実をまるごと受け入れますよと宣言しているようなものだ。自分の性格、容姿、能力、環境など変革することができないものは、謙虚にすべてを受け入れて、そこを出発点として生きていきますと自分に言い聞かせているようなものだ。森田理論いうところの「事実本位」生き方が、葛藤や苦悩を軽減する生き方なのですという事を教えてくれていると思う。
2020.06.16
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神経症が治るということに関して森田先生は次のように説明されている。治るということは、単に苦痛がなくなるのではない。ますます精神健全に、ますます適応性を発揮して、人生に向上発展するのが本旨でなくてはならない。単に頭痛が治ったといっても、再発しやすく、強迫観念が一つ治っても、また別の強迫観念が起こってくるという風になる。(森田全集第5巻 207ページ)私は神経症というのは、火山の噴火のようなものだと思っている。火山のすぐ下にはマグマだまりがある。それが火山の地盤の弱いところを絶えず刺激している。弱くて、ここだと思ったところで噴火を起こす。これが人によって100人100様の神経症の発症となるのです。同じ対人恐怖症といっても微妙に異なっている。普通神経症で精神科を受診すると薬物療法に入る。対症療法によって、不安を軽減することを目的としている。日常生活がままならない人は薬に頼ることはやむを得ない。不安が軽減でき、職場復帰できるようになると、一般的に治療は完結する。それでめでたし、めでたしかというと決してそうではない。そういう人は神経質性格を持っており、不安や恐怖にとらわれやすいという特性はそのままに放置されているからである。つまり、一つの神経症が軽快すると、また別の神経症を発症するようになる。仮に神経症が治ったといっても、かろうじて社会復帰が可能になったという程度のものである。不安や恐怖がコールタールのようにベタベタと体にまとわりついたままなので、生きづらさは何ら変わりない。針の筵に座っているような苦しみは、ずっとこの世に生きている限り続く。自分は神経症で苦しむために生まれてきたのだろうか。このまま生きていても苦しいだけで楽しいことなんで何もない。いっそのこと消えてなくなりたい。もう二度と人間になんかに生まれたくない。森田先生は、対症療法で治ったという人は、完治ではない。再発する可能性がきわめて高いと指摘されている。神経症を治すためには、根治を目指すことが必要だといわれている。そのためには、当面の神経症を治すことを最終目的にすることはまずいやり方となる。神経症になった機会を絶好な時期と認識して、「神経質者としての人生観を確立する」という目標を設定することが大事になってくる。薬物療法などの対症療法は、その目標から見るとほんの一部であるとみるべきなのである。その目標達成のための精神療法は、森田理論学習以外には思い浮かばない。森田理論はきちんと理論化されているし、一緒に学ぶ自助組織も存在している。仲間がいることは心強い。ぜひ安心して取り組んでいただきたい。
2020.06.15
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2020.06.14
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先日期間限定でyou tubeにアップされた心の健康ビデオセミナーを視聴した。この中で外来森田療法の流れというのがあった。その内は次のようであった。1、不安を心の事実として承認する。2、不安の裏にある生の欲望に目を向ける。3、欲望と不安は表裏一体であることを理解する。4、症状や不安を除去しようとすれば益々とらわれていく悪循環を明確にする。5、とらわれから脱して、生活を立て直すことを目標にする。6、不安のまま建設的な行動を広げていく。時間がたてば不安は流れるものであることを体得してもらう。7、「かくあるべし」の態度を修正し、臨機応変の姿勢を培う。1から6までは、不安は異物視、敵視するのではなく、共存することが必要である。不安を持ったまま、なすべき課題、日常茶飯事に取り組みましょう。そうすれば、第一段階としての神経症の克服はできますよという事だと思います。7は、それだけでは根治には至りません。事実本位の生活態度を養成することで完治に至りますという事だと思います。これらは森田理論学習に取り組んでいる人はよくご存じでしょう。外来森田療法ではまず薬物療法があります。次に日記指導があります。毎日の日常生活について具体的に書いていきます。先生から赤字でコメントをいただきます。この日記指導は、不安を持ったまま、日常生活や仕事をきちんとこなす役割があります。どんなに気分が悪くても、気分に振り回されないで、なすべきことをなしていくという生活態度を取り戻して、維持していく習慣を作り上げるのです。理論よりは、アリ地獄の底から地上に這い出すことが当面の課題です。今までは神経症的な不安に対して、取り除こうと格闘してきたわけです。あるいは気分本位になって逃げ回っていたわけです。そのやり方は間違いなのです。そのやり方が神経症をどんどん悪化させているのです。不安や恐怖には対応してはいけません。いかに苦しくても放置してください。神経症を治そうとすれば、正面突破ではなく、回り道のコース取りを選ぶという事が有効であるという事です。このやり方は、現実で神経症に苦しんでいる人に無条件で受け入れてもらえるものなのでしょうか。薬物療法、認知行動療法などの精神療法などの全盛期においてはハードルが高い。それよりは手っ取り早い対症療法ですぐに苦しみを取り去ってもらいたいと思うのが人情であります。それで神経症の苦しみが少しでも軽減できれば十分ですという方には何も申し上げることはありません。しかし私の体験では、神経症の苦しみを軽減できてもまた別の神経症にとらわれてしまう。治ったかに見えたのにまた再発してしまう。さらに神経症の苦しみが続くと生きる意欲が萎えてくる。自己嫌悪と自己否定で、「自分は苦しむために生まれてきたのだろうか」思うようになります。この状態は毎日曇天続きの天気が続くようなもので、精神的には本当につらいものです。ですから、これらを解決して初めて神経症の陶冶といえるのだと思います。つまり神経質性格の持ち主として、人生観を確立する方向に照準を合わせていかないと、いつまでも葛藤や苦悩は続いていく。そして失意のうちに人生の終焉を迎えてしまう。森田理論学習の意義は人生観の確立にあるといっても過言ではありません。そのためには、森田理論学習によって神経質者の特徴、認識の誤り、どう生きていけばよいのかを学ぶ必要があるのです。私は約3年で森田理論を理解して、生活に応用できる基礎固めをすることを提案しています。森田的な生き方を身に着けて、人生を謳歌していこうではありませんか。生活の発見会の集談会という自助組織に参加することで獲得することができます。実際に仲間に助けられながら、人生観を確立している人がいるのです。
2020.06.14
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山野井房一郎さんのお話です。私が入院中、ここのお家で、すべての物を大切になさることに驚いた。顔を洗った水を、そのまま捨てずに、バケツにためて、盆栽にやったり、表へ打ち水にしたりする。米のとぎ水は、油のついた皿を洗う。反古紙は、6、7種に使い分け、全く用に立たぬものは、飯炊きの燃料にする。これにこたえて森田先生のお話です。私のところで、皆さんもご承知の通り、外来患者の住所姓名を書くのに、反古紙から選り出したものを小さく切って使っている。ある病院では、金ぶちの紙を使っているとのことである。診察料は高くて、相当の体裁を張るべきところを、この反古紙を使うということは、一般の人から見ると、はなはだ矛盾のように思われようけれども、今の山野井君のお話から想像しても、私には決してその間に矛盾はないのである。(森田全集第5巻 228ページ)この話は、森田先生が物を粗末にすることが忍びないので、生活信条としてそうされているのかと思われる人がいるかもしれない。それでは「もったいない」運動を声高に推奨している人と何ら変わりない。それが問題だと言っているのではありません。森田では、物を粗末にしないで大事にしましょうという考え方自体を広めようとしているのではありません。森田先生の真意を考えてみるようにしたいものです。その物やその人の持っている存在価値をとことんまで活かしていく考え方を身に着けさせようとされているのだと思います。自分にないものを欲しがるのではなく、自分が持っているものを自覚して、その活用方法を見つけ出すような考え方を身に着けさせようとされている。自分の性格、頭脳、身体、所有物、境遇、家族などに難癖をつけて、非難や否定するのではなく、持っているものや存在しているものの中に新たな価値を見出していこうとする態度です。自分が持っていないものを手に入れようと努力することは決して悪いことではありません。問題なのは、欲望に加速度がついてくると、自分が元々持っているもの、すでに持っているものを無視・軽視するようになる。そして、自分にないものを手に入れるための方面に注意や意識をフォーカスしていく。これが問題なのです。まず、自分の存在価値や身に着けたもの、能力やできることに焦点を当ててとことんまで活かしきりなさい。欠点、弱みを克服しようとするよりは、もともと持っている存在価値、長所、強みに磨きをかけて、さらに伸ばしていけるような生き方に変えていきましょう。「かくあるべし」を押し付けるのではなく、一見問題だらけの現実の中から、活用できるもの、人様の役に立つことを見つけ出していきましょうという考え方なのです。田原あやさんが、「形外先生言行録」のなかで紹介されている言葉を紹介します。(森田先生は)物の性を尽くし、100円のものは1000円に、1000円のものは10000円に、というように、その物よりもっともっと高く生かして使いなさい、といわれました。「綾子たちは、1000円の物は100円に、100円の物は10円にしてしまう。もったいなくてやる気にもならない」とよく言われていました。(田原あやさんは、森田先生の異父姉弟の道さんが嫁がれた配偶者の妹の子供さんです)ちなみに、「物の性を尽くす」中には、己の性を尽くす、他人の性を尽くす、物の性を尽くす、お金の性を尽くす、時間の性を尽くすなどがあります。いずれか一つに取り組んでみることで、森田の達人の域に到達することができます。
2020.06.13
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神経質性格の人は弱気と強気が同居しているという。強気な面としては負けず嫌い、頑固である。こだわりやすい。一度食いついたら決して離そうとしない。観念優先で自分や他人に「かくあるべし」を押し付ける。理想主義、完璧主義、完全主義、目標達成第一主義、コントロール欲求が強い。弱気な面としては、心配性である。普通の人が無視するようなことにいつまでもこだわる。注意や意識が内向き、内省化しやすい。物事を悲観的、ネガティブに膨らませてしまう。自己嫌悪、自己否定、他人否定に向かいやすい。森田理論学習の神経質性格の特徴として次のように学んだ。・自己内省的、理知的、意識的である。・執着性が強い。・感受性が強く、心配性である。・生の欲望が強い。これらの分析はすべて的を得ている。ここで注意したいのは、神経質性格にはプラスとマイナスの二面性があるとことを忘れてはならない。生活するにあたっては、優れたところは益々伸ばしていけばよい。問題のあるところは、封印するようにすればよい。どちらかに片寄ると問題になる。バランスを意識することだ。神経症に陥ると、それが反対になっている。そして一人で相撲を取って、自滅の道へと突き進んでいる。それは理解の仕方が間違っているのである。両面観で神経質性格をとらえ、理解することを忘れるとまずいのだ。次に、集談会などで神経質性格の活かし方を学ぶことも大切である。自己内省が強いという事は、反省する力があるという事である。観察する、分析力が優れているという事だ。失敗や問題が起きたときに、その原因をより深く解明していくことができる。原因を探るためにどんな苦労も惜しまない。そして他人に理路整然と説明できる能力を兼ね備えているのだ。こういう人がいないと世の中はうまく回っていかない。自分や他人を否定するために活用するのではなく、有事に備えて事前の準備をするために活用すればこんなにありがたい事はない。心配性であるという性格は、どんな些細なことでも、感情が湧き出てくるという事だ。レーダーでいえば高性能レーダーを標準装備しているようなものだ。豊かな感性が泉のごとくこんこんと湧き出ていて、とどまることがない。それを利用して音楽を楽しむ。絵画や演芸を楽しむ。感性が豊かなのでよく深く鑑賞することができる。生活や仕事面に活かしていく。きめ細かな取り組みができて、満足を得ることができる。この特徴をネガティブにとらえて、何事にもあっけらかんと対応できるような性格改造を目指すことは間違いだと思う。元々備わっているものに磨きをかけて大切に取り扱う事に注力すればよいのである。生の欲望が強いという事は、好奇心が強いという事だと思う。エネルギーが有り余るほどあって、いつも課題や目標、夢に向かって努力を惜しまない人である。こういう人は歳をとって肉体的には弱ってきても、精神的にはいつまでも若い。人生を楽しみ謳歌している人である。経済的・時間の許す限り、興味や関心のある事には積極的に手を出していくようにするべきだと思う。定年退職してたちまちやりたいことを20個ぐらい持ってないと、退屈で空虚さを感じるようになると聞いたことがある。そのためには、現役で働いている時から、やりたいことのストックをためておくことだ。「今日は何をして時間をつぶそうか。何か楽しい刺激はないかな」などと言って、テレビをつけっぱなしの生活を送っているとすぐにぼけてきます。いったんボケが始まるとなかなか元に戻すことはできません。
2020.06.12
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医師で小説家の帚木蓬生さんは、「よい習慣は才能を超える」といわれている。小説は毎朝2時間、原稿用紙4枚程度書いているといわれる。これを30年間続けてきた。そうすると1か月120枚。1年で1500枚程度になる。30年間では45000枚になる。これはプロでもなかなか達成困難な数字だ。プロの小説家は一日中机の前に座って仕事をしている。それに対してパートタイムの小説家だといわれている。それでも良い作品ができて、様々な賞をいただいておられるのだ。ちなみに「1万時間の法則」の法則の話もされていた。一日3時間、1週間21時間一つのことを深めていくと10年で1万時間になるという。これが達成できると、その道の達人の域に達するといわれる。魅力的な話である。ただ途方もない努力が必要になる。自分の場合を振り返ってみた。日記をつけ始めて14年になる。その日の天気、食事の内容は必ず書いている。その日の出来事、実践や行動。問題点や課題などを書いている。夕食後は日記を書くことが習慣になっている。書かないと気持ちが悪い。1年が終わると主な出来事を整理している。日記をつけることで役に立つことは、以前の日記から行動のきっかけがつかめることぐらいか。多くを書こうとすると頓挫する可能性が高いと思う。集談会に参加して34年になる。単純計算で400回以上だ。それ以外にも出かけることがあったので実際にはそれ以上だ。1年365日だから、1年間は毎日集談会に参加してきた勘定になる。これを続けたおかげで貴重な友人がたくさんできた。また森田理論の学習によって、神経質者としての人生観を確立することができた。途中参加することが嫌になることもあった。私は世話活動に加わっていたのでやめることはなかった。それから集談会のあとの懇親会の楽しみが長続きする原因になっていた。このブログは8年間続いている。投稿に要する時間は朝の1時間のみである。ただし原稿の内容は前日のうちに決めている。最初は学習した内容を投稿するのが精いっぱいだった。今では日常の生活の中から、こういう場合、森田先生ならどう考えられるだろうと考えながら書いている。よく続けられますねという話をされる方がおられますが、私にとっては習慣化していて、朝飯前のことなのです。今では一生続けていきたいと思うようになった。この分野なら人の役立つ足跡を残せるのではないかと感じています。この習慣は自分の成長につながるのでやる気が出てくるのです。
2020.06.11
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先日滝川英二さんの「それでも前へ」というドキュメンタリーを見た。you tubeにアップされている。滝川さんは映画の撮影中に自転車から転倒して脊髄損傷を負った方です。首から下を動かすことができない。体幹の維持ができない。しびれや痛みがある。呼吸困難になる。感覚がない。体温調整ができない。自律神経失調症などの症状がある。事故の前はイケメン俳優として、ドラマ、映画、舞台で活躍されていた。「ファイト一発」というリポビタンÐのCMに出演されていた方である。事故後、支えてくれていた父親の死、愛犬パールの死、恋人との別れがあった。普通ならなぜ自分だけがこんなことになったのだ。運命を呪い、すべてを投げ出して、心を閉ざしてしまうのではないかと思う。滝川さんは、懸命にリハビリに取り組まれているが、その様子を隠すことなく公開されている。事故で全く変わり果てたありのままの自分を受け入れて生きていくのだ。そして、失ったものを数えるよりも、少しでもできることを増やしていきたい。そしてブログには「感謝」という言葉があった。感謝という言葉は、口に筆を咥えて書いたものだ。この考え方は森田そのものだと思います。こういう考え方や生き方は私たちに大きな感動を与えます。どんな困難な状況に置かれても、その境遇や運命を受け入れて、「それでも前へ」進んでいる人はかけがえのない人生を歩んでいる。森田的な生き方は、どんな無慈悲な親のもとに生まれても、どんな過酷な時代に生まれても、どんな貧しい国に生まれても、どんな過酷な運命に翻弄されても、すべてをあるがままに受け入れて、この世でどんな足跡を残して生きているかに尽きる。滝川さんは、現在俳優を引退して「アスリートプライド」という番組のMCをされている。不平不満や愚痴をいうよりも、現実を受け入れて、いまできる事に懸命に取り組んでいこうとされている態度に大きな感銘をうけました。
2020.06.10
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症状を形成する心のメカニズムについて私は2点あげたい。一つは不安、恐怖、違和感、不快感に対する認識の誤りが神経症を招いていると思う。不安の裏には欲望があるというのが森田の考え方なのである。普通の人は、いろんな不安を抱えながら、日常茶飯事、仕事、勉強、介護、近所付き合いをしている。つまり不安に振り回されないで、生活を維持することに精力を傾けている。そのことを森田理論では、「生の欲望の発揮」として説明している。神経症に陥る人は、不安を霧散霧消することばかりに精力を傾けている。生の欲望の発揮については、ほとんど頭の中にない。本当は本来の欲望を追い求めるところなのですが、それが蚊帳の外になっています。いつの間にか、症状を無くすることが、唯一の目的になっている。このことを森田理論では「手段の自己目的化」が起きているといいます。その時点で本来の欲望のことは忘れているのです。そして精神交互作用によって神経症が重篤化するという事なのです。これを解消するには、学習により「不安と欲望」関係を理解することが大切です。欲を言えば不安の役割を理解して、生活に役立てるようにすればよいのです。不安は人間に元々備わっている大切なものだという認識を持つ必要があります。そして、本来の欲望、生の欲望を発揮する方向に立ち戻す必要があるのです。天秤に重りを乗せたときのように、不安と欲望がバランスよく釣り合う事に、精力を傾けて生活するようになれば、神経症になる事はありません。不安をより多く感じる人は、鋭い感性の持ち主です。その特徴を生活、仕事、趣味、人間関係に活かしきるようにしたいものです。もう一つの要因は、「かくあるべし」で事実、現実、現状を否定する態度です。森田では「思想の矛盾」といいます。これは難しい言葉ですが理屈は簡単です。これは観念を優先して、事実をないがしろにする態度のことです。どんなに理不尽で承服しがたい事実、現実、現状であっても、事実を認めて受け入れる。そこを起点にして出発する。そういう生き方を身に着けた人は、神経症で苦しむことはありません。しかしこれは少しハードルが高いです。これは自助組織に参加して、もまれているうちに身についてくるものだと考えています。二歩前進一歩後退でも、方向性を見失わないという態度が大切になります。私はこれを身に着けた人を「森田の達人」と呼ばせていただいています。生活の発見会の会員の中には、数は少ないのですが何人かいます。私はそういう人からエネルギーをいただいて生活をしています。
2020.06.09
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慈恵医科大学での入院森田療法の第3期の作業期に興味を感じた。第2期は軽作業期である。慣らし運転のようなものだ。日記を書く。木彫りをする。気が付いたことを手掛ける。第3期は、共同作業もある。生活に必要な作業がいろいろとある。まず入院施設の中に、庭や池がある。別のところには野菜畑がある。庭には草花や植木がある。草花の手入れや植木の剪定が必要になる。池には鯉がいる。鯉の餌やりがある。畑では旬の野菜を作っている。野菜つくりは森田実践にはもってこいである。いろんな作業が次々とあるからである。また野菜がすくすく育ってくると収穫して食料にもなる。収穫した野菜を使っての料理へと続く。野菜つくりは土つくり、輪作、病害虫の予防、水やり、肥料やり、土寄せ、支柱建て、ネットの設置などがある。精魂込めれば込めるほど豊かな実りがあるので、楽しみである。私は神経症の人に野菜つくりをお勧めしている。ただ都会に住んでいる人は畑がない。市民菜園を借りるにも人気が高くすぐに貸してもらえない。菜園に行く時間がかかりすぎる。などの問題がある。そういう人はベランダ菜園になる。トマト、ナス、ジャガイモなどができる。一軒家に住んでいる人はせめてベランダ菜園に取り組んでみてもらいたいものだ。草花や盆栽があるだけでも精神状態は落ち着いてくると思う。それは世話をするものを持っているからだと思う。慈恵医科大学の入院療法では、動物の世話がある。犬、鯉、ウサギ、伝書鳩がいる。犬は毎日運動が欠かせない。伝書鳩は外に連れ出して放つそうだ。すると帰趨本能があるために必ず帰還してくるそうだ。そのほか陶芸設備もある。大掃除、七夕会、クリスマス会などのイベントも実施されている。このような実践・行動の中で、日ごろは見過ごしがちな日常茶飯事を体験することになる。そして豊かな感情が生まれ、次々に流れていく感じをつかんでいく。退院後も神経症的な苦しみを持ちながら、生活本位の態度を維持することができるようになれば、第一段階の治癒となるのである。その後は生活の発見会や生きがい療法などの自助組織に参加して、森田理論の学習をする。そこで事実本位の生活を理解し、実践することができるようになれば完治である。ここまでくれば、森田理論は人生観の確立の理論であることがはっきりとわかるようになる。
2020.06.08
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文芸評論家の浜崎洋介さんは、貧困国家日本の現状を具体的に次のように分析されている。現在地方から東京への一極集中が進行している。その中心は30代から40代であるという。地方で仕事がないために、家やムラを捨てて都会に移り住んでいる。特に自営業者。家族労働者は生活困難者として廃業に追い込まれている。事務職を希望しているが、希望職種に就ける人は3分の1ほどである。そういう人たちも多くは非正規雇用者である。派遣労働者である。現在2120万人で、働いている人の38%にのぼる。そういう仕事にもありつけない人達は、警備、介護、運送、飲食、建設現場、製造業などに従事している。すると外国人労働者と職を奪い合うことになる。警備の仕事は日給約7500円である。夜間警備は8500円程度である。月にして16万円から20万円程度である。それから税金や社会保険料を払う。東京の家賃は6万から8万円である。生活するのがギリギリである。現在年収300万円以下の人の5割は未婚である。現在夫婦と子供がいる世帯は23%、夫婦だけの世帯が17%、単身世帯が47%であるという。特に豊島区では約60%が単身世帯であるという。現在年収が200万円以下のワーキングプアといわれる人たちが1000万人を超えている。ネットカフェーなどで生活している。家もない。住所もない。銀行口座もない。健康保険証もない。家族と縁を切って生活している。人とつながることもなく、それぞれが孤立して生活している。こういう人は定額給付金をもらうこともできない。生活保護を申請することもできない。家族との接触もなく、仲間や共同体とも距離を置いている。ネットカフェなどで生活していても、他人とは没交渉なのだ。日本人は本来、何らかの組織に所属することで、心の安定を得ている。あまりにも経済的な貧困に陥ると、精神的にも重大な影響を及ぼす。こうなると、森田理論の学習で人生観を確立しようというなどという発想自体が出てこない。4人に一人が本気で自殺を考え、毎年50万人以上の自殺未遂者を出している。現在自殺率は韓国が1位であるが、若者に限っては日本が世界一位である。これは国民の生活に責任を負っている政治の責任ではあるまいか。決して個人の自己責任で片づけられるような問題ではないと思う。働いてまともな生活をしたい。結婚して、家族仲良く暮らしたいという夢や希望を持っていても、経済的に貧困化していて、どうすることもできない。今回新型コロナウィルスの影響は、今まで受け皿となってきたサービス業をもろに直撃した。このような緊急事態に対して、政治の果たす役割はとても重要である。お昼のワイドショウを見る時間があるならば、you tubeで様々な提言がなされている。今回の恐慌でまともな意見や提言を行う人がクローズアップされている。少しでも、今の政府の行っている経済対策について、その中身について関心を持って観察してもらいたいと思う。今回の投稿はyou tubeの討論会「物も心も貧困国家日本」の浜崎洋介さんの話を参考にしています。関心のある方はぜひご視聴ください。
2020.06.07
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今日は畑仕事で田舎に帰りました。今日はキャベツ、タマネギ、ラディッシュ、ソラマメ、梅の収穫をしました。この時期、つけ麺がおいしくなりました。キャベツはかかせません。梅は50個とれました。梅酒を作ります。ブランデーに漬けます。漬けた梅はつまみに最適です。それからラッキョウ漬けも作ります。トマトが大きな実をつけ始めています。柿や栗の木も大きく育っていました。今日はサツマイモ、黒豆を植えました。果物としてイチジクを1本植えました。それからこの時期、アジサイがつぼみをつけています。アジサイはいやし効果があります。花いっぱいの生活はいいもんですね。
2020.06.06
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形外会で坪井氏が森田先生に次のように質問している。私は物を買う時、あれこれと迷っているのもおかしいから、その時のファースト・インプレッションで買っている。やっぱり、研究して買った方がよいでしょうか。研究しても迷うことは同じだから、第一印象を取った方がよいでしょうか。これに答えて森田先生曰く。第一印象が、一番よく当たる事は、確かのようです。そしてそのうえを、選択研究して、再び元へもどった方が、正しい判断の仕方です。つまり第一印象は、これが学問上の仮説に当たる。そしていろいろ実験・研究してこれを証明する。しまいにその仮説が、真理であると断定されるようになると同様であります。ゲーテが、芸術は「実用に譲歩する」という事をいってある。まず物を買うにも、実用が第一である。その次が芸術であり、我々の好みである。好みを無視するのは殺風景であるから、これを捨てることはできない。(森田全集第5巻 293ページより引用)川原氏によると森田先生は最初の感じを大切にされていたことが分かる。先日、美術倶楽部へ先生におともした事があるが、その時に私が感心したのは、先生が軸物を買われるのに、その画家の名前や、偽筆かどうかなどという事には全く無頓着で、ただ自分の好き嫌いという事から決められることです。(森田全集第5巻 539ページより引用)これを見るとファースト・インプレッション、直観、好き嫌い、第一に湧き上がってきた感情を大切にされていたことが分かります。普通美術作品を買う場合、有名画家、絵師の作品かどうか。贋作ではないかを鑑定して買うのがセオリーのような気がします。森田先生はそれは順序が間違っているといわれているのです。自分がこの美術品に惹かれるものがあった。感動したということが先にこなくてはいけない。これを森田では「純な心」といいます。ここから出発して、この絵は世間からどのように評価されているのかを検討していくのである。絵は見ないで、最初から画家は誰か。その絵師は有名な人か。将来高値で売れるかなどを鑑定してはいけない。そういう態度は「かくあるべし」に振り回される生き方になります。自分の直観を大切に取り扱い、そのあとで理知で調整するという姿勢を崩してはならないといわれているのです。これば事実本位の生き方であり、葛藤や苦悩とは無縁の生き方につながります。
2020.06.06
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循環論理ということについて森田先生の説明を見てみよう。「困った」という事と、「どうしよう」という事とは、大と非小とのように同一のことです。この困った、どうしようの二つの間をさ迷っているのを循環論理といって、いつまでも到達点はなく、限りない事になる。すなわちいつまでも、窮することはない。ただそのどれでも、その一つを見つめていれば、困ったことに対して、自ら道が開けてくる。また一方のどうしようという事を、右か左かやって見さえすれば、必ずその結果が現われる。とにかく推理なり実行なりを進めていきさえすれば、循環理論はなくなるのである。(森田全集第5巻 289ページより引用)「腹が立ってしかたがない」「不安で居ても立ってもおられない」「はずかい」という気持ちになった時、頭の中で「どうしよう、どうしよう」と考えてばかりでは物事は一向に解決しない。それどころか精神交互作用によって、注意や意識は、そのことにのみ向けられるようになり、葛藤や苦しみはどんどん強くなる。そして最後には自分一人の力ではどうすることもできなくなる。心配ごとや困りごとで頭がいっぱいになり、目の前のなすべきことを放りだしてしまう。循環論理に陥ってしまう人は、実生活の悪循環も招き寄せているのです。循環論理に陥らないようにする方法は、集談会の森田理論学習で学びました。これは現在の最新の学習の要点には載っていません。私が30年前に学習を始めたころの、学習の要点に載っています。これを少しアレンジして説明してみましょう。困難に直面して、不安を感じ、迷った時のチェックポイントは何か。1、問題は何か。困っていることは何か。腹が立っている原因は何か。不安や恐怖を感じていることはどんなことか。違和感や不快感はどんなことか。これらを具体的に書き出してみることです。感情は横に置いて、客観的な事実を詳細に書いて明らかにするのです。2、つぎに、原因を明らかにするのです。その際、相手に一方的に非があると決めつけるのではなく、客観的に両面観で原因を探っていくことです。問題は相手の相互関係の中で起きているのですから、自分の対応にも反省点がないかと自己内省することが大切です。これで原因を一方的に決めつけることがなくなります。また、原因を探るにあたっては、森田理論学習で学んだことを活用したいものです。不安や恐怖については、「不安と欲望」「認識の誤り」の単元で学んだことを踏まえて原因を探っていくことが大切です。また人間関係の面では、感情の法則、神経質性格の特徴、不即不離の考え方をもとにして原因を探っていくと客観的な原因がつかめます。さらに自分一人ではつかめないという人は、信頼できる先輩などに相談に乗ってもらうことも必要になります。その時は素直に謙虚になることです。3、原因が分かったら、問題解決のためにどうすればよいのか書き出してみましよう。一つだけではなく思いつくままにたくさん書き出してみましょう。紙に書きだすことによって、物事が客観的にみえるようになり、考えがまとまってきます。4、書き出した多くの解決方法の中から一つだけを選び出しましょう。自分にはできそうもない解決方法は除外します。そして優先順位の高いものから選んでいく。頭の中で試行錯誤を繰り返すのではなく、書き出すことによって、解決方法がまとまり、選択しやすくなります。5、選び出したら、ただちに実行に移す。ここでやっと循環論理から抜け出すことができるのです。循環論理に陥っている人はぜひ試してみてください。
2020.06.05
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誰でも腹が立つことはあると思います。まず腹立ちはどんな時に起きるのか。他人などから苦痛や不利益を与えられる。理不尽なことを言われる。事実ではないことを指摘される。からかわれる、無視される。軽蔑される。否定される。などです。あるいは、快楽・幸福を奪われる。もしくは予想される場合です。これらは、それを抑え込もうとしてもどうにもなりません。天気などの自然現象と同じことです。こんな時に売り言葉で買い言葉で即座に反応してしまうことがあります。すると一時的には怒りの感情を解放したかに見えますが、そのあとがいけない。人間関係が悪化して今まで通りの付き合いができなくなってしまう。そして反目しあうようになります。それが昂じると犬猿の仲になってしまう。森田先生は、まず腹立ちはそのままに持ちこたえることが大切だといわれています。次に言葉は悪いのですが、腹が立つとき腹立ちを利用して何とか相手に仕返しをするように工夫することに尽きるといわれています。一口に言えば、癪にさわる。さわるままに、「うぬ、どうしてやろうか」とか、ハラハラ、ジリジリと考えればよい。こうしていると、初めのうちは頭がガンガンして、思慮がまとまらないが、そのうち相手はどう、自分はどうということが分かってくる。小さな腹立ちはそのうち霧散霧消してしまう。2時間も半日も続くような腹立ちは、容易な腹立ちではない。土佐では、「男が腹を立てれば、3日考えてしかる後に断行せよ」という言葉がある。十分に策を練って話し合いによって解決を目指せ。あるいは自分の感情や気持ちを私メッセージで相手に伝える。そうしないと相手になめられてしまう。今後いつまでも相手に適当にあしらわれてしまう。支配・被支配の人間関係が出来上がってしまう。これが問題なのです。ただ腹が立った時はすぐに言い返して楽になろうとしてはいけない。その腹立ちを一時保留して、どういう風に反論したらよいのかよく考えてみることだ。時間がたてば、冷静になれる。腹立ちも大したことではなかったと気づくようになる。相手と犬猿の仲にならなくてよかったということになる。腹立ちが3日も続くようであるときは、第三者の助けを得て、十分に策を練って自分の気持ちや考えを主張していかなければならないのである。そうしないと自分は相手から一方的に支配されることになってしまう。しいたげられたまま生きていくことは苦しみを生み出す。
2020.06.04
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5月23日、コロナ後の政治、経済、外交、日本の自立を考える経済討論会が、you tubeにアップされています。題名は、経済討論 「ウィルス後の恐るべき未来」時間は3時間30分です。すでに25万人以上の人が視聴しています。討論者の紹介(それぞれに日本の未来を語るにふさわしい人と判断いたしました)司会 水島総 映画監督 脚本家 日本文化チャンネル桜代表取締役田村秀男 産経新聞特別記者安藤裕 衆議院議員 「日本の未来を考える勉強会」代表金子洋一 元参議院議員藤和彦 経済産業研究所上席研究員渡邉哲也 作家 経済評論家田中秀臣 上武大学教授
2020.06.04
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逆転人生という番組で、借金地獄で苦しむ中小企業の経営者に寄り添う経営コンサルタントの吉川博文さんの紹介があった。吉川さんは大学卒業後商社マンとして活躍されていた。そんなある日、輸入業を営む両親の借金の連帯保証人になった。その借金は商工ローンで金利は35%だった。最初は300万円借りたという。しかし商売が軌道に乗らず、借金が膨らむばかりで、吉川さんが家業を手伝うことになる。それでも経営は上向かず、とうとう闇金融にまで手を出した。借金は7500万円まで膨らんだ。そうなると借金の返済のことで頭がいっぱいになり、仕事に手がつかなくなった。酒をあおる。自分を責める。生命保険金で借金を返済しようと考えるようになる。思い余って弁護士に相談すると自己破産しかないという。しかし友達に連帯保証人になってもらっていたため、その選択肢はなかった。その時、闇金融は法律違反という事を知り、一人で交渉に向かった。熱湯をかけられたり、胸ぐらをつかまれたりした。それでも粘り強く交渉をした結果、借金が2000万円台に減額になった。すると事業に集中することができるようになり、数年後に借金を完済したという。その後、吉川さんはブログを立ち上げて、事の顛末を紹介した。すると大きな反響があり、吉川さんは失敗の経験を活かして経営コンサルタントになった。中小企業が倒産に至る過程は、外的要因よりも、社長さんの心が折れて、自滅してしまうのだといわれている。食が細くなり、眠りが浅くなる。憔悴して考える力がなくなる。一人で孤立して、悪循環に陥るといわれている。これは他人ごとではない。私たちが神経症に陥った時と全く同じである。吉川さんは、相談者の心にしっかりと寄り添う事を心掛けておられる。具体的には、1、外食に連れ出す。おいしいものを食べれば少しは元気が出る。経営コンサルタントでこんなことを考える人は少ない。2、相談者同士をつなげる。集談会のような勉強会を立ち上げておられる。2000万円の借金を抱えている人が、他の参加者が「俺は7億円の借金を抱えている」というような話を聞くととたんに気が楽になるのだという。共感できるのである。仲間同士で体験交流をすることが欠かせない。孤立することは極めて危険である。これは神経症の場合も同じだと思う。一人で悩んでいても一銭の得にもならない。3、一日社員になって現場を知る。レストランなら皿洗いをする。対策のヒントは現場に隠されているという信念を持っておられるのだ。数字だけではどこに問題があるのかは分からないといわれる。アジアンテイストの料理店を4店舗持っている人のところでは、自宅兼事務所にも足を運んでいた。すると経理関係の書類は放りぱなしであることが分かった。未開封の封書もたくさんあった。経営者は厳しい経営状態に向き合うのが苦しくて、つい放り投げていることが分かった。返済のプレッシャーを一人で抱えて、現実に向き合う気力がなくなっていた。吉川氏は経営者を責めることはしないで、膨大な書類の整理を手伝い始めた。経営者には味方が必要だといわれていた。経営者は経営コンサルタントの先生がここまで親身になってくれるとはと感激していた。森田では現実、現状に対して、実際に足を運んで確認するという事だろうと思う。そうすれば、やるべき課題が見えてくる。その経営者が一人ではやれそうもないときは力を貸してあげる。この経営者の場合は口で言うだけではなく、一緒に手伝うことが必要不可欠なのです。これはどこまでも寄り添ってあげるという事だ。神経症でのたうち回り、生きづらさを抱えている人に対しても、この3つはとても大事なことだと思う。
2020.06.03
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今日は、形外会で話し合われていた「面弱し」(つらよわし)について考えてみよう。佐藤先生によると、郷里の福島では、「恥ずかしやり」のことをいう。思う存分に、人と話の出来ないような人も「面弱し」という。また「面弱し」は気が強いともいう。国語辞典によると、面とは顔のことだが、顔のことをぞんざいに言う言葉である。「面」のつく言葉に、「面当て」「面の皮が厚い」「面の皮をはぐ」「面汚し」がある。「面当て」は、しゃくにさわることがあるとき、相手にまともに抗議したり、仕返しするのではなく、相手が嫌がることを、目立つようにやって腹いせすることである。「面の皮が厚い」とは、ひどくあつかましい人のことだ。「面汚し」とは、社会的な不祥事を起こして、○○家の名誉や誇りに泥を塗る事とある。結局は自分の考えた事を直接相手に伝えることができない。自由自在な言動がとれない。相手の思惑にとらわれているのである。その結果、自分の素直な言動を抑えこんで我慢する。耐える。それでは気分がイライラするので、別の手段で相手に嫌がらせをする人のことをいう。森田先生は、「面弱い」人は、優越欲求が強い。負け惜しみが強いといわれています。人よりも優れた人間でなければならない、人と比較したときに負けるようなことがあってはならないという考え方をしている人です。そのようなかくあるべしを多分に持っている人だといわれる。半面、人から批判、否定、拒否、無視、抑圧されることには敏感である。すぐに逃げ出すか、陰で陰鬱な仕返しを考えるようになる。森田先生は「面弱い」人は、「弱くなりきる」ようにするとよいといわれています。「弱くなりきる」というのは、人前でどんな態度をとればよいかという工夫の尽き果てたときであって、そこに初めて、突破・窮達という事が起きるのである。つまり自分の立ち位置を、事実、現実、現状に置くことです。常にそこから出発する。森田でいう事実本位の生活態度になることなのです。自分は優越欲求が強い。人の上に立ちたい。勝負をすれば負けたくない。馬鹿にされたくない。ぞんざいな扱いを受けたくない。それが「かくあるべし」と結びつくと、自分自身が苦しみ、相手を苦しめることになります。反対にそういう自分の特性や特徴を認める。受け入れる。そこを出発点にしての言動を心掛ける。人より優れた人になりたければ、少々困難なことがあっても努力精進していく必要がある。人から評価されるようなことを示していく必要がある。何かにつけて人には負けたくないという人は、いかにしたら勝つことができるのか考え抜くことです。自分で思いつかなければ学習仲間や専門家のアドバイスを受ける。自分を大切に扱ってもらいたいという人は、他人を大切にしないと。永遠に目的は達成されないでしょう。
2020.06.02
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森田先生のお話です。今の医学は心悸亢進、めまい、のぼせ、疲れやすいという症状を見て、ただちに検査を行う。心臓に多少の問題点が見つかれば、心臓病の危険を吹き込んで、いたずらに患者をして恐怖に委縮せしめるのである。そして対症療法で問題を解決しようとする。現代医学は専門の局部に分かれ、いたずらに局部的の研究に没頭して、その人間の全体を見ることができない。森田先生のところにやってくる心悸亢進の人を見ると、重大な心臓の欠陥は見つからない人である。私が診察すると、明らかに精神的の症状であって、決してこれら器質的な病気ではないことが分かる。(森田全集第5巻 237ページより要旨引用)森田先生は心身一元論である。身体の異常は精神に影響を与える。精神の異常は身体に影響を与えている。あざなえる縄のごとしであって、身体の異常を見つけ出して、元に戻すだけでは不十分であるといわれている。身体の異常が起こってきた心の問題点、つまり生活習慣、食生活、人間関係、経済的な不安、神経質性格、観念優先の生活、認識の誤り、考え方の誤りなども加味して、総合的に解決を目指すべきであると指摘されている。森田の考え方は両面観です。心悸亢進の人であれば、まず心臓疾患を疑って様々な検査を行う。欠陥が見つかればそれに対する治療を開始する。もし問題点が見つからなければ、それきりというのは問題だと言っているのです。実際に電車に乗ればパニックになって、冷や汗や脂汗が噴出して、今にも息が絶えるような恐怖が襲ってくるのだ。心臓に問題はなくても、生活するうえで大きな障害が存在している。森田先生は、そういう人に対しては、森田療法が必要だと言っているのです。生活習慣、食生活、人間関係、経済的な不安、神経質性格、観念優先の生活、認識の誤り、考え方の誤りなどを見つめ直して、従来のパターンを修正していかないと、決して問題解決にはならない。治ったように見えても、またすぐに再発する。器質的な病気だけではなく、精神的、人間関係、考え方の誤りにも意識や注意を向けていくことが不可欠なのである。両面観を考える上では、人間に元々備わっている精神拮抗作用について学習することが有効です。森田理論学習の中で出てきます。ある欲望が生まれると、それを打ち消し、抑制するような考え方や不安が同時に湧き上がってくる。その中でいかにバランスを維持できるか、これが人間が生きていくという事なのです。どちからに片寄るとヤジロベイでいえば、バランスを失ってヤジロべイとして存在できなくなってしまう。人間でいえば葛藤や苦悩に振り回されて失意の人生で終わってしまうという事なのです。森田理論で両面観の考え方はぜひ身につけたいものです。そうすれば、臨機応変で、対立的な人間関係が改善されます。
2020.06.01
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