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をクリックすると、私が作詞作曲した
「私は信じています」
という歌が聴けます。
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「芭蕉二つの顔―俗人と俳聖と」(田中善信著)を読みました。
座禅を組み、数珠を携えて旅へ。
俗世を捨てた孤高の人、芭蕉。
それはしかし晩年の姿だった。
処生の才に恵まれ、ユーモアに富み、伊達を好んだ若き日。
伊賀の農民の次男が、武家屋敷に奉公し、
主人と共に俳諧を学んだ。
江戸に出て名主代行を務め、
神田上水の委託工事を請け負い、財をなす。
江戸俳壇に躍りでて、「笑い」の俳諧師となる。
弟子もとり、句集も出し、
世俗的な名誉も地位も、安定した生活も得たのに、
突然、その当時は辺鄙な深川の庵に移り住んだ。
禅宗に触れ、影響を受けるのは、移転後なのになぜ?
安定した生活を捨て、俳諧師としての将来まで危うくしてまで、
芭蕉が深川に移転しなければならなかった理由とは?
著者は、同居して養っていた甥の桃印と
芭蕉の妾、寿貞の密通だと推測している。
桃印の死を装って、藩の役所を欺き、密通の事実を隠蔽するために
芭蕉は余儀なく深川に移住したのだと。
しかし日本橋の安定した生活を捨てたからこそ、
後の俳聖芭蕉が生まれたわけだから、
結果的に深川に移住したことは芭蕉にとって成功だった。
しかし、辺鄙な深川に隠蔽することは、
職業俳諧師としては、自殺行為に等しかった。
貧しい僧侶同然になったのだから。
人並み以上の実務能力を発揮して、世俗的な成功を収め、
俳諧においても俳書を出版し、
成功しようという野心がかなり旺盛であった。
しかし、深川移住後は、実生活も俳諧も名声を求めようとした様子はない。
その生き方がかえって芭蕉の声望を高め、
結果的に世俗的な名声を芭蕉にもたらすことになった。
深川移住後に禅僧の仏頂の影響を大きく受けたが、
移住の決断は芭蕉自身である。
やはり、身近な愛する者に裏切られた心痛からくるものではないかと私は思う。
我が子同然に養った甥と、妾、今で言う内縁の妻に密通されたのだから。
傷つき、苦しんだ末、二人を許しているようだ。
直接連絡は取り合ってないが、安否を弟子に聞いたりしている。
また、甥の桃印の死後、寿貞と二人の娘を留守の庵に住まわせたり、
寿貞の死後は、娘達を人に託し、お願いしている。
甥を労咳で若死にさせてしまった罪滅ぼしかもしれない。
生活苦に手を差しのべなかった負い目なのか。
自分を裏切った二人なのに。
「閉関の説」という文章の前半に、
色欲で身をあやまりやすい若者を養護した文がある。
これは、桃印の新盆の時期に書かれてる。
桃印を追悼し、許したのだろう。
芭蕉の気持ちを思うと哀しく、切ないですね。
心根を探るも愚か桜草
裏切りを許せるのかと冬そうび
「芭蕉歳時記」借りました。本意を理解したいです。
本意のある竪題季語の俳句です。
顔寄せて匂ひをかぐや梅一輪
来ぬ人の便り待ちたり夜の雪
鐘の音も心に響く霜枕
便りなく凍りつくなり心まで
靄晴れて眩しさに目細め寒雀
白き種のみとなりたる枯野かな
落ち葉掃き昔のことの思わるる