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使い勝手は最高なんだけど、最近表示が遅い。しかも、真っ白になって何も表示せず、一旦「戻る」ボタンで戻って、また表示すると表示できるという現象が続く。フリーズとか、突然ブラウザが閉じるとかの不具合も多発。これは、IE7(先日入れ替えました)にまだ対応しきれてないからなのか。とにかく、このままでは他人に勧めるわけには行かない。で、トップページのリンクを削除しました。ちなみに、現在のデフォルトはLunascape4です。
2006年11月29日
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掃除するのに何か理由がいるとは、見上げたもんだ。本まで出ているのには呆れたが、それも何冊も出ているのだから、自分のずれが際立っているということなんだろう。そう、俺はずれてるよ。
2006年11月28日
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失敗するやつのすることは大体決まっていて、まず、自分のすることがいかに優れているかを確認するために、反論・批判をしないようなやつに自分のしていることを知らしめる。それで安心して物事に取り掛かるが、もしそれが上手く行かないときは自分以外の誰かが悪いということが言えるように準備万端整っている。彼らは何かやり方を変えるのではなく、そのやり方が実行できるように泣く、わめく、等々の手を用いる。ほんのちょっと我慢したり、努力しようとしない。なぜなら彼らは、自分がいかにうまくやっているか、他人に言ってしまっているからだ。上手く行きっこないよ。さらに悪いことには、自分と同程度のもの同士でサークルを作って、お互い抜け駆けしないように見張っているのだ。こういうひとたちの行き着く先は、不健康と無駄な出費。そして、笑顔の無い顔である。
2006年11月27日
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私が、弱者・消費者・大衆を嫌いだということは、何回も繰り返して書いていることである。私は、それぞれの立場で物を言うという姿勢そのものが嫌いだと言っているのである。特に弱者。こいつらはひどい。もう一度はっきり言っておく。「弱者が自分が弱者であることを武器に物を言うのは、金持ちが人の横面を札束で張り倒し、権力者が権力をかさにきて他人の心に土足で踏み込むのと、何ら変わりない。」弱者とは、日々弱くなりたい人たちのことだ。弱くなって、さあ、こんなに弱い私をどうしてくれると開き直って、甘い汁を吸おうというのだから、始末に悪い。ゲーテは「ファウスト」の中でこう言った。「生活者の名に値するのは、生活のために日々戦うもののみ。」毎日の前進は本当に微々たるもので、ただひたすらかっこ悪いだけだ。かっこうだけ繕う安直な道を選択したら、恐ろしい結果が待っている。いったん弱者になったら、毎日を言い訳、理由付けに明け暮れなければならない。大体、物事の理由が分かって何になる。かつて私のクラスの担任の教師は、私をいじめる者のためにこう言った。「○○君は、家庭的に恵まれないので、ストレスがたまって(それでいじめという行為にはしる)いるのだ。」何か事件でもあると、被害者の遺族などは「原因究明」などと言う。納得できる理由が欲しいなどとのたまうのであるが、もとより、そのような物は無いのである。日々、自分に負け続けている者、汝の名は弱者なり。私は、勝敗のいかんに関わらず、決して戦いはやめない。
2006年11月26日
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当分日本橋の電電タウンには行かなくてすみそうだ。一回行くと、三千円から五千円はどういうわけか消えている。月に四回は行っていたので、これで毎月一万五千円くらいは浮いてくる。下手するともっと使っていたかも知れないし、時間的な無駄をしていたことを思うと、それが無くなる事によるプラス効果は大きい。しないセラピー、やめるセラピー。余った時間や金をどう使うか、考えるだけでも楽しいね。
2006年11月25日
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いいわけないよ。全く。何か書けば、アクセスは増える。でもほとんどは、アフィリエイトとエロ系のもの。楽天の方で削除されているサイトも多い。まだアフィリはいいとしても、これじゃ「ああ、昔は良かった・・」などと年寄りじみた感想しかない。やっぱり楽天も、「推薦がないと入れません」方式になってしまうのか・・
2006年11月23日
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略してETT。FORUM ETT は、もちろんネットで検索可能です。今日はその、大阪での集まりに参加してきました。今回で三度目くらいの参加ですが、これまでのテーマが、我々一般人にできる省エネとは、というテーマが主だったのに対して、この日のものは、「原子力立国日本・・」という本音ずばりのものでした。それも分かりやすくていいのかな、ということで参加したわけですが、会場になった大阪国際会議場はもとより、運営にもそれなりのお金がかかっているのは明らかです。官プラス企業のにおい紛々ですが、日本のエネルギー事情は原子力抜きには考えられないことは事実。自分は過去に、「原子力モニター」とか、「電力モニター」などをやって一応の関心は持っていたので、パネリストの人たちの言わんとすることも、それなりに理解はしたつもりです。来年の参加は未定ですが。
2006年11月22日
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普通、社会生活で「独立」などというと、親元を離れて暮らすとか、経済的に自立したと言えるだけの収入があるとかその程度のことを意味する。しかし、目先の欲望に駆られて生きているものは、我のまま、わがままに振舞っているように見えて、何かを金で買っているだけである。しかも、自分の好きなように生きるということが、低次元で実現されている状態が長く続くと、それが自分の望みであるかのごとき錯角に陥ってしまう。何かおいしいお菓子でもあると、それを食べたいと思う。さて、それをそこでその時食べるのが、自分の幸福に結びつくのか。それがたとえば夕食前とか、もう十分食べた後とかだったらどうか。いつもスナック菓子を何かしら口にしないと、口寂しいとか、常にたばこを吸っていないと落ち着かないとか、いずれも、当面の自分の望みを満たしているのだが、本当は自分は健康と長寿、良い仕事ができて人からは一定の尊敬も得たいと思っているのなら、自制・節制するのは当然である。また、もし自分が、子供やその他、誰かに関与しているのなら、それらの者にも節制することを学ばせるべきであろう。低次元の欲望を生活の軸としているものは、いつかそれらが満たされないとき、不満を持つことになる。そしてそれを何か自分以外のせいにする。そして弱者にならざるを得ない。弱者とは、自分以外の何者かに己の幸福を委ねてしまった者のことである。
2006年11月19日
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このサイトも、去る十月某日をもって五周年を迎えました。ぜんぜん気がつきませんでした。その間、いろいろな人たちに見てもらい、リンクもしてもらったが、自分は相互リンクはしなかった。ページに「リンクしてもらっている先」として、紹介し、そこからリンク先に飛ぶということはあった(それも今はやめている)が、楽天の「日記リンク」機能を使ってのリンクはついぞしたことが無い。ただひたすら、自分は書きたいだけだ。
2006年11月15日
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かくも人間、保守的と言えば保守的ではある。何か失敗や不都合があっても、それはそれで一時のこととて、何か自分なりに解釈をして、改善しようと努めない。だからこそ、トヨタの「カイゼン」が目立ったのである。学校もご多分に漏れずで、本当に子供のことを心配していたのなら、とっくに変わっているはずだ。このごろいじめ自殺がマスコミ等で話題になっているが、問題自体はもっとずっと以前からあった。今の先生が生まれる以前からである。さすがに、今頃命の大切さだとか、命の教育だとか、恥知らずな言葉が聞こえてこないのはいいことだが、学校という制度そのものがもう限界だという考えには至っていない。したがって根本的な改善はさらに先延ばしになる。教育という現場に、公開と競争の原理が無い限り、いつまでも事態は良くならない。
2006年11月13日
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自分の小学生時代から、中学、高校に至るまで、程度の差はあっても、いじめられ子だった。ピークは小学校の六年生から中学一年ころだった。自分の時代の前から、瓜破小学校にはいじめはあったし、自分以後もおそらくなくなってはいないはずだ。なぜ無くならないかというと、答えは簡単。問題が「いじめられる側の問題」としてだけ捉えられるからである。いじめる人間の心には踏み込まない。自殺などがあっても、残された者たち、なかんずくいじめを実行した者たちの心のケアすら考えているのであろう。その上、実はこれが一番の曲者なのだが、卒業と言うやつがあったり、先生の方では転勤というありがたい手もある。そして、関係者の免罪符というのは、「誰も悪くない。みんないい子。」
2006年11月10日
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介護の目的は、何か。それを今、仮に、「人が人たらんとして生きる時それを手助けすること」としてみよう。そもそも、人らしく生きるとはどういうことか、それを今、仮に、「現在の自分からよりよい自分へと発展すること」としてみよう。それは、自分の低級な欲望から己の自我を解き放ち、本当の自己実現に向かうことである。すなわち、食べたいものを食べたいだけ、食べたいときに食べ、寝たい時に寝て、病を得て、ああ、俺はなんてついてないんだ、どうしてこう世の中は不公平なのか、と毒づくことではない。もっとこれを平たく言うと、三度の食事を腹八分目で、栄養のバランスを考えてよくかんで食べる。そして規則正しく寝起きして、日中は良く動く。等々のことである。それを自分の生活の当然として行えば、さしたる苦労も無いが、いちいち考え考え、まして人から指摘されてやっていたのでは、本当にぐったりしてしまう。そのようなことは、子供のころ、物心つく前に方向付けてしまわねば、本当に本人が苦労するか、さもなくばそのように気ままに暮らせる特殊な世界の人間になる以外に道は無い。さて、介護の必要な人たちとは、そのように人として前進する生活がしにくくなった人たちに、やはり人の道に踏みとどまってもらうべくお手伝いをすることである。ここで私が一番言いたいことは、たとえば、障害者が、もっと食べたいと言っても、それが食べすぎであれば、これをとどめる勇気をヘルパーが持つべきである、ということである。すなわち、言うまま気まま、獣道、野人の世界に生きたいという人は居ないはずなのに、知らずにそれらを後押しすることになっては居ないか、ということを危惧するわけである。世の中を見渡してみれば、昨日まで健常者であった者が、自分の不注意から糖尿病その他の病に冒され、失明、四肢の切断などを余儀なくされ、障害者となった例は数限りなくある。また精神においても、その性格のゆえにゆがみを生じて、ついには精神障害となった人も居るはずだ。それもこれも、総ては己の勝手気ままから生じているのである。もし、障害者だからと言って、言うまま気ままを克服できなければ、やがては障害の上に病、障害を重ねることになる。ヘルパーとは、人が人たらんとして努力することを手助けする人のことである。この文を以って、本題のエピローグとする。
2006年11月07日
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