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では、この闇(一~四)を切り裂くものは何か。それは、公開の原則と選択の拡大による自由競争の導入である。公開の原則とは、関係者総てに痛みの伴うものである。しかし、実はこの痛みこそ曲者で、この痛みなどは本来あるはずの無い幻想なのである。すなわち、公開とは、プライバシーの公開に他ならない。多くの利用者=障害者およびその家族ないし保護者たちは、障害者の日常を隠したがる。かつて座敷牢などというものがあって、障害者は表に出せなかった時代もそう遠い昔のことではない。しかし、今や時代は変わろうとしている。変えなければならない時に来た。多くの人に接してこそ人生の幅も増え、人の目に触れてこそ、身だしなみも整えるというものである。そして何より、ヘルパーのしていることが白日にさらされるのである。これに勝る安全は無い。障害を、その人の個性として捉え、総ての人が、差別されずに世を送っていける、そのような、一種桃源郷的理想郷を描くのであれば、正に、そのような隠したがる性癖こそが我々の前進を妨げている。ただし、それらの言葉はやはり建前であって、やっぱり見せたくないものは見せたくない。その本音もやっぱり認めて欲しい。そのバランスのうちに平和が保たれているのであろう。まあ、仕方ないのか。で、その次の、選択の拡大というのは何かというと、今の制度では、介護事業に携わろうとするものはほぼ、例外なく資格というものをくぐらねばならない。資格を持つというふるいにかけられるのである。このことの弊害を私は言いたいのである。すなわち、ここでは真の競争は無いと言ってもよい。無資格のヘルパーが居ても良い。そのヘルパーが有資格者より、良い介護をしたなら、それでよいはずだ。認可を受けた事業所でこのようにいじめや虐待が起こるのなら、そのような認可にこだわる必要性は無いとも言える。次回は、介護の根本問題について考え、まとめとする。
2006年10月17日
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どうして逃げられないのか人間なんて ばかなやつ生きて欲しかったね逃げて 欲しかったね逃げられないんだぼくらはよほど ばかだから逃げない仕組みを作るのに巧みになりすぎた数千年の努力の結果がこれだから俺は よほど 儒家が憎んだよ
2006年10月15日
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「増田吉彦で検索できる」という、ショーもない自慢を杖に今日まで生きてきた私でしたが、な、なんと、そのわけの分からん自慢も費えてしまいました・・・グーグルで検索しても影も形も無い八尾間変化!今日から何を頼りに生きて行ったらええのやら。でも、これまでずーと下位のほうだったやふーの方は、二位に躍進。でも、これもいつまでもつか分かりません。要するに、検索の世界もそれなりにきびしーということです。(今日は「介護の闇」シリーズの予定でしたが、変更になりました。)
2006年10月11日
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次に、ヘルパーが福祉施設等で介護する場合を考えるのだが、どうも、老人性障害者の介護と、その他障害者、あるいは、知的障害者とその他の障害者、あるいは精神障害者等々、これらを一緒くたにして論じるには無理があると思う。しかし、ここではあえて、その区別なくものが言える範囲を模索してみようと思う。私がヘルパーの資格を得る際に、実習にデイサービスの施設にお世話になったわけだが、そこでは、ヘルパーがかなり疲れていて、ストレスもたまっていそうだと感じた。それは、ヘルパーが提供きるサービスは、つまりはその施設の規則であり、ヘルパーは上位の責任者の方を向いて仕事をしているかのようだった。具体的に何があったかをここに記すわけにはいかないが、その日、実習を受けた三人(私も含めて)は、「親をこんな所に入れたくない」ということでは一致した。最近マスコミでも取り上げられている、ヘルパーによる被介護者への虐待は、起こるべくして起こる。すなわち、ヘルパーのストレスのはけ口こそは、利用者(被介護者)なのである。閉鎖された世界では、誰かの間違いを注意できる立場というものはごく限られて居る。そしてそのような立場のものは、しばしば事なかれ主義を貫こうとする。ヘルパーの精神的な未熟というのは、介護技術や、集団での行動規範の問題というよりは、もっと原初的な人間形成に関わる問題であることもある。あるヘルパーは自分と他人の区別ができないということもある。すなわち、他人の問題、たとえば清潔感とかに関すること、のどが渇いたとか、物を食べたいとかいう問題を解決するのに、自分のそれと利用者のそれを混同する。唾液や食べ物で汚れたタオルを、そのまま利用者のバッグに入れて、「いいですよ」と言う。いいですよと言えるのは、利用者もしくはその保護者だけのはずである。そのような汚れたものは、ビニール袋に入れるくらいのことは当然である。他人の物を扱うのであるから。また、いつもスナックを口にしているようなものは、利用者もそれを欲しがっているように、あるいは誘導してしまっている。そして、それを思いやりとか、自分のコミュニケーション力と勘違いしている。一歩進めて、たとえ利用者が食べたい、飲みたいと言ったとしても、夕食まで時間が無いような場合は、規則的食生活の確立のためにも、自制を促すのが当たり前であろう。言うまま、気ままなどというのは、まるで野生児、幼児の如くである。そしてそれは、ヘルパー自身が利用者をそのように誤って誘導している場合が多いと思う。このような現状を打破するためには、各施設間での競争と、他の業界からの福祉事業への新規参入、そして公開原則の導入が必要である。次回は、これらの点について述べたい。
2006年10月09日
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では次に、家庭で家人が介護を行う場合を考えてみよう。この介護者は、多くの場合、介護の方法などをテレビ等のマスコミを通して入手するであろう。しかし、一般化して方法論やハウツーを教えてもらっても、最大の問題は残される。その、最大の問題とは、被介護者と介護者の人間関係である。すなわち、夫婦間、親子、兄弟姉妹の間のことである。日本のように、男社会では、男性は威張っていて、そして要介護状態となった場合、誰に介護を頼めるか、という問題が出てくる。もし、要介護状態の者が、自分の生活の手段として、困った、弱った、痛い、ひどいことをされるという表現を用いていたら、介護者は、ついには追い込まれ、被介護者に反撃するであろう。その結果が、心中とか、自殺、殺人に結びついているのである。では、介護の方法を、個別に指導してもらったらどうか。その場合も、指導者のする通りには行かないだろうし、たとえ同じことができても、それが良いやり方かどうかは大いに疑わしい。なぜなら、あらゆる介護と名のつく現場で、腰痛を初めとしてヘルパーの体が痛んでいる現状を見れば明らかである。そんな介護のやり方を、いい加減に変えてみたらどうか。かく言う私も、さる作業所で介護に携わっているが、ほかのヘルパーとは違うやり方をとることがしばしばある。たとえて言えば、柔道を習ったものが総て同じ技を得意としているわけではない、ということでもあろうか。さて、そうして介護者は、日々、被介護者から、一種のいじめを受け続ける。そして追い込まれる。この循環を断ち切るには、どうするか。まず、介護者は、介護の目的をはっきり自覚すべきである。何のために、何をしようとするのか。そして、自分に今、できることは何なのか。ここのところが大事で、自分がすべきことと、できること、したいこと、それらを分けて考えることである。私の意見は、介護は、被介護者の気持ちを第一として考えてはいけない、ということである。なぜなら、人の力には、限界があるからだ。そのことを忘れたかのごとく、介護を、優しさとか、思いやりとかの言葉の羅列にしてしまっている所に、悲劇の始まりはある。
2006年10月07日
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介護疲れにより介護者が、被介護者である自分の妻や夫を殺害するという事件が後を絶たない。このことについて、介護の方法論とか、介護に当たる者の心構えとか、精神論敵アプローチを試みる事も多いだろう。しかし、ここに来て、そういったものが既にあるにも関わらず、実際に事件が起こっている現状をどう見ればよいのだろうか。私は、闇を裂くものはいつも光であると、言いたいのである。すなわち、介護という生活をオープンにすること。介護者が自分のプライバシーとして隠したがるように世間が作った常識を打破し、普通に生活している自分を取り戻すこと。これが、介護者の精神生活を安定させ、非常識から逃避できる道である。追い込まれた介護者は、被介護者の死によってしか、自分が救われない、逃れる道はないと思いこむのである。なぜ、そこでそのような思い込みが生じるかと言えば、弱ってしまった、哀れな被介護者の要求を、次々に、自分の能力を超えて引き受けるからである。介護人が十分自分の務めを果たしているが、被介護者はよりいっそう要求してくるということは常識である。これを打破するためには、被介護者が第三者の目に触れていることが重要で、そうして初めて、介護人の方も、自分ができることはしていると、世の中に証明できているわけである。ここで強調したいことは、日本人が西洋風に毒され、やれ、プライバシーだとか、セキュリティーだとか言っているものが、実は自分たちの首を絞めているということである。もし、介護人が倒れたら、被介護者も倒れる。被介護者が泣いてていも、介護者が元気なら、何とか道はある。人間、生きていく内には、泣いたり、苦しんだり、我慢したりすることはある。もし、被介護者が人間として扱われるならば、「安心・安楽・安全」の前に、多少の我慢はあたり前である。介護人は、より良い介護のために努力するのは当然であるが、さて、そのよりよい介護とは、どうすることなのか、具体的にイメージできているのか。それ無くしてただ漫然と「介護」だけを敵のように見てしまうと、出口の無い、闇が待っているだけだ。たとえ、自分の夫や妻、親や子が泣いても、そのこと(被介護者が不満に思うこと)自体は、どうしようも無い事である。なぜなら、介護者は完全ではないからだ。
2006年10月01日
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