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最近、さるところで飲み会があって、「このごろ、介護疲れによる悲惨な事件のニュースが多いが、自分はそのことについて書くので、ぜひブログを見てくれ」ということを言っておいた。「増田吉彦 で、グーグルで検索してくれたら出てくる」と、宣伝もしておいた。それぐらいやらないと、なかなか腰を上げないので、自分への強制的仕掛けでもある。以下、その文章。悲劇というのは、ほかでもない。介護に疲れた家人が、要介護の者を殺してしまう、という事件である。このようなことが起こるのは、介護を、あくまでも被介護者の立場に立って考えるのが正しいとされ、その正義の実行のため世の中が一つの力学にのみ動いていることによる。つまりは、介護の方向性の誤りによる悲劇である。しかし、さらにその根底を探ってみると、自分は「優しい、正義の人である」という、そして何より、そう思われたい、いい子になりたいという、甘い願望がある。もし、介護人が倒れたら、介護される側も倒れる。すなわち、介護人ができること、それがその家でできる世界最高の介護である。そのことを忘れて、介護される側の言葉や、パフォーマンス、すなわち、被介護者の持っている「道具」に翻弄され、介護そのものができなくなってしまうのである。ここで道具と言っているのは、旧ソ連のある心理学者が、「もし我々の道具が金槌だけだったら、すべの問題は釘に見えることだろう」と言っていることろの「道具」である。もし、被介護者が、痛がる、嫌がるというという手段で自分の立場を良くしようという手を覚えていたら、そこから、地獄が始まるということだ。人は、その能力の限界を知り、その上でより上を目指すのでなければ、もとより進歩向上は望めない。介護者が、その時点での最高のパフォーマンスをしているなら、それ以上のことは無理である。そこからさらに上というのは、そこを踏まえてその次の機会ということになる。そして、そのときには被介護者の方も、多少なりとも、多くの場合はより悪い状態へと変化しているのである。一番大事なことは、むしろ被介護者の精神状態である。介護を受ける側が、より良い状態のイメージを描けるかどうかにかかっているのに、多くの場合は、あらゆる原因が介護者一人の肩にかかっているのである。この元凶は、介護が「安全・安楽・安心」などという、おおよそ、人間の生を無視した言葉で表現されているということである。そしてその原因は、介護と終末医療とが、混同されているということであり、その背景には、儒教的力学が作り上げた正しい人間像に沿いたいという気持ちがある。すなわち、優しい人と人から思われたい、言われたい、介護をやっていると認められたいということである。優しければ正義であり、総ての人の賛同が得られ、異端は悪として攻撃される。そして、この先も、決して介護疲れによる殺人、いじめ、虐待は止むことが無いであろう。介護者とはその人の生を手助けする者のことである。人の生とは、行為・行動・思考であり、休息ではない。その様はしばしば戦いとも表現される。共に戦う戦友の名が介護者(ヘルパー)である。然るに今、介護者が身内であると否とを問わず、介護が、人をより弱くし、優しさの名の下に、人の思考・行動をさまたげている。そして時には、介護者の勝手な解釈や、自己投影がその人の生に覆いかぶさっている。ここまで、介護の一般論と、施設内介護の場合、家庭での肉親による介護の場合と、ごちゃ混ぜにして書いてしまった。少し整理したい。表題も数回変えているが、これはいつものように、書いている内に内容に一貫性が無くなって来たためである。一番大事なことは、この介護の闇、すなわち 介護される側の悲劇 介護する側の悲劇 を防ぐにはどうしたらよいかということである。ここまで、何か吐き出すように書きなぐってしまったが、次回は日付を変えて、「介護の闇その二」を書くことにする。
2006年09月20日
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格闘技の判定というのは、難しい。一定のルールの中で勝負に出るのだから、どういうパフォーマンスをするか、それを如何に得点に結びつけるかというゲームである。しかし、一方で、柔道といい、空手といい、日本の伝統的武術を根底にしたスポーツであれば、単に試合に勝つだけではなく、たとえ見てくれは悪くとも、日本人はあくまで、「一本」にこだわるとか、個々の格闘家たちが、自分の信念に基づいて何かそこに見せる魂の一撃を見せて欲しいものだ。結果、負けても仕方ない。勝たねばならぬのは当然といえば、当然であるが、それより大事なことは、ある。それが、ない、というような錯覚に陥っているのが、今の日本である。
2006年09月18日
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農協の口座に入金に行った折、新聞を見ると、「ジャスコにセルフレジ導入(14日)」という記事が出ている。そのジャスコというのは、喜連瓜破店。えー、そこのジャスコやないか。新し物好きの私としては、のーきょうから即ジャスコに自転車を走らせた。そこでロッテのチョコレートを買って、早速セルフレジを試してみた。使い方を説明してくれる人もいて、レジ袋不要の時に押してくれるはんこももらえた。四台あるセルフレジを使ったのは、その時私ひとりだったこともあり、丁寧な対応だった。こういう仕組みは、私向き。ちなみに、西日本では、ここだけだそうです。
2006年09月15日
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それは障害者に対する幼児期教育の不足である。この根底には、この子がやがて社会に出て行くことになるという思いが、そもそもないということである。ある種の障害者は、社会にとって明らかに危険である。そして、そのような危険な人物を何とか社会で受け入れようというのが、これまでの正しいバリアフリーと考えられてきた。と、この二行ほどの中に、実はトリックがある。すなわち、「社会で受け入れ・・」の「社会」これこそがトリックである。これは「健常者」と言うべきところである。そしてここに、バリアフリーの矛盾がある。バリアフリーとは、障害者が社会に十分に多く存在するということである。このような社会では、障害者同士が対面する。その時、道を譲るのはどちらか。障害者が幼児や、老人と接触したときどちらが譲ることになるのか。これまでの議論では、ここのところを置き去りにしてきた。私が、危険な障害者と考えるのは、相手に譲れない、あるいは他者不在型の人々のことである。そのような人たちは存在するし、現在、ヘルパーをつけて社会に出て行こうとしている。しかし、どう考えても、ヘルパーの力には限界がある。第一、権限がない。ただし、責任はある。このような状況において、あるいはヘルパーの障害者への虐待は発生しているのかも知れない。
2006年09月10日
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「ホームページ」から「ブログ」へ、そしてソーシャルネットワークサービスへと変容していく中で、失われていくものがある。得るものも多いが、表現者としての覚悟は確実に薄まっている。さらに、「ことばのあや」など微塵も解そうとしない輩が主役気取りで物を言っている。己は安全な所に居てしかも他を非難、攻撃しようなどと、その醜さ卑怯さ、破廉恥さは見るも無残な弱者でしかない。俺は弱者など大嫌いだ。
2006年09月08日
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同じようなテーマは、芥川龍之介によって取り上げられている。自分も最近特に、つくづくそう思うのである。何か少し知識があって、神だの権威だのを褒めたり、批判したり、それについての知識を披瀝したりすると、やれ糾弾だ何だのと目くじら立てられ、逆にそのことに何の関心も知識もないものは、無事でいられる。この現象は、我々の知というものがどこか深い所でつながっているという、たとえばユングの指摘のようなことと関係があるのかも知れない。だからこそ、我々は、他人が自分と違う考えを抱くだけで我慢ならず、その者を変人扱いしたがるのだろうか。「な、そうやろ」(同意を求めるサイン)「お前、変わってるな」「~に決まってるだろ」いずれも、自分が一般で、相手が特殊というものの言いである。この根底には、自分が安全な所にいたいという甘えがある。甘えの先には、不安と失望がある。
2006年09月06日
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もし余命三ヶ月と宣告されたたら、自分は何をしたいか。実際、そのような人がいて、その人の著書がこのたび出版された。自分の場合、何をするかというよりは、しょーもないことに心を煩わされず、行き(この字は正解)たいと願うのみだ。今日も、実につまらない想像、怒り、憤り、くだらないことに心を囚われている自分が情けない。くだらないことの一つは、言葉に必要以上にこだわって、言葉の周りでうろうろしていることだ。さらにしょーもないのは、ご大層にお言葉を信仰しているやつらに関わることである。こんな輩にかかると、最後には土下座でもして謝ってやらないとその場を切り抜けられない。下手をすると土下座のやり方にまで文句を言われて、またまた糾弾ときたもんだ。ま、逃げるが勝ちだね。
2006年09月04日
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九月一日、プール・ボランティアの予定は入っていたが、始まる時間を勘違いし、大幅遅れに遅れて長居障害者スポーツセンターに到着。三日のボランティア活動の時間と勘違いしていた。ともあれ、贅沢と遅刻は国民の敵。一 明日の予定を確認の上寝ること一 予定表(福祉作業所の勤務予定)をもらったら、早めに縮小コピーするという対策を考えたが、前日飲み会の影響をモロにかぶった形となってしまい、プールボ・ランティアには迷惑をかけてしまった。自分の辞書に「遅刻」の二文字は無いと自負していたが、やっぱりありました。早めに削除、改定します。
2006年09月02日
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