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君にあげよう 心ならでも 魂まで抜かれはしないついうっかり 油断してしまったそこが僕のいいところ かな心の無い 魂は詩を求めて 宇宙の果てに飛んでいく
2006年01月23日
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自分は、電動車椅子に乗っている人の介護をしている。バリアフリーとは、そのような人が、一人でも多く社会に出て生活する、ということでもある。ということは、障害者同士が出会うということでもある。そのとき、道を譲るのはどちらですか。これまでは、健常者が障害者を受け入れるにはどうするかということだけ考えていればよかった。高齢者、幼児、障害者は、それぞれに相手に譲ってもらわねば、また、ある程度交通ルール上も「おおめに見て」もらわねば、生活は困難である。ここに、相手が譲るのが当たり前と考えている「考え違いの人々」が加われば、結果は悲惨なものとなろう。自分が譲る、できる限りルールは守る。相手が譲ってくれるという傲慢を捨てる。これらのことを、もちろん私自身も含めて、総ての人が心がけたい。その「総ての人」に例外が無いということが、すなわちバリア・フリーである。
2006年01月19日
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宮崎被告には死刑判決があったそうである。宮崎の悲劇は、どうしてそのような犯行に至ったかというプライバシーに踏み込まれることなく、世間から、いつしか忘れられていくということに尽きる。その一つは、彼がビデオの世界にどっぷりとつかり、その結果の犯行であるという点にほとんど注目、言及が無いということである。ビデオの害を云々しないというのは、何か暗黙の了解であるようだ。酒鬼薔薇の時もそうだった。そしてもう一つは、犯行当時、被告がどのような状態だったかという、ほとんど不可能な議論がなされるということである。また、精神的に問題のある人が犯行に及ぶと、その罪は問われず、しかも一般人同様に社会で受け入れましょうという風潮である。もし、罪を問われないという人がいるなら、それはそのように表示すべきであり、一般人と区別してこそ、真の平等社会である。それが為されないところが問題点であり、よく言われるように、心神耗弱でも罰すべきか否かというのは、私から見るとあんまり建設的とはいえない議論である。議論そのものが空しい。
2006年01月18日
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繰り返しになることを、あえて書く。今月17日、幼児殺人事件の宮崎勤被告に対して、判決が言い渡される。彼が犯行当時、責任能力があったか否か、また彼が精神疾患であったかどうかについてが、今回の焦点である。犯行当時云々については、既に識者が書いている。私は後段の「精神疾患」ないし「精神病」について、ここに改めて記す。もし、病を理由にしてその者の罪を減免することをよしとするなら、次の二つのことを検討すべきである。一 ある病が原因で犯行に及んだとするなら、その病を得ながら犯行に至らない人々が居るということをどう説明するのか。この場合、「同様の病の人を差別しないようにしましょう」という、一見人道主義は偽善者の言うことだ。 ここで問題にすべきは、多くのその病の人々のうち、どうしてその者だけがその犯行に及んだかということである。したがって議論は、その犯罪者のプライバシーや、その周囲の人々のプライバシーに深くかかわったものでなければならない。(この議論は「酒鬼薔薇」事件の時に書いている。)二 本当にその病の人を保護しようと言うなら、病を隠すことをせず、私はこれこれの病があるので、もし私が罪を犯しても、一般の犯罪者と同様の扱いは受けませんということを表示すべきである。 これをしないのは、とりあえず当面はその事によって同人が社会から差別を受けるので、それをしないということである。それは問題の隠蔽、先延ばしに過ぎない。 反論を待つ
2006年01月15日
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ちょっと前に、「今だけ\999」というのを、さらにいくらか安く買っておいた。それが自分のPCでは再生できないということが分かりがっくり。文字どうり「沈黙」です。もう一つ、さらに以前に手に入れていた「燃えよドラゴン」も再生できません。タイトル「沈黙のドラゴン」に変更します。
2006年01月14日
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世の中、経済効果だの、効率化だの、能率ばやりである。この能率というやつ、一見すると正義の味方のように見える。だが実際その裏で人の恨みを買い、大事なものを失って、結局は商売の方も上手く行かないということになりかねない。自分に関係の無いこと、利益に直接結びつかない人やものには目もくれず、金になりそうなことにだけ集中しようとする。そのこと自体はいいとしても、それが冷たい態度や、人の心を踏みつけにするものであったなら、結局は利益にも結びつくはずが無い。自分の専門以外のことは知りません。自分の店の中で盗難があってもそれは客の自己責任。そのこと自体は、別に悪いことじゃない。でも、それをどう相手に伝え、自分は今後どうするのがいいのか。二度とそんな面倒なことを客から言われないように、ふんと鼻であしらってしまうのが、いいんですかね。
2006年01月10日
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かつて「精神分裂病」と呼ばれた病気があった。その病気に、この名を当てるのはもはや適当ではない。しかし今、新たに、その状態をして「精神分裂」と呼ぶにふさわしい人々が多数居ることは事実である。一 何気ない生活の場面で不必要に興奮状態である一 自分の目的がはっきりしない一 たとえば「怒る」という手段をあらゆる物事の解決策として用いる(手段の単一性)一 自己責任意識の欠如(いつも誰か・何かが悪い)一 他人の失敗・不手際はよく目に付くが実は自分もやっているこの様な人たちは、精神がばらばらの状態と言っても過言ではない。
2006年01月08日
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いい加減なことを言うんじゃないよ。まあ、言った方はそれを商売にするんだから、それで人の注意が引けたら儲けもん。それはそれでいいでしょう。聞くほうがやっぱりだらしないんだ。ちょっとそこまで自転車で行くくらいの事でも、今の世の中、周りは自分のことしか考えていない、交通規則を知らない、そんなやつばっかり。そこへ乗り出すんだから、それなりの覚悟がいるというものだ。楽しいですか。それで。楽しみは、苦しみの中にある。楽しみは、面倒なことの中にある。そしてその向こうに、自分の目的がある。ところで、自転車は本来車道を走るべき物、ということ、知ってましたか。
2006年01月04日
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2005年は、自分にとって、節目の年だった。いつまでできるかは別として、いい仕事に就けたし、借金返済にも、一定のめどが立った。2004年に、もはや自分の人生もこの先大きな進展は望めぬと諦観し、せめて自分の思想を記して終わろうと自覚したが、それは当初出版を考えてのことだった。しかし今、さほど出版したいとも思わない。第一、できそうに無い。能力の問題ですナ。とほほ・・この広場のホームページも、楽天自身がブログ化宣言した今となっては、ここに「平成の道家」を置くわけには行かない。ここは、雑然とした堆積物として、これからも私の主要なページであることは間違いないが、別なところに道家のページを作ることを当面の目標とする。--------確認事項一 私は、弱者・庶民・大衆等が嫌いである。 彼らは自分が他人の妨げ、社会の停滞の原因となっていることに気づこうとしないばかりか、他を悪として攻撃し、しかも己は安全な所に居ようとする。それののみか、そのことを卑怯なことであるという自覚が無い。 弱者が弱者であることを武器に物を言うのは、金持ちが札束で人の横面を張り倒し、権力者がその権勢を以って他人の人格を踏みつけにし、無知なる者が、手前勝手な正義に依って、他人の人間性を否定するのと、軌を一にしている。 正に彼らこそが、そのような権力者や金持ちの予備軍なのである。一 私は、道家である。 道家が何かという議論はあるし、ある基準に照らして「お前なんか道家と言えない」という向きもあろう。現にそのような書き込みは過去にあった。 しかし、その基準に照らして云々ということが既に儒家(儒教)的ダイナミクスの線上に道家を置くということなのである。道家とは、儒教的力学に拠らないで生活ないし、思考しようという人々のことである。一 人は日々、鍛錬し学ばなければ、後退し衰弱するのみである。 そして結局は他人や社会のお荷物となりながら、自分以外に原因を求めて文句を言い、決して幸せにはなれず、つかの間の快楽・興奮を求めて無駄な消費を繰り返す。そのための金を得んとして、金のために人生の大半を疲れるためにすごしている。 私は、私の残りの時間をその様なことのために浪費しない。
2006年01月01日
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